1
炎天下であった。
乾季であるから土地も乾き、歩くたびに砂ぼこりが舞い上る。
一行はイェースズを先頭に歩いていた。緑の多いガリラヤ湖の西岸を南下しているうちはまだよかった。ガリラヤ湖の南端まで行っても、そのままヨルダン川沿いに進めばまだしばらくは緑地が続く。だが、彼らは南西に進路を取った。イェースズの言葉通り、サマリヤを通るのである。そうなると、砂漠を越えて行かねばならない。
サマリヤの人々はユダヤ人であってもエルサレムの神殿とは別の神殿を奉じているため、一般のユダヤ人からは穢れ多き異教徒と蔑まれ、豚のごとく貶められていた。サマリヤの地はかつてアレキサンダー大王の時代に異民族が移り住んだ地域で、この地のユダヤ人と混血した。そんな訳でバビロン捕囚からの解放後に帰還した純粋なユダヤ人とは反目し、この地は異教化したのである。しかしイェースズにとっては律法学者もおらず、ヘロデ王の目からも逃れられる格好の通路であったし、実際にはヨルダン川沿いよりも近道になるのだ。
歩き始めて二日が過ぎ、サマリヤ人にとってのエルサレムに当たるゲリジム山が見えてきた。ちょうど昼ごろで、日ざしが強い。そんな陽光を受けて輝く山は二つあり、どちらもそう高くはない丘という程度の山だ。左がゲリジム、右がエバル山で、ゲリジム山が若干の緑に覆われているのに対し、エバル山は完全に不毛の岩だけの山だった。そのふもとにスカルの町があった。
「ヤコブの井戸のある町ですね」
と、トマスが言った。
この一帯はかつてイスラエル人の祖であるヤコブが息子のヨセフ、すなわちエジプトで宰相になったあのヨセフに与えた土地だったという。かつてはシケムと呼ばれたそのスカルという町にヤコブが自ら掘ったといわれている井戸があるということは、ユダヤ人なら誰でも知っている。しかしそれは、幻の井戸だった。なぜなら今やスカルは異教徒の国、サマリヤの真ん中にある。だから、ユダヤ人はその伝説の井戸を実際に見ることは困難だった。その夢のまた夢の伝説の井戸が見られるというのだから、使徒たちは誰もが狂喜していた。
スカルの町に入って、井戸はすぐに見つかった。見つけてみると何の変哲もないただの小さな井戸で、本当にこれが伝説の井戸なのだろうかと誰もが半信半疑だった。
「伝説なんて、そんなものさ」
と、イェースズは笑って言った。だが、この井戸は今でも現役の井戸なのである。ちょうど昼時で皆が空腹を感じているだろうと、イェースズは使徒たち全員を町へパンを買いにと行かせた。井戸のそばに、イェースズが一人で残る形となった。ここはまだ町はずれで、井戸の周りにはわずかばかりの畑と木立の中に民家が点在していた。
しばらくすると、一人の若い女が水瓶を手に水を汲みに来た。朝や夕方ならともかく、こんな真昼間に水を汲みに来るなど、よほどいわくつきの女のだろうと誰もが思うはずだ。人目を避けているとしか思えない。
イェースズは彼女が井戸から水を汲み上げるまで、少し離れた所の石に腰掛けてじっと見ていた。
やがて水を汲み終わって歩いてくる女がイェースズの近くを通ろうとしたが、イェースズに気づいて思わず目が合った。女は慌てて目をそらして避けるように立ち去ろうとしたが、イェースズはにこりと微笑んで女を呼んだ。
「すみませんが、その水を一杯頂けませんか? のどが渇きましてね」
女は立ち止まったものの、その表情をこわばらせた。
「あなたは、ユダヤのお方では?」
女の目は、イェースズを見ずに地面の方を向いていた。
「そうですけど」
少し驚いたような表情が、女の顔にさした。
「どうしてユダヤの方が、こんな所に? そしてサマリヤ人で、しかも女である私に話しかけてくるなんて」
イェースズとて若い男性なのだ。やたらと若い女性に声をかけるものではない。だがイェースズは微笑んだまま、女のそばに歩み寄った。
「サマリヤ人とかユダヤ人とか、そんなこと誰が決めたんですか? みんな、同じ神の子ですよ。兄弟なんですよ。何々人とか言って区別したりお互いに争ったりするのは、人間が人知で勝手に作った垣根なんですよ。そんなのは、神様からご覧になれば実にばかばかしいことです。いいですか。互いに兄弟である全人類の共通の親神様である最高の神様の教えを耳にしたならば、あなたの方から私に水をくれって言ってくるんじゃないですかね」
「え?」
女は怪訝な顔をした。
「私があなたに、水をくれって言うんですか? だってあなたは、水を汲む道具をお持ちじゃないじゃないですか。ここの井戸は深いんですよ。それにこの井戸は、ヤコブの井戸なんですよ」
「ええ、知ってますよ」
「私たちはいつもこの井戸から水を汲んでいますけど、それはヤコブから水をもらっているってことなんです。それなのにあなたが私たちに水をくれるなんておっしゃいましたけど、あなたはヤコブよりも偉いんですか?」
「みんなのどが渇くと水を飲みますけどね、そんな水はいくら飲んでも時間が立てばまたのどは渇くんです。でも、私があげようと言った水は霊的な渇きを潤すものでしてね、つまり霊的な教えのことをいうんです。その水を飲めば、二度と渇くことはないんです」
女はまだ怪訝な顔をして、水瓶を持ったまま首をかしげていた。
「そんな、飲めば二度とのどが渇かない水なんて、そんな水があるんでしたら頂きたいものですわ。そうすれば毎日、ここに水を汲みに来なくても済みますからね」
「じゃあ、その水を差し上げますから、ご主人も呼んでいらっしゃい」
「私、夫なんかおりません」
「そうですね」
こんな昼間に人目を避けて水を汲みに来るってことだけでも女の素性は分かりそうなものだが、笑いながらもイェースズはさらにその霊眼で女の想念をすべて読み取っていた。
「あなたには特定の夫がいない。もう五人の男性と、夫のような生活はしてきましたけどね」
女の目が見開かれた。そしてその手から水瓶が滑り落ちて、地面で音をたてて砕けた。それでも女は、全身を硬直させていた。
「どうして、どうしてそんなことを……。私の素性を、誰から聞いたんですか?」
「誰からも聞いていませんよ。あなたの心の中を、ちょっと見せて頂いただけです」
女は地にこぼれて広がった水も気にせず、イェースズの足元にひざまずいた。
「あなたは、あなたはいったい、どなた……なのですか? よ、預言者?」
イェースズは微笑んだだけで、それには答えなかった。女はひざで歩いてイェースズににじりより、その衣の端をつかんだ。
「あなたは、ユダヤ人の預言者ですか? 教えて下さい」
「私はね、ユダヤ人のとかサマリヤ人のとかそういうのではないし、ましてや預言者ではありませんよ。何々教とか何々宗とかの宗門宗派という人知の垣根を壊すためにきたんです」
「じゃあ、一つだけ教えて下さい。あなた方ユダヤ人は、なぜエルサレムの神殿こそが本物で、私たちのゲリジムの山の神殿は偽者だなんて言うんですか?」
「私は、そんなことは言いません。時が来たらエルサレムでもゲリジムでもない所で、人類共通の親神様を斎き祭る時が来ます。天地の創造主であるその最高の親神様をお祭りするその場所では、大きな祭りが行われるんです。人類史上、かつてなかったほどの盛大な祭りなんです。そこには全世界全人類が宗門宗派の壁を取り払って、男も女も老いも若きもこぞって、金持ちも貧乏人も関係なく参列する大真祭が行われるんです」
「それはどこなんですか? その祭りは、いつ行われるんですか?」
「いつかなどということは、私にはどうでもいいことです。でも、いつかは来るということは確かです。終わりの時代に、全世界の人が心を一つにして神様を拝む巨大な黄金神殿が、高い山に造られるんです。それはエルサレムでもゲリジムでもない山で、人々はそこで全霊の神理のみ言葉で神様を拝します」
「その山って、どこなんですか?」
「ずっとずっと東の国ですよ。あなた方も、ユダヤ人も知らない東の国で、その国の名は」
イェースズがそこまで言いかけた時、ざわめきが近づいてきた。使徒たちが戻ってきたのだ。すると女はすくっと立ち上がり、
「偉大な預言者が来られたことを、みんなに告げ知らせてきます」
と言って、砕けた水瓶など気にもとめずに駆けだした。女は使徒たちとすれ違う形となったので、使徒たちもちらりと女を見た。
「ご苦労だったね」
イェースズはニコニコして元の石に腰をおろし、使徒たちをねぎらった。使徒の何人かは女の後ろ姿に首をかしげながらも、十二人そろってイェースズを囲み、円座になって足を投げ出し、体を横たえて座った。イェースズの座っている石の背後には、オリーブの木が茂っていた。
「ところで、トマス」
と、イェースズはトマスに顔を向けた。
「あなたは出発する時、刈り入れまであと四ヶ月もあるのにって言ってたよね」
「はい。確かに仮庵祭まであと四ヶ月もありますけど」
「うん。畑の麦の刈り入れは確かに四ヶ月先だけど、あなた方の収穫の時は今だ」
「え?」
トマスだけでなく、誰もが怪訝な顔をした。それを見てイェースズは笑って遠くを指さした。
「あれをご覧」
使徒たちがイェースズの指さした町の方角を一斉に振り返ってみると、砂ぼこりをあげてこちらに向かってくる一団があった。
「さっきの女が私のことを言いふらして、人々を集めてきたんだろうな。私はこの町に神の教えという種をまいたけど、それを刈り取るのはあなた方だよ」
「でも先生」
小ヤコブが、不服そうに顔を上げた。
「先生もおなかがへっておられるでしょう? せっかくパンを買ってきましたから」
それを聞いて、イェースズはまた笑った。
「神様のみ意のまにまにその業を成し遂げる方が先だよ。神様と波調を合わせて、そのみ意を地に成り鳴らせていくんだから、ちょっとくらいの空腹なんてどうでもいいじゃないか」
イェースズがそのようなことを言っているうちに、群衆はそばまで来ていた。先頭はさっきの女だ。
「この方です」
と、女は人々にいった。本来なら人目を避けるべき町でも有名な男たらしの女なのに、イェースズを紹介するに当たっては実に堂々と臆する様子も見せていなかった。
「この方が、私の心の中まですべて言い当てられた預言者です」
群衆はざわめいた。長老ふうの頭のはげた老人が、一歩前に出た。
「人の心の中を読めるというのは、たしかに預言者の印だ。しかし、あんたはユダヤ人ではないのか。我われサマリヤ人を豚のごとく軽蔑しているユダヤ人じゃろ。たとえ預言者だったとしても、ユダヤ人ならわれわれには何も話してはくれまい」
それを聞くとイェースズは、ゆっくりと群衆のそばまで行った。そして、
「皆さん」
と、ゆっくり話しはじめた。
「ユダヤ人である私が皆さんと話をするのは、何も不思議なことはありません。神様はすべての人類の親神様で、ユダヤ人だけの神様でもないし、サマリヤ人だけの神様でもありませんからね。ユダヤ人もサマリヤ人も、そしてギリシャ人やローマ人だって、全世界全人類誰一人例外なく、すべて同じ神様の御手によって創られたのではないですか。すべての人類は、等しく神の子なんですね。神様の愛は、すべての人に平等に注がれています。私はガリラヤから来ましたけど、ガリラヤでもここでも同じ太陽が同じように光を与えてくれています。何ら変わりはありません」
