16、北京の気候

  一時帰国の時、成田に着いた飛行機から一歩出た途端、私はものすごい攻撃を受けた。湿気の攻撃である。じわーっと全身を攻められ、たまらないという感じだった。何度日本に帰っても、着いたその日のうちくらいは手がべとべとして、何度も手を洗う。この湿気の中で生まれ育ったはずなのに、しばらく離れているとよけいに感じてしまう。それ程に、北京の空気は乾いている。
  空気が乾いているというのは、便利なこともある。まず、洗濯物が実にスピーディーに乾く。また、水をこぼしたりしても、すぐに乾いてくれる。夏など気温は連日40度になるが、空気が乾いているおかげで直射日光さえ受けなければしのぎやすい。日陰などはひんやりしているのである。北京は40度と聞いてたいていの日本人はひーっと言うが、北京の40度より日本の30度の方が暑く感じる。
  夏が40度になる代わりに、冬の寒さは半端ではない。最高気温が氷点下の日が続く。日本の北海道より北京の方が緯度としては南のはずなのに、北海道より寒い。だから北京の女性は、冬はスカートをはかない。ズボンの下に毛糸のズボン下をはいているからだ。その代わり、夏はスケスケでミニスカートが多い。日本人女性は、好みで夏でもズボンが好きな人はズボンをはき、冬でもスカートが好きな人はスカートをはくが、北京の気候は「好み」などと言っているのを許さない。また、北京の冬で困ることの一つに、静電気攻めがある。ちょっと金属のものや機械のスイッチにでさえ触れようとするならすぐにパチパチで、「痛っ」という感じである。金属のものをさわる時は気合いを入れて、一気にべたっとさわるしかない。軽く触れるくらいが一番静電気が走るのだ。
  空気が乾いているのは、降水量が少ないせいもあるだろう。北京では何かの行事のお知らせに、「雨天の場合は~」と言う但し書きはない。だいたい六月下旬から七月上旬にかけて、まるでスコールのように集中的に雨が降ることがあるが、ほかはほとんど雨が降らないのである。冬でも、雪が積もるのは一年に一回か二回あるかないかだ。つまり北京では、毎日毎日「晴れ」である。
  一年で一番暑い季節、寒い季節というのも、日本とずれている。北京での暑さは七月がピークで、八月に入るともう涼しい風が吹きはじめ、下旬くらいになると長袖の人も出はじめる。一番寒いのも十二月下旬から一月にかけてだ。日本ではよく「暦の上ではもう○○なのに、まだ~」という会話が聞かれるが、北京では実に「暦の上」通りに季節は移り変わって行く。それもそのはずで、もともと旧暦(太陰太陽暦)というのは中国で、中国の季節に合わせて作られたものだから、日本の季節には合わず中国ではその通りになるのは当たり前のことである。旧暦の一、二、三月は春といわれるが、確かに旧暦の一月、つまり春節になると寒さも和らぎはじめる。旧暦の四月から六月が夏で、特に旧五月下旬から六月にかけて、つまり新暦の七月がちょうど北京の暑さのピークとなる。そして新暦八月上旬の立秋の頃から北京に涼風が吹きはじめるが、そのころが旧暦では秋となる七月である。だから昔の日本人は立秋になっても日本では少しも涼しくならないので、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども  風の音にぞ驚かれぬる」と、何とかこじつけて自分に言い聞かせようと苦労したのだ。実際、立秋は日本では暑い盛りである。北京の紅葉のピークは新暦十一月上旬(赤茶けた紅葉で、決して美しくはない。それでも北京人は奇麗奇麗と言う)で、旧暦では晩秋の九月だ。ところが新暦の十一月中旬には旧暦では十月になってしまう。つまり暦の上では冬になる。九九年だったか、北京では新暦十一月下旬に大雪が降った。日本ではそんな時期に雪が積もるのは珍しいが、暦の上では冬なのだからおかしくはない。しかも日本、特に昔の人の文化の中心である京都では、その新暦十一月下旬こそが紅葉のピークである。つまり紅葉は、日本では暦の上では冬のものとなってしまうのである。昔の日本人はその辺も苦労して、何とか紅葉だけは実際の時期に関係なく、秋の風物として定めた。
  もっとも北京でも、若干のずれはある。厳密に言えば旧暦は北京ではなく、暦が作られた当時の中国の中心であった今の陝西省付近の気候に合わせて作られているからだ。ただ、北京ではほぼ旧暦の暦通りに季節は推移するので、農作業は旧暦によって行われる。だから旧暦を「農暦」と言うのかもしれない。また、旧正月については後で述べるが、それだけでなく桃の節句、端午の節句、七夕なども中国ではことごとく旧暦で行う。

