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カペナウムを後に、イェースズの一向はガリラヤ湖に沿ってその西岸を南下した。最初は十二人とイェースズだけでの出発で、今回も行く先々の村でイェースズは病人を癒していった。しかしイェースズの噂を聞いて押しかけてくる人々は後を絶たずにいつも黒山の人だかりとなったが、そのほとんどは病気が治ればいいというような御利益信仰の人だったので、目的が果たされると再びイェースズのもとには来ようとはしなかった。だが、少数ではあるがイェースズの教えに感銘し、その後ろを付き従う人々も増えて、いつの間にか十三人の旅のはずだったのに人数は膨れ上がっていった。
イェースズの周りは、笑いが絶えなかった。世の光となるためにはどんなに笑顔が大切か、イェースズはいつも語っていたのである。
「いつもニコニコして明るい想念をもって、明るい言葉を使っているとだね、運命も陽に開けていくんだ」
その言葉通りに、イェースズはいつも笑顔だった。歩きながらも時折イェースズ自身の大声での笑い声が聞こえるし、何か冗談を言って弟子たちを笑わせることもしばしばだった。
イェースズはどんなに多くの人数が自分に付き従うようになっても、それをまとめて教団化するつもりはなかった。自分はヨハネ師の後継者として、弟子たちをヨハネ師から一時預かっているという意識も、表面ではないにしろ心の片隅にはあった。それら弟子を組織して教団化すると、一宗一派の宗教を打ち立てたことになる。しかし彼は、宗門宗派を超越した絶対神の教えを、命じられるままに説いているのである。宇宙の普遍の法則を説いているのだから、一宗一派を打ち立てたら、すべてが矛盾して消えてしまう。かつてのブッダ・サンガーがそうだった。いつの間にかそれは形骸化し、一宗教になってしまっていた。ゴータマ・ブッダのやり方はそれはそれでよかったのだと思うが、自分は同じようになりたくないという意識がイェースズの中にあった。
ブッダがブッダ・サンガーで教えを説いたのを「静」とすると、イェースズらが各地を巡回して教えを説いている形態は「動」であった。多くの村で人々を癒し、そして教えを説きながら旅を続けるうちに、ローマ風の石の建築が目立つ大きな町が行く先の湖畔に見えてきた。マグダラである。その町に向かってイェースズは進もうとするので、その袖をイスカリオテのユダが引いた。
「先生、あの町に行くんですか」
イェースズは何事もないように、微笑んでうなずいた。ユダやシモンが嫌がりそうなことは、イェースズも知っていた。ガリラヤの中の一つの町であるマグダラではあるが、州都ティベリヤ以上にローマ色の濃い町で、事実そこはユダヤに駐屯するローマ兵の保養地にもなっていて、ローマ兵相手の歓楽街もある。熱心党出身の彼らにとっては、面白くない町だ。
果たしてイェースズが町に入るとともに彼らを取り囲んだのは、ここでは民衆やパリサイ人の律法学者ではなく、案の定ローマ兵だった。すでにイェースズの噂はここにも流れているようだが、ローマ兵たちにとってはイェースズは怪しげな祈祷師でもありがたい師でもなく、反ローマの運動を起こしかねない集団ではないかという危惧を抱かせる存在であるようだ。
湖畔の砂浜で兵たちがイェースズを囲むと、ついてきた群衆の大半は一目散に離散してしまった。十二人の弟子だけがイェースズをかばうように取り囲み、逃げなかったその他の群衆は遠巻きに見ているだけだった。ユダとシモンがイェースズの前にたって、素手でも戦おうと意気込んでいた。それをイェースズは手で制して、落ち着いた様子で微笑みとともに一歩前に出た。
兵たちの中から、大将と思われる甲冑を着けた人物が前に出た。
ところがその大将は居丈高にイェースズを尋問するかと思いきや、突然イェースズの前にひざまずいたのである。
「私は百人隊長ですが、カペナウムのイェースズとはあなたですか?」
それは彼らローマ兵が普段しゃべっているストリート・ラテン語ではなく、丁寧なギリシャ語だった。それはこの男がただの兵卒ではなく、かなりの知識人であることを物語っていた。ローマの軍団は百人単位の小隊に分けられているが、その百人隊を統率するのが百人隊長である。
「あなたの噂は、このマグダラでも持ちきりだ。あなたはどんな病でも癒してしまうそうな」
「どうかなさいましたか?」
と、イェースズもギリシャ語で尋ねた。
「私ではなく、部下の兵士の一人が熱病で苦しんでいるのです。どうかお言葉を下さい」
ローマ皇帝に仕えるはずの百人隊長が、彼らから見れば辺境の被征服民族の異邦人の前にひざまずいているのである。本来なら、あり得べからざる光景で、その行為はイェースズよりもむしろ百人隊長にとって危険な行為であったはずだ。それをあえてしている百人隊長の中に、厚い信仰心をイェースズは読み取った。おそらく、ユダヤの地への赴任が永きにわたっているのであろう。それで純粋な信仰心が、この男の中で芽生えたようだ。しかし、そんな男の心を読み取ることなどできるはずのない弟子たちは、意外なことの成り行きに呆気に取られていた。ユダなどは、まだ警戒心を緩めていない。
「言葉ですか?」
と、イェースズは穏やかに尋ねた。
「あなたの言葉には、力があるでしょう。こんな私ごときでさえ、言葉で命令するだけで部下は思いの通りに動くのですから。今、その男をここに連れてくる訳にはいきませんから、どうかお言葉だけでも」
「なるほど」
イェースズは優しく微笑みを投げた。
「確かに、言葉には霊力、即ち言霊があります」
イェースズはそれだけ言うと、天を仰いで手を合わせ、額に汗が出るくらい強く神に念じた。そしてかなり長い時間そうしてから、大きな声で、
「百人隊長の部下よ、浄まれ!」
と激しい言葉の霊力を送った。それから、百人隊長を見て厳しい表情からもとの笑顔になった。
「まだまだ今の世は、験や奇跡がないと、神様のことや霊的なことが分からない時代なんですねえ」
イェースズは大声で笑った。
それからイェースズは、湖畔で人々に教えはじめた。だが、この町ではイェースズの話に耳を傾ける人々は少なかった。
そうしてその夕方、イェースズの話を聞く群衆の後ろに、甲冑を脱いだ昼間の百人隊長が立っていた。
「あなたが念じたその同じ時刻に、部下の熱病は癒されました」
「そうですか。それはよかった」
イェースズは、本当にうれしそうな笑顔を見せた。
「本当に、有り難うございます。師のお念じのお蔭です」
「いえいえ」
イェースズはあくまでも、下座の心を失わなかった。
「一つは、神様のお力です。そしてもう一つはあなたの信仰が、部下を救ったのですよ。それは信じたから癒されたというのではなく、信仰の厚さによって救われていくのだということです。すなわち信仰の厚さと深さが人を救っていくのですよ」
「とにかく、せめてものお礼です」
百人隊長が差し出した手の中には、皇帝の肖像のある金貨が数枚乗っていた。イェースズは、それを押し返した。
「私はけっこうですから、もし感謝の心があるのなら、このお金は神様にお捧げして下さい」
「神様?」
「別にユダヤの神殿の神様でなくても、あなたが信じている神様でけっこうです。今の世の人々が奇跡を見ないと信じないように、神様も人間が感謝する心を、形で表さないと信じては下さらないんですよ。形に表してこそ、神様はそれを真として受け取ってくださいますから」
そうしてイェースズはまた、慈愛のまなざしを向けた。
イェースズはマグダラの町では、郊外の湖を見下ろす丘の上に宿営した。弟子たちは、野営用のテントを持って移動するようになっていた。その周りを、ついてきた群衆が思いのままにイェースズたちを取り囲むように野宿している。
ただ、イェースズは自分たちのテントの余りを、一部の群衆には提供した。それは、女性たちであった。イェースズの集団の驚くべきことは、そんな女性たちをも全く分け隔てなく同行させていたことであり、一般の習慣からいうと考えられないことであった。会堂でさえ、男性と女性は席がはっきりと分けられている。ましてや、イェースズのように人々から師と呼ばれて弟子たちを連れ歩く集団は、すべてが男のみで構成されているのが普通だ。
「一般的に、男は知識から信仰を求め、女は感情と情緒から入るけど、そういった情緒から信仰を求める人の方が信仰の厚さや深さに早く到達するんだよ」
イェースズは女たちの同行を拒まない理由を、そういうふうに弟子たちには説明していた。だからこのマグダラ郊外に着いた頃は女の数の方が男を圧倒するくらいで、テントが足りないこともあった。女性を分け隔てしないという点では、ヨハネ師もそうだった。だがヨハネ教団でもさすがに、教団幹部は男だけのものだった。女性たちはここでは、男では目の行き届かない細かなイェースズや十二人の弟子の身の回りの世話をしてくれた。そしてイェースズが説法に立つと男と全く席を同じくして、彼女らもイェースズの話に聞き入っていたものである。
マグダラに着いてから3日目、イェースズはいつものように説法をしていると、聞いている群衆の、しかも女の方から暖かな包み込むような波動を感じた。それは女という集団ではなく、一点から来る。イェースズはその方に意識を向けた。そしてその波動の主を温かい目で一瞬だけ見たが、すぐに平静を装って話を続けた。
話が終わってから、その波動の主は果たして一目散にイェースズのそばに来た。
「マリア」
カナにいるはずの妻のマリアであった。
「ごめんなさい。来てしまいました」
と、マリアは言った。あの婚礼の日からちょうど一年で、そろそろ正式な婚礼をもう一度行って同居する夫婦となる頃だ。だからマリアはそのことの催促に来たのだと、普通なら思うだろう。イェースズももちろんそのことは意識していたし、このマグダラでの説法を終えたらカナに向かうつもりだった。だが、それはあくまで私事であり、今は神のミチを述べ伝えるという公を優先すべきだというのが彼の考えだった。マグダラはマリアがかつて働いていた地でもあるから、いやでも意識していたイェースズだった。そしてマリアにはカペナウムの家に入ってもらい、自分の留守を預かってもらうように頼むつもりだったのだ。若くしてイェースズを生んだ母マリアだからまだ壮健であるが、いつまでもそうだとは限らない。その母マリアを、妻マリアには助けてもらおうとイェースズは思っていた。
だが、今目の前にいるマリアの心は、イェースズにはすべて見えていた。
「師とお呼びしてもいいですか?」
マリアは、イェースズが読んだ通りの心でそう言った。
「こちらこそすまない。カペナウムに行ってもらうつもりだったけど、これからも私といっしょに来てくれるかい?」
マリアは、燃えるような瞳でうなずいた。なにしろ、彼女もイェースズによって救われた一人なのである。七体の霊が彼女を苦しめていたが、それをイェースズがすべてサトシて離脱させたのだ。
「婚礼はいりません。婚礼よりも入門を」
「あなたの入門はもうすんでいる。あなたはもう、火と聖霊の洗礼を受けたじゃないか」
マリアは、にっこりと微笑んだ。
「お父さんとお母さんは?」
「賛成してくれました」
こうしてマリアは、イェースズの妻であって、妻ではなく弟子ということになり、その日から彼女は十二人の弟子よりもイェースズの身近にいてともに行動することになった。ただ寝泊りだけは、イェースズは十二人といっしょだった。弟子の中でも何人かは婚礼にさえ出ているのだからマリアのことをよく知っていたし、マリアがイェースズの妻であることも承知していた。ましてやマリアは、旧ヨハネ教団の幹部だったものにとってのかつての師のヨハネの従妹でもあり、同時にイェースズの又従妹でもあるので、下にも置かない扱いだった。こうしてこの日から、昼間のイェースズのそばにはいつもマリアの姿が見られるようになった。
日増しに増えてくる人々に、夏の炎天下であるにもかかわらずイェースズは話をし、言霊によって彼らを浄め、そして神の光を分け与えた。そんな群衆のまちまちの想念は、話をしながらでもイェースズに伝わってきた。あるものはイェースズを祈祷師かなんかだと思い、とにかく病気治しだけの目的で近づいてきている。またあるものは預言者だと信じており、また一部のものは熱心党のように、イェースズを反ローマの旗印にして、一気に植民地政策を跳ね除けてローマに勝利しようと思っている人たちも少なからずいた。イェースズの後ろをぞろぞろ着いて歩き、その話を座って聞くということができることは、本当に選ばれた人だけの特権だった。仕事を持っているとこうはいかないので、ついてくる群衆は仕事を休んでいるか、辞めたかの連中ということになる。そういった群衆のまちまちの想念の背後には、何かどす黒い想念の固まりがあることもイェースズは見抜いていた。
マグダラで話を始めてから4日目、新しく加わる人がほとんどいなくなった。
「ペテロ、人が来なくなったね」
夕方になって、イェースズはペテロに聞いてみた。
「それより先生、先生は今日も昼食をおとりでない。夜もほとんどお休みになっていないんじゃないですか?」
「そんなことより、どうして人々が来なくなったのだろか?」
だが、イェースズはその訳をすでに知っていた。果たしてペテロは、申し訳なさそうに下を向いて言った。
「実は先生がお疲れだろうと思って、新しい人が加わるのを禁止しました」
それを聞いてイェースズは、大声で笑った。
「私は疲れてなんかいないよ。神様の御用をしているのだから、体はますます元気になっていく。人を一人救わせて頂くごとに、私の力は増していくんだ。もっともこれは私の力ではなくて、神様のお力を拝借して、神様が人々をお救いになるお手伝いをさせて頂いているだけだから」
ペテロは口をはさもうとしたが、イェースズはさらに続けた。
「私を頼ってくる人々に神様のみ光を分け与えているのだから、その間は私は神様の懐の中で休んでいるようなものだ。せっかく神様のミチを求めてやってきた人を追い返しては、今日来ても明日来るとも限らないからね」
ペテロは神妙に聞いていた。イェースズはまた笑った。
「ほら、暗いぞ!