人々は水を打ったように静まり返って、イェースズの話に耳を傾けていた。イェースズの金口の説法にはその言霊に神の光が乗り、それが黄金のパワーとなって人々を包んでいた。
「サマリヤに一歩入ったら急に太陽の光が暗くなったなんて、そんなことはありませんでしたよ。いいですか。私はサマリヤ人だか吸う息も半分でいですとか、私はユダヤ人だから三分の一でいいですなんて、そんな訳にはいかないでしょう? 神様の大愛の中で生かされ育まれていることを考えたら、サマリヤ人だのユダヤ人だのという人知で作った垣根なんて、どこかへ飛んで行ってしまうと思いますけどね」
人々の間で歓声が上がった。自分たちをさげすんでいるユダヤ人の口からこんな話が聞けたということは、彼らにとってものすごい感激だったようだ。
「確かに、本当に預言者だ!」
「いや、メシアだ!」
と、そんな声が群衆の中からあがった。
「どうかしばらく、この町でお話しをしていってくださらんか」
そう頼んだのは、最初の長老ふうの男だ。イェースズに異論があるはずがなかった。これまでも、異邦人の町で説法や奇跡の業を行なってきたイェースズである。しかも、目的のエルサレムでの仮庵祭は、まだ四ヶ月も先だ。イェースズと使徒たちは、人々とともに町へと入って行った。
町に入ったイェースズは、早速群衆とともに広場に行った。そこにはさらに別の群衆が、イェースズの到来を待っていた。だがそのほとんどは面白半分に集まった人々であり、イェースズが預言者だという風潮に対しては半信半疑のようだった。
ところがイェースズが始めたのは、説教ではなかった。人々に体の不具合はないか聞いて、使徒たちと手分けしてそれを癒していった。これだけの人が集まると、みんなどこかに体の不調があるものである。十三の列に並ばされた人々は順番にイェースズや使徒たちの手からのパワーで次々に癒されていき、歓喜の渦が広場にまき起こった。
そのうち一人が、町でも発狂者として手をつけきれずにいるという男を連れてきた。そこでイェースズが直々に、その男を座らせて眉間に手をかざした。ほかの使徒たちの列に並んでいた人々もこの町では有名な発狂者だけに、丸く人垣を作ってイェースズの業を見ていた。
やがて男に憑いていた霊が浮き出てきて体を振るわせはじめたので、イェースズは懇々とその憑依霊をサトした。
「あなたの執着心が、そのまま地獄を作り出しているんですよ。ましてやあなたは幽界脱出の大罪を犯してこの方にとり憑き、この方のお邪魔をしてこの方を苦しめている。あなたは大変なことをしているのですよ。あなたを救えるのは、あなた自身です。あなたの想念転換だけなんですよ。早くあなたが本来いるべき幽界に帰って、修行ができるように神様に祈ることです」
しばらくしてから男の体の震えは止まり、見るみる間に正気に戻っていった。人々はただ驚くばかりで、声をあげてその様子を見ていた。
それからもイェースズは人々を癒し続けていたが、夕方近くになって群衆の悲鳴と共に、けたたましい馬の蹄音が響いた。そして広場に乱入して来た馬の上の役人は、イェースズを見下ろして言った。
「そなた、ユダヤ人でありながら、何しにここへ来たのだ」
居丈高な役人の怒声にも、イェースズは笑顔を失わなかった。
「そなたはこの町で変な宗教を流行らせ、分裂させることによってサマリヤを滅ぼそうとしているユダヤの手先だろう。そうはさせないぞ」
どこの地域にも、パリサイ人のような人々はいるらしい。イェースズは役人を見上げた。
「あなた方は?」
「ゲリジムの神殿にお仕えする祭司様の手のものだ」
「ではお帰りになって、あなた方のご主人にお伝えください。私はご心配しているようなことは毛頭考えておりません。私は霊障に苦しむ人々を救い、病を癒し、神理の福音を説くために来たんです。他意はありませんよ」
役人はそれだけを聞くと、黙って馬頭を回して立ち去った。群衆たちは心配そうにざわめいて、イェースズを取り囲んだ。
しばらくすると、祭司が自ら歩いて広場に入ってくるのを、イェースズは見た。そして祭司がイェースズのそばまで来ると、イェースズは相手に有無を言わさないほどの素早さで、ニコニコしながら祭司の手を握った。
「シャローム。愛和で力を合わせましょう。そうすれば人類は栄えます、分裂は滅びです。私はあなた方をお助けするために来たのであって、妨げるために来たんじゃありません。サマリヤ人、ユダヤ人、ギリシャ人など、すべての神の子が愛和団結することが重要なんです」
たちまちイェースズの霊流エネルギーが握った手を通して、祭司の霊体を包んだ。最初はこわばった顔をしていた祭司だったが、何かが満たされたと感じたようで、次第にその顔もほころんでいった。心配して静まりかえっていた群衆の間からも、歓声が上がった。イェースズは言葉を続けた。
「神様はすべての神の子が愛和団結すること、そして神と人との一体化、神人合一までお説きになろうとしておられます。でも神の教えはまず自分が実践して生活の中で証をしなければ、人々を救うことはできないんです」
祭司はイェースズに手を取られたまま、しきりにうなずいている。
「祭司様は、神様の僕です。みんながあなた方に、霊的指導を求めているんですよ。人知の掟は捨てて、まずあなた方が霊的に目覚めて下さい。人々にこうしろとかこうなってほしいとか言う前に、まず自分がそういうふうになり、そういうふうにするんです」
その時、イェースズの方に駆けてきて、その足元にひざまずいた女がいた。見ると泣いている。
「あなたはすごい力をお持ちなんでしょう? 母が、死にそうなんです」
「お母さんが、どうされました?」
「熱病なんです。とてもここへは、つれて来られるような状況じゃありません」
「そうですか。それはお気の毒に。落ち着いて、気をしっかり持ってください」
イェースズはそう言ってから、両手を合わせて強く念じた。その念の力はパワーとなって、たちまち女の家の方へ飛んでいった。その同じ時刻に、女の母親は癒されていた。
イェースズのうわさは、サマリヤ全土に瞬く間に広がった。彼らはスカルに数日滞在した後、どの村に行ってもたちどころに群衆に取り囲まれた。人々の病を癒し、教えを告げ、そうしているうちに月日はどんどんたっていった。結局スカルからユダヤまでの境界は目と鼻の先であるのに、ユダヤ領に入るまで一ヶ月かかったことになる、。ちょうど暑さが絶頂を極める頃で、この時期を過ごせば日一日と秋になっていくはずだ。
いよいよ明日はサマリヤを出るという最後の晩、夜になっても群衆は去らなかったので、イェースズはその霊魂を浄めるために一斉に火の洗礼の業を施した。その後、一人の若者がイェースズのそばに来た。
「質問してもよろしいでしょうか?」
その言葉にイェースズはニッコリ笑って、穏やかに言った。
「どうぞ、何なりと」
あたりはもう暗く、人々の手のランプだけが広場を照らしていた。
「師は全人類が救われるのが、神様のみ意だとおっしゃいましたね」
「そうですよ。すべての人類は神の子だから、神様からご覧になれば一人残らずかわいくてしょうがないんです」
「でも全人類の数に比べたら、師と出会って教えを聞ける人の数なんて、ごく一握りじゃないですか? それでも師の弟子にならないと救われないのなら、神様は無慈悲だって気がするんですけど」
「そうだね。そう考えるのも無理はないね」
微笑んで若者にそう答えた後、イェースズは再び群衆の方を向いた。
「皆さんも聞いてください」
そして今の若者の質問をイェースズの口から群衆に伝え、そしてイェースズはさらに言った。
「では、救われるっていうことはどういうことなのでしょうか。救われるというのは、結局神様の幸せの門に入れて頂けることですよね。でもその門は、すごく狭いんですね。言葉を換えて言いますと、真理の門はすごく狭いんです。なぜなら今の世の中は、一切が真理と反対の方向へと流れているんです。逆さまなんです。逆なんです。逆の世なんですね。世間で言われる常識という波に乗ってしまったら、今はまだいいですが、でもやがて時が来れば一気に滅びの道に入って行くことになるんです。その滅びの門はとても広くて楽に入れるんですよ。皆さん、感謝をしなさいって言われて一所懸命訓練しますよね。でも、不平不満や怒り、ねたみ、人の悪口なんて、訓練しなくっても楽にすっと出るでしょ。でもそこで、方向を転換しなければならない」
イェースズは一度そこで息をついた。人々は静まりかえっている。
「私も最初はよくペテン師だの詐欺師だの、大ほらふきだのとかよく言われたものです」
あくまでもイェースズはにこやかに、ゆっくりと話をしていた。
「でも人から何と言われようとも、私の正しさは神様が証明してくださる。皆さんもご覧になったように、どんどん救われの事実が出たじゃないですか。世の中で常識といわれていることが神様の世界から見ると案外非常識だったりするんです。そして、非常識だと思われるようなことが実は常識だったりするんですね。だから、人知では判断は難しい。いや、危ないです」
分かったのだか分かっていないのか、群衆は一応うなずいて聞いている。
「そうでしょう? 皆さんは病気をしたらクスリを飲む。これが常識です。でも、せっかく神様が体内の毒素を溶かして排泄させて上げようというお仕組みをクスリで止める。神様からすると、それは非常識なんです。熱が出た、鼻が出た、下痢をした、みんな有り難いことですよね。体の中がきれいになるんですから。だから、ああ、有り難いと感謝する。それが常識なのに、世間の人々はそれを非常識と言う。全くもって変な世の中になったものです」
イェースズの話に熱が入ってきた。
「それで先ほどのご質問ですけど、私の弟子になるかならないかなんていう形式じゃないんですよ。要はいかに自らが自覚して、狭い門を自力で見つけるかです。もちろん皆さんは今ここで私がお伝えさせて頂いている神様のみ教えを聞くことが許されていますし、それは千載一遇のことと言ってもいいでしょう。しかしですね、神様の教えは全人類に普遍の教えなんですから、やがては全人類に広まるはずです。そして今はまだ私には皆さんに告げることは許されていないすべての神理が公開される時も、やがて来るでしょう。それでもまだ広い門の方を求めているようでは、その後すぐに神様の狭い門はバタッと閉じられてしまうんです。例えば門限が過ぎて家の戸が閉められたら、それに遅れて戻ってきた召使がいくら戸を叩いても戸は開けてもらえないでしょう? その時に『私はあなたといつもいっしょにいたじゃないですか』って叫んでも、主人は『おまえなんか知らない。さっさと出て行け』って言うんです。これと同じで、いくら私の話を聞いて、私の弟子になったとしても、形式だけそうであって中身が伴わない、内面的な想念転換ができない人は、私は『あなたなんか知らない』と言いますよ。冷たいようですけど、これが神様のお示しですから仕方がないんです。ましてや私を『主よ』なんて呼んで崇め奉るなんて本末転倒、言語道断でしてね、私を崇めている暇があったら私がお伝えさせて頂いている神様のみ教えを生活の中で実践することです。そっちの方がよっぽど大事ですし、神様のみ意とも合いますから早く救われに入っていけるんですね。私が皆さんをおんぶに抱っこで救われの道につれて行ってあげるのだなんて思っていたら、大きな間違いです。自分の足で歩くしかないんですよ。そして自分の足で神様のお宮までたどり着いたとしてもちょっと中を見て『ああ、素晴らしい。いいものを見せて頂いた。有り難うございました。はい、さようなら』で回れ右、後は地獄へ一目散って人が多いんですね」
