第二章 奥羽越戦争と箱館戦争
一、奥州の雄たけび
箱館戦争を語る手順として、その前の奥羽列列藩同盟について語らねばなるまい。この年、慶応四年の正月に幕府征討令が発布されたのと同時に、朝廷(薩長)より仙台藩に会津藩を討つよう沙汰書が下った。このころ、奥羽各藩の間でしきりにこのことに関する演説書が廻覧された。弘前藩に宛てられた秋田藩と仙台藩の口上書を比べると、秋田藩のは「徳川慶喜追討の朝命により、相共に謀り、勅命遵奉の旨を申し合わせたい」とあるのに対し、仙台藩のは今は外国が日本を狙っているこのような時に内乱となっては一大事だと、心を悩ませています。どうか戦(いくさ)にならないよう、公平にお考えください」と、かなり和平論に近い。
会津討伐の沙汰書がなぜ出されたのかだが、会津藩主はかつて京都守護職を務め、鳥羽伏見の戦いでは幕軍について薩摩と戦った。そういう会津だから、朝敵の汚名を着せられるのも成り行きだろう。すでに官軍に帰順した秋田藩と違い、仙台藩はこの口上書に見られるように会津には好意的だった。こういった流れの中で、会津と同様に朝敵とされた庄内藩は仙台藩と密約を結び、さらに米沢藩の発案で会津救援同盟が成立した。
そして三月に官軍の奥羽鎮撫総督が仙台に入り、四月に会津藩は鎮撫総督への謝罪の嘆願を仙台藩に依頼した。さらに米沢・会津両藩主は他の奥羽列藩藩主と白石(元・宮城県白石市)に会合し、その結果「会津藩寛典処分歎願書」が鎮撫総督に提出された。だが、官軍の参謀の世良修蔵によって、これは却下された。実は世良は奥羽列藩を一掃しようという意図があったわけだが、そのことが列藩の知るとこととなり、世良は仙台藩士に暗殺される。
そうなると当然官軍は大挙して奥羽討伐に軍を繰り出すことが予想されるため、それを迎え撃とうとして救援同盟は性格を攻守同盟に変え、閏四月には白石同盟が結成され、五月に至ってそれは奥羽列藩同盟へと拡大されるのである。
二、総野から会津へ
先に述べた江戸開城時の江戸脱走組のうち、市川に集結した大鳥軍がこの奥羽列藩同盟に加わるわけだが、どう目の中で彼らはどのような位置づけとなるのだろうか。
彼らが直接かかわったのは会津藩と仙台藩のみである。だが、市川を出発して彼らがとりあえず目指したのは、日光であった。大鳥軍は市川集結の時点では、奥羽列藩同盟に参画することははっきりと決まっていたわけではなさそうである。宇都宮城を落とし、日光にたてこもった後、閏四月になってから会津に行くかどうかの議論がなされているからだ。それも、日光にて玉砕を主張する一派もあって、すんなり決したわけではないようだ。
彼らの中で最初に会津に入ったのは、土方歳三であった。土方は宇都宮城攻略の戦いで足の指を負傷している。そして、四月末に宇都宮以来の病人が多いので怪我人だけは会津へ送ることになったのだが、その中に土方もいた。土方とともに前軍を指揮していた会津藩の秋月登之助も途中の会津田島まで同行している。会津田島は日光から会津若松までのほぼ直線のルートの六分目くらいに位置する。その後も土方は単身ではなく島田魁、中島登、沢忠助など新選組の同志も土方と行動を共にしている。彼らは四月下旬には会津若松城下に入っており、流山で散りぢりになっていた同志たちも再び土方のもとに参集し始めた。その直前に、流山で官軍に捕らえられていたかつての朋友であり盟主である近藤勇は、板橋で斬首に処せられている。
先ほど、市川に集結した時点で大鳥圭介は、会津へ往くことを決定していたわけではなかったようだと述べたが、どうも土方その一派だけはすでにそのつもりだったらしい。彼らの綾瀬や流山での駐屯が会津に行くための道筋だったとするなら、それが計画倒れになった今や、会津へ往く最も手っ取り早い手段が大鳥圭介の一団との合流であったのだ。さらには、その大鳥軍の全軍の指揮を土方と会津藩士の秋月が任されたのだから、この二人はいやでも軍全体を会津に誘致しようとするだろう。だが、日光において会津に行くか否かの議論がなされていた頃には、土方はすでに日光にはいない。それが閏四月に入ってすぐだったから、土方はその時点ではもう会津若松にいた。
会津藩と新選組の切っても切れない縁については、前に述べた。
「会津侯御預かり、新選組のものである。役儀により連行する。屯所までご同行願いたい」
京都で市中見回り中に不逞浪士に出くわしたときの、新選組の定番の文句である。そんな新選組だから、大鳥軍中にあっても会津では新選組のみ際立った行動に出る。会津若松で土方をはじめとする新選組隊士は、藩主松平容保に拝謁し、軍資金までもらっている。
