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夏が過ぎ、秋になった。
北風が吹き始めるのが早いこの国の山々は、一斉に色づき始めようとしている。ムータイン・コタンとて例外ではなく、コタンのあるわずかな平地を見下ろす円錐形のトバリ山もそろそろ彩りが始まりそうな気配だった。
「テンクウさあん。早くしないと間に合いませんよ」
村の若者に呼ばれて、コタンの外れのトバリ山の麓あたりに構えられていた独居の、筵の入り口が開かれた。
「はいよ、はいよ。そうせかさんでも分かっておりますよ」
相好を崩して出てきたのは、老人だった。だが、高齢にもかかわらず背筋は伸び、足取りもしっかりしていた。背が高い。頭はほとんど禿げていて、両耳から後頭部にかけて半円状に真っ白の頭髪があるだけだった。明らかにこの地方の人々の顔つきとは違い、赤ら顔で高い鼻だった。しかも異様なことに、額に黒い小箱をつけて、その両側の紐を耳に結んでいる。
「毛がなくなったんでな、頭が涼しいからつけているんだよ」
老人はいつもその頭の箱について聞いてくる子供に、そう説明していた。
「わしの生まれた国では、学者は大切な書物をこうして頭の上に結んだ箱に入れているんじゃ」
「おじいちゃんは学者なのお?」
「いや、わしは違うがな、まねをしているだけじゃ」
そう言って老人は、いつも大笑いしていた。事実、彼の故国の律法学者はヒラクティリーと呼ばれる小箱に律法を入れ、額につけるという習慣があった。
「テンクウさん!」
さらに村の若い人が数人、老人を迎えに来た。一行は西へ、山と山との間の道を進んだ。いちばん元気なのはテンクウ老人で、時々振り向いては後から来る形になっている若者たちを激励した。
「早く歩かんと、婚礼に間に合わんぞ」
先ほどは自分に言われた言葉を、今は若者たちに返している。そして昼前には、トー・ワタラーの湖に近いオピラ・コタンに着いた。村全体が浮き足立っている。村全体の人が広場に集まり、その中央で熊が一頭生け贄として焼かれていた。太鼓が響き、笛が鳴る。娘という娘は紋様の入った太い鉢巻きをし、熊を焼く炎の周りで踊っていた。
「おお、ハチノヘ先生がおいでだぞ」
その一声とともに、ここではハチノヘ先生と言われたテンクウ老人は、たちまち式典の上座へと座を勧められた。そこにはもうすでに、別の老人が座っていた。
「おお、先生、ようこそ」
先にいた老人の一人が、テンクウ老人に座ったまま腰をおって頭を下げた。
「いやあ、めでたいな。お孫さんもいよいよ」
「先生にとっても孫みたいなものでしょう」
「さぞやミコ様もお喜びじゃろう。ミコ様にとってはひ孫が嫁ぐのじゃ。その嫁ぐ家こそが、今後代々ミコの跡になる」
そこに、歓声が上がった。新郎・新婦のお出ましだ。静々と臨場する若い二人に、鼓笛の音が一層高まった。
「ばあさんにも見せたかったよなあ」
この村ではテンクウ老人と同様にテンクウと呼ばれている老人、オピラ・テンクウはつぶやいた。往年のヌプである。そしてその言葉に、ハチノヘ先生といわれたテンクウ老人は、ヌプ老人の言葉の中にあった「ばあさん」を思い出していた。と、いっても、若い頃の顔しか知らない。
四十年前に二十歳の娘だったミユは、もうこの世にいない。ミユはヌプに嫁いだあと一男二女を設け、その娘二人は成人してタゴー・コタン、シコシ・コタンへと嫁に行った。長男も結婚して娘一人を設けたがすぐに他界、そのヌプや亡きミユの孫に当たるその娘の婚礼が今日なのだ。
その孫の婚礼に目を細めるオピラ・テンクウとともに座っているハチノヘ・テンクウこそ、すでに七十歳を越えたイェースズその人であった。
婚礼は、クライマックスを迎えていた。
「遅いぞ」
ヌプ老人が振り向いて文句を言った先には、今ようやく駆けつけたもう一人の老人がいた。今ではキムンカシ・テンクウと呼ばれている、往年のウタリだった。
「すまん、すまん。いや実は、来る途中でたいへんなものを見てしまったのでね」
「言い訳かい」
つめよるヌプを制して、イェースズが身を乗り出した。
「何かね。たいへんなものって」
「はい、先生。それで足を止められてしまったんですよ。ものすごい数の人々が、そう、三百人くらいはおったかのう、そんな人々が大挙して、西の方からこちらを目指して来ておるんですわ」
「どこかの軍勢かね?」
そう尋ねたヌプに首を横に振って、ウタリはイェースズを見た。
「まあ、軍勢じゃなくて普通の民という感じの人たちなんですけどね、ありゃあ、先生と同じ国の人たちじゃないですかねえ」
「なんだって?」
と、声をあげたのイェースズよりもヌプだった。
「なぜ、分かる?」
「だってみんな、顔つきが先生と同じでしたから」
「じゃあ、ヤマトの大人ではないのか?」
「違う。服装からしてヤマト人じゃあない。ほら、もう大昔だが若い頃に先生の国へ行ったろう。あの時のあの国の人々と服装が同じじゃった」
「彼らは、今ごろはどのあたりかね?」
と、ようやくイェースズが落ち着いて口を開いた。
「もう、私のキムンカシ・コタンまで来ているかもしれませんなあ」
イェースズは妙に落ち着いていた。村の中はそんな三人の老人の会話をよぞに、婚礼の歌舞はますます天に上っていっていた。
案の定、キムンカシ・コタンでは大騒ぎになっていた。
不審な一行が村に入る前に、イェースズはキムンカシ・コタンに着いた。老人とは思えないような早さだった。一緒に出たウタリは、とうに置いてきぼりにされている。
村では、戦闘準備が行われていた。石槍、弓などで武装した若者たちが、村境に壁を作るようにして西に向かって構えている。だが、今のところ西の方には谷間に水田が延びているだけで、人影のようなものは見当たらない。
人々はイェースズを見ると、
「ハチノヘ先生がおいで下さった」
と、安堵の歓声を上げた。
「どうしました? いったい」
「ヤマトの、ヤマトの襲来ですよ。あきらかにヤマト人と思われる集団が西の方に上陸してこっちへ向かっていると、西のコタンより知らせが来たんです」
「なぜ、ヤマト人と分かったのですかな?」
「そりゃあ、顔を見れば分かるでしょう」
確かに、ヤマトといわれている地方でもいわゆる下戸はこの地方の人々と同じ人種だが、大人ともなると、人種が全く違うのである。
村人たちはそれぞれの家の中に籠もって、息をひそめている。中には早くも女子供をつれて東の方へ逃げ出した家族もあり、イェースズもここへ来る途中にそんな人々とずいぶんすれ違った。
「ヤマト人め、ついにここまで来たか!」
「いや、このコタンには一歩も足を踏み入れさせぬ!」
若者たちは、口々にそう叫んである。
ヤマトの地方の大人ならば、イスラエル王国が滅亡して以来砂漠に消えたと伝えられるイスラエル十支族の末裔、いわゆるエフライムで、イェースズもこの国に来てから最初はそういう人々にも接したものだった。それが故国より戻った時はその勢力範囲をずっと東進させ、父山のあたりもすでに文化的に侵略されていた。それがすでに四十年も前のことだし、いくら民族も言語も文化も違うこの地域であったとしても、彼らがその勢力範囲を広げようとこの地方まで来たとしてもおかしくはない。実際問題、これまでも荒吐一族の日髙見の国の南端は、ヤマト族の侵攻にたびたび襲われてきた。だが、南の村人たちはよく戦って、それを防いだ。だが、ヤマトの侵攻は執拗だった。そのヤマトがついにこの村にも手を伸ばしてきたと、若者たちはいきり立っているのだ。
