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秋も深まり、ベタニヤを通過する旅人が急に増え始めた。いよいよ仮庵祭が始まる。
仮庵祭はもともとその年の収穫を七日ないし八日間にわたって、神に感謝する秋の大祭であった。一日目、二日目と神殿で燔祭にすべき動物や穀物については、律法で細かく規定されている。それが後世になってから出エジプト時の荒野での彷徨を記念するという意味が加わり、祭りの期間に人々は屋外や畑地にナツメヤシの葉で仮小屋を作ってそこで生活するようになった。神の国から見れば、この世は仮の棲家であるということを表すためだ。
ベタニヤでゼベダイも、家の近くの高台に仮小屋を建てた。だが今年は、イェースズと使徒たちの仮小屋がその隣にもう一軒建つことになる。そして祭りの最後の日、イェースズと使徒たちはエルサレムに行き、神殿に昇った。この日は祭りのクライマックスで、
神殿では燔祭とともにシロアムの池から汲んできた水が注がれ、「律法の喜び」の日として「伝道の書」が朗読される。
イェースズが神殿の庭に上がると何人かの信奉者はすぐにイェースズに気がついたようだが、何しろ年間で最大の大祭当日である。ガリラヤを含むユダヤ全土から参拝者はエルサレムに集結して人口は数十倍に膨れ上がっており、そんな大群衆の中でイェースズに群がって歩くことは到底不可能であった。イェースズの周りにひしめき合う人々はイェースズのことを全く知らず、彼に無関心な人の群れだった。
イェースズたちがニカノルの門までたどり着くのに、押し合いへし合いでかなり時間がかかった。そして参拝を終えて退出し、異邦人の庭まで出てきた時である。そこはすでにいつもの生贄の動物売りや両替商の店が完全に復活していた。
「あっ!」
そこで突然ある人が、イェースズを指さして叫んだ。
「こいつだ! おい、みんな!」
その声にこたえて六、七人の男が店の立ち並ぶ方から人をかき分けながら来て、イェースズを囲んだ。だがそこへも群衆の流れはどんどんぶつかり、そんな中で立ち止まっている彼らに顰蹙の目を向けながら無関心で流れていった。
使徒たちはかばうようにイェースズの前に固まった。イェースズを取り囲んだのは以前ここで店を壊された商人たちで、その目は敵意を含み、憎悪の念に燃えていた。
「祭司様はこいつを石打ちの刑にしてやると言っていたのに、なんでぬけぬけとこんな所を歩いているんだ。祭司様はなぜ放っとくんだ」
「おい、おまえ!」
商人の一人が、イェースズに怒鳴りつけた。
「おまえはどうも救世主気取りでいるようだけどな、言っておくが救世主は白馬に乗って東の空からある日突然降りてこられるのだ。おまえはただの人間で、東どころか北のガリラヤ出身だろう」
「たしかに」
イェースズは穏やかに言った。
「私の出身地をご存じなのですか」
「おまえの弟子たちの言葉の訛りを聞いていれば、すぐにガリラヤ人だと分かる!」
「確かに私は人間としてガリラヤで生まれて、この世で生活してきました。でも私は、神様から遣わされたんです」
「なんだと! またそんなたわごとをほざいているのか。やっちまえ!」
商人たちは一斉にイェースズにつかみかかろうとしたが、使徒はちはそれに抗すべくイェースズの前で見構えた。それまで無関心に流れていった大群衆も何人かは注意を向け、ほぼその次の瞬間にイェースズの周りは人垣ができた。見ものとしてはおもしろいと思ったのだろう。
「抵抗するな!」
と、イェースズは使徒たちに、厳しく言い渡した。そして、両手を商人たちに向けた。ものすごい量の霊流エネルギーが放射されて商人たちを包んだが、もちろんそれは誰の目にも見えなかった。だがイェースズの目には、商人たちに憑依している霊がもがき苦しんでいる様子が手に取るように見えた。
「なんだ、こいつ。気持ち悪いやつだ」
「気違いを相手にしていても、しょうがない」
「祭司様に言って、役人に捕らえてもらおうぜ」
そんな捨てぜりふを残しながらも、商人たちは不思議なくらいすごすごと引き下がって、人ごみの中に消えた。
周りで見ていた人も何が何だか分からず呆気にとられていたが、その中の一人だけ感嘆の声を上げた。
「奇跡だ。この人の手からは黄金の光が出ていた。私にははっきり見えた」
若い男だった。人々は怪訝そうな顔でその男を見た。男はさらに、
「この人は救世主だ」
と、叫んでいたが、人々は首をかしげながらもほんの二、三人だけ残して雑踏に戻り、イェースズの周りはその二、三人と使徒たちのほかは無関心で流れ行くもとの人の流れがぶつかってくるだけになった。
だが、イェースズを救世主と呼んだ男もまた、その場から立ち去ろうとしなかった。
「前にベトサダの池で多くの病人を癒したのも、あなたでしょう? どうか、私にも神のみ言葉を語ってください」
「あのなあ」
と、男をたしなめたのは、男とともに好奇心だけで残っていた見物人だ。
「いいか、救世主がガリラヤ人であるわけがないじゃないか。この人もその周りの弟子たちも、みんなガリラヤ訛りがる。救世主はダビデ王の子孫で、ベツレヘムで生まれるって聖書には書いてあるじゃないか」
そんな声は無視して、男はイェースズのそばによった。イェースズはにこやかに微笑んだ。
「私の話が聞きたいと思ったあなたは、幸せです」
イェースズは男と、ほかに残っていた人々をさっと見渡した。
「心が渇いている人は、私の話に耳を傾けてください。それは私の言葉ではなくて、神様の言葉をお伝えさせて頂きますから。今日はシロアムの泉の水が神殿で注がれる日ですけど、神様の言葉を受け入れて生活の中で実践すれば、心の奥から命の泉が湧き出ますよ」
「神様って、どこの神様だ? 神様ならあそこにおられるじゃないか」
見物人の一人が青空にそびえる四角い神殿を指さした。イェースズはもはや何も語ることなく、最初に声をかけた男に共に来るように促してその場をあとにした。
イェースズはその晩、使徒たちはベタニヤのゼベダイの家に帰し、一人だけ残ってオリーブ山に登った。ここからだと、エルサレムの市街が一望できる。大祭の最終日の夜とあって、夜更けまで町全体に煌々と明かりが灯っていた。月は満月で、その冷たい光の中でイェースズは祈りに没頭した。
まずイェースズは、これでいいのだろうかと、エルサレムに上ってからの日々を内省した。そんな時、魂に響いてきた神の声は、
――焦るなよ。だが、ぐずくずしてはならんぞ。
という繰り返しだった。
――神の時は、近づいておるのじゃぞ。このままでは遅いぞ、間にあわんぞ。まだまだのんきすぎるぞよ。
それは明らかに神からのお叱りだった。イェースズはその言葉の前に、ただただ嗚咽した。
翌朝早く、イェースズはまた神殿に昇った。今度は使徒もおらずにたった一人でである。祭りの翌日の静けさは、記憶の中の祭りの喧騒をますます顕著にするが、祭りの痕跡は神殿の庭のあちこちに見えた。庭は泥や布切れが目立ち、何人かの人は後片付けのために異邦人の庭を歩いていた。
ところがイェースズが地下から昇る階段から一歩庭に出た途端、空気は一変した。皆慌てて互いに何かをささやき合い、中には一目散にどこかへ駆けていくものもいた。
イェースズは秋の空を仰いで朝の新鮮な空気を吸いつつ、庭の淵のソロモンの廊の方に歩いた。何本もの太い円柱に支えられた屋根付きの廊で、神殿の東側をずっと向こうまで長く続いている。その回廊の屋根の下にイェースズが入った時、背後に多勢の足音を聞いた。
振り向くと、パリサイ派の律法学者の一団が、肩を怒らせてこっちへ向かってくる。その中に若い女性がねじ伏せられて、無理やりにつれて来られていた。ブロンドの髪もかき乱し、着ている服もぼろぼろだった。だが顔は、驚くほど美形だった。
学者たちはイェースズの前に来ると、女を地面に叩きつけた。
「あんた、ガリラヤのイェースズだな」
居丈高の学者の言葉が、朝の空気を切った。イェースズは落ち着いて、笑みさえ浮かべてそんな彼らを見ていた。
「そうですが。しかしこの女性に、ずいぶん乱暴なことをなさるんですねえ」
「やはりそうか。ガリラヤまであんたのことを調べにいった仲間が言っていたが、怪しげな魔術で奇跡を起こして人々を扇動し、変な新興宗教を起こしたそうじゃないか」
「私は神様に命じられるままに、その教えを伝えているだけですけどね」
「じゃあ、聞くが」
いちばん前の学者が、目の前に倒れている女を指さした。女は恐怖におののき、立ち上がる力もなく肩で息をしている。
「この女は、姦淫の現場を取り押さえられたものだ。律法では石打ちの刑にせよとあるが、どうする」
イェースズはその問いが罠であることは、すでに見抜いていた。もし律法通り石打ちの刑にせよと言ったら、今や死刑執行件をユダヤ人からことごとく取り上げているローマへの反抗となる。だからといって石打ちの刑を否定すれば、律法を否定したことになるのだ。
イェースズはしゃがんだ。石畳の庭だったが、昨日までの祭りのために泥が積もって、指でなぞれば字が書ける。
「どうした。答えられないのか?」
学者たちの嘲笑が頭上を飛んだが、それでもイェースズは一心に文字を地面の上に書いていた。
「早く答えろ! どうなんだ!」
イェースズは立ち上がった。そして同時に、近くにあった石を拾った。女の表情が、一層恐怖に引きつった。
「お許し下さい。好き好んでそのようなことをやったわけではないのです。病気の母と幼い妹がいるんですけど、父が死んでから我が家のお金は全くなくなって、パンも買えないんです。こうでもしなければ……」
女は涙で叫びながら、必死でイェースズにすがろうとした。それを再度学者は、二人がかりで押さえつけた。
「いいでしょう! 石打ちの刑にすれば。ただし!」
力を込めてイェースズが言うので、学者たちは思わず身をすくめた。
「あなた方の中で罪のかけらもない人だけが、この女に石をお投げなさい」
「何だと。われわれを誰だと思っているんだ。おまえのような民間の素人に、そのようなこと言われる筋合いはない!」
「そうだ! 生まれてこのかた律法を叩きこまれて、律法の中で生きてきたんだ。律法に背いて、罪など犯すはずはないではないか」
「そうですか。じゃあ、これをご覧下さい」
イェースズは微笑みながら、さっきまで地面に書いていた字を学者たちに見せた。のぞきこんだ学者たちの顔は、見るみる蒼ざめていった。そこには学者一人一人の名前と、これまで犯してきた罪状がすべて書かれてあった。しかも、心の中で思っただけで誰も知るはずもないことまでが、そこには記されていたのである。
学者たちは一様に震えだし、何も言えずにいた。イェースズは石を捨てて、女の前にしゃがみこんだ。
「さっきまでの威勢のいい学者さんたちは、どこに行ってしまったんでしょうねえ」
そう言ってイェースズは笑った。そして、女に言った。
「もう誰も、あなたを咎める人はいないようですよ。もちろん、私も裁きはしません。立って、元気を出してお行きなさい。ただし、もう二度と罪を犯さないように」
女は最初は這うようにしてその場から離れ、そしてよろめきながら立ち上がって一目散に駆けて行った。イェースズは、まだ震えている学者たちを見た。
「心の闇が照らされたのが、そんなに恐いですか? 私は世の光なんですよ。何でも照らしてしまいます」
そう言ってイェースズは、また大声で笑った。学者の一人が、恐る恐る口を開いた。
「あんたはいったい誰なんだ」
イェースズは相変わらず、微笑んでいた。
「さっきからずっと言ってるじゃないですか。神様のお声をお伝えさせて頂くものだって。私が伝える神のミチをそのまま実践したら、罪から解放されて自由になりますよ」
「自由だって?」
学者の中の一人が、やっと力を取り戻して言った。
「我われイスラエルの民はアブラハム以来、誰の奴隷にもなっていない。それなのに自由になれるとは、どういうことかね」
これはうそで、実際には出エジプト前のエジプトでのことやバビロン捕囚もあり、現に今もローマの半植民地となっている。だが、それは問題にせずにイェースズは話を続けた。
「さらにさかのぼって、アダムは罪を犯しませんでしたか?」
「だがすでに、アブラハムがしたように、罪の身代わりの子羊の生贄を捧げた」
「それはいいですが、真剣に神様に詫びましたか? アブラハムの子孫なら、アブラハムに倣ったらどうですか? それなのに神理を告げる私を陥れようなんて」
やがて、学者の一人が金切り声を上げた。
「こいつは狂人だ。危険な存在だ。いや、悪魔が憑いている」
「残念ながら、私はそんなんじゃありません。私は天の神様に、ただ波調を合わせているんですよ。自分は根となり踏みにじられようとも神様の御名を讃え、弥栄を讃えていきます。そうすれば、永遠の命が得られるんです」
「やはり、こいつは気違いだ! 神様と波調を合わせれば死なない? モーセやアブラハムも、みんな死んでしまっているではないか。自分を何様だと思っているんだ!?」
「皆さんが私をどう思おうと、それはあなた方の自由です。でも私は、神様に命ぜられたままに動いています。それも別の神様ではなくて、あの神殿に祭られている神様です」
「やはり、こいつは気違いだ」
学者たちは、イェースズの胸倉につかみかかろうとした。そこでイェースズは自分の肉体をエクトプラズマ化させ、次の瞬間には神殿の外にいた。
秋は日増しに深まり、かなり冷え込むようにさえなってきた。そんなある日、イェースズはペテロ、ヤコブ、エレアザルの三人とともに、神殿の南のダビデの町を歩いていた。
やはりエルサレムは大きい。あの露天商の店を壊したことなど、もしガリラヤで同じことをしたら全土で有名人になってしまうだろう。事実、イェースズの名声はガリラヤではどの村にも鳴り響いていた。しかしここではあれだけの事件を起こしたとしても大部分の住民はイェースズを知らず、イェースズが使徒たちと堂々と歩いていても誰もが無関心にすれ違って行く。
この町は本来低地にあり、起伏が激しい場所に作られている。だから箱型の家と家の間の細い道は、突然急な坂道になったりする。何しろ真っ直ぐな道というものはほとんどなく、街中は恐ろしいほど見通しが悪い。しかも、どの道も実に狭いのだ。
イェースズたちが歩いているのもそんな曲がりくねった細い坂道で、その途中の道端に座っている老人がいた。どうも目が全く見えない人らしい。
「先生」
ペテロが、歩きながらイェースズを見た。
「先生は、不幸現象にはすべて原因があって悪業の清算だっておっしゃいましたけど、やはり目が見えないというのも本人かその両親の罪なんでしょうか」
「こらこら」
イェースズは慌ててペテロの袖を引き、近くの路地に入った。ほかの二人もついてきた。
「あんなこと、本人に聞こえるような声で言うものではない」
そうたしなめてから、イェースズは少し微笑んだ。
「確かにその通りだけど、いきなりそのようなことを本人に面と向かって言うものではないよ。まあ確かに、あらゆる不幸現象には必ず原因がある。すべてが相応で、善因には善果が、悪因には悪果があるというのは動かせない法則だ。霊界の置き手だよ。その悪因というのはいわば神様へのお借金のようなものだから、いつかは清算しなければならない時が来る。だから不幸現象を待って清算するか、自ら進んで積極的なアガナヒをして、つまり人を救って歩いてお借金をお返しするか、どちらが得かってことだね」
その時、一人の老女が路地をそっとのぞいたが、使徒たちは気づかずにいた。イェースズは話し続けた。
「だからすべてを感謝で乗り越えて、決して不平不満は言わないことだ。不平不満を言ったら、ますます魂の曇りを積んでしまうからね。そういうことが分かって『ヨブ記』を読むと、実にそのことを適格に言い当てているのがあの書だと分かるんだけど、残念ながら今の人であの書の真意が分かっている人は少ないね」
「ではあの目が見えない人も、前世で人の目を突いたかなんかしたんでしょうか?」
「断言はできないけど、可能性としてはあるな」
「では、私たちが奇跡の業であの人の目を癒したら、あの人のお借金を肩代わりしてあげたということになるんですか?」
