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過越の準備の日も、二日後に迫った。
「あさってか」
イェースズは宿屋の小さな窓の外が暗くなっていくのを見ながら、ぽつんとつぶやいた。部屋の中はひしめき合っている状態だ。なにしろ七人用の部屋に十三人が詰めこまれている。だが、そうなることによって彼らだけの個室が確保できたのであり、この時期としてはそれは奇跡に近かった。祭りの頃の市街の宿屋は、たいてい相部屋になるのが普通だったからだ。実はこの宿屋に入れたのも、最高法院の議員でもあるニコデモの手配だった。
窓の外は夜になっても、まだ人の往来が激しかった。ユダヤ全土の人口が、この都に集まってきているのではないかと思われるくらいだ。そんな人ごみにも、イェースズはまたため息をついた。イェースズにとっては、成人して初めての過越の祭りであった。
「先生、何をさっきからため息ばかり?」
ペテロがイェースズの顔をのぞきこむようにして尋ねた。
「あさってになったら、身代わりの子羊の血が神殿の庭で流される」
彼らにとってイェースズが言ったのは当たり前の出来事だったので、誰もそれを気にもとめなかった。過越の準備の日には神殿の庭で生け贄の子羊が大量に屠られ、その子羊の肉と種なしパンがその日の夕食になる。祭りはそこから始まり、七日間はずっと種なしパンを食べることになる。ところがこの年は、その過越の晩餐をとる日没から、安息日になってしまう。
「ガリラヤのヤコブさん」
イェースズがそんなことを考えていると、宿の主人が部屋をのぞいた。
「お客さんですぜ」
ヤコブが怪訝な顔をして立ち上がりかけたが、それを小ヤコブが手で制した。
「私ですよ」
それから小ヤコブは、イェースズを見た。
「さっき言ってた人たちが、見えたようですね」
宿に着いてから小ヤコブが、イェースズに会いたがっている人たちがあとでここに来ると、すでにイェースズには告げていた。
「そんなに軽々しく、我われの居場所を人に教えるな」
イスカリオテのユダが血相を変えたが、小ヤコブは笑っていた。
「それが、この人たちは絶対に大丈夫なんですよ」
イェースズに会いたがっている人とは、昼間にトマスがイェースズに引き合わせギリシャ人たちのような人だと皆は思っていたので、小ヤコブが大丈夫だと言っても納得がいかない顔をしていた。だが小ヤコブが誰を連れてくるのか、すでに小ヤコブの意識から読み取っていたイェースズだけが落ち着いていた。その間にも小ヤコブは部屋から出て、やがて「その人たち」を連れて戻ってきた。
「母さん」
イェースズは母の姿を見て、軽くつぶやいた。だが、そこにいた使徒たちは皆驚いて、慌てて居を正した。
「皆さん、お久しぶりですね」
マリアは目の周りにだけしわができた顔で、ニコニコ笑いながら部屋に入ってきた。
「母さんも過越の祭りに?」
穏やかに笑みながら、イェースズが言った。そんなイェースズにも、母は笑顔を向けた。
「昨日、着いたのよ。それで今日神殿に行ったらあなたが人々に教えているし、まあ相変わらずと思ってね」
マリアはイェースズのそばに、無理やり割り込んで座った。
「それでヤコブをつかまえて、ここを教えてもらったのよ」
「隠してたな、ヤコブ」
イェースズは笑いながら、視線を小ヤコブに向けた。小ヤコブは顔をすくめた。小ユダが、言葉を続けた。
「先生をびっくりさせようと思って」
「ユダもグルだったのか」
イェースズはひとしきり、高らかに笑った。母の前でいつしか小ヤコブや小ユダにとって師ではなく、心なしか兄に戻っていたイェースズだった。もう一人のヤコブも、笑って、
「先生は何でもお見通しだ。騙そうなんて無理に決まっているじゃないか」
と、言って皆の笑いを誘っていた。だが、部屋の外には、まだ誰かいるような気配だった。その外に向かって、イェースズ自身が、
「入って来なさい」
と、言った。
「兄さん。しばらく」
イェースズの弟の中でただ一人、今でもイェースズを兄と呼べるのはすぐ下のヨシェだけだ。そのガリラヤに残してきたヨシェが、やはりニコニコしながら部屋に入ってきた。そして妹のミリアム、さらにはエッセネ老尼僧のサロメ、そしてイェースズの妻のマリアもいっしょだった。
「みんな、おそろいだな」
イェースズは上機嫌だった。そして、
「神様も、粋なお計らいをなさる」
と、人々には聞こえないような小声で言った。だが、その全員を部屋の中に入れるには、部屋は狭すぎた。宿の主人が廊下につっ立っている彼らを邪魔そうにどけて、客の接待に走り回っていた。
「お母さんたちは、お宿は?」
と、ペテロが心配して尋ねた。
「宿なんて、そんな。天幕ですよ」
祭りの時期に地方から上ってきたすべての人を宿が収容するのは到底不可能で、多くのものは城外の仮設大天幕に入る。
「それよりもイェースズ、あなたは都でもずいぶん有名なのね」
母マリアに言われて、イェースズは笑った。
「あなたを救世主とたたえている人たちもいるかと思えば、あなた、お尋ね者にもなっているじゃありませんか」
「そうだよ」
と、部屋の外からヨシェも言葉を続けた。
「だからヤコブも、ここを訪ねても絶対に兄さん名前は出さないで、自分の名前を出せと言ったんだよな」
イェースズは、少しだけ瞳を伏せた。
「ところで、兄さん」
続けてのヨシェの声に、イェースズは目を上げた。
「この人たち、見覚えがあるだろう」
「先生!」
イェースズは耳だけが、その声の方に引っ張られていくような感触を覚えた。それはイェースズが忘れるはずもない、遠い遠い東の国の言葉だった。そしてすぐにヨシェの陰から、異民族の男が二人顔を出した。
「ヌプ! ウタリ!」
「先生、しばらく!」
イェースズは、頭がクラッとする思いだった。そこにあったのは懐かしすぎる二つの微笑みで、使徒たちには理解できない言語で彼らはイェースズに挨拶をした。あの頃はまだほんの少年だったが、別れてからもう五年がたってもうすっかり立派な若者になっていたが、それでも面影はあった。
「先生、やっと着きましたぜ」
イェースズが霊の元つ国を離れる時、あとからイェースズを追うということになっていた二人だが、こんな土壇場になって再会できたのだ。
「今度は本物の先生だ!」
ウタリはイェースズの心境も知らずに、ただただ嬉しそうにしていた。それはヌプも同じことだった。イェースズはヨシェを見た。
「ヨシェ。どうしてこの二人が?」
「ここに向かう旅の途中で突然この二人が、訳の分からない言葉をしゃべって私にまとわりついてきたんだよ。でもよく聞くとこの二人、兄さんの名前を連呼しているから、それで私と兄さんとを間違えているなってすぐに気がついてつれてきたんだ」
そうヨシェは笑って言った。それは無理もないことで、ヨシェはいくら兄弟だからといってこんなにも似るものかと思えるほどイェースズと瓜二つであり、四人の兄弟の中でもイェースズとヨシェが似ていることは際立っていた。イェースズとヨシェは母親似、そして小ヤコブと小ユダは死んだ父親の血を濃く受け継いでいるようだ。
「先生、お会いできて嬉しい。昔のように、またお供をさせてください」
ヌプが嬉しそうに言った。イェースズは顔を伏せてしばらく黙ってから、目を上げた。
