30、インターネット事情

  私が初めて観光旅行で中国に来た時、つまり1980年はまだ改革・開放が始まったばかりで、人びとは一様に人民服を着ていたことはすでに書いた。そして町中の看板といえば、赤字に黄色い字で毛主席語録とか「社会主義がどうのこうの、革命がどうのこうの」とかいう政治スローガンばかりであった。
  次の中国訪問すなわち二回目は、ちょうど一年後であった。ところがたった一年で、それら政治スローガンが一斉に姿を消していた。代わりに掲げられていたのは商品広告である。本来社会主義国とは無縁の物と考えられていた商品広告の登場、とりわけ北京の王府井のコカ・コーラの広告が人びとの話題を集め、鉄腕アトムのデザインが注目を浴びた。そして昨今の北京の町中の巨大広告や地下鉄の駅の通路のパネルにも、四年前に北京に来た当時にはなかった内容の広告で埋め尽くされている。すなわち、インターネットのプロバイダーやウェブサイトの広告である。
  私が今回北京に来る前は、日本でもそれほどコンピューターは流行していなかったし、私も無縁の生活をしていた。それが、あと一年で日本に帰るという頃になって、私とパソコンとの出会いがあった。そもそも、北京に来て一年目くらいから、私は職場ではコンピューターを使いはじめてはいた。日中友好協会の機関紙『日本と中国』は十七年前の1983年にそれまでの活版印刷からオフセット印刷に切り替えていたが、『北京週報』は私が着任した四年前も依然として鉛の組み活字印刷であり、それが着任一年後からやっとコンピューター編集となって、翻訳も原稿用紙に書かず直接コンピューターに入力するようになったのである。もっともコンピューターと言っても、Windows95が売り出されたいた頃であるにもかかわらずOSは一つ古いタイプのWindows3.1で、当然インターネットにも接続されていなかった。それどころか同じ部屋にあるたくさんのコンピューターが社内LANでさえつながれておらず、印刷するのに文書をわざわざフロッピーに入れて、プリンターがあるコンピューターへ持っていっていたのである。従って、コンピューターとは言っても、実質上はワープロと変わらないものだった。ゲームがついていることだけが楽しみであったが、それもしばらくするうちに全社に禁止令が出てゲームは削除させられた。しかし、「上に政策あれば下に対策あり」で、私はゲームのアイコンと名称を変更して、ひそかに普段は開けないウインドウの中に隠しておいた。
  それが、Windows98が世間に広まりつつある頃になってやっと職場はWindows95を導入し、社内LANでも結ばれて、インターネットにも接続された。印刷も、ネットワーク上でできるようになった。そして奇しくも全くそれと同時に、私は同じ友誼賓館に住む日本人から中古の自作コンピューターを4000元(5万6000円)で購入した。それもWindows95であったが、当時の私にはそれが古いタイプのOSであるなどとは知るすべもない。友誼賓館のアパートの中庭の入り口にある自由掲示板に、「売ります」の手書き広告が日本語で出ていたのである。もちろんOSも日本語版で、これが英語版や中国語版だったら、そして売るという人が言葉の通じない外国人や中国人なら私は買わなかったかもしれない。ちなみに、職場のコンピューターのOSも、もちろん日本語版である。
  こうして自宅と職場で同時にインターネット環境を手に入れ、その日から私のパソコンライフが始まった。インターネットに加入すればEメールが使える。まずは二人の妹にさっそく連絡を取り、今までは高い国際電話と日数がかかる手紙だけに頼っていた母との連絡も、妹が中に入ってスムーズに取れるようになった。Eメールは瞬間に相手に届くし、料金もメールを送るのにかかる一分間ぐらいなら50銭(7円)の市内電話料金と接続料が30時間=120元で計算して一分間=6銭(日本円で1円弱)の、日本円で8円かかるだけである。これは北京から日本まででも、同じ友誼賓館に住む人あてでも同じ料金である。
  家族のほかにも、年賀状にメール・アドレスが記載されていた友人にメールを送り、そこからまたほかの友人のアドレスを聞き出したりして、タイムリーな交信が始まった。一時帰国の時のみんなが集まる日の日程も、帰国前に決まってしまう。これによって、北京に来てからはほとんど疎遠になっていた友達ともメールアドレスを持っていればまるで日本にいる時と同様の付き合いが再開され、逆にパソコンを持っていないという友達とは時々手紙のやり取りしていた人とも疎遠になっていった。そもそも、男同士の友達というのは、よっぽどのことがない限り手紙など書かない。しかし、メールならおしゃべり感覚で気軽に送れるのである。