人々は、どっと笑った。
「そして門が閉じられてから慌てて戻ってきても、もう遅いんです。ですから神様のお宮の門にたどり着いたのなら中へ入れて頂いて、お庭を拝見させて頂いて、お宮の中にまで入れて頂いて、いちばん奥まで通される人になってください。そこにはアブラハムやイサク、ヤコブなど皆さんのご先祖や預言者はもちろん、いろんな賢者が世界中から集められています。ただそこでは、後のカラスが先に立ったりしますよ」
その時、数人の男たちがイェースズの前に出た。どうやらその服装からユダヤ人でいうパリサイ人のような聖職者のようだったが、パリサイ人のようなどす黒い波動はイェースズは感じなかった。
「あなたは素晴らしい。感動しました。あなたの教えには黄金の光が乗っています。でも、私たちはあなたに、あることを伝えなければなりません」
「何でしょう」
イェースズはすでにこの男たちが言おうとしていることは分かっていた、あえて聞いた。
「早くサマリヤを出て、ユダヤに戻った方がいいですよ」
「それは、なぜです?」
「サマリヤはガリラヤと同じヘロデ王が治めていますけど、そのヘロデ王があなたを殺そうとしているようなんです」
ヘロデ・アンティパスがその焦燥感からヨハネを殺し、今度は自分に矛先が回ってくるであろうことは、イェースズはすでに知っていた。男たちはイェースズがユダヤ人だから、エルサレムのあるユダヤから来たと思い込んでいるようだ。だから、ヘロデ・アンティパスの領有するサマリヤにいては危ないと警告したようだ。しかし、イェースズは言った。
「実は私は、ガリラヤから来たんですよ」
男たちは一瞬怪訝顔をした。ガリラヤならサマリヤと同様にヘロデ・アンティパスの支配下だし、むしろそのお膝元でさえある。自分たちの忠告は無になってしまったわけだ。だが、イェースズは優しく微笑んだ。
「ご忠告、感謝致します。有り難うございます。ただ、もともと私どもはガリラヤからエルサレムに向かう途中にこのサマリヤを通っただけですから、これからエルサレムに向かいます。ただ、私はヘロデ王から逃げるためにガリラヤを後にしたのではなくてですね、多くの苦しむ人々を救わせて頂くのが目的なんです。その救いの業を完成させるためには、どうしてもエルサレムに行かないといけませんからねえ」
イェースズに忠告した男たちは、ああそうですかという感じで拍子抜けに聞いていたし、同時にそれを聞いていた使徒たちでさえイェースズの言う奥深い真意は分からずにいたようだ。
そのイェースズの言葉通りに、翌朝になるとイェースズは使徒たちとともにエルサレムに向けて出発した。程なくサマリヤの領域を抜けてユダヤに入った。
「いやあ、驚きましたね」
と、ペテロが歩きながら言った。
「サマリヤの人々って、ガリラヤの人よりも温かいんですね」
ヤコブが、それに相槌を打った。
「聖職者でさえ、先生の言葉にス直に回心したじゃないですか。あれにはびっくりしましたね。ガリラヤのパリサイ人たちの頑固さとはえらい違いだ」
イェースズは微笑んでそんなやり取りを聞き、そして口を開いた。
「ユダヤ人が豚のごとくさげすんできた異教徒の人々があんなに人情厚く、あんなにも神の前に従順なんだよ」
「そんな彼らを忌み嫌うユダヤ人の方が、なんだか不遜にも思えてきますね」
と、トマスが吐き捨てるように言った。
ユダヤに入ると耕地はめっきり少なくなり、灌木が点在する半砂漠地帯となっていった。道も平坦ではなく山がちになり、岩だらけの山襞の間を進む。
ここはすでにヘロデ・アンティパス領ではないが、その代わりにローマの属州であり、ローマが派遣する知事のポンティウス・ピラトゥスが治めている。そのピラトゥスがまた、先代のヘロデ大王やその子でかつてこの地域を治めていたヘロデ・アルケラオスに輪をかけての暴君だという。だがその暴君もヘロデ・アルケラオスは私利私欲のためだが、ピラトゥスの場合はローマの出先機関、つまりローマの一部としての暴君なのだ。普段は海辺のカイザリヤに駐在しているので、エルサレムにはいない。
道はますます険しくなり、昼間は容赦なく照りつける陽射しのためにほとんど進めず、夕方近くになってやっと距離を稼ぐしかなかった。
その道も次第に平坦になってくると、前方の不毛の砂漠の中にうっすらと緑が横たわっているのが見えてきた。砂漠の中の巨大なオアシスともいえる町が、エリコだった。かつてモーセに率いられた出エジプトのユダヤ人たちが、ヨシュアとともに最初に攻めた町がこのエリコだった。ラッパの音で崩れたという伝説の高い城壁は今はなく、申し訳程度の石垣に囲まれた町に一歩入るとそこは至る所に緑が見られ、特にナツメヤシの背の高い木が町全体に点在して見えた。実際、出エジプトの時のエリコと今イェースズたちが足を踏み入れたエリコは、場所として位置が少し違っている。
ここまで来ると塩の海も近いし、エルサレムももうすぐだ。だが距離にしてすぐでも、エルサレムとの間には、名だたる荒野が立ちふさがっている。実際、町のすぐ近くまで岩肌むき出しの山が迫っているのだ。町じゅうが砂ぼこりで霞んでいるように見えるのも、すべて砂漠からの砂が舞い上がっているからである。
そんなエリコにイェースズたち一行が入ると、すぐに町の一部の人々の間で大騒ぎになった。うわさがサマリヤからユダヤに流れるはずはないから、イェースズがガリラヤを後に旅に出たという情報がデカポリスの方へ流れ、そしてこの町にも来たらしい。
もう夕暮れ近かったので、イェースズはまず泊まる所を探し
た。ところが人々はイェースズたちを取り囲んで、どんどんついてくる。その中には、ガリラヤで解散したはずの弟子たちの中に見た顔もいた。
「ダビデ王の子孫!」
群衆の中で、小さな叫び声が上がった。しかしすぐにそれは取り囲む人々のざわめきに消された。
「ダビデ王の子孫」
また、聞こえた。
ペテロはすぐその声の方へと、人をかき分けて走っていった。ダビデ王の子孫とは、救世主の代名詞だ。聖書には、メシアはダビデ王の子孫から出ると書いてある。
ペテロに連れてこられたのは、盲人だった。それまで着ていた服すら脱ぎ捨てて上半身裸になり、その初老の男はイェースズのそばに手さぐりで進んだ。
「なぜ私を、ダビデ王の子孫などと言うのですか?」
イェースズはその盲人にそう尋ねた。
「みんなの足音がいつもより激しいので何事かと尋ねてみたら、ガリラヤのイェースズ師が来られたといいますから、ここまで来たんです。あなたこそダビデ王の子孫としてお生まれになった方だと私は思っているのです」
「あなたは何がお望みですか?」
「目を治して下さい」
「治りますとは私には言えませんが、神様にお願いしてみましょう。治るかどうかは、神様のみ意です。私には断言できません。あなたも強く神様に念じてくださいね。お名前は?」
「バルテマイと申します」
イェースズはしばらく神に念じた後、バルテマイと名乗った盲人の前にかがんで親指を目から少し離して当てた。指からもイェースズの霊流は放射され、しばらくそうした後、今度は背後に回って後頭部に手をかざして霊流を目に向けて貫いた。
「あっ!」
バルテマイは、鋭い大声を上げた。その声は、周りの人々のざわめきをぴたっと止めるのに十分だった。
「見える! 見えるぞ!」
ついさっきまで盲人だったバルテマイは立ち上がって踊りまわり、涙を流しながら再びイェースズの前にひざまずいた。
「有り難うございます! ご恩は忘れません」
「私が治したんじゃないんですよ」
イェースズはニッコリと微笑んだ。
「あなたの信仰が、あなたを救ったんです。あなたの信仰の厚さが、救いとなったんです。この業は施す方の想念は三分で、受ける方の想念が七分なんです。さあ立って、私についてきなさい。これから私が伝えさせて頂く神様のみ教えをよく聞いて、日々の生活の中でそれを実践して、今度はあなたが寄り多くの人を救っていくんです。そうやって神様の御用にお使い頂くことが、何よりのご恩返しですよ」
イェースズはバルテマイの肩に優しく手を置き、また歩き出した。
しばらく行くと、大きなイチジク桑の木があった。根本が二股に割れ、幹はずんぐりしているが広く枝を張って、そうとう大きな木だった。その木に登ってこっちをうかがっている男がいることに、イェースズは気がついた。服装を見ると高価な綾がふんだんに使われた服を着ており、そういった身なりのよさから、その若くて小柄な男は明らかに収税人だとすぐに分かった。その想念をイェースズは、素早く読み取った。親譲りの収税人という職に就いたが、それゆえに人々に嫌われ、、友もなく寂しい思いをしている孤独な男のようだった。だがその魂は透き通り、輝いてさえいるのがイェースズの霊眼に写った。そこでイェースズは立ち止まり、イチジク桑の木を見あげた。
「何をなさっているんですか?」
「あ、あのう」
木の上の若い男は、慌ててとっさに答えられなかった。
「どうしてそんな木の上にいるんです?」
「いえ、あの、町じゅう大騒ぎしてるもんですから。何でも不思議な力で病気を癒す方が来られたって聞いたのでひとつこの目で見てみたい、あ、いや、お顔を拝したいと」
「それでしたら、人々といっしょに私のそばに来られればいいではないですか」
しばらくは木の上と下でのやりとりだった。
「私はみんなから嫌われてましてね。それに、見ての通り背も小さいから、町の人々の後ろからでは見えないもので」
イェースズはすでにこの男の、内心の変化を見ていた。収税人として、人々からまき上げた金で生活してきた彼は、それで正しいと思っていた。どんな手段にせよ金をもうけたものがこの世での勝利者だと思っていたのだが、今やイェースズの姿とそのアウルから発せられる霊光によって、その魂は本来の輝きを取り戻していた。主である魂が変われば従である心もそれに伴って変わっていく。その変わり目に、この若者はいる。
「下りてきませんか。ザアカイ。今夜あなたの家でお世話になりたいのですがね」
「え?」
しばらく体が固まった男は、言葉も発せられずにいた。まだ名乗った覚えもないのに、自分の名前をいきなり呼ばれたのである。イェースズの方もまた、誰からもこの男の菜は聞いていなかった。だが、相手の想念を読めば、その名前くらいすぐに分かる。
「あのう、あいつをご存じなんですか?」