「今まで南の方からの侵攻ではかなわぬと、直接海を渡ってきたみたいです」
と、一人の若者が言う。だがイェースズは、このヤマトの侵攻という現象の霊的意味も熟知していた。霊の元つ国であるこの国の霊界を、虎視眈々と狙っている副神系統の神々がいる。それも、ヨモツ国の神霊界にいる若武姫神の野望は、現界ではイシヤの仕組みとして物質化してやがて世界を覆うであろうこともイェースズは理解していた。この国にイスラエルの勢力が入っているのは、何も東の果てという地理的関係のみによるのではない。むしろ神霊界の動きの現界への投入であって、それも大根元神の裏の経綸でもあるのだ。
それでも、おかしな点も多々あった。西のコタンの方からは、顔を見てヤマトと知ったということだった。だが本当にヤマトの軍勢なら顔の違う大人は指揮官として数名が軍勢を率いているのみで一般の兵士は下戸のはずだ。つまり、その下戸たちの顔はこのコタンの人々ともほとんど変わらないのだ。民族は違えども、同じ人種ではある。さらに、まだ到着はしていないが、実際にその人々を見たウタリも、顔こそヤマト人の顔だが服装が違うと言っていた。それに、軍勢ではなく明らかに非戦闘員、つまり一般の民衆のようだと言うのだ。
「その人たちは、どこにおるのじゃ?」
イェースズが尋ねると、若者の一人が遠くの山を指さした。
「ここからは見えませんけど、あの小高い山の向こうに隠れています」
「よし、わしが行って話をつけてこよう」
「いけません!」
一斉にどよめきが上がった。
「あなたはこのコタンだけでなく、我らが荒吐の日髙見の国にとっても、なくてはならない大切なお方です。万が一のことがあったらどうしますか」
「わしは大丈夫じゃよ。それよりあなた方は、まず武装を解きなさい」
とイェースズは明るい笑顔で言った。
「そんな、武装を解くなんて。もし敵が攻めて来たら」
イェースズはさらにニッコリと笑った。
「まだ攻めてきてはおらんのじゃろう。なぜまだそうなると決まったことではないことに対して、そんなものものしい対応をするのかね。敵、敵というけど、まだ敵と決まったわけではない。いや、敵ではない。すべての民族は、同じ神の幹から出た枝なのじゃよ。それが争ってどうする。闘いからは何も得られんぞ」
それからイェースズはまた歩き出した。村をあとにし、今度は西へ向かう。誰ももはや止めるものはいなかった。このあたりのコタンでは、イェースズはすでにそれぞれの村の村長と同様の敬意を払われている。彼の言うことは、人々の間では絶対だった。
イェースズはすぐに村の若者が示した山の麓を旋廻し、ちょっとした平らな土地へと出た。そこには多くの人々が無数の天幕を張って露営していた。露営とは言っても、彼らは確かに一般の民という感じだった。イェースズの目に映ったのは、平和な民衆の姿だ。そしてウタリの言葉通り、その服装はまぎれもなくイェースズの故国のものだった。
イェースズが彼らの居住する区域に足を踏み入れると、人々は一斉にイェースズを凝視した。
イェースズは微笑んだ。そして大きな声で、
「シャローム!」
と、叫んだ。
人々は驚きのあまり、動作を止めてしまった。彼らから同じ返事が戻ってくるまでに、かなりの時間が必要だった。人々はウタリの言った通り三百人近くはいそうだが、女や子供もいた。どう見ても「軍勢」ではない。
「あなた方は、どこから来られたのかな」
イェースズはヘブライ語で問いかけた。誰もがそのことにも仰天し、更にはイェースズの額のヒラクティリーを凝視していた。やがて一団のリーダーと思しき想念の男が、前に歩み出てイェースズの近くに立った。それは、まぎれもないイェースズの故国の人の顔つきだった。
「ここにたどり着くまでに、各地をさまよいました。ずっとずっと砂漠と草原の地方を歩き続けて一年半、この島にたどり着いたのですけど、どうもこの島は国の人々は私たちを歓迎してくれていないようですね」
返事も、ヘブライ語で返ってきた。
「はるばる来られたとは……、あなた方はディアスポラではないのかな」
イェースズの頭によぎったのは、遠い昔に邂逅したヤマト姫という女性だった。彼女もエルサレムよりこの地に流れ付いた境遇を持っていた。
「あなた方は……」
イェースズがひと言そう言った時、すでに彼の霊眼にはこの者たちの素性がすべて分かってしまった。そして、思わず涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。そんなこととは知らない人々のリーダーは、必死で話し続けた。
「私どもはヘブライオイです。ユダ族です。エルサレムという都から、はるばる来たのです」
「エルサレムから来られたのじゃな」
イェースズはそれまでのヘブライ語をやめて急にアラム語で話しはじめたので、イェースズの周りに集まって生きていた人々は皆目をむいた。
「あ、あ、あなたは……。あなたはいったいどういうお方なのです? どうしてこんな所に……。パリサイのラビですか?」
頭のヒラクティリーに少し手をやって、イェースズは微笑んだ。そして、
「別にパリサイではない。このヒラクティリーは、頭が寒いからつけているだけじゃ」
と、そう言ってからイェースズは声を上げて笑った。
「あなたも、ローマから逃げてこられたのですか。お仲間は、どちらにおられる?」
「ローマから……そう、、ローマから逃げてきたと言えば言えるかも知れぬのう。仲間などおらんがな」
そう答えながらも、久々に語る故国の言葉と久々に接する同郷の人たちに、イェースズの心は熱くなっていった。だがそれだけでなく、悲壮感をも感じてしまい、居ても立ってもいられない気持ちにもなった。彼らがなぜこの地に来たのか、ローマから逃げてきたとはどういうことか、すでにイェースズはすべてを察知していたが、はっきりと言霊で聞きたかった。その前に彼らは、イェースズ自身の境遇を知りたがっているとイェースズは察していた。
「わしは若い頃、ローマ人の手によって十字架にかけられそうになったのじゃが、なんとか逃れてこの国に来て、それからもう四十年にもなる」
「十字架に? もしや、熱心党だったのですか?」
「いや、そういうわけでもないのじゃがのう。わしはガリラヤのカペナウムの、大工の息子じゃった。ところで、あなた方がローマから逃げてきたとは、何があったのかな」
「あったなんてものじゃありません。とりあえず、私の天幕にお入りになりませんか?」
男もだいぶイェースズに心を開いたらしく、快く自分の天幕にイェースズを招いた。
天幕の中の空気も調度も、どれもが故国の香りがしてイェースズは頭がクラッとする思いだった。イェースズは勧められるままに床に足を投げ出して、横座りに片手をついて座った。
