3
やがて季節は春を迎え、プリムの祭りの日も近づいてきた。
それはすなわち、春の到来をも意味していた。しかし実際は、まだ風は冷たい。人々は一月後の過越の大祭の準備で慌しくなり、それによってのみ春が近いことを実感できた。
プリムの祭りとは「エステル記」の中の出来事に由来する。「プリム」とは「くじ」という意味で、この頃から五百年ほどさかのぼったペルシャのアハシュエロス王の時代にハマンという大臣がユダヤ人の皆殺しの命令を出したが、ユダヤ人の娘である王妃エステルの直訴でユダヤ人が救われたことを記念する祭りである。
この日イェースズも使徒たちとともに、ベタニヤの会堂に向かった。この日に朗読されるのは「エステル記」全巻の巻物と決まっており、日没から始まって翌朝にもう一度朗読は行われる。
イェースズたちが参列したのは、朝の朗読の方だった。群衆に混じり、狭い会堂の中でイェースズは朗読に聞き入った。
「彼の名は消えろ! 悪人の名は滅びよ!」
と、人々は時々、声をそろえて叫ぶ。朗読箇所の中に「ハマン」という名が登場するたびに、皆でそう叫ぶのが慣わしなのだ。
集会が終わって人々はぞろぞろと会堂から出てくるが、実はこの後が楽しみなのだ。もともとハマンがくじによってユダヤ人一斉虐殺の日と定めたその日がハマンの終焉の日になった訳で、「悩みが喜びに変わった日」として彼らは直会なおらいに移る。すなわち、どの家でも宴となる。また、この日は貧者への施しをする風習もあった。
「先生、私たちも施しに行きますか?」
会堂からゼベダイの家への帰りの岩場の道を歩きながら、トマスがそうイェースズに聞いてきた。
「そうだな。でも我われの場合、今日この日だからといって施しをするという偽善者と同じ想念ではいけない」
イェースズはそう笑って答え、さらに歩きながらしゃべった。
「いくらその日の糧を施したとしても、彼らは時間がたてばまた空腹になる。だから、本当は食物を与えるだけでなく、その人が二度と空腹にならないように仕事につかせてあげるというのも恵みだ。さらにあなた方は物質だけではなくて、人々に光を与えることができるだろ。つまり火の洗礼を施してまわるという使命がある。今日だからということではなく、今日を機にということで、また近隣の村へ二人ずつ組んで行ってくるといい」
使徒たちが明るく返事をしていると、イェースズの背後にまた何人かの人が近づいて来ていた。見ると、また律法学者だった。
「これはこれは師」
と、イェースズは立ち止まって、丁重に挨拶をした。
「このような所であなたを見るとは奇遇ですな。あなたも人々から師と呼ばれているのなら、我われの仲間だ。どうですかな。あなたを今日の祭りの宴にご招待したいんだが」
「分かりました。参りましょう」
イェースズの答えに、使徒たちは耳を疑っているようだった。家の所在地と時刻を告げてから学者たちが去った後、待ち受けていたかのようにペテロがイェースズに食ってかかった。
「先生、本気なんですか? あんなの罠に決まっているでしょ。前にカペナウムでも学者の家に招待されたことがありましたけど、今はあの時とは状況が違うではないですか」
「そうですよ!」
ヤコブもペテロと反対側から、やはりイェースズに詰め寄った。
「やつらは今は、何とか口実をつけて先生を捕らえようとしているのですから。本当にこの村に住む学者なのか、あるいはエルサレムからつけてきたのか、それさえ分かりゃしない。あんなニコニコ顔、嘘っぱちですよ」
「まあまあ、そう言わずに」
当然のことイェースズも学者の内に秘めたどす黒い想念は見通していたが、あえてそれは言わなかった。そこへ、熱心党のシモンも首を出した。
「毒でも盛られたら、どうします!」
イェースズはまた高らかに笑った。
「いくらなんでもモーセの教えを奉じている方たちだ。そこまではする訳がない」
「あ」
と、小ヤコブが声を上げた。
「今日の夕暮れから、安息日じゃないですか」
「大丈夫だよ」
それでもイェースズは笑っていた。
イェースズは日が暮れる前の指定された時間に、単身でベタニヤ郊外の示された家に行った。同行をせがむ使徒の何人かも、説得しておいてきた。そして学者の家に着くと、ちょうど日が暮れた。イェースズが中に入ると、もう準備はできていた。日が暮れて安息日になってしまったら準備はできなくなるので、早くから支度をしていたようだ。誰もが入ってきたイェースズを注視した。イェースズは部屋を見回し、冷たい空気から目をそらして庭に目をやると、そこには明らかに疱瘡を患っていると分かる少年が座っていた。イェースズはすぐに、わざわざ学者が連れてきた少年であると感知した。そして学者の思惑も、すべて読み取ってしまった。だから、先手を取って微笑みながらイェースズは言った。
「安息日に病の癒しは、していいでしょうか、いけないでしょうか」
学者をはじめ、居合せた人々は皆黙っていた。イェースズはすぐに庭に出て、少年に向かい会って座った。それから慈愛の笑みを少年に向け、まずは背中の下の方に左右から手を当てた。霊流がほとばしり、少年の霊体を貫いた。そして体の毒素をすべて排出させ、少年は癒された。
イェースズは部屋に戻った。中にいてすでに足を投げ出して横座りに座っていた人々が起き上がって何か言いかけたのを、イェースズは手で制した。
「まあまあ、そんなに血相を変えなくてもいいじゃないですか。皆さんはご自分の子供が井戸に落ちても、その日が安息日だったら『今日は安息日だから』と言って助けもしないでいるのですか?」
もはや誰も何も言おうとせず、苦虫を噛み潰したような顔で再び足を投げ出して横になった。イェースズは入り口に近いところに席を取り、腕で上半身を支えて横になってしばらく黙っていた。終始沈黙は部屋を支配し、冷たい空気はますます冷たくなった。
後からも何人か来たが皆律法学者のようで、彼らはイェースズにあいさつもせずにその背後を通ってどんどん上座の席を埋めていった。イェースズは黙って、その様子をじっと見ていた。そしてしばらくしてから少し体を起こして、沈黙を破った。
「あなた方はね、もし婚礼に招かれたら、先に上座に座らない方がいいですよ。もっと身分が高い方が、あとから来るかもしれませんからね。そうしたら、ばつが悪いでしょう? もし自分が最初に来たら、まずは末席にいた方がいいですね。もし本当に上座に座るべき人が自分だったら、嫌でも主人が上座へと勧めてくれるはずですから」
そこへ、イェースズを招いた本人の学者が現れた。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
そしてそこしか空いていなかったので、彼はイェースズの隣りの末席にイェースズに背を向けて横になった。
皆、無言で食事を始めた。今日は祭りのあとの日とあって、どこの家でも宴でどんちゃん騒ぎをやっているはずだが、この年はその宴の日が安息日になってしまったので、騒ぎは少ないだろうとも予想された。
それにしても、気味の悪い宴会だった。それでもイェースズは笑顔をつくって、首だけ振り向く形で、自分を招いた学者に言った。
「本日はお招き頂き、有り難うございます」
振り向いた学者に、イェースズはさらに笑顔を見せた。
「人を招く時は、見返りは期待しないことですね。神様の食卓がそうですから。それと同じように、神様の御用をさせて頂くという時は、一切報いは求めないという想念が大切ですよ。神様は無償の愛で私たちをお創り下さって、生かせて下さっている訳ですから報いは求めないで一心におすがりし、お仕えすれば、やがては求めずとも与えられる人に切り替わっていく」
イェースズのそばにいた別の学者は、杯を置いた。今度はイェースズがぶどう酒の入った杯を挙げた。
「神の国の食卓に招かれたものは幸い」
そして、同席の人々を見渡して言った。
「神様もお金持ちの婚礼のように、多くの人を招いているんですよ。でも招かれた方が仕事が忙しいなどと口実を言って、それを断っている。そこで招いた主人は町へ行って誰でもいいからつれてこいと言って、結局その婚礼に預かられたのは、あなた方パリサイ人が決して招かない貧者や罪びとだったんですね」
再び刺すような空気が、室内にピンとはりつめた。
「招かれているのに、神の国の食卓につけない人は多いんですね」
イェースズはそれだけ言うと、飲み食いを続けた。同じ雰囲気のまま、不気味な宴は続いていった。
それから数日後のある夜、イェースズはゼベダイの家の窓から暗い外を見て、ひとつため息をついた。もう過越の祭りまで、もうひと月を切ってしまった。このみ祭りの頃に自分の身に何かが起こるということを、イェースズには嫌というほど分かってしまう。使徒たちはまだ心もとない。自分の教えをまだ理解しきっていないようだし、また彼らには奥深い神理の世界のカケラしか語っていない。今の自分には、それしか許されていないのだ。もしここで自分がいなくなったりしたら、使徒たちは、そして人類はどうなってしまうのだろうかとついつい思ってしまう。そう考えると、自分に与えられた聖使命に対する自分の至らなさ、神への申し訳なさに自然と涙があふれてくるのだった。自分には枕するところがない。人々は笛吹けど踊らずだ。遅いぞ、間に合わんぞという神のお叱りが心の中に響いてくるのを、イェースズはただただ感じていた。そして、もはや猶予はできないと彼は思った。何かが起こるであろう過越の大祭が近づきつつある今、神の御経綸と天意転換の秘めごとの一部を、使徒たちに公開せざるを得ないだろうと決意したし、それが神様のみ意であることをひしひしと感じていた。
翌日イェースズは、使徒十二人全員を連れてエルサレムに上った。いつものように、まずは神殿の見える例の広場で人々に教えた。するとある若者が、群衆の中から出てきてイェースズの話をさえぎった。
「先生、すみません。どうしてもお聞きしたいことがあるんです」
「何でしょう」
イェースズは不快な顔はせず、ニコニコして若者の目を見た。
