3
峠を西へと越えた。大きな半島の付け根を横切って再び海に出た時、この海岸線に沿って半島の西を北上すればあの懐かしい山に行けるはずだということをイェースズは思い出した。その山とはモーセの神霊と遭遇した宝達の山だ。しかし今回はそこへは寄らず、ひたすら西に進むことにした。海岸沿いに半島とは反対に進むと、かつてイェースズがはじめてこの国に来た時に上陸した地点を通過するはずだ。だがずっと平凡な海岸線が続き、十数年前の記憶ではここと断定できる場所はなかった。だいたいこのあたりだろうかと思う場所はあったが、イェースズは少し気に止めただけで西への旅を急いだ。
何日か泊りを重ね、断崖絶壁の遥か下で波が砕けるような海岸も通過した。たいていは野宿だったが、すでに夜でも寒いという季節は過ぎていた。
たまには村に出くわすこともあり、そこを通過すると誰もがイェースズを支配階級の大人として接したし、賓客級のもてなしを受けることもあった。ただ、本当の大人であるエフライムのユダヤ人はここでは誰でも顔に入れ墨をしているとのことで、イェースズの顔にそれがないことを訝る人もいた。
そうして進んで行くうち、父山を出てから八日目、海岸に近い小高い丘の上から湾となって入り組んでいる海の向こうにイェースズは不思議なものを見た。湾の中に細長い堤のようなものがあってそれが海の一角をふさいでいる。近づくにつれ、それが緑の繁った自然の堤であることがわかった。それはまさに絶景だった。やはりここでも、一種の神々しさを感じずにはいられなかった。
そこからは、イェースズは海岸線と分かれて南下した。最初からそう決めていたわけでもなく、またここから南下しなければならないといういわれは何もなかったのだが、要はイェースズがそう思ったのである。神と直結する己の身魂を知った時、己の思惟はそのまま神の声となり、そうなるともう何をするにも自由だった。自分にス直になる事が、自然であり至善なのだ。
今度は道は山道となり、海沿いと違って歩くのにかなり骨が折れたが、イェースズにとっては物の数ではなかった。そうして五日ほど小高い山々の間を縫うように分け入って行った後、ふとある山間部にイェースズはものすごい霊圧を感じた。その中央はどこにでもあるような一面の水田で、山に囲まれてひっそりとたたずむその空間には建物らしきものはなかったが、イェースズの足はまた自然とその谷間へと向いていた。
すると、まだ低地の水田に着かない山道の中で、草むらから多数の男が飛び出し、イェースズを囲んだのである。彼らは皆、手には石の斧や矢尻を持っている。
「ヤマトめ! 何しに来た!?」
男の中の一人が、そう叫んだ。イェースズを大人と崇めないことからも、また異文化圏に来てしまったのかもしれない。そもそも、大人に支配される人々をヤマトと呼んでいるのは、イェースズが今暮らしている日高見の国と同じである。
「ちょっと待て。私はヤマト人ではない。海を越えた遥か西の国から来たんだ」
「海の向こうの西? それこそヤマトではないけ」
「いや、違う。もっともっとずっと西だ」
「じゃあ、カラの地け?」
「もっとずっとずっと西だ」
「なに? まさかカンの国け?」
カンとは漢のことらしい。
「違う。もっともっと西だ」
「そないな所に国があるけえ!」
「それがあるんだ」
イェースズは落ち着いていた。彼を囲んでいた男どもは、その輪を次第に縮めてきた。
「いいかい。私の顔をよくごらん。あなた方の言うヤマト人のような入れ墨があるかい?」
そのひと言は説得力があったが、それでも男たちは完全に納得したようではなかった。
「んなら、この村に何しに来ちゃったんけ?」
「村?」
そう言われても、見わたす限り家など一軒もない。ところが、男たちが山の中腹から出てきたことに、イェースズはひらめいた。
「もしかしてあなた方は、山の中に住んでいるのかね?」
かつて大陸で、建物の家ではなく穴に住んでいる民族に出くわしたこともあった。ここの村もそれと同じように、人々は穴居に住んでいるのかもしれない。
「んだ。そんなの常識だがね。いや、それを知らんちゃったということは、もしかして……」
真ん中のいちばん大柄な男が首をかしげた。それが、イェースズがヤマト人ではない一つの証ともなるようだった。
「あの森に」
イェースズは何気なく、水田の脇のこんもりとした森を指差した。霊圧はその森から発せられているのだ。ところが男の表情は、再びこわばった。
「やはり、ヤマト人じゃないか。あの森が目当てなんだろう!? さてはあの森をつぶしに来たな」
また一つ、包囲の輪が狭まった。誰もが殺気立って、今にもイェースズに飛びかからんばかりだった。ついに一人の男が叫び声とともに、イェースズの頭目がけて石斧を振り上げた。
「お待ち!」
悲鳴のような怒号が、谷間の空間を引き裂いた。年配の女性の声だった。男たちの動作は、そのひと声でまるで呪文でもかかかったかのようにピタッと止まった。イェースズは息をのんで、声がした方を見た。すると長い髪に白い衣の中年の女が、静々とこちらに歩んでくる。その赤い顔は、まぎれもなくユダヤ人だった。
「ヤマト姫様!」
男たちは一斉に向きを変え、その女の方へとひざまずいた。イェースズが何が何だか訳が分からずに呆然と突っ立っていると、ヤマト姫と呼ばれたユダヤ女性はイェースズのそばまで歩み寄り、笑顔を作った。
シャローム! あなたを、お待ちしていました」
流暢なヘブライ語だった。年は決して若くはないが、かつてはたいへんな美人であったであろう面影は残っている。
「こちらへどうぞ」
