第三章 箱館軍の性質
一、北方の系譜
先に、幕府と蝦夷地とのかかわりを、概略的に述べておこう。概略的にと入ったが、実は簡単に見過ごしてはならないもんだもそこにはある。直接にではないにしろ、榎本武揚の意識に微妙にかかわってくるからである。
箱館が一躍時代の脚光を浴びるのは、安政元年(一八五四年)の日米和親条約によってであった。この条約によって下田とともに箱館が開港されることが約され、翌年の三月には実際に開港された。これに伴って幕府は箱館奉行所を設置し、また松前藩にはわずかな領地を残してそれ以外の蝦夷島全土を上知させ、それを天領とした。また、弁天砲台と五稜郭が築かれ、さらに米・英・蘭・露・仏との通商条約、いわゆる安政五カ国条約が結ばれた安政五年(一八五八年)には、箱館はあらためて貿易港として生まれ変わった。
蝦夷地の軍備に関しては松前藩、および奥羽諸藩に警備を命じていた幕府だったが、安政六年(一八五九年)には改めて津軽・南部・仙台・秋田・庄内、会津の六藩に蝦夷地を分割警備させた。すなわち、蝦夷地は天領とはいえ、幕府直属の守備兵はいなかったということになる。また、安政元年に箱館奉行堀利煕らの意見書によって旗本、御家人の二、三男を移住させて、兵農相兼のいわゆる屯田兵制度を実施したが、数は百六十人と高が知れていた。
さて、王政復古の大号令が出されるや新政府も蝦夷地経営に着眼し、慶応四年(一八六八年)四月には箱館奉行所を廃止して箱館裁判所を設置、公家の清水谷公考(きんなる)を総督に命じた。また天領はすべて没収されて、新政府領となった。閏四月には箱館裁判所は箱館府と改名、清水谷は府知事となった。
かつて幕府の箱館奉行所が廃止されて新政府の箱館裁判所に移行する再に引継ぎ業務が行われたが、それはかなりスムーズなものだったし、奉行所の役人の幕臣でも希望者はそのまま箱館裁判所で勤務できた。さらには、箱館奉行配下の戌兵も引き継がれている。その後、新たな徴兵も行われたが、それでも箱館府の兵力は五百にも満たなかった。
前に蝦夷島を防衛していたのが奥羽諸藩の兵であったことは述べた。これらの諸藩のうち秋田藩を除いてすべて奥羽列藩同盟の成員であって新政府に楯突いた者たちだから箱館府の指揮下で蝦夷島の防衛の任に就くはずもなく、よって箱館府は五百未満の兵数の、いわば裸同然の防衛状況であった。幕府が蝦夷防衛の直属の兵を持たず、それを奥羽列藩に任せたことは幕府の北方防衛に対する認識不足からだろうが、結果としてそのことが逆に新政府には災い、榎本たちにとっては幸いとなったのである。そういった実体を、榎本はどうとらえていただろうか。
二、天涯白銀
十月、榎本艦隊旗艦開陽は、遥かに江山を望んだ。ついに北の果てまで来てしまったという万感の思いが、諸人をして欣然奮躍とさせた。
十月といえばもはや真冬、山々は白銀に塗り込められた妖しい光を放っていた。
榎本以外は、蝦夷は初めてというものがほとんどだ。蝦夷では土人が穴居していると思い込んでいた大鳥圭介など、上陸してみると民家があり、主人が仙台袴で出迎えたのに驚く始末。
白銀の山に落葉樹がその裸体を林立させ、カラスが海上を飛び交う風景は異様な感じを諸人に与えていた。ただ、一人榎本だけが再びこの地を訪れたのだという事実を実感していた。彼の脳裏にはこれからこの地で起こるであろうことの結末がどうなるかなどは浮かばず、ただ目的に向かって邁進する気力だけが充ちていた。
その日の午後には、南方に駒ケ岳がその勇姿を見せはじめた。反対の北に目をやると、水平線には薄っすらと陸地が湾曲して延びており、その右端が後の室蘭である。
もはやそこは内浦湾であった。無論、当時は内浦湾も駒ケ岳もその名称はまだない。地名はほとんどアイヌ語で呼ばれていたが、内浦湾に関してはVolcano Bayという英名がすでについており、直訳して火山湾、もしくは噴火湾と呼ばれていた。
北海の大自然、果てしない広野、それらに見守られて艦隊はいくつもの限りない希望を乗せ、Volcano Bayへと突入していく。だがそこは、目指しているはずの箱館よりも少し北になる。箱館はそこから見れば、駒ケ岳の向こうの南側なのだ。
これから始まる戦争の本質の一端が、その榎本たちの上陸地点に表れている。当時の蝦夷地は箱館と松前以外は、いわゆる和人の住む町は存在していなかった。それなのに、榎本は故意に箱館を避けたようである。
先述の通り、箱館にはすでに箱館府があって、新政府の掌中にある。もし艦隊がそんな箱館港に侵入していけば、それはそのまま宣戦布告を意味する。すでに新政府軍のものとなっている弁天砲台も、たちまち火を吹くであろう。そうなると、榎本艦隊も応戦せざるを得なくなり、そこに戦闘がたちまち開始される。榎本はそこまで読んでの迂回航路をとり、そしてそのことは、すぐに武力で箱館を落とそうということは榎本の意図するところではなかったことを如実に物語る。
はたして榎本は駒ケ岳の北方の鷲ノ木浜に上陸する。前日にこの湾に進入した時には姿を見せていた駒ケ岳もその姿は見えず、彼らを出迎えたのは猛吹雪であった。艦より下船した多くのものが生まれて初めて経験する蝦夷地の吹雪に、身を抱えて縮こまっていた。
上陸地点に加えて、武力行使が榎本軍の目的ではないことをさらに裏付けるかのように、上陸後榎本はただちに清水や箱館府知事あてに嘆願書を提出している。だがその使者の人見勝太郎、本田幸七郎は嘆願書を届ける前に官軍に襲撃され、これが箱館戦争の発端となった。榎本の意に反して、戦闘は開始されてしまったのである。