「私はエマオの出身で、シモンといいます」
男は四十過ぎくらいと思われたが、名前はごくありふれた名前だった。
「実はもう、エルサレムの神殿はありません」
イェースズは目を細めた。それはいつか実現するはずのこととしてずっと前から知ってはいたが、今は何も言いだす言葉が見つからなかった。
「大反乱が起こったのです。いや、反乱なんてものじゃない。あれは全面戦争でした。事の起こりはカエサリアでの、ローマ人とイスラエルの民とのいさかいだったのですけど」
シモンという男は上半身を心持ちイェースズの方に近づけて、話を続けた。
「もう、四、五年ほど前にもなりますけど、そのカエサリアでのうわさと相俟ってローマの総督のフルロスが神殿の財宝を私物化しようとしたことから、総督軍とエルサレム市民がついに衝突したんです」
イェースズがいた頃のユダヤの地はまだローマの支配下にあるとはいえシリア総督の管理下にあって、ローマから派遣された統治者はあくまでシリア総督の代理者であり、かのポンティウス・ピラトゥスがそうであったように称号も知事だった。今やその統治者がシリア総督と同じ総督と呼ばれているということは、ユダヤ全土は完全にローマ皇帝の直轄の属州になったということを意味していた。
「そのフロレスという総督は、相当イスラエルの民を苦しめたのですかな」
「そりゃあ、もう」
シモンの言葉に力が入ってきた。
「これまでにない、最悪の総督でしたよ。人々は、これ以上フロルスの圧政を許すまいと、一致団結したんです。でも、それだけじゃない。神に選ばれた民である我われイスラエルの民を、人間であるローマ皇帝が支配するということ自体が耐えられることではないでしょ。ローマ人たちは神聖な神殿をその管理下に置き、民衆には重税を課した。かつての皇帝カリギュラは、イスラエルの民にも皇帝崇拝を強要したんだ。ローマの支配は、悪魔の支配だ!」
しばらく間を置いて、やや落ち着いた声でシモンは話を再開した。
「一度はイスラエルの民衆が勝った。フロルスを追い出し、次いでエルサレムに進軍しようとしたシリア総督ガルスの軍をも破った。でも次の年にはローマからヴェスパシアヌスという将軍がやって来て、まずガリラヤを占領したんです」
イェースズの顔が、反応を示さないわけがなかった。故国の中でも彼の故郷である。今では遠い故国だが、彼の頭の中には豊かな湖水をたたえるガリラヤ湖とそれを囲む緑の山々、黄金の麦の穂波、そのような光景がまだしっかりと刻まれている。
「ガリラヤでも、戦闘があったんじゃな」
シモンは、ゆっくりうなずいた。
「ヤッファ、マグダラなどは、特に激しかったようで」
「マグダラ……」
それが故郷のカペナウムのすぐそばというだけでなく、マグダラはイェースズにとってどんなに歳月が流れようとも、忘れられない地名だった。その平和で緑豊かな美しい国土に矢が飛び交い、軍隊が蹂躙し、馬の蹄音が響いて血が流れ、人々の叫喚に満ちていたことになる。
ガリラヤはただでさえ、熱心党の温床だったような地方だ。だが、イェースズが故国を離れて十年ほどしてからガリラヤをも含むすべてのイスラエルの土地は、ヘロデ大王の孫であるアグリッパが治めた。すなわち、ローマの支配下にあることは変わりなくても属州ではなく同盟国という地位が復活したのだ。だがそれも束の間、アグリッパが死ぬとガリラヤをも含むすべてのイスラエルの地がローマの皇帝属州となってしまったのである。
「それでタボル山でガリラヤを占領したヴェスパシアヌスは、一気にエルサレムを包囲する包囲壁を作りましてね。でも、熱心党の人たちの奮闘によって、エルサレムはなんとか守れました。それで皇帝ネロの死があったりして、ヴェシパシアヌスもローマに帰り、しばらくエルサレムは持ちこたえたんです。でも、ネロの後はそのヴェスパシアヌスその人がローマ皇帝となって、再び息子のティトスをエルサレムに派遣して来まして」
シモンは言葉に詰まった。そして目を伏せ、言葉も涙につまり始めた。
「エルサレムに包囲壁を作って、やつらはエルサレムの食糧補給路を断ったんです。市内は飢餓に満ちて、人々は次々に腹が減って倒れていったんですよ。食べ物なんて、エルサレムのどこにもありはしない。でも、エルサレムの城外に出たらローマ兵に包囲されていて、たちまち一般庶民でさえ殺される。そんな中で……」
ついにシモンは泣きだした。同じ天幕にいる彼の家族たちも、同様に泣いていた。
「我われは……、最後まで……、最後まで、神の助けが必ず来る、メシアが来られて……、ローマから救ってくださる……、そう固く信じていました。そう、あの瞬間までは」
イェースズは、固唾をのんだ。シモンは、しばらく号泣してから、また口を開いた。
「あの瞬間、つまり、神殿が破壊され、火が上がるまでは……」
イェースズも、深く息をついた。
「だから、我われは逃げてきたんです。神殿さえあれば、それが命綱です。でも、その神殿さえも破壊されたら、逃げるしかないじゃないですか。でも、我われの神は唯一絶対神ですから、世界のどこに行っても守ってくださる、ね、そうでしょう? だからこそ、故国をあとにできたんです」
「そうですか」
とだけしか、イェースズには言えなかった。シモンは、腕で涙をぬぐった。
「まだまだローマに徹底抗戦をするんだといって、マサダの砦に立て籠もっていた人たちも多勢いました。でも、あの人たちも、今ごろはどうなっているか……」
「わかりました」
イェースズは、優しく言った。
「あなた方の事情は、よう分かり申した。どうか、この国でお暮らしなされ。便宜は、わしが図って進ぜよう」
「え? 本当ですか!?」
シモンの顔が急に輝いたので、イェースズも嬉しそうな顔で何度もうなずいた。だが、シモンから聞いた話は、霊覚を開いているイェースズにとってでさえ衝撃的なものだった。本当なら十二使徒のことが気になるところだが、それはつとに神に任せている。しかも彼が霊覚をもって知り得た情報では、使徒の半分はエルサレムに残っているものの、あと半分は地中海地域に出て行っているはずだ。だから、何とも気にはならなかった。それよりも問題は、目の前にいる三百余名の難民たちである。
とりあえずはこのままここで露営しているように言ってから、イェースズは一度戻り、オピラ・コタン、キムンカシ・コタン・ムータイン・コタンのそれぞれの村長を、トバリ山の麓に集めた。無論、オピラ・コタンとキムンカシ・コタンの長老であるヌプとウタリも同席していた。
ムータイン・コタンの村長が、ゆっくりと口を開いた。
「いやあ、お話をお聞きしてお気の毒な方たちとは思いますけどね、私は反対だ」
オピラ・コタンの村長も、間髪を入れずに言葉を続けた。
「私も反対です。つまり、彼らを我われのコタンに同居させるということでしょう? それはちょっと……」
「なぜですかな?」
イェースズは彼らの意見を操ろうとは思っておらず、むしろそれぞれの考えを思う存分語らせようとしていた。最初に反対したムータイン・コタンの村長が答えた。
「やはり生活習慣も違うでしょうし」