もっと笑って」
仕方なくペテロは少しだけ笑った。
翌日、イェースズが人々の前に出ると、先頭にいた数名の老人がひざまずいてイェースズを拝みだした。聞くと、昨日イェースズの話を聞いていただけで曲がらなかった足がまがるようになり、自由に歩けるようになったのだという。
「私を拝んでも仕方がないですよ、さあ、お立ち下さい」
と、イェースズは老人たちに立つように促し、それから近くの岩の上に立って男女入り混じった人々を見渡した。
「皆さん、聞いてください」
しばらくしてから、人々のざわめきは収まった。
「ここにいるご老人はですね、昨日その病気から救われて御礼に来られたということで、そういったお心はとても有り難いんですけど、でも本当にお礼を言うべき相手は私じゃないんですね。それは、神様です。人物信仰はいけませんよ。信仰すべきは、天の神様だけです。人物信仰は、偶像崇拝と同じです。ですから、私を崇めないで下さい」
人々は、シーンと静まり返っていた。
「皆さんの中には、奇跡を頂いた方も多いでしょう。しかしですね、奇跡といいますのはそのあと、つまり、奇跡を頂いたあとの想念がとても大切なんです。奇跡は神様の御実在を万人に知らしめ、そのお力を知らしめるための方便なんですね。あくまで方便であって、目的じゃあない。神様は奇跡を通して皆さんが、魂の悔い改めをすることを望んでおられます。奇跡が起こって、例えば痛かった足が治った、肩こりが治った、皮膚病が治った、見えなかった目が見えるようになったなどというのは、いわば行きがけの駄賃なんです。つまりは、今の世の中の人はどうしょうもなくなってしまったので、一つ奇跡でも見せて目を覚まさせてやろうっていう神様の御愛情からきたもので、いわば見せるための奇跡なんです。だから、奇跡を頂いた、うれしいと最初は感動していても、またつらくなったら私の所へ来ようなんて考えているようでは、奇跡に狎れてしまっているんですね。奇跡に狎れ、神様に狎れてしまったら、見せるための奇跡ではない本物の奇跡なんてとてもとても頂けません。どうですか、皆さん。奇跡を頂いても、何日かしたら忘れてしまうんじゃないですか? ひどい人だと、三歩歩いただけで忘れてしまう。それじゃ、ニワトリかってことですよね」
人々の間で笑いが起こった。イェースズもニコニコしながら、また話を続けた。
「見えなかった目が見えた時のその感動をいつしか忘れて、見えて当たり前と思うようになってしまうんじゃないですか?」
今度は人々は、苦笑を見せた。イェースズのひと言ひと言の金口の説法の言霊には黄金の光の波動が乗っており、それが人々の魂を開かせ、揺さぶって浄めていく。中には、泣きだしそうな顔で聞いているものもあった。
「今は神様に感動して、家に帰ったらけろっとして日常生活に追われているようじゃ、まるで二人の主人に仕えているようなものですね。二人の主人に仕えるなんて、そんなことできないでしょ。ですから、想念が大事なんですね。この世では皆さんの魂は肉体の中に入っていますから、どうしても目に見えるものや耳に聞こえるもの、手に触れるものしか信じられなくなってしまっているんです。そうじゃないですか? でも、肉体なんて、死ねば土に返ってしまうんですよ。土から造られたんですからね。でも、人間の本質って、死ねばなくなってしまうようなけちなものじゃないんです。じゃあ、その本質はっていうと、それがいわゆる『霊』なんです。つまり、霊魂でですよ。肉体なんて、死んで三日もすれば腐るんです。でも、生きている間は皆さんの体は何十年と腐っていないでしょ? 何十年たちました? あなたなの体ができてから」
イェースズは前の方に座って聞いていた中年男を指した。
「まだ二十年もたっていないんですけど」
その男の答えに、人々は笑った。
「まあ、一応そういうことにしておきましょう。ずいぶん見栄を張っておっしゃいますね」
人々の笑いは、また一段と高くなった。空は晴れており、すがすがしい空気がイェースズと弟子たち、そして群衆の上に注がれ、すべてが明るく輝いていた。
「それでいよいよもって、想念、つまり心の奥底に秘めた思いが大事になってくる訳でして、何しろいざ肉体を捨てて霊の世界に入ったら、つまりあちらへ行きますとですね、もうそこは全くごまかしのきかない世界なんです。今は皆さん、肉体の中に入っているから、心が他人に見られることもありませんしね、それだけにごまかしがきくんです。ごまかしがきくもんだから、人によく思われたがるというつまり『たがる心』で見せかけだけのことを、いろいろとまあご苦労なんですが、でもそんな偽善的な想念ではかえって魂を曇らせてしまうんですね。他人をごまかしているだけじゃなくて、自分をもごまかしている人なんていませんか? 皆さん、どうです?」
あまりに群衆がシーンとしてしまったので、イェースズは笑いながら、
「あのう、聞いてますか?」
とおどけて言い、やっとそれで人々は笑い声を上げた。
「ああ、よかった。聞いてたんですね」
また、人々は笑う。
「それで、何の話でしたっけ?」
さらに、人々の笑い声が上がる。
「そうそう。いいですか? あちらの世界ではですね、お互いの心は丸見えなんです。なんて、自信たっぷりに言うけど、見てきたんかよなんて思ってるでしょ? はい、見てきたんですね。見てきたんだから間違いないんです」
ここは、イェースズは冗談ではなく本当のことを言った訳だが、人々にとってそれは冗談にしか聞こえなかったようで、またどっと笑い声が上がった。
「だから正直な罪びとの方が、不正直な信仰家よりも魂のランクはなんです。いいですか、皆さん。ランクが上だってことは、つまり救われるってことです。ですから、人の悪口、陰口、批判を言ったり、怨み、妬み、嫉みの想念を持つなんて、自分にとって損なことなんですね。皆さん、言うでしょ。人の悪口や陰口。『ねえねえ、ちょっと聞いてよ、あの人ったらねえ、全くああでもないこうでもない』って」
イェースズの話はジェスチャーつきだったので、それがまた受けて人々を笑わせた。
「それを聞いてですねえ、ついつい同調しちゃうんですね。『そうそう、そうなんだよな。俺もそう思ってた。あいつときたらウンタラカンタラ、ウンタラカンタラ』って」
また、笑い。
「まだ聞いてるだけならいいんですけどね、そういうふうに同調してしまったらもう自分が悪口、陰口を言ったのと同じですからね、魂はパーッと一気に曇ってしまうんです。パーッとですよ。曇ったらどうなるか、神様の光が入ってこないから、暗い人になって暗い人生になるんです。ですから、人の欠点に気づいたら、陰でこそこそと悪口や陰口を叩くんじゃなくって、直接本人に言ってあげることです。それも、みんなの前で大声でなんかじゃなくって、物陰に呼んで二人きりのところで、それも『私はこう思うんですけど、いかがですか?』なんてふうに柔らかく、これが思いやりってものでしょ。いいですか。人の悪口、陰口を言うってことは、想念界ではその人を裁いていることですからね。人が人を裁くことは、許されてないんですよ。裁きは神様だけがお持ちの権限です。人には与えられていません。私にも与えられていません。だから、裁いちゃあだめなんです。裁いたら裁かれますよ。すべて、相応の理ですからね。だから、人の欠点ばかりに目をやるんじゃなくって、人の長所を探す訓練をすることです。長所だけを見ていればいいんです。これは、訓練が必要なんですね。私の弟子たちにも言いましたけどね、だいたい人は、他人の目の中にある小さなゴミにはすぐ気がつくのに、自分の目の前に丸太ん棒が入っていても気がつかないものなんです」
弟子たちに話したときと同じように、やはり人々も笑った。
「皆さん、笑ってますけどね、本当なんですよ。自分の目には丸太が刺さっていて、二本もささったそのままで歩いていて、人様とすれ違うと『あんたの目にゴミがある』」
人々は笑う。
「そんな人の目のゴミを気にする暇があったら、自分の目の丸太をとりなさいって言うんですよ。それを、中にはわざわざ人様の目のゴミを探して歩いている人もいる」
一同、笑い。
「それから、怒っちゃだめですよ。だめっていうか、怒らない方がいいですよ、理由がありますから。皆さん、豚、食べます?」
普通なら言われたら怒りだしそうな内容だが、ここではみんな逆にそれがうけて笑った。
「そりゃあ、いませんわな、普通。でも、異邦人は食べますからね。それで、子羊なら食べますね。その子羊を殺すときに、怒らせて怒らせて、逃げ回るのを追い掛け回してやっと捕まえて締め上げて殺したりしたら、その肉はもうまずくて食べられませんよ。怒ると、体内に毒素が発生するんですね。人間だって同じです。怒るとですね、体の中に毒ができるんですよ。その毒が体内を汚すし、周りの人にまで影響を与え、そしてまた邪霊と波調が合って邪霊を呼んでしまうんですね。もうそうなると、霊障人間はい出来上がりってな感じです。怒りの想念で発生した毒は、極微の世界にまで浸透してしまうんです。だから私は決して道徳として、人の悪口を言うなって言っているんじゃないんです。霊界の法則ですからね、これは。それをお伝えしているんですよ」
イェースズはそれから、微笑んだままでまた群衆を見わたした。
「いいですか、皆さん。真に真にこれだけは言っておきますけど、今こうして話を聞いている皆さんの中にも、私に対して『何、言ってんだ。馬鹿じゃないのか』なんて思っている人がいたら……」
イェースズは言葉を区切った。人々は緊張して、次の言葉を待った。
「いいんですよ。私のことなんか、どう思おうとけっこうです。なんだか田舎の大工の息子が偉そうにぺらぺらとなんて、思っているでしょ」
誰も、返事をしなかった。
「本当にいないんですかね?」
人々は、また笑う。
「まあ、いたとしても、それはそれでいいんです。あの、カペナウムから来たイェースズという男は、ちょっとおかしいんじゃないかなんて思ってるでしょ? いいんです。そう思っていてください。でもですね、神様は信じてくださいよ。私ごときもののことをどう言おうとそれは許されますけどね、神様に対して御無礼があったらたいへんなことになるんです。私を信じなくても、私が今お伝えさせて頂いている神の教えは信じて、正しく語り継いでくださいね。神様は、あなた方を愛しておられますよ。救おうとされてますよ。それを自分自身で拒絶してしまったら、もったいないですね。また、イスラエルの人にとっても、私がここで神様の教えを伝えさせて頂いているということは、素晴らしいことなんですよ。よりによって、いや、よりによってじゃない、ちょうどうまい具合に、私が生まれたのはこの国です。まあここは緑が多いですけど、南に行ったら砂漠ばかりですぐに戦場になるような土地です。でも、世界の東と西を結ぶ場所でもあるんですね。そんな国に生まれさせて頂き、教えを伝えることが許されているというのは光栄ですよ、私にとっては。神様には感謝しかありませんね。神の国は近づいてますからね」
イェースズはそこで、一回息をついてまた続けた。
「それとですね、言葉も大切ですよ。言葉には言霊っていって、不思議な霊的力が込められているんですね。神様が天地を創造されたいちばん最初に、何て言われました?」
少し間をおいてから、前の方にいた若い男が、
「光あれ」
と言った。
「そう、正解です。皆さんご存知でないはずがないのに、ずいぶんと謙虚な方々が集まったんですね」
人々はそこで笑った。
「いいですか、神様が『光あれ』という言葉を発せられて天地創造が始まった。これはどういうことか、お分かりですか? 聡明な皆さんなら、お分かりでしょう。そうですね。天地創造の時に、すでに言葉はあったということです。言葉でこの世は創られていったんですね。鑿や金槌でじゃないんです。天地初発には、もう言葉があった。そして、すべては言葉で創られた。それはすなわち、神様のお言葉です。言葉は、神様とともにあったんですね。ですから、神様は神の子人にだけ、言葉をお与えになった。動物には、与えていないでしょ。それって、すごい御愛情じゃないでしょうか。言葉があるかないかが、人と動物を決定的に分ける点となるんですね。ではその、『言葉』とは何でしょう。つまり、心からあふれ出るものが言葉になって出るんですね。よいものをしまった倉からは、よいものしか出てこないでしょ。よい心からは、いい言葉しか出ないんです。逆を言えば、いい言葉を出す人は心もいいということになる。だから言葉とは、木に茂った葉っぱみたいなものなんです」
イェースズは息を継いだ。
「木にたとえるんなら、言葉とは葉っぱです。そして実際の行動に移したら、それは実になるんです。いい木にはいい実がなるでしょ?」
人々は、何人かがうなずいていた。
「つまりですね、心のままに正直に生き、正直な言葉を吐いて、正直な行動をする、そういうことが大事になってくるんですね。さっきも言いましたが、あの世は肉体がないだけに心が丸見えになって、一切うそがつけない世界だから非常に厳しい。ですから、この世に生きている今のうちにですね、本音と建前を使い分けるなんてことはやめる訓練をしておいた方がいいですね。建前なんていうのは、木でいえば余分な枝でして、そんなものは庭師を呼んで切り落としてしまった方がいいということになるでしょ。あちらへ行ったら、自分が一生のすべてが、行動だけじゃなくってこっそりと考えたことまでがすべて記録されていて、それをみんなの前で空中に描き出されてしまうんですよ。そして誰に裁かれるではなく、自分で自分にふさわしい世界を選んでスーッと行ってしまうんです」
その時、群衆の中から叫び声があがった。
「師!」
その声の主はイェースズをそう呼んだ後、人をかき分けて最前列まで出てきた。群衆はざわめきだした。若い男だが、目が見えないようだ。
「師、私の目が見えないのも、私の行いのせいなのでしょうか?」
イェースズはその男に、優しく諭すように言った。
「悲観することはありませんよ。あなたの痛恨と信仰があなたを救います」
男はひざまずいて、手を合わせた。それはすべてを神に委ねている姿だった。イェースズはその男の額の前に、手をかざした。たちまち、ものすごい霊流パワーが放射された。群衆たちは再び静まり返り、そんな光景を固唾を呑んで見ていた。だがその民衆たちの背後には、相変わらずのどす黒い想念波動があるのをイェースズはまたしても感じていた。
しばらくしてからイェースズは、若い男に目を開けるように言った。
「み、見える! 見えるぞ!」
その顔は、光り輝いていた。群衆の中にどよめきが生じ、やがてそれは歓声に変わった。
「素晴らしい!」
「本物の預言者だ」
「イスラエルの王、万歳!」
そんな声すら、歓声の中には混ざっていた。
その時、またもや人々をかき分けて、今度は荒々しく最前列に出てきた人々がいた。服装から、パリサイ派の律法学者だとすぐに分かった。群衆の背後にあったどす黒い想念波動の主は、この者たちだったようだ。そして彼らの一人はイェースズに背を向ける形で、群衆の方を向いて立った。
「皆さん、騙されてはいけませんぞ」
群衆はどよめいた。
「我われ律法学者は、兄弟の皆さんがタルムートに精通し、また賢者であることを信じています。噂を聞きつけてわざわざガリラヤまで来て、そして今その噂の主を目の当たりに見て、はっきりと分かりました。この男、イェースズは――」
学者は自分の背後のイェースズを、後手で指さした。
「この人は、確かに多くの業をなすようだけど、その力は悪霊の力によるものですな。手のひらから光が出るとかなんとか言ってますが、それはサタンの光です」
人々は突然そのようなことを聞かされ、ただ戸惑ってどよめいていた。イェースズはゆっくりと、その学者のそばに寄った。一同はまた静まり返って、イェースズの次の言葉を待った。イェースズはそれでも落ち着いて、微笑を絶やさずに言った。
「私は神様の光で、人々に憑依する霊を浄化し、サトらせて離脱させているんです。そういった霊障を解消することで、人々は救われていくんですよ。あなたがおっしゃるようにもし私がサタンの光で邪霊を追い出しているのなら、サタンが邪霊を追い出すことになってしまいますよね。そんなの仲間割れじゃあないですか。仲間割れしたら、そこに待っているのは弱体化しかないでしょ。そんな道理は邪神や邪霊でさえ分かってますから」
すると、もう一人の学者がイェースズのそばに出てきた。
「分かりました。お説ごもっともです。しかしあなたがなさったこと、つまり霊を祓うことで病気を治すなどということは、ほかの祈祷師や霊祓い師でもやっていることですね。世の中には霊祓いの行者がたくさんいますけど、あなたもそんな中の一人じゃないのですかね」
「いえ、違いますね」
顔は穏やかなままでも、きっぱりとイェースズは言った。
「では、どう違うのですか」
学者たちは態度こそ慇懃だが、その心の内部はなんとかイェースズを言い負かしてやろうという対立の想念が渦巻いているのがイェースズにはすぐに見えた。そこでイェースズは、ひとつ咳払いをした。
「私が施しているのは、火と聖霊による洗礼で、万人を神様のご計画に参画させるための、浄化の業なんです。それは魂を浄めると同時に、病気を『治す』んじゃなくて『病気をしない体』にしてしまうんです」
律法学者は苦笑した。