「来るのが、少し遅かったかもしれない」
イェースズの目は潤みだした。この二人とのこの場での再会は、あるいは自分への来るべき運命への神様からのせめてもの慰めかもしれないと思ったのだ。イェースズとヌプたちの会話は、ほかの人々には全く分からない言語だったので、誰もがきょとんとしていた。ただ、母マリアはただ事ならぬ雰囲気を感じたように顔を上げた。
「イェースズ。これからどうするの? 大祭が終わったら、ガリラヤに帰ってくるんでしょう? そうすれば少しは安全よ」
かつては危険と思われていたヘロデ・アンティパスの領内が、今ではむしろ安全圏でもある。イェースズは少し間を置いた。
「分かりません。まだ、何も言えません」
「分かりませんって……」
マリアはちらりと、部屋の外にいるイェースズの妻のマリアに目をやった。妻マリアは、黙って目を伏せていた。その母マリアたちが、これ以上ここにいるのには限界があった。宿の中もますますごった返してきた。特に老齢のサロメを、立ちっぱなしにさせるのも偲びない。
「ヌプ。ウタリ。母や妻、弟を守ってくれ」
「守るって?」
「実は、私は今や権力者たちに追われている身なんだ。だから危害が母さんたちに及ばないようにね」
ほかの人々が言葉が分からないのをいいことに、イェースズはそんなこみいったことまではっきりとヌプたちには告げた。それから彼は、使徒たちを見わたした。
「ペテロ。それからユダ」
イェースズがペテロとともに指名したのは、イスカリオテの方のユダだった。
「母さんたちを、天幕まで送っていってほしい」
二人は、返事をして立ち上がった。
「それから小ヤコブと小ユダもだ」
二人の弟は、限りなく嬉しそうな顔をした。彼らにとっても久々の母との再会なのだ。
一行が出ていって少し部屋に余裕ができたが、そのときマタイがイェースズに言った。
「ペテロはともかく、どうしてユダを? あ、イスカリオテの方ですよ。あいつは、どうも危ない」
「危ない人物こそ、いちばん重要な役につかせろっていうじゃないか。それに同じ使徒なんだ。仲間をそんなふうに言うものじゃない」
イェースズはそう言って笑っていたが、その笑顔の下の彼の真意は、そこにいた誰もが分からなかったようだ。
案の定、小ヤコブと小ユダだけが戻ってきても、ペテロやイスカリオテのユダはいっしょではなかった。
「ペテロもイスカリオテのユダも、なんかヨシェ兄さんと天幕の外の草むらに座ってずっと話しこんでいましたから、二人とも置いてきました」
小ヤコブは、そう説明した。そのペテロとイスカリオテのユダが戻ってきたのは、夜半も過ぎてからだった。
翌日、イェースズは外出もせず、昼近くになってからヤコブとエレアザルの兄弟、そしてペテロを呼んだ。
「今夜、みんなで特別の食事をしよう」
「ああ、今日はキブシュの日ですね」
毎週、安息日の前々日の夜、すなわち後世のいい方でいえば木曜の夜に、師と称される人々は皆、弟子とともに晩餐を取り、それをキブシュというが、イェースズが言った食事をペテロはそのキブシュだと思ったようだ。だがイェースズは、首を少し横に振った。
「確かにキブシュの日だけども、今日の夜に過越の食事をするんだ」
「あ、なるほどそうですね」
と、ペテロがうなずいた矢先、ちょうどそばにいて彼らの会話を小耳にはさんでいたトマスが、
「え? 祭りの準備の日は明日ですよ」
と、勝手に話に割って入ってきた。
「つまり、過越の晩餐は明日でしょう?」
ペテロたち三人は、それを聞いて少し笑った。使徒の中でもペテロなどのようなヨハネ教団出身のものは、エッセネの流れが身についている。つまり彼らはユダヤ暦とは別の、エッセネ暦を知っているのだ。ユダヤ暦が月の満ち欠けだけで祭礼の日取りを決めるのに対し、エッセネ暦は安息日も加味して決める。この年は過越の晩餐をする夕方から安息日に入ってしまうのだが、エッセネ暦ではそれを避けて一日早く過越の晩餐をする。それが、今日なのである。
「いいんだよ。今日で」
と、ペテロがトマスに説明した後、そのペテロたち三人にイェースズは、
「あなた方で、晩餐の場所を準備してほしい」
と、言った。ヤコブが小首をかしげた。
「でも、こんな時にどうやって探せばいいんでしょう」
イェースズは笑って、
「あの人に頼むといい」
と、言った。
「泉の門の所に行けば水瓶を持った男がいるから、その後をついて行けばあの人の所に行く」
「あの人って、もしかして」
と、エレアザルが顔を上げた。
「そう。かの法院議員だよ」
ニコデモだ。いつの間にかイェースズはニコデモと、過越の晩餐の手はずまでしている。しかも、水瓶を持った男などという合図まで決めていた。そもそも水汲みは女の仕事だから男が水瓶など持って歩いていたら目立つし、すぐに気づくに決まっている。
出かけていったペテロたち三人は、かなり時間がたってから戻ってきた。聞くとその場所の詳細は、上の町のダビデの墓のすぐそばだという。そうなると、大祭司カヤパの私邸からも至近距離となる。今、イェースズを躍起になって探しているのは、その大祭司カヤパのはずだ。そのすぐそばで晩餐の宴をはるということは、灯台下暗しの効果をニコデモは狙ったのだろう。
夕方になってイェースズは、使徒たちとともに宿を出た。この日のイェースズはいつもの白い衣ではなく、灰真珠色の一衣縫を着ていた。これも、ニコデモから贈られたものだ、。使徒たちはまとまって行動すると目立つので分散して歩き、城門をくぐって上の町に入った。途中、何度も人ごみの中で、馬に乗ったローマ兵とすれ違った。祭りの期間はとにかく多数の人口がエルサレムに集中するのだから暴動も起こりやすく、従って普段は海浜のカイザリアにいるローマの知事ポンティウス・ピラトゥスも今はエルサレムに来ているはずで、駐屯するローマ兵の数も数倍に補強されている。だが、イェースズが警戒すべきは祭司たちの神殿兵であって、ローマ兵から見ればイェースズなどという存在はローマの辺境の蛮国の都に群がる異邦人の群れの中の一人にすぎず、関心の対象外だった。
「ここです」
とペテロが示した石造りの二階家は、確かにすぐそばにカヤパの邸宅がそびえていた。その入り口の所に、一人の少年がいた。
「僕がマルコです。ニコデモから聞いています。用意はできていますから、どうぞお二階へ」
イェースズは笑顔で礼を言い、階段を昇った。部屋に入るとプーンといい香りがした。焼きたての羊の肉とパンの匂いだ。食事の準備は、すっかり整っている。自宅でこの過越をする場合は、まず家中のパンやケーキなど種入りのものを探して取り除く「ベディカーツ・ハメツ」という儀式から始まるが、ここではすでに習慣通りに布がかぶせられたマッツアと呼ばれる種を入れない大判のパンが三枚、そして小羊のすねの骨、パセリ、マロアーという苦菜、リンゴと木の実を混ぜたハロセスという練状の調味料などが床の上の皿の上に盛られていた。さらには、水の入った桶もあった。
「いい部屋だな。こんな部屋で過越の晩餐ができるなんて有り難い」
イェースズは部屋の中を見渡した。オリエント風のアーチ上の内飾が、柱と柱の間の天井部分についている。いくつかの円柱が、その天井を支えていた。
「さあ、先生。座りましょう」