  さらには、いろいろなメールフレンド紹介のホームページに登録しておけば、見知らぬ人からもメールが届く。インターネットをやっていると、半端でないほど友達が増える。そこで、会ったこともない人とのメールのやり取りが始まるのである。
  インターネットの魅力はEメールだけではない。いろいろなホームページからの情報というものもある。とにかく、インターネットに国境はない。全世界のあらゆる情報に瞬時に接することができる。だから、海外生活者にとって、インターネットは必須のものである。私は主に日本のホームページを見る。ある日本のドラマに「このPCが全世界とつながっている」というせりふがあったが、海外生活者にとっては「このPCが祖国の日本につながっている」といった感じである。職場で仕事の合間に、あるいは仕事そっちのけで日本のウェブサイトを見ていると、自分が中国にいることを忘れてしまう。
  私は毎日「朝日新聞」を見ているが、その他のページではNHKのニュースでは絶対的に情報が欠如する芸能界の動きも知ることができる。インターネットのおかげで、こと芸能界に関しては浦島太郎にならずにすむ。前に五年間ローマに住んでいた私の妹は、当時は当然インターネットもなかったから帰国した時に「きんさん、ぎんさん」を知らなかった。私は「きんさん」が亡くなったことを、日本の友人よりも早く知った。またインターネットの魅力は、情報を一方的に見るといったことだけではない。特定のテーマについてみんなが投稿して、意見を交換する場がある。それを「掲示板」と呼ぶが、リアルタイムで日本にいる人たちと意見交換ができるのである。それがきっかけでメールが来るようになり、メールのやり取りが始まったりもする。
  夜の中はどんどん便利になっていく。ビデオがまだないころは、このようなものができると誰が想像しただろう。見たい番組の放映時間に外出しなければならない場合はあきらめるしかなかったのに、今はビデオにとっておいてあとで見られる。昔は海外で日本のテレビが見られるなど想像もできなかったのに、今ではNHK−BSがある。あの大きくて重かったレコードも、今では手のひらに入るほどのCDになっている。そして、携帯電話である。これから先、もっとどんなものができるであろうか。
  ただ、中国にいても便利になったと喜んでいた私だが、一時帰国の際に日本ではサラリーマンが通勤電車の中でコンピューターを使っているのには驚いた。また、女子高生が小さなコンピューターで、電話回線がないとできないはずのインターネットを、携帯電話を差し込むことによって電車の中で楽しんでいる。このような光景は、まだ中国では見られない。中国も科学が進歩したというしそれは認めるが、やはり日本よりは数歩遅れているようだ。
  中国のインターネット人口も急速に増えているが、まだまだ日本のようにインターネットで「遊ぶ」という感覚には至っていない。テーマを入力して、それに関するサイトを探してくれる検索エンジンのページでも、日本の場合は個人が開設した娯楽性のホームページがたくさんだが、中国ではほとんどが企業の宣伝性のホームページばかりでつまらない。本屋のコンピューターコーナーに行っても、日本では大衆向けの娯楽的な、CD−ROMとかがおまけについているパソコン雑誌がたくさんだが、中国ではほとんど技術者向けの専門書ばかりである。中国ではインターネットを、仕事で使っている人の方がほとんどであろう。また、私のように職場でも自宅でもコンピューターという人は少なく、大抵は職場でだけである。その方が少なくとも個人にとってはただだからだ。
  中国で人気のサイトはアメリカのサイトの中国版である「Yahoo」(ヤフー)で、漢字では音訳して「雅虎」と書く。中国固有のサイトでのトップは、似たような名前だが「Sohoo」(ソフー)で、「捜狐」と書く。いずれもニュースや、知りたい情報のサイトを探す検索エンジンである。翻訳の仕事をしていても、何か分からないことはインターネットでさっと情報を調べることができる。インターネットなしではもはや仕事もできない。インターネットだけでなく、『北京週報』の翻訳は、中国語から日本語へ文章を自動で翻訳する日本製のコンピューター・ソフトウエアを使っている。私も今では自動翻訳ソフト任せで、少し不自然なところに手を入れるだけで今の『北京週報』の記事になっている。仕事も楽になった。私生活でも、コンピューターはなくてはならないものだ。おかげですっかり手で文章を書くことができなくなり、この手記ももちろんコンピューターに直接打ち込んで書いている。これからの作家も、こういう人が増えてくるのではないだろうか。アメリカではとうの昔から、小説は「書く」ものではなく「タイプ」で打つものだからである。

