第四章 ゆふがた、空の下で

生活と芸術
 中也の芸術論を語る上で特記すべきは、中也の「芸術」と「生活」の二元的なとらえ方である。この事は「芸術論覚書」に如実に書かれているが、この中で中也は「芸術圏」と「生活圏」、「芸術人」と「生活人」とを、ことごとく対照的なものとして語る。
 その対象をひとことで言うなら、「芸術というのは名辞以前の世界・ ・ ・ ・ ・ ・ ・の作(傍点ママ)業で、生活とは諸名辞間の交渉」であり、名辞以前の世界とは「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じている手」ということになる。
 ここで思い出して頂きたいのは、「地上組織」における「有機的要素」と「無機的要素」のことである。中也は「無機的要素」をいちばん多く見るのが「詩人」と規定していた。つまり、「芸術人」とは「無機的要素」を多く見、全く見ない人を「生活人」と言い換えることも可能だ。つまり、「生活人」とは常識で凝り固まった人、目に見えるものしか信じない、あるいは命に見えるものを中心に平凡な日常生活の中でのみ生活していえる人と言えよう。中也も「芸術を衰褪さ(ママ)せるものは固定観念である」と、「芸術論覚書」の中で言っている。
 固定観念、先入観、世でいう常識、唯物的な価値判断基準による「こうである」という決め付け、これらが芸術にとっていかに相反するものであり、まさしく「生活人」に属するものであるか。逆に「生活人」から見ると「芸術人」は「ぐうたら」「役立たず」としか見えない。「生活人」は「芸術人」に敵意をもって当たる。「生活人」の「芸術人」に対する無理解と中傷ほど、創作意欲を委縮させるものはない。
 生活人である母親は息子が芸術人であったりすると、母親の目からは子供は仕事もしないで遊んでいるようにしか見えないから、「いつになったらちゃんとした仕事に就くんだ」と嘆く。しかし、芸術人にとっては、芸術以外に「ちゃんとした仕事」はあり得ない。「お前と同じ年の若者は、もうとっくに会社に入って稼いでいるのに」――会社員などと芸術家を同等に見られたら、甚だ迷惑だ。こう言った生活人の悪意に悩んだことは、たいていの作家・詩人にはあるだろう。もしないとしたらよほど周りに同じ「芸術人」しかいないような、恵まれた環境なのに違いない。
 しかし、生活人が芸術人に敵対するのに対し、芸術人は生活人に敵対できないのだから、中也の言う通り「詩人は辛い」と言える。「芸術人はひとに敵対的ではなく、天使に近い」という彼の言葉は、「そうあらねばならない」ということだろうと思う。
 だから、彼は「芸術家は、芸術家同志遊ぶがよい。それ以外の対坐は、こちらからは希望してかゝらないこと」とさえ言う。
 当然予想される、「生活人」が分からの反駁にも、彼はちゃんと答えを用意している。

 芸術家よ、君が君の興味以外のことに煩わされ座らんことを。
 かくいうことが、芸術家以外の人に、虫のいいことと聞こえるならば云わねばなるまい。「自分の興味以外に煩わされずして生きることは、それに煩わされて生きることよりもよっぽど困難なのが一般である。虫がいいのは君の方だ」

 生活人は世俗に対して忙しい。芸術人はそのようなものにかかわっている暇はない。生活人は、「霞を食っては生きていけない」という。しかし、霞を食って生きていかねばならないのが芸術人だ。そこでしばしば、生きていけぬ人たちがいる。中也とも親交のあった作家の牧野信一が縊死した際に中也が書いた文章「思い出す牧野信一」の中の「人が自殺した時、それも作家が自殺した時、その原因を簡単に云ってしまうなぞはよくない」の中也の言葉は、芸術人ならば理解できるはずだ。「生活がまずいということは、断じて芸術が拙いということではない。/社交性と芸術とは、何の関係もない」と、彼は喝破する。芸術という仕事を、その他もろもろの職業と同等に考え、食っていくための仕事と考えた時、その芸術性は総てが霧散する。
 だから中也はこうも言う。「『稼がねばならぬ』という意識は芸術と永遠に交わらない。つまり互いに弾き合う所のことだ」、「何かのための芸術というようなものはない」と。
 芸術の一分野である文学も、明治期になって実学が台頭すると、無意味なものとして捨て去られようとした。そこで功利主義的な文学のようなもの・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・が明治初期、自由民権運動とともに生じた。しかし「芸術たる文学とは、そのようなものではないだろう!」という叫びが、やがて聞こえだす。幸田露伴の『風流物』、『五重塔』、岡本綺堂の『修善寺物語』、そして芥川龍之介の『地獄変』などに見られる「芸術至上主義」である。そしてそれが自然主義の、特に世界に類を見られないと言われている「私小説」へとつながる。中也の詩は私小説的な内面の吐露であるともいえるし、また彼の書いた小説の『亡弟』は、完璧に私小説だ。
 中也の当時、世は再びプロレタリア文学の興隆という、いわゆる功利主義的文学が頭をもたげるが、中也は政治に興味を持つ文士は持てばいいし、それをいけないとは言わないという意味のことを「我が詩観」に書いている。しかし、中也にしてみれば、政治的なことは「生活圏」の問題としてしかとらえられなかったのではないだろうか。「芸術作品というものは、断じて人との合議の上で出来るものではない。社会と合議の上で出来るものではない」と中也も言っている。
 芸術の発端は、「作者が『面白いから面白い』ことを如実に現したいという態度」から出るなら、中也の芸術はやはり『神』への信仰から出たものとしか言えぬだろう。面白いとは、決しておもしろおかしいということではない。中也が「我が詩観」で言う「魂の愉悦」を神秘――『神』から感じるからであり、それを「おつとめ・ ・ ・ ・」ではなく「必至のこと・ ・ ・ ・ ・」として表したのが、中也の芸術であろう。
 キリスト教的戒律を脱ぎ捨てて真の自由を求めたのがルネサンスであり近代文学なのだから、中也のこの文学的基盤は時代に逆行していると言う人もあろうが、それは違う。ヨーロッパ中世のキリスト教的戒律は真のキリストの教えとは、ましてや中也が直観した『実在神』とは何ら関係がない。キリストはユダヤ教の持っていた無意味な戒律に反発して布教したのではないか。
 では、中也の信仰とはいったい何か、そして、『神』と芸術はいかに結びつくのか、それをこれから考えていきたい。

