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イェースズは、航路を東北東へととった。大地が球であることを知らない人々にとっては考えられないコースだが、イェースズは東へと行っても西の故国にたどり着けることを知っていた。また、真東に航路を取るよりも東北東に針路を取った方が真東に行く最短距離になることまで知っていたのである。
最初は潮流に逆行する形だったので進みも遅かったが、やがて海流が変わると順調に船は航行した。毎日が奇跡ともいえる晴天続きで、海も穏やかだった。だが、その穏やかな海の下にはムー帝国の大部分が沈んでいると思うと、イェースズは複雑な気持ちだった。三百六十度どちらにも陸地は見えない日が何日も続き、広い世界にたった一人ぽつんと置き去りにされたような錯覚に陥るが、霊眼を開けば彼を守護する諸神霊の姿が見え、また交流もでき、彼は決して一人ではなかった。
月の満ち欠けで日付を確認していたイェースズだが、二回満月を見て、そして月のない夜になったころ、すなわち出航してから約二ヶ月半ほどしてようやく大陸が前方に横たわった。久しぶりに見る陸地に、イェースズの胸は躍った。
だが、そこはまだローマ帝国領ではなかった。イェースズはとにかく上陸してみたが、そこで出会った人々の文明は決して稚拙なものではなかった。イェースズの船を遠くから見つけて出迎えてくれた人々は、驚くほど友好的だった。彼らの顔は赤人に属するようだったが、メソポタミヤのシュメールとのつながりが感じられる。そうなると、イスラエルの民とも血が続いていることになる。イェースズがそれを見て感じた親近感が向こうにもそのまま伝わったようで、人懐こく身振り手振りでイェースズがどこから来たのか聞いているのである。彼らもまたイェースズの顔を見て、同族だと思ったのであろう。だが、イェースズは身振りを読む以前に、相手の想念からすべて言わんことを察していた。そこで、自分はこの船で大きな海を西の方から渡ってやってきたのだと告げた。それを聞いて驚いたような表情で、一人の若者が目を輝かせながら、身振りも忘れて話し始めた。イェースズは、当然そのすべてを理解した。
その若者の言葉によると、自分たちの部族は遠い昔にこの海の向こうにあった大きな大陸から渡って来たということだった。
ムー大陸! と、イェースズはすぐに察した。すると、この人々はムーの末裔となる。そうなると霊の元つ国のヤマト人、といっても大人として支配階級にあるイスラエルの民の末裔のヤマト人ではなく、あの国の先住民族である黄人たる黄色い肌のヤマト人たちと同根ということになる。イェースズが感じた親近感は単に顔のことだけでなく、その霊統にもあったのだ。
イェースズは、とにかく彼らの村の中心部に行きたいと願った。できれば、この国の都ともいえる場所へ行くことを欲した。その思いはすぐに彼らに伝わり、そこから彼らとイェースズとの旅が始まった。
旅は二十日ほど続いた。ジャングルの中の道なき道を川沿いに歩く長い旅で、それでも地元の若者たちは慣れているようで足取りは軽かった。だが、老齢とはいえども、彼らに負けるようなイェースズではなかった。イェースズが霊の元つ国を出航したのが初夏であり、それからかかった時間を計算しても今の季節はもう秋になっているはずだったが、その陽射しは真夏の炎天下であった。むしろ、霊の元つ国や故国に夏の陽射しよりも、遥かに強い。そんな中、汗を拭きながらの鬱蒼と茂った密林の中の行軍ともいえる前進であった。
その間、イェースズは同行する若者たちの底抜けの明るさに感心していた。とにかくやたらとイェースズに話しかけてくる。その笑顔は、まるで太陽のごとくであった。そんな彼らの姿に、まさしくこの国は太陽の国、情熱の国とイェースズは直勘した。太陽の直系国ならば、やはり霊の元つ国と完全に同根である。その起源は、同じくムーから流れているに違いない。
そしてもう一つ不思議なことに、約二十日の行程で、イェースズは彼らの言葉をマスターしてしまったのである。それは単にイェースズの語学力によるものではなかった。かつてイェースズが霊の元つ国で一夜にしてその言葉を理解し得たのも、前世記憶の復活によるものだった。そしてそれと同じことが、ここでも起こった。彼らの言葉は、間違いなくムーのマヤ語であった。そうなると、イェースズの前世の記憶さえ戻れば、自由自在にその言葉を話すこともっできる。そしてもう一つ思いだしたことは、弟のイシュカリス・ヨシェが自分の身代わりになって十字架にかかった時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」と叫んでいた。そしてそれこそが、まさにマヤ語だった。自分の前世記憶が弟に飛び火したのか、弟自身の前世記憶かそれは分からない。いずれにせよ、弟はマヤ語をしゃべった。そのマヤ語をしゃべる人々が、現在の地上にまだ存在していたのだ。
やがて、密林の中に都とも思われる都市が出現した。だが、イェースズと同行した彼らの話では、この地域や彼らの部族の統一した国家というものはなく,王というような存在もないという。だからここもこの国の都ではなくこの地域の中心都市にすぎず、同じ部族の中にも同じような中心都市が多く林立しているという。そしてそこでまずイェースズの目を奪ったのは、幾基も空に向かってそびえる石造りの太陽神殿たる日来神堂だった。ここの日来神堂は人工のものであった。しかし、エジプトのそれのように四角錐ではなく、階段状になっている。そしてエジプトではそれがいつの間にか王家の墓ということにすりかえられてしまっているのとは異なり、ここでは太陽神殿としての色彩を全面的に押し出していた。石組みが階段状になっているのとは別に、頂上へは人が昇るための階段もついていて、その頂上には明らかな神殿となっている。
