中国人と一口で言っても、それぞれ個性はある。だが、日本人が中国人について持つイメージは、たいてい一致している。まずは、勤勉であり、努力家であるということである。前にも書いたように、日本人留学生が三年生になってもほとんど中国語がしゃべれないのに対し、日本語を勉強する中国人学生の三年生はぺらぺら日本語を話す。ただ、いつも新聞ばかり読んでる『北京週報』のスタッフを見ると「?」だが。
ただ、「何に対して勤勉か」かということについては、昔とはずいぶん様変わりしているように思える。昔は「国家のため、人民のため」であったが、今は「個人的な金もうけのため」だと思われる。「為人民服務(人民に奉仕)」と前はよく言われたが、今はそのような言葉はあまり聞かない。「向前看」(前向きに物事を見る)という言葉は、同じ「シャンチェンカン」という発音の「向銭看」(金向きに看る)に置き換わった。一昔前に子供に将来のゆめはと聞くと科学技術者という答えが多く返ってきたものだが、今では「会社の社長」と子供たちは答える。
また、とにかく中国人は「
中国人についての印象を、ひとことで「うるさい」と言う人もいる。確かに中国人には、声が大きい人が多い。しかも、朝っぱらから元気がいいのだ。だいたい朝には頭がボーッとしていて、昼が過ぎたら元気になるものだが、中国人にそれを言うと変だ変だと言う。普通は朝が元気で、午後は疲れて何もする気がなくなるものだという。それが中国人の「普通」なのらしい。さらには、遠くから大声で人の名前を呼ぶ習慣がある。例えば電話がかかってきて、そのお目当ての人が部屋にいなかったとする。そこでその人を探しまわったりせずに、廊下に向かって大声で名前を呼んで終わりだ。また、大きな声で歌を歌いながら廊下や道を歩く人も多い。「お国柄が違う」と言ってしまえばそれまでだが、それでも「お国柄が違う」としか言いようがない。通勤送迎バスは外国人のためのものだが、一人だけ中国人女性が便乗している。それがまた、運転手と話す声がやたら大きく、うるさくて閉口した。外国人たちは静かにしているか、話しても小声である。職場でもそうである。以前は大部屋のコンピューター室で、中国人スッタフとともに仕事をしていた。その部屋で彼らは、勤務中にもかかわらずピーピーキャーキャー大騒ぎである。そもそも翻訳という仕事は、精神を集中させなければできるものではない。何度静かにしてくれと頼んでも、一向に効き目がない。とにかく、何をうるさく話しているのか、話の内容が分からないだけに余計イライラするのである。そこで我慢できなくなった私は、とうとう個室を要求して移った。いやだとかそういう問題ではなく、仕事ができないのである。若い女の子たちがうるさいのは日中共通のことだからまだ許せるにしても、中国では大の大人の男がうるさい。町の一般のバスや地下鉄の中は、いつも大騒ぎである。逆に中国人が日本に来ると、電車の中がシーンとしているのが気持ち悪いと言う。そんな日本に、一時帰国した時のことである。電車の中でキャーキャー騒いでいた女の子の一群がおり、その時そばにいた老紳士が「君たち、ここは公共の場だよ。静かにしなさい」とビシッと言って黙らせた。私は胸がスーッとして、その老紳士を中国へ連れて行って意見してもらいたいと思った。
中国人が朝が早いということについて、ある時日本人会が中国人を対象にバザーを企画した。その時、恐らく日本人の感覚で「午前中はどうせ人は来ないよ。来るのは午後からだよ」と考えたのであろう、十時開場夕方四時までとした。ところが当日、朝の八時頃から行列ができ、十時に開場したあとは人がごった返して収拾がつかなくなった。そして午後は、ほとんど人がいなくなったのである。中国人からすれば、なぜこんなに遅く開けるのかといった感じであっただろう。私の初出勤の時のことを思い出しても、送迎バスがあると聞いており、時間は初出勤の前日に電話で聞いた。恐らく始業は九時からで、友諠賓館から職場までだいたい十五分くらいの距離だから、バスは早くて八時半かせいぜい8時45分くらいだろうと思っていた。ところが何と7時50分だという。私は自分の耳を疑った。一時間間違えているのではないかとさえ思った。始業は『北京週報』は8時半だが、外文局のほかのセクションでは8時のところもあり、それに合わせているのだということである。その代わり、終業が4時半である。帰りは少しくらい遅くてもいいから朝をゆっくりにしてもらいたいというのは、日本人的感覚なのであろう。
私が中国に来て生活習慣の違いに驚いたことは多々あったが、職場で私の歓迎会をしてくれるというので、その日は帰りが遅くなるものと考えていた。ところが、歓迎の宴会は何と昼食だったのである。しかも中国ではそれが普通だという。職場のスタッフの半分は女性で、しかも子持ちの主婦である。そういう人たちにとって、退社後の夜の宴会は都合が悪いということなのだそうだ。その宴会では、午後もまだ仕事があるというのに、みんなビールをがぶがぶ飲んでいたのにもまた驚いた。なお、忘年会も新年会も昼食である。