30、Yahooのトピックと仲間たち

  前章で中国版Yahooについて少し触れたが、中国版があるなら当然日本語版もある。私がアクセスしているのはこのヤフー・ジャパンである。ニュースでは、朝日新聞のホームページでは見られない芸能ニュースが見られる。そしてはまっているのは「掲示板」である。ジャンル別のものすごい数のトピック(話題)があって、自由に投稿を読むことができるし、自分も投稿することができる。投稿は画面にキーボードで入力して、「送信」ボタンをクリックすればよい。トピックも、作りたい人が自分で作るのである。こういうところに投稿する人は若者ばかりかというとさにあらず、若者もいるが私と同世代も結構おり、また上は六十代の人もいる。私は今、NHKの朝ドラについてのトピックや大河ドラマについてのトピックによく意見を投稿しているが、自分でもトピックを作った。だいたいこれは日本国内に住んでいる人が対象だが、インターネットに国境はなく海外からでもアクセスできるし、OSに日本語フォントさえ入っていればどこの国にいても読むことも投稿することもできる。私のPCは日本語版だから問題はないが、中国語のフォントも入れてあるので中国のホームページも読めるし、中国語でEメールを送ることもできる。
  私が作ったトピックは、「地域情報」の「世界の国と地域」ジャンルの「中華人民共和国」のカテゴリーに「北京在留邦人、集まれ!」と題し、北京在住の皆さんの投稿を呼びかけたのであった。そうすると、留学生や駐在員などたくさんの人が投稿してくれたし、北京以外の天津、アモイ、台湾に住む日本人も投稿してくれた。そうして情報を交換したり、いろいろ意見を交換したり、つれづれにパソコンを通しておしゃべりを楽しんだりするのである。投稿する際に自分のメール・アドレスを公開すれば、見た人から直接メールが来て、メールのやり取りが始まったりする。投稿してくれる人の中には日本滞在経験のある中国人や、今は日本に住んでいるが北京に住んだことがあるとか、あるいは北京が好きだとかいう人もいた。また、これから旅行で北京に行きますという人も投稿してくる。
  そして、こういった掲示板で恒例なのが、顔も知らない投稿者たちが実際に会って話をしようという催しがある。これを「オフ会(オフライン・パーティー)」というが、私の自分のトピックのオフ会を四回ほど開いた。いつも友誼賓館のレストランであり、その時々で中華料理であったり日本料理であったりしたが、いつも五人から八人ほどが参加してくれた。たいてい北京で日本人一人で孤軍奮闘している人たちばかりで、情報や意見を直接交換したり、慰めあったり励ましあったりで有意義な会であった。
  インターネットとりわけこの「掲示板」のおかげで貴重なふれあいができたし、北京においてかけがえのない仲間ができたと思う。北京に来たばかりの頃、周りに日本人がいなくて寂しい思いをしたのがうそのようだ。インターネットは本当に自分の視野や世界を、この上なく広げるものである。