イェースズは、この都市の長と会談できた。長はイェースズを温かく笑顔で迎えてくれた。まさしく太陽族特有の底抜けに陽気で朗らかな接待だった。
イェースズは、この国の名を聞いた。
「マヤと申します」
長の答えに、もうイェースズは何をか言わんだった。
「そうですか。私はこの国の西の大海原のさらに西の小さな島国から来ました。その国こそ、こちらとは同族の国です。さらに私の故国はもっともっと西で、しかしここから東でもありますけど、やはりその故国の民もこちらと同じ血筋のようです。もっと西で東でもあると言えば、奇妙に思われるかもしれませんが」
「何の奇妙なことがありますか。この大地は丸い球なのですから、西へ行けば東となります」
その言葉には、イェースズも驚いた。大地が球であることを自分は体験として知っているが、幼い頃は大地は平面だと思っていた。いや、故国でもローマでもエジプトでも、そして自分が今まで訪ねたすべての国でも、大地が球であるということを知っている人々はいなかった。
「どうぞこちらへ」
と言われてイェースズが案内されたのは、石の天文台だった。天体の観測はかつてエジプトでも盛んに行われてはいた。だが、案内とともに長が直々に説明してくれたところによると、この国の人々は太陽の運行、地球の天体としての動きをすべて把握しているだけでなく、もっともっと遠い、太陽の周りを回る星たちの動きもすべて熟知していたのだ。それに基づいて、実に巧妙な暦までも作り上げている。
長の部屋に戻ってから、イェースズはもう一気にしゃべった。
「もう少し、こちらの皆さんと私がいた国のことをお話させて下さい」
そうしてかつて大洋上にムーという巨大な大陸があり、そこは太陽の直系国で人類の発祥の国でもあること、そこには黄、赤、白、青、黒の五色人がおり、それぞれが全世界に派遣されて各人種の祖となったこと、またその国は大きな四つの種族に別れていていちばん大きな部族がマヤ族であり、言葉もマヤ語がいちばんよく話されていたこと……そこまで話を進めると、長は笑顔で自分の膝を打った。
「そうでしょう、そうでしょう。おっしゃるとおりです、いやあ、驚いた。あなたが話されることは、私どもの伝承と全く同じなのですから」
やはり、この国の人々は、何もかも知っているとイェースズは感じた。
「私がおりました国は霊の元つ国といいまして、そこが人類発祥、五色人創造の聖地といわれています。つまり、かつてのムー帝国の一部なのです。今から約一万年前に、ムー大陸はある晩突然に海に沈んでしまいました。その時なんとか脱出したマヤ族の人々は東の大陸へ逃れてシュメール人となり、そして皆さんのマヤ族となっているわけです。私はイスラエルという民に属しますけれど、それもシュメール人の子孫です。もっとも、太古に霊の元つ国より派遣されました皇女様の、ヨイロッパ・アダムイブヒ赤人女祖様を祖としております。そして、ムーが沈む時に高い山にとどまった人たちもいまして、その高い山が沈み残って今の霊の元つ国という島国になっているわけですけれども、そこの人々をヤマにとどまった人々ということで『ヤマト人』というのです。つまりムーの言葉はマヤ語であって、ヤマトコトバであったわけです」
「あなたがおられた国と、あなたの部族と、われわれの関係がよく分かりました。どうかこの地で、ごゆるりとされて下さい」
「お気持ちは有り難いのですが、私は今自分の故国を目指しているんです。あまり長居はできませんけれども」
そう言ってイェースズは、とりあえずは言葉に甘えてここに数日は逗留することにした。まずは驚いたのは、一般の庶民の使っている土器が、霊の元つ国民の使うものと全く同じであったことである。文化の基が同じということは、船で横断に二ヶ月もかかる大洋がその間にあることなどは関係のないことのようだ。さらにこの国には青銅器や鉄器などの金属の文化はなく、すべてが石の文化であることも知った。そして何よりもここの人々が、ムーのマヤ族の血が濃く残っているばかりでなく、霊的にはその魂の中に太陽族としての表徴が強く刻み込まれていると実感した。太古の惟神の生き方を、本質的に持ち合わせているのである。
そしてある日、イェースズは日来神堂の一つに登った。壁をよじ登るような急な階段であった。地元の人々は、それを軽々と登るこの老人らしからぬ老人に舌をまいていた。イェースズのの背中には、南国の太陽が容赦なく照りつける。やがて頂上に登って辺りを見ると、どちらの方角も一面の濃い緑のジャングルだが、東の方のすぐそばにどこまでも青い海が見えた。そこはこの大陸の東側の海で、ローマへ、そして故国へと直接つながる海だった。故国に戻るには、またこの巨大な大洋をもう一つ越えなくてはならない。イェースズは日来神堂の頂上から、日来神堂の霊的復活を祈念して手をかざし、霊流を半島全体に放射した。すぐに黄金の霊光が立ち昇るをのをイェースズは感じ、ここにも一つ火柱を立てて結界を張ったことでその使命を果たしことを彼は知った。