「それは違う」
イェースズは首を横に振った。
「神様へのお借金は、誰も肩代わりしてあげることはできないんだよ。奇跡が起こるのは神様のみ業がそこに現れるため、神様の力と栄光を表して万人の眼を開かせる方便だ。だから、奇跡の後が大切って何度も言っているようにね、その人のお借金は残っているんだよ。後はその人が報恩と感謝の念に燃えて、いかに人を救ってお借金を清算するか、神様は神様との因縁のある人からそのチャンスを与えるために奇跡を出してくださる。奇跡というのも、神様のご都合があって出されるものなんだよ。因縁のある魂だから神様はなんとしてでも救って、御用にお使い下さろうとしている。神様にとって役に立つ人だろうから、使ってくださる。そのために、いつもいうように行きがけの駄賃として奇跡を出して下さるわけで、そのへんをサトって神様の御用をして人を救わせて頂こう、そしてお借金をお返ししようと思いが切り替わらなければ、神様からすれば奇跡を出してあげた意味がないということになる。せっかく奇跡を頂いておきながら、再び浄化が起こるというのはそういうことなんだね」
「あのう、ちょっとすみませんが」
そこに割り込んできたのが、先ほどから路地をのぞいていた年配の太った女だった。
「さっきからお話を伺っていましたけど、あなた方、あの目の見えない方のことを話されていたでしょう?」
女は清らかな目元に笑みを浮かべ、あくまで温和そうに話した。
「ええ、そうです」
と、ペテロがイェースズに代わって答えた。女は答えたペテロとイェースズ、そしてほかのヤコブとエレアザルをも交互に見てから口を開いた。
「あなた方、目の見えない人の気持ちがお分かりですか? それはつらいものなんですよ」
「あのう、あなたは?」
と、ヤコブが尋ねた。
「私はああいう方々のお世話をさせて頂いているものなんです。私たちの家には目の不自由な方、足の不自由な方などがたくさんおります。そういう方たちを集めて、お世話させて頂いているんですけどね。なにしろこんな世の中ですし、この都では人々の心は都の周りの砂漠と同じです。家もない労働者が冬に外で凍えないように、毛布や食料も配らせて頂いています」
「それは素晴らしい」
イェースズの顔が輝いた。
「世間では罪人として貶められている方々にまで、愛の手を差し伸べるのですね」
イェースズは嬉しそうな顔だった。
「はい、褒めて頂いて有り難うございます。でも、先ほどのあなた方の会話はいただけませんわ」
「なぜですかな?」
「ああいう方たちは、すべてが闇の中の人生なんです。生きる希望もないんですよ。仕事もできません。孤独なんです。そういう人の心を、心で感じてあげるのが本当の救いなのではないでしょうか? 言葉で慰めるより、その人の心になってお世話させて頂く、そういったことでその人の心は癒されていくんですよ。救われるんです。それなのにあなた方は、目が見えないのは前世の罪穢だとか何とかおっしゃって、その人の心をますます苦しめていることにお気づきになりませんか? ただでさえ苦しいんですよ。それなのに、その苦しみが罪の結果だなんて言ういい方は、その人をもう奈落の底に突き落とすようなものではないでしょうか。私にはすごく残酷なことだと思います」
イェースズも微笑んで、うなずきながら聞いていた。女言葉が途切れたので、イェースズは口を開いた。
「おっしゃる通りですね。素晴らしいお考えをお聞かせ頂いて有り難うございます。しかし、残酷なようでも真理は真理なんですね。それを告げてあげるのが、その人のためだと思いませんか?」
「いいえ。あまりにも残酷すぎます。自分が罪を背負って今苦しみを背負っているなんて、苦しみは余計に増えてしまいます。それはその人の不摂生とかで病気になることもあるでしょうけれど、その人には何ら責任のない病気だってあるでしょう? だから、その人の身になってお世話して差し上げた方が、ずっと救いになると思いますけれど」
よくしゃべる女だった。しかしイェースズは、その話の一つ一つを丁寧に聞いていた。
「救われるとおっしゃいましたけど、それは心が救われるんですよね。川で言えば、心は中流です。川下である肉体の救いにはならないんです。心が救われても、目が見えるようにはならないでしょう?」
「それとこれとは、別問題だと思いますけれど」
「いえ、それが同じなんですよ。残酷なようでも真実を知ってもらって、心よりももっと奥の、川上である魂を浄めてしまえば川中の心も、川下の肉体も救われていってしまうんです。究極の救いが、ここにあると思いませんか? 川中の救いはそこに止まってしまいますけれど、川上の救いは川下にまで及ぶんです。あなたは失礼ですが、神秘体験のお一つもされたことがないのではないでしょうか? 知らないということは、怖いことなんですよ。本人に責任のない病気なんて、一つもありません」
「病気を神様の罰だとお考えなのですか? そのお考えも、どうしても納得がいきかねますけれど」
「私は、そのようなことは申しておりませんよ。神様は大愛です。すべての人に愛と歓喜をお与えくださっています。そして人は、神様にとっては宝ともいえる神の子なんです。かわいくてしょうがないんです。なのに人間の方で神様から頂いた魂を汚し、濁らせ、包み積んできてしまいました。神様は大愛なるが故に、神の子がかわいくてしょうがないからこそ、その大愛のみ心で汚れた魂をお洗濯して下さるんです。それがいわゆる不幸現象なんですね。だから不幸も神様の愛の現れなんです。そういう関係がありますから、自分の罪を神様に徹底してお詫びし、感謝で乗り越えさせて頂ければ剰さえ前よりも増して魂がきれいになって、神様の御用もさせて頂けるんです。それが本当の救いでなくて何でしょう? 神様の大愛の中で生かされている私たち人類は、すべて本来は幸せにならないとおかしいんです。幸せとは、他人が幸せになることが究極的幸せなんです。そういう意味では、あなたも今、幸せでしょう?」
「はあ、ま、まあ」
女はようや口数を少なくして、うなずいた。
「自分の罪をサトッたら、まずは神様の御用させて頂ける自分に切り換える、そうやって罪がすべて消えたら放っておいてもひとりでに幸せになるんです。人間とは、最初からそういうふうに創られているんです。ですから、そういったことを相手に伝えて幸せになってもらう、これが本当の人救いで、最高の幸せですね。そして、一人一人が幸せになって、幸せもののみの世になることを神様はお望みですし、幸せになるということは人類の神様への第一責任なんです。そのために奉仕するのが神様の御用ですし、人救い、つまり人様を幸せにして差し上げることですね。神の光と神の正しい教えに今日また一人加わらしめたまえと祈って、そのために行動する。それが救いです。失礼ですが、心が癒されても病気がそのままなら、それは自己満足ですよ」
女は、どう答えていいかわからず、戸惑っていた。今までの自分なら反感を持っただろうけど、イェースズの言葉に乗っている黄金のパワーに、逆に目を覚まさせられたという感じだ。
「よろしい。問答無用、実際に体験して頂きましょう。いっしょにいらっしゃって下さい」
イェースズは路地を出た。目の見えない人は相変わらず同じ所に座っていた。
「あなたは、目が見えるようになりたいですか?」
イェースズはかがんで、目の見えない人に聞いた。
「そりゃあもう、目か見えるようになったらほしいものなんかないさ」
「そうですか。神様にお願いしてみましょう」
イェースズは天に向かってしばらく念じ、男の前頭部と後頭部に時間をかけて手からのパワーを放射した。霊流が目の見えない人の魂を包み、前世からの罪穢他魂の曇りを削ぎとっていった。
「さあ、目を開けてください」
「そんな、私は目が見えないんです。もうずっと前からです」
男は激しく首を横に振った。実はもう男の目は癒されていたのだが、自分は目が見えないという思いこみが強く、目を開けられずにいた。そこでイェースズは世間のまじない師がするのと同じように地につばを吐き、それで泥をこねて男の目の上に塗った。
「さあ、シロアムの池に行って洗ってきなさい」
そこからシロアムの池はすぐそばだった。男がよろめいて立ったので、慌てて女がそれを介護して池に行った。イェースズもシロアムの池に足を向け、使徒たちもついて来た。
ところがイェースズたちが池に着くと、そこはもうすでに大騒ぎになっていた。かなり大きな四角い池で、池の向こうは城壁の内側になっている。池に下る幅の広い階段は三段階になっており、池のほとりもかなり広いスペースで、ここがエルサレムの神殿巡礼者の待機所にもなっている。その池のほとりで、男が目が見えるようになったと叫んでいたのだ。そしてイェースズが入ってくると、先ほどの女がそのそばに近づいた。
「治ったんですよ! この方の目、本当に見えるようになったんですよ!」
先ほどは穏やかにイェースズをたしなめていたその女が、まるで狂ったように興奮しているのである。
「それはよかった、よかった」
そのイェースズの声を聞いて、さっきまで目が見えなかった男が近づいてきた。
「今のお声で分かりました。私の目を開いてくださったのは、あなたなんですね」
「私の力じゃありません。神様ですよ」
その時、池のそばにまたもやパリサイ人の律法学者が数人いるのをイェースズは見た。しかもしきりにこちらの様子を伺い、案の定そのうちゆっくりと歩み寄ってきた。その学者たちを目が見えるようになった男が指さし、イェースズに言った。
「私が目が見えるようになったと騒いでいたら、この方たちがそんな馬鹿な話があるかと毒づいてきたんです」
「さっきからこの人が言っている目を開いてくれた人というのは、あなたですか?」
学者の一人が、イェースズに尋ねた。だがイェースズが答える前に、男がしゃしゃり出た。
「この方こそ、神様から遣わされた預言者です」
「あっ!」
もう一人の学者が、突然叫んだ。
「こいつは前に神殿で暴動を起こしたガリラヤのイェースズだ!」
「何ッ!」
学者たちの顔が、急にこわばった。そして、まだ興奮している男に、イェースズを横目で見ながら言った。
「こいつは悪い人間なんです。神を冒?する新興宗教の教祖でしてね、こんなのにひっかからないように気をつけることですな。こいつの信者になったものは会堂から追放するというお触れも、今日になって出たばかりですからね」
そのお触れに関しては、イェースズは初耳だった。さもありなんとも思うし、また一抹の寂しさを感じなくもなかった。自分の名誉の前での寂しさではなく、あくまでも神の言葉を受け入れないで伝統と権威にあぐらをかいた既成宗教に対する寂しさでもあった。
「でもですね」
男はそれでも学者に食って掛かっていた。
「この方がいい人か悪い人かは存じませんけどね、私の見えなかった目が、今はこうして見えているんですよ。私はこの方に救われた、それだけは紛れもない事実ですからね。学者さん方はよくモーセの教えの話をされますけど、モーセの昔ならいざ知らず、今の世でモーセに見えなかった目を開いてもらったなんていう人、いますか? でも私は、この方に眼を開いてもらったんです」
そんなやりとりをそばで聞いていたイェースズだが、学者ではなく目を開いた男に向かって言った。
「あなた目を開いて下さったのは、神様なんですよ。神様を信じてくださいね」
「こんな私なんかに、何で神様はそんな奇跡を?」
「あなたは神様とご因縁があるんです。あなたも私も、すべての人は神の子ですから。でも、自我に打ち勝ったものが真神の子です。そうなった時に、神の子の力が蘇るのです」
「信じます。信じますとも」
「さっきまでのあなたのように肉眼の目を開けなくても、霊の眼を開けば肉の目も自ずから見えるようになります。でもですね、なまじっか肉体の目が見えるばかりに、肉の目で見たことがすべてだと思い込んで、霊の目が盲目になっている方が多いんですね」
イェースズはちらりと、学者たちの方を見た。
「それは、我われのことか。我われが盲人だとでもいうのかね」
「肉の目にだけ頼って、それがすべてだなんて考えると間違えますよ」
学者たちは返す言葉が見つからず、唇をかみ締めていた。
祭りの期間が終わっても、神殿は地方からの巡礼者でいつも人が絶えなかった。何しろイスラエルの民ならば、たとえディアスポラであっても少なくとも一生に一度はエルサレムの神殿に巡礼することになっている。だから、エルサレムの市街にいる人々も必ずしも住民だけとは限らず、流動的であった。そして、全体との比率からすればごく少数ではあるが、イェースズの信奉者も流れ込んでいる。
イェースズはこのころベタニヤのゼベダイの家に寄宿し、エルサレレムへは通う形で出向いていたが、信奉者たちはイェースズがどこで寝泊りしているのかは知らない。それでも不思議なネットワークがあって、イェースズがエルサレムに入るとどこからともなく情報が伝わって人々が集まってくる。それでも、ガリラヤの時のような大集団を形成することはなかった。
この日もイェースズは最初に奇跡を行ったベトサダの池のそばの少し高くなっている所に立ち、求めに応じて話をしていた。その周りを信奉者が数人群がり、さらにはたまたま通りがかった人が好奇心から足を止めて、その話を聞いていくこともあった。その中の数人ずつ、信奉者がまた増えていく。
「皆さんも聞いてください。神の子羊の牧場は、高い壁で囲まれています」
イェースズは近くの第一城壁を指差した。そこには羊飼いの門がある。
「羊飼いがあの門から入るから、羊飼いの門っていうんですよね。あの門は東向きです。光は、東方からさすんですね。でも、私は羊飼いですって言いいながらもあの門から入らないで、城壁をよじ登って乗り越えて入ってきたら、それは何ですか? そう、盗賊ですね」
通りがかりで足を止めた人々の想念も、イェースズには手に取るように分かる。
――何だ? この人は。
――また何かの新興宗教か。
――世の中には、いろんな人がいるもんだ。
中には――危ない、危ない。かかわらない方がいい……
と、ほんの少し話を聞きかじっただけで立ち去ってしまうものも多い。
イェースズはそのようなものを全く気にもせず、話を続けた。
「私はよい羊飼いなんです、なんて町中で突然演説を始めた得体のしれない男の話を、なかなか皆さんまともに聞こうとはしない。それはそうですね。当然だと思います。しかしですねえ、よい羊飼いというものは、羊のためには命さえ捨てるんですよ。この中に、羊飼いの方はいますか?」
人々は、静まり返っていた。
「いらっしゃらないようですね。いらっしゃったらそのへんのことを、そうですよねと聞きたかったんですけど。ま、それはとにかくとして、皆さんが光に接するためだったら、私は命をも惜しみません。それに、イスラエルという名の牧場の外にいる羊にも、私は関心があります。世間にはいろんな牧場がありますけど、そこの羊飼いを雇っている雇い主が、狼が来たら自分だけがたちどころに逃げて羊が食い荒らされても知らん顔していたりしたら、皆さんどう思います? 要は、自分たちの利益のために真理を捻じ曲げるのは、門から入らなかった盗賊と同じですよね。雇い主は自分たちの利益、伝統や権威、そんなものの方が羊よりも大事なんですね。羊飼いの方も、金目当ての労働者ですよ。同じ神の教えを説いても生命をはって羊を牧しているか、労働者として自分が食べていくためにだけ働いているかの違いでしょう。ひと言で羊飼いといっても、そのどちらなのかを見分ける必要がありますね」
「ちょっと待て!」
またもや律法学者がいて、イェースズの話を制止した。そして、人々に向かって言った。
「皆さん、これがあの神殿で暴行事件を起こしたあのイェースズですよ」
人々の顔がこわばり、それだけで去っていくものも多かった。それに追い討ちをかけるように、
「この男は、悪霊がとり憑いています」