イェースズがまだ何も答えないうちにヤマト姫はもう背を向けて歩きだし、そのままイェースズが霊圧を感じた森の方へと向かって行った。その後について森に近づくにつれ、清浄な霊と光圧をイェースズは全身に感じていた。ヤマト姫の歩く背中には、声をかけるのが憚られるような毅然さがあった。
やがて森の中に入り、しばらく行くと木々が開けた。
「おおっ」
と、イェースズは思わず声を上げていた。そこには巨石が林立し、それを縄でくくった磐座が出現した。巨石群は決して規則的に並んでいるわけではないが、その全体から清浄のが漂い、光圧がぶつかってくるのだ。しかもイェースズの霊眼には、燦々と高次元エネルギーがそこから発せられているのが見ていてまぶしいくらいだった。
「神籬です。天照大神様と、大国魂の神様をお祭り申し上げています」
厳かに、ヤマト姫はそう説明する。思わずイェースズはかしこまり、二拝三拍手で参拝をした。それを終えて立ち上がるイェースズに、ヤマト姫は目元に笑みを寄せて言った。
「あなたが来られるのを、お待ちしていました」
「なぜ、私が来ることをご存じで? しかも待っていたとは?」
ヤマト姫は落ち着いた態度で、ゆっくりと言った。
「御神示があったんです」
「御神示って、こちらにお祭りしている神様から?」
「はい。これからここを訪ねて来るイスラエルの子に、すべてを聞けと」
「そんな、すべてを聞けって、いったい私に何を聞くんです? 私の方こそ、聞きたいことがたくさんあるのですけどね」
「そうそう、先ほどは村人が失礼を致しました」
急に話題を変え、体の向きを少し変えて、年配のこの姫は視線を右前方に向けた。そこには、高床式の建物があった。イェースズもちらりとそれを見てから、姫に目を戻した。
「ここは、何という国なのですか? そして、あなたはいったい?」
「ここは、クナトの国の一部です」
クナトとはまだヤマトの勢力の及んでいない国だと、確かミコは言っていた。それでイェースズを見て村人たちが襲ってきたのも納得がいく。だが、謎なのは目の前の姫だ。自分と同じイスラエルの民の顔つきである。しかも村人はこの姫をヤマト姫と呼び、崇敬しきっているようだ。
「ここはクナトの国のはずれで、国の中心はもっとずっとずっと西にあります。そこに行くにはまだ十日以上は歩かなければなりません」
クナトの国というのは、かなり広い範囲のようだ。
「さらにヤマトへは西へ二十日あまり。小さな海峡をはさんだ別の島に、ヤマトはあります」
「あのう、あなたはヤマト姫って呼ばれていませんでしたか?」
姫は、少し笑みを漏らした。
「ここへ来た時は、ちょうどあなたと同じように私もヤマト人だと思われて、それでヤマト姫って呼ばれているんですけど」
「あなたはヤマト、つまりエフライムの人ではないのですか?」
「私はエフライムではなくて、代々レビ人の血を引く家の娘でした」
レビ人とは、イェースズの故国では神殿で神に仕える祭司たちのことだ。
「それでここの神籬をお祭りしているんですね?」
すると、この社の巫女のような存在であろう。そこで意を決してイェースズは、自分のことを述べることにした。
「私は、ダビデの国から来ました」
「あの、伝説のダビデ王?」
「西の果てです。私の家系はユダ族です」
「あなたもヤマトのエフライムではないのですね」
「はい。今はあなた方がいう日高見の国に身を寄せています。本当は荒吐の国っていうんですけれど」
「日高見の国って、いい響きですね。ヤマト人はエミッシュとか言ってますけど」
エミッシュとは、シュメール語で野蛮な人という意味になる。
「ひどい。蛮族扱いだな」
イェースズは苦笑したが、ヤマト姫は真顔だった。
「でも、日高見の国とクナトが、最後までヤマトに対抗する勢力になるでしょうね。それは、この国の正しい歴史を守るということですから」
それは全くその通りだと、イェースズは思う。だが、その話よりも気になるのは、何かを自分に聞けという御神示が降りたのかということだ。
「ところで、私に尋ねたいことって何なのでしょうか」
姫は首を廻してあたりの様子を何気なく伺いながら、そっと答えた。
「今、この地方は災害が続いて、作物もほとんど取れなくなっている状況なのです。それをどうしたものかとずっと神様におすがりしていましたら、やっとご託宣があったのです。それが、あなたに聞けということでした」
そう言われて、イェースズは神籬に目を向けた。この女性の神に仕えるという立場や、自分に災害や凶作の訳を聞けという御神示の内容から、これは神祭りの誤りに関する御戒告なのではないかと思ったからだ。しかしいくら神示しがそうだからといって、いきなりそれを切り出すのも不躾だと思ってイェースズが言うのをためらっていると、
「あちらのお部屋でお休みになりませんか? お話はその後でも」
と、姫の方から誘ってくれた。イェースズはそれに甘えることにした。
イェースズはそこでしばらく休んでから、早速ヤマト姫に気になっていることを聞きだした。
「こちらの磐座ですけど、お祭りしているのはたしか?」
「はい、先ほども申し上げました天照大神様と大国魂の神様ですけれど」
「つまり、合祀とういうことですね?」
「はい」
「それだ」
「はい?」
「御神示は天照大神様からの御神示だったのですね?」
「そうです」
「その天照大神様は、本当は天照皇大神様と申し上げるのでは?」
「ええ、正式には」
イェースズは急に真顔になって、何かを考えているようだった。
「実は災害も凶作も、たいへん失礼だが神祭りに関係ありますね」
姫の瞳は刺すように真剣になり、イェースズの次の言葉に全神経を傾けようとしていた。イェースズは、ゆっくりと口を開いた。