群衆の中の細身の年配の男が、イェースズの前に躍り出て言った。
「ありゃ収税人ですよ。罪びとだ。そんなやつの家にお泊まりになるんですか?」
血相を変えて言うその初老の男の前に、咳払いをしてマタイが立った。そして木の上のザアカイに向かって言った。
「先生の言われる通りに、降りてきなさい」
「でも、私は確かに罪びとだ。多くの人から金をまき上げてきた。それで贅沢な暮らしをしてきたんだ。中には貧乏で明日の、明日のパンすら買えないからと泣いてすがるばあさんを蹴飛ばして、税だと称して金を取った。本当の税なんて、取った額の半分でしかなかったんだ。私は、私は……」
ザアカイは涙混じりに、叫び声を上げていた。それを聞いて、先ほどの年配の男が鼻で笑った。
「ふん、今さら何を言っても始まらんわい」
マタイはさらに木の根元に近づいた。
「私もあなたと同じ、かつては収税人だったんです。でも今は、先生の使徒にして頂いてますよ」
それを聞いて、ザアカイの眉が動いた。そしてゆっくりと木から降りてきて、イェースズとマタイの前にかがんだ。イェースズはその肩に、優しく手を置いた。
「あなたは今、過去の罪穢を詫びる心はありますか?」
「はい。あります。でも、どうやってお詫びをすればいいか」
「あなたの苦しみは、よく分かります」
イェースズは、優しい口調だった。
「その詫びる心が何よりです。あとは、あなたの罪をお許しくださった方に、どうお報いしていくかにかかっていますよ」
ザアカイは、驚いたように目を上げた。
「お許しくださった方って、あの、私の罪は、許されたのですか?」
「お詫びの証を立てるのです。あなたは何をさせて頂きますか?」
「はい、全財産を貧しい人に施します。不正にまき上げたお金は返します」
「今、あなたの家に救いが訪れました。その想念転換と、自捨新正の心こそが救いです。あなたの祖先はきっと善行を積んだのでしょう、そのお蔭であなたの家には財がある。でも、財は罪に通じるんですね。金持ちであるってことは、祖先の善行の果ですから、別に悪いことではありません。しかし財をなしたということは、あなた自身が自覚している通り、罪穢も積んできましたね。多くの方を苦しめてきましたね。そんな汚れた財産は、なくした方がいいですね」
「先生の言われる通りです」
と、マタイが口をはさんだ。
「収税人っていうのはローマからの報酬は雀の涙だから、人々からまき上げるしかありませんよね。その状況は、私は痛いほどよく分かっている。でも、人々を苦しめた罪穢は罪穢で魂が曇っていますから、そういった因縁を一度生産しないと、魂の曇りは取れませんよ」
イェースズもうなずいた。
「罪穢を積んだままだと、いつかは神様のお洗濯、アガナヒが来ますよ。神様はすべての人類は等しく神の子だから、すべての人類を愛しておられます。その愛する神の子の魂が曇っていたら、神様はきれいにしてあげようとお洗濯をしてくれます。ところが、神の愛のゆえのお洗濯なのに、人々はそれを『不幸な現象』と呼ぶんです。それがアガナヒです。でも、自分で人々を救って歩き、神様の光とミチを伝え、神様に奉仕の精神を持っていけばそれが積極的アガナヒとなって、神様からのアガナヒは受けずに済むというのが実相なんですね。自分の罪を自覚し、そういった積極的なアガナヒの行によって罪は消えます。あなたは許されるのですよ」
イェースズはさっき血相を変えた年配の男を見て、それからそこに集まって自分を囲み、事の成り行きを見ていた群衆にも言った。
「このザアカイを罪びとだと貶(おとし)めるのは簡単です。でも、どんな罪びとでも罪を自覚し、詫び、人救いに励めば罪は消えます。今日私がこの方の家に泊めて頂くのも、すべて神様からのご指示であるんです」
イェースズはザアカイを立たせ、その家に自分と使徒たちを案内してくれるように頼んだ。
エリコに数週間滞在した後、イェースズ一行はいよいよエルサレムに向かうために、砂漠を越えねばならなかった。今回の旅で、いちばん過酷な道といえる。猛暑の季節は過ぎているとはいえ、まだ日中は汗が吹き出る暑さだ。そんな中を砂ぼこりと戦いながら、一面の荒野を行く。道は決して平坦ではなく、椀を伏せたような起伏がまるで海の大波のように重なるその谷あいを縫って道はくねりながら続く。恐ろしいほど、見通しが悪い。いつどこに盗賊が隠れていて、突然躍り出てきたとしても分からないくらいだ。幸い人通りはけっこう激しいので、こういう時は盗賊はなりを潜めているだろう。それでもこの荒野は盗賊団の格好の隠れ場所ともなっているから、油断はできない。
ごくわずかな緑が思い出したようにあるだけで、あとは恐ろしいほどに不毛のちであり、視界は茶色一色に塗りつぶされているといってもいい。そんな道をあと1日も行けばいよいよエルサレムだ。朝エリコを出れば、暗くなるまでにはエルサレムには着ける。しかしイェースズは、その前にどうしても立ち寄らねばならないところがあった。それはベタニヤである。ベタニヤはほとんどエルサレムの一部とも言っていいくらいの近さで、ほんの小一時間歩けばそこはもうエルサレムなのだ。
だがイェースズは、そこで足を止めねばならなかった。そこには、イェースズの支援者でもあり、使徒ヤコブとエレアザルの父のゼベダイがいる。素通りするわけにはいかない。
やがて、小高い丘の上にわずかな緑を持つベタニヤの町が見えてきた。かつてイェースズがまだヨハネ教団にいた頃、同教団の幹部だったペテロやアンドレらと共にここに来たことがある。この町から戻った時にはもう、ヨハネ師は捕らえられていた。そこからイェースズの宣教が始まったわけだから、彼にとってもエポックとなった町である。そして今は使徒になっているマタイと初めて出会ったのもこの町でだった。
ゼベダイの家ではヤコブやエレアザルが何も知らせていないにもかかわらず、ゼベダイ自身が門のところまで出迎えてくれた。この町でもイェースズのうわさで持ちきりで、イェースズたちがこの町に向かったという情報はすでにエリコから伝わっていたから驚きだ。だから町中の人がイェースズを待ち焦がれていたし、当然ゼベダイの耳にも入っていた。
「やあやあどうも、しばらくですな」
かつての師ヨハネの友人だったというゼベダイは、相も変わらずの気さくさだった。そしてペテロやアンドレにも目を向け、
「あなた方もお元気ですかね。懐かしいなあ」
と、言った。
「はい、おかげさまで」
二年ぶりである。ヤコブやエレアザルとて、自分の父を見るのは久しぶりなのだ。
二年とひと口で言っても、ついこの間と言えば言える。しかしその二年の間に、イェースズの境遇は全く変わっていた。変わってしまっただけに、たった二年というその二年がイェースズにもペテロたちにもずっとずっと昔のように感じられた。
「あなたの姿は、前とは見違えるように変わった」
と、ゼベダイも言った。イェースズは笑った。
「よく言いますよ。それより、奥様やお嬢様がたはお元気ですか?」
「ええ、それこそお蔭様で。さ、どうぞ中へ」
前に会った時はイェースズはまだヨハネ教団の幹部であったし、その頃は何かあってもヨハネの教団へ逃げ帰ればよかった。だが、たった二年で今やイェースズは教団も作らずに十二人の使徒だけをつれて神のミチを伝える旅に出ている。そしてゼベダイが経済的にイェースズたち師弟を支えてくれていなかったら彼らは収入が手薄となって、その活動もままならなかったはずだ。中へ通されたイェースズは座るよりも前に、まずそのことを丁重にゼベダイに謝し、礼を尽くした。
「さ、堅苦しいことは抜きにして。長旅で疲れておられるだろう」
ゼベダイはイェースズや旧知のペテロ、アンドレにだけでなく、初対面であるすべての使徒たちにも同じ笑顔を見せた。自分の息子のヤコブやエレアザルでさえ、息子としてではなくイェースズの使徒として遇していた。
部屋の中で足をのばして座った彼らの所へ、娘のマルタが冷えたぶどう酒を持ってきた。ヤコブやエレアザルの姉だ。
「弟たちがお世話になってます。あらまあそれにしても、本当にお父さんが言っていた通り、イェースズ師は前にも増して光り輝いて見えますわ」
ニコニコと相好を崩して言うマルタに、イェースズは照れて笑い、
「お変わりないですか」
と、聞いた。
「はい、お蔭様で」
「姉さんは、いつでも相変わらずだよな」
と、ヤコブも笑いながら横槍をいれた。それをおどけた視線で制して、マルタはイェースズにまた笑顔を向けた。
「今日は、下の妹も来てますのよ」
マルタが呼ぶと、イェースズが前にも会ったゼベダイのもう一人の娘のマリアとともに、まだ幼い表情の残る少女も部屋に入ってきた。
「末の妹のルツです」
いきなり多くの男性が家に現れたから、少しはにかんでルツは頭を下げた。
「おやおや、ヤコブやエレアザルは、こんな美人のお姉さんと妹にはさまれてたんかい。知らなかった」
と、トマスがちゃちゃを入れたので、みんなでどっと笑った。イスカリオテのユダも、いつもの苦虫を噛みつぶしたような顔を今日は捨てていた。
「ヤコブんとこの親父さんは、ずいぶん子沢山なんだな」
ユダが冗談を言うのは珍しかったが、それだけに皆は余計にまた笑った。
「前に来た時は、ルツはいませんでしたよね」
イェースズの問いに、ルツはまたも恥らってうなずいた。
「いっちょ前に、嫁に言ってるんですよ」
エレアザルの答えに、イェースズは驚いた表情を見せた。
「え? まだ、こんなにお若いのに?」
実はイェースズはすでに霊眼によってそういう事実はすべて感知していたのだが、あえて周りに合わせて驚いたふりをして見せていた。
「そうするとお姉さん方は、困ったことになりますよねえ」
「姉貴たちは、もうとうがたっている」
エレアザルの言葉に、マルタはまた弟をおどけてにらんだ。
「今日は、お里帰りかい?」
イェースズの言葉に、ルツの顔が少し曇ってうつむいた。この時もすでにイェースズはすべての事情を察知していたが、あえて知らないふりをした。
「まあ、ルツだけじゃなくって、町中の人がこのイェースズの前に押しかけているんですよ」
マリアの話の通り、どうも玄関の方が騒がしい。
ゼベダイが、
「昔のように、この町の人々に洗礼を施してくださいますか」
ゼベダイに言われて、イェースズは喜びながら立ち上がった。
「はい。いつでも、どこでも、だれにでも、させて頂きます。でも、昔のヨハネ師の洗礼とは違いますよ。今は水ではなく、聖霊と火による洗礼です」
「席が温まる暇もなく、恐縮ですが」
ゼベダイが、すまなさそうにイェースズに頭を下げた。
イェースズはゼベダイの家に、七日ほど滞在した。そこへは群衆が、入れ替わり立ち代わり押し寄せてきた。ベタニヤの人々だけでなく遠くエフライムあたりからも来ているようだったが、やはりエルサレムからの人々が多いようだ。そんな人々は、イェースズに早くエルサレムに上ってくれと懇願していた。ガリラヤの田舎の片隅で教えを広めていたイェースズの名声は、すでに都にまで広がっているらしい。
