聖書概説| ★「旧約」と「新約」 |
| ★「章」と「節 |
| ★それぞれの内容 |
| ★『聖書』の日本語訳の変遷 |
| ★これから『聖書』を読もうとされている方へ |

『聖書』は「旧約聖書」と「新約聖書」の二つに大別されます。
それぞれの特徴をひと言で言うと、「旧約聖書」は天地創造からイエス・キリスト以前のユダヤ民族の歴史を綴ったもの、「新約聖書」はイエス・キリストの宣教とその教えを記したものです。従って「旧約聖書」はユダヤ教徒にとっても聖典であるのに対し、「新約聖書」はキリスト教のみのものです。
「旧約」や「新約」の「約」とは「契約」という意味で、英語では「Testament」となります。つまり、神と人との「契約」が骨子となっているもので、決して「旧訳」「新訳」ではありませんのでお間違えのなきよう。
『聖書』のそれぞれの書物は各「章」に分かれて、さらにその中の1〜3文を「節」に分けています。たとえば「創世記」は第1章から第50章まであり、そのうちの第1章は31の節に分かれています。どの聖書にも本文中に「節」を示す細かい数字が打ってあり、引用などに便宜が図られています。たとえば、創世記の最初の「アダム」と「イブ(エバ)」がエデンの園から追放された場面は、「創世記」の第4章の第23節に書かれています。実際に聖書を開くと、次のように表記されています。“22主である神は、こう仰せられた。「人は不十分ながらも善悪を知るようになった。今度は命の木にも手を伸ばし、命の木からもその実を取って食べることのないように、」23そこで、主である神は、アダムたちをエデンの園から追いだして、神との交わりを断たれた。そのため、アダムは土地を耕し、自分で働くことを始めた。25こうして。神は、〜(後略)”(尾山令仁訳・「現代訳」より)。この「創世記」第4章第23節を、「創世記4-23」と表記します。『聖書』はそれを見ただけで、すぐにその個所が開けるようになっています。
「旧約聖書」も「新約聖書」も、その内容は「歴史(過去)」「教訓(現在)」「預言(未来)」に大別できます。
それぞれの聖書の構成は次の通りです。
| 《旧約聖書》 | 《新約聖書》 | |
| 過去 | 創世記 出エジプト記 レビ記 民数記 申命記(第二法の書) ヨシェア記 土師記(判事の書) ルツ記 サムエル記 上 サムエル記 下 列王記 上 列王記 下 歴代誌 上 歴代誌 下 エズラ記 ネヘミア記 *トビト記 *ユディット記 エステル記 *マカベ前書 *マカベ後書 | マタイによる福音書 マルコによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書 使徒行伝 |
| 現在 | ヨブ記 詩篇 箴言(格言の書) 伝道の書 雅歌 *知恵の書 *集会の書 | ローマ人への手紙 コリント人への手紙T コリント人への手紙U ガラテヤ人への手紙 エペソ人への手紙 ピリピ人への手紙 コロサイ人への手紙 テサロニケ人への手紙T テサロニケ人への手紙U テモテ人への手紙T テモテ人への手紙U テトス人への手紙 ピレモン人への手紙 ヘブル人への手紙 ヤコブの手紙 ペテロの手紙T ペテロの手紙U ヨハネの手紙T ヨハネの手紙U ヨハネの手紙V ユダの手紙 |
| 未来 | イザヤ書 エレミヤ書 哀歌 *バルク書 *手紙 エゼキエル書 ダニエル書(*13〜14) ホセア書 ヨエル書 アモス書 オバデヤ書 ヨナ書 ミカ書 ナホム書 ハパクク書 ゼパニヤ書 ハガイ書 ゼカリヤ書 マラキ書 | ヨハネの黙示録 |
| 外典・偽典 | アリステアスの手紙 第Wマカベ書 シュビラの託宣 エノク書 十二族長の遺訓 ソロモンの詩篇 バルクの黙示録 モーセの昇天 イザヤの殉教 アダムとエバの生涯 ヨプの遺訓 | エピオン人福音書 ヘブル人福音書 エジプト人福音書 ヤコプ原福音書 トマスによるイエスの幼年時代 ペテロ福音書 ニコデモ福音書 ラオデキア人への手紙 パウロとコリントとの往復書簡 セネカとパウロとの往復書簡 パウロの黙示録 |
| 注)*印は、カトリック教会でのみ第二正典とされ、プロテスタント諸教会では外典・偽典扱いとなっている所も多くあります。聖書でもカトリック教会が使用する「バルバロ訳」聖書などや「新共同訳」にのみ収録されています。 また、それぞれの章名は『聖書』の訳本によって若干の相違があります。 |
| 《外典・偽典》とは |
| 『旧約聖書』においては、ギリシャ語訳された『旧約聖書』にあってヘブライ語原典にないものを「外典」、後世に書かれたものらしいものを「偽典」といいます。『新約聖書』は「外典」のみがありますが、上述のように聖書は一冊の本ではなく、多くの文書の集大成です。従ってイエスの死後にいろいろな人の筆によって多くの福音書、書簡、黙示録等が残されましたが、その中から4世紀の公会議で正典として選ばれたものが現行の『新約聖書』です。その時に選に漏れたのが「外典」となりますが、あくまで人知による「会議」で決められたのが正典なのですから、「外典」といっても決して「ニセモノ」「インチキ」というわけではないと思います。 |
同じ『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第3章-第3節〜8節が、訳本によってどう違うか実際にご覧頂きましょう。
《文語訳》 現代ではあまり使用されていない。