その嘆願書の内容については後に譲るが、ここで榎本が出したのはあくまで「歎願書」であった。「最後通牒」でも「宣戦布告」でもなかったのである。その嘆願書を読むどころか受け取りもせずに先に戦争を仕掛けてきたのは、新政府の側である。榎本は、最終的には戦闘も辞さないという覚悟を腹の中に持ちながらも、先に戦争を仕掛けるつもりはなかったのである。つまり、榎本たちは、戦争をしに蝦夷地まで来たわけではない。これは榎本個人の考えではなく、大鳥圭介など他のメンバーにとっても共通意見であった。ここで戦闘が始まってしまったことは榎本にとって不本意のことであり、また不可抗力でもあった。
榎本らは「仕掛けられた戦い」に勝ち、清水谷府知事を箱館から追い出して五稜郭に入場した。
三、虚しき願い
維新後に回想で書かれた文章には記憶違いや自らなした脚色、新政府への遠慮ということも差し引かねばならないが、この戦争に当たって榎本がたびたびリアルタイムに書いた文章がいくつか残っており、それらこそが当時の榎本の生の声を物語る。
まずはすでに述べた脱走時の「檄文」と「徳川家臣大挙告文」がある。さらに仙台を後にする際の「四条平潟口総督宛て陳情書」、そしてこの時点での「清水谷箱館府知事宛て歎願書」となるが、その後も「奥羽列藩宛て徳川脱藩海陸軍布告書」、「英仏公使宛て仲裁要請書」、「仏公使宛て秘密書簡」、「新政府宛て歎願書」、「箱館在留各国領事宛て全島平定通告書」などが年末に渡って出されている。そしてそれらの内容は、たった一つである。すなわち、「徳川旧家臣の生活を守るために蝦夷地がほしい。旧徳川家臣をして蝦夷地の開拓および北門警護に当たらせたいというのが真意であり、朝廷に対して敵愾心など全くない。しかし、自分の要求が入れられない時は、抗戦もやむを得ない」といったものである。抗戦といっても、再三述べてきたように、相手は朝廷ではなくあくまで薩長だという意識である。
かつて幕閣内でも抗戦派として有名だった榎本のことだから、この清水谷府知事宛ての「歎願書」はその場逃れの、また時間稼ぎの言い逃れなのかというと、そうでもない。榎本の蝦夷地開拓の意図というのが、この場の思い付きの出まかせではない証拠に、前に述べたように既に江戸開城前から榎本は、勝海舟に対して盛んに蝦夷地のことを話題にしていたからだ。蝦夷地の徳川旧臣による開拓は、早くから幕閣内での懸案事項であった。榎本はそれを、実力で実行しようとしただけである。
そもそも榎本が蝦夷地に目をつけたきっかけは、彼が一度来たことがあるということからだった。榎本は安政元年(一八五九年)に、後に箱館奉行となる堀正煕とともに蝦夷地や北蝦夷地(樺太)を巡察した経験を持ち、またオランダ留学により最新の開拓技術を身につけているなどの自信があったからだ。それに、榎本を抗戦派と位置づけはしたがその基準もまた曖昧であり、抗戦派というのがあくまで「徳川幕府の存続を武力で守ろう」と主張する小栗忠順のような人のことであるとするなら、榎本はそれには該当しないのである。しかし、徳川慶喜や勝海舟のような恭順派とも明らかに違う。だがその違いは武力で官軍に抗する抗さないの次元ではなく、勝海舟のように日本全体を見るか、あくまで徳川家の家臣ということに重きを置くかの違いである。その点が勝とは違うので抗戦派としただけであって、だから蝦夷地でのいきなりの武力行使を避け、先端が開かれたことを不本意に思っていることと抗戦派であるということが矛盾するなどということはないのである。
四、局外中立の陰に
箱館戦争を考えるのに避けて通れないのが、諸外国との外交問題である。当時の諸外国は、箱館に籠もった榎本たちの一派をどう見ていたのかということになる。ただの反乱軍か、新政府とは別個の交戦団体とみなしていたのか、あるいは巷で言われる「共和国」という独立国として扱っていたのかなどという点である。
そのカギを握るのが、当時の諸外国が採った「局外中立」という立場である。それを見るのに格好の材料が、甲鉄艦問題であった。
甲鉄艦はもの時点でまだ和名がつけられておらず、便宜上甲鉄艦と呼ばれていた。原名はストンウォール・ジャクソン号といい、もともとアメリカ合衆国の南北戦争の際に南部軍がデンマークに発注したものである。ところが、艦がアメリカに到着した時はすでに南北戦争は終結しており、用済みになっていたところを日本の徳川幕府が購入の意志を示した。榎本艦隊の旗艦の開陽を実力ではるかにしのぐ優秀艦である。ところが今回も日本に到着した時には、買い付け元の幕府はすでに崩壊していた。すなわち王政復古の大号令の後で、江戸城はまだ開城されてはいなかったが慶喜がひたすら恭順をしていた慶応四年(一八六八年)の四月のことである。
実は、この艦がまだ日本に到着する以前から、幕府と官軍のどちらに引き渡されるかということが問題になっていた。まだ、幕府海軍の軍艦は官軍に引き渡される前の時点である。なにしろ当時最先端の軍艦で、どちらがこれを手にするかで戦いの決着がつくと言われたほどだから、幕府海軍も官軍も当然自らに引き渡すように要求した。だが、決定権を持つ売り手のアメリカの主張は、「局外中立」によって内戦が終結するまで官軍と幕府のどちらにも引き渡せないという態度だった。すでにこの年の一月の時点で諸外国は、今の日本が内戦状態にあるのでそれに介入しないための措置として「局外中立」という立場を主張していた。
この、局外中立というのが曲者だ。なぜここでいきなり局外中立という概念が飛び出したのかというと、それは新政府がアメリカに申請したからなのである。その目的は、甲鉄艦が幕府に引き渡されるのを阻止するためであった。さらにはアメリカ側の通商に関する事情も加わって、諸外国の「局外中立」宣言となった。