数日の滞在の後、この国の人々があつらえてくれた帆船で、イェースズは再び東へと出航した。長はいつもの陽気な顔に涙を浮かべ、イェースズに行かないでくれと懇願したが、そうもいかないイェースズであった。
「もう、この国は大丈夫です。神の祝福が永遠にこの国にありますように」
わざわざ港まで見送りに来た長にそう言って、イェースズは出航した。やがて大洋に出てみると、今まで乗ってきた船よりもはるかに性能のいい船であることをイェースズは知った。
またしても好天続きで、何度か月が満ち欠けするうちに大陸が現れ、その真ん中に海峡が見えた。それが、地中海への入り口の海峡だった。その海峡へと、イェースズは吸い込まれていった。そしてさらに何日かの航海の末、左手に大きな島が見えてきた。ギプロスに違いない。そうなると、目指す故国はもうすぐだ。イェースズは目を細め、行く手の青海原をじっと見つめた。その行く手に白っぽい大陸が横たわったのは、ニ、三日たってからだった。その大地が近づくにつれ、イェースズの胸は高鳴り始めた。
町が見えてきた。まぎれもなく、カイザリアだ。船が近づくにつれ、町の建物も認められるようになってきた。船は帆いっぱいに追い風を受け、順調に進む。四十年ぶりに、肉身を持って戻ってきた故郷である。昼下がりの陽光を受けて、町は明るく白く輝いている。今、その故国の風景を、イェースズはその肉眼の中に納めた。
港を歩き回る人々の様子まで分かるほど、船は岸へと近づいた。いよいよ上陸だ。桟橋の一つに船を横付けにして錨を下ろし、彼は故国への第一歩を踏みしめた。だが、そこにはいい知れぬ緊張があった。故国はもはや、以前の故国ではないことは十分話に聞いていたからだ。
イェースズは、大きく息を吸う。そして町に入るとすぐに、港町の空気が一変した。そこにいた人々の動作が、イェースズを見て一瞬止まったのである。明らかに異文化のものと思われる帆船に、異様な赤い袍を着た赤い顔の老人が、一人で乗ってきたからである。しかも、頭上まではげ上がった頭に、ひと目でユダヤ人のラビと分かるヒラクティリーをつけているのだ。
人々は露骨にそんなイェースズを見ながら、互いにささやきはじめていた。その言葉はアラム語ではなく、ギリシャ語だった。そして人々も皆白人、さらに服装からもギリシャの商人かローマの市民のようであった。ユダヤ人の姿は、どこにも見えない。
イェースズは辺りを見回した。上陸するまでは故国の町と胸を躍らせていたが、こうして見るとまるで初めて来る知らない国に来たようだった。何もかもが変わっていた。四十年間を隔てた結果としての記憶の薄らぎのせい、あるいは時の流れによる変化、そういったものだけとはいえないような何かが、町の変容ぶりの背後にはあるようだった。昔からカイザリアはローマが造った町だからローマの雰囲気が漂ってはいた。ローマ総督が常駐する町でもあった。しかしこれほどまでにローマ一色ではなかったと、イェースズは記憶の断片を手繰り寄せた。今では完全にローマの市街と変わらないくらいに、町は作りかえられている。しかし何気ない街角のふとした小さな所に、ユダヤ風の建築物の残骸が残っていたりした。だがそれは、ほとんどが廃墟といえるくらいに破壊されていた。
イェースズは無表情で、故国の町を歩いた。その時、前方からかなりの数のローマ兵たちが馬に乗り、自分目がけて近寄ってきたのをイェースズは見た。その中の百卒長らしきものが馬をとめ、イェースズを見ろした。
「ご老人、どこへ参られる!?」
ギリシャ語で尋ねられたのだが、イェースズは返答に困った。
「どこから来られた」
これには即答できた。
「この海の西の方からですよ」
「ギリシャか。ローマか」
「もっとずっとずっと西です」
「おかしなご老人だな。ローマより西は、海があるだけじゃないか」
「その海の向こうからですぜ」
イェースズはただ、含み笑いを浮かべて居た。
「ユダヤ人か?」
イェースズはゆっくりとうなずいた。
「出身はどこだ」
「ガリラヤです」
百卒長の顔が、一瞬曇った。そして、もう一人の馬上の兵士と、互いに顔を見合わせている。
「用はそれだけですかな」
イェースズはそんなローマ兵の間をすり抜け、
「では、ごめんなさいよ」
と言って早足にその場を立ち去った。
とりあえずガリラヤに行こうと、イェースズは思った。カイザリアからだとエルサレムよりもガリラヤの方が近い。そこへ行くには砂漠ではなく、肥えた緑草や森林地帯を横切って行かれる。途中、イェースズは宿屋には一切泊まらず、これまで通りすべて野宿した。宿屋に泊まるには、イェースズには金がない。そもそもここ四十年、貨幣というものを手にしたことはイェースズは一度もなかった。この世界で金がないと何もできないのは、本当にこのイスラエルとギリシャ、そしてローマくらいなのだ。それ以外の世界では、そのようなものを必要ともしないで世の中は回っている。だが、やがてその貨幣経済が全地を覆うであろうこともイェースズは知っている。すべてがイシヤの仕組みでそうなることを予知できるのだが、それは表面的なもので、実際には神霊界からの裏の仕組みによる働きかけがそこに介在するであろうことは、イェースズには百も承知だった。
すでに真冬の雨季であったが、イェースズは野宿をしても寒さは感じなかった。食糧もほとんど狩猟である。そんな道中をニ、三日も重ねれば、すぐにガリラヤに着くことができた。峠の上に立った彼の視界に、広々と青いガリラヤ湖の風景が展開した。湖水は風にさざなみを立て、周囲の青い丘陵を反映させていた。明るいその風景に、イェースズは一気に峠を駆け降りた。思えば、使徒たちとエルサレムに上るためのこの故郷をあとにして以来、イェースズにとって初めての帰省なのだ。
