一の巻
1
ここはどこ――? 森の中……、暗い。
「フェングェナンドニファアラデ、マコトフィトナリ」
たちまち明るい光が目の前にさし、目を覚ます。人に取り囲まれている。慌てて跳ね起きようとしたけれど、なにしろ重い十二単を着たままなので体の自由がきかない。
明るい光はたいまつの炎。人は三人で、みんな若い女性。でも変な格好。坊さんの服着てるじゃない。
「た、隆浩!」
慌てて首をひねると、そばで隆浩も下人姿のまま倒れているのが、炎に照らし出されて見えた。
「オドロカシェタマフィシヤ。ナド、カヤウナルトコロニヤ、フシタマフェル」
この人たち、何言ってんの? 外国人? でも顔は日本人だし、言葉も外国語みたいだけれど日本語のようでもあるし。どこかの方言? 確かに、関西弁のアクセントだ。
「イドゥカタヨリカ、オファシェル」
「ここはどこ? あなたたちはだあれ?」
びっくりしたような顔つきで、三人の坊さんの服の女たちは、互いに顔を見合わせていた。
「ワレラガテラファ、コノチカクナレバ、マドゥハオファシマシェ。ウィテコソマウィラメ」
私を助け起こそうとしているみたい。一人は隆浩の介抱に当たっている。まわりは真っ暗で、たいまつの炎だけが頼り。でもすぐに分かったけど、私たちが倒れていたのは何かの建物の庭だってこと。だってすぐに建物に着いたから。
「ニファニフシタルモノアンナルトイフファ、ソレニテカ」
手にろうそくを持って出てきたのはお婆さんで、やはり坊さんの服を着ている。尼さんだなって思った。思おうとしたけれど、頭がボーッとしていて、おまけにものすごい頭痛。まともに思考回路が働かない。
建物の中に入った。こんなに暗いのに電気もついてなく、小さなお皿に入った芯に火がともっているだけなのが唯一の照明。全体的に古いお寺みたい。部屋は畳も敷いてなくって板張りで、私はその上に座らせられた。そこにさっきのお婆さんが、向かい合って座る。建物の中に入れられたのは私だけで、隆浩は別のところに連れて行かれたみたい。
「オンゾヲミタマフルニ、ヤンゴトナキカタニヤトゾオボユレド、ナドワガテラノニファニフシタマフェル。アルヤウコソファ」
とにかく、何を喋っているのか分からない。だから、こっちも答えようがない。いったい何なの、この人たち。山の中で暮らす変な趣味の人たち? ここはよっぽど田舎の山の中? だって、こんなわけの分からない言葉を喋るなんて。
「ここはどこなんですか」
おばあさんは目を伏せて、黙って静かに首を横に振っていたりする。
「フィナノコトバニヤ。マタ、イトドシタトキコト。エオボイェズナン」
独り言のようにしてつぶやいたあと、お婆さんは優しく目を上げた。
「コヨフィハ、コウジタマフィケルランカシ。イマファトク、オフォトノゴモラシェタマフェ」
何だか悪い人ではなさそう。親切心が伝わってはくる。でも、何て言っているかが分からないのは困る。それよりも何よりも、今の自分の状況は……。だけどそれを考えるにはもっと落ち着いて、頭の中をゆっくり整理しなければならないみたい。
若い尼さんが入ってきた。尼さんとは言っても髪はおかっぱぐらいはあって、丸坊主ではない。手には箱に入った布がある。優しく私を立ち上がらせて、服を脱がせようとする。やっと十二単を脱がしてくれるんだな、着替えを持ってきてくれたんだなと、一安心。多分この人たちも、私がこんな昔の服装してるからびっくりしてるんだろうなと思っていたら、この人たちの手際、あの着物学院の先生たちよりよっぽどテキパキしてる。ところが一番下の白い着物と赤い袴だけになったら、今度は黒っぽい服を上から着せられる。
「アマデラナレバ、カヤウナルモノノミファベルニ、ユルシャシェタマフェ」
え、なんでなんで、どうして全部着替えさせてくれないのって思っているうちに、別の部屋に連れて行かれた。そこも板張りだったけども、畳が二枚だけ敷いてあって、その上には布団も敷かれていた。ここで寝ろっていうみたい。とにかく頭の中はパニックだけど、頭痛は前にも増して私の考える力を奪っていた。とにかく布団に入って、仰向けに寝た。天井板はなくて、いきなり屋根裏だった。若い尼さんが火を消した。たちまち部屋の中は真っ暗。私は暗闇を見つめながら何がどうなったんだろうと頭の中を整理してみることにした。
ショーの本番中、階段から落ちたんだ。だけど記憶はそこまでで、その後一瞬だったか長い時間だったかは分からないけど、とにかく私は隆浩と一緒に夜の山の中の、この家の庭に倒れてたんだ。分かっている状況はそれだけ。その間がどうしてもつながらない。そして今、頭は朦朧としている。これ以上、考えるのは無理。いつしか私は、眠りに落ちていった。
うるさいくらいの小鳥の声。そして、戸の隙間からはうっすらと日が射している。
跳ね起きてみると、見慣れない部屋。そうだ――と、昨日の記憶がよみがえる。状況は何も変わっていなかったのだ。外はもう明るくなっているみたいだけど、締め切られているので部屋の中は暗い。立ち上がって戸を開けてみた。だけど動かない。横に引いても開かないのなら押してみようと思って押したら、上半分だけ向こう側に跳ね上がった。こういう窓なんだ。下半分は壁のままだった。
