5
「あっ」
と、小さくイェースズは叫んだ。イェースズが祈りを捧げていた夜のゲッセマニの園に現れた男は、長髪だった。使徒のほとんどはイェースズと同じように髪をのばしていたが、ユダは短髪だったはずだ。だからイェースズの背後の人影は、ユダではない。
男が近寄ると、月明かりで顔が見えた。
「ヨシェ……!」
母マリアとともにガリラヤから来ていた弟のヨシェが、月光の中に立っている。イェースズは唖然とした。
「ヨシェ。どうした? なぜここへ?」
「兄さん、話がある」
悲痛な顔つきでヨシェは、イェースズを園の奥へと誘った。
「なぜ私がここにいることを……。使徒たちしか知らないはずのなのに」
「ユダから聞いたんだ」
ヨシェとイェースズは、適当な石に腰を下ろした。
「下でユダと会ったのか?」
「弟のユダじゃない。イスカリオテのユダだ」
イェースズの表情がこわばった。ヨシェは顔を伏せ、しばらく無言でいた。
「兄さん」
やがて意を決したように、ヨシェは顔をあげた。イェースズは息をのんで、そんな弟の顔を見つめた。
「イスカリオテのユダは、兄さんを律法学者たちに渡そうとしている」
ゆっくりとヨシェは言った。イェースズは苦笑をもらした。
「分かっていたさ、そのくらいのこと」
「そうか。兄さんは普通の人間ではないものな。夜が明ける前に、ユダは軍勢とともにここに来る」
「わざわざそれを知らせに……?」
「違う。話はそれだけじゃない」
イェースズはもう、ヨシェの言葉の前にその想念を読み取るには疲れすぎていた。
「今までも祭司たちは、兄さんを捕らえようとしていたようだね。僕がエルサレムに来てから聞きかじったけど、彼らは兄さんの居場所を知らせた人には賞金を出すと言っているそうじゃないか。だけど今まで兄さんは群衆といつもいっしょだから、暴動を恐れる彼らは手出しができなかった。でも、兄さんが群衆からも、使徒たちからさえも離れてたった一人きりになる場所がないかって、イスカリオテのユダが弟のヤコブとユダといっしょに僕と母さんたちを大天幕まで送ってくれた時にそのイスカリオテのユダに聞いてみたら、兄さんが一人っきりになるのはこの時だけだってユダはそっと教えてくれた。だから」
ヨシェは言葉を切った。イェースズは息をのんだ。ヨシェの目は、真っ直ぐにイェースズを見ていた。
「だから……僕が、その機密を祭司たちに伝えたらどうかってユダに提案したんだ」
イェースズは黙ってヨシェを見ていた。ヨシェの言葉が何を意味するのか、しばらくは分からないでいた。本来も自分の力ではない彼の霊勘が、それをお与えくださった方によって完全に停止させられているのだ。
「その時に、僕は彼といろいろ話をしたんだ。ペテロもいたよ。ユダの本心を、兄さんは知っているかい? 彼は決して賞金目当てに、兄さんを売ったりするような人じゃないよ」
「そんなことは、分かっている」
やっとそれだけを、イェースズは言った。
「ほんとうに分かっているだろうか。彼は兄さんを、本気で救世主だって信じているよ。なのになぜあの律法学者たちにこのへんでドカンと大きな奇蹟を見せて、否応なしに信じさせてしまわないのかって、彼はすごく歯がゆい思いをしているんだ。こそこそ逃げまわる生活にはもう嫌気がさしたって、彼はそう言ってた」
イェースズはただ、苦笑して話を聞いていた。
「それに、こうも言っていた。兄さんは間違いなく救世主だから、たとえ祭司や律法学者に捕らえられて石打ちの刑になっても、必ず大きな奇蹟が起こるはずだ。そうしたら学者も祭司もローマ人も、もう兄さんを救世主だと疑わなくなる。神の国がエルサレムに到来するって、ユダは熱っぽく語ってたよ」
「甘いな」
イェースズは少し笑った。
「おまえもユダと同じように、私が処刑される前に奇跡が起こると思っているのかね? いいかい、奇跡は私が起こすんじゃない。神様が起こされるんだ。奇跡が起こる起こらないは、人知で断ずることはできないんだよ。よしんば奇跡が起こったとて、今の世の人の心は、もっと頑なだ。今はそんな時代なんだ。たとえ奇蹟で死刑を免れたとて、それで人々がたやすく神を信じるなんていう生やさしい時代じゃないんだよ」
「でもユダは真剣なんだ。誰が好きこのんで、自分の師を敵の手に渡したりするものか。でも、誰かが手を汚して、後世の人に憎まれるであろう汚れ役をやらなければ、神の国は到来しないって彼は言ってた。ずいぶん勇気のいることだとけ思うよ。ユダの気持ちを分かってあげてほしいんだ」
ヨシェの言葉にも熱が入ってきた。
「だから、そうでもしないと兄さんは逃げ回っているだけで、祭司や律法学者をあっと言わせる奇蹟は起きないし、逃亡生活が延々と続くだけでらちがあかないって言って、ユダは泣いていた。泣いていたんだよ。大声をあげて、ユダは泣いていたんだよ。ユダも辛いんだ。死ぬほど辛いんだ」
「分かってるって。だから私はこうして、逃げも隠れもしない。ユダがしようとしていることも、前々からとっくに知っているよ。それだけじゃない。私はさっき、晩餐の席上で私の口からはっきりと、ユダにそれを実行するようにと指示をしたんだ。あなたが思うようにすればいいって言ってね」
今度はヨシェが、少し驚いた顔をして兄を見た。イェースズは、ヨシェの顔を見ずに話を続けた。
「ユダのいう救世主というのは、私の考えているのとは少し違うようだし、奇蹟が起こるかどうかは神様次第で私には分からない。でもたとえここで死んでも、それは神様のみ意だ。神様から頂いた大事な肉体だけれども、神様からお借りしたものは神様にお返しし、その肉の衣を脱ぎ去った時に真の我が顕現する。ただ今の私にとって、使徒たちとの別れだけがいちばん辛い。それを思うと、私は悲しみに打ちひしがれていたんだ」
「実は…ペテロが……」
「待て。それ以上は言うな」
慌ててイェースズは手で制した。言わせれば、ヨシェに陰口を言わせたことになって罪を積ませてしまう。それよりも、ヨシェが言わんとしていることはすべてイェースズは知っていた。ペテロもヤコブもエレアザルもすでにユダの考えは見抜いていたはずだが、彼らには別の思惑があることも気づいていた。だから先ほどの晩餐の時もこの三人はほとんど口を開くことなく、おびえるような目で師である自分を見ていたのだ。
「兄さん」
ヨシェは目を伏せ、ぽつりと小声で言った。
「僕は兄さんがいつもここでひとりで祈ってるとこを軍勢に襲わせろって入れ知恵しただけじゃなく、その代価を請求することもユダに提案した。もちろん、金じゃない。師を引き渡す変わりに、その使徒や弟子である群衆を見逃すこと、お構いなしの放免にすること、これを引き換え条件として交渉したらいいって」
しばらくイェースズは、無言でヨシェを見つめていた。その目が次第に潤んできた。
「そうか、そうだったのか……。有り難う、ヨシェ。私の命と引き換えに使徒たちが助かるなら、それはいちばんいいことだ。私はどうなってもいい。私はもう人々に神の教えを説き、十分とは言えないまでも神様の御存在の証を立ててきた。だから、私の肉体を犠牲にすることで使徒たちが助かるなら、ユダの功績はほかのどの使徒をも超えるものだといえるだろう。そして使徒たちが福音を世界に述べ伝えるのなら、それで私の救いは完成する。でも、たった一つ心残りといえば、私は使徒たちを、もっともっともっともっと使徒たちを愛したかった」
イェースズは嗚咽して、しばらく声が出なかった。弟はユダの甘ちょろい考えに同調しただけではなかったのだ。自分に代わって、自分の使徒のことまで考えてくれている。確かにその条件で今自分が捕らえられれば、使徒たちは助かる。だがそれは単に十二人の命を救うということに止まらない。彼らは自分の代理人として、これから世界に教えを広めていってもらわないと困る。その第一歩が保証されるのだ。ペテロの想念から、ユダの裏切りもその交換条件もすべてペテロは熟知していることもイェースズはすでに知っていたし、むしろそれが神意にかなっているとさえ思ったので、あえてペテロに天国の鍵を預けるというようなことまで言ったのだ。
「ヨシェ。おまえは最高の弟だ。いや、おまえはこれからの世界の人類にとって、どんなに重要な存在であることか。ユダの気持ちもペテロの気持ちも分かるし、おまえの真心もよく分かる。一人の兄よりも、ここは人類のために心を鬼にした。私も、神の仕組みにス直に従おう」
「いや、だめだよ。兄さん」
「え?」
意外なヨシェの言葉だった。
「兄さんは死んじゃだめだ」
下を向いたまま、ヨシェは首を横に振った。
「兄さんこそ、人類のために生きなきゃいけない」
「何を言っているんだい。ユダの裏切りも、その交換条件も、おまえの考えなんだろ? 言っていることが矛盾してるじゃないか」
「兄さん。あのヌプ、ウタリという二人が身振り手振りで語ってくれたよ。兄さんは、ここで死んではいけないんじゃないのか?」
「あッ!」
イェースズは忘れていたことを思い出して、思わず叫んだ。霊の元つ国を離れる時に自分の師であったミコが、決してむこうで死んではならぬと確かに自分にそう言ったのだった。
「だから兄さんは死んじゃいけないんだ。兄さんが死ぬなんてことが、神様のみ意であるはずはない!」
突然大声で叫ぶと、ヨシェはイェースズにつかみかかった。そしてイェースズが着ていた灰真珠色の衣をはごうとした。
「ヨシェ、何をする!」
イェースズは必死に抵抗したがとうとう丸裸にされ、その懐にあった物が地面に落ちた。今度はヨシェが自分の亜麻衣を脱ぎはじめた。
「兄さん、これを着て!」
ヨシェはすばやくイェースズの衣を身にまとい、自分の服をイェースズに渡した。
「どういうことなんだ。ヨシェ!」
ヨシェの衣を膝の上に置き、裸のままでイェースズは弟を見上げていた。
「これしかないよ。こうするしか、兄さんを救えないよ。早く! 軍勢が来る!」
ヨシェは立ったまま、さらにイェースズに向かって叫んだ。イェースズは目を見開いて、ヨシェを見あげた。
「お、おまえ……まさか……」
「僕じゃあ奇跡が起こるかどうかは分からない。でも兄さんを救い、なおかつ祭司や律法学者から逃げまわる生活を終わりにさせて使徒たちを救うには、これしか方法はないじゃないか。僕がガリラヤのイェースズとして、石打ちの刑になればそれで済む。だから僕はユダに入れ知恵したんだ。はじめからこうするつもりでね。これが、神様の起こされた奇蹟だって、そう思ってよ」
「馬鹿な! 何を考えているんだ!」
イェースズは立ち上がった。そしてヨシェの肩を強くつかんだ。
「それはだめだ! そんなこと、できるわけがないじゃないか! 自分のかわりに弟を身代りににするなんて!」
「でも、こうするしかないんだよ! 人々には分かりゃしないさ。僕と兄さんは瓜二つだからね。祭司たちはひと安心して落ち着くし、兄さんや使徒たちの逃亡生活も終わりさ」
「いや、だめだ!」
イェースズは目から涙をあふれさせ、首を横に激しく振った。
「そんなこと、神様がお許しになるはすがない」
「お許しにならないどころか、これが神様のみ意だ。神様が兄さんを見殺しにするはずがない」
「おまえ、殺されるんだぞ。石打ちの刑になるんだぞ」
「そんなのちょっと痛いのを我慢すればすむことじゃないか。魂は永遠なんだろう? 肉体しか殺せない者を恐れるなって、兄さんが言ってたことじゃないか」
イェースズはその場に泣き崩れた。もはや何を言おうとしても、涙で言葉にならなかった。しばらくしてようやくもう一度立ち上がり、イェースズは弱々しくヨシェにつかみかかった。そして、ヨシェが着た自分の衣をはごうとした。
「だめだ、ヨシェ! その衣を返せ。こんなこと、絶対にだめだ!」
ヨシェは抵抗して、二人は大地に転がった。
「兄さん、分かってくれ!」
ヨシェの平手打ちがとんだ。イェースズは動きを止めた。しばらく肩を震わせたあと、イェースズは力づくで弟を抱きしめた。しばらく、二人して涙で抱擁していた。やがてヨシェが両手で、イェースズを放した。
「兄さんは、死んじゃいけないんだ。生きて、東の国に帰らなきゃいけないんだろう? それが神様のみ意だ。それ以外なにもないじゃないか。人類の救いのために」
もう一度涙をすすりながら、イェースズは力強く弟を抱きしめた。
「兄さん、頼むよ、僕に兄さんの代わりをさせてくれ。僕の場合だって、奇蹟が起こるかもしれないじゃないか」
「ヨシェ!」
イェースズは大声でひとしきり泣いたあと、ヨシェを抱擁したまま言った。
「おまえは小さい時からいつもそうやって、いじめられていた私の身代わりになってくれたよな」
「今度は兄さん一人のための身代わりじゃあない。人類のためだ。過越の犠牲の小羊だよ」
ヨシェの頬にも涙が伝わっていた。だがその中でもヨシェは、微笑みさえ浮かべていた。
「ヨシェ。私は本当の愛を見たよ自分の命すら投げ出す愛を。でもそれは、私には辛すぎるんだ」
「兄さん、覚えてる? 小さい頃いつもいっしょに唱えたあの詩篇二十二章」
少しの間をおいてから、イェースズは、
「覚えているよ」
と言った。神に見捨てられたことを嘆く切望的な始まり方をするその詩も、最後は神を賛美して終わる。
「ほらね。兄さん。すべては神様のみ意なんだよ」
「ヨシェ。分かった。おまえの名はもうヨシェじゃない。イシュ・カリス――これがおまえの新しい名だ。『カリス』はギリシャ語で『恵み』、『恩寵』、そして『美』だ。おまえは十分に愛を示してくれた。十分に恩寵の人だ。だから、イシュカリスだ。だから、もうそれでいい。もう十分だ。衣を返せ。新しい名前で、おまえは生きてくれ。私の衣を返してくれ」
ヨシェは静かに首を横に振った。月はもうだいぶ、西の方に傾きかけていた。
「先生!」
どこかに行っていたはずのペテロの叫び声が聞こえた。同時に地鳴りかと思うような足音が、園の中に響いてきた。
「兵が来た! 兄さん、早く逃げて! 早く服を着て!」
ヨシェの叫びが終わらないうちに、おびただしい数の松明が、斜面の下から登ってきた。
ヨシェは立ち上がり、オリーブの木立の間に見え隠れしている松明の列の方に向かって立った。使徒たちが駆けて来るのと、軍勢の到着はほとんど同時だった。
軍勢の先頭にはイスカリオテのユダがいた。その後ろに律法学者たちもいたが、軍勢はユダヤ人の神殿警備兵ばかりではなく、房のついたかぶとをかぶったローマの千人隊も混ざっていた。一人の人を捕らえるためにしては仰々しすぎる。イェースズが群衆を何千人も、このオリーブ山に武装集結させているとでも思ったのだろう。
やがてユダとヨシェが向かい合う形となって、軍勢は歩を止めた。
「この野郎! 裏切ったな!」
マタイがユダにつかみかかろうとしたが、ユダはそれを軽く腕で払った。ヨシェの衣を裸の上に巻きつけたままで地に座りこんでいたイェースズは、
