3
みんなすごい早起き。お寺もそうだったけど、それはお寺だからだって思ってたのに実はそうじゃなかったんだ。まだ人が寝てるのにバンバンと音をたてて、格子の窓板が上げられる。パッと朝日がさす。寝てなんかいられるものじゃないよ。
私はしかたなく、起きだす。朝の身づくろいは、みんな女たちがやってくれる。髪もとかしてくれる。でもそんなに強くひっぱるなよって……これ、かつらなんだから。
「くぇさうをぞ」
髪の次は、鏡の前に座らせられた。メークか。あっ、ちょっと待って! もしかしてこの人たちと同じ、真っ白な顔にさせられるってわけ? ヤダヤダ、冗談じゃない!
「いらぬ!」
と、私は叫んだ。女たちはびっくりしたような顔をして、そして不思議そうに私を見た。
「など、眉も抜きたまふぁざるや。歯も白きふぁ、いとびんなきこと」
え、歯も? まさかあんたたちのように、歯も黒く染めようってか。やめて! もう。ほんとうにもう冗談じゃない! どんなにお姫様になりきろうって思ったからって、これだけは絶対にイヤ! それでもなんか準備してきて、無理やりはじめようとしてる。
私は思い切って、女たちをはねのけた。
「やめてよっ! もう、うるさい! きたなーい!」
女たちは身をすくめて、それから私を横目で見て、互いにひそひそ言い合ってる。
「うるさし、きたなしとかや」
「げに、いと、あしゃましきことにてなん」
ない眉をひそめてるよ、こいつら。私は素顔でいいんだよ、女子高生なんだから……ってのは、言い訳にはならないか……。とにかく女たちはあきらめたみたい。でもそれからというもの、なんとなく雰囲気が悪くなった。女たちは化けものを見るような目で、私のことを見る。自分たちが化けものような顔してるくせに。
なんだかんだしているうちに、やっと朝ご飯が来た。でも、がっかり。お寺とおんなじお粥。なんとか食べて、それから何が始まるのかなって思っていたら、何も始まらない。つまり、何もやることがない。お姫様って、こうして一日じゅうボケーッとしているものなの? 庭には明るい日ざしが輝いて、新緑がまぶしい。空もよく晴れてるみたい。もう、こうしてはいられない。私は立ち上がって、庭の見える窓の方へ行こうとした。そうしたら女たちは、急に慌てだす。
「いどぅこふぇ、おふぁさんずる」
「庭。庭が見たい」
「あなや、あやしきことのたまふものかな。かやうに、ふぁしちかにおふぁしますべきものかふぁ」
あやしいって、なんで庭を見るのがあやしいんだよ。もしかして私のこと。警戒してるの? この人たち。私はこの家に、娘として迎えられたんだ。監禁されに来たんじゃない! あんたたちって、監視役なの? 切実に女たちに、そうぶちまけたかった。でも、言える自信がなかったから、黙った。もう、ちょーヤダ! これじゃあ、囚人扱いじゃない。貴族のお姫様ってみんなこんな感じで、一日じゅう何もしないまま一生を終わるわけ? 冗談じゃない! もうイヤ、絶対イヤ! 早く現代に帰りたい!