「そのようなことを口で言われても、分かりませんなあ。一世風靡した霊感商法やまじないで病気が治ると言って詐欺で捕まった祈祷師もいますしね、数え上げたら切りがないほどインチキ霊感商法がまかり通り、詐欺が横行している世の中ですからね。あなたは洗礼と言うが、本当は洗礼じゃなくって霊障の恐怖や罪穢があるということで脅して、洗脳してるんじゃあないですか? もしあなたが違うというのなら、証拠を見せてください。たとえば」
学者は丘の上からよく見える湖の、その遥か対岸の青い丘陵を指さした。
「ここからあの湖の向こうの山まで空を飛んで見せたら、私は信じましょう」
イェースズはしばらく無言でいたが、やがて微笑んで言った。
「人の生き様が、その証拠ですよ。今の世の人は誰でもすぐに証拠を見せろと言いたがりますけどね、たとえ私が空を飛んであの湖の向こうまで行ったとしても、それが何になりますか? 人類の救いに、どうつながりますか? 奇跡ってそんな市場で一個いくらで売っているような、どうでもいい見世物とは違うんですよ。目に見えるものだけがすべてだと思っている人が、やれ奇跡を見せろ、証拠を見せろと言ったって、言われた私は困るだけですね。奇跡を見たら信じるなんていうのは、神様からすれば『どこか虫がよすぎやしませんか』ってことになるんですよ。神様に反逆しっぱなし、罪は積み放題で、そっち方は詫びる心のかけらもなく、奇跡を見せたら信じてやるなんて、完全に人が神様の上になってしまっていますね。私は、私を信じてほしくて体の悪い人を癒しているんじゃありませんよ。人が私を信じようとけなそうと、私は痛くもかゆくもありません。要は私を信じるかどうかではなく、私が伝える神の教えを実践するかどうかなんです。私のことを『主よ』などと呼んで、ひれ伏して拝んで恩を売ったところで、私が伝える神様のミチを歩まない人は救われないんです」
「救われないとは、地獄に落ちるということですか? 人々をでたらめな教義で縛って、奇跡話で縛ってもあきたらず、やはり脅しときましたか。ならず者まがいの手法ですなあ。そもそも、私はあなたの説法を聞かせてもらったけれど、あなたの聖書やタルムートの解釈はでたらめです。そもそもあなたは大工の息子でしょう? 素人じゃないですか。素人が聖職者のふりをするのですか?」
「あなたがでたらめと言うその根拠こそ、何ですか? あなたは自分が書物や人から学んだことだけを基盤にしていますね。少なくとも百人でいい、私のように人を救ったことがありますか?」
律法学者は黙っていた。
「私の教えは私が考えたものでも学んだものでもなにのですよ。一切が神様からの御神示なんです」
それを聞いて律法学者は、さらに一歩前に出てイェースズに近づいた。
「本当に申し訳ありませんが、たいていの人は『御神示』という言葉に幻惑されて、判断力を失なうんです。つまり『御神示』という言葉に弱い一般大衆の弱点を巧みに利用しているんでしょう。もし、百歩譲ってあなたが御神示を請けたというのが本当だとしましょう。でも、もしそうならあなたに語ったのは神などではなく、間違いなく悪霊の一種ですな。なぜ、あなたにそのような悪霊が接触したかといえば、あなたの自我が強いためだからでしょう。だいたいあなたの話す教義は、正統的な聖書の解釈からは逸脱しています。あなたは本当にイスラエルの民なのですか? アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神を信じているんですか? どう考えても、あなたは異端です。もしあなたが異邦人の異教徒なら、はっきりとそうおっしゃって布教なさい。それを、イスラエルの民のふりをして教えを広めるのは姑息というものですよ。それこそあなたの言葉を借りれば、二人の主人に仕えるようなものじゃないですか。恥ずかしくありませんか? 十戒にもはっきりと、ほかのいかなる神をも神としてはならないとありますよ。もしあなたがイスラエルの民を名乗るなら、十戒に背く偽善者の罪びとではないですか」
いつの間にか十二人の弟子がイェースズの左右から前に出て、律法学者たちを取り囲む形になった。それをイェースズは手で制して下がらせた。
「異端という言葉は、偏見の所産です。いいですか。世界は元一つしかないんです。人類も元は一つでした。同じように、世界のあらゆる教えも、大元は一つなんです。私はそんな宗門宗派の枠を超えた、神界・神霊界の法則である大元の教えを説いているんです。決してイスラエルの神の教えと矛盾しません。私が言う神様は、あなた方の言う神様と違う神様ではないんですよ。宇宙創造の神様はお一方です。私に従うものは、それまでの教えを捨てて改宗してくるなんて必要は全くないのです。今までの信仰はそのまま続けていいのです。さらには、今までの自分の信仰も、より深く理解できるようになるはずです」
「もっともらしいことを言ってますがね、あなたの説法自体はおまけに過ぎないでしょう。その内容は、色々な宗教の引用や盗用が多いってすぐに分かりますよ。あなたが目指しているのは、奇跡話や神の愛を巧みに利用して神の道の名を騙った悪魔の集団でしょ。つまり、自分の利益のために群衆を利用しているのですな。奇跡で病気が治ったなんて言っている人も、本当はそう言わされているだけなんじゃあないですか? 詐欺・搾取、情報操作・歴史捏造・圧力などなど、自分の教団を維持するためにはなんでもありってことですね」
学者は少々興奮してきたようだが、イェースズはまだ依然として落ち着いていた。
「お金なんか、要求しませんよ。信仰って、お金で買うものじゃないでしょう? 神様はただただ無償の愛で、かわいい神の子を救ってやろうとして下っているだけなのですよ。昔ある人が私に金をくれって言いましてね、そうしたら信じてやるって言うんですよ。奇跡を見たら信じるなんていうのは、それと同じじゃないですか。いいですか、私を見てください。私自身が神様の御実在の証拠ですよ。昔ヨナがニネベの人たちに対して、神様の御実在の証拠になったのと同じですよ。今の時代は、まだそれ以上の証拠は与えられないでしょうね」
ついに律法学者は向きを変えて、群衆の方を向いて立った。
「心ある人は聞きなさい。私もエルサレム郊外では師と呼ばれている人間だ。その私の話を聞きなさい。なぜ、このイェースズという男が、でたらめな理論を自信満々に説くのか? 人は非常識ででたらめな論理を自信満々に言われると、世間の常識と言っていることのでたらめさの差が大きければ大きいほど、逆につい信じてしまうという心の癖がある訳で、イェースズはこの手法を使ってでたらめな理論を自信満々に展開してるんですよ。そしてまるでさらに奥があるように言うことで、 実は皆さんの心の中の悪霊の種に訴えかけ、皆さんを騙そうとしているのです。 皆さんの心を操ろうとしているのですよ。イェースズの言っていることがいかに非論理的ででたらめかは、これまでの話を聞けばすぐに分かるはずです。皆さん、心の操りから目を覚ましてください。正しいイスラエルの民としての信仰を保つべきです。『楽して大儲けする方法ないかなあ』なんて、誰もが一度はこんなことを考えたことがあるでしょう。そして『それが、あるんですよ』なんて語る誘惑は山ほどあります。しかしそのほとんどすべてが罠ですね。詐欺やペテンなどです。うまい話に飛びついたために大損害をしたという話は、皆さんの周りにもいくらでもあるでしょう。そしてうまい儲け話よりももっと恐ろしい誘惑が、幸せへの誘惑です。自分を信じて言われた通りにするだけで健康になり、不幸の原因が消え、幸福になれて、そればかりか世界を救う救世主の如き働きをして永遠に祝福されて、人類最高の教えと奇跡を授かることができるなんて夢のような話です。でも、世の中にはそんなうまい話などありはしません。必ず裏があるんです。うまい話に乗った者の末路は不幸と損害しかありませんよ。人間は欲を出してはいけません。楽して幸福を手にしようとか、聖者のような栄光を得て優越感に浸ろうなどと考えてはいけません。ただひたすらに欲望を抑え律法を守ること、これが唯一の神の定めた道です。手をかざして奇跡が出たなんて言ってますけど、手をあんなことしても意味ないし馬鹿げたことに決まっているじゃないですか。皆さん、絶対に騙されてはいけません。この集団は完全にインチキで常識に反します。騙されたら、とんでもない結果になるだけですよ」
それだけ言うと、律法学者たちは足早に立ち去っていった。群衆たちはしばらくどよめいていたが、やがて一人また一人と律法学者が去っていった方へと静かに立ち去っていった。こうして、イェースズの周りには最初にいた群衆の三分の二くらいになってしまった。イェースズは本当に悲しそうな顔をして、去っていく人々の後姿を見ていたが、やがて必死に神に祈り始めた。去っていったものたちの罪をなり代わって神に真剣に詫び、そのものたちの守護を願っていたのである。
「先生、彼らを説得して連れ戻しましょうか」
と、ペテロはイェースズに言ったが、イェースズは首を横に振った。
「私は誰も裁かないし、誰をも去らせない。すべて、神様のお許しがあって皆ここにいるんだ。でも、許されなくなった人は、自分の意志で、自分の足で私から去っていく。そういった人たちはかわいそうだなとは思っても、決して深追いしちゃいけない。絶対に裁いちゃいけないよ。時期というものがある場合もあるし、神様からご覧になってほかで修行させる必要がある人もいるし、縁があればまた戻ってくる人もいるからね」
「でも、なんであの学者たちにはあそこまで言われなきゃいけないんですか。私は悔しい」
ペテロがそう言って、涙を流しながらこぶしで地面を打った。
「全くだ」
イスカリオテのユダも、怒りを隠しきれない様子だった。ほかの弟子たちも同様に憤慨した様子で、涙を流して唇をかみ締めている。そんな彼らを、イェースズは慰めるような目で見た。
「すべては、私が至らないからだよ。あなた方にもつらい思いをさせて申し訳ない。そしてあの学者の方たちに代わって神様にお詫びし、あの方たちの救われを祈ろう」
ほんの短い時間だけイェースズは祈りを捧げ、それから微笑を取り戻して、立ち去らずに残った人々に、学者が来る前と同じように話しはじめた。
「皆さん。真に私は言っておきますけど、あなた方お一人お一人の心の中に、神の火はあるんですよ。それは、神様から頂いた霊魂です。その霊魂は本来水晶玉のように透明で光り輝いていたんですけど、生き代わり死に換わりするうちにどんどん曇ってきてしまっているんです。だから神様の光が入らないし、正しい教えを聞いても正しいと思えなくなっているんですね。邪霊がそう思わせてしまうんです。邪霊に隙を与えてはいけませんよ。ほんのちょっとの油断、一瞬の心の迷いを邪霊は巧に突いてきます。だから、油断しちゃいけませんよ、やられますよ。今は邪霊が我が物顔に暗躍している時代です。目には見えない世界の話ですけどね。とにかく不平不満や人を裁いたりする悪想念を発しますと、邪霊と波調があってやられますよ。邪霊の方は、人々をなんとか神様から引き離そうと必死なんです。皆さんがみんな神様の方へ行ってしまうと、邪霊は何もできなくなるんです。これからの世の中いろんな現象が起きてきますけど、どうか邪霊に隙を与えないで下さい。これからも魂を磨いていかなくてはなりません。さっき偉い学者先生が、ほかの祈祷師の業と私とどう違うのかなんて聞いてましたけど、だいたい祈祷師などは霊を無理やりたたき出すんですね。霊も無理やりたたき出されて不満ですし、苦痛が伴います。そして霊自体はサトッた訳でも浄まった訳でもないので、必ずまた戻ってきますよ。それまでに本人が昇華して、邪霊と波調が合わなくなっていればいいんですけれど、そういう訳でなければ、また波調があっちゃうんだからまた戻ってきますよ。その場合の霊障は、前にも増してすさまじいものになるんですね。仲間を呼んできて、いっしょに憑かったりもするんです。あるいは仮にその人が昇華していたとすれば、今度は別の波調が合う人に憑依するのが関の山です。つまり、御霊自体は全く救われないんですね。私の業はそんな御霊をも浄めて、サトらせて、自分から離れてもらうんです。邪神・邪霊の目的は、人類を神様から引き離すことです。邪霊のささやきに耳を貸さないで下さい。油断しないで下さい。隙を与えないでください」
それからイェースズは、群衆に向かって両手をかざした。ものすごい霊流が群衆を一気に包み、目に見えない黄金の光の洪水は光の海となってあたりに散らばっていった。
午後になってイェースズは、マグダラの町を離れて湖畔を北上した。行動を共にする群衆の数はだいぶ減ってしまっていたが、それでもかなりの人数なのでいやでも目立つ一行だった。すべてが明るい日ざしの中にあった。かなり暑かったが、風が強く心地よく頬に当たり、それが涼を運んできた。
だいぶ行ってから、また別の村に出くわした。気がつくと、行く手をさえぎるようにものすごい数の人々が彼らを待ち受けていた。イェースズの噂を聞いて待っていた人々のようだ。彼らには例の律法学者の横槍は、まだ入っていないらしい。中にはイェースズの姿を見て、駆けて来るものもいた。
たちまちイェースズは、群衆に囲まれた。誰もが先を争ってイェースズに触ろうとして、ちょっとしたもみ合いになった。イェースズに触りさえすれば、それで奇跡がもらえるという噂までもが流れているようだ。イェースズはしばらく黙って笑ったまま触られまくっていたが、やがて人々を制して口を開いた。
「皆さん、私に触ったからとて奇跡が起こるという保証はないのですよ。奇跡は私が起こすんじゃなくて、皆さんの信仰の厚さと深さによって天の神様がお与えくださるものです」
「じゃあ、どうすれば信仰を深めて、奇跡を頂けるんかい」
「まさかパリサイ人みたいに、聖書を読めなんて言わないでしょうね」
そこでイェースズは言った。
「聖書ももちろん大事ですけれどね、その読み方によりますね。とにかく皆さん、私の言葉を聞いてください」
イェースズは人々を周りに集め、その中央に立った。
「おーい、前のやつは座れ」
群衆の後ろの方から、声がかかった。そしてなんとかイェースズの近くのものは座り、その周りを立ったままの人が取り囲む形で人々の騒ぎは収まった。そこでイェースズは、群衆をざっと見わたした。ここにいる多くの人々は、皆育ってきた境遇も違えば環境も違う。罪穢も積み具合も違えば魂のランクも違う。そんな人々に同じ言葉を伝えても、その後はというと千差万別だろうとイェースズは思った。いったいこの中の何人が自分の伝える法を、自分の血とし肉として実践してくれるだろうか、それは分からない。それでも語らねばならないと思ったイェースズは、言霊に神の高次元の光を乗せて語りはじめた。人々は静まりかえり、湖からの風がその上を吹きぬけていった。
「皆さん、いいですか。もし次のようなことがあったとしたら、それはどういうことかよく考えてみてください。ある人がですね、畑に種をまいたんですよ。でもある種は道端に落ちてしまいましてね、そんなもんですからすぐに鳥が来て食べてしまったんですね。そしてある種は、石ころばかりの畑に落ちたんです。それで芽は出ることには出ましたけど、とにかく石ころだらけで根がはれないものですからね、みんな枯れてしまったんです。そして茨の中に落ちた種は、これは茨が邪魔して生長できないでしょ。じゃあ、どういったところに落ちた種なら、すくすく育って実を結びますか?」
最前列の漁師風の男が、声を上げた。
「おらあ畑のことはよくわかんねえが、種を育てるんなら普通はよく耕した畑にまくんじゃないんですかい?」
「はい、正解」
イェースズはニコニコ笑っていた。
「どうか私が言っていることがどういう意味なのか、皆さんお一人お一人で考えてください」
人々の間にざわめきが起こった。イェースズの話の内容は分かるが、それにどういうような意味があるのか、多くの人には分からずにいるようだった。
だがイェースズは、あえて話を続けた。
「その耕された畑にまかれて芽を出してすくすくと育った種、そうですね、それを麦だとしましょうか。そのいい麦が育っているはずの畑に、いつの間にか毒麦が混ざっていたことが分かったんですね。最初から種に毒麦の種が混ざっていたのか、あるいは夜中に悪いやつが畑に忍び込んで、こっそりと毒麦の種をまいていったのか、それは僕たちは悪い人の仕業だと思い込んでましたけど。とにかくまずはその毒麦の抜いてしまわなければなりませんね。僕たちはすぐその作業に取り掛かろうとしたんですけど、畑の主人は毒麦といっしょにいい麦まで抜いてしまうといけないってことで、収穫の時まで待てって言ったんです。だからしばらくは毒麦もいい麦に混ざって穂をはって、風になびいたりしていたんです。でも、刈り入れの時は必ず来るんです。刈り入れの時には、いい麦と悪い麦は振り分けられます。天国って、そんなものですよ」
その日は野営だった。暗くなってからイェースズは、自分の天幕に十二人の弟子とマリアだけを呼んだ。マリアは普段、女性の群衆と寝食をともにしている。
薄明かりのランプの中で、トマスが顔を上げた。
「今日の湖での話は、今日の朝とも違う話でしたね。何であんな話をされたんです?」
「あれは、たとえだよ」
と、イェースズはにこやかに言った。