そこへ、ウタリが口をはさんだ。
「でも、ほかならぬハチノヘ先生のお国の方たちなんですぞ」
それでも三村長は首をかしげていた。
「何しろ、外見がヤマト人ですしね。感情的にも……」
そう言って訝るキムンカシ・コタンの村長に、その村の長老であるウタリが、
「しかし、あの方たちがヤマト人ではないことは、今しがた先生がご説明なさったではござらぬか」
と、早口で切り換えした。だが、ムータイン・コタンの村長も遠慮がちに口を開いた。
「いやあ、あんなに大勢が一度にコタンに入られましてもですね、三つのコタンに分散しても一つのコタンに百人は入ることになるでしょう。まず、家があるかどうか。それに、何かと摩擦もあるのではないかと思いますしね」
「分かり申した」
と、ゆっくりとイェースズは言った。
「それならば、山野を切り開いて新しい村を彼らに作らせれば、問題はありませんな」
「おお」
同席していた一同が、声を上げた。ただ、オピラ・コタンの村長だけが、まだ浮かない顔をしていた。
「しかしですよ、彼らの中からその新しいコタンの村長を選ぶのですかね。ハチノヘ先生には悪いが、この日髙見の国のコタンの村長が、異邦人というのはどうにも……。ましてや、西のヤマト人と同じ人種では……」
「それなら」
と、口を開いたのは、オピラ・コタンの長老のヌプだ。
「わしの孫の婿のスワヌチの家は今後も代々ミコの跡を称するわけだが、そのスワヌチを村長にしては」
「それはいい考えじゃ」
と、ウタリも声を上げた。
「つまり、スワヌチの監督下に、異国の人たちを置くということですな。妙案じゃ。おのおのがた、異存はあるまいな」
ウタリの声に誰も反論するものはなく、満場一致で決した。決まるまではいろいろと自分の考えを思う存分出し合って話すのはよいが、いったん決したらもうそれで拳となって動かないというのが、イェースズが常々彼らに話していた鉄則だ。
あとは、新村の場所だ。まる一日討議をした結果、ムータイン・コタンから川沿いに谷間を東に少し行ったあたりに川の両岸が少し広くなる所があるので、そこにしようということに決まった。あとは若干近くの山林を開墾し、また新田も来春までには開墾しておく必要がある。
翌日から、早速開墾が始まった。イスラエルの民は、よく働いた。もともとは遊牧の民であった彼らだが、定住の歴史が長く、耕作にも抵抗はなかった。
そして、イェースズもともに労働に出た。七十五歳とは思えない頑丈な体とその身のこなしに、長旅に疲れたイスラエルの民たちは皆驚きの声を上げた。とにかく冬になって雪に閉ざされる前に、村として形作っておかなくてはならない。もっとも、東に行けば行くほど、標高の高いオピラやキムンカシのように深い雪に覆われることも少なくなる。
ムータインやオピラの若者たちも、時には応援に来た。その時彼らの目を引いたのは、イスラエルの民たちの服装だった。彼らは農耕の時には白い一枚の大きな布の中央に穴を開け、その穴から頭を通して下を帯でしめるという環頭衣を着ていた。一人の若者がイェースズに、お国ではみんなあんな格好をしているのかと質問した。イェースズは笑って答えた。
「あれは『アルバ・カンフォト』といって、本当は祭司用の衣装なんだ。モーシェという大昔の聖者の教えを守る人のみが着用するものでね、それを農耕の作業着、つまりハラートっていうんだけど、そのハラートとして着用しながら農耕をすることによって、この地にあっても自分たちはモーシェの民だという誇りを失わないようにしているんだろうね」
さらに彼らは、よく歌を歌いながら作業をした。それは、ヘブライ語の歌だった。
ナアニァッハアド ヤーラ ヤウ
ナアニァッハアド ナサレヤ エーテ ハサーイル
ナアニァッハアド ヤーラ ヤウ
歌っている本人たち以外では、イェースズだけがその歌詞を知っていた。それはイスラエルの民に古くから伝えられる民謡で、モーセに率いられての出エジプトの際に、カナンの地を目指してイスラエルの民が歩きながら歌った歌だと伝えられている。
主を讃えよ 主の行かれる所 敵は呪われる
主を讃えよ その御名を誉め歌え
今や故国を追われ、世界に離散しなければならなくなった彼らは、この歌にその心情を託したのであろう。恐らくは、ずっとこの歌を歌いながら、彼らは長くつらい旅を続けてきたに違いない。イェースズもまた独特のそのメロディーに郷愁をかきたてられたが、それ以上に歌詞の内容に熱いものを感じる彼だった。
本格的な冬が到来する前に、ひと通り土地を開墾できた。新しい村の家の建築も終わって、その新築されたシモンの家で、イェースズは彼と向かい会って座っていた。シモンが言うには、
「われわれの中には、昔農夫だったものも多く、なんとか畑もできました。有り難うございます」
ということで、彼はイェースズの手をとって礼を言った。イェースズは微笑みながら、首を静かに横に振った。
「わしの使命は、多くの民に喜びを与えることじゃ。神様は人々に恵を与えたくてしょうがないくらいでいらっしゃる。その神様の代行者として、わしはすべての人に神の教えと光を与えねばならぬのでのう」
「そうですか。ここであなた様と出会えたのも、すべてが主のお導きですね。ところで、この国ではあまり麦は作っていないようですね」
イェースズはそれを聞いて、ニッコリと笑った。
「神様のご計画で、西の国は麦、東の国の人は米を作って食べるようになっておるのじゃ」
「ではその東の国に、西の国から来た私どもはどうしたらよろしいのでしょうか」
「何か種は持ってきておりますかな」
「リンゴの種なら少々」
「ああ、それじゃ。それがいい。この国の人にとっては見知らぬか実だし、この村の生業はリンゴの栽培ということにすればよい」
そう言ってイェースズは嬉しそうに、何度もうなずいていた。
初雪が降った頃、新しい村にも喜びがあった。子供が生まれたのである。イスラエルの民でありながら、この国を故郷とする最初の子供だ。ヨーランという籠に寝かされた赤子は、女の子だった。父親が敬意を込めて、その誕生をイェースズに報告に来た。
「よしよし」
子供を抱き上げたイェースズは、その子がこの地に根付くイスラエルの民の第一子として神に祝福されるべき子だと思った。そしてイェースズは炉の炭を自分の親指につけ、赤子の額に十字の印をつけた。そこにいた人々は、奇異なことをするなという目でそれを見ていた。
「皆さん、この国は霊の元つ国といってな、タテの神様のみ働きがある国なんじゃ。つまり、霊的に世界の中心となる国じゃ。そしてイスラエルの民はヨコのみ働きがある。しかしこの子は霊の元つ国に生まれさせて頂いたイスラエルの民の子だから、タテとヨコを十字に組むみ役があるやも知れぬ。だから、十字の印をつけたのじゃ」
イェースズはそう説明したが、それに続く言葉は人々には謎めいて聞こえたようだ。
「今はまだタテとヨコのホドケの世じゃが、やがて天の時が来れば霊の元つ国の霊とイスラエルの物力を十字に組んでエデンを織りなすのじゃ」