話は変わって、悪口を言うわけではないが、中国人は公共道徳に欠けるところがあるというのが正直な感想である。職場でも、開けたドアを開けっ放しで閉めて行かない人が多い。また、もし自分の子供がバスの窓からゴミを捨てたら、日本なら親は怒るであろう。ところが中国では、自分の子供が見ている前で親がバスの窓からゴミを捨てる。また、二十歳くらいの最新ファッションに身を包んだロングヘアーのかわいい女の子が、彼氏とデート中にペッと道端にたんを吐く。男の方も、別にそれを気にとめない。日本人男性なら、自分の彼女がそんなことをしたら百年の恋もいっぺんに冷めてしまうであろう。
さらに言えば、欧米人がプライバシーというものを大切にするのと対照的に、中国人はプライバシーを尊重するといった意識が希薄である。友諠賓館の従業員が掃除などで室内に入って知ったその部屋の人のプライバシーを、よその部屋の人に平気で話すのには閉口した。うちの妻もほかの部屋のだれそれがいつ帰国するだの、浮気してるだの、実によく情報を知っている。全部従業員から聞いたのだという。よその部屋の人の情報がこんなにも入ってくるということは、こちらの情報もあちこちに広まっているはずである。これは友諠賓館の従業員に限らず、職場でもそうである。そのことを注意すると、「なぜ秘密なんですか?」と逆に聞かれる。彼らは「秘密」と「プライバシー」の区別がつかないらしい。
よく日本で、中国人には部屋を貸さないと言う大家がいる。以前の私は「そういう差別はけしからん」と憤慨していたが、実はそれは差別ではなく生活習慣の違いから実害を被るからだということを、自分が中国に来て理解できるようになった。
日本人から中国人の「あら」が見えるように、中国人からも日本人の「あら」が見えるはずである。ただ、ここでいう中国人が見た日本人で日本人を判断されても困る。なぜなら、今では昔よりはるかに日本へ行ったことがあるという人が増えたが、それでも中国の全人口に比べればほんの一握りであろう。つまり、大部分の中国人は、中国に来ている日本人を見て「日本人は……」と判断するのだ。はっきり言って例の三人組みの留学生ではないが、短期観光者や会社の命令で来た駐在員は別としても、自分の意志で北京に来る日本人は一風変わっている人が多い。一風変わっている人を日本人の典型にされたら困る。大学時代も語学でクラスが分けられたのだが、ちょっとミーハー的な人が多いのがフランス語クラス、学究型のタイプが多いのがドイツ語クラス、そして変人が多いのが中国語クラスといわれた。三年くらい前にお台場で「フランス祭り」があった時ちょうど一時帰国していたのだが、「ゆりかもめ」にも乗れないくらいのすごい人出だった。もしあれが「中国祭り」だったら、こんなに人は集まっただろうかとふと思った(それでも休日の横浜の中華街は人であふれているが)。
そんな状況を踏まえてあえて言うなら、中国人の日本人に対するイメージは、まず勤勉であるということだ。しかし前に中国人が「勤勉」であると言ったのとは違う意味での勤勉で、いわゆる「仕事の虫」という嘲笑的意味が込められている。だが、日本人の勤勉の裏には、その分の報酬を得られるということを彼らは知らない。また、日本人は金持ちであると誰もが思っている。まず、日本の会社は給料が高いという。日本人の30万円という月給は、彼らの感覚では日本人にとっての3000万円と同じである。そして彼らの論理は「それだけの給料を自分がもらったら、」ということになっていろいろ話し出すが、それは「北京にいたら」ということを前提としている。日本では高い給料をもらっていても、それでも生活が苦しいくらいに物価が高いということをなかなか理解しない。
もっとも彼らがそう思うのは、北京にいながらにして日本と同じ給料をもらっている駐在員たちの姿を見ているからかもしれない。駐在員たちは中国人たちが足を踏み入れることもできない三里屯の高給バーで、札束をはたいて飲み歩く。中国は通貨の単位が100元が最高だから、日本円を10万円も両替したら、分厚い札束になる。だから「日本人は金持ち」というイメージになる。彼らは、日本人なら留学生でさえ金を持っていると思っている。そんなイメージに凝り固まった中国人を日本に連れて行き、新宿のホームレスを見せて、「これも日本人だ」と言ってみたい。
また、観光客に対しても然りである。あまりにもたくさんの日本人観光客が北京に来るものだから、日本人なら誰でも海外旅行ばかりしていると中国人は思っている。そんな日本人観光客とレストランで同席したりして、燕京ビールが出てきて10元ですと言われ、彼らはびっくりする。日本人が行くようなレストランだからビールもそれくらい取るのだが、普通燕京ビールは2元50銭、町中のレストランでもせいぜい3元である。その10元の燕京ビールを、日本人は「10元は140円だから、うわっ、安いね」なんて言うものだから彼らはまたびっくりする。10元のビールは彼らにとって、日本人の1000円に相当するのである。
