2
その人たちの着物、まさしく昔の人のそれ。あのショーの時もみんな昔の着物を着てたけど、やっぱ着るのは現代人だなって分かるくらいぎくしゃくしていた。でもこの人たちは、決まりすぎるくらいに決まっている。ここに来て、このお寺の尼さんたち以外に初めて見る人間。尼さんなら現代にもいるけど、こんな格好の人たちはお祭りの時なんか以外は絶対にいない。そんな時も眼鏡かけてる人がいたり、ドジなのは時計はめているままだったりするけど、今門を入って来た人たちはそんな様子は全くなさそう。
やっぱ、ここは別の世界なんだって、思い知らされた感じ。それでもまだ心のどこかで、これが映画の撮影だったらなんて思ってしまう。
御所車って、けっこう大きいんだあ。それをひいている牛を歩かせているのは、小さな子供。乗っているのは、そうとう偉い人なんだろうなあ。お殿様かな? そんな偉い人が、なんでこんな小さなお寺に? でも乗ってきたのが駕籠じゃあないってことは、やっぱ隆浩が言っていたとおり、ここはテレビの時代劇の江戸時代じゃあないんだ。お供の人たちもちょんまげじゃなくって、みんな頭に何かかぶってるものね。少なくとも時代劇の、おさむらいさんの格好ではない。
御所車は建物の向こう側へまわっていったみたいで、私のいるところからだと死角になって見えなくなった。しばらくして、庭はお供の人たちであふれだした。わいわいがやがや座りこんで雑談しているけど、言葉が分からないからまるで小鳥の大群の泣き声を聞いてるみたい。中国に行った時とおんなじだ。何だか急に恐くなってきたから、私は部屋の奥の方に入っていた。
御所車に乗って来た偉い人が、建物に上がって来たみたい。私はその人が反対側の縁側を歩いていくのを、パーテーション――これ、キチャウっていうんだって――の陰からのぞいてみた。やっぱお殿様じゃなくって、神主さんのような黄土色の着物を着ていた。頭にはコックの帽子のような黒いのをかぶって……。
それからどれくらいたっただろう。若い尼さんが、私のところにやって来た。
「尼ぎみの、召したてまつりてなん」
そう言ったあと、すぐに立ち上がって私を招くので、たぶん私はどこかに呼ばれているんだろう。そう思って、その尼さんにくっついて歩いていくと、お供の人たちがいる庭からは見えないあたりで縁側に出た。そしてある部屋の戸の前で、尼さんは座った。
「まうぃりたまふぃてふぁべり」
まず中にそう声をかけてから戸をあけ、私に中に入るように示す。
「こちや」
中から、お婆さんの声がする。伏し目がちに入ると、板敷の上に藁かなんかで作った丸い座布団があった。そういうのは座布団とはいわずに、エンザっていうんだって、あとになって知ったけど……。とにかく、その上に座れということらしい。今日はお婆さんと向かい合わせではなく、お婆さんは右の方に横を向いて座っている。そっと目をあけてみると目の前には、二畳だけ敷かれた畳の上の、今度はほんとうの座布団の上に、さっきの神主さんが座っていた。何だかじっとこっちを見てる。その神主さんにお婆さんは、話しかけはじめた。
「見つけたてまつりしよりけふまで、この寺におふぁせるふぃめぎみてふふぁ、このおんかたにてなん。いささかも、ものもおぼいぇず、ただのたまふことふぁ、あどぅまんどのやうばかりにて」
「おお」
神主さんがあんまりじっと私のことを見るので、また私は目を伏せた。
「いときよげなる、おんありしゃまかな。いかなるすくしぇにて、けふたいめんすならん」
「しゃふぁ、みふぉとけのおんみちびきにてこそ」
神主さんそう言ってからお婆さんは、私の方を見た。
「わがしゅうとの、ミンブキャウダイナウゴンにてぞふぁべる。けふふぁ、ほふしょうじのあみだだうの、さんじふこうのたよりにて、とぶらふぃくれたまふぃぬるなり」
「おんおもて、上げしゃしぇたまふぇ」
もう一度静かに顔を上げて、そして今度はこっちが観察してみる。ところがよく見たら、なんとすごいお爺さんじゃない。うちのおじいちゃん、もうすぐ八十になるけど、それと同じくらいじゃないかなあ。髪も真っ白。でもそれにも負けないくらい、顔も真っ白。まるで舞妓さんのように、おしろいを真っ白に塗りたくってる。あのショーのメイクの時、ずいぶん私も厚化粧で白く塗られたけど、――今ではほとんどはげてるけどね――こんなにまで白くはなかった。おまけに眉毛がない。そのかわりにおでこに、黒くそれらしきものを二つ描いている。それがまたずいぶん、白髪とアンバランス。ちょーきもいし、なんか恐い!