「実は昨夜一晩中、律法学者の師に説得されていたんです。私が小さい時からお世話になっていた師でとてもいい人なんですが、その師が目に涙を浮かべて心配してくれたんです。私が先生の話を聞きにいっていることをです」
歯に衣着せずに言う若者だけに、かえって痛快であった。イェースズは微笑んだまま、尋ねた。
「私のこと、何て言っていました?」
「はい、言いにくいんですが、その師のお言葉では、『ガリラヤのイェースズというのはもともとヨハネ教団の幹部だった男で、だからこの集団はエッセネ系の危険な集団だ。エッセネ教団から分裂したのがヨハネ教団で、さらにそこから枝分かれしたのがイェースズの教団だ』って言うんです。そして、そういった事実をすべて隠蔽して人々を騙している。とにかく最近の新興宗教は奇跡とか病気治しで人々を集める特徴があって、そこに物が豊かになっただけに精神的に枯渇している若者が、より精神性を求めて流れ込むんだということでした。『ガリラヤのイェースズがやっている奇跡の業は昔からある魔術で、それをさらに神秘的に位置づけることで自分たちの優位性を証明しようとしている。何かをされると思い込むことによってそれがその通りになるという効果を含めて、ある程度の効果はすでにある。だから、奇跡は信者獲得のための手段としてはとても都合がいいといえる。そこに霊による障害だのをからめて若者の勧誘に用いているのは、悪質としか言いようがない。非常に奇跡にこだわって現世利益を説いておきながら、それは本来の教義とは正反対のものであるという矛盾だらけだ』、そんなふうに言って、アーメン教には気をつけろということでした」
そこまで一気に若者はしゃべって一息ついた。アーメン教とは、イェースズが説法する時いつも、「真に真に(アーメン、アーメン)あなた方に言っておく」で話しを始める口癖から、陰でひそかにイェースズの信奉者たちが呼ばれている呼称でのようだ。若者は、さらに彼の師の学者の話を続けた。
「よくできた詐欺は、詐欺と気付かせない。だから知識情報なしにのこのこついてけば、必ず騙される。だいたい心配性の人や取り越し苦労をする人、こうでなければならないと思い込んでいるまじめな人、孤独な人や話の合う人がいない人、霊魂、生まれ変わり、超能力などが好きな人、自分に不満を持って変わりたいと思っている人、こういう人たちがすぐに騙されるって師は言うんです。考えてみれば、私もその中に入るんですよね。それをどうやって騙すかというと、『不安感を与え、“やたらあなたのお気持ちはよく分かります”と言って簡単な解決法を勧める』ものだそうです。つまり、ガリラヤのイェースズのアーメン教の実態は、信心すればご利益があるというご利益信仰であり、現在は過去世の因縁によって決定しているということと説き、この人は絶対だという生き神信仰で、神秘体験、超能力、霊能力などのいわゆる超常主義的な集団だと言うんですね。ともかく人の不安や恐怖につけこむ集団がまっとうなはずはないって」
さすがにペテロが前に出てその若者を止めようとしたが、イェースズはそれを手で制した。
「いいから、続けて下さい」
「はい。その師が言いますには、ガリラヤのイェースズは不幸現象を霊魂や神のせいや、自分の過去世のよくない行為のせいにしているけど、そんなの本当かどうか確かめようがないし、そんなこと言われてもどうしようもない。教義も聖書とか引用しているけど、すべて自分に都合のいいように上手にこじつけて故意に湾曲して伝えていおり、その解釈はでたらめだ。そもそもガリラヤのイェースズはそのでたらめな理論を自信満々に説くが、それは一度騙された人は非常識ででたらめな論理を自信満々に言われると、世間の常識と言っていることのでたらめさの差が大きければ大きいほど逆につい信じてしまう心の癖がつくからだ。そもそも本来の信仰では奇跡はおまけにすぎないのに、そのおまけのの部分にこだわって本質である教義はそっちのけ、その本質に矛盾があっても信者たちは目をつぶってひたすら祈る、それが信仰であるかのように勘違いしている。そんなのを信奉するのは、依存心が旺盛だからだ。自分をしっかり持たないと一生を棒に振るぞと、そういうふうに長々と一晩かけて説得されていたんです」
「そうですか。その学者先生は本気であなたのことを心配している。まずは、そのことに感謝しないといけないね」
それからイェースズは顔を挙げて、再び群衆を見た。
「今のお話、皆さんはどうお考えになりますか?」
呼びかけられた群衆は互いに顔を見合わせてどよめいているだけで、発言するものはなかった。そこでイェースズは、話し続けた。
「私の教えは彼らパリサイ人が言うアーメン教というような一宗一派の新興宗教ではなく、宇宙の根本原理を説いているということは、長く私の話を聞いてそれを生活の中で実践されている方ならお分かり頂けるものと思います」
人々はまた静まり返り、イェースズの声に耳を傾けた。
「ましてや病気治しが目的のご利益信仰ではないことは、再三お話してきた通りです。いいですか? 肉体的な病も癒せない教えで、どうして高次元の霊的救いができましょうか。現に学者さん方や祭司さん方は病気をしたら医者に行き、クスリを飲んでいるではありませんか。そんなのは対処療法で、原因療法ではないんですね。火事場の目隠しと同じでしてね、目の前で自分の家が盛んに燃えている。そこへきて後ろから目隠しをして、『ほうらもう火事は見えなくなったから火事なんてないんですよ』と言っているのに等しい。病気も不幸もあらゆる現象も、すべて霊的原因があることを知らないといけない。霊界とこの世は表裏一体の陸続きなんです。だから、霊的に目覚めることが大切なんです。そのためには物質主体の想念を百八十度転換して霊主の想念に切り換え、古い自分を捨てて霊的に新しく生まれ変わることが大切なんです」
イェースズは一息入れ、また群衆に笑顔を見せた。
「今のお話に出てきたパリサイ人の学者さんは、とてもまじめな方ですね。律法学者と言っても、決して悪い人たちじゃあない。でも、霊的に無知であるということは、困ったものです。今どき、人々の病気を癒して救って歩いているっていう学者さんや祭司さんはいますか? いないでしょう? 霊的に無知になっては、人は救えませんね。表面上は救えるかもしれませんけど、それは限りのある物質的な救いか、せいぜい心の救いでしょう。そうなると人々はますます憑霊される。世の中は不幸現象の充満界になる。こんな世の中になってしまったのは、誰のせいでしょうか? 今の宗教者は宗教屋ですよ。神様を生活の出汁にしている。これでは神様が上か人間が上か、分かったものじゃない」
イェースズは顔を上げた。その視線の向こうに、神殿の丘の上の至聖所が曇り空に高くそびえているのが見える。
「あの神殿も荘厳にそびえていますけど、あれをどれだけ救世の場にしていますか? 村や町の会堂も同じです。こうなると私には、宗教なんてこの世の魔とさえ思えてくる。あの神殿で奉仕する人たちは、皆まじめです。でも、真剣であればあるだけかえって神様のお邪魔になっているということに、早く気付いてほしいものです」
イェースズは視線を、再び群衆に戻した。
「エルサレムは、血に塗られた町ですね。そして今も、多くの人が私の話に耳を貸さない」
イェースズの話が、ため息まじりになってきた。
「このままでは神殿もまた見捨てられ、破壊される時が来るでしょう」
人々はまたざわめいた。イェースズは慌てて人々の前から消え、建物の後ろに隠れた。こみ上げてくる涙を、人々に見せたくなかったのだ。
夕方近く、イェースズと使徒たちは城門を出た。
「オリーブ山に登ろう」
イェースズがそう言いだしたので、使徒たちもそれに従った。丘を登りながら、ナタナエルが恐る恐るイェースズに尋ねた。
「さっき先生は神殿が破壊されるなんておっしゃっていましたけど、それはあの神殿がただの形だけのものとなって、つまり形骸化してしまうということのたとえで言われたんですよね」
ナタナエルはその発言の重大さに、恐れをなしているようだった。だから自分の希望的観測を、恐々とした態度で尋ねたのだろう。だがイェースズはそれにはうなっただけで、しばらく何かを考えているようなそぶりで黙って歩いていた。
イェースズの霊眼には、この神殿が物質的に本当に破壊されるであろう光景が写っていた。しかもそれは、そんな遠い未来のことではないようだった。やがてイェースズは、ナタナエルの方を見た。その時は、もういつもの笑顔だった。
「そうだよ。もののたとえだ。本来は黄金神殿であったソロモンの神殿が破壊されて以来、天地創造の神様をお祭り申し上げるところが地上のどこにもなくなってしまった。あの神殿も、破壊される」
しかしこの時イェースズは、神殿というのが自分自身の肉体をも指すという意味合いをも暗に含めていたが、そこまで察することのできる人物は残念ながら十二人の人の中にはいなかった。
「でも、先生」
と、ピリポが口をはさんだ。
「祭司や律法学者がまじめに真剣にあの神殿で祈っているなら、心がこもっていて形式だけとは言えないんじゃないですか?」
「私が言っている形式とは、霊的な意味が伴っていないということだよ。心のレベルなら、心を込めて祈ればイワシの頭だって神殿になる。でも、そんなものに霊的意味があるかい?」
オリーブ山は小高い丘だから、すぐに山頂に着く。しかも独立した丘ではなく、エルサレムを取り囲む丘陵と連なっている。山頂に立って振り返ると、手前の神殿をはじめ、エルサレム市街が一望できる。
「あらためてここから全体を見ると、城壁といい神殿といい見事な石ですね。それを積み上げてあれだけの神殿を造ったとは、形式とはいえたいしたものだ」
と、アンドレが感嘆の声を上げた。ガリラヤ出身者の多いこの集団では、故郷にいたならめったに見ることのできない巨大な人造物なのだ。ほかの使徒たちも振り向いて、眼下に展開される壮大なパノラマに息をのんだ。折りしもその向こうに夕日が沈みかけていて、町全体が赤く燃えているように見えた。イェースズは一つ、ため息をついた。
「あの神殿も、全部破壊されてしまうんだ。一つの石も残らないくらいにね」