土方は若松城下で傷の療養に専念する一方で、新選組は白河城攻防戦に参戦する。その時の大将は山口二郎と名乗ってはいたが、実は新選組の京都時代に副長助勤、三番隊組長を務めた斎藤一その人である。彼は謎の多い人物で出生は不明だが、会津藩士の娘を妻に娶っている。彼は流山で土方と別れて、先に会津入りしていたようだ。ちなみに上の戦争で敗北した彰義隊の残党で、土方と合流し、箱館までともに行っている斎藤一諾斎は全くの別人である。
市川脱走組の本体である大鳥軍は閏四月中旬にようやく会津田島に至り、今市や藤原方面で官軍と戦ったりしている。大鳥は五月に初めて若松城に登城しており、その後会津藩兵と合流し、先に会津入りしていた土方ら新選組も大鳥軍に復帰して、八月には母成峠で官軍と戦ったが、敗走した。その翌日の十六橋での戦いでも敗走。藩主松平容保自らの出陣を仰いでも虚しく、それから後は会津藩は鶴ヶ城にたてこもっての籠城戦に入る。だが、大鳥軍の半分は城に入りそびれ、塩川に布陣した。
その頃、藩主容保の弟で桑名藩主の松平定敬は容保の命で米沢や庄内藩に援軍を求めに行ったが、それに土方も同行している。だが、土方が米沢に入ったらしい形跡はなく、その足で仙台へと直行した。大鳥軍も米沢に向かったが庄内藩領に入ることはできず、九月には大鳥軍本体も仙台へと向かった。そのうち第一、第三大隊は塩川に残ったが、官軍の来襲を受けて壊滅状態となった。山口二郎もこの時戦死したと一時は伝えられたが、当の本人は藤田五郎と名を変えて、大正四年まで存命している。
仙台に向かった大鳥の名分は会津救済の援軍を求めにということだったが、仙台に着いた大鳥が漏らした言葉は、「奥羽の諸藩はどこも全くあてにならぬな」ということだった。会津への援軍のことなど、どこ吹く風である。もちろんそこには、仙台藩内の事情も関係しているが、はっきり言ってしまうと、大鳥圭介は会津藩を見捨てたのである。彼は真に奥羽列藩同盟に合力しようとしたのではなく、自らが薩長に徹底抗戦するその足掛かりを奥羽列藩に求めたにすぎなかった。そのへんが、会津と縁の深い新選組とは違う。新選組こそが真に会津のために会津に至り、会津のために戦ったのである。大鳥軍が江戸を脱走して北上してきたのは奥羽列藩をよりどころにして官軍と戦うためではあったが、奥羽列藩に合流するのが最終目的ではなかった。だから、会津藩の旗色が悪くなるとさっさと見捨てるのである。土方や新選組はさすがにそのような意識は全くなかったが、それでも結果的には会津藩を見捨てるという形になってしまった。
かくして大鳥軍は仙台で、江戸を再脱走してきた榎本艦隊と合流するのである。
三、青葉散りゆく
先に述べたように八月に江戸を再脱走した榎本艦隊は途中の銚子沖で暴風雨に遭い、美加保は座礁、大破、咸臨と蟠龍の二艦は清水港へ漂着。咸臨丸は官軍に没収されたが、蟠龍は九月に艦隊を追って出航した。
艦隊というので日露戦争の日本海海戦のような時の連合艦隊を連想して、各艦が並んで航行しているところを連想しがちだが、このころの艦隊は特に途中で暴風に遭遇した場合など航行はてんでばらばらである。
八月の末にまず長鯨が仙台沖に到着、二日後に開陽が石巻に到着。九月に入ってから千代田、神速、中旬になって蟠龍、回天がそれぞれ仙台に到着し、九月下旬に全館が塩竈の寒風沢(さぶさわ)、東名浜(とうなはま)に集結した。
その榎本艦隊が仙台領に到着し、大鳥軍と合流した頃の奥羽列藩同盟だが、九月には米沢藩降伏、慶応から明治へとの改元を挟んで仙台藩降伏、月末には会津鶴ヶ城落城となる。つまり、榎本艦隊が到着した九月下旬は、すでに奥羽列藩同盟は崩壊状態にあって、わずか庄内藩のみが官軍に抵抗していた。
榎本武揚自身が仙台城下に入ったのははっきりしないが、八月末に旗艦開陽の石巻到着以降であろうし、九月中旬にはすでに仙台にいることは確認される。つまり、榎本が仙台城下に入ったのはすでに米沢藩が降伏し、仙台の青葉城中では降伏派と抗戦派の内訌紛々たるときであった。そして九月末には、列藩同盟最後の砦の庄内藩も降伏する。
榎本が仙台までやってきて列藩同盟のためにしたことといえば、長崎と千代田を庄内藩へ援軍として派遣したのみで、それも上陸できずに本分を果たせなかった。それ以外としては、反論が二分している仙台藩を周旋することに専ら従事していた。