だが、この「局外中立」を申請したことは、新政府にとって一時は自分で自分の首を絞める形になってしまった。局外中立によってアメリカは甲鉄艦を幕府には引き渡さないという出方に出てくれはしたが、それは同時に官軍にも引き渡さないということを意味するものであった。官軍は甲鉄艦到着後もたびたびアメリカと交渉を重ねたが、交渉は難航した。
後に新政府が今度は局外中立撤廃申請をして、年の暮れも押し迫った頃にようやく局外中立は撤廃され、明けて明治二年二月、甲鉄艦日本到着からまる一年後にようやく官軍は甲鉄艦を手に入れる。
それはまだ後の話として、この江戸開城前から始まった局外中立だが、あくまでそれは新政府と幕府との内戦の局外中立である。すでに王政復古の大号令は出されていたとはいえ、まだ江戸開城前で徳川家は依然として江戸城にいて、将軍も寛永寺で恭順しているとはいえ江戸にいる。だが、江戸城が官軍に明け渡された後でも、箱館に立て籠もった榎本軍にその局外中立が引き継がれるのかということになると、それはまた別問題なのである。
五、外交戦の転回
先に述べたように榎本らが箱館にたてこもってから、明治元年(一八六八年)(榎本らは「明治」という年号を用いず、最後まで慶応四年で通し、翌年も降伏する五月まで慶応五年で通した)も年の暮れに列国公使は局外中立宣言を撤回した。だが、そこに至るまでの列国の足並みは、必ずしも一定したものではなかった。
イギリスやフランスは早くから旧幕府と同様に榎本軍を扱って局外中立を続けるという意志はなかった。榎本は箱館を占領して五稜郭に立て籠もった時点で、諸外国に対して官軍と幕府との内戦に当たって諸外国が採った「局外中立」という立場を、自分らと官軍の戦いにも引き続き適用させるように要請する。それは、自分たちを旧幕府の正規軍と同様に、新政府に対する「交戦団体」と認めてほしいという要望に他ならない。その要請を受けて列国は榎本らを交戦団体と認めることの可否をめぐって十一月に公使団会議を開いたが、イギリスの公使パークスは榎本らが交戦団体であることを否定した。つまり、局外中立の必要はないということである。だが、アメリカの公使ファルケンブルグは甲鉄艦問題を理由に、最後まで中立撤回を拒否した。これはあくまで自国の利益を重視しての措置で、局外中立が撤回されたらアメリカは、甲鉄艦を新政府か榎本かのどちらかに引き渡さねばならないからだ。そして、どちらに引き渡してもアメリカには不利になると、彼は考えた。新政府に引き渡したら戦争が長期化してアメリカの対日通商に影響し、榎本に引き渡したら新政府がすでに掌握している開港場が閉鎖される危険性があるというのだ。
この公使団会議では、英パークスと米ファルケンブルグの中立撤廃可否論争は物別れに終わった。パークスに同調したのはフランスの公使ウトレイ、オランダの公使ポルスブルックなどであり、ファルケンブルクに同調したのはプロシアの公使ブラント、イタリアの公使ラ・トゥールらであった。
会議の翌日、パークスとウトレイは箱館へ英仏の軍艦を派遣することを定め、覚書を作成した。
「(一)徳川脱藩家臣は交戦団体権を与えるのに必要な条件を備えていない。従って、箱館港の封鎖は、英仏船に対しては認められない。(二)我われは日本の内戦に少しも関与しない意向を持っているので、我われの国の商船が箱館港で軍隊や軍需品を陸揚げすることを妨げる処置をとる。(中略)(四)箱館に籠もる脱藩家臣とは、我われはヨーロッパ人の安全を守るのに必要な関係だけを持つ」
この覚書は、明らかに榎本軍を交戦団体と承認することを拒否している。(二)においても「関与しない」と言っているだけで、「中立」とは言っていない。
ところが実際に箱館に入港し、榎本らと会談した英仏軍艦の各艦長や領事が榎本に手渡した覚書の内容は、次の通りである。
「(一)交戦団体とは認めない。従って、交戦団体の権利である箱館港の封鎖は許さない。(二)英仏は厳正中立を守り、軍需物資の箱館陸揚げを阻止する。(三)箱館軍は占領行政をしているので、『事実上の政権(Authorities de Fact)』とみなし、在留外国人の生命財産の保護を要求する」
まず(一)に関しては、パークスとウトレイの覚書と変わらない。ところが、(二)の「厳正中立」という語は、あくまで交戦団体に関して使う語なのである。交戦団体とは認めていない以上、ここでの使用は不適切で「不干渉」とすべきなのである。実際に、パークスらの覚書ではそうなっている。(三)はパークスらの覚書の「ヨーロッパ人の安全を守るのに必要な関係だけを持つ」という文言を両艦長が勝手に拡大解釈し、「事実上の政権(デ・ファクト政権)」として承認するという内容にしてしまったと思われる。しかしそれでは、パークスとウトレイ両公使の意図とは全く逆になる。「交戦団体」と「事実上の政権」とは、法律上厳密には区別があるが、ここではほぼ同義と考えてよい。「交戦団体」と「事実上の政権」についてはあとで述べるが、「交戦団体」と認めない相手を「事実上の政権」と認めるなどということは、どう考えても奇妙な話である。つまりこの覚書の(一)と(二)(三)は完全に矛盾する内容なのだ。
だから、この両艦長の覚書を全くの珍文書とする人もいるし、両艦長のミスだと指摘する人もいる。だが、少なくともこの覚書を根拠に、榎本らが英仏から「事実上の政権(デ・ファクト政権)」と認められたとする主張は全くの誤りである。榎本へ伝達された両艦長の覚書が両公使の覚書と内容を異にし、両公使の意図に反するものだった以上、それはある意味では外交文書として無効である。つまり、榎本は「事実上の政権」としてでさえ承認されていないのだ。