その言葉よりも、そこに居合せた人の何人かは、赤子の額の十字の印を見て全く別のことを連想したようで、イェースズにはその波動が直に伝わってきたが、その時には何も言わなかった。
村の名はイスラエルの民を異国の人が呼ぶ呼称であるヘブライからとってイヴリート・コタンと名づけられ、ウタリの孫娘の婿のスワヌチが村長として迎え入れられた。だが、ほかのコタンの人々は、この新しい村をシナコ・コタンとも呼んだ。あくまで霊の元つ国に対する支那の人々の住む村であり、ユダヤは枝国なのであった。
新しく村長となったスワヌチとシモンを、イェースズは自分のもとに呼んだ。
「これが、この村の印じゃ」
イェースズから渡された木の板に書かれた印は、神護目紋であった。それを見たシモンはすぐに、
「ダビデの星ですね」
と、言って目を輝かせた。
「本当に、何から何まで、有り難うございます」
言葉が分からずキョトンとしているスワヌチを見て、イェースズは笑った。
「これからは、お互いにお互いの言葉を覚えることじゃな」
そう言われるまでもなく、実はスワヌチは村の建築中に、精力的に言葉を覚えようとしており、すでに単語くらいはいくつか知っていることものもイェースズは分かっていた。それからイェースズは、神護目紋を指さした。
「この形は、だてじゃあないぞ。わしは前に『与える』役じゃと言ったが、この上向きの三角は上から下への恵みが与えられる姿、逆の三角は下が上を吹き上げる姿じゃ。上の者は下の者に愛と情を惜しみなくどんどんと与え、下の者はその恩恵に感謝し、上の者を立てて吹き上げていく。その両者の関係がしっくりと十字に組み合わさった時に、万象は弥栄えていく。村長として上に立つものは、下の者に与えていくみ役じゃ。与えて与えて与えっぱなしにしておけばよい。下の者はそれに感謝し、報恩をもって上の者を立てていくのじゃ。上の者は下の者から感謝を受けたなら、それがそのままさらに上への感謝となろう。それが感謝の極意じゃ。下や周りにどんどんどんどん与え、与えっぱなしにし、感謝を受けたら自ずと自分が頂いていることへの感謝ができるようになる。そして究極の『上』は神様じゃよ。神様から頂いた恩恵に感謝し、神様を吹き上げるのが神の子人の役目なんじゃ。神様はそれでどんどん万華し、御名はますます弥栄えていく。そういう仕組みじゃ。だから、皆が一人ずつ、自分の中にこの神護目の印をしっかりと刻むことじゃ。神様は天の御父すなわち親で、人は皆神の子じゃ。だが、人も自分の子を生めば親になるじゃろ。その時に、子供に愛情与えに与えて親としての行をしっかり積むことが、神様のみ意に少しでも近づくことになる。神様に対しては人間は神の子じゃが、親としての行を積んで親の立場、神様の立場に近づくこと、それが神性化というのじゃ。いつまでも、神様の恵みに甘え、子供の立場で求めむさぼるだけでは進歩はない。神様は、人間に早くひとり立ちせよと望んでおるのじゃよ」
そこまでイェースズは一気に言うと、その目にうっすらと涙を浮かべた。
雪が溶け、イェースズはそれまでほとんどイスラエルの人々と新しいイヴリート・コタンで寝食をともにしていたが、春の息吹とともにようやくムータイン・コタンへと帰っていった。
そして新しく開墾した土地に種をまく季節になると、イェースズは再びイヴリート・コタンへとやってきた。村民たちはイェースズの助言通り、リンゴの種をまいていた。
そんな人々を集めて、イェースズは言った。
「種をまく時は、種の一つ一つに言葉をかけてあげることが大事じゃよ。優しい言葉をな。植物にも霊がある。だから、言霊をかけて上げることによって、植物の霊にとっては励ましとなるんじゃ。この国は、言霊の幸う国じゃからな」
それからイェースズはニッコリと笑って、そこに集まっている人すべての顔を、一人一人見つめた。誰もが真剣に、イェースズの話を聞いていた。
「人間が作物を作るんじゃあない。作物を育てるのは土であるし、水であるし、日の光でもある。人間は、ただそのお手伝いをさせて頂くだけじゃ。まずは土つくりと、お世話をいさせて頂く人作りが肝腎なんじゃよ。この種を見てごらん」
イェースズは小さなリンゴの種を手のひらに乗せて、人々に示した。
「こんな小さな粒のような種でも、地にまいたら芽を出して、やがては木になって実をつける。そんな繁茂繁栄する小さな種でさえ、人間の知恵と力じゃ作れるものじゃあない。すべてが神様の摂理と、神様のお力なんじゃ」
「あのう」
一人の若い農夫が、遠慮がちに手を上げた。
「全くその通りだと思います。すべてが神様のお力でしょう。我われが無事にこの国に来られたのも、あなた様と巡り会えたのも。すべてが神様に仕組まれたと感じますよ」
別のもう少し年をとっている農夫も、突然声を上げた。
「故国を追われても、神様は我われを見捨てたりはなさらなかった。こうして、いいようにとお導き下さった。やはり唯一の神だ。有り難い、有り難い」
その年配の農夫は、突然両手で天を仰いで地にひれ伏した。それを見て、イェースズも微笑んでいた。
「わしも、感謝しておるぞ。神様にも、あなた方にもな」
そうして、種まきが始まった。一つ一つの種に言葉と思いをかけて、人々は種をまいた。そして、その畑に向かってイェースズは両手をかざし、霊流のエネルギーを放射した。そしてイェースズもまた開墾した土地の一角をもらって、種をまいた。イェースズのはリンゴではなく、花の種だということだった。
「わしも大昔にイスラエルの国からこの国に来たが、その途中の北の方の国でこの種を手を入れたんじゃ。この夏には人の背丈ほどにも伸びて、人の顔ほどもある黄色い大輪の花が咲くぞ。まるで、太陽のような形をした花じゃよ」
そう説明して種をまき始めたイェースズだが、心の中には絶えず喜びがあった。霊的には御神業範囲が神霊界にまで及んでいるとはいえ、やはりイェースズはまだ肉身を持った存在であり、自分の故国の人たちとこうしてともに暮らせるというのがまだ夢を見ているような気分だった。さらには、故国の様子もより詳しく聞けた。イェースズはその霊眼によって高次元から故国の状況も知ることはできたが、やはり今はまだ肉身を持つ身なので、肉声と言霊で聞く情報が何よりも大切に思われた。やはり故国は現界的には肉身の故郷であり、それだけでなく霊的にも因縁の深い土地なのだ。これまでの生涯の中で、そこで暮らした年月の割合は小さい。それでも故国は故国で、その故国が今や壊滅の状態になっているとのことである。それはそれでなすがままにするだけで、自分に何かできることがあるわけではなく、また何もしてはいけないこともイェースズは知っていた。ただ、どうしても自分がしなければならないことが故国においてまだある、大きな使命があるということは、イェースズの勘、実際には耐えず賜る内的な声としての御神示からすてにイェースズは重々察していた。まだまだ神様は自分をお使いにろうとしているのだという実感が、イェースズにはあった。この年齢になってまだ彼は、ゆっくりと隠居して余生を楽しむなどということは許されていないようだった。