と大声で学者は言った。人々も、どこの馬の骨とも分からないような田舎ものと自分たちが普段から敬慕している律法学者の言葉とでは、どちらを聞くかと言えば後者を選ぶ人の方が圧倒的に多いはずだ。常識的に考えてもその通りである。しかし、イェースズにかかわったら会堂からの追放というお達しも気にせず、イェースズについてくるものも少しずつ増えていた。
季節は移り、すっかり木枯らしが吹く頃となって、空気も湿っぽくなっていった。いよいよ雨季である。
イェースズの信奉者が増えるたび、カペナウムでそうであったように彼らが集団化し、定住するのをイェースズは恐れた。教団を作るつもりはないという考えは、今も変わっていない。しかしそれよりも、エルサレムの近くで集団化するということは、より危険であった。反ローマの武力蜂起も後を絶たずにローマ当局もいらいらしており、そんな時に集団を形成すれば痛くもない腹を探られることになる。神理を守るためなら危険をも厭わないが、神理を守れなくなる危険は避けねばならなかった。だからイェースズはいつも彼と共にいる七十人ばかりの信奉者には、かつて使徒たちにそうさせたように、二人ずつ組にして地方へ伝道旅行に行かせた。決して追い払ったのではなく、そういった練成が魂の向上にも必要であることをイェースズは知っていたからだ。
そうしてローマ暦での年の瀬も近づいた。ユダヤ暦では第九の月だが、そのころに奉殿祭がある。エルサレムの大祭の一つで、この頃から二百年ほど前に異邦人アンティオコス・エピファレスがエルサレム神殿に偶像を置いて汚したのに対し、マカベヤのユダがそれを除去して宮浄めをしたことを記念する祭りで、神の不意の援助を象徴するために灯される多くの明かりのため、聖火の祭りという別名もあった。
イェースズは、一人で神殿に上がった。使徒たちも、信奉者と同様に伝道の旅に出しているからである。そしてイェースズが異邦人の庭に上がるとすぐに、向こうから律法学者数人がこっちへ向かっていた。すでに律法学者の間では、イェースズはかなり有名になっているようだ。
「あんたはいつまで、我われに気をもませるんだ。自分が救世主だと思っているのなら、はっきり言ったらどうなんだ」
その学者は初めて見る顔なのに、もうよほどイェースズについてはうわさや報告によってまるで熟知している相手のような感覚でいるようである。イェースズも立ち止まり、笑みを浮かべて穏やかに言った。
「あなた方は残念ながら、私が何を言っても信じてはくれないようですね。証拠を見せろとおっしゃるから、神の業による奇跡をお見せしても、信じて下さらない。なかなか波調を合わせて下さらないので残念です」
「おまえは永遠の命だの決して死なないだの、馬鹿なことばかり言っているではないか。それで信じろという方が無理だ。奇跡だって、何かしかけがあるに決まっている」
「言葉だけで信じろといっても、それは無理でしょう。神様も今の世の人々の頑なな心をよくご存じだから、証の神業をお下しになったのです。ですから火と聖霊による洗礼をお受けなさい、自ら体験してご覧なさいと言っているのに、あなた方がそれを拒むんじゃないですか。もったいない話です。神秘体験の一つもなくて、神様のミチはサトれませんよ」
「その業というのが曲者だ。そうやって洗脳して、心を操って、目の前のご利益を売り物にして、自分たちは選ばれた人々だ、人類を救う使命があるなどということを植えつけて離れなくしている手口は、偽預言者や異端の邪教の共通の手口だ。それと全く同じじゃないか。おまえの弟子が奇跡の業かなんか知らないがそんなものを施して全く治らず、医者にかかるのが遅くなって命を落とした人もいるという報告も来ているぞ。おまえの弟子はそのことを責められると、奇跡の業は病気治しが目的ではないとか何とか言って逃げたそうじゃないか」
どうもこのパリサイ人という人種は、なかなか理解してくれない。しかしイェースズは、想念の上からも全く責める気にはなれなかった。
「それは深くお詫びします。申し訳ありませんでした」
イェースズが詫びたのは、使徒の不徹底ばかりではない。神の使命を受けた自分にここまで逆らってくる相手というのは、前世で自分がよほど迷惑をかけたに決まっている。あるいは、前世の自分がこのものを神のミチから引き離した張本人なのかもしれないと、イェースズは心の底から申し訳なさがこみ上げてきたのだ。だから言葉で相手に詫びるだけでなく、瞬間的に念じて神に詫びていた。だが、今の自分の使命は使命である。そこは毅然といかねばならない。
学者は、まだ息巻いていた。
「だいたい我われに邪教の入門儀式を施そうなど、だいそれた言いようにはあきれてものが言えない。我われは、律法学者だぞ」
「あなた方の聖書に対する知識には感服致しますし、尊敬もしております。でも申し訳ありませんが、それらは書物で得た知識にすぎないのではないでしょうか。私が施す神のみ業を体験すれば、ご神霊のみ働きや神様の御経綸、万霊の暗躍、幽界の実相のことなどが手に取るように分かるんです。つまり、霊もピチピチ生きているということが、自らの体験として感得できるんです。私がいう永遠の命とは、このままの肉体で永遠に生き続けるということではありません。肉体はいずれ死を迎え、朽ち果てます。でも、その中に入っている魂はこの世とあの世を行ったり来たりして、生き代わり死に換わりして生き続けるんです。永遠の生命とは、そのことですよ。肉体の死というのは魂があの世へ行って出直してくることで、向こうでは誕生です。つまり、次の人生への出発点ですね」
「何を素人が妄想を語っているのだ。そんなこと、聖書のどこにも書いてないじゃないか。だから、おまえは異端者だというのだ。我われは正統なモーセの教えの学者なのだぞ」
「その正統と称される方々が好んで使う異端という言葉は、偏見の所産ですね。何が正統かなどということは、神様だけがご存じなんです。善悪の判断というものは神様の権限で、本来は人間には許されてはいませんよ。教えでいうと、すべての教えは正統ですけど、皆それぞれが神理の欠片ということです」
「カケラだと? 我われイスラエルの民が奉じる神殿も、モーセの教えもおまえはカケラだと言うのかッ!」
「絶対で完全なのは、天の御父の神様だけです。私はその神様の直接のお示しで語っていますから、神様と一体なんです」
イェースズは律法学者の群れに対してだけでなく、その場に集まっていた人々にむしろ語りかける口調で話していた。イェースズの自信ありげな笑みに、学者たちはすごい剣幕で詰め寄った。後ろにいた若い学者が、前に出てイェースズに言った。
「あなたの経歴は調べてあります。あなたはもともとヨハネ教団の幹部だった人でしょう? あなたが話していることは、ヨハネが話していたことと同じです。ほとんど瓜二つといっていいくらいですね」
「やはりな」
最初の学者が、またいきりだしはじめた。
「おまえの話す内容は、ヨハネ教団からの盗用だったのだな」
また若い学者が、イェースズを見た。
「そもそも、そのヨハネ教団というものが、エッセネ教団から分派独立したものですね。源流はエッセネにあって、あなたの教えはその流れを汲んでいる訳です。つまりエッセネ教団から分派独立したヨハネ教団の幹部だったあなたが、さらに分派独立したって訳ですね」
最初の学者は、ますます目を吊り上げた。
「おまえはそのような経歴を、なぜ隠す。経歴詐称ではないか。そうやって民衆を騙して、手なずけているんだろう」
イェースズは落ち着いて、穏やかに言った。
「何も隠してはおりません。言う必要がないから言っていないだけです」
「だいたいエッセネというのが、異端の邪教じゃないか。このエルサレムの神殿を奉じる教えの一派のように人々は思っているけれど、実はエジプトに源流を発するものなのだ。ヨハネ教団とて危険集団としてガリラヤのヘロデ王に殲滅させられ、教祖のヨハネは投獄されたあと首をはねられたのだったよな。その危険集団のヨハネ教団からの分派なら、それもまた危険集団」
さすがに学者だけあって、いろいろなことに詳しい。だがイェースズはたじろぎもせず、あくまで温和に言った。
「私が教えているのは、神様の直接の神示に基づくものでしてね、何々派なんていう一宗一派の教えではないんですよ。神様のみ意のまにまに、人々を救って歩いているだけです。あなた方はそのうちのどの奇跡がお気に召さずに、私に毒づいてくるんですか?」
「奇跡のことではない! おまえは神を冒?した。おまえは今、自分が神だと言った」
イェースズは、心底困ったという顔をした。
「私は自分が神だなんて、ひとことも言っていませんよ。全世界全人類が等しく神の子である訳ですから、わたしも当然神の子ですし、神様と一体になっているとは言いましたが、私が神であるなんて言っておりません。誤解しないで頂きたいですね。私の教えが真実神様のお示しだということは、私の奇跡の業を見て下さい。私のことは信じなくても結構ですから、せめてその奇跡の業は信じてください。それだけでもあなた方は光に包まれ、魂が開いて、神様のご実在をサトることができるんですよ」
「神様なら、御神殿におわしますではないか」
「私が説いているのは観念の神ではなく、ご実在して活躍されている神様です。神様はモーセにその御名を、『在りて有るもの』とお示しにならたではないですか。全くその通りでして、神様は厳として実在し、力を有しておられる方なんです。その神様のみ光を頂かれませんか?」
イェースズが学者たちに向かって手をかざそうとしたので、
「わ、分かった。今日のところはそれでいい」
というと、学者は皆足早に逃げて行った。
そうこうしているうちに奉殿祭も終わり、伝道の旅に出ていた信奉者たちがベタニヤに戻ってきた。そんな使徒たちに、イェースズは言った。
「あなた方には奇跡の業があるけど、ほかの人たちにはそれはない。だから、なかなか厳しいところがあるだろう。あなた方はものすごい力を賜っているのだからまずそれに感謝して、感激しないと嘘だ」
「はい、確かに」
と、ペテロが意気軒昂に答えヤコブがそれを受けた。
「奇跡を見せてしまうと、言葉だけで説明するより早いですね。救われの事実を見せてしまえば、あとは黙って話を聞いてくれます」
「やはり神理は、体験しないと分からないものですね」
とトマスが言って、イェースズはうなずいた。
「奇跡の業と神様の教えは車の両輪みたいなもので、どちらが欠けてもいけない。前にもそう言ったけど、それは本当だっただろう?」
使徒たちは、一斉に明るく返事をした。
エルサレムはガリラヤよりも南であるのに、冬は寒い。しかし日中は真冬でも凍えるほどの寒さを感じることはないが昼夜の温度差が激しく、その夜は一段と冷え込んでいた。イェースズを含めた十三人はゼベダイの家で暖炉を囲んで暖をとっていたが、夜更けになって玄関のドアを叩く音がした。
「あ、来られたようですね」
ペテロが立ち上がってドアの方へ行く。すでに主人のゼベダイが応対に出ていたが、ペテロがその来客をイェースズたちのいる部屋に伴ってきた。頭のはげた老人だったが、服装は律法学者のそれだった。
「先生、お見えになりました」
この学者の来訪については、昼間のうちにイェースズはペテロから聞いていた。ペテロの妻の伯母の夫ということで、数日前にペテロが尋ねていったところ、どうしてもイェースズと会って話が聞きたいと頼まれたということだった。
「どうも、イェースズです。どうぞお座り下さい」
「これは恐縮です」
この老人は普通の律法学者のような居丈高な様子もイェースズへの敵愾心も全くないようで、イェースズも心を許してニコニコしていた。
「どうも。ニコデモといいます」
座りながらニコデモと名乗った老学者は頭を下げ、足を横に投げ出した。
「あなたのことは、ペテロから聞いています」
「妻のマルタの姪がこのシモンの嫁さんでして、あ、今はペテロというんでしたな。そのペテロの婚礼の時以来、ペテロとは親しくお付き合いをさせて頂いています」
「そうですか。ペテロにあなたのようなお身内がおられるとは、今まで存じ上げませんで失礼を致しました」
「ところで先生」
ニコデモは、身を乗り出した。律法学者であってイェースズを師と呼ぶ人は珍しい。
「我われパリサイ人の間では、先生は悪魔の手先のように言われてるんですがね。あ、どうぞお気を悪くなさらないで。中には私のようなのもいますから」
ニコデモは相好を崩しながら話し続けた。
「ただ立場が立場でしてね。私は律法学者であると同時に、最高法院の議員もやっていますから」
これには、そこにいた全員が驚きの声を上げた。最高法院といえばローマ支配下では、限定されたとはいえユダヤ人自身の手による独自の行政立法機関である。
「それはそれは」
イェースズでさえ、目を細めた。
「それで民衆に混ざってあなた様の演説をお聞きするわけにもいかないし、昼間にここに着くのも失礼かと存じましてこんな夜分に失礼しました」
「それは、わざわざ有り難うございます」
「先日、私の仲間の学者があなた様を捕らえるために、役人を使わしたんですけれども、手ぶらで戻ってきたんですよ。役人たちはあなた様の話がすごいすごいとうるさいほどでした。そうしたら私の仲間の学者からすごい剣幕で怒鳴られまして、あなた様についてきているのは教育も受けていない無知の連中ばかりで、学者や祭司は一人もいないということだですが。そこで私は、まず直接本人の話を聞いてから判断を下すべきだといっておきましたがね」
ニコデモは高らかに笑った。
「そうしたらやっこさんたち、私に食ってかかりましてね。私もガリラヤ出身なものですからそれで肩を持つんだろうと言われて、さらにガリラヤからは救世主どころか預言者の一人も出たことはないって言うんですな」
ニコデモはまたからからと笑い、イェースズも微笑んだ。
「ガリラヤから預言者が出ていないなんて、それはうそですね。ヨナやノフムはガリラヤの出身でしょう」
「そうです、そうです。それを言ってやりたかったけど、面倒だからよしときました」
また部屋の中にニコデモの笑い声が響いた。
「ところで、私のどのような話をお聞きになりたいのでしょうか」
「そうそう」
ニコデモは居を正した。
「私は私の仲間から言われて、あなた様を調べにきた分けではありませんので」
「そうですか」
相手の想念が読めるイェースズは、もとよりそのような誤解はしていなかった。
「実は、どうしたら救われて、神の国に入ることができるか、これなんですよ。何十年と律法に取り組んできましたけれど、どうしても答えが出ませんでしてね」
「まず、新しく生まれなければならないでしょうね」
「新しく生まれる?」
ニコデモは少し考えた。
「いやあ、ガリラヤ人の癖ですなあ、そういうたとえめいた言いまわしはね。私はこのユダヤの地に長いもので、ユダヤ風の直接的言い方に慣れてしまっているんですよ」
イエースズとて、ガリラヤを離れて久しかった。それなのに自分の中にガリラヤ人の特性を指摘されて、少々くすぐったくもあった。そこで彼は照れ隠しに少し笑い、ひと息入れてから言葉を続けた。
「新しく生まれるっていうのはですね、一切の自分を捨てて、すっかり生まれ変わってしまうことなんですよ。そういう意味で私は言ったんです。いいですか、自捨新生、これこそが神の子として復活する第一歩なんです」
「自捨新生?」
「ええ、自利を捨て、我欲を捨てて、新しく生まれ変わることです」
「そんなねえ、生まれ変わるって言ったって、もう一度母親の胎内に入れって言われるんですかね。私ゃこんな老人なのに」
どうもニコデモは分かっていない。そこで優しく諭すように、イェースズは言った。
「私が言っているのは肉体的なことではなくて、霊的な話をしているんですよ。人の霊魂は生き代わり死に換わりして、この世とあの世を行ったり来たりしているのですよ。この世で肉体だけあっても、そこに霊が入っていなければ人として成り立ちませんね。肉体が水だとすればそこに火である霊が入って、火と水が十字に組まれてはじめて人といえる訳です。その自覚が、神の国に入る第一歩だと思いますよ。人間は赤ちゃんとしてこの世に生まれ出た時は何も分かりませんけど、次第に肉体がある自分だとサトっていくでしょう? それが、この世での最初の自覚ですね。ところがそこで止まってしまって、自分が肉体だけの存在としての自覚しかなかったら、その人は永遠に肉の子ですよ。それだと、神の国に入るのは難しいのではないですか。なぜなら、この世が物質的な世界であるのと違って、神の国は霊的な世界ですからね。だから、霊的な自分を自覚しないと神の国には入れないと思うのです。神様から頂いた魂が、ここ」