17、上海雑記

  よく北京人と上海人は反目し合い、その様子は日本の東京人と大阪人のそれと非常によく似ているといわれる。ただ、どちらかというと上海人の方が、全体的に日本人に近いと思う。まず、北方の人があまり米は食べずに小麦粉製品が主食であるのに対し、上海を含む南方人は米が主食である。また、上海語の発音は日本語に近く、上海の街角を歩く人びとの言葉は、時折ふと日本語に聞こえることがある。北京ではそのようなことはない。
  その上海は、私の母の故郷である。また私にとっても、十八年前に短期ではあるが留学していた想い出の地である。今回北京に来てから、ちょうど妹が私を訪ねてきたのを機に再び私は上海の地に立った。しかしそれは、私が知っている上海ではなかった。高層ビルが林立し、高速道路が町中をくねる。まるで日本に帰ってきたような、あるいはニューヨークのマンハッタンにでも来てしまったような気がした。
  十九年前に、私は母とともにこの町を訪れた。母は昔と変わってないとばかり言っていた。ところが、今は変わってしまった。考えてみれば、五十五年前と十九年前が変わっていなかったのが不思議で、五十五年たった今、変わっているのが当たり前なのだ。当たり前を当たり前にしない時代が、中国にはあったことになる。
  かつてずば抜けてそびえていた上海大廈(旧ブロードウェイ・マンション)が、今ではビルの谷間にこじんまりと身を縮めている。外灘(バンド)から見ると、やたら日本企業の看板が目立つ。日本租界が復活したのかと言う錯覚にも陥る。そんな旧日本人租界(正確には共同租界)だったエリアを、着いた二日目に妹とともに歩いた。母が通っていた小学校の門の脇には、ケンタッキーの店ができていた。とにかく上海は、マクドナルドとケンタッキーが多い。一つの店から次の店が見えるほどだ。北京は小銭も紙幣だが、上海はコインが多い。だからか、上海には北京にはまだない自動販売機がある。
  旧租界に「横浜橋ワンバンジョ」という小さな橋があって、前には確か中国の簡体字で表記されていたはずであるが、今では日本の当用漢字で「横浜橋」になっていた。内山書店の跡地に至って、妹に「ここが魯迅がよく来てた場所だ」と説明すると、妹は言った。「魯迅って、誰?」
  陸戦隊本部や興亜院は、建物はそのままに外観が改装されてデパートになっている。陸軍病院は、そのまま解放軍の空軍病院になっていた。母の生家は虹口(ホンキュー)公園(今では魯迅公園という)の入り口の近くにあった。その家は、まだかろうじてあった。だが、前に母と来た時に「これが昔、満州国の領事館だったのよ」と母が示していた生家のすぐそばの建物は今はもうなく、その地には高層のホテルが建っていた。その隣りのやはり高層のホテルのレストランで、妹と二人で昼食を取った。母が住んでいた家のそばで、その息子と娘がともに食事をしているというのが、何とも意義深いことのように思われた。だが母の生家も、いつまでもあるという保証はない。旧フランス租界のエリアで、租界時代の昔の家や上海のシンボルでもあったプラタナスの並木がどんどん壊されて行くのを私は目撃した。そこには、高層ビルが建つはずである。上海で死んだ祖父の勤務先の工部局の隣りも、それをはるかに見下ろすデパートが建築中だった。
  一つだけ十九年前に母が、昔と違うと言ったことがあった。それは、南京路に全く夜のネオンがなくなっていたことだった。昔は夜ともなると南京路には、昼とも見まごうばかりのネオンが灯っていたという。だが十九年前は、夜の南京路は薄暗い街灯があるだけで、暗かった。そして今、南京路の昼と見まごうネオンが復活した。まるで夜の新宿と変わらないくらいのネオンの海である。違うのは、昔のネオンが侵略者たちの灯すものであったのに対し、今のネオンは中国人自身が灯している。そんなネオンの中を歩いて、妹と和平飯店(昔のキャセイホテル)のジャズを聞きに行った。しかし残念ながら満員で入れず、外のバーでカクテルを飲みながら音だけ聞いていた。それでも、「上海バンスキング」の世界を味わうことはできた。
  もう一つ面白いことに、外灘の近くに十九年前は「海員クラブ」というレストランがあって、留学生だった時によく行った。「これって、解放前はソ連の領事館の建物だったんだよね」などと言いながら、食事をしたものである。今でもその建物はあったが、どうもレストランはやってなさそうであった。近くに寄って看板を見ると、ロシアの領事館となっていた。つまり、昔に戻ったわけである。イギリス領事館の建物を使っていた上海の友誼商店も、今ではその近くに七階建ての近代的ビルを建てて、そちらに移っている。
  南こうせつという歌手はやはりちょうど十九年前に、上海のことを「昔栄えた町に~」と歌った。しかし今では、上海は「今この時点で栄えている町」になった。外灘は十九年前と違い、まるで山下公園のように奇麗に整備された。対岸には、十九年前にはなかった東方明珠のテレに塔がそびえている。あの頃は有料だった黄浦公園(昔のパブリックガーデン)も、無料になった。その入り口に、「自行車不允入内(自転車は入るべからず)」と書かれた看板があった。五十五年前はそれが、「狗与華人不得進去」だったのだ。
  母はそれからも、何度も上海には行っている。母は上海で生まれて、幼少の頃を過ごしたというだけである。だが、祖母は十九歳で東洋の魔都といわれた上海に単身で渡り、そこで恋をして結婚し、子供を産み、夫に先だ立たれ、女手一つで三人の子供、すなわち私の母と叔父と伯父育て、敗戦とともに三人の子供を連れて長崎へ引き揚げた。上海は祖母にとって、青春がしみついた町であったはずだ。その祖母は引き揚げ以来一度も上海の地を踏むことなく、九五年に亡くなった。惜しむらくはぜひ祖母にもう一度、上海の地を踏ませてあげたかったと悔やまれてならない。
  さて、私の上海への旅は、帰国する妹を空港で送ったあと、一日おくれで西安に飛び、一泊の西安観光をしてから空路帰途に就いた。西安では唐の時代の皇帝の離宮を公園にした興慶宮(阿倍仲麻呂の碑がある)、空海が修行をした青竜寺(空海の碑がある)をはじめ陝西省博物館、城壁(吉備真備の碑がある)などを見た。今の城壁は明の時代の長安市街を取り囲む規模だが、ちょうど唐の時代の長安城の「大内裏」に相当する。明の時代の長安は都ではなくなったので規模は縮小されたが、今の西安は唐の時代の長安と同じ規模に再び発展した。北京の天安門や故宮など見ると、中国と日本の文化は似て入るがやはり異質だと感じてしまう。ところが西安では、日本の文化のルーツはここにあると実感する。北京の建造物は日中の文化交流が少なくなってから後のものだが、西安の建造物は後世の再建ではあっても、もとが日中の交流がもっとも盛んだった頃のものである。だから異質どころか懐かしささえ感じる。まるで奈良にいるような気がしてならなかった。奈良と西安は、非常によく似ている。