「マタイ。やめろ! 誰もその人を裁ける人はいない」
と、叫んだ。暗闇の中、マタイはその声がイェースズの衣を来て立っているヨシェから発せられたと思ったようだ。だがペテロだけは自分たちの師があられもない姿で座りこんでいるのを、兵たちの松明の炎の明かりに見て怪訝な顔をした。
その時、イェースズの衣を着たヨシェは足を震わせているイスカリオテのユダの前に立ち、ユダに抱きついて接吻をした。本当はユダの方からそうするのが兵たちへの合図だと、すでにヨシェは知っていたようだ。そもそもそのこと自体、ヨシェからユダへの入れ知恵だった。兵たちはさっとヨシェを囲んだ。
「誰を探しているのですか?」
落ち着いた声で、ヨシェは兵たちに言った。祭司がひとり、松明を手に前へ出た。
「ガリラヤのイェースズだ」
「それは私だ」
ユダはたちまち目を見開いた。ヨシェのすべての策謀を察知したようで、ユダは一、二歩あとずさりしてその場に尻もちをついて倒れた。同じ表情をしていたのが、ペテロだった。だが、ほかの使徒たちは、師を守るべく、しかしヨシェを師だと思ってその周りで身構えた。だが、取引どおりに兵たちは使徒たちの誰にも目をくれず、一斉にヨシェに兵は飛びかかった。使徒たちは応戦しようとするが、多勢に無勢である。またいつものイェースズの「戦うな!」という考えが彼らには染み付いている。
それから信じられな光景が起こった。使徒たちは一目散に逃げだしたのである。ペテロなどは転んでそのまま四つん這いで逃げるなど、もっともみっともない逃げ方をした。その逃げる勢いにイェースズの体に巻いていただけのヨシェの亜麻布は宙を舞い、イェースズは裸になってその場に転がった。
ヨシェはがんじがらめに縛りあげられ、イェースズとして連行されつつある。ユダが一度だけ蒼白な顔で、地に伏す本物のイェースズをふり返って見た。が、彼は何も言うことができずに、兵たちとともに行ってしまった。
イェースズは立ち上がって叫ぼうとした。
「私がイェースズだ!」
ところが、嘘のように声が出ない。そればかりか足まで萎えて、地面に釘で打たれたようにくっついて離れない。力を入れようとしてもびくともしなかった。そしてその時、もともとイェースズの懐の中にあり、先ほどヨシェに衣をはぎ取られた時に地に落ちたものが宙に舞い上がった。それは、細長い二つの布の包みだった。その包みが空中でぬけ、中から二本の小刀が空中に飛び出したが、それも鞘からぬけて抜身となって、ユダを追おうとするイェースズの行く手を遮るかのようにイェースズの目の前にの地面に突き刺さった。これこそ、霊の元つ国を離れる時に、師のミコが守り刀としてイェースズに授けたあの「アマグニ」「アマザ」の二本の小刀だった。それがまるで意志があるかのようにイェースズの足を止め、月の光に照らされて地面の上で光っていた。これも、いや、これこそが奇跡なのか――神のなせる業なのだろうか――イェースズはひとり残された園で、朝が来るまでひとしきり泣いていた。
しばらくは予想外の出来事に、イェースズはただ呆然と暗い地面を見つめているだけだった。これまで自分が相手の想念やこれからの出来事を読み取ることができたのもすべて神の力なら、それが今回はできなかったのもまた神の力によってなのだ。
やがて力なく立ち上がったイェースズだが、明け方近くにさすがに裸では寒かった。仕方なくヨシェの衣を着て、さらに布で頭を顔を覆い、先ほどまでの喧騒がうそのように静まりかえって誰もいなくなった園を歩いた。そしてたった一人でケドロンの谷に下り、歩きながらもヨシェがこれからどうなるのかということを考えていた。最高法院の門は朝にならないと決して開かれないから、ヨシェはおそらくこの年の大祭司であるカヤパの邸宅に連れて行かれたことだろう。それはエルサレム市外の西南隅、ちょうどイェースズたちが過越の晩餐をした部屋のすぐそばだ。ほんの数時間前には使徒たちと冗談を言いながら歩いた道を、イェースズは今はひとりで逆方向に歩いている。空はだいぶ白みかけていた。
とりあえずイェースズは、ヨシェが連行されたと思われるカヤパ邸に向かった。自分の意志で向かったというより、気がついたらそこへ足が向いていたという感じだった。カヤパの邸宅の門前はかなりの人の動きがあったが、何分まだ未明のことでそう多くはなかく、軍勢が出入りしているものだから何事かと飛び起きてきた近所の人に混じって、大祭司邸の下僕や役人たちが慌ただしく出入りしていた。イェースズはさらに顔を隠し、門に近づいてみた。しかし、中には入れるはずもない。だが、そこに集まっていた人々はガリラヤのイェースズが捕らえられたという報を耳にして集まってきている訳だから、門の当たりをうろうろしているのが本当のイェースズだとは思うはずもない。
ゆっくりと、夜が明けようとしていた。あたりはかなり明るさを増しはじめていたが、まだ日は昇っていない。
その群衆の中にペテロの姿があった。顔も隠さず、堂々とこのカヤパ邸に来ていた。ほかの使徒たちの姿はないようだった。なにしろ、イェースズがヨシェにすり変わったことに気づいたのは、ユダのほかにはペテロだけである。そして、ユダが密告する際に、使徒を一人も逮捕せずに放免するということを交換条件として出すよう指示したのも当のペテロで、彼と真相を打ち明けられていたヤコブとエレアザルの兄弟のほかは、この交換条件を知らないのだからペテロしかいないのも道理だ。
そうはいっても、一般民衆の方とてそのような密約のことは知らない。たちまちペテロは人々に囲まれて、イェースズが近づくことすらできそうもなかった。
「あんた、今捕らえられて来た男の弟子だっただろう。いっしょにいるところを見たぞ」
ペテロは人々に詰問されているようだ。だが、ペテロは正直な男で、見てきた通りのことを語っているようだ。
「違う! あの人は私の師じゃない! 捕らえられたのは、私の師じゃないんだ。もしそうだったりしたら、呪われたっていい!」
その時、鶏が鳴いた。その場にうずくまって、ペテロも激しく泣いていた。昨夜の晩餐で自分がペテロに言った言葉を、イェースズは思い出していた。――「ペテロ。明日の朝の鶏が鳴く前に、あなたは私のことを知らないなんて言うだろうね」……何気なく言ったその言葉が、全く違う意味で実現してしまったのである。イェースズもいたたまれなくなって、その場をあとにした。
そのころヨシェは大祭司邸で、前年度の大祭司アンナスの訊問を受けていた。最高法院の議長たる大祭司は一年任期で、任命権はローマの知事にある。いわばローマの傀儡エルサレム市長だが、その称号は職を退いても終身ついてまわった。だから「大祭司」と単数でいえば現職者を指し、「大祭司たち」と複数ならば現職者と退職者たちを指すことが多かった。
きらびやかで重厚な祭司服をまとった老人アンナスは、そんな「大祭司たち」の一人である。そのアンナスがイェースズになっているヨシェに尋問したのは、その教えの内容だった。しかしヨシェはイェースズではない。詳しく知る由もなかった。
「私は公然と話してきた。だから私の話を聞いた群衆に聞けばいいだろう」
あとは何を尋ねられても、ヨシェは始終沈黙を通していた。下役の下人はその態度が気にいらないと、アンナスの前でヨシェの頬を思い切り殴った。
夜明けとともにヨシェは、イェースズとして最高法院に送られた。最高法院は神殿の西側だから、カヤパの邸宅を出た行列は隣接するヘロデ宮殿の前を通り、上の町を横切って進むことになる。狭い道の沿道では市民たちが無関心な冷めた目で護送されるイェースズを見ながら、祭りの準備に追われはじめていた。だが、誰一人それが実はイェースズではなくヨシェであると気づいた人はおらず、それどころかイェースズなのかヨシェなのかそのようなことはどうでもいい、二人とも知らないという人の方が圧倒的だった。
ヨシェは最高法院の法廷に立たされた。そしてすぐに、七十人の議員の臨時緊急召集の使いが、朝の喧騒に湧く城内を駆け巡った。議員の多くはまだ眠っていたところを叩き起こされ、不機嫌な面立ちで集まってきた。なにしろこの日の夕刻から安息日で、引き続き過越の大祭となり、法院の機能も八日間停止してしまう。だから、どうしても夕刻までには判決を下さなければならないので、召集も急がれたのだ。
最高法院の議員は、サドカイ派の祭司、民の長老グループ、パリサイ派の律法学者のグループ、そしてヘロデ党もいた。きらびやかな祭司服、黒い帽子のついた重々しい学者の服などが勢ぞろいした姿は圧巻だった。そんな中で、本物のイェースズも、こっそりと傍聴席に入った。
大祭司カヤパによって、議員たちにあいさつが行われた。かねてより賞金つきのお尋ね者だった危険な新興宗教の教祖が逮捕されたが、安息日から祭りにつながってしまうため判決を急ぐ旨が言いわたされた。その長い前置きが終わり、ヨシェがその前に小突き出された。その後ろ姿をイェースズは正視できず、思わず目を背けていた。
「訴状の朗読!」
カヤパのかん高い声が、議場に響いた。一人の祭司が立ち上がり、パピルスの紙を開いた。
「一つ、ガリラヤのイェースズなるもの、自らを救世主と称して人心を惑わし、ダビデ王の王位を継承せんと目論む。
二つ、ガリラヤのイェースズなるもの、安息日を汚し、聖職者たる祭司、律法学者を侮辱す。
三つ、ガリラヤのイェースズなるもの、自らを神の子と称し、神と一体なりと称して、神を冒涜す。
四つ、ガリラヤのイェースズなるもの、神殿にて商人を追い出すなどの狼藉に及び、かつその神殿が跡形もなく崩れるなどと暴言を吐き、神殿を冒涜す。
以上、この告訴に書名せしもの。アンナス、シモン、アビナダブ、アナニヤ、ジョアン、アザニヤ、ヘゼキヤ」
訴状の朗読が終わった。
「死刑だ!」
律法学者のグループからの叫びを皮切りに、議員たちは一斉に、
「石打ちの刑だ!」
と、場内は騒然となった。
「静粛に!」
カヤパのひと声が場内を静めた。
「証人喚問を始める。証人となるもの、前に出て述べよ」
カヤパが傍聴席に呼びかけると、ある老人が真っ先に進み出た。
「この方が悪人だなんて、とんでもないですだ。三十八年間も寝たきりだったわしが、この方のお蔭で癒されて歩けるようになったのだ」
これでは、弁護側の証人となってしまう。カヤパにとって、弁護の側は不要だった。学者たちから老人に、罵声が飛んだ。
「おまえは騙されたのだ! まだ、分からないのか!」
だが、カヤパだけはほくそ笑んでいた。そして厳かに、老人に言った。
「その癒しが行われたのは、どういう日だったか」
「あッ……、ああ、安息日でしたな」
結局この証言は証人の本意とは別に、イェースズに不利なものとなってしまった。
次に出たのは、若い男だった。
「私の場合は、安息日ではありませんでした。目が見えなかった私が、『ダビデの子孫よ、お救い下さい』と言うと、この方は私の目を見えるようにしてくれたのです」
「ダビデの子孫と呼んで、この者は立ち止まったのだな」
またしてもイェースズには不利な証言となった。自分の失言でそうなったことに気づいてたじろぐ男に、カヤパはさらに質問を投げた。
「どのようにして目を癒したのか」
「泥をつばでこねて目に塗り、シロアムの池で洗えと」
「それでは魔術ではないか。祈祷師がよくやっているのと同じだ!」
カヤパの声が上ずってきた。そこへ女が一人しゃしゃり出た。
「私は流血をわずらってましたけど、この方の服に触っただけで癒されました。これが魔術ですか!?」
「黙れ! 女の証言は許されていないはずだっ!」
カヤパのヒステリックな怒号が飛んだ。
そこで立ち上がった律法学者の議員がいた。かのニコデモだった。
「皆さんはこの方を、どうしようというのですか。この方は多くの奇蹟と標をなさいました。ほかの誰もしたことのない、魔術使いなどにはまねできない業ですぞ。この方の奇蹟は、魔術ではありません。現にこの方によって、人々が救われているではありませんか。その人が本物かどうかは、その業(わざ)で分かります。私はこの方の無罪を主張します。この方の奇跡が神からのものならばこの方は立ち、もしそうでなければ放っておいても自滅します。モーセはファラオの前で奇蹟を行いましたけど、ファラオの従者のヤムネスとヤンブレスもまた同じように奇蹟を見せましたな。でもこの二人の奇蹟は神からのものではなかったので、その二人もその信奉者も共に滅んでしまったではありませんか。どうか、ガリラヤのイェースズ、この方の無罪放免をお願い致します」
ニコデモもまだ、目の前の男がイェースズではないことに気が付いていないようだ。
「黙れ! おまえはこの男の弟子になったのだろう! 耳に入っているぞ! だからかばうのだな!」
アンナスの怒号が飛んだ。また場内が騒然となり、ほかの律法学者たちがニコデモに野次や罵声を浴びせ、何人かは胸ぐらをつかんで食ってかかった。
「静粛に! 当人の申し開きは?」
カヤパに発言を許されても、ヨシェは何もしゃべらなかった。余計なことを言えば、身代わりがばれてしまう。だから、固く口を閉ざしていたようだ。カヤパも少々焦ってきた様子だった。
「何も答えぬ気か。ならばひとつだけ答えよ。そなたは救世主なのか。今、この場で答えよ」
力なくヨシェは目を上げ、初めて口を開いた。
「それはあなたがたが、勝手にそう言っているだけだ」
「では、神の子なのか」
「そうだ。私も神の子なら、ここにいるあなたがたも、そして全世界の全人類も皆神の子だ」
「ええい、黙れ!」
カヤパは興奮のあまり自分の祭服を自ら引き裂き、大声で怒鳴って立ち上がった。場内も騒然となった。
「決を取る。この男を石打ちの刑に処することに賛成の者!」
ニコデモを除く全員だった。しかしニコデモが反対したことが、かえって結果としてイェースズの刑を確定させてしまった。全員一致の判決は無効という、おかしな風習が彼らにはあったからだ。ニコデモもそれはは分かっていたであろうが、それでも死刑に賛成するには忍びなかった様子であった。
「この男の刑は確定した。ただちにローマ総督府へ連れて行け!」
カヤパの怒号がとぶ。彼らには涜神罪による死刑判決権のみは与えられていたが、その執行にはローマ知事の許可が必要だったからだ。役人がさっと、ヨシェを捕縛し始めた。おもしろがってつばを吐くものや、中にはわざとヨシェを目隠しにしてその頬を平手で打ち、
「やい、救世主さんよ。本当に救世主なら今頬を打ったのがだれか当ててみな」
と、嘲笑する兵もいた。
議員たちも傍聴席の人々も退出を始めた。イェースズはすぐにでも議場に飛び込んでヨシェを助けたい心境だったが、それを必死にこらえた。今、この傍聴席というのが、神から与えられた自分の席なのである。