開けた途端に明るい光と一緒に、ものすごい新鮮な空気が飛び込んで来た。こんなすがすがしい気分になったの、どれくらいぶりだろう。緑がまぶしい。本当に大自然って感じ――あ、そんなことに感動しているバヤイではない。今の自分の状況を把握しなくては――上に押し上げている戸は手を離すと閉まってしまうので、押し上げたまま私は隆浩を呼んだ。窓のすぐ下が庭なのではなくって、手すりのある縁側がついている。思った通りここはお寺で、同じ建物の中から女の声でお経を読む声が聞こえてくる。
「ミッコ!」
来た来た、下人姿の隆浩。わらじをはいて、庭を小走りに駆けてきたよ。
「あんた、どこに寝てたの?」
「離れの小屋みたいなところ。土間に藁布団だったぜ。おめえは?」
「一応畳の上に布団敷いて」
「それにしても、ここどこなんだよ。何で俺たち、こんなとこにいんだよ」
顔がマジだ。それは私だって同じ。
「ショーの最中に、おめえが階段から落っこちてきたんだよな」
「そのあとは?」
「分かんねえよ。気がついたら、ここに倒れてたんじゃないか」
「おんなじだ。いったいどういうこと?」
「こっちが聞きてえよ!」
「私たちが気を失ってどこかに寝かされている間に、誰かに誘拐された……?」
「誰に? 何の目的で?」
「そうか。だったらこんな森の中に倒れてたっていうのはおかしいね」
「ここは寺だろ。もしかして、あの尼さんたちが……」
「まさか。ぜんぜん言葉が通じないけど、でも私たちのことちょーびっくりしてたって感じで、なんか一所懸命聞こうとしてたし、向こうにとっても私たちが不思議だって感じだったみたいだし」
「そりゃあ、こんな格好で倒れてたりしたらなあ」
「オドロカシェタマフィヌルヤ」
そのとき後ろから、あのお婆さんの声がした。
「今は戻って。あとで呼ぶから」
私はそれだけ隆浩に言うと、押し上げていた戸を下した。
「カウシアゲシャシェテン。ヤヤ!」
誰かを呼んでる。戸の外に何人もの足音がして、一方の壁の上半分が一斉に上に上げられた。上げた所で、金具で固定するんだったんだ。部屋の中は明るくなった。今度は窓のように開いたところに、内側から若い尼さんたちが一斉に簾を下す。そんなところから、やっぱここは京都なんだなという気がする。
昨日は暗くてよく分からなかったけど、自分が寝ていたところは個室じゃなくって、大広間の一角をいくつかのカーテンみたいな布が下がったパーテーションで仕切られていただけの部屋だったんだ。
目の前にはあの年とった尼さんが立って、私を見つめている。そしてニッコリ笑うのだ。人のいい、優しそうなお婆さんだと感じられた。こんな状況じゃなかったら、思わず親近感さえ感じてしまいそう。白髪頭のおかっぱというのも、お年よりにしてはかえってナウいんじゃない?
「ウィシャシェタマフェ」
お婆さんが座るから、私だけ突っ立っているわけにも行かず、ゆっくりと板張りの上に座った。
「シャテコソ、イカナルオンカタニテオファシマシファベルヤ。ケフコソファモノノタマフェ。ナドカクファモダシタマフェル」
ゆっくり喋ってはくれているんだけど、やっぱり分からない。だから私は、黙っているしかない。
「ツレナウモ、ナモダシタマフィソ。コモ、ミフォトケノオンミチビキトコソオボユレバ、シャルベキチギリヲ、ナカナカナルコトニシェザランフォドニ、ファヤ」
何かしきりに、私に聞いているみたい。でも、何て答えたらいいの? 人のよさそうな顔に困ったような表情が浮かぶから気の毒にもなってくるけど、困っているのはこっちだって同じよ。
「ワレファ、コノテラヲアドゥカレルミニテコソファベレ」
「すみません。言葉が分からないんですけど」
今度はまたびっくりした顔で、おばあさんは私を見る。
「私の言っていること、分かりますか?」
ますますお婆さん、首をかしげる。標準語も通じないんだ。京都がいくら古い都だからって、こんな人たちがまだいるなんて信じらんない。山代さんが言っていた本当の伝統的な京都弁って、これ? それにしても、山代さんの関西弁と違いすぎる。それに、テレビで見た舞妓さんだって、こんな言葉はしゃべっていなかった。とにかく、早くここを出るのがいちばんみたい。
でも、それよりももっと差し迫った、重大な問題が私には起こっていた。通じないだろうけれど一か八か……。
「あのう、お手洗い」
やっぱ、通じない。
「トイレ。便所」
いろいろ言ってみたけど、やはりだめ。しかたないから、おなかをボンボン叩いて、足ぶみしてみせた。そしたら、やっと分かってもらえたみたい。でも、トイレに連れて行ってくれるのかと思ったら、お婆さんはパーテーションの向こうに、
「シノファコ、マウィレ!」
と、叫んだだけ。するとすぐに若い尼さんが、博物館にでもありそうな奇麗なふたつきの、重箱のようなものを持って来た。お婆さんは、入れかわりに出ていった。
「ツカウマツラメ」
――使うのを持っている――なんて言ってるのかなあ。そう思っていると尼さん、人の肩を押して座らせようとして、そして袴の脇からふたを取った箱をお尻の方に入れようとする。
「ちょっと何すんのよ! やめてよ! 自分でできるよ! 子供の検便じゃあるまいし!」
あんまりイライラしてたので思わずものすごい剣幕で怒鳴ると、尼さんはびっくりして箱だけ置いて行ってしまった。でも、もう限界。この箱って、携帯トイレ? つまり、おまるってこと? だってさっき、これにしろって感じだったもの。この家って、トイレもないの? とにかくどうでもいい。もはや一刻の猶予もならぬ!