18、春節

  中国の元旦は静かなものである。大晦日まで出勤し、たった一日休むだけで、それも普通の休日といった感じである。二日から出勤で、新年の挨拶もないし、テレビの特番もない。
  では、中国に正月はないのかというと、それが大いにある。すなわち旧暦の正月である。職場は一週間ほど休みになり、お年玉、親戚への年始周り(「拝年」という)、帰省ラッシュ、お年玉、たこ揚げ、初詣に相当する寺社の縁日(「廟会」と呼ぶ)の人込み、門松に当たる門飾り、紅白歌合戦のような大晦日の国民的番組「聯歓文芸晩会」とカウントダウン、デパートの大売り出しなど、日本のお正月の行事がことごとく旧正月にスライドしている(なぜか年賀状だけは新暦正月だが、日本ほど大々的ではない)。
  日本ではこの日を「旧正月」というが、中国では「旧」ではなく「中国の正月」と考えている。すなわち、太陽暦の一月一日は国際上の正月、旧暦(これも「旧」ではなく「農暦」といって「中国の暦」と考える)の一月一日は「中国の正月」で、これを「春節」と呼ぶ。ただ、日常会話で「正月」といえば、「春節」を指すのが普通で、「春節」で本格的に「干支(えと)」が変わるとされる。今でも数え年で年齢を数える農村では、この日にみんな一斉に一つ年を取る。
  北京では日本のお餅に当たるのが「年カオ」で、おせち料理に当たるのがなんといっても「餃子」である。大晦日の晩から餃子を作り始め、元旦は一日中餃子を食べる。もっともこれは北の地方だけのようで、南には別の食べ物があるようだが、それは知らない。日本では1975年(明治5年)に正月を完全に太陽暦に切り替えたが、中国では伝統を大切にする様子が見受けられる。
  以前は、春節といえば「爆竹」で代表されたものだ。大晦日の晩からうるさいほどの爆竹の音が町中に充満し、夜も眠れないほどであったという。ところが四年ほど前から、北京をはじめ上海などの大都市では春節の爆竹や花火が禁止になった。理由は爆竹による火災や事故での死傷者が毎年後を絶たず、当局もとうとう伝統より人命を優先させたようだ。したがって、今の北京の春節は静かなになった。遠く微かに、規制対象外の郊外の爆竹の音が聞こえてくるくらいである。ところが、旧二日に妻の実家への帰省に同行した私は、駅を降りるや否やものすごい爆竹の音で迎えられた。大都市以外では、春節の爆竹は今も健在である。ちなみに、春節では、一日に夫の実家へ、二日に妻の実家へそれぞれ行くのが習わしである。
  春節に関して、面白い話がある。三年前の1997年には、中国の「春節」と日本の「旧正月」が一日ずれていた。なぜこのような現象が起こったのかというと、それは時差のせいである。「春節」は立春前後の、立春に一番近い新月の日がそれに相当する。新月とは太陽と地球の間に月が入る日で、今ではそれは何時何分と正確に計算される。そして、九七年の立春に一番近い新月は、日本では二月八日の午前0時6分であった。したがって、日本では二月八日が旧暦一月一日となって、この日が「旧正月」とされた。ところが、日本と中国では一時間の時差がある。すなわち、日本時間二月八日の午前0時6分は、中国では二月七日の午後11時6分なのである。そのために、中国の「春節」は二月七日になり、両国の「旧正月」に一日のずれができた。この旧暦のずれは、一月の一カ月の日の数で調整され、旧二月からは再び同じ月日になった。それ以来、このような不思議な現象は起きていない。