六、空宣言
だが、別の意味からいうと、受け取った榎本からすれば英仏の軍艦の艦長からの文書である限り、それはイギリス、そしてフランスという国家から出た文書と受け取ってしまうことになる。その会談でこの覚書に接した榎本は、「自らが独立などということは全く考えていない。ここに来たのは生活に苦しむ徳川旧家臣の生活が成り立つようにするためである。彼らをここに迎えて開拓に従事させ、産業を興し、皇国のために役立つためである。もともと五稜郭にいた役人たちの誤解で今は戦争になってしまっていることが心苦しい」という意味のことを述べている。この内容はこれまでの榎本の歎願書や檄文と同じ内容を繰り返しており、おそらくこれが本音だろう。
しかし、この時の榎本の脳裏に、ある閃きがあった。榎本は英仏両艦長のミスを鵜呑みにしてしまったのではなく、この覚書がいかに珍文書かすでに見抜いていた。当時一流のエリートで、国際法に明るい榎本が「交戦団体と認めない」と言っておきながら「事実上の政権として承認する」という矛盾に気づかないはずがない。だが彼は、このミスを巧みに利用しようとした。ミスをしたのは英仏艦長側なのだし、あとでもしミスだと公使が言いたてたとしても、すでに文書としてこの覚書は一人歩きし、イギリス。フランスという国家を背負ってしまっている。
榎本はこの後、英仏から「事実上の政権」と認められたということを公表する。さらには、あたかも独立国として承認されたかの如く内外に宣伝するのである。いわば、士気高揚のための戦略上のからくりだ。大鳥圭介も、「朝廷からは賊軍とされたが、外国からは一政府と認められ、謀反人とはみなされなかった」と喜んだ。これは、大鳥が勘違いしていたというよりも、榎本の宣伝の結果だ。しかも榎本は両国公使に、「デ・ファクト」に認められたことの礼状まで書いている。
榎本にとって、「事実上の政権」としての承認は艦長たちのミスであり、それを知った公使たちは今頃は慌てふためいているだろうということは様子が目に浮かぶほどであった。慌てふためこうと、一度出してしまった文書は引っ込められない。そこへもって仰々しく礼状などを書くのだから、これは榎本の皮肉か、あるいは江戸っ子特有の洒落っ気かもしれない。パークスたちにとっては艦長らのミスとはいえ、ミスはあくまで自分たちのミス、しかしそれを榎本に手玉に取られたのである。榎本の方が、英仏の公使よりもはるかに役者が上だったのである。
そして榎本は同礼状に、蝦夷島全島をすでに平定したこと、箱館軍の中で選挙を行って総裁を決定したこと、しかしいずれは徳川家の血筋のものを迎えて全島の大総統にするつもりであるなどということを書いている。
そうして榎本らは十二月に砲台で祝砲百一発を放ち、共和国独立宣言にも見える宣言をやってのけた。だがその実、榎本らは諸外国から、「事実上の政権(デ・ファクト政権)」とさえ認められてはいなかったのである。
七、暗転
話は前後するが、十一月に新政府の外国官副知事東久世通禧より各国公使宛てに、箱館が榎本らに占領されたため、外国船舶の箱館入港を差し控える旨の申し入れがあった。これに対して米・英・独・仏の各公使は共に通商を理由に拒否しているが、アメリカと英仏独の回答書には若干微妙な差異がある。
アメリカ公使の回答書は、まず「箱館が条約により開港された場所であり、また現在その港を保有する軍隊はこれまで同様に東京に関税レシートを送付するために集結しているので、その申し入れは拒否する。そしてそのことは合衆国の局外中立にも直接影響する」としている。ここではっきりと「局外中立(neutrality)」という語を使用している。
これに対してイギリス公使の回答書は「内輪のことにはイギリスは介入しない旨、すでに申し渡した通りである」となっていて、局外中立などという語はどこにもなく、代わりに「介入しない(prevent interference)」という語が使われている。
また、アメリカの公使の回答書では榎本らのことを「港を保有せる軍隊(the forces holding it)」としているのに対し、イギリスでは「徳川脱藩家臣(the exiled kerais of the Tokugawa clan)」と称して、完全に叛徒扱いである。「exiled」は単に脱藩というだけではなく、そこには「追放された」の意があるからである。前述の通り、パークスが榎本を交戦団体とは認めていなかったことが如実に表れている。
さらにはイギリスの公使の回答書の、次に続く部分もまた問題だ。
「兵卒や戦事禁制品の英国船での箱館への搬送を禁止するための措置を講じている」とあるが、中立を宣言しているのだからこれは当然だと見る向きもある。たしかに、その当時はまだ正規の幕府軍を交戦団体と認めた上での局外中立は撤廃されていないのでイギリスもまた中立の立場にあるのだが、パークスの意識では中立という立場からこの文言を入れたのではないと思われる。
パークスは十月の時点での公使会議で、箱館港の封鎖を容認しないという措置は、榎本らに対してのみ行うべき要求だと主張した。つまりパークスは、兵卒や戦事禁制品の英国船での搬送を新政府側に対しても停止するとはひと言も言っていない。もし中立の立場からの兵卒や武器の陸揚げ停止なら、同じような措置を新政府に対してもとらなければ中立とはいえない。榎本らに対してのみ一方的にこのような措置を取ったのは、パークスが榎本らを交戦団体とは認めておらず、中立というよりも単に内政不干渉の立場から、叛徒への協力を否定したというだけの話だ。だから、この文書でイギリスが中立を回答したということにはならない。