あまりイェースズが同じことを言うので、さすがにそれが比喩ではないのかということを使徒たちも感じはじめたようで、
「先生! 誰が神殿を破壊するんですか? ローマですか」
と、シモンが血相を変え、語気を荒くしてイェースズに詰め寄るように言った。イェースズは笑顔の中にも、幾分翳りを見せた顔を神殿から離さずに答えた。
「ローマかもしれない。しかし、実際には神様が破壊される。正統と称して神殿を報じている聖職者たちが目覚めない限り、神殿に象徴されるような伽藍宗教は、神様はことごとくつぶしてしまおうというのがそのみ意なのだ。へたをしたら全人類のほとんどが滅んでしまうような終末の世へと、神様は持っていかれるかもしれない」
「え?」
と、何人かが声を上げた。イェースズは、使徒たちの方を見た。それは、いつにない厳しい表情だった。そんなイェースズの顔を、ペテロが恐々のぞきこんだ。
「先生、そんな終末の世が来るんですか」
イェースズはうなずいた。
「このままでは、避けられないだろう」
「いつですか?」
「じゃあ、そのことについて少し話すから、、みんな集まってきてくれ」
イェースズはそう言うと、木々の葉のちょっと下の広場に移動し、その周りを使徒たちは円座となって座った。
「聖書によると、これまで全人類が滅びたようなことはあったかい?」
「ノアの洪水ですね」
と、ナタナエルが答える。彼らの知識はその程度だ。しかしイェースズは、人類史上そのような天変地異が過去に幾度となく起こっていることを知っている。だからイェースズは、厳かに口を開いた。
「これからも、同じような天変地異がある」
「しかし、先生」
「でも先生」
と、トマスが口をはさんだ。
「ノアの洪水の後、神様はノアに、『もう二度とこのようなことはしない』とおっしゃったのではなかったでしたっけ?」
「聖書は、正確に読みなさい。その時の神様のみ言葉は、『もう二度と洪水によって人々を滅ぼすようなことはしない』とおっしゃっているではないか」
「では、今度は洪水じゃないんですね? どんな前兆がありますか?」
ヤコブが身を乗り出した。イェースズが口を開くと、ほかの使徒たちもまた、身を乗り出して聞き入った。
「その時が来たら、多くのものが自分こそは救世主だと名乗りだすだろうね。世界全体を巻き込むような戦争も、また激しくなる。そして食料不足が深刻になって、前にも言ったように終末の世には多くの人が一斉に地上に転生してくるから、人口は今の数百倍になる。それに大地震や火山の噴火もあるが、もっと恐ろしい浄化の日が霊的次元で魂を巻き込んでいく。そして浄化の霊的な炎による火の洗礼によって、地上は焼き尽くされる。そのへんのことは『エゼキエルの書』にも書いてある。もっとも今の学者さんたちは相当なこじつけをして、訳の分からない解説をつけているけどね」
使徒たちは、目を見開いてイェースズの話を聞いていた。やがて日が没した。周りには彼らのほかは誰もいない。
「その時にはね、私の教えも福音として全世界に広まっているだろうね。ただ、私がいなくなったあとにこの教えがどのように広まっていくか、そこが気にかかる。それはもう、あなた方に託するよりほかにない」
イェースズの言葉に、熱が入ってきた。
「先生。先生はどこかへ行っておしまいになられるのですか?」
と、またトマスが聞いた。
「分からない。だけども私が去ったなら、もう誰も私のもとへは来られないんだよ」
「先生、どこに行っておしまいになられるんですか」
トマスの問いは、叫びに近いような声になっていた。
「今はまだそのことは、あなた方には言えない。でも万が一本当に私がいなくなったら、あなた方一人一人が私の代理人となって教えを広めていかないといけないんだよ。それも、全世界にだ。一人一人が、その自覚をしっかりと持ってくれよ。そうでないと、モーセの教えが今は形骸化して神様のお邪魔にすらなっているけど、それと同じになってしまうだろう? それはモーセが悪いんじゃなくて、それを受け継いだ人々が悪かった。私の教えは、そんなふうになってほしくないんだ」
「でも私たちがいくらがんばっても、終末は来るんでしょう?」
若いエレアザルの目は、しっかりと師を見据えていた。
「『ダニエルの書』のダニエルの預言にも、『荒らすべき、憎むべき者が聖所に立ち入ります』とある。私の教えの後継者がこのような『荒らすべき者』になってしまったら、神様は『定められた絶滅がその荒らすものの上に降りかかる』という状態に持っていかれるだろうね。自分は世を救うものだなどと称して、実は目的が金儲けや自分が権力を持つためだったとしたら、神様は一気に火の洗礼の大峠へと持っていかれる。もう、女のお腹の胎児にまで悪影響を及ぼすような、想像を絶する恐ろしい世の中になる。それが冬でないといいね。ただその時にだね、私の教えを正しく受け継いで、しっかりとした魂の自覚ができる人がいたとしたら、そのために神様は火の洗礼を少しでも短く、少しでも軽くして下さる」
また一つ、イェースズはため息をついた。宵闇がどんどんと、あたりを包み始めていた。
「その時には、私の名によって多くの教会が全世界に建てられているだろうね」
それは単なる予測ではなく、はっきりとイェースズの霊眼に見えたことだった。
「そして私について書かれた書物を、教えの材料にしている。しかしモーセの律法を教えの材料にしている今の会堂と同じで、その教会が人々を惑わすなどということになっていないといいがな。私がいなくなった後、救世主を名乗る人が現れたとしても、軽々しくは信じちゃいけないよ。真の救世主は、その業で見分けられる。真の救世主が現れた時は、私もまた人々のもとに戻ってくるよ」
「え? いなくなるとか戻ってくるとか、どういうことなんですか?」
ヤコブが、怪訝な顔をイェースズに向けた。
「戻ってくるというのはだね、多くの聖雄聖者といっしょに、終末の世には私も聖霊となって再臨するってことだよ。火の洗礼期も終わりに近づくと、太陽や月、そして星にも異変が起こる。その頃の世界は戦乱に明け暮れるような状況になっているけど、もう戦争なんかしている場合ではなくなってくる。魚の時代も終わって水瓶を抱えた人が天の曲がり角を横切る時に、救世主の光は東方の空に輝くんだ」
「先生、そんなことが起こるのはいつですか?」
と、ペテロが詰め寄った。イェースズは穏やかに言った。
「いつかは必ず来ることだけど、それがいつであるかは分からないし、またいつなのかということには私は関心はないね。それが何年の何月何日だと言ったところで、何になる? それは、神様だけがご存じなんだ。ただ、いつそうなってもいいように、準備だけはしておくべきだね。ノアの時だって、誰もがあんな大洪水が起こるなんて夢にも思わずに、人々は安穏と暮らしていた。ソドムとゴモラのロトの時もそうだ。町が滅ぼされると聞かされても、ロトの妻は物質的な執着が断ち切れずに、結局は滅んだだろ。ロトの妻のことは、忘れないようにした方がいいね。だから、いつも目を覚ましていることだ。これは、夜になっても寝てはいけないということではないよ。霊的に、という話だ。霊的に目を覚ましていれば、盗人が夜中に来ても分かる。いいかい、真に真に言っておくけど、その『時』は盗人のようにやってくるよ。いちじくの枝が柔らかくなって葉が出れば夏も近いということが分かるように、霊的に覚醒していれば終末の世も天の時の到来も必ず察知できるはずだ」
イェースズはそこまで言ってから、自分の心の中で「いちじく」という言葉を反芻した。
――イ・チ・ジ・ク
東の霊の元つ国の言葉が、彼の頭に蘇った。「イチジク」――「位置」「地軸」、そんな言葉も次々に頭に浮かんできた。
「先生」
ヤコブの一声で、イェースズは正気に戻った。
「どうしてそんな恐ろしいことが起こるんですか? 神様がそんなことを人類にするなんて。やはり人類は神様に裁かれてしまうんですか?」
イェースズはしばらく無言で考えた後、固唾を飲んで師の言葉を待つ使徒たちに言った。
「これから話すことは、決して誰にも言ってはいけない。互いに議論するのも、人前では控えるようにね。ましてや、文字で書き記してもいけないよ」
あたりはもうだいぶ暗くなってきていることもあり、イェースズの声の小ささもあって、使徒たちはその輪を小さくした。
「神様には人類発祥以来、未来永劫にわたる御経綸、つまり御計画があるんだ。神様は今、この世の物質面を開発しようとされている」
初めて聞く不思議な話に、十二人とも一瞬言葉をなくして唖然と聞いていた。やがて、ペテロが顔を上げた。
「物質面の開発?」
「そう。神様は全智全能で人類を創られて、人々は最初はエデンの園で和気藹々の生活を送っていただろう。それを神政時代というんだ。人々はエデンの園で和やかに生活を送っていたけれどね、神様は物質文明を開発させるために人類に欲心、競争力というものをお与えになった。つまり聖書でアダムがヘビにそそのかされて木の実を食べたというあの話だよ。こうして人類はエデンの園から追放されて、支配欲や競争欲によって争いも起こり、その物質開発を進めるようになったんだ」
「でもなんで神様は物質を開発されるんです? そもそも、神様は物質開発を人間にさせるんですか?」
トマスが首をかしげながら聞いた。イェースズは微笑んだ。
「いい質問だね。神様は人を作られた時に、霊力は神様にははるかに及ばないけれど、物質を司るすべての権限を人類にお与え下さったんだ。だから人類は、神様の地上代行者なんだよ。神様はこの世界や人類を、決して無目的にお創りになられたのではない。目的があって天地を創り、人類を創り、文化文明を許されてきたのだよ。神様の大いなる目的とは、人類にこの地上に神の国のような天国文明を創造させることにあったんだ。そのためには、物を加工し、動かす技術を発展させることがどうしても必要となってくるんだね。だから、神様は人類に欲心を持つことを許された訳で、欲心がなければ人類は物質を開発しようとはしないだろう? ただ天地の恵みを賜って安穏に暮らすばかりだ。でも、欲心を与えられた人類はそれまで以上に物質開発を進めるようになって、新しい土地を求めて各地域に進出して、文化文明を切り開いていったんだね。でも、ただ物質だけを追求して、人々が神様から離れていってしまっては、また神様の目的は達成できなくなる。そこで、いつの日か必ず神様のみ意が転換される時が来る」