そんな駐在員たちでも、二種類あると思う。まず、自分の意志ではないにせよせっかく外国に来たのだから何とか溶け込んで、多くのものを吸収しようとするタイプ。もうひとつは、自分が外国にいることを意識上だけでも否定して、日本にいるのと同じ状況を保とうとするタイプである。特に、まだ本人は会社のためということもあろうが、無理やり連れてこられた奥さんや子供たちは災難で、後者になることが多い気がする。また、なれるのである。日本人専用のアパートに住めば、隣近所の付き合いはみんな日本人である。買い物もアパートの中にスーパーがあって、日本食品が何でも買える。アパートの中には日本のレストランもある。テレビも日本の局ばかり五局くらい受信できる。子供たちも日本人学校へ入ったなら、クラスメートも先生もみんな日本人である。
私自身は自分の意志で北京に来たのだから、変人であると自分でも思う。そして前に述べた二つのタイプのうちのどちらかというと、最初の半年は前者だった。ところが半年くらいでノイローゼ気味になり、後者になった。だが私の場合、妻も中国人、職場の周りの人も皆中国人だから仕方ないと自分で自分に同情する。だから、自宅に帰って一歩ドアの中へ入ると、そこはもう日本だと思っている。休日に出かける時も、「ちょっと中国に行ってこよう」という感じである。観光旅行でしか外国へ行ったことがなく、住んだことのない人は「せっかく行ったのに、もったいない」と思うだろう。しかし、住んでみたらこの気持ちは分かるはずである。ただ、中国人の妻をもらったおかげで、中庸を保つことができ、四年ももったのではないかと思っている。妻がいなければ私は、絶対に一年で帰国していた。
一時期、日本人学校へ通う小学生たちの間で、送迎バスの中国人の運転手に、降りる際に「謝謝、再見、バーカ、中国人」と言うのが流行ったという。また、小さな子供が自分の母親より年上の中国人の「
こういった日本人の心を、中国人はなかなか理解しない。私がノイローゼ気味になっていた時も、『北京週報』の中国人スタッフは「何でですか? 私が日本に一年いた時は、何ともなかったですよ」と言った。田舎の人が都会に出てきても、少しは苦しいけれどすぐ順応するものである。だが、都会生まれで都会育ちの人は、決して田舎では生活できない。それに、やはり国民性の違いもあろう。中国人は、全世界に根を下ろしている。世界の国々で中華街(チャイナタウン)がないのは、中国だけだとも言われている。それに対し、日本は島国である。ちょっと外へ出ていってたとえひどい目に遭っても、すぐに島国の中に逃げ帰ればそこには暖かい母の懐のような環境がある。日本人が海外で根を下ろしているのは南米やアメリカのごく一部だけで、個人的に例外はいるにせよ普通は日本人は海外には集団としては根づかないものである。
よく「郷に入りては郷に従え」というが、「郷に従えない」こともある。私がよく「日本では……」という発言をすると、中国人は「ここは中国です」と言う。だがそんな時に私は、「ここがどこであれ、私は日本人です」と言うようにした。日本人も、それほどのアイデンティティーを持っていいと思う。中国人は極めて強いアイデンティティーを持っているので、それを保ちつつ「郷」に従って、世界中に根を下ろしたのであろう。それに対して日本人はなまじっかアイデンティティーを持たないがために変に「郷に従おう」として自分を見失い、最終的にはしっぽを巻いて日本列島に逃げ帰ることになるのだ。
いろいろと日本人と中国人の違いを言ってきたが、私が接してきた中国人はすべて漢民族である。中国には数多くの少数民族がいる。テレビでチベット族や新疆のウイグル族の様子など見ると、同じ中国人である彼らより日本人の方がはるかに考え方や風習が漢民族に近いのではないかとさえ思う。ただ、これまた同じ漢民族でも、政治的体制から来るのであろうが、こと文化に関しては台湾や香港の中国人の方が日本人に近い気がする。台湾や香港の中国人とはビートルズについて語り合うことができるが、大陸の中国人は「ビートルズ? 何、それ?」となってしまうのである。また、このことは前にも少し触れたが、日本人は考え方の上である意味では欧米人の方に近いということも、中国人だけでなく欧米人にも囲まれて生活している私には感じられた。それはもしかしたら「ともにここではストレンジャーである」といった連帯意識からかもしれないが、ふと自分の中で中国人と接する時に作ってしまっている心の壁が、欧米人と接する時にはなくなっていることに気づいたこともある。中国人の中には冗談で、「日本人は中国人に近いです。日本は中華人民共和国日本省で、日本人は中国の少数民族みたいなものです」と言う人もいるが、今の状況は「アメリカ合衆国日本州」と言った方がいい部分もあると私は思う。
四年間にわたる中国滞在の中で、私はいくつかの歴史的事件に遭遇した。前に述べたトウ小平氏の逝去もそうであったし、香港の祖国復帰もまたその一つだった。自分の生活とは直接関係ないことだが、周りがお祭り気分なのでつい浮かれていた。天安門広場のカウントダウン電光掲示板の前で記念写真も撮ったし、中国の五星紅旗と香港のはなずおうの旗を持って広場を歩いた。政権引継式は、中央テレビと香港の鳳凰衛視台の両方でチャンネルを変えながら見た。香港の方はただ淡々と式典の進行を告げていただけだったが、同じ画面でも中央テレビのアナウンスの方は「ついにこの日がやってきました!」などと感情が入りすぎてうるさかった。チャールズ皇太子の「早く終わらないかなあ」とでも言いたそうな、だるそうな態度が印象的だった。そしてやたら江沢民主席に私語として話しかけていたが、英語で話しかけられて江沢民主席はちゃんと答えていたのだろうか。