31、Be-Naviとオフ会

  北京でもう一つ日本人のネットワークとなるものとして、日本人の手によって北京在住の日本人を対象に編集された雑誌である。この手の雑誌は広告収入で生計を立てているので、読者には無料配布であり、日本人会や日本人がよく行くホテル、レストランなどに置いてある。北京では今のところ三種類あり、いずれも月刊誌で、一つは『Beijing Navigator』(通称は略して『Be-Navi』、「ベーナビ」と読む。中国語では『北京領航』)、もう一つは『トコトコ』という雑誌である。もう一つは雑誌とおいうより新聞形式の『北京かわら版』で、これだけは日本人会の名簿を元に日本人会会員全員に無料で郵送してくれる。
  『トコトコ』の方が古いのだが、私が一番かかわったのは『Be-Navi』であった。一九九八年九月創刊のこの雑誌は、装丁はなかなか本格的なものである。「北京を過ごしやすくする、日本人のための生活ガイド」と銘打たれており、内容は北京の今の流行、観光や生活情報、法律相談、北京市内の博物館やコンサートホール、劇場などのイベント情報、「浦島太郎にならないために」という日本の最新情報などのほか、毎号特集記事がページを飾る。これまでの主なものは、「スタジオ記念写真」、「ホームパーティーのノウハウ」、「インテリア雑貨の購入」、「秋のイベント」、「北京のコンピューターとインターネット事情」、「秀水街での買い物」、「週末のアウトドア・スポット」、「大連旅行」などがあった。また、無料配布のこの雑誌の収入源である広告もかなり充実していて、それはそれで貴重な情報源である。もちろん「雨後のたけのこ」の日本料理屋のものも多く、それらは日本人会の会報でも情報は得られるが、『Be-Navi』の特徴として、北京には少なくて北京に住む日本人にとっては貴重な存在の日本人向け洋食レストランの広告が充実していることである。例えば、パスタ専門店や、イタリアン、フレンチが手軽な料金で楽しめる店なども掲載されている
  また、『Be-Navi』も『トコトコ』もともに、インターネット上にウェブサイトも開設している。また、どちらかというと駐在員向けである『Be-Navi』のサイトの兄弟分として、留学生向けの「北京留学生通信」のウェブサイトもある。また、ネット上の在北京日本人向けサイトとしては、前記の『北京かわら版』を発行している会社「コマース・クリエイト」のサイトや、北京の情報を提供する「北京のイロハ」などがある。さらには、『トコトコ』がそのホームページに「掲示板」を設けているのに対し、『Be-Navi』は「メーリング・リスト」を主催している。メーリング・リストとは、あるアドレスに情報お便りをメールで投稿すると会員登録している人全員にその投稿が一斉にメールで配信されるというシステムである。それに対する返事もまた全員に配送され、そこでコミュニケーションが生じるのである。このメーリングリストのおかげで、中国人である妻よりも私の方が北京の出来事や情報については詳しくなった。
  ほかに、日本人ではなく中国で開設された中国を紹介する日本語サイトには、『人民日報』の日本語サイトなどがある。また噂によると、『北京週報』は近々英語版以外は雑誌としては廃刊となり、ウェブサイトとしてのみ存続させる方針だそうだ。
  その『Be-Navi』のメーリングリストのオフ会も開かれたので、私は出かけた。こちらはきのこ鍋の専門店で約三十人ほどが集まった。二次会は三里屯の、このメーリングリストの会員でもある日本人が経営する「スシヤ」でであった。店名は「スシヤ」で確かに「すし」もメニューにはあるが、実は洋風のレストラン・バーであった。造りも地中海の雰囲気を意識しているようだった。客は日本人も多かったが、三里屯という土地柄か欧米人もその半分を占めていた。隣のテーブルには、映画「ラストエンペラ」で、ジョン・ローンになる一つ前の若い世代の皇帝溥儀を演じていた俳優も来ていた。
  私にとっては、これらの情報誌について残念な思いがあふれている。なぜもっと早く、私が北京に来たばかりの独りぼっちで寂しい思いをしていた頃になかったのかということである。そろそろ帰国という頃になってから、急に次々と創刊された。だから、今北京にはじめてくる人たちは幸せだと、私は思う。