イェースズは、周りに注意を払った。今、使徒たちに告げていることは霊の元つ国で学んだ惟神のミチをもとに頂いた御神示によるものである。だが、許された十二人の使徒以外の耳に入ると、こういった話を初めて聞くこの国の人々にとっては混乱を招くものであったし、何よりもそれは神様がお許しになっていないことであった。ところがイェースズは周りのオリーブの木々の陰よりも、星が出はじめている空ばかり気にしているようであった。イェースズが警戒しているのは肉体を持った人間ではなく、霊的な存在に対してのようでもあった。
「いつの日か天意が転換し、再び神政時代になる。その時はそれまで開発されてきた物質と神様の霊性とが十字に組まれて、立体天国文明が建設されるんだ。しかしだね、その転換期には神様は一度大愛のみ意で、この世の大掃除をされる。だから世の終わりとか、終末とかいっても、それは物質文明の終わりということであって、神政時代の幕開けということになる。その時の大掃除が火の洗礼期で、火の洗礼期に突入すれば、それまで以上に大きな地震や火山の噴火、嵐、あるいは洪水が起こり、それを乗り越えるために人類界は大きな試練を受けていかなくてはならないけれど、あくまでそれは大掃除であって神様の大愛のみ意から発するものであり、決して人類に対する罰でも裁きでもないんだよ」
「でも、先生」
アンドレも、小声で言った。
「そうは言っても、やはりそうのようなことが起こるのは恐ろしいじゃないですか。神様の大愛によるって言ったって、何も知らない人には大災害以外の何ものでもないと思うんですけど。そうなると、神様は無慈悲だと感じてしまいます」
「確かにいきなりでは人類はみんな今アンドレが言ったように感じるだろうということは、神様も十分ご承知だ。だからこそ多くの預言者やモーセのような聖雄聖者を、神様はお遣わしになって、あからさまにすべてのご計画を人類に告げるわけにはいかないけれど、そのさわりの部分だけでも告げ知らせてくれようとなさった。そして、私もその一人だよ。物質開発が進むと、強い力を持つものが弱いものを支配するようになってますます物質文化が繁栄するようになったけど、そうするうちに集団と集団がぶつかり合って、争いを起こすようになってきたんだ。騒乱は騒乱を呼んで、敵対するものを殲滅(せんめつ)する支配者も現れて、物質欲に優れたものが弱いものを支配する時代となり、本来は神の子である人類の心は急速に冷えていって下落し、さらには獣のような獣人化人間までが現れるようになってしまってね、もしこのまま獣人化した人間たちが争いを続ければ、遠からず戦いによって人類は滅びてしまう。これを神様は心配なさって地上に聖雄聖者を出現させ、人類に警鐘を鳴らして改心を迫られてきたんだ。でも、人類は聖雄聖者や預言者の言葉に耳を傾けることなく、多くの人が物質文明を自己愛として続けてきた。だけども、集団と集団が争いを起こし、その戦争によって物質文明が発展してきたというのも事実だ。人々が先を争って物質を開発するようになると、大きな戦争がたくさん起こるようになったんだ。神様はこのまま人類を放置しておくと自滅してしまうであろうと予見されて、神霊界から次々と聖雄聖者や預言者をこの世に降ろし、心の改革を叫んだり人の乗り行くべきミチを説き、改心を説いてきた。約1300年前にはモーセが出現して十戒を定め、続いてイザヤ、エレニヤ、エゼキエルなどの預言者を神様は次々と遣わして警鐘乱打してきたのだけども、私もこうして今、人々の想念が神様から離れすぎないようにと歯止めをかけている。私が人類を救わねばならないといったのは、そういうことだよ。このままいけば人類界は物質一辺倒になって争いが続き、人々は神様を忘れ、やがてくる火の洗礼の大峠を乗り越えられないばかりか、下手をすれば人類は自滅してしまう。それを食い止める歯止め役が私で、そのこと、つまり人類の自滅を阻止することが、すなわち人類を救うということなんだよ。だけど今は神様が物質面を開発しようとされている真っ只中だから、このことはあなた方にしか言えないし、あなた方も他言無用。それに、実はあなた方にさえ告げられない神界の秘めごとは山ほどあってね、神理はまだまだ奥が深いものなんだ」
「でも、先生」
マタイがやはり小声で聞いた。
「いつかは世の終わりが来ることも、私たちにだけ話されたのですか? 「そのことも他言無用なんですか?」
そこへ、イスカリオテのユダが口をはさんだ。
「あまりそれを表面に出しすぎると、そういった脅しで人々を集めているって言われるんだよな」
イェースズはそれにはうなずいただけで何もいわず、マタイの方を見た。
「やがて天の時が来るから、目を覚まして警戒していなさいということだけは、伝えなければならないだろうね。それは、ヨハネ師もかねがね人々に説いていたことだからね。人々に悔い改めをといていたヨハネ師も、ある程度は来るべき時についてご存じだったんだな」
「でも、人々にいきなり言っても、理解しますかねえ?」
と、小ヤコブが首をかしげた。
「人々には、このたとえ話で話してあげるといい」
イェースズはかがめていた身を起こし、ひそひそ声もやめて普通の口調に戻った。
「ある家の主人が下僕の一人を召使いの長とするなら、やはり忠実な下僕を選ぶだろうけど、ではどんな下僕が忠実な下僕だろうか」
「きちんと仕事をする下僕でしょう」
と、アンドレが言った。イェースズは微笑んでうなずいた。
「そうだね。しかも、いつ主人が不意に帰ってきたとしても、いつもきちんと仕事をしているところが主人の目に入れば幸いだ。ところが主人の帰りが遅いことをいいことに仲間と博打を打ったり、飲み食いをして大騒ぎしていたら、突然主人が帰ってきてそんな様子を見て、その召使いを罰するだろうね。それから慌てて取り繕っても遅いよね。それと同じだよ。いつ、予期しない思いがけない時に主人が帰ってきても大丈夫な状態にしておくのが、よい下僕だろ」
もうかなり暗くなっており、本核的に夜に突入していた。小ヤコブが、ランプを取り出し、火をつけてイェースズのそばに置いた。ランプはパッと、使徒たちの顔を明るく照らした。
「おお、準備がいいなあ」
イェースズが感嘆の声を上げた。小ヤコブは、はにかんで笑った。
「そういえば、こういう話もあるよ」
イェースズはランプの炎を見つめながら、また話を続けた。
「婚礼の時に十人の娘が手にランプを持って、花婿を迎えに行ったんだ。そしたら花婿の到着が遅れてね、十人とも道端で居眠りをしてしまった。そして夜中に『さあ、花婿が来たぞ』ってことで立ち上がってみたら、みんなランプをつけっぱなしで寝てしまったものだから、十人ともランプの油が切れていたんだ。でもその中で半分の五人の娘はちゃんと予備の油を持っていたんだけど、あとの五人はそんな準備はしていなくてね、そこで予備の油がある五人に分けてくれって頼んだんだけど、そんな余裕はないから町まで買いに行ってなんて言われて、仕方がないから油を買いに行ったんだ。そうこうしているうちに花婿が来て、賢い五人の娘に迎えられて花婿は式場に入って、婚礼が始まった。で、さっきの油を買いに行った五人の娘があとからやっと式場に着いた時はすでに門は固く閉ざされていて、開けてくれって頼んだけど中は宴たけなわで、やっと出てきた主人は『おまえたちなんかどうでもいい』って言って開けてくれなかったんだ。これと同じように、世の終末はいつ来るか分からないけれど、いつ来てもいいように準備だけはしておくことが大切だ」
「はあ、なるほど」
と、ペテロがうなずいた。
「これなら、人々にも分かりやすい」
「でもね」
イェースズは笑いながら、ランプに照らされた十二人の顔を見た。
「今は夜の世、水の統治の世で、人々にははっきりと告げられないから、こういうたとえ話で話すしかないけど、あなた方も人々に告げるだけでなく、自分自身もちゃんと準備するようにね。とかく人々に告げる立場の人は、自分自身が疎かになりやすい。あなた方は今の世の人々よりもより多く神理を語られているし、極秘の教えまで明かされている。主人の不在時に同じように仕事をサボっていた下僕でも、主人の心を知らないで遊んでいたものと、主人の心を知っていながらそれでも遊んでいたものとは、どっちが重く罰せられるか考えてみたらいい。神理を聞いて実践しないものは、神理を聞かされていないものよりも救われるのは難しいよ。自分が実践していないことを上手に受け売りして人々に伝えても、波動が伝わらないから人々を改心させることはできない」
「でも、先生。それなら、知らなかった方がよかったってことになりませんか?」
トマスの問いに、イェースズはまた少し笑った。
「それは違う。例えば人を殺すのはいけないと知っていて殺すのと、いけないんだということを知らないで殺すのとでは、知っていて殺した方が普通は重く罰せられるよね。でも、よく考えて見てごらん。人を殺すのはいけないことだと知らないで平気で人を殺す方が、恐いと思わないかい」
使徒たちは感心してうなずき合った。
「あなた方は人々よりより多く与えられているんだから、やはり幸福だよ。それだけ御神縁が深い証拠だ。でも、多く与えられたら多く要求されるということも、覚えておかないといけない。厳しいことを言うようだけどね、もし人々が救われなかったら、神理を告げられたのに伝えなかったあなた方の責任だよ」
ひえーっというようなしぐさで、小ユダが首をすくめた。それを見て何人かが笑い、その笑いの中にイェースズもいた。
「いつも言うように、人が神様に祈るように、神様にも人々に対する祈りがある。それを汲み取ることだね。あなた方はみんな神の子で、一人一人が神様にとってかけがえのない存在だ。だから、より多くの恵みを与えられている。でも、『ああ、与えられた。有り難い』で終わっていいのかな?」
