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イェースズとヌプ、ウタリの三人はエルサレムを後にしてからサマリヤをぬけ、カイザリヤへと向かっていた。そして五日目にして、ようやく大海が見えてきた。そこから船に乗って、西へと赴く。それが、フトマニ・クシロの霊的バリアを張り巡らすために、どうしても必要な旅程だった。
いよいよユダヤから離れることになって、エルサレムでの出来事がうそのように思い出になりつつあった。旅の最初にエルサレムの城壁が視界から消えたその瞬間、それまでの自分、それまでの生活と遮断された感じがした。
カイザリヤの町はかなりの人口のちょっとした都市で、まさしくヘレニズム文化の入り口という感じだ。巨大な円形劇場、アーチ上の柱に支えられながら延々と北へ続く高架上の水道橋、それらは皆先代ヘロデ大王の建築である。ローマ人、ギリシャ人も多くいる港町で、普段はローマ知事が常駐しているが、ピラトゥスはまだエルサレムから戻って来ていないようだった。
もう、ここまで来れば、イェースズのことを知っているものはほとんどいない。それでも潮の香りの町を歩きつつ、ふと使徒とすれ違うような錯覚に陥った。
夜、宿でイェースズは、紙の地図を広げた。この地方だと紙は貴重で、たいていがパピルスや羊皮紙であるが、イェースズが広げた地図は本当の「紙」だった。だからそれは、この地方のものではないことは自明だ。
「これは、君たちの故国、霊の元つ国の地図だよ」
ヌプもウタリも。目を丸くした。おそらく彼らは、自分たちの国を上から眺めた地図というものを、初めて見たのだろう。
「僕たちの国は、こんな島なんですか?」
ヌプがそう言ったが、その認識とて彼らにとっては新鮮なもののようだった。そこには龍のような形をした島が描かれ、その中央部にはいくつかの点が打たれており、その点と点を直線で結ぶという幾何学的な図形も描かれていた。
「さあ、これから行く所を説明しよう」
二人とも、思わずきょとんとしていた。故国の地図とこれから行く所との関連性が、彼らにはつかめないようだ。イェースズはそんな様子を見て笑った。そして、もう一枚の紙を取り出した。
「これが、この世界のすべての国の全体図だ」
そこには円形の中に、地球上のすべての大陸が描かれていた。ヌプたち二人は、さらに目を丸くした。
「太古から伝わるものだよ。ミコ様から頂いたんだ」
「どうして昔の人は、こんなふうにすべての土地の形が分かったんですか?」
ウタリが目を上げて、イェースズを見て尋ねた。
「大昔はね、空を飛ぶ船があったんだよ」
笑って答えるイェースズに、二人はもうぽかんと口を開けていた。イェースズは一段と笑った。
「ここがエルサレム。そしてここがあなた方の国」
「僕たちの国って、こんなに小さな島なんですか?」
そのウタリの問いには目で笑っただけで、イェースズは二枚の地図を並べて示した。
「この二つの地図を、よく比べてごらん。似てるだろう?」
「あ、ほんとだ」
声を上げたのは、二人同時だった。
「あなた方の国は、全世界の大陸をぎゅっと縮めた形なんだ。つまり、世界の霊成型なんだよ」
自分たちの国が島であったことに今さらながら驚いていた二人なのに、目の前につきつけられた事実にはもう言葉が出ないようだった。
「世界の地形のもとになっているだけじゃない。全世界の人類発祥、五色人創造の聖地、霊の元つ国こそがあなた方の国だ」
「そうか」
ヌプが先に声を上げた。
「ここに来る出発前にミコ様から話を聞いたフトマニ・クシロは、この点と点を結んだ線なんですね。それを、二枚の地図を重ねて、同じ対応する位置に世界においてフトマニ・クシロを結ぶ」
「その通り!」
イェースズは嬉しそうに笑んでうなずいた。
「さすがはしっかりとミコ様から教えを頂いてから来ただけある。この線通りにミコ様は、すでに霊の元つ国において霊的な網を張って結界を結び、霊的砦を築いて下さっているはずだ。それを世界に拡大する。この霊の元つ国の地図を見れば、これから行くべき所が分かる。まずは西へ行く。この港から船出だ」
いよいよイェースズは、ユダヤから離れることになる。
乗船の交渉は、すんなりといった。イェースズがギリシャ語に堪能だったことが、大きな利点だった。ギリシャ在住の商人ということで、イェースズたちはギリシャ行きの船に乗り込んだ。ユダヤ人でもギリシャ語さえ話せば、離散ユダヤ人として通る。そういった人々の中には、ローマの市民権を得ているものすら多い。
いよいよ出航だ。イェースズがこの港から船出するのは二回目で、前は故国に戻って来たばかりの頃、エッセネの老尼僧サロメとともにエジプトに向かうためだった。そして今、イェースズはここを起点に長い旅に出ようとしている。雲ひとつない晴天の下、順風を受けて純白の帆は張られた。すぐに船は速度を上げて陸地を離れた。ユダヤの大地が見るみるとおくなり、カイザリヤの町も点になった。これから一気に大海を横断するのである。とにかく交渉や荷造りで乗船するまで火のついたような慌しさだったイェースズは、船が沖に出ると甲板で一気に寝込んでしまった。目覚めた時には、周りすべてに陸地は見えなかった。あっけない故国との別れだった。今自分がいるのは大海で、決してガリラヤ湖ではないのだという感傷が少しだけイェースズにはあったが、すでに故国への執着は持ってはいなかった。
船が最初に寄港したのは、船中に八泊してからだった。海はどこまでも紺碧の海で、それも透き通る青さだった。そして見えてきた陸地も緑の大地で、まぶしい光の中にある町は完全に異国の町だった。白い壁の家が斜面に立ち並び、人々の服も白い。だから余計にこの町を輝かせている。
船が着くとすぐに人足がどっと出て、荷の積み下ろしで港はごった返した。
「今がいちばんいい季節ですぜ、だんな」
船べりでイェースズの隣にいた頭の禿げた商人が、イェースズにギリシャ語で話しかけてきた。イェースズも微笑を返して、
「ええ、雨季も終わりですね」
と、ギリシャ語で答えた。
「そうさな、夏の乾季までの間は、花も緑もいちばん美しい季節だで。だんな」
イェースズがまた微笑を返していると、後ろからウタリが顔を出した。
「ここで降りるんですか?」
「いや、またここから西へ、海をもう一つ渡った所にあるアテネという町に行くんだ」
「それがこの国の都?」
「まあ、昔はそうだったけど、今は全部ローマの領土なんだよ」
そう言いながらも、とりあえず三人は上陸してみた。町を行きかう人々の顔はもうユダヤの人とは全く違い、ローマ人と同じ鼻が高く白い顔をしていた。その話し声を聞くと、それはすでにギリシャ語だった。今までギリシャ語というと地中海諸国の公用語であって、皆それぞれの自国語を持っていた。当然、日常用語はその自国語だ。だがここには、確実にギリシャ語を日常用語にしている人々がいる。あたりまえといえばあたりまえだが、ギリシャ語は公用語である以前にギリシャという地方の言語なんだということが、いやでも実感できた。
船に戻り、この港で停泊したままの船で一泊したあと、翌朝船はまた出航した。船は小さな島と島の間を縫うようにして西に進み、時には狭い海峡を通過したりもした。そしてさらに五日ほどして、大きな都市の港へと船は吸い込まれていった。その時は夕方で、都市は炎のように真っ赤に燃える夕日に輝いていた。都市は半島の西側にあるので、西日をまともに受けて町全体が燃えているように見えたのだ。
一行は上陸し、夕日に輝く町を前に、港にて三人とも立ちすくんだ。家という家がユダヤのように石を積み上げただけのものではなく、すべて白壁に塗られている。ツロもカイザリヤもギリシャ風の町ではあったが、ここまで徹底してはいなかった。町の中央には箱を伏せたような切り立った崖の丘があり、巨大な神殿がその上に乗っているのが見える。何本もの図太い円柱の柱が屋根を支えている石造りの神殿は、エルサレムのそれとは完全に構造が違った。丘のふもとには観客席が半円形になっている野外劇場と音楽堂が二つあるのが、遠目にも見えた。丘の斜面を使って造られたそれらの劇場は、いちばん低い所が舞台となっている。エルサレムにもこのような野外劇場はあったがそれは真似もので、その原型の本物がここにあるのである。
三人はとにかく、人ごみの中を歩いた。ここではヌプやウタリだけではなく、イェースズまでもが異邦人なのだ。
「先生、宿を探しますか?」
と、ヌプが言ったものの、言葉が分からない彼らにとってはイェースズだけが頼りだった。
「いや、この町に友だちがいるから、それを探すんだ」
「探すって言ったって、こんな大きな町で……」
ウタリがいぶかったが、
「大丈夫、すぐに見つかる」
と、イェースズは笑って言った。
町の中央の丘の近くに広場があって、そこは市場にもなっているようだ。エルサレムでは絶対なかったこととして、広場の入り口にはいくつもの神像が立てられていた。その広場に集まっている人たちにイェースズは先ほどヌプたちに言った「友だち」について尋ねると、最初に聞いた人ですぐに分かった。
「ああ、あの方ですね」
イェースズの友人とは、よほど有名な人らしい。こんな巨大な都市で、訪ねる人がすぐに分かったのだ。
「アポロなら、アレオパゴスにおります」
「アレオパゴスとは?」
「このアクロポリスの向こう側の丘が、アレオパゴスです」
巨大な神殿のある丘はアクロポリスというらしく、垢抜けした男が事務的に指さしたのはその向こうのやはり切り立った岩山で、アクロポリスよりは低い。丘というより、岩の固まりのようだ。岩は灰色で石灰岩のようであり、その上にも何やら建物も見えた。
イェースズは礼を言って急いで広場をあとにし、そのアレオパゴスに向かった。もうかなり夕闇が、濃く迫りつつある。イェースズはヌプたちをつれて、一気に大きな岩をよじ登った。建物は神殿というより集会所か何かのようで、二十人ばかりの人がいた。だが、広場にいたような人々とは違い、そこにいたのは市民というより気位が高そうな服装で、どうも哲学者たちのようだった。どうもここは、そういった哲学者たちの討論の場でもあるようだ。
その中の一人がイェースズを見つけて、驚いたような顔で近寄ってきた。
「も、もしかして、ユダヤのイェースズ!」
「おお、アポロ、こんなに早く見つかるとは」
イェースズはニコニコして言った。だが、アポロと呼ばれた若い男は、ただただ目を丸くしていた。
「本当にイェースズなのですか? 本当に?」
「そうですとも」
しばらくぽかんと口を開けていたアポロだったが、すぐにぼそぼそと話し始めた。
「あなたはエッセネを離れて別教団を作ったのに、この間亡くなったという知らせを聞いたのですが」
「私は別教団なんて作っていませんし、こうして生きていますよ」
「じゃあ、全部うその情報だったんですね。よかった。心配していたんです」
やっとアポロの顔も緩んだ。
「エジプト以来ですね」
年格好はイェースズと同じくらいだが、髪の毛が少々薄い。アポロといえば、この国では太陽の神をさす。その名を名乗っているというのだから、よほどの聖賢のはずである。
「みんなに紹介しましょう」
アポロはイェースズを、哲学者たちの所につれていった。
「皆さん。この方は前にエジプトで、私と共に学んでいた人です。私のエッセネの兄弟で、お名前はイェースズ。ヘブライ語ではヨシュアといいます。イスラエルの聖賢です」
「聖賢だなんて」
そう言って笑いながら、イェースズは人々に会釈した。
「ちょうどわれわれは今、真理について語っていたところなんです。よかったら、我われに何かお話をしていただけませんか」
アポロがそう言ってしきりに勧めるので、そこにいた哲学者たちも拍手でイェースズを迎えた。哲学者というと頭が固そうなイメージがあるが、見た感じはエルサレムの律法学者などよりもずっと柔軟性がありそうだった。そしてこの国の人は好奇心が旺盛で、新しい物や珍しいものには飛びついて興味を示すようだった。イェースズはアポロに、人々の真ん中に引いて行かれた。
「この方はエジプトのピラミッドで行われた聖賢試験に、ことごとくパスされたお方なんです」
人々は、一斉に歓呼の声を上げた。
「それでは僭越ながら、私がこの国に参りまして感じたことを少しお話しさせて頂きましょう」
と、イェースズは口を開いた。あとは頭の中を真っ白にして、どういう言葉が口から出るかは神様任せだった。哲学者たちは身を乗り出すように、イェースズの言葉を待った。
「私がこの地に来させて頂いたのは、わけがあります。この地上の何ヶ所かに、神様の世界に届く目に見えない火柱を打ち建てる必要があるんです。それで、このアテネこそ、それにふさわしい場所だと思うんです」
人々はイェースズのひと言ひと言に、うなずいて聞いていた。
「この国には哲学、芸術、建築などあらゆる文化が育ちました。政治的には今はローマの支配下にありますけれど、文化はむしろギリシャがローマを支配したといってもいい」
人々の間で、また拍手が起こった。外はもうかなり暗く、集会所の中に篝火が何ヶ所かにともされた。
「私はここで、哲学の話をするつもりはありません。哲学に関しては、皆さんの方が専門家でしょう。私がこれまでイスラエルの地で人々を導くために語ってきたことは、もっと内なる神理、霊的な法則で、それこそが人々を真に救いに導くミチなんです。申し訳ありませんが、哲学で人は救えないんじゃないでしょうか」
「人を救うとは、どのようなことですかな?」
一人の哲学者から、質問が出た。
「はい。それは、魂の救いですよ。救いこそが私の使命であります。皆さんは今、真理について語っておられたということでしたね。真理とは神の置き手、天の律法であり、真理の峰は一つしかありません。真理は一つであり、世界は一つであり地球の底も一つ、人類の先祖も一つということに他なりません。人類界は、長い間孜々営々として一つしかない真理の峰を希求してきたのではありませんか。例えばそれは神々の住むというオリンポスの山に登るようなものであって、ある人は南からオリンポス山に登り、またある人は北側から登るかもしれません。それぞれがこの国でいちばん高いオリンポスの高みを目指して登ってみれば、高嶺の一角に合流するのであります。山頂の峰に立ってみれば神の光陽光燦々と輝きて、遠く下界を存分に見渡すことができるでしょう。然るに山頂に辿り着く前に中腹で議論が始まり、喧々諤々と興じている間に雲が出てきて周りは見えなくなり、迷妄の雲の中で右往左往していたのでは真理の峰に辿り着くことはできなくなってしまう。今世の人々は真理を求めて五里霧中の中で迷いよろめいている登山者のようです。議論に明け暮れる暇があれば、まず山頂を目指さなくてはならない。真理の峰に立てば、陽光燦々と輝きて美しい下界を共に喜び合って眺めることができるでしょう。このように真理の峰は一つであり、思想や哲学を超えています。目の前の迷妄の雲を払ってしまえば、太陽が輝き全貌が明らかになっていくことをサトらなくてはなりません。私はしばらくこの地に滞在しますから、もっと皆さんといろいろとお話がしたいですね」