「天照大神様は女神様で、超太古にこの国で世界を統治されたスメラミコト様、つまり肉身を持たれた現人神、現津神様なんですよ」
「はい。存じております。もっと正しくは皇統第二十二代、天疎日向津比売天皇様と申し上げるんですけど、それが正しい歴史です。ヤマト人たちは、その正しい歴史を抹殺しようとしているわけですから、私がここで天照大神様のお社を守っているんです」
「その天照大神様は天照皇大神様ですよね。ところが大天津神様の天照日大神様は天神第七代の神様で、肉体をお持ちになったことはなく、それに男神様で格が断然違います。この大神様が神霊界にお帰りになったのは、今から年数にして何十億の単位がつくほど昔のことで、私の国の創世記で、七日目に休まれた神様なのです。お名前は似ていても、厳とタテ別けしなければならない」
「はい」
うなずきながらも、姫はまだイェースズが言わんとしていることの真意が分かっていないようだった。
「そこで、大国魂の神様は天照日大神様の父トト神様、実際のこの大地と人間をお創りになった国祖の神様、創世記の天地創造の、六日目の神様、その神様の直系の御子孫神なんです。ですから天照皇大神様とは格が違うんですよ。その格が違う神様を合祀したりしたら、どうですか? 肩身が狭いではありませんか」
ハッと気づいたように、ヤマト姫はイェースズを見た。
「姫様、いいですか? 災害も凶作も、そのことを告げようとなさる大神様の型示しであり、戒告ではないでしょうか?」
「でも、それではどうすれば」
「天照大神様に、どこかにお遷り頂くしかないでしょうね。神霊界は秩序正しきタテ別けの世界ですからね」
「でも、お遷り頂くとおっしゃいましても……」
姫はそれきり黙った。
翌日の昼過ぎ、イェースズは一人で森の中を散策した。森は磐座を中心としたこじんまりとしたものだった。
歩きながら、イェースズは考えていた。昨日、天照大神様をお遷し申し上げるべきだなどと言ったが、ではどこにというと具体的にはまだ言えない。だが、イェースズは自分の言葉に自信があった。自分の言葉は、もはや彼の境地に達すればそれがそのまま神の声なのだからである。だから何の不安も心配もなかった。内なる神がすべてを教えてくれる。
その時もパッと木々の間から木漏れ日がさし、急に周りが明るくなると、
「あっ」
と何かに気づき、イェースズは小さく叫んでいた。それと同時に背後から、
「あの、もし」
と、声をかけられた。振り向くと、ヤマト姫だった。その顔を見ると、イェースズの方から笑顔で話しはじめた。
「昨日申し上げたことですけど、お遷しするのにいい土地があります。ご案内しましょう」
本当ならイェースズにとっても初めての土地なので案内もへったくれもないはずなのだが、イェースズの案内は神様がして下さるのである。さらには、ミコが言っていた新たにフトマニ・クシロを張るべき地というのが、その遷宮の場所としてふさわしいはずだと理解していた。
それから数日、イェースズはこの森に滞在し、依代を神呪で調整してヤマト姫とともに分霊の神事を執り行った。お遷しすべき御神体は、天疎日向津比売天皇、すなわち天照大神の御神骨石像である。
いよいよ出発の日には、村人たちが山腹の穴居から出てきて総出で見送りに来た。それに対してヤマト姫は、
「この今の磐座は、あなた方がしっかりとお護りして下さいね」
と、力強く言った。それは姫がもうこの地には戻らない覚悟であると人々に受け止めさせるもので、それだけに人々はどよめいた。ただ、イェースズと姫だけで御神体のお供は心もとないので、姫は村人の中から同行を希望する三人を供につけた。
そしてイェースズも人々に、ひと声かけた。
「皆さん、この磐座を私からも頼みます。この大国魂の神様は皆さんのクナトの国にも御神縁が深い神様で、この神様の御子孫神が肉体神として、皆さんのクナトの国にお出ましになることをお伝えしておきます」
それから笑顔だけ残して、イェースズ一行は穴居だけの村をあとにした。
出発して一行は、とにかく東へと進んだ。泊まりを重ねて早朝に出発した時などは、ほぼ太陽に向かって進むことになり、
「太陽の神様の天照大神様をお祭りするのに、ふさわしいですわ」
と、ヤマト姫は嬉しそうであった。道は山また山の山間部を縫って進んでいたが、たまにわずかな平地もあった。ヤマトや日高見ならそのような平地はさしずめ水田で覆い尽くされているだろうが、このあたりではただの原野だった。集落はほとんどないといってよかった。そして、出発してから三日後に、一行の前に巨大な湖が横たわった。こんな狭い国土なのに、実に変化に富んでいる。たった三日で、も全く景色が違うのだ。
湖は対岸が水平線になって見えるほど巨大なものだった。イェースズがこの霊島の国に来て、初めて見る大きさだった。
「こんな大きな湖が」
と、ヤマト姫も驚いた様子で、イェースズの隣に立って湖水を見ていた。だがイェースズの霊眼は、ただの風景を見ていなかった。
「ただの大きな湖じゃありませんね」
彼自身がそう言った通り、イェースズは懐かしさが込み上げ、ものすごい因縁を感じていた。それはかつて艮の真主の湖、そしてトー・ワタラーの湖に感じる神秘と同系列のものだった。そしてイェースズの高次元の意識が、瞬時に総てをサトッた。この湖こそ、国祖の神・国万造主大神様が御隠遁なさる時、その龍体をお沈めになった湖に違いなかった。
一行は船を借りて対岸に渡ったが、水面を走る時もイェースズは何かに温かく包まれているのを実感していた。