イェースズは町外れの荒野の入り口の岩の上で、よく人々に話した。高い所で話せば、それだけ遠くへ声が通る。そして話の後では両手の手の平から一斉に霊流を人々にかかぶらせ、その魂を浄めていく。
そんな説法を終えてイェースズがゼベダイの家に戻ると、最初の日に来ていたゼベダイの末娘のルツが、また来ていた。しかも今日は、目にいっぱい涙を浮かべている。そしてイェースズの姿を見るなり、大声で泣き出してすがりついてきた。
「何かありましたか?」
その隣では、ゼベダイが困惑しきった顔で立っていた。ルツは泣きはらした目でイェースズの顔を見あげ、
「夫が……」
と涙声で話しはじめた。イェースズはすでにすべての事情が分かっていたが、あえて優しくその話を聞いてあげようとした。だが、ルツはそのまま絶句してまた泣きはじめ、仕方なくゼベダイが代弁して話しはじめた。それによると、ルツの夫のアシャー・ベンは実は熱心なパリサイ人で、当然のことながらこれまでもイェースズやその教えを軽蔑し、また警戒心をも抱いていた。ところがその当のイェースズがいきなりこのベタニヤに現れ、しかも自分の妻の実家に客として迎え入れられたと聞いて仰天したアシャー・ベンは、ルツに実家とイェースズの関係を厳しく問いただした。そして、妻の父が実はイェースズの経済的支援者だったということも初めて聞かされ、怒髪天を突いたのだということだった。しきりに「騙された」と憤慨する夫にルツもつい感情的になって口論となり、とうとう家から追い出されたのだという。
「私……」
ゼベダイの話に続いて、ようやくルツがまた口を開いた。
「イェースズ師こそが救世主だってそう言ったら夫はひどく怒って私を責めて、あなた様のことをもののしって……。だから私は『何を信じるかは人それぞれの自由でしょ』なんて言ってしまって、そうしたら『俺をとるかイェースズをとるか、どっちか選べ』って……」
「それで飛び出してきたんですね」
イェースズはいたわるように、優しく微笑んで見せた。
「先生、私、これからどうしたらいいんですか?」
イェースズは優しいまなざしのまま、ゆっくりとサトすようにルツに言った。
「ご主人はまじめな方なんですね。本等に熱心な方なんだと思いますよ。だから私のことを異教徒とか変な新興宗教の邪教だとか感じるんでしょう。そんな邪教にかかわっているあなたが、許せなかったのでしょうね」
「でも……」
「いいですか? 決して裁いてはいけませんよ。ご主人は悪い人じゃあない。ただ、無知なだけです。無知とは恐いものです。ご主人と対立の想念を持つとかは厳禁ですね」
ルツはゆっくりうなずいた。
「長い目で見るんです。それに、あなた自身が責められるようなことはなかったですか?」
ルツは小首を傾げていた。イェースズはさらに話を進めた。
「あなたはいきなりパーッと、私の教えをご主人に押し付けませんでしたか? ご主人を説き伏せようという想念だったんじゃないですか?」 ばつが悪そうに、ルツはうなだれた。
「神様の教えは、議論するべきものじゃあないですよ。ご主人に納得して頂くには、相当年月がかかると覚悟してくださいね。今はご主人の魂が曇っているから、いやご主人だけではなくて、すべての全人類がそうなのです。魂が曇っているんです。だから神の光も神の教えも入ってこない。でもいつかは必ず分かる時が来ます。すべての人類は神の子ですからね」
イェースズはルツの目を、優しく見つめた。
「いいですか、秘策を授けましょう」
ルツはゆっくりうなずいた。
「人類はみな、神様に逆らってきたという罪を共通で背負っているんです。だから、家族の中に逆らう人が出る。そして何より、遠い過去世でご主人を神様のミチから引き離した張本人が、あなたなのかもしれません。だから今、その逆のお役を頂くんですよ。そういう場合はですね、御主人に徹底下座し、とにかく逆らわないこと。あなたの方が、ご主人に対して負債を背負っているんです。ご主人をお救いさせて頂きたいと思ったら、何でもス直に『はい』『はい』と聞いて上げるんです。愛と真で仕えるんです。これが行だと思ってください。私の教えはしばらくおいておいて、ご主人に徹底的に下座をする。そして何よりもまず、自分がすっかり変わってみせることです。『おや? こいつ、この頃変わったな? その秘密は何だろう』と、放っといてもご主人の方から求めてきますよ。ご主人とて、その本質は神の子ですからね。でも、いくら口で立派なことを言っても言葉と行(おこな)いがちぐはぐでは、ご主人の心を溶かすのは難しいでしょうね。まず、自分が熱くなることです。熱く燃えるんです。熱さはすべてを溶かします。こんな素晴らしい神様の教えを頂いておきながら、自らの至らなさのために相手に分かってもらえないとしたら、神様に対しても申し訳ないじゃないですか」
 ルツはまた涙を流したが声を上げて泣くことはなく、黙ってうなずいた。イェースズはルツから目を離し、周りの使徒たちを見渡して言った。
「明日から七日間、全員でルツの家に行くんだ」
「とんでもない」
と、ルツは訴えた。
「夫は決して会いませんよ」
イェースズはまた優しい笑みをルツに向けた。
「いえ、あなたのご主人に会いに行く訳じゃありませんよ」
そして、使徒たちに言った。
「この方の家の周りで、あなた方の手で、火の洗礼を施すんだ」
「家にですか?」
と、トマスが怪訝な顔をして声をあげた。
「どうやればいいんですか?」
と、温厚なアンドレさえ、質問をぶつけてきた。
「空中に手をかざすんだ。でも、空中といっても、本当はその家の霊界なんだよ。曇ったら拭く、これが神様の大愛の仕組みだね」
それからまた使徒たち全員に向かって、
「交代でいい、七日間はルツの家の周りで手をかざしなさい。この世と霊界は表裏一体なんだから、霊界を浄めることが大事だ。そしてこれがこの町での最後の大仕事。それが終わったら、いよいよエルサレムだ」
「おおっ」
使徒たちから歓声が上がった。それとは関係なしに、ルツは、
「有り難うございます」
と礼を言い、それから本来の明るさを取り戻した。
一週間がたった。いよいよ明日エルサレムに入るということをイェースズが使徒たちに告げると、誰もが歓声をあげた。本当ならほんの五日で着けるはずの距離なのに、思えば長い旅になってしまった。夏のさなかにガリラヤを出発したのに、もうすっかり秋だ。そのたびの終点に、今彼らはさしかかろうとしていた。
神殿を戴くイスラエルの民の心の中心、その聖都――平安の都に至る前夜、使徒たちはいつまでも杯を重ねていた。
その時ゼベダイが、イェースズをそっと別室に呼んだ。
「明日は、ロバに乗ってお行きなさい」
と、ゼベダイはイェースズに言った。イェースズはすぐにゼベダイの内心を読み取った。その心の中には、『ゼカリアの預言』があった。救世主がエルサレムに現れる時は、ロバに乗ってくるとそこには記載されている。イェースズは笑った。
「そうですね。私は人々に奉仕するためにエルサレムに入りますから、馬ではなく下座の心でロバにしましょうか」
「いえ、そういうことではなくて」
ゼベダイの本心を知っているイェースズは、その言葉の先を手で制し、
「では、ロバをお借りできますか?」
と言った。ゼベダイは、ゼカリアの預言を実現させようとしているのである。
「私の友人がオリーブ山の麓でロバを持っていますから、手紙を書いておきましょう」
「しかし、真の救世主はミズラホの国から白馬に乗って入城するんですよ。本当は」
ミズラホとは「東の国」という意味だ。そして、かの霊の元つ国は別名をトヨアシパラ・ミドゥホの国といった。
「そうですか。残念ながら私は、白馬は持っていない。それよりも、やはり救世主はスザの門から入らねば」
スザの門とは神殿の東側にあって、いきなり城外から神殿の正面に入ることのできる門だが、この門は開かずの門で誰もそこを通れない。だが伝説では。救世主はこの門からエルサレムに入ることになっている。イェースズはいつしか真顔になった。
「スザの門とは、スザを迎えるもんですね。スザとは、天の時が至れば東の国に建てられる黄金神殿のことなんですよ。光は東方より来るものです」
イェースズはそれだけいうと高らかに笑った。
翌朝、ゆっくりと朝食をとって、昼も過ぎてから、イェースズたち一行は出発した。午後になってから出ても、夕方よりはるか前にエルサレムには着く。ベタニヤからだと東から、オリーブ山の麓を回ってエルサレムに臨むことになる。普通はその道で神殿の東城壁にぶつかると、オリーブ山から谷を越えて神殿に直接至るアーチ橋を渡らずにケテロン谷に降り、その谷沿いに南下して市街地に入る。その時神殿の東南角の下を通るが、谷から見上げると外壁の角が一段と高く見えるので、神殿の頂とも呼ばれている。それを見上げながら、反逆者アブサロムの墓に石を投げていく人も多い。だがイェースズがもし本当にスザの門から入るつもりなら、そこは通らないことになる。
ベタニヤからエルサレムへ向かう街道は、イェースズがいよいよエルサレムに入るということを聞いた信奉者たちが押し寄せ、それがぞろぞろとついてきてたいへんな騒ぎとなっていた。やがて一行は、ベテパゲという、オリーブ山のふもとにある町にさしかかった。オリーブ山は山とはいっても実際は小高い丘で、斜面の麓あたりにはぽつんぽつんと緑もあり、それらは山の名の通りオリーブの木か、あるいは背の低いイチジクの木だった。
イェースズはそんな町の中を歩きながら、ピリポとナタナエルを近くに呼んだ。
「あの向かい側の村に行けばロバが木につながれてるから、それをつれてきてくれ」
「え、でもそんな、勝手につれてきていいんですか? 持ち主に怒られませんか?」
ナタナエルが、心配そうに首をかしげた。イェースズは笑った。
「私の名前を出せば、大丈夫だ」
そう言って二人を行かせて、ほかの使徒たちとともに休息がてらイェースズが待っていると、二人はほどなくロバをつれてきた。
「いやあ、びっくりしました」
と、ロバの手綱をイェースズに渡しながらナタナエルが言った。
「本当にロバが木につながれていましたよ。それで紐をほどいていたらやはり持ち主が来て怒ってましたけど、言われた通りに先生のお名前を言うと、はい、はい、はいって感じでうなずいて、快くロバを渡してくれたんです」
ピリポも、
「全く先生は、何もかもご存じだ」
と感心していた。
「でも、このロバ、どうするんですか?」
ピリポに聞かれて、イェースズは微笑んだ。
「乗って行くんだよ」
何かに気づいたように、ピリポは感嘆の声とともに手を打った。
ロバに乗ったイェースズを使徒たちや群衆が囲むようにしてオリーブ山を旋回すると、目の前にパッとエルサレムの全容が展開した。横たわる城壁の向こうに、建物がひしめきあって果てしなく続いている。そしてやや右に巨大な石の四角い神殿が居座り、その後方にはアントニア城の四つの塔がそびえているのが見えた。