「おお、せひ」
「これは今までに聞いたこともない、珍しい話だ」
哲学者たちはイェースズに、意外に好意的に接してくれた。
「決して私は、皆さんの哲学というものを否定するつもりはありませんよ。ただ、もっと奥深い、心というものよりもさらに奥に霊的な世界があるということを知ってもらいたいんです。心というものは、目に見えるものしか解決できないんです。五官に振り回されていては、永遠なる霊の世界は体得できないでしょう。五官のような肉体ではなく、あくまで目に見えない霊の方が主体なんですよ。皆さんの哲学と霊的法則を十字に組めば、すごい智慧となると思うんですけど」
哲学者たちはしばらく反応するのも忘れ、ぽかんと口を開けていた。しばらくたってから、ようやく人々の間でまた拍手が起こった。
「いやあ、おもしろい話だ」
「ぜひゆっくり滞在なさって、ここでまた我われと語りましょう」
イェースズは哲学者たちが好奇心からにせよ、すんなり自分の話を聞いてくれるのが嬉しかった。同胞であっても自分に敵意しか向けなかった律法学者とは、雲泥の差だ。
その晩はヌプやウタリとともに、イェースズはアポロの家に泊まった。そして勧められるまま、その家にそのまま逗留することにした。
それから毎日イェースズは、アレオパゴスの集会所で哲学者たちと問答するのが日課となった。この集会所は教養のある評議員たちが集まるアレオパゴス評議所という法廷で、ここに集まっているのは貴族たちであり、ここはそういった貴族や哲学者が政治や宗教、文化などについて討論をする場所であった。また、新しい哲学や宗教を伝える人に関して、その内容を吟味する場所でもあったのである。
この地は気候も穏やかで、よく晴れていれば丘の上から海が見え、その青さは今までイェースズが行ったことのあるどの地方の海よりも青く感じられた。
イェースズと話をするために集まってい来る人々は、哲学者だけでなく貴族らしき人も増えていった。中にはイェースズを新しい宗教の導入者と見て、この評議所で吟味しようという意図でやってくるものいて、イェースズはすぐに想念を読み取ってそのことを知ったが、ほとんどがイェースズの話を聞くうちにそれに感化されていった。
そんなある日、イェースズがいつものように人々と評議所の中で話していると、血相を変えて駆け込んできた男がいた。
「デルファイ神殿で、ご神託が下っています」
それを聞いてアポロがイェースズの話をさえぎり、
「あなたもご神託をご覧になりませんか?」
と、イェースズに聞いた。
「ご神託?」
「御神霊が時々、神殿に仕える女に降って御神示を下さるんです」
「そういうことがあるんですか」
イェースズは、その事実には驚かなかった。ただ、この地ではよくそういうことがあると聞いて興味を持った。イスラエルの地ではあり得ないことだ。ユダヤは一神教で、天地創造の神おひと方しか神を認めない。そんな天地創造の神が人間に憑かるはずはないし、そのような事例があったにせよユダヤの唯物医学は単に精神異常と片付けてしまう。
「ご同行しましょう」
アポロにそう言われて、イェースズはその現場を見たいと思った。彼自身これまで何度も神霊に遭遇しているし、御神示も戴いている。しかし、人の肉身に憑かる霊とも会話してきた経験上、邪神邪霊、挙げ句の果てには動物霊までもが高級神霊の名を騙って人の肉身に憑依してしゃべることがあるので、気をつけねばならないことを知っている。そういうのに騙されると、危険な霊媒信仰に陥りかねない。だから、デルファイの信託というのもその類ではないかどうかを確認しなければいけないと思ったのだ。もしそうなら、人々を危険から救う必要がある。だからイェースズは、アポロに同行を希望した。
イェースズは最初、そのデルファイの神殿というのがアテネの町の中にあるものだとばかり思っていた。しかし聞けば、アテネの北西の方へ約五日の距離にあるという。そうなると、エルサレレムからガリラヤまでの距離に等しい。だが、ご神託がいつまで続くか分からないので、ヌプとウタリはおいて、イェースズとアポロの二人で馬を飛ばして行くことにした。そうすると翌日には着けるという。イェースズたちは、すぐに出発した。
しばらくは海沿いの道を走ったりしていたが、やがて緑の森に覆われた丘陵地帯へと道は入っていった。この国は国土が狭いながらも山がちで、平地は少ない。だが、そう峻険な山があるわけでもなかった。丘陵地帯をぬけると、道は高原の平らな耕地の中を進んだ。ガリラヤからエルサレムまでと同じ距離とはいえ、その間に砂漠や荒野はなく、道も整備されているだけに進むの速かった。
やがて二日目には、道は山道となった。深山幽谷へと進んで行くうちに、デルファイに着いた。デルファイの町は山の上にこびりつくようにして乗っており、神殿は町からは少し離れた山の中腹にあった。背後の岩山に抱かれるように、秘境ともいえるその神殿は神秘な気がみなぎっていた。
「汝自身を知れ」と刻まれた門を入って石畳に舗装された上り坂の参道を歩き、いくつもの神像を見ながら大きく右に折れると神殿があった。太陽神アポロを祭る神殿だという。やはりいくつもの太い石の円柱に屋根が支えられているもので、神殿の下は半円形の野外劇場だ。斜面を利用して観客席が造られ、舞台は下の方にあった。神殿の上の方には、競技場があるという。ここは、世界のへそなのだと、アポロは着く前にイェースズに説明していた。
神殿には多くの市民や神官、学者が集まり、互いにざわざわと論じ合っていた。誰もが興奮している様子だった。かつてはこの神殿で、よくアポロ神の信託が降っていたという。神殿の屋根の下の中央に一人の少女が白い寛衣を着てすわっていたが、それが依代となる巫女なのだろう。長いブロンドの髪の少女は、目をつぶってうつむいていた。アポロとイェースズは人ごみを分けて、その少女の前に出た。途端に少女は目を閉じたまま、顔を上げた。
「アポロ!」
少女の口が動いた。太陽神を呼んでいるのか、イェースズと一緒に来たアポロを呼んでいるのか、それは分からない。ただ少なくともその口調は少女のそれではなく、威厳に充ちていた。
「月の世は終わりを告ぐるぞよ。アサになるぞと申しておろうが。デルファイの太陽のアポロはやがて月に当たりて月の世は突き当たり、天炎呂の世が来るのじゃよ。正神真神、岩戸開くぞ。そうなれば人々は、デルファイの声を聞く必要はなくなるのじゃ。今は木や金や宝石にて神の光を現しておるが、これからは違うぞ。人を使うのじゃよ。こう申すは、ユラリヒコの神」
イェースズは霊眼を開いた。少女に下った神霊とは、本物であった。そしてイェースズには、その御神霊の御名までもが分かってしまった。月の系統、水の系統の副神でも、ましてや邪霊でもない。天地を創造された天の御父、国祖の神に直に従う大天津神様、すなわち正神、火の系統の神様であったのだ。
「まずは、インマヌエルに聞け! インマヌエル、この地に来られたのじゃよ」
それだけ言うと、少女は大声で「おお!」と叫んで地に伏した。それと同時に、御神託を下した御神霊とイェースズの魂は瞬時にして交流交感していた。国祖の神の股肱であったその御神霊は、超太古の天の岩戸閉め、国祖ご引退によってこのギリシャの地の霊界に隠遁された。しかし、「ろ」の国、すなわち現界的にはヨモツ国といわれるこの地の霊界は、副神の親玉の神が君臨し、その配下にある金毛九尾や八尾狐を率いて磐石に構えている。そして霊の元つ国の霊界さえ狙っている有様であったが、御神霊は隠遁の身であって表立っては何もできず、そこでこの地の人々を愛し、あらゆる文化、技術を発達せしめて、それが副神の支配するヨモツ国においてもその科学技術や文明が他を凌駕するように仕組んできたのである。この国の文化は、小国であるが今後全世界の文明に影響を与えるはずである。
こういった正神の神の隠遁する地であればこそ、第一に火柱を立てなければなかったのだ。イェースズは早速この地の霊界に両手をかざして、霊界を浄めた。そして目には見えない火柱を立てていった。
イェースズとともにここまで来た友人のアポロは、御神託の様子を見てイェースズの顔をのぞきこんだ。
「今、語っていたのは……」
「神々様のおひと方でしょう」
「あなたはユダヤ人なのに、異邦人の神を信じるのですか?」
「本当の神様には、異邦人も何もありませんよ。すべての人類に共通の祖神様はおひと方です。でも、この絶対神をユダヤ人は崇めますけど、その神様の下に眷属の神々が多数おられます。これが神霊界の実相なんです」
それだけ言ってイェースズは、ニッコリと笑った。
それから数日間、いい天気が続いた。夏になると雨はぐっと少なくなり猛暑となるが、乾季となってからっとしていて過ごしやすい。もっとも、冬の雨季でもこの国では、それほど多くの雨は降らないということだった。だが、夏になったばかりの頃はごくたまに嵐がこの国を襲うこともあるということだが、ちょうど話に聞いたその嵐の日の夜に、イェースズはアポロの家で漁船が転覆しそうになっているという知らせを受けた。
イェースズはすぐに飛び出して、嵐の中を海岸へと走っていった。知らせを聞いたのは夕刻だったが、海岸に着いたらもうすっかり暗くなっていた。浜では篝火が炊かれていたが、それを激しく雨が殴ってはいた。寄せる波は、人の背丈よりも高くはなかった。転覆した船は案外海岸の近い所でその腹を見せ、多くの人がそれにしがみついて大声で助けを求めている。なんとか救助の船は出せそうなくらいの波の高さで、そのためにちょうどよい漁船もいくつも浜にはある。人も浜辺には大勢いた。
だが、驚いたことに、誰も救助の船を出そうとはしていなかった。もし人々がそうしていたのなら、イェースズが知らせを聞いてここに駆けつけるまでの間に、とっくに転覆した船の人々は救助されていたはずだ。イェースズは当然そうだと思っていたので、救助された人の中に救いを求めている人がいるのではないかと思って駆けつけたのだ。ところが、なんとまだ転覆船は救助されされていなかった。多勢いる人々は何をしているのかというと、雨の中に海の神ポセイドンの神像を持ち出し、それを囲んで一所懸命拝んでいるのだ。像は雨ざらしとなって、無言で宙を見つめていた。
イェースズはヌプとウタリに命じて、そのへんの船を沖にと漕ぎ出させた。そしてイェースズ自身がそれに飛び乗り、ヌプとウタリは大波を避けてうまく船を操った。そしてすぐに、転覆している船に近づいた。岩場に乗り上げているようで、岸からそう遠くはない。もし嵐でなく穏やかな海だったら、十分岸まで泳いで戻れるほどの距離だ。
イェースズは肉体をエクトプラズマ化させ、海の上に飛び降りるとそのまま波の上を歩行して溺れている人たちに近寄り、一人ずつ手を引いて自分が乗ってきた船へと押し込んだ。
イェースズたちが戻ると、やっと神像を拝んでいた人々は拝むのをやめ、イェースズの周りに群がってきた。それには構わずイェースズはヌプたちに手伝わせて、溺れていた人々を介抱した。水を飲んでいるものは胸を押して水を吐かせ、口移しに息を吹き込んだりもした。また外傷がひどいものには手をかざし、その傷をみるみる塞いでいった。ひと通りそれが終わった頃、嵐も小康状態になった。イェースズは大きく息をついた。そしてようやく、群衆が自分を取り囲んでいるのに気がついた。イェースズは厳しい表情を彼らに向け、大声で言った。
「皆さんは神様の力を信頼していた。それはいいことだと思います。でも、それしかすることはなかったのですか!? 石の神像を拝んで、それで少しでも嵐がやみましたか?」
人々はいきなり現れた異邦人の顔の男に戸惑ってざわついていたが、その剣幕に圧倒されて言葉をのみ込みはじめた。イェースズの口調には、ますます力が入った。
「この雨ざらしの石の像のどこに、嵐を鎮める力がありますか? この像の頭にハエ一匹とまっても自分ではどうすることもできない像に、何ができるというのですか? もちろん、あなた方の信仰を否定するつもりはありません。あなた方がこの石の像で表された海の神を信じ、それを拝むのはいいことです。でも、目に見えない本当の神様のみ力は、人間が与えられた力を十分に使ってやるべきことをやった時に、はじめて手を差し伸べて下さって足りないところを補って下さるのです。与えられた力を出しきらないで、ましてや今のように何もしないで、『神様、お願いします。神様、お願いします』じゃ、だめなんですよ。天井に向かって、パンが落ちてくるのを期待して口を開けて待っているようなものです」
人々はまだ、沈黙したままだった。イェースズは幾分口調を和らげて、続けた。
「人が神様から与えられた力を出しきった時に、神様は救いの手を差し伸べて下さるのです。もちろん、人間の力が万能だとうぬぼれてはいけませんけどね。いいですか、これはあなた方が好きな哲学などではなくて、神様の霊的な法則なんですよ」
イェースズは間を置き、またもう一度人々の顔を見わたした。何人かは感じるところがあったようで、頭をたれている。さらにイェースズは話を続けた。
「今日はこうして私が駆けつけて何人かを助けさせて頂きましたけどね、あなた方が像に祈っている間に、助ければ助かる人まで溺れて死んでしまった可能性はあるんですよ。神様は、この世のことは人間に任せておられるんです。救いを現すにしても、人間の体を通してなんです。神様の世界には神様の世界のやり方、この世にはこの世のやり方があって、同じではないんです。その神様を拝むのなら最高の捧げものをするべきで、それは同じ神の子である兄弟である他人を一人でも多く救う、これが最高の神様への功なんです。祈りは大切ですけど、祈っているだけでは神様はうるさいとおっしゃいますよ。祈ったら、行動に出ることが大事です。あなた方が隣人にしたことを、神様はして下さいます。隣人に何もしないで祈っているだけでは、神様も何もして下さいませんよ」
イェースズはそこではじめて、笑顔を見せた。それによって、人々の心も少し和んだようだ。
「おお、あなたは」
人々はそう口々に言って、イェースズに近づいて来た。
「あなたはもしかして聖賢アポロの友人で、アレオパゴスにいつもおられる方では?」
一人がそう言うのでイェースズはうなずいた。
「おお、素晴らしい。哲学以上の教えを、この方は持っておられる。しかも、分かりやすい」
イェースズは、ニッコリ微笑んだ。