湖を渡り、ひときわ高くそびえる山の南麓を進むと、しばらくは平坦な道が続いた。道といってもきちんとした道が整備されているわけではなく、原野を草をかき分けて進むことも多かった。昼間はぽかぽかと陽が照り、ややもすれば汗ばむ陽気となっている。空の青さもどぎつく、浮かんでは流れていく雲のかたまりの白さを際立たせる。山では新緑が一斉に芽を吹いて、風もさわやかに肌をなでていった。
やがて、大きな川に出くわした。イェースズの意識は、この川を下流に下れと命じていた。それにス直に従って一行は南下し、海が近いと感じたのは出発してから六日目だった。はたしてその夕暮れに、彼らは潮の香りをかいだ。南の方へ展開する海が見えた。今は湾の奥にいるようで、海に向かって左右とも陸地が突き出し、夕日を受けて金粉をまいたように穏やかな海面はきらきらと光っていた。そしてその美しい光景に目を細めたイェースズだが、旅はまだ続くであろうことをヤマト姫に告げていた。
そうして海に向かって右手に突き出た陸地を海岸沿いに南下すること七日にして、湖に向かって東へ突き出る岬に到達した。その時イェースズは、新しい宮はこのあたりに祭るべきだと思った。ヤマト姫にもそれを告げると、姫も同じことを感じているということだった。そこでイェースズとヤマト姫は、その土地で新宮の場所を捜し求めて歩いた。そして、海に注ぐ川を少しさかのぼった台地の上に、清浄なの森を彼らが見つけた時、
「あ、ここです!」
と、突然ヤマト姫は叫んだ。
「今、御神示が降ったようです。胸の中で声がしました」
イェースズの霊眼は、それが本当であることをすぐに察していた。その神示の内容も分かっていたが、あえて、
「どういう御神示ですか?」
と、聞いた。
「この国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜し国なり。この国に居らんとす」
それは二人の会話で使われているヘブライ語ではなく、それだけをヤマト姫はこの国の言葉で言った。イェースズも感嘆の声を挙げ、早速同行している村人たちに新宮の地の決定を告げた。そしてその地に手をかざし、神の光を放射して霊界を浄めていった。
それから数日の間、森の中に新たな甍を造る槌の音が響いた。その神殿は磐座ではなく、全くユダヤ式の聖書の時代にあるような幕屋の神殿だった。すべてが、ヤマト姫の指図のようだ。レビ人の血にはかなわないと、イェースズは思った。しかもエルサレムの神殿でえらそうに踏ん反り返っているレビ人よりも、遥かに純情なレビ人だと思われた。
数日後、新宮の完成と遷座のため、御神前に一行は集まった。何事かと出てきた近隣の村人たちにも、姫が趣旨を説明した。すると皆は、
「そりゃあいいことだ。この村に神様が来なさる」
と、大喜びだった。姫が連れてきた人々が、遷宮を言祝ぐ歌を歌い出した。驚いたことに、それはヘブライ語だった。イェースズは歌を聞きながらちらりと横目でヤマト姫を見ると、姫はまるで若い女性のようないたずらっぽい笑みを浮かべてイェースズを見た。
ササヤハエ トコシェルヤハエーヨナハン アレルヤ アレルヤ
コレ ワ イシェー コーノナギイドゥーモーシェ
(汝ら、喜び悦べ 主は敵を海に投げ入れた 主は哀れみ深きお方 主を賛美しよう
主は人々を召し出して救われる 主はモーセを立て導かれる)
神殿のある森の前には、ちょうど川が横たわって流れていた。そのほとりに立ったイェースズは、隣にいた姫に笑顔を見せた。
「これで、ひと安心ですね」
「あなた様の道案内があってのことです」
「すべては神様のみ意のまにまにですよ」
姫は視線を川面に移した。透き通った水は陽光を受けてきらきら輝いていた。それを横目に、イェースズも川を見て言った。
「この川が、イスズ川になるのですね」
「イスズ川?」
「ご存じありませんか。ご神域の前には、川があるものです。川が横、御神殿が縦で、それを十字に組んで神様のみ力を頂くんです」
「あなたのお名前と同じなんですね」
イェースズは笑った。
「確かに私はこの国では、イスズと呼ばれています。それが正しい言霊なのだそうです」
イェースズはますます、微笑の度合いを増していった。すると老いた姫は、真顔のまま川を見つめて横顔で言った。
「実は私、もう一つ神殿を建てなければいけないのです」
イェースズはしたり顔だった。
「つまりこの御神殿をホドの宮とすると、やはりメドの宮を建てるのですね」
「いいえ。そういうことではなくて、どうしてもお祭りしなければならない御神体があるのです」
「ああ、あれですね。ずっと若い人にかつがせていた……」
「はい」
お遷しすべき御神体はもちろんだが、姫がほとんどそれと同様に取り扱いを厳重にして、最新の注意で同行者に持たせていた箱があった。
「そのことに関しては、私の出自について話さなければなりません」
何かを決したような姫のその言葉の最中に、イェースズはもう目を見開いて口が開けっぱなしになるくらいに驚いた。先に、姫の想念を読んでしまったのである。そんなこととも知らずに、姫は思い切って口を開いた。
「私の本当の名はエリムといいます。出身はエルサレムです」
最初の驚きのまま、イェースズは目を見開き続けていた。
「エルサレムの出身なんですか?」
イェースズはそれまでのヘブライ語をやめ、懐かしいアラム語に切り換えた。
「はい、そうです」
返ってきた姫の返事も、まぎれもなくアラム語だった。
「私は実は、ハスモン家の王女だったのです。でも、私が生まれた頃は、すでにヘロデ大王の時代になっていました」