こうして、前にも述べたように十二月も下旬に、各国公使は局外中立宣言を撤廃する。そもそもの中立とは、幕府と新政府との間での中立で、すでに江戸城も皇居となり、東京に明治新政府が発足して徳川幕府など跡形もない以上、内戦は終結したと見て局外中立撤廃がなされたのはある意味当然だが、ここまでずれ込んだのは箱館の榎本軍という存在があったからだ。榎本軍を正規の徳川軍と見なすならば彼らは交戦団体だということになり、まだ幕府は完全に消滅しておらず、内戦も終わっていないことになる。だが、曲折があったにせよ、諸外国は局外中立を撤廃した。この撤廃宣言は、榎本らの軍が交戦団体としては認められないということを雄弁に謳い上げるものだった。つまり、新政府隊箱館軍の戦いはもはや内戦ではなく、一部の叛徒が政府にたてついている反乱にすぎないと諸外国は見たのである。
祝砲あげての共和国独立のバーチャル宣言の裏では、全く正反対のリアルが存在していたのである。
さらに実務的な問題としてもこの撤廃が榎本らにとって大きなダメージとなったのは、局外中立がなくなったら甲鉄艦は新政府に引き渡されるということだ。アメリカも諸外国と足並みをそろえるため局外中立は撤廃したが、そうなるともう内戦は終わっているのだから、注文を受けた軍艦は当時の日本の唯一の合法政府であるということになる明治新政府に引き渡される。榎本らは叛徒で、叛徒に最大の武器である軍艦を渡すなどということは今度は内戦干渉になってしまう。
その一方で、榎本艦隊の旗艦であり最優秀艦でもある開陽は、神速とともに十一月の時点で江差沖で座礁、大破している。開陽なきあとの榎本艦隊は、甲鉄艦の前では赤子同然である。そして雪が溶けたら、新政府軍が箱館を攻撃するであろうことは十分に予測できた。
八、幻の共和国
もう今さら、何も言うことはない。榎本らが共和国独立を宣言したなどというのはとんでもない虚構である。
国際法の立場からいえば、国家はその機能と体制を整えて国家と名付けられるが、法的人格のある国家となるには他国の承認を必要とする。いずれにせよまず自らが国家であると名乗ることからすべてが始まるのだが、榎本らは自らが国家であるなどとは全く主張していない。
次にこれまで再三述べてきた交戦団体だが、国家の一部が分離して独立国家を作ろうとするか、あるいは既存の政府を倒して取って替わろうとする場合に、その叛徒の武力抗争が一定の規模に達して影響を受ける外国がそれを交戦団体と認めれば、その団体は法律上は国家でないと持ち得ない権利を持つに至る。こういった団体が交戦団体となり、成功すれば独立国または新政府と承認される。つまり、交戦団体とは叛徒から国家または新政府に発展するその途中段階にある状態である。
先に書いたように榎本らが事実上の政権と認められたと祝砲を討ったのはとんだ榎本のジェスチャーであって、実際は交戦団体として認められていない。だから、局外中立も撤廃されたのである。榎本らが、自分たちは叛徒ではなく平和的に蝦夷を開拓することが目的だといくら主張しても、法律上は叛徒である。
パークスは、榎本らが交戦団体として認められない理由について、次のように説明した。
「徳川脱藩家臣は内乱の当事者である新政府と旧幕府のどちらでもない。ただ、徳川家に所属する一部の団体にすぎない。この団体は天皇や徳川藩主に従順であると公言しているが、その主君や天皇の命令を無視して、天皇政府に引き渡されるべき一部の軍艦を奪って蝦夷島を急襲した」
つまりパークスは、榎本らをただの盗賊としてしか見ていなかったのだ。交戦団体とは既存国家からの分離独立や武力で政権交代をいとする団体のことだが、榎本の嘆願書などを見ても分かる通り、榎本にそのような意図はない。たとえあったとしても、諸外国から交戦団体と認められなければ国家となり得る全段階を否認されたことになり、共和国独立などとんでもない話である。
さらに、交戦団体と微妙に違うがほぼ同義ともいえる「事実上の政権(デ・ファクト政権)」だが、在留民の保護や通商貿易のため、新国家と同様「事実上の承認」が諸外国によって行われる必要がある。ただ、デ・ファクト政権とは占領を完了し、相当に安定し、国家の体裁を備えたものが対象になる。つまり、榎本らの場合、蝦夷地を完全占領し、新政府の支配力を全く排除した場合でないと適用されない。しかし榎本らは、そのような状況には至っていない。
前にも言ったが、内戦状態にある場合、交戦団体と認められて初めてデ・ファクト政権と認められる資格を持つ。交戦団体と認められないのにデ・ファクト政権と認められるなどということは、理論上あり得ない。だから、「交戦団体」と「事実上の政権(デ・ファクト政権)」は厳密には同一でないにしろ、ほぼ同義語と考えてもよいのだ。交戦団体と認めないということは、その占領地に本国もしくは既存政府の主権を認める、つまりその団体が完全に同地を占領し得ていないということであり、そこにデ・ファクト政権など存在し得ない。
仮に榎本らがデ・ファクト政権と認められたとするならば、このような矛盾した状態におかれることになるが、実際は彼らをデ・ファクト政権と認めるという英仏艦長の覚書は両艦長のミスによる無効文書なのだ。その後に英仏公使よりあらためて榎本に宛てられた最終覚書には、「事実上の政権」などという表現は一切なく、もっぱら「脱藩家臣」と表現されている。フランス公使のウトレイも、榎本らが事実上の政権と認められたと主張していることに対し、「かかる徳川家臣の主張は全然認められないものであり、私は断固としてそれを拒否する」と、英仏艦長の覚書を打ち消しているのだ。英仏公使にとっては榎本らが箱館港を封鎖することを一番恐れていたのだから、交戦団体と認めるはずはないのである。