イェースズはそこで自分の額を軽くぽんぽんと叩いた。
「ここに入っている訳ですよ。つまり、自分は神様の分魂を入れて頂いている神の子霊止なんだという自覚が大切なんじゃないでしょうか。そういう自覚に至れば、一切の目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れるものがすべてであるという考え方から抜け出せるんですね。つまり、そうして五官に振り回された物質を主体とする想念を捨てて、目に見えない霊が主体であるという霊主の想念に転換していくこと、それが自捨新生というのです。ちっぽけな自分を捨てて、我利我欲、執着、物質欲、名誉欲などという自己中心の想念を捨てて、霊を主体とし、神様中心に、神様とつながっている自分の魂を中心にする人に切り換わることなんです」
「そんな、霊とか何とか言っても、見に見えませんからね。今ひとつ実感がわかないのです」
「では、目に見えないものがすべてないと断定できますか? 霊は確かに目に見えません。でも、音は聞こえるでしょ」
「は?」
ニコデモは、一瞬首をかしげた、イェースズは笑った。
「ほら、ピューピュー吹く風のことですよ」
ニコデモは、イェースズの同音異義語による言葉遊びに気がついてうなずいた。
「ルアッハ(風)は目に見えないけれど、でもルアッハ(風)というものの存在を疑う人はいないと思います。だからもうひとつのルアッハ(霊)が目に見えないからないなんて言うのは、未開文明人の論法と同じということになりますね」
「はあ」
一応ニコデモはうなずきはしたが、その顔はまだ完全には納得がいっていないようだった。
「イスラエルの民を霊的に導く職に就いているあなたには、分かってもらわないと困るんです」
そう言って、イェースズはまた笑った。
「神様に仕える本職である方々が、失礼だが霊的なことに全く無知になっておられる。まず、あなた方が目を開いてください」
「目を開くためには、どうしたらいいんですかねえ」
「火と聖霊の洗礼を受けてください。それによってはじめて霊が主体であることをサトることができるんです。今の世はまだ水の世なんですけれど、私と私の使徒たちは、他に先駆けて火の洗礼の業が許されているんです」
イェースズは、ニコデモの背後に回った。そしてニコデモの後頭部をさぐり、そこに高次元パワーを手のひらから放射しながら話を続けた。
「人の魂は神様から頂いた分魂、つまり神様の生命の息が入っているわけで、それこそが真我なんですね。それは大いなる宇宙意識の一部ですし、人の魂はそれゆえにこそ神魂に永遠につながっているんです。その意識体のみが神の国に入れるんです。魂こそが本当の自分であって、肉体はこの世という物質界で魂が生きるための乗り船、つまり入れ物にすぎないんですね」
ニコデモはうなずいた。イェースズは話し続けた。
「宇宙には大法則がありましてね、それで一切が統一運営されているんです。その神の置き手といいますか万象弥栄の法といいますか、私はそれをよく知っているんです。つまりそれは、こうすれば必ずこうなるといった法則なんですね。それは大千三千世界の大調和の法則でして、私はそのことを人々に教え、大調和の法則と一体になってもらって光の中に人々を連れて行く、そのために活動しているんです。ですから、悪い因縁には悪い結果が必ず訪れるんですけど、光で悪が暴かれるのを恐れて、今世の人々はなかなか光の方へ来ないんです。邪霊も光を嫌がりますからね。でも、本質はみな、光を求めているんですよ。なぜならこの世のすべての人は一人の例外もなく、等しく神の子だからです。本霊は、神を求めているんです。ただ、お邪魔が入っているだけなんですね」
それだけ言うとイェースズは、ニコデモの正面に回った。そして、目を閉じさせてその額に霊光を放射した。
数日後、イェースズは使徒を連れてエルサレムに向かった。オリーブ山を旋回し、ゲッセマニの園を経て谷に降りると、神殿の壁はとても高く感じた。そして神殿の東南角、つまり神殿の頂を見上げるあたりを過ぎた時に、土が露出する地面にぽつんとイチジクの木があった。だが、もはや木とはいえないくらい、根本から腐ったように枯れていた。それを見たトマスが、声を上げた。
「確か前にここを通った時、先生はのどが渇いておられたのにこの木に実がなかったから、実がならない木は枯れてしまえとおっしゃいましたよね」
イェースズは立ち止まって、笑みを含めて言った。
「植物は敏感なんだよ」
使徒たちもイェースズにつられて立ち止まり、イェースズに視線を向けた。イェースズは枯れた木のそばに立って、話を続けた。
「言霊に敏感だってことだ。ああいうふうに冗談半分で、しかももののたとえとして言った言葉でも、敏感に反応してしまう。植物を育てる時は『がんばれよ』とか『元気で育ってくれよ』とかいうようないい言霊をかけてあげることが大切なんだ。植物に限らず、いい言霊、きれいな言霊、明るい言霊を発していれば、自然と運命もいい方向に、明るい方向に変わってくる。みんなも、神様から枯れてしまえと言われないように、しっかりと教えの実践の実をつけてほしい。神様のみ言葉の威力はすごいよ。光あれで本当に光が現れたんだからね」
イェースズは大声で笑い、使徒たちも感心してともに笑った。
「いやあ、本当ですね」
ペテロが、感嘆の声を上げた。
「この木には、かわいそうなことをした」
イェースズは枯れた木に向かって手をかざし、
「また元気になって、たくさん実をつけて下さい」
と言葉をかけた。するとみるみる枯れていた木が反応して枝をほんの少しばかり上に上げた。使徒たちはまた、一斉に感動の声を上げた。
「もうこの木は大丈夫。次にここを通る時はもとの繁った木になっているよ」
木の反応からして、そのイェースズの言葉は十分現実味を帯びたものとして使徒たちには聞こえた。
イェースズは再び歩きだした。歩きながらエレアザルがイェースズの脇に来た。
「でもやはり、先生のお言葉だから威力があるんでしょう?」
道は石段の続く上り坂となり、その上には城壁が横たわっていた。イェースズは笑顔のまま、前を見て歩きながら言った。
「言葉の威力、言霊は私だけのものじゃあない。あなた方だってあるし、特にあなた方は胸のメダイによって神様と直接霊波線を結んで頂いているのだから、言霊の力もそうだけど、祈りの言葉もスーッと神様に通ずる。だから、祈る時はもう神様には聞いて頂けた、かなえて頂けた、これで実現すると思うくらいの信念と絶対の信頼感を神様に対して持つことが大切だ。たとえ、山に向かって動けというようなことだったとしても、念の力が強ければその通りになる。でもだね、神様にもご都合というものがあるんだよ。また、時期というものもある。それを忘れちゃいけない。人間からの一方的なわがままな要求を神様につきつけるのが祈りだと思ったら、大間違いだ。第一に、神様と波調が合った祈りでないといけない。神様からご覧になってもっともだという祈りなら、神様は必ずかなえて下さる。でもそうじゃなかったら、神様はいらない、うるさいとおっしゃるだけだ。他人の血のついた手で祈ったりしたら、神様には御無礼だってことは分かるだろう。そんな逆訴になるような祈りはいけない。人が神様に対して祈りがあるように、神様にも人類に対する、もっともっと切実な祈りがある。それをちゃんと汲み取る事も大事だ。祈りとは、神様と意を乗り合わせること、波調を合わせることだ。それなのに、神様からの人類への祈りには全く耳を貸さずに、自分のご利益信仰的な願い事ばかり祈って、神様にもご都合があってその時すぐにかなえられなかったらもう『神様なんているもんけえ』となってしまったのでは、何をか言わんやだよね」
城壁が目の前に立ちはばかるようになるまでに、一行は登ってきていた。石段が城壁にぶつかる所にあるのが泉の門だ。ここから町に入り、ソロモン時代からの旧市外であるダビデの町を通って、一行は久々に神殿に上がった。
十二人に囲まれて歩いているイェースズは、それだけでもずいぶん人目を引いた。そして目ざとくイェースズを見つけたいつもの常連さんの律法学者が、早速イェースズを取り囲んでくる。イェースズは立ち止まることを余儀なくされ、その左右に使徒たちが固まった。学者たちのしつこさはあきれ返るほどで、今日は学者四人のほかにサドカイ派の祭司も一人いた。これもまた伝統と権威の権化である。その権化の一人が、イェースズに尋ねた。
「今日こそは答えてもらおう」
相変わらず、居丈高だ。
「おまえはいったい何の権威があって、人々に教えているんだ」
「そうだ、そうだ」
と、別の学者も口をはさんだ。
「いったいどこで勉強した? 何の資格を持っているといるのか。身分は何だ」
イェースズが答えずに、ただ微笑んで黙って立っていると、
「気持ち悪いぞ。何か言ったらどうかね。答えられないのだな。当たり前だ。おまえは素人だからだ」
「それに」
さらに別の学者も身を乗り出す。
「この庭から商人を追い出したそうだが、そんなことをする権限を誰がおまえに与えた?」
「あのう、こちらからもお聞きしますが」
イェースズはやっと穏やかにそう言った。
「あなた方は、何の権威があるんですか?」
「なにっ!」
目をつりあげたのは、学者たちも祭司も同時だった。
「それは我われに対する侮辱か? 我われは正統な聖職者だ。そんなことは分かりきっているだろう」
「正統、ですね?」
「当たり前だ。おまえのような異端とは違う」
「そうですか」
イェースズはどこまでも柔和な笑みを見せていた。
「神様からご覧になれば、正統も異端もないと思うのですけど。すべて真理の峰を目指す道で、ただ登り口が違うだけなんじゃないですか? 真理の峰はただ一つでしょう? 伝統と権威は、真理の前にはつまずくものです。それに神様の御経綸も、日々進展しているのですよ。それなのにあなた方は変わろうとしない。自ずからそこには、限界があるんじゃないでしょうか」
「なんだと!」
学者たちは一歩前に出た。今にもイェースズにつかみかからんばかりの勢いだったので、使徒たちはイスカリオテのユダやシモンを先頭にさっとイェースズの前に出て、師を守る形になった。
「断固として守らなければいけないもの、変えてはいけないものもあります。でも、御経綸の進展に伴って変わっていくものもあると思いますけど」
そう言いながらイェースズはそんな使徒たちを後ろにやり、前に出た。
「もう一つ、お伺いしてよろしいですかな? それにお答え下さったら、私も自分が何の権威によって人々に話をしているかお話しましょう」
「何を聞くというんだ」
「かの洗者ヨハネは何の権威でもって人々に教え、洗礼を授けていたんでしょうか」
「そんなの、決まっているじゃないか」
と言って一人の学者が前に出たのを、後ろから祭司が腕を引いた。そしてその耳もとで、
「まずいですぞ」
と、ささやいていた。
「この男はかつて、ヨハネ教団の幹部だった男だ。ヨハネの権威が人知によるものだなどと言ったら、この男を信奉している民衆が騒ぐ。ガリラヤでは今でもヨハネ崇拝は根強くて、その中のかなりの部分がこの男の信奉者として流れている」
「そんなの、どうでもいいではないですかね」
二人は、ひそひそとやり合っていた。
「いや、民衆を敵に回しては、民衆を教え導くという我われの立場がなくなる」
「でも、それでは神から与えられた権威だったとでも言えって言われるのですか。そんなこと言ったらヨハネを正統と認めることになり、我われがなぜヨハネを崇敬しないのかと問い詰められるに決まっているでしょ」
「まあ、ここはわしにまかせなさい」
そんな肉の耳には聞こえないひそひそ話のやり取りも、イェースズには想念を読み取ってすべて筒抜けになっていた。そしてそれは、もともとイェースズが目論んだ通りの展開になっていた。
祭司は、一歩前に出た。
「答えは出ない。分からぬ」
これが、祭司の答えだった。イェースズは笑った。
「それでは答えになっていませんね。では私も、自分の権威についてお話はしません。あなた方は知っているくせにごまかしている。まあ、逃げたわけですね。私は逃げませんけれど、でもあなた方のような方には私の権威について答える必要はないでしょう」
ここで自分の神啓接受や霊界・神霊界探訪のことなど話しても、豚に価値ある真珠を投げてやるようなものだとイェースズは思っていた。それは無意味を通り越して、有害でさえあった。豚に真珠を与えたら、逆に噛みついてくるのである。
「ちょっと待て!」
それまで黙っていた最後の若い学者が、口を開いた。
「答えるだの言うの言わないのと言っているけれど、ありもしない権威なのだから、語るに語れないはずだ。すべてが妄想でしかないのだからね」
最初の学者が、その言葉を受け継いだ。
「それよりも伝統や権威をないがしろにし、我われ律法学者をも軽んじたのは問題だ。我われはきちんと神殿に生贄を捧げ、祈りをしている」
「確かに、形だけはご立派です。お聞き下さい。昔、二人の息子がいる人がいましてね、その人がその長男にぶどう園で働けって言ったんですね。すっると長男は『はい。分かりました』と実にいい返事をしたんですけど、返事ばかりは立派でいつまでたってもぶどう園へ行かない。働く気なんかなかったんですね。そこでその人は次男の所へ行って同じように言いますと、次男は行くでもなければ行かないでもなく、つまりろくな返事はしなかったんですけど、実際にはぶどう園へ行って働いていたんです。どっちの息子が、父親の心にかなっているでしょうかね」
「それがどうした? 何が言いたいのだ?」
学者たちは威勢よくイェースズに迫ろうとしていた。使徒がまたイェースズの前に出ようとし、相手も祭司が学者たちをけん制していた。そしてその祭司が、
「次男の方ですな」
と、学者たちに代わって答えた。イェースズは、ニッコリと笑った。
「あなた方は形の上ではたいへん立派なんです。立派に神様を敬っておられる。確かに、まずは形から入ることも大切です。でも、そこで止まっていたら、神様の律法に背いたということであなた方が罪びととしている収税人や娼婦の方が、先に神の国に入ってしまいますよ。そういった人たちの中には、ヨハネを信奉していた人も多いですしね、私がお伝えさせて頂いている真理の教えで改心した人も実際問題として多数おりましてね。それよりもう一つ、ぶどう園と言えば地主、ぶどう園、小作は何を意味するかご存じですよね」
「当たり前だ。あまり我われをばかにするな。そんなのは子供の頃から聞いていたたとえ話じゃないか」
「ところが地主が旅に出て、そして収穫の時にぶどうの実を集めるため、召使いをぶどう園に送ったら、なんとその小作人たちは何を思ったのかその召使いを殺してしまったんですよ。そこで別の召使いをぶどう園に送ったら、小作人たちはばれないようにうまくやって次々に召使いを殺してしまったんですね」
「そんな馬鹿な話はあるかい」
と、一人の学者がチャチャを入れたが、構わずイェースズは話し続けた。
「いや、実際にあったことなんですよ。もっとも、本当のぶどう園での話ではなく、地主は神様、ぶどう園はこの世で、小作とは我われ人類のことですよね。それでぶどう園に何人も召使いを送っても帰ってこないので、地主はとうとう自分の大事な一人息子をぶどう園にやったんです。でも、小作たちはそれをも殺そうとしたんです。地主は普通、どうしますか?」
祭司が、目を見開いてイェースズに言った。
「そんな小作人は追放するだろう」
「そうでしょ」