七月一日はこの年だけ臨時の祝日となって休みとなり、その日の夜に北京工人体育場(労働者スタジアム)で祝賀式典があり、外国人専家も招かれた。専家の席は貴賓席の隣で、入場してきた江沢民主席や李鵬総理のすぐそばだ。手を伸ばしたら届きそうな、顔の表情まで見える近さで、直に二人の貴人を目にすることができたのである。二人は夜半の香港での引継式に臨んでもう次の日の夕刻には北京にいたのだから、超ハードスケジュールで、ほとんど寝ていないのではないだろうか。飛行機の中だけが睡眠時間だったかもしれない。式典のあとで花火がたくさん上がった。それを見て、調子にのって「た〜まや〜」などと叫んでいたのは私である。
日本ではイギリスの立場から見て「香港返還」と報じたが、中国では一切「香港回帰」であり、『北京週報』ではそれを「香港祖国復帰」とか「香港復帰」と訳し、もしくは「香港における中国の主権行使の回復」などと表現した。つまり「香港を返す」ではなく、「香港が帰ってくる」というのが中国人の立場である。故トウ小平氏の「一国二制度」の構想により、香港の一切が五十年間はそのままであるという。左側通行もそのままで、一夜にして右側通行から左側通行に変わった沖縄の時とは違う。この五十年間の不変は本当だと、私は思う。人民元を切り下げないと言ったこともそうだが、中国人は面子を重んじる民族である。もし言ったことをあとで撤回したりしたら面子がつぶれるから、そのような自分の面子をつぶすようなことを中国人は決してしないと私は思う。香港が大陸化していくことを心配する人もいるが、私はむしろ大陸の方が香港復帰を機に香港化していくのではないかと思っている。
1999年5月8日、アメリカを主導とする北大西洋条約機構(NATO)は、ユーゴスラビア駐在中国大使館を爆撃した。当時の日本のメディアはこれを「NATOによる中国大使館誤爆事件」として報道したが、中国での報道には一切「誤爆」という文字はなかった。中国人すべてが「誤爆」とは思っていなかったのである。
中国駐在のアメリカ大使館を囲んで多くの学生が抗議行動を取ったのは周知の通りである。しかし、日本での報道だけ見ているとまるで北京全体が大騒ぎしていたかのようであったが、実際は騒ぎは北京のほんの一角の大使館街だけのことで、北京市の大部分では日常と変わらない平穏な生活が営まれていた。若干、NATOに抗議する横断幕などが見られた程度である。『北京週報』社でも社員がすぐに全員集められ、抗議活動には表立って参加しないようにとのお達しがあった。アメリカ人専家も、いつもと変わらない様子で出勤していた。しかしそれでも皆心の中では、決して「誤爆」とは思ってはいなかった。
それではなぜアメリカが、「故意」に中国大使館を攻撃する必要があったのか。これについて、中国側の見解はこうである。中国に言わせればアメリカは世界で覇を唱えようとする覇権主義で世界政務に臨み、ことあれば武力外交を推し進めてきた。その一貫がバルカン半島への軍事介入であるという。そして中国は平和外交という立場から、そのことに対して公然と異を唱え、非難してきた。それがアメリカにとっては眼の上のこぶであり、中国封じ込めの戦略と段取りを加速させるシグナルとして中国大使館を攻撃したというのである。さらには、NATOの精良な兵器、技術からして「誤爆」などはありえないとも言う。
私は事の真偽を決め付けるほど、情報をそろえてはいない。最初は「故意」だと言われても、そこまでする必要がNATOにあったのかと疑問だったが、中国側の主張を聞くといささか誇大表現的な感覚を受けるまでも、その主張には一理あるかもしれないという気にもなった。結局は、事態は心配されたほど深刻な方向へはいかずに収束へ向かい、私も毎日の生活に追われる一市民に戻った。あれから十カ月以上たった今になって冷静に振り返ると、やはり「故意」だったと思われる節もいろいろと私なりに思い浮かんでくる。ただその「故意」は誰の意図だろうか。単なるアメリカという一国家や、ましてやクリントン大統領個人でも、またNATOという組織のものでもないであろう。問題はそんな簡単な、小さなものではないという気がするのだ。
この爆撃によって亡くなった人の遺体が北京に戻った時は国民的英雄として扱われ、天安門広場の国旗もトウ小平氏の逝去以来半旗となった。また、尊い命を落とされた方に比べればごく些少なことではあるが、北京空港を主な稼ぎ場としているタクシーの運転手にとって、特にアメリカ方面からの観光客ががた減りになり、空港には客町のタクシーの行列ができ、収入もがぜん減ってしまったという。六月に帰国するために空港へ向かう時に乗ったタクシーの運転手が、直接私にそう言って嘆いていた。