だけど、袴が脱げない。どう脱いだらいいのか分からない。とくかくやたらめったら足踏みしながら紐をひっぱってたら、やっと脱げた。こんな部屋の真ん中でとも思うし、誰かにのぞかれてたらって気にもなるけど、でももう恥も外聞も言ってられない。思いきり箱を使わせてもらった。
終わった。あっ! 紙がない! ところがすぐにパーテーションの後ろから、さっきの尼さんが入って来る。慌てて私、パンツをあげる。すると尼さん、箱にふたをして、どこかに持っていこうとするじゃない。ただただ、アゼン! それより、パンツ汚れる。汚なーい! 気持ち悪ーい。
すると別の若い尼さんが、今度はお膳にのったお椀を持って来た。朝食を出してくれるみたい。でも、トイレしたまま、手洗ってないんだけど……。とは言っても、お腹すいてる。背に腹はかえられない。だけど、なんとお粥。それにお椀も、これ、なんていうのほら、ジョーモン式土器っていうか、あるいはよく観光地で名前とか絵とか書かせてくれる素焼きのお椀じゃない。それにお箸もどう考えたって、そのへんの木の小枝を二本拾って来たとしか思えないやつ。
ま、とにかく、いいにして食べることにした。ここは一応お寺のようだからと思って手を合わせると、尼さんはそれが気に入ったみたいでニコニコ笑った。
食べ終わったところで、またあのお婆さんの尼さんが来る前に、とにかく逃げ出さなきゃいけない。袴と昨日着ていた十二単は置いていこう。あとでお母さんに叱られるかもしれないけど、事情を話せばわかってくれると思う。それよりも今は、一刻も早くお母さんのところへ帰る方が先決。
「隆浩!」
そのへんにあった適当な草履をはいて、私は庭に出て呼んだ。隆浩はすぐに来た。
「逃げよう!」
「え? なんで? 何かあったのか?」
「いいから、早く!」
白い着物だけで、私は一目散に駆けた。考えてみればかつらはつけっばなし。でもとるのも面倒。隆浩も下人姿のままで、頭には変な帽子かぶってる。
しばらく森の中を走って、息が切れた。二人して土の道に座り込む。
「ねえ、朝ご飯、食べた?」
「ああ、お粥もらったよ」
隆浩も、肩で息をしている。
「それより、なんで逃げなきゃなんないんだよ」
「あそこの人たち、狂ってる。頭が変。言葉も通じないし。気違い寺だよ、あそこ! それに……」
さすがにトイレのことは、隆浩には言えなかった。
「そうか。俺も変だなって思ってたんだよ。それよりここ、東山ホールからそう遠くはないぜ。ほら、あの山」
隆浩が指さした山は、たしかに東山ホールの入り口から見えていた山だ。と、すると、おととい山代さんと車で登った山……
「東山ホール探そうぜ」
隆浩に言われてもまだ呼吸が整わずにいた私は、なかなか立ち上がれなかった。隆浩は私の手をひいて、立ち上がらせようとする。いつもなら「さわんないでよ!」とか言ってその手を払いのけるところだけど、今日は不思議と自分から手を出している。あ、トイレして洗ってない手……まっ、いっか。
でも、どこ探しても東山ホールどころか、舗装している道や民家すら見当たらない。おかしいなあと思うけど、どこまで行っても森。
だんだん心細くなってきた。お母さん、心配してるだろうなあ。お母さん……
とうとう私、泣き出して座りこんでしまった。隆浩が困ってる。それは分かるんだけど……。
「バカ、泣くなよ。山に登ってみようぜ。俺たちがだいたいどのへんにいるか、分かるじゃないか。京都にいることは、間違いないんだから」
泣きながら、私はうなずいていた。
だけど実際山に登るとなったら、私の方がお手のもの。生物部の植物群生調査や昆虫の生態調査で、山登りは慣れているから。着物で登るのはつらかったけど、裾をまくり上げて帯にはさんで、汗を袖でふいて登る。隆浩はゼイゼイ言いながら、ずいぶん私より遅れていた。あの格好じゃたいへんだ。ほらまた袖を、木の枝にひっかけた。
なんか、おとといと違う。ずいぶん自然があるじゃない。おとといはちょこっと森に入っただけだったけど、もっと下まで降りたらこんなに自然があったのだから、期待はずれだなんて思わなくてすんだんだ。そう思っていると、やっと頂上。そしてふりかえってみる。思った通り、木の間から京都の町が一望……いちぼ……い……。おととい見た京都の町じゃあない!