イヴリート・コタンの人々は最初の収穫が出るまで、生計はなり立たないことになる、彼らは狩猟には慣れていない。持参していた食料も、冬の間になくなろうとしていた。
そこで各コタンの飯塚から、彼らには特別の食料が配給されることになった。しかしそれだけでは、とても持ちこたえられる量ではなかった。どのコタンも冬に備えて食糧の備蓄をせねばならず、それが限度だったのである。
配給されたのは、米と穀物だった。だが、やはりイスラエルの民は米の飯や粥には、まだ慣れていなかった。そこでイェースズは米を炊かずに粉にし、水で練って薄くして焼いた。つまり、煎餅である。
「おお」
イスラエルの民は、一斉に新しい食料に目を見張った。彼らの胸は躍っていたようである。その煎餅は過越の祭りに食されるあの種なしパンと、風味が酷似していたからだ。
折りしも、そろそろ過越の祭りの頃だった。イェースズはこの国に来てからは立春のみ祭りのような神霊界の行事でもある祭りは丁重に執り行ってきたが、過越の祭りのような一民族だけのしかも人知の風習は忘れてしまっていたので、どの日がそうなのかは正確には分からなくなっていた。しかし立春の日から数えた日数と月の満ち欠けによって大体の頃を見計らい、今年はイスラエルの民の民族感情を重視して過越の祭りを執り行うことにした。
満月に近く月が膨らんだ晩、村の広場に村人の三百人の総勢が集まった。イェースズが祭主となり、種なしパンならぬ煎餅と、羊の代わりに熊の肉、そして白濁の酒とが用意された。
しきたり通り、過越の晩餐が始まった。思えばイェースズにとって四十年も前に、使徒たちと最後の分かれとなったあの晩餐以来の過越の晩餐である。
まずはろうそくに火を灯すのだが、村人たちが故国から持ってきたろうそくはこの国までの道中で使い果たしてしまったとのことであり、しかもこの国にはろうそくというものがなかった。そこで、仕方なく人々が輪になって座る真ん中に木の小枝を組んで、火が灯された。それが、ろうそくの代わりとなった。
「主よ。今、過越の晩餐を過ごす私たちを、祝福して下さい」
イェースズの声がヘブライ語で高らかと夜空に鳴り響く。そしてイェースズはまず、濁酒の土器を飲み干した。そして本当ならここで苦菜が人々にまわされるのだが、この国では手に入らない。仕方なく、それは省略せざるを得なかった。
そして祭主であるイェースズが種なしパン代わりの煎餅を、高く掲げた。ここで、マギードといって、過越の祭りの由来であるモーセの出エジプトの物語を祭主がする。イェースズはモーセに思いを馳せながら、遠い記憶の中の過越の祭りの話、マギードを頭の中で反芻していた。
ところが、その時イェースズは頭がスーッとするのを感じた。甦ったのは、彼の四十年前の最後の晩餐だった。その時イェースズはマギードをせずに、急に慣習とは全く違う言葉に変えたのだった。そして今も、その通りに口をついて言葉が出る、それは自分の意思ではなく全く御神霊のみ意のまにまに言わされたという感じだった。
「みんな、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される、私の体である」
言ってしまってから、イェースズの心は、四十年前に飛んだ。今はこう言ったところで、彼の体は誰に渡されるはずもない。だが、四十年前にこれを言った時はその翌日の自分を象徴して言ったつもりが、全く違う結果になってしまったのだった。その感傷に、イェースズはしばらく目を伏せ、その目には熱いものが込み上げかけてきた。
だが、それを聞いた人々もまた、呆気にとられていた。祭主であるイェースズがマギードをせずに、異様な言葉を言ったからだ。人々の間で、ざわめきが起こった。
イェースズの手の煎餅が、ヤーハツという習慣どおりに手でちぎられて、人々の何人かにわたった。だが、どんなにそれを細かくちぎろうとも、三百人すべてに分けるのは無理だった。本来過越の晩餐は家族単位でするもので、多くてもせいぜい数十人ほどである。だから、ここで家長が掲げた種なしパンは、十分に家族全員に行き渡る。だが、このような三百人が一堂に会しての過越の晩餐など、普通は行われることなどない。
イェースズはそこで強く念じた。パワーがエクトプラズマ化し、さらには物質化して煎餅に変化を与えた。するとたった四枚の煎餅が、同じ大きさのまま三百人の手に渡った。人々は最初は言葉を失っていたが、すぐにそれは大きなどよめきに変わった。さらにイェースズは濁酒の杯を、月明かりの中に高く掲げた。
「みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなた方と多くの人のために流されて、罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である。これを、私の記念として行いなさい」
イェースズにとってそれは単に四十年前の記憶の反芻ではなく、新たな使命の認識でもあった。四十年前はあのパンとぶどう酒が、使徒たちとの別れの食事だった。そして今は、イェースズは再び故国で自分がなすべき使命を与えられたことを智覚していた。だが、今の故国に安住できないことは、目の前にいるこの村の人々の境遇を見るまでもなく十分に分かる。それでも、どんなに危険でも自分は行かなければいけないと、イェースズは深く感じていた。それは、故国を救うなどという現界的な使命ではない。最も高次元の、神霊界からのともいえる使命が自分にあることが強く認識されるのだった。
実はこの四十年の間に、かのサウロという男を改心させたのをかわぎりに、イェースズはたびたび故国やその他のローマ帝国内を訪れてはいた。だが、それは常に幽体と霊体のみで神霊界を通っての、霊的な訪問であった。そして使徒たちにもたびたび啓示を与えてきたし、メッセージも伝えてきた。時には霊・幽体を物質化させて姿を現したこともあったし、使徒が眠っている間にその魂を離脱させて直接会ってメッセージを送ったこともあった。その場合、使徒は夢でイェースズからお告げを受けたと思っている。だが、そのやり方で故国に行くのは瞬時には行けても、三日といられない。もっとも最近では以前のように祠の前に肉体を残しての離脱という形ではなく、例えば昼間に村人たちと談笑しつつも同時に魂だけが地球の裏側まで飛んでいって、使徒や自分の教えの宣教者に啓示を送るという八面六臂の活動もできるようになっていた。だからこの四十年の間、イェースズは結構忙しかった。しかし、今度ばかりはそのような霊的にではなく、肉身を持ったままで自分の足で故国の土を踏みたかったのである。
イェースズの濁酒は、これもまた全員に回った。その時、村人の中からそっとイェースズに近づいてくる髪の長い女がいた。
そして、まだ晩餐も終わっていないのに、イェースズの耳元で、
「あのう、もしかしてあなた様は……」
とささやいてきた。
「はい?」
「いえ、何でもありません」
髪の長い女は、慌てて首を横に振ると黙ってしまった。
イェースズがイヴリート・コタンに滞在する時は、ムータイン・コタンの自分の家とは別の小屋をイヴリート・コタンに建て、そこで寝起きしていた。簡素な小屋だった。