「まことよろどぅ、え思し出でざるや?」
私はお爺さんが言っていることを勘で理解して、ゆっくりうなずいて見せた。ここは記憶喪失者のふりをした方が、無難だと思ったからだ。それにしても、もっときもいのは、ものを言うたびに見える歯。真っ黒に塗られてる。なんだか吐き気さえしてきたから、なるべく顔を見ないことにした。
「いと、いとふぉしきこと。あてなるふぃめごじぇの、かやうなる尼寺におふぁしてふぁ、ところしぇからんかし」
「やや」
そこでお婆さんが、話に割って入った。
「きこいぇつるやうに、虫なんど愛でたまふを、もののわざなるべければ、いましばし。だいとこなんどに、すふふぁふなんど、しぇしゃしぇたてまつらんとぞ」
「しゃれば、わがファチカフも、もののくぇのわざにてか」
お婆さんに向かって黒い歯を見せて大笑いをしてから、お爺さんはまた私の方を見た。お婆さん、何も言えなくなっているみたい。
「イモウトふぁしゃふぁいふぇども、わがうぃんにて虫かふふぁ、つゆくるしからず」
イモウト――妹? そっか、このお爺さん、お婆さんのお兄さんなんだ。
「しゃれど、など虫かふ?」
お爺さん、やっと少し分かる言葉を言ってくれた。
「虫は蝶のもとと思ふ。もとを知ることが、おもしろきことと」
ああ、通じた。お爺さん、満足げに微笑んでうなずいている。
「いかに呼びまうさん。名ふぁ?」
「なよ竹のかぐや姫、あ、フィメ」
たぶん名前はって聞かれたんだろうと思って思い切り冗談を言ったら、突然お爺さんは大声で笑いだした。
「うぉかしき、のたまふぃやうかな」
そんなにおかしい冗談だったかなあ。でも少なくともこのお爺さん、かぐや姫を知ってる。やっとこの世界の人と、共通の話題ができたって感じ。
「しゃれば、まろふぁ竹取の翁にぞならむ。いざたまふぇ。月にかふぇりたまふまでだに」
そしてお爺さんは、今度は自分の妹のお婆さんに言った。
「いそぎしたてまつれ。けふにも」
「しゃふぁあれど……」
お婆さんは口ごもっていたけど、ようやく立ち上がって私を手招きした。それからまだ何かぶつぶつ言いながらも、戸の外の縁側にいた若い尼さんに、何やら耳打ちをしていた。
私は、いつも寝起きしている部屋に連れていかれた。そのまま着付けがはじまる。若い尼さんたちの手慣れた手つきで、たちまち私はここへ来た時と同じ、ダルマ状の十二単姿にさせられた。それが終わってから簾のそばに寄って、私は隆浩を大声で呼んだ。彼はお爺さんの、庭にたくさんいるお供の人たちをかき分けて、すぐに簾の外の縁側まで上がってきた。
「たいへん。私、どっかに連れて行かれそう!」
「どっかって?」
「あの、へんなお爺さんに! あの、牛がひいてる車に乗って来た」
「誰なんだ、あれ」
「お婆さんの尼さんの、お兄さんみたい。なんだっけなあ、えっと、ミンブキャウのダイナウゴンとかいってたけど」
「なんだ、それ? ちょっと待ってよ、えっと、ミンブキャウ? キャウはキョウ……だから、民部卿。そっか、民部卿の大納言だ」
その時には、私たちのやりとりを聞いて変に思ったらしく、隆浩のいる縁側の下にお爺さんのお供の下人たちが集まってきていた。不思議そうに首をかしげて一斉に隆浩を見ているし、部屋の中の私の方をものぞきこもうとしているのもいる。
「何、その民部卿って?」
「俺たちの時代で言えば厚生大臣ってとこかなあ。とにかく、すげえ偉い人だよ。政府の高官」
「え、神主さんじゃないんだ」
「バカ、何言ってんだよ」
「だって、あの格好」
「あれは直衣っていって、貴族の普段着」
その時、若い尼さんが、庭の状況を見て慌ててとんで来て、私を部屋の奥の方へとおしこんだ。
「とのの、いでしゃしぇたまふぃぬべければ、とく、おんともに」
そう言って私を、反対側の縁側の方にと連れて行く。さっきのお爺さん――大納言様が歩いてる。年寄りにしては、すごい足の速さ。
「お待ちください!」
私は大納言様に向かって叫んだ。
「あの、隆浩は? 隆浩はどうなるんです? あ、じゃない……えっと、わが供の者はいかに」
「供のふぁべるや」
大納言様は、足を止めてくれた。