「神様の世界、神界の秘めごとには重大因縁があって、すべての神理をあからさまにすることは、まだ私には許されていないんだ。あなた方は特に選ばれた人々だけど、ほかの人たちにはたとえで話すしかない。民衆の多くはこれまで信仰とは無縁の生活をしてきた人々だし、教育も受けていない。文字すら知らない人もいるし、そんな人々にあなた方に話すのと同じ話をしても分からないだろう。今日の朝、マグダラで多くの人が離れていったのは律法学者にそそのかされてというだけでなく、私の話が難しすぎて理解できなかったということもあるじゃないかなと反省したんだ。やはり民衆のレベルまで下りていって、その人々にも分かるような言葉で神のミチを伝えなくてはだね。天地創造以来隠されていたことが、やっとほんの少しだけ、かけらだけでも話せる時代が来たんだよ」
「で、今日のたとえの意味は?」
トマスが身を乗り出すようにして聞いた。イェースズはうなずいた。
「あなた方なら分かると思うから言うけど、今日の最初のたとえは、同じ教えを説いても教えを受けた人の状態によって受け取り方もまちまちだってことだよ。同じ神様の言葉を伝えさせて頂いてもだね、霊障がきつい人には道端に落ちた種といっしょで、霊が邪魔して聞かせなくする、つまり芽が出ないってことだ。石ころだらけの畑にまかれた種っていうのは、一度は神のミチを聞いて喜び、燃え上がりはするけど、ちょっと困難にぶつかると根がないものだからすぐに意志を曲げてくじけてしまう人のことだね。そして茨の中に落ちた種とは、財産とか名誉欲とかそんなあらゆる欲望が神理の実践を邪魔してしまう人だ。だから神の教えを受け入れる前によく心を耕しておく必要があるし、またあなた方もこれから私の代理として人々の中に行く時に、よく人々の心を耕してから神理の種をまかなければいけないということだ」
ランプがかすかに揺れた。外からは物音一つ聞こえない、穏やかな夜だった。
「そしてもう一つのたとえだけど、それはこの世のことを現しているんだ。この世はいい麦も毒麦も、いっしょに伸びている世界だ。神様は善人も悪人も、等しく許して生かしてくださっている。それが神様の大愛なんだよ。だからこの世はさまざまな想念の人、さまざまな霊層界の魂の坩堝だ。でもね、霊の世界は完全に想念の世界でね、人は肉体的な死を迎えて霊の世界に行くとそれ相応の世界に住むことになって、違う霊層界の人とは互いに交流はできない」
「つまり、天国と地獄ってことですか?」
と、ペテロが口をはさむ。イェースズは穏やかにうなずいた。
「そうともいえるけど、霊の世界は天国と地獄だなんて、そんな単純な構造じゃない。霊界は上の天国から下の地獄まで、二百以上の段階に分かれている。それを霊層界っていうんだ」
「ひえー」
トマスが突拍子もない声を上げた。
「霊の世界って、そんなにたくさんあるんですか」
「そうだよ。私はかつて霊層界を、つぶさに見聞してきたんだ。上の方の天国になればなるほど暖かくて明るい温暖遊化界で、みんなそれぞれ芸術を楽しんだりして遊んでいる。でも本当の意味の至高芸術界、つまり神様のいらっしゃる世界は、そこよりもずっとずっと上なんだ。そして下へ行くと読書くらいはできる世界から軽労働界、重労働界となって、どんどん暗く冷たくなっていく。そして下の方へ行けばいわゆる地獄となっていって、いちばん下は惨憺凍結界だ。そういったいくつもの段階のうち、煉獄で本来の自分の想念があからさまになった魂は、それ相応の世界にスーッと引き寄せられていまうんだね。だから例えば地獄に落ちる魂は、その人にとっては地獄がいちばん住みやすいから、自分で選んでスーッと地獄へ行ってしまうんだ。その魂にとって地獄が相応ってことで、決して神様から懲らしめのために地獄に落とされるんじゃない」
「そんな、自分で地獄を選ぶなんて……」
ヤコブのつぶやきは、十三人すべてのつぶやきと同じだった。
「いいかい。ねずみやこうもりにとって、暗くてじめじめしたところがいちばん住みやすいだろう。彼らは明るいところでは、生きていけないよね。ねずみを明るいお花畑に連れて行ったら、すぐに逃げ出してもとの穴に帰ってしまう。それと同じでね、地獄にいる霊にとっては地獄こそが天国で、そんな魂を天国に連れて行ったら、苦しいと言ってすぐに地獄に逃げ帰ってしまうよ。人に取り付いていた地獄霊や邪霊が、私が浴びせかける神様の手の語句の光が、まぶしい、苦しいと言って大暴れしただろう。あれを見れば分かるはずだ。そもそも神様は、最初は地獄などお創りになってはいなかった。神から離れて堕落した人々の想念が、地獄という世界を創りあげてしまったと考えればいい。この世とていろんな魂の人が同居しているのだからすごい修行の場なんだけど、本来は神様がこの地上に物質による地上天国を作らせようとしたくらいなのだから、修行の場にしてしまったのも人間の想念ということになるね」
イェースズはまたニッコリ笑った。夜も静かに更けていった。
それからイェースズたち一行はさらにガリラヤ湖の北へと進み、北岸に達した。だがイェースズは、家のあるカペナウムは素通りするつもりだった。また病気治しの御利益信仰の人々がイェースズの家に殺到して、収拾がつかなくなると考えたからだ。
だが、町の入り口の通行税徴収所で、イェースズは足を止められた。だが、マタイがかつての収税人仲間に話して、通行税はとらないということになった。そしてそれ以外にも、思いがけないことがイェースズに起こった。収税人は大工のヨシェから、イェースズたち一行がここを通過して、しかもイェースズのもとを去っていかなかった人々もいっしょにいたら、すぐに知らせてくれるように頼まれていた。
しばらくして収税人が戻ってくると、とにかくある手紙が届いているから一度戻ってくれというヨシェの言葉をイェースズに伝えてきた。
イェースズはひとまず群衆をペテロとアンドレの家の近くまで連れて行った。ペテロとアンドレは久しぶりに家に帰り、ペテロは妻とも再会できた訳で、ちょうどすぐそばが湖岸なので人々はそこで待機させた。
イェースズは妻マリアと二人で、家に戻った。イェースズにとって本来は弟である小ヤコブと小ユダも同行を求めたが、イェースズはみんなといっしょにいるように言った。マリアにとっては、婚礼以降初めて入る婚家なのだ。帰るとそこには、母の従姉のエリザベツ、つまりヨハネ師の母も来ていた。母マリアと妻マリアは親類でもあって互いに知らない仲でもないし、ましてやエリザベツは妻マリアの伯母だから互いの挨拶もそこそこに、イェースズは母マリアからいきなり羊皮紙の断片を渡された。エリザベツがそれをわざわざ持ってきてくれたのだということで、ヨハネは母あてとともにイェースズ宛の手紙をも母に託したとのことだった。ヘロデ王の王城の牢獄につながれている割にはよく羊皮紙が手に入ったなと思って、イェースズはそれを広げた。妻マリアがそれをのぞきこむ形で、いっしょに彼女の従兄の手紙を呼んだ。
「親愛なるエッセネの兄弟よ。そして我が親族のものよ。心を込めて、挨拶を贈る。主の平和が、いつもあなたとともにあるように。
さて、私はこの冷たい牢獄にあっても、あなたの噂をたびたび聞く。あなたはあなたの生まれ故郷、そして私にとっても縁のあるガリラヤの土地で、神の教えを説いているという噂だ。そこで私は尋ねたい。あなたこそがエッセネで待ち焦がれていたところの、油注がれたる救世主なのかどうか。
私はどうかこのことだけを知りたいのだ。主の祝福が、あなたの上にありますように」
イェースズはしばらく無言で、そんな文面を見つめていた。そして、ため息を一つついた。まるで返事を促すかのような目で、妻のマリアはイェースズを見た。彼女自身もまた、同じことを知りたがっているような目だ。イェースズは羊皮紙を巻き戻し、自分の脇に置いた。そしてエリザベツを見た。
「この手紙に対して、言葉で答えることは私にはできません。どうか今日一日ここに滞在して、私がしていることをその目でご覧になり、ありのままを師にお告げ下さい」
イェースズは同じ部屋にいたヨシェに、ペテロの家まで走って十二人の弟子だけをつれてくるよう頼んだ。やがて、十二人の走る足音が外に聞こえてきた。
狭い部屋二十二人の男がひしめきあって入って座ると、イェースズはいつもの笑顔で彼らと母マリア、エリザベツ、ヨシェ、そして妻マリアを見渡した。そして、主に十二人の弟子に向かって言った。
「みんな、よく聞いてくれ。この中にはかつて、ヨハネ師とともに修行をしていた人もいるね。今、そのヨハネ師から手紙が来た」
「おお、ヨハネ師」
「獄中からどうやって手紙を?」
といろんな声が、主にペテロとアンドレ、ヤコブとエレアザルの両兄弟から上がった。ほかにヨハネ教団の幹部出身のピリポとナタナエルも、驚きを隠し得ないでいた。小ヤコブと小ユダも、ヨハネの親類だから知らない相手ではない。だが、それ以外のヨハネを知らない弟子たちも、ただならぬ事態に息をのんでいた。イェースズは言葉を続けた。
「私も懐かしく手紙を読ませて頂いたけど、同時に考えたんだよ。結局あの方はどういう存在だったのかなって。ペテロ、君は何がきっかけで荒野のヨハネ師のもとへ行ったんだい?」
「ヨハネ師の噂を聞きつけて、洗礼を受けたかったからです」
ペテロはそう即答した。しかし、
「じゃあ、そこで何を見た?」
というイェースズの次の質問には、思わず口をつぐんでいた。
「風にそよぐ葦だったかい?」
笑って言うイェースズに、ペテロは首を横に振った。
「いえ、違いました」
「アンドレ。そこにいたのは、絹をまとった王様だったかい?」
アンドレも首を横に振って、
「預言者でした」
と、言った。イェースズは笑ってなずいた。
「そうだね。でも、預言者以上だったんじゃないかな? 聖書に『私は使いを遣わす。その使いは、私の通る前に、道を切り開くものである』とあるけど、私はヨハネ師のことを思うときには、どうしてもその一節を思い浮かべてしまうよ。ヨハネ師の魂は、ここだけの話だけど、エリアの再生だ」
これには居合わせた人が皆、驚きの声を上げていた。イェースズは落ち着いて、さらにしゃべった。
「これは神界の秘め事だから今はあなた方にはっきりと言う訳にはいかないけれど、やがて暗黒の時代が終わり、天の時が来て正神の神様がお出ましになったら、邪神は正神に戦いを挑み、神霊界では正邪の戦いが繰り広げられるだろう。もはや天の時は近づいているからね。そして、その兆候はすでに十分に現れている。そんなときにエリアが肉身を持ってこの地上に再生したということは、すごい意義のあることだね」
「でもあなたは」
と、そこでエリザベツが口をはさんだ。
「今はヨハネ以上に人を魅きつけているという噂ですけれどね。あなた自身は、いったい何なのです? 何の魂の再生なのですか?」
「申し訳ありませんが、伯母さんにもそれは口では言えません。ただ、私のひとつ前の過去世は、東のシムの国の師で、マング・カールと名乗ってやはり人々に教えを説いていたようです。でもですね、今私に確かに群衆がついてきていますが、ヨハネ師に比べたらまだまだ少ない。この間もとんだちゃちゃが入って、ずっと減ってしまいました」
イェースズは苦笑して、さらに話し続けた。
「今の時代は人心が神様から離れて、物と地位と名誉にばかり心を奪われている。ちょうど広場で子供たちが遊んでいるところに声をかけても、誰もまともに返事をしてくれないのと同じですよ。まさに『笛吹けど踊らず』でしてね、ヨハネ師が断食をしていたら『悪霊に取り憑かれてる』って人々は言うし、私が普通に飲み食いしたら、異教徒をさげすむような言い方で『大食らいの大酒飲み』なんて言うんですからね」
イェースズは声を上げて笑った。それから、すくっと立ち上がった。外では人々の騒ぐ気配がする。いつもイェースズについてきている群衆はペテロの家の近くにいるが、このカペナウムの住民で、そらイェースズが戻ってきたぞといわんばかりに奇跡をほしがるそんな村人たちである。イェースズはピリポに目で合図して、そのうちの一人を中に入れさせた。その前に、イェースズは小声でエリザベツに言った。
「私がこれからすることは自分の力ではなくてすべてが神様のみ力ですし、私が語る言葉も私が考えたものではなくて、私が天の神様から聞いたとおりに人々に話しているんです。その点、誤解なさらないでください」
イェースズは微笑のまま、今入ってきた男に言った。
「人の魂と神様とは永遠につながっているという事を自覚すれば、果たしてすごいことになるでしょうね」
だがそのとき、外で待たせていたはずのほかの村人の群衆も一斉に室内になだれ込んだ。誰もが自分の病気を引きずり、それを癒してもらいたい一心で来ている。つまり神への信仰云々よりとにかく自分の体が楽になりたいという自己愛信仰者で、それでもイェースズは人々のそんな心を決して裁きはしなかった。そしてイェースズはエリザベツや母マリアの見ている前で、次々に入ってくる人々の肩こりから腰の痛みまですべて手一本で癒し、また霊とも会話して離脱してもらった。
イェースズが故郷のカペナウムに泊まったのは、たった一晩だった。それからイェースズは十二人の弟子とマリアだけとともに、船で海を渡ると言い出した。船はペテロの所有する船を出してくれることにはなったが、ペテロはあまりいい顔をしていなかった。船を貸すこと自体は問題がないのだが、どうも雲行きが怪しいと彼は言うのだ。さすがに漁師だけあって天候に対する勘は狂いがないようで、今日は大嵐になる可能性もあるとペテロが言った。
「大丈夫、。先生がいっしょなら、神様が護ってくださるよ」
小ユダが何気なく言ったが、イェースズはその言葉を途中でピシッと止めた。
「神様がなんとかしてくれるはずだなんて、そんなのは神様がいちばんお嫌いな想念だよ。つまり神狎れしている証拠だね。神様に狎れちゃいけない。奇跡にも狎れちゃいけない。狎れてしまって神さまとなあなあの関係になってしまったら、神様はピシッと型示しを下さる」
イェースズが海といったガリラヤ湖は、当然本当は湖である。カペナウムは北岸になるから、湖に向かって立てば南を向く形になる、。その方角に、エルサレムがある。事実カペナウムの会堂は南向きに、湖に向かって立てられている。そもそも会堂は、エルサレムの神殿に向かって建てられるからだ。そこからは湖の左右の山並み、左手の丘陵もよく見えるが、正面は晴れていたら対岸がうっすらと見えたりするが、この日のように曇り空なら対岸は海のような水平線となって何も見えない。今にも雨が降りだしそうで、風もかなり強い。それでもイェースズは、行くと言った。
「こういうことで神様は、皆さんの一体化の姿を見ておられるのだよ。それぞれ意見もあろうが、師が決定したことには自分を捨ててスーッと一体化する、それがス直というものだ。一本一本の指は弱いけれど、それがぎゅっと固まって拳骨になったらすごい力を発揮するだろう。それと同じだよ」
イェースズは神をあてにした神狎れはいけないとは言ったが、その根底には神への絶対的な信頼があり、それが弟子たちにも十分に伝わったようで、もう誰も異論を挟まなくなった。ずっとイェースズと行動をともにしてきた群衆や妻マリアも同行を願ったが、イェースズは十二人の弟子以外はそれを許さなかった。
一行はペテロの船に乗り込んだ。この船は、イェースズが東の国から初めてこの故国に帰り着いた時に、カペナウムまで乗せてもらったあの船なのだ。
船を出した時点で、船体はもうかなり揺れていた。そんな風と波の中でもアンドレとペテロの舵裁きは見事だった。だが、嵐の恐ろしさをいちばんよく知っているのも、この二人だ。ヤコブとエレアザルの兄弟も漁師とはいえ網元のせがれで、実際に漁に出たことはない。
船は沖合いに出ると左の方、つまり東岸に向かって進んでいった。案の定、その途中でものすごい突風が吹きだして、帆を張ることが不可能となった。波もひと山ほどのものが連続してうねりくるようになり、船は波の谷間に漂う木の葉のように波にもてあそばれ、しぶきは容赦なく船内へと流れ込んできた。そして滝のような雨が、横殴りに吹き付けてきた。
「先生!」
と、トマスが最初にとうとう泣き叫ぶ声を上げた。誰もが波でびっしょり濡れながら、必死に柱などに捕まっている。
「先生は大丈夫か。みんな、先生をお守りしろ」
櫂を操るペテロが叫ぶが、そのイェースズの姿がどこにあるのか、皆一瞬分からないでいた。
「先生」
と叫んだのは、小ヤコブだった。なんとイェースズは甲板に横になり、居眠りをしていたのである。小ヤコブはそんなイェースズの体を揺り起こした。
「船が沈んでしまいます」
「そうかい」
こんな時も落ち着いて微笑を絶やさずにいるイェースズに、さすが二十二人の弟子たちもいらいらしてきた。
「そうかいじゃないですよ。これ以上、進めません」
船を操る玄人であるはずのペテロからそんな悲痛な声を聞いては、素人であるほかの十人の弟子はもはや恐怖におびえていた。イェースズはゆっくりと、微笑をもって立ち上がった。
「先生、立っちゃだめです。あぶない!」
ペテロが制したが、イェースズはお構いなしに船の上に立ち、柱にしがみついて震えている弟子たちを見た。
「何を恐がっているのかね。あなた方はここで死ぬと思っているのかい? しかし神様があなた方を必要とされている間は、あなた方は死なない。いや、死ねないんだ。あなた方の信仰って、一体どこにあるのかね。絶対なる神様を信頼していれば、恐いものなんてないはずじゃないか」