イエス、答へて言ひ給ふ『まことに誠に、汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の国を見ること能はず』ニコデモ言ふ。『人はや老いぬれば、争(いか)で生るることを得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』。イエス、答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能はず。肉によりて生るる者は肉なり。霊によりて生るる者は霊なり。なんぢら新たに生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。風は己が好むところに吹く。汝はその声を聞けども、何処(いづこ)より来り何処へ往くを知らず。すべて霊によりて生るる者も斯(かく)のごとし』
《バルバロ訳》 カトリック教会で使用。
イエズスが「まことに、まことに、私は言う。人は、上から生れないと、神の国を見ることができない」とお答えになった。ニコデモは「すでに年をとっている人が、どうして生れることができましょう。もう一度母の胎内にはいって生れることができるのですか?」といった。イエズスは「まことに、まことに、私はいう。水と霊によって生れない人は、天の国にははいれない。肉から生れた人は肉で、霊から生れた人は霊である。上から生れなければならないといっても、おどろいてはいけない。風は自分の思いのままに吹いているが、あなたはその声を聞いても、風がどこから来てどこへ行くかをしるまい。霊から生れた人もそれと同じである」とおおせになった。
《フランシスコ会聖書研究所訳》(バルバロ訳と大同小異) カトリック教会で使用。
《口語訳》 プロテスタント教会で使用。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 (日本聖書協会『口語訳 新約聖書』 ヨハネによる福音書3章3節〜8節)
《新改訳》 プロテスタント教会で使用。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用)
《新共同訳》 カトリックとプロテスタントで共同で使用。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ヨハネによる福音書3章3節〜8節)
《リビング・バイブル》 英語→日本語
「そうですか。でもよく言っておきますが、あなたはもう一度生まれ直さなければ、絶対に神の国へは入れません」ニコデモは、思わず大声で叫びました。「ええっ、もう一度生まれるのですか!いったい、どういうことですか。年をとった人間が母親の胎内に戻って、もう一度生まれるんですか。そんなこと、できっこありませんよ」「よく言っておきますが、だれでも水と御霊によって生まれなければ、神の国へは入れません。人間からは人間のいのちが生まれるだけです。けれども聖霊は、天からの、全く新しいいのちを下さるのです。もう一度生まれなければならない、と言われたからといって、驚くことはありません。風は、音が聞こえるだけで、どこから吹いて来るかも、どこへ行くのかもわかりません。御霊だって同じことです。次はだれに、この天からのいのちが与えられるか、まるでわからないのです」
《現代訳》 尾崎令仁(現代訳聖書刊行会)
それを聞いて、イエスはこう言われた。「よく言っておきますが、確かにどんな人でも生まれ変わりを経験しなければ、神の国に入れていただくことはできません」ニコデモはそれに対してこう言った。「先生、私は年をとりました。どうして、もう一度母の胎に入り直して、出てくることができましょうか」彼には、霊の生まれ変わりと肉体の誕生とが区別できなかった。そこでイエスはさらに説明して、こう言われた。「よく言っておきますが、確かに、どんな人でも肉体の誕生だけでなく、霊の生まれ変わりを経験しなければ、神の国に入ることはできません。御霊による霊の生まれ変わりを経験した人だけが、生まれ変わった人です。霊の生まれ変わりについて私が言ったことを、不思議に思わないでください.ヘブル語では御霊と同じ言葉である風のことを考えてごらんなさい。風は、それが吹いても、日で見ることができませんし、その結果である音を聞くことはできても、それが風そのものであるとは限りません。しかし、目で見ることはできなくても、風が吹いていることは確かでしょう。御霊による霊の生まれ変わりも、ちょうどそれと同じです」
《拙著『人間・キリスト』より》(参考)
(イエースズはニコデモに言った)
「まず、新しく生まれなければならないでしょうね」
「新しく生まれる?」
ニコデモは少し考えた。
「いやあ、ガリラヤ人の癖ですなあ、そういうたとえめいた言いまわしはね。私はこのユダヤの地に長いもので、ユダヤ風の直接的言い方に慣れてしまっているんですよ」
イエースズとて、ガリラヤを離れて久しかった。それなのに自分の中にガリラヤ人の特性を指摘されて、少々くすぐったくもあった。そこで彼は照れ隠しに少し笑い、ひと息入れてから言葉を続けた。
「新しく生まれるっていうのはですね、一切の自分を捨てて、すっかり生まれ変わってしまうことなんですよ。そういう意味で私は言ったんです。いいですか、自捨新生、これこそが神の子として復活する第一歩なんです」
「自捨新生?」
「ええ、自利を捨て、我欲を捨てて、新しく生まれ変わることです」
「そんなねえ、生まれ変わるって言ったって、もう一度母親の胎内に入れるんてすかね。私ゃこんな老人なのに」
クリスチャンでも『聖書』を通読したという人は、あまりいないでしょう。それでも通読されたい方は、まずは『新約聖書』からお読みになるのをお勧めします。中でも、二番目に収録されている「マルコによる福音書」をまずお読みになるとよろしいかと思います。簡潔で、速やかに読めるからです。また、どの訳本がいいかということですと、上記で紹介した尾山令仁師の「現代訳」(現代訳聖書刊行会)がお勧めです。
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