榎本軍は交戦団体ともデ・ファクト政権とも認められていないのだから、ましてや共和国として独立したなどということはあり得ない。そもそも、榎本自身が、自分たちを共和国などとはひと言も言っていない。榎本の五稜郭に立て籠もった勢力をして「共和国」と称したのは明治七年(一八七四年)にアダムス英国書記官が、その著書『日本史』の中で比喩的にそういった表現を使ったのが最初である。その比喩表現を日本人の方が真に受けてしまい、榎本らが「共和国として独立宣言をした」などという考え方が広がってしまったのである。
九、隠された素顔
榎本の個人の真意は再三述べてきた通りである。すなわち、榎本が自ら認めた嘆願書類でそれは明らかであるように、食うに困っている徳川旧臣の救済と、その者たちによってあくまで日本という国のために蝦夷を開拓し、また他国の侵略に備えて北方を防衛することである。
徳川家には忠誠を誓うが、徳川家が朝廷に対して恭順の態度をとっている以上それに倣い、朝廷への敵意は持っていない。しかし黙っていれば、徳川旧臣は野垂れ死にしてしまう。だからこその蝦夷開拓であり、今のこの行動は主家の徳川家の恭順政策に反抗するようにも見えるが、実際は徳川家への忠誠心ゆえのことである。また、蝦夷は未開の荒野であり、これを手つかずに放置するのは朝廷にとっても不利であり、ロシアに対して無防備極まりなくたいへん危険である。この北方防備に徳川旧臣を使えば一石二鳥ということである。
だが、榎本の意図に反して戦争は行われ、そして必ず官軍との全面戦争になるという局面のただ中で、明治二年(榎本らは慶応五年の年が明けた。官軍は前述の榎本の真意を解してはいない。榎本が徳川氏の血筋のものを蝦夷島大総裁に迎えようとしていた動きは、徳川旧臣の救済のために徳川家の者の下で開拓に従事させようとしただけで、いわば後の開拓使長官のような役目を徳川一族のものに請うたのである。だが官軍はその動きを、徳川王国を蝦夷地に作ろうとしていることに他ならないと断定し、箱館軍討伐の方向へと向かっていた。
ところで、これを「榎本個人の考え」と限定したのは、この榎本の考えは、必ずしも五稜郭にいる榎本軍全体の代表意見ではなかった。榎本軍の中には純粋に薩長相手に戦争をすることが目的で加わったものもあり、あわよくば新政府を転覆させ、徳川幕府の再興をはかるか、あるいは東京都の新政府とは別個に自らの政権を作ろうという目的で加わっているものも多いのである。その多くは諸隊出身で、仙台額兵隊、彰義隊、新選組、遊撃隊の生き残りたちだから、いかに抗戦的であるか分かる。彼等は榎本の嘆願書を、榎本のジェスチャーとしかとらえていなかった。
このように榎本軍の本質は、いろいろな意見の持ち主がモザイクのように組み合わさった複合団体で、思想的統一を全く欠いていた。榎本の考えに同調する者が集まったのではなく、意見は異なってもほんの少しでも共通項があるなら一緒にやろうという連中の寄せ集めなのである。
従って、この榎本軍を明治のはじめに多発する士族の反乱のはしりのように見る見方もあるが、榎本群は多面的な要素が絡み合った意見のるつぼであり、さまざまな主義主張の合成であるから、ある意味では士族反乱だが別の意味では朝幕戦争の延長ともいえる。つまり、どちらも誤りとはいえないのだ。
十、未明の襲撃
明治二年(一八六八年)も明けて二カ月以上が過ぎた三月、官軍はいよいよ榎本を追討するため、八艘の軍艦を組織して品川沖で抜錨した。その旗艦は、これまで再三にわたって述べてきた例の甲鉄艦である。他に陽春、丁卯、飛龍、戊辰、晨風、豊安、ここに薩摩の春日も加わった連合艦隊で、軍艦四艘、輸送艦四艘で構成されていた。この新政府艦隊が南部領宮古に停泊中に榎本艦隊の奇襲を受け、宮古湾海戦が起こるのである。この海戦こそが、後の箱館戦争の勝敗を決する重要な戦闘となる。
官軍出航の報を受けた榎本軍では甲鉄艦を奪取することを図り、すでに開陽なき今、回天、蟠龍、高雄の三艦で宮古へ向かって箱館を出航した。奪取とはいっても榎本の意識では、甲鉄艦はもともと幕府が買い付けたものだから、自らに所有の正当性があると考えていた。
戦術はアボルダージ・ボールディング(接舷攻撃)を計画していた。蟠龍と高雄の二艦で甲鉄艦を左右から挟むようにして接舷し、陸兵が乗り移って甲鉄艦を奪取しようという作戦だ。発案者は、回天艦長の甲賀源吾であった。陸軍の総指揮は土方歳三で、全軍総司令官の荒井郁之助とともに回天艦上にあった。
しかし、途中暴風雨に遭ったことが、榎本らには災いした。宮古の南20キロの山田港大沢に回天と高雄が到着した時点では蟠龍は行方不明、仕方なく回天と高雄のみで襲撃を決行することを余儀なくされた。
三月五日午前二時に二艦は山田港を出航、本州最東端の?ヶ埼(とどがさき)沖を北上して、閉伊崎を南へと旋回、宮古へと向かった。そして東の空がその白さを増してくると同時に、回天艦上の人々の目前に大パノラマが姿を現した。
リアス式の三陸海岸の岸壁、それを洗う荒潮、かつて霊鏡和尚が極楽浄土もかくやと賛美して命名した浄土ヶ浜の一列に並んだ白い岩肌、それらの光景に誰もが息をのんだ。朝日とともにどこからともなく飛来した海猫の群れは、海の雪のように回天の周りを群れ飛ぶ。この日、潮吹き岩は勢い良く潮を吹きあげていた時間からはやや衰えていたものの、満潮からわずか二時間しかたっていないだけあって、潮を噴き上げる様子がよく見えた。