ほとんど泣きべそになって、私は座った。ほんとうは、大声で叫びまくりたい気分なのだ。
「てならふぃなんど、いかが」
兵衛と言っていた女が私の機嫌が悪いのを見て、話しかけてきた。ご機嫌とり、見え見え。
「まなぞかきたまふなるに、さやうにざえふぁべるおんみにておふぁしましゃば、てならふなんどもよきことと」
訳が分からないでいるうちに、紙と硯と筆が来た。
「こふぁ、かなもんじのふぉんなり」
ひろげられた巻き物には……え??? ――これ、字? どう見ても、ミミズのはったあとにしか……。
「読んで!」
私は叫んだ。兵衛は少し私をバカにしたような笑みを見せてから、読みはじめた。
「昔、竹取の翁といふもの、ありけり。野山にふぁいりて、竹を取りつつ、よろどぅのことに、つかふぃけり・・・」
「あ、それ!」
私は、また叫んだ。
「竹取り物語」
「しゃなり、しゃなり」
兵衛はうなずく。そうか、こんな文字で書くんだ。よし、覚えようと、もう一度ゆっくり読ませて、もらった紙に同じ字を写していった。でも、同じになるわけがない。なかなかナギのようにはいかないよ。
ふと、しばらくは熱中してしまった。だけどすぐに虚しくなる。毎日こんなことだけして、それで日々を暮らすってわけ? たまんない。ため息が出ちゃうよ。
「ミッコ、ミッコ!」
庭の方で声がする。隆浩だ。だけど私よりも早く、女たちの方が一斉に縁側へと出ていった。私ははじめ、簾の中からのぞいていた。女たちはものすごい剣幕で、隆浩をとがめている。でもそのうち、女たちの声は悲鳴にかわった。私はすぐに飛び出した。
隆浩の腕の中には、たくさんの虫籠が抱えられていた。
「隆浩、サンキュー!」
今度は私が女たちをバカにしたような笑いを見せながら、隆浩から虫籠をひとつひとつ受け取った。女たちは怯えきった様子で、遠まきに見ている。ざまあ見ろってんだ、これで私の天下さ! 私は勝ち誇った気持ちで鼻で笑ってから、虫籠を部屋の中へと運んだ。もう女たちは、一歩も部屋に入れないでいる。そのうちバタバタと、廊下を走りだした。うるさいったらありゃしない。
「うるさいなあ、もう! けしからん人たちねえ! 暴走族? あんたたち!」
思わず現代語で怒鳴りつけて、ついでににらんでやった。
「くぇしからず、ぼうぞくなりとかや」
またひそひそと話してる。まったくマナーのなってないやつら。女中として失格よ!
でも私は、そんなのにかまってられない。長い髪がうるさいから両耳にはさんで、虫籠をひとつずつのぞきこんだ。これこれ、これがなかったら、私はここでは生きていけない。
現代には帰りたいけど、やっぱりここでしかできない蝶の幼虫の羽化を観察してからじゃないと……。そうしてその日は、あっという間に暮れた。
夜になって寝床に入ってから、今日はいったい何月何日なんだろうということが気になってきた。この時代に来てからの日数を思い出して数えて、日付にあてはめてみた時、私はハッと気づいたことがあった。
隆浩は、困ったことがあったら何でも言ってくれって言った。でもこれだけは、絶対に男である隆浩には言えない。女としての緊急事態が迫っているのだ。
翌日になってから、思い余って私は大夫おばさん――本当は、大夫の君って呼ばないといけないみたい――を壁に囲まれた部屋へと連れて入った。若い女たちが、何か私に敵意の目を向けているような雰囲気の中、この人だけは変わらずに優しく私に接してくれているようだったからだ。
「あのう、私、生理が近い」
もちろん、通じるわけがない。そこで一度部屋を出て、きのうお習字に使った筆に墨をつけて持ってきて、お寺で使っていた白い扇に「生理」と書いて見せた。
それでも分かってもらえないようだった。そこで、保健体育の時間の用語の、「月経」と書いてみた。それでやっと分かったみたいで、少しはホッ。
「しゃふぁりものにや」
でもまさかナプキンやタンポンが出てくるわけないと思っていると、出てきたのは箱に入った綿みたいなもの。
「これ、何ぞ」
そう聞いて見ると、大夫の君はニッコリとうなずく。
「グァマのフォワタにてこそ」
グァマって、ガマガエル? ガマガエルから、こんな綿が? あ、そうか、「ガーマのほわたに、くるまればー……」なんて歌があったっけ。この蒲の穂綿が、ナプキンの代わり? でも、どうやって使うの? 私、パンツはいてないし、アンネショーツだってあるわけないし……。
「こを、いかやうに?」
「しゃれば」
大夫の君は綿をつかみ、私の袴の脇から入れた。そして短い腰巻きのうしろの部分ではさんで、それを前の帯に入れる。これじゃあ、ふんどしじゃないさ。この時代の女の人って、みんなこうしてるんだ。
「ありがとう」
私がそう言うと、大夫の君は首をかしげた。
「など、ありがたきことぞ」