「やはり、感謝で報いていかないといけないでしょう」
と、エレアザルが言った。
「さすがだ、エレアザル。では、今度はあなた方のために一つのたとえ話をしよう。ある主人が三人の下僕に財産を預けて、旅に出た。一人は五タラント、一人は二タラント、そしてもう一人は一タラントだった。そして主人が旅から帰ってくると、三人の下僕はこのように言った。まず、五タラント預かったものは、それを元手にさらに五タラントもうけましたって。二タラント預かった人も、やはりその二タラントを元手にもう二タラントもうけたって。ところが一タラント預かったものは、いくら増やすための商売だからと言って、そこに主人から預かっているお金をつぎ込むなんて言語道断だと思ったとかで、その一タラントをなくさないように土に埋めていたということだった。つまり、自分がいちばん主人に忠実だと思っていたようだけど、ところがそれを聞いた主人は怒ってね、『なんて、怠け者だ。それならせめて銀行に預けておけば利子もついただろうに』と、その男の財産を全部取り上げてしまったんだよ。いいかい、与えられただけでそのままにしておいたら、それは与えられっぱなしということで神盗人になってしまう。このタラントは、才能のことだと考えてもいい。神様から頂いた才能を十分に活用してそれを倍にしてお返しするくらいでなくちゃ、与えられているものも取り上げられてしまうよ。何のために与えたのかってことでね。神様は絶対他力だ。そのお方を無視して、与えられた力を自分の力だと慢心して神様を蔑ろにするのもよくないけど、逆に与えられた自力を生かすこともなしに神様という他力にただただ頼っているだけなのも考えものだね。絶対なる他力に創られ、生かされ育まれているということを十分に認識した上で、その他力によって与えられた自力で精進するというのがコツなんじゃないかなと思う」
「先生、一つお聞きしてもいいですか?」
ヤコブが、小さく手を挙げた。
「いいよ。なんだい?」
「私たちはその終末の時までに、どうやって与えられた恵みを倍にしていけばいいんですか?」
「前に律法学者と話していた時にも出たけれど、律法の中でいちばん大事な掟は心をこめて神様を愛することと、自分と同じく神の子であるすべての隣人を愛すること、この二つだってことになったよね。これだよ。世の終わり、火の洗礼を乗り越えて救われる人と救われない人を左右に分けた時、神様は救われる人々にはこうおっしゃるだろう。『あなた方は私が飢えている時には食べさせてくれて、のどが渇いている時には水をくれた。旅をしている時には宿を貸してくれて、寒さに凍えている時には着る物をくれた』ってね。でも、いくらなんでも神様に食べ物を与えるなんて、そんなことをしたなんて覚えがある人はいないだろう? そこで神様は、こうおっしゃるだろうね。『あなた方が飢えている人、のどが渇く人、旅人、寒さに震える人にしてあげた善徳は、すべて私にしてくれたことと同じだよ。なぜなら、そういった人たちもみんな私の大事な子供なんだから』って」
使徒の何人かは、まだ小首をかしげていた。
「いいかい。まだよく分からない人がいるようだけど、すべての人類は、神の子なんだよ。その神の子であるすべての人を愛さなかったとしたら、その創り主である神様をも愛していないということになるじゃないか。だから、すべての隣人を愛さなければいけないんだ。本当は見ず知らずの人をも含めて、全世界全人類を愛さなければいけないんだけど、せめてもということで自分のいちばん身近な隣人を愛しなさいって、神様はそうおっしゃっているんだ。つまり、愛するってことは、救わせて頂くってことだよ。これは、宇宙の大法則だ。決して道徳とか倫理ではない。利他愛の想念で生きる時、天国はあなた方の中にある。同じ親神様の子で、だから自分にとっては兄弟に当たるすべての人を愛さないのなら、神の子を愛さないということで彼、すなわち神様がお喜びにならない。人類の愛和一体ということは、このように霊的に重大な意味がある。火の洗礼を乗り越えられない人っていうのは、利他愛を隣人に与えず、自分さえよければいいという自己中心の自利愛に生きた人だ。そういった人々には、神様はこうおっしゃるだろう。『あなた方は私が飢えている時も食べさせてくれなかったし、着物も与えてくれなかった。自分の利得以外のことは何もしなかったではないか』ってね。みんな一人一人、どんなに神様に愛され、その大愛の中で生かされているかってことについて考えてごらん。そんなに与えられている自分だから、今度は与える側に回ろうと思うのは、それこそ究極の人のミチじゃないかな」
夜もかなり更けていた。これからベタニヤに帰るには、道は遠すぎる。だからといってここでの野宿は、風が冷たい。
「祈ろう」
と、イェースズは言った。朝まで祈り続けよと言うのだ。使徒たちはそれに従った。
翌朝、イェースズは十二人の使徒だけベタニヤに帰し、自分はエルサレムに残り、神殿に礼拝を続けていた。この日も人々に説法をしたかったが、徹夜させてしまった使徒たちにさらにつき合せるのは酷だと思ったからだ。つまり、彼らを休ませようという配慮だった。
ところが、イェースズが神殿での祈りを終えて人々の待つ広場に向かっている時であった。彼の意識の中に鮮烈な映像が展開された。それは霊的次元で、霊眼に直接映し出されるヴィジョンであった。
それによると、十二人の使徒がベタニヤへの帰途で盗賊に襲われているのである。しかも鮮血が飛ぶ光景に、明らかに流血の惨事になっている。これはただの「まぼろし」や幻覚ではなく、明らかに実在していることを見せられていることを知っているイェースズは愕然とした。とにかく、一刻も早くベタニヤに戻らねばならない。イェースズは説法を中止して、エルサレムの城壁の門を出てオリーブ山を旋廻する街道を急いだ。
歩きながらも、彼は考えた。なぜこの霊覚が事前に起こらなかったのか、つまり霊的次元でどうして予知できなかったのかということである。しかしそれは、すぐに理由が理解できる。それは、霊覚で未来を予知できる力があったとしても、それは自分の力ではなく神様から下されたものであるからだ。神様のご都合で止められたら、自分には予知も何もできないのである。では、その神様のご都合とは何か。それは、自分に対する神様のご守護にほかならない。徹夜させた使徒たちをそのままエルサレムにとどめるのは不可能だったし、ベタニヤに返すのは必然だ。だが、本来なら自分も使徒たちと同行するはずが、自分だけ残った。現界的に見れば使徒たちを休ませようというイェースズの配慮が仇となったわけで、それは「偶然」ということになるが、天地一切の事象はすべてが必然であり、神の声、神仕組みであって、偶然というものは存在しないということも、彼は百も承知している。
とにかく、今はベタニヤに急ぐことが先決だった。
ようやくたどり着いて町に入ると、人々はせわしげに動きまわっていた。
「先生!」
イェースズの姿に、血相を変えて走ってきたのはマルタだった。マルタはイェースズのそばまで来ると息を切らせてイェースズの足元にうずくまり、しばらく肩で息をしていた。
「エ、エルサレムまで、エルサレムまで走っていくつもりでした。先生にお知らせしなくてはと」
イェースズの目に、涙があふれてきた。すでにもうマルタの想念を読み取っているのである。
「弟が、弟のエレアザルが」
「言わなくてもいい。全部、分かった」
とにかくイェースズはマルタを抱え起こし、共にゼベダイの屋敷へと向かった。その途中でイェースズは、
「人は死んでからまる一日が過ぎるまでは、離脱した霊魂は霊波線で亡骸と結ばれているから、眠っているようなものだ。その間は、向こうの世界に行ってからの霊的救いもできる」
と言って慰めていた。ゼベダイの家に着くと、エレアザルの遺体が安置されている部屋に残りの十一人の使徒と、目を真っ赤に泣きはらしたマルタの妹のマリアもいた。イェースズが部屋に入るなり、
「だめでした!」
と、イスカリオテのユダが叫んだ。
「突然現れた五人の盗賊でしたけど、一所懸命戦ったのです」
「戦ったのはユダとペテロ、そしてシモンだけでした」
と、小ヤコブが言った。
「先生は常々、人と争うなとおっしゃっている。だから、身を守るだけで、相手を倒そうという思いは誰も持ちませんでした。しかし、その結果が」
小ヤコブも泣いているようだった。
「いいんだよ、それでいいんだ。それでよかったんだよ」
イェースズは使徒たちを見渡した。
「ほかに、怪我はなかったかい?」
だれも負傷した者はなかったようなので、賊はいちばん若いエレアザルだけを集中的に狙ったようだ。何しろイスカリオテのユダ、ペテロ、熱心党のシモン以外は、皆無抵抗だったのだ。
「ゼベダイは?」
聞くと、よりによってこんな時に妻、すなわちエレアザルの母のいるガリラヤの本邸に仕事で出向いているという。
「たぶんあれは、盗賊なんかじゃない」
ペテロが涙混じりに、叫ぶように言った。
「おそらく、律法学者が放った刺客だ。先生の命を狙っていたに決まっている」
「そう、決めつけるものではない」
と、イェースズは言った。確かにその可能性は否定できないものの、憶測の域を出ない。
「いいかい、相手の賊を怨むんじゃないよ。むしろ、敵であるその賊のために祈れと、私は再三言ってきた。究極の感謝はだね、死してもなお感謝なんだ」
イェースズはそれだけ言うと、静かに祈りを捧げていた。
「あの子は、こんな若さで」
と、泣きじゃくりながらマルタが言った。
「若くして死んだからとて、それが不幸とは限らないよ。寿命は神様がお決めになることだ。エレアザルは向こうの世界での神様の御用があるのだよ。こちらでの死は、向こうの世界では誕生なのだから」
イェースズは自分にも言い聞かせるようにして、マルタに言った。
「そんな、みんな僕のことでめそめそしないでよ。僕は向こうの世界でがんばるからと、エレアザルは言っているよ」
エレアザルを知っている人なら、誰でもそう感じるであろう言葉だった。