同じなのは、町を囲む山のかたちだけ。これだけは間違いなく、前に見た景色と同じ。
そして川が、右の方から流れてくるのも同じ。でも違う! 広い河川敷を、流れが分かれてくねっている川になってる。川の手前は右の方にだけ大きなお寺や塔がたくさんあるだけで、あとは原っぱ。川の向こうにも、ビルなんかない。昨日はほとんど見えなかった道が、はっきりと見える。きれいに縦横になってる。向こうの山からまっすぐな道が、放射状にこちらに広がって見えるけど、そう見えるだけで本当は等間隔のまっすぐな道なんだろう。御所の四角い森はなく、山代さんが二条城だって言っていたあたりにもっと何倍もの大きな四角い部分があって、その中には大きな屋根がいくつも並んでいるのも見えた。かなり広い道もあるのに、とにかく車が一台も走っていない。
「ウソ!」
私がつぶやいていると、やっと隆浩が登ってきた。隆浩もその景色を見て、ただ目を点にして立ちすくんでいるだけだった。
「こ、こ、こ、これ」
隆浩の声も、震えてる。
「これ、へ、平安京だ!」
「え?」
「日本史の教科書に載ってた、平安京だ」
「平安京って、あの、昔の京都?」
「俺、おととい、京都の町を見てた時、今の京都の町はずいぶん昔の平安京とは違うんだなあって思ってたんだよ。だけどこれ、教科書どおりの平安京だよ」
隆浩の声は、まだ震えていた。
「あれが大内裏だよ。そんでそこから出て横たわってる、並木のある広い道が朱雀大路。右の方のこっち側から向こうの山まで、縦に大内裏の左側を通ってのびている大きな道が二条大路」
指さすその手さえ、震えていた。たしかにおとといは、その二つの道とも見えなかった。道と道との間は細かい家で埋められているけど、ここから見て右の方には大きな屋根もたくさん見えた。そしてさらに右に目をやると、ある縦の一直線を堺に緑地が山まで続くだけで、建物は全くなくなる。
川よりこっち側には大きなお寺の屋根がたくさんあって、やたら目立ってるちょーでっかい塔もある。八角形で、しかも五重や七重じゃあなくって九重くらいはある。それに屋根は全部茶色。去年行った中国にはたしかにこんなのがあったけど、日本で見るのは初めて。でも……、きのう見た京都の景色には、絶対になかった。もしあったら、こんなでかい塔が印象に残ってないわけがない。
「でも隆浩。平安京だなんていったって、あの塔、新しそうだよ」
「バカだな。だからこそ昔なんだよ。平安京なんだよ」
「え、ちょっと隆浩。それ、どういうこと? 何が言いたいの?」
それには答えずに隆浩は、マジな顔で景色を見ていた。それからあたりを見回しはじめた。
「おい、あれ!」
急に彼は駆け出す。
「ちょっと来てみろ!」
「なあに?」
私もそこへ行ってみる。塚があった。
「この間見た将軍塚だ、これ」
囲いの柵も立て札もないけれど、隆浩に言われればたしかに、前に見たのと同じ塚のような気もする。塚の土台の石垣に、見覚えがあるといえばある。でもまわりを見ても、あの時あったお寺の小さなお堂も芝生の広場も、鉄骨の展望台も今日はない。今はただ草がぼうぼうと繁る中に、ぽつんと塚はある。
「おい、なんか聞こえるぞ!」
「え、もしかして地鳴り?」
塚の下から聞こえてくるのは、ゴーッという音。
「車の音かなあ?」
もしほんとうにそうだったら、どんなに救われるか。
「んなわけねえだろ! 地震か?」
でも揺れは、まったく感じない。隆浩も顔もこわばらせていた。そしてその顔をゆっくり上げて、マジな目つきで私を見た。
「おい、ミッコ。あの尼さんたちが、気が狂ってるんじゃねえよ。俺たちが狂っちまったんだよ」
「もう狂ってるよ、とっくに。十分、気が変になってる。」
「そういうことじゃねえよ。いいか、俺たちがここにいるってこと、それ自体が狂ってるんだよ」
「どういうことよォ!」
「俺たち……」
隆浩は、一瞬目を伏せた。
「タイムスリップしたんだよ」
「ばかあ! ふざけないでよ! こんな時に!」
「ふざけてなんかねえよ! じゃあ、この景色を、どう説明すんだよ!」
確かに、何も反論できない。私は思わず、その場に座り込んだ。
「も、ちょーヤダ、もう! どうしてこういうことになるかなあ! もう、ムカツク!」
「ムカついてたって、しょうがねえだろ。とにかく、あのお寺に帰ろう」
「帰ってどうすんのさ!」
「落ち着けるところは、あそこしかねえんだからよ。とにかく一度帰って、それから考えようぜ」
こうなったら、隆浩の言うことを聞くしかない。もと来た道をしかたなく降りはじめる。その時……目の前を、一匹の蝶が飛んだ。
「ちょっと待って! これ、オオムラサキ!」
「え?」
「めったに見られない、日本の国蝶!」
私は登る時は必死だったので、気にする余裕もあまりなかったけど、とにかくここって自然の宝庫!