「哲学は、難しいですね。でも、私が説いているのは、神様のミチです。真理とは本来は分かりやすいもので、聞いたらすぐ実践できるものなんです」
イェースズは微笑んだまま、人々が差し出す手をしっかり握った。
いよいよ、本格的な夏が訪れた。イェースズはそろそろこの国をあとにすることを、アポロに告げた。
「エルサレムに帰るのですか?」
「イェースズは首を横に振った」
「いえ、もっと西に行きます」
それだけを、イェースズは答えておいた。だが、それだけで十分に行き先は分かる。ギリシャより西で、わざわざ行くような所といえばローマしかない。イェースズは、大帝国の都は見るべきだと思っていたし、ユダヤを苦しめているその元凶の正体も見たかった。だがそれは、彼にとってかなり危険な旅になるはずだった。現界的にということではなく、霊的に今のローマの霊界を統治しているのは副神の神の親玉なのだ。ただの副神ではなく、多くの邪霊や思凝霊を配下にして、いつかは霊の元つ国の霊界をも掌中にせんとたくらんでいるあの女神なのだ。しかし、フトマニ・クシロの関係上も、どうしてもローマへは行かなければならない。
出発の前日、イェースズはヌプやウタリと共に、アクロポリスの大バルテノンに登った。石造りの図太い巨大な円柱が天に届けとばかり並んで、巨大な屋根を支えている。この丘の上からは、アテネの町すべてが見渡せた。イェースズはここでも火柱を打ち立てるべく丘の上から両手を町全体にかざし、このあたりの霊界を一気に明かなにした。
それからいつものアレオパゴスに戻り、人々に挨拶をした。
「私は子供の頃から世界のいろんな国を旅してきましたが、こんなに温かく迎えて下さった所はありませんでした」
何しろこのアテネの霊界には、正神の神様が隠遁されているのである。霊界も現界も、どこか光に充ちていた。
「私はここでいろいろな話をさせて頂きましたけれど、要は肉と骨と知力だけを頼るか、人の本源である霊的生命を重視するかです。皆さん、がんばって下さい。今この地には神の火柱が立ちました。といっても、それは目には見えませんし、それについて語ろうと思うと、私はここに骨を埋めなくてはならなくなる」
「おお、どうぞ。ぜひ骨をうずめて下さい」
初老の哲学者が、ニコニコとそう言った。イェースズはまたにこやかに微笑んで、続けた。
「皆さん、お互いにがんばりましょう。しっかりと霊が主体であることをサトって、哲学よりも奥深い、霊的なミチを極めて下さい。そうすれば神様はあなた方の楯となって下さるでしょう」
翌日の出発の日も、アポロはじめ多くの人が港まで見送りにきてくれた。そこでイェースズはまた、彼らに口を開いた。
「デルファイの信託は、もうないでしょう。今までは木や石の神像を通して神様はみ光を与えて下さっていましたけど、これからは直接、人間の霊体をお使いになります。やがてはイスラエルからも、私のそばにいた神の使徒たちがここに来る時があるでしょう。その時には、何分よろしくお願いします」
船はマルス号というローマへの直行便で、かなり大きな帆船だった。多くの商人やローマの市民たちと共に、イェースズはヌプやウタリと共に船上の人となった。帆が風を受け、錨が上げられた。やがて船は大海へと滑りだした。
航海は順調だった。また多くの島の間を縫って船は進み、ペロポネソス半島の南岸を旋廻して、船はイオニア海の横断に入った。そして出航から三日目、ウタリがどうも調子が悪いと言いだした。時折戻したりしている。顔は蒼白になり、全身がだるくて立てないようだ。イェースズは、付き切りでウタリの看病をした。ウタリが吐くと、「体内の汚い物を、どんどん排泄させて頂こう」とウタリに手をかざし、ウタリはそれでだいぶ楽になったようだった。
十三日目の朝、港にと船は入っていった。だが、大きな都市などその港にはなかったので、イェースズは不思議だった。
もうすっかり、本格的な夏だった。目指すローマは港から内陸に少し歩くということで、道理で港に大都市がなかったのだ。
やがて、イェースズたち一行はローマに入った。何もかもスケールが大きく感じられた。町の大きさ自体がエルサレムの何個分に相当するのか、計ってみないと分からないほどだった。エルサレムにいたらガリラヤは田舎だと感じるが、ここではイスラエルの地の全土が田舎となってしまう。なにしろ地中海沿岸すべてを統治する大ローマ帝国の都なのだ。
イェースズたちが目を見張ったのは、巨大建築群だった。宮殿、大浴場、競技場など、その一つ一つがすべてエルサレム最大の建築物の神殿よりも巨大で、しかもそれが町中に無数に点在している。たいていは入り口部分が数本の巨大な円柱に支えられた白亜の石造りで、二階建てどころか三階建て、四階建てもある。民家はギリシャのような白壁ではなく赤茶けた土造りで、どの家も傾斜のある屋根があった。
エルサレムで反ローマの戦いを企てて燻っている熱心党などがこの風景を見たら、自分たちがいかに無謀なことを考えているかと分かって尻ごみするに違いない。
人々の雑踏の中を三人で小さくなって歩きながら、ここは長居する所ではないとイェースズは思った。しかし、この地でも彼は、しなければならない霊的使命があった。
城壁は内と外の二重になっていて、内側は共和制時代のものだということだった。街道は見事な石畳で、軍用道路のようだ。外壁の門をくぐり、さらに内側の門をくぐると、すぐに視界を大競馬場が遮った。その背後が皇帝の宮殿で、そういった巨大建築の間におびただしい人々がいる。だが、すべてが市民とは限らず、肌の黒い奴隷もたくさん使役されていた。今、この町の宮殿の中に、ローマの皇帝のティベリウス帝がいる。そのローマ皇帝と同じ町にいて同じ空気を吸っているわけだが、イェースズにはそれ以上に重苦しくのしかかってくるものがあった。この町の霊界を支配しているのは、副神系統のいちばんの頭目の女神で、かつて天地創造の国祖神の隠遁を策謀したのもその神なのであった。何かに抑えつけられている感じと、監視されている感じをイェースズはぬぐいきれなかった。
ヌプとウタリはそのようなことは関係なく、珍しがってあちこち見物して回っていたが、とにかく宿を探さねばならない。ローマの人口はこの時すでに百五十万を突破しており、そのうちユダヤ人の数も数万人に上っていた。彼らは市内の数ヶ所に自分たちのユダヤ人街を持ち、会堂も建てていたが、帝政になってからしばしば弾圧の対象となった。彼らが、皇帝崇拝を拒否したためである。
イェースズは、あえてそのユダヤ人街には行こうとはしなかった。もはやユダヤという一民族にこだわるイェースズではなかったからだ。ローマ市民の日常語であるラテン語をイェースズは知らなかったが、不自由はなかった。相手がしゃべったことは想念を読み取れば分かるし、また日常使ってはいないにしろ、ギリシャ語が分かる人もだいぶいる。
市の西側をティベリ川が蛇行し、川向こうにも一部の市街は広がっている。そこがトラスティベリと呼ばれる市民の住宅地で、その中にイェースズ一行は宿を見つけた。このあたりはローマの先住民族のエトルリア人の居住地でもある。川は大河というほどではない普通の川だがちょっとした幅があり、橋が何本もかけられていた。それらは皆見事な石造りのアーチ橋で、ローマの建築水準の高さが伺われた。イェースズがこれまで見た最大の都市はシムの都のティァンアンであったが、ここはそれをも遥かにしのいでいる。
驚いたのは水道が発達していることで、水というのは川か井戸に女が瓶を持って汲みに行くものだというユダヤの常識は、ここでは軽く覆されている。だから市内は川から離れた所でも水が豊富で、到る所に噴水のある泉が見られた。どんな乾季でも、この都市の人は水には困らなさそうだ。そんな町でイェースズは、この地で自分が成し遂げなければならない霊的使命について考えていた。
ティベリ川は、市民たちの憩いの場で、恋人同士や夫婦で無数の小舟をその川面に浮かべ、午後の日ざしの中でそれぞれがのんびりとくつろいでいる。微笑ましい光景ではあるが、支配者の都と被支配者の都の差が歴然と感じられる。エルサレムには、決してこのような市民の娯楽の場はない。劇場も競技場も、進駐しているローマ兵のためのものだ。
ところが、その平和なはずのティベリ川で、騒動が起こった。ちょうどイェースズがヌプやウタリと共に、川岸を散策していた時だ。人々は大騒ぎして、一定方向に向かって駆けていく。
イェースズたちも行ってみた。人々が口々に騒いでいるが、言葉が分からない。そこでイェースズは、特に激しく人々に向かって事情を説明しているらしい男の想念を読み取ってみた。すると、小舟がぶつかって、そのうちの一つが転覆したということのようだった。ギリシャでも船が転覆したのだが、自分の行く先々よく船が転覆するものだと、イェースズはすぐに川へ飛び込んだ。だが彼は泳ぐのではなく、そのまま水面上を歩行して転覆した小舟に向かった。そして川に投げ出されていた若い男女を引き上げ、両脇に抱えてそのまま川面の上を歩いて岸まで戻った。目の前で起こった信じられない光景を目の当たりにした多くの人々は、ただただ言葉を失って体を硬直させていた。
岸に着いてからまだ状況がのみこめずにいる助けられた男女のうち、男がイェースズの顔をはじめて見た。そして、
「あ、あなたは!」
と、ギリシャ語で叫んだ。
「あの、ユダエアのエルサレムの神殿で人々の説法をされていた方ではありませんか?」
少なからず、イェースズも驚いた表情を見せた。
「エルサレムに行ったことがあるのですか?」
「はい、私はずっと千人隊としてユダエアに派遣されていまして、この間やっと帰ってこれたばかりです」
「そうですか」
イェースズも、旧知に再会したような喜びの笑みを見せた。
「あなたのお話を、私はずっと人々に混ざって聞いていたんです」
「アラム語が分かるのですか?」
「いえ、実はあなたのお弟子さんが、いつもわざわざ私にあなたのお話をギリシャ語に訳して話してくださっていたのです」
使徒の中にそういう気のきいた人がいたというのは、イェースズにとって驚きだった。ギリシャ語が分かるといえばトマスかマタイかピリポか、しかし今はそんなことを詮議してもしょうがない。
「でも、言葉は分からなくても、あなたのお話の波動というか、ものすごい力を感じたのです。それで、私はずいぶん救われた気がしました。それなのにこの地でまたあなたに救っていただけるなんて、偶然とはいってもあまりにも」
「世の中に偶然というものは一切ありません。これが御神縁というものですよ。エルサレムであなたが私の話を聞いたということ自体が、御神縁の始まりなんです。だからこそ、必然的に救われたのかもしれませんよ」
「本当に有り難うございます。私、クラウダスといいます」
クラウダスと名乗った男は、涙を流し始めた。いっしょの助けられた女も、また泣いている。気がつくと、その周りにはものすごい数の人で人垣ができていた。ローマの人々は冷静で、突然現れた異邦人の顔の男の水上歩行という不思議な現象を見ても、それで預言者だとかなんだとか騒いだりはしない。ただ、純粋に驚いていただけだった。
「あ、でも!」
突然、クラウダスが声を上げた。
「そうだ、あなたは確か十字架にかかって……」
イェースズはそれを笑みで制して、集まった人々の方に柔らかな笑顔を見せた。
「ローマの皆さん」
イェースズは人々に、ギリシャ語で話しかけた。ギリシャ語が分からない人は立ち去りかけたが、クラウダスが、
「待って! 帰らない方がいいですよ」
と呼びかけて、イェースズの言葉を同時にラテン語に通訳し始めた。イェースズは安心して、ギリシャ語で話し続けた。
「この方は今、十字架で私が亡くなったのではないかと訪ねたのですけど、私は生きているとだけ皆さんにはお話しておきましょう」
十字架刑はローマの刑法とはいえ、平和に過ごすローマ市民には無縁の言葉だったようだ。誰もが首をかしげている。構わず、イェースズは続けた。
「皆さんは、多くの神々をご存じですね。そして神様はこれまでそのような神々や半神半人の口を通して教えをお伝えになってきましたけど、これからは人間の口をお使いになります。私も人間です。私の口を今、神様はお使いになっているのです」
ローマ人といえばかつて自分を処刑しようとしたのもローマ人だし、弟のイスカリス・ヨシェを身代わりとも知らずに処刑してしまったのもローマ人の手によってだった。熱心党などは、ローマ人といえば蛇蝎のごとく嫌っていた、。だが、今の目の前にいるローマ人たちは、皆実に善良な人々なのだ。政治的にローマ帝国という国がどのような国であれ、また霊的にもこの国の霊界には副神系統の神々が支配し、邪神も多く控えているのだとしても、そこで暮らす一人一人の人間は皆神の子であり、いい人たちばかりであった。
「やがてこの地にもいい知らせ、福音が告げられる日が来るでしょう」
イェースズはそれだけ言うと、その場を後にした。ヌプとウタリが慌ててそれを追った。
イェースズがローマで人々に話したのは、あとにも先にもそれきりだった。それから数日間、イェースズはまたローマ市内を歩き回っていた。案内役は小舟の転覆からイェースズに助けられたクラウダスだった。だが、イェースズとしては見物をしているわけではなかった。自分がこの地でしなければならない霊的使命を行うにふさわしい場所を探していたのである。
イェースズたちが投宿している所から見てティベリ川の対岸は、丘となっている。イェースズたち三人とクラウダスはティベリ川の岸辺に立ち、対岸のそんな風景を見ていた。その丘の上にはおびただしい数の、豪華で巨大な邸宅が立ち並んでいる。いずれも貴族の邸宅で、その中央にひときわ高く先代皇帝オクタビアヌスの宮殿が残っている。だが、当代ティベリウス帝の宮殿は、この丘の向こうとなる。観光案内よろしく、クラウダスがイェースズにそう説明した。この丘の左の方は低地となっており、そこがローマの政治の中心地で、元老院はじめ裁判所、市場、数々の神殿が立ち並んでいるという。確かに川向こうの繁る木々越しに、多くの屋根が見え隠れしていた。
「この丘がパラティーノの丘で、ずっとずっと昔のローマの発祥の地なんですよ」
川向こうを指さすクラウダスに、イェースズはうなずいて聞いていた。そして、
「ずっと昔って、どれくらいですか?」
「約八百年ほど前ですかね。ロムルスという王があの丘の上に建てた小さな国家が発展して、今の大ローマ帝国になっているんです」
「そうですか」
イェースズは口元に笑みを含ませ、うなずいていた。そして少し間をおいてから、
「ローマの建国は八百年ほど前って言われたけど、本当はもっと古いですよ」
と、言った。クラウダスは意表を突かれたように、驚いてイェースズを見た。
「古いって……?」
「そうですね。千二百年か千三百年ほど前でしょう」