「いかばかりぞ」
「ひとり」
「しゃらば、もろともにまうぃらしぇよ。まろがらうたうにして、しゃぶらふぁしぇん」
またスタスタと大納言様、縁側を歩いていく。そんなに早く歩かないでって。こっちはちょー重い十二単、着てんだから。長い袴に、裳をひきずって……。
車は後ろ側がそのまま建物についていて、下におりないでも乗れるんだ。その車に乗りこむ直前に、大納言様は庭に向かって、
「あしだか! つのみじか! ふぁねまだら!」
と、叫んでいた。誰かを呼んでるのかなあっ思っていると、大きな蜂が三匹飛んで来た。思わず、危ないって叫びそうになったけど、三匹とも大納言様の服にとまる。大納言様は、ぜんぜん平気。
「まろのかふぃたる、らうたき蜂どもなり」
驚いている私に、大納言様はまた、黒い歯を見せて笑った。そうか、このお爺さんって、蜂を飼ってるんだ。だから私が虫を飼ってるって聞いても、びっくりしなかったんだ。お婆さんの言葉のはしはしにあった「ファチカフ」という単語が、やっと理解できた。
そのうち大納言様は懐から紙を出して、ひらひらと振りはじめた。その紙は、濡れてる。なんだかドロッとしたのがついている。蜜かなあ――そう思ったのは、たちまちに蜂の群れが飛んで来たから。十二、三匹はいる。そしてそんな蜂といっしょに、大納言様は車に乗った。私にも、乗れって合図してる。そこへ隆浩が、庭の方から血相を変えて走ってきた。
「ミッコ、行っちまう気かよ!」
「あ、隆浩。隆浩も、いっしょに来ていいんだって」
蜂のことでこのお爺さんにもう親近感を抱いていた私は、平然と言い捨てて車に乗った。中には畳が敷かれている。大納言様は右側面に背をもたれかけさせて座り、向かい側を私に示した。進行方向に向かっては横を向くかたちで、互いに向かい合って座ることになる。この車って、前を向いて座るんじゃないんだ。はじめて知った。
車の中じゅう、蜂がたくさん飛び回っている。こんな状況、普通の女の子なら逃げ出すだろうね。でも私はそうはいかない。蜂なんか恐がってて、生物部の部長が務まるかって感じ。観察してみると、いろんな種類の蜂がいる。あれはクロマルバチ、そしてオオハキリバチ、セグロアシナガバチもいる。なんだか興奮。蜂に刺されるなんてこと、ぜんぜん頭にない。だって向かい合って座っている大納言様がこの蜂たちの飼い主なんでしょ。
「蜂ふぁ、らうたきものぞ。そをなど、ふぃとどものおそれいとふ。ものいふもききわけ、たれたれしゃしてこといふぇば、そのままにぞある」
大納言様が話しているうちに、車は動き出した。なかなか乗り心地いいじゃん。
ところでこのお爺さんは、たしか私が自分のことをかぐや姫だって言ったら、自分は竹取りの翁になろうって言ったんだっけ。たしかそんな意味のことを言ってたような気がする。そんでこうして私を連れていくってことは、親になって私を娘にするつもり? ま、それもいいかも。あのお寺での生活よりかは、ましかもしれない。でも一応確認しておかなくっちゃ。
私はお爺さんを指さして、
「親?」
と、言って、すぐに今度は自分を指さし、
「娘?」
と、言ってみた。お爺さんは、ニコニコしてうなずいた。間違いない。でも、こんなお爺さんの娘ってのはねえ。孫っていうんなら、まだ話は分かるけど。ま、いいにしよう。蜂を飼ってるってことで、気は合うかもしれないから。
車は坂を、ゆっくりと降っていく。考えてみればここへ来てから、はじめてあのお寺と山の上以外のところに行くんだ。ちょっぴし胸がドキドキしてきた。それにしてもこの車、ずいぶんのろいなあ。歩いたほうが早いよ、こりゃ。首を左にひねるとそこは車の前で、牛の背中ごしに簾の中からでも景色はよく見える。どうでもいいけど、車をひっぱってる牛! 歩きながらウンコすんなよな! うしろは車の後を、隆浩がお供の人たちにまじって、とぼとぼついてくるのも見えた。
今、車が通っているところは田んぼの中の道だけど、大納言様の背中の右上にある窓からは、この前山の上から見たあのちょー巨大な何重もの塔が、間近に見える。さすがに京都タワーほどじゃあないみたいだけど、でもそれに近いくらいの高さはあるよ。こんなでかい塔が昔の京都にはあったなんて、今まで全然知らなかった。