「ちょっと、待って待って!」
私はひとりで、森の中に入っていく。
「あーっ! アカタテハの幼虫! 間違いない! 図鑑にあったとおり。本物見るの、はじめて!」
そこで足元の、草むらもかきわけてみた。
「えっ! これ、ギフチョウの幼虫じゃない! ウソみたい! 信じらんない!」
「おい、おめえなあ」
隆浩はあきれ顔で、そんな私を立って見てた。
「あそこ飛んでるの、アオスジアゲハ。すごい! やっぱここ、少なくとも現代の京都じゃないよ!」
「あのなあ、こんな時に、なに急に生き生きしてんだよ。早く行こうぜ」
「分かった、分かった」
それでも私の胸は、ときめいていた。こんな非常事態だっていうのに……。生物部の部長としての血が騒ぐ。今度は隆浩が、どんどんと先に降りて行った。
お寺が近くなるにつれて、やっぱどうしようと思ってしまう。この異常な状況……。蝶の幼虫の宝庫の山があるってことはうれしいけど、せめてこんな異常な状況でない時にだったら……。
だからいざお寺の門を入る時は、ちょードキドキした。まくり上げていた裾も、もとに戻す。
「あな、いみじや!」
私たちを見つけた尼さんが、大声を出した。すぐにあの、お婆さんの尼さんが出て来た。
「いと、ゆゆしきこと! やんごとなきフィメの、うたて、かやうなる、あさましきおんかたちにて……。とく、いらしぇたまふぇ。ファカマなんども!」
私の姿を見て、目を覆ってあわてふためいているみたい。白い着物ってそんなにはしたない姿なのかなあ。
そうだ。隆浩が言っていたことが本当なら、この人たちは現代人じゃあないってことになる。その人たちの前で現代の常識を押し通そうとしたら、今度はこっちが狂人扱いされてしまう。でもまた、本当にそうなのかなあって、心の中では半信半疑だけど。
私は上がると、たちまち二、三人の若い尼さんが、私に袴をはかせようとする。ちょうどきのうのショーの前の着付けの要領で、私はするようにさせた。袴をはき、薄黒い着物をその上に羽織って座った。
「隆浩、来て!」
私が呼んだので隆浩が縁側から上がろうとすると、若い尼さんたちが慌ててそれをとめた。
「こふぁあまでらぞ。いかにおんともなれど、ゲラウのあがるべきものかふぁ!」
隆浩ったら下人の格好なんかしてるから、上げてもらえないみたい。そうだ、実験! 隆浩が言っていたことがほんとうかどうか、とにかく実験!
「苦しうない!」
思いきって私は、叫んでみた。時代劇のお姫様言葉を、しかも山代さんのような関西弁のアクセントで。
すると若い尼さんたち、一斉に隆浩をとめるのをやめて、私の方に向かって平伏したじゃない。通じたんだ! はじめて通じたんだ! でも、でもってことは……!?
隆浩は堂々と上がってきて、私の隣に座った。お婆さんの尼さんとは、向かい合って座るかたちだ。お婆さん、いくぶん顔が強ばっている。
「などてらより、いでたまふぃたるや。いどぅかたにか、おふぁさんとすらん。かく、らうがふぁしきいまのよなれば、やまのなかなんどふぁ、いみじきもののここらこもりうぉりたるに、いとあやふきことにてなん。とらふぁれもこそすれ」
何だか説教されてるみたい。その時隆浩が、前かがみに手をついて話しはじめた。
「拙者ども、東の方より流れ来たる者にて、仔細分からずこの地に倒れる者にてござる。願わくは、ここがいずこかお教え願いたい」
立派な時代劇言葉。こいつ、時代劇よく見てたな。ところが……。
さっきの私のは通じだけど、隆浩が言うのはぜんぜん通じていないみたい。お婆さん、また首をかしげてる。でも、私は知りたい。ここはどこ? そしてほんとうにここは昔? だったら、何時代?