「え? どうしてそんなことがいえるのですか? ロムラスというのはイリオスのアエネアスの十四代の子孫ですから、そんな昔だとむしろそのアエネアスの時代になってしまうのではないですか?」
「おそらく伝承では、アエネアスの時のローマ建国で本当はロムラスが活躍したのに、ずっと後世のことになってしまったんでしょうね」
「なぜ、分かるんですか?」
「ロムラスというのは、我がイスラエルの民の祖先でもあるモーセその人だからですよ。ロムラスとは、モーセの別名です」
クラウダスは、しばらくイェースズが何を言っているのか分からずに、ぽかんと口を開けていた。
「つまりイスラエルはモーセの末裔、ローマもまたモーセつまりロムラスの末裔。そういうことは、イスラエルの民とローマの市民は、祖先を同じくする兄弟ということですな。まあ、今では顔つきはそれぞれ全く変わってしまいましたけどね」
イェースズは高らかに笑った。慌てているのは、クラウダスだ。
「ちょっと待って下さい。どうしてそんなことが分かるんですか? あなた方の聖典に、そう書いてあるんですか?」
「いえ」
イェースズは首を横に振った。
「書いてはありませんが、実は私はモーセとは霊界で、直接お会いして話をしていますから間違いありません」
こうなるとクラウダスの理解の範疇外だったが、エルサレムでの話を聞いてイェースズに感化されていたクラウダスは、ス直にその言葉を受け入れた。
「しかし、そんな話……」
「分かっています。あなただからこそ話したんです。ローマでは、ほかの人にはこんな話はしませんよ」
イェースズは再び、大笑いをした。
そしてイェースズは、その場を後にした。対岸が今のローマの中心地だと聞いても、イェースズの霊勘には何も響かなかったからだ。そしてイェースズは何かに導かれるままにティベリ川に沿って北上し、川が右に湾曲するあたりで歩を止めた。もはやトラスティベリを出ており、ローマの市街の城壁よりも外であった。珍しく空は曇っている。そこにはただ広々とした草原があるだけで、何もなかった。周囲を見渡すと遠くの方に山脈が見えるだけで、視界を遮るような高い山はなかった。大地がどこまでも続いている。そして、東の川向こうにはローマの市街が横たわっている。
しかし彼の目には、肉眼では見えない何かが見えるような気がした。そして彼の前に現れたビジョンは、ただの広い草原であるはずの所に実に巨大な楕円に細長い競技場が見えはじめたのである。近い将来、このような巨大建築がこの場所にたてられる、そんな予見だったのかもしれない。だがそこで行われているのはただの競技ではなく、人々の殺戮だった。しかも残虐に殺されている人々は、自分の信奉者のようだ。競技場の外に、そんな人々の墓が建てられた。
「ペテロ」
と、イェースズはつぶやいていた。なぜ自分がそうつぶやいてしまったのか、イェースズ自身にも分からなかった。この場所が、遥か遠い東の国にいるはずのペテロと、何かしら因縁があるような気がしてならなかったのである。
イェースズはここでも、ギリシャでしたのと同じように両手を霊界に向けてかざした。だが、正神系統の大神様がその霊界に隠遁されているギリシャと違って、ここの霊界は副神系統の水・月の神の大親玉の女神が支配している。だから、霊界に火・日の神の霊流を放射することは危険でもあったし、またしなければならないことでもあった。現界的にモーセ・ロムラスによって建国されたローマだが、この地の霊界に居を構えた女神は金毛九尾などの邪神や超太古以来の人類の物欲、支配欲の念が凝り固まって発生した思凝霊などの邪霊を使って「ヨ」の国の拡大を図っていた。そもそも天地創造が終わったあと、国祖の神の命でこのヨモツ国を修理固成したのはほかならぬその女神であったゆえに、その拡大を図るのは当然であったが、なかなか思うようにならなかった。ローマがこのような巨大な帝国になる礎を築いたのは皮肉にもギリシャに隠遁していた正神系統の大神のみ魂を分けみ魂と受けたカエサルであったが、帝国を完成させたのは副神の女神自身の分けみ魂を持つオクタビアヌスだった。副神系統の親玉とはいえ、天地創造の砌は国祖神の統率のもとに共に働いた大天津神である。そして今や、本来なら自分の配下であるはずの金毛九尾や思凝霊空もややをすれば反抗されている女神で、そういった神霊界の状況もイェースズは熟知していた。邪神邪霊は副神系統の神々のいうことすら聞かないようになり初めて暴走をはじめようとしている。しかし、現界的にはまだ遠い将来、東西の霊界がこの地にて融合し、火と水が十字に組まれ、火・日の正神と水・月の副神も十字に組んで再び限定のみ世になることもイェースズは知っている。自分は神の実在も知らず、人間と神のつながり、魂の因縁も知らない多くの人々に神の実在を知らしめねばならないということも、イェースズは十分に自覚していた。それが彼の使命である。人々が勝手に神より離れるその度合いがキツクならないよう、まずは歯止めをかけねばならない。そしてフトマニ・クシロで霊的防御網をも張りめぐらすのも彼の使命だ。
自分が生まれたイスラエルの民の使命は、地上の物質開発である。副神の神々は、物質開発には長けている。だからこのヨモツ国は将来、物質文明が栄える地となるはずだ。そんな中に正神の神の教えとミチを、イェースズはまずは点じた。そしてこれからすべきことは、霊界の大ひっくり返しである。イェースズは周りの四方八方、十六方に向かって両手をかざし続けていた。その顔は、真剣そのものだった。物質文明の国に、歯止めの神のミチを点じた。物資開発が使命のイスラエルの民として、東西の融合地のイスラエルの地に自分が生まれさせられた意味もよく分かる。
その時、空に閃光が走って雷鳴が鳴った。それは段々と激しくなり、光と音の間隔が近くなって、ついに爆音とともに空が炸裂し、稲妻はローマ市街の方へ走った。
「ヤマタケヒメ大神、怒りたもう」
イェースズはつぶやいて、その怒りを鎮めるべく手をかざし、そして強く念じた。水といえども、決して悪ではない。そもそも宇宙の大根元の神様は、善悪などお創りになってはおられない。火のタテの働きあって、そこにヨコの水の働きが十時に結ばれてすべてのものは生成する。水の働きというのは、実に重要な働きなのだ。水の世とはすべてが天地初発の時からの神様の経綸の一つであり、今は金毛九尾などの邪神・邪霊が跋扈しようとも、その中心となる水の副神の神々は悪ではないので、イェースズはその今は一見悪とも見えるその存在をすべて抱き参らせる覚悟でいた。今の世は神の経綸も知らずに、自在の世にあって勝手に神より離れ、欲心に操られた人々が火と水のホドケの世を招来せしめてしまっただけである。水の世は悪の世ではない。あくまで火がタテであり主であって、水はヨコ、従であるということだけである。
ヌプとウタリはそんなことも知らずに雷鳴におびえて縮こまっていたが、恐る恐る目を上げるとイェースズの姿が光っていた。そして激しい音ともに、大雨が降り出した。ところがイェースズの上空だけ丸く雲の穴が開き、そこだけ雨が降らなかった。ヌプとウタリが驚いて顔を挙げると、
「ここに今、目に見えない火柱を打ち建てたのだよ」
と、イェースズはヌプたちに説明した。
「この地はエルサレムと同じくらい、今後の人類にとって重要な土地になる」
ヌプもウタリもわけが分からず、ただボサッとしていた。
「神様は五色織りなす立体文明をお望みで、人類を洋の東西に分けられたんだ。そして水の世にあって水の神が統治するこの国では、私の教えも水の教えになってしまうだろうね。だけど、それでいいんだ。とりあえずは……」
「私たちの国は、日の国ですよね」
と。ウタリが顔を挙げて言った。
「そう、霊は日で火だ」
ギリシャ語でこのことを表すのは、おそらく無理であっただろう。だが、ヌプたちとの会話で使う言語では、すんなりと表せる。
「やがて真理のみ魂が降ったら、ここで東西の霊界が結ばれる」
そのへんになるともう、イェースズがしゃべっているというよりも、口をお使い頂いているという感触になった。頭では何も考えずとも、どんどん言うべきことを神様が言わせて下さっているという感じだ。
「真理のみたまの真の救世主とペテロの後継者は、この地でしっかりと手を結ばれる。すっとすっと先のことだけどね。さあ、この地で私が成すべきことは終わった」
イェースズは大きく息を吸った。
ローマ滞在は、半月にも満たなかった。イェースズはクラウダスと別れ、再びヌプやウタリとともに巨大すぎる都をあとにし、港へと出て船便を待った。今度は大海を一気に横断する。これから目指すべきはイェースズにとって初めての土地ではなく、むしろ因縁深いエジプトだった。
大海原を見ていると、胸が晴れ晴れとするイェースズだった。潮風が心地よい。ローマの人工物に囲まれた生活から自然の中に出ると、実にすがすがしさを感じる。ローマにいる間は、ほとんど土を踏むということもなかった。それほどに道という道は石畳で舗装されていたのだ。
船は五日で、エジプトのアレクサンドリアの町に近づいた。海岸沿いに横に細長く延びている町だ。海岸にへばりついているといってもよい。そこもローマの支配下の町で、到る所でローマの匂いがする。しかし、本家のローマの町を見てきたあとでは、以前に初めてここに来た時とは感覚がまるで違う。ローマの匂いは敏感に鼻につくが、非ローマ的要素も目に入ってしまうのだ。以前ならただの異国ということで、こんな区別はつきようもなかった。町には無論ローマ兵も多いが、土着の人とともにユダヤ人も多かった。彼らは皆、ギリシャ語を日常語にしている。ただ、エジプト人とユダヤ人は外見上はよく似ているので、ちょっと見ただけでは分からない。
とにかく、町全体がのんびりしていた。しかし、これが普通なのだ。ガリラヤでも、エルサレムでもそうだった。それなのに、今までいたローマがあまりにもせわしすぎる町だったので、余計そう感じてしまうのかもしれない。ここに来るのが初めてのヌプやウタリは、また違う文化の町に来たと、キョロキョロばかりしている。だが、アレクサンドリアには一泊しただけで、三人は目指すヘリオポリスに向かった。そこにはエッセネの本拠地があるし、またそこにも火柱を立てねばならない。
ナイルの三角州の平らで緑豊かな森や耕地をぬけ、ナイル川沿いに南下した。やがて四日後の夕方に、夕日を受けて黄金職に輝くピラミッドが見えてきた。
「うわっ! あれは?」
ヌプの問いに、イェースズは笑って答えた。
「あれは、神様の山だよ」
「山? だって、あれ、人が造ったんでしょ? 石を積み上げて」
「そう。太陽の神様をお祭りする太陽神殿なんだ」
「神殿っていっても」
ウタリが口をはさむ。
「エルサレムやアテネ、ローマとかの神殿とは、ずいぶん違うじゃないですか」
イェースズはまた笑った。
「あなた方の国にある神殿こそ、本当の神殿なんだ。あなた方の国では自然の山を、そのまま神殿にしている。でもこの国には山はないから、人工の山を造ったってわけだね」
歩きながら話しているうち、ピラミッドの手前にあるヘリオポリスの町に近づいた。暗くなるまでには、着けそうであった。
イェースズはその足で、エッセネ教団の本部に向かった。しかし彼らはイェースズが、あの日来神堂の中での試験に合格して最高の栄誉を賜ったあとに出奔したと思っているだろう。ヨハネが捕えられた時点で、彼はここに戻って来るべきだったかもしれない。 それなのに勝手にガリラヤに戻り、別教団を打ち立ててイェースズはエッセネからは離脱したとも、彼らは思っているに違いない。ましてやイェースズは死んだということになっているし、代わりに死んだ弟のヨシェの遺体はこのエッセネの無言兄弟団が持ち去ったのもイェースズ自身が目撃している。だから、「今さら何をしに来た」と言われる可能性もあるが、あえてイェースズは臆さなかった。自分は決して離脱して別教団を打ち立てたりはしておらず、また教団に媚びる必要も感じていないし、だいいち教団とか宗教とかいうものにもこだわっていない。イェースズの教えは教えであって教えではなかった。天則、法則、すなわちミチを説いていたのだ。そのことを分かってもらいたかったし、自分に対する誤解をも解いておく必要があった。
エッセネの本部は、ピラミッド近くの長方形の建物だ。どうもいつもよりも、人の出入りが多いように見えた。もうかなり暗くなっているので松明を手に人々がどんどん集まって、その建物の中に吸い込まれていく。どうも聖賢の集まりのようだ。本部の建物は入るとすぐにホールになっていて、時々そこで集会がある。イェースズも何食わぬ顔でその人々の群れに混ざり、建物に入った。
なんと、一歩入ったすぐの所にいたのは、老尼僧のサロメだった。イェースズと目が合い、しばらくはぽかんとした彼女だが、一瞬の後に飛びあがらんばかりに驚いて、しわだらけの顔で目を見開いた。
「あ、あ、あ、あなたは……」
「どうも、お久しぶりです」
照れたように笑って、イェースズは頭を下げた。
「どうして……どうして……」
「そういうわけで、私は実は生きているんですよ」
今度のイェースズの笑みは、いたずらっぽいものに変わった。そんなやり取りを聞きつけて、建物に集まりつつあった聖賢の何人かが足を止めた。
「サロメ。どうかしましたか?」
「こ、この方、この方があの、ほら、ガリラヤの……。あのピラミッドでの試験に合格して、最高位の資格を手に入れた、ほら、あの」
サロメは驚きのあまり、言葉が回らなくなっていた。足を止めた聖賢の数が増えた。サロメとイェースズは囲まれる形となった。
「え? まさか、ガリラヤのイェースズ?」
「でもあの方はエルサレムで十字架にかけられて亡くなって、私たちの仲間が遺体をこちらに移して葬ったじゃないですか」
イェースズは、笑って人々を見わたした。
「私です。私はこの通り、生きていますよ」
イェースズを囲む人々の数は、ますます増えていった。
「本当に、本当に生きておられたんですね」
「ええ、この通り」
人々の間から、どよめきが上がった。
「あなたが亡くなったと聞いて、大騒ぎだったんですよ。盛大に葬儀もやったのに」
「あなたが亡くなったというのは、何かの間違いだったんですね」
人々は歓声を上げた。だが、サロメだけは腑に落ちない顔をしていた。なぜなら、彼女はイェースズの十字架をその目で目撃しているのだ。
「そういえば、エルサレムの方では、あなたが生き返ったといううわさが流れていましたね。でもそれは、我われが遺体を持ってきてしまったから、遺体がないものだから生き返ったといううわさとなったんだと解釈していましたけど」
「どっちにしても、これは奇蹟だ」
「とにかく、中へ」
人々はまた一段と歓声を上げ、イェースズの背を押してホールへといざなった。
「なんと温かいお体だ」