イェースズは全身が震えた。傍聴席の人々が退出し、ヨシェがどこかへ連れ去られてもイェースズのからだは硬直し、身動き一つできずにいた。
ローマ知事ポンティウス・ピラトゥスはローマ皇帝親衛隊長セヤーヌスのおぼえもめでたく、歴代のユダヤのローマ知事・総督の中でも際立ってユダヤ人を弾圧した冷酷な男であった。重税、反逆者の苛酷な処刑などで、人々はかつての暴君へロデを懐かしんだほどだ。折りしも反ローマの武装蜂起が目立った時期でもあり、今までもこの一人の男のためにエルサレムの丘に反逆者処刑の十字架がどれほど立てられたか分からない。
ローマ知事はふだんは海浜のカイザリヤに常駐しているが、ユダヤ人の大祭期間には都の人口が膨張するため、万が一の暴動に備えて知事もエルサレムに滞在するのが常で、治安維持のためにエルサレム駐屯のローマ兵も数倍に増強されていた。
エルサレムでの知事の官邸は神殿のすぐ北にそびえるアントニア城で、ひときわ高く神殿を見下ろすその塔は、ローマの威圧を人々に示すものであった。当然、自分たちの神殿が異邦人の統治者の城に見下ろされていることに誰もが嫌悪を感じてはいたが、感じたところでどうにでもなるようなものではなかった。
従ってそこは、場所的には神殿の西隣の最高法院からは目と鼻の先だった。神殿の西側の城壁は高くこの悲しみの護送を見下ろしながら、何かを嘆いているかのように無言でそびえていた。その上の神殿の庭は、朝早くからすでにあふれんばかりの人出になっているはずだ。イェースズたちはエッセネ暦に従って昨晩過越の晩餐をしたが、一般の人々はこの日の夕刻が過越の晩餐となる。だから、この日のエルサレムの神殿の庭では、人々の罪の犠牲として捧げられる小羊が一日じゅう屠られ続けられる。そこで流された小羊の血はすべて神殿に捧げられ、人々は肉だけを晩餐のために各自持ち帰るのだ。
そんな祭りの喧騒をよそに、護送の列は知事のいるアントニア城の城門に着いた。
「お頼み申す!」
大祭司のカヤパ自身が行列の先頭に立って、中へ向かってギリシャ語で叫んだ。すぐに取り次ぎのローマ兵によって、鉄の門が開かれた。兵はラテン語で何か言っていたが、カヤパはラテン語が分からないようだ。すると中から兵の隊長クラスの、ギリシャ語が分かりそうなのが出てきた。
「朝早くから、何ごとか」
ローマ人は一兵卒に至るまで、たとえ相手が大祭司であろうと居丈高であり、完全にユダヤ人を蛮族として見下している。そのローマ兵に、カヤパは腰を折った。
「実は緊急事態で、どうしても知事閣下にお会いしたいのですが」
「分かった。通れ」
「それが……」
カヤパはしばらく目を伏せ、そのあと思い切って切り出した。
「ええ、実は私ども、今日の夕方より過越の祭りに入りまして、えー、そのー、真に申し上げにくいんですが、そのー、異邦人の住む所に入ると祭りに参加できなくなりますので、はい」
「なにィ!? 知事閣下にここまで出てこいというのかッ!」
「は、はい、あの、申し訳なく存じますが……」
カヤパの額に、脂汗が泌みはじめた。
「それなら、祭りが終わってからにせい!」
「それが、そうはいきませんでして、はい」
カヤパは地にひざまずいて、伏して願った。兵は顔をしかめて、中へと入っていった。しばらくして明らかに不機嫌そうに、知事ピラトゥスは出てきた。
「なんだ。朝っぱらから! 騒々しい!」
出てくるなり怒鳴って、ピラトゥスはカヤパを見下ろした。カヤパはそのままの姿勢で、言った。
「実は、今朝方一人の男を捕らえたのですが。われわれの会議でその男を石打ちの刑に処すということになりまして、はい。それで、なにとぞ知事閣下のお許しが頂きたく……」
「どうして今日でないとだめなのだ? 祭りが終わってからにせい!」
「いえ、なにしろこの男の死刑を八日も延期しましたら、民衆がこの男を救出しようとして、暴動を起こすやもしれませんでして」
「んんッ?」
ピラトゥスの眉が、少し動いた。
「民衆が暴動? もしかして熱心党か?」
それならば政治犯であるから、その死刑判決権はピラトゥスにしかない。だから慌ててカヤパは言った。
「いえ、そういう訳ではございませんが、ガリラヤからこのエルサレムにかけて、その男は人々をたぶらかして自分の信奉者にしてきたのです。我われの伝統的な律法を否定し、神をないがしろにして神殿を冒涜し……」
「ちょっと待て。人々をたぶらかして信奉者にだと?」
「あ、いえ、それはその、変な新興宗教の教祖でして」
「訴状はあるか」
「あ、は、はい」
カヤパがゆっくりとそれを広げ、すべてギリシャ語に訳して読みあげた。ますますピラトゥスの眉が動いた。
「その男はここに連れてきたのか?」
ユダヤ人の兵が、すぐにヨシェをピラトゥスの前に突き出した。
「名は?」
ヨシェは答えなかった。彼はギリシャ語が分からない。ひとことそう言えばすぐに通詞がつく。だが、イェースズがギリシャ語に堪能であったことは多くの律法学者の知るところだから、そのイェースズが今になってギリシャ語が分からないというのはまずいとヨシェは機敏に判断したようだ。
「訴状にあった救世主とはどういう意味なんだ?」
やはりヨシェは黙っていた。
「ええい、じれったい! おまえが答えろ!」
ピラトゥスはカヤパに、質問の矢先を振った。
「あ、はい。つまり油を注がれた者という意味でして、我われはメシアと呼んでいますが、昔はユダヤの王位の継承のしるしに油を注いだのでして、そこから来た言葉で……」
「ちょっと待て! 王位の継承だと?」
ピラトゥスの目が、ますますつりあがった。
「いえ、その、実際の王になんかこの男がなれる訳が……」
「だから、救世主とは王という意味かと聞いているのだ!」
ピラトゥスに怒鳴りつけられて、カヤパはますます縮こまった。
「はい、それは我われの聖書にて約束されている、いつか神に遣わされてイスラエルの民を救うものを普通はいいます」
「何!? ユダエヤ人を救うだと? 救うとはどういうふうに救うのだ?」
「そ、それは」
まさかローマの知事を前に、それはローマ帝国からユダヤを救うことですとは言えない。だから、カヤパは答えに窮していた。それでピラトゥスはすぐに察したようだ。
「つまりは、ユダエヤの王だと自称したのだな」
「まあ、そんなところで」
カヤパは恐々うなずいた。そしてピラトゥスは再び、イェースズになっているヨシェに聞いた。
「そなたは、ユダヤ人の王なのか?」
これ以上ヨシェが黙秘してますますピラトゥスを怒らせるといけないと思ったカヤパは、小声のアラム語でヨシェにささやいた。
「こら、答えろ。おまえは王と自称しただろう!」
ヨシェはゆっくりと、顔を上げた。
「あなた方が勝手にそう言っているのでしょう?」
初めて、ヨシェは口を開いた。それはアラム語だったので、ピラトゥスの方はこの男はギリシャ語が分からないのだなと勝手に判断した。だから、ヨシェの言葉について、あえてその内容を問いたださなかった。そしてまた、カヤパに言った。
「この男は、神殿の崩壊をも預言していたとか」
「はい、それでこの男を石打ちの刑にしようと……」
「わしにとって神への冒涜とか神殿とか、そんなことはどうでもいい。ただ、この男は神殿で商人に対して、暴行を加えたともあったな。この男は本当は、武力で神殿を占拠してエルサレムを制圧するつもりだったのではないのか?」
「さあ、そこまでは……」
ピラトゥスは大きく息を吸って、それから厳かに言った。
「これはおまえたちに任せられる問題じゃないぞ。石打ちの刑ではすまん。これは政治問題だ。武力蜂起となれば、ローマへの反逆罪だ。この男の身柄はこちらで預かる」
カヤパにとっては、不都合な成り行きになってしまった。とにかく彼らは、刑の執行を急いでいる。
「二、三日したら沙汰する」
「それじゃ困ります。今日じゅうに!」
「何を言うかッ!」
ピラトゥスの怒号がカヤパを直撃した。
「おまえたち蛮族と違って、我われには神聖なローマ法があるんだ。それによれば、起訴の当日中に判決は下せないことになっている」
「しかし、しかしですよ」
カヤパも必死だ。
「暴動が起きたら、どうなさいますか」
これにはピラトゥスもうなった。
「この男の処刑を延期したばかりに暴動が起こったりしたら」
カヤパは一段と声を低め、上目づかいに言った。
「恐れながら閣下、閣下が皇帝陛下へ反逆したことになりますぞ」
「なにィッ! そこまで言うかッ!」
ここまでくれば、あとはかえってピラトゥスを怒らせた方がカヤパには都合がいい。案の定、ピラトゥスはまた怒鳴った。
「とにかくこの男が政治犯となった以上、おまえたちには関りがない。帰れ!」
ヨシェはローマ兵に引き渡され、イェースズということでピラトゥスとともにアントニア城の中へと消えていった。
人の罪状など、とってつければいくらでもつくものである。カヤパたち祭司と律法学者はイェースズを涜神罪として起訴し、石打ちの刑にすることしか頭になかった。しかしふとしたやり取りからとうとうイェースズは神への冒涜の罪どころか、反ローマ分子として政治犯にされて、ローマ側に裁かれることになってしまった。もちろん事実無根の罪状だし、しかもその罪を着せられたのは真のイェースズではない。
ピラトゥスは「ローマ法によれば、当日中の判決は下せない」と言っていたが、それが建て前であることは、ユダヤ人たちにはすでに分かっていた。彼は少しでも反ローマ色のある存在は、たとえ鼠の子一匹たりとて容赦はしない。カヤパが引き下がったのは、自分たちの手で宗教犯としてでもローマの手で政治犯としてでも、とにかくイェースズが死にさえすればそれでよかったからだ。
ピラトゥスが本音と建て前を使い分ける男だということは、この日の昼前にはっきりと示された。城外にひとつの十字架が立った。それにつけられていたのは、熱心党の頭目で、奇しくもイェースズと同名のイェースズ・バル・アパと呼ばれる男だった。この男は祭りを機に武力蜂起を企て、それが未遂に発覚してローマ千人隊に逮捕されていた。ところがユダヤの大衆は、イェースズ・バル・アパの助命嘆願を出した。それを受けてピラトゥスの方も、エジプトのローマ総督がエジプト人の大祭にあたって犯罪者を特赦した先例を鑑み、イェースズ・バル・アパを釈放することをユダヤ人たちに約束していた。
だが結局、イェースズ・バル・アパの十字架は立てられた。ピラトゥスの言い分はこうだった。特赦は皇帝だけの権限で、自分にはそれがない、と。このイェースズ・バル・アパの十字架が、イェースズの助命嘆願を信奉者たちに諦めさせた。ピラトゥスには何を言っても無駄だと、人々は悟ったのである。
昼頃に本物のイェースズは、神殿に行ってみた。小羊の悲鳴、血の臭い、人々の雑踏などが神殿の庭には充満し、身動きもとれないような状況だった。イェースズの目に人間の罪の代償として、身代わりとなって殺される小羊の光景がとまった。これも出エジプトの時に、イスラエルの民が犠牲として、小羊を屠った故事に由来している。
イェースズは行くあてがなかった。どこに自分の身を置いたらよいのかもわからない。今さらベタニヤのゼベダイの家にも戻れない。空はだんだんと、雲行きが怪しくなっていた。この季節は、天候によって気温が著しく変化する。
その時イェースズは、人々の噂話を耳にした。今日の未明にオリーブ山で逮捕された男が、反ローマ勢力の一員として今日じゅうに十字架にかけられる……。
イェースズの胸は張り裂けた。ヨシェが……、石打ちにではなく、十字架に……。今、この場で屠られている小羊よりも、もっと大きな身代わりの血が流されようとしている。イェースズはいたたまれなくなって乱暴に人々をかきわけると、神殿を出てすぐ隣に隣接するアントニア城へと急いだ。
ヨシェを城内に入れたピラトゥスは、直々にヨシェを喚問した。ギリシャ語の分からないヨシェは、当然何も答えられなかった。城内にヘブライ語かアラム語がわかる人はいなかった。だからといってギリシャ語の分かるユダヤ人も、祭りを口実に城内には足を踏み入れないはずだ。
ついにピラトゥスは業を煮やした。本来がかんしゃく持ちなのである。
「ユダヤ人の王! おまえを十字架につけてやる! ちょうどデュスマスとゲスタスの十字架刑が午後に行われるから、それといっしょにだ!」
ピラトゥスの剣幕に言葉の分からないヨシェも、何かを察したらしく震えていた。ピラトゥスがユダヤ人の王と言ったのは、その王を自分の手で死刑にすることで、こんな辺境に左遷されたことへの鬱憤晴らしをしたかったのだろう。もともとこの男は、ラテン語も解さずごく一部の知識人がギリシャ語を解するだけのユダヤ人をユダエヤ人と呼び、田舎の蛮族と家畜のごとく蔑んでいた。ユダヤ人を蔑めば蔑むほど、それがそのままローマ皇帝への忠誠になると信じている。その蔑むべきユダヤの王と自称するものを自らの手で十字架に掛けるという、残虐な満足感も味わいたかったに違いない。彼の悪戯はそれでは終わらず、ヨシェの服を兵にはがさせたあと、ピラトゥスはヨシェに王位を示す赤いマントを着せ、手には葦の棒を持たせた。そして多くの兵をそこへ集めた。
「見ろ、ユダヤ人の王だ」
兵たちは一斉に大笑いをした。ヨシェはただ無言で身を硬直させ、なすがままに愚弄されていた。ピラトゥスの悪戯は続いた。
「王には王冠が必要だ。さあ、戴冠式だ」
どこから持ってきたのかピラトゥスは、荊棘の枝を丸く輪にしてヨシェの頭にはめた。さらに力を入れておしこむと、荊棘のとげが頭に刺さり、ヨシェは額から血を流した。苦痛にゆがむヨシェの口から、低いうなり声がもれた。
「おお、王様がはじめて何かをおっしゃったぞ」
ピラトゥスが笑いながら叫ぶと、ひとりのローマ兵がヨシェの前にひざまずき、両腕を上げた。
「ユダヤ人の王、万歳!」
またどっと、笑いの渦となった。
「さあ、この蛮族の王を、ローマの手で十字架にかけてやれ! 家畜同然のユダヤ人の、しかもその王を、ローマが十字架にかけるなんて愉快じゃないか。ローマにはできないことはない」
ピラトゥスの一喝で、兵たちはヨシェの赤いマントをはぎとり、庭に連れ出した。ただ、荊棘の冠だけはそのままだった。
庭でヨシェは鞭で打たれた。最初は苦痛の絶叫をあげていた彼だったが、しだいにそれすらできなくなり、ぐったりとその場にうずくまった。筋肉質の鞭打つ男は、笑いながら激しくヨシェの体を打った。その男とて自分の意に反してこんな辺境に行かされ、馴染みのない風習の中で不自由な生活を余儀なくされていることへの鬱憤を、これで晴らそうとしていたようだ。十字架にかけられる前は、誰でもこうして鞭で打たれる。そうして衰弱しきった体で、自らがはりつけになる十字架の横木を、処刑場までかついで行かされるのだ。ヨシェの体は肉がえぐられ、全身血みどろになり、あたりもまた血の海だった。それでも執拗に、鞭はヨシェの体にと何度も食い込んでいった。そしてヨシェが意識を失って倒れると、すぐに水がかけられる。