風の中に甘い香があった。これこそ故郷の匂いだ。故郷の風は、やはり暖かかった。だが、暖かいのは風景だけのようだ。どうも閑散としていて、人の気が感じられない。まず、ガリラヤ湖の湖畔にることは間違いないにしても、自分がどのあたりにいるのかがすぐには見当がつかなかった。そこで水際に沿って左の方、つまり北へと歩いて行くと、見覚えのある風景がようやく見えてきた。町があるはずである。しかもその町は、マグダラのはずだ。
イェースズは町に入った。家並みや建物は、昔ながらのたたずまいだった。そのことだけが妙に嬉しかったが、やはりここでも人はほとんどいなかった。ゴーストタウンさながらの風景に、たまに出くわすのはすべてローマ人のようだった。すれ違う彼らは皆、胡散臭そうに眉をしかめてイェースズをじろじろと見た。町の至る所に、戦争の後遺症とも思われる破壊された家があったりもした。
とにかくそこを後にして、彼は湖沿いに北上した。水際から離れさえしなければ、間違いなく生まれ故郷のカペナウムに着けるはずである。カペナウムが近づくにつれ、彼の思い出の中にある地点をいくつか通過した。ここであんなことがあった、ここでこんなことがあったと確認しながら、イェースズは歩いた。
そして、ようやくカペナウムの町が見えてきた。こんな小さな町だっただろうかというのが、第一印象だった。記憶の中で町は勝手に膨大し、歳月の流れを経て再会すると現実の小ささとのギャップに驚くことはよくある。だが、現実の町が小さいというのは、どうもそういうことばかりではないようだった。町というよりも今は、ぽつん、ぽつんと建物が点在するだけの閑散とした村となっている。イェースズは目を見張った。もうそこは、町ではなかった。大部分の建物が破壊されて、ほとんど廃墟といってよかった。この町の地理に関しては、どんなに年月が流れようとも決して間違えることはない。その記憶を頼りにたどり着いた会堂は、いちばんひどい破壊のされようだった。ほとんど黒い土台しか残っておらず、その周りに密集していた家もすべてが瓦礫の山だった。
イェースズは、自分の家のあったあたりへと急いだ。今回の帰省は別に自分の家を訪ねるでも、家族の今の消息を知るためでもなかった。だが、やはり今生の記念に見ておきたかったのである。母の消息は分からない。自分は母の十八の時の子だから、今生きていたら八十代後半。生存の可能性は薄いが、皆無ではない。そして妻マリアは、それもどうなったか分からない。再会の望みを抱いていたわけではないが、イェースズはとにかく家へと急いだ。
幸い、イェースズの家は、わずかながら点在する数軒の家の中の一つだった。現存していたのである。昔ながらの土壁だ。「ただいま」と声をかけて門から入れば、若い母が笑顔で迎え出てくれそうな錯覚に陥った。
その時、家の門が開いた。人が住んでいるようだ。出てきたのは少年だった。だがその顔つきは白人で、ギリシャ風の服装をしていた。
「ねえねえ、君。ここに住んでいるのかね?」
イェースズは、アラム語で話しかけてみた。少年は首をかしげた。そして、
「何を言っているの? おじいちゃんの言葉、分からない」
と、ギリシャ語で返答してきたのである。そこでイェースズもギリシャ語で、もう一度同じことを尋ねてみた。
「そうだよ。ここ、僕の家だよ」
今や自分の家は、見知らぬしかも異邦人の家になってしまっている。十分に予想できたことなので、イェースズはさほど衝撃は受けなかった。
「いつからここに住んでいるのかな?」
「この間の戦争のあとさ。それまでは空き家だったんだって。僕はちっちゃかったからよく覚えていないけど、お父さんとお母さんがギリシャから来て、ここが気にいって住んだんだってさ。お父さんとお母さん、家にいるよ。呼んで来る?」
「いやいい、いやいい」
イェースズは慌てて手を横に振った。
「おじいちゃんは、どこの人? 旅をしてきたの?」
「う、うん」
イェースズは苦笑しながら仕方なくうなずき、
「実は、昔この家に住んでいたことがあるんだよ」
と小声で言って、あえて少年の反応は見ないで背を向けた。そして、そのまま歩きだした。そうしてそのままここを立ち去ることしか、今の彼にはできなかった。
もはや、母も妻もいなかった。使徒たちとて、この町に、いやこの廃墟にいるはずはない。やはりエルサレムに行かないといけないと、イェースズは思った。
ヨルダン川沿いに、イェースズは南下した。そして、不思議なことに気が付いた。しばらくは、川の両側は麦畑だったはずだ。それがない。今は一面の荒野となっている。今や、農業生産さえ破壊されているようだ。
そして塩の海の河口近くで、川から離れた。これからは砂漠を横断する。その砂漠中の街道でも、すれ違うものはなかった。国土全体が、ひっそりとしている。
ようやく砂漠も終わり、峠道にさしかかった。左手の丘はオリーブ山だ。それを迂回すると視界が開け、谷の向こうに横たわる城壁と神殿、そこへ続くアーチ状の橋が一望できる――それがイェースズの記憶の中にある風景だった。
峠を越えて、そのような風景が展開されるべき位置まで来た。だが、イェースズの足は、そこで止まってしまった。