この事件を通してふと思ったことは、もし爆撃されたのが中国大使館ではなく日本大使館だったら、日本は果たしてどのような反応を見せただろうかということである。日本の学生は恐らくあのように熱くはならずに、相変わらず彼女(彼氏)とのデートのことばかり考えていただろう。政府も、何しろアメリカ追随のアメリカ合衆国日本州政府だから、素直に「誤爆」と受け入れたかもしれない。たとえ「故意」であることが見え隠れしていても、アメリカが「誤爆だ」とさえ言えば、「はい、分かりました」ではなかったろうか。いや、「ノー」だ、「ノーと言える日本だ」などと言いそうなのは皮肉なことにあの右翼の親方くらいなもので、町でも戦闘服のお兄さんたちが宣伝カーで怒りながら走って終わりというのがだいたいのところではなかったかという気がする。
7月のある日、私は食事を作りながら流しの下の棚のわかめを取ろうとした。その日はちょうど、味噌汁を作っていたのである。その時勢いよくしゃがんだ折に、右ひざにガクっという衝撃を覚えた。翌日はそれでもびっこを引きながら出勤した。ところが夕食の頃になってひざの裏がしびれはじめ、寝る頃にはひざが腫れて曲がらず、激痛で物につかまっても歩けないくらいになった。ひざが曲がらないからベッドに上がることもできず、とうとうソファーに座ったまま寝た。それまでも私には痛風の持病があり、年に一度は年中行事として発作に見舞われていたが、その時は痛風とは明らかに違うものであった。
翌日、とにかく病院へということで妻に連れられ、市内のある有名病院に向かった。そこに日本人医師がいると聞いたからである。あとでさんざんこの病院の悪口を書くので、病院名は伏せておく。日本人の間では有名なので、職場の指定病院である協和病院をパスしてわざわざその病院を選んだのだが、確かに建物は奇麗でまるで日本の病院のようだった。だが、予想していたのと違って日本人医師というのは女医さんであり、しかも老人だった。私の症状を見ても首をひねるだけである。日本の医学レベルを期待してきたのにと不満でいると、いきなり入院を言い渡された。もう病院を出るころには自分の足で歩いて帰れると思っていた私は、頭の上に巨大に岩石を落とされたような感じだった。とにかく身辺整理のために一度帰らせてもらって、すぐに病院へとんぼ返りである。
病室は冷暖房完備の個室で、バス・トイレ付きだ。その部屋がいくらであろうとどうせ入院費用は全額海外旅行保険から出るのだから時にしなかった。むしろ、ほかの中国人と同室の大部屋だと私には耐えられない。なお、妻もいっしょに泊まっていいとのことだったので助かった。結局日本語が通じたのは最初の老婦人の医者だけで、入院病棟の医師は誰も日本語が分からなかった。妻の通訳も当てにならない。こっちが言ったことや医師が言ったことを伝えてくれず、自分が医師と話してばかりいるのだ。これはあとから知った話だが、あの日本人医師というのは人種が日本人だというだけで中国で生まれ育ち、敗戦後も引き揚げずに中国に残留して中国の大学で医学を修め、そして医者になった人だという。つまり医学水準から言えば、日本人ではあっても中国の医者なのである。
さて、それからというもの、退屈な毎日が続いた。午前と午後に点滴がある。救いは看護婦がみんな美人だったことであるが、妻の手前それは口にできない。白衣は中国独特のものでなく、日本のそれと全く同じだった。
テレビはあったが、NHKが映らないテレビなど私にとってはただの「箱」である。毎日ただ点滴ばかりで、足は一向に良くならない。医師もまだ首をかしげるばかりで、病名さえ付けられないという感じであった。病名も付けられないなら、治療法も分からないに決まっている。妻も次第に、協和病院に行っていれば今ごろは治っていたとか言い始める。私もイライラしてきた。そのうち妻がふと痛風の持病があることを告げると、医師はじゃあ痛風だと言う。冗談ではない。痛風と全く違うということは、自分が一番よく知っている。しかも持病の痛風で入院ということになれば、海外旅行保険が下りない恐れがある。だから私は痛風ではないと必死に抵抗した。しかし結局は、「痛風性関節炎」ということにされてしまった。まあ、保険は下りたから、それはいいにする。
さらに、入院と聞いた時に心配したのは食事だったが、こちらはいらぬ心配だった。日本では病院食はまずいということで定評があり、中国はそれに輪をかけていると思っていた。ところがなんと、結構というか、かなりおいしい。下手な町中のレストランよりおいしいくらいであった。しかも夕食を、日本のように四時ころ食べさせられるということもない。当たり前と言えば当たり前なのだが、それでも少し違和感があったのは、昼・夕食は全部中華料理であった。朝食だけ、バター付きトーストに目玉焼き、ホットミルクである。これも中国風のおかゆと、どちらか好きな方を選べる。