これが都なのだと、イェースズはロバの上で息をのんだ。あまりにも巨大である。こんな巨大な都市は東への旅でも、シムのティァンアンくらいだった。イェースズにとってエルサレムは初めてではないが、少年期の記憶は彼の中で薄く、この町にそのかけらをも拾うことはできなかった。ただ、巨大ではあっても、ほんのわずかかすかに残っている少年時代に感じた印象のなかのエルサレムの巨大さに比べれば、ひと回り小さいようにも感じられた。
オリーブ山と神殿との間は谷となっていて、その谷の上を神殿の東側のスザの門まで石造りのアーチ上の橋がかかっていた。本来はスザの門は開かずの門だから、普段はこの橋を渡る人は全くいないはずである。人々は普通、ここで橋の左側より谷に降りて、向かって左手、神殿の南にある城壁の門から市街地に入る。だがイェースズはロバに乗ったまま、その橋を渡り始めた。それは、イェースズの意志ではなかった。イェースズはもともと普通に橋の手前を左に折れて、谷の方へ下りるつもりだったのである。だが、何ものかの大いなる意志によって、それが当然であるかのようにイェースズは橋の上へと進んでいた。自然と、群衆もそのままついてくる。そして人々は自分の上着を脱いでイェースズがこれから歩く道に敷き詰め、さらにはナツメヤシの枝をそれぞれ手にとった。間もなく仮庵祭の頃で、その時にはナツメヤシの葉で皆誰もが小屋を造るので、この時期の都には大量のナツメヤシの葉が届けられていたのである。人々はナツメヤシの葉を手に、大声で歌い始めた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。万軍の神なる主」
それは、『イザヤの書』の一節だった。群衆は橋の上の道の左右に別れ、その間を使徒たちに囲まれてロバに乗ったイェースズはゆっくりと神殿の方へ向かって行った。
「主の栄光は天地に満つ。天のいと高き所にホザンナ!」
ホザンナとは、救いを求める言葉である。歌声は高らかに、よく晴れた空に響いた。
「ほむべきかな、主の名によりてきたるもの。天のいと高き所にホザンナ!」
人々の歓声の中、スザの門の前までイェースズはたどり着いた。その門の上には十六光条日輪紋が、しっかりと刻まれていた。それは紛れもなく、あの霊の元つ国のスメラミコトの象徴だった。イェースズは思わず目を細めた。橋の終点は神殿の土台の側面の石の壁で、スザの門はその壁に開いている。壁の上には左右に長く、ソロモンの回廊が横たわっていた。下から見上げても、何本もの柱が左右に延々と続く。
その時、門の前にいたパリサイ派の学者たちが数人、イェースズの前に立ちはだかり、イェースズに向かって叫んだ。
「あなた方は何ですか! こんなに人々を引き連れて大騒ぎして。しかもスザの門から入ろうなんて! スザの門は開かずの門だ。それに神殿参拝には、ちゃんと手続きがあるでしょう!」
イェースズはロバをとめ、慈愛に満ちた目でその学者を見つめて黙っていた。
「しかも、ロバなんかに乗って!」
その学者がイェースズに詰問している間も、人々の歓声と歌声はやむことはなかった。
「いいかげんにしなさい! 非常識じゃないですか。エルサレムの住民たちはいい迷惑だ。早く静かにさせなさい」
しかし、いくら橋の上を埋め尽くす群衆とはいえ、エルサレムに住む全員の人口に比べたらごく一部の人たちだ。つまり、この時点でのエルサレムの人々のほとんどは全くイェースズのエルサレム入城を知るよしもなく、それぞれがそれぞれのいつもと変わりない日常生活を送っていた。
「とにかく、この人々を黙らせなさい!」
学者が叫ぶ。イェースズはようやく顔を上げた。
「この人たちをあなた方が黙らせたら……」
イェースズは一息ついた。
「石が号びますよ。メシア降臨の世、天国は近づいたのです」
「石が号ぶ?」
「石つぶてが飛んでくるということですよ」
「なんだと!? 我われを脅迫する気か!」
真っ赤な顔で震える学者たちをよそにイェースズのロバが門の前に立つと、石で固められて開かないはずの門が、急に開いた。
イェースズと使徒たちは、そのまま聖なる都の聖なる神殿の中にいきなり入ったことになる。いきなり人々の雑踏の中に放り込まれたわけだが、さっきまで自分を取り巻いていた群衆とは全く違う人々ばかりで誰もがイェースズに気づかず、無関心に使徒の何人かと肩をぶつけて通り過ぎていった。誰もがイェースズに見向きもしない。
やはり、都は巨大だった。この雑踏の中では、信奉者の歓声も歌声も、ほとんどちっぽけなものだったといっていい。
イェースズが驚いたのは、神殿の南の庭はソロモンの廻廊近くまで出店がひしめき合っていたことだった。ここは異邦人の庭といって、誰でも来ることができる。それにしてもいけにえの小動物を売る店、両替商、果てはおみやげ物屋まであって、足の踏み場もないくらいだ。それは、神聖な場所に、およそふさわしくない雑踏だった。
それを見てイェースズは、義憤を禁じ得なかった。そして少年時にここに来た時も、同じことに憤慨したことをイェースズはようやくおぼろげながらにも思い出していた。
この日、イェースズたちは参拝手続きをしていなかったので参拝することはできず、しかも間もなく日も暮れようとしていた。日が暮れたら安息日が始まってしまう。そこでとりあえず北側のダビデの門から、神殿の外に出てエルサレムの市街地へと入った。
彼らはオリーブ山のふもとにある一軒の宿屋に泊まった。翌朝、彼らは今度は橋を渡らずに谷に降り、神殿の土台の壁の北側、神殿に向かって右の方に延びる城壁にある羊の門からエルサレムに入った。第一城壁は神殿の右にも左にも延びていて、左側の城壁の内側が下の町、つまり庶民の町である。エルサレムの城壁は二重になっており、第二城壁は神殿の向こう側にあって、土地的にも高台で、そこは貴族の邸宅が立ち並ぶ地域だ。神殿の向かって右の第一城壁の中、第二城壁との間はただ空間として遊んでいる土地で、時々建造物が点在している程度だった。羊の門はそんな向かって右の城壁のうちいちばん神殿に近くで、羊飼いがよく出入りするのでその名があるという。城壁の内と外は風景も何ら変わらず、何のための城壁だかよく分からない。神殿の背後、アントニオ城の向こうには、第二城壁が横たわっている。
イェースズがこの門から今朝は入城することにした理由の一つは、この門から入った所は人気もなく、信奉者に取り囲まれることもないだろうということだった。ましてやこの日は安息日なので、さらに信奉者が集まることはないと思われた。もう一つの理由として、エルサレムでの最初の仕事としてイェースズが選んだのは説法ではなく、まずは貧しい、病に苦しむ弱者を手始めとして救わせて頂くことだった。イェースズがそう考えたのではなく、朝一番に神に額づくと、今日一日の彼がなすべき行動は自ずと神がささやいてくれる。あとは真ス直に行じるだけだ。エルサレムで弱者や貧者、病苦に苦しむ人が集まる所ということで、彼は使徒たちとともにわざわざこの場所を選んで訪れた。それは彼のエルサレムでの最初の業としてふさわしい場所だった。
第一城壁と第二城壁のほぼ中間の荒地の中に、ひと固まりの回廊がある。そこがイェースズの目指す場所だった。回廊は柱が並ぶ柱廊で、全部で五つあった。その柱廊に囲まれた中は地中が深く掘り下げられており、その底に二つの小さな池が見えた。地面よりはだいぶ深い所にある。四方が人口の石の壁に囲まれているので、どちらも四角い池だった。池のほとりには多くの人がひしめきあっていたが、誰もがみすぼらしい動きの鈍い人たちで、ほぼ全員が病人のようだった。上からのぞいても、明らかに目が見えない人、足が不自由な人などの姿が見える。また、折りたたみのベッドに寝かされている人もかなりいた。
「これが、ベテスダの池だよ」
と、イェースズが使徒たちに言った。この池の場所は、すでにイェースズはベタニヤでゼベダイに聞いていたのだ。マカベアの時代に造られたこの池は、イェースズの生まれた頃に大祭司シモンが改築し、すぐにあのヘロデ大王が五つの柱廊を建てた。この池の水が神殿に送られているが、本来は神殿で捧げられる生け贄の動物を洗う場所だったともいう。だが今は、池のほとりにいるのは病者ばかりだ。
「ベテスダの池といえば」
ヤコブが、したり顔でうなずいた。おそらくその父のゼベダイから、何度となくこの池のことは聞いていたのだろう。
「時々天使が舞い降りて水を動かすので、その時いちばん最初に池に飛び込んだ人が病を癒されるということですよ」
そう言われて、イェースズはその池を霊視してみた。だがなんら天使といわれるような高級霊が降りてきそうな場所ではなかった。だいいち、病人たちの陰の気で満ちている。時折水が動くというのは、この池の底から水が定期的に噴出すからだろう。いわば間歇泉なのだ。
イェースズは石の階段を、使徒たちと共に池のほとりまで降りた。どこまでも人工の、モザイクのような壁に囲まれ、空さえ四角く見えた。やはり人工の岸辺には、上から見た時と同様に人々が多くいた。今は誰も池に入ってはいない。池の水はきれいだが、かなり深そうで底は見えなかった。こんな所に体が不自由な人が飛び込んだりしたら、かえって危ないのではないかとさえ感じられた。この深さでは、大人でも背が立ちそうもない。
その時、本当に水が動いた。底から泉が湧き出たのだろう、水中からもくもくと水が湧きあがった。
「天使だ!」
人々は歓声をあげて、我先にと池に飛び込んだ。残されたのは、イェースズの近くにいたベッドで寝たきりの初老の男だけだった。彼は飛び込もうにも、だいいちベッドから降りられそうもない。どうも足が不自由のようだ。その男の魂に光るものをイェースズの霊眼は見たので、イェースズは頭のはげたその男の方へと歩み寄った。イェースズと目が合うと、男は苦笑を漏らした。
「三十八年も、寝たきりですぜ」
問わず語りに、男の方からイェースズに話かけてきた。イェースズはベッドの脇に、身をかがめた。
「足がよくなりたいのでしょうね」
「そりゃあ、そうですとも。でも、水が動いても歩けるものが真っ先に池には入ってしまうし、私は誰かの手を借りないとベッドから降りられもしない。ここにいるのは自分が治りたい病人ばかりで、わしに手を貸してくれる人なんかおりませんでしてね。だから今も治らずじまいですよ」
「ここへは、どうやって?」
「毎日、息子が運んでくれるんですがね、ついでに水が動くまで待ってわしを放りこんでくれたらいいものを、わしをここに置いたらいつもさっさと帰っちまう。やっかいばらいにここにつれてくるんでしょうけど。あんたさんも、どこか病気なんですかね?」
「いいえ」
「おお、そんな人がここに来るなんて珍しい。何しに来なさったんで? あ、まあ、そんなことはどうでもいい。病気って訳じゃないんなら、今度水が動いたらわしを池に放り込んで下さいませんかね」
「その必要はありませんよ」
イェースズがニッコリと笑ってそう言うので、男は怪訝な顔をした。
「必要ないって……?」
「みんなはここに天使が降りてくるなんて言ってるようですけど、真っ先に池に入った人だけを救う天使なんて、どこから遣わされた天使でしょうかね。神様が使わした天使なら、そんな変なえこひいきはしませんよ」