回天の乗組員たちは、箱館に行く前に一度は見た光景である。しかし蝦夷の、しかも冬の白銀の大地ばかりを見てきた彼らの目に、この光景は新鮮だった。だが、そのような感傷にはふけっていられない。それは、これから戦が始まるという緊張感だけではなかった。
なんと、高雄の姿がどこにもないのだ。朝の四時に襲撃と決めていた。この季節、東京ならまだ暗い時刻だ。しかしその時刻を過ぎても、高雄は来ない。間もなく日の出である。日が昇ってしまっては好機を逃す。そこでやむなく、襲撃は回天一艦で行われることになった。回天はアメリカの星条旗をあげて甲鉄艦に近づいた。そして戦時国際法に基づき、接舷間際に星条旗をおろして榎本軍が自分たちの旗印にしていた日章旗をあげた。ちなみに、官軍の旗は菊章旗である。
そこまではうまくいった。ところが、もともと接舷の予定のなかった回天である。だから数々の計算違いがあった。回天は甲鉄艦よりも船橋が高く、兵が乗り移るには飛び降りないといけない。さらに、甲鉄艦とは平行ではなく、甲鉄艦の船べりに回天の船首が乗り上げる形になってしまった。さらには、甲鉄艦にはガントリックガンという当時の日本には数台しかなかった最新式の連射式機関銃もあり、これがために回天は惨敗。甲鉄艦奪取をあきらめて箱館に帰航した。これが宮古湾海戦の顛末である。
回天が甲鉄艦と平行に接舷できなかったのは、回天が外輪船だったからだ。当時の軍艦は汽船でもあり帆船でもあって、スクリュー船と外輪船が混在していた時代である。甲鉄艦はスクリュー式だが、回天は外輪式だったのである。だがそのことは当初の接舷予定だった蟠龍や高雄とて同じことであるから、T字接舷は当初の計画通りだったかもしれない。甲鉄艦よりも甲板が高い回天が襲撃することになったのは不運であろう。
さらにこの戦いで、高雄は官軍に捕獲された。さらに甲賀源吾、大塚浪次郎、新選組の古参の野村利三郎が戦死した。
十一、紅薔薇燃ゆ〜嗚呼、一本木〜かくして四月九日、官軍艦隊はついに蝦夷地に到着、陸戦部隊は江差の北、乙部に上陸した。そこは榎本らが最初に上陸した鷲ノ木とは、ちょうど東西対称の位置であることはおもしろい。以後、箱館市街戦へ移るのは時間の問題だった。
江差を落とした官軍は、兵を木古内、松前、二俣の三軍に分けるが、松前隊は松前城を奪還した後で木古内隊と合流し、木古内、二股の両地で激しい戦闘が行われた。箱館軍側の木古内での戦闘指揮は大鳥圭介、二俣側の方は土方歳三であった。官軍の二俣軍は江差から中山峠、大野を経て箱館へ向かう計画だった。この路線は現在の国道二七七号線だが、当時から江差と箱館を結ぶ重要幹線道路だったのである。二股という名の地名はかつても今も存在せず、二股岳より流れ落ちる二俣川が大野川と合流する辺りで行われた戦闘という意味で、二股川の戦いと称される。
四月十三日、十四日と激戦は二回行われたが、官軍は土方軍を突破することはできなかった。しかし、二十九日に五稜郭より帰還命令が土方に伝えられ、土方は憤慨しながらも渋々二股川を放棄して五稜郭へ帰営する。おそらく官軍の有川進駐に伴い、土方軍が後方を遮断される恐れが生じてきたための措置であろう。二股川の戦いは全く箱館軍に有利に展開していたのに、土方は味方からの指示で退却を余儀なくされたのである。
さて、その土方である。三多摩日野宿近郊の石田村の豪農の末子として生まれ、薬売りの行商をする傍ら天然理心流の剣術道場に学び、わずか目録のみで師範代となる。文久三年(一八六三年)、幕府の浪士隊募集に剣術道場誠衛館ぐるみで応募し上洛、そこで浪士隊と袂を分かち、水戸浪士の芹沢鴨ら一派とともに総勢十三名で新選組を結成、土方はその副長となる。新選組は京都守護職の会津藩主の預かりという名目ではあったが浪士の集まりであることは浪士隊と変わらなかった。市中見回りなどを任務とし、倒幕派の浪士などを取り締まり、多くの倒幕浪士を斬った池田屋事件は有名である。会津・薩摩と長州との戦いである蛤御門の戦いにも参加し、慶応三年(一八六七年)六月、新選組は隊士全員が幕府直参旗本にとりたてられた。百姓の子の土方が大御番組頭となったのである。だがまもなく将軍慶喜は大政奉還、その年の暮れに新選組は京都を引き払って伏見へ移り、よく正月の鳥羽伏見の戦いに参戦、敗戦後の新選組は軍艦富士山丸で江戸へ戻り、土方は寄合席格に昇進、近藤勇とともに新選組幹部を中心に甲陽鎮撫隊を組織して甲州勝沼で土佐藩兵を主とする官軍を迎え撃ったが敗走、その後新選組は五兵衛新田、流山と転じて、流山で近藤勇が官軍に捕らえられると土方ら新選組の生き残りは大鳥圭介の江戸脱走軍に参加した。それはすでに前に述べた通りである。
土方歳三は、榎本軍中きっての抗戦派であった。開拓はの榎本との意見は完全に正反対であり、両極端である。しかし、この二人が不和だったとか、榎本が土方を嫌っていたというような状況は全く見られない。むしろ榎本は、大鳥などよりも土方の方を信用していた向きが、仙台での再会の時の様子や、箱館軍中における土方の配置などから分かる。
五月十一日、官軍は未明から総攻撃を加え、ついに箱館市街を占領した。その十一日の朝、五稜郭をわずか五十人ばかりの軍勢を率いて出陣した者がいる。
土方歳三だ。
彼はこの時馬丁の沢忠助、安富才輔、別当能蔵などをつれ、他に額兵隊、伝習隊から各一分隊ずつ引きぬいてひきつれていた。新選組はいない。この時すでに新選組は箱館軍の一部隊となっていて、全体の陸軍奉行並みの土方の手を離れている。