そのヘロデ大王の晩年に、イェースズは生まれた。だから、その前の王朝のことなど意識になかったが、ハスモン家とはすなわちヘロデ大王の前の王朝で、大祭司から身を起こした家柄であった。だから姫は自分をレビ人と言ったのだと、イェースズはやっと納得した。
「私が生まれてすぐに、私の一族はヘロデ大王の圧政に耐えかねて国を出ました。多くの従者をもつれていましたが、結局東の果てのこの国にたどり着いた時は、私一人になっていました」
「道理で、あなたは普通のエフライムではないと思っていました」
「私はエフライムではないと、最初に申し上げたのもそういうことだからです。そして今、この地にたどり着いてようやく私の居座るべき土地に来たと、そう感じています。それもこれもみんな、あなた様の道案内があったからです。イスラエルの皇女を、あなたは出迎えて下さったのです。そして、もう一つの御神体をお祭りしないといけない」
「その、御神体とは?」
「実は昔、ソロモン王の頃のエルサレム神殿から持ち出されていたものなんだそうですけど、私たちがお隣の大陸の漢という国まで来た時に、エフライムの秦始皇が保管していたというその御神宝に出会い、この国までお供して来たんです」
姫は、イェースズを促して歩き出した。そして新しい木の香りのする姫の新居に招き入れられ、イェースズはそこでその御神宝を見せられた。箱の中にはもうひとつ箱があって、それは船の形をしていた。形をしていたというより、精密な船の模型ともいえるものだった。そしてその船の箱の中には、黄金に塗られた壷が入っていた。
「もしかして、これは……」
「はい、マンナの壷です」
イェースズの目は、その壷に釘付けになった。マンナの壷といえばかつてモーシェの出エジプトの時、神が天から降らせて下さったマンナという食べ物を入れた壷である。それはかつてアーロンの杖、十戒石と共にエルサレムの神殿の御神体となっていたはずだ。だが、現実問題そのうちの一つの十戒石についてイェースズは、この国に来てから父山の皇祖皇太神宮でミコから実物を見せられている。だからここにマンナの壷があっても不思議ではない。この国は霊の元つ国なのである。つまりはことごとく里帰りしていて、道理で今のエルサレムの神殿からは何の霊圧も感じなかった。そして今目の前にある壷は、まぎれもない本物であることはイェースズの霊眼によればすぐに分かった。ものすごい光のエネルギーを発している。
「私はこの壷と共に、クナトの国の中心地に近いミホの岬にたどり着きまして、それからなんです、矢継ぎ早に御神示を頂くようになったのは」
「そうですか」
イェースズは真息吹の業で手を浄めてから、マンナの壷を手に取った。そして裏面に文字が刻まれているのを見た。それはまぎれもないヘブライ文字で、「エイーエ、・アシエル・エイーエ」と書かれてあった。それこそモーシェが神に御名を尋ねた時のお答えの、「在りて有る者」という意味である。
イェースズはそっと壷を箱の中の船に戻しながら、イェースズは目を上げた。
「では、もう一つ幕屋を作りましょう」
姫は嬉しそうな表情で、大きくうなずいた。
そして新しい神殿よりも少し海よりの平地に、さらに新しい神殿がユダヤの幕屋方式で建立されたのは数十日後のことであった。完成の日にマンナの壷は恭しく至聖所に安置され、一同でそれを拝した。ここはこのマンナの壷を通して今は艮に神幽られている国祖の神、つまりイスラエルでは天地創造の神とされている弥栄の神、イェースズが天の御父と慕うその御神霊を斎き祭る所となった。これで天地創造神を祭る神殿は、霊の元つ国に里帰りしたのである。
イェースズはその新しい神殿を外宮とし、先に造営した天照大神を祭る神殿を内宮とした。それらがともに国外・国内の中心となったのである。
それからイェースズがしたことは、二つの神殿を結ぶ道に標識を建てたことだった。二つの神殿を結ぶ道に立てた標識のすべてに、イェースズは神護目紋を彫り込んだ。それこそ、ダビデ王のしるしであった。その標識を、イェースズが村の広場で彫り込んでいた時である。周りに村の何人かの子供たちが群がってきた。
「おじちゃん、何してるん?」
イェースズは微笑んで目を上げ、子どもたちを見た。
「これなあ、何?」
一人の子どもがイェースズの彫っている神護目紋を指さすので、
「カゴメだよ」
とイェースズが優しく答えると、子どもたちの数はどんどん増えていった。
「カゴメってなんね?」
「いいかい。いい歌を教えてあげよう」
イェースズは笑顔で子どもに接しながら、前かがみになって口ずさんだ。
――か~ごめ、かごめ。か~ごのな~かのと~り~は~
「はい、みんな歌ってごらん」
子供たちは最初は小さな声で、恐々と歌いだした。
――いついつでや~る~
イェースズの歌うのをまねして繰り返す子どもたちの歌声は、それでも次第に大きくなっていった。
――よあけのばんに~、つ~るとか~めがす~べった~
子供たちの歌声を聞き、イェースズは満足そうにうなずいた。
「さあ、もう一度」
今度は通しで、ともに歌う。
「この歌をね、ここにいないお友達にも教えてあげてね。とっても大事な、神様の教えが入っている歌なんだよ」
元気な返事が返ってきた。最前列の女の子が、イェースズの服を引っ張った。
「ねえねえ、おじちゃん。この歌、どういう意味?」
イェースズはただ、笑っていた。別の男の子が、後ろの方からまた声をかけた。
「教えてえな。赤猿のおじちゃん!」
皆はどっと笑った。イェースズも笑った。
「なんだい? その赤猿って」
「だってなあ、おじちゃんは赤い顔で鼻が高くて、猿みたいやんか」
子供たちはまたどっと笑い、イェースズもまた笑い続けながら言った。