「『詩篇』にもありますよね。『家を建てるものたちが捨てた石が、角の礎石となった』ってね。わたしの父は大工でしたからよく分かるんですけど、自分たちは選ばれた民だなんて安心していると、今にとんでもないことになりますよ。あなた方が私を捨てても、私がお伝えさせて頂いている神の教えは、いつか人類の礎石になるんです。『これは神様のなさる事。私たちの目には不思議な事』とも詩篇には書いてありますね。そこでさっきの話ですけど、息子どころかやがて地主本人がぶどう畑にお出ましになる、そんな天の時が近づいてきているんですよ」
「おまえの話は、われわれへの最大限の侮辱だ。んん、けしからん! 覚えておけ」
学者たちは鼻息を荒くして捨て台詞を残し、祭司の腕を引いてイェースズから離れていった。
イェースズは逗留しているベタニヤから至近距離のエルサレムにはたびたび通っており、エルサレムに行けば必ず神殿の見える広場に行った。エルサレムの人々を教化する場所として、彼はそこを選んだのである。イェースズの信奉者もエルサレムに集まってきてはいるが、何しろ彼らはイェースズがどこに逗留しているのかも、いつエルサレムの広場に現れるのかも知らない。それでもイェースズが広場に行けば信奉者は何人かいたし、それは日に日に増えていっていた。中にはイェースズが現れるのを待って、毎日ここに通っている人もいるようだ。さらにそこは神殿への巡礼の参拝者もよく通る所なので、イェースズの説法に足を止める人もいた。そういった人々からすればたまたまそこを通りがかった時にたまたまイェースズが話をしていたということになろうが、それはあくまで現界的な考えで、すべては因縁であることをイェースズは知っていた。その証拠に、最初はたまたま通りかかったという人も、そこに信奉者として定着する人も増えてきていたからだ。
「みなさん」
イェースズはこの日、そのことについて話をするつもりでいた。だが、話をする内容は事前に考えているのではない。実際、いつも話を始めるまで内容は何も考えてはおらず、それでもひとたび人々の前に立って口を開くと、話すべき言葉はすべて神が与えてくれる。自分はただ口を開くだけであり、言うべきことはすべて彼の口を使って神が語ってくれるということを、イェースズは実感として感じていた。
「皆さんは今、御縁があってここにいらっしゃっています。すべて神様から許されて、神様に吹き寄せられてここにいるんです。神様が集められたんですよ。ですから皆さんは、過去世において何かしら神様とのご因縁があるということなんですね」
広場の背後の道は、神殿への巡礼者がひっきりなしに通る。そんな喧騒をよそに、群衆は静まり返ってイェースズの話を聞いていた。
「私は律法学者の皆さんにも、自分たちが聖職者だからって安心していてはだめだってよく言うんですけど、自分が神様との契約で選ばれたイスラエルの民だからって安心してあぐらをかいていたら危ない。そして、皆さんとて同じですよ。私のもとへ因縁で集められたからといって、これで大丈夫だ、救われたんだなんて安心していたら大間違いでしてね、皆さんが救われるかどうかは本当はこれからの皆さんにかかっているんですよ」
イェースズが話している途中からも、群衆の輪は大きくなりつつあった。
「神様は、人類を救いたくって救いたくってしょうがないんです。ちょうど自分の王子の婚礼に、一人でも多くの人を招きたいと願う王さまと同じですね。でも、王様が招こうと思っている人を召使いに呼びに行かせたら、『いやあ、そんな婚礼があるなんて嘘でしょう』とか、中には『あんたが本当に王様の召使いなのかどうか怪しいものだ。証拠を見せろ』とかね。みんな実にいろんなことを言うんですね」
それをイェースズは身振り手ぶりをくわえて明るい笑顔で話すので、聞いている人々はところどころでドバッと笑った。その明るい雰囲気とイェースズの光を放つような笑顔に、さらにまた足を止めるものも多くなる。
「それとかですね、王様からの使者の招きに対して、『いやあ、今日中に畑に種をまいとかなければいけないんですが』とか、『今日はかき入れ時なんだよ。ああ、忙しい、忙しい、忙しい、忙しい』なんてんね」
また人々の間で、笑いの渦がまき起こった。
「結局招かれているのに、世俗的な忙しさに追われてその招きを断っている人が多いんですね。神様はね、因縁がある人は一応救いのミチへと招いて下さる。でも、それで安心しちゃいけないんです。さっき言った王様の王子の婚礼の宴会でも、招かれた人は一応そろったとしても、そこに婚礼にふさわしい礼服を着てない人まで混じっていたらどうでしょう。しかも礼服がない人のために、王様は礼服まで用意してくれていたんです。でも、それをまたス直に着ようとしない人がいる。いいですか、そう言う人はいくら王様から招かれた客で、そこにいる正当性があったとしてもですね、そこにいるのにふさわしい服装をしていなければ王様につまみ出されてしまうんですよ。いくらこの服が着心地がいいんですとか着慣れているんですとか言ってもだめで、婚礼の宴会にはそれにふさわしい服装があるでしょ。同じように神様に招かれた人は、今までの心情、先入観、固定概念、執着などという古い外套は捨てて、真理にふさわしい礼服を身につけないといけないんです。それがいつもの服に執着を持って、我を通して『これでいいんだ』なんていつまでも言っていると、神様からつまみ出されるんです」
人々の表情が、幾分固くなってきた。
「いいですか。皆さんにはご両親がおられるでしょう? 『父母を敬え』というのは、立派な律法の掟です。でも、神様の御前では、それは人間の側に属するんですよ。つまり、神様と親兄弟、どちらを優先させるかですね。本当は、そのどちらかだけの騒ぎじゃなくって、自分の命までをも含めてすべてを投げ打って、神様を最優先させるということが大切です。あ、誤解しないで下さいね。私は親や自分の命までをも粗末にしろと言っているのではありませんよ。自分を中心とした生き方から、神様を中心とした生活に切り換えよということを言っているのです。何をするにつけても、一挙手一投足のこれらがすべて神様のみ意なのかどうかを考えて、夜寝る前は今日一日神様の御用に立たせて頂けただろうか、神様に御無礼がなかったか考えるんです。自分を捨てるというのは、そういう意味ですよ。財産も捨てるんです。でも、財産を捨てるって言ったって、自分の家の倉庫の金銀財宝を川に捨てろということじゃありませんよ。執着を断つということです。自分さえよければいいという自己中心の考えを捨てて、世のため人のため、人を生かすため、人が救われるため、そして神様のためにこのお金を使わせて頂こうと考えることが大切なんですね。これが自分を捨てることです。自分を捨てるとは、利他愛に徹することです。こういった心構えが、皆さんにありますか? 塔を建てる時には予算を計算したり、戦争の時も敵と味方の兵力について考えるでしょ。それと同じように、じっくりと自分の想念を点検して下さい。古い自分を捨てるということは無になることですけども、無といっても空っぽになることではなくて、とにかく神様に近づきたい、神様の御用をさせて頂きたいという一念に徹すれば、己は無になるんです。己が無になったら自分がなくなってしまうのかというとそうではなくて、より高い次元に神様は引き上げて下さいます。招かれるものは多くても、選ばれる者は少ないのです。神様もうお恵みを与えたくって与えたくってしょうがないのに、人間の心の中は我や執着がいっぱいにあふれていて、もう神様のお恵みを入れる容量がないんですね。だからせっかく与えてくださっても、それを受け取ることができないんです」
そこまで一気にしゃべってから、イェースズはサーッと人々の顔を見渡した。そして遠くの方にはまたもや律法学者が何人かいて、こっちを見ながら互いに何かをささやき合っているのも見えた。それは気にせず、イェースズは話を続けた。
「皆さんはせっかく御神縁があって私のもとへ招かれたのですから、その中から本当に選ばれる人になっていかなければなりません。私が選ぶんじゃありませんよ。神様が、選ぶんです。そして選ばれるのは、これからなんですよ。これからの皆さんの一人お一人の精進にかかっているんです。皆さんはもう救われた人なのではなくて、救われる人の候補者になったにすぎません。ですから安心していないで、今日を機に一段と新たな精進のミチに向かって出発して下さい。いいですか、私を頼ってもだめですよ。私は神様の教え、置き手の法、宇宙の法則を皆さんにお伝えさせて頂いているだけです。あとは皆さんが、ご自分でサトって下さい。そのご自分の自覚こそが人々を救い、この世に神の国、地上天国を招来することになるんです」
そこで群衆の中から、何人かが立ち去った。それはもともとのイェースズの信奉者ではなく、たまたま立ち寄った組の人々だった。エルサレムという大都会の機能の前には、イェースズの存在はまだまだちっぽけなものだった。祭司や律法学者の敵意、エルサレムの大部分の住民の無関心、そんな中でイェースズは力の限り、神に命ぜらるるまにまに人々に教えを説き、また火の洗礼を人々に与えて、人々の霊性を浄めていった。しかしイェースズのそんな行為も、巨大な都のごく片隅で行われているものに過ぎず、エルサレムの前にはイェースズの存在はあまりにもちっぽけなものだった。だが、多くの市民にとってイェースズは、その存在すら知られていなかった。
そんな中でも、律法学者だけは無関心というわけにはいかないようだ。彼らの間ではイェースズという存在は話題の中心となっていたし、燃えるような憎悪の対象でもあった。
すでに風の中にかすかに春の訪れを感じさせるようになっていたある日、イェースズと使徒たちはまたしても神殿の庭で律法学者たちに取り囲まれた。今度はそこに、ヘロデ党のものも混じっていた。ヘロデ党とはヘロデ王家の与党であるが熱心党のようにローマの支配を覆そうとはしてはおらず、あくまで体制に順応しながらもユダヤがローマの属州となっていることには不快さを感じている連中だった。かつてのヘロデ大王の時のような、あるいはこの時点でのガリラヤのような委託統治領に、再びユダヤ州を戻そうというのが彼らの綱領だ。つまり現実主義的な消極的親ローマ派であり、本来はユダヤ教の神支配を絶対と考える原理主義的なパリサイ人の律法学者とは相容れない存在だったが、ここ最近では歩み寄りを見せていた。そしてイェースズを憎悪する点では、両者の利害は一致した。イェースズをイスラエルの新しい王と称する一部の信奉者の声は、ヘロデ家の王権にとって脅威となっていたのである。 そんなヘロデ党のものと律法学者が肩を並べて、イェースズの前に立っていた。
ところがヘロデ党の一人は、やけにニヤニヤしてイェースズに語りかけた。
「いやあ、おうわさは聞いていました。お会いしたいと思っていました。あなたは実に偉大な師です」
だが、その想念の中にはどす黒いものが渦巻いているのを、イェースズはすでに察知していた。
「あなたは真理を説く方。決して人の顔色を見て物事を判断するお方ではないということは、よく存じております。そこで、一つお伺いしたいのですが、教えて頂けないでしょうか」
「何でしょう」
もったいぶった問いかけにも、イェースズは微笑んで受け答えをした。
「私たちはローマに税を納めますけど、これは神様のみ意でしょうか?」
イェースズは黙って、ヘロデ党と律法学者の両方を見た。どちらの答えを出しても一方に都合がいい反面、他方には都合の悪いことになってしまう。しかもその両者が結託して目の前に並んで立っていること、それが曲者なのであった。目に見えないどす黒いパイプラインが両者の間に結ばれているのが、イェースズの霊眼には見えた。イェースズは一度目を伏せ、そして目を上げた。
「ローマの人頭税を納める貨幣が、ここにありますか?」
神殿税や神殿への献金がユダヤの貨幣のドラクマ貨でないといけないのに対し、人頭税はローマへの税だからローマの貨幣のデナリ貨でないといけないことになっていた。そのデナリ貨を、ヘロデ党の一人が懐から出してイェースズに見せた。イェースズは、それを見て言った。
「ここには『崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝・ティベリウス』と書いてありますし、この肖像はローマの皇帝ですね」
イェースズが言うまでもなく、誰でも知っていることだった。
「それならば、皇帝からお借りしているものだから、皇帝にお返しすればいい。つまり、こういったローマ貨幣は皇帝にお返しすべきでしょう。そして神様より賜ったユダヤ貨幣は、神殿に納めればいいのではないですか。便利にできているじゃないですか。何か問題がありますか?」
イェースズは大声を上げて笑った。ヘロデ党も律法学者たちも、何も答えられずに苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。
ベタニヤへの帰り道、神殿の下の谷から見上げるオリーブ山は、夕日を受けて赤く燃え上がっていた。
「先生!」
歩きながらイスカリオテのユダが、鼻息を荒くしてイェースズの隣に来て歩いた。
「なぜさっき、ローマに税など納める必要はないって、きっぱり言わなかったんですか」
「そうですよ。それを期待していたのに」
シモンも会話に加わった。そんな二人を、イェースズは少しだけ笑顔を消して歩きながら見た。
「あなた方二人は、ローマへの税など払う必要がないって考えているのかい?」
「俺は先生が救世主だと固く信じてる。その救世主が地上の皇帝に税を納めるんですかね」
ユダは、少し興奮気味になっていた。イェースズは視線を、前方に戻した。そしてそのまま歩きつつ言った。
「この世で肉体を持って生活する以上はこの世の掟も守らないといけないと、前にも言ったと思うのだがね。この世の掟も守らない人に、神様の掟は守れないとね」
「だって、相手はローマですよ」
「だから貨幣に皇帝の顔と名前が刻まれている以上、皇帝のものは皇帝に返せと言ったまでだよ。しかし私が言いたかったのはだね、そんなことよりも、神様からお借りしたものは神様にお返しする、そっち方だ。これは神殿税のことを言っているんじゃない。霊的な次元の話でね、この体も衣食住もすべて神様から貸し与えられているもので、自分の物なんか一つもない。それなのに人々は、借り賃は一円も払っていない。それどころか過去世で罪穢を積んでいて、それなのにお恵みを頂戴している。これはもう神様からお借金をしているものだということは、再三言ってきた通りだ。この世の務めを果すのは最低必要条件で、それはどうしても必要なことであって、でもそれだけでは十分ではなくて、さらに霊的なお借金を返済して霊的務めを果してこそ真人といえるんだよ」
「しかし俺は先生に、ローマの税制をことごとく破壊してほしいんです」
イェースズはまた、ユダを見た。
「そんなことをして、何になる?」
「人々が救われるでしょ」
「確かに税がなくなることによって救われる人もいるだろう。でも、私がしようとしていることは、そんな次元が低い救いではないんだ。税がなくなって救われるなんていうのは物質的な救いであって、私はもっと高次元の魂のレベルでものを言っているんだよ。ローマへの税と神様へのお借金は、次元がぜんぜん違うのだから同一に論じてはいけないよ」
「でも、今のまのままじゃ、先生は学者たちをますます怒らせて、しまいには殺されてしまうんじゃないですか」
「黙りなさい!」
柔和なイェースズにしては珍しく、いつにない厳しい口調が帰ってきた。ほかの使徒たちも、驚いて歩みを止めたほどだった。
「あなたとシモンは、まだ勘違いがなくならないのかね。闘うのが神様のみ意とまだ思っているのか。闘うなどという対立の想念を、ローマに対しても律法学者に対しても持ってはいけないんだよ」
「でもこのまま逃げまわっていては、先生の救世主としての仕事は何もできないじゃないですか」
「黙りなさい! あなたはまだ分かっていない」
珍しいイェースズの剣幕だった。仕方なくユダもシモンも、不服そうな顔で黙ってついていった。
数日後、エルサレムで説法をするイェースズに近づいてきたのは、サドカイ派の祭司たちだった。神殿に入る二重門のすぐ外の所で、どうも彼らはイェースズを探して待ち構えていたらしい。