土方らはこういった少人数であったから、官軍に占領された箱館市街を奪還しようなどという意図はなかったと思われる。それよりも、市街地を官軍に奪取されたがために孤立してしまった弁天台場を救済に行こうとしたのであろう。ましてや、敵軍首脳部に斬りこもうとしたなどという話は、話としては面白いが戦況的に無理がある。
その土方は朝四つ、つまり午前十時ごろ、官軍が設けた一本木関門を突破し、三百メートルほど行った異国橋辺で官軍の銃撃を受け、腹部に銃弾が当たって落馬、そこから鶴岡町の農家まで運ばれたがそこで絶命した。
銃撃を受けてから絶命まで十数分、彼の脳裏には何が浮かんだのだろうか。武州多摩川べりでの薬草摘み、剣術具を担いでの薬の行商、誠衛館の剣劇の響き、初めて渡った三条大橋、祇園宵山と池田屋、山南の脱走と総司の涙、京から伏見へ、鳥羽伏見の戦いと甲州そして流山、会津への転戦と、走馬灯のように思い出が駆け巡ったに違いない。懐かしい友の顔が一人一人浮かぶ。近藤、沖田、井上、先に逝った仲間たちが自分を呼んでいる、そんな気がしてならない。最期に、「すまん」と、だけつぶやいたともいう。それは誰に対していったのか。先に逝った仲間たちに、死のうとして死ねずにここまで来てしまったことを詫びたのか、残される者たちへ詫びたのか、今は知るすべもない。
かくして、榎本軍中の幹部土方歳三の戦死は、榎本軍首脳部に大きな衝撃を与えた。土方の戦死についてはいろいろな見方がある。まずは弁天台場を救済しようとしていた中での偶発的な戦死、さらには実は味方の銃撃で殺されたという考え方もある。この時期、ほぼ五稜郭は降伏の路線で話し合いが進んでいたが、断固反対したのが土方であり、彼がいては話が進まない。さらに、降伏できても京都で新選組鬼副長として薩長の怨みをさんざんにかった土方がいては、降伏後の処遇が過酷になりかねないなどとの意見から、五稜郭内でお荷物になっていた土方を、敵の銃弾に撃たれたように見せかけて実は味方の兵が撃ったのだという。この考え方もたしかに否定はできないし、論理的にもつじつまが合う。しかし、あくまで想像の域を出ない。その可能性もあったとしか言いようがない。
もう一つの見方は、五稜郭が降伏に傾きつつあったこの時、断固として降伏などという状況には甘んじられないとする土方が、死地を求めて敵陣に斬りこんだとする見方である。こうなると、戦死とはいっても実質上は自殺である。そもそも、土方は蝦夷に来てからは、ひたすら死に場所を探すために生きてきたのだという人もいる。それは、はたしてどうだろうか。
彼は決して死に急いではいない。しかし、おめおめ生きているというのも当たらない。死のうとして死ねず、ここまで来てしまったのである。こんな北の果てにまで。そして、戦死した。最後まで幕府を見捨てまい、自分の目で幕府の死を見届けたい。そういう思いが、彼をここまで生かさせ、この北の果てまで連れてきたのだと思う。
過ぎし日の面影に支えられて、落日までの間を生きた。時代の渦の中に流れ流され、北海の短き夏に急ぎ咲いた紅薔薇……力尽きて赤い炎とともに……。
「義に殉じて死したる者の血は、死して後三年たてば碧に変ず」という意味で、箱館山麓に立てられた碧血碑に彼の遺骨は納められたというが、今碧血碑の納骨堂は空っぽである。
十二、行きゆきて土方の戦死や各地での敗戦、それに加えて弾薬や軍資金の欠乏、これらが榎本軍の士気を完全に衰えさせていった。
五月十三日、官軍は高松凌雲の赤十字ルートで榎本らに降伏を勧告した。この赤十字ルートとは、かつて幕府の奥詰医師の蘭方医で榎本軍の医師である高松凌雲が開設した箱館病院がすでに官軍によって取り調べを受け、攻撃対象から外されたことによって成立した。高松の箱館病院は敵味方の区別なく医療を施しており、高松こそ組織としての佐野常民の日本赤十字社よりも早く、しかも確実に日本の赤十字の創始者といえる。その赤十字の契機が、この箱館戦争だったのである。
その官軍の勧告を受けた榎本は、降伏を拒否した。しかし、それだけではなく、自らの蔵書である「万国海律全書」を榎本は官軍の参謀の黒田清隆に贈ったのである。世人はこれをもって、黒田が榎本の心意気に感じ、降伏後に黒田は榎本の助命嘆願に尽力したという。だが実は、降伏勧告の前の九日の時点で、黒田は官軍の曽我祐準軍務官らと合議して、榎本らが降伏した暁には、榎本の助命嘆願を新政府に対して行うということを密かにすでに取り決めていた。その動機は、榎本の学問技術が新日本にとってなくてはならないものだということを、黒田がひしひしと感じていたからだ。だから榎本から「海律全書」を受け取った時の黒田の感激は倍増したし、また黒田が返書で同書の和訳出版を約してたことに榎本も黒田の人となりを感じた。ここで二人の友情が芽生えたというと、それは表面的すぎる。お互いに「新しい近代国家」建設のためという共通意識が生じていた。
榎本はやがて降伏するが、黒田への友情と信頼がその背後にあった。さらに加えると、榎本が箱館に立て籠もった真意である蝦夷開拓、北門防備の意志を、別の形で遂行し得る可能性を敵将の黒田に見出したための降伏という一面もある。榎本は黒田に賭けた。
榎本個人の意思はこんなところだが、榎本軍全体となると榎本軍の敗因は、とにかく軍資金がなかったのである。脱走に当たっては幕府の公金をかなりの額で持ち逃げしているが、それは減るだけで増えはしない。だが、それだけに限定して考えると、大局を見失う。榎本は新政府に開拓を容認してほしくて嘆願書を書いたのだが、新政府にとっては榎本らは許容すべからざる存在であった。だから、榎本らは負けた。
かくして五月十八日、五稜郭は開城。榎本軍は官軍に降伏した。その後八月になって蝦夷地は北海道と称されるようになり、箱館も函館と改称された。