信仰の本質
 中也は信仰については、「信仰というものは、おそらく根本的には『永遠』の想見可能能力」と、昭和十年十一月二十一日の日記に書いている。つまり『神』が永遠であること、魂の不滅をいかに認識するかだ。中也はその能力を天才だけのものとし、能才にはないという。中也はその能力を天才だけのものとし、能才にはないという。何かしらの天恵によってのみ、つまり天意にして能才などの人知では測り知れぬものということになろう。
 キリストは『神』のみこころにかなったものが天国にて永遠の生命いのちにあずかると教え、釈尊は魂の再生転生を説いた。どちらも霊魂の不滅、永遠性を説いている。『コーラン』においても、キリストの教えとほぼ同様だ。
 これらは天才にしか見えぬということだから、中也が「地上組織」で言った「無機的要素」というのはこういうことも入るのであろう。
 だから「生活人」が「有機的要素」のみを認識している間は絶望しか生まれ得ない。しかし、「永遠」の認識、中也が昭和三年に著した「生と歌」にある中也の言葉で言えば「認識し得る能力」であり、「その能力の拡充するものは希望・・なん(傍点ママ)だ」ということである。
 そして「生と歌」でそのあとに続く部分に中也の信仰態度が現れている。

 寧ろ一切を棄てよう! 愚痴っぽい観察が不可いけないんだ。(中略)行えよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌う能力がある。

 既往の概念を一切白紙にしたところに、信仰の要道の素直さが生じる。理論理屈は信仰の敵だ。屁理屈や不平不満はだめだ。ただ、実践あるのみ。その実践が詩人にとっては詩であり、それが生命の叫びとなる。中也が言いたかったのは、そのようなことだろう。だから前にも引用した昭和十年十一月二十一日の日記にある「能才の著述とは、おつとめであり、/天才のそれは、必至のことである」ということになるのだろう。
 中也の人間価値は、その前年の昭和九年の日記には「A is A が熱情を以って云えること」とあるが、つまりは「神は在る」、「神は善意の神だ」、「そしてそれは愛である」、それらのことを素直に直観し、それを已むに已まれぬ情として、必至のこととして著述する。しっかりと「永遠」を認識した上で、そしてそれらが「生命の叫び」となった時、詩となる。中也の詩をこういったプロセスの産物としてとらえるのは、信仰者に限ったことだろうか。
 そして、『神』を認識することは、「愚痴っぽい観察」を棄て去った純粋さ、素直さから生ずる。昭和二年四月二十一日の日記で中也は言う。「私は再び嬰児だ。書物はあまり縁遠い。けれども私は嬰児のように生々している」
 素直とは、赤子の次元に還ることだ。脳毒、額毒、世間毒に毒される前の赤子に。そうしてはじめて『神』が見えてくる。だから中也も「一切を棄てよう」と言うのだ。
 前にも名前が出た評論家で随筆家の吉田秀和が昭和三十七年に『文芸』に寄稿した「中原中也のこと」の一部を引用しよう。

 けれども中原には、その「直さ」が必ずしも、単純にそこにある、といったものでもなかった。いつだったかも、彼は阿部さん(筆者中;ドイツ文学者の阿部六郎)の家で、「ああ、俺は赤ン坊になっちゃった!」と叫びながら、急に畳の上に仰向けにひっくりかえってしまって、亀の子みたいに、手足をばたばたさせていた。(中略)中原は、しかし、そうなったままずいぶん長くいた。正気の沙汰じゃないといえば、それまでだが、私は今でもやっぱり、彼はあの時、本当に赤ん坊になってしまったのだと思っている。

 イエス・キリストも言う。「誰も子供のような心のものでなければ、天国へは入れない(『新約聖書』「マタイによる福音書」第十八章−三)」。
 そして中也の昭和二年五月八日の日記、

