6年後の手記(2006.8)

  あれから6年の歳月が流れた。前にも書いたように北京から帰国後1年目で妻は一度里帰りしたが、私は6年間の一度も中国に行くことはなかった。そして2006年8月、私は妻の里帰りに合わせて6年ぶりに中国大陸の土を踏んだのである。
  この6年、中国国内では2008年のオリンピック開催が決定したり、反日運動が高まったりというニュースは耳にしていたし、私自身この4年間専門学校で中国人留学生を相手に中日翻訳を教えていた関係で毎日多くの留学生と接し、中国の最新情報は耳にしていた。だから、6年の間、全く中国と無関係の生活をしていたわけではない。インターネットでも中国の情報は手に取るように分かる。だが、実際の自分の目で見てはいなかったことは事実だ。
  私自身は、妻と二人の生活に、子供が一人増えたことだ。そして、今度の里帰りは2歳半になる息子を連れての、三人での里帰りだった。
  北京に着いてその日のうちに妻の実家の河北省の農村に行ったので、北京の町は空港から北京西駅までの道のりをバスとタクシーの車窓から見ただけだったが、自分の意識の中ではまだ東京にいるような感覚が残ったままだった。そうして農村に行き、時間に追われる日本での仕事から解放され、日頃の心願であった「たっぷり寝ること」や「昼寝をすること」も実現した。1日睡眠時間4〜5時間の生活から抜け出て9時過ぎまで寝て、朝ご飯を食べて午前中は畑の中をぶらぶら散歩。昼食後は夕方まで昼寝し、夕食。そんなのんびりとした生活となった。だが、それだけでなく、ものすごい大きな変化が、中国の空気を吸ううちに自分の中で生じていた。
  前に帰国1年目の時に、「もう一度北京に住むのはごめんだ」などと書いたし、今回出発までこの気持に変わりはないと思っていた。だが、何かすごくいい。中国がである。自分が中国にいることがうれしかったし、むしろ自分が中国にいることが自然だとさえ感じられた。こんなに中国に着いた途端に中国に愛着を持ってしまうとは、出発前には想像もできなかったのだ。そして、「また、この国で暮らしたい!」という思いが、ひしひしと湧いてきた自分が不思議でさえあった。田舎の人々からは反日感情の欠けらも感じることはなく、接したのが家内の親戚ばかりであったからかもしれないし、また多くの人はそういう感情があっても表面に出さないだけかもしれないが、とにかく日本に対しては昔ながらの友好的な態度というふうにしか私には感じられなかった。なお、この時期に小泉首相の靖国神社参拝問題が起ったのだが、中国のニュースで靖国問題については中国の反対運動などは一切報道されず、 なぜか日本国内の日本人の団体による首相の参拝反対デモばかりがクローズアップされて報道されていた。 15日当日、この日はお盆であるが、中国にはお盆の風習はないにかかわらず(お墓参りをする日は清明節といって別にあり、それは4月である)奇しくも妻の母の実家に行くことになり、妻の祖母も健在で(うちの子どもの曾祖母になる)、親戚が40人近く集まってきて宴会となった。だが、小泉首相の靖国参拝のことは話題にもされず、平穏な一日だった。
  長い田舎滞在を終えて北京に戻った時、気持は最高潮になった。田舎もいいが、やはり北京こそわが町という感じだ。そして、「あ、ここにこんな高いビルができている!」「こんな店ができている!」と興奮で、特に前に北京に住んでいた時に恋い焦がれた洋食のレストランや日本と全く同じ喫茶店が、あちこちにあるのだ。昔はそれらを利用するためにはわざわざ大きなホテルまで出向かねばならなかったのだが、今は全く一般庶民のものとして町中に点在している。そうして変わった町の様子を楽しむとともに、その中にある昔と変わらない懐かしい風景を見出してはまたうれしくなった。
  早速かつての職場の『北京週報』社を訪ねたが、前に書いたように『北京週報』誌日本語版は雑誌としてはもう存在せず、オンライン上でのみ存続している。人員も20人ほどいた日本語部従業員は5人に減り、老人たちはすべて姿を消していた。パソコンもかつてWin98の時代にWin 95を使っていたりしたが、今ではちゃんとXPが入っていた。
  北京が田舎の保定と決定的に違うのは、北京には多くの外国人が歩いている。そしてバスもきれいになった。昔ながらのバスもあることにはあったが、きれいなエアコン付きで二両編成ではないバスも数多く走っている。バスといえば、日本のようなバスカードがあり、それもタッチするだけの首都圏のJRのSuica方式で、機械を通す日本のバスカードよりも進化している。
  バスの中で、一つ感動したことがある。上記のように私は今回は子連れだったが、日本では子供を連れてバスや電車に乗っても、席を譲ってくれる人はいることはいても少ない。多くの場合、空いた席がなければ子供も立ったままだ。ところが北京では、必ず席を譲ってくれる。時には複数の人が譲ってくれようとして一斉に席を立つので、どの席を譲ってもらうか悩むほどだ。得てして中国の店員などは笑顔が少ないが、子供には笑顔を見せて手を振ってくれるのだ。
  昔、よく行っていたデパートも、内装がさらにきれいになっていた。そしてその地下にはイタリアレストランもできていて、従業員の態度も日本と変わらないくらい丁寧で親切であり、営業スマイルが完全に身についていた。以前は口こそ丁寧だが、決して営業スマイルを見せない店員がほとんどだったのである。
  さらに、道行く人の服装、特に若い女性でドキッとするような美人が非常に多くなっていた。若者の服装については、私が日本で教えている中国人留学生の服装もスタイルも、電車の中で誰が彼(彼女)らを中国人と思うだろうかと思えるほどで、美人の学生も多い(学生といっても留学生は23歳〜30歳くらい)。だが、それは彼らが日本に留学しているからで、日本に染まって日本に溶け込んだ結果だとしか思っていなかった。しかし、そうではなかったのである。北京の町を歩いている若者のすべてが、私が教えている留学生と同じだった。6年前にも「中国の女の子はおしゃれになった」などと書いたが、そのときはどこかまだちょっと「違う」という部分があった。しかし今は、「おしゃれになった」などとわざわざ書くのがおかしいくらい、全く日本の若者と「同じ」なのである。6年前だったら「あれ、あの人、日本人留学生かな?」と思うような感じに、すべての北京の若者がなっている。美人が多いという点では、日本以上だろう。26年前に初めて訪中した時、若者がまだ皆人民服を着ていた時代と比べると、同じ国とは思えない。ただし、余りにも日本と同じになりすぎて、かつて6年前に書いた猛暑の中での女性の、下着がほとんど透けて見えるシースルールックは完全に姿を消し、その分寂しかった。
  町の様子も一変し、高層ビル(大連や上海ほどではないが)が林立し、立体交差がくねるだけではなく、全体的に垢抜けし、洗練された広告なども増えて、東京の街を歩いているのではないかという錯覚さえしてしまったことがしばしばだった。地下鉄も、郊外に向かう新線が開通していて、その始発駅は巨大なターミナルビルだった。
  やはりオリンピックに向けて、町全体が変わりつつあった。あと2年で、北京はもっと大きく変わるだろう。その時また私は、この北京にいるだろうか? 今、日本に戻ってこれを書いているが、まだ心は北京にあるようである。
          2006年8月24日  記す