アンドレがそう言ってイェースズに席に着くよう促し、イェースズに続いて皆が食事の皿を囲んで床に丸く寝そべって座ると、イェースズは祈りの言葉を唱えながらろうそくに火を灯した。これもすべてしきたり通りである。このろうそくが灯された瞬間から、この空間は聖なる時間を迎えるのだ。
 まめそうな少年マルコが、上がってきた。イェースズはタオルを腰に巻き、水の入った桶の前にかがんだ。ここで全員が順番に手を洗い、その手を召使いがタオルで拭く。だからここでは当然少年マルコがそれをするはずだったが、イェースズはタオルをマルコに渡さなかった。
「さあ、みんな。一人ずつ、足を出しなさい。私が洗ってあげよう」
「え? そんな」
そう言われても、誰もがためらった。手ではなく足を洗うとイェースズは言うし、しかもまるでイェースズが召使いであるかのようにその手伝いをすると言うのだ。
「早く!」
イェースズと最初に目が合ったアンドレが、最初に恐々と桶に足を入れた。イェースズはそれに水をかけ、自らの手でぬぐった。
「はい、次」
次々に使徒たちの足を洗うと、イェースズはその足をタオルでふいていった。
「先生!」
と、悲痛な声を上げたのは、ペテロだった。自分の番が回ってきた時、その足元にうずくまる自分の師を見て叫んだのだ。
「これじゃあ逆じゃありませんか。私たちが先生の足を洗って差し上げなければならないのです。どうか、お願いです。私は勘弁してください」
「いいんだよ」
イェースズは微笑み、ペテロに無理やりに足を出させようとした。
「いずれ、この意味が分かるよ」
「いいえ。やはりだめです。お願いですからやめてください」
とうとうペテロは、出しかけた足を再び引っ込めた。
「私に足を洗わせてくれないのなら、私とあなたの関係は無になってしまうよ」
「え?」
ペテロの顔が一瞬引きつった。
「そんな、無になるなんて困ります。じゃあ、足だけではなく、手も頭も洗ってください」
慌ててペテロが早口で言うのでイェースズは声を上げて笑い、皆も大爆笑となった。
「そこまでは必要ないさ。体は一度洗えばもう浄いからいいんだ。でも足は外を歩いてくるわけだから、洗わないといけない。いくらもう浄いっていったって、何から何まで浄いってわけにはいかないんだよ、あなた方はね」
イェースズはペテロの足をも洗いだした。そしてそれもふいて、次のマタイに移った。
「火の洗礼の業で魂を浄めても、どうしても日々の罪穢は積んでしまうんだね」
やがて全員の足を洗い終わると、イェースズは食事が置いてある床に腰をおろし、足を投げ出して横になった。皆もその通りに円い輪となって足を投げ出し、横向きにに座った。
「みんな、なぜ私があなた方の足を洗ったのか、分かるかい」
誰もが黙って、首を横に振った。
「みんなは私を、先生と呼んでくれる。その私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方もこれに倣ってほしい。これからはみんな、互いに足を洗い合うべきだ。つまり互いの魂の向上のために互いに拝み合って、そうした下座の心で人々を導いていってほしいんだ」
何かを納得したように、使徒たちはようやくうなずき合っていた。
「下僕は主人に勝るものではないし、遣わされた私も神様に勝るものではない。だから、下座が大事なんだ。そしてこれからは、神様が私を遣わしたように、今度は私があなた方を遣わす。頼むよ。前にも言ったけど、私が遣わすあなた方を受け入れる人はあなた方を遣わした私を受け入れることになるし、私を受け入れる人は私を遣わした神様を受け入れることになるんだ」
使徒たちの想念は、また二人組みになって家々への福音宣教の旅に行かされるのかなという程度だった。そのあとで一同は席についた。晩餐の食物を真ん中に使徒たちは輪になって、床に横座りに座った。
「先生!」
座るや否や、当然トマスが叫んだ。
「今日の先生は、何だか変だ。まるで、今日を境に先生とお別れするような気持ちになってしまうじゃないですか」
イェースズは、静かに目を伏せた。
「今日、私はある人に、私を裏切らせようとしている」
「えっ!」
驚きの声は、誰もが同時だった。
「だ、誰ですか、それは」
イェースズの向かいに横になっているペテロは上体を起こし、声を震わせながら尋ねた。暑くもないのに、その額には汗がにじんでいる。
「先生、それは誰なんですか?」
イェースズの右隣のエレアザルが言った。エレアザルはイェースズに背を向けて横になっているので、ものをイェースズに言うときはイェースズの胸にもたれかかる形になる。
「それはいつも私とともに食事をし、今も私がパンを浸して渡す人の中にいる」
「それじゃあ、俺たちの中の誰かじゃないか!」
と、アンドレが叫んだ。
「裏切らせるって、まさか私じゃないでしょうね。私だったら無駄ですよ。私は裏切りませんから」
そう言ったトマスをはじめとし、使徒たちは次々に同じ質問をした。
「私ですか」
と、ぼそっとイスカリオテのユダも言った。それをイェースズは見た。
「あなたまで、そういうことを言うのか」
この時は、イェースズのこの言葉の真意を誰も理解していなかった。
「みんな、自分の胸に手を当てて、よく考えてみるといい」
「先生、この際だから、言っておきたいことがある」
イスカリオテのユダは、続いてヒステリックな声を上げた。もはやこれ以上は猶予できないという悲壮な決意が、その表情には表れていた。
「先生は、『まず行って病を癒せ。しかる後に福音を伝えよ』とおっしゃいましたね」
「ああ」
「ならばなぜ、病めるユダヤを癒そうとはしないのですか」
「病めるユダヤ?」
「そうです。ローマの支配下にある今のユダヤは、病(やまい)そのものではないですか。神の愛云々を先生は説かれるけど、神の愛はこんな苛酷な状況をお許しになるんですかね? 先生はどうしてローマの圧政と重税に苦しむ人民を、ローマから救おうとなさらないのですか。おっしゃってることが矛盾してるんだ!」
ユダはかなり興奮していた。それでもイェースズは微笑んでいた。
「あなたは私に、ローマを敵とし、ローマを憎めと言うんだね?」
「当然でしょう。ローマのために、我われイスラエルの民は虐げられているんだ。ローマは敵です」
「言っておいたはずだよ。あなたの敵を愛し、仇なすもののために祈れって」
ユダはしばらく、唇をかみしめて黙っていた。
「先生、もはやこれまでですね」
「あなたは、あなたが思うようにすればいい。今すぐ」
「では、そうさせて頂く」
ユダは立ち上がった。ほかの使徒たちは、ただ呆気にとられていた。
「ただ、私は先生こそが救世主だと、今でも……今でも、信じている!」
それだけ言い残して、ユダは階段を降りていった。しばらく気まずい雰囲気と沈黙が漂った。イェースズはその雰囲気を打開するかのように、笑って目の前の水差しを持ち上げた。
「おい、おい、この水差し。取っ手が壊れてるよ」
そう言ってイェースズが大笑いした。イェースズの笑顔が、その場にパッと光をもたらしたようだった。
「口のところも欠けてるし、我われにぴったりのボロだなあ」
それでやっと、使徒たちの顔の筋肉も緩んでいった。
「さあ、過越の食事を始めよう」