ちょうどその入院していた時に、法輪功事件が起こった。気功集団法輪功が、違法集団とされたのである。それまでも法輪功は中南海を包囲したりと、何かとお騒がせな団体ではあった。当局もついにしびれを切らせたようだ。入院中にNHKも見られずに仕方がないから見ていた「箱」の中は、朝から晩までどのチャンネルをひねっても法輪功一色となった。あの日本での、九五年のオウム報道の大騒ぎと全く同じである。日本ではオウムの記者会見を流すなど一応オウム側の主張も報道していたが、中国では法輪功の被害者にばかりスポットを当てていた。その前の年の長江の大洪水の時も報道はすごかったが、その時の比ではない。長江大洪水の時は私の職場でもその話で持ちきりで、皆かなり義援金を送っていたが、台湾大地震ときは「あ、そう?」という感じだった。普段は「台湾は中国の不可分の領土の一部」とか言っているくせに、こういう時は対岸の火事でしかないようだった。
法輪功といえば、私も職場で以前に共産党の老幹部でもあるスタッフの一人から、法輪功を解説する日本語のチラシをもらった。「よかったら読んでください」だけでそれ以上は何もなかったが、どう見ても宗教の勧誘のチラシのようである。胡散臭くもあったが、なぜ共産党の幹部がこんなものをと不思議でならなかった。あの人は法輪功の信者だったのであろうか。今でも彼は何食わぬ顔で働いている。また、妻のいとこも法輪功の信者で、今でも改宗せずばりばりの活動家であるということで、親戚一同困り果てているそうである。さらには妻の田舎の実家の近所のおじさんで、いつも私が行くとちょろちょろ庭に入ってきていた人も信者だったというが、今ではどこかへ越してしまったという。
法輪功はすでに非合法団体とされ、中国はこれをオウムのようなカルト教団と見なしている。この報道でアメリカの「ブランチ・デビディアン」や「太陽寺院」とともにやたら引き合いに出されるのが日本のオウムであるが、諸外国の目からは法輪功取り締まりは宗教弾圧に見えるらしい。だが法輪功がカルト教団であるばかりか危険な政治的集団であることは、中国国内の報道を見れば、それが大本営発表で鵜呑みにできないことを差し引いても十分に分かる。日本の報道では、法輪功に直接の実害を受けた被害者のことはあまり出ていないであろう。実名顔写真付きの中国国内でのそれらの報道は、あながちでっち上げとも思われない。それらは、金銭を騙し取られたなどといったレベルにとどまるものではない。その特徴として、法輪功の教えに従って医学を拒んだばかりに手後れになって命を落とした人ばかりでなく、その修練をしたことによって精神に異常を来した人も多い。法輪功とは宗教的に見ても、何か悪霊に取り付かれやすくなる魔術みたいなものなのだろうか。とにかくその被害者の数はオウムの比ではない。
そうこうして法輪功報道ばかりの「箱」を見るうちに日数がたち、私の我慢も限界になった。いつまで入院していてもらちがあかないなら自宅療養した方が精神的にもいいと思い、まだだめだという医者とは半ば喧嘩する形で私は強引に退院した。あの日本人医師は、「ここで退院したら、あんた一生身障者になるよ」などと言っていたが、もはや信用はできない。ほとんど強引に買わされた千元もするギプスをはめ、車椅子のまま私は退院した。その後、あれよあれよと回復して、今では走っている。「何が一生身障者だ」と思う。ギプスも結局は退院してからすぐにとって、今ではほこりをかぶっている。
こうして私の「1999年7の月」は過ぎた。この入院こそが、「恐怖の大王」の正体だったのかも知れない。足が治るまでは外出もできず、この夏は結局何も楽しいことはなかった。楽しみにしていた最後の北戴河も、おかげでボツになったのである。
毎年十月一日は中国の建国を祝う国慶節だが、1999年は建国五十周年ということで特に盛大だった。
「え? 中国はたったの五十年? 日本は建国以来もう2660年だよ」と、冗談で私は言ったりしたが、もちろんそんなことは本気で信じてはいない。中国が建国の日というのを大切にする証として、専家の労働契約書では北京の外国人専家はクリスマスのほかに自国の建国記念日や独立記念日には休んでいいことになっている。日本人にとって建国記念日は中国の国慶節のようなお祭りではなく、ただの普通の休日にすぎないことを考えると違和感があるが、休んでいいというなら休むにこしたことはない。しかし、日本の建国記念日は往々にして春節の連休の中に呑み込まれてしまう。それもそのはず、日本の建国記念日とは紀元前660年の旧暦の正月、つまり「春節」を太陽暦では何月何日になるか計算して定めた日だからである。その点、大使館などは中国と日本の両方の祝日を休むのだからずるい。中国は祝日が少なく、元旦の一日、春節の一週間、メーデーの二日間、国慶節の三日間、これだけである。合計して十三日、それでも日本より少し少ない。