ヨシェが横木をかついでアントニア城を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。祭りの準備であわただしい人々はただ少しだけ立ち止まって、ローマによる犠牲者を憐れんで見ていた。同情とともに、またかという顔も人々は持っていた。午前中にはイェースズ・バル・アパが、そしてついさっきはデュスマス、そして続いてゲスタスが十字架の横木をかつぎ、ローマ兵に鞭で打たれながら通っていったばかりだ。この日だけでも四人目である。
十字架刑はオリエントに起原を発するが、この頃はもっぱらローマ人が異民族に対して、しかもローマへの反逆者という政治犯に限って執行していたいわば見せしめ刑である。本来はユダヤ人にとっては馴染みの薄い処刑法だったが、今はピラトゥスによって馴染みが深くなっていた。実際ピラトゥスが知事としてローマから赴任してきて以来、十字架刑は日常茶飯時となっていた。被支配民族に対する支配権力の象徴のように、すでに何十本何百本の十字架がエルサレムには立てられた。ある日など、エルサレムに続く街道に何十本もの十字架が、同時に列をなして立てられたこともあった。当然十字架刑を執行する権限は、ローマ知事だけのものであった。
ところがこの日の四人目の十字架は、それまでの三人とは少しばかり違っていた。罪状札がである。横木を担う罪人の前を、罪状が書かれた札が先行するが、たいていそこに書かれているのは「ゼーロタイ」という文字だった。ところがこの日の四人目の札にはギリシャ語とラテン語、そしてヘブライ語で「ユダヤ人の王」と書かれていた。さすがにこれに関しては大祭司カヤパが最高法院を代表して、『ユダヤ人の王と自称していた』と直してくれと苦情をいった。するとまたもやピラトゥスの癇癪玉が破裂した。
「わしが書いたものは、絶対だ!」
ユダヤ人なら誰でも、気分のいいものではなかった。そのあとすぐに、ピラトゥスは大笑いをしていた。
イェースズがアントニア城に駆けつけた時は、すでにヨシェは城を出たあとだった。
異例な先行札が話題を呼んでか、沿道には人垣が続いていた。イェースズの信奉者たちがどんなに大勢の群衆であったとしても、祭りのために数十倍に膨れあがっているエルサレムの人口に比すれば、その数は〇・〇〇一パーセントにも満たなかった。
イェースズは人垣をかきわけ、やっと受難の道行きをしている弟に追いついた。ヨシェは鞭で打たれて、体はぼろぼろになっていた。それでも抗うことなく十字架の木を背負って、黙々とゆっくり歩んでいた。
石畳の道は民家に挟まれ狭く、やたらと曲がりくねっている。人々で埋まったその細い道を、ヨシェはふらつきながらも一歩ずつ進んでいた。この道の終点では、自分が背負っている木にはりつけになり、確実に死が待っているのに、それでも死に向かって彼は前進していた。
イェースズはとても直視できなかった。顔は荊棘のとげによって流出する血で真っ赤であり、皮膚も鞭で打たれて裂け、筋肉が露出していた。全身が赤い塊で、こうなると痛みの感覚もなくなるらしい。
苛酷すぎる。石打ちの刑だったら、ヨシェが言ったとおり少し痛いのを我慢すればすむことだった。しかし十字架刑はわけが違う。ローマへの反逆などつまらぬことを考えるなという見せしめの刑だったとしても、あまりにも残酷すぎる。しかも、食い込む横木の重さを身に受け、鞭打たれて衰弱しきった体でこの道を歩いているこの弟の姿が、本来なら自分の姿だったのだ。それなのに、このような目に遭ういわれが全くないヨシェが、自分で言った神のみ意に従順に苦難の歩を歩ませている。それを思うとイェースズは、また胸に激痛が走った。
ついにヨシェは倒れた。ローマ兵の鞭が激しく、彼の体を打つ。血潮が飛ぶ。沿道の人々は、多くは顔をそむけた。ヨシェはしばらくしてから立ち上がり、またよろめきながらも歩みはじめた。これが神のみ意だ……兄さんのため、そして兄さんによって救われる全人類のため……そんなヨシェの想念が、激しくイェースズにぶつかってきた。
「イェースズ!」
甲高い声が、沿道の人々の間でおこった。その声はそのまま本物のイェースズではなく、ヨシェの方へと突進していった。
「イェースズ、どうしてこんなことに!」
泣き叫ぶ婦人を、胡散臭そうにローマ兵は払った。地に倒れても母マリアは、まだヨシェを追おうとしていた。さすがの母親でも血まみれになった姿には、ヨシェなのかイェースズなのか区別がつかなくなっているようだ。それだけでなく、十字架にかけられるのはイェースズであると思い込んでいるため、それがヨシェであるという発想はつゆも湧いてこない。イェースズはすぐに母のところに飛んで行こうかとも思ったが、やめた。血みどろの男が自分であれ弟であれ、母にとっては息子であることには違いがない。母がイェースズだと思っていた人がイェースズでなかったとしても、母親としての悲しみと苦しみが軽減されるわけではない。
イェースズは人々をかきわけ、ヨシェと同じ速さで歩みながら、ヨシェへ手をかざし、神の光である霊流パワーを放射した。しかしまた、ヨシェの歩みが止まった。肩で息をしている。ローマ兵の鞭が振り上げられた。イェースズはもういたたまれなくなって、
「待ってくれ!」
と、ギリシャ語で叫んで飛び出した。
「わ、私が代わります!」
イェースズも、肩で息をしていた。
「おまえは!」
「ク、クレネから来た、シモンといいます」
適当な名前をイェースズは言った。クレネはエジプトの西にあり、ユダヤ人の多い町だ。兵はイェースズがギリシャ語をしゃべったので、安々と信じたようだ。
「よかろう」
十字架を担う者が体力の限界に達した時は、沿道にいる適当な者に代わって担わせるのもよくあることだった。見せしめ刑である以上、途中で死なれても困るからだ。
イェースズは十字架の横木をかついだ。思ったよりも重い。ずっしりと肩にくいこむ。底知れぬ苦痛だ。イェースズの顔はゆがんだ。最初の一歩を踏み出すまでに、かなりの力を要した。
額に汗が、滝のように吹き出した。本来はこれが、自分の担うはずであった激痛なのだ。それをヨシェが担っているのは、どういう神のご意志なのだろうか。いくら考えてもわからなかった。ヨシェとは違い、彼は鞭打たれていない。しかも世界中をめぐって修行し、心身共に鍛え上げていたイェースズだ。その彼にさえ、この横木運びはこんなにも応える。それでも、後ろからとぼとぼついてくるヨシェを思って力を込めたが、同時に涙も流れてしまった。
本来は自分が受けねばならないアガナヒをヨシェが肩代わりしてくれているのだろうか、それともヨシェ自身の過去世の罪穢のアガナヒなのか、それは分からない。しかし、自分が全人類を救うという使命ゆえにヨシェがそのアガナヒを肩代わりしてくれているのなら、この苦しみは全人類の罪のアガナヒかもしれない……そんなことを考えながら横木を運んでいたイェースズだったが、かなり長く歩くうちに次第に頭が朦朧としてきた。ただ、その時彼の意識の中に、このまま自分が刑場まで行って十字架にかかってしまおうという想念がわいた。それが本来なのだ。ヨシェはぼろぼろの体になったが、故郷のガリラヤに帰って静養すれば回復する。そうしよう。この場で、自分が本物のイェースズなのだと宣言しよう……そう思った矢先、
「もうよい!」
と、ローマ兵の声が飛んだ。イェースズの肩から無理やりに横木はとられ、再びヨシェの背へと戻された。もう処刑場が近いのだろう。目の前には北の城壁が横たわっている。ヨシェはイェースズに気がついていたようだったが、その顔に反応を見せることのできる状況ではなかった。
再びヨシェの歩みが始まった。女がひとり飛び出した。信奉者の女だろう。
「先生、どうぞ、顔をお拭き下さい」
そう言って布を差し出す女に、驚いたことにヨシェはニッコリ微笑んだ。まだそんな力が残っていたのだ。ヨシェは左の手で布を受け取り、顔をぬぐった。その顔の形が血によって、はっきりと布に映しだされた。
「有り難う」
さらにヨシェは、言葉までかけた。だがすぐにローマ兵がその女を追い払って、沿道の人々の間に戻した。
ヨシェの歩みは、極度に遅くなった。一歩一歩、ゆっくりと死に向かって進む。その流す血の跡は、通ってきた道の石畳の上に、点々とずっと続いていた。
ついにまた彼は、倒れた。イェースズが再び飛び出す。しかし今度はローマ兵は、彼に助力を許さなかった。
ヨシェは立ち上がった。その姿は、まるで神の国への道行きを象徴しているかのようであった。神の国に至る道は、まさしくこのように受難の道だ。それはかつてイェースズが言葉で人々に説いてきたことだが、目の前のヨシェは今、それを無言のまま行動で表している。倒れても立ちがる彼の姿には、不屈の精神さえ感じられた。
沿道の人々の間には同情、好奇心、無関心、そんな想念が渦巻いていた。その人々の中をヨシェとともに移動しているのはイェースズだけだったが、次第に後ろの方で同じようにヨシェの歩みを追っている一団があるのに気がついた。母マリアやイェースズの妻マリア、エッセネの尼僧サロメ、使徒エレアザルとその姉妹のマルタとマリアなどだ。
ここでまた、驚くべきことが起こった。ヨシェは立ち止ま振り返って、母マリアの一団に向かってゆっくりと口を開いた。
「私のために……泣かないで……くれ。自分の魂と……人類のために……。私が受けている苦しみよりも……遥かに、遥かに大きい苦しみの……火の洗礼の大峠に向かって、人類は……一歩一歩……と歩を進めている……。そんな人類の裁きの大峠のために……泣いて……くれ」
イェースズは耳を疑った。それはもはや、ヨシェの言葉ではなかった。神の力がヨシェの口を動かして、そう言わせたとしか考えられない。それは母や妻たちにとってヨシェの言葉ではなく、まぎれもないイェースズの言葉以外の何ものでもなく、聞いた人々は皆その場に泣き伏していた。彼女らにとってこれが、イェースズの遺言となるのだ。
ヨシェは城門をくぐり、都の外に出た。このあたりは、ちょっとした丘になっている。その側面に洞窟が二つあり、それが目となる人間の頭蓋骨に似ているので、人々はその意味であるアラム語でこの丘をグルゴルサーの丘と呼んでいた。ここが罪人の処刑場であることも、その呼称と関係がありそうだ。
その丘の登り口で、ヨシェはまた倒れた。ここまでついてきたのは、信奉者たちだけだった。もちろん母マリア、妻マリアも使徒エレアザルも、その中にいた。
ヨシェはすぐに立ち上がった。苦しみの道行きも、すでに終わりに近づいていた。
丘の上にはすでに、二本の十字架が立てられていた。つまり、ヨシェよりも前にこの道行きを歩んだデュスマスとゲスタスの十字架だ。その中間に、荒木が一本立っている。それがヨシェがかかる十字架の縦木であった。空はどんよりと曇り、今にも泣きだしそうだった。
丘をゆっくり、ゆっくりと登り、縦木の下までたどりついたヨシェは、横木を放り出して倒れた。その衣服は、たちまちローマ兵によってはぎとられた。衣は血で肌に付着していたので、皮膚をはがされるのと同様の苦痛が伴い、ヨシェはうなり声を発した。そしてわずかな腰布だけを残して、ヨシェは裸にされた。
「これはどうする?」
兵の一人がヨシェの頭の荊棘の冠を取り上げた。
「これは使いものにならん。かぶせとけ」
再び荊棘の冠が頭にはめられ、とげが刺さって再度ヨシェの顔が苦痛にゆがんだ。すでに赤黒く渇いていた血の筋の上に、新たな鮮血の筋が走った。
ヨシェは横木の上に押し倒され、手首に釘が打たれた。その度にヨシェの悲鳴があがった。本物のイェースズはさすがに丘には登れず、その麓でうずくまっていた。だが、母マリアや妻、そしてエレアザルは上まで行ったようだ。
横木がロープを使って上げられ、十字架のかたちになった。縦木と横木が打ちつけられる。横木は角材だが、縦木は太い丸太だ。その縦木の上にはすでに、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の三ヶ国語で「ユダヤ人の王」と書かれた札が打ちつけられていた。
空の雲はどんどん厚くなり、まるで夜のような暗さにまでなっていった。
縦木の突き出た部分に尻を乗せさせられると、今度は足首に釘が打たれた。またもや悲鳴が、イェースズのいる丘の下まで響いてきた。ひと打ちごとに、金属音とヨシェの最後の力を振り絞っての絶叫、そして母マリアが泣き伏す声が号泣となって曇天に響いた。
イェースズは耳をふさいだ。神殿の庭では今頃も、犠牲の小羊の血が流されているであろう。その同じ日に一人の罪なき男が、身代わりの小羊となって血を流している。これほどまでに大きな愛と犠牲を、イェースズは今まで見たこともなかった。
ヨシェの十字架の左右に立っている十字架の上には、どちらも「ゼーロタイ」と書かれた札が掛かっていた。その真ん中の十字架上で、ヨシェは祈りを捧げていた。
「神様、この兵たちをどうかお許し下さい。この方たちは神様を存じ上げない異教徒なのです」
しかしヨシェの足元には、異教徒ではないはずの祭司や律法学者も数人来ていた。
「この方たちも、お許し下さい。この方たちは、自分が何をしているのか分からないのです」
律法学者が、ヨシェを見あげてあざ笑った。
「おまえは他人の病は癒せても、自分は救えないのか!」
「そうだ、そうだ。おまえが神の子なら。今自分の力でこの十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる」
律法学者たちは一斉に笑った。それは神殿で、何度かイェースズと顔に青筋立てて論争したあの学者たちだった。
「おい、救世主!」
右側の十字架上のゲスタスまでもが弱々しくも最後の力で、ヨシェをあざ笑うように言った。
「おまえが本当に救世主なら、俺を助けてくれ。そしてローマを滅ぼしてくれ……できないのか……インチキめ!」
ゲスタスとて、それ以上しゃべることは不可能のようだった。反対側のデュスマスもとぎれとぎれに、やっとという感じで言った。
「天国へ行ったら……俺を……思い出してくれ……」
ヨシェはゆっくりうなずいて、それから足元の人々を見た。ヨシェの目線の先にあったのは、エレアザルだった。
「エレアザル……、母さんを……頼む」
呼ばれたエレアザルも母マリアも、そしてエッセネの老尼僧サロメも、一斉にヨシェを見上げた。そしてヨシェの視線は、イェースズの妻のマリアに移った。
「マリア……、これからも母さんとともに暮らして…。母さん、義姉さんを、本当の娘だと思っていっしょに暮らして」
「あッ」!