町では一斉に灯火が灯された頃で、エッセネではない一般の家庭では明日が過越の晩餐となるので、その前夜であるこの日の灯火を合図に一斉に家中の普通の種のあるパンが捨てられる「ベディカーツ・ハメツ」の儀式が行われ、八日間は種なしパンしか食べることができなくなる。
その時トマスが、怪訝そうに首をかしげた。
「ユダは? 何か買い物にでも行ったんでしょう? 待たなくていいんですか?」
「いいんだよ」
イェースズは静かにうなずいた。
「明日は神殿で、犠牲の小羊の血が流される日だ」
イェースズはしばらく、目を伏せた。そして、言葉をなくしていた。使徒たちはまだ、何も知らない。
イェースズは、両腕を高く上げた。
「主よ。今、過越の晩餐を過ごす私たちを、祝福して下さい」
イェースズは口のところが壊れた水差しから水をぶどう酒の中にたらし、杯をのみ干した。そして苦菜にハロセスをつけ、それを使徒たちに配った。どの家庭でも、過越の晩餐はその苦菜を食べることから始まる。皆が顔にしわを寄せながらその苦い野菜を噛んでのみ込み、イェースズもその野菜に口をつけた。
この晩餐は決して祝宴ではない。そもそもが出エジプトという、民族の苦難の歴史を思い起こさせるための行事だ。だから苦菜と種なしパンを食べる。だがイェースズにとってその苦菜は、一段と苦く感じられた。彼の霊智ははっきりと、使徒たちと晩餐をともにするのはこれが最後だといういことを、しっかりと認識していた。
一同が苦菜を食べたあと、今度はパセリが塩水に浸されて、一同に回された。使徒たちはまた、新しい命の象徴であるパセリを口に運んだ。それからイェースズは、パンをとった。種なしだから小麦粉を練って延ばし焼いただけのもので、薄っぺらいものだ。しきたり通り、イェースズはそれを中心から二つに割いた。二つに割くのも、ナイフを使わずに手でちぎるのも、ヤーハツというしきたりの一つだった。使徒たちは終始無言で、厳粛な祭儀に与っていた。
しきたりではマギードといって、ここでイェースズから過越の由来についての話があるはずだった。どの家でも家長がそうする。出エジプトの際にモーセに率いられたユダヤ人は、小羊の血をその門に塗った。それがユダヤ人である印で、すぐに災いがエジプト人の家の長男を襲ったが、そのユダヤ人の印のある家は災いが過ぎ越していった。そして出エジプトは慌ただしい脱出だったので、彼らは種を入れたパンを焼く暇がなかった。罪の犠牲の生け贄の小羊の肉を食べ、種なしパンを手でちぎり、苦難の象徴の苦菜を食し、そして小羊の血を表すぶどう酒を飲む、そんな苦難の記念は、薪に臥して胆を嘗めるという意味合いがあった。
イェースズはそんな種なしパンを高く揚げた。ところがそれに続くイェースズの言葉は、そのような民族の歴史をしきたり通りに告げるものではなかった。
「みんな、これをとって食べなさい」
十一人の視線が、一斉にイェースズに集まった。
「これはあなたがたのために渡される、私の体である」
誰もが呆然とした。最初にパンを渡されたイェースズの隣のアンドレなど、手を出すのさえ忘れていた。やがてひと通りパンはちぎられてまわり、使徒たちはそれを口に運んだ。
生命のパンである神の教えを実践し、自らの血と肉にしてほしい――使徒たちを見ながらイェースズは、切実にそう願っていた。神の教えは生命のパンであり、それを食べるということは、教えを日常の中で実践することだ。しかしこの時の使徒たちは誰も、イェースズが「あなたがたのために渡される」と言ったその「渡される」という真意を理解してはいないようだった。今日自分は、敵の手に渡される――イェースズはすでに霊智によってそう確信していたのだ。
次にイェースズは、ぶどう酒の杯を揚げた。
「みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなたがたと多くの人のために流されて、罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」
イェースズは杯をまわした。使徒たちは飲んだ。その間、イェースズは首をたれてじっとしていた。
型破りの過越の晩餐は、静けさの中で進んでいった。使徒たちに一通り杯が回ると、イェースズは目を上げた。
「さあ、歌おう」
歌う歌は決まっている。「詩篇」の一一三章だ。
ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。今よりとこしえに、主の御名が讃えられるように。日の出る所から日の沈む所まで、主の御名が賛美されるように……
その歌が終わるや否や、トマスがとうとう叫び声を上げた。
「先生! 先生の記念を行いなさいって、それじゃまるでお別れみたいじゃないですか」
「そうです。先生は私たちをおいて、一人でどこかへ行かれてしまうんですか?」
と、小ヤコブが目を見開いた。イェースズは黙っていた。
「しかし、ユダがいない」
と、シモンが言った。
「ユダに何か買いものかなんかいいつけて、まだ帰ってきていないのに、お別れだなんてことをいい出すんですか?」
イェースズは、ゆっくりと微笑んだ。それは、苦笑ともとれるような表情だった。
「ユダのお蔭で、私は栄光を受けることができる」
「どういう意味ですか?」
シモンの問いには目を伏せただけで答えなかったイェースズだが、すぐにまた顔を上げた。
「まだしばらくは、私はあなた方とともにいるよ」
「しばらくって、どれくらいですか?」
と、小ユダが突っ込んだ。
「もう、しばらくだ。でも、いつまでもあなた方とともにはいられない。私はあなた方を残して、父のもとに帰るんだ」
使徒たちは皆、互いに顔を見合わせた。そんな中でなぜか、ペテロ、ヤコブ、エレアザルの三人は沈黙を守ったままだった。
「私たちもつれて行って下さい」
と、ピリポが叫んだ。イェースズはまた穏やかに微笑んだ。
「私が行く所には、あなた方は来ることはできないんだよ」
「まさか……先生……自殺なんか……」
途切れ途切れのナタナエルの言葉に、イェースズは本格的に笑った。
「自殺なんかしたらら地縛霊になるって、いつも言っていただろう。私は父のもとに帰ると言ったんだよ。人が死んで行く幽界よりも、もっと高次元の神霊界に父神様はいらっしゃる」
使徒たちは黙った。その顔をイェースズは、一人一人見つめた。ペテロは苦しそうに、肩で息を始めていた。そして小ヤコブと目が合った時、小ヤコブが言った。
「先生はさっきぶどう酒を回す時、『新しい永遠の契約』とかおっしゃいましたけど、それって何ですか?」
「それは、新しい戒めだ。それを、あなたがたに与えるよ」
幾やを微笑みを忘れずに、イェースズは使徒たちを見わたした。
「人知で作った実行不可能な掟ではなく、神様から直接賜った戒めだ。あなたがたは、互いに愛し合いなさい。これが、新しい戒め、新しい契約のすべてだ。あなたがたが互いに愛し合うなら、その姿を見て人々はあなた方の伝える教えを信じ、観念の神ではなく実在する神様を信じるようになるだろう。口で偉そうなことを言うよりも、あなた方が互いに愛し合っているその姿で、人々を導くんだ」
少し笑って、またイェースズは続けた。
「羊を打てば羊は散々になる。あなた方にはこれから、試験を出そうと思っている」
「そんな……、私たちが、羊のように散々になってしまうんですか?」