ふと私は思い出した。言葉が通じなかった時の記憶。去年、中国の上海に行った時、言葉が通じなくても紙に漢字を書いたら通じたっけ。
「あのう、紙と筆」
また関西弁のアクセントで言って、手でものを書くまねをしたら、硯と筆はすぐに来た。
「かみふぁ、いまふぁ」
そう言って若い尼さんが、扇をくれた。開けば白いだけの扇。ここに書けってか。
とにかく筆談してみようと、お正月の年賀状を書く時くらいしか使わない筆、しかも筆ペンではない本物の毛筆に、私は墨をつけた。こんなの、中学校の書道の時間以来だよ。
「ここはどこか」
うまく書けない。ああ、こんな時に、書道四段のナギがいたらなあ。お婆さんは難しい顔をして、扇をのぞきこんでる。
「ここ、ここ」
私はそう言いながら、この場所を指さした。
「ここかや」
あ、またもや通じたみたい。
「ミヤコの、ふぃんがしやまにてなん」
「ミヤコ?」
「げに」
ミヤコ……もしかして、都? 京都を都というのは、やはり……。
「京都」
私はそう書いてみた。そのとたんに、居合わせた若い尼さんたちが目をむいた。
「まなかきたまふや。ざえふぁべるおんかたにて、おふぁしますかな」
この人たちがなんて言ってるかは分からないけど、とにかくもう一度「京都」という文字を指さしてから、この場所を示してみる。そうしたら、お婆さんはゆっくりとうなずいた。今度は私、自分と隆浩を指さしてから、「東京」と書いてみた。
「ちょっと貸せ」
隆浩が扇と筆を奪う。
「我等自東京来」
さすが漢文が入試に必要な隆浩。でも、尼さんたち、首かしげてるよ。
「ふぃんがしのきゃうとや」
「にしのきゃうこそしりたまふれ、ふぃんがしのきゃうとは、いかにやいかに」
「ふぃんがしやまなれば、このちにてなん」
尼さんたち、口々に言い合っている。
隆浩は今度は「東京」を消して、「江戸」と書き直して尼さんたちに見せた。ますます尼さんたちは、首をかしげる。そこでその次に彼が書いたのは、「武蔵」という字だった。
「あなや、武蔵より、おふぁしましぬるにや。いととふぉきみちを、ともふぃとりばかりうぃて、ものしたまふぇるか。ずりゃうなんどのおんむすめにて、おふぁしまするや。などのぼりおふぁしぇたる。うでぃふぁなぞ。おんちちふぁたれぞ」
私に向かってお婆さんは、しきりに何か聞いてるみたいだけど、とにかく答えようがない。
「都のうちに、しるふぃとのふぁべるか。ゆんべふぁ、など、も・からぎぬまうぃりて、ふぃしぇたまふぃにし」
分からない、分からない、分からない! だんだんイライラしてきた。通訳がほしい。ああ、タイムスリップなんてSF映画や小説の中の空想の出来事だとおもっていたら、現実にあるんだ! だったら、もっと古文、まじめに勉強しておけばよかった。でもこの人たちの言葉、学校のテキストにあった古文とは、ぜんぜん違う。発音が違うし、だいいちアクセントが違う。英語なら英会話やヒヤリングやあるけど、古文には古会話やヒヤリングなんてなかったから、たとえ一所懸命勉強してたとしても、この状況じゃあ……。だいいち、受験科目に古文がある隆浩でさえ、たじたじになってるじゃない。
「もう、やだあ!」
とうとう私、泣き出した。今度は、尼さんたちは慌ててる。
「なないたまふぃそ。くぇさうもぞくどぅるる。ちちのおんなだに、えおぼしいでざらんふぁ、もののくぇなんぞのわざにてこそ。すふぁふなんども、とくしぇしゃしぇたてまつりなんとおもうたまふるふぉどに、こころときてここにおふぁしぇ」
私の肩に手をおいて、優しく諭すようにお婆さんは言ってくれる。そのあとすぐに、尼さんたちはみんないなくなった。
「いい人たちなんだな」
と、隆浩がつぶやいた。私は黙ってうなずいた。
「マジに心配してくれてるぜ。きっと、ここに住めって、そう言ってくれたんだと思うよ」
「そうする?」
私はまだ、涙がひかない。
「私、家に帰りたい。お母さん……」
「もう泣くなよ。俺だって泣きてえんだよ。今はここにいるしかねえだろ。間違ってこの世界に来ちまったんなら、間違って帰れるってこともきっとあるよ。運命を信じようぜ」
「格好つけたことばっかし、言わないでよ!」
「ここでおめえとけんかしたって、しょうがねえだろ。とにかくまず、溶け込んじまうことだ。とにかく、言葉覚えようぜ。俺、思ったんだけどよ、さっきの人たち、歴史的仮名づかいのままに喋ってたぜ」
「何、それ?」
「古文の時間に、習っただろ」
「そんなもん、習ったっけ?」
「これだからもう、理系はなあ」
隆浩は少し、あきれた顔をした。やっと私、クスッて笑える余裕が出て来た。
「いいか、古文の文章って、書いてあるとおりに読まねえだろ。でもここの人たちは古文の文章の、書いてあるとおりに発音してたぜ。しかもハヒフヘホはファフィフフェフォって喋ってた」
「よくそんなこと分かったね」
「じっと聞いてたんだよ。とにかく言葉を覚えて、それからいつの時代かってことも調べなきゃな。江戸を知らねえんだから、室町時代より前だな」
「室町時代って、いつ? 鎌倉時代の前?」
「話になんねえ」
「そんな、鼻で笑わなくったっていいでしょう! もう、ムカつく。私だってマジなんだからね!」
すると急に、隆浩は立ち上がった。
「どこ、行くの?」
「ここではおめえは貴族のお姫様、俺はお付きの下人ってことになってるらしいからな。下人がいつまでもお姫様のそばにいちゃ、へんに思われるだろ。小屋に帰ってるから」
「え、ひとりにしないで」
「呼んだら、すぐ来てやっからよ」
そう言って、隆浩は行ってしまった。
その日は一日じゅう、私はボーッとしてた。食事は朝のお粥以来、そろそろお昼だというのに出てきそうもない。おなかへった。そしてまたトイレ。我慢に我慢は重ねるけど、いつまでも我慢できるものじゃない。あまりうろうろ歩きまわると、なんだかとがめられているような若い尼さんたちの視線がとんでくるし、トイレも探しようがない。やっぱトイレなんてないのかも。部屋の隅には、例の箱が置いてある。みんなこんな箱にしてるのかなあ。それとも適当に森の中に入って? ――おそらく隆浩なんかは、そうしているんだろうけど――こんな箱が、貴族のお姫様用なの? とにかく限界になったら、これを使うしかない。でも、使った後、ふけない。手も洗えない――もう、イヤ! だいいち部屋の中なんかに置いておいたら、臭いじゃない。でもすぐに若い尼さんが、使ったという気配を感じてか、どこかに持って行って処理してきてくれるけど、やっぱいやだよ。たとえ同じ女性だとしても、自分の排泄物を他人に見られるなんて……。これも貴族のお姫様の宿命? ま、すべては慣れかも、だって去年中国に行った時、あの公園の個室ではなく仕切りさえない公衆便所にはまいったけど、慣れたものね。