マリアはしばらく、口をあけていた。イェースズだったら自分のことを、エレアザルに託すはずがない。今まで兄弟の中で一人だけガリラヤに残り、自分の面倒を見てくれていたヨシェだからこそ、あとのことをエレアザルに詫したのだ。しかもイェースズの妻マリアを「義姉さん」と呼んだ。母マリアは真実を悟り、口を大きく開けて身動きができなくなった。十字架上にいるのはイェースズではなく、ヨシェだ! それを知った母マリアは、その場にひときわ大声で泣き伏した。
急にヨシェは、まだこんな力があったのかと思われるほどの大きな声で、天に向かって叫んだ。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」
その声は丘の下の、イェースズの所にも届いた。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」
その語句で始まる詩篇二十二章だ。ふつう詩篇の朗読は、祭祀用語であるヘブライ語でする。だからこの部分は、「エロイ、エロイ、ラマ、アゼベタニ」と言うのが普通だ。しかしこの時ヨシェは、その語句を口語であるアラム語で言った。
「今さら神に見捨てられたことを、嘆いているぞ」
丘の上にいた祭司たちはアラム語であるだけに、それが詩篇の一節であることに気がつかなかったようだ。しかも「エリ」はヘブライ語「エロイ」のアラム語への直訳で、アラム語では「神」は「主」と呼ぶのが普通であり、「エリ」とはあまり言わない。厳密に言うと「アドナイ」はヘブライ語で、アラム語では「アドン」となるが、たいていここだけは皆、祭祀用語であるヘブライ語で言うのが普通だった。
だから中には、
「エリヤを呼んでいる」
なぜと、馬鹿なことを言っている者もいた。
イェースズだけが、ヨシェの真意を理解していた。ヨシェはこの章句を、最後まで唱えたかったに違いない。この詩篇二十二章は、最後は神への賛美で終わる。その賛美まで、ヨシェは唱えたかったのだ。それなのにヨシェは、最初の一節で力尽きてしまった。
イェースズは涙を流しながら、一人でヨシェのかわりに、詩篇二十二章を最後まで唱えた。だが、最後の方は涙につまって、声にならなかった。それはヨシェとイェースズが幼い頃、二人とも好きでよくともに唱和した詩篇の一節である。そしてつい昨晩も、ゲッセマニの園の月明かりの中、二人でこの章句を唱和した。
その時、イェースズの中に電光が走った。それはいつも、自分の前世記憶が呼び戻される時の感覚だ。確かにイェースズは、「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」と口ずさんでいた。だが彼の意識の中でそれはアラム語でさえなく、実は遥か超太古のムーの国で使われていたマヤ語だったのである。「頭の中が白くなる、意識が遠のいていく」という意味であるが、イェースズは驚きとともに丘の上の十字架を見つめた。もしかして無意識のうちにイェースズの前世記憶がヨシェに飛び火して、ヨシェはマヤ語をしゃべったのだろうか……しかも、この意味の方が十字架上のヨシェの言葉としてはふさわしい気もした。
そのヨシェはしばらくの沈黙の後、
「のどがかわいた」
と、ぽつんとつぶやいた。ローマ兵は酢の入った葡萄酒を海綿にひたし、それを棒の先につけて、ヨシェの口元へもっていった。そしてその同じ棒は、両隣のデュスマスとゲスタスの口にも運ばれた。だが、実はそれは毒薬だった。
「ついにやった!」
そのひとことの絶叫とともに、ヨシェは首をうなだれた。
雷鳴が轟き、稲妻が走った。祭司も律法学者も、慌てて丘を駆け下りて行った。激しい雨が大地をうがち、母マリアの号泣と混ざって響いた。それ以外の妻マリア、サロメ、エレアザルは、しっかりと十字架上の男の最後を見届けた。雷鳴はひっきりなしに、鳴り続けていた。本物のイェースズは三十二歳、十字架上で死んだヨセは三十一歳だった。
時に西暦二十九年、ローマ暦(当時のユリウス暦)四月十五日(現・グレゴリア暦では十三日)、ユダヤ暦で一月(現・ニサン)十三日、安息日の前日なので第六の日、後世風にいえば金曜日だった。同じ時刻、同じエルサレムにいた人々は祭りの準備の最中の突然の雷雨に慌てふためき、逃げ惑っていたが、その絶対多数の大部分がこの郊外の丘の上の十字架で息を引き取った男のことなど全く知らずに、皆それぞれの生活をしていたのである。
雨も小降りになり、日没が近いことを人々は知った。日没になると安息日が始まり、遺体をおろして埋葬することはできなくなる。それだけでなく安息日から引き続いて祭りの期間に入るので、遺体を八日間も野ざらしにしなければならない。それはどうもまずい。
だから、まだ残っていた一部の律法学者たちがローマ兵と交渉して、早急に三人の遺体は下ろされることになった。遺体といっても実はデュスマスとゲスタスは、棒の先の海綿の毒薬もまだ効かず、この時点でまだ息があるようだった。それでもと、律法学者は執拗にローマ兵に食い下がった。もっともローマ人にとっては安息日だの祭りだのそんなことはどうでもいいことで、もともとは見せしめの刑なのだから本来は受刑者が死ぬまで何日も放置しておくものだ。だが学者たちがあまりにもしつこいので、息がある場合はとにかく人為的に殺すことになった。兵がまずデュスマスの足を、骨ごと折った。デュスマスは悲鳴を上げて絶命した。次のヨシェはもう死んでいたが、念のために兵は槍で脇腹を突いた。ヨシェは身動きもせず、血と水が少し流れただけだった。残るゲスタスも足を折られた。
受刑者を十字架から下ろす作業が始まった。デュスマスとゲスタスも、縁者が遺体を引取りに来ていた。
十字架からおろされたヨシェは、ぐったりとして母に抱かれた。マリアは泥の中に座りこみ、息子を抱いたまま、
「痛かったろう、痛かったろう。かわいそうに」
と言って、ただ泣くだけであった。
丘の下からその光景を見ていたイェースズは、もはやいたたまれなくなった。自分のせいで、母を悲しみのどん底に落としいれている。仮に十字架上で死んだのが自分であったとしても、母は同じように悲しんだであろう。しかし、年少の頃より親元を離れ、つい二、三年前に戻ってきたばかりの自分に比べ、ヨシェはずっと母のもとで成長し、母とともに暮らし、今回も母とともに都に上ってきたのだ。しかも、お尋ね者になっていた自分が死刑になったのなら母も納得がいくだろうが、ヨシェは死ななければならないいわれは全くない。
イェースズは張り裂けそうな胸を押さえ、涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐいながら、その場を去ろうとした。今は何の言葉も、彼の脳裏には浮かばなかった。
デュスマスとゲスタスの遺体は、縁者が早々に持ち去っていった。だがヨシェの場合はマリアがなかなか放さなかったので、エレアザルたちが無理に持ち去ることもできなかった。
「さあ、お母さん」
エレアザルがそっと、マリアの肩に手を置いた。いいかげん、日が暮れてしまう。そうは言ったものの、エレアザルにも何をどうしたらいいか分からない。第一、墓がない。マリアの家の墓は、ガリラヤに戻らない限りないのだ。そうなるとベタニヤまで遺体を担いで行き、エレアザルの家の墓に入れるしか方法は思い浮かばなかった。だが、男手はエレアザルだけで、その場に残ったのは女性ばかりだ。まさか、ローマ兵にそのようなことを頼むわけにもいかない。ほかの使徒たちはペテロと兄のヤコブ以外は自分たちの無罪放免が密告の交換条件だったなどと知らないので、自分たちの身に危害が及ぶことを恐れてどこかに隠れている。ペテロとヤコブを呼びにいっていては日没に間に合いそうもない。しかし、この雨の中をエレアザルが一人で、しかも血みどろの人の遺体を背負ってベタニヤまでの街道を歩くことはどう考えても現実的ではなかった。さらには、安息日になる前に到着することなど、全く不可能であった。それでもほかにいい方法が思いつかないので、とりあえずエレアザルは優しくヨシェの遺体をマリアから放し、それを背に担いだ。
そこへローマ兵が一人、歩み寄ってきた。
「ちょと待て。遺体引き取り許可証は?」
片言のアラム語で、ローマ兵は言った。ヨハネはマリアと顔を見合わせた。そのようなものをとりつける暇もなく、彼らは噂を聞いて駆けつけてきたのだ。
「知事閣下の許可証がないと、遺体、引き渡せない」
そのようなことをいわれても困る。とにかく日没までに何とかしないと、ヨシェの遺体は八日間もここに放置したまま、手出しもできないことになる。八日もたてば遺体は腐乱して、手がつけられない状態になっているはずだ。デュスマスやゲスタスは四、五日も前に判決が出ており、縁者はそういった書類も簡単に用意できただろう。先ほどローマ兵に遺体を下ろすことを交渉していた律法学者も、もうさっさといなくなっている。
「さあ、どうしたものだ」
エレアザルは困り果てて、女たちの顔を見ていた。
その時、丘の下から雨でずぶぬれになって、息を切らせながら駆け上がってくる二人の律法学者がいた。その黒い頭巾の下の年老いた顔を見た時、エレアザルの顔が輝いた。それは、ニコデモだった。
「いいところにいらしてくれた。実は困っているんですよ」
エレアザルの訴えに、ニコデモはうなずいて見せた。
「大丈夫!」
ニコデモといっしょに来たもう一人の律法学者が、懐から羊皮紙を取り出した。それは、ギリシャ語で書かれた遺体引き取り許可証だった。
「このヨセフが知事閣下に頼み込んで、今やっと書いてもらったところだよ」
ヨセフと呼ばれた学者は、それをローマ兵に見せに行った。ピラトゥスの署名を見るや、兵たちは一斉にかかとを揃えた。
「あの方はアリマタヤの方だよ。ひそかに先生に心を寄せておられた方なんだよ」
ニコデモが、アリマタヤのヨセフの後ろ姿を見ながら、エレアザルたちに説明した。そのニコデモは没薬とアロエを持って来ていた。それをヨシェの遺体に塗って、香料を染みこませた亜麻布で手早く巻いた。その周りで母マリア、それにイェースズの妻マリア、老女サロメも、ひたすら泣き続けていた。
「このすぐそばに、ヨセフの家の墓で、一つ空いているのがあるそうだよ」
ニコデモがそう言い、ヨセフ、エレアザル、ニコデモの三人で布が巻かれたヨシェの遺体を担ぎ、墓へと運んだ。そして墓穴の中に遺体を安置し、また三人がかりで大岩で墓の入り口を閉じた。なんとか、日没には間にあった。
「さあ、今日はとりあえずこれで。安息日が明けたら、もう一度、香料を持って出直してくるといいよ」
悲しみで何も言えない母マリアに代わり、イェースズの妻マリアがニコデモの言葉にうなずいた。
「分かりました」
その場でヨセフとニコデモは、母マリアたちと別れた。
すべてが終わった。しかし、本物のイェースズにとっては空虚な心のまま、行くあてもなくグルゴルサーの丘の周りをうろついていた。ヨシェが通ってきた悲しみの道行きの通りはもう、ただの人々の雑踏が行きかう普通の道に戻っていた。
そんな人々の中に、いやでも目立つ若者を二人、イェースズは見つけた。
「ヌプ、ウタリ!」
呼び止められた二人の顔が、パッと輝いた。
「先生、探してましたよ」
ヌプが叫んで、二人は一目散にイェースズの方に駆けてくる。
「どこへ行っていたんだ?」
「先生の弟さんが昨晩遅くに天幕を出てから、そのままとうとう朝まで帰らなかったんですよ。それで今日は僕たちどこへ行って何をしていたらいいのかも分からないし、言葉も通じないし」
ヌプのその言葉をウタリが受けた。
「どこへ行ったら先生に会えるかも分からなくてあの宿屋に行ったけど、誰もいなくて、それで歩きまわっていたら」
訳の分からない異邦人の言葉で会話している三人を、道行く人は誰もがちらりと好奇の目を投げかけて過ぎていく。
「そうしたら、このあたりでなんかすごい騒ぎになっていて、血みどろの人が鞭で打たれながら太い木を担いで歩かされているし、でもよく見たらその人が先生のあの弟さんのような気がしてずっとついて行っていたんですよ」
「ヌプったら、まさか弟さんじゃなくて先生じゃないだろうななんて言うもんだから心配になっていたら、先生が出てきて代わりに木を担いで歩いてましたよね」
「見ていたのか」
イェースズは悲痛な顔つきで、目を伏せた。ウタリが話し続けた。
「でも、なんか声をかけてはいけないっていう気になって黙ってついて行っていたら、いつの間にかまた先生から弟さんに換わって、それで先生を見失って」
「でもこのあたりにいたらきっと先生に会えると思って、それでうろうろしていたんです」
「先生、いったい何があったんですか?」
「詳しい話は後でしよう。まずは日が暮れるまでに、今夜寝る所を探さなくてはいけない」
イェースズは手短に、安息日というものについて二人に説明した。かつては堂々と安息日を否定していたイェースズだが、今ここでまた問題を起こして律法学者ともめたりしたら、自分が本物のイェースズであることがばれてしまう。そうなると、ヨシェの死が無駄死にになってしまうのだ。
今夜が一般の過越の晩餐だから、市内に潜伏先を求めるのはまず無理だ。そこでイェースズたちは城外に出て、ケロドンの谷にあった適当な洞窟に入り込んだ。もうそろそろ、夜でも篝火をたかずに過ごすことができるようになっている。
そのうち、ふと外に行っていたヌプがどこから持ってきたのか種なしパンを三つ持ってきた。
「先生、この国ではいつもこんなぺちゃんこな,餅みたいなもの食べているんですか?」
力なく笑いながらイェースズはヌプとウタリに、過越の祭りについて語った。それからイェースズはさらに、今日の事件のあらましを告げた。彼らはあまりにも激しい出来事の真最中に、エルサレムに到着してしまったものである。
その話が終わってから、ヌプに、
「先生、これからどうなさるんですか」
と尋ねられても、イェースズはうつろな目をしていた。
「分からない」
「先生、元気を出して下さいよ。もしここで先生が力を落とされたら、弟さんのお気持ちが無になってしまうじゃないですか」
ウタリが明るく言うと、
「分かっているさ」
と、イェースズは無理をして笑顔を見せた。
「ガリラヤに帰っても、しかたないしなあ」
「先生!」
ウタリが意を決したように、ろうそくの炎に顔を照らされながら言った。
「帰りましょう、ぼくらの国へ」
「そうだなあ。それよりもあなた方は? 国を出てから、どうやってここまで来たんだい?」
「僕ら、先生と別れてから一旦は故郷のコタンに帰って、それからミコ様の所に戻ったんです」
ヌプの言葉に、ウタリが割り込んできた。