そのうち、川が見えてきた。大納言様はああでもないこうでもないって私に話しかけてくるけど、まだ私には半分は何を言っているのかわからなかったから、笑ってごまかしたり適当に相づちを入れておいた。
河原はけっこう広い。一応橋はかかっているけど板を渡しているだけで、大丈夫かなあって感じ。しかも、中州でとぎれて、また橋。中州にも小屋が建っていたりしてる。それだけでなく、河川敷いっぱいに、汚い浮浪者みたいなのがウヨウヨ。
川を渡ってからもしばらくは田んぼだったけど、すぐに別世界に入った。急に人が増えて、町が始まったのだ。町並はお世辞にも、衛生的とは言えない。今にも崩れそうな掘っ建て小屋が続く。屋根は板ぶきで、その上に漬物石みたいな石がたくさん置かれてる。またその前を、どこから涌いたのかと思われるような人たちがいっぱい。みんな昔の人なんだ。ただ、どんなボロを着ている人でも、大人の男で頭に何もかぶっていない人はいなかった。
これは絶対、映画のセットなんかじゃない。セットは、こんなにリアルじゃないもの。ものすごい活気。現代の町のように、みんなただすまして歩いているだけじゃあない。なんだか私、またまた中国に行った時のことを思い出しちゃった。ここはまるで外国――しかも発展途上国みたい。そんな人の群れを見てると、また急に恐くなってきた。今、自分がここにいるってことが、とてつもなく恐い。逃げたい。でも逃げられない。心なしか膝が震えているのも感じられた。
この町はとにかく、人であふれてる。でもこんな行列が通っても、きっと誰の迷惑にもならないと思う。だって道の幅は、現代の大通りくらいあるから。ただ、こっちが困ったのは、すごい砂ぼこりだっていうこと。それに町全体が臭い。車の中はお香がたかれているら、なんとかもちこたえられるけどね。
そのうち行列は右に曲がって、まわりを塀に囲まれた大きなお屋敷がたくさん並ぶ中に入っていった。塀はいかにも京都って感じ。でも、二階建ての建物は絶対になかった。
とにかく牛の歩くのはのろいから、私は恐いながらもゆっくりと町を観察することができた。まわりの山もよく見える。この山を見る限り、間違いなくここは京都なんだと思う。そしてその山の麓にはあの巨大な八角形の塔が、どこまで行ってもその姿を見せていた。
行列は白い砂利石が敷かれた道に砂ぼこりをあげながら、やがてある屋敷の門の中へと入っていた。
屋敷には玄関なんかなくって、屋根のついた渡り廊下みたいなところから入るらしい。ここでも車は建物にピタッとついて、地面におりなくてもそのまま上がれる。だって長袴じゃ、だいいち靴がはけないものね。
それにしてもすごい家! 渡り廊下の反対側は庭だけど、それもまたものすごい庭。広い! 一面に小砂利が敷かれている。そして建物沿いの植え込みもまたすごい。植えられているのは、みんな牡丹の木ね。すごい数。もう牡丹の花は終わりかけている頃だけど、満開だったらすごいだろうなあ。
左の方には、これまた大きな池。池の中に島があって、赤い橋がかかっていたりする。島はうず高くなってて、松が何本も生えてて、その池の向こうは林といってもいいくらい。渡り廊下の左の方は、池の上までせり出して行き止まり。建物は右の方にある。
大納言様はその右の方に歩いていくから、私もついていく。なんと蜂たちも、いっしょに飛んでいくじゃない。よく飼い馴らしたもんだ。
なんせ足の速いお爺さんだから、ぼやぼやしてたらおいていかれる。建物は平屋だけど、床の高いこと。地面に人がいたら、その腰くらいの高さはあるね。ヘリには橋の欄干みたいなのがついている。建物だけでも、すごい面積なのだろうなあ。そう思って歩いていると、さっきまで木の陰で見えなかったけど、建物の向こうにももうひとつ別の建物があるのが見えてきた。そっちの方が大きいから、それがきっと母屋なんだと思う。屋根は瓦でもないし板ぶきでも藁ぶきでもない。何なのだろう。茶色い色してるけど。