  Be-Navi  http://www.navigator.co.jp/

  北京のイロハ http://www.pekinjp.com/

  コマースクリエイト  http://www.age.ne.jp/x/commerse/

  トコトコ  http://www.tokotoko.com/

33、さよなら北京

  私はあさって、北京を離れようとしている。四年前の三月二十七日の、北京行きを間近に控えた時の気持ちを思い出す。かつて日本人会の催しで、懸賞で日本への往復航空券が当たるというのがあった。その時司会者は、「往復」というよりも「片道」航空券がほしいですねと言った。その時、その言葉に共感を覚えたが、今やついにその「片道」航空券を手に入れた。今は去り行く北京への感傷よりも、日本での新しい生活に思いを馳せて胸が高鳴っているが、果たしていざ帰ったらどのように北京への思いを感じるであろうか今は想像もつかない。
  中国に来てから私は、東海林太郎が歌う「麦と兵隊」の歌詞の「遠く祖国を離れ来て、しみじみ知った祖国愛」という一節が心に染みるようになった。その歌は軍歌とまではいかずとも戦時歌謡だからと顔をしかめる向きもあろうが、かつて敗戦直後の「軍歌は一切まかりならぬ」といわれた時代に米軍軍楽隊が日本人の前で「軍艦マーチ」を演奏し、それが世界の名曲であることを再認識させようとしたように、芸術性はイデオロギーを越える。事実、台湾海峡両岸にきな臭いにおいが立ち込めようとも、北京では台湾歌手のコンサートが超満員であるし、かつては「戦時中の歌だから中国では歌わないように」と中国旅行ガイドブックにその曲名が挙げられていた「何日君再来」や「夜来香」などは、今や北京でリバイバル・ヒットして町中に流れている。
  では、もうすぐ帰国する私の心である。

  ――天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも――

  言うまでもなく有名な阿倍仲麻呂の歌である。今の私は、この歌の心境である。
  私は以前、この歌について甚だしい誤解をしていた。その誤解を解いてくれたのが、辻原登氏の『翔べ麒麟』であった。たいていの人はこの歌が、はるかな唐土にあって祖国日本を偲んで詠んだ「望郷の歌」であるととらえているであろうし、私もそう思っていて教師時代に生徒にわざわざそう板書してまで教えた。だがそれは、帰国しようとしたが果たせず、異国の地で死んだという阿倍仲麻呂の経歴に振り回されての誤解なのである。問題は仲麻呂がこの歌を、いつ詠んだのかである。もし日本へ帰れずに再び唐に戻ってから詠んだのであったら、それは望郷の歌であろう。しかし彼はこの歌を、帰国に際して船出の時に詠んだのである。つまりその船が難破して再び唐に逆戻りし、唐の地で客死することになるなどという自分の運命については、彼自身がまだ知らなかったのである。彼は間違いなく日本に帰国するつもりでいた。その時に詠んだのである。だからこの歌は望郷の歌などではなく、「さあ、これから懐かしい日本へ帰るぞ」という「希望の歌」なのである。だからこの歌は、今の私の心境なのである。
  ちなみに、西安の興慶宮公園へ行くと阿倍仲麻呂の記念碑があり、その側面にこの歌が漢詩に直されて刻まれている。