イェースズはそう言って、手を合わせて強く念じ、ぶつぶつと何か祈りの言葉を唱えていた。そしてどんよりと曇って雨を落としている空に向かって手をかざし、大きな声で、
「静まれ!」
と叫んだ。するとみるみるうちに風はぴたっとやみ、雨もやんで波も穏やかになっていった。弟子たちは、どよめきの声を上げた。
これは霊の元つ国での修行で身につけた神業の中でも、かなり高度な業に属した。このような大嵐のことを霊の元つ国では台風というので、この神業は「台風割り」と言われ、ちょっとの修行をしたから誰でもできるようになるというような簡単なのもではなかった。イェースズは自分が嵐の中で空を仰いだとき、二体の黄金に光る龍が空を駆け巡るのを確かに見た。その龍は、すぐに消えた。
「先生はヨハネ師のことを預言者以上とおっしゃいましたけど、いったい先生ご自身はは、どんなお方なんです? 嵐でさえ、そのお言葉に従ってしまう」
そう言ったエレアザルに、イェースズは笑顔を返した。
「信仰って神様を信じることだけではなく、そのお力を信頼しきってしまうことが大切だ。神様は、ご実在されている神様なのだよ。ただし、神狎れと神様への信頼は紙一重だから判断は非常に厳しいけど、そのへんをはき違えないようにね」
弟子たちはまだ今までの恐怖が消えないらしく、まだ体中を震わせていた。そんな中でも、アンドレが口を開いた。
「先生は、嵐で船がこうなることもご存じだったのですね。だから奥様をお連れにはならなかったのでしょう」
イェースズはそれには答えず、ただ笑っていた。
対岸は湖の東で、そこはすでにガリラヤではなくギリシャ語ではデカポリスといい、十の町がその中にあることでそう呼ばれている。ガリラヤの人々はゲラサ地方と呼んでいるが、ゲラサという名の町自体はもっとずっと南にある。イェースズたちが上陸したあたりに住む人々はちょっと内陸にいったところにあるガダラという町の名をとって、ガラダ人と呼ばれていた。いずれにせよイスラエルの民ではない異邦人だ。
船が岸に近づくにつれ、巨大な丘が目の前に居座った。麓の方だけ緑に覆われているが、上の方は岩だらけのどっしりとした丘だ。そこへ登っていくための道が、ジグザグについているのが見える。
上陸したイェースズたちは、そんな丘の麓の小さな村に入った。イェースズの噂はこの町にも伝わっているだろうが、村人たちはこの一行が噂の主であるとは気づいていないようだ。イェースズたちが村に入っても、誰もが日常の生活を続けていたからだ。だからそのまま村を通り過ぎようとすると、井戸端で水を汲んでいた太った中年婦人がはじめてイェースズの一行に注意を向けた。
「あんたがた、どこに行きなさるのかね?」
彼女に答えたのは、後方を歩いていたピリポだった。
「どこってことはないんですが、とりあえずこの山の向こうに」
目の前にどっしりと、はげ山は居座っている。
「そっちへ行くのはやめた方がいいよ。そっちは墓場だ」
「墓?」
「そう。そんでその墓場には、気狂いがいるからね。あたいら、そっちの方へは絶対に行かね」
ピリポが立ち止まって女と話しているので、ほかの連中もその周りを取り囲んだ。女はそれでも、話し続けた。
「ものすごい暴れ者でね、とにかく頭がおかしくなっているから訳も分からず暴れて、何回か鎖でつないだけれどもその鎖まで引きちぎっちまうんだ」
「なるほど、墓か」
と、イェースズがつぶやいた。弟子の何人かは、それを聞いて師が行くのをやめて引き返すのかなという想念をイェースズに見せた。
「いいかね」
イェースズはそんな何人かの弟子を見た。
「墓というのは死んでもこの世への執着が強かったり、死んだことをサトれずにいる霊など、そんな行き場のない浮遊霊がいっぱいうじゃうじゃしている。だから用もないのに墓へ行ったりしたらそんなのにとり憑かれるから行かない方がいい」
やはり師は行くのをやめるのだなという想念を、弟子たちは送ってきた。
「でも、今回は行くよ。人を一人救わせて頂くためにね。そこにいる狂人というのは、霊が憑かって、しかも浮霊している人だ。普通は霊が憑いていても本霊が強ければ、憑依している霊は表面には出てこない。だからみんな普通の生活ができているんだ。だから、見ただけでは霊が憑いていることは分からないのが世間一般の人々だ。そうやって秘そみいていつかは仇なすというのが霊障っていうもので、外見では分からないだけに恐ろしさはそこにある。でもね、時には霊が表面に出っぱなしになって、その人の人格のすべてを支配してしまうこともあるんだ。そういう霊が浮きっぱなしの浮霊常態になっている人は、はたから見たら狂人ということになってしまうんだ。本人の霊、つまり本霊は小さくなって苦しんでいるだろうね」
「分かりました。行きましょう」
ペテロが意気高々に叫んだ。その話を聞いていた中年婦人は、水を汲む手を止めた。
「もしかしてあんたたちは、あの噂の」
イェースズは婦人に笑顔だけを見せ、そのまま皆で立ち去ってしまった。
坂道を登ると果たして路辺の草はなくなり、岩場だらけの斜面となった。空はまだどんよりと曇り、ただでさえ陰気な空気だ。そんな中で一行は、入り口をふさぐ巨石が並ぶ墓地へと出た。イェースズの霊眼には、そこにいる浮遊霊たちがよく見えた。しかも、イェースズの全身のオーラから放たれる黄金の光にのた打ち回って、浮遊霊たちがパニックになっている状況さえ、イェースズには手にとるように分かった。弟子たちは無論そんなことは分からないので、ただ黙って師のあとをついて行っていた。
突然ヒューッという叫びとともに裸の男が岩陰から飛び出して、地面を転がりながら逃げていこうとした。それは弟子たちの目にも、はっきりと見えたこの世の現実だった。
イェースズは、その男を追った。呆然と立ちすくむ弟子たちをあとにし、イェースズは一本だけ生えている木の下までその男を追い詰めた。婦人の話では鎖をもひきちぎるというから筋肉が盛り上がったがっしりした体格の男を連想しがちだが、目の前の男はやせ細っていた。だが、目だけは獣のようにらんらんと輝いている。
「静かに。話がしたいから、おとなしくしなさい」
男はまだ後ずさりをし、細いからだのどこにそんな力があるのか太い木を幹ごと倒して、イェースズに投げつけてきた。イェースズは瞬時に体をエクトプラズマ化させ、木はイェースズの体をすり抜けてその向こうで落ちた。
「話があるから、静かにしなさい。御霊様、あなたに話しがあるのです」
それを聞いた男は、急にへなへなと力なく座り込んだ。その眉間に向かって、イェースズは手のひらから霊流を放射した。男は再び、地面を転がりまわり始めた。
「熱いっ! まぶしい! やめてくれ」
男は両手で自分の顔を覆い、次の瞬間には腕を伸ばしてイェースズのかざした手を払いのけようとした。そしてどんどん尻で後ずさりする。イェースズはそれを執拗に追いかけた。
「御霊様はどういう因縁で、この方にお憑かりになっているのですか?」
イェースズの口調は優しかったが、その中に厳しさを含んでいた。男はうなるだけだったが、やがてゆっくり口を開いた。
「この男! この男!」
いかにも悔しそうな顔をして、霊は男の口を使ってしゃべりだした。
「この男、熱心党。俺、熱心党に殺された。栄光あるローマの軍団がユダヤ人ごときに殺され、死んでも死にきれぬ!」
そして男は遠巻きに見ていた弟子たちの中のイスカリオテのユダとシモンを、ものすごい形相でにらみつけた。さすがに豪の二人も恐れをなして、蒼ざめた顔で一歩退いていた。
「事情は分かりました」
イェースズはあくまで落ち着いている。
「でも、人の肉身に憑かって、それで心は安らぎましたか?」
男は答えない。
「かえって苦しいんじゃありませんか? あなたのその怨みの念が、自分を苦しめているんですよ。その苦しみから救われるためには、心を入れ替えて神様にお仕えすることです」
「神だとお! それはお前らユダヤ人の神か。なぜ俺がユダヤ人の神に仕えなければならぬ。俺はローマの市民だ」
「本当の神様の御前では、ユダヤ人もローマ人もありませんよ。すべての民は、等しく神の子です。まず、ユダヤ人ごときという差別する心を捨てることです」
「お前も熱心党か?」
「違います」
「ではなぜ、俺をこんなにも苦しめる?」
「私はあなたを苦しめるためにしているのではありません。神様の浄化の光です。最初は苦しいでしょうけど、やがて暖かくなりますよ。私はこの世のことではなく、霊の世界の置き手をお話しているのです。霊の世界ではローマの市民権も、ユダヤの選民思想も通用しません。この神様のみ光を頂いて浄まり、回心して神様のお役に立とうと決心してごらんなさい。この世でのあなたの御用は終わりましたけれど、幽界でのあなたの使命というものがあるはずです」
「分かった。とにかく苦しい。その光はまぶしい。もう分かったから、俺をこの男からたたき出してくれ」
「いいえ、あなたが浄まって回心してはじめて、神様は離脱をお許しになります。それまでこの方のお邪魔にならない所で、おとなしく鎮まっていて下さい。そして一日も離脱して幽界に行って修行ができるように、神様に祈るのです」
それからイェースズは、
「シー、ドゥー、マー、レ」
と、アラム語でもギリシャ語でもない四音節の言葉を言った。それは、霊の元つ国の言葉だから、弟子たちにはイェースズが何と言ったか分からなかった。ところが男はとたんに首をがくっと前にたれた。
「静かに目を開けてください」
イェースズは優しく男に話しかけた。男は顔を上げて、眼を開いた。その顔は、今までとは別人のように穏やかだった。
「はっきりしていますか」
イェースズの問いかけにこっくりと男はうなずき、それを見たイェースズはパッと笑顔を輝かせた。
「あ、何なんだろう」
男はただ呆気にとられて、呆然とイェースズを見ていた。
「なんだか今まであたまにもやがかかったようだったのに、頭がすっきりしている」
「あなたにとり憑いている霊はいったん鎮めました。その霊が離脱できるかどうかは、今後のあなたの心がけにかかっていますよ」
「あなたが。あなたが私を救ってくださったのですか」
男はゆっくりと立ち上がると、イェースズの手をとった。
「いいえ。あなたを救ってくださったのは、神様です。神様のみ光によって、霊を鎮めました。私はただ、そのお手伝いをさせて頂いたにすぎません。村へ戻りましょう」
イェースズはイスカリオテのユダに、この男に服を与えるように指示した。つい先ほどのこともあるのでユダは少し怖気づいたように男に近づいたが、男は慇懃にユダに頭を下げた。そして着替えをもらって着用した男は、どう見ても先ほどまでの狂人ではなく普通の村人となった。
「あなたは、熱心党なのですか?」
イェースズの問いに、男はうなずいた。
「あなたもよく分かったでしょう? ローマに対して武力で反抗しても、必ずそこに血が流れますね。民族と民族との抗争は、負けた方に必ず怨念が生じるんです。イスラエルの民の自立のためというどんなに高尚な名目があっても、敵を怨んで血を流せば、必ず相手からはまた怨まれます。そんな滅ぼされた民族の怨念が集団霊障となって、霊界から復讐してくるんですよ。だから、武力で抗争するなんて、おろかなことだと身をもって分かりましたよね」
男はうなずいた。イェースズはあえて顔を見なかったが、その言葉は弟子の中のイスカリオテのユダやシモンにも向けられていたのだ。ユダとシモンは、ばつが悪そうに黙っていた。
イェースズ一行に混ざってその男が村に戻ると、村人たちは慌てふためいて逃げようとした。
「皆さん、大丈夫ですよ」
と、イェースズは大声で叫んだ。
「この方はもう、正気に戻りました」
そう言われて人々は逃げるのをやめたが、それでも半信半疑の顔つきだった。しかしきちんと服を着て笑顔さえ浮かべているかつての狂人を見て、人々は恐る恐る近づいてきた。
「この方が、私を悪霊から救ってくださったんです」
男がイェースズを示すと、人々は一斉にイェースズを見た。
「さっき、アンナおばさんが言っていたけど、やはりそうだったのか。あんたは、カペナウムのイェースズだね?」
村人に言われて、イェースズはニコニコ笑っていた。
「やはりそうだ、あの噂のイェースズだ」
人々の間で、どよめきが起こった。
「我われの村に来てくださったのか。」
「しかも、あんなすごい力を見せてくれた」
その時、村人の人垣の後ろから、細身の老人が出てきた。人々がさっと道をあけたので、この村の長老のようだった。
「出ていってくださらんかのう」
と、老人は言った。イェースズの弟子たちは、怪訝な顔をした。だがそれを訝っているのは、村人たちも同様のようだった。
「なんでだい、じっさま。この方に、この村を救ってもらおうじゃないか」
長老は、静かに首を横に振った。
「いや、あんな気狂いを正気に返すなんて、ただの力じゃない。そんな力があるなら、この村を滅ぼすことだって簡単なはずだ」
村人たちはまだ長老に文句を言っていたが、イェースズは微笑んで言った。
「分かりました」
そして憮然としている弟子たちを見た。
「この方お一人を救わせて頂いただけで、もうこの村に来た目的は達成しただろう。もうこの地方に、一点の火はともった」
それだけ言って、イェースズは村を辞して湖の方へと戻っていった。そして、乗ってきた船にまた乗ろうとした。すると、
「師!」
と叫んで、イェースズによって救われた男がいっしょについてきて、船に乗ろうとするイェースズを呼び止めた。
「私もいっしょに連れて行ってください。私も弟子にして下さい」
イェースズは優しく微笑んで、その男の肩に手を置いた。
「あなたは家に帰りなさい。まずはご家族に、その元気な姿を見せてあげることです。そしてそれから、あなたが体験したことを、よき知らせとして人々に語って下さい。私といっしょに行かなくても、あなたが救われた御恩返しとしてできる神様の御用は、いくらでもあります。あなたの救われた体験を語り伝えることで、神様の御名をお讃えすることになるんですから。人が神様と一体になったら、何でもできるんです。そうすればあなたに憑いている御霊様もサトりますし、救われていきます。そして何よりも、あなた自身がより救われていくんですよ」
それだけ言い残して、名残惜しそうな男をあとに、イェースズは船に乗った。
「とりあえず。カペナウムに帰ろう」
船上で、イェースズは言った。結局イェースズはなぜ湖を渡ろうと言い出したのか、弟子たちには分かっていないようだった。イェースズはそんな疑問の想念を読み取って、すぐに答えた。
「私はね、朝一日が始まる時、神様に今日一日なすべきことのお伺いを立てる。神様は、必ずすぐお答えくださるよ。どれを優先して、どれを後回しにするかということをね。そういった優先順位を間違えないっていうのは、大事なことなんだよ。それを間違えて、人生を台無しにしている人も多い。だから一日のうちに、少しでも神様と対話する時間が必要なんだよ」
「それが祈りだって、先生はおっしゃいましたね」
ペテロが艪をこぎながら、言った。
「その通り。よく覚えていたね。神様から人間に対する祈りを、全身全霊で読み取ることだね。神様は、いろんな型示しを下さる」
そこへトマスが、口をはさんだ。
「先生はなぜ、あの男の霊がたたき出してくれって言った時にそうしなかったんですか?」
「ローマ人の霊なんか、たたき出して地獄へ落としてやればいいのに」
と、イスカリオテのユダが言うと、イェースズは一瞬だけ笑みを消し、
「あなたはまだ、先ほど私が言ったことが分かっていないね。かつて、地獄について語ったこともね」
と、ぴしゃりと言い、そしてすぐに笑みを戻した。そして、トマスやシモンにだけではなく、十二人の弟子全員に優しく諭すように言った。
「人に憑いている霊というのは、それぞれ事情があるんだよ。憑依霊と言っても本来は神の子だし、人格もあれば尊厳もある。事情も聞かないでたたき出すとたいへんなことになる」
イェースズは、風になびく自分の髭をなでた。行きの嵐がうそのように、帰りの船旅は順調だった。
「昔、こんなことがあってね。これは私の失敗談なんだけど、ある異邦人の村でまだそういった霊をたたき出しちゃいけないってことを知らなかったから、無理やりそうしてしまったことがあったんだよ。そうしたら、そこは異邦人の村だからたくさんの豚を飼っていてね」
「豚?」
豚を飼うというのが、彼らの感覚ではどうにも理解できない。
「だから、異邦人の村での話だ。それで、霊を無理やりたたき出したら、その霊は豚に憑かてしまってね、豚の群れは突然発狂して次々に海に飛び込んで溺れて死んでしまったんだ」
一度苦笑して言葉を切ったイェースズは、またさらに続けた。
「だから、霊を無理やりにたたき出したら霊はものすごく苦しく痛いから、怒ってしまってまた帰ってきてもっと悪さをするし、回心して浄まっている訳ではないから、幽界の修行に励むどころか別の人にとり憑くこともある。だから、やはり愛と真で説得して、神様のみ光で浄めてそれから自分の意志で離れて頂かないと、その御霊自身が救われない。そもそも、霊が離れさえすればいいというのは御利益信仰である危険な霊媒信仰で、それではとてもとても神様の御用ができるようにはならないね」