そうだ。言葉の意味が違うんだった。せっかくここの言葉をだいぶ覚えた私にとって、このことが大きな障害になっているようにも感じられた。
毎日が髪を耳にはさんでの、虫とのにらめっこの日々だった。考えてみればいい時に、この時代に来たもんだ。だって、ちょうど今が、羽化の季節だから。
しっかり観察してからじゃないと、現代に帰れない――と、言っても、本当に帰れるのかなあ。それだけが不安。ここでいくら虫の観察しても、現代に帰れなかったら何の意味もないものね。それでも、記録だけはとっておかないと――紙はあまりないみたいだから、扇に細かい字で記録をとるしかない。
新しい虫は、隆浩がどんどんとってきてくれる。ただ、羽化の観察には、さなぎもいる。急がないと。だって、もうかなりさなぎも減っている頃。ああ、自分で出歩いて探すことができたら、どんなにか――隆浩に頼んでじゃ、いと心もとなきわざなれば――ずいぶん、ここの言葉にも慣れてきたなあ――それにしても庭はもちろん、部屋のまわりの廊下に出てでさえ、女たちはつべこべ言う。同じ敷地内の建物でも、渡り廊下でつながった隣の建物は、私には無縁の世界。こんなところに閉じ込められるんなら、ショーでは下女の役でもやっていた方がよかったかも。はじめは馬鹿にしてたけど、今では隆浩がうらやましい。
真っ白のメークや歯を黒くすること、これだけは今でも断固拒否している。でも、それが女たちにとってはよっぽどへんなことらしくて、いつも白い目で見られる。それにも、もう、うんざり。
「隆浩! もう、息が詰まる! こんなところに閉じ込められて、自閉症になっちゃうよ、もう!」
ある日また、虫を待ってきた隆浩をつかまえて、私は切実に訴えた。
「お姫様なんかになるじゃなかった。そしたら、自由に歩きまわれたのに!」
「ばーか、おめえなあ、外なんか出てみろよ。町じゅう、臭い臭い。道端はウンコだらけだぜ。みんな道端で、ウンコしてやんの。男も女もだぜ。そんでもって、人間の死体もごろごろしてんだからよ。それも一人や二人じゃないぜ。あっちこっちにごろごろだぜ」
「げ! うそォ!」
「またそれに、ハエはたかってるし、犬は食ってるし」
「も、いい! やめて!」
私は耳をふさぎたい気分だった。
「このお屋敷の中にいて、正解だよ。それよりおめえ、ちゃんと、メシ食ってんのか」
「うん。わりとまともなもの食べてるよ。ちょっと粗食かなって気もするけど。お肉はないけど、鶏肉なら出るし」
「いいよなあ。おめえ、お姫様だからこそ、俺たちの時代の庶民と同じものが食えんだぜ。俺なんかなあ、この時代の庶民のもの、食ってんだぜ。まずくって食えねえよ」
「は、かわいそ! それより、虫は?」
「ちゃんと、とってきたよ」
私はまた、虫を受け取った。
虫を部屋の中で飼うようになってから、女たちはめっきり部屋の中に近づかなくなった。それでいて、廊下の当たりでひそひそと、私の陰口たたいてる。私に聞こえてるって分かってるだろうに、自分の主人の耳のあるところでその主人の悪口言うなんて、この人たち、どういうシンケーしてんの?
「いみじくしゃかしたまふぇど、ここちこそまどふぇ」
「この、おんあそびものよ」
「いかなる人、蝶愛どぅる姫君に、つかうまつらん」
ま、聞いてもまだ、全部は何言ってるか分からないけどね。でも人のことネタにして笑ってるなんて、ちょームカつく!
「眉ふぁしも、かふぁ虫だちたんめり」
「しゃて、歯ぐきこそ」
「皮の、むけたるやうにやあらん」
また、笑う。いいかげんムカついて、あいつらに向かって虫の一匹でも投げつけてやろうかと思って立ち上がろうとした瞬間、大夫の君がしずしずと、私の悪口言ってた女たちのところに行った。
「若人たちふぁ、何ごと、言ふぃおふぁさうずるぞ。蝶愛でたまふなるふぃとも、もふぁらめでたうもおぼいぇず。くぇしからずこそ思ゆれ。しゃてまた、かふぁ虫ならべ、蝶と言ふ人、ありなむやふぁ。ただ、それが、もぬくるぞかし。その程をたどぅねて、見たまふぞかし。それこそ、心深けれ。蝶ふぁとらふれば、手にきりつきて、いと、むつかしきものぞかし。また、蝶ふぁとらふれば、わらふぁやみしぇしゃすなり。あな、ゆゆしともゆゆし」
よく分からないけど、なんだか意見してくれてるみたい。まだまだ何言ってるかは聞き取れないけれど、意見された若い女たちは、ふてくされて行ってしまった。たぶん、私に味方するようなことを、言ってくれたんだろう。このおばさんだけは、私に味方してくれる。あと、大納言様も。だってここで虫を飼うことは、ちゃんと大納言様のお許しを得てのことなんですからね。でも大納言様だって、陰で何言われているか分からないね。蜂なんか飼ってるんだから。
そんなある日、やっとひとつのさなぎが羽化し始めた。これは見もの。しかもオオムラサキよ。オオムラサキの羽化の実物なんて、日本の高校生で見たことある人、いる?