何もない! 何もないのである。神殿があったはずの場所は、瓦礫の山になっていた。アーチ状の橋も、崩れ落ちている。イェースズは一目散に駆けた。峠を下って谷に降りるまでも、誰にも人に会わなかった。谷まで降りるとようやく立ち止まり、しばらく廃墟になった神殿のあとを見上げていた。そして、ため息を一つ漏らした。このような情景を目にするであろうことは、すでに知っていた。だが、実際に見ると、やはり衝撃は大きかった。この神殿がいつかすべて破壊される時が来るというのは、かつて自分が使徒たちに予言していたことなのだ。とにかくイェースズは町に入ろうとして、神殿の南側に続く石段を登り始めた。この石段だけは、まぎれもなく昔のままだった。やがて、城壁の門に差しかかったが、そこで彼は初めて人を見た。門はローマ兵によって検問が敷かれていたのである。
「どこへ行く?」
厳しい声がラテン語で飛んできた。
「町へ、入りたいんじゃがのう」
イェースズのギリシャ語を聞いて、兵たちの眉が動いた。
「ユダヤ人だな! 異様な老人だ。来てもらおう!」
両脇を兵士に絡め取られて、イェースズは門の中に引いていかれた。城内も、ほとんどが廃墟だった。完全な形で残っている建物は、ほとんどないといってよい。そしてここにもまた、ほとんど人がいないのである。ここがローマの支配下にあったとはいえ、一応イスラエルの都として栄えていたエルサレレムかと思うと、薄ら寒くさえなった。ときたま行きかう人は、皆ローマ人なのである。歩かされながら首だけ神殿の方を見ると、神殿の西南の一角の城壁だけがほんのわずかに残って面影をとどめていた。
やがてイェースズは半分崩れかけた、かつては確かに最高法院の建物であったはずの所へと連れて行かれた。そこにも多くのローマ兵がいた。皆、若い。かつて自分がここで教えを説いていた時には、まだこの世に影も形もなかったような若者なのだ。
中庭に立たされたイェースズの前に百卒長らしき男が立ち、
「ギリシャ語は分かるか?」
と、当然ギリシャ語で聞いてきた。イェースズは分かると答えた。
「では聞くが、ユダヤ人の分際で、そのようないようないでたちで何のためにエルサレムに入ろうとしたのか。熱心党の残党か」
「違いますな」
イェースズは、かすかに微笑んで答えた。百卒長はそれで愚弄されたと感じたようで、表情を固くした。
「分かった。御禁制のクリスティアノスだな。住まいはどこだ」
「ありません」
「何?」
イェースズは上陸以来ずっと、故国に帰ってきたという感触よりも、すでにここでは自分は異邦人なのだという感覚の方が強かった。自分の家だった所にさえ、見知らぬギリシャ人が住んでいた。その事実に直面した時から、イェースズは自分が今のこの国では根なし浮き草の、家もない存在であることを実感していた。故国であるのに、ここには同胞はもういない。
「そうか。家もないのか」
意地悪そうな薄ら笑いを浮かべて、百卒長は言った。
「よし。神聖なローマ皇帝のヴェスパシアヌス陛下の御名によって、そなたに家を与えて進ぜよう。仕事も与えて進ぜよう。有り難い限りであろう」
百卒長はそこで、腹を抱えて大笑いをした。
イェースズはひと晩元最高法院の建物に留置されたあと、翌朝には早速ローマ兵たちによって護送された。着いたのは、カイザリアだった。さすがにユダヤ州総督のいる都市だけあってここは活気がある。しかし、その活気はもはやイスラエルの民のものではなかった。
ここから船に乗せられるらしい。イェースズはこのような形で、またもや故国を離れることになった。しかし、神への絶対的信頼とともに、イェースズは何の不安もなく落ち着いて従順に船に乗った。現界的なことはなすがまま、あるがままでよいとはかねてからの神示でもあった。
百卒長は自分に家と仕事を与えると言ったがそのようなことは口実で、自分は流刑になるのだということもイェースズはとうの昔に察していた。彼らは自分をクリスティアノスだと決めつけている。ご禁制のクリスティアノスは、見つかり次第に流刑に処せられるのだ。
船はギリシャ奴隷船の帆船で、その船はたちまち港を離れていった。同じ船に、やはり流刑になるのであろう人々も数人乗っている。そのほとんどが、イェースズと同じくらいの老人ばかりだった。若い人は奴隷としてローマに送られ、船の漕ぎ手などの重労働につかせられるのであろう。イェースズの隣にも、イェースズよりかは少し若いと思われる一人の老人が、膝を抱えて座っていた。
「先生」
と、その老人はイェースズにアラム語で話しかけてきた。イェースズの頭のヒラクティリーを見て、イェースズを律法学者か何かだと勘違いしているようだ。だが、イェースズがその呼称で呼ばれたのは遠い昔、主に十二人の使徒たちからばかりであったので、この老人に急にイェースズは親近感を持った。同じイスラエルの民のようで、老いてはいるが若い頃はかなりの美形であったことが察せられる鼻筋の通った老人だった。
「あんたは熱心党だったのかね?」
「いや、そうではないが」
イェースズの声を聞いて、老人は慌てて指で制した。
「そんな大きな声を出しなさんな。我われは流刑者なのだから。見つかると怒鳴られますぞ」
「一つお伺いしたいのだが」
イェースズも声を落として、隣の老人の耳元でささやいた。
「今、エルサレムにイスラエルの民は一人もおらないのかね」
老人は、怪訝な顔をした。
「何もご存じないのかね」
「四十年ほど、故国を離れておりましたからのう」
「ほお」
老人は驚いたような顔をした。
「それでは何もご存じあるまいの。四十年前といえば総督は」
「ポンティウス・ピラトゥスでしたな」