さて、今年の国慶節を境に、北京の町は一変した。メーンストリートの長安街も整備され、新しい高層ビルがどんどんオープンした。新しい地下鉄も、試運転ではあるが一応開通した。王府井などは道路の表面からしてとても奇麗で、近代的でファッショナブルな町に生まれ変わった。ここは原宿か、横浜の元町かといったところである。また、前にも書いたが、第二のメーンストリートの平安里大街が北海公園の北側を、長安街と平行する形で拡張された。いかにも前近代的な、こう言い方をすると失礼だが汚い町はどんどん壊され、近代的なビルに生まれ変わった。五十周年国慶節の前の半年くらいは北京のどこに行っても工事中ばかりで砂ぼこりが舞いあがって閉口したが、それもこういう風に奇麗に生まれ変わるためだったのだと思えば仕方のないことであった。もっとも北京市民の間では、交通規制や厳格すぎる警備に不満の声も上がってはいたが……。私の住む友諠賓館の前の道も、そして職場の前の道も、来たばかりの頃とはまるで別の場所のように道も広くなって奇麗になった。また、町中至る所に花壇が作られ、北京が花だらけの町となった。もう東京に引けをとらない。ちょうど東京がオリンピックを、大阪が万博を機に生まれ変わったのと同じ状況である。もしこれで2000年の北京オリンピックが実現していたら、果たしてどうだったのだろうと少し残念である。もしそうだったら、私は2000年3月に帰国するなど後ろ髪を引かれる思いになったであろう。
私が直接参加した国慶節の行事は、外国人専家を招いての人民大会堂の宴会庁(大ホール)における招待宴である。今回は大型バスを十台くらい連ねて、人民大会堂に向かった。先導にはまたもやパトカー付きである。信号をノンストップで走るものだからほかの車は警官にストップさせられ、われわれのバスの一群が通り過ぎるまで動けずに大渋滞を起こしており、なんだか申し訳ない気分にもなった。宴会庁は、とにかく広さに驚いた。一斉に給仕する人たちも大変である。本来ならここは、VIPなどとの国宴が開かれるところだ。料理は外国人を招いてということを意識してか、一応中華料理ではあったが洋食の要素が取り入れられていた。例えば、最初はパンが出たし、普通の中華料理では最後に来るスープが洋食風に最初に来た。箸も一応は置いてあったが、主に使ったのはナイフとフォークである。挨拶に立ったのは副総理であったが、名前は忘れた。
その他の行事は、すべてテレビで見た。江沢民国家主席の閲兵、人民解放軍の行軍、各省の山車のパレードなど、さまざまな行事がブラウン管から流れてきていたが、ちょうどそのころ友諠賓館のNHKの受信装置が故障してNHKが見られなくなり、私は半狂乱になって妻に当たって大喧嘩となっていた最中だったので、あまり熱心に見てはいなかった。ちょうど十日間くらいNHKが映らなくなり、楽しみにしていた「すずらん」の最終回も「あすか」の第一週も見られなかった。それはさておき、国慶節当日のパレードの空軍の航空ショーの時は爆音が友誼賓館の上空にも同時に響いたので、ブラウン管の中の世界にとどまらない臨場感が味わえた。夜の市内各地での花火も、友誼賓館の窓から音だけ聞いた。次の日、仲直りした妻と天安門広場に行くと、そこにはパレードに使われた山車が展示されていて、まるで遊園地のような雰囲気であった。
年の香港に続いて、九九年は澳門も祖国の懐に戻った。だがこの時は、香港ほどの盛り上がりはなかった。一つは香港に関するイギリスとの交渉ほど、ポルトガルとの交渉が難航せずにスムーズにいったこと、もう一つは中国にとって経済的重要性が、マカオには香港ほどはないことなどが挙げられよう。ほかにも、イギリスとポルトガルの国力の差もあるかもしれない。さらにはマカオ復帰が、建国五十年という一大イベントのすぐ後に続いていたので、その陰に隠れてしまったということもあったかもしれない。マカオ復帰の時は、外国人専家は特に祝賀行事には招かれなかった。ちょうど、毎年恒例の年末の「外文局外国人専家新年交歓会」と時期的に重なったこともあるかもしれない。
ちなみに、『北京週報』では以前マカオを「澳門(マカオ)」と表記してきたが、マカオ復帰が近づくにつれて括弧内を取り、ただの「澳門」にした。中国語での読み方は「アオメン」で、これがマカオの正式の中国語名なのである。そもそもマカオという名称は、マカオ最古の寺院である媽閣廟に由来する。この寺院は漁民の守り神である媽祖を祭るもので、媽祖生誕の日と伝えられる旧暦三月二十三日は線香をたく人びとでにぎわう。この「媽閣廟のある港」という意味で最初は「媽港」と呼ばれ、その中国語での発音の「マーカン」からポルトガル人がこの地を「マカオ」と呼んだ。いずれにせよ、マカオはもはやポルトガル領ではなくなり、中国の固有の領土に戻るわけだから、ポルトガル語の「マカオ」という表記はやめようということになったのである。では、日本のメディアでの表記はどうなるのか、今後注目していきたい。
ついでに台湾問題について触れておくと、この問題は私の個人的意見では、ある学校で校長に意見が会わない一部の教師が追随する生徒を引き連れ、同じ学校の敷地内の小屋に立てこもっているのと同じ状況だと思う。だから、中国の内政であるというのはうなずけるのだが、中国政府が絶対に許せないと言っている「二国論」や「台湾独立」は、国民党からすればかなりの妥協なのではないか。なぜなら本来国民党にとっての最終目標は、国民党による中国統一であったはずだ。かつては台湾当局に「中国の首都は?」と聞けば「南京だが、今は南京は北京の共産党軍に占領されているので、仕方なく一時的に台北にしているのだ」と答えたであろう。つまりは彼らは北京政府を「中国の統一政府」とは認めていなかったはずである。だが、「二国論」を打ち出したというのは、北京政府すなわち中華人民共和国政府を認めたということになり、「台湾独立」を目論むということは国民党政府による中国統一という目標を放棄することを意味するのではないかと私は思う。このような考え方は、本省人である李登輝(自称)総統だからこそ思い付くのではないかと感じた次第である。