イェースズの背中に触れた一人が、思わずそうつぶやいていた。
ホールへイェースズが一歩入ると、イェースズと共にホールに入った人々は、中にいた聖賢たちにイェースズの生存と来訪を大声で告げた。場内は、一斉にどよめきたった。信じられないといったような驚きの様子と、そして喜びとが一斉に湧きあがったのだ。
「さあ、あなたの座る椅子はあそこです」
イェースズがそう言われてその方を見てみると、なんといちばん上座に人々の方を向いて椅子が置いてある。
「ピラミッドの最高試験を通った方だけが、あの椅子に座れるんです。今まであなたがいらっしゃらなかったから空席になっていましたけど、やっと座れる方が来ました」
そう案内されてイェースズは人々の歓呼に笑顔で応え、その椅子へと向かった。それは、今まで誰も座ったことのない椅子であった。最高の聖賢のみが座ることを許されている席にイェースズは一度座り、そしてすぐに立った。人々の歓呼は一瞬にして静まり、誰もがイェースズの言葉を待った。
「皆さんの上に、神様の祝福がありますように」
凛とした声が、ホールに響いた。
「皆さんは私が死んだと思っておられたようですね。でも、私は生きています。皆さんの肉体の中にも、復活の魂は入っています。生き変わり死に換わり、肉体は滅んでも魂は生き続け、幽界にて修行をして、再び転生してくる。でも、なんと言っても、この世がいちばんの修行の場です」
人々の呼吸の音が聞こえるくらい、皆は静まりかえってイェースズの話に耳を傾けていた。
「死とは、決してすべてがなくなってしまうことではありません。肉体はもはや生きていませんから、土に返らなければなりません。普通はこれを死と呼んでいるわけですけど、人間の本質はあくまで霊なんです。肉体はその入れものにすぎませんから、死とはいわば住み家を替えるようなものなんです。そうして魂の方は死ぬこともなくそのまま幽界生活に入るのですが、より次元が高い魂に昇華するためには努力という人間の力が必要なんです。でも、人間の力だけではだめで、人間の力と神様のみ意が一致した時、つまり神人合一の境地に達した時に、神様のみ力でスーッと引き上げられるんです。そして究極的には、この世に再生する必要のない魂へと昇華していってしまいます。これが、私が今まで説いてきたことです。私はああしろ、こうしろという倫理や道徳は説いていませんし、あれしちゃいけない、これしちゃいけないというようなことも説いていません。ましてや私が話してきたことは、哲学ではないのです。こうしたらこうなりますよ、神様と一致するにはこうしたらいいんですよという霊的法則を説いてきただけです。その通りにやるかやらないか、実践するかしないかは聞いた人の自由でありまして、それ救われるかどうかも自由ということになります。決して他力本願じゃ、救われないんですね。与えられた問題を、自分で解かないといけないんです。誰かが解いてくれたら救われるというようなものじゃありません。真の救世主は問題を解いてあげる人ではありません。逆に、問題を出す人なのでもあります」
そこでイェースズは一つ息をついで、集まった人々を笑顔で見わたした。
「皆さん、どうですか? これでも私がこのエッセネ教団と決別して、他教団を打ちたてたとお思いですか?」
人々は、静まり返っていた。
「私が説いてきたのは、どの教団の教えをも超越しているのミチです。すべての教えの大元を説いたのですから、どの教団の人にも通用する普遍のミチなんです」
そしてイェースズはそこに集まった聖賢たちに向かって、両手をかざした。人々の間からどよめきが上がった。イェースズの両手から放射されるパワーが人々には視覚化され、イェースズ自身が黄金の光に包まれているように彼らには見えたからだ。そしてどよめきはさらに大きくなった。人々はそれぞれ自分の手を見てどよめいている。そこには一様に、金粉がついていたからである。
イェースズが与えられた宿舎は、ナイル川沿いの緑の中だった。毎朝の太陽礼拝も、イェースズにとっては懐かしいものだった。だが、ヌプやウタリにとっては初めての経験となるはずだ。しかし、彼らにとって抵抗はないようだった。
「僕らの国でも、やっている人はいましたから」
と、ウタリがけろっとして言う。やはり彼らの国は霊の元つ国で、すべての大元の国なのだ。
ある日の夕方、涼しくなってから、イェースズはヌプとウタリを連れて南西の方角にあるピラミッドの方へと出かけた。もはや本格的な夏で、日中はとても出かけられたものではない。
緑地帯が終わって砂漠が始まるちょうどその接点の部分の砂の上に、三基のピラミッドは山のように空にそそり立っている。
「すごい山だ」
と、ヌプが言った。ウタリがピラミッドを凝視したまま、言葉を受けた。
「でも、もし自然の山だったら小さい丘にすぎないけど、これが人の手で造られたっていうからすごいな」
「四角い大きな石も、全部人間が造ったんですね。それをよくもまあ、きれいに積み上げたものだ」
隣にいたイェースズが、二人に説明を始めた。
「ただ形がきれいなだけではなく、一辺一辺が正確に東西南北を向いているんだよ。頂上を見てごらん。少し岩がはだけているだろう?」
「はい」
「昔はね、あの上に円形の石の玉があったんだ。今はどこかに行ってしまったけど、それが太陽石といってこの神殿の御神体石だったんだ。あなた方の国の自然の山の神殿の場合も頂上に太陽石があって、その周りを石で囲んで東西南北に方位石を置いているのだけれど、ここのは人工の山だから方位石の代わりに一辺一辺が東西南北を向いているんだ」
ヌプもウタリも、感心して聞いていた。
「この神殿はピラミッドっていうんだけれど、もとはあなた方の国の自然の山の日来神堂だよ。このあたりの文化は何から何までギリシャやローマから始まったように思われているけど、超太古においてすべての文明が霊の元つ国から世界に伝播していったということがこれを見ても分かるだろう?」
二人は、黙ってうなずいた。
「もう一つおもしろいことを教えてあげよう。こんなに大きなものでなく小さなものでも同じ形で東西南北をきちんとして置くと、その中に宇宙のパワーを集めることができる。それに気づいた最近の人がこの神殿の中に王の遺体を安置するようになってね、それでこれを王の墓だなんて思っている人が多いけど、もとは太陽神を祭る神殿なんだ」
「先生。じゃあ、あれは?」
ヌプが指さしたのは、ピラミッドの手前にある半人半獣の巨大な像だった。かつてサロメに連れられて初めてここに来た時にイェースズが発した質問と同じ質問をヌプがするので、イェースズは笑った。そして、その時のサロメと同じ答えをした。
「あれは、ここまま人間が神様から離れすぎるとあんなふうな四ツ足獣人になってしまうぞという、神様からの警告の型示しの像だよ。一方で、神殿を護っている像でもあるんだけれどね」
そして、サロメは言わなかったことを、つけ加えた。
「あの像の目が、どこを見ているか分かるかい?」
像の背後に砂漠が広がっているので、顔が向いている方は砂漠が途切れて緑地帯が始まる方角だ。つまり、東を向いていることになる。イェースズはそのまま空中を指し、それを東の果てへとゆっくりと移動させ、パッと地平線を指した。
「あの目線の先はずっと東の、あなた方の国、霊の元つ国のアメノコシネナカヒダマの国のクライ山という山だ。そのクライ山もまた、自然の山の日来神堂なんだ」
ヌプもウタリも話のスケールが大きすぎて実感が湧かないのか、ただうなずいているだけだった。
ある日、イェースズはこれからピラミッドに登ると、ヌプやウタリに告げた。しかも夕方ではなく昼間、炎天下にであった。手で目の上に庇を作らないと歩けないほどで、砂漠のある地方にしてはいやに湿っぽくて蒸し暑い。だが、時折北の方から心地よい風が吹きつけることもあって、それだけが救いだった。
ヌプもウタリも、頭に白い布をかぶっていた。ピラミッドは下から見上げるとかなりの傾斜で、四角い石を積んでいるのだから階段状になってはいるが、一つ一つの段はかなり大きい。
「先生、危ないですからやめて下さい」
ヌプが登ろうとするイェースズに、懇願するように言った。
「大丈夫だよ」
と、イェースズは笑っていた。
「これは御神命だからね、どうしても行かないといけない。そうしないと、この地で私がなすべきことはできない。このエジプトは私とも因縁が深い場所で、それだけにどうしてもここの霊界を明かなにしておかないといけない」
「でも、この暑さですよ」
「この地に火柱が立とうとしているんだ。暑くもなるさ」
イェースズはまた高らかに笑って、身を翻してピラミッドに登り始めた。
しかし、確かに炎天下にこれに登るのはきつかった。額に汗がにじめて胸元に落ち、背中は川に入ったのと同じくらいびしょぬれだった。それでもイェースズは、一歩一歩着実に登っていった。その懐には、イシュカリス・ヨシェの遺髪がある。イェースズはヨシェとともに登った。ヨシェが歩んだ悲しみの道行きに比べたら、こんなもの苦しいといううちに入らない。かつて東方への旅で登った山に比べたら、あっという間に頂上に着いてしまう簡単な登山だった。
頂上に立つと、北の方からの風が冷たく汗を吹き払ってくれた。周囲を見ると西の方は地平線まで砂漠がずっと続いている。かつてエジプトの人々が、死者の国は西にあると考えたのも無理はない。反対側の東は緑地帯で、その手前を左から右に大ナイルが蛇行している。この川こそ母なる川だ。母なるナイルの水と太陽新ラーの火が十字に組まれて、エジプト文明が産み出されたのである。
イェースズは懐から、ヨシェの遺髪を取り出した。そして、ヨシェにとっては生まれ故郷であるエジプトの大地を、ヨシェに見せた。
「見ろ、イシュカリス。ここがおまえの生まれた国だ。そして私は、いつまでもおまえといっしょだ」
目の周りにたまったのが汗か涙かよく分からなくなったが、それをもすぐに北風が運び去った。
イェースズは遺髪を持った手のもう一つの手を、ピラミッドの頂上から四方八方に向かってかざした。たちまち目には見えない霊的な火柱が、この地に燃え上がった。イェースズは古代の王の墓などではなく、太陽神殿・日来神堂の復活を強く念じていた。
目的を果たしたイェースズは、この地を後にしてまた旅に出ることをヌプやウタリに告げた。彼ら二人はそれを聞いても「ああ、そうですか」という感じであったが、同じことを集会所のホールでエッセネの聖賢や幹部たちに告げた時は大騒ぎになった。彼らは自分たちエッセネ兄弟段の最高位の師であるイェースズが、教団幹部としてずっとこの地に留まるものだとばかり思っていたからである。だから、イェースズの突然の旅立ちの発表は、大衝撃であったようだ。
「皆さん、聞いて下さい」
やっとの思いで、イェースズは人々を静めた。
「私は決して、皆さんを見捨てるのではありません。私が神様から頂戴した御神命は膨大で、これからも世界中を回らなければならないんです」
「世界中に散らばっている兄弟団のためですかな?」
前の方にいいた賢者が一人、静寂を破って訪ねた。
「もちろん兄弟団の方とも、これから行く先々でお会いするでしょう。でもそれだけでなく、私は全人類の救いのために出かけるんです。宗教なんていうちっぽけな枠に私は囚われていないって、いつかもお話ししたはずです。一人でも多くの人々のみ光をお与えさせて頂き、また逆法渦巻く今の世に目に見えない神様の霊的火柱を立てる必要があるんです」
「なぜ、そんなにしてまで人類のためにされるのです?」
と、別の聖賢が訪ねた。イェースズは微笑を絶やさなかった。
「神様は全人類と万物の造り主ですね。だから神様の大愛は、神の子であるすべての人類に注がれているんです。そして私も神の子として御父である神様を愛したいし、等しく神の子であるすべての人類の霊益のためなら、神大愛でどこへでも出かけていきます」
場内に拍手が湧き起こった。分かってくれたことが嬉しくて、イェースズはニコニコしたまま人々を見渡した。やがて、拍手も収まった。
「私はまた旅に出ます。神様の御経綸は日々進展していますから、ぐずぐずはしていられないんです。肉身は現界にありながらも常に神霊界と通じ、霊的にものごとを考えています。また、皆さんもそうであってほしい。そうでないと神様と波調が合わなくなって、御経綸が進展すればするだけ神様から離れていってしまうことになります。私がエルサレムで律法学者や祭司と論争してきたのは、彼らが千数百年前のモーセの律法にしがみついて、その千数百年間の御経綸の進展について知ろうとしなかったからです。人々が神様から想念的に離れすぎますと神様の大愛のみ意のよる大洗濯が始まって、一気に火の洗礼期へと突入してしまうんです。そのへんをご理解頂きたい。私がエルサレムで語ったことは、まだエルサレムにいるでありましょう使徒たちが知っています。私はもはや使徒たちだけの師ではなく、この兄弟団の最高幹部であるだけでもなく、全人類の救いをしなければならないのは、そういうわけがあるんです」
場内、割れんばかりの歓声だった。イェースズはニコニコしたまま人々に手を振って、演台を降りた。彼がエジプトでなすべきすべての仕事が終わろうとしていた。
翌朝、紅海から船出した。葦の多い海を、イェースズとヌプ、ウタリを乗せた船は順調に南へと進んだ。そこはかつてモーセが出エジプトの際に、海を二つに割った所だ。そして幼少のイェースズが、初めて東の国に向かって旅立った時もここを通った。やがて両側に陸地が見える狭い海峡をぬけて、船は大海に出た。左側は、シナイ半島の先端だ。ここからが、スエズ湾ではなく本格的な紅海なのである。白い帆にいっぱい風を受け、船は紺碧の海の上を滑っていった。船は陸沿いに進んでいるようで、その左手は空と海との境目に張り付くように、ずっと細く赤茶けた色の大地がへばりついていた。
十六日ほどの航海で、船は港に入る気配を見せた。イェースズもここで上陸する。ここはもはやローマ帝国領ではない。小さな港町で石造りの箱型の家がほこりにまみれて並んでいるにすぎないのだが、港に人は多かった。船に積まれている物資はここまで船で運ばれるが、あとは隊商がラクダに乗せて東へとゆっくり進んでいく。そんな商人でごった返す港の喧騒の中を、イェースズはヌプ、ウタリとともに宿を探した。ここは海上輸送と隊商による陸上輸送の接点の港町で、隊商というのはほとんどユダヤ人だから、イェースズがこの町にいることは端から見ると不思議ではなかった。しかもイェースズはギリシャ語を話すので、ここにいる多くのユダヤ人と同じであり、そんなこんなで宿はすぐに見つかった。入ってみると客のほとんど全員といっていいくらいの人がユダヤ人だった。もっとも彼らはユダヤ本国に住んでいないので、エルサレムの出来事もイェースズが誰であるかも知りはしない。