その仮小屋に、イヴリート・コタンの住民の十人ばかりがこっそりと訪れてきたのは、過越の晩餐の翌朝だった。さっと目覚めたイェースズは、彼らを小屋に招き入れた。小屋はそれで満員になった。
「どうしたんじゃ? こんな早くに」
「それが、テンクウ様」
「実は、お聞きしたいことが」
十人のうち六人までが女性で、年齢もばらばらだった。その誰もが、声をひそめていた。まずは口を開いたのは中年の男だ。
「昨夜の過越の晩餐でピンと来たんです」
「それに、前に赤ちゃんが生まれた時も」
そう言ったのは、若い女性だった。彼らの想念を読み取ればすべて分かるイェースズだが、霊眼を開き意識を集中させてそうするのは、よほどの時だけにしている。今はまだ肉身を持つ自分である以上、肉声の言霊が最初と思っている。
「どうしたんじゃ? 何か感じたのかな?」
イェースズは穏やかに微笑んで尋ねた。確かに昨夜の晩餐では普通の過越の話ではなく、四十年前の最後の晩餐の時の言葉を言ってしまった。だが、あの晩餐を知っているのは十二使徒だけだ。煎餅を増やした奇蹟とて、彼がパンや魚を増やした奇蹟を見せたのは四十年も前のこと、ここにいる十人はそこのころまだ生まれていないか、生まれていたとしても幼少であったはずだから知っているはずもない。
ただ、そう言えば昨夜、「もしかして、あなた様は……?」とイェースズにささやきかけてきた髪の長い女性がいたし、その女性も今目の前の十人の中にいた。
「あなた様は」
口を開いたのは、その髪の長い女性だった。
「もしかしてテンクウ様は、クリスティアノスではありませんか?」
「何じゃな、それは?」
イェースズが平調で答えたので、十人とも肩透かしを食らったような顔をしていた。
「それは、ギリシャ語だね」
「はい。クリーストスに従う者という意味です」
「クリーストスとは、油を塗られたものという意味じゃな。つまり、ヘブライ語のメシアということじゃな」
イェースズは、驚きと共に聞いていた。かつて故国で福音宣教生活に入る前にエジプトの日来神堂の中で、エッセネ兄弟団から彼はその「クリーストス」の称号を得ていたのだ。だが、今のイェースズの言葉に、十人の方も驚いていた。彼らはイェースズがギリシャ語にも堪能だということを、初めて知ったからだ。
「そ、そうです」
一人の男が、膝がしらを進めた。
「主がアブラハムと交わされた契約の、そのメシアが降臨したのです。その方を、ギリシャ語でクリーストスと呼んでいるんですよ。その方はローマ人の手によって十字架にかけられましたけど、三日後には死に打ち勝って死者のうちから復活し、天に上げられて父なる神の右に座しておられる神の御一人子なんです」
イェースズは霊眼を使うまでもなく、男の話をすべて理解した。そして微笑んだ。だがその微笑は、心の中では苦笑だった。
「で、なぜわしがそのクリスティアノスだと思ったのかね?」
「昨夜の過越の晩餐ですよ。ここでは煎餅と濁酒でしたけど、本来はパンとぶどう酒でしょ。そのパンとぶどう酒を祝福しての聖体拝領は、クリスティアノスの間で受け継がれていることですからね」
その男の言葉を、別の男が、
「ちょっと待てよ」
と、遮って、小首を傾げながらイェースズを見た。
「テンクウ様がエルサレムを出られたのは、確か四十年前とか」
「そのくらいになる」
「そうだとしたら、テンクウ様はクリーストスご本人をご存じなのでは? もしかして、その頃からのクリスティアノスなのですか? だから昨日は過越にかこつけて聖餐式を……」
「いや、違うわ」
口をはさんだのは、若い女性だった。
「クリーストスがこの世にいらっしゃった時の信徒は、十二使徒を除いて聖餐式のことは知らなかったはずよ。儀式としての聖餐式が確立するのは、御昇天から十年はたっていたって聞いているわよ」
「クリーストスの十字架から十年後なら、その頃はもうわしはこの国にいたよ」
そう言って、イェースズは笑った。そして、
「あなた方も、ずいぶん詳しいな」
と、笑ったまま言った。
「実は」
人々はまた、一層に声を落とした。
「われわれは、この十人だけがクリスティアノスなのです。この村の他の誰にも内緒になっているのですけど」
「もしかして」
と、十人の中でいちばん若いと思われる女性が、軽い笑みとともに口を開いた。
「テンクウ様ご自身が、クリーストスご本人だったりして」
イェースズの眉が少し動いたが、すぐにかん高い声が響いた。
「あんた、何言うんだい!」
女性の中でも、いちばん年配の中年婦人だ。
「クリーストスは天に上げられたって聞いているだろう。クリーストスの十字架と復活を受け入れなければ、私たちの信仰は無意味になっちまうんだよ。そりゃテンクウ様はご立派なお方だけど、クリーストスが肉身を持ってこの世にいらっしゃったら、私たちの信仰は嘘になっちまうじゃないか。めったなことをお言いでないよ。そりゃ、神への冒涜だ! いいかね。クリーストスは天国におられるんだよ、天国に。天の御父の神様の右に座しておられるんだよ!」
「まあまあ」
と、イェースズは穏やかに、いきり立つ女を抑えた。
「この国は、またの名をアマグニって言うんじゃ。つまりそれは、天国ていう意味じゃな」
それだけ言って、イェースズは十人の顔を見渡した。
「エルサレムの神殿も焼かれた今、故国でそのクリスティアノスたちは、どういう状況になっている?」
イェースズのいちばんそばにいた男が、やっと我に返ったように冷静に話しはじめた。
「一時は、真っ二つに別れたのです。一つはエルサレムに残り、イスラエルの民の間で伸びていきました。もちろん、律法も守り、割礼もそのままです。もう一つの派はアンティオケに本拠を置いて、異邦人の中に出ていきました」
そこまでは、イェースズも知っている。ペテロと弟ヤコブとの間の、二代目継承の争いがあったということだから、そこに端を発した分裂劇だろう。
「アンティオケに行った連中はイスラエルの神を信じない人々にまで、律法も割礼も無視して教えを広めようとしたんです」
「あの、十二人の使徒たちは?」
「すでにヨハネの兄のヤコブ、クリーストスの弟の小ヤコブの二人は、間違いなく殉教しました。エルサレムのクリスティアノスも一時はペラへ移住しましたけど、何しろ今回の大反乱ですから、どうなっているかが……」
「そうか、ヤコブか」
イェースズはほかの人に聞こえない小さな声でつぶやいて、目を伏せた。男は、構わずに話し続けた。
「アンティオケの教会はローマにまで広がって、エペソ、ピリピ、フィラデルフィア、テサロニケ、コロサイ、コリント、スミルナ、ペルガモなどにも次々に教会ができたんですけど、ローマ皇帝のよって大弾圧を受けたんです。皇帝ネロの時にローマに大火があって、その罪がクリスティアノスになすりつけられて、そりゃあひどいものだったそうです。火あぶりにされたり、競技場で縛られたまま飢えたライオンの餌食にされたりとか」
イェースズは目を見開いた。四十年前にローマを訪れた際に見せられた、あの未来映像そのものだった。