    翅首望東天
    神馳奈良辺
    三笠山頂上
    想亦皎月圓

  ここで少し余談。この歌は五言だが、中国の詩には七言もあって、こちらの方が現代にまで息づいている。どうも七言というと日本人には高校時代の漢文の時間に習う古い詩というイメージがあるが、現代でも中国人には日本人にとっての七五調の歌の歌詞と同様な感覚でそのリズムが受け止められている。つまりは「一・二・三・四、一・ニ・三」のリズムであるが、日本では平安時代の今様あたりから端を発した七五調が学校の校歌、童謡、演歌、果ては時代劇の主題歌などに根づいているのと同様、中国でも七言にメロディーがつけられて歌われたり、なんとテレビコマーシャルのキャッチにまで七言が使われている。
  もっとも日本人が七言の漢詩を読み下してしまうと、この定型のリズムは完全に壊れてしまう。漢詩とはもともと定型詩なのに、日本語の読み下しは散文詩となってしまうのだ。
  これはまだ北京に行く前の話だが、ある中国人に中国の漢詩を日本語で読み下して聞かせたところ、その中国人は「中国文化への冒涜だ」とか言って怒りだしたものである。読み下して散文にしたものばかりを高校で教え、それでいて生徒に「韻字」や「韻を踏む」ことなどを理解させようとしてもこれは至難の技である。
  閑話休題(それはさておき)。この手記の最初の方で私は、11年前に比べての北京の変わりようについていろいろ述べたが、今回来てからの四年間でも北京は急激な変化を遂げた。職場の前の道路もかつては一応舗装はされていてもでこぼこ道で砂ぼこりがひどく、雨が降るとまるで海になったものだが、今は完全に日本の大通りと変わらなくなった。友誼賓館の前もなんだか雑然としていたが、今では高層ビルが立ち並んでいる。
  そして帰国旅行として、私は再び上海と蘇州を訪れた。
  上海の変わりようも前に書いたが、あれから三年半たって再び訪れる上海はまたさらに、北京よりも一段と変貌を遂げていた。上海が変わっても相変わらず昔のままだなと思っていたバスも、今では二両編成は姿を消しつつあって、日本のバスと変わらない形のエアコン付きの奇麗なワンマンバスになっていた。新しい道路もかなりできており、地下鉄は切符の自動販売機も登場して、改札はすべて自動改札になっていた。繁華街のセンスも、日本や欧米並みだ。そういった点で上海は北京よりもはるかに進んでおり、上海人が「北京は田舎だ」と言うのもうなずける。蘇州も上海の近郊都市として様変わりし、中心部にはデパートが立ち並ぶ。蘇州へ行ったのは十七年ぶりだったが、昔は田舎町で、観光地も砂ぼこりの中を外国人観光客の団体の観光バスが来るくらいであった。今でも外国人観光バスは来るが、それ以上の数の国内観光客の群れがいる。感覚も日本の観光地と変わらなくなっている。ホテルもまたしかりで、私たちはシャングリラ系の四つ星ホテルに、オープン記念サービスと言うことでツインに280元(約4000円弱)で泊まることができた。列車の寝台車も奇麗で、今は外国人だからといってわざわざ「軟臥(一等寝台)」に乗る必要もない。日本と違うのは、車掌が検札に来た後、その同じ車掌がビールなどの車内販売までするのである。列車の話が出たついでに、「交通事情」のところで書き忘れたことを記しておこう。日本ではすでに死語となり、若い人はその言葉の意味をも知らないであろう「チッキ」が、中国ではいまだに健在である。飛行機の託送荷物同様に乗客が自分の荷物を預けてもいいし、また本人は乗らないで到着駅に別の人が取りに行ってもいい。つまり、郵送代わりにもなるのである。私の妻も自転車で北京西駅まで行き、そこで自転車をチッキにして、到着駅でその自転車を受け取って、それに乗って実家まで帰ったりした。
  中国の列車において昔と比べてずっと快適になったことの一つは、外国人が乗っているからといって好機の眼で見られたり、あれこれやたらに取り囲んで質問攻めにされたりしなくなったことだ。日本でと同じように、外国人がいても普通の中国人がいるのと同様に彼らは平然としている。それだけ中国が開放された証拠であろう。昔(15年前)はこうではなかったのである。
  また、記念旅行は上海ばかりでない。四年前に北京に北時の最初の日曜日にさっそく故宮へ行ったが、北京を離れる最後の日曜日にもやはり故宮へ行った。故宮は全部見ると一日では足りないくらいだが、外国人団体客はこれを二時間くらいで見てしまう。メーンの建物のあたりは外国人がいっぱいだが、脇に入ったこじんまりとした見所には中国人観光客の姿があるだけである。こんな世界的観光地が自宅からバスで一時間ほどのところにあったのだから、私は幸せだったかもしれない。そこにいる外国人たちは、これを見るためにわざわざ飛行機に乗ってきたのだから。
  こうして4年間にわたる北京での私の長い旅も終わるわけだが、北京滞在のはじめのころは自分自身が15年前の感覚を引きずって恥ずかしい思いもしたし、中国に対する見方も変わったと思う。今は中国を、日本と遠い存在には考えていない。もっとも、完全に同じというわけにはいかないが。
  今後また何年かして再び訪れた時、中国がどう変わっているかが楽しみである。いづれにせよ、旅行などの短期の滞在では味わえないことを味わい、学んだと思う。
  この手記も、これで最終回である。

          (おわり)