「先生は、やはりこっちで死んじゃいけない身ですね」
ミコからも言われていたことを今またウタリに言われて、イェースズはなぜかものすごい緊張感を覚えた。
「実は」
と、ヌプが口をはさんだ。
「僕ら。ミコ様の所に一年くらいいたんですよ。ミコ様は、僕らが先生に会ったら先生にすぐにミコ様のもとへ帰るように、そしてその途中でしてもらいたいことがあるって、そんな言伝を頼まれてきました。ミコ様の所に一年もいたのは、その『してもらいたいこと』に関係があるんです」
「そう。だから、そのミコ様がおっしゃる『してもらいたいこと』のためにも、先生は死んじゃいけなかったんです」
「僕らが先生にそれを伝えられるように覚えていたら、一年かかっちゃったんです」
ウタリもうなずいた。イェースズは何事かと、思わず首を延ばしていた。
「それにその一年の間、ミコ様はずっとトト山にいらっしゃったわけではなく、あのあたりをぐるぐると旅して回られ、行く先々で修法のようなことをされていました」
「なるほど、フトマニ・クシロか」
「ご存じでしたんで?」
ウタリの言葉にイェースズは、顔を上げた。いよいよそのような時かとも思った。
今や自在の世となり、副神の神が神界を統治して、その手先である邪神が跋扈する世だ。神霊界では激しい戦いが行われて複雑怪奇の様相をなし、天祖・皇祖・人祖のご直系の皇御国たる霊の元つ国だけはその保全が守られているものの、この地で天地を創造された国祖の神は長く隠遁され、この国の神霊界もまた副神の神が統治している。天国は激しく襲われており、やがて龍神系の神々と天系の神々が再び戦う世となろう。そのような時に当たり、隠遁されている国祖の大神のお出ましの天の時に備えて、全世界に霊的な結界・バリアをはりめぐらすこと、それがフトマニ・クシロだ。
まずはミコが霊の元つ国で、その結界を張った。そして霊の元つ国は世界の霊成型であり、そこで行われたことは世界に拡大する。だからミコが霊の元つ国でフトマニ・クシロの霊的結界を張ったなら、今度はイェースズがそれを世界に拡大して結界を張り巡らさなければならない。その具体的な地点が示された地図も、ヌプたちはミコから預かってきていた。
そもそも国祖隠遁の大戯曲の主役を演じた副神の親玉の女神は、副神同士でもまた争いがあって、今はヨモツ国、すなわちイェースズのいる地よりも西、ローマ帝国一帯の神霊界に潜んでいるそうで、いつかは霊の元つ国の神霊界統治の座を奪い、そのスメラ家の霊統に自らのみ魂を注入せんと虎視眈々と狙っているとのことだ。だから、イェースズの使命は重い。これこそが本当の意味での、全世界の人類の救いとなるのだ。
やがて限定のみ世が来る。天の岩戸が開かれて、国祖のお出ましの時が来る。それまでに霊の元つ国の霊界を明かなに保ちおかなければ、すでに千年が経過した国祖三千年の経綸が狂っていく。だから、イェースズの仕事は、いわば神経綸に参画することだ。神霊界の御神業ともいえるこんな聖使命が自分にはあったのだ。つまり、自分の御神業範囲が、これからは神霊界にまで拡張することになる。だから、やはりここで死ぬわけにはいかなかったのだ。そのことをイェースズはつくづく思って身震いし、感動のあまりに目から涙の筋が流れた。
翌日も雨だった。ヌプたちは食糧を求めに出かけると言った。イェースズはもう一度その日が安息日であることを説明して注意したが、二人は平気だった。
「ぼくらはよそ者ですし、何か言われても言葉が分かりませんから」
笑いながらそう言って出て行った二人が、戻ってきたのはすぐだった。
「先生、すぐそこに先生のお弟子さんがいましたよ」
「えッ!」
イェースズは立ち上がった。
「誰だ!」
「名前はわかりませんけど、ほら、ぼくらを天幕まで送ってくれた、髪の短い」
「ユダ!」
十二使徒のうち長髪でなかったのは、イスカリオテのユダだけだった。ユダにだけはどうしてももう一度会いたいと思っていたイェースズは、すぐに雨の中を洞窟の外へと駆けだした。
彼らが言う場所――神殿の頂の真下へ、イェースズは駆けつけた。そこでユダは雨に濡れながら、誰かと話していた。近づいてみると、それは同じ使徒だった熱心党のシモンだった。
「ユダ」
優しくイェースズは声をかけた。
「あ、先生」
ユダはぽつんとつぶやいただけだったが、シモンの方は顔面蒼白になって腰を抜かしていた。シモンは、イェースズが十字架上で果てたと聞いて、そう信じていたのである。ところがユダは、真相を知っていた。自分から合図の口づけをする相手が師のイェースズのはずだったのに、イェースズではない弟のヨシェが強引に自分に口づけをしてきたから、兵たちは皆ヨシェをイェースズと思ったのだ。
一瞬ばつが悪そうな顔をしたユダは、そっとその場をあとにしようとした。だがイェースズは、もう一度、優しく、
「ユダ」
と呼ぶと、ユダの足はぴたりと止まった。
「ユダ、逃げなくていい。あなたも辛かっただろう。申し訳なかった」
イェースズはユダに深々と頭を下げた。
「しかし、」
ユダはイェースズの目を見ずに、うつむいてしゃべった。
「結果はどうあれ、俺は師を裏切った男だ。たとえ先生がそうしろと言ったことだったとしても」
イェースズはほんの少し翳りがある顔で笑った。
「すべてが、神様が書かれた戯曲通りに、あなたはそれを演じただけだ」
ユダは黙っていた。
「本当に、有り難う。あなたは勇気を奮って、師とほかの使徒たちのために汚れ役を買って出たんだ。辛い役をさせてしまったね。それも承知の上で、よくやってくれた。でも、あなたはこれで、神様から与えられた使命を果たしたのだよ。でも、あなたは祝福される。人々は、そして後世の人々までも、あなたを憎み、なじるかもしれない。しかしいつの日か、あなたの頭上に神の栄光が輝く時が来る」
「でも、そのために先生の弟さんを殺してしまった」
「こういうことになろうということまでは、私も見抜けなかった。でも、すべてが神様の書かれた筋書きなのだ。ところで、これから、どうするつもりだ?」
「シモンといっしょに、熱心党に戻ります。今もそれを話していたところです」
シモンはまだ事の次第をのみ込めないまま、恐々と顔を上げていた。
「そうか。それぞれの道でがんばろう。私はあなたを忘れない。あなたの魂の救われを祈っているよ」
だがイェースズの霊眼には、遠い未来のことが見えてしまった。真っ赤な土の大きな要塞を、まるで砂糖にたかるアリの群れのようにローマ兵が包囲し、中では多くのユダヤ人が次々に兵に踏み潰されるように命を落としている。煙が上がる。そしていつかも見たように、エルサレムの神殿が大音響と共に崩される。その戦いの中に、ユダもシモンもいた。そのビジョンの中で、すでにユダもシモンも白髪の老人になっていたから、今日、明日の出来事ではないようだ。
だがそのことはイェースズはユダには告げず、目を閉じ、そしてユダとシモンの二人の額に両手をそれぞれかざした。これが彼らに与えてあげられる、最後の霊の洗礼だった。それが終わるとイェースズは、ユダに優しく語りかけた。
「あなたにはすべてが語られた。目を上げて雲とその中の光を、そしてそれを囲む星々を見るんだ。人類を神の偉大な霊智へと導く星があなたの星だ」
それからイェースズは目に光るものを見せながら、彼らに、
「シャローム」
と言った。そして次の瞬間、肉体をエクトプラズマ化させて、一気に洞窟の中へと瞬間移動した。
その日イェースズはそれから、洞窟の奥に向かって座って見動きもしなくなった。寝ているという様子もないが、ヌプとウタリは近づくことも声をかけることもためらわれるようなまばゆいオーラがイェースズからは発散されていた。
実は、イェースズはそこにはいなかった。肉体・幽体はそこにあっても、霊体は神霊界にいたのである。それが今後の、彼の御神業となる。今の神霊界の様子がどのようになっているのか、その目で確かめさせるべくイェースズは神霊界に引き上げられていたそれは、許されなければできることではなかった。
光輝く世界を、彼は龍体の鱗の一つに乗って飛行していた。やがて、行く手に巨大な宮殿が見えてきた。その中にと龍体の鱗は入っていく。玉座には着飾った女神が座っており、あらゆる物質的な欲望をその身にまとっているともいえた。かつて天地創造のみぎりは、この神も国祖の神の手足としてその神業に参加していたのであるが、やがて宇宙の大祖神がご自分とすべての神々の霊波線を断ち切って、人類に試練を与えて進歩させるための自在の世に移ると、神々の世界にも権勢欲、色欲、支配欲など欲望というものが生じてきた。そしてこの神こそ霊の元つ国の霊界の統治権を虎視眈々と狙っている女神であり、そのみ魂はローマ帝国の西の果ての霊界にいる。だがそのきらびやかな宮殿の中の、この上ない美貌に包まれた女神自身のその周辺には、おびただしい数のキツネがその身を守るかのように跳梁していた。しかも女神に寄り添うその親玉のキツネは全身が黄金色に輝いているだけでなく、尾は九本に別れていた。この女神に対して霊の元つ国ではミコが、そして世界ではイェースズがこれから結界を張り巡らせて行くのである。
その晩イェースズは、ヌプたちと話し合った。ヌプはミコから預かってきたと言って、小さな木片を取り出した。そこにはすべての世界の地形が簡単な絵で描かれており、いくつかの点が書かれていた。
「この点が、フトマニ・クシロの地点だそうです」
その点を線で結ぶべく、イェースズはその地点をすべて廻らねばならない。
「先生、旅に出ますか?」
と、ウタリが聞いた。
「ああ」
「僕らも、いっしょにいってもいいですね?」
「もちろんだ」
使徒たちはつれて行くわけにはいかない。結局は、彼が最初に弟子にしたこのヌプとウタリの二人が、最後まで自分についてきてくれることになる。そうして、イェースズもこのエルサレムを離れる決心がついた。そして全世界に霊的バリアをはりめぐらしつつ、ヌプたちの故国、東の果ての霊の元つ国――彼の師のミコが待つ国へ戻るのだ。
「では、明日出発しますか?」
ウタリの問いかけに、イェースズは首を横に振った。彼はどうしても、もう一度使徒たちに会いたかった。このまま自分は死んだことにして、明日にでもひそかにこの地を離れてもいいのだが、それはイェースズにはとても忍びないことだった。それにヨシェの墓にも行っておきたい。
思えばミコがこの国に自分を遣わしたのは、ここが自分の故国であるということもあるが、ここはいわば東西の霊界の接点、融合地点でもある。現界的にも、東のハーン帝国とローマ帝国の中間に位置しているし、その両者の交易の主役もユダヤ人なのだ。そしてそれよりも以前に、イェースズがこの地に生を受けたということも、偶然ではない神霊の巧妙な仕組みの中にあった。まず、副神統治の世にあって、この地で正神の教えを広め、霊的な杭を打ち込んでからでないと、フトマニ・クシロはできない。
その時、イェースズの頭に、ヨシェのことがふと浮かんだ。ヨシェはこの地の邪神・邪霊の毒を一身に引き受けるために、十字架にかかったのかもしれない。ヨシェのお蔭でこの地に、正神の霊的楔を打ち込むことができた。イェースズの御神業の第一歩は、ヨシェがしてくれたのだ。しかしもしそれをイェースズ自身がしていたら、イェースズはその後の第二歩、第三歩の御神業はできなくなっていたはずである。水の系統、副神系統の神々統治の世に、正神の、火の系統の神々の霊的バリヤを張ることは容易ではないことは分かっている。妨害もあるはずだ。しかしイェースズは、それをやらなければならなかった。
外の雨はしばらくやみそうもなかったが、イェースズには気になることが生じてきた。雨がやんで安息日も終われば、使徒たちもまた集まるだろう。仮埋葬だったヨシェの葬儀も行われるはずだ。ヨシェといえば、イェースズにとってもう一つ気になることがあった。ヨシェの処刑に最後までついていった母マリアとともにいた人々の中に、老尼僧のサロメがいたからである。ヨシェの死はイェースズの死として、エッセネ教団にも伝わるであろうし、そうなるとヨシェの遺体は自分の遺体として、エッセネ教団の本拠地――白色同胞団のあるエジプトの地へ運ばれるに違いない。なにしろイェースズはかつてエジプトの日来神堂の中での最高試験に合格し、エッセネの中でも最高幹部に属していたこともあったのだ。
イェースズは立ち上がった。ヨシェの遺体が持ち去られるとしたら、昨日は安息日だったからそれは今夜のはずだ。
もう雨はやみ、空は晴れていた。かなり満月に近くにまで膨らんだ月の光を頼りに、イェースズはヌプ、ウタリとともにヨシェの墓のある園へと急いだ。
たどり着いてみると驚いたことに、墓の入り口をローマ兵が警護していた。あれほど世を騒がせた男の墓ということで、使徒が遺体を盗みに来ることを警戒しているらしい。
兵士は番とはいっても、何分もう夜半近くなっており、槍を肩に座って仮眠をとっている。
静寂の時が流れた。その静寂を破ったのは、大勢の足音だった。しかも、ばらばらではなく、歩調を合わせて行進している。その足音は、次第に近づいてきた。イェースズたちはもの影に身をひそめた。やがて、十人ほどの白衣の男たちが、墓の方へとみごとな隊列を組んで向かってきた。その人々を見て、イェースズはやはりと思った。まぎれもなくエジプト・エッセネの白色同胞団だ。ローマ兵は目を覚まし、慌てて墓を背に槍を構えた。それにも構わずに、白衣の兵は行進してくる。そして墓の前まで来ると、回れ右でまたもと来た方に向かってゆっくりと行進していった。ローマ兵は圧倒され、槍を構えたまま何もできずに硬直していた。しばらくするとまた、白衣の一団は戻ってきた。やはり歩調を合わせての行進だ。そして今度は墓の前まで来ると一斉に足を鳴らして立ち止まり、入り口をふさいでいた石をいとも簡単にどけ、何人かが中に入った。そして少し立ってから、中に入った人々は出てきた。彼らの腕には、布を取り去ったヨシェの遺体が、しっかりと抱えられていた。
少しも乱れず、二列縦隊で、歩調も調えての行進が近づいてくると、イェースズはまた木の陰に隠れた。そして行進が自分と最も接近した位置に来た時、思わずイェースズは飛び出した。彼らの歩調がそれで乱れることはなかった。
「私はこの方の、信奉者だったんだ。遺髪を、遺髮を下さい!」
行進は止まった。イェースズはヨシェの頭髮を、少しだけ抜いた。そしてその眉間に手をかざした。その間、同胞団の人々は、全くの無言だった。白色同胞団は、無言兄弟団ともいう。その無言のまま、彼らはヨシェの遺体とともに月の光の中に白い衣を浮かび上がらせ、行進して行ってしまった。イェースズも黙って、深く目礼してヨシェを見送った。