「ペテロもパウロも、実はその頃に殉教したようです」
と、別の者が口をはさんだ。殉教者は二人のヤコブだけではなかったのだ。しかもイェースズが自分の後継者とした霊の面の後継者の小ヤコブ、体の面の継承者のペテロの、二人ともがもうこの世にいないという。そしてパウロとは、イェースズがわざわざ改心させたあのサウルだ。目から鱗が落ちてからのパウロは、それまでのイェースズの信徒迫害の最先鋒だったパリサイとしての存在から百八十度転換し、熱心なイェースズの教えの伝道者となった。ただ伝道しただけでなく、彼はペテロとともにイェースズの教えを教義として確立、体系付けた人ともなっていた。イェースズとともに霊界探訪をしただけに、体験はやはり何よりもい雄弁だ。そのパウロももはや、この世にいないという。
イェースズはとにかく十人を帰すと、一目散に、老人とは思えない速さで走り、キムンカシ・コタンへと走った。
キムンカシ・コタンでウタリにムータイン・コタンに来るように言い付け、イェースズはとんぼ返りでオピラ・コタンへと向かった。ヌプを呼ぶためである。昼過ぎにはヌプもウタリも、ムータイン・コタンのイェースズの住まいへとやって来た。
「ここ数ヶ月ほど考えていたことを、今ははっきりとあなた方に告げたいと思うんじゃ」
単刀直入に、イェースズは切り出した。二人ともある程度察しはついていたようで、唾をのんで老いた顔を師に向けた。住まいの外では、人の気配がする。二人の長老が慌しくイェースズの住まいへと駆け込んだのだから、目撃した人にとってはただごとではないと感じるのいも道理だ。それには構わず、イェースズは語り続けた。
「わしは、イスラエルの地に戻る」
やはりという顔を、ヌプもウタリもした。ほんの瞬間の沈黙のあと、ウタリが身を乗り出した。
「でも先生、そのお年で」
「ウタリよ」
と、笑いながら諌めたのはヌプだった。
「先生を普通のご老人だと考えたら、失礼だぞ」
たしかに年齢のわりには足腰もしっかりとし、気力も衰えていない。三つの村の村人たちの間では密かに、この三長老は不老不死の妙薬を所持しているのではないかという噂さえ流れていた。しかも、それは石楠花の葉を煎じたものだなどという、まことしやかな話にまでなっている。
「分かりました」
ヌプが、きっぱりと言った。
「先生のお国を思う気持ちは、よう理解できますからな」
イェースズも、少し目を伏せた。
「わしはもう二度と、故国の土を踏むことはないと思っておった。だが、この国に戻ってくる時に、必ずまた帰ってくると使徒たちに言い残してこの国に来たんじゃ。その使徒たちももう、ほとんどがこの世にいないようだが、それでも約束は約束じゃ。それに、まだまだわしにはしなければならないことがある。神様はなかなかわしに、休ませては下さらんよ」
そう言いながら、イェースズは声を上げて笑った。今度はヌプが、
「いつ、ご出発ですか?」
と、聞いてきた。
「そうだなあ。夏が来るまでには」
ヌプとウタリが、顔を見合わせた。
「ずいぶん急ですな。では、わしらも早速旅立ちの支度などせねば」
そう言うウタリをイェースズは手で制した。
「今度ばかりは、わし一人で行く」
それを聞いた二人は、驚きの表情を隠せなかった。今までどこに行くにも、イェースズと行動をともにしていた二人である。イェースズが故国に帰って福音宣教をしていた時期も、最後の最後になんとか間に合いはしたが、だがそれまでも二人はいなかったわけではなくてひたすらイェースズのもとへと目指して旅を続けていたのである。
「先生はまさか、わしらが年寄りだから足手まといになると思っておいでか」
「そうでござる。先生ほどではないにしろ、わしらとてまだまだ丈夫」
いきり立つ二人を、イェースズは両手を上げてなだめた。
「そんなことではない、あなた方にはここで私の代理人としてしてもらいたいことがある」
「イヴリート・コタンなら、わしの孫婿のスワヌチが村長として立派に守っておるではござらぬか」
「いや、そのことではない」
イェースズは立ち上がり、部屋の隅から何やら布の包みを取り出してきた。開いてみると、そこに入っていたのは人毛だった。
「これは弟のイシュカリス・ヨシェの遺髪じゃ。これをあなた方の手で葬って、塚を作って守っていってほしいんじゃ。今まではわしが、肌身離さず持っておった。わしの身代わりの子羊となって死んだ弟だからな」
ヌプもウタリも、ただ沈黙していた。
「この遺髪の塚とともに、この地を守ってくれ。特に、イヴリート・コタンの住民とほかのコタンの村人との間に摩擦が起こらないように頼むぞ」
ヌプが恐るおそる手を伸ばし、その遺髪を受け取った。師は顔こそ微笑んでいるが、その内心激情ほとばしるのをヌプも感じて、イェースズを見た。
「分かりました」
「本来なら兄であるわしの手で葬るのが筋だが、わしは一人の肉親のことよりも、もっと全世界全人類の救いに歩かねばならない」
その心情を感じたので、二人とも、
「分かりました」
とうなずいていた。
イヴリート・コタンの村民がまいたリンゴとイェースズのまいたヒマワリの双葉が出始めた頃、イヴリート・コタンの北側の山の斜面を切り開いてイェースズの弟の遺髪を葬る塚が完成した。大人が両腕を広げたのよりも若干大きいだけの幅の、丸い土饅頭だった。イェースズはそれを弟のイシュカリス・ヨシの墓として、丁寧に拝した。そしてその日、イェースズは故国に向かって出発する日でもあった。
頭にはヒラクティリーをしっかりと結び、単身徒歩で東へと向かう。イヴリート・コタンには、この日ばかりは四コタンのすべての人が集まったといえるほどの人であふれた。なにしろ若い人にとっては自分が生まれた時からいて、頼りにして親しんできた長老のハチノヘ・テンクウ――イェースズがしばらく旅に出て留守になるというのだから、それは大事件だった。ましてや大恩を感じているイヴリート・コタンの人々にとってはなおさらで、さらにイェースズが自分たちの逃げ出してきた故国を目指すというのだから心境は複雑だったようだ。
大騒ぎの送別の後、一度だけ微笑んで振り向いたイェースズは、最後まで見送ったヌプやウタリとも別れ、東へ東へと歩いて行った。思えばの肉身を持ったままこの村を出るのも、三十年以上もなかったことである。
やがて海に出た。松原も、故国から初めてここへ戻った時に建てたあのお堂も、四十年余り前のままだった。船の中で調整した青龍神の御神体も、無事にそのまま鎮座していた。
イェースズはその青龍神に参拝したあと、船に乗り込んだ。船はヌプとウタリがあらかじめ手配して、漁民から譲り受けていたものだ。一人で乗るには少し大きめの帆船だった。食料もヌプたちの手回しで、すでに積み込まれていた。あとは、釣竿一本あれば用は足りる。
空は快晴。うるさいほどの海猫の飛び交う中を帆に風をいっぱいに受け、船は霊の元つ国をあとにした。またここに戻れるのか、これで今生の別れなのか、そのようなことはイェースズは一切考えなかった。考えても仕方のないことである。すべては神様がお決めになることだ。船はイェースズの故国に向かって、順調にすべりだした。