19、農村滞在記

  私の妻の実家は、河北省の農村である。
  私も結婚の挨拶の時、妻の弟の出産祝いのほか、毎年の春節には妻の実家に数日滞在してきた。
  とにかく交通が生活である。保定の駅からバスで三十分(昔「田舎のバスは~」という歌があったが、今でもまさしくその歌の通りである)。その後、おんぼろタクシーで約二十分、地平線の見える一面の麦畑の中を走ってやっとたどり着く。あの、「麦と兵隊」の中で歌われている光景だ。生活も、まるでかつてキャンプ場でキャンプをした時のことを思い出してしまうようなものだ。家はレンガ造りで、庭と屋内の区別がほとんどない。家のそばにはロバが引く車がたくさん行き交い、トイレは庭に壁で囲ってあるだけの青空トイレ、煮炊きはわらを使い、水道は一日の一定時間しか出ないのでその時間にタンクに汲みおきである。不思議に思うのは、風呂がない。どうも行水だけですましているようだ。
  みんな、土とともに生きているという感じである。そして、人情は素朴である。門はあってなきに等しく、近所のおばさんがしょっちゅうちょろちょろ入ってくる。村中が知り合いという感じだ。このへんは、日本の田舎と同じかもしれない。庭ではニワトリ(かつてはアヒルと豚もいた)を飼っているが、よそのニワトリや野ウサギもしょっちゅう入ってくる。
  日本では都会と農村のギャップというのがあるにはあるにはあるだろうが、中国の比ではないと思う。日本では田舎でも一応先進国のレベルに達しているが、中国では北京や上海などいくつかの都市だけに限り先進国のレベルに達していると言えると思うが、北京から列車で十五分も走ればそこはもう発展途上国である。都会の労働者の「月収」が1000元前後であろのに対し、田舎の農民の「年収」は2500元くらいと開きがある。
  だが、彼らは「社会主義のおかげで生活は今のようによくなった」と思っている。本当は違って、鄧小平氏が社会主義と実質上決別して資本主義経済を取り入れたおかげだとは思うが……(それについては次章で)。
  ただ、昔は今よりもっとひどかったというのは事実のようである。
  妻が子供の頃は、小麦粉をお湯で練ったようなものばかり毎日食べていたという。肉など一年に一度食べられるかどうかだったとか。
  それに比べたら、毎日肉が食べられてテレビもある今の生活は、われわれの目から見ると「貧しい」と映るかもしれないが、彼らにとっては天国なのだそうだ。昔はテレビはもちろん、ラジオもなかったという。電話も、ここ二、三年の間についたし、今でも村で電話のある家は少ないようで、近所の人が電話をかけさせてくれと言ってきたりする。
  それも、中国の西部地域の貧困県に比べたら、一応テレビも冷蔵庫も、洗濯機もあるこの村は都会だと言えるであろう。ただ、洗濯は洗濯機はあるのにほとんど使わず、手で洗っているようだ。夜も、よっぽど暗くなるまで電気はつけない。
  北京のあるハンバーガ店には、「あなたがグルメを楽しんでいる今現在、貧困県の人びとは飢えていることを忘れないで下さい」と書かれた募金箱が置かれていた。事実中国では、貧困県で飢えている人がいる一方、北京では外資系高級デパートで札束はたいて抱えきれない商品を買い、ベンツを乗り回し、高級ホテルのレストランで食事をしている人々もいる。そしてそのどちらも、同じ「中国人」なのである。このような状況からも、今の中国が社会主義国だというのは建て前で、実質は資本主義になっていることが分かると思う。
  1980年代の中国は出国ブームで、その当時の中国人の出国は今よりもずっと難しかったが、何とかつてで外国へ行こうとした。外国へ行けばもうかるということで、それこそ「天国・王侯貴族」の生活を夢見て貧しい農村からどんどんアメリカ、オーストラリア、そして日本へと出かけていったものである。ところが、成功した人もいる一方で、特に日本の場合は金もうけどころか汚い所に住むのを余儀なくされ、女は風俗で、男は工事現場で身を粉にして働き、結局こんなはずではなかったと身も心もぼろぼろになって帰っていくといった現象が続いた。今では出国が簡単になった反面出国ブームは去り、逆に北京、上海、大連、深センなどで一旗挙げる起業ブームとなっている。
  農村滞在中は私にとって、何もすることがないのには閉口した。妻とトランプをするか、家族とマージャン交流をするか、庭で入ってきたニワトリを追っかけるか、昼寝するしかない。保定の町に出るのもひと苦労である。細い農道で、タクシーが通るのを三十分ほど待たなければならない。もちろん乗客がいても相乗りである。たいていのタクシーは北京では姿を消したワゴン型で、料金は乗る時の交渉による。そのタクシーの運転手が、また妻の家と顔見知りだったりするのだ。そして村の老人は、今でも人民服を着ている。
  もしかしたら変に西洋化した北京よりも、このような所にこそ本物の中国が残っているのかもしれない。そしてこの村の人びとと自分には、絶対に乗り越えられない隔たりがあることも私は感じた。それは、もし私が一大決心をして努力したなら、「この村で暮らす人」になることは人為的な制度上難しいとしても不可能というわけではないが、「この村で生まれ育った人」には逆立ちしてももはやなれないのである。なるには、一度死んでもう一度生まれ変わってこなければなるまい。そこが、「この村で生まれ育った人」と私の決定的な違いである。