「おお、うわさで持ちきりのイェースズ師が来られた。一つ質問していいですかな?」
「なんなりと」
イェースズは足を止めた。
「私たちサドカイ人にとって、霊とか魂の復活などというのはどうしても信じることができませんでしてね。しかしあなたは、それを説いておられるという。そこで一つ教えて頂きたいんだが、兄弟がいっしょに生活している場合、兄だけが結婚していてその兄が死んだ場合、兄に男の子がいなければ弟がその未亡人と結婚し、生まれた子が男の子なら死んだ兄の子とせよと律法にはありますけど、その女は復活の時は兄と弟のどちらの妻として復活するんですかね」
「どちらでもありませんよ」
イェースズは穏やかに笑みながらも即答した。
「あなた方は復活について、どうも勘違いしておられますね。私がいう復活って、そんなことではないんですよ。人の肉体は死ねば土になって、二度と蘇ってくることではありません。復活するのは魂で、その時は全く別の肉体に宿って、ぜんぜん違った顔と名前になるんです。だから、この女が復活してきたら、誰の妻でもない状態で生まれてきます。復活とは再び赤児になってこの世に生まれ出ることで、墓から死んだ時の状態で出てくることを言っているんじゃないんですよ。神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われるではありませんか。生きている魂にとっての神様なんですよ。人は肉体が死んでも、魂は死にません。魂は永遠に生きるのです。だから神様が蘇らせるのは、その魂の方です。肉体じゃないんです。神様は、死者の骨にとっての神様じゃありませんからね」
「魂は死なない……どうも理解できないのだが」
「死というのは魂の乗り船である肉体の終わりなんです。船が壊れても、そこに乗っている人はその船から降りればいいだけの話でしょ。乗っている人にとっての終わりじゃないんですよ。同じように死は肉体の終わりであっても、魂の終わりではないのですよ。人生の終着点が墓場だなんて、そんなのつまらない人生じゃありませんか。墓に入るために生きているなんて、虚しい人生ですよ。何の喜びがありますか? 何の生きがいがありますか? でも、魂の次元で考えたら、そこには使命があることに気づくはずですよ。目的と使命があって、人はこの世で生活するんです。種は土にまかれますけど、種の終点は土じゃないでしょう。植物が実を結んで種を散らして、その種は土に落ちますけど、その土こそが出発点じゃないですか。その土から、新しい芽が出てくるんですよ。違いますか?」
「しかし、魂の再生とか霊の世界とか、そんなのは異教徒の考え方じゃないですかね。我われイスラエルの民の教えからすれば、明らかに異端だと思うのですが」
祭司は表面こそ温和だが、その内面には鋭い対立想念があって、それがちくちくとイェースズの魂を刺激していた。
「どうして異教徒だとか、イスラエルの教えとかにこだわるんですか。真実は真実なんです。霊界の実相は、そんな宗教なんてものは超越しているんですよ。我われイスラエルの民は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に創られて、異教徒はその奉ずる別の神に創られたなんて、そんな馬鹿な話はありますか? そうではなくて、全世界の全人類は、同じ神様に創られたのでしょう? そうでなかったらなぜ神様は、唯一の神なんでしょうかねってことになりますよね。私はイスラエルの民だから太陽の光も半分でいいとか、ローマ人だから三分の一でいいとか、そういうわけにはいかないでしょ。みんな同じなんですよ」
周りに人垣ができ始めた。その手前、祭司たちはこれ以上追求して人々の前で恥をさらしてしまうことに耐えられずに、逃げるようにこそこそと帰っていった。
サドカイ人の祭司をイェースズが論破したといううわさは目撃者によってたちまち言いふらされ、それが律法学者の耳にも入った。そのためか、ある日イェースズが使徒たちと神殿の近くに来ると、律法学者が十数人の固まりになってイェースズを待ち受けていた。その数は、イェースズのそばにいる使徒たちよりも多かった。
今日の学者たちは、外面は恭しく柔和さを取り繕っている。
「主の平和(こんにちは)」
と白々しく学者はイェースズにあいさつをするので、イェースズもそれに返した。
「主の平和(こんにちは)」
「前に祭司様方とお話をしてされていましたね」
イェースズに語りかけてきたのは、若い学者だった。腰は低いが、いつものようにどす黒い想念はイェースズにはお見通しだ。決して律法学者が腹黒い人の代名詞ではない。彼らは彼らなりに神の教えを守ろうと必死だったし、一途に真剣に取り組むまじめな人々だったのであるだが、その真剣さゆえにイェースズを憎悪し、その憎悪の念がどす黒い想念になってしまうのだ。彼らの聖職者としての誇りの前にはイェースズの教えは素人のたわごとにすぎなかったのだろうし、正統ユダヤ教の伝統と権威の前にはイェースズの信奉者は危険な新興宗教、いわばカルト教団にしか見えなかったのだろう。目の前の若い学者も、なんとかイェースズを試そうとしている想念が見え見えだ。
「どうか、教えて下さい。律法の中でいちばん大切な戒めは何ですか?」
イェースズに教えを乞うている形でも、実は違う。これまで律法学者の中で、純粋にイェースズに教えを乞うてきたのは唯一ペテロの親類のニコデモだけで、それ以外には一人もいなかった。
イェースズはそれでもさわやかに微笑んだ。
「あなた方の方が専門家ではないですか。どうして私に聞くんです?」
そう言いながらも、イェースズは声高らかに、
「聞け、イスラエル!」
と、言った。イスラエルの民なら誰でも毎朝唱える聖書の、申命記の一節を口にした。
「我らの神はただひと方。だから心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」
それは、イスラエルの民としては、ごく常識的な回答だった。誰でも物心つく頃から、魂の奥底に叩きこまれる言葉だ。イェースズの答えがこのように常識的だったので、学者はいささか拍子抜けしたようだった。だが、イェースズはさらに言葉を続けた。それは「レビ記」の一節だった。
「『あなたと同じ神の子である隣人を愛しなさい』、この二つが一つになった時、それは最高の戒めとなるでしょう」
「確かにその通りだ」
と、別の学者が言った。
「隣人への愛は、すべての犠牲に勝る」
それを聞いて、イェースズはさらに笑顔を増した。
「問題はですね。頭で分かってはいても、それをどう生活の中で実践するかですよ。そのへんはいかがですか?」
「では聞くが、ここで愛せよと言っている『隣人』とは誰のことかね」
学者たちは、皆ニヤッとした。その答えは言わずとも知れたことで、『レビ記』にも「あなたと同じ神の子である隣人」とある。彼らにとって隣人とはイスラエルの同胞で、正統なユダヤ教徒にほかならない。彼らの関心は、イェースズがそう答えるかどうかに向いている。
イェースズは一度目を伏せて、黙って大きく息を吸ってから目を上げた。
「エリコへ通じる道は、すごい砂漠ですね」
イェースズが突然話題を変えたので、学者たちは一瞬唖然とした。イェースズはさらに続けた。
「私もここに来る時に通ってきましたけど、なんでも盗賊の巣窟らしくて昼しか歩けませんでしたよ」
「それがどうした。さっきの質問の答えはどうなった!?」
学者の一人が、しびれを切らして叫んだ。イェースズは微笑んだままだ。
「まあ、お聞きなさい。その砂漠でこの間もある旅人が強盗にこてんぱんにやられて、瀕死の状態になっていたそうですよ。そうしたらそこに祭司が通りかかりましてね、なにしろそれは偉い祭司で血のついた体に触れると律法にも反しますから、律法を忠実に守って道の反対側を通って行ってしまったんですよ。次に来たのは神殿に奉仕するレビ人だったんですけど。彼もまた律法に背いて血の汚れに触れたら、神殿に仕える身として神様に御無礼になるし、それでは神様に申し訳ないと思ったのか、見て見ぬふりをして行ってしまったんですね。とにかく神殿で神様に奉仕する身で忙しかったということもあって、ここで怪我人の介抱などをする時間もなかったのかもしれませんけどね。まあ、そうして忙しいレビ人も通り過ぎて行きましてね。こういうのを、皆さんはどう思われますか?」
一人の学者が、代表する形で口を開いた。
「それは、神様にお仕えする事が何よりも大事だ。怪我人はかわいそうだけど、神様を中心に考えなくちゃいけない。そうなると、やはりここは血の汚れには触れられないというのが正しい選択だろう。他人の血のついた手で神様に祈るわけにはいかない」
「確かにそれが律法の規定通りということになりますね。まあ、それは実際は、自分が他人様の血を流しておいてそのままの心で神様に祈るなってことなんですけど、それはいいにしまして、とろこがその次に来たのは、サマリヤ人だったんですよ」
学者たちは、一斉に顔をしかめた。サマリヤ人と言えば、獣畜にも劣る存在と思っているからだ。
「そのサマリヤ人は怪我人を気の毒に思ってぶどう酒で手当てをして、自分のろばに乗せて宿屋までつれて行って、支払いまでしてくれたんです。それだけじゃなくて、介抱に費用がもっとかかったら帰り道にまた必ず寄って自分が払うと、宿の主人に約束までしたんです」
イェースズはそこで、言葉を止めた。学者は、自分にとっての隣人とは誰かということを聞いていた。だがイェースズはそれには答えず、
「この怪我人を隣人として受け入れ、愛したのは誰ですか?」
と、逆に学者たちに尋ねた。最初は誰も口を開かなかったが、やがていちばんはじめにイェースズに話しかけた若い学者が、
「最後の人です」
とぼそりと言った。
「そうでしょう。最初の祭司や次に来たレビ人のように、伝統と権威にあぐらをかいていては、隣人を愛せないんです。お分かりになりましたら、あなた方も最後の人と同じように実践すればいいんです。でも、それが人知人力だけでできるとお思いですか?」
学者たちは何も言わず、黙ってイェースズを見ていた。
「隣人を愛するって簡単なようで、実は難しいんですよ。やはり、神様のお力添えがなかったら、とても実践には移せないんじゃないでしょうか。そのためには、まず祈ることです。そして、自分を怪我人の立場に置いてみることですよ。その自分を隣人として愛してくれる、その愛を受け入れることです。たとえそれが獣畜のように忌み嫌っている人であったとしてもね。蔑まれているサマリヤ人だけが律法の細則から自由であって、それだけに神様の愛と同じくらいの隣人愛を、自分を嫌っている人の上にまで注げたんですよ。いいですか。私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛さなきゃいけないんです。そして、同じく神の子であるすべての人類も、愛さなきゃいけないんです。神様は愛していますけど、でもそのこどもである人類の方は、一部にでも愛せない人がいますというのでは、神様を愛していることにはなりませんよ。祭司が憎らしければその祭服まで憎らしくなりますけど、その反対もあるでしょう? 愛する人がいれば、その人の服の帯紐まで愛しいものです。神様を愛しているなら、すべての神の子の人類が愛しいはずです。もしそうでなかったら、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛していることにはなりません。だからこの「申命記」の掟と「レビ記」の掟はセットなんですね。そして我われが神様を愛すると同時に、神様も無償の大愛で我われを愛して下さっています。あなたも、そしてあなたも」
イェースズは、学者一人一人を指さしていった。
「あなたもあなたも、みんな神様から愛されているんですよ。神様から愛されていることを思えば、隣人を愛し尽くしてなぜ惜しいことがありましょう」
「もういいです。わ、分かりました」
学者たちはまたまた苦虫を噛み潰したような顔で、すごすごと雑踏の中へ消えていった。
イェースズ師弟はそのままベタニヤに帰った。もう日が長くなりはじめていて、春ももうすぐという感じだ。
ゼベダイの長女のマルタがイェースズや使徒たちの食事を準備している間、その妹のマリアはずっとイェースズの話に耳を傾けていた。
「マリア!」
マルタが厨房からいくら呼んでも、マリアはイェースズの話に熱中していて返事もしなかった。もう一度マリアを呼ぶ声が厨房から響いたが、マリアは気のぬけた返事をしただけですぐに視線をイェースズに戻した。たまりかねてマルタは、イェースズとマリアのいる部屋に来た。
「ちょっと、マリア。いい加減にしなさい。姉さんは一所懸命夕食の支度してるのに、あなたは」
そしてマルタは、イェースズに目を向けた。
「ちょっと先生、言ってやって下さいよ。この子ったらこんな所にちゃっかり座りこんで、手伝いもしないで」
イェースズは笑って、顔を上げた。
「マルタ。気を使ってくれて嬉しいんだけどね、あんまりマリアを責めないでやってくれ。それに私はこの家では客ではなく、家族の一員として迎えてくださっていると思っている。だから私をもてなそうと気を使ってくれるのは有り難いけど、もっと大切なことがあるんだよ。人間が人間に仕えるんじゃなくて、人が神様に直接奉仕する天の時がやがて来るからね。マリアは今、その話を聞くということを選んでいる。だから、どうか彼女を責めないでほしい」
「でも」
マルタは、少し首をかしげた。
「やはり先生は先生です。弟のヤコブやエレアザルの先生でもありますし、お父様からも大切におもてなしするよう言いつかってますしね。ねえ、先生。やはり先生は先生らしく、もっと偉そうに威張って下さいよ。そうでないと、なんか感じがつかめない」
イェースズは大声を上げて笑った。
「私が偉そうにする? そんなことは金輪際できないよ。私は人々の下に入って救う役だからね。私が一番罪穢が深いから、そういうお役目を頂いている。そのことを考えたら、とても威張るなんてことはできないよ」
と、あくまで下座を行じる姿を、イェースズはマルタやマリアに見せた。
「でも、もっと威厳をもって人々に話したら、もっとたくさんの人が集まるんじゃないですか」
イェースズはますます笑った。
「そうかもしれないけど、そんなふうにして集まった人は、またすぐに去っていくんじゃないだろうかね。あくまで神様は、因縁の魂を導けとおっしゃっているんだよ。そんな小細工をしなくても、因縁のある人は光を求めてやってくるものなんだよ」
イェースズはベタニヤから日帰りで週に二、三回はエルサレムに赴いていたし、エルサレムでは神殿の庭で人々に説法をするのが常となっていたが、イェースズはマルタにそのように言ってはいたものの果してイェースズが行くと自然と人は集まってくる。そして、話し始めるとたちまち黒山の人だからになるから不思議だった。イェースズには磁石のように人々をひきつけるものがあるからだろう。もちろん、信奉者は毎日イェースズがくるのを待ち構えている。また、待ち構えているのは信奉者ばかりでなく、どうも苦手なパリサイ派の律法学者も多かった。
この日は使徒十二人すべてではなくアンドレとナタナエルだけつれて、イェースズは神殿で説法をした。だいぶ遅くまで神殿にいたので、春の到来間近とはいってもまだ冷たい風が頬に当たった。二重門を出て、神殿から退出して来た巡礼の参拝者の群れの中にイェースズと二人の使徒も混じって歩いた。
「おお、先生」
人ごみの中から、イェースズを呼ぶ声があった。さきほどまでイェースズの話を聞いていた人々の中にあった顔だ。
「お話、素晴らしかったです。本当に、有り難うございます」
イェースズよりずっと年上の太った中年男なのに、その目には涙さえ浮かべていた。
「我われは罪びとと虐げられて、もはや神様からは見放されていると金銀財宝だけを心の頼りに贅沢な暮らしをしてきました。自暴自棄になって、神様から遠ざかっていたんです。でも、今日はじめて先生のお話をうかがって我われにも救いがあることを知り、人生の転機にもなりましたよ。本当に、有り難うございます。何とお礼を言ったらいいか」