とにかく、あのお寺なんかと比べものにならない。それでも家っていうよりも、かえってここの方が古い大きなお寺みたい。いかにも京都にありそうな……。
「にしのたいのあきたれば、そにいらしぇたまふぇ」
歩きながらふりむいて、大納言様は私にそう言ってから、廊下に平伏していた私と同じような十二単の女になんか言いつけていた。女はすぐに立ち上がって、器用にさっさと歩いていった。
「おんことふぁ、すでにつかふぃしてしらせおきたるに、ふぁや、いそぎもうるふぁしうとこそ」
適当に相づちを打ってさらに歩き、やっと建物に着いた。するとまた別の女が十二単姿で、そこに平伏していた。
「あないたてまつりふぁべらん」
今度は女が、私にそう言う。そうなると大納言様は、ひとりでさっさと行ってしまった。立ち上がった女は私を促すように歩き出すので、それに私もついていく。もうこうなったら、どうとでもなれって感じ。
建物と建物の間は、みんな渡し廊下でつながっている。廊下といっても柱と屋根があるだけで壁なんかなく、左右にはやはり橋の欄干のようなのがついてる。
メインの建物に着くと、庭とは反対側の裏手へと女は行くから、私もついていく。驚いたことにうしろにも渡り廊下がのびていて、また建物がある。どうして大きいのをドーンと建てないで、こんなにいくつもの建物に分けて建てて、面倒にも渡り廊下でつないでいるんだろうと思う。その渡り廊下の下から小川が流れ出て庭をくねり、池の方に注いでいる。渡り廊下の間の小さなスペースにも石が並べられ、苔で覆われていたりする。植わっている木は楓だ。今は葉も緑だけど。
このあたりの植え込みは、牡丹じゃなくって菊になってる。これまた秋になって一面に花が咲いたら、すごいだろうなあって思う。
お金がかかってるだろうなあ。あ、そうか、厚生大臣のお屋敷なんだと、納得。でもやっぱ心細い。ガイドの案内付きで、京都の古いお寺を見物しているわけじゃないんだ。
しばらく歩くと、はじめ見た建物と反対側にも、またまた建物があった。いったいいくつあるの? 他にも倉とか小さな建物は庭と反対側にもいくつも見えるけど、それらはちょっとボロい。使用人が住むところかなって気がした。
女について、また渡し廊下を歩いてたどり着いた建物は、壁のかわりに格子のはまった板が柱と柱の間にははめられていて、上半分は外側に跳ね上げられ、鉄の棒で吊るされている。そうしてできた窓には、全部内側に簾がおろされていた。
一ヶ所だけあった木の開き戸を、女は開けた。中は部屋かと思ったら、また廊下。部屋との間は壁はなくて、丸い柱の間にはあのパーテーション――キチャウが並べられているだけだった。
正面まで行くと、やっと中に入れた。床はやっぱ板張りで天井もなく、見上げたらいきなり屋根裏。入ると大勢の女たちがなんとひれ伏して、私を迎える。これにはびっくり。しばらくは立ったまま、部屋の中を観察してみた。それが私の部屋? 隣の部屋とは、ふすまで仕切られてる。でも天井がないんだから、ふすまの上はスカスカにあいてる。壁で囲まれた部屋も、ないことはないみたい。部屋の中にあるのは屏風と小物がのっている棚、箱、丸い鏡ののった台、照明用の油の入った小皿の台、そんなところ。部屋の真ん中にだけ畳が二畳敷かれてて、その上には座布団もある。脇にはひじかけ。そこが私の座る場所みたい。
座ると、女たちが次々に私の前にきて、座って挨拶をする。
「大夫とまうししゃぶらふ」
みんな大真面目、少しも照れがない。本物の昔の人なんだ。こうなったら私だけ、照れているわけにはいかない。私も大真面目に、お姫様になりきろう。それだけが、恐怖心をごまかせる……とは、思うんだけど……・・。
もし私が、現代にいた時にも国務大臣クラスの上流階級のお嬢様だったら、なんとかなったかもしれない。でも、私は庶民、小市民よ! たとえ同じこの時代の人だとしても、庶民の娘をつかまえてきてこんな格好をさせて、ここに座らせたりしたら、ギクシャクするに決まってるじゃない。
ま、そんなこといってもしょうがないから、とにかく今はできるだけ横柄にふるまうことにした。そう、私はお姫様、貴族のお姫様よ。現代ではいざ知らずここでは!