「じゃあ、えこひいきしない天使は、どこに降りるんですかね」
イェースズは微笑んだままそれには答えず、黙って男の足に向けて手をかざし、霊流のパワーを放射していた。両脚のそけい部、もも内側のくぼみ、膝の裏の少し下、足首の順でパワーを浴びせかけていった。そして最後に男に目を閉じさせ、眉間から全身に向かって、そして主魂に向かってパワーを注いだ。
「さあ、ベッドをたたんでお行き下さい」
男は最初はきょとんとしていたが、あまりイェースズが熱く言うので恐々と地面に足をつけた。男の表情が「ん?」というように変わった。
「歩ける!」
男の大声で、池から上がってきた人々は、濡れた体のままイェースズを一斉に見た。男は、
「神に感謝!」
と叫んで、イェースズにも何か言おうとしたが、人々があまりにも勢いよくイェースズの周りに殺到したため、イェースズに礼を言う機会も持てずに行ってしまった。イェースズはそこにいたすべての人々を、使徒たちと手分けして癒した。
時々使徒たちは、どう手をつけたらいいか分からずにイェースズに質問をしに来ることもあった。
「この人はぜんそくだからね、背中の二つの骨の内側をよくさぐってごらん。盛り上がっているはずだから、そこに手をかざして濁毒を溶かしてあげなさい」
「目が見えない人は後頭部と目頭。目頭は親指の先でね。ほかの四本の指は頬に当てるんだ。そうしないと、間違って親指が目を突いてしまったらたいへんだ。それと、あごの下の、骨がちょっとくぼんでいる所の内側と、首の下の骨の内側、それから乳のちょっと上」
「腹部の上の方が痛い? 痛いっていう所に手のひらをぴたっと当ててみて、熱があったらその裏と表。裏を心持ち長めにね。熱がないようだったら、ここここ」
イェースズは自分の眉間を示す。このようにしてイェースズは、てきぱきと使徒たちに指示した。解剖医学もない時にイェースズの人体に関する知識は、まさしく驚愕ものだった。こうして池のほとりに来ていた人々は次々に癒されていき、長年の病が全快した人も少なくなく、驚きと歓声で満ち溢れた。まさしく降る星のごとき奇跡の嵐だった。
「先生は、どこで医学を修めたのですか?」
と、トマスが突然変な質問をするほど、使徒たちとて驚きは隠せずにいた。イェースズは笑っていた。
「その驚きは、大切だよ。私が癒せば必ず癒されるに決まっているなんて感動も驚きもなくなっていたりしたら、それは神様に狎れてしまっていることだからね。癒すのは神様であって、私ではない。でもね、肉体的なことも分からずに、次元が高い霊的なことの指導はできないよ。病気治しではなくて無病化が目的だけど、あなた方もしっかりと体験を積んで、業積みをしてほしい」
すべての人が癒されて池から去り、イェースズたちはやっと解放された。そしてイェースズを使徒たちが囲む形で、柱廊の所まで上がってきた。もう昼も過ぎている。
「先生」
と、そこでペテロがイェースズをつかまえた。
「先生は、受けるものの信仰が七割とおっしゃいましたけど、何も知らない、つまり信仰心なんてない人々が次々に癒されて、奇跡が起こったのはなぜですか」
「信仰心がないなんて、決めつけるのはよくないね。あの人々はこの池に飛び込めさえすればと、必死ですがっていた。すがる心は信仰の中でも大事なことだよ。それと、やはり見せる奇跡というのもある。神様は、そのみ力と栄光を表すために、信仰心がないものにでもまずは救いの綱を投げてくださる。そういう場合の奇跡は神様からお借金をしたようなものだからね、奇跡のその後の信仰心が大事なんだ。そのことを人々に言うおと思ってたけそ、あまりたくさんの人が来たから言いそびれたよ」
ばつが悪そうにイェースズは笑った。
「そういえば最初の爺さん、本当にさっさと帰ってしまいましたね」
と、ヤコブが言った。
「でも、あれほどの奇跡を頂いたんだから、心あるものはこれから神殿に行ってお礼の祈りを捧げるでしょう」
エレアザルに言われてうなずいたイェースズは、
「神殿に行ってみよう」
と、言った。
アントニオ城を右に見て、ダデの門より、神殿に北側から入ることになった。さすがに安息日だけあって、庭の出店は異邦人が経営するものがポツリ、ポツリとあるだけだった。
はたして、先ほどの初老の男はいた。そんな状況だから、すぐに見つかったのである。折りたたみベッドを小脇に抱え、三人の祭司たちと話をしていた。そこに、イェースズは歩み寄った。
「あ、この方です」
男はイェースズを見ると、慌てて祭司たちにイェースズを示した。
「私を歩けるようにしてくださったのは。この方がベッドをたたんで歩けと言って下さったんです」
それを聞いた祭司たちは、眉をしかめてイェースズを見た。
「今日は安息日だ。その安息日にこの人はベッドを持ち歩いているからとがめたら、誰だか分からない人に足を癒されて、ベッドをたたんで歩けと言われたというのだが、その人があんたなのかね」
「確かに、私ですが」
「けしからん! 安息日にものを持ち運んだりしてはいけないことは、あんたも知っているだろう。それを、なぜそうしろと言った?」
「その前に、私もこの方を探していたんです。少し話をさせてくれませんか?」
すでにその周りを十二人の使徒が取り囲んでいたので、祭司たちも少したじろいで黙っていた。イェースズは足が癒された初老の男の前に立った。
「あなたは何かしらの因縁で中風になっていたのですけど、これからはそういった悪因縁は断ち切って、よい結果を得る因縁を積んだ方がよろしいかと思いますよ。奇跡が起こったと喜んでいるだけで、想念を入れ替えて神様に奉仕する心にならないと、今度は許されなくなりますから」
その男に祭司が何か言いかけたが、男は明るくイェースズに礼を言うと逃げるように立ち去ってしまった。ほんの先ほどまで両足とも動かずに、歩けないでいたものとは思えないような早さだった。残った祭司たちは、憤慨した顔でイェースズをにらみつけた。
「あの男の足を癒したとは、本当か」
「私ではなく、神様のみ力が、神様の栄光を表すために奇跡を起こして下さいました」
「でも、あんたが直接癒したのだろ? あの男もそう言っていた。安息日に他人の癒しなどしていいと思っているのかね」
「あのベテスダの池には、安息日でも多くの病人が押し寄せていますよ。もしその病人が癒されたら、あなたは水を動かした天使に向かって、安息日にしてはならないことをしたと言ってとがめるのですか?」
祭司の目はつりあがり、顔も赤くなりはじめていた。イェースズは穏やかな表情で、笑みさえ浮かべて話し続けた。
「それに、太陽に向かって安息日だから光を送るな、雲に向かって安息日だから雨を降らせるなって、そうおっしゃいますか? 天の御父である親神様が、安息日だからといって休まれますか?」
「ちょっと待て」
祭司は鋭く、イェースズの言葉を制した。
「最初の屁理屈は、まあ聞き流そう」
「屁理屈……ですか?」
「ああ。屁理屈だ。神は七日目に休まれたと、『創世記』には書いてある」
「宇宙一切を統一運営しておられる神様が一日でもそのみ働きを休まれたら、われわれ人類は生存できませんよ」
「それよりも、さっき神のことを『御父』とか言ったな。自分を神の子だとでも思っているのか」
「そうですよ。アビフさん」
イェースズは笑いながら、平然と言ってのけた。
「な、何?」
名乗った覚えはないのにいきなり自分の名前を言われたので、祭司は目を見開いたまま一瞬かたまった。イェースズはさらに話を続けた。
「その『創世記』では人類の祖はアダムということになっていますけど、まあ、仮にそうだとしてアダムには父親はいましたか? 天から降ってきたのですか? 木の股から生まれたのですか? 違いますよね。モーシェははっきりと、アダムは神によって創られたって書いていますよね。つまり、親は神様です。アダムは神の子です。その子孫である我われが神の子ではないとしたら、いったい誰の子ですか? 猿の子だとでもおっしゃるのですか?」
アビフと呼ばれた祭司もほかの二人の祭司も返す言葉が見つからないようで、ただ顔に青筋を立てて黙ってイェースズをにらんでいた。
「真に言っておきますけど、私がしている業は神様がされているんです。もし私が神様から離れたら、この奇跡の業はもう使えなくなる。だから、すべて神様のみ意のまにまにしているんですよ。だから神様は天の御父で、私たちはその子供なんです」
アビフ以外の祭司がイェースズにつかみかかろうとしたので、イェースズはそれを手で制した。
「まあ、お聞きなさい。私が言った神の子という意味は、何も私だけが神の独り子だなんて言っているわけではありませんよ。すべての人類は、皆等しく神の子なんです。そう、あなたも神の子です。それからあなたも」
そう言ってイェースズは、祭司を一人ずつ指さしていった。
「みんな神の子なんですよ。だから誰でも神様のみ意にかなえば、神性化できます。神と人とは、本来一体なんですよ。父と子が一体であるようにね。そのことがはっきりと分かる天の時が、間もなく訪れるんです。時が来たらすべての人は墓の中、つまり無知と不信と罪の中で生活していた人々もみんな這い出して、今までの再生転生中の過程での罪穢を清算させられるんです。信賞必罰の世になるんです。その時には、人口は今の数十倍に膨れ上がっているでしょうね。何しろ、過去の清算のために、魂が一斉にこの世に再生してきますから」
「いい加減にしろ!」
今まで黙っていた祭司の一人が、ついに怒鳴った。
「いったい誰に向かってものを言っているんだ! 素人の分際で! 我われは祭司なのだぞ! 再生転生だなんて、正統な神の教えからは離れた異端の考えではないか!」
イェースズは、それでも落ち着いていた。
「いいですか。風火水雷もみんな神様の使者です。すべては神様のみ手内にあるわけでして、人だってそうなんですよ。ましてや人は、地上の物質によって神の国をこの土に顕現させるために遣わされた神の子なんですね。神様の地上代行者なんです。それが、人類なんです。ですから、あなた方のように神様に仕えることを本職とされている方々は、人類に仕えなきゃいけないんです。祭司でございってふんぞり返って神宝である人類を見下していては、神様に仕えていることにはなりませんよ。等しく神の子である人類は、互いに拝み合わなければならないでしょう? それを、私を含めた人類を蔑んで、神様だけを崇敬することはできないはずです」
「黙れ、黙れ、黙れ! 何の根拠があって、何の権威があって、そんなたわごとを自信たっぷりに言うのだ!」
「すべて神様に教えられたことを、神様のみ意のまにまにお伝えさせて頂いているだけです。自分の意志や自分の考えなんて入っていません。私が根拠を示したところで、それが何になりますか? 私と使徒たちがしている奇跡の業、そしてそれによる救われの事実、その報告は山と積まれているんですよ。私や使徒たちの行く先々で、奇跡は降る星のごとく日常茶飯事に起こっています。これこそ神様からの直接の証言であり、あなた方に提示できる証拠です。そのことを謙虚に神様に下座して受け止め、ス直に受け入れたらどうですか?」