とにかく紙がないからふけない。さすがに「大」の時は、木のへらのようなものをくれたけど、これでふけってか? それより、パンツが気持ち悪い! パンツかえたい! たぶんかなり汚れてるだろうな。
思い切って私、パンツ脱いじゃった。やっぱ汚い! 捨てるしかないと思って、縁側に出て縁の下に放りこんだ。それからしばらくしゃがんで庭を見てたら、若い尼さんがひとり、近づいてきた。
「やんごとなきフィメギミの、かくふぁしちかに、いでたまふべきものかふぁ」
また何か意見してるみたい。そのまま私の背を軽く押して、部屋の中に戻そうとする。縁側にさえ出ちゃいけないの? お姫様って、思ったより窮屈なんだ。
とにかく、何もすることがない。今のうちに頭の中を整理しておかないと……。このままだと頭がこんがらがって、気が狂いそう。時間が分からないっていうのも、イライラする原因のひとつ。ショーの前に、時計ははずさせられたから。そうこうしているうちに、あれほどおなかがへっていたのも通り越した頃になって、やっと食事が来た。だいぶ日も傾いているようだけど、まだ明るい。昼ご飯? それとも夕食? もし夕食だとしたら、まるで病院の夕食じゃない。こんなに早く。しかも昼はぬかれたことになる。
「あまでらなれば、こふぁいふぃふぁあらざるに、ゆるしゃしぇたまふぇ」
持ってきた若い尼さん、また何か言ってるけど、けっこうまともなご飯とおかずじゃない。食器は相変わらずだけど、おかずは納豆のような豆、焼き魚とお吸い物、あとはお漬物が少し。お寺なんだから、お肉がないのはしかたないかも。でもご飯はちょっと臭いけど、食べられないことはない。それにしても仏壇のお供えじゃあるまいし、なんで山盛りについでくるのさ――と、思ったけど、お寺なんだからかなと納得。でも丸く山盛りならまだしも、円筒形に山盛りで上を平らに盛るなんて……。おかずに味はほとんどない。でも、小皿に塩と酢と、あと何だかよく分からないけど味噌のような調味料が盛られてて、匙までついている。これで自分で味付けしろっていうみたい。
食べ終わった頃に、ようやく西日がさしてきた。今日は月曜日。ほんとうならきのうの夜には東京に帰って、今日は学校に行っているはず。みんな、パニックになっているだろうなあ。私が行方不明ってことで、お母さん、心配してるよねえ。そう考えたら、また悲しくなってしまった。
「ナギ……、ルンちゃん……、チーちゃん……、カヨちゃん……」
友達の名前を、ひとりひとり呼んでいるうちに、涙が出てきた。
夜になっても、電気もない。水道もない。明かりといえば、小さなお皿の油にひたした芯に、火がともってるだけ。
すでに下ろされた窓を押し上げて、私は暗闇に向かって隆浩を呼んだ。別に用はなかったけど、ただ淋しかったから。
「すげえ、すげえ」
と言って、隆浩は庭の方に来た。
「何がすごいのさ」
「来てみろよ」
尼さんたちも寝静まっているようなので、私は窓を下ろして、足元を立てないようにして縁側に出た。
「おい、こっち来てみろよ」
真っ暗で草履をさがすのも面倒だったから、長袴のまま降りて、声だけを頼りに隆浩のそばに行った。
「空」
「え?」
「空、見てみろ」
言われるとおり、見上げてみる。
「うわっ!」
私は思わず、声を上げていた。まるでプラネタリウム! こんな空一面に星があるなんて。しかも、はっきりと天の川が見える。前に合宿で信州に行った時、ぼんやりとなら見たことがあったけど、こんなにはっきりと天の川を見るのは初めて。
「あれ、見てみろよ」
暗闇にもだいぶ目が慣れた。それでも隆浩の顔も見えないくらいに真っ暗。だけど隆浩が、山の上の方を指さしたみたいなので見てると、尾を長くひいた慧星があった。これこそ生まれて初めて見る。
「あれ、何て慧星?」
「さあ、もしかして何々慧星って名前がつく前に、俺たちはあの慧星を見てるのかもしんねえぜ」
「じゃあ、コジマ慧星だ。と、思ったけど、そういう慧星ってもうあったような気もするから、ミッコ慧星にしよう」
「勝手に言ってろよ」
暗闇の中から、隆浩の笑い声だけが聞こえて来た。
そのまま、十日ほどがたった。環境順応能力は隆浩だけでなく、私にも十分に備わっていたみたい。生活にもだいぶ慣れてきた。なんと尼さんたちの言葉が少しずつだけど、私にも分かるようになってきたのだ。べつに勉強したわけじゃない。それなのに言っていることの十分の三、いや、二かな――くらいは分かるようになった。いわゆる、勘ってやつ。語学は習うより慣れろっていうよね。十年日本で英会話を勉強するより、一ヶ月アメリカへ行った方が上達は早いともいうし。でも、語学は反復練習というのはウソね。要は勘なのだ。勘と度胸なのだ。
慣れたといっても、やっぱ私は現代人。夜になったら毎晩のように、悲しくなってしまう。現代に帰りたい! 家に帰りたい! テレビが見たい! お父さんとお母さんに会いたい! 友達にも会いたい……どうして私だけ、こんな目に会わなければならないの! 私がなに悪いことしたっていうの! そんなことを考えて、思わず膝をかかえて泣いてしまったこともあった。
そしてもうひとつ――お風呂に入りたい――頭がかゆい。頭洗いたい。十日もお風呂に入っていないんだから、もう限界。髪の毛も臭いんじゃないかなと思う。だけど部屋には、いつもお香がたかれてる。私の着物にも、私が寝ている間に香がたきこめられていて、それが香水のように香って臭いをごまかしてるのが現状。
トイレがないんだから、お風呂なんて期待する方が悪いのかもしれないけど、ここの人たちは一生お風呂に入らないのかななんて心配してしまう――不潔! これじゃあ、長生きしないよ!