「そうか。赤猿か。いい名前をつけてくれて有り難う。この歌の意味はね、君たちにはまだちょっと難しいから、とにかく歌を覚えるんだよ。さあ、もう一度歌おうか」
――カゴメ、カゴメ、籠の中の鳥は、いついつ出やる……
子供達がいなくなると、イェースズはまた黙々と神護目紋を標識に彫り続けた。これは単にダビデの星ではなくモーシェも紋章として使い、また超太古のムーの国の国章でもあったのだ。
イェースズはしばらくこの地に滞在するつもりで、住居も求めた。空いている穴居はなく、自ら新しく掘らねばと思っていた矢先に海岸に手ごろな空き穴居が見つかった。海岸は断崖の下にあり、その崖下と海との間のわずかな石ころの浜を歩いていくと、崖に天然の洞窟があったのである。誰も住んでいないようだったし、その岩穴の真正面の目の前の海中には丘ほどの大きな岩が二つ島となって、一つは大きく、一つは小さく、まるで夫婦のように仲良く並んで海面に顔を出していた。その麓を、砕ける波が洗っている。そんな景色も、イェースズは気に入った。
あまりに海に近いので潮の満ち引きが気になり、しばらくイェースズは見ていたが、満潮でも海面は岩穴の入り口には達しなかった。そして岩穴の中には驚いたことに真水が吹き出る泉があり、イェースズは天に向かって深く感謝した。
それからというものイェースズは、夜はこの穴居に寝泊まりし、昼はヤマト姫のいる神殿でともに御神霊を斎き祭った。そして何よりも彼の日課になったのは、正面の水平線から昇る朝日を拝礼することだった。ここは誰よりも早く、朝日に対面できる場所なのだ。
やがて雨の季節も終わり、急に湿度も上がって蒸し暑い日々が続くようになった。直射日光も強くなっている。だが、ここだけは海からの潮風で涼しく、イェースズの伸び放題のひげはそんな潮風になびいていた。
時には、ヤマト姫のいる神殿には行かず、一日海を見て暮らしたりもし、ふと物悲しい気分になることもあった。今はのどかで平和な風景だが、国祖三千年の仕組みによれば、その最後の最後に火の洗礼の大峠が来ることになる。それはミロクの世を迎えるための、人々の魂の掃除なのだ。この世の総ての物質が消滅して、新しい半霊半物質の世界へと、許されたものだけが入る。だから目の前の美しい海、振り向けば大地、その愛すべき風景も、それが物質である以上は消え去ることになるだろう。神が壊すのではあるが、その実は人間が招来せしめる事態なのである。一度壊して善くなる仕組み、それはすべて神大愛より発するみ業に他ならない。
そんな内面の心の声にイェースズが自分の耳を傾けていた時、ふと背後から子どもたちの歌声が聞こえてきた。
――カゴメ、カゴメ、籠の中の鳥は……
イェースズが教えたあの歌だ。もうかなり広まっているらしい。そこでイェースズは、そっとその歌声の輪の方に歩いて行った。
「あ、赤猿のおじちゃんだ」
見ず知らずの子どもたちの間にまで、イェースズのそんな呼ばれ方は広まっているようだ。イェースズは苦笑した。
「みんな、元気かな?」
「元気、元気! ねえ、他にも歌、教えて」
一人の子どもが、イェースズの袖を引っ張る。
「よしよし、歌よりも今日は、遊びを教えてあげよう」
子どもたちの間から、歓声が上がった。イェースズはまず、木の小枝で地面に真っ直ぐな線を引いた。
「ほら、こうして石を投げて、あとは片足でピョンピョンと跳ぶんだよ」
まず、イェースズがやって見せた。次の子供たちは、言われた通りにした。
「それで、こうやって数を数えるんだよ。ひい、ふう、みい、よ、い、む、な、や、こ、とってね」
四、五人の子供たちは一斉に同じように唱え、大喜びで遊びに興じた。
「いいかい、この言葉を忘れちゃだめだよ。これはただ数を数えてるんじゃなくて、一つ一つに神様の力がこもっているんだ。大きくなっても忘れないで、そしてたくさんの人に教えてね」
顔は温かく微笑んではいるが、その瞳の奥に切なる願いを込めてイェースズは語りかけた。その時、また背後で声がした。今度は大人の声だ。
「あの、もし」
振り向くとそこには、何人かの村の男衆が立っていた。漁師たちのようだ。
「のうはもしや、おらが村の子どもたちの間で評判の、赤猿のおじちゃんじゃないかね」
子供はともかく、大人からも言われるといささか照れてしまう。
「まあ、そうですが、本当はイスズって言うんです」
「ほう、ほんとにえー。のうのことはなあ、よう子どもたちからなあ、聞いてますだ。もうすっかり、みんななついてますしな」
漁師の方も、親しみを込めた笑顔で話しかけてきた。そこでイェースズも、満面の笑みを作った。
「どうしてでしょう。ただ、歌を教えただけなのに」
「そう、その歌がなあ、にあいに不思議な内容でなあ、うちとらも、のうに一度お会いしたいと思っとったところですだ。どうです? うちとらの村へ来ませんか?」
「ええ、では、お邪魔でなかったら」
照りつける陽射しの中、袖で汗をぬぐいながらイェースズは男たちの村の客になることになった。
村はイザワの村と、村人たちは言っていた。村人は総て黒い髪、黒い瞳の黄人であった。村へ入るや否や、赤い顔のイェースズがうわさの赤猿であると誰かが言い出したらしく、子どもたちの大群の歓迎を受けることになった。
村といっても人々が集まる広場のようなものがあるのでそれと分かるが、住居はやはりすべて穴居であった。そのうちの一つ、割りと大きく入り口に装飾がある穴居に、イェースズは通された。村の面だった人々に囲まれるように、イェースズは迎えられた。皆、上機嫌だった。
「いやあ、子どもたちの間でな、評判ですじょ。ところで、どちらからおいでなしたん?」
早速大人たちから、好奇に満ちた質問が浴びせられた。