イェースズは遺体の眉間に手をかざした。先ほどマルタに言った言葉の通りまだ離脱した霊と肉体の間に霊波線はつながっているはずだから、遺体の眉間に霊流を放射すればそれはそのまま霊魂にまで届き、これから行くべき霊層界を上げることもできることをイェースズは知っている。確かにエレアザルの死に顔にみるみる赤みがさしてうっすら笑みさえ浮かべ、眠っているのと変わらない状態にまでなって、遺体も死後硬直が解けて柔らかくなった。普通はあり得ないことで、その奇跡に誰もが目を丸くした。
「だいたい死に顔で、その人の霊魂はどういう世界に行くのかが分かる。こんな穏やかな眠っているような表情なら、間違いなく天国に行く」
イェースズがそう言っているところへ、末の妹のルツが夫のアシャー・ベンとともにやってきた。
「お兄さん!」
エレアザルの遺体にすがりついた。それでも手をかざすイェースズを、律法学者であるアシャー・ベンは冷ややかな目で見た。
「おまえがうわさの新興宗教の教祖か。盲人の目を癒したおまえが、エレアザルを死なせないようにすることはできなかったのか」
イェースズはその言葉のぬしには黙礼しただけで、ただひたすら手をかざしながらエレアザルの死に顔を見つめていた。
その晩、イェースズもほかの使徒たちも眠らなかった。これで二晩徹夜することになるが、誰もそのような気にならなかった。そして、誰もが無言でいた。イェースズも沈黙のまま祈り、そして十二使徒が一人欠けて十一人になってしまったことの意味も考えた。ただ、希望は、十二人というのは神様が定めた数であったのに神様のお考えで十一人にしたのはどういうことなのだろうかということで、さらにはかつて会堂の長の娘を蘇らせた時のことである。すべては神様のご都合によるものである。
翌日には、エレアザルは墓に埋葬される。ゼベダイ不在のことで、エレアザルの兄でイェースズの使徒のヤコブが一切を取り計らった。エレアザルの遺体には香油が塗られ、家からすぐそばの墓地まで運ばれ、崖をくりぬいた横穴の墓に遺体は安置されて入り口を巨大な岩でふさがれる。こうして葬儀は終わった。その晩は雨だった。ふと使徒たちは、イェースズがいないのに気がついた。ペテロが探しにいくと、、イェースズはエレアザルの墓の入り口の巨岩の前で、雨に打たれながらうずくまっていた。その涙を、雨が流す。それでも涙はとめどなく流れて、雨滴と混ざり合っていた。とにかくペテロは、イェースズをつれ戻そうとした。いくらなんでも三日の徹夜では体がもたないと、ペテロは現界的に判断したようだ。だがイェースズはもう少ししたら帰ると約束して、ペテロを戻らせた。
イェースズは祈っていた。やはり十二人は十二人でないと意味がないし、この何かが起こるであろう過越の祭りの直前に十二人の一人でもほかの人になるのは考えるのが難しかった。それにエレアザルは十二使徒の中でもいちばん若いし、若いけれどかつてのヨハネ教団では師のヨハネのいちばん近いところにいた人でもあって、さらにさかのぼるエッセネの教えにも驚くほど通暁していたのだ。生死を司るのは神様のみの権限で自分には与えられていないことはイェースズは十分承知していたが、今は神栄光のためその力を神様が行使してくれることを希うばかりだった。イェースズはすべての念を凝集させ、頭から湯気が出るほどに強く祈った。
翌日、エレアザルに最後の別れを告げるために、人々はエレアザルの墓の前に集った。もう雨はやんでいたが、空はどんよりと曇っていた。その時皆が一様に、雷に打たれたような衝撃を感じた。果してこの時、イェースズに神示が下っていたのである。それは「許す!」という、たったひと言の神示だった。
イェースズは突然立ち上がり、人々に向かって墓の入り口の巨石をどかすように言った。誰もが耳を疑ったが、使徒たちは師のいうことなのでそのまま言われた通りにすることにした。使徒たちの手で、巨岩はすぐに動かされた。四角い墓の入り口が開き、イェースズはその前にたたずんで両手を上げて天を仰いだ。
「神様、いつも真に有り難うございます。どうか神様のお許しとお力を賜り、お使い頂けますよう」
それからイェースズは暗い墓室へ降りる石段を下った。そして中へ向かって呪文のような言葉をかけ、
「エレアザル! 出てきなさい!」
と、叫んだ。外で待つ人々は沈黙のまま、ことの成り行きを待っていた。その沈黙を破ったのは、墓の中から聞こえてくる足音だった。そして布に包まれたまま、死体であったはずのエレアザルが歩いて出てきた。マルタは絶叫した。その時、雲の割れ目からさっと太陽の光がさした。
「エレアザル!」
マリアは飛び上がって走り出し、生きている弟の体をしっかりと抱きしめた。
「僕はいったい、どうしたんだ?」
エレアザルは何だか訳が分からないという顔で、きょとんとしていた。
「死んだと思っていたのに、僕は生きていた。それなのに体は宙に浮かんで、横になっている自分の体を上から見下ろしているし、その周りでみんなが泣いているのも見た。自分の葬式も見たし、もう一人の自分が墓に入ってからは、僕は家に帰って天井のあたりに浮かんでいた。そうしたら先生の声がして、急にすごい力で引っ張られて、墓の中の体の中に戻っていた。どうなっているんだろう。訳が分からない」
エレアザルは、まだ夢を見ているような表情だった。しかし、それ以上に墓の前にいた人々も、夢を見たように唖然としていた。だが、皆の目からはすぐに滝のような涙が流れて、エレアザルの名を叫んで一人の若者に十人以上の男が押し寄せた。その光景を見ていたアシャー・ベンは、一目散に駆けていった。ほかにもこの光景を目撃していた村の人々もいて、エレアザルが蘇ったということはたちまち村中に広まった。
噂が広まっている間にマルタはエレアザルの体の布をほどき、イェースズもエレアザルの手を取った。
「すべて神様のお計らいで、あなたはまだまだこの現界で神様の御用をしなければならない。そういう意味で、神様はあなたをここに戻して下さった。まだまだお役目があるよ。もう、当分あなたは死なない。それを心して神様の御ために働かないと、神様がせっかく下さった生命が無駄になる。今、神様の栄光があなたの上に表された。すべては必然であって、偶然が入り込む余地はない」
それから、イェースズは微笑んだ。
その夜、エレアザルは心もだいぶ落ち着いてからイェースズと二人きりになり、さらに詳しく話し始めた。
「先生。実は私はもっとすごいものを見てきたんですよ」
話し始めながらも、エレアザルは興奮していた。イェースズは温かく笑んで、それを聞いていた。エレアザルが話そうとしていることは、霊界をつぶさに知っているイェースズにとってはもう予想のつく内容だったが、それでも黙って聞いていた。
「私はもう一人のわたしの頭からスーッとぬけ出て、ぽかんと中に浮いていたんです。ずっと下の方に、もう一人の自分が倒れている。そして私が墓に入れられるまでずっと見ていたんですけど、その後ものすごい上昇感でスーッと上に引き上げられまして、もう下の方は雲がかかって見えなくなって、当たり一面明るい世界にいたんですよ。きれいな花畑で、とてもいい香りがして、そして自分自身がとても軽いんです。何だか重い外套をさっと脱ぎ捨てたような感じでしたね。心の中まで温かい幸福感に満たされていまして、今までよくもまああんな重い肉体の中で生活していたものだって思いましたよ」
イェースズは、一つ一つの言葉にうなずいて見せた。
「そうしましたらある所につれていかれまして、そこで自分の生まれてから今までの様子が次々にとても速く、空中に描き出されるんです。それを見て、私は死んだんだなって思いました。でも、その時に思ったんですよ。先生はこれからものすごいことをされようとしているのに、私がここで死んだら先生にとってまずいんじゃないかって。自分の使徒も救えないって人々に意識されたら困ります。先生にもご迷惑をかける。そこで一心に祈ったんです。『もう一度地上で、神様の御用のお手伝いをさせて下さい。地上天国が実現しますように、お使い下さい』って。そうしたら目もくらむような光の玉が目の前に現れて、『いずれおまれにも、役立ちてもらうことがあるぞよ』と声がして、それと同時に先生のものすごい声がして、またスーッと墓の中の自分の体に、今度は足の方から入って言ったんです」
イェースズが穏やかに口を開いた。
「あなたの祈りが、神様と波調があったんだね。私が神様やあなたと一体の心になって、神様は動いてくださったんだ。地上天国実現のためと祈るあなたを、神様はあちらに留めようとされるはずはない。祈りの力と、あなたの魂を切り換えんとする動きがピターッと重なった。そこに私の祈りが入った。あなたはこの世で、とてつもない大きな御用をするだろうね。だから、私より先に死んではまずいんだ。やがて、もっと大きな空中に描き出される絵を見る。まあ、まだずっと先のことだけどね」
イェースズはエレアザルの目を見て、にこやかにうなずいていた。
噂が噂を呼び、イェースズのもとに押し寄せる人々は前にも増して増えた。しかも今まではエルサレムでイェースズを待っていた信奉者も、このベタニヤに押し寄せてくるようになってしまった。イェースズは使徒たちと手分けして人々を癒し、また火の洗礼の業を施して人々の魂を浄めていった。
夜半になってから、最後に訪れてきたのはあのペテロの親戚の老いた律法学者ニコデモだった。
「先生、たいへんだ」
と、ニコデモは来るなり言った。
「最高法院はとうとう、本格的に先生を捕らえる準備を始めましたぞ」
「なんだって!?」
慌てたのはペテロをはじめ、使徒たちの方だった。ニコデモも肩で息をしている。だが、イェースズはいたって落ち着いていた。
「遠くへ逃げた方がいい。先生は殺される」
「まあ、落ち着いて」
「昨日、臨時の法院が召集されましてな、みんな先生のことをたいへん恐れている。このまま放っておいたら、エルサレムの人々はこぞって、父祖からの神殿への祈りを棄ててアーメン教に改宗してしまうのではないかって」
イェースズは大笑いした。?