「そうじゃ。確かにそうじゃ」
隣の老人は、宙を見つめながらさらに声を低くして言った。
「イスラエルの民も、まだこの国にはおるぞ。ヤブネには別に最高法院もあるし、残留しているイスラエルの民は地下で結集しておる。そして頭に総主を頂いておる」
「あなたはなぜこの船に?」
「わしはローマが国禁としておるまた別の地下組織に入っておったのが発覚してのう」
船が揺れた。ローマ兵の鞭の音が響いた。二人の会話は、そこまでとなってしまった。
十日ほどたって船が着いたのは、南北に細長い小さな島だった。遠くに同じような島が二つばかり見えるだけで、ほかに陸地は全く見えなかった。不毛というわけではなくそれなりに緑が繁ってはいるが岩石が多く、平らな土地は少ない山がちの島であった。
「ここで石の切り出しを、われわれはさせられるのでしょうな」
船の中でイェースズに語りかけてきたあの老人が、船からの降り際にまたイェースズに耳打ちしてきた。
「わしは石大工だったですがね、石工業の組合が集まっていつかはローマを倒してイスラエルのシオンの民による世界を作ろうとしておるのですよ。その一つの集会がローマ兵に襲われて、皆は逃がしましたがね、長老であったわしだけは捕らえられたんですわ。まあ、石屋なら石の切り出しがちょうどいいということで、ここに流されたんでしょう」
その「石屋」という言葉を聞いて、イェースズの中にはじけるものがあった。すべては神霊界の反映がこの現界だが、その中でも国祖御引退後の水の神々の勢力の現界化の最たるものを御神示では「イシヤの仕組み」といっていた。それでもイェースズは、相好を崩して慈愛深くうなずいた。老人がイェースズにも、
「あなたは?」
と、聞いてきた。
「わしも、若い頃は大工じゃったからのう」
「ああ、そうか。それでだ」
と、老人は勝手にうなずいていた。
「ここはどこなんですかな」
と、イェースズの方から老人に聞いてみた。
「石の切り出しをさせられることも予想がついていましたからね、ここがどこだかも見当がついていますよ。パトモス島ですぜ」
やがてその二人を交えた流刑者の列が島に足をつけ、それをローマ兵が鞭を持って監視している。
パトモス島といえば小アジア、すなわちアナトニア半島とギリシャの間のエーゲ海に浮かぶ無数の島々の中の一つだが、どちらかというと小アジアの方に近く、エペソの沖合い辺りになる。島では、すでに多くの流刑者が働いていた。石を切り出し、ごろに乗せて、そしてそれを船に積み込むまでが作業のようだ。もちろん男ばかりで、若いものも少しはいたが、圧倒的に年配者が多かった。
イェースズたちは休息する暇も与えられず、すぐに作業へと着手させられた。もともと世界を歩きまわってきただけに体力に自信があり、老いてもなおそれが衰えていないイェースズにとっては肉体労働も苦ではなかった。しかし、ほかのものたちはそうではないようだ。特にいっしょの船で着いたばかりで初めて肉体労働をさせられる老人たちにとっては、地獄の責めとなっている。だから、次々に倒れる者がいた。その都度容赦なくローマ兵の鞭が飛び、地中海の灼熱の太陽がその上から照りつける。年寄りに手荒なまねをする兵士がいたとて、誰もそれを咎めるような余力のあるものはいないようだった。
そうして、流刑の島での第一日目が終わった。ようやく食事のパンが配給される。ところがよく見ると、流刑者の三分の一ほどはそのパンを食べず、懐にしまっているのをイェースズは見た。
夜になって寝床として与えられたのは、多くの人が詰め込まれている小屋だった。そこの寝床の小屋を、夜半になってからごそごそと抜け出す人々がいることにイェースズは気付いた。なにしろ小さな島なので、船を出さない限り逃亡は不可能だ。だから沿岸のローマ兵の監視は厳しいが、逃げられないだけに島内での行動は、作業時間以外は自由がきくようだった。
一人また一人と小屋を抜け出して行く人々に、イェースズもそっと起き上がり、足音を忍ばせて小屋の外に出てそれに混ざってみた。月明かりを頼りに忍び出た人々は、一列になって無言のまま島の中央の丘の上へと登っていく。その列にイェースズが加わっていることを、誰も見咎めはしなかった。
行列は丘の中腹の、洞窟の中へと入って行った。入り口は狭かった。しばらく同じ幅の通路が続き、やがて階段となって、洞窟は地下へ地下へと降っているようだった。完全な闇だ。ただ、手さぐりだけが頼りである。かなり奥深く下ってから、やっと明かりが灯された。
明るくなると、通路の左右の壁は足元から頭の上まで無数の棚が延々と続いているのが見えた。ここは、墓だったのだ。相当古い作りで、何百年も前からの島民たちの共同の墓地のようだった。人々は深夜に、しかもこんな墓地にと足を踏み入れているのである。
やがて行列は、ちょっとした広場のような洞内に入って行った。そこは、灯火で明々と照らされている。そして、二十名ほどの老若の男たちがひしめきあって座っていた。あとから入ってきた人々は順番に、いちばん前の食台の上に懐からパンを出して置いてから、床に座るのだった。夕食の時にパンを食べずに懐に入れていた人々が、今ここに集まっている人たちなのだ。イェースズも人々に混ざって座っていると、隣の初老の男が小声のギリシャ語で話しかけてきた。
「お見かけしない方ですが」
「今日、来たばかりでしてね」
イェースズも、ギリシャ語で返した。
「ほう、それでよくここがお分かりでしたな。やはりクリスティアノスは、心が通じるものだ。こんな境遇にあっても、神様はこうして兄弟を集めてくださる。ああ、感謝ですな」