イェースズたちが宿に入ると、昼間は炎天下で頭がくらくらするほどの猛暑だったのが、朝晩は急に寒くなったりもした。
宿に入ってからウタリは、イェースズの地図をのぞいていた。そして、
「ここですか? 今いる所」
と、ウタリが指さした。
「そう」
「ずいぶん遠くまで来ましたね」
「でも、ぼくらの国までにはまだ半分もいっていない」
イェースズは黙ってうなずいていた。そしてヌプが手に持っていた地図をのぞきこんで、微笑んでいた。その地図には、エルサレムもあった。
「エルサレムか、懐かしいな」
と、ぽつんとイェースズがつぶやく。
「みんな、元気かな」
ヌプもウタリもイェースズの心情を推し量って、黙っていた。そしてそこには一泊しただけで、海に背を向けて内陸の方に向かってイェースズとヌプ、ウタリは早朝に出発した。その前に港でイェースズは、うまい具合に三頭のラクダを購入していた。そして岩山ばかりのわずかな丘陵地帯を縫うように進むと、あとはずっと砂漠だった。そしてその日の夕方には、山に囲まれた小さな町が見えてきた。
「先生、ここにも当分いるんですか?」
ヌプが峠道の上からこれから行く町を見下ろして、イェースズに聞いた。イェースズは即答した。
「ここにも火柱を立てないといけないし、それのこの土地は私は初めて来るけれど、私に大いに因縁のある土地になるだろうね。その下準備だ」
「え?」
「この地は、神様との因縁も深い地だよ。今は何もない普通の小さな町だけど、やがてこの町の名は全世界に知られることになる。この地には私と同じみ魂を受けた、神のみ使いが降ろされる」
イェースズの予言めいた話に、ヌプもウタリも分かったのか分からないのかぼんやりと聞いていた。
「だから、この地に長居はしない。やがて遣わされる方は神様から教えを受けて、私に対しても真実の証をしてくれるだろうからね」
その言葉通り、イェースズはこの地で今までと同じように霊線をつないだあと、三日滞在しただけでこの町をあとにした。しばらくは丘陵地帯の谷間の道を進んだが、それほど険しい山岳があるわけではなかった。そして何日かたつといよいよ巨大な砂漠を横断する旅となった。幸い猛暑の季節は過ぎて、少しは涼しくなってはいる。それでも日中の砂漠の陽射しは強く、一面の黄色い大地にはヌプたち二人は気が滅入るのではないかとイェースズには懸念された。何しろ視界に山もなく、人工のものとてなく、このまま永遠に砂漠が続くのではないかという錯覚にさえ襲われる。だが、イェースズは何の苦しみも感じてはいなかった。そしてうまい具合に、ちょうど日没の頃になるとオアシスが現れるのだ。そんな旅がもう一月半ほど続いた。そうなるといよいよもって、エルサレムからもローマからの遠ざかっていくような気になった。だが実際は、エルサレムからはそう離れてはいなかった。なぜなら、イェースズたちが目指していたのは、バルチア国の都のクテシフォンだったからだ。
イェースズが東方の旅からの帰途に、最後に寄った町がここだった。まだほんの五、六年前のことで、イェースズの記憶にも新しかった。ここから西にまた二ヶ月ほど行けば、再びエルサレムに戻ってしまうのである。そしてこのクテシフォンもまた、フトマニ・クシロで火柱を立てるべき地に指定されていた。
都は前に来た時と変わらない喧騒で、きらびやかな宮殿も元のままだった。イェースズはまっすぐに、丘の上の寺院を訪れた。ここは幼少時より愛読していた『ゼンダ・アベスタ』の故地で、その寺院も火を拝む寺院だ。
黒っぽい何ら装飾のない筒型の寺院に入ると、中央では巨大な炎が焚かれていた。その周りで無言で瞑想している人々の中央にいた、イェースズにとっては見慣れた顔の老人が顔を上げた。しわの中の目を寄せてイェースズを見ていたが、イェースズが近づくとやっと顔を判別できたらしく、声をあげて立ち上がった。イェースズが前にここに来た時に出会った、高僧カスパーだった。
「おお、来られた」
と、カスパーはなんとヘブライ語で言った。それから、瞑想していた人々の中の三人の老人の僧の名を呼んだ。
「ホルタザール、アスバールン、メルヒオール。あなた方の言われた通りじゃ。このお方は来られたぞ」
曲がった腰をかばうように立ち上がった三人の老僧も、前にここに来た時に親しく接してくれたマギ僧たちであり、すなわちイェースズの幼少時にエルサレムまでイェースズを探して、黄金、乳香、没薬を持ってきてくれたあの人たちだ。皆よたよたとイェースズに近づき、その手をとった。
「いやあ、ようこそ。今回もまた星が出ておったのでな、また来られるとすぐに分かった。ただし、星は、今回は南西の空だったがの」
「私は、星とともに現れる……ですか」
そう言って、イェースズは高らかに笑った。
「偉大な先生。今度はどんなよき知らせを持ってきて来てくださったのかな?」
カスパーが代表する形で、イェースズに問いかけた。イェースズはまた微笑んだ。
「平和、ですよ。地には善意の人々に平和あれ、ってことですね。私は前にここを失礼してから故地に帰り、故郷で神のミチを説いてきました。つまり私は故郷で、霊の実在や、その霊的世界こそが主体であり実相界であることを人々の前で実証して来ました。そして今よき知らせを持ってと言われましたが、私が来たこと自体がよい知らせ、福音でしょう。私が説いた法則に従えば万人が神の子として復活し、私と同等にもなれます」
「かれこれもう、30年も前のことでしたかね」
と、メルヒオールが口をはさんだ。
「天にしるしの星を見て我われはあなたの存在を知って、三人で旅に出た。そしてエルサレムで見たのは、生まれたばかりの赤児だった。そして今から五年ほど前に、成長したその時の赤ちゃんはこの地を訪れてくれましたな」
「そうでした。そのあとで私は故郷に帰ったのです」
「あの、もし」
火の周りで瞑想を続けていた僧たちの中の一人が、そう言ってイェースズに接近してきた。
「あなたはエルサレムで、人々に師のように仰がれて教えを説いていた方では? たしか、パリサイ人とかとわたりあっていた師ですよね」
「エルサレムに行かれたのですか?」
と、イェースズは少し声を弾ませて聞いた。
「すみません。申し遅れました。私はこの間もエルサレムに行ってきたばかりですから。そして、あなたのお弟子さんというような方々ともお会いしてきましたよ」
イェースズの顔が、突然輝いた。
「そうですか? ヤコブとかペテロに会いましたか?」
「ヤコブという方にはお会いしました。でも、そんな名前はたくさんいて、あなたのお弟子さんにもヤコブとは二人いましたけど、あなたが言われたのははてどちらでしょうか」
「両方とも大事な使徒です。みんな元気でしたか?」
「はい。彼らはあなたが十字架上で死んで三日後に復活したと主張していましたが、今現にあなたがこうしてここにいるのだから、彼らの言うことは本当だったんですねえ」
「どんなふうに彼らは暮らしていました?」
「全員が共同生活でした。自分の資産は投げ打って、すべて共同財産ってことにしていました。そして幹部の方たちがどんどん奇蹟を見せるものですから信者もどんどん増えて、毎日午後には神殿のソロモンの廊という所で祈祷集会をしていましたし、夜にはパンとぶどう酒での晩餐会をしていました。このパンとぶどう酒がそう、あなたの血と肉だとかなんとか言って、食べて飲んでるんです」
イェースズは頭を抱えたい思いだったが、所詮はそんなものだと分かっていたことでもあった。どうの自分がミチを説いていたその真意は、彼らには十分には伝わっていなかったようだ。若い僧は、
「とにかく、ユダヤ教の一派としてはいちばん羽振りのいい宗教になっているんじゃないですかね。もう男だけで五千人の信者がいます。ダビデの墓の近くの、マルコという人の家の二階を本拠地にしています」
と、最後に付け加えた。その本拠地とは自分が使徒たちと最後の晩餐をしたあの部屋だが、自分の教えが自分の意に反して宗教になっていっているようだ。今の世では仕方がないことかもしれない。自分がいる間は決して教団は作らなかったのだが、今後どうなるかはもうだいたいイェースズには見えていた。それは今聞いた話による現界的なことだけではなく、神の経綸と今の神霊界の状況からも分かることだった。
「私が残したのは十二人の使徒だけだったんですよ。でも事情があってそのうち二人は欠けていますから、十人ですけれど」
「幹部は今でも十二人でしたよ。確かに二人欠けたとかで、信者の中からくじ引きで、ユストという人とマッテヤという人が加わって十二人の幹部となっています」
「くじびき?」
もう、何をか言わんやである。イェースズは絶句した。あの連中は将来、自分が伝えてきたことの解釈さえ投票か人知の会議で決めたりするんじゃないかと、イェースズには危惧された。
「しかし、最高法院などの当局との間は問題ないのですか?」
「ペテロほか数人はやはり逮捕されて裁判にかけられたようですけど、奇蹟で脱出したようです。当局も、たとえば熱心党でも頭目が処刑されたら後は放っておいても霧散するものだから放置しておけということになったようですけど、霧散どころかさっきも言ったように確実に教線は伸びています」
それもよしとしようと、イェースズは思った。形は変わっても、神を信じない人々へ神の実在を知らせ、神から離れすぎないようにする歯止め役にはなるはずだ。それさえできれば、自分の使命は達成できたことになる。自分の教えは水の教えとしてヨモツ国に広まってしまうということはイェースズも兼ねてから覚悟していたことだし、今の世では避けられない宿命だと分かっている。使徒たちは火の洗礼を人々に授けることができるがそれも一代限りで、次の世代になるとまたヨハネ師がしていたような水の洗礼に後戻りしてしまうということも兼ねてより予想していたことだ。
「よく聞かせてくれました。有り難うございます」
「お気を悪くなさいましたか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
イェースズは微笑んで言った。若い僧はまた、もとの瞑想に戻った。どんな神が直接降ろされた霊団でも、一旦地上に降ろされたら地上の組織として一人歩きしてしまうものであることも前から知っていた。もはやエルサレムのことは、すべて神のみ手に委ねるしかない。自分はほかになすべき新しい使命があるのである。
イェースズは炎の前でしばらくたたずみ、その炎に向かって両手をかざした。これでこの炎に霊的な命が吹き込まれ、この地にすでに霊的火柱を立てたことになる。
この地へのイェースズの逗留はわずか二、三日だった。その間、カスパーやホルタザール、アスバールン、メルヒオールの三人ともいろいろ語り合った。そして、さらに東へ進むべく、さらなる逗留を強く望むカスパーたちに強引に別れを告げ、イェースズとヌプ、ウタリの三人を乗せた三頭のラクダはひとまずは南との方へとチグリス、ユーフラテス川に沿って砂漠の中を進んだ。すぐに海に出た。そこから再びイェースズたちは、船旅となったのである。
航海は穏やかだった。今度は大海を横断するでもなくほとんど陸地沿いの航路だったが、その船旅は数ヶ月に及んだ。本来ならもうそろそろ秋も深まって涼しくなる頃だが、船の上はいつまでも暑かった。冬のない地方を、船は航行している。そしていつも船から見える大地は赤茶けた砂漠ではなく、緑鮮やかな大地が横たわるようになった。イェースズにとって二十年ぶり近くに再度訪れる国である。今この国は雨季が終わって乾季に入ろうとしていた。国土全体がいちばん緑に覆われる時期だ。これが完全に乾季になってしまうと、赤茶けた大地になってしまう。イェースズの故郷のユダヤの地では冬が雨季だが、ここでは逆で冬が乾季である。冬といっても少し涼しいくらいで、ユダヤの夏と変わらない。そんな新緑の中の港に、船は滑り込もうとしていた。長かった船旅だが、ようやく終着点に着こうとしていた。
イェースズの少年時の記憶が甦った。あの時も上陸したのは、確かこの港だった。上陸したら、今まで行ってきたどの国のどの港よりもかまびすしい喧騒と町全体の体臭に包まれるはずであることは、イェースズが過去の記憶を手繰り寄せればすぐに分かることだった。
港が近づいてきた。すると黒い波がうごめいているようにしか見えなかった人の群れが、陸に張り付いているのが見えてきた。
「ひえー、あれが全部人間なの?」
ヌプもウタリも、速度が落とされた甲板から人の群れを見て、あらためて目を丸くしていた。
思えばもう十七、八年も前になるが、その頃に来た懐かしい町へ、船は近づいていく。町並みも風景も年月が彼の頭の中から記憶を取り去ってしまってはいたが、それでも初めて来る町とはやはり感覚が違っていた。
上陸すると果して多くの物乞いの子供たちにたちまち囲まれ、何本も差し出された黒い腕にヌプやウタリはすっかり怯えてしまっていた。そんな人ごみの中を泳ぎながら、イェースズはヌプやウタリの腕を引っ張って歩いた。
町はずれに出るまで、ずいぶん時間がかかった。そこで人を乗せている象を見た時、イェースズの中にかすかな記憶が甦った。初めて来た時もこのカリンガ国は雨季が終わってちょうど緑が全土を覆う季節であったが、奇しくも今まさにそれと同じ季節にイェースズは再びこの国を訪れたのである。色とりどりの花が咲き乱れる丘の麓を回ると一面に水田が広がり、牛がのんびりと時間を流していた。その水田を見た途端、ヌプもウタリも歓呼の声を上げていた。彼らにとって水田は、郷愁をさそう自分たちの文化に属するものなのだ。そんな二人の様子に微笑みながら、イェースズはさらに郊外に向かって歩いて行った。行き先はもう決まっている。だからこの町では、宿を探す必要はなかったのだ。
そのイェースズが目指している場所は、すでに見えていた。近くの丘の上にそびえる白亜の宮殿で、そこへ行く道のりの記憶が確かだったことに、イェースズは自分自身で安堵していた。いざ宮殿に近づいても、白い柱に宝石を散りばめた門、きらびやかな装飾には確かに記憶はあったが、それでも細部まではとなると初めて来たような感は拭い得ない。ヌプとウタリは呆気にとられてその宮殿を見ていたが、なぜイェースズがこのような所に自分たちを連れてきたのか訝りはじめていた。
「ローマ人か」
イェースズたちを見ると、頭にターバンを巻いた門兵のクシャトリヤが立てた槍を手に訪ねてきた。
「はい。こちらにラバンナという方がいらっしゃるはずですが」
本当に十数年ぶりに使うこの国の言葉だったが、思った以上にすらすらと出てきた。
「それはわれわれの王だが、王とお知り合いか」
「友人です。といっても彼これ十五年以上も前の話なので、覚えておられるかどうかは分かりませんが」
「そうでありますか、一応、伺って参りましょう」