   2000年3月27日記す



帰国1年後の手記

  今日、2001年3月26日は、私が上記の手記を脱稿してからちょうど1年目に当たる。1年前はあと数日で帰国ということで浮き足立っていたが、今は妻が来日1年目で初めての一時帰国を数日後にひかえて浮き足立っている。
  ここ1年で私は日本を満喫して帰国とまた同じ季節を迎えたわけだが、やはり北京が恋しくなる時もある。かつてロシアに漂流した大黒屋光太夫はロシアにいる間は日本が恋しくて恋しくて日本に帰りたいという一念で暮らしてきたが、逆に日本に帰ってからは死ぬまでロシアを恋い焦がれ続けたという。しかし、私は中国が恋しくてまた行きたいが、もう住みたいとは思わない。4年間暮らした町を見に行きたいという気持ちはある。ぜひ、またあの道を歩きたい。あのバスに乗りたい。ボーっとしていても北京の街角が頭の中に浮かぶことも多い。テレビに中国が出ると嬉しいし、中国映画がテレビで普通話の字幕で放送されたら必ず見る。町でふと中国人を見つけると嬉しくなってもしまう。帰国してからも道路を横断するとき、まず先に左から見てしまう癖が半年ぐらいは抜けなかったものである。
  だが、もう一度北京に住むのはごめんだ。ただ一つだけ、絶対的に北京がよかったなあと思うのは、職場である。とにかくてきとうだった。みんながいい加減だった。それだけに自由で、のんびりと仕事ができた。そんなぬるま湯に4年間も遣ってしまった私は、日本の企業のペースにはどうしてもなじめず、仕事では苦しい思いばかりしてきた。日本の資本主義のサイクルに入り込めずにいる。よく中国人にとって日本は「行ったことがないものは行きたがり、行ってしまったものは帰りたがる」といわれるが、その気持ちが分かるような気もする。
  今回帰国してから、中国へ行く前は知らなかったものが見えてきた。それは在日華人ネットワークである。日本にいる中国人は恐ろしいほどに結びついている。私が中国帰りだからこそ、そのようなものに敏感になるのであろう。これまで私は、北京で日本人が北京在留日本人対象に発行している「Be-Navi」や「トコトコ」などの雑誌について紹介した。だが、一般の日本人の目にはあまり触れないであろうが、日本で中国人が在日中国人対象に発行している中国語の新聞などはその比ではなく、なんと何十種にも及ぶ。
  仕事は中国での仕事が俄然(ラク)であったが、生活はやはりなんと言っても日本がいい。日本の季節は、やはり日本人の体質に合っている。春は桜を見ないと始まらない。去年、5年ぶりにとっぷりとクリスマス気分に浸れた。正月の初詣でに行くと、やはりみな同じ日本人なのだなあと思う。
  私が「ああ、日本に帰ってきてよかったなあ」としみじみ思ったのは、秋葉原を歩いていた時であった。北京の中関村では、やはりこうはいかない。一般向けのCD−ROM付きの雑誌など北京ではほとんどないし、展示されているパソコンを実際に触れるだけでも嬉しい。何よりも最高なのは、言葉が通じることである。私は帰国したばかりの頃、電車やバスの中で雑談している人たちの話の内容がわかることが新鮮であったし、他人の話の内容に聞き入ってしまったこともあった。
  いまや中国人の服装は日本人と全く変わりなく、特に若い女の子なんかは実におしゃれだ。ところが北京にる頃に朝の通勤の人々を見て感じたのは、どんなに顔も服装も同じであっても、この人たちの胃袋の中には自分の胃袋とは違って揚げパンやお粥が入っているということだった。だから、この人たちと自分は絶対に違うと痛感してしまった。かわいい女の子がいるからといって名前を聞いても、「優子よ」とか「由美よ」とかいう答えは返ってくるはずもなく、たとえ日本語が話せたとしても「陳〇〇です」とか、「王〇〇です」という返事しか期待できない。今は朝の通勤電車にぎゅうぎゅう詰まっている人々の胃袋の中には、自分と同じご飯や味噌汁、あるいはトーストとコーヒーが入っているのだ。
  やはりこの日本の、東京の中にあの北京での職場がぽつんとあったら最高だとふと私は思った。
  この1年で、国際情勢も変わった。台湾では国民党が倒れた。そもそも共産党との戦争に敗れた国民党が台湾に立てこもったのが台湾問題の発端であったはずなのに、その国民党が台湾のトップではなくなったというのは、台湾当局の存在を定義づけるエポックになりそうだ。私の職場だった『北京週報』はついに廃刊となって、Net上のみで存続しているという。北京ではすでに地下鉄東西線が開通し、郊外の都市鉄道も建設計画が発表されたということだ。そんな北京に、また再会できる日を楽しみにしている。
        2001年3月26日 記す。

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