「兵衛にてしゃぶらふ」
「小大輔にてしゃぶらふ」
女たちの挨拶が進む。自分ながら上出来。私、生物部だけじゃなくって、演劇部の部長もやれそう。それにしても私のこと、この人たちにはなんて説明されてるんだろう。誰も不審に思ってないのかなあ、私みたいなのが突然現れても。みんな当たり前って顔して、次々に挨拶していくけど。まさか竹の中から出てきたなんて、説明されてるんじゃないでしょうね。
「しゃれば」
ひととおり挨拶がすんだらしくホッとしていると、最初に挨拶したいちばん年上らしい大夫といったおばさんが、また私の前に来た。
「けのおんぞ、まうぃらしぇたまふぇ」
二、三人がすぐに立ち上がり、壁に囲まれた部屋の開き戸をあけた。何か出てくるのかなって思ってたら、戸を開けた大夫おばさんはそのままじっと待っている。そして私を見るのだ。
「とく」
と、大夫がもう一度言う。私に中に入れって言ってるんだなと思ってしずしずと入ると、戸はしめられた。ここは寝室みたい。白い布でできた大きな直方体のテントのようなのがあって、その中に畳と布団が敷かれている。その脇に立たされたので下を見ると、箱に入った着物があった。どうやらこの重苦しい十二単から、着替えさせてくれるんだと心は大歓迎。そして白い着物と赤い袴になった時、着替えさせてくれている女たちの手がとまった。
「などかくも、長きおんコソデぞ」
そんなこと聞かれたって、知ってる訳ないでしょ。でもなぜか女たちは、私の白い着物をつまんだりして、互いにひそひそと話したりしてる。そのうち、一人が出ていった。そのまま待たされている感じ。愛想のつもりか、残った女は私を見てニッコリ笑ったりするけど、その真っ白な顔、描いた眉、そして黒い歯――きもいんだよなあ。
しばらくしてさっきの人、やっと戻ってきた。手には別の白い着物を持っている。
「これに、かふぇたてまつりてん」
手早く袴を脱がせると、女は白い着物の帯までとこうとする。待ってよ! パンツはいてないんだから! と、思っている間もなく、さっと腰巻きをまいてくれた。考えてみれば、これが本当だよね。和服で腰巻きもしないでパンツはいてるなんて、邪道だよね。たしかお母さんもそう言ってた。でもこの腰巻き、ミニスカートくらいの長さしかない。
「こふぁ、何ぞ?」
不思議そうに女は、ブラジャーをひっぱる。そんで、びっくりしている。そうか、この人たちブラジャーはもちろん、ひっぱると伸びるゴムってのも見るの初めてなんだ。
私は吹き出しそうになったけど、わざと偉そうに、
「苦しうない!」
と、叫んだ。したら女は恐縮して、持ってきた新しい白い着物を着せてくれた。少しはホッとする。だって、今まで着てたのって、この時代に来てから昼も夜もずっと着っぱなしだったんだもんね。でもこの新しいやつ、上半身だけ。袴をつけても、裾は袴の外。おまけにスケスケのシースルー。これでブラジャーしてなかったら、全部が丸見えになっちゃうじゃない。ま、その上からもあと二枚くらい、上に羽織るきらびやかな着物を着せられたからよかったけど、それにしてもこのくそ暑いのにどうしてこんな重ね着するの? 十二単よりかはましだけどね。でもきっとこれが本場じこみの、本物の着付けなんだ。着物学院の衣裳は、ずいぶん現代風にアレンジされてたものなんだなと、今になってやっと分かった。
なんとかかたちついて部屋から一歩出ると、大夫おばさんが私の前に畏まった。
「大納言殿の、おんきたのかたぞわたりたまふぃふぁべらんずる」
そのときゆっくりと、ひとりの女の人が部屋に入って来た。私のとおんなじような、身分の高い人の着るような着物を着てる。女たちは一斉に平伏した。私だけが突っ立っていると、大夫おばさんが私の袖をひく。私にも平伏しろってか。
しかたなくそうすると、入ってきた女の人は平然と、私の座るところであるはずの座布団の上に座るじゃない。そして、
「おふぁしましぇ」
と、私に言う。また、大夫おばさんが私をつつく。そこで私は偉そうな女の前に出た。さっきまでふんぞりかえる私の前で、ペコペコしていた女たちのいたところに今度は私が座って、私のかわりに別の女がふんぞりかえってる。その女は私を見て、また黒い歯を見せて微笑んだ。
「殿より、つとにうけたまふぁりぬ。かぐやふぃめとかや。しゃればわれこそ、竹取の媼なるらめ」
そして、ケラケラと笑う。
「おもふぃいどぅること、つゆなしと聞く。いと、いとふぉし。殿もかやうに思し召してなん、なれをうぃておふぁしましぬるラン。われをまことふぁふぁともおもふぃて、ここにてくらしぇ。けふよりふぁ、なれふぁこの家の娘なるぞ」
この家の娘……車の中で大納言様に言われたとおりだ。身寄りもない、記憶もない――と、いうことになっている――私を、憐れんで、養女にしてくれるってことらしい。よろしくお願いしますって意味のことを言いたかったけど、どう言えばいいのかわからなかったから、黙って頭を下げた。
「われらにふぁ、娘もなきふぉどに、こふぁふぃとふぇにくぁんのんのごかごにてこそ。月にふぁなかふぇりそ。いついつまでも」
またニッコリと笑って、女の人は出ていった。それにしても誰なんだろう。大納言様の娘かなあ。それとも、息子の嫁さん? でもそうだったら、私は大納言様の孫としてひきとられることになる。話がへん!