王の友人と聞いて、門兵の態度はかなり柔らかくなった。
「お願いします。ユダヤのイェースズと申します」
「ユダヤといえば、ローマ帝国のユダヤでありますか。しばらくお待ちを」
イェースズはできる限りの笑顔を作って見せた。門兵二人のうち、一人が中に消えた。だいぶ待たされてから、門兵は戻ってきた。
「とりあえずどうぞ、ということです」
そう言われて、イェースズたちは中に入った。廊下も天井もまばゆいばかりの宝石だらけで、床は大理石だった。こぢんまりとしている宮殿だが、ヌプやウタリを興奮させるには十分だった。中庭には四角い池があり、その中にををとり囲む二階はすべてバルコニーとなっていた。王の部屋に上る階段には赤い絨毯が敷かれ、それを上がってイェースズは召使いに導かれて王の部屋のドアから入った。少年イェースズをこの国に連れてきた王子ラバンナは、イェースズより少し年上のお兄さんといった感じの青年だった。だが、入った部屋の正面の椅子に上半身裸で座っていたのは、中年の大人だった。それでも顔つきに、そういえばという面影があった。
「おお」
ラバンナが立ち上がるので、イェースズは自分を思い出してくれたものと嬉しくなったが、ラバンナはイェースズの方に歩み寄ると床にひざまずいた。
「あなたは、ローマの賢人でおられるな。ようこそおいで下さった」
恭しく礼をし、ラマースはイェースズを見あげた。
「わざわざこのような所にお越し頂いたのは、いったいどういうわけで? 十五年前といいますと、私がよくローマ帝国領に交易に赴いておりましたが、その時にでも?」
ラバンナの想念を読み取っても、実は彼が自分を思い出したわけではないことをイェースズは知った。
「どうぞ、お立ち下さい」
イェースズはラバンナに立つよう促してから、ニッコリと笑った。
「私をお忘れですか? 遥かエルサレムの地であなたと会い、ガリラヤの田舎から私をこの国まで連れて来られたのはあなたではありませんか」
しばらくラバンナはぽかんとイェースズを見ていたが、やがて声をあげた。
「ああ、あの時の!」
「はい。あの時はまだ、十三歳でした。あなたは私をジャガンナス寺院にシャーミーとして入れてくれました」
ラバンナはしばらく言葉を忘れていたようだが、イェースズはニッコリと笑った。
「いやあ、驚いた。見違えましたぞ。あの時の少年の面影は、全くない。立派な聖者の風格そのものだ。あなたがここに入って来た途端に、本当にまばゆい光がパーッとさして部屋中に充満したので、てっきりローマの聖賢だと思ったのですよ。門兵も、ローマから来た人と告げましたのでね」
「本当のローマ人は、こんな赤茶けた顔はしていませんよ」
イェースズは大声で笑った。ヌプとウタリはまた言葉が分からないので、ぽつんと突っ立っていた。
「そうですか。いや、そうですか。それは懐かしい。今夜はゆるりとお休み下さい」
三人は、一つの部屋に通された。天蓋つきのベッドが三基用意されている。部屋の外はバルコニーで、中庭の池が見下ろせた。池の水面には蓮の葉が浮かび、所々で花が首を伸ばして満開に開いていた。その部屋で三人とも、数ヶ月の船旅の疲れでとりあえず晩餐の時間まで熟睡した。
晩餐で出たのは香りと色のついた茶で、イェースズにとって懐かしい匂いだった。そして、テーブルの上には肉や果物など、色とりどりの料理が並ぶ。黄色く辛い液状のソースで、ここの人たちがおいしいものと呼ぶものには、はじめはヌプたちも驚いていた。手づかみの食事にも抵抗を感じていた二人だったが、すぐにもそれに慣れたようだ。左手のひじだけ卓上について手は隠す習慣はイェースズも忘れておらず、それをヌプたちにも伝えた。
「そうですか、そうですか。あの時の少年が……」
ラバンナは、まだピンとこない様子でいた。
「あなた様こそ、今は?」
「そう、あの時はまだ王子でしたけど、王であった私の叔父が亡くなって、子がなかったので私が継ぎました。まあ、ご覧のとおり王とはいっても小さな領地の領主、この宮殿の主にすぎないただのマハー・ラジャーですけどね」
ラバンナは少し苦笑したが、逆にイェースズは神妙な顔をした。
「そういえばあの時は、私はせっかく入れて頂いたジャガンナスを飛び出してしまったんでしたね」
「そうですよ。あの時は、あとが大変だったんですから」
と、ラバンナは笑って言った。
「我が宮殿にも寺院のバラモンの圧力がかかりましてね」
イェースズは神妙な顔のままだった。
「それは、ご迷惑をおかけしました」
イェースズが頭を下げるので、ラバンナはまたひときわ大声で笑った。
「もう、済んだことです。さ、どんどん召し上がって下さい」
勧められるままに、イェースズたちは料理を口に運んだ。酒も出た。
「明日は、ジャガンナスでも見物してきたらいかがですかな。もう、あなたのことを覚えているものもいないでしょう」
「ジャガンナスといえば、一つお伺いしたいんですが」
「何でしょう」
「あの寺院で私といっしょにいたラマースというシャーミーをご存じないですか? あの頃はシャーミーでしたけど、今ではもうそろそろ、サマナーになるころだと思いますけど」
「ラマース……」
ラバンナはしばらく絶句した。イェースズもそうだった。ラバンナの想念を読み取ってしまったのだ。そうとも知らず、ラバンナは口を開いた。
「彼は、亡くなりました」
ラバンナはあえてそれしか言わなかったし、またそれ以上は言うつもりはないようだった。だがイェースズは、ラバンナの想念からすべてを知ってしまい、涙を抑えることもできす、料理に出していた手も止まってしまった。
「そうか、ラマース。そうだったのか」
今まで、十五年以上も知らずにいた事実だったが、ヨシェだけではなくもう一人犠牲の小羊の上に、自分の生命は与えられていたのだった。少年イェースズを殺そうと暴徒と化したバラモンたちの手にかかって、イェースズになりすましたラマースはイェースズの身代わりとなって命を落としていたのである。ヌプとウタリは言葉が分からなくても何か深刻な事態になったということだけは知って、二人とも料理を口に運ぶ手を止めていた。
「私は」
と、やっと顔をあげてイェースズは言った。
「私はこの国を離れてから、もっと東の国へ行って修行をしていました。そして一度故国へ帰国したのですが、今はその東の国へ戻る途中なんです。故国ではローマ兵が私を捕らえ、私は殺されることになった。でも、私は……私は、今……生きています」
イェースズは嗚咽しながら、また顔をあげた。
「死刑の判決を下された私は、尊いある犠牲の上で死に打ち勝ったんです。故国で私は神様のミチを説き、それは今後故国だけでなくギリシャ、ローマにも広がっていくと思います。それは、千金の重みを持つ人類の財産なのです」
イェースズの話に、熱が入ってきた。
翌日、イェースズはヌプたちを連れて、ジャガンナスに赴いた。祭りの山車用の車も広場の隅に安置され、塔がいくつも、青い空に向かってそびえていた。
イェースズは満身にエネルギーを満たし、ジャガンナスの寺院に向けて両手をかざした。ジャガンナスの霊界が、目に見えない黄金の光で満たされていった。イェースズは、ありったけの想いをこめて手をかざした。そこにあるのは過去の自分と、そしてラマースの思い出だ。そのすべてを浄化しようと思った。ラマースの霊の救われを、イェースズは祈らないではいられなかったのである。
二、三日逗留したあと、イェースズはラバンナの宮殿を辞すことにした。出発の朝、ラバンナは宮殿の入り口にまで出てイェースズを送ってくれた。
「あなたが来て下さったのは、夢のような出来事でした。あなたは、本当は風が運んでくれた幻だったのでは?」
「いいえ、そんな」
と、イェースズも満面の笑みで応えた。
「私は定めのない風が造ったような、架空の人物じゃありません。私の肉、骨、筋、みんなここにありますよ」
イェースズが笑いながらそう言って、二人はしっかりと手を握り合った。
「再会とはいいものだな」
色とりどりの穴が咲き乱れる草原の道を歩きながら、イェースズは言った。シシュパルガルフから港とは反対の方角の、内陸部になる北西へと向かっている。
「先生、これからどこに行くんですか? こっちは西ですよね」
東へ帰ることばかり考えているウタリが、首をかしげながら尋ねた。
「いいんだ。また再会の感動を味わいたくてね」
そこまで言った時またイェースズの頭の中にラマースのことがよぎり、思わず彼は口をつぐんだ。
そのままいい気候に恵まれた旅を続けて約十七日目に、大河とともに町が見えてきた。すでにここはカリンガ国ではなくアンドラ国で、その大都市カーシーにたどり着いたのだ。はじめてここに来た時は、ラマースといっしょだった。二度目は、ジャガンナスを飛び出してからのことで、その初めての時と二度目の時と同じ光景が、目の前で展開されていた。人々の、大河ガンガでの朝の沐浴である。人々が水の洗礼を行っている川にイェースズは両手をかざし、火の精霊のバステスマを施した。ガンガに火のバプテスマを行って、ここに火と水を十字に結ぶカーシーでの御神業が完了したイェースズは、さらに西へと向かった。急がないと、暑熱乾季がやってくるのだ。そうなると、日中はとても旅などできる状態ではなくなる。
イェースズが目指しているのはガンダーラのプシュカラヴァティーだった。その町はずれに、ブッダ・サンガーがあるはずだ。かつてイェースズがカーシーをも追われたあとに入門したヒーナ・ヤーナではなく、マハー・ヤーナのサンガーだ。かつてそこにアジャイニンというビクシューがいた。今でもそこにいるかどうかは分からない。イェースズがダンダカ山に行くと言って別れて、それきりなのだ。そのアジャイニンに、イェースズはどうしても会いたかった。
またひと月ほど旅をして、プシュカラヴァティーに着くことができた。すでに暑熱乾季に入ってはいたが、このあたりは高度が高いので旅には支障はなかった。あれほど色とりどりだった大地が、緑も枯れて赤茶けた砂漠に変貌している。
このプシュカラヴァティーの町もやはり以前来たことがあるという事実のみが存在し、記憶そのものは年月がおおかた流し去ってしまっていた。だが、イェースズはだいたいの勘で、サンガーの精舎にたどり着いた。丘の上に続く道の竹林は、何となく見覚えがあるといえばあるような気がした。そして丘の上に昇り、パゴダと緑の広場、そこにたむろする黄色い僧衣のビクシューたちの姿を見た時、イェースズの中に一気に記憶が甦った。初めて来た時の少年イェースズはサンガーの僧衣を着ていたので、突然の来訪を誰もが温かく迎えてくれた。しかし、今ではそうではない。ましてやローマの市民服と、その赤い顔の容貌である。つれているヌプとウタリは東洋人だ。この奇妙な取り合わせの三人に、ビクシューたちはそれぞれの手を止め、好奇な視線を投げかけてきた。それでもイェースズは、どんどんと中に入っていった。僧たちは若い。イェースズが前にここに来た頃には、まだほんの子供であったろうものもいる。その僧たちがイェースズに近づいてきたので、向こうが何か言う前にイェースズの方から口を開いた。
「あのう、こちらに……」
ところが、その言葉の途中でイェースズの背後から声がした。
「おお、あなたは」
自分を知っているものがいたのかとイェースズが振り向くと、そこには確実に懐かしい顔があった。
「アジャイニン!」
「おお、やっぱり。あなたはイェースズではありませんか」
二人は満面の笑みで互いに手を取り、躍り上がった。
「しかし、よく分かりましたね。私だって」
「面影がありますよ。だけど、見違えるようだ。全身から光がさしている」
そう言うアジャイニンも昔の青年の面影を残しつつも、もう中年のたくましい体格になっていた。
「お互いにおじさんになってしまった。あれからもう、どれくらいたちますかな?」
「十五年ぶりですよ」
笑いながらのイェースズの返答に、その肩をアジャイニンも笑顔で何度も叩き、それからイェースズを精舎の中へと招き入れた。するとビクシューたちは一斉に、アジャイニンに頭を下げた。それを見たイェースズは、
「おや、もしかして……」
と、言った。アジャイニンはまたニッコリと笑った。
「一応、私が今はこのサンガーの長老なんですよ」
イェースズと縁のあった人たちは、今もそれぞれに活躍している。ここは精舎だけに晩餐でもてなすというわけにはいかないだろうが、アジャイニンとの歓談がイェースズにとっては最大のもてなしだった。周りの竹林がざわめいて、涼しい風が入ってくる。
「そういえばあの時イェースズは、ダンダカ山に行かれたのでしたね。カララー仙の子孫という方にはお会いできたのですか?」
「ええ。お蔭様で」
そのダンダカ山ではカララー仙の子孫のアラマー仙のみならず、もっとすごい存在との邂逅があったのだが、イェースズはそれはあえて言わなかった。
「私もあの時は何も知らずに、あんな山に言っても何もないなんて言ってしまいましけど、お恥ずかしい話なんですが、私はその後であそこにカララー仙の子孫がいらっしゃるということを知ったんですよ。それをすでにご存じだったあなたは、さすがだなって舌を巻きましたよ」
「いえ、そんな」
イェースズは照れて笑った。
「それで、あの当時の長老と私とでダンダカ山に行ってみたんですけれど、そのカラマー仙のご子孫はもうお亡くなりになってました」
「え?」
しばらく互いに沈黙があったああと、
「そうでしたか」
と、だけイェースズは言ってうつむいた。これで当初はこの足でダンダカ山にとも思っていたが、その必要はなくなってしまったことになる。
イェースズは目を上げた。
「あの方は、偉大な方でしたよ。本当のブッダの教えを継承されている方でした。私はあの方のお蔭で魂をも浄められ、そしてそのままここへは戻らずに東の方へと旅をして、東の果ての国で修行して故郷へ帰っていったんです」
「うらやましい」
と、パッと目を上げて唐突にアジャイニンは言った。
「皮肉なものでしてね、私は今は長老としてこの精舎を預かる身ですけど、あなたは自由だ」
「いえ、あなたこそ毎日ブッダの法の中で暮らしておられる」
「でも、時々虚しさも感じるんですよ。もっとも、ビクシューたちにはこんなこと言えませんけどね」
「お気持ちは分かります」
イェースズは一旦言葉を切ってまたうつむいたが、すぐに顔をあげた。
「宗教というのは、究極は救いの業ですからね。政治も医学もすべては救いの業ですから、目指す頂上は同じだと思いますよ。その中でも宗教は、最も霊的な救いの業にならなくちゃいけない」
「そう、そこなんですよ。世尊の霊的な救いの力が、このサンガーにどれだけあるのか」
イェースズは大きくうなずいた。
「ほう、サンガーの長老のあなたの口から、そんな言葉が聞けるとは」