イェースズは、ニッコリと笑った。
「そうですか。それはよかったですね。あとは、今日聞いたことを生活の中で実践して下さいね。神理のミチを知らないのならまだしも、聞かされてしまった以上は実践しないと本当の救われにはなりませんよ」
「はい。本当に先生のお蔭で、神様と出会うことができました。先生がいらっしゃらなかったら、いつまでも暗黒の中を歩いていたことでしょう」
彼は自分で罪びとと言っていたが、その服装から収税人であることは明らかだった。
「先生、今日は私の家でご馳走させて頂けませんか」
イェースズはナタナエルやアンドレを少し見てから、
「そうですか。では、そのお気持ちを有り難く頂戴することに致しましょう」
と、言った。
その時、いつの間にか律法学者が二人、イェースズのそばに来ていた。ナタナエルなどは、またかと言う顔で眉をしかめていた。案の定、学者はイェースズと収税人の話に割って入ってきた。
「あんたの話を、聞かせてもらっていたよ。そうしたら今は、あんたは神の教えを説きながら罪びとと同席しようとしている。それはいったいどういうことなんだ」
大勢の巡礼者の波が立ち止まっているイェースズたちにぶつかっていくのでイェースズは道の脇に移動し、学者もしつこくついてきた。
「言っていることとやっていることが違うのではないかね?」
イェースズは学者にもにこにこ笑っていた。
「どう違いますか? 私は何のやましいこともしていませんよ」
「おお、ぬけぬけと。なぜこのような罪びとと食事の席を同じくするのか、そのわけを聞こう」
学者たちの目が輝いた。なんとかイェースズを捕らえる口実を見つけようと、彼らは組織立って執拗にイェースズを追い掛け回しているのである。
イェースズはゆっくりと話しはじめた。
「百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹がいなくなったら九十九匹を野原に放しておいても、いなくなった一匹を探しに行きませんか? そして見つけたら大喜びで、近所の人集めて祝宴をするんです。神様からご覧になっても、九十九匹の羊が熱心さゆえに一匹の羊を追い落としても、その一匹を探し出そうとされます。そして、再び自分のもとへと招かれるんです。神様の愛は、そのたった一匹の羊でさえ見放したりはなさいません。いなくなっていた羊が再び帰ってきた喜び、お分かりですか?」
「しかし羊は、九十九匹がまだいるんだろう? その九十九匹の羊はどうでもいいのかね?」
「いいえ、どうでもいいというわけではありませんけど、その九十九匹の羊は、律法という柵からは決して出ない従順な人たちですからね。羊飼いではないから羊のことは分からんとおっしゃるのなら、人間でお話しましょう。例えばある兄と弟の兄弟がいましてね、兄はそれは父親に忠実でした。でも弟の方はこれがまたひどい遊び人で、財産を分けてもらうとさっさと異国へ行って遊んで暮らしていたんです。ところがすぐに財産を使い果たして、それで豚飼いにまで身を落としましてね」
「豚飼い?」
ユダヤ人の感覚では、これほど最下層の人はいない。ユダヤ人は豚を汚れたものとして考え、決して飼ったり食べたりはしないのだ。
「異国へ行ったから、そこでは豚を飼っていたんです。そしてその息子は、豚のえさで自分の腹を満たそうとさえしたのですよ」
「豚のえさだって?」
学者たちは、露骨に顔をしかめた。もうそうなると、人間ではないというに等しい。
「さすがにその息子もこれには耐えられませんでしてね、それで家に帰る決心をしたんです。すべての罪を詫びて、もう息子と呼ばれる価値もないからせめて雇い人としてでも家に置いてくれと頼もうと思っていたんですよ。ところが家に帰ると父親も母親も大喜びで、上等の服を着せて指輪もはめて、肥えた仔牛を一頭つぶしてご馳走を作り、祝宴まで開いたんです。ところが怒ったのはその息子の兄ですよ。自分は一度も父親の言いつけに背いたこともなく何年も仕えてきたのに、自分には子山羊一匹くれたことはなかったってね。それなのに身を持ち崩したあの弟のためには仔牛をつぶしてご馳走するなんて、いったいどういうことなんだって。そこで、父親はこういったんです。『おまえはいつも父のそばにいたではないか。だがあの子はもう死んだと思っていたのに、実は生きていて戻ってきたんだから、こうして喜ぶのは当たり前だろう』ってね」
「何を言っているんだ。その兄が怒る方が当たり前じゃないか。だけど、それがどうだと言うのだ。いったい、何が言いたいんだ」
学者は怒ったように言った。
「その怒り方は、放蕩息子の兄の怒り方そのものですね。いつも父のそばにいる、言いつけにも背かずに仕えているという心の油断が、やがては我と慢心になるんですよ。そんなことではたいへんなことになりますから、気をつけないといけませんね。先ほどの話の中の兄が鼻にかけているのは、つまりは伝統と権威ということでしょう? でも神様は伝統と権威にあぐらをかいている人よりも、放蕩息子の回心の方をお喜びになる。私もあなた方が追い落とした一匹の羊を探し、放蕩の末に悔い改めた弟の方へと歩み寄るんですよ」
イェースズは笑顔でそう言い残してナタナエルとアンドレをつれ、収税人とともに城壁をくぐって下の町へと入って行った。
収税人は罪びととされていても経済的には裕福な人が多く、イェースズが招かれた家でもごちそうが次から次へと出る宴会となった。宴席はイェースズと二人の使徒、そして収税人の四人だけだった。ここでもイェースズはよく飲み、よく食べた。招いた収税人の主人も上機嫌だ。
「いやあ、先生はよく神様のことをご存じだから、お酒なんか口になさらないのかと思っておりましたが」
「残念ながら私も一応は肉体を持っている人間なので、おいしいものはいただきますよ」
イェースズは大声で笑った。その場は皆、明るい笑い声と陽の気で包まれていた。
「ところで先生、やはり我われのような、自分で言うのも変なのですが金持ちは、神の国には入れないんでしょうか」
イェースズは肉を一つほおばり、酒を口に運んでから言った。
「昔、ある金持ちの所のお金の管理人が不正をしていましてね、そのことが自分の主人にばれそうになったので、その主人から金を借りている人を集めてこっそりとその証文を書き換えてやったんですよ。油が百樽だったら五十樽に、小麦百コロスだったら八十コロスにっていうふうに。そうしたらですね、そのことがすぐに主人にも知れたんですけど、主人は怒るどころか逆にその管理人をほめたんですよ」
収税人は、意外な顔をした。イェースズは笑いながら話し続けた。
「主人は実はその管理人の不正に早くから気づいていましてね、自分にばれないわけはないのに、こいつは果たしてどうするだろうかと様子を見ていたところだったんすよ。ところが、管理人はやけになって主人の財産を全部使い込んでしまうのではないかと思いきや、かろうじて残っている権限を使って他人様の利益を図ったと、それをほめたんですね」
イェースズは少し声を落とし、幾分真顔に戻って収税人を見た。
「今の世の中は、まだ逆法の世なんです。だから、人々の知恵はよくまわる。神様も必要があって今の物質中心の世の中へと切り換えなさったのですから、まあ今のうちは少しくらいの不正なら許されるんです。でも、それで人に損害を与えたり傷つけたりしたら魂の曇りといいますか、罪穢を積んでしまうんですね。今、金持ちであるということは前世で善徳を積んできたその受け取り役だということもいえましょうけど、財産を築くためには何かしらの罪は必ず積んでいるものです。でも、そんな曇り深い財産でも、正しいことに使えば、神様は寛大なお方ですから許して下さいます。でもですね」
イェースズは一段と声を落とし、それでいて力強くささやいた。
「いつまでもそんな神の甘チョロ時代ではないですよ。やがては許されない天の時が来るんです」
「え?」
収税人は、パッとイェースズを見た。
「いつ、来るんですか」
「さあ、それは私にも分かりません。でも、いつかは来るということだけは確かですね。ですから、なるべく不正の富は積まない方がいいんじゃないでしょうか」
収税人は目を伏せた。収税人が不正の富を積んでいないわけがないということは、凡人にも容易に理解できることだ。しかもイェースズは、その霊眼ですべてを見抜いている。だがイェースズは、再び明るく高らかに笑った。
「過去はいいんですよ。今ある財産をせめて世のため、人のために使うことですな。すべての財産も神様から頂いたものだと心得て、自利自欲のためでなく神様のため、つまり神の子であるすべての人の至福のために使わせて頂くんです。そうすれば、それがアガナヒとなって罪も消えていくんです。そうしないと、やがてはもっと大きなアガナヒを受けなければならなくなります。これは脅しでも何でもないですよ。そういうふうに宇宙は作られている、いわば一種の法則ですからね。神様はすべての人類が神の子ですから、人類がもうかわいくてしょうがないんです。だから、一人残らず救いたいんです。でも、魂が曇っていたら、救えないんですよ。魂が曇っているという状況それ自体が、救われを拒絶した状態ですからね」
「しかし先生、神様が救うことができないっておっしゃいましたけど、神様は全智全能でできないことはないのでは?」
「確かにその通りです。ですから魂が曇って救われの状態にない人は、まずは自分で世のため、人のために奉仕し、人を救って歩くことで自分の魂の曇りを取るのを神様は待っておられますが、そういうことをしない人も神様にとってはかわいい神の子ですから救わなければならないんです。そこで神様のお力で、魂の曇りを取ってくださいます。それを我われ人類は『不幸現象』と呼ぶんです。病気や事故などで健康を害したり、対人関係で悩んだり争ったり、財産を失ったりとかですね。災害などもそうです。すべて、神様がその人の魂をきれいに洗濯してやろうという大きな愛のみ意から発せられるもので、本当はそういったことが起こったら感謝するしかないんですね。それなのに人々は『不幸だ、不幸だ』と神様を呪ったり、挙げ句の果てには神様なんていないんじゃないかなんてとんでもないことを言う人もいる。あのヨブでさえ、最初はそうでしたでしょう。ところがすべては、神様の愛のお仕組みなんですね」
「でも先生、あ、疑問ばかりはさんで申し訳ないんですけど」
「いいんですよ」
イェースズはニッコリ微笑んだ。
「疑問を疑問のままにしておくのは、よくないことですから。どんどん聞いて下さい。聞かないと疑問はどんどん膨れ上がって、それが邪霊に付け入るスキを与えてしまうんです。それで、何でしょう?」
「あ、はい。魂の曇りですか、その罪のアガナヒのために不幸現象を神様が起こされるって言われましたけど、どう見ても罪のない義人でさえ不幸な目に遭うことがあるのがこの世の中じゃないんですか?」
「義人と見えてもですね、それは他人の肉の目で見た結果でしょう? 神様がご覧になる目は違いますよ。心の中まですべてお見通しですからね。また、確かに今は義人でも、過去世においてみんな何かしらの罪穢を積んで、それを背負ったまま生まれてきているんですよ。前世から持ち越した罪穢でさえ、そういったアガナヒ現象は起きますからね。要は、不幸現象という神様からのお洗濯を頂戴するか、それよりも先回りして他人に善行を施すことで自分で自分の魂をきれいにしておくかですよ。魂がきれいになったら、もうアガナヒの現象が起こる必要はなくなりますからね。必要がないことを、神様はなさいません。こういったことを踏まえてですね、あなたも自分の財産をしっかりと管理なさったらよろしいかと思います。この世の財産も管理できない人には、神様は神の国の霊的財産の管理は任せてはくれませんよ。神様と財産の両方を主人にして仕えることは、たとえ今の世でもできないことなんです」
分かったのか分かっていないのか、主税人は顔を赤くしながらもとにかくうなずいて聞いていた。
翌朝イェースズが辞して収税人の家の門を出ると、そこにはもう律法学者が待ち受けていた。この日は二人いた。
「さあ、罪びとの家に泊まったわけを聞こう。昨日のようなたとえ話では分からないぞ。返事次第では、あんたも罪びととしてエルサレムから追放する」
「そればかりか、ひと言でも神を冒涜しようものなら、石打ちの刑だ!」
この石打ちの刑というのが学者たちの本音だ。それでもイェースズは穏やかに微笑んで、学者たちを見渡した。
「これはおはようございます。朝早くからご苦労様です」
「なにっ!」
イェースズの丁重なあいさつも、学者の耳には皮肉に聞こえたらしい。ナタナエルとアンドレだけでなく、見送りに出た収税人もイェースズの背後に立っていた。
「この間ですね」
イェースズは、穏やかに話しはじめた。
「神殿であなた方のような律法学者の方が、大声で祈っていましたよ。『異邦人の家に生まれず、イスラエルの民として生まれたことを感謝します。奴隷ではなく、自由人として生まれたことを感謝します』って」
「そんなのは、子供の時から教えられた普通の祈りじゃないか。それがどうしたって言うんだ」
「まあまあ、お聞きなさい。そのあとがあるんです。ちょうどその時に隣に収税人が来て祈りを始めようとしていたんですけど、それを横目でチラッと見た学者さんは、こう祈ったんですよ。『自分は姦淫もゆすりも不正もしたことはありませんし、この収税人のような罪びとでもないことを感謝します』ってね。しかもその収税人にも聞こえるような大きな声で、おまけに収税人を直接指さして祈っていたんですね。ところが収税人の方は神殿の前でも天を仰がずに目を伏せましてね、自分の胸を叩いて小声で祈っていたんです。『神様、どうかこの罪びとを哀れんでください』ってね。とにかく、それしか祈れなかったんでしょうね。さあ、どちらが神の国に近いと思われますか?」
「馬鹿な質問には答えない。それよりもまさか、あんたはそれが罪びとの方だなどとほざくんじゃないだろうな」
「罪びとの方が神の国に近いのなら、善人はなおさらじゃないか」
イェースズは、一呼吸おいてから言った。
「真に言っておきますけど、善人が神の国に近いのなら、悔い改めた罪びとはもっと神の国に近いんです。昨日もたとえ話でお話しましたけど、自分が善人だって思っている人はもう自力で十分という我と慢心がありますから、神様は自力で十分ならもういらんだろうと手を貸して下さらない。でも、自分を罪びとだと認めて悔い改めるなら、自分ではどうしようもないだけにひたすら神様にすがろうとしますよね。その、すがる心が神様に通じるんですよ。そして、自分はこの点が至らない、ここが足りないと自覚して精進努力していくうちに、いつしか自分を善人だと思っている人を追い抜いて救われのミチに入っていってしまうってことです。天国では自分を価値あるものだと高ぶっているものは追い落とされて、自分は至らない、他人様には頭が上がらないと下座に徹する人は、神様がスーッと上に引き上げてくださるんです」
イェースズは振り返って収税人に笑顔で一宿の礼を言ってからナタナエルとアンドレとともに、律法学者たちを残してその場を立ち去った。
翌日は朝早くから、イェースズは十二使徒全員を連れてエルサレムに上った。いつもの神殿が見える広場に着くと、もうイェースズの信奉者たちは集まっていた。また、信奉者というほどではないにしろイェースズの話を聞くようになっていた人々も、この日はやけに多かった。その信奉者たちの心に動揺があるのを、イェースズはすぐに察知した。イェースズが祭司や律法学者を論破したという話は、時々神殿のそばで説法をしているイェースズの名前くらいなら知っているという人の間にはほとんど知れわたっていた。だからといって、イェースズを英雄視するわけにはいかない。イスラエルの民にとって祭司と律法学者は、それぞれ立場は違うにせよ共に尊重されるべき権威なのであった。その感覚は、イェースズの信奉者とてなんら変わることはない。だから自分たちが尊重する権威を自分たちの師が論破したということになれば、一種複雑な感情になるのである。