 愛とは、「人の好い」ことだ
 そしてすべては愛から生れる

 子供の心とは、「人が好い」ということではないだろうか。そして、中也はそれが「愛」であるとし、すべて「愛」から生まれるという。そしてそれが、天国へ入る条件、すなわち『神』を見ることなのだ。

神と芸術の間に
 日本近代文学研究の千葉大学・吉田熙生教授は、中原中也を「愛」の詩人と呼ぶ。また、その「愛」は「単一女性への愛ではなく、中原の人間関係についての根本的観念であり、また創造の源流でもあった」と述べておられる。
 中也が「愛の詩人」であったことは、例えば昭和二年の日記に「詩が生まれるのは情愛から」、「やがて再び愛/歌となる……」、「私の観念の中には、/常に人称がない、/絶対にない!/愛が純粋であるのだ」、「そしてすべては愛から生れる」などの表現があり、そこから「愛の詩人」と定義づけられたのかもしれない。その「愛」が「単一女性への愛ではない」とすれば、これこそ『神』の認識に基盤を置くものとしか言いようがない。なぜなら、『神』の本質は「愛」だからだ。しかもそれは男女間の「愛情(エロース)」ではなく被造物に絶対平等に降り注がれる「大愛(アガペー)」であり、中也の「愛」もそういったものであるなら、その中也からはごく自然に「神は善意である」という言葉が出るのだろう。だから中也を「愛の詩人」と言うなら、それはそのまま「神の詩人」ということになる。
 中也にとって芸術とは昭和五年、彼が二十三歳の時に『白痴群』に載せた「詩に関する話」という評論によれば、「芸術とは、自然と人情とを、対抗的にではなく、魂の裡に感じ、対抗的にではなく感じられることは感興或は、感謝となるもので、而してそれが旺勢な(ママ)れば遂に表現をすという順序のものである」ということになる。
 自然と人情――「すべては愛から生まれる」のなら、究極的には『神』へと帰一される。それを「魂の裡」で認識し得た時に感謝を感じ、それが已むに已まれぬ情――「必至のこと」として芸術は表現される……中也にとっての芸術はこういう図式である。
 この「感謝」こそ『神』の認識の、つまり信仰の極意なのだ。いいにつけ悪いにつけ、ことごと一切徹底感謝である。なぜなら中也は「我が詩観」で言う。「神の悪意の仕業とも見えることも起るであろう。けれどもそれは途中のことだ。何故なら、帰する所は、あの路この路を径た(ママ)上での善意の国である筈だからだ」。だから、一切が良くなるための変化あるのみだからことごと一切に感謝で、その感謝、もしくは「事象物象における神秘への驚きと感激」、その必死の表現が芸術だというのである。
 それは突き詰めていけば「芸術とは自然の模倣ではない、神の模倣である」という、「詩に関する話」の前年に書かれた「河上に呈する詩論」における中也の言葉となろう。ここで「自然の模倣ではない」と言っているのは、あくまでこの文章が河上徹太郎に向けて書かれたものだからだ。中也は河上について、「自然」を「生理作用で書き付け」るいわゆる「自然詩人」ととらえ、そのことに関する批判をこめて中也はこう言ったので、決して彼が『神』と「自然」を対抗的に考えていたことにはならない。
 ここでいう「芸術は神の模倣である」という言葉が、前に述べた「自然と人情」を『神』と置き換え、その認識の表出が芸術であるというプロセスをごく端的に表している。
 もう一歩突き詰めて考えれば、『神』が芸術そのものである、ということになろう。なぜなら、先程の「河上に呈する詩論」の引用した部分のすぐ後で、「神は理論を持っ(ママ)てはしなかったからである。而も猶、動物でもなかったからである」と中也は言っている。『神』は理論理屈で割り切れる「有機的」あるいは「生活的」なものではない。そうすれば、『神』は芸術そのものということになる。
 中也は「地上組織」の次に書いた評論の「詩論」では、次のように語る。

 芸術とは、自分自身に忠実であることだ。
 (中略)
 芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあるのだ。
 (中略)
 芸術とは、自我を愛することの誠実であることの、褒賞である!

 この最後の部分は、そのあとに「(生きるとは、自我を愛することである!)」というポール・バーレンの言葉が記されており、その翻案であることが示されている。
 この「自我」だが、ここでは「エゴ」とは違う。「自我を愛す」とはエゴをむき出しにするような「自利愛」的な意味ではない。つまり「自分自身の魂に浸る」のであり、「それが誠実にして深い」のだ。自利愛なら正法実践ではなく、そして浅い。
 そして、「魂に浸る」というその「魂」は、『神』につながるものだ。それに浸ることが「誠実で深い」のだから「自我を愛する」というのは神の子である己の魂を愛することで、それによって『神』を愛し、また等しく神の子である隣人を愛することになる。その愛の褒賞が芸術で、さらに芸術が『神』の模倣なら、より『神』に近づいて神性化するはずである。
 このような芸術論に立脚した中也の芸術はそれ自体が神のみ意であり、また祈りだったのではないだろうか。