几帳布筋(のすじ)

『源氏物語』登場人物のネーミング

源氏物語の主人公はいわずと知れた光源氏であるが、このサイトにアクセスしたくらいの人の中には、まさか「光」という姓で「源氏」という名前だなどと思っている人はいないであろう。しかし、世間一般では、案外このように思っている人も多いようだ。
  ご存知の通り、「光源氏」とはニックネームである。本名となると源氏物語には一斉出てこない。一世の賜姓源氏であるから、姓は当然「(みなもと)」であることは間違いなく、本名は「(みなもとの)〇〇(ナントカ)」といったはずである。しかしその「〇〇」の部分は謎である(と、源氏物語では一応そうなっている)。
  そもそもこの源氏物語には本名で登場する人はいないに等しく、いてもせいぜい惟光(これみつ)、良清くらいだ。その他の人物についてはすべてニックネームか官職名である。そしてそのニックネームがまたくせ者だ。と、いうのは、古典「源氏物語」の中では全くそのようなニックネームでは登場しないのに、後世の読者が勝手にネーミングした登場人物がずいぶんいるからである。まず、ヒロインの紫の上であるが、最初は「対の上」などの呼称で登場する。前半では「紫の上」というネーミングは、一切されていない。この呼称は後半の、しかも彼女が死ぬ直前頃になってようやく文章中に現れる。このあたりも、前半と後半が別の作者の手によるものであることをにおわせることになるが、彼女とてれっきとした「××〇子」という本名があったはずである。また、光源氏の親友でありライバルでもある頭中将が作中で頭中将と呼ばれるのは、若い頃に本当に蔵人頭と近衛中将を兼ねていた時のみであって、後に昇進するに従って呼称は昇進した官職名に変わっていく。古典「源氏物語」では、源氏物語の翻訳物によく見られるように最後まで頭中将であったりはしない。
  ほかに桐壺帝、葵の上、朧月夜、夕顔、夕霧、柏木などはすべて後世の人が勝手につけたネーミングで、古典の本文中では彼らは決してそのような名前で呼ばれることはない。だいたいが主に活躍する巻名から、そのネーミングがなされている。だから、私の『新史・源氏物語』ではその登場人物に、後世の人が勝手につけたネーミングは一切使っていない。呼称は大部分を官職名とし、ニックネームを使う場合も六条御息所、匂宮、薫などのように古典源氏の本文でも使われているものに限った。
  なお、一般に呼ばれているネーミングの人物が、源氏物語の本文ではどのような呼称で出てくるかを一覧表にまとめた。その表はこちらからご覧頂きたい。
  ネーミングの話題ついでに、古典源氏物語の奇妙さの一つに触れておこう。それは登場人物の「速水消え」である。「速水消え」といっても何のことだか分からないと思うが、これは私が考えた言葉である。昔、劇画の『巨人の星』で主人公の星飛雄馬と同期に巨人軍に入団した速水という選手がいた。飛雄馬が巨人に入った頃にはかなり目立っていたキャラクターだったが、それがどうしたということわりもなくいつの間にか消えて、気がついたら全く登場しなくなっていたのである。私は源氏物語の中でも、いつの間にか消えるようにして登場しなくなった人物を「速水消え」と称することにした。例えば、前半ではあれほど目立っていた弘徽殿女御が、後半ではいつの間にか消えていなくなっている。死んだとか、発狂して出奔したとか、拉致されて北〇〇へ連れて行かれたなどという記事は古典源氏物語には一切なく、いつの間にか読者の前から姿を消しているのだ。同じことは朱雀院などについても言える。さらに言えば、惟光は最後はどうなったのか? 犬君は?……と数えればきりがない。ちなみに、また手前味噌であるが、私の『新史・源氏物語』ではこれらの人物も、消える時にはしっかりこの世に「伝聞過去・詠嘆」の助動詞「けり」をつけていなくなっている。

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