「あなただから言うんですよ。経文にしたって、全部世尊の入滅後、数十年もたって書かれたものでしょう? ご存知の通り、その世尊の残した教団は、今や真っ二つに割れています」
「ヒーナ・ヤーナとマハー・ヤーナのことですね。宗教が霊的救いを失ったら、それは形骸ですよ。最も神様のご計画上、今は人類が神様から離れすぎないように歯止めを掛けていればいい時代ですけれど、そうは言っても宗教はそれぞれの宗門護持、伝統護持ばかりに終始して、救いを忘れて、神様を祭り上げて利用することばかり考えているとしたら、とんだ神様へのお邪魔になると思うんですが、いかがですか?」
「全くその通りですね」
アジャイニンは、大きく何度もうなずいていた。
「同感です。真理はやはり、宗門宗派を超越したところにあるんじゃないでしょうか」
イェースズは再び、アジャイニンの手をとった。
「私は故国で頑迷な宗教者たちのために、命を奪われる直前にまでいったんです。夢の中じゃなくて、現実の話ですよ。それなのに、宗教者の中にあなたのような方がいらっしゃると聞いてとても嬉しく思います」
「でも、私の考えは、間違っていないでしょう?」
「もちろん。間違ってなどいませんよ。それこそ、ブッダが主張されていたことではないでしょうか? あなたには悪いけれど、今のブッダ・サンガーで教えられていることの多くは、後世の人が書き加えたり、捻じ曲げてしまったものじゃないでしょうか」
「でも私は、今の地位を捨てるわけにはいかない」
「それでいいんです。あなたはご自分の立場を通して、神様の御用をされて下さい。まずは宗教者ほど真理に目覚めて、霊的救いをするべきでしょう」
そんなことを言いつつも、イェースズの心はふとガリラヤに、そしてエルサレムへと飛んでいったl 今あらためて、残してきた使徒たちのことが気になるイェースズだったが、西の空を仰ぐとそのあたりの雲が真っ赤に染まっていた。
数日の滞在のあと、イェースズは出発する旨をヌプ、ウタリに告げ、アジャイニンにも辞去の意を示した。当然引き止められたが、イェースズの微笑の中にその大役を読み取ったのか、アジャイニンも無理にとは言わなかった。そしてパルチア国から出航する時にラクダを手放していたイェースズたちに、また三頭のラクダを送ってよこした。
イェースズとアジャイニンは、旅立ちの時に精舎の入り口で固い握手を交わした。
「この握手の意義は大きいでしょう。アジャイニン、あなたはあなたの立場でがんばって下さい」
強く握った手は、アジャイニンによって強く握り返された。
「あなたのことは、このサンガーで後々までも語り継がれていくでしょうね」
そんなアジャイニンの言葉に、イェースズは笑みを返した。ビクシューたちもイェースズたち三人を見送ってくれた。年がヌプたちに近いものも多く、互いに言葉が通じないまでも交流を深めていたようだ。
サンガーを後にした一行だが、イェースズはそのまま北を目指した。しばらくは平坦な、緑の多い大地を進んでいたがそれも束の間、道は次第に険しい山岳地帯へと入っていった。それも、一つの山を越せば終わりというようなものではなく、大地の襞のようにいつまでも山岳は続いた。それまでは結構親切な人が多く食料にも事欠かなかったが、いよいよ人で会うことはめったになくなってきた。そうなると、ヌプやウタリがどこからともなく狩をしてくる。ちょっと林の中に入っては小動物や木の実を採り、また川では魚を捕らえ、大地の恵みに何も不自由することはなかった。思えば金があれば何でも手に入り、金がないと飢え死にしてしまうよう社会は故国のイスラエルやあるいはローマくらいで、それに慣れてそれが常識だと思っていたが、巨大な地球の表面では、そのような場所はごく一部なのだ。だがやがて、それが世界中に広がる時が来るであろうことは、イェースズは十分認識していた。それがユダヤのやり方であり陰謀でもあるが、その奥の奥の奥には神御経綸上の神霊界の裏の裏の仕組みがあることもイェースズは知っていた。金、つまり通貨や貨幣がない社会は、欲望のない社会といってもいいくらいだからだ。この旅においてイェースズはほとんど金を持っていなかったし、持ってたとしても故国のユダヤ貨幣もギリシャ貨幣もローマ貨幣も、もはやここでは何の意味もなさない。それなのに一度も食料にありつけずにひもじい思いをしたことはない。すべてを至れり尽くせりで与えられているという感じだった。親切な人からの施しや、ほかは大地の恵みとして森の中から頂いた。
道は山岳をぬけると高地の上になり、砂漠も増えてきた。夜ともなるともう冷える時分だが、彼らは焚き火を焚いてその周りで眠った。だが焚き火のせいではなく、イェースズのそばにいるだけでぽかぽかと暖かくなると、ヌプもウタリも言っていた。
やがて、高原の道が続くようになった。その一面の草原で時々出会うのは、羊の群れを追う遊牧民たちだった。皆、人はよかったが、何しろ言葉が通じない。身振り手振りでこちらの意思を伝え、相手の想念を読み取ったところ、もっと東に自分たちの民族ソンビ族の王がいるシベラという町があるという。そしてもう一つ得た情報は、もうすぐ秋が終わって冬になるので、そうなるとこのあたりは完全に氷雪に閉ざされて旅は不可能になるということだった。イェースズ一人なら寒暑は彼の問題とするところではない。常に神と波調さえ合わせていれば、寒暑の苦など存在しないのだ。しかし、ヌプやウタリはまだその段階に至っていない。そこで、とにかくそのシベラという町まで行こうとイェースズは思った。
そしてもう一つ気がついたことは、土地の人々の容姿が白人や赤人のそれではなく、ヌプやウタリと変わらない黄人になってきたことであった。遊牧民の群れに出くわすと、イェースズはひと目で異邦人と分かるので、彼らはまずヌプやウタリに声をかけてくる。二人を同族だと思っているようだ。もちろんヌプたちとて言葉が分かるはずはないのだが、どうもシムの国が近づいてきたとイェースズは感じていた。
シベラに着いた。集落には城壁などなく、家も皆すぐに移動できそうな天幕だった。王の宮殿とて、宮殿とはいえ外見は円形の天幕であり、周りに柵があることでかろうじて庶民の天幕とは区別されていた。イェースズは、その王に会うことができた。天幕の中には赤い絨毯が敷かれ、王も毛皮の衣服を着ていた。髭が濃く、頭髪は長い。しかも顔の彫が深いので、ヌプやウタリとは明らかに同族のように見えた。
王の話では、シムの国はここよりも南であるという。従ってイェースズたちはシムに到着せず、その遥か北の方へと道をとってしまったのだ。しかも、王の想念を読んでの会話では、シムではかつてイェースズが訪れた時のシェン王朝はすでに滅び、その前にあったハンという国が再興しているという。都もティァンアンから別の場所に移されたということだ。
イェースズは身振りでそこに言ってみたいことを告げたが、王はとんでもないという想念を送ってきた。このシベラとハンはずっと戦闘状態にあり、しかもそのハンとの間にはかのジェン・チャーグ・フアンが築いた長い城壁があって、それは越えられないという。その城壁の東の端は海に至り、西の端までは馬を飛ばしても数ヶ月かかるということだ。その想念の中の、東は海に至るということにイェースズはピンときた。南のシムに行くより、東に向かって海まで出れば、船で霊の元つ国まではすぐに行けるはずだ。もうシムに行く必要はなく、ここから真っ直ぐ東に行って海に出て、それから海を渡ればいいことになる。
その夜は珍しい酒でもてなされ、翌朝にはもうイェースズは出発しようとした。王はひきとめ、もうすぐ冬になると何度も繰り返したが、目指す国を目の前にし、さらにヌプたちの望郷の念をも考えると一刻の猶予もできなかった。
その王は、イェースズたちのラクダに関心があるようだった。どうもこの国にはいない動物らしい。代わりに遊牧民でありながら騎馬民族ともいえるほど、この国の人々は皆馬に乗っていた。イェースズの出発に当たって王はラクダと馬の交換を申し出て、イェースズは快諾した。さらに王は三人に毛皮の上着をも与えてくれた。
ラクダよりも歩速の速い三頭の馬に乗り換えたイェースズたちは、あと一息と勇んで再び東を目指した。
確かに、冬の旅は辛かった。
一面の銀世界の中、馬の足も遅々として進まない。吹雪ともなると前進は不可能となるので、仕方なく岩陰に火を焚いて一日を過ごしたりもした。それでも東に向かう三人の顔は炎に照らされて希望に輝き、そんな時も談笑して時を送っていた。
東進するにつれて、若干ではあるが文化の程度が高くなってきたということが感じられた。ある日出くわした村では、それまでの円形の移動式天幕ではなく石造りの瓦屋根の家が並び、その家はかつてシムの国で見たものと少しも変わらなかった。しかし、シムの言葉は通じなかった。それでも人々はイェースズたちが旅のものと知ると、粗野ながら丁重にもてなしてくれた。食器はまるで神に供える皿の下に足のついた高杯であり、酒を相手に注がれればそれに返杯する慣わしのようで、まず自分の杯を洗って相手に差し出し、相手は手を組んで深々と礼をしてから一歩下がって厳かに杯を差し出す。そんなうるさすぎるほどの礼節の国なのだ。その家の壁には、戦闘用の武具があった。
村の周りは一面の平地で、遥か遠くを山が連なって横たわっているのが見える。家長が話す言葉は分からないがイェースズがその想念を読み取ると、今は雪の下になっている平地は実は麦や黍の畑なのだそうだ。しかも、この村では誰もが皆、道を歩く時に歌を歌いながら歩いているので、いつもにぎやかだった。それに加えて折りしもこの地方での正月らしく、村中で連日宴会となっていた。歌や舞踏も催されてにぎやかな限りであり、聞けばこの日は囚人さえ一時釈放されるという。村の人たちの服装は綿の入った上着に、下は足にぴったりとした筒状の履物だが一様に色は白だった。足には革沓を履いていた。
「ここから真っ直ぐ東に行って、海がありますか?」
もう一度イェースズは、そのことを確かめたかった。最初に出迎えてくれた髭の濃い家長に、身振りでそれを伝えるのに苦労した。時には雪の上に絵を描いて、意思を伝達した。それがやっと通じて家長が言うには、ここから真っ直ぐ東にひと月も歩けば海に出るとのことだった。しかしそれは夏場の話で、海までは険しい山脈を越え、さらに別の国を通過しなければいけないとのことで、彼はイェースズたちをなかなか出発させようとはしなかった。
半月ほどして、もうこれ以上雪は降らないという頃になったということで、イェースズたちは旅立つことにした。村中でイェースズたちを送り出し、家長はこの国で取れたという赤い玉をくれた。
道は白樺の森林地帯を抜けると確かに険しい山道となり、やがて本格的な山岳地帯となっていった。切り立った岩の断崖の下の細い道では、馬も怯えて進まないこともある。その道の遥か下も谷川で、そんな道に巨大な鷲が時折飛来して馬を驚かせたりもする。もう暖かくなったからというので長く滞在したプヨの国の村を出発したのだが、これでは厳冬に逆戻りだ。ヌプやウタリはもともと雪国育ちなので、それほど苦には思っていないようだ。無論、イェースズは寒さなどを感じたりはしない。
どこまで行っても、人家はありそうもなかった。しかしある日、驚くほど長い弓で狩をしている男に出くわした。向こうもイェースズたちのいでたちに驚いていた様子だったが、ひと言ふた言何か言って歩き出した。どうやら、ついてこいということらしい。
そしてついて行って驚いた。この地方の家は、地面を縦に深く掘った穴居だったのだ。これでは人家は見つからないはずだ。穴の中へは梯子で降りる。小さな穴の入り口ではあったが、地下に戻ると思ったより広かった。だがすぐに、異様な臭いが鼻を突いた。どうやら家人の体臭らしい。イェースズたちの顔を見て家長はすぐ察し、毛皮の衣の腕をまくって見せた。そこに、異臭を放つ脂らしきものが塗られていた。これで寒さを防ぐのだという。その脂を持ってきて家長が笑いながらイェースズたちにも塗ろうとするので、慌てて身振りで断ってイェースズもヌプもウタリも三人で笑いながら逃げ回った。
もてなしてくれた夕食は獣の肉の入ったスープで、かなり美味だった。ところがそのまま数日滞在するうちに分かったのだが、このオロの国ではどの家でも豚を飼っており、その肉を食し、衣服も豚の皮で作られ、体に塗っている防寒のための異臭を放つ脂も豚の脂だという。もし普通のユダヤ人が聞いたらその場に卒倒しかねないが、世界中を歩き回ったイェースズにとってはたいていのことでは驚かなくなっていた。
イェースズはやはりここでも、海について聞いてみた。するとこの国の国土の東は大海に面しており、その辺の住民はよく舟で漁に出ているという。それを知ってイェースズは飛びあがらんばかりに喜び、そのことを伝えられたヌプとウタリも大騒ぎをしていた。しかも、この家長も舟を持っているということで、イェースズはヌプとウタリの故郷がその海を東に渡った所にあると説明した。家長も、確かに大海を東に渡れば大きな島があると聞いたことがあるというので、そこへ渡りたいとイェースズが告げると、家長は馬と引き換えになら舟をくれると言った。三人が喜びと感謝に満ち溢れたのはいうまでもなかった。
その家長の案内で、一行は再び東に向かった。丘陵地帯をぬけると、驚くほど海は近かった。しかも、陽気までぽかぽかと春めいてきている。
海辺に着いてから家長より航海に耐えられそうな立派な帆船を与えられ、あとは出航するだけとなった。イェースズは家長の手を、しっかり握った。言葉は通じなくてもイェースズはありったけの笑顔を贈り、その心は通じたらしく家長も笑顔を返してくれた。そしてイェースズは握った手を通して霊的エネルギーを家長に与えて家長の全身に満たし、家長の魂は浄化されていった。
出航の朝、風は刺すように冷たかった。海も荒れている。陽気になったとはいえ、まだまだ真冬の海だ。果てしなく広がる白っぽい海原を目前に、イェースズはこれが最後の難関だと思った。これまでも山岳や原野を乗り越え、やっとここまでたどり着いた。しかし、目指す霊の元つ国へ渡るには、どうしてもこの大海を越えねばならない。神様が下さった、最後の試練にも思えた。
イェースズは海岸近くまで迫っている岩場の針葉樹のうち、小さい木を切り倒した。そして懐にある小刀の「アマグニ・アマザ」のうちのアマグニの鞘を払い、切り倒した木で瞬く間に木彫りの青龍の像を彫りあげた。そして神呪を唱えて霊線をつなぐと、この調整によって木彫りはそのまま御神霊とつながる御神体となり、航海の守り神である龍神の青龍の依代となった。
「さあ、これを船の中にお祭りして、いよいよ出発だ」
明るくイェースズは、ヌプたちに告げた。
「はい」
元気な返事が、すぐに二人から発せられた。