几帳布筋(のすじ)

六条御息所の年齢について

古典「源氏物語」には、有名な六条御息所の年齢の矛盾がある。六条御息所の年齢は「賢木」の巻に「十六にてこ(故)宮にまゐり給ひて、廿にておくれ奉り給ふ。三十にてぞ、けふ又こゝのへをみ給ひける」と、はっきりと書かれている(現代語訳:御息所は十六歳で亡き前皇太子の元に輿入れなさって、二十歳で夫君に先立たれなさる。三十歳で、今日再び宮中をご覧になった)。つまり、娘が斎王に卜定されたこの「賢木」の巻きの時点で御息所は30歳であり、光源氏は23歳で、御息所は光源氏より七歳年上ということになる。ところが「桐壺」の巻には、次のようなくだりがある。「月日へて、わかみや参り給ひぬ。(中略)あくるとしの春、坊さだまり給ふにも(中略)みこむつになり給ふとしなれば〜(現代語訳:月日がたって、若宮は宮中に参上なさった。(中略)翌年の春、皇太子がお決まりになった時も、(中略)御子は六歳におなりになる年であったので)」。これによると、光源氏が六歳のときに後の朱雀院は皇太子となっているのである。
  ここで問題になるのは、御息所が二十歳の時にその夫である前坊が死んだというが、その時七歳年下の光源氏は十三歳であるが、光源氏が六歳の時に朱雀院が立太子してから光源氏が十三歳になるまでの六年の間、朱雀院が皇太子でありながら前坊は在世していることになるところにある。これは大きな矛盾である。前坊の「坊」とは「皇太子」の意味で、「前坊」となると「皇太子でありながら即位することなく亡くなった人」ということになる。ところが朱雀院が立太子してからその前坊が死ぬまでの六年間、二人の皇太子が並び立っていたのかということになるが、そんな馬鹿な話はない。では前坊は一度皇太子になったのに、その皇太子を朱雀院に譲ってから六年間生きたのだろうか。そうなるとそれは「廃太子」となって、歴史的にも大事件となり、例もそう多くはない。もっと仰々しくその事実が書かれるはずである。その関係を図示すると、次のようになる。

  御息所年齢 光源氏年齢 朱雀院年齢
御息所入内 16歳 9歳 10歳以上
前坊卒 20歳 13歳 14歳以上
御息所伊勢へ 30歳 23歳 24歳以上

この矛盾を解決しようとして、先学たちはさまざまな説を打ち立てた。多屋頼俊氏の『源氏物語の思想』では、「前坊は生存していたが、何らかの事情で東宮を辞し、即位しなかったのだ」という説を取る。藤村潔氏の『源氏物語の構造 第二』では、『御息所の年齢は十歳誤記されている』と述べられている。また、玉上琢弥氏の『源氏物語評釈』は、「白居易の詩『上陽白髪人』に依拠している」とする。つまり、白居易(白楽天)の『上陽白髪人』という詩の一節に、「玄宗末歳初選入、入時十六今六十」とあり、それを踏まえて御息所の入内を「16歳」とし、再び宮中を見ることになった時を「60歳」ではあまりに極端なのでその半分の「30歳」にしたのだという。さらに坂本昇氏の『源氏物語構想論』に至っては、大胆にも『前坊廃太子説』を打ち出す。
  そもそもこの前坊なる人物は、光源氏の何なのか。本居宣長をはじめとする伝統的な解釈では、前坊は「桐壺帝」の兄弟ということになっている。つまり光源氏の叔父だ。その根拠として、前出の藤本さんは「葵」の巻の桐壺院の光源氏に対する言葉を挙げる。つまり「古みやのいとやんごとなくおぼし、時めかし給ひしものを、かるがるしうおしなべたるさまにもてなすが、いとほしきこと(亡き皇太子がたいへん大切にお思いになり、お愛しなさった方を、軽々しく平凡に扱うのが、気の毒な事だ)」と、前坊の行為に尊敬語を使っているので、恐らく前坊は桐壺帝の兄なのだろうという。しかしこれは、根拠としては非常に軽い。古文の表現には「尊大表現」というものがある。天皇、皇后クラスの人になると、自分が喋るせりふの中で自分の行為に尊敬語を使うことがあるのだ。例えば、「私は食事を召し上がった」というようなニュアンスだ。これは実際に天皇が自分の行為に尊敬語を使ったわけではなく、本来会話の中の敬語は喋り手の敬意を表すものではあるにせよ、筆者の天皇に対する敬意余ってこのような表現になったと考えられる。それならばこの「葵」の巻の桐壺院の言葉も一種の尊大表現と考えられ、そうなると前坊は必ずしも桐壺院の兄ではなく息子であったとしてもいいことになる。
  また、「賢木」の巻には、次のような弘徽殿大后の言葉がある。「みかどと聞ゆれど、むかしよりみな人おもひおとし聞えて、ちじのおとゞも、又なくかしづくひとつむすめを、兄の坊におはするにはたてまつらで、おとうとの源氏にていとききなきが元服のそひぶしにとりわき〜(帝と申し上げても、昔から皆が軽く思い申し上げて、前大臣もこの上なくかわいがっていた一人娘を、兄である皇太子には差し上げないで、弟の源氏で幼い者の元服の添臥にと決めて〜)」。そもそも読者は、「みかど(朱雀帝)=坊」と思い込んでいるし、「兄の坊」「弟の源氏」という図式が頭の中でできあがってしまっている。ところが、光源氏の元服は12歳、上の表ではまだ前坊は在世中なのである。すると、「兄の坊」とは六条御息所の夫の前坊のことになる。
  つまりは、大きな発想の転換が必要だ。源氏物語のどこを読んでも、朱雀帝が光源氏の兄であるなどとは書かれていない。「桐壺」の巻で立太子した光源氏の兄がのちの朱雀帝であるというのは、読者の勝手な想像にすぎない。そこで、私は上の表を修正した私説を打ち立てたい。すなわち、次表のとおりである。

  御息所年齢 光源氏年齢 前坊年齢 朱雀院年齢
御息所入内 16歳 8歳 19歳 未出生
前坊卒 18歳 10歳 21歳 1歳
御息所伊勢へ 31歳 23歳 14歳

要は、前坊と光源氏と朱雀帝は兄弟であり、一番兄が前坊、その次の弟が光源氏、一番下の弟が朱雀院となる(もっとも、ほかにも兄弟はたくさんいた。男は20人、女は8人である)。次の系図をご覧いただきたい。

一般的な源氏系図      拙著『新史・源氏物語』による系図

ちなみに私が想定した実在の「光源氏」の兄の中には、即位せずに亡くなった皇太子が、史実として存在している。また、前坊と朱雀院は母が同じである。すると、20歳過ぎの子供がいる女性が40歳近くになってまた出産したことになり、少し不自然である。しかしこれもまた史実なのだから仕方がない。

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