その時、曇っていた空の一角が切れ、陽光が斜めに光条を描いて湖水へとさした。
「でも、先生。一つだけ聞いてもいいですか?」
ピリポが首をかしげながら言った。
「なんだい?」
「あの男の霊はローマの兵だって言ってましたけど、なぜ我われと同じアラム語をしゃべっていたんですか?」
「それはね、話が難しくなるけど」
イェースズはまだ微笑んでいた。
「霊が人をしゃべらせるその力のもとは、念なんだ。念の固まりのようなものでね、実際にしゃべるのは憑かれている人の頭の中の言語を司る部分を使って念で霊は人の口を動かす。だから、憑かれている人が普段しゃべっている言葉でしゃべるんだよ」
「あのう」
シモンが今度は手を挙げた。
「先生は、すべての民は等しく神の子って言われましたけど、イスラエルの民は神様から選ばれた民なんじゃあないんですか? それを否定して、ほかの民ともみんな同じなんて言うのは、律法に背くんじゃないですか?」
「うん」
イェースズはうなずいた。
「そう思ってしまうのも無理はない。でもね、確かにイスラエルの民は神様から特別な使命を与えられた民だ。そういう意味では、選ばれた民というのは間違いじゃない。しかしだね、すべての民にもそれぞれ神様から与えられた固有の使命ってものがあるんだ。どんな民族も神様にとっては存在意味があるから、許されて存在させて頂いている。だから、イスラエルの民が特殊な使命を与えられているからといって、どちらが偉いだの偉くないだのということはないんだよ」
船は順調に帆に風を受けて、さざなみがたつ湖水を滑って、カペナウムへと向かっていった。
夕方、薄暗くなってから、船はカペナウムに着いた。それでもまだ岸まで距離があるのに、岸の上のざわめきは船まではっきりと聞こえてきた。そして船が港に近づいて様子が分かるくらいにまで来た時、岸の上にはおびただしい群衆がいるのをイェースズたちは見た。湖岸に天幕まではって、ずっとイェースズの帰りを待っていたらしい。天幕を張っているということは、明らかによその町の人々だ。カペナウムは漁業の町であるとともに商業都市で、いつも旅人は多い。しかし、こんなにも他の町からの来訪者でふくれあがったことはないだろう。
「あんなところに上陸したら、押しつぶされちまうかもな」
イスカリオテのユダが、不機嫌そうに言った。
「でも、家に帰らないとご飯が食べられないし、おなか減った」
この小ユダの言葉は皆の笑いをとったが、本人の顔は笑っておらず、また弟子たちの中の何人かはそれに激しく同意しているようだった。
「みんな、救われたいんだな」
と、ぽつんとイェースズは言った。あるものは病を背負い、あるものは金銭的不幸、あるものは家庭崩壊に疲れて悩んでいる。そんな人々が御利益信仰で並んでいるが、それもよしとした。ざっと見ても二、三千人はいそうだが、それでも今日のこの日にここに集まっている群衆は奇特な人々で、ガリラヤだけでかなりの人口があるはずだし、カペナウムだけでも五万の人口がある。だからこの町の大部分の人々はこの湖岸での出来事とは無関係の生活を、無関心のままに送っているはずであった。
イェースズが上陸すると、人々は指一本でもイェースズに触ろうと押し寄せてきた。しばらくはもみ合い、へし合いになっていたが、そのうち町の方に向かってイェースズは弟子たちとともに歩き、群衆はずっとイェースズを取り囲む形で追ってきた。そしてイェースズは、歩きながら群衆に向かって、口を開いた。
「奇跡は神様のお力ですよ。ですから心を入れ替えて、神様の御用に立ち上がってください」
その時、後ろから小ヤコブが大きな声でイェースズを呼んだ。
「何かあったのかね」
イェースズが尋ねると、小ヤコブは群衆の後ろを指さした。
「母さんとヨシェ兄さんが来ています」
「何だ、そんなことかね。そんなことでいちいち呼ばないように」
イェースズは苦笑していた。
「そんな母さんだの兄さんだのと騒いだって、魂は別だよ。あちらの世界では、いつまでも家族一緒にという訳にはいかない。たとえ家族でも霊層界は違うからね」
「それじゃああんまり、悲しいじゃないですか」
ピリポが口をはさんだ。だがイェースズはニッコリと笑った。
「親子兄弟はもちろん縁あって親子や兄弟になったのだけど、それは肉体、物質的なつながりだね。でもここで発想を変えると、すべての人は神の子なんだから、すべての人は兄弟だってことにならないかね? 私の周りに集まる人が優しくて親切なら、みんな私の兄弟だし、私の父母だ。そう思えば、悲しくなんかないじゃないか」
そんなことを言いながら帰宅したイェースズだったが、群衆もそのままついてきたので、母のマリアはほとんど悲鳴をあげていた。
そして帰るやいなや、イェースズを母マリアは別室に呼んだ。
「あまり言いたくないのよ。でも、ここまで大騒ぎになったら、神様にかえって申し訳ないでしょう? 近所の人たちはとても迷惑しているみたいだし、みんなあなたのこと狂人だって言ってるのよ」
「母さんもそう思いますか」
そしてイェースズは、にっこり微笑んだ。
「思いたくはない。でも、分からないのよ、あなたが。あなたのことを気狂いだ、詐欺師だ、大ほら吹きのヤマ師だなんて言っている人もいるし」
「そうですか。昔から預言者は、故郷では受け入れられないものですからね」
「母さんも小さいときはナザレの家で育ったのだし、あなたはメシアの母候補の子なんだから、特別なエッセネの説法者になってもほしかった。お父さんのあとを継いでほしかったのよ。だから旅にも出したのに。それがこんな変な新興宗教を作ってその教祖に納まっちゃうなんて、そんなことのために母さんはあなたを育てたの? エッセネの方たちもそろそろあなたの動きを注意しだしたって、サロメも心配してた」
「母さん。違いますよ。そんなんじゃないです。私は教団など作っていないし」
イェースズがそう言っているところへ、小ヤコブが入ってきた。
「先生に会いたいって人が来ています」
「あとにしてもらって」
と、母がイェースズの代わりにきつい調子でヤコブに言ったが、ヤコブが、
「シモンっていうパリサイ人の学者さんですけど」
というのでイェースズの眉が動いた。学者がまた論争を吹きかけにきたのかとも思ったが、なぜか会ってみようとイェースズは思った。だから、
「分かった。すぐに行く」
と、ヤコブに言った。
パリサイ人のシモンは、なんとイェースズを自宅に招いてともに夕食をとろうということだった。イェースズはその申し出を受けることにした。パリサイ人だからといって拒絶すれば相手をその立場で差別し、裁きと対立の想念を持ってしまうことになるからだ。
弟子たちを残し、イェースズは妻マリアと二人だけで夕方の街に出た。表はまだ群衆がひしめき合っているので、裏口からこっそりと出た。そろそろ日も短くなりはじめて夕闇が迫っていたし、弟子を全部連れて行くといやでも目立つが、妻との二人きりの外出なのでまんまと脱出に成功した。
途中、市場を抜けた。灯火が市場を煌々と照らし、夜の町は活気にあふれていた。
シモンの家は、すぐそばだった。会堂の三軒隣で、中に通されると宴席はすでにできていた。一応慣習どおり女性であるマリアは別室で待機し、イェースズは床に食事が並べられた部屋に入った。そこにはシモンと同じようなかぶりものをかぶったパリサイ人が三人、すでに来て粗食を囲んで座っていた。パリサイ派の宴だけに、酒はない。イェースズも足を後ろに投げ出して、床に横になって座った。その間、イェースズは終始ニコニコしていた。それが、パリサイ人らの目には、かなり奇異に映ったらしい。食事が始まってシモンは、すぐにイェースズに尋ねてきた。
「この席は、あなたにとってはいわば敵地に乗り込むようなものではないのですかね? どうしてそんなにニコニコしておられるのです?」
普段はこんなご馳走を食べたこともないので、それがうれしくてニコニコしているのだろうかなどと、彼らが勝手に想像しているのがイェースズには読み取れる。
「いえ。私は神様を信頼していますから。お招きに預かり、有り難うございます。いや、本当に有り難い」
学者らの想念が手にとるように分かるイェースズに対して、彼らはどうもイェースズが分からないというふうに首をかしげていた。
「時に、あなたの目的は何なのです?」
と、出し抜けにシモンが突拍子もない質問をイェースズに浴びせかけてきた。
「目的、とは?」
「あなたは各地で、病人を癒したりなどいろいろな奇跡を起こして回っておられるようだが。このカペナウムでも、だいぶ人を集めておらるようですな。われわれは正直言って、祈祷師の類は危険視しているのですよ」
「確かに、私も同感です」
笑顔のまま人を食ったようなイェースズの返事に、学者たちは一瞬言葉を失っていた。
「祈祷師のあなたが、祈祷師を危険だとおっしゃるので?」
「私は、祈祷師なんかじゃありませんよ」
「しかし、奇跡を売り物にして人を集めてるなんて、低級な御利益信仰ではないですかね?」
「奇跡は方便でしてね、あくまで目的は奇跡の業を通して神様の実在を万人に知らしめて、人々の魂を浄め、人々を神様のご計画に参画させるためのものなんですよ」
「神の実在なんて、誰もが幼い時から毎週会堂で聖書を読んで、分かっているではないですか」
「私が説いているのは観念の神ではなく、厳として実在されている神様のミチなんです」
「ほらほらそれ」
シモンはパンを手に身を乗り出した。
「それがいちばん危ない。祈祷師ごときが、何の権威があって神のミチを説くんです? はっきり言わせてもらいますが、われわれの善良な市民があなたのような怪しげな新興宗教にたぶらかされて、誘いに乗ってゆく様子を見ている訳にはいかないんですよ。人々を巧みに騙して金を巻き上げる詐欺宗教をね。あなた方は低脳な社会不適合者の罪びとが集まったクズの巣窟じゃないんですか? すべてはあなたの妄想から始まって、そして人々の心を操って大きな集団になろうとしている。その目的は何なんですか?」
イェースズはまだ落ち着いて、得微笑んでいた。
「私が説いているのは宗教なんてものよりもっと次元の高い、神様の大元の教えなんですよ。別に奇跡を売り物にしている訳じゃないですけど、私に言わせれば奇跡も起こせない宗教など眉唾物ですね」
そこにいた三人の学者が三人とも、息をのんでイェースズをにらんだ。
その時、
「私の先生を悪く言うのはやめてください」
いつの間にかマリアが両手を着いていざるようにして入ってきた。今度は、学者は露骨にいやな顔をした。マリアは、目にいっぱい涙を浮かべていた。
「なんだね、君は」
シモンが叫ぶのと同時に、イェースズは、
「私の一番弟子です」
とマリアを紹介した。彼女はイェースズの後ろに伸ばした足の方に座っていたので、涙のしずくがイェースズの足に落ちた。それを知ったマリアは慌てて、自分の髪の毛でそのイェースズの足の上の涙をぬぐった。そのときのシモンをはじめとする学者たちの想念が、イェースズにはすぐに分かった。
――こいつは預言者気取りだが、こんな席にまで女を連れて歩く……。
そんな学者たちの想念をよそに、イェースズはマリアのするままにさせていた。マリアは終始無言で、イェースズの足の自分の涙をぬぐいながら、何度もイェースズの足に口づけをした。
イェースズは顔をあげて、シモンを見た。
「あなたは今、この女が気が狂っていると思いましたね」
心の中をずばり言われたシモンは、返す言葉もなく口を開いて蒼ざめていた。そんなシモンに、イェースズは言った。
「人は誰も神の子ですが、また人は誰もが罪びとなんです。過去世からの罪穢を背負って、皆この世に生まれてきている。この女も自分の罪を自覚し、悔い改めて許しを請い、私が伝える神の言葉で想念を転換したのです。
それなのにあなた方は、私が来る前に足を洗うための水さえ用意してくれていなかった。それは怠慢で寸よ。最低限の礼儀じゃないですか」
学者たちは口ごもってしまったので、イェースズはさらに続けた。
「罪とひと言で言っても、大きい罪と小さい罪がありますね。五百デナリの借金をしていた人と五十デナリの借金をしていた人がいたとして、ともに借金を帳消ししてくれるということになったら、どちらが感謝の度合いは大きいでしょうかねえ?」
シモンが答えないので、ほかの学者が、
「五百デナリだろう」
と、言った。
「そうでしょう。シモンは先ほど、私に従ってきている人たちを罪びと呼ばわりしましたが、その罪が許されたらみんな神様をより一層愛しますよ。罪びとだからといって失望する必要はなく、自分の罪深さをサトって、それでも許されて生かされているということへの感謝の心を持つことこそ、神様に近づく原動力だと思いますけどね」
「お説は分かるが」
もう一人いた初老の学者も、口をはさんだ。
「神に近づく原動力として我われは聖書と律法を持っている訳ですから、あなたのお説には何の説得力も根拠も感じられないのですがね」
「神様の御経綸は、ずっと同じじゃないんですよ。日々進展しているんです。律法はもとは神様の教えでも、神様のお考えの方が日々進展しているんです。私が伝えているのは新しい神の置き手なんですね。いいですか。古い皮袋に新しいぶどう酒を入れえたら、破れてしまいますよ。ユダヤの律法という古い皮袋ではなく、新しい酒のための新しい入れ物を、一人一人が心の中に用意するべきだと思います。神様の教えは万古から実在し、今も進展を続けているんです。だから私が伝えている神のミチは最も古い教えであると同時に、永遠に新しい教えなんです。そして全部が御神示で、私が考えたことじゃないんですよ」
それでも学者たちは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼らの目的の方こそ明白で、これは食事の宴会ではなく、明らかにイェースズの異端裁判だったのである。
その時、玄関の方で声がした。
「ヨシェのところのイェースズ師は、こちらだって聞いてきましたが」
イェースズは立ち上がった。
「どうやら、私が救わせて頂くべき人が、また一人現れたようです。失礼します」
イェースズは、玄関へと向かった。
外に出ると、そこには会堂の司である祭司のヤイロがいた。
「お願いだ。娘を何とかしてくれ」
会堂の司である祭司がイェースズにすがりつく光景は、まさに信仰の深さと厚さを具現化したものだった。この祭司はかつてイェースズがこの町の会堂で悪霊に憑かれた男の霊を離脱させたところを目撃している人でもあり、それでイェースズを頼ってきたようだ。
「うちの十二歳になる娘が今、危篤状態なんだ」
「分かりました、すぐに行きましょう、まずは落ち着いて下さい。」
と、イェースズは明るくうなずき、ヤイロに案内され、マリアとともに夜の町の人ごみを掻き分けて歩き出した。そこへばったりと、三人の弟子が現れた。ペテロ、そしてヤコブとエレアザルの兄弟だった。
「あ、先生。先生がパリサイ人の家なんかに行ったから、心配で迎えに行こうとしたんですよ」
ヤコブが本当に心配そうに言うと、イェースズは笑った。
「何を心配することがあるというのかね。それよりいっしょに行こう、人救いだ」
マリアと三人の弟子は、イェースズのあとに従った。
ヤイロのイェースズは、会堂の前の広場を横切らねばならない。そこには人がたくさんいる。イェースズを求めて地方から来た人々も、その中にはかなりいるはずだ。だが、イェースズはそのまま人ごみの中に入っていった。暗いので、誰もそれがイェースズとは気づいていないようだった。
その時、イェースズの上衣の端をつかんだものがいた、同時に、これで自分は救われるという想念が伝わってきた。そしてイェースズは自分の霊体から霊流が、上衣をつかんだ手の方へとどっと流れていくのを感じた。
振り向いた時はもう手は離れていて、今上衣をつかんだのは誰だかは分からなくなっていた。
「誰か今、私の衣に触ったねえ」
イェースズがペテロにそんなことを言っていると、すぐ近くの人ごみの中から大声で泣く女の声が聞こえた。泣き声の主は人ごみを割ってイェースズに近づき、イェースズの足元で泣き崩れた。
「お衣に触ったのは私です。申し訳ありません。ただ、あなた様のお衣にでも触れば、私が長年苦しんでいた病も癒されるのではないかと思ったのです」
イェースズは優しいまなざしを、女に向けた。
「そんなに長いこと苦しんでいたのですか?」
「はい。何年も出血が止まらずにいたのです。あっちこっちの医者にかかりましたけどよくならず、そのために財産も使い果たしまして、結局は医者からも見離されたんです」
女は涙でぐしょぐしょの顔を上げた。
「どうして私が来たことが、分かったのですか?」
「昼間、あなた様の家の前の大勢の人の中におりました。そしてあなた様が帰ってこられると、ただでさえ熱いのに、ものすごい暖かさがあなた様の方から感じられたのです。それは、包み込むような優しい波動の暖かさでした。そして今、広場をうろついていたら昼間と同じ暖かさを感じて、今はもう涼しいのにあなた様のいる方の体だけが熱くさえ感じたのです。そして夢中でお衣におすがりしましたその瞬間に、あんなに苦しんでいた出血がぴたっと止まったのです」
「おお、そうですか?」
イェースズも、驚きの声を上げていた。
「それはよかったですね」
「あなた様は、何もかもご存知でした。有り難うございます。本当に有り難うございます。お救い頂いて、何とお礼を申していいか」