頭が半分出た。今頃羽化するのは、オオムラサキでも遅い部類に属する。アゲハなんかは木の枝にさなぎを作るけど、オオムラサキは葉の裏に作る。今羽化しているさなぎがついているのは、エノキの葉だ。
「おん北の方、わたらしぇたまふ!」
え、やだ。まじ? 冗談じゃない! こんな時に。ちょっと待ってよ! いちばんいい時なんだから! そう思っているうちにもう、廊下の方には衣ずれの音が響いてきた。そして、しずしずと入って来る奥方様――ここでは、私のお母さんだけど――。お願い! もっと早く歩いて! 羽化が終わっちゃう!
そんな私の気も知らないで、ゆっくりと奥方様は、畳の上の座布団の上に座る。私はしかたなく、その前に畏まった。
「聞けば、虫かふぃたるなりとや」
「はい」
私は手で、部屋の中の虫籠を示した。奥方様は、ちょっとだけ描かれた眉をしかめた。
「殿の、おん許しを得て侍りぬれば」
「シンデンにてふぁ蜂、ニシノタイにてふぁかふぁ虫とふぁ、あな、いかなるすくしぇの、ゆうぇならん」
今度は、ため息なんかをついている。
「殿ふぁしゃもあらばあれ、わかごじぇふぁ若きふぃめにてやあらん。いと、おとぎきあやしや。人ふぁ、みめうぉかしきことをこそ好むなれ。むくつけげなるかふぁ虫をきょうずるなると、世の人の聞かんもいとあやし」
完璧に私に、意見してる。誰かチクッたな。それにしてもこの人、私が虫を飼うのに意見するってことは、大納言様が蜂を飼っていることも、きっとよく思っていないんだろうな。夫婦仲も、うまくいってるのかなあ。年を離れてることだし。
ま、そんなことは、私の知ったこっちゃない。
「苦しからず」
私は伏せていた顔をあげて、大納言様が言っていたとおりに言ってみた。さらに一所懸命、頭の中で文を組み立てる。
「何ごとも、もとを知って末を見るが大事と思ふ。恐がるなど、いと幼きことなり。鳥毛虫の、蝶とはなるなり」
そうよ。それがエリス姫の精神よ。蜂よりかはずっとましじゃないと言おうと思ったけど、それはやめた。そうしているうちにも、オオムラサキの羽化はきっとどんどん進行していってる。
「しゃふぁあれど……」
奥方様はまだ何か言いかけたけど、もう、こっちの身にもなってよねって感じ。
「あ、ちょっと」
そう言って私は、ふたがあいたままのオオムラサキのさなぎの籠を持ってきた。
「ごらんぜよ。鳥毛虫がまさしく、蝶になるところなり」
もうだいぶからだの半分が、さなぎから出てしまっている。とんだ邪魔が入らなければ、もっとゆっくり観察できたのに。
「人の着る絹も、蚕のまだ羽つかぬ時に出して、蝶になりたれば糸も出さず……エット……用なきものにこそ」
ほんとは、蚕は蝶じゃなくって蛾なんだけど、いいにしよう。素人にはこの方が、分かりやすい。
奥方様はオオムラサキの籠からは目をそらして、そしてまたため息をついている。
「あなや、あやしのかぐやふぃめなるかな。鬼と女ふぁ、人に見いぇぬぞよき」
それだけ言い残すように言って、奥方様は立ち上がって行ってしまった。怒らせちゃったかな……でも、大納言様が味方なら大丈夫さ。それに、実は私には、ある計画がある。ひととおり羽化の観察が終わったら、ここを逃げ出すつもり。こんな狭い部屋に閉じ込められて暮らすのは、もう限界! 隆浩には、まだ言っていないけどね。
それにしても「あやしのかぐや姫」か。たしかにかぐや姫は、こんなふうに虫なんか飼ったりしなかっただろうからね。ただ、若い女たちといい、奥方様といい、ずいぶん私の噂があちこちに広がっているような言い方してたね。ま、いいけど。