「先生、笑いごとじゃありませんがね」
「改宗だなんて、要するに彼らは自分たちが失業することを恐れているんでしょうな。私の教えはそんな一宗一派の教えではなく、つまり宗教なんていうレベルを超越した宇宙の神理なんですけどね。だから改宗なんて必要はない。イスラエルの民に限らず全世界のどんな教えを奉ずる人も私のもとへ来て構わないし、それまでの信仰を捨てる必要もないんですがね」
「いやいや、そういった信仰上の問題だけではないのですよ。もしエルサレムの人々が神殿の教えを棄てたらこれ幸いとローマ軍が攻めてきて、祭司や律法学者は皆殺しになるって主張している議員もおりましてな。だから大祭司カヤパは、皆が殺される危険性があるならその前にたったひとりの人を殺してしまおうと、そう言ったのですぞ」
使徒たちは言葉を失くし、中には震えだした者もいた。
「大丈夫だよ」
と、優しくイェースズは言った。
「先生、ここも彼らに知られたのならまずい。どこか遠くに逃げましょう」
先を切って、ペテロがそう言った。それに同調して、使徒たちも同じことを口々に叫んだ。何しろ、賊の襲撃にあった直後である。その賊は律法学者の手のものによるイェースズの暗殺未遂だと、ペテロなどはもう固く信じて疑わない。だが、イェースズはかぶりを振った。
「大丈夫だ。ここにいよう」
イェースズは落ち着いていた。ところが、ピリポがそこに、
「先生、彼らと戦う気でですか」
と、言って割り込んだ。
「いや、戦いはいけない。戦ってはならないんだ」
「先生がそういうお考えなら、ここはペテロの言う通り一時避難した方がいい」
イェースズはしばらく考えていたが、やがて首を縦に振った。すべては、使徒を救うためである。
仮眠を取り、翌朝まだ早いうちに、イェースズたち一行はゼベダイの家を出た。彼らはまず災難を逃れるために、異教徒の町のサマリヤ領に入るつもりでいた。そこなら律法学者も祭司も、手を出すことができないはずだ。
イェースズたち一行は北上した。エルサレムを出るとすぐに、道は荒野の中に入っていく。そんな道でも、真夏の炎天下よりは楽であった。そしてまる一日歩いて道が丘陵地帯にさしかかると、高い山の上に町があるのが見えてきた。
「もうこのへんは、サマリヤではないでしょうか」
ヤコブがあたりの景色を見回しながらいった。
「あの町は、エフライムだ」
と、山の上の町をさしてナタナエルが言った。その名を聞いて、イェースズの心にはじけるものがあった。かつて霊の元つ国で出会った同胞は、ユダ族ではなかった。つまりかつて歴史の中に消えたと言われるイスラエル十二氏族のうちの十氏族で、その総称をエフライムと言っていた。今、ユダ族の律法学者などから逃れるための旅で、消えた十氏族の総称と同じ名の町にたどり着いたのも偶然ではないようだった。
夕刻になってその山を登り、イェースズたちはエフライムの町に入った。ここは、ヨルダン川西岸地域になる。空はよく晴れており、町の中のいちばん高い丘からは、死海、ヨルダン渓谷、サマリヤ山脈、ユダの荒れ野の山々、そして遠くにエルサレムの町などが一望に見渡せた。だがそんな景色を味わうゆとりは、使徒たちにはなかった。肉体的にも精神的にも彼らは疲れ果てているようで、その町に数日滞在している間は何の活動もせず、ただ静かに時を過ごした。使徒たちには、いい休日となった。
それでもイェースズだけは、過越の大祭が近づくにつれて胸騒ぎが大きくなっていった。イェースズは夜、一人外で月を見ながらため息をついた。月は上弦の月で、それが満月になれば過越のみ祭が来る。
使徒たちは、まだおぼつかない。自分にもしものことがあった時に、今の使徒たちでひとり立ちできるかどうかは怪しいものだった。彼らはまだまだ自分に甘えすぎている、とイェースズは感じていた。何かあっても先生が何とかしてくれると、その考えが頭から離れないようだ。そろそろひとり立ちの訓練をさせる時だと、イェースズは感じた。
その翌朝、イェースズは使徒たちを集めた。過越まで、あと八日しかない。
「先生」
と、ヤコブが聞いた。
「私たちをまた集めて、まさかこれからエルサレムに戻るなんて言いだすんじゃないでしょうね」
「そのまさかだよ。こっちこそ聞くが、あなた方はこの異教徒の町で、過越の大祭を過ごすつもりなのかね?」
「今エルサレムに戻るのは、死にに行くようなものです」
と、小ヤコブも血相を変えた。彼らが伝え聞いた話では、イェースズの信奉者の会堂追放に飽き足らず、とうとうイェースズに懸賞金までかけて指名手配しているということだ。とうとうイェースズはお尋ね者になったわけで、逮捕されれば最高法院の裁判にかけられ、へたをすると、否、十中八九死刑になる。
「大丈夫だよ」
と、イェースズは笑っていた。
「私が神様から与えられた使命を果すまでは、神様は私を死なせてはくれない。この夜の世に、神様は私という一時期だけの光を与えて下さった。その光のあるうちは、つまずかない」
「でも、もし学者たちが先生を捕らえようとしてきたらどうします? 戦いますか」
と、シモンが尋ねた。イェースズは笑った。
「戦ったりはしないさ」
「でも、捕まったら?」
「その時はその時、神様にお任せだ」
「そんな!」
大声を発したのは、イスカリオテのユダだった。
「私たちは先生に、戦ってほしいんです。神理の教えのためなら、戦うことも必要だと思いますけど」
「それは違う!」
ピシャリとイェースズは言った。
「戦いはいけない。どんな時でもね。ユダ、あなたはまさか私が、反ローマの戦いをすることを期待しているんじゃないだろうね」
「でも、人々はみんなそれを期待しているというのも事実です」
「とにかく、エルサレムの大祭だ。多くの人も集まる。我われはこのために、エルサレムに来たのではないのかね?」
「よし!」
トマスが気合いを入れて、握りこぶしを作った。
「先生といっしょに、我われも死のうじゃないか!」
「おう!」
全員が一斉に声を上げた。イェースズはひとりだけ、困った顔をしていた。
エルサレムへ向かう街道は、すべてが人で埋め尽くされていた。何しろ年に一度の大祭には、ユダヤの人口の大部分がエルサレムに集中するといってもいいくらいだ。人々はほとんど行列となって、同じ方向へと進む。肩と肩とが触れあわずには歩けないほどだった。その中でイェースズも使徒たちも、いっしょに群衆にもまれていた。
彼らはエルサレムに入る前に、一度ベタニヤに戻った。ゼベダイもその妻のサロメとともにガリラヤから戻ってきており、留守中の出来事については、マルタから報告を受けていたようだった。
「有り難うございます」
ゼベダイもサロメもイェースズの手を取って、また涙を流しながらエレアザルの蘇生についてイェースズに何度も礼を言った。それから、嫌がるエレアザルを無理やり抱きしめていた。
その晩、ゼベダイはイェースズたちのために宴を開いてくれた。
「いやあ、先生はいなくても、人々は毎日押しかけて来ましたよ」
と、その宴の席上でゼベダイは言った。
「それもみんな、エレアザルを見るのが目的だったようでしてね。死んで生き返ったやつっていったいどんな顔をしているのかと、その面白半分に見に来るんですよ」
それが受けて、使徒たちは一斉にどばっと笑った。
「エレアザルはいないって言っても、うそだって言って帰らないんですからね」
その席に、マルタとマリアはいなかった。
「マルタはまだ、台所ですか?」
と、イェースズが尋ねた。
「姉はまめですから」
と、父に代わってエレアザルが答えた。
「呼んできてくれないか。いっしょにどうぞって」
言われたエレアザルは立って奥に行き、
「すぐ来るそうです」
と、言ってすぐに戻ってきた。
やがて、まるで何かの儀式のように静々と入ってきたのは、マルタではなく妹のマリアの方だった。そのまま彼女は、イェースズが横に投げ出している足の所で身をかがめた。手には、小さな壷を持っている。そしてその目は、心なしか潤んでいた。壷のふたを、マリアは開けた。途端に得もいえぬ香りが、部屋中に充満した。壷の中には油が入っているようだ。マリアは終始無言で、その油をイェースズの足に塗った。使徒たちもゼベダイも呆気に取られ、それを黙って見ているだけだった。マリアは手でイェースズの足をぬぐい、自分の長い髪の毛でそれを拭いた。
沈黙を破って、イスカリオテのユダが声を上げた。
「ちょっと待った! その香りはナルドの油じゃないか」
「え?」
と、ほかの使徒たちも声を発した。ナルドの油といえば、超高級品だ。
「そんな高価な油を無駄遣いして、いいのか」
そう言ったユダをマリアは潤んだ瞳で見たが、何も言わなかった。
「ユダは会計係だから、無駄遣いにはうるさいんだよ」
と、熱心党のシモンが口をはさんだ。ユダはさらに言葉を続けた。
「あんたは先生のみ意が分からないのか。そんな高価なものを無駄遣いするより、売ってそのお金で貧しい人に施しをした方が、どんなに先生のみ意にかなっているか。現実的にもその方が、ずっと効果があるじゃないか」
「まあまあ、ユダ。落ち着いて」
と、イェースズがそれを手で制した。