「この大ほら吹きのペテン師め! そんなのまやかしだ! 神への冒涜だ!」
「あなた方が神様からの証言を受け入れないということは、神様の教えを心にとめていないんじゃないですか?」
「おまえに言われる筋合いはない! 素人の分際で!」
「あなた方が私の業を認めないのは、あなた方が正統と思っている宗教的基盤と相容れないからでしょう。頑なに否定しようとするのも、祭司としての地位を守るためでしょう? 祭司たるもの、あんな田舎から出てきた男の奇跡の業を信じたとなれば、立場ないですものねえ。破門になって、失業もしかねないですからね。あなた方は神様から受けるよりも、人間から受ける名誉の方がいいに決まってますね。そちらの方が大切なんでしょう、きっと。でも、そんな物質レベルでしかもの考えていないから、私の呼びかけを受け入れられないんです。違ってますか? 人間同士でも栄誉ばかり気にして、神様から与えて頂ける栄誉には関心がないんですね。私はあなた方をどうすることもできませんけど、モーシェが黙っていませんよ」
「我われは、モーセの教えの通り、毎日それを生活の中で実践している」
「しかしですね、長い年月がたつうちに神様のご計画も進展しますし、また形骸化して停滞もするんです。モーシェは、あなた方の姿を見て嘆いています。泣いています。泣いているうちはまだいいのですけど、怒り出したらたいへんですよ」
「ええい、黙れ! この異端の邪教! 我われには長い伝統と権威があるんだ。おまえなんか、石うちの刑にしてやる」
イェースズはまだ何かを言おうと思っていたが、祭司たちは背を向けて行ってしまった。
日が没して安息日が終わるのを待ってからイェースズたちは宿を探し、下の町と呼ばれている神殿の南方に広がるあたりに宿を取った。第一城壁の内側ではあるが、その西側のヘロデ王宮や最高法院、貴族の邸宅が並ぶ上の町とは第二城壁で仕切られた庶民の町だった。
翌日は、イェースズと使徒たちで町の中を歩いた。とにかくスケールが大きい。箱形の家が所狭しとぎっしりと並び、道は石畳で、その上をまたぎっしりと人が行きかっている。彼らはしっかりと固まって歩いた。道は迷路のように入り組んでいるので、はぐれたりしたら絶対にめぐり会えないような気にさえなる。特に小ヤコブと小ユダにとっては、何から何まで珍しいようだった。道行く人々はすべてがユダヤ人だとは限らず、ローマの兵士、ギリシャの商人などもあふれている。
そんなイェースズを目ざとく信奉者が見つけてついてくるが、その数はエルサレムの全人口に比べればかけらにすぎなかった。多くのものは全く無関心にイェースズとすれ違って行く。
イェースズたちはその足で神殿参拝の手続きを取りに行き、その許可がおりたのは三日後だった。そこで許可がおりると同時に、イェースズは使徒たちをつれて神殿へと向かった。
今度は神殿の南側の側面の、石の壁にある二重門から入った。入ってしばらくは地下道になり、階段を昇ると神殿の壁の上の異邦人の庭に出る。今日もおびただしい数の商人が、そこに店を出して庭を埋め尽くしていた。
「先生、生け贄の動物は?」
「いらない」
いつになく険しい表情でイェースズが言うので、声をかけたイスカリオテのユダは思わず首をすくめてしまった。実際には動物だけでなく、ギリシャ貨幣をユダヤ貨幣に両替しないと神殿に奉納金として納めることはできないのでそのための両替屋も多数店を出していたが、イェースズは貨幣の両替を命じる気配さえなかった。
この庭からだと神殿は右側面を見せており、神殿に入るには右の方、つまり東を向いている神殿の正面に回らないといけない。やがて美門をくぐって女人の庭をぬけ、イェースズと使徒たちは多くの人ごみに混ざってニカノルの門をくぐり、男子の庭に入った。男子の庭の中、つまり神殿の巨大な四角い建物の前には祭司の庭があり、その中央には大きな生け贄台も置かれている。祭司の庭は低い柵で囲まれているだけなので、男子の庭からは中の様子がよく見える。だが一般参拝者はこの祭司の庭の柵の外で参拝することになっていた。
目を上げると、直方体の神殿がそびえていて、この中の一番奥が至聖所だ。
イェースズは感無量だった。初めてではないにしろ、少年時代に参拝して以来の民族の心の中心である神殿参拝だった。だが、感無量ではあったが、イェースズの心にはどうしても晴れない部分があった。異邦人の庭は、完全に市場と化している。イェースズは異邦人の庭よりも、二、三段高くなっている所に出た。この上は異邦人は上がることが許されておらず、その分だけ雑踏が少なくなっていた。すると人ごみの中から、イェースズの信奉者たちが現れた。イェースズがこの神殿参拝をするという情報がもう流れたのか、高い所に立っているイェースズを見つけては、その周りに集まってきた。信奉者とはいっても心からイェースズを崇敬してきている人たちばかりではなく、物珍しさの物見遊山の人もかなりの数で混ざっていた。神殿のごく一部の一角で、イェースズは信奉者たちに囲まれた。彼らは皆、イェースズの言葉を待った。
「皆さん」
イェースズが口を開いた。
「私は今日はこの神殿の庭を、皆さんに神様の教えをお伝えする場として選んだのではありません」
人々の間で、ざわめきが起こった。だがイェースズが再び話し始めると、また人々は静まった。
「今日は皆さんではなくて、ここでご商売をしている方々に聞いて頂きたいんです」
イェースズは集まった群衆にだけ聞こえる声ではなく、わざと大きな声で叫んだ。だからイェースズを取り巻く群衆が多すぎて商売の手を休めていた商人たちも、自然とその言葉に胡散臭そうに耳を傾けていた。
「イザヤの書には、こう書いてあります。『私の神殿は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』。いいですか。ここは神様の神殿、祈りの家で、いわば聖域です。ここでご商売をされるのはいかがなものでしょうか」
商人たちは、それを聞いてせせら笑った。そして、その中の一人、スズメを売っていた商人が大声で返した。
「俺たちに、立ち退けって言うんかい? 俺たちゃあ、ちゃんと許可をもらってここで商売やってるんだ」
「そうだ、そうだ! 祭司様のお墨付きだ。どこの馬の骨とも分かんないようなあんたに、そんなこと言われる筋合いはない!」
その時、イェースズの背後で咳払いがした。振り向くと先日の祭司が二人、イェースズをにらみつけて立っていた。
「どうも庭に人が集まって変な雰囲気だと思って来てみたら、またあんたか。いいかね。この人たちの言う通り、ここで燔祭の動物を売ったり、お金をユダヤ貨幣に両替することは律法でも認められているのだ」
「『あなたの神殿に対する情熱が、私を食い尽くした』と詩篇にも書いてありますね。ここでご商売されている方々は、言っちゃ悪いが正直ではない。うまく金額をごまかして暴利をむさぼっていますよ。たとえば、両替も金利がめちゃくちゃ、スズメは実際に売っても神殿では預かるだけで殺してなく、またここに戻されて何回も同じスズメがいろんな人に売られています。エレミアの書にもありましたね。『私の名がつくこの神殿は、盗賊の巣のように見える』」
「ちょっとそれは、言いすぎじゃないか」
ハト売りが商売をほったらかして、顔を赤くしたままイェースズのすぐそばまで走ってきた。
「俺たちゃまじめに、生活をかけて商いをしているんだ。それを強盗の巣だと?」
商人たちは何人かが段の上に昇ってイェースズを囲み、その胸座をつかんだ。今にも殴りかかりそうだ。十二使徒も駆け寄り、イェースズをかばうようにイェースズと商人たちの間に入ろうとしたが、商人の数はどんどん増えた。黙っていないのがイェースズの信奉者の群衆たちだ。
「先生の言われる通りだ」
と、多勢で商人たちをイェースズから引き離した。ところがそれと同時に、段の下でも大きな音と悲鳴が聞こえ始めた。イェースズを救うべく段上に上がった群衆のほかの群衆が、商人たちの店を力任せになぎ倒し始めていた。檻が倒れ、スズメやハトが一斉に空へと飛び出した。人々は壊れた店の柱の木を拾い、それを手に持って暴れていた。店は多くの群衆によって次から次へと壊され、もはやイェースズにつかみかかるどころではなくなった商人たちは、慌てて自分の店の方へと駆けて行った。だが、ほとんどすべてといっていいくらいの店が、すでに壊されていた。羊が逃げて庭を走り回り、また多くの金貨が庭にばらまかれた。異邦人の庭は叫び声や動物の鳴き声、群衆が店を打ち壊す音が響き、店のほとんどが残骸となった。
「なんていうことをしてくれるんだ? 商売ができないじゃないか!?」
商人たちは途方に暮れてそう叫んでいたが、すべてが片付くとイェースズを信奉する群衆は再びイェースズを囲んだ。
「万歳! ダビデの子、万歳!」
祭司たちはもうあきれた顔で、それでもイェースズをにらみつけていた。だが今は使徒たちがイェースズを守っており、祭司は手を出せない。
「おまえはいったい何の権利があって、こういうことをするんだ!」
イェースズの目は穏やかさを取り戻し、静かな口調で言った。
「私が命じた訳ではありませんけど。でも彼等はなイスラエルの民なら、必ずすべきことをしたまでじゃないですか。神殿を命に換えてお守りするというのが、本当のイスラエルの民でしょう? 違いますか?」
そこへ別の祭司たちが多勢、騒ぎを聞きつけてやってきた。
「何の騒ぎだ!」
聞くまでもなく、すべて打ち壊されて瓦礫の山となった異邦人の庭の状況を見れば、嫌でも分かる。そして群衆はイェースズを取り囲み、
「ダビデの子、万歳」
と、歌い続けていた。そこには、多くの子供たちすら混ざっていた。イェースズは祭司を見た。
「お聞きですかかな。子供たちの声を。『われらの主よ。あなたの栄光は天の上にあり、乳飲み子と幼児の口によってほめたたえられています』。これも詩篇ですね」
「何だと! こいつ、自分を神だというのか。これ以上の神への冒涜があるか。これは石打ち刑ものだな」
イェースズは穏やかだった。目には笑みさえ含まれている。
「私はひとことも、自分が神だなんて言っていませんよ。もしそんなことを思う人がいたら本末転倒です。私が神様なのではなく、天の御父が神様なんです」
「これは神への冒涜というだけではない。これだけのことをしでかしてくれたんだから石打ちだけでは済まないぞ! 民衆を扇動して暴動を起こしたということは、ローマ当局への反逆でもある」
祭司たちは、うわずった声で当のイェースズはほったらかしで議論していた。その時、群衆がどっと一斉に段上に上がり、イェースズを取り囲んだ。そのどさくさに乗じてイェースズは人垣の中をうまく脱出し、使徒だけを連れて城外に出た。そしてこの日はベタニヤに戻り、しばらくゼベダイの屋敷に逗留させてもらうことにした。