イェースズとあとから来たヌプとウタリは、そのまま園で朝を迎えた。
すっかり明るくなると、小鳥たちの声がうるさいくらいにあたりに満ちた。春の中であった。空も昨日までの悪天候が嘘のように雲ひとつなく、ぬけるような青さで晴れわたっていた。はりつめた空気が、朝のさわやかさと新鮮さを強調しているようだ。
イェースズは日が昇りきる前に、草の上で眠っていたヌプとウタリを起こした。ヨシェの墓は入り口の石がとりのぞかれたままで、そのことが昨夜の出来事が夢ではなかったことを物語っていた。
「二人とも墓の中に入って、誰か来たら『この墓の中の人はもうここにはいません』って言うんだ」
イェースズは「墓の中の人はここにいない」というアラム語を、二人に教えこんだ。そのあとですぐに二人は、墓の方へ走っていった。その衣は白く、やっと昇った朝日を受けてまぶしいくらいに輝いていた。
イェースズは頬かむりをして、その辺の草をいじりはじめた。緑の葉の中に、ところどころに黄色い花が点在している。こんな小さな花にも、生命があふれんばかりに感じられた。
園に入ってくる人影があった。
イェースズは頬かむりを深くし、低い木の下でその二人の姿を見た。ひと目で一人はイェースズの妻ののマリア、そしてもう一人は母マリアだとわかった。妻マリアは、手に香料を持っていた。
イェースズはすぐにも飛び出したかったが、一抹のためらいを感じてそのまま見ていた。二人は会話が聞きとれるほど、近くまで歩いてきた。
「あのお墓の入り口の石、どかせられるかしら」
「私たちだけじゃ、無理かもしれませんわ、お義母様。誰かいないかしら」
そう言ってあたりを見回した妻マリアが、イェースズの姿を見つけた。
「でもほら、管理人さんがいますわ。よかった」
母と妻は自分を墓の管理人だと思っているようなので、イェースズは隠れるのをやめて草むしりを始めた。
「すみませーん、管理人さーん」
妻マリアが二、三歩イェースズの方に近づいた時、母マリアが大声を上げた。
「ちょっと! あれはどうしたことでしょう! 入り口が開いている!」
「うそ!」
二人はイェースズから離れ、墓の方へ駆けていった。
「どういうこと?」
「とにかくあの人たち、呼んできましょうよ」
妻マリアが言って、香料を置いたまま二人は駆けて園から出ていった。
息を切らせてあの人たちが来た。使徒の中の、ペテロとヤコブ、エレアザルの三人だった。彼らは、こんなにすぐにここに来られるくらいの近い距離にいたらしい。
まず、エレアザルが中をのぞいた。後ろから、ペテロが声をかけた。
「何か見えるか?」
「いえ、布があるだけです」
「どれ」
ペテロは墓に入っていった。
「遺体がない!」
墓の中から、ペテロの叫ぶ声がした。
「遺体がないって?」
「体をくるんでいた布があるだけだ。頭を包んでいたのは、離れた所にまるめてある」
中から大声がしたあと、声の主のペテロはすぐに出てきた。そこへ妻マリアも戻ってきた。年老いた母マリアは、若い人と同じくらいには走れないから、まだのようだ。ペテロは、イェースズの妻マリアに言った。
「遺体が盗まれた。みんなに知らせてくるから、ここで見張っていてくれ」
ペテロとヨハネが走り去ると、ひとり妻マリアだけが残された。彼女はただ呆然と立ちすくんでいた。その時やっと、ヌプとウタリが墓の中から出てきた。ペテロが入った時は、臆して棺の後ろかどこかに隠れていたのだろう。
「天使……!?」
マリアはその二人の姿を見て、目を開いてその場にひざまずいた。エルサレムに来る途中の旅路で彼ら二人と会って共にエルサレムまで来たマリアであったが、朝日に衣ばかりが白く輝き、かぶりもので顔がよく見えなかったためにあの二人だとはマリアは思わなかったようだ。
「誰かが先生の体を、どこかへ持っていってしまったようなんです」
両手の指を組み、涙を流してマリアは訴えた。
「この墓の中の人は、もうここにはいません」
ヌプが教えられた通りに、上手にアラム語で言った。イェースズは静かにマリアのそばに歩み寄り、その背後に立った。マリアはふりむいた。
「あ、管理人さん」
「どうしました? どなたをお探しです?」
「この墓に葬ってあった人は? もし管理人さんがどこかに移したのでしたら、教えて下さいませんか。私たちがひきとりますから」
「どうして生きている人を、死人の中に探すのですか」
マリアは涙を流しながらも、小首をかしげた。イェースズは頬かぶりをとった。
「マリア」
優しく微笑みかけるイェースズを、妻マリアはただ口をぽかんと開けて見ていた。やがてその唇がゆっくり動き、微かな声が発せられた。
「ラ……ビ……」
次の瞬間、マリアはイェースズの胸に飛び込んだ。そして、固く抱擁した。
「先生、どう、どうして……、どうして……?」
イェースズは優しく、マリアの体を離した。そしてにこやかに微笑んだ。
「さあ、そんなにべたべたとすがりつかないで。みんなの所に行って、私は生きているとみんなに伝えてくれ。そしてベタニヤに戻って、ゼベダイの家に集まっているようにってね。私はそこで彼らに会おう」
もう一度ニッコリ笑みを投げると、イェースズはその場をあとにした。ヌプとウタリがそれに従った。アリアはまだ呆然と、同じ場所に立ちすくんでいた。
夕方にイェースズも、ベタニヤに向かうことにした。よく晴れていて、晴れたらそろそろ暑ささえ感じられるころだ。
ヌプとウタリを左右にしてベタニヤへの街道を急ぐイェースズの周りにも、祭りの期間中とあって通行人は多かった。そのイェースズたちのすぐ前を歩いていた男二人連れの会話が、イェースズの耳に飛び込んできた。
「でも、ほんとかなあ、クレオパ」
「死体が盗まれたってもんな」
すぐに自分のことを話しているのだなと、イェースズは気がついた。エルサレムの市民にとって、ヨシェがかかった十字架は、毎日のおびただしい数の十字架の一本にすぎず、大多数の市民にとっては関心の対象になっていないはずだった。知っていて関心を向けなかったのではなく、おとといの昼過ぎの三本の十字架のことなど知らない人の方が多かったはずである。それを、前を歩いている人たちは話題にしているということは、特殊な人たちらしい。しかし、特殊な人たちとはいえ、その人々の間に遺体消滅事件のことはすでに知れわたっているようだ。
「本当に盗まれたのかねえ。毎日あんな素晴らしい話を聞かせてくれた師だぜ。ひょっとしてひょっとするかもよ」
「いくらなんでもそんな馬鹿な」
イェースズは少し歩速を早めて、追い越しがてらに二人の顔をのぞいた。確かに特殊な人たちで、それはいつもイェースズが神殿のそばで説法をしていた時に、いつも真ん前で話を聞いていたいわば信奉者たちだ。もはやエルサレムも郊外にぬけたと安心して、それで大きな声で事件の話をしていたのだろう。
イェースズは完全に二人を追い抜いて、そしてその前で立ち止まって振り向いた。
「あなた方はいったい、何のお話をされているんですか」
二人の顔が見るみる蒼ざめ、体は自然に応戦か逃亡かの選択をしきれないような中途半端な動きとなって震えだした。イェースズを律法学者の手の者と思ったらしい。しまった、こんな話をするんじゃなかったという後悔の念が、二人の想念から読み取れる。二人の男は、後ずさりした。ましてや目の前の男がイェースズだなどとは思っていない。イェースズは死んだという先入観が彼らの頭を支配し、何ら変装をしてないイェースズの顔を直接見てもそれがイェースズだとは思わなかったのだ。
二人はとうとう逃げだそうとした。
「逃げなくても大丈夫。私はあなた方の言う師をよく知っていますし、逮捕のいきさつも知っています。それによると、神殿兵も今後一切あなた方の師の使徒、弟子、信奉者には一切手出しせず、お構いなしになったのですよ」
二人ともまだ、半信半疑だった。
「実は私、今日は昼職を食べていないんです。よろしかったらごいっしょしませんか? あなた方の師の話も聞きたい」
イェースズが近くの草むらに腰をおろすと、二人の男もためらいながらついてきて座った。ヌプとウタリは、イェースズの背後につっ立っていた。
「で、あなた方の師は、どんな方だったのです?」
クレオパと呼ばれた男よりも早く、もう一人のザッカイという男が答えた。
「預言者でした。言葉だけでなく、実際に神の業の奇跡もできる人でしてね。でも、おととい死刑になってしまいました。ローマ人の手でです」
「この方こそローマからの圧政からユダヤを救ってくれる救世主だと思っていたんですけどね」
と、もう一人のクレオパが付け加えた。
「おまけに死体が盗まれたってことなんで、これは毎日あの方の話を聞いていた人がまず疑われると思って、我われはとにかくエルサレムをあとにすることにしたんです」
イェースズは、ニッコリ笑った。
「そうですか。ところで、よかったら私のパンをどうぞ。祭りの期間ですから種なしパンですけど」
そして懐から種なしパンを取り出すと、それを割いてクレオパとザッカイの二人に渡した。そして急に、イェースズの口調が変わった。
「これをとって食べなさい」
それは、いつも神殿のそばで人々に説法をしていた時のあのイェースズの口調だった。
「私の体である命のパンを食べなさい。生命のパンと救いの杯を戴くものは、永遠の生命が得られますから」
叫んだのはクレオパもザッカイも同時だった。
「ま、ま、まさか、あなたは……。似ているとは思っていたけど」
震える指で、クレオパはイェースズを指さした。イェースズは依然頬笑みながらも、ゆっくりとうなずいた。
「じょ、冗談でしょ? た、ただのそっくりさんでしょ?」
イェースズは何も答えずに笑いながら立ち上がり、尻もちをついて動けないでいる二人に笑顔で、
「主の平和」
と、言って、街道を先へ急いだ。もう、エルサレム郊外だからと、イェースズもちょっとしたいたずら心を出したようだった。
夕方になってイェースズがベタニヤのゼベダイの家に着くと、扉は内側から鍵がかけられていた。ローマ兵を警戒しているらしい。イェースズは一気に肉体をエクトプラズマ化させ、難なく物質の扉をすりぬけた。
使徒はイスカリオテのユダと熱心党のシモンを除いた十人とも集まり、それにヤコブ、エレアザルの父と姉妹、イェースズの妻マリア、そして母マリアがひとかたまりになって座っていた。重苦しい空気がそこにあった。イェースズの妻のマリアが言ったことを、まだ誰も信じていないようだ。イェースズは部屋に入った。何人かが顔を上げた。
「うわっ! 出たあッ!」
トマスがまず絶叫した。みな恐怖におののき、座ったままあとずさりしていた。ただペテロと母マリアだけは平然と、イェースズを直視していた。
「主の平和(こんにちは)」
イェースズはニコニコしてそう言ったが、挨拶を返す者はいなかった。トマスはまだ歯を鳴らしていた。
「何を恐がっているんだい? 私だよ。私は生きているよ。幽霊なんかじゃない。ほら、さわってごらん」
イェースズはトマスに手をさしのべた。トマスは恐々、その手に触れた。
「ほらね、正真正銘の私だろ。幽霊なんかじゃない。幽霊だったら触れないよ」
使徒たちの真ん中には、すでに夕食の魚が用意されていた。
「戴いていいかな?」
ペテロが手で勧めた。イェースズは焼き魚を食べた。
「あ、召し上がった!」
ヤコブが大声を出した。
「幽霊じゃない! 幽霊だったら、食事なんかするわけがない!」
「本物の先生が生きておられる!」
人々の声に明るさが戻り、その顔も一斉に光が輝いた。室内がパッと招命に照らされたように明るくなった。
「先生が生きておられる!」
笑顔で互いに手をとりあい、そして使徒たちはイェースズを囲んでその体に触れた。喜びの渦で、室内は輝き充ちた。
「先生が生きておられる」
「紛れもない、先生だ!」
「私たちの先生だ!」
「でも、なぜ……。なぜ先生が生きておられる?」
トマスがつぶやくと、エレアザルがゆっくり口を開いた。
「奇蹟だ。私は先生に、死からこの世に呼び戻された。しかし先生はご自身で、死から立ち上がられたんだ」
「先生の正しさを、神様が証明されたんだ。先生は死に打ち勝たれたんだよ」
小ヤコブも気狂いのように、叫びまわっていた。
「先生が十字架にかけられると聞いた時、先生の教えは結局は今の世の中に通用しなかったのかって、悲しかった。でも、先生が正しかったっていうことは、神様が証明して下さったんだ」
「先生は復活された」
その最後のピリポの言葉にイェースズはほほえんで、それから全員を見回した。
「復活というのは、肉体が生き返ることじゃあないんだよ。事実、私は死んではいない。死んではいないけれども、私は今、神の子として蘇った。それが本当の、神の子の復活だ。あなた方も皆等しく神の子なのだから、誰もがこの神の子の力を甦らせなければならない。神の栄光に満ちて、霊化されて霊的に変容することが本当の復活なのだよ。そして復活後の私には、本当の意味で神様の御用が始まるんだ」
誰もが歓声を納め、イェースズを見つめて聞いていた。心なしかイェースズは、少し目を伏せた。
「あの過越の晩餐で言ったことは、本当だ。その神様の御用のために、私はもうすぐいなくなる。あなた方とも束の間の再会だけど、またすぐにお別れなんだ」
しばらくは沈黙が漂った。
「そんなあ、先生。せっかく再会できたのに、またどこかへ行かれてしまうんですか?」
小ユダが、半分涙ぐんで訴えた。
「とにかく今」
しばらくの沈黙を破って、アンドレが声を上げた。
「今ここに先生がいてくださるだけで十分だ。夢が覚めないうちに、この夢の楽しさを存分に味わおう」
「夢ではない。現実だ」
と、ペテロが少し目を伏せて言った。母マリアもまた、目を伏せていた。イェースズはそんなペテロに少し目配せをしてから、また明るく笑った。
「あなた方は今まで、私と苦しみを共にしてくれた。でももう受難の時代は終わった。ともに喜び、ともに祝おう」
イェースズも嬉しそうにそう言った。何しろ二度と会えないと思っていた使徒たちに、こうして再会できたのだ。そしてそのまま、喜びの祝宴が始まった。
その夜、イェースズはひそかに部屋を抜け出して庭に出た。そこに妻のマリアがいた。イェースズはすでにマリアが一人庭に出ていることを察知し、故意に出てきたのである。
「先生」
マリアは驚いたように、顔を上げた。その顔は満月から少し欠けた月に照らし出されて輝いた。
「何をしていたんだい?」
優しい笑顔を、イェースズは妻でありそして弟子であるマリアに向けた。
「先生とまだこうしていられるのが夢のようで、もしかしたら幻を見ているのではないかと思いまして。夜風に当たれば、幻か現実かはっきりするでしょう?」
それを聞いて、イェースズはまた笑った。