20、鄧小平氏の逝去

  その日の朝、歴史的事件を知ったのはNHK-BSの朝のニュースでだった。NHKニュース「おはよう日本」は中国時間では朝の六時からである。このニュースが流れた時に、私はすぐに中国の中央テレビのニュースにチャンネルを回してみた。ところが中央テレビは、まだ放送が始まっていなかった。中央テレビの放送開始は七時、もちろん放送開始とともに大々的にこのニュースは流された。だから私は中国人民よりも一時間も早く、このニュースを知ったわけである。
  春節から数えて十五日目、すなわち旧暦一月十五日は「元宵節」といって「元宵だんご」を食べる日であり、この日までが「正月」とされる。鄧小平氏の逝去はちょうどその元宵節の直後で、これで正月気分は一遍に吹き飛んだ。あと五カ月長命だったら、氏の念願であった香港祖国復帰を目撃できたことになる。
  鄧小平氏といえば「中国の特色を持つ社会主義理論」と改革・開放政策実施、および社会主義市場経済の導入がその功績であろう。ある中国人は、鄧小平氏がいなかったら今ごろ自分の家には冷蔵庫も電話もなかっただろうと言った。若い人は、特に鄧小平氏の功績を評価する。だが、鄧小平氏よりも周恩来総理の業績の方がはるかに大きいという人もいる。周恩来総理が活躍した頃、私はまだ幼少のみぎりで、逝去の時も高校生。世界の政治情勢などよりも、その夜に彼女から電話があるかないかの方がよっぽど重大問題だった季節である。従って、周恩来総理の業績についてはよく知らないし、その恩恵を直接目にはしていない。だが、鄧小平氏の業績と恩恵は、北京にいて肌身で感じている。毛沢東主席も周恩来総理も、中国人民を解放して中華人民共和国を成立させたという業績は偉大であろう。だが晩年に、「文化大革命」という汚点を残した。それにもかかわらず、今でも両者が中国人民の崇敬の的となっているのは、功績が汚点に勝っているからかもしれない。最後は政府に反逆して死んだ西郷隆盛の銅像を首都に立てているも、その功績の方を買っているからだというのと同じであろう。
  その「文化大革命」の時、鄧小平氏は失脚した。名誉が回復されたのは後になってからである。その頃、中国では改革・開放政策が実施され始め、中国の門戸が開かれた。時まさにソ連邦の崩壊、東西ドイツの統合、東欧の民主化という嵐の時代を迎え、その波は中国の天安門にも押し寄せた。社会主義か社会主義を捨てるかという選択を迫られた時、中国が取った道は社会主義に資本主義を取り入れるという社会主義市場経済の採択であった。鄧小平氏は一九九二年に南方を視察した際の「南巡講話」で、社会主義市場経済の導入を中心とする中国の特色を持つ社会主義を打ち出し、改革・開放路線を明確にしてそれを推し進めた。この社会主義と市場経済という一見矛盾していて、その実もやっぱり矛盾しているこの二つの概念の融合は、中国経済の急速な成長と国力の増加を招来したと同時に、経済は資本主義で政治体制は社会主義(この場合の社会主義は官僚主義とほとんど同義語である)というおかしな状況をも生み出してしまったが、それは致し方のないこととして差し引いて見なければなるまい。鄧小平氏の有名な談話である白猫、黒猫論がここで登場した。「白猫であれ黒猫であれ、ねずみを捕る猫がいい猫である」。この言葉は北京のシンガーソングライターの「アイ・ジン」の歌の題材にもなり、私の家で使っている洗面器にもこの言葉が書かれている。だが鄧小平氏は、黒猫を捨てて白猫を取ることをせず、白黒まだらの猫として中国を再生させたのである(それこそ、中国の国の宝のパンダである)。そして鄧小平氏の偉いところは、自分の功績を決して鼓吹したりはせず、毛主席の神格化を続けたことである。
  これは私の想像であるが、おそらく鄧小平氏はマルクス主義というのが机上の空論にすぎず、社会主義(ここでは計画経済という意味で)に将来はないことを見て取ったのかもしれない。だが、表だって社会主義を否定することはできない。それをすれば彼は共産党を離脱しなければならず、またその意見が通ったところで多くの東欧諸国のように中華人民共和国が中華人民共和国でなくなってしまうのである。そこで社会主義という意味から計画経済を落として政治体制としては残し、そこへ市場経済を(資本主義)を取り入れるといった社会主義市場経済を導入し、中国の特色を持つ社会主義という概念を持ち出したのではあるまいか。つまり、表向きは別として、実質上は社会主義と決別したのである。だがその結果として、中国は変わり、発展した。そのパンダ猫がねずみを捕らえた。今の北京には社会主義国とは無縁だったはずの証券会社が並び、株の取引が盛んに行われている。中国人の多くは、もはや後戻りはできないと考えている。そして鄧小平路線を引き継いだ江沢民国家主席の指導によって、中国の発展はますます加速していくものと思われる。