「今は、ずっと北の日高見の国に住んでいますけど。こちらには私の故国からさる高貴な方が来られましたので、その道案内で大神様をお祭り申し上げる場所を探してここまで参りました」
「おお」
何人かが、一斉に声を上げた。
「この村はな、クナトの大神様の御分霊をお祭りしてるんですが」
「クナトの大神様?」
「クナトの国の祖神様ですじょ」
「どこにですか?」
「この裏の丘の上にな、磐座がありますじょ」
「そうですか」
イェースズは内心すぐにでも行ってみたかったが、まずは村人たちと話をしてからと思った。すると、
「ところで、のうは子どもたちから赤猿と呼ばれておりなさるようですけんど」
と、別の人が口をはさんだ。
「はあ、そのようなんですが」
イェースズは苦笑していたが、イェースズに尋ねた男は真顔だった。
「かつて大天津神様が天祖降臨された時、道案内をされた猿田彦という神様がおいでなったと聞きますけんど、今道案内と聞きましてな、のうの赤いお顔や高い鼻、そんで子供たちから赤猿と呼ばれておいでなることから、のうこそ猿田彦の神様の再来かとも思いましたじょ」
「そんな、とんでもない」
イェースズの苦笑は照れ笑いに変わった。だが、村人たちは皆真顔だ。
「せやに。それ、違いない。うちとらが赤猿のおじちゃん呼ぶんもおかしいし、猿田さんと呼ぼう」
その意見に、あれよあれよと言う間に満場一致で決定してしまった。
「ところで、猿田さん。子供達が歌ってるあの歌の、言葉の意味を教えてくれんかなあ」
「あの歌ですか」
イェースズは「カゴメ、カゴメ」と一節を歌って聞かした。
「いやあ、不思議な調べですじょ」
「意味もよう分からん」
「のうが作りなったんかや?」
村人たちは口々にそう言って、イェースズに質問を浴び出た。イェースズは笑顔のまま、質問に答えて言った。
「はい、私が作らせて頂きましたけど、『カゴメ』とはこの紋で」
イェースズは穴居の土間の地面に、神護目紋を描きはじめた。
「カゴメとはこの紋で、天地創造の神様のみ働きを表しているんですよ。△と▽が重なって火と水がタテヨコ十字に組まれた大調和の姿です。それで、『籠の中の鳥』とはですね」
イェースズはその神護目の中央に、を打った。
「これですよ」
人々は一斉に、その紙をのぞきこんだ。
「これは宇宙の真中心の神様です。そしてこの状態は、岩戸の中なんですよ。今の世は、こうして正神真神を天の岩戸に押し込め奉っている状態なんです。ですから『籠の中の鳥は、いついつ出やる』で、『正神の神様は天の岩戸から、いつお出ましになるのだろうか』ということですね」
村人たちは初めて聞く不思議な話に、口をぽかんとあけて聞いていた。イェースズは続けた。
「その正神の神様が天の岩戸からお出ましになったら、神界・幽界・現界ともに真の『夜明け』を迎えるんです。その『夜明けの晩』、つまり天意転換期の終末の時に、鶴と亀がすべるんです」
「何です? その、鶴と亀って?」
やっと一人の村人が、口を開いた。
「今はまだあなた方に、総ての真実を告げることは許されていません。今はまだ正神の神様を天の岩戸に押し込め奉ったままで、呪術の豆まきをして、しめ縄を張り、雑煮を食している時代ですから、何から何まで言うことはできないんです。特にあなた方がヤマト人と呼んでいる人たちは、超太古の真実の歴史を抹消しようと躍起になっていますからね。いずれ全世界の方々に、重大因縁が説き明かされる時が来るでしょう。今私にできることは、その秘め事の謎をさらに秘めた歌を皆さんにお教えすることだけです」
人々はいぶかしげな顔をしたまま黙って互いの顔を見合わせていたので、イェースズは笑顔で急に立ち上がった。
「先ほどお話のあった、クナトの神様の磐座に参拝させて頂きたいんですけど」
我にかえった村びとたちはそれを快諾し、イェースズを案内してくれた。ちょうど村の裏山の上あたりに、こぢんまりと磐座はあった。それは、いくつもの巨石が林立しているものではなく、ただ一つの岩が祭られているだけだった。それでも、かなりの霊圧をイェースズは感じた。それに参拝しながら、イェースズはこの神様によってこの地に導かれたのだと実感した。
「こちらの神様が、天照スメ大神様と国祖の神様の御神殿をこの地にお迎えなさりたかったのですね。この磐座はその御神殿の奥宮となるでしょう」
イェースズは先ほど書いた神護目紋を、いちばん近くに座っていた男に渡した。
「これからはこの神紋をこの奥宮の紋とされてて、長く斎き奉って下さい」
人々の間に、やっと歓声が上がった。
それからとういうもの、イェースズが海辺の岩穴から外へ出歩くたびに、子供たちは相変わらず「赤猿のおじちゃん」だったが、大人たちからは「猿田さん」と呼ばれるようになり、イェースズはすっかり地元に溶け込んでいった。
そしてそのまま秋風を感じるようになったが、イェースズは毎日遊んで暮らしているわけにもいかなかった。ここでもやるべきことはある。それは二つの神殿を勧請しただけで終わる使命ではない。それは、この地にも霊的バリヤである「フトマニ・クシロ」の結界を張り巡らせることだった。その中に天照大神と国祖神の神殿が入ることになる。そのための結界で、今後二千年以上にわたって重要な霊的意味を持つことになるはずだとイェースズは確信していた。それは確信にとどまらず、実は御神示でもあった。今はもうかつてのように異次元に魂が引き上げられて直接心に響く声での、あるいはこの世に生活していて肉の耳に聞こえる形での御神示は降らなくなったが、すでにイェースズの心に浮かぶことがそのまま御神示になるという神との一体化の境地に達していた。神を上、人を下にして、隔絶した存在として認識しているうちは到達し得ない境地で、神が先で人は後ではあるが、人には神が内在されており、その魂は本来は総て御神霊の霊質をひきちぎって入れられた神の分魂、分けみ魂で、それこそが真我であるとサトり得てはじめて心に浮かぶことが御神示となる。実は昔からそういう形でも御神示は降っていたのだが、一点でも魂の曇りがあるうちはそれが御神示だと気がつかないのだ。