マカオ復帰のすぐ後のクリスマスの日、妻の友人で外文局写植センター時代の同僚の結婚式に招かれた。中国での結婚式に招かれるのは初めてである。噂ではとにかく中国人の結婚式は「
クリスマスはここ最近北京でも、商業ベースで少しずつ雰囲気が出てきた。デパートはイルミネーションを飾り、レストランの入り口にはツリーが置かれ、ショーウインドウにはサンタの絵が描かれる。BGMにクリスマスキャロルを流す店もある。イブともなるとサンタの服を着た学生アルバイトが、町でチラシを配ったりしている。友誼賓館では、専家局主催のクリスマスパーティーもある。しかしクリスマスで騒ぐようになったとはいえ、クリスマスについて、「あれは西洋の行事だから、中国には関係ない」と思っている中国人もまた多い。日本にもこういう考えの人はいるが、中国では日本の比ではないほど多いのだ。クリスマスが年々盛んになってきたと言っても、それは北京や上海などの大都市の話で、地方に行けばクリスマスは全く存在しない。なお、中国ではクリスマスが終わっても、いつまでもクリスマスは続く。日本ではクリスマスが終わったらすぐに正月の準備に入るから、一晩でクリスマスは消滅する。だが中国では正月はさほど大事ではないので、クリスマスが終わらないのだ。完全に終わるのは、春節を迎える頃になってからである。
さて、ジングルベル・ウエディングの場所は、町中の普通のレストランの大広間を借り切ってであった。クリスマスに結婚式というのは日本ではあまり聞かないが、この日は同じレストランの中でもう一組の結婚式も同時に行われていた。しかしそこには、クリスマス的雰囲気は全くなかった。
日本ではまず新郎新婦が入り口で来客を迎えるところから始まる。しかし中国では逆で、来客が先に来て、あとから到着する新郎新婦を入り口で迎えるのだ。やがて新郎新婦の人形をボンネットに飾ったリムジンが到着する。新郎と白いウエディングドレスの新婦が降りてくると人びとは歓声を上げ、紙ふぶきを散らす。また、本来ならここで爆竹を一斉に鳴らすのだが、今では北京では爆竹は禁止されているので、代わりに風船を地面にたくさん用意してそれを足で踏んで割り、音を鳴らして爆竹の代わりにする。
私は一応普通のスーツを着ていったが、参加した人は皆ほとんど普段着で、セーターにジーンズという日本の結婚式ならつまみ出されそうな服装の人も多かった。テーブルの席も、一応は新郎側と新婦側および親族席に分けられているが、だいたいは自由席である。
まず、メンデルスゾーンのウエディングマーチとともに新郎新婦が壇上に立ち、仲人のような人(たいていは職場の上司)が役場から交付される結婚証明書を朗読してそれを授与する。次に新郎の挨拶である。その時、ひっきりなしに野次が飛び、歓声が上がる。そして、新郎新婦が腕を回して互いに同時に固めの杯を飲み、指輪の交換があり、誓いの口づけとなる。場内はやんややんやの大歓声である。その歓声の中で新郎新婦は一緒に場内に向かって、一礼、二礼、三礼と三回頭を下げる。とにかく、自由な雰囲気である。日本のような厳かな雰囲気や堅苦しさはなく、皆和気あいあいとしている。だから、中国の結婚式を日本の披露宴でイメージしたらぜんぜん違って、むしろ仲間うちでやる二次会の雰囲気に近いだろう。
確かに乾杯は白酒ばかりであったが、一応ちゃんとビールも用意されていた。宴が始まると新婦はいつのまにか赤いチャイナドレスに着替え、スーツの新郎とともに一つ一つのテーブルをまわる。そして、新郎が特別の結婚式用のたばこを客に勧めて、新婦が特別のマッチで火をつけてあげのである。そこでごく親しい友人はわざと意地悪して、たばこをくわえていすの上に立ち、火をつけにくくさせる。ちょうど日本の披露宴のキャンドルサービスで、わざとろうそくをさかさまにしておくヤツがいるのと同じだ。プレゼントやお祝儀は、この時に新郎新婦に直接わたす。お祝儀袋は赤い色だが、なければ裸のままでよい。あとは、普通の飲んで食べての宴会となる。カラオケも出て、歌いたいものが順に壇上に上がる。結婚式で歌われる定番の歌というものもあるそうだが、その中に長淵剛の「乾杯」が入っていることは日本と同じだ。もちろん歌詞は中国語である。
中国の結婚式には、決まったお開きはない。そろそろ帰ろうという人から、三々五々に帰っていく。残る人はいつまでも残って飲んでいる。結局は同じ場所で二次会となるのだ。
今の中国の結婚式はずいぶん日本と違うが、これでも日本や欧米の影響を受けて変わってきたようだ。テレビで見たことがあるが、昔の中国の結婚式は人民服に赤い花をつけただけの新郎新婦が、まず毛主席の肖像に忠誠を誓い、毛主席語録を朗読するところから始まっていた。それに比べるとかなりの様変わりではある。