かぐや姫の話はたしかこのあと、五人の求婚話になるんだったよね。やだ、冗談じゃないと一瞬思ったけど、ま、そんな物語どおりにいく訳ないし、心配いらないと思ってた。
うっとうしい雨が続いた。梅雨になったみたい。気候もますます熱くなっていく。もう最近では女たちの中でまともに私の話し相手になってくれるのは大夫の君だけで、ほかの若い女中たちは完全に人を奇人変人扱いしてる。
そして何よりの楽しみは、隆浩が採ってきてくれる虫。
「え? 何、これ?」
曇り空の下、その日隆浩が取ってきた虫の中には、カマキリとかカタツムリまでいた。
「こんなの、頼んでないじゃん。蝶の幼虫だけでいいんだよ」
「だって、それだけじゃ芸がないだろ」
隆浩は笑っている。それからその日はその後でまた雨が降りだしたので、カタツムリが勝手に跳ね上げた窓の下の部分の上のヘリの上を歩いているところなんか見ていた。蝶の幼虫じゃなくたって、こんなカタツムリでも何だかかわいらしくなっちゃう。いちばん大事なのは、ただ観察や研究の対象としてだけでなく、虫への愛情よね。一つ一つの生命とかかわりたいっていう、エリス姫の精神よ。そんなこと思いながら私、カタツムリを見ながら「で〜んでんむ〜しむし、か〜たつむり〜。お〜まえのあ〜たまはど〜こにある〜」なんて、大声で歌ってた。こんな歌にも、現代への懐かしさを感じてしまうのだ。
暇つぶしって言えば、最近隆浩は虫を持ってくる時に一人じゃなくって、仲間になったみたいでほかの下人を連れて来るようになった。すぐに友だちを作ってしまう隆浩の社交性というかずうずうしさというか、ちょっぴり、本当にちょっぴりだけど尊敬してしまう。それにしても、みんな若いんだあ。現代だったら、中学生くらいかなあ。それなのにこの時代では、もう働いてるんだなあ。
「こいつが……」
と隆浩は紹介してくれるけど、いちいち名前覚えるのもめんどう。
「そのひとはカエルみたいな顔してるから、ケロオ。次がカマキリまる。その次はバッタのすけ」
なんて勝手に名前付けて、自分で受けて笑ってた。言われた本人たちは訳が分からずきょとんとしていたけど、隆浩も大笑いだった。
そしてこの盆地に激しい雷が鳴ったのをきっかけに、雨も少しずつ少なくなっていった。このところ大納言様は、毎日帰りが遅いみたい。隣の建物のことだから、気配でわかる。ただ、今日は珍しく、外出はしていないみたいだった。
「殿は、忙しくて?」
私は、大夫の君に聞いてみた。大夫の君、ちょっと首をかしげた。こうじゃないんだ。「忙しい」って、なんて言うんだろう。まだまだ私の、ボキャブラリーは不足してる。
「いそがふぁしくとや?」
大夫の君の方から、助け舟。さすがいい勘してる。
「イチウィンの、なやましぇたまふぃてなん、ウチもウィンのチャウも、ののしりわたれるなる」
ああ、何言ってんだかぜんぜん分からない。ま、いいかと思っていると、昼下がりに庭の方で隆浩が私を呼んだ。私のかわりに大夫の君が、立って縁側の方まで行った。近頃では私と隆浩の会話には、間に大夫の君が入ることになっている。これも貴族のお姫様の宿命。ここを逃げ出すまでの間のことさ。
すぐに、大夫の君は戻って来た。手には、なんだか袋みたいなものを持っている。
「誰か、かやうなる物を持ち来たれるあり」
そう言ったってことは、隆浩からのものじゃないみたい。全体的に重い。袋には、紙が結びつけられていた。誰がなぜ、私にこれを? そう思って、紙を開いてみる。何か書いてあるんじゃないかと思ったから。
やっぱ、書いてある。でもまた、ミミズがはったような字。読めないよ! 最初は「波ふ」? 波ふ波ふ、君……その次、分かんない。そんで、あた……だな。次は、里?