その御神示に基づき、イェースズは神呪を唱え、霊線をつなぎ、また手をかざして霊的火柱を打ち立てて、フトマニ・クシロの修法を行って歩いた。
修法は、数ヶ月を要した。
なし終えた頃は、相当風が肌寒く感じる頃になっていた。それでも、イェースズの心の中には、北の国に帰るということは具体化されなかった。土地の人とも、もうすっかり慣れ親しんでいる。
北風が吹くようになって、初めてイェースズは北国を懐かしんだ。ヌプとミユは、もうすっかり似合いの夫婦になっているだろう。やがてこの地にも冬が来る。ここはそうでもないだろうが、北のコタンは雪に閉ざされて帰れない。そこでイェースズは春になるのを待ち、いよいよヌプやウタリのもとへ帰ろうと思った。そして、それまでの冬を、イェースズはこの土地ではじめて親しくなった子どもたちのために使おうと考えた。
すでに歌も教えた。遊びも教えた。集まってくるたびにパワーも放射し、また言霊で光を与え、魂をも浄化した。だが、具体的に形残るものといえば、子どもたちに対しては玩具がいちばんだった。そこでイェースズは修法に代わって早朝に竹を採集し、それを切ったり削ったりして子どもが喜びそうなおもちゃを一つ一つ作っていった。ローマやギリシャで流行っているものも取り入れた。大工の息子であったイェースズは手先も器用で、あっという間に相当数の玩具を作り上げた。
すでに穴居の外は木枯らしが吹きすさぶようになった頃、予定していた数が完成した。あとは、どうやって配るかだ。そう思っていたある日、村人がこの地方は冬になっても雪など降らないと言っていたのに、珍しく雪が降った。今日だと、イェースズは直勘した。それは、内在の神からの神示でもあった。おもちゃが詰まった白い袋を背負い、赤猿よろしく赤い服をまとって、イェースズは新雪に足跡をつけて回った。そして、子供の住む穴居の前に、一つずつおもちゃを置いてまわった。イェースズの体は高次元のパワーに包まれまるで宙を飛ぶように足は動いた。信じられないような速さで、イェースズはおもちゃを配っていく。赤い帽子からはみ出した髪の毛と髭に雪が積もり、まるで白髪の老人のようになってしまったイェースズは、吐く息も白かったが寒くはなかった。
瞬く間に、白い袋いっぱいのおもちゃを配り終わった。日の出にはまだ間がある。
イェースズはそのまま、川沿いに歩きはじめた。もう、戻らない決心だった。しばらく行って、右手の水平線から朝日が昇った。イェースズはその太陽に一礼した。今ごろはもう子どもたちも起きて、穴居の前のおもちゃに気づいているだろう。そして聡い子は、それがイェースズの贈り物だとすぐに察するはずだ。そして二度と自分の姿を見つけないことを、村びとたちも気付くだろう。自分の存在が伝説になるか忘れさられるか、いずれにせよ子どもたちが成長したあとに、カケラでも思い出してくれればいいとイェースズは願っていた。
まずは神殿でヤマト姫に別れを告げ、それから海岸沿いを北に歩くうちに、すぐに小舟は見つかった。所有者もいないようなので、イェースズはそれを拝借することにした。彼は舟の上で帆をいっぱいに張って風を受け、船は海流に乗って北東へと進んでいった。
何日かたって、神々しい霊峰が、雲間に雪の冠を見せはじめた。その頂からは、もうもうと煙が立っている。
イェースズはその不二の霊峰をじっと見つめ、胸が高鳴るのを感じた。
十数年前、この山の麓で暮らしたこともあった。今、舟の上から見るこの山は、今回のこの国に戻ってから初めての再会だった。
宇宙大根元の神様のご威光を受け、実際にこの天地と万物万生そして人類を創造された国祖の神、天の御父である国万造主大神は神幽られる時には、龍体をまずイェースズとヤマト姫が舟で渡ったあの大きな湖に沈め、次いで艮の方角へと神幽られ、イェースズの住んでいた北の国のトー・ワタラーの湖に遷られ、そして最終的にイェースズが訪ねていった真主の湖に鎮まっておられる。だが、その国祖の神様がこの地上に肉体神としてお出ましになったのが国常立の天皇様で、その国常立神様は神幽られる時、その御神魂を不二の山の頂上に置かれたのである。それにふさわしい、威厳のある山だ。この雄大な山でさえ、国祖の神様の御神魂からしてみればご窮屈でいらっしゃるだろう。
そのようなことを考えながらイェースズはただ申し訳なく思い、また、いつの日か国祖の神様が不二の峰からお立ちになれらる時に思いを馳せた。それは天意が転換し、いよいよ天の岩戸が開かれる時、世の大建て替え大建て直しのために、国祖の神様がこの不二の峰よりお発ちになるのである。そうイェースズは強く念じて、祈りを捧げた。
何十日かの航海で北上するにつれ、日ざしも軟らかくなってきた。今までと違って海流に逆らって進むので、風だけが頼りだった。そして岩浜に無数の白い鳥が群れ飛ぶ光景にも出くわした。崖状態の海岸で岩浜が続いたあと、松林が砂浜に沿って延びていた。
見覚えのある景色に、イェースズはすぐにそこがかつて上陸したタネコがある所とすぐに気付いた。
ついに帰ってきた。ヌプ、ウタリ、父、そしてスクネやミユの笑顔までもがイェースズの頭の中でちらつき始めていた。