「マリアがやったことを、責めちゃいけない。マリアはエレアザルのことで、最大限の感謝の気持ちを形に表しただけだよ。この油は彼女の財産の中でいちばん高級なものだろうけど、それを私の足に塗ってくれた。貧しい人々は、これからもずっとあなた方の身近にいる。でも、私はいつまでもいるとは限らないよ。私はいつも、貧しい人、罪びとの味方だって言ってきたよね。施しもしてきたけれど、それが目的じゃあないてことがまだ分からないのかね。私が貧しい人に与えたかったのは物質的な救いでも心の慰めでもなく、霊的な救いだよ。共に祈り、共に罪を詫びてきれいな魂になれば、その人はひとりでに脱貧できる。物質的な施しをしたって、すぐになくなってしまうんだって前にも言っただろう。だからといって、そんなものは必要ないと言っている訳ではない。物質的な施しもした上で、さらに高次元の霊的救いに持っていかなければならない。これは、永遠になくならない」
それからイェースズは、マリアに目を向けた。そして、
「有り難う。このことは忘れないよ」
と、優しく言った。マリアはどっと泣きだし、壷を置いて奥に入ってしまった。
ベタニヤからエルサレムに向かう街道はそれまでに増してものすごい人出で、オリーブ山の麓あたりでとうとう前に進めなくなった。ただでさえ過越の祭りでエルサレムの人口は膨れ上がるのに、それに加えてイェースズの信奉者が、行方をくらませていた師が都に出てくるといううわさで大騒ぎとなり、たちまちに集まってきたのである。また、イェースズが使徒のエレアザルを蘇生させたといううわさも加わって、イェースズを見にきたものも多数いた。そのようなのが混ざり合って、これだけの人出となってしまったのである。
「こりゃあ、すごいな」
と、ナタナエルがうなった。その脇で、熱心党のシモンがつぶやく。
「これなら律法学者どもが兵を出してきても、群衆が手出しをさせないな。先生がエルサレムに戻ったことが分かったとしても、一応は安心できる」
「でも」
と、小ヤコブは首をかしげた。
「先生がいちばん恐れている流血騒ぎになったら、それこそ一大事だけど」
普段なら昼前にはエルサレムに着けるが、この日はもう夕刻近くになっていた。そして群衆の歓呼の声に迎えられて、それに笑顔で応えながらイェースズは神殿に入った。かつては神殿の庭の一角に人々が細々と集まってイェースズの話を聞いているという状況だったが、今や群衆は神殿の異邦人の庭を所狭しとひしめきあっている。それでもその数十倍のイェースズに関心のない人々が神殿の中にはあふれ、それを目当ての商人たちの呼び声も相変わらずかまびすしかった。
イェースズは至聖所に至る一段高い部分に登ろうとした。そこからなら、庭の群衆を見渡せるのだ。段上でイェースズは人々の方をむき、話し始めるつもりでいた。ところが、イェースズが石段を二、三段登ったところで、その脇にピリポとアンドレが来た。
「先生、上がるのを待って頂けませんか。先生にどうしてもお会いして、お話が聞きたいという方々がいるんです」
「では、段上に一緒に上がるといい」
「それが、そこには上がれない方々なんです」
イェースズが登ろうとしている段上に上がれないのは、つまりユダヤ人ではない異邦人だということになる。異邦人が段の上に上がったら、それは死を意味することになる。果たしてイェースズが再び異邦人の庭に降りると、ピリポの後ろの群衆の中に混ざっていたのは、風体からギリシャの商人のようだった。四人ほどいた。
「さっき、ここへ入る前の二重門の外でアンドレが話しかけられたんですけど、ギリシャ語が分からないということで私が聞いてあげたんです。そうしたら、どうしても先生に引き合わせてほしいって」
ギリシャの商人たちは、さっと前に出た。
「あなたの話は、全部聞きました。人々からずいぶん騒がれているんですね。私たちもそばに置いて、いっしょに行動させてもらえませんか?」
アンドレが、そこに口をはさんだ。
「先生がお望みの、教えを全世界に広めるいい機会ではないですか」
イェースズはその言葉に軽くうなずいたが、微笑みの中にも微かな憂いを見せ、ギリシャ人たちに流暢なギリシャ語で言った。
「私の話は、あなた方が好むような哲学ではありませんよ。それにしても、もう少し早く来て下さっていたら……。今はもう、時が来てしまったんです。一粒の小麦も地に落ちて死ななければ、いつまでたっても一粒の小麦でしょう? でも地に落ちて死んだら、多くの実を結ぶじゃないですか。物質的な人生に執着を持っていたら、いつまでたっても霊的に生まれ変わることはできないんですよ」
集まっていた群衆はなかなかイェースズが段上に上がらないので、ざわめきはじめていた。ギリシャ人たちは、イェースズの言葉の内容が分からずにきょとんとしていた。
「いや、申し訳ない。いきなりこんな話では難しかったでしょう。実は今、私の心はたいへん騒いでいるんです。何と言えばいいんでしょうかね」
イェースズはギリシャ人たちに軽く会釈をしただけで、彼らを残してさっと段上に上がった。群衆は大歓声で、イェースズを向かえた。しかしイェースズは群衆ではなく神殿の至聖所の側面の方を向いて座り、天を仰いで祈った。
「天の御父である神様!」
群衆は、さーっと静まりかえった。
「私の苦しみを取り除いてくれとは申しません。ただ、苦しみに打ち勝つ力をお与え下さい。私は自ら選んでここに来ました。神様の栄光を現させて頂けたらと存じます」
群衆は一斉にどよめいた。イェースズのオーラに乗っている高次元パワーが、一気に物質化したのだ。人々にはイェースズが光を放っているように見えた。そして人々は自分の手や互いの手を見つめ合い、またどよめいた。彼らの手には一様に、金粉がついていたのである。
その時、イェースズは内面に声が響くのを聞いた。久々の神啓接受だった。
――われ、汝にすでに栄光を現せり。今ひとたび、そを現さん。
この声は、群衆にも聞こえたようだ。群衆はさらにどよめき、悲鳴を上げるものも多かった。彼らには声としてではなく、ただ非常に大きな物音としか聞こえなかったようだ。
「雷だ!」
と、叫んでいるものもたくさんいる。イェースズは微笑んで、群衆の方を向き直して言った。
「今のは、天のみ声です。それは私のためではなく、あなた方のためのものでした。物質の力ではない別の力が存在することを、皆さんに知って頂くためです」
そして、ひと呼吸おいてから、
「みなさん」
と、イェースズは声をはりあげた。
「光はまだしばらくは、皆さんの間にあります。闇の世にせっかく光がともされたのですから、無駄にしないで下さい。光が消えれば、またもとの闇の世の真っ只中なんですよ。いいですか。光があるうちに、光の子となるために、光を信じて下さい」
イェースズは、しばらく沈黙した。そして、互いにひそひそとささやき合っている群衆を見た。この中の多くは、まだイェースズを政治的救世主と思っているようだ。この大祭を機に、イェースズが先頭に立って反ローマの旗を振り回すのを期待している。
「誰が私たちの聞いたことを信じたのか。主の救いの力、力強い奇跡のみ業は誰に現されたのか」
イェースズはそこで、ひと息入れてからまた続けた。
「行ってこの民に言いなさい。『あなた方は聞くには聞くが悟らない。見るには見えるが分からない』」
また少し間をおいてから、イェースズは早口で言った。
「これはご存じの通り、『イザヤの書』の一節です。まだ、ここにおられる皆さんはいい。いや、この中にもまだたくさん、私を信じきれていない人がいます。そして多くの人々は、私がいくら警鐘を乱打しても振り向きもしない。でもですね、たとえ私を信じなくてもいい。私のなした奇蹟の神業、そしてお伝えさせて頂いております神様のみ教えは信じてほしいんです。どうしてそれが、信じられないのですか? 実はパリサイ人の中にも、私を信じてくれる人はいます。ただ、ご自身の立場をはばかって、公言できないだけなのです。まあそれは、この物質界では仕方がないことでしょう。しかしですね」
イェースズの声が、一段と高まった。
「私が伝えさせて頂いた教えを信じるということは、神様を信じるということになるんです。これは決して驕り高ぶって言っているのではなく、神様がもう私にそういう使命を与えて私をこの世に遣わされたのだから仕方がない。だから、私を信じない人がいても、私は決して裁きはしません。かわいそうだなとは思いますけれど、放っておくしかないんです。私は人々を裁くためではなく、救うために来たのですからね。私が伝える神様の教えを信じない人は、神様の置き手の法、大宇宙の法則通りになっていってしまいます。再三言いますけど、私は神様からお伝え頂いたことをそのままみなさんにお伝えさせて頂いているんですよ。私の考えや私の造り事は一切ありません。すべてが御神示なんです。いいですか。神様は絶対ですよ。私はその絶対なる神様のラッパにしかすぎません。ラッパは自分で音を出しているんじゃないんです。神様がラッパを吹かれるから、音が出るんです。そのことを忘れないで下さい」
イェースズはそれだけ語ると、さっと下に降りて肉体をエクトプラズマ化させ、神殿の外に出た。そのままマントで顔を覆って下の町に行き、使徒たちとかねて打ち合わせてあった旅館へ入った。