「読んで」
私はそれを、大夫の君に渡した。
「ふぁふふぁふも
きみがあたりにしたがふぁん
ながきこころのかぎりなきみふぁ」
何これ? 短歌? どんな意味? ぜんぜん分からない。
「袋など、開くるだにあやしく、重たきかな」
大夫の君がそう言って、袋の紐をほどいた。居あわせた女たちが、一斉に悲鳴をあげたのはほとんど同時だった。袋の口からは、蛇が頭を出していた。
私もさすがに、それにはゾッ! でもここで恐がってたら、生物部長の名がすたる。まわりの女たちと、同じ次元ってことになっちゃう。
「な騒ぎそ!」
そう言ってから私は、蛇の袋をそっと引き寄せた。蛇は頭を出しているだけで、動こうともしない。女たちの中には、ドタバタと走って逃げていく者もあった。
しばらくして、足速の足音が聞こえてきた。
「いと、あしゃましく、むくつけきことをも、聞くわざかな。しゃる物あるを見るみる、みなたちぬらんことぞあやしきや!」
姿より先に、声が聞こえてきた。大納言様の声だ。部屋に入った大納言様は、なんと手に刀を持っていた。誰かが呼びに行ったんだろう。
「いどぅこぞ、くちなふぁふぁ!」
大納言様は、私の目の前の蛇を見付けると、刀の鞘の先で蛇の頭をこづいていた。蛇はやっぱり、ぴくりともしない。次にゆっくりと手をのばし、ひとさし指で蛇の頭をつついた。
「こふぁ……!」
大納言様は、蛇をにぎってつかみ上げた。そして、大声で笑った。
「いみじう、ものよくしけるかな」
私の前に、蛇は投げ出された。ニセモノだったんだ。しかも袋をあけたとたんに首を出すなんて、よくできたビックリ箱――じゃ、なくって、ビックリ袋。
「かしこがり、ふぉめたまふと聞きて、したるなんめり。かふぇりごとをして、ふぁやくやりたまふぃてよ」
また笑いながら、大納言様は行ってしまった。もう、笑いごとじゃないんだから! 一瞬まじで、心臓が止まりそうになったんだからね!
でも誰が……? いったい何の目的で……? 嫌がらせに決まってるだろうけど……。現代の家にいた時も、夜中に時々イタデンなんかがかかってきてた。どの時代にもいるんだね、こんな嫌がらせやイタズラする変態男って。それにしても、こんなイタズラするやつがいるってことは、よっぽど私の噂は広がってるんだ。どうせ、ここにいる女たちが、広めたに決まってるけどね。
「作りたる物や」
「くぇしからぬわざ、しける人かな」
口々に女は言い合っている。ほんとうは犯人とグルじゃないのとも思うけど、そのうち大夫の君が紙を持ってきた。半紙というより画用紙といった感じの紙。
「かふぇりごとしぇずふぁ、おぼつかなかりなん」
これに何か書けってか? 苦情でも書こうか。でもこの時代のしきたりでは、どうしたらいいんだろう。そこのところが、まだよく分からない。
「何を、書けば?」
「しゃれば、かふぁりてつかうまつらん。いざ」
ゆっくりと大夫の君は短歌を言うので、私はそれを書きとめた。
「チギリアラバ
ヨキ極楽ニ行キアハン
マツハレニクシ虫ノ姿ハ」
わけの分からないことばを書くには、カタカナにかぎる。でも「極楽」や「行き」「虫」「姿」くらいは、ちゃんと漢字で書いたよ。それにあんなミミズ文字じゃなくって、ちゃんとした字で書いてやった。
「ふくちのそのに」
短歌が終わっても大夫の君は、まだ何かを言う。どこに書いたらいいか分からないでいると、私が書いた短歌の左側を、大夫の君は指さした。
その夜はイライラして、いつまでも寝付けなかった。いったい誰のいたずら? ちょームカつく!