初老の男は少し目を閉じて、祈りを捧げているようだった。そしてまた、イェースズを見た。
「しかし、ここに来られたあなたは幸いだ。ここは、ほかのカタコンベとは訳が違いましてな、ここの師は、まだクリーストスが地上におられた時に、直接お会いしたこともある方でして、しかも使徒だったそうですよ」
イェースズの眉が動いた。心は飛び上がらんばかりに波を打っていたのだが、あえて平静を装って、
「おお、そうですか」
と、だけ言った。
「やはり、だいぶ驚かれているようですな」
そう言って、初老の男は笑った。その時、洞内のざわめきが、さっと波を打ったように静まった。初老の男も声を落とし、イェースズの耳元でささやいた。
「あれが、師です」
前方で杖をつきながらローマ風の服装で登場した老人は、顔は明らかにユダヤの顔だった。そしてイェースズは、その顔をひたすら凝視していた。老いているとはいえ、その顔にはまぎれもない往時の面影があった。思わずイェースズの目から涙がこぼれそうになったその時、イェースズの隣の初老の男が今入場して来た壇上の老人に向かい、
「師!」
と、叫んで、立ち上がった。そして、隣に座っているイェースズを示した。
「こちらのご老人は、今日この島に来られたばかりだということです。それなのにこのわれわれの集会を知って今ここにおられるということは、すべてが神様のお引き合わせでしょう」
「そうですか」
壇上の老人もギリシャ語で答え、柔和そうな顔をニコニコさせてイェースズを見た。
「ここにいるのは、皆兄弟ですよ」
そこでイェースズも、笑顔を返してあえてギリシャ語で質問してみた。
「クリーストスに直接会われたそうですが、クリーストスはどんな方だったのでしょうかね」
新入りのイェースズがいきなり質問したので、洞内の人々はほんの少しだけざわめいた。
「はい。目は青く澄んで、そして何よりも、声が透き通るような美しい方でした。ご老人、ちょうどあなたのようにです」
「クリーストスは本当に十字架で亡くなり、三日後に蘇って天に上げられたのですかね?」
洞内のざわめきは、また増えた。壇上の老人も依然笑顔ではいたが、その笑顔の中に少しだけ当惑の表情がよぎった。
「クリーストスは今もいつも世々に生き、天国を支配しておられます。そして、必ず再び戻って来られるのです」
老人はそれだけ言うと視線をイェースズから放し、一同を見わたした、ざわめきもようやく静まっていった。すぐにパンが積まれた食台の左右に、ろうそくが灯された。老人は食台の向こうにつき、人々に背を向けて天を仰いで祈り始めた。
「天の父なる神よ。ここに集まった人々の願いと祈りを聞きいれて下さい。今日ここに、新しい兄弟を招き入れて下さったことに感謝致します。聖霊の交わりの中であなたと共に世々に生き支配しておられる御子、私たちの主イェースズ・クリーストスの御名によって」
さらに人々は、「アーメン」と唱和する。すべてがギリシャ語でなされていたが、最後の「アーメン」だけがヘブライ語なのはいささか違和感があった。イェースズはかつて故国で教えを説いていた時に、「真に真にあなた方に言っておく」で話を始めるのが癖だった。つまり、イェースズはいつも開口一番、「真に、真に」で話を始めたのである。そのイェースズの口癖だった「アーメン」を、ここの人々は声をそろえて唱和していた。だからここだけは、ギリシャ語ではまずいのだ。
「主の教えを守り、み言葉に従い、慎んで主の祈りを唱えましょう」
そして一斉に、祈りが始まった。
「天にましますわれらの父よ。願わくはみ名の尊まれんことを、御国の来たらんことを。
み旨の天に行わるるごとく、地にも行なわれんことを。
われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。
われらが人を赦すごとく、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ。われらを悪より救い給え」
食台の老人は、一段と声を張り上げた。
「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」
それから老人は、声を落とした。今度は人々の方を向き、今度は祈りではなく人々に語りかけるような口調で始まった。
「このパトモス島に、神が集められた兄弟なる皆さん。この夕べより安息日が終わり、週の第一日目、即ち主日となります。主日に当たって、もう一度よく考えてみましょう。私は神が光であること、そして神が命の言葉であり、世の初めから存在したお方であることについて証をしてきました。光を信じないものは、神の子ではありません。悪は闇を好むものだからです。そしてその光は言葉となって、クリーストスの肉体に宿られたのです」
老人は食台のパンを一つ、手に取った。それを、イェースズは凝視していた。そしてその老人の顔も、じっと見つめた。もう、涙をこらえるのが必死だった。そして理性と感情という二つの概念が対立もせずに見事に調和したものすごい力で、イェースズは立ち上がった。そして、ゆっくりと食台の方へ歩いていった。
「聖餐式を、わしにさせてはもらえませんかのう」
儀式の流れが完全に止まり、人々の間でざわめきが起こった。
――このじいさん、頭がおかしいんじゃないのか?
――今日来たばかりの新米だろう?
――本当に我われとおなじクリスティアノスなのか?