「ねえ、今の人だあれ?」
私は大夫おばさんに聞いてみた。
「やや、武蔵よりおふぁしぇしとふぁ聞きしかど、まことあどぅまのかたの、のたまふぃやうにてふぁべるかな」
おばさんは笑ってる。通じなかったのかなあ。当たり前だ。私、思わず現代語で喋っちゃったから。
そこでひとつ、咳ばらい。
「今の御方は、たれなるか」
「殿の、オンキタノカタにてなん」
「キタノカタ?」
「ツマにて」
「ツマ……妻! 妻あ!?」
奥さんってこと? つりあいがとれないよ。だって、まだ四十歳くらいだったよ。あのお爺さんの奥さんだったら、年が離れすぎてるんじゃない?
「ちょー……じゃ、ない……いと、いと若い方!」
おばさんは少し笑った。
「ことわりなりかし。殿のうしぇたまふぃしおんしぇうとの、さきのナカミカドノミギノオトドの、み娘にておふぁしましふぁべれば」
やっぱ話がこみいってくると、まだよく分からない。まあ、いいやと思っているうちに、夕食になった。わ、すごいご馳走。ご飯はまるで筒のように、上が平らな山盛り。そして来るわ来るわ、タイの尾かしら付き、あわびの焼き物、そうめんもあるし、ヨーグルトみたいなものもある。それとお芋の煮っころがしに、お吸い物もついて。それぞれの量は少ないけど、すごい品数。食べられるかなあ。でもねえ、食器がねえ。あのお寺のと変わらないじゃない。また味がなくって、自分で小皿の塩や酢や味噌のような醤油を匙でかけて味付けするのも、お寺の時と同じだ。
まだ外は明るいのに、食べ過
ぎた。入れたら出さなきゃ。そばにいた女に、私は、
「しの箱」
と、言った。例の箱だ。女は立って、
「いざ、ふぃどのふぇ」
と、言って、ふすまをあけて次の部屋に私を連れて行く。トイレがあるんだ! さすが、お寺と違って貴族のお屋敷! ……と、思っていると、ただの狭い部屋。そして、あの箱がしっかりと置いてある。状況は何も、変わってはいなかった……。
「ふぃすまし、まうぃれ」
女が大声で呼ぶと、みすぼらしいなりの女の子がやって来た。私がいつまでも立っていると、女が手で示して私をしゃがませる。そして女の子が私の袴の脇から、箱を入れる。お寺でもはじめはこうされそうになったけど、その時は拒否して、そのあともずっと自分でしてた。でも、やっぱこうして人にしてもらうのが、貴族のお姫様らしさかもしれない。そう思って今度はさせることにした。なんと今までは、袴を脱いでまた履くのがひと苦労だったけど、下が短い腰巻きだけなら、袴を脱がなくてもできるんだ。発見!
女の子が手に持っている箱に用をたしたら、女の子はすぐに箱を取り出してすばやくふたをして、部屋の外に持っていった。その器用さといい、みすぼらしい身なりといい、これ専門に仕えている女の子なんだなって思う。これからは、みずすまし……じゃなくって、なんだっけ、そう、「ふぃすまし、まうぃれ」って呼べばいいんだ。ひとつ勉強!