「ネー、ミッツー!」
庭の方で、拍子木の音とともに声がする。時計がないものだから、夜中でも下人がこうして、時間を知らせてまわるんだ。しかも、今日の声は隆浩の声だ。隆浩にも、とうとう順番がまわってきたんだな。ちょうどよかったと、私は跳ね起きて、手さぐりで部屋の外まで歩いた。
「ちょっと、隆浩」
私は格子を押し上げて、声をころして隆浩を呼んだ。
「なんだ、ミッコか。びっくりさせんなよ。元気か」
「元気かじゃないよ! 何、あの昼間の袋。誰が持ってきたの? あんなの」
「ああ、あれか。知んねえよ」
「知んねえよって、取り次いだの、あんたでしょ」
隆浩の顔は、その手に持った火のついた棒の明かりでよく見える。たいまつっていうには小さいし、ろうそくよりかは大きい。左手にそれと拍子木の片方を持ってるんだから、たいへんそう。
「なんか突然若い男が入って来て、若御前に渡せって言うんだからしょうげねえだろ」
「若い男?」
「ああ、けっこう身分が高そうなやつだったぜ」
「どこの誰?」
「あのなあ、俺、ここでは一応下人なんだぜ。んなこと聞けっかよ」
「突然入ってきたって、どっから入ってきたのよ。門からだったら、門番が止めたでしょ」
「この屋敷の塀、あっちこっちがいっくらでも壊れてるぜ。門からじゃなくったって、どっからでも出入り自由だよ」
「え! 信じらんない! そんな、無用心な! 下人たちはなんで直さないのさ」
「そんなこと言ったって、ここの下人たちは命令されなきゃ何にもしないんだよ。じゃあな」
愛想笑いだけを残して、隆浩は行ってしまった。
結局、何の手がかりもつかめなかった。だからイライラはまだ残っていたけど、でもいいことを聞いた。屋敷の塀が壊れてて、出入り自由――私が逃げ出す時、好都合じゃん。そう思ったら急に安心してか、やっと眠たくなってきた。
雨も上がったし、久しぶりのいい天気だから、私は簾をあげて窓から外を見ていた。窓といっても、全部の側の壁の上半分は窓なんだけど。虫を飼いはじめてから、うるさい女たちもあまり私に近づかなくなったし、その分だけ自由になれたといってもいい。
もうそうとう蒸し暑くなっていて、暑っ苦しい上着なんか着ていられない。白い着物の上には、白っぽい黄土地の薄いうちかけだけの姿。袴も長袴じゃなくって、ふつうの短いのを持ってきてもらった。またこれが、真っ白の袴。ほんとうは袴もいらないって感じなんだけど、下がミニスカートくらいの腰巻きだけじゃあ、ねえ……。もっとも部屋の奥にいる時なんかは、上のうちかけも脱いじゃってスケスケルックでいたりもするけど。
今は一応うちかけも着て窓から外を見ると、建物のすぐそばまで木立がせまっていて、そろそろ蝉も鳴きだす頃じゃないかっなって気もする。
季節が変わっていくにつけて、ふと現代のことを思い出してしまう。みんなどうしてるんだろう。私たち二人が行方不明になったことで、大騒ぎになってるだろうなあ。新聞にも出たかなあ。
でも、この時代に来てからもうひと月以上たって、少しはなじんじゃった。隆浩もいっしょだってことが、悔しいけど心強かったし、もし独りだったらって思うとゾッとする。
その隆浩は、目の前の木立の中をうろうろしていた。そのうち、私の方を見た。
「おお、ミッコ。あっちこっちの木に、いろんな虫がいるぜ。おめえのせいでよ、俺も虫に興味なんかわいてきちまったぜ。ほら、見てみ」
最初はあれほどいやがっていた隆浩も、今ではいちばんの協力者。虫のいる小枝を折って、縁側の近くまで持ってくる。
「変な形だろ。これ、なんていうんだよ」
小枝にいるのは、頭に角がある虫。
「それ、スミナガシの幼虫。タテハチョウの一種でね、平成の日本じゃよっぽど田舎に行かなきゃ見らんないものだよ。ちょっと、もっとこっちに持ってきて」
「ほい。おめえが、もうちょっと出てこいよ」
そう言うから私は簾をもっと押し上げて、欄干のついている縁側の方にまで上半身を乗り出させた。隆浩は、虫のいる枝を私の方に突き出す。
「それ、こっちにちょうだい。スミナガシの幼虫」
「そんなこと言ったって、とどかねえよ。四、五匹はいるぜ」
「じゃあ、とにかく縁側に落としてよ」
言われたとおりに隆浩が枝を振ると、虫はたしかに五匹くらいいて、縁側の板の上に落ちた。
「直射日光が苦しいんだね。こっちの方にはってくる。ねえ、拾って部屋の中に投げてよ」
「拾えってか」
隆浩は、イヤそうな顔をした。まだ素手でつかむには、抵抗があるんだ。そこで私は、いつも使っている扇を出した。いろいろ筆談に使ったり、虫の観察の記録をとったりしてるから、ぎっしりと字が書いてあるけど。
「これ、使ってよ」
扇を投げてやると、隆浩はそれに器用に虫をのせて、部屋の中に一匹ずつ放り投げる。キャッチ失敗。一匹は床に落ちた。
「あれ? どっかいっちゃった」
明るい外を見ていたものだから、室内の暗さに急には目が慣れないでいた。
「あ、いたいた」
やっと見つけて拾うと、廊下の向こうから大夫の君が歩いてきた。意見されるな、来るなと思ったら、やっぱ来た。
「いらしぇたまふぇかし。あらふぁなり」
「恥づかしうはあらず」
そうよ。人に姿を見られたくらいで、なんで恥ずかしいのさ。まっ裸を見られたわけじゃあるまいし。
「あな、こころう。そらごとと、おぼしめすか。そのたてじとみのつらに、いと、ふぁどぅかしげなる人、ふぁべるなるを。奥にて御覧じぇよ」
庭に人がいるって? 私をのぞいてるってこと? 人の家の中に勝手に入って、勝手にのぞくなよな!