それより先に大鳥群の土方歳三も、松本捨助や斎藤一諾斎らとともに青葉城に登城し、藩主伊達慶邦に徳川への忠誠を促す談判をし、藩主よりその佩刀の下緒を賜っている。そして九月中旬に藩論が降伏へと決まりつつあると聞いた榎本は土方とともに登城し、官軍といえどもその実態は薩摩と長州であることを力説して翻意を促すが虚しく終わる。こうして降伏派によって藩論が固められた仙台藩は降伏するのである。
四、艦隊北上
大鳥軍が江戸を脱走する際は、その生き先について明瞭に決定がなされていなかったことについてはすでに述べた。それに対して榎本武揚の場合、先に引用した脱走時の勝海舟に宛てた書簡などからも分かるように、蝦夷の開拓というのが早くから視野にあったことも述べた。すなわち、江戸を脱走した時点ですでに榎本の頭の中にあった行き先は蝦夷だったのである。
その背景と、榎本が蝦夷地に目をつけた経緯だが、王政復古の大号令が出て徳川家の所領はすべて官軍に召し上げられた。慶応四年の四月に勝海舟が総督府へ建言書を出しているが、そこには何とか召し上げられた知行地を返還してもらいたい旨が記されており、また六月にも慶喜から徳川家の家督を継いだ家達も蝦夷地返還の要求を新政府に出している。榎本もこの考えの流れだったが、彼の場合は建言や嘆願などというのは生ぬるく、実力行使あるのみと、とにかく蝦夷地へ向かうという行動に出たのである。もし返還されないのなら、実力で奪い返そうという考えである。
一方、奥羽列藩同盟の場合、彼らの意識の中に徳川家の復興などということは全くなかった。あくまで自藩の存続と、朝廷への忠誠心からくる薩摩や長州に対する藩レベルでの怨恨がその行動のモチーフであった。これは五月の時点で列藩同盟が太政官に提出した建白書に尽くされている。そこには、朝廷に刃向かうつもりは全くないが、薩摩や長州は許すことはできないという旨が切々とつづられている。
同盟の中でもとりわけ会津藩と薩長両藩との怨恨関係は、古く文久三年、すなわち四年前の一九六三年にまでさかのぼる。その当時、会津藩と薩摩藩は協力関係にあり、この会薩連合勢力を中心に、八・一八の政変が行われ、尊王攘夷派の公家や長州藩が排斥された。その翌年の池田屋事件から禁門の乱で長州藩は会津と薩摩にこっぴどくやられる。長州の会津と薩摩に対する恨みはこの時から始まった。
ところが、坂本龍馬の周旋によって、あれほど憎み合っていた長州と薩摩が怨恨を超えて手を結ぶ。いわゆる、薩長同盟である。しかしこの同盟は、会津から見ればそれまで友藩だった薩摩藩の、会津藩に対する裏切り行為に他ならない。会津藩の中で、薩摩に対する怨恨は燃え上がる。さらには、あの禁門の乱で徴収は御所の中に向かってまで発砲したのにその罪は王政復古の大号令とともに許された。だが、会津藩は意識の上では薩摩藩と戦ったに過ぎない鳥羽伏見の戦いで、薩摩に錦の御旗が下ったというだけで朝敵とされ、その汚名は慶応四年の五月のこの時点でも消えていない。会津藩としては、そのことも我慢ならない。しかも、そのすべてのことを仕組んだのは、長州藩である。
そもそも、会津藩ほど勤皇の藩はなかった。孝明天皇も会津藩主松平容保の、朝廷への忠誠を高く評価している。繰り返すが、列藩同盟の意識は、自分たちが戦っている相手は官軍などではなく、列藩同盟と同じ次元の薩長同盟にすぎなかったのである。薩長は、朝廷を神輿くらいの感覚で担ぎ出しているだけで、勤皇会津藩から見れば、そのこと自体が朝廷への最高の不敬であるとなるのである。
だから彼らは徳川幕府などどうでもよく、薩長同盟を倒して、薩長に代わって奥羽列藩藩閥政府を作るのが目的だった。そうなると、あくまで旧幕臣である榎本や大鳥とは相容れないものがそこにはある。
また、箱館軍中に、奥羽列藩同盟から加わったものはそれほど多くはない。目立った活躍をしたのは仙台額兵隊の星旬太郎くらいで、箱館軍の要職はすべて旧幕臣で占められていた。つまり、箱館戦争は決して、奥羽戦争の延長線上にあるのではない。
勝海舟に言わせれば、会津藩の忠誠心は偽忠誠心だということだが、榎本は列藩同盟を義挙とした。榎本は一応列藩同盟を少しはあてにしてみた。しかしそれは、自己の目的達成のための手段としての利用価値しかなかった。それが仙台藩も降伏してその利用価値がなくなると、榎本は奥羽列藩同盟に見切りをつけ、仙台を去って本来の目的地の蝦夷へと向かう。
十月、榎本艦隊は大鳥軍をもそこに乗せ、ついに仙台を抜錨して北へと向かった。