小ヤコブがまた、血相を変えた。
「私だけは、つまずくことはない」
と、ペテロが叫ぶような声を発し、握りこぶしで何度も床を叩いた。そして自分の目頭を抑えた。
「そうか? ペテロ。明日の朝の鶏が鳴く前に、あなたは私のことを知らないなんて言うだろうね」
「そんな!」
イェースズは笑っていたが、ペテロは涙で声をつまらせていた。
「前にあなた方を人々の家に遣わした時に、財布も食料も何も持たずに行けと言っただろう。その時、何か困ったことがあったかい?」
使徒たちは皆、首を横に振った。
「いえ、何もありませんでした」
小ユダが、皆を代表して答えた。イェースズはにこやかにうなずいた。
「そうだろう。でも、これからは違う。いつまでも、私を頼っていてはだめだ。今はまだ夜の世だから、あの時の福音宣教の旅の時のように、人々も頼っちゃいけない。神様を信頼し、しっかりとした自覚を持って、自立してほしい。私といっしょにいれば救われるなどという甘えは捨てて、一人一人が私の代行者として世の荒波の中で自立することを自覚していってほしいんだ。今まであなた方は、私を頼ってきた。しかしこれからは私を頼らずに、一人一人が私の代理人としての自覚を強めていってもらいたいんだ。厳しい道だよ、私のために、あなたがたは憎まれるかもしれない。これがさっき言った、あなたがたに課す試験だ」
「そんな! 先生と、本当にお別れなんですか? 先生はいったい、どこへ行ってしまわれるおつもりなんですか?」
ナタナエルの声は、ほとんど泣きそうだった。
「いつまでも私を頼っていてはだめだ。何かあったら先生がなんとかしてくれると思っているうちは、本当の自立も自覚もできないからね。私を信じるということは、私に甘えることとは違うんだよ」
それからイェースズは、目の前の子羊の肉とパンを自分でとって食べるようにと、使徒たちに促した。使徒たちはほとんど何も言わず、飲み、そして食事をしていた。
「さあ、みんな、暗いぞ!」
イェースズだけが、ニコニコしていた。
「あなたがたは世の光なんだから、もっと明るくなくてはだめだ。そんな暗い顔をして『私は世の光です』なんて言っても、誰が信じるかい?」
「でも、先生」
小ヤコブが、やはり暗い顔のまま言った。
「明るくしろなんて、さっきから先生が、もうすぐいなくなるだの何だのって言って、それで明るくしろなんて」
「そうです」
と、マタイがそれを受けた。
「そんな、いなくなる、いなくなるっておっしゃっているけど、もう帰ってこないおつもりなんですか?」
「いや」
ぽつんとイェースズは言った。
「必ず帰ってくる。だから、これからどんなことがあっても慌てないことだ。とにかく、神様を信じていればいい。神様の世界、つまり神霊界は、たくさんの段階に別れているんだよ。とても『天国』なんて一つの言葉で言い表せるようなものではない。そこに私がちゃんと、あなた方の場所を用意しておくよ」
「え? 本当に神の国に、私たちの住み家もあるんですか?」
ナタナエルが身を乗り出した。
「あるとも。もしないのならないって、はっきり言うよ」
イェースズの陽気さに使徒たちもやっと少し笑ったが、すぐに元の沈黙に戻った。
「あなた方の場所がちゃんと用意できたら、私は戻ってくる。あなた方を迎えに来るよ。今はあなた方は私の行く所には行かれないけど、やがて身魂を磨いて来られるようになったら迎えに来る。その道は、分かっているね?」
「いいえ」
トマスがさっと顔を上げ、咄嗟に答えた。
「先生がどこにいらっしゃるかも分からないのに、どうして道が分かりますか」
「私自身がその道だよ。わたしは霊智であり神理であるって、今までさんざん示してきただろう? つまり、私を通して、霊智と神理は示されたんだ。神の国に到達するには私がお伝えさせて頂いた霊智、つまり宇宙の霊的法則によってでないとだめなんだ。私の教えを生活の中で生かし、実践するなら、やがては神様をも見ることができる」
ピリポが、口をはさんだ。
「やはり神様をこの目で見ないと、どうも実感が湧きません」
使徒たちのレベルとて、こんなものだ。これではイェースズに論争を挑んできたパリサイ人の律法学者と変わらない。それでもイェースズは、笑顔を絶やさなかった。
「こんなに長い間、私はあなた方とともにいたのに、あなた方はまだ分からないのかね。私が話している言葉は私が考えたものや私の作り事ではない。神様が私の口をお使いになって、私に語らせているんだ。私の体を通して、そのみ業を顕現なさろうとしているんだよ。私は神様の代行者にすぎない。父なる神様が肉体を持って、この世に降りてくるのは不可能だ」
「神様って、おできにならないことはないんじゃないんですか? 全智全能ですから」
と、トマスがまた尋ねた。イェースズはまた笑った。
「確かに私たち人類の目から見れば、神様は全智全能だ。でも、神様も精進されているんだよ。進歩、進化されているんだ。そしてその神様から代行者として遣わされたのが私なのだから、私を見れば神様を見ることになる。せめて奇跡の業に神様のご実在をサトってほしいと、何度も言ってきたよね。その業を私は、たった十二人だけだけどあなた方にも伝授したじゃないか。これからはあなた方の業の霊障解消力も、一段と強くなっていくだろう。だから、自信を持って、どんどん手をかざしてほしい。そして神様の御名の弥栄えをご祈念申し上げ、そしてますます神様の御用をしていくなら神様の権限も日々に強まりいき、あなた方の業の力もさらに増してくるし、それだけに神様から御守護が頂ける。神様と、そういったしっくりした関係にならないとだめだ」
イェースズは子羊の肉をつまみ、杯を干した。隣のエレアザルが上半身をねじって、その杯にぶどう酒を満たした。イェースズはさらに話し続けた。
「私が示した神の置き手の法、宇宙の大法則、万象弥栄えのミチに即して願うなら、すべて神様はお聞き届け下さる。あなた方が私を愛してくれるのなら、私の言葉を守ってほしい。そうすればいつの日か必ず、真の魁のメシアをお迎えする時が来る。その方は私がこれまで教えてきたことを、ことごとく思い出させてくれることになる。つまり、神理のみたまが世に降るんだ。その時には全人類に神理正法がことごとく伝えられる。その方もご自分の考えを語られるのではなく、神様からお伝え頂いたことを告げ知らせて下さるはずだ。そうして、より完成された神理正法へと、あなた方人類を導いて下さる。つまり、私の教えを高次元で完成させて下さるんだよ」
「え? 先生よりも偉大な救世主だなんて、信じられません」
きっぱりと、アンドレが言った。イェースズはまた、ニッコリと微笑んだ。
「今の世では、その方を受け入れないだろうね。今はまだ寂光、白光、陰光の夜の世、水の世だからね。しかし、火の洗礼を受けたあなた方なら、分かるはずだ」
「だからと言って先生は、私たちを見捨ててどこかへ行かれてしまうんですか?」
アンドレは、上半身を起こしていた。
「私は決して、あなた方を見捨てるんじゃない。時が来れば何千何万の聖霊が降下する。その時、私もいっしょに、雲に乗って来よう」
使徒たちはまだ、イェースズの言葉が分からずにいた。