「私は幻ではないかもしれないし、幻かもしれない。でも、最初にあなたが生きているわたしを見た時、あなたは動じなかったね。それはあなたの叡智のなすところ、あなたは幸せだ。その叡智を大事にしなさい」
「先生、もしあなたが幻なら、私の心が見ているのですか? それとも魂が見ているのですか?」
「そういう二元的に考えないで、魂と心を十字に結んだところに叡智が生じて、その叡智が幻も、神さえもあなたに示す。唯霊も唯心も、もちろん唯物も偏頗だ。でも魂、つまりあくまで霊が主体で縦、心は従で横だ。そしてその叡智に至るには、退けなければならないものがある。第一に心の闇、つまり陰の波動、次に我欲、そして無智、妬み、物質欲、人知才知、怒りの想念だ。これらはすべてその原因は、自己愛だ。我善しの心だ。でも決して『悪』ではない。それらすべても神様の大経綸によってとりあえず生じている仮のものだから、それらを克服しなければ叡智にはたどり着けない。いちばんの方法は、それらにとらわれないことだ。それらはもともと存在しないのだから、存在しないものにとらわれるのがおかしい。自分の内にそのような悪想念がわいたら、どうしてありもしないものがあるのかと、それを払い除ければいいだけだよ。己心あるうちは、神様からはお使い頂けないんだ」
イェースズはもう一度優しく笑って、それだけで踵を返した。
翌朝、使徒たちとイェースズは、近くの小高い丘に登った。登ったというより、この丘の斜面にベタニヤの村は造られている。同行したのは十人の使徒のほかに妻マリア、そしてヤコブやエレアザルの姉妹のマルタとマリア、当然ヌプとウタリもいた。
使徒たちにはまだ、どこかに恐怖心が残っているようだ。あれだけの軍勢に捕らえられて極刑になった師が実はまだ生きているということが、ローマ当局に知れたら一大事である。だが、イェースズの明るさと、再び師と共にいるという喜びで、そんな心も晴れていった。ここは至近距離とはいえエルサレムではない。それに、イェースズが十字架上で死んだと思い込んでいる人々に、実はイェースズが生きていると言ったところで誰も相手にしないだろう。そんな安心感から、使徒たちの心もほぐれていった。だが、その当の使徒たちもまだ、半分は夢を見ているのではないかと現実を受け入れられずにいた。だが、イェースズが今ここにいることを唯一現実として受け入れられるのがペテロであった。そして彼らが手放しに喜べない要因は、イェースズが再会は束の間であることを昨日のうちに宣言していたことだ。
頂上に着いた。ここは見晴らしがよく、荒野ごしに遠くにエルサレムがかすかに望める。そんな頂上で、イェースズはそんなペテロをそっと離れた場所に呼び、小声で話した。
「ペテロ。あなたは私を今でも、師として愛しているかね?」
「もちろんです。それは、先生がいちばんよくご存じじゃないですか」
ペテロは照れ隠しに、少し笑った。イェースズは一段と、声を落とした。
「決して誰にも、あなたが知っている真実を語ってはいけない」
ペテロは慌てて神妙な顔をしてうなずいた。イェースズは話を続けた。
「前にも言ったように、あなたには司牧しなければならない羊の群れがある。今まであなたは、あなたの思う通りの人生を歩んできたかもしれないけれど、これからは不本意なミチも歩まねければいけなくなるよ」
「先生、それは私だけですか? それともここにいるみんなもそうですか? 例えばあのエレアザルも?」
ペテロがエレアザルを引き合いに出したのは、エレアザルが二人からいちばん近い所に座っていたからだ。
「エレアザルはエレアザルだ。例えば、私がエレアザルにもう二度と死なないようにと願ったところで、それはエレアザルの人生だ。あなたの人生とは違う。あなたは私の教えを実践し、それを広めることを使命として生きていくんだ」
それからその場に、イェースズは大きな声でエレアザルを呼び寄せた。
「エレアザル。あらためて言うが、母さんを頼む」
それは十字架上からヨシェがエレアザルに言ったことだが、それを知っているイェースズも、同じことを言った。エレアザルはうなずいた。
「はい。でも、弟さんは?」
エレアザルがそこまで言いかけた時に、ペテロは大きく咳払いをした。だが逆にイェースズがその咳払いに目配せをした。
「いいかい、エレアザル。あなたの使命はそれだけではない。実はあなたにはとてつもない、もっと大きな使命が与えられようとしている。だから私は、あなたない新しい名を贈る」
かつて弟のヨシェにイシュカリスという名を贈ったように、イェースズはまた新しい名をエレアザルに贈ろうとしていた。
「ヨハネ――あなたは今日から、ヨハネと名乗るのだ」
「ええっ?」
エレアザルは目を見開いた。それは普通の名ではない。かつて彼が兄のヤコブやペテロたちとともに師事していた師であり、イェースズにとってもまた師に当たる人の名にほかならない。
「ヨハネ師の名を継げと?」
「この名は、ヨハネ師の名というだけでなく、その言霊にとてつもない使命が秘められている。やがて使命が明らかになる時に、その意味もあなたに明らかにされよう」
その時、小ヤコブがイェースズのそばに来た。
「先生、先生はこうして生きておられるのだから、もう私を後継者にする必要はありませんよね。継承のメダイはお返ししましょうか?」
「いや」
イェースズは静かに首を横に振った。
「あなたは、そのままそれをかけていなさい。そのことでこれからみんなに話をしようとしたところだ」
そう言ってイェースズは、人々を自分の周りに集めて座らせた。またいつもの有り難い教えが聞けるという想念で、使徒たちは女性の弟子をも含めて集まってきた。そしてイェースズよりも先に、ペテロが口を開いた。
「先生、あなたは私たちにすべてを教えて下さいました。でも、もう一つだけお伺いしたいことがあるんです」
「なんだね?」
イェースズは慈愛の目をペテロに向けた。
「罪とは、いったい何なのですか?」
何度も言ってきたはずだなどと、イェースズはもはやペテロを叱責したりはしなかった。
「罪というものは、本来存在しないんだよ」
誰もが「え?」というような顔で、イェースズを見た。
イェースズは微笑んでいた。
「例えばある人が姦淫を行ったとしよう、それを律法では罪と称するけれども、罪などというものは存在しない。存在するのは、その罪を犯した人だけだ。その人の想念の中で、その行為は罪になる。そこで、魂の本質が善一途の神の分けみ魂だから、いかなるものも善の方に引き戻そうとする。そこで、魂の浄化が行われるのだよ。時にはそれは、大いなるアガナヒになることもある。だから私はあなた方に、ス直になれと言ってきた。まずは、自分の心にス直になることだ、さしずめそれは、神の分けみ魂の自分の魂にス直になることになる。あなたの神が、あなたの魂となってあなたの中に宿っているのだから、ス直になりなさい」
それに対してペテロが何か言おうとするよりも早く、ナタナエルが身を乗り出してイェースズに言った。
「先生。一度いなくなった先生が再び戻ってこられたということは、いよいよ天の時なのですか? 先生はいつか、その時にはまた再び戻ってくるっておっしゃってましたよね」
イェースズは大笑いをした。
「こんなたった三日いなかったからって、私がいなくなって再び戻ってきたなんていうのはいくらなんでも気が短いというものだ。だが、別の意味ではいよいよ時が来たともいえる」
一同の顔に、緊張が走った。使徒たちは昨夜、イェースズがまたもうすぐいなくなると言ったことを思い出したからだ。その想念を、イェースズは機敏に読み取った。
「あなた方は私がどこかへ行くということばかり気にしているけど、私が行くだけでなくあなた方も行くのだ」
使徒たちは、怪訝な顔をした。
「かつてあなた方を二人ずつ組ませて近隣の村に派遣したように、今からあなた方を全世界に派遣する」
「世界へ?」
小ヤコブが首をかしげた。
「そう。世界だ。しばらくはエルサレムに留まっていていいけれど、時が熟したと思ったらサマリヤを含めた全ユダヤだけでなく、ギリシャに、ローマに、エジプトにと教えを広めていくんだ」
サマリヤや全ユダヤならまだしも、ローマと聞いて使徒たちの身はほとんど硬直していた。
「先生」
ピリポが、目を上げた。
「ガリラヤやエルサレムでもなかなか受け入れない人がいたのに、ましてやローマだなんて」
それでもイェースズは、穏やかに笑んでいた。
「ローマ人であれギリシャ人であれ、みんな等しく同じ神の子なんだよ。だからあなた方のこれからの道は荊のミチだと言っておいたんだ。一人一人が私の代理人となって、世界の果てにまで正神の神様の教えを広めるんだ」
「先生はどうされるんですか? どこに行かれるんですか?」
マタイの発問を、誰もがもっともな問いとしてうなずいた。
「私の御神業の範囲は、もはや神霊界にまで広がった。現界のことはあなた方に任せるから、私は天国での仕事がある。でも、私は死ぬわけじゃないよ。この世にいて天国の仕事をするんだ。そのためにも、今日、今から、そしてこの場所から私は旅に出る」
使徒たちは、一斉にどよめいた。
「そんな、いくらなんでも昨日今日じゃないですか」
不満そうなヤコブの言葉に続いて、トマスが、
「そうですよ。せめて四十日くらいはいっしょにいてくださいよ」
と、言った。その四十日という数がどこから出てきたのか分からず突拍子もないものだっただけに滑稽であったが、誰も笑わなかった。ただ、イェースズだけが笑った。
「その四十日というのは、どこから出てきたんだね。いいかい、私もまたあなた方と同じように、全世界を巡らなければならないんだ。まずはこのエルサレレムに正神の霊的楔を打ち込んだのだから、次の仕事が待っている」
「いやだ、私は先生といっしょに行きます!」
「私も!」
「私もです」
小ヤコブの叫びをかわぎりに、使徒たちは皆異口同音に叫びをあげていた。
「私も、先生に従います」
そのヤコブの言葉に、イェースズは静かに首を横に振った。
「たとえ私といっしょに来たからとて、それが私に従うことにはならないよ。むしろばらばらになったとしても、それぞれが同じ神のミチを伝えるという使命に生きるのなら、みんなの心は一つだ。どんなに距離的に離れていても神様のみ意を地に成らしめるために働くのなら、互いの距離は近いといえる。あの晩餐の時にも言ったじゃないか、どんなに遠く離れていても、皆同じ神様の袖の内にあるんだって」
サトされて、使徒たちもようやく納得した顔でうなずきだした。
「あなた方はもう私の使徒じゃない。神の使徒だ。神の使徒に別れの悲しみなんてない。たとえ西と東に別れていても、心は同じ聖職の友だ。あなた方はもう、私の友だと言っておいたじゃないか」
「分かりました。先生のおっしゃる通り、どこへでも行かせて頂きます!」
小ヤコブの言葉に続いて、今度はそれを使徒たちは異口同音に叫んだ。実に統制のとれた一体化だった。イェースズは感動のあまり、自分の目に涙があふれるのを感じた。
そのあと、全員の名前をひとりひとり、イェースズは呼んだ。
「ペテロ」
「はい」
「アンドレ」
「はい」
皆それぞれ、明るく返事をした。
「ヤコブ」
「はい」
「ヨハネ」
「はい」
「マタイ」
「はい」
「トマス」
「はい」
「ナタナエル」
「はい」
「ピリポ」
「はい」
「小ヤコブ」
「はい」
「小ユダ」
「はい」
少し間をおいてから、イェースズは妻のマリアも見た。
「マリア」
「はい」
その声は涙に潤んでいた。
「みんな、有り難う。今日の別れは終わりではなく、出発点、つまり始まりなんだ。全世界へ行って福音を伝えてほしい。あなたがたにはもう、力を授けた。憑依霊による霊障を解消し、体内の毒素をも排泄させる毒消除の神業を与えたはずだ。病人に手をかざせば癒されるんだから、自信を持って行ってほしい。すべての人に火と聖霊による洗礼を与え、神のミチを伝えるんだ。あなた方は神殿の聖職者、ましてや大祭司や世界のいかなる指導者にもできないことができる。神様は聖職者だからということで霊力をお授けになるのではなく、霊力を授かるにふさわしい資格をそなえた人にお授けになるのだよ。ただし、私があなたがたに伝えたこと以外のものを付け加えて、人々を戒律でがんじがらめにするようなことをしてはいけないよ。法律のごとく戒律を人々に守らせるというようなことは、しないでくれ。そうすると、今度はあなた方がその戒律に縛られる。戒律など、人知以外の何ものでもない。さあ、みんな。往け! 地の果てまで。救いの訪れを告げるために!」
「はい!」
元気のよい返事が、一斉に返ってきた。
イェースズはもう一度、使徒たちの顔を見まわした。自分から告げた別れであったが、イェースズ自身彼らと会うのがこれで最後という実感がわかなかった。この使徒たちと、いつまでもいっしょにいられるという錯覚さえ起きる。だが、この別れはすべて定めなのだ。
イェースズはそれから、丘の上から眺める景色をしっかりと目に焼きつけた。赤茶けた荒野の中に浮いているように、エルサレムの町はある。この都に上って半年、さらにはこの故国へ戻ってから約三年、さまざまなことがあった。それは、自分の人生の大部分が凝縮されたような濃い三年だったような気がする。だが、彼の使命は、これからが本番を迎える。
そして最後に、もう一度遠くに霞むエルサレムを見た。自分がこの国からいなくなるということとは関係なしに、もうしばらくはこの巨大な都市は都として機能し、息づいていくだろう。あの都の中を自分を慕ってくれた信奉者たちが今も歩いているだろうし、律法学者も祭司も、あのカヤパやピラトゥスも、あの霞んで横たわる都市の中のどこかにいるはずだ。そしてその都は、弟ヨシェ――イシュカリスの尊い犠牲の血が流された場所でもある。自分もそこに存在していた都を、イェースズは目を細めて眺めた。
やがて、イェースズは使徒たちの方へ視線を戻した。
「では私は、先に行く」
「先生!」
「先生!」
使徒たちの叫びに笑顔で応えながら、
「主の平和が、あなたがたともにあるように。私は世の終わりまで、常にあなたがたとともにいる」
それだけを言い残して、イェースズは踵を返した。
丘をだいぶ下ってから振り向くと、使徒たちはまだ同じ場所にいて手を振っていた。イェースズも手を振り返した。だが、やがてそんな使徒たちの姿も見えなくなった。そしてベタニヤの村は素通りして、先に丘を降りていたヌプ、ウタリと合流したイェースズは、そのまま荒野の中の街道を歩き出した。その懐の中には、イシュカリス・ヨシェの遺髮が抱きかかえられていた。
イェースズとヌプとウタリ、三人の長い道中はここから始まった。