「あなたの信仰が、あなたを救ったのですよ。信じたから癒されたというのではなく、信仰の厚さと深さによって救われていくんです。信じる信じないではなく、その信仰の厚さと深さが大切なんですよ」
「はい、有り難うございます」
まだ泣いている女をあとに、イェースズは歩き出した。ともに歩きながら、エレアザルが首をかしげた。
「先生はあの女を癒そうと意識した訳でもないのに、あの女は癒されてしまった。こういうこともあるんですね」
「エレアザル。そしてほかのみんなも、たった今、奇跡が起こったんだよ」
「はい、見ました」
と、即答したマリアに続き、ほかのものもうなずいた。
「では、なぜ驚かないのかね。奇跡って、実際には起こるはずもないことが起こることなんだよ。普通ではあり得ないことが起こるんだよ。それを見てびっくり仰天しなければならないのに、あなた方は平然と見ていたね。みんな、奇跡が奇跡でなく、当たり前のもののように思いはじめていないかい?」
そのことを、イェースズはいちばん危惧しているのだ。
「いいかい。奇跡に狎れることは、絶対に禁物だ。感謝と感動と感激の中で、奇跡は降る星のごとく生まれていくんだ。あの女に奇跡が起きたのは、あの女の信仰を神様がお認めになったからだよ」
そんな話をしている時に、ヤイロの家が近づいてきた。
「何度も言うようだけど、私が奇跡を起こすんじゃなくて、奇跡を起こすのは神様だ、私はお手伝いをしているのにすぎないんだ。神様が私を使って、奇跡を起こされるんだ。あの女を救ったのも神様の御意志で、そこに私の意志が介在する必要はないんだ。一切は神様にお任せだからね」
すると、ヤイロの家の扉が開いて、下僕のような若い男が走り出てきた。そしてヤイロを見つけると、その前にかがんだ。
「これからお探しに行くところでした。実は……、実は、遅うございました」
ヤイロの顔が、見る見る変わった。
「お嬢様が、お嬢様が……遅かったです」
下僕は力を落として、かがみこんだ。ヤイロは娘の名を呼びながら血相を変えて、門の中へと駆け込んだ。イェースズたちも、それに従った。
部屋の中央に、ヤイロの娘の遺体は横たわり、その母親がすがって泣き崩れていた。娘と言っても、まだ小さい女の子だったのである。ヤイロもまた娘の名を何度も呼び、ひとしきり泣いたあと、背後に立っていたイェースズの方を振り向いた。
「申し訳ありません。遅うございました。娘は死にました。もう、あなた様のお手を煩わせる必要はなくなってしまったのです」
「それはお気の毒に」
イェースズも、神妙な顔をしてうなだれた。しばらくはそうして、娘の両親をひとしきり泣かせたあと、イェースズは遺体の脇にかがみこんだ。
「死んだということは肉体がなくなるだけで、お嬢さんの霊魂はまだ生きておりますよ。肉体という着物を脱ぎ捨てただけなのです」
そう言ってイェースズは、遺体の眉間に上から手をかざし、霊流を送った。
「そんな、娘はもう死んでしまったのですから、そのようなことをなさっても……」
「死んでもまる一日くらいは霊魂と遺体の間は霊波線がつながっていますから、こうして神様のみ光を与えることで魂の救いにもなるんです。その霊波線が切れてから、はじめて霊の世界に旅立つんです。ですから死というものは、あちらの幽界では誕生なんですね」
イェースズの目には、手のひらから放たれた霊光が娘の遺体を包み、さらに霊波線を通してすでに離脱している霊体へも流れ込んでいるのが見える。離脱した娘の霊は空中に浮遊し、いったい何が起こったのか分けがわからずにパニックになっていて、それを守護霊が死んだということを説明して説得していたが、やがて霊光に包まれて穏やかな気持ちになっていっていた。そんな光景も、イェースズの霊眼にははっきりと見えた。
その時、娘の両親がかすかに驚きの声を上げた。
「なんだか娘の顔が、生き生きと赤くなってきましたね。まるで眠っているみたいだ」
確かに先ほどまでは苦しみの表情の中で目を閉じていた遺体だったが、みるみる頬には赤みがさし、穏やかな表情になっていった。そしてこちこちに硬直していた体が、柔らかく伸びてしまったのである。
「人は、亡くなった時の顔つきで、どういう世界に旅立つのかが分かるんです。苦悶にもだえるような蒼白な死に顔の方はお気の毒ですが苦しい世界に行くんです。でもご覧なさい。お嬢さんはこんなに穏やかな表情だ。これは天国に行く方の特徴ですよ」
「有り難うございます」
と、ヤイロはかすかな声で言った。
その時、イェースズの心に響く声がした。
――この娘に、神の栄光を現さん。本来は人の生死、神の権限なれど、今は汝にそを許すなり。
神示が下ったのである。そして周りにいた娘の両親も弟子たちも、雷に打たれたような衝撃で後ろに下がった。
イェースズは御神示の内容をかみ締めた。人の生と死は神様がすべて司っておる訳で、それを人間がどうこうするのは本来なら神への反逆である。だが、特別に今回だけ許すと、イェースズは御神示を受けたのである。そして、一度肉体から離脱した霊を呼び戻す秘法も、実は彼は霊の元つ国で伝授されていた。しかし、それを行使したら神への反逆になるので一度も使ったことなかったし、これからも使うつもりはなかった。だが今回は、特別に神よりお許しが出たのである。
イェースズは娘の体の方へも霊光を放射し、まずは肉体的な癒しで、彼女を死に追いやった肉体的な点は癒された。もう、死ぬ意味がないのである。そしてイェースズは天井あたりに飛んでいる娘の霊体に向かって、
「あなたが脱ぎ捨てた遺体は浄まって、あなたが死ななければならなかった理由は全部取り除きました。もう脱ぎ捨てる必要もないから、お戻りなさい」
そして大声で、
「起きなさい!」
と叫んだ。すると娘はすくっと上半身を起こし、あたりをきょろきょろ見回した。ヤイロはしばらく口をぽかんと開け、こちらが硬直してしまっていた。そして、先ほどとは別の涙で、両親そろって泣きくずれた。
「この子に、何か食べ物を与えてあげてください」
と、イェースズは両親に言った。
帰りの道で、ペテロがイェースズに、
「もし今あの娘の命を救っても、どうせいつかは年老いて死ぬんだから同じことじゃあないんですか?」
と、聞いてきた。イェースズは、やっと微笑んだ。
「まずは、神様の叡智を地上にも知らしめるためだね。そして、確かにあの娘もいつかは死ぬけど、遺体に手をかざすだけで魂が浄って高い霊層界に行かれるようになる。つまり、魂のためだよ。肉体は死ねば終わりだけど、霊魂は生き続けるんだ。肉体の救いではなくって、あくまで目的は魂の救いだからね」
そのイェースズの言葉に、ペテロは一応納得したようにうなずいていた。
秋もすっかり深まっていった。イェースズらはしばらく旅をやめてカペナウムに腰を据え、そこを拠点に人救いの毎日を過ごしていた。彼を慕ってくる人は日に日に増えていったが、たいていは御利益信仰の人が多く、なかなか定着しないのはヨハネ教団と同じだった。それでも郊外や湖畔のそれまで空き地だったところに連日のように入れ替わり立ち代り天幕が並び、七十人くらいはほとんどそのままいついていた。人々が集まってまるで教団のような体裁になるのはイェースズの意に反することではあったが、それでも彼は来る人を拒みはしなかった。そして自分のことを預言者と言おうがユダヤの王と言おうが、はたまた魔術師や祈祷師のように思い、ヤマ師だ、詐欺師だ、大ほらふきだなどとさげすむものまで、すべて見る人の思い思いの心の内に任せることにしていた。定住者七十人は毎日嬉々として奉仕で暮らし、臨時の来訪者の数は毎日だいたい四千人くらいになった。それでも、ガリラヤの全人口から比べればほんの一握りだ。
イェースズは朝から晩まで訪れてくる人に順番に一人一人手をかざし、病を癒し、霊を離脱させて救っていたが、夜になってもまだ大勢残っているときは一斉に両手から霊光を浴びせて救っていった。それでも、癒しの効果は変わらなかった。
そんな朝、イェースズは十二人の弟子だけを連れて家の裏山に上った。押し寄せてくる来訪者は、七十人あまりの定住者がおおわらわで応対しているだろう。彼らはもはや自分たちを、イェースズの弟子だと思っていた。しかし、最初からイェースズに従っている十二人は、別格だった。それでも、七十人ほどの人々をイェースズは信徒とは呼ばず、十二人にも「あなた方は幹部という訳ではないよ」と釘を刺していた。その十二人だけを、イェースズは連れ出したのである。
時に冬も間近で、朝などは風が冷たくなっていた。十二人の弟子たちは、イェースズの立っている前に命じられたままだいたいかたまって座った。
「いつか山の上で約束したけど、そろそろ時が来たと思う」
そう言われただけで、十二人は誰しも山の上での三日間のイェースズの講話の最後の、イェースズとの約束を思い出した。
「先生、本当ですか?」
小ユダなどそわそわして目を輝かせ、体を震えさせさえしていた。だが多かれ少なかれ、十二人全体がそんな心情だった。
「あなた方に、特別な使命を与えるよ」
イェースズはいつになく厳しい表情で、いつもの微笑がなかった。だから弟子たちも緊張して、その後は誰も言葉を発しなくなった。そして息をのんで、師の言葉を待った。
「今、多くの人々が毎日、私のもとに来ているね。でも、ガリラヤではもっともっとたくさんの人が、救いを待っている。ここに来られる人はいいけれど、ここにさえ来られない人も大勢いるんだ。だから、私がここでじっとしている訳にはいかないんだよ」
ペテロが口を開けかけたが、イェースズはそれを制した。ペテロがまた旅に出るのかと聞こうとしたことは、イェースズには分かっている。だから先手を打って、
「別にまた、旅に出る訳じゃあない」
と、言った。
「私一人が皆さんを連れて、あちこちを回っても限界がある。だから、皆さんを私の代理としてガリラヤ全土の人々のもとに派遣する」
互いに顔を見合わせて、少しざわめいた。それが収まるの待って、イェースズは言った。
「今から、あなた方一人一人に不思議のメダイというものを授ける。これを首からかければ天地創造の神様と直接結ばれて、四六時中神の光が体内に降り注いで浄められ、特別のご守護が頂ける。そして手をかざせばその光は、相手に放射される。これであなた方は私と同じ業を使うことができるようになるんだ。奇跡を起こすこともできる」
「そんなあ」
エレアザルが真っ先に、声を上げた。
「そんな夢みたいなことが……なあ」
と、彼はほかの仲間に顔を向け、ほかの弟子たちも互いに顔を見合わせていた。
「いいかい。これをあなた方に授けるのは、あなた方のためだけではないんだ。多くの人々を救うために、その業を与えるのだよ。そのことを忘れてはいけない。私は幼い頃から特別の力があったけど、普通の人が同じような業を身に付けようとしたら、山中で三十年間は修行しないと無理だろうね。そんな奥義中の奥義の業をなぜいとも簡単にあなた方に授けるのかというと、それだけ神様はお急ぎなんだ。そうしないと、間に合わないんだ。それだけ切羽詰っているんだよ」
そう言ってイェースズは、岩の上の小さな箱を開いた。そこには鎖がついた金色の、円形のペンダントのようなものが入っていた。それはイェースズが霊の元つ国でミコから授かった御頸珠に連なっていた十二の玉に、一つ一つ鎖をつけたものだった。
「まずはペテロ」
イェースズは前に出たペテロの首に、その玉の鎖をかけた。
「次、エレアザル」
こうして次々に弟子たちは名前を呼ばれ、十二人の首に玉を掛け終わった。そしてイェースズは、はじめていつもの微笑を取り戻した。
「どうだい、感想は?」
張り詰めていた空気は、一気に緩んだようだった。マタイが顔を上げた。
「なんだか、体中がぽかぽかして来ました」
「そう、寒くない」
そう言ったピリポに続いて、ナタナエルも言った。
「なんだか、力がわいてきたようです」
イェースズはそれを聞いて、ニッコリと笑った。
「これは私がある呪文を唱えて、神様と直接霊線をおつなぎさせて頂いたものだから、決して粗末にしないように。私はこれを、十二個しか調整することが許されていない。だから、ほかの人に貸してはいけない。足の着くところに落としてもいけないし、水にぬらしてもいけない。あなた方は今、神の子の力が蘇って、人々を救うことが許されるようになったんだ。人の命までをもお救いさせて頂けるものなんだから、命よりも大切にお取り扱いするようにね。これであなた方は悪霊をも浄めて離脱させることができるし、手をかざせば病人は癒される。そして何よりも、その人の魂を浄めて救うことのできる火と聖霊の洗礼の業を施す権威が与えられたんだよ。この尊いメダイを無駄にすることなく、人々の救済に精進してほしい」
「本当に、私たちに先生と同じ業ができるんですか?」
トマスが顔を上げた。
「実際にやってみてごらん」
「そういえば、昨日から肩が痛くてしょうがなかったんだ」
そうつぶやきながら、トマスは自分の肩に手のひらをかざした。
「手が熱いなあ」
最初はそんなことを言っていたトマスだったが、やがてあっと声を上げた。
「治った! あんなに痛かった肩が、治った!」
何度も腕を回しながらトマスはうなった。
「何かが体の中でストーンと落ちるような気がしたけど、そんで治っちまった」
何度も何度も、トマスは腕を回していた。イェースズは、声を上げて笑った。
熱心党のシモンも自分のおなかに手をかざしていたが、やはり、同じようにうなった。
「これは便利だ」
そういうシモンに釘を刺すように、笑いながらイェースズは言った。
「言っておくけど、決してこの力を自分の力だって思っちゃいけないよ。あくまで、神様のみ力なんだ。自分はただ媒体になって、神のみ光を人々に与えていくんだ。だからすべてを神様にお任せして、どうぞお使い下さいという想念で、あとは神様のお手並み拝見でいいんだよ」
弟子の何人かもイェースズといっしょに笑った。
「だから、手をかざす時も極力腕の力を抜いて、ふわっとした感じで、風が吹いたら揺れるくらいでいい。相手と手のひらとの距離は、約三分の二アンマー(三十センチ)。そして余計なことは考えない。あくまで貫く想念で、力を与えてくださる神様への感謝と相手の救われのみを念じて、あとは全くの無心でひたすら手をかざすんだ。治してやろう、霊を浮き出させようなんて我は出さないこと。背筋さえ伸ばして、お尻の穴をぎゅっと締めていれば、あとはぽかんと口を開けて馬鹿みたいな顔で手をかざしていればいいんだ」
弟子たちの間に、少し笑いが起きた。だが、イェースズはそのまま続けた。
「くれぐれも、医者にでもなったようなつもりで『あなたの病気を治す』なんて絶対に言っちゃいけない。治るか治らないかは、神様だけがご存じのご計画の内にある訳だからね。『治りますよ』とは言わないで、『楽になりますよ』とか、『変化が出ますよ』などと言っておけばいい。ましてや診断したり、医学を否定したりしないこと。ただ、霊的に盲目になっている今の医学だけではなく、より真実を人々にサトらせればいいんだ。あくまで、病気の治療、つまり病気治しが目的ではないということは、きちんと言っておくようにね。その人の魂を浄化させ、また悪霊をも浄めて離脱させて霊障を解消した上でその人に想念転換させ、その人に神様のもとへ立ち返らせるのが目的だ。体が楽になるのもそのための行きがけの駄賃で、病気を治すんじゃなくって病気をしない体にしてしまうんだ。どうかあなた方も奇跡の体験をうんと積んで、それを通して実在神をサトってほしい。いいかい、トマス」
「はい」
とトマスはうなずいてから、さらに質問を続けた。
「このメダイを首に掛けないと、奇跡の業はできないんですか?」
「そうだね。本来の、つまり超太古の大昔の半神半人といわれたような人たちなら、誰でも持っているパワーだったんだ。でも今の世の人たちは再生転生を繰り返すうちに魂を曇らせ、本来ある力も発揮できなくなっている。だから天からの神様の光を集めてぎゅっと凝縮するためにこのメダイが必要なんだ。あなた方はちょうど十二人だが、さっきも言った通り私には十二個しかメダイを調整することが許されていない。でも、やがて時が来たら、求める人には万人にこの業が許される時代が来る。さあ、みんな立って」
一同は、言われた通りにすぐに立ちあがった。
「これからあなた方には私の代理として、全ガリラヤをまわって、人々を救ってもらいたい。二人ずつ組みになって、今から出発だ」
弟子たちの間には動揺があった。
「そんな、私に先生の代理なんて」
ヤコブが少し弱々しく言うと、イェースズは慈愛のまなざしで微笑んだ。
私はあなた方十二人だけ、私の弟子にするつもりだったけど、今では人が増えすぎた。一回のみで帰ってしまう人は別として、ずっとともに旅をしてくれた七十人ばかりを、もう弟子と呼んであげなければ気の毒だ。そこで、あなた方は別格の使徒と呼ぶことにする。いいかい、さっきも言ったけど、決して幹部ではないよ。ほかの弟子たちより偉いということもない。強いて言えば、使徒とはほかの弟子の皆さんの下僕だと心得なさい。さあ、皆さんを派遣する、今はその時が来た」
「先生、私は口下手ですから、先生のように雄弁に語ることなんかできませんよ」
温厚なアンドレが、ほとんど半べそで言った。