「私がいなくなったとしても、私の心はいつもあなた方といっしょだ。私は神様の袖内にあって、あなた方は私の中にいる。たとえこの世で別れ別れになったとしても、同じ神様の袖内にあるんだ。悲しいことなんて、何もないじゃないか」
使徒たちの中から、すすり泣きが聞こえ始めた。
「私の教えを守る人は、私を愛する人だ、私を愛する人は、神様が愛して下さる」
「先生」
小ユダが、声を震わせながら言った。
「先生は私たちにこうしてすべてを告げて下さっているのに、人々にはこんなにも多くは語られなかった」
「今の世はまだ、私の言葉を受け入れる人は少ないからね。これは神霊界の状態が夜の世であることも関係してくるんだけど、これ以上の詳しいことはたとえあなた方にも言えないんだ。神界・神霊界の重大因縁だからね」
イェースズは、使徒たちが食事をするのも忘れているのを見て、手を差し伸べた。
「さあ、肉もパンも、まだたくさんあるよ。どんどん食べなさい」
だが使徒たちは衝撃が大きすぎて、そんな気分になれないようだった。イェースズはあえて、大声で笑った。
「いいかい。真に真にあなた方に言っておくけど、私は平和をあをあなた方に遺し、私の平和をあなた方に与える。でも、私の平和は常識的な平和じゃないよ。だから何があっても慌てないようにね。恐がる必要もない。みんな、そんな悲しそうな顔をしているけど、私が神様のみもとに行くというのだから、喜んでくれてもいいじゃないか。すべてに感謝だと教えたはずだ。神様は偉大なお方なんだ。さあ、これ以上の詳しいことは、あなた方に言うわけにはいかない。それに私には、兵たちの甲冑の音が聞こえる」
一同驚いて、パッと顔を上げた。だが、夜の静けさが、部屋の中を漂っているだけだった。
「心配しなくていい。私は大丈夫だ。神様にすべてをお任せして、そのみ意のまにまにと考えているからね。私がいかに神様を愛しているか、あなた方にも知ってほしい」
イェースズはもう一度、杯を使徒たちに回した。習慣どおりの第四の杯である。それでも使徒たちの何人かは、声を上げて泣いていた。
「泣くんじゃない。そんな悲しまないでくれ。私はぶどうの木で、あなた方はその枝なんだよ。でもいくら私の教えを聞いたとしてもだね、それを実践しないで霊的自覚に達しなければ、神様という農夫がその枝を切り落としてしまうかもしれないよ」
いたずらっぽく言ってからイェースズは笑ったが、使徒たちの悲痛な顔つきはそのままだった。
「私につながっていなさい。枝が木につながっていなければ、ただの材木だ。材木が実を結ぶことは、永遠にないだろう? 枯れ枝は、集めて焼かれるだけだ。せいぜい出世しても、暖炉の薪だろう。だから、私から離れてはいけない。枝は幹あっての枝だ。幹も枝あっての幹なんだけど、あくまで幹が主体で枝は従だろ」
「しかし先生」
小ヤコブが、やや抗議的な声を上げた。
「先生はさっきから、ご自分がどこかへ行ってしまわれるようなことをおっしゃったり、私たちはそこに行かれないなどとおっしゃっているくせに、先生から離れるなとは矛盾していませんか?」
「私から離れるなというのは私の肉体と離れるなということではなくて、私の教えから離れるなということだよ。私の言葉を心にとめてそれを実践するなら、私の肉体との距離がたとえはるか遠くても私はいちばん近くにいる。そうして多くの実を結んで、神様のみ意を地に成り鳴らせていけば、神様の栄光はますます輝いていく。神様が私を愛して下さったその愛で私もあなた方を愛したのだから、あなた方は私の愛の中で一体化して、大宇宙の意志である万物の大調和を顕現させてほしいんだ。私の愛の中で生きるということは、私の言葉を実践することだよ。私は神様のみ意のままに生きてきたから、神様の愛の中で生きることができた。それと同じだよ」
使徒たちの涙も、ようやく渇いてきたようだった。イェースズは、一段と笑顔を輝かせた。
「今夜の私の話はこんなにもあなた方を悲しませるためではなくて、むしろ喜ばせるためなのだよ。さっきも言ったように、あなた方は愛し合うんだよ。愛和一体の波が全世界を覆ったら、それでもう地上天国だ。神の国が、この地の上に顕現される。友のために命を捨てるほどの利他愛を、私はこれから見せてあげよう」
「先生の友って、誰なんですか?」
マタイが、ため息混じりにゆっくりと尋ねた。
「あなた方だよ」
使徒たちはざわめいた。ペテロがようやく沈黙を破って顔を上げた。
「私たちは弟子です。それを友だなんて呼んで下さるなんて」
「もう私は、あなた方に告げるべきこと、告げることが許されていることは、もうすべて告げた。あなたがたは今まで私を頼ってきたけど、これからは神様を直接頼りなさい。いいね。神理のみたまが来られたら、もう私があなたがたのために神様にとりなす必要もなくなる。人が神に直接奉仕する天の時の到来なんだ。だから、あなたがたは私の弟子ではなく、私の友だ。今までは使徒とか弟子とかいっていたけど、これからはもうそう呼ばない。あなた方は友だ。あなた方はこれから私が残す荷を背負って、私の代行者として、今度はあなた方が教える立場に変わるんだ」
せっかく渇いていた使徒たちの涙が、また頬を濡らしはじめた。
「先生」
アンドレがイェースズの後ろからその肩に手を置き何か言おうとしたが、涙につまって言葉にならなかった。そんなアンドレの手の上に、イェースズも優しく手を重ねた。
「あなた方は御神縁が深い。でも、これから実を結ぶかどうかは、あなた方にかかっている。たいへんな、厳しいミチだよ。でも、あなた方にはがんばってほしい。だからこそ、互いに愛し合うことが致命的に重要になってくるんだ。なぜなら、今は逆法の激流の真っ只中だからね。その中に神理正法を一滴でも落とせば、たちまち憎まれてしまう。あなた方も、人々から憎まれ、虐げられ、蔑まれ、迫害を受けるだろう。今世の人々はみんな神様を敬っているようで、本当の実在の神様は知らないからね」
使徒たちは物音一つたてず、じっとイェースズを凝視していた。
「でも、必ずいつかは時が来る。人々も経験によって、私が伝えた教えが寸分も間違いがないものだったと知る時が来る。その時、あなた方がしっかりと神理の証人になってくれよ。頼むよ!」
とうとうイェースズの瞳にも光るものが現れた、それでも顔は微笑みを絶やさずにいた。さらにイェースズは続けた。
「これからどんなことが起こるか分からないけれど、何が起きようとつまずかないようにね。そのために今、あなた方にこういう話をしているんだ」
イェースズは杯を取った。そしてまた、使徒たちに回した。
「これが最後の杯だ。私はもうこうして、あなた方といっしょにぶどう酒を飲むことはないだろうね」
使徒たちが回し飲みをしている間、イェースズの胸には熱いものがこみ上げてきて、ついに目頭を押さえた。そして、涙声でイェースズは言った。
「あなた方の行く道は、決して平坦な道ではない。人々が私を憎んだように、あなた方も憎まれる」
使徒たちにはさっきからイェースズが、自分たちが憎まれると言っている話がピンとこないようで、怪訝な顔で聞いていた。それよりも、なぜイェースズが突然泣きだしたのかを、理解しているものも少ないようだった。
「人々は本当の神様も、遣わされた私のことも知らないから、私の教えが異端であり、私を正統なモーセの教えを攪乱する悪魔の手先のように思っている」