でもそんな私の現代への思いを、ちょっとでも忘れさせてくれる楽しみも、ここにはあった。現代には、特に都会にはない大自然があるってこと。今までは願ってもかなえられなかった思いが、ここではかなえられる。尼さんたちに小さな籠をたくさんもらって、その中に蝶の幼虫を入れて飼うんだ。山に行かなくたって、庭の木々に十分幼虫はいる。私は庭にさえ出られないのだから隆浩に集めさせると、最初はいやがってたけれど、私の「男でしょ!」のひとことで、彼も協力するようになった。理系オンチの隆浩のこと、蝶の幼虫も蛾の幼虫も区別がつかずに持ってくるから、まずは分類が最初の仕事。私にとっては、そんなのお手のものさ。
幼虫を素手で持っているのを見て、若い尼さんなんかは悲鳴をあげていた。
「など騒ぐ?」
私も少しは、言葉を覚えたのだ。
「などとのたまふも、それこそ、など、かふぁ虫なんど……」
どうして毛虫なんかをってか。
「これ、もと。蝶のもと」
「チョー?」
あ、「ちょう」じゃ通じないんだ。そうそう、なんとかって書いてちょうって読むんだったなあ。エット、なんだっけ……? そう、テフだ、テフ
「これ、テフテフのもと。これ、テフテフになる」
「げにさこそふぁあれども、蝶愛どぅることこそつねのことなれ、かく、虫めどぅるふぁいかに」
つべこべ言うんじゃないよ! これがなかったらこんな世界で、気が狂わないで私が生きていかれるはずがないじゃないさ!
「もとを知る。大事なり。テフテフになるところを見る、大事なり」
私はそう言ったけど、尼さんはいやそうな顔をしてあとずさりしていった。
とにかくやっとこれで、夢が実現するんだ。現代では採集するのさえ難しいギフチョウやジャノメチョウの幼虫の、羽化が観察できるんだから。それに私の研究テーマのアカタテハの幼虫もしっかりと籠の中にいるし、なんと隆浩ったらオオムラサキの幼虫までつかまえてきてくれた。山崎先生なんか、腰ぬかすだろうなあ。ただ、どうしても何の幼虫か分からないのもいる。私の勉強不足かもしれないけど、もしかしたら現代では絶滅した種かも。もしそうだったらノーベル賞ものじゃない! どんな蝶に、あるいは蛾かもしれないけど、変身するか観察のしがいがあるってもの。
ある日このお寺でいちばん偉い、あのお婆さんの尼さんも様子を見に来た。若い尼さんをひとり連れてる。その若い尼さんが、お婆さんになんか話し掛けた。
「なふぉ、もののわざにてやふぁべらん」
お婆さんは、静かに首を横にふっていた。
「ふぁちかふも、虫めどぅるも、おなじきことにてなん」
私を見てのお互いの会話。意味はまだよく分からないけれど、なぜかそのひとことが私の心の中に残った。
そしてその翌日だ。一日二回だけの食事のうち、最初の食事のお粥――朝と昼の間のあひるご飯を食べ終わった頃、山の中からすごい声が聞こえてきた。男の声だ。何と言っているのかはよく分からない。ただ大声で唄うように延々と続き、しかもそれはだんだん近づいてくる。
「だいーなうーごんどのー、わたらしぇーたまふー」
何だかそう言ってるみたい。それが繰り返される。お寺の尼さんたちは、とたんにあたふたと何かの準備をしてるみたいで、歩きまわりはじめた。
いったい何がはじまるのだろうと思って簾の中から外を見ていると、お寺の門の方に行列が近づいてきた。ちょうど今の隆浩と同じような格好をしたたくさんの人たちや、馬に乗った人、そして牛がひく御所車っていうの、そんなのがゆっくりとお寺の門の中に入って来たのだ。
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