21、日中戦争のこと

  昔は日華事変とかいっていた戦争も、今では日中戦争という。だが、中国ではあの戦争を「抗日戦争」と呼ぶ。この名称には、深い意味が込められているように思う。
  そもそも日本が第二次大戦時においてかかわった戦争はというと、誰もがまず頭に思い浮かべるのは「太平洋戦争」であろう。日本はどこと戦争をしたのかと聞くと、たいていの人はアメリカとだと言う。「米英」という答えは、なかなか出てこない。ましてや、敵国にオランダが入っていたことなど、ほとんどの人が知らないであろう。先日行われた高校生を対象にした調査では、何と前の戦争で日本の敵がアメリカであったことさえ知らない生徒がいた。日本史が必修ではなくなった昨今であるから、無理もないかもしれない。
  かつて「戦争を~知らない~、子ど~もたちいさ~」と歌っていた若者たちが、ちょうど今の高校生の親の世代である。私は戦争を知らないが、私の親は知っている。また、小学生だった頃の小学校の先生も皆戦争体験者で、授業中にもよく戦争の話を聞かされた。今の子供は親も戦後世代だし、学校の先生も戦後世代である。そしてせめて日本はアメリカに負けたということは知っている子供でも、中国に負けたということまでは知らない。ひどい人になると「あれはアメリカに負けたのであって、中国に負けてはいない。アメリカと戦争さえしなければ日本は中国に勝った」とか、「ソ連が参戦さえしなければ」とか、さらには「日本が負けたのは中華民国にであって、中華人民共和国にではない」とまで言うヤツもいる。それが、戦後世代だけならまだしも、堂々とした大人が大阪であのような集会を開くのだ。そんな連中は、日本が中国で何をしてきたのかはっきり知る(認める)必要がある。
  日本ではあの戦争について東京大空襲とか広島・長崎の原爆などばかりがクローズアップされ、被害者であったという意識の方が強調されている。テレビドラマに取り上げられる時も、やたら空襲で焼け出されてひどい目に遭った人ばかり描かれる。しかも日本は「アメリカにやられた」とはあまり思わず、「戦争で」被害を受けたという風に考える。だが、中国でははっきりと「日本にやられた」と思っている。そんな被害意識を持たせてしまうほど、日本が「したこと」を認めるべきである。したことを認めるのが、なぜ「自虐」であろうか。
  中国では朝からもう、戦争ドラマやドキュメンタリー映像の放映が始まる。八路軍(現・人民解放軍)と国民党軍との内戦を扱ったものも多いが、やはり日本軍による侵略を描いたものも少なくない。中国の子供たちは、小さい頃からそのようなドラマを見て育っている。だから、たとえ小学生でさえ「日本鬼子リーペンクイツ」という言葉も、「八格牙路パーカーヤールー」も知っている。日本の若者にとって太平洋戦争も関ヶ原の戦いも同じレベルの「歴史」であり、江戸時代のドラマも戦争中を描いたドラマも同じ「時代劇」であるのとは対照的である。私が出会った中国人は、誰もが戦争の話になると「あれはもう昔の話、済んだことです」と一様に言ってくれた。一人として面と向かってなじる人はいなかった。しかし、その友好的な笑顔を、額面通り受け取ってはならないと思う。犯罪も十五年たてば時効だが、その犯罪の被害者の心の傷にとって永遠に時効はないのである。
  私は妻と結婚前の交際中に、結婚をはばむ可能性のある一つの障壁を見つけた。妻の祖父は日本軍に殺されたと、妻が言い出したのである。妻自身は問題にはしていなかったが、家族が許してくれるかどうか心配だと妻は言う。大学で日本語を専攻すると言った時も、「何で日本語なんか」と言われたそうだ。そういえば、昔訪中した時についてくれた通訳の若者も、似たような話をしてくれた。親に「日本語の勉強がしたい」と言うと、親は黙って片肌を脱いだ。そこには生々しい刀傷が残っていた。「昔、日本軍にやられたんだ」と、親はただそれだけを言ったということだった。また、自分の目の前で子供が日本軍に殺されるのを見た女がその場で発狂し、老婆となってからも日本人観光客が泊まるホテルの周りをうろうろしていたという話もあり、私はそれを題材にかつて「南京は恐怖の雨」という小説を書いた。
  私の妻の話である。いざふたを開けてみると、あっさりと全く問題にされなかった。そして妻の弟の子供の出産祝いで、私は初めて妻の祖母に会った。保定という町は日本軍が駐屯していたところでもあり、南京ほどではないにしろかなりの中国人が殺されている。その、自分の夫が殺された妻の祖母は、それでもにこにこして私と握手をしてくれた。やはり同じ保定で、同じような境遇の老人が、訪ねてきた日本人観光客に向かって「ああ、今日本人と話をしている。ああ、信じられないことだ」と言ったという話も聞いたことがある。
  北京の町を歩くと、皆それぞれの人生を背負ってそれでも精一杯楽しそうに生きている。そんな人びとでいっぱいだ。その中に混ざって歩きながらふと私は、「いったい、おれたちの国はここまで来て、何をしようとしたんだろうか……」と、さだまさしさんの言葉ではないがそう思ったものである。