「先生」
ナタナエルが、静かに口を開いた。
「私たちまでもが人々から憎まれ、虐げられ、迫害されるなんて、先生は今まで一度もおっしゃらなかった。なぜ、今ごろ急にそんなことを……?」
「今までは、あなた方のそばに私がいた。でもこれからは、私はあなた方とはいっしょにいられなくなる」
使徒たちは、口を閉ざした。その使徒たちの一人一人の顔をもう一度、時々涙にむせびながらも熱い慈愛の目でイェースズは見ていった。
「私だって、あなた方と別れるのは辛い。何が辛いって、今はそれがいちばん辛い。でも、仕方がないんだ。あなた方のためなんだから」
「なぜですか。分かりません。なぜ先生がいなくなる方が、私たちにとっていいんですか? 先生がいてくださった方が、私たちにとっていいに決まってるじゃないですか」
と、トマスが身を乗り出して血相を変えた。イェースズは涙をためた目で、トマスをはじめ一同を見渡した。
「ちょっと厳しいことを言うよ。私は今も、あなた方に私の代行者になってほしいって言ったよね。私はあなた方を全世界に遣わすって。しかし、今のあなた方にそれが務まる自信があるかい? 私の代行者になるっていうのは、ただ私に従ってくるというよりも、はるかに難しいことなんだよ。一人一人が、私と同じ波動を持たないといけない。口先で上手に私の教えを真似して言っても、波動が相手に伝わらなければ相手の魂を開くことはできないんだ。でも、今のあなた方のように、私を全面的に頼っているようではだめなんだ。何かあったら私が何とかしてくれる、そんな気持ちがあなた方の中にないかい?」
使徒たちは、皆うなだれてしまった。
「そういう心があるうちは、私の代行者にはなれない。私がいなくなったら、みんな散々に逃げていってしまうのが落ちだ。だからそうならないためにも、もうあまり時間がないけれどもしっかりと自覚をしてほしい。そしてあなた方が霊的に独り立ちするためには、どうしても私がいたのではだめなんだ。あなた方はどうしても私を頼り、私に甘えてしまう。何度も言うけど、私を信じることと私に甘えることとは別問題なんだよ。先生というお方は私たちを愛で包みこみ、私たちに心の安らぎと生きる力を与えてくれる存在だなんて思っていたら、それはあなたの思い違いだ。あなた方は自分で、神様のミチを整え申し上げるんだ。神様は絶対他力だけど、その他力である神様から与えられた自力で精一杯精進しないといけない。そうしてやがて時が来たら、神理のみたまが下る」
イェースズの口調が、わずかに低くなった。
「私があなた方に伝えたのは神理の法のほんのひとカケラなんだ。神様の置き手はもっともっともっと奥が深いものなんだけど、今はそのすべてをあなたがたに伝えることは私には許されていない。今の時代ではまだ、神様がお許しにはならないんだよ。いつか神理のみたまが降ったら、やがて起こるべきことも全部告げて下さる。魂や生命、生と死、宇宙構成の根本原理や神様の御経綸について、人々の目覚めを促すだろう。それに私は火の洗礼の業をあなた方十二人にしか伝えられなかったけど、その方は求める人なら万人に伝えることができる。」
「先生、先生はどこへ行かれてしまうんですか?」
トマスの質問は、前と変わっていなかった。どうも使徒たちにとってはそちらの方が、神理のみたま云々よりも重大な関心事であるらしい。
「よく言っておくけどね、これから起こることであなたがたは、悲しみにうちひしがれるだろうね。しかしそれは、新しい時代のための産みの苦しみなんだよ。女が子供を生む時の苦しみと同じだと考えてもいい。神主霊主(しんしゅれいしゅ)文明建設への産みの苦しみだと思ってもいい」
「先生を頼らずに独り立ちなんて、そんな自信はありません」
きっぱりと、マタイが言った。
「いいかい、今まであなた方は何でも私を頼ってきたけど、これからは天の神様を直接頼りなさいって言っただろう。これまでずいぶんとたとえ話とか謎めいた言い方とかをしてきたけど、もうその必要もない時がやがて来る。もう、その時になったら私の取り成しはいらない。私が神様から与えられた使命も、それで終わることになる。終わりとは、完成ってことだよ」
「先生、あなたは何もかもご存じだ」
ペテロも目頭を抑えた。ヤコブが号泣を始めた。イェースズはようやく厳しい表情を緩めて、いつもの笑顔に戻った。
「さあ、みんな、元気を出すんだ。あなた方はまだこの世の悩みを持っているけど、恐れないで、勇気を出して! 神様の絶対性というものを信じ切って、魂にしみこませてしまえば、もう悩みも恐いものも何もないはずだ。私はもう物質的なこの世の悩みには、すでに勝っているんだよ」
その時、回した杯がイェースズに戻ってきた。イェースズはそのぶどう酒を飲み干すと、両腕を高く開いて天を仰ぎ、過越の宴の終焉を告げる祈りを捧げた。
「神様、時が来ました。私が地上で神の栄光を表したように、神の国における御用にもお使い下さい。神様が選ばれ、私のもとにお吹き寄せ下さった人々に、私は神の教えを伝えさせて頂き、奇跡をお示し致しました。彼らの魂のために、祈らせて頂きます。まだ地上にとどまるこの私の友どちの上に、どうか多大なる御守護と御導きを頂けますようにお願い申し上げます。彼らが愛和一体化して、神人合一の境地となり、その喜びを彼らが享受できますよう、なにとぞよろしくお願い致します。そして神の光を一人でも多くの方々にお伝えさせて頂くことが許されますよう、重ねて御願い申し上げます。神の御名、弥栄えに栄えゆかれますことをご祈念申し上げますとともに、多くの神の子にみ光かかぶらせ給い、御神護目かけられますようお願い致します。真に有り難うございます」
長い祈りが終わった。使徒たちも顔を伏せ、心を一つにして祈っていた。
イェースズは立ち上がった。
「さあ、晩餐も終わりだ。終わりの歌を歌おう」
使徒たちも皆、力なく立ち上がった。
「主よ、私たちにではなく、栄光をあなたに帰させて下さい
それはあなたの愛と真のため
なぜ、世界の人々は言うのか
『彼らの神はどこにいる?』
私たちの神は天におられ
み意にかなうことをすべて行われる」
それは一般の習慣通りの晩餐をしめくくる詩篇の百十五章の歌だった。
歌い終わると、イェースズは静かに部屋を出て階段を降りようとした。
「先生、どちらへ?」
ペテロが小走りにそれを追い、イェースズに尋ねた。
「いつものゲッセマニの園に行くんだ」
確かにイェースズは、いつもそこで独りで祈る習慣があった。
「それは危険だ。祭りの前に先生を捕らえてしまおうと、最高法院は思っているかもしれない」
と言って小ヤコブが止めたが、イェースズは笑っていた。
「大丈夫だ。今までなんともなかったのだから」
「だって今までは、群衆がいたから彼らも手が出せなかっただけじゃないですか。先生がお一人になっているところを彼らが知ったりしたら……」
「私が一人でそこで祈ることを、どうして彼らが知っているのかい?」
イェースズはいたずらっぽく笑うと、階段を降りていった。仕方なく使徒たちも、それにぞろぞろついて行った。
階下にはこの家の息子の、少年マルコがいた。
「僕も行っていいですかあ?」
「ああ、いいよ」