「大丈夫。できる。自分の力でやるじゃないんだから、肩の力を抜いていけば神様は御守護を下さる。何も雄弁である必要はないんだ。口数で説明するより、まずは体験してもらうということで、問答無用、手をかざすこと、すべてはそこから始まる。そうして村々で病める人がいたらまずそれを癒し、しかる後に福音を述べ伝えなさい」
「福音?」
弟子たち誰もが、首をかしげていた。
「福音とはだね、神の国は近づいたといういい知らせのことだ。神の国は待っているだけでは来ないよ。地上の人々がそれを顕現させようと念じ、行じた時にはじめて顕現する。だから奇跡の業を通して神様の御実在を問答無用で分からせないと、今の人たちは何しろ目も耳も硬いからね」
「はい」
使徒たちは、一斉に答えた。
「使徒だなんて、なんか偉くなったみたいだなあ」
無邪気な小ヤコブの発言に、イェースズはまた笑った。
「偉くなったみたいはいいけど、これからあなた方が行く先では、決してお金を受け取ってはいけないよ。お金を受け取ったら、そのへんの祈祷師や霊媒師と同じになってしまうからね。あなた方はただでもらったんだから、ただで与えるんだ」
「しかし、先生、旅の途中はどうやって食べていったらいいんですかね」
顔を上げたのは、会計係のイスカリオテのユダだった。
「みんながばらばらに旅ができるようなお金は、とてもありませんが」
「心配しなくていい。お金はもらってはいけないけれど、食べ物を頂いたら有り難く頂戴しなさい。あなた方は神の使徒なのだから、神様にお任せしていればいい。いらない荷物も、余計な着替えも持っていく必要はない」
日はかなり高く昇っていた。風が強かったが、震えているものは一人もいなかった。
「人を救うことが、あなた方の救いにもなるんだよ。これからあなた方が行く旅は、人救いの旅だ。まず病人を癒してあげなさい。福音を伝えるのは、そのあとだよ。足が痛くて泣いている人をつかまえて、いきなり『神の国は近づいた』なんて言ってもね、とにかく『わたしゃ足を治してもらいたいんだよ』って、神の国のことなんか全く耳に入らないからね」
使徒たちはやっと緊張がほぐれて、いつもの笑いを取り戻した。
「その福音を告げるにしても、私が話したことをそのまま口移しに人々に伝えるんだ。決して自分流の解釈や、話に尾びれをつけてはいけない」
また、使徒たちの顔は引き締まった。
「これから行く村では、必ずしもあなた方を歓迎する人たちばかりではないだろうね。邪険にされて、足蹴にされることの方が多いかもしれない。でも、あなた方を受け入れて話を聞いてくれた人は、私を受け入れた人々だし、神様を受け入れた人々ってことになる。でも決して、私のもとへ勧誘して来いと言っているのではないよ。勧誘ではなく、あくまで人救いだ。病気を治すことを救いだと勘違いしないようにね。神様は、病気治しで救いをせよとはおっしゃらない。砂糖に群がるアリのように、人が寄ってきても意味はないんだ。病気治しは方便で、あくまで魂の救いが主だ。たった一人に手かざしするだけで施光者と受光者が救われ、互いの先祖、御霊たちが数多く救われていく。そして、ありがとう、ありがとう、ありがとう、の波動が飛び交っていく。すばらしいね。それが人救いなんだよ。そして、救わせて頂いた人の中から、因縁の魂を掘り起こしてくるんだ」
「因縁の魂?」
アンドレが問いかけたので、イェースズは少しだけそちらへ顔を向けた。
「前にも言ったと思うけど、神様との御縁、つまり御神縁が深い人だ。過去世で神様に、何らかの功績を立てたことのある魂だね。そんな人が野に山に里に埋もれている。それを探し出すんだ。あなた方も御神縁が深い、つまり因縁の魂だ。神様は、因縁の魂で因縁の魂の救いをせよとおっしゃる。だから、家を一軒一軒まわって、その家に入る前にまず神様に自分の至らないところを補ってくださいとよく祈って、問題があればその方に代わって神様にお詫びをさせて頂いて、そしてその方が幸せになるように祈らせて頂くんだ。それができないと、神様の御用にはならないよ。因縁の魂を探すのを、簡単に考えないようにね。右から左へサッサッとできるものじゃあない。相手には霊が憑いていることも忘れないように。邪霊は神の光を嫌うから、頭から断られたり、否定されたりすることも当然ある。話も聞いてくれずに邪険に追い出されたり、敵意を持って罵声を浴びせかけられたりしても、そんな時は言い争ったりせず、この人は因縁がないのか、あってもまだ時じゃないんだとさっさと足のちりを払ってその村を立ち去ればいい。かわいそうだなとは思っても決して深追いせず、しつこく食い下がったりしないようにね。ましてやその人を裁いたり対立の想念を持つなど、悪想念を発することは禁物だ。もしその人に御神縁があれば、いつか神様が仕組まれる。人それぞれ時期というものもあって、その判断は神様がされる。一切が種まきで、いつどんな時に芽が出るか分からない。冷たくしたり、批判したりする人にもニッコリと微笑んで感謝をして、そして次の村へ行けばいい。断られるたびに、あなた方の罪穢が一つずつ消えていくんだ。断られたその家の隣で、救いを待っている人がいるかもしれない。救いを求めている人は、まだまだたくさんいるからね」
使徒の何人かは重責ゆえか、ため息をついている、それを見てイェースズはまた笑った。
「重荷に考えることはないよ。自分ひとりがやるんじゃない。まあ、二人ずつ組みで行ってもらうけど、それだけではなくて、福音宣教は神様との共同作業だ。神様がされることへの手助けなんだ。それを、自分の力でやろうと思うと間違う。我と慢心が入ったら、神様はお力を貸してくださらないからね。自分の力を過信せず、また卑下もしないこと。至りませぬながらもどうかお使いくださいという祈りと行があってはじめて、神様は足らないところを補ってくださる。あなた方は私から神様の教えをたくさん聞いてきたと思うけど、本当は神様の教えは耳で聞いただけでは分からないものなんだ。実際の行為と行、つまり人救いと福音宣教によってはじめてそれは血にもなり肉にもなるから、ためらう必要はない。でも、口だけで説得しようとはしないことだね。せっかくメダイを頂いたのだから、神様の光で相手の霊眼を開かせ、神魂を揺り動かして神の子であることを褒め称えるんだ。神の子は、互いに拝み合う想念が大切だね。神の光と教えは、車の両輪のようなものだから、どちらが欠けてもいけない。変な色気は捨てて、馬鹿になって、いつでもどこでも何にでも敢然と神の光を放射すること。これなくして、福音宣教は絶対にできない」
そしてイェースズは立ち上がって、使徒たちの前を離れて湖の方を向いて立った。
「みんな、来てごらん」
イェースズは湖が一望できる所から、町を見下ろしていた。その左右に、使徒たちが集まってきた。
「あの町に多くの人がいる」
使徒たちもイェースズの背後から、湖とその岸辺の町を見下ろした。
「そしてあの町だけではなくて、ガリラヤにはもっともっと多くの人々がいる。どこかで誰かが、あなた方の来るのを待っているんだ。でも、今は夜の世なんだ。そんな物欲の固まりのような人々ばかりのところにあなた方を遣わすのは、まるで狼の群れの中に羊を送り出すようなものなんだよ。だから、蛇のように賢くなくてはいけない。徹底的に噛み付いてくる人も多いだろう。だから相手をよく見て、それに合わせて教えを伝えるんだ。世間には頑固な人とか、皮肉屋とか、優柔不断な人とか、お天気屋とか、無口な人とか、おしゃべりな人とか、とにかくいろんな人がいるだろう。でも、どんな人と出会ったとしても、まず相手が何を望んでいるのかを的確に見抜くことだね。そして相手の心を大切にして、暖かく包んであげることだ。教えを押し付けるのは、絶対にいけない。そして屁理屈を言わずに、ハトのようにス直に行きなさい。神様にス直になっていれば、何も困ることはないはずだ」
そう言っているイェースズ自身が、使徒たちに合わせて話していた。使徒の九割がたがガリラヤ人である。だからガリラヤ人特有の、何々のようにという比喩を多用したのである。
「でも、先生」
背後からと小ユダが声をかけた。
「私はやっぱり恐いです」
「何を恐がっているのかね」
イェースズは使徒たちの方を向き、湖の風景を背にして微笑んで見せた。
「村には律法学者も多いでしょう? そんなのに捕まってまた論争でも吹っかけられたら」
「逃げればいい」
イェースズはまだ笑っている。
「決して言い争ったりしないこと。そうならないためにも、逃げるのがいちばんいい。論争をしたって時間の無駄、そんなところから何も生まれはしない。神様の教えは、人知の倫理や哲学じゃないんだからね」
「でも、もし捕らえられたりしたら」
と、トマスが口をはさんだ。
「そんな時はまず落ち着いて、着実に微笑をもって、そして余計なことは考えないで頭を空っぽにして神様にお任せしていればいい。どんな言葉で反論しようかなんて、考える必要はないよ。もし言うべきことがあれば、神様が自然とあなた方の口を動かしてくださる。それがメダイを頂いた使徒の御稜威というものだ。あなた方にはもう、一切の権威を与えたのだよ。だから、何も恐いものはないはずだ。あなた方の手の業は、悪霊をも浄めてサトらせることができる。邪霊が浮き出てきてあれこれしゃべったり暴れたりしても、あなた方は敢然と手をかざしていればいい。くれぐれも言っておくけど、祈祷師のように霊を無理やりたたき出さないこと。これは前にも言ったよね。それと注意しなければいけないことがもう一つ。邪霊が浮き出てきてしゃべりだしても、変な興味を持って霊界のことを根掘り葉掘り聞き出そうとしないこと。霊には、必要以上の興味を持たないこと。これを守らないで霊の言うことを信じたりしたら、霊に振り回されて、悲惨な結果になる。下手をすると、霊媒信仰に陥ってしまうからね。あくまでも主体は神の光で浄めるということで、霊のしゃべることは参考程度に聞いておくようにね。たいてい、本当のことは言わないから。邪霊ももとは神の子だから、対立の想念は持たないで暖かい愛で接してあげることだ」
イェースズの言葉にはとにかくこれだけは伝えておきたいという気概があり、それが十分使徒たちにも伝わったので、誰もが神妙に聞いていた。それからイェースズは、一段と声をあ張り上げた。
「さあ、みんな出発だ」
そしてペテロとアンドレ、ヤコブとエレアザル、小ヤコブと小ユダと、兄弟はそのままペアにした。ほかにイスカリオテのユダとシモン、ピリポとナタナエル、トマスとマタイが組みになった。
「さあ、行くんだ」
イェースズに促されて、二人ずつ組みになった使徒たちは、イェースズに挨拶をして湖の方へと降りていった。イェースズはその後姿を、丘の上からじっと見ていた。彼らは、さほど成果を挙げられまい……イェースズはそう思いながら、使徒たちの小さくなっていく背中を見ていた。しかし、それでもいいとイェースズは思っている。使徒たちを使わしたのは神の御用に立たせることで彼らの罪穢消しもあるし、またいずれ彼らは一人一人が自分の代理としてひとり立ちしなければならない時が来る。これはそのときのための訓練でもある。イェースズが使徒たちを遣わしたのは、そういう側面もあったのである。
使徒たちが宣教に去ったあとも、イェースズは相変わらず多忙を極めた。何しろ相変わらずおびただしい数の人が、毎日押し寄せてくるのだ。それをうまく整理するのを今までは使徒がやっていたが、今度はイェースズと妻のマリアだけでやらなければならないのでたいへんだった。
秋もかなり深まってきた。
人々は相変わらず自己愛の御利益信仰で訪れてくるのだが、それでも自分が使徒に言ったように一切が種まきだと思っているから、イェースズはそれもよしとした。それに、病者、貧者、弱者に霊的法則を告げて不幸の原因を取り除き、絶対幸福へのミチを彼らに歩んでもらいたいという神大愛から発する切実な願いと、やむにやまれぬ心情がイェースズにはあった。決して罪を裁くのではなく、憐れみによって罪を取り除くすべを、彼は人々に伝えていたのである。
この日も生まれつき歩けなかった男が歩けるようになった。そのあとで、イェースズは男に言った。
「あなたにね、私を頼っている想念がある限り、だめですよ。自分を救えるのは自分だけです。私にではなく神様への信仰の厚さと深さ、そして想念転換で奇跡は起きます。私の業はそのための手引きであって、方便なんですよ」
大病から救われた人ほど、イェースズの言葉をス直に受け入れるというのも自然なことである。また、女性の弟子の数も増えていった。男はどうしても理詰めで考えてしまうが、女性は感覚から入るので信仰も早く強くなる。
そんなある日、一人の初老の尼僧が訪ねてきた。
「サロメ!」
イェースズは叫んで思わず飛び出していった。
「お久しぶりです。今、どちらですか? エジプトですか?」
イェースズの幼少時代からずっと、エッセネから派遣されてイェースズの養育係のような感じで接してくれた人である。東の国への旅から帰ってきてからは、二年ほど前にエジプトに行く時にも同行してくれたが、会うのはその時以来である。
「噂の通り、毎日すごい人が押し寄せているんですね」
そう言われてイェースズは微笑をもらすと、サロメを家の中に案内して母を呼んだ。
それからイェースズの中でヨシェや母マリア、妻マリアとともに、イェースズはサロメと会食をした。
「突然のおいでだから、何もありませんけど」
母マリアがそう言って、いくつかのパンを持ってきて床に置いた。
「いいのよ、マリア。それより、本当にすごいのね」
そう言ってからサロメは、イェースズの方を向いた。
「エッセネ教団でも、あなたの話で持ちきりですよ。あなたはヨハネの志を継いで立派に活動しているって賞賛する人もいます。それに何よりあなたはメシアの母候補だったマリアの子だから、もしかしたらあなたこそ救世主なのじゃないかって声もあるんです」
「まさか」
と、母マリアは声を上げて笑った。
「笑えないのよ」
と、サロメはマリアにピシャッと言った。
「マリアは自分がメシアの母候補として、教団から選ばれて修行していたことを忘れたのかい?」
それからサロメは、またイェースズを見た。
「でもね、別の声もあってね、エジプトを出るときに教団にはとらわれず、自由な立場で活動していいということは言われたと思いますけどね、でも、少しその独自の活動がエッセネの枠を超えているんじゃないかってことを懸念している人たちもいるんです」
「そうなのよ」
と、母マリアが口をはさんだ。
「エッセネの枠を超えたどころか、まるで新興宗教だわ」
そういうマリアには答えず、サロメはいささか硬い表情でイェースズを見据えた。
「実はそこのところをはっきり聞いてくるようにと、教団からも言われましてね。あなたの口からはっきりおっしゃってください」
イェースズは、ニッコリ微笑んだ。
「私はどの教団の教えでもない、宗門宗派などを超越した全人類への普遍の教えを説いているんです。新興宗教だとか言われるような、そんな次元じゃあないんですよ。数日滞在して、私がしている業をご覧になって、私の弟子たちへの話に耳を傾けてください。それをありのまま、教団にはご報告くださっていいと思います。この間、ヨハネからの手紙が来て、それを届けてくれた使いの人にもそう言いました」
「そう。でも、ゆっくりしていられないのです。それと私が来たのはそれだけではなくて、もうひとつお知らせがあって。それも悪いお知らせ」
サロメの表情がますます硬くなるので、イェースズも息をのんだ。
「今、ヨハネの使いって言われたけど、実はそのヨハネが死んだのです。殺されたんですよ。ヘロデ王にね」
「ええっ!?」
イェースズはしばらく、言葉を失った。あまりの衝撃に呆然としたのは、母マリアも妻マリアもいっしょだった。
「つまり、処刑されたってことですか」
ゆっくりと、たどたどしくイェースズは言った。サロメはがゆっくりうなずいた。イェースズの放心状態は、しばらく続いた。ヨルダン川での、在りし日のヨハネの姿が目に浮かぶ。
イェースズは立ち上がった。そして。ふらふらと外へ出て行こうとした。その時、一度だけ振り返って、母マリアを見た。
「母さんがいつか話してくれたこと、母さん自身で思い出してくださいね。父さんと結婚する前に、ある体験をしたはずです」
ヨハネの死とイェースズの今の言葉に、マリアの顔色が見るみる変わった。本当に忘れかけていた、あの異次元体験を思いだしたのだろう。もう三十年近くも前のことなのである。
イェースズは外に出た。そこにはイェースズを待っていた人々がまだいて、彼の姿に喜びの声を上げた。
「すまん」
と、人々にひと言だけ言って、イェースズは走りだした。林をぬけ、湖畔へと出た。そして湖畔に立って、はるか南の水平線を見た。その向こうでヨハネは殺された。つまり、処刑されたということだろう。ヨハネの魂はエリアの再生だから、そう低い世界に行くはずもないし、またいずれ再会することもあろう。ただ、今まで投獄されていただけのヨハネが、なぜ今ごろになって処刑されたのかとも思う。ヨハネを処刑すればヘロデ・アンティパスのローマへの汚点になるから、処刑はされないだろうと誰もが思っていた。それが処刑されたことで、イェースズは自分の将来にも立ちはばかるであろうものの強大なることを自覚せずにはいられなかった。
そして、今伝道の旅に出ている使徒たちのうち、元ヨハネ教団の幹部