22、二〇三高地

  さだまさしさんの名前が出たが、彼の歌で「防人さきもりうた」という曲がある。『万葉集』の中である防人が詠んだ「海や死にする、山や死にする」という歌をベースに「海は死にますか、山は死にますか」と問い掛ける歌である。そしてこの歌は、ある映画の主題歌であった。日露戦争の旅順攻撃を描いた「二百三高地」である。
  日露戦争の激戦地であった二〇三高地は、大連市の旅順口地区にある。大連といえば外資導入に積極的な開放都市であるが、旅順口地区は軍港がある関係で外国人の立ち入りは禁止されていた。その旅順口地区の一部が、九七年より外国人に開放された。その目的は明白で、外国人といっても主に意識されているのは日本人であり、その日本人から観光収入を得ようという目論見であるようだ。なぜなら、その開放された地区に二〇三高地があるからである。そして例の映画を見ていた私は、せっかく開放されたなら映画の実際の場所を自分の目で見てみたいと思った。
  北京から大連は、夜行で昼出て朝着く急行と、夜に出てやはり朝に着く特急とがある。私と妻はある夏の日に急行の、今度は二等寝台で出かけた。二等寝台は三段ベッドである。上の段になった女性は、ミニスカートの場合は注意が必要である。朝になって大連に着くと、まるで日本に帰国した時と同じようなむっとした湿気に迎えられた。大連の気候は海洋性ということもあって、とても日本に似ていると感じた。気温はそう高くないようだがとにかく蒸し暑かった。
  大連の町はとても奇麗である。高層ビルが林立していることは上海に負けない。清潔だし、町の造りが何となく日本に似ていて懐かしささえ感じた。どこかあか抜けしているのである。駅前などとてもモダンな雰囲気だ。ヨーロッパを思わせるような建物もある。大連が北京とどこか違い、むしろ日本に似ていると私が感じたもう一つの理由は、自転車が少ないことであった。従って、自転車専用のレーンもない。あとで聞けば、大連は坂道や階段状になっている道路が多いので、自転車は不便なのだということであった。また、話には聞いていたが、女の子の服装が北京よりも数段ファッショナブルなのを自分の目で見て驚いた。東京でも、原宿とか渋谷にでも行かないとお目にかかれないほどオシャレなのである。ただ、なぜか男の服装は北京と全く同じだった。
  着くやいなや早速、私たちは旅順行きのバスに乗った。最初の目的地は「水師営」である。もっともここは大連に来た日本人はよく行く所だが、中国人の一日ツアーなどには入っていない。「水師営に行きたい」と言ったとたんに、日本人だとばれる。ここも、私たちが訪れた前の年に外国人に開放されたばかりである。
  「水師営」のバス停で降りたが、見渡しても大きな市場があるだけだった。そこで人民服姿のある老人をつかまえて、昔の乃木大将とステッセル将軍の会見の場所はどこかと聞いた。するとすんなり教えてくれて、あそこにはよく日本人が行くと言った。そして、自分も日本語がしゃべれると言う。どうせ「こんにちは」とか「ありがとう」とか言うのだろうと思って、では試しにひと言とリクエストすると、何といきなり歌い出した。しかも定番の「北国の春」や「さくら」などではなく、「旅順~開城、約なりて~、敵の将軍ステッセル~」と「水師営の会見」の歌を歌い出したのである。これには驚いた。この曲は私の祖父が好きで、よく歌っていた歌だ。一番と二番の歌詞が途中でごっちゃになりながらも、人民服の老人は何とかワンフレーズ歌い終えた。
  その老人に教えられた通りに、会見所はあった。小さな敷地だ。入場料は三十元。これは一般の観光地よりも割り高で、故宮のかつての外国人料金に匹敵する。「かつての」というのは、最近では観光地の入場料の「外国人料金」は撤廃されたからだ。例えば、頤和園では外国人30元、中国人2元であったのが、今では中を取って一律15元になった。外国人にとっては値下げだが、中国人にとっては値上がりしたのである。
  話がそれたが、そんな高いなら入らないで外で待ってると妻は言うので、私は一人で中に入った。入るとすぐ切符のもぎりの女の子が、「あれがなつめの木です」と日本語で説明してくれた。建物は昔の物ではなく復元だということで、いやに目新しかった。旅順が外国人に開放されるというので、観光のために慌てて復元したのであろう。中庭には日本語で書かれた碑があったが、それは大正時代に日本人が建てたものだった。そんなこんなでその建物を見ていると、外で待っているはずの妻が、何とちょろちょろ入ってくるではないか。聞くと、中国人はただでいいということで入れてもらえたのだそうだ。それほどここは、中国人にとっては観光価値のないところらしい。隣接して、土産物屋とレストランもある。土産物屋ではさっきの老人が歌っていた「水師営の会見」の歌が、テープで始終鳴り響いていた。そこへ大型観光バスが着き、たくさんの日本人観光客がどやどやと降りてきた。
  次の目的地である二〇三高地へ行くには一度旅順の市街に行かなければならないということで、さっき降りた所から同じ路線のバスに再び乗り、終点でタクシーを拾った。旅順の町はやはり奇麗だが、大連市街とはどこか趣が違う。何かエキゾチックな雰囲気がする町だった。タクシーは軍港を横目に走る。両側から岬が突き出て水平線は見えないという軍港としてはうってつけの場所で、不思議な光景だった。「杉野ーっ」と叫ぶ広瀬中佐の声が響いていた、あの旅順港である。これはその時は知らずあとで聞いたことだが、外国人に開放されているのは水師営や二〇三高地のある地域だけで、旅順市街とりわけ軍港のところは今でも外国人未開放地区だったのである。つまり私は「行ってはいけない所」へ行っていたわけで、よくぞ見つからなかった、見つかっていたら大変なことになっていたとあとで背筋が寒くなった。
  映画「二百三高地」は、実際の撮影は北海道で行われた。日露戦争当時の写真に見るようなやせた土地は、国内では北海道くらいしかないであろう。写真で見る限り二〇三高地もまわりの山々も全部はげ山で、ほとんど植物らしきものが見えない不毛の地である。映画の中でもそうだった。しかし、実際に目の前にある二〇三高地は、何と森林の生い茂る緑いっぱいの山であった。それだけでなく、周りの大地すべてが緑の大地である。よくもまあここまで植林したものだと感心した。いつのことか、新中国になってからなのか、そのへんのところは分からない。とにかく木々の中の坂道を、頂上目指して登った。昔の土壕の跡も、森林の中に埋もれている。説明の看板には、日露戦争の旅順攻撃のあらましが書かれている。その中で乃木大将は、「日本の軍国主義者」と表現されていた。祖父はとにかく乃木大将を慕っていたし、それこそ神様みたいに言っていた。その「軍神」もここでは「軍国主義者」と批判的に書かれてしまうのである。