そんな想念と波動が人々の間から飛び交ってくるのをイェースズは霊勘でキャッチしていたが、気にもとめなかった。
食台の後ろに立つ老人も小首をかしげて、返答に困っていた。イェースズはニッコリと笑った。それを見たその瞬間に、老人の顔は白昼に幽霊にでも出会ったかのように唖然として、そのまま二、三歩後ろに下がった。
イェースズは食台についた。そして、パンの一つを高く掲げた。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される、私の体である」
その時、イェースズの全身からまばゆい光が発せられるのを誰もが見て、一斉にどよめいた。そしてパンが人々に渡された。それは一人に一つではなく、彼らが持ってきた以上の数になって、流刑生活の乏しい配給職による空腹を誰もが満たすことになった。
食台の上に杯もあったが、ぶどう酒は手に入らないらしく、そこに入っていたのはただの水であった。その杯をも、イェースズは高く掲げた。
「皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなた方と多くの人のために流されて、罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」
またもやまばゆいばかりの霊的な光が、洞内を包んだ。それはあきらかに、物質としての光ではなかった。
杯が、人々に回された。そして人々のどよめきは、前以上となった。水であったはずの杯の中は、上等なぶどう酒に変わっていたのである。人々はもはや言葉を失って、黙ってイェースズを見つめていた。イェースズもそんな人々を、さっと見わたした。イスラエル本土よりも、小アジアの方面から集められた人々であるようだ。その小アジアの各教会の現状も皆、分かってしまったのである。
「皆さん、この命のパンと救いの杯の秘蹟の本当の意味をご存じですかな? この物質としてのパンとぶどう酒を食べて飲んだからとて、それで救われるというものではありませんぞ。この本当の意味は、神の教えを自分の肉とし、血とせよということです。つまり、教えは耳で聞くものではなく、頭で理解するものでもありません。腹に入れるのです。食べるのです。そうすれば、自分の血と肉になります。それはどういうことかというと、教えを生活の中で実践し、体験を積むということに他なりません」
イェースズの言葉に一瞬は静まったものの、また人々の間でどよめきが起きた。イェースズの言葉とぶどう酒の奇蹟にに感服したものも多少はいたが、大部分は反感を持っていた。今日来たばかりのどこの馬の骨とも分からない老人がいきなりこのような説法をしても、聞く耳を持てぬというのだ。自分たちとは違う、異端の教えだという非難の波動が伝わってくる。それは、かつて自分を逮捕しようと躍起になっていたエルサレムのパリサイ人の律法学者や祭司と同じ波動だった。クリーストスの教えを信奉して集まっているはずのこのクリスティアノスの集団が、そうなのである。クリスティアノスの集団に、イェースズ本人が受け入れられなくなっている。組織というのはどうしても、この世のものとなって一人歩きしてしまう。
「行って、すべての人々に、福音を述べ伝えなさい」
イェースズは最後に両手を上げてそう叫んだが、それに反応した者は二割ほどしかいなかった。だが、その一部始終を、最初に人々から師と呼ばれた、食台の前に立った老人はずっと見ていた。そしてその目にも、涙があふれていた。体は固くなり、小刻みに震えてさえいた。やがて我に帰ったように老人は、大衆の方を見た。
「皆さん、この方の言葉をないがしろにしてはいけません。かつてイスラエルの民がエジプトの地より導き出され、カナンの地にたどり着いた時の感動を私は今体験しています。クリーストスはわれわれに、その再臨を約束されました。そして今、皆さんの目の前に」
老人はそこまで言って、あとは口を動かして何か言おうとするが言葉にならなかった。老人の想念を読み取ったイェースズが、その言葉を止めたのである。この老人がその先をここでこの大衆に言うのは、時期が早いとイェースズは判断したからだ。
しばらくして老人の口から出た言葉は、
「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」
という、集会の終わりを告げるいつもの言葉だった。人々は、三々五々に洞窟を出て行った。残ったのは、イェースズと老人だけだった。老人といえども、イェースズよりは幾分若い感じだった。洞窟の中に、静けさだけが漂った。二人の師弟は共に老齢になってからの再会に、互いに揺れるろうそくの炎の中で涙を流して無言で見つめあっていた。
「先生!」
と言って泣き崩れたのは、老人の方だった。
「必ず戻ってくるとおっしゃったその再臨が、今なのですか。長うございました」
泣き崩れたまま、老人はイェースズの足元でむせび上げながらそう言った。その背中に、イェースズはそっと手を置いた。
「よく生きていたね、エレアザル。いや、ヨハネという名をあげたのだったな」
「はい、はい」
「だけど、残念ながら昔わしが言った、わしが再び来る時というのは今ではないのだよ。もっとずっとずっと先だ」
それでも、往年の美青年で十二使徒の中で一番若かったエレアザル・ヨハネは、まだまだ声をあげて泣き続けていた。
「みんな、ばらばらになってしまったようだね」
「はい、ペテロも私の兄のヤコブ、そして先生の弟さんだったヤコブも、皆殉死しました」
知っていたことだけに、イェースズは少しだけため息を漏らして、右手を自分の胸に当てて彼らのために天に祈りを捧げた。
「ほかの人たちは、消息がありません。ナタナエルとピリポは、東の国を目指して旅だったとかいううわさも耳にしましたけど。それよりも」
ヨハネは洞窟の部屋の隅に行って、やがて一つの骨像を持ってきた。
「先生にお母様を託されたのに、この通りです」
目を伏せ、まだ鼻をすすりながら涙とともにヨハネは骨像を差し出した。イェースズはそれを受け取り、懐かしむように頬擦りをした。これで、母ももうこの世の人ではないことを知った。
「有り難う」
と、優しくイェースズは言った。
「立ちなさい」
まだ泣き崩れているヨハネを、イェースズは優しく抱き起こした。
「わしがここに戻ってきたのは、神のある特別の教えを伝える人を求めてじゃ。そしてそれが、ヨハネ、あなたである事が分かった。私はそれを伝えなければならない」
ゆっくりと老人が立ち上がると、イェースズはその体に頭の上から足元までゆっくりと両手をかざした。やがて老人は力なく倒れ、その場に横になった。意識を失ったようだった。