だからイェースズが人々の前の石段の上に立つと、まだ説法を始める前に、若い農民風の男が、
「あのう、一つお聞きしたいんですが」
と聞いてきた。
「何でしょう」
イェースズは今日もニコニコしている。
「あのう、学者さんたちのことなんです。先生はいつもあの方たちと言い合っていますけど、あの方たちはあの方たちで先生のことをもろくそ言っています。先生の信奉者になったら、会堂から追い出すとも言っていますしね」
「具体的に、どのようにもろくそ言っているんですか」
「とても私が口にできるようなことじゃあありません。ただ、本当に先生を信じていいのでしょうか」
イェースズは微笑んでうなずいた。
「私のことをいろいろ言っている方たちって、少なくとも百人でもいいから人を救った経験をお持ちなんでしょうかねえ」
群衆は静まり返っていた。
「どうもないようですけど、そういう方々の方を信じるというのならば、私は何もひきとめはしません。裁きもしません。皆さんのご判断にお任せします」
「でもですね」
と、後ろの方で声が上がった。これも若者だが、知識層のようだ。イェースズの信奉者というより、まずは話を聞きにという感じで来ている人のようだった。
「学者先生は、あなたの教えは敵対者の教えだと言っていますが」
別の者も、声を上げた。
「商人たちは、こうやって人を集めている真の目的は金儲けだて言ってますよ。巧みな脅しで恐怖感を与えて人々を集め、神に選ばれたという特権意識を与えて抜けられなくしているって。あるいは病気で苦しむ人を狙って、弱みにつけ込んで教えを広めているとか。奇跡のわざというのも全部いんちきで、癒された人というのも最初から打ち合わせ済みの芝居だとか、そもそもあなたの出自が危険集団としてヘロデ王に弾圧されたヨハネ教団の幹部で、ヨハネ教団から分派独立し、教えはすべてヨハネ教団からの盗用で独自のものはないのにその経歴を隠しているとか。シロアムの塔倒壊の大惨事を、布教のネタにしているとか。それにガリラヤにいるあなたの妻は、もと娼婦だとかもいいふらしていますけど」
「こら」
と、ペテロが前に出てその発言を制したが、確かにほとんどが根も葉もない中傷である。妻のマリアが娼館の多いマグダラで働いていたのは事実だが、マグダラで働く女がすべて娼婦ではないということは世間の色眼鏡の前には通用しないらしい。ここまで言われるのかとイェースズは少し悲しくなったが、顔はにこやかに言った。
「今のお話に対する判断も、皆さんにお任せします。私の妻云々は、私の個人的なことですから皆さんとは関係ありません。皆さんの信仰とも関係ないはずです。ただ、神様はどのような所からでも、因縁のある魂なら吹き寄せられます。現在の状態で人は判断できません。人の善悪を決める行為は、神様の権限を犯したものですよ。ましてや、ある人をその人の過去で裁くということは、決してしてはいけないことです」
「ただですね」
と、また別の声が上がった。
「先生のこと、救世主であるはずはないから、騙されるなと学者たちは言うんですね。なぜなら、救世主はベツレヘムで生まれるはずで、ガリラヤ出身のはずがない。また、ダビデ王の子孫でないといけないはずだとかも」
イェースズは、神殿の方へ少し目をやった。まだ朝早いので、あまり巡礼の参拝者はいないようだ。
「いいですか、皆さん。ダビデ王が聖霊に導かれて著したと言われているあの詩篇に、こう書かれていますね。『主である神は、私の主である救世主に仰せられる。“私があなたの敵を完全に征服してしまうまでは、私の王座に着いていなさい”』って。つまり、ダビデ自身が救世主のことを主と呼んでいるんですよ。それなのに、救世主はダビデの子孫なのですか?」
人々はまた、静まり返っていた。
「それに、たとえ私が本当にダビデの子孫であったとしても、私はそのことを自らの権威付けのために使ったりはしません」
人々、少なくとも信奉者の間からは、安堵のため息が漏れた。律法学者よりもイェースズの言っていることの方が理にかなっていると、誰もが認めたからであった。
その日の夕食時、ゼベダイの屋敷の一室でイェースズと十二人の使徒すべてが円座して座っていた。
「ところで先生」
と、食事をしながらトマスが顔を上げた。
「今日のエルサレムでのお話ですが、律法学者っていやらしい人たちですねえ」
「先生のこと敵対者だなんて、自分たちの方がサタンなのではないか」
そう言ったイスカリオテのユダも、薄ら笑いを浮かべていた。
「先生」
と、聞いたのは、小ヤコブだった。
「律法学者って、そんなにけしからん人たちだったのですか」
学者の権威による束縛から解放されていないのは使徒たちも同じようで、ほんのわずかだが動揺はあるようだった。
イェースズは杯を干してから、小ヤコブだけでなく十二人全員を見わたして口を開いた。
「いいかね、彼らは決して敵対者じゃないよ。彼らとて神の子だし、神様を求めるという点では非常にまじめなんだな。一途なんだ。モーセの教えについて、権威あるものとして人々を導こうとしている。だから、あの人たちの教えは間違ってはいない。むしろ正しい。根本は、正しいということだ。何しろ彼らが説いているのはモーセの教えなんだから、間違っているはずはない。だから人々が、あの学者さんたちが説く教えを忠実に守って生活するのはいいことだ。だけども問題はだね、その教えを実践するかどうかなんだよ」
イェースズはもう一度、十二人の顔を見わたした。誰もが食事の手を止めて、食いいるようにイェースズを見つめている。
「さすがに今日、人々の前では言わなかったけれどね、言うと悪口や批判になってしまうから言わなかったのだけど、あの学者さんたちが自分で説いている素晴らしい教えを自分で実践しているかどうかについては、疑問を感じないわけにはいかないんだよ。言っていることとやっていることが違うというのを、神様はいちばんお嫌いになる。それとね、彼らの説く教えはモーセの教えだとは言ったけど、やはり何百年もの時間が立つうちに、モーセの教えにも人知の尾びれがつけられ、捻じ曲げられてしまってね、人々がその教えを実践するどころかどんどん施行細則が人知でつけられて、最初の教えとはまるで別のものになってしまって、実践が難しいものになっている。『律法は奥が深いからちゃんと学校で勉強して、長年研究してはじめてその奥義は分かる』なんて学者さんたちは言っているけどね、考えてもみてごらん。モーセの時代は、今ほど文明が発達していなかったんだよ。モーセに従って荒野を旅したイスラエルの民は、無学文盲の人々だったんだ。長いことエジプトで奴隷生活をしていたんだし、今と違って当時は学校なんてものはない。そういった無学の大衆に向けてのモーセの教えが今の律法のように難しいもいのだったら、当時の何人が理解できただろうかね。私には疑問だね。前にも言ったと思うけど、真理とは分かりやすいものなんだ。そして、聞いたらすぐ実践できるものなんだ。それが人知によるこじつけでこねくり回し、そうすればするほど難解なものになってくるし、救われないものになってくるんだね」
使徒たちは、うなずいて聞いていた。
「朝の祈りの時には聖書を入れた経札を頭と左腕につけたりして、しかもその四隅に房をつけているなんて、偉そうに見せかけるための虚栄だからあなた方はまねしないように」
イェースズの口ぶりがおかしかったので、使徒たちは一斉に笑った。
「それにね、人は偉くなると宴会でも広場でもやたら上席に着きたがるけど、そんなのも人々から尊敬されることだけを求めるような虚栄心からだから、これもまねしないように」
また、使徒たちは笑った。イェースズも、いっしょに笑っていた。
「いつも言っているようにあなた方もみんな神の子なんだから、つまりは兄弟ってことになる。同じ神様の子なんだから、兄弟だろ。兄弟っていうのは、同じ父親を持つってことだよね。そしてその父親は一人だろ。そのへんを歩いているおじさんをつかまえて、『あ、お父さん、お父さん』なんて言うかい?」
またその場は笑いの渦になった。
「これと同じでね、あなた方の、そして全人類の真のお父さんはおひと方なんだ。それが、神様だよ。だからあなた方は虚栄心で高ぶるのではなく、すべての兄弟の従者だというくらいの下座の心で奉仕すべきだ。あなた方は神様の、しかもいちばん新しい教えを直接聞かせて頂くことを許されているだけに、このことはいちばん気をつけなければいけないことだ」
「先生」
と、ピリポが口を開いた。
「私たちは小さい時から律法学者のことを師、師と呼んで見習ってしまう癖がついていますけど、あの人たちのどんな点が最も間違っているんですか」
イェースズは微笑んでうなずいた。
「私は、対立の想念を持つことはよくないから否定も批判もしないけど、誤りは誤りとして正していかないとね。第一に、人々を導く役が人々の前で天国の門を閉ざして人々を入らせないようにしているだけでなく、自分も入ろうとしないんだ。それも、そんな意識は当事者たちは持っていないから始末が悪い。今言ったように律法に人知の尾びれをつけて実践不可能にしてしまっているし、中にはまあ一部の人だろうけど未亡人の家を食いものにしているような輩すらいる。そして見栄のために、長い祈りを捧げる。とにかく霊的に無知になっているから、指導される方はたまったものじゃない。本来は人々を霊的に導いていかなければならないはずの専門家が、霊界の仕組みや霊界の置き手に全く無知でいらっしゃる。祭司さんたちなんか魂の転生再生はおろか霊界の存在、霊魂の実在さえも否定しておられるんだから何をか言わんやだよ。これじゃあ目が不自由な人と同じでね、そんな人々が同じように目が不自由な人の手引きをしているんだから、危ないっていったらありゃしない」
使徒たちの目は、イェースズに釘付けになっていた。
「十分の一税を厳守していることなんかを誇りにしている人もいるけどね、もちろんそれも大事なことだけど、でもそういった伝統に執着するあまり、律法の中でもっとも大切な愛の実践をないがしろにしている人もいるんだ。この間話したエリコへの砂漠の中での、盗賊に襲われた人の話の通りだよ。あの時はみんないたよね?」
使徒たちは、一斉に返事をした。
「あの時は、聞いていたのが当の律法学者だから、砂漠で倒れた人のそばを最初に通りかかったのをレビ人ということにしておいたけど、本当はパリサイ人の律法学者だって言いたかったんだよ。それに、ガリラヤにいる時の話だけど、私やあなた方が食事の前に手を洗わないと目くじらを立てた人もいた。この中の何人かは、その時いたよね。でも、確かに食事の前は手を洗った方がいいが、彼らは外面はそうやってよく洗うのに内側を洗わない。いや、どうやって洗ったらいいのかも分からなくなっている。この杯の」
イェースズは近くにあったぶどう酒の杯を高く掲げた。
「外側はきれいに磨いても、内側は全く洗わないで次の日もぶどう酒を入れて飲んでいるのと同じだ。内面を洗って霊的に浄まるということが、心とからだをも清めるということが分かっていない。霊的なことが全く分からなくなって、心の教えにとどまっているからだよ」
イェースズはそのまま掲げた杯のぶどう酒を飲み干したので、使徒たちはまた笑った。
小ユダが、顔を上げた。
「じゃあ。彼らの教えはモーセの教えとは違うものになっているんですか? 先生はさっき、彼らの教えはモーセの教えだから間違いないとおっしゃったじゃないですか」
「いや、根本は間違っていない。根底にあるのはモーセの教えだからね。でも、どこかが違ってきている。どんどん人知の尾びれがついている。しかしそれも悪意からではなくて、自分たちはそれが正しいと思いこんでいるから始末が悪い。でも、やはり神様の眼からご覧になったらずれているんだね。それに、神様のご計画だって、もう何千年もたてば進んできているはずだ。昔の迫害された預言者の墓を立てて、自分たちはその預言者の血を流した人々の仲間ではないってことが最近になって盛んに言われるようになったどね、今のこの時代の神殿にモーセが現れて説法をはじめたら、彼らはモーセを石打ちの刑にしてしまうだろうね」
驚きの声が、何人かの使徒から発せられた。
「人造化衣で身をかため、人知の儀式と形式ばかりを追従する人は、偽善者といわれても仕方がない。彼らも一日も早くそのへんをサトって、祭司、レビ人、律法学者の化衣人造位階を脱ぎ捨てて、頑迷の目を、手を斬り下ろして、神様の前に一列揃いすることが、神様のみ意なんだよ。だから、モーセの原点に元還りするべき時だね、今は」
イェースズはそこまで一気にしゃべって、使徒たちに食事を続けるように促した。
それの数日後、イェースズは手続きを取って十二人の使徒たちといっしょに神殿に参拝し、参拝が終わって美門まで出てきた。そしてその門の脇には、奉納箱が置いてあった。
「そう言えばこの間ナタナエルとアンドレだけをつれてきた時に、学者さんたちは税のことでいろいろ言ってきたそうですね。ナタナエルから聞きましたけど」
と、ペテロが聞いた。イェースズがうなずくと、さらにペテロは言った。
「この神殿への献金はどうなのでしょうか」
「もちろん、必要だ。その時も言ったのだけど、神様からお借りしたものは神様にお返しすべきだ。ただ、お金を入れればいいってものじゃない。神様は高利貸しじゃないんだよ。神様はお金を必要としておられない。現界的には、ここに入れたお金は結局レビ人や祭司の給料になる。それならば入れない方がいいのかというと、とんでもない。神様は、本当は人間からお金なんかもらわなくてもいい。ただ、そのお金に込められた人間の真心をお受け取りになるんだ。だから、お金を入れるという形式だけじゃ何の意味もない。それこそ宗教屋さんたちを太らせるだけだ。そうではなくて真心を神様にお捧げする、それを形に表すのが献金なんだよ」
イェースズは、奉納箱のそばで立ち止まった。周りを参拝の人々が、イェースズには無関心にどんどん神殿の方へ流れていく。
「神様から頂いているご守護への感謝、今もこうして生かさせて頂いているということへの感謝が大事だ。何事もなく平穏に暮らせているというのが、最大のご守護でありお恵みなんだよ。そのことへの感謝と、さまざまな罪と穢れのお詫びとアガナヒ、そういったことを形に表してこそ真が神様に通じるんだ。そのための手段が、献金なんだね。人間がいちばん執着を持つのが金だ。その執着を断って神様に捧げられるか、その心を神様はご覧になっている。要は心だ。真心だ。だから、もったいないなあというようなけちな心で献金したり、仕方がないと義務感で献金したりしたらその心が神様に通じてしまうから、かえって御無礼になる。そんな心の時は、献金するのはやめた方がいい」
「それにしても、みんないくらくらい入れているんだろうか」
神殿税は額が決まっているが、こういう所での献金は任意である。だから、イスカリオテのユダが、嘯くように言った。イェースズは笑った。
「額の大小じゃないんだよ。神様はその人の財布の中身までご存じだ。だから、分に応じてさせて頂けばいい。例えばここで金持ちの人が、多額の献金をしたとしよう。でも、そのあとである未亡人が、最少額のレプタ銅貨を二枚入れたとしたら、どっちがたくさん入れた?」
普通に考えれば金持ちの方だが、イェースズが言うことである以上そういうことではないだろうと察して、使徒たちは皆首をかしげていた。
「もう、答えは分かっているね。金持ちはあり余っている中からその一部を献金したんだけど、未亡人にとってはそのレプタ貨二枚が収入のほとんどだったんだ。さあ、どっちだ?」
使徒たちは異口同音に、
「未亡人です」
と、答えた。
その時、石段の上から役人が降りてきた。
「あのう、邪魔なんですがねえ。どいてくれませんか」
使徒たちが奉納箱を囲むように立っているので、献金したい人たちができずに待っていたのである。イェースズは慌てて詫びを言い、使徒たちを端に寄せた。