     爾霊山嶮豈難攀    爾霊山けんなれどもじ難からんや
     男子功名期克艱    男子功名かんに克つを期す
     鉄血覆山山形改     鉄血山を覆ひて山形改まる
     万人斉仰爾霊山    万人斉しく仰ぐ爾霊山
  
          乃木希典
  
  その爾霊山(二〇三)は、今や緑に覆われている。頂上には、大砲の弾丸をモチーフにした記念塔が立っていた。ここでもまた、日本人の団体が降りて行くのとすれ違った。ただ、ここは中国人の団体も結構来ており、一日ツアーの日程にも入っている。頂上からは軍港がよく見えるということだったが、この日は曇っていたあまり見えなかった。だが、あまりにも緑をたたえた大地と、写真の中の不毛の地がどうしても結びつかない。写真とは『文芸春秋』の臨時増刊のものだが、その中の「砲撃下の旅順市街」という写真を前にも出てきた『北京週報』の姚さんに見せたところ、「まったく、ひとの国で……」と言っていた。日本とロシアが戦争するなら、日本かロシアかのどちらかでやってくれといった感じだった。姚さんは、大連の人である。
  翌日は大連の海浜公園である虎淵楽園でイルカのショーを見たり、棒種島巡りの遊覧船に乗ったりして、夜行で帰った。寝台は取れずに座席だったが、座席指定なのにたまたま同じボックス座ったのは日本人留学生の女の子二人連れだった。大連の大学に通彼女らは、夏休みを利用して新疆のウルムチまで行くのだということだった。

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