「ちょっと、隆浩! 見てきてよ」
隆浩は走っていって、すぐに戻って来た。
「ほんとうにいるぜ。しかもこのあいだの、あの袋を持って来たやつだよ。しかも、今日は女装してる」
「まじ!?」
私は慌てて簾をおろして、中へと入った。性懲りのないヤツ。しかも女装だって。もう完璧に変態じゃん。きもいし、ムカつくし、もう!
「隆浩! どこの誰だか、ちゃんとつきとめてきてよ!」
簾の中から、私は叫んだ。
「あいよ」
気のぬけた返事! それからしばらく奥に入っていると、大夫の君が紙を持ってきた。
「この、かしこに立ちたまふぇる人の、わかごじぇにたてまつれとて」
「またあ? 誰がこれを」
「隆浩まるこそ」
隆浩ったら、誰がまた手紙をとりついでこいって言ったのよ。どこの誰だかつきとめてこいって言っただけなのに。何、ミイラ取りがミイラになってんだろう。それにしても、相手もそうとう図々しいヤツだね。ストーカーもいいところじゃない。
聞いてみると墨ではなくって、草の汁かなんかで書いたような緑色の文字だった。やっぱ読めないから、大夫の君に読んでもらう。
「かは虫の 毛深きさまを見つるより とりもちてのみ守るべきかな」
なんだか分からない。
「あな、いみじ。ウマノスケの、しわざにこそあんめれ。こころうげなる虫をしも、きょうじたまふぇるおんかんばしぇを、見たまふぃつらんよ」
大夫の君は、ひとつため息をついた。「ウマノスケ」――これがこの手紙の主の名前? ――そうなればあの蛇事件の犯人も、こいつってこと? 隆浩に言ってつかまえさせようかとも思ったけど、もうかかわりたくもなかったからやめた。
「かふぇしふぁいかに」
と、大夫の君が言う。返したらどうかって? とにかくもう、かかわりあいたくないの!
「好きにいたせ!」
私がそう言うと大夫の君は、自分の懐に入れてあった紙にさらさらと何か書いていた。
「人ににぬ 心のうちはかは虫の 名をとひてこそいはまほしけれ」
自分が書いたものを朗読してから、
「これにていかに」
と、大夫の君は言う。どういうことかよくわからなかったけど、面倒だから、
「よしなに」
と、言っておいた。
大夫の君は縁側の方に出ていき、しばらくしてからまた別の紙を持ってきた。同じように草色の文字。またウマノスケの返事? もう、いいかげんにしてよ、しつこいなあ!
「かは虫の まぎるるまいのけのすゑに あたるばかりの人はなきかな」
分かんないけど、何なんだろう、この手紙。からかいの手紙? それともまさか、ラブレター? どっちにしたってあんないたずらするやつなんて、ロクな男じゃないはず。どんな身分の高い貴公子だとしても、スケベな変態野郎に決まってる。どこに行ってもいるんだから。スケベな変態男って!
「また、かふぇしふぁ?」
カフェシって、返事のことなんだ。
「いらぬ! 捨て置け! それより、ウマノスケとは何者?」
だいいち、へんな名前。馬みたいな長い顔してるんだろうか。
「あるカンダチメのみこの、うちふぁやりてものおでぃしぇず、あいぎゃうどぅきたるなると、聞こいぇ高きキンダチにて」
分かったふりして、うなずいておいた。どっちにしたって、もう私には関係のない人。
「これからは、な案内せそ」
大夫の君にはそう言ったけど、そのあとどうなったか――続きは二の巻にあるはず……。
サイト公開版はここまで。これより先、二の巻はフォームでお申し込み下さった方に無料でお届けします。最後までお読みになりたい方はこちらから申し込んでください。
<少しだけ予告>
なにやら戦争が始まるという気配。屋敷中大騒ぎ。そしてとうとう私も巻き込まれて……。私、現代に帰れるの? それとも……。そして、ウマノスケって誰?