さて、すっきりしたところで、何もすることがない。ボーッとしているうちに日が暮れた。あたりが暗くなるとすぐに、ドンドンと大きな音が連続して聞こえてきた。格子の窓板を、下ろしている音だ。部屋の中には淡い火がともされた。小皿の上でチョロチョロ燃えてるやつ。でもお寺のと違って数があるので、なんとか人の顔は分かる。
「大納言殿の、わたらしぇたまふ!」
大きな音が、部屋の外でする。大納言様が入ってきた。また女たちは平伏する。私も座布団からおりてそうしようとしたけど、立ちあがる前に大納言様は手で制した。
「おふぁしぇ、おふぁしぇ」
そうして私の前に、おもむろに座る。
「いかに。いまだうふぃうふぃしきころならんふぁ、こころぼそくこそあらめ」
そう言ってから、大納言様は懐から何かを出した。笛だ。
「こころばかりの、おんなぐさみに」
薄暗い部屋に、大納言様の笛の音が響く。上手なんだ。ふと感心してしまう。それにしても、久しぶりの音楽。なんだか大納言様の優しさがしみじみ伝わってきて、胸が熱くなってきた。
「ありがたく、思ひ侍り」
一曲終わってから、思わず私はそう言った。
「ありがたくとや」
大納言様は、満足そうにうなずいている。
「我が笛ぞ、みなふぃと、世にありがたきものといふなる。しゃふぁ、ありがたきこととふぃとふぁいふとも、ここにても虫かふぇ。わが蜂かふも、ありがたきこととみなふぃといふぇば、おなじきことにてなん」
なんだか大納言様が言ってる「アリガタキ」という言葉は、私が言ったのとは意味が違うみたい。なんで話題が虫や蜂の方にいくんだろう。
「しゃらにふぃとふぁ、蜂かうなんど、ありがたきことといふのみにふぁあらで、えうなきことにもいふぃなす。しゃれど、しゃいつごろ、トバドノにて、蜂のすのおちて、うふぇのおんまふぇにも、あまたふぁちのとびちりしときにも、ふぃとどもふぁただおでぃしゃふぁぐのみにてありしかども、われふぁ、びふぁのかふぁを、つめして、むきてしゃしあげ、蜂をぞあつめたりし。それよりふぁ、ウィンのおんおんおぼえも、めでたくぞなりぬるかし」
ああ、まだぜんぜん分からない。ただ、大納言様の顔つきは、何かを自慢しているみたいだけど。
「しゃれば、ここにても、虫かふぇ。くるしからず」
声をあげて笑って、大納言様は行ってしまった。そうだ、虫、虫、虫! 虫の観察しなければ、私がこの時代にいる意味がない! 集めた虫はお寺においてきちゃったけど、早く取り寄せなきゃ。
大納言様がいなくなってから、女たちはすぐに寝床の仕度をはじめた。もう寝ろっていうみたい。さっき暗くなったばかりだから、今は七時頃かなあ。暗くなったら寝る、明るくなったら起きる――この時代は不潔で不衛生な時代だとばかり思っていたけど、逆に案外健康的な生活をしてるっていえるかもしれない。
でも私は、まだ寝るわけにはいかない。やっと女たちもいなくなって、ひとりだけの時間。あした起きたらまた、多勢の女たちに囲まれて暮らすんだ。こんな窮屈な生活なら、かえってお寺にいた方がのびのびできたかも。ここに来るにあたって唯一期待していたことも、期待はずれだった。とうとう最後まで、お風呂にどうぞの声はなかったから。
私はこっそり、足音をたてないようにして戸をあけて、縁側に出た。
「隆浩!」
声を殺して呼んでみる。返事はない。夜でも今日は少し明るく、広い庭の池の様子なども見える。月がまだ満月じゃあないけど、空にあるから。月があるかないかでこうも夜の明るさが違うなんて、私は初めて知った。
しばらくそのままでいると、庭の菊の植え込みが微かに音をたてた。身をこわばらせると、そっちの方から押し殺した声がした。
「ミッコ」
隆浩の声だ。よかった!
「隆浩。ちゃんとこのお屋敷の、家来になれた?」
「ああ、なんかへんな板に、名前を書かされてな。そんでOKみたいだぜ。それよりもな、もう完璧に間違いねえぜ、タイムスリップ」
「私もそう思う。でも、何時代?」
「それが分かんねえんだよ。平安、鎌倉、室町のうちの、どれかには違いねえだろうけどな。これでいろいろ考えてるんだけどよう」
隆浩が懐から出したのは、あの暗記カード。持ってきてたんだ。
「ちょっと貸して!」
手にとってみると、プラスチックの表紙、金属の輪、厚紙、鉛筆の文字、そんなもの何もかもが懐かしくなって、なんだか涙さえ出てきちゃいそうになった。だからあわてて、隆浩に返した。
「それよりさ、お願いがあんだけど」
「なんだよ」
「お寺に置いてきた虫籠、取ってきてよ」
「またかよ」
あきれたような顔をしてたみたいだけど、
「分かった、分かった」
と言って、隆浩は引き受けてくれた。
「お互いに協力し合わなきゃな。こんな異常な事態だしな。困ったことがあったら、何でも言ってくれよ」
「ありがとう」
私がそういうと、手を振って隆浩は庭の闇の中に消えた。
次へ