イェースズは笑顔で答え、夜も更けた町へと出た。昼間は汗ばむほどの陽気だが、夜はまだ冷えていた。上の町は静かで人通りもなかったが、城壁をくぐって下の町に出ると、祭りの前とあって喧騒は続いていた。
泉の門から町を出て石畳の狭い坂道を下り、ケドロンの谷へと降りる。坂道も今は暗くてよく見えないが、幸い月が半月から満月に近い状態へと膨らんでいたので、月明かりで歩行に困難はなかった。エルサレムに来てから約半年、イェースズは使徒たちと何回この坂道を通ったことだろうか。だが、その使徒も、今は一人欠けている。イェースズは思わずため息が出そうになったがそれをおし殺し、わざと冗談を言って使徒たちを笑わせながらゲッセマニの園へと近づいていった。
エルサレムに来てから、イェースズはよくここで祈ったものだった。人造の神殿伽藍よりも、神殿の東側のオリーブ山の中腹のこの園で祈る方が、イェースズの性に合っていた。
園の入り口でイェースズは、使徒たちの足を止めた。
「私はいつものように中で祈るから、みんなはここで座って待っていてくれ」
その言葉も今までと同じだった。エルサレムからベタニヤへの帰途、イェースズはいつもそう言って使徒たちを待たせ、この園へと独りで入って行ったものだった。だが、これまでと違ったのは、使徒の中から三人の名前を指名したことだった。
「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。あなたがたは、私といっしょに来なさい」
この三人が三人とも、指名されてビクッとしたような顔つきになった。そして一度は座ったものの、ゆっくりと立ち上がって師の後に従った。
園の中は明かりもなく、ペテロの手のランプと月明かりだけが頼りだった。この丘はその名の通り、オリーブの木が密生している。そのため月明かりは足元まで十分に届かず、時には手さぐりで進まねばならない時もあった。
オリーブ山の斜面の傾斜が始まりかけたあたりで、イェースズは石に腰を下ろした。いつになく厳しい表情を、自分の前に座った三人にイェースズは向けた。いつもニコニコしている、あの陽気なイェースズではなかった。
「ヘルモン山に登った時も、いっしょに行ったのはこのメンバ―だったね」
ペテロはゆっくりとうなずいた。そんなペテロに、イェースズは問いかけた。
「そこで何を見た?」
「はい、先生とモーセとエリヤでした」
「その時、私が彼らと話し合っていたことが、いよいよ実現するよ」
そう言ってからイェースズは、懐から小さな木が二本、十字に組まれたものを取り出して三人に見せた。それはイェースズが、東の霊の元つ国から持ち来たるものだった。
「まさか……先生」
ペテロが驚いたのも無理はないと思い、イェースズは少しだけ笑った。
「あなた方はこれを見ると、ローマ人の死刑の道具を思い出すのだろう。でも、これは違うんだよ。これは私が東の国から持ち帰ったもので、人類が発祥した聖なる国では、これが神様のみ働きを示しているんだ。縦の木は火で神様の厳しさ、横の木は水で神様の優しさを表している。その相反する二つが十字に組まれた時に神様のみ力は顕現し、神大愛が生じる。いいかい、なんでもそうだろう? 火と水、男と女、心と体、霊と肉体、精神と物質、東と西、こういった相反する性質のものが十字に組まれた時に、生産力が生じるじゃないか。ここに、神様の天地創造の一つの秘め事があるんだよ。これ以上は言えないけどね」
三人とも何のことだかわからないようで、ただポカンとした表情で聞いていた。
「神様のみ力は、奥が深いんだ。神様は霊だから肉の目には見えないけど、厳として実在しておられる」
イェースズは立ち上がり、その十字の木をペテロに渡した。そして自分の首から、メダイをはずしてペテロの首にかけた。それを見ていたヤコブが、師を見あげた。
「先生も、メダイをかけていたのですか?」
「私は本当はいらないのだけど、これは継承のためのメダイとしてかけきたんだ」
ヤコブにそう言ってからイェースズは視線をペテロに戻し、また厳しい表情になった。
「あなたはこの木の横の木の部分、つまり私のあとを物質的な面で継承してほしい。私はあなたをペテロと呼んだ。その岩の上にしっかりと、あなたの会堂を建てて、この世の人々を導いていってほしいんだ。いいかい、これは天国の鍵をあなたに預けるようなものだよ」
イェースズはペテロの手からランプを受けとり、三人に言った。
「眠いだろうけど、しっかりと目を覚まして、ここで祈っていてくれ」
イェースズはランプを手に歩きだした。三人には月の冷たい寂光だけが残された。
イェースズは園の入り口まで戻り、今度は小ヤコブを呼び出しさらに園の奥へと入った。そして適当なところで小ヤコブを座らせ、ランプを土の上に置いた。
「あなたのメダイを出しなさい」
小ヤコブは怪訝な顔をしながらも、言われた通りにした。イェースズはそのメダイを受け取ると自分の懐に入れ、自分のクビにあったもう一つのメダイを小ヤコブの首にかけた。
「今日からあなたのメダイが変わるよ。これは私のメダイだ。このメダイ以て弟に与えよと御神示が降りた。ヤコブ、頼むぞ。霊的な面でしっかり、私のあとを継いでくれ。物質的な面はペテロに任せた。二人でよく力を合わせて、人々を導いていってくれ。ペテロの建てる会堂の中心の柱に、おまえがなるんだ。そして人類の火柱となってくれよ。頼むぞ」
「先生は本当にいなくなるの?」
小ヤコブの目に涙が浮かび、やがて彼は泣きだした。しばらくそのままにさせたあと、イェースズは慈愛をこめて弟の背中をさすった。
「さあ、ランプを持って、みんなの所に戻りなさい」
ヤコブが去ったあとイェースズは、月の光を頼りにペテロたちの所まで下ったが、三人はすでにいなかった。霊智により知ってはいたものの、一抹の悲しさを感じられずに入られなかった。イェースズの頬に、涙が伝わった。
「魂が強くても、肉体の誘惑に負けてはだめだ」
イェースズはそれだけつぶやくと、しばらくうなだれて黙っていた。やがて顔を上げた。
「私だって、使徒たちと別れたくはない。いつまでもいっしょにいたかった。今は死ぬほど辛いんだよ。でも、しかたがないんだ。使徒たちのためなのだから。私には今、軍勢の足音が聞こえる」
イェースズは背中で言ったあと、その場にひざまずいて天を仰いだ。
「父よ! できることなら、この苦しみから救って頂きたいんです」
イェースズの苦しみとは、今後の使徒たちのことを慮ってのことであった。自分独りがひどい目に遭うのはいい、しかし自分のせいで使徒たちの身に危害が加わるかもしれないということが、何よりも辛かった。彼の心臓は鼓動を早め、血圧を一気に高くした。頭に逆上した血はついに彼の額の毛細血管を破り、血が汗のように顔に泌み出た。
「しかし、アパ!」
血は涙といっしょになって、夜の大地に落ちる。
「私の願いよりも、神様の願いの方を先にして下さい。すべて御意(みこころ)のままになりますように」
その時、背後に人影があった。
ついに時が来たと、イェースズは思った。
木陰の中の白い衣の男は、顔はよく見えなかった。
ユダ……。イェースズは心の中でつぶやいた。どんな策略を持って、イスカリオテのユダはここへ来たのだろう。しかも軍勢も連れずに、たったひとりで……。
イェースズは涙をぬぐった。人影は一歩前へ出た。月の光がその顔を照らした。