几帳布筋(のすじ)

『源氏物語』の作者は?

これまでさんざん「源氏物語」の作者は複数いる、本当に紫式部だろうかなどということを書いてきたが、いよいよその作者について考えてみたい。私も高校や予備校で古文を教えてきたとき、「源氏物語」の作者は「紫式部」と生徒たちに覚えさせた。しかし、その時「実は、本当はどうも違うようなんだけどね、そう書かないと入試では落ちるから、今は一応『源氏物語』の作者は『紫式部』と覚えておきなさい」と付け加えた。だが今は、堂々と真実を語りたいと思う。
  まず言えるのは、「源氏物語」の作者はどうも男性らしいということだ。平安中期には男は漢字を使い漢文で文章を書き、ひらがなは女が使うものであったといわれている。だが、果たして本当にこのような厳密な区別があったのだろうか。その疑問に答えるいい例が、「土佐日記」である。「土佐日記」が女を装って書いているが、実は男の紀貫之が書いたものであるというばればれの事実は、いまや入試に古文が必要な受験生なら誰でも知っている(知っていなければいけない)。これは紀貫之が本文の中で激情のあまりちょっとしたへまをやり、それで作者は男だということがばれた例である。一を聞いて十を知るで、そのような事例があるということは他にもあるという証拠に他ならない。たしかに女を装って書いているということはひらがなは女のものというのが一般的ではあったようだが、それでもその当時、男もひらがなを使って文章を書くことが皆無だった訳ではないということが、「土佐日記」の事例から推測できるのである。
  ほかに、「源氏物語」の作者が男であるらしいということについて前出の藤本泉さんは、女流作家、母親作家ならではの推測をしておられる。つまり、作品中の女性の妊娠と出産、乳児の成長過程の描写などについて、女性、少なくとも子を生んだことのある母親なら絶対に間違えるはずのないミスが氾濫しており、それゆえに「源氏物語」の作者は女性ではあり得ないと藤本さんは断言する。
  「源氏物語」の作者が男性であったとして、では誰なのかということになるが、それは「誰々」という個人ではなく複数の人の手が加わって成立したものであるらしいというのが藤本さんの結論だ。それには私も賛成であるし、このことについて詳しくは次章に譲るが、それでも「プレ源氏」となる大本の作品を書いた個人的人物は存在するはずである。後から手を加えた複数の作者が女性であったとしても、この「プレ源氏」の作者は、源氏物語の根底に流れる背景からして男性であるようだ。それはすでに述べたように、源氏は「政治小説」であるという観点からの結論である。当時では中宮や女御クラスは別としても、政治の世界は男の世界だったからである。そして私は、藤本さんの著書にヒントを得て、ある特定の人物にたどり着いた。南北朝時代に書かれた「源氏物語」の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』にもその人物と源氏物語の関係については述べられているが、その人物の名前をここで明かしてしまうと、これから『新史・源氏物語』を読む人にとっては内容の興味が半減してしまうのであえて伏せておく。
  私の結論はその人物が自分の自叙伝を物語りの体裁でわざと女が使う仮名で書き、それに複数の他人の手が加わっておよそ二倍に膨れ上がったのが今われわれが目にしている「源氏物語」であるということだ。その証拠に、後にほんの一例を挙げるが、「源氏物語」には驚くべきほどの史実が盛り込まれている。しかもそれは、藤原道長の時代の史実ではなく、それよりもずっと前の史実である。源氏物語の内容と史実は、見事に合致するのである。それについては章を改める。
  さて、藤本さんは「源氏物語」の根底には「アンチ藤原氏」があり、そのようなものを道長に仕える紫式部が書いて道長が喜んだはずはないという意味のことを述べておられるが、これにはちょっと異論をはさみたい。藤本さんは、当時の藤原氏というものを単一的に捉えすぎているような気がする。ひと言で藤原氏といってもお家事情は複雑で、藤原氏内部でも抗争があったことを見落とした意見だと思う。私は道長がもし本当に源氏物語を読んだとしたら、喜んだと思う。当時、藤原氏と賜姓源氏との間に抗争はなかった。あったのは藤原氏内部の「小野宮」流と「九条」流の対立である。賜姓源氏はそのどちからに(くみ)することによって、一族内の抗争に巻き込まれていったのである。古典「源氏物語」でも、光源氏の舅である左大臣と弘徽殿女御側の右大臣の抗争が描かれ、それに光源氏が巻き込まれる形で描かれている。はっきりと書かれてこそいないが、この左大臣も右大臣もどちらも藤原氏と思われる。
  高校の日本史の時間では、平安期の「藤原氏による他氏排斥」という定義づけで薬子の変から安和の変に至るまでの一連の事件が教えられる。しかしそれらが本当に「他氏排斥」であったのかどうかについて、私ははなはだ疑問に思っている。例えば私の作品「新・伊勢物語」の中でも描いたが、応天門の変は藤原氏による大伴(伴)氏排斥が目的ではなく、あくまで太政大臣良房と右大臣良相の兄弟の抗争の中に、伴氏や橘氏が巻き込まれたというのが真相である。他氏排斥ではなく、藤原氏の内部抗争なのである。このように、「源氏物語」の中に貫かれているのは「アンチ藤原氏」ではなく「アンチ右大臣(古典『源氏物語』の中の右大臣。弘徽殿女御の父)」であり、左大臣(古典『源氏物語』の中の左大臣。頭中将や葵の父)側の人間である道長(どうしてそう言えるのかについては、『新史・源氏物語』を読んでいただくしかない)にとっては、「源氏物語」は歓迎すべき物語であったはずである。
  しかしだからといって、源氏物語の主人公はあくまで賜姓源氏であって藤原氏ではない以上、光源氏は藤原道長をモデルにして書かれたなどということにはならない。道長と光源氏では、その経歴があまりにも違いすぎる。それよりも藤本さんの著書の「光源氏と同じ経歴を持った実在の皇子がいる」という章見出しに、私は魂の震撼を覚えたのである。
  源氏物語では、準太上天皇となった光源氏は最後は没落する。恐らくその没落の様子が書かれたのが「雲隠」で、そこだけは道長に気に入られずに道長によって「焚書」されたといったら言い過ぎか。しかし事実として、道長の家系は一度は没落している。道長の家系に与していた賜姓源氏の光源氏の没落とも無関係ではない。道長の一族が巻き返したのは、道長の父の兼家の代になってからだった。その代わりに、道長の祖父の代に絶頂期にあったその道長に連なる家系を一度は没落させた同じ藤原の、別の家系が今度は没落していった。源氏物語の「宇治十帖」は、道長系統の巻き返し後の物語である。だから、「雲隠」を「焚書」しても、『源氏物語』全体は道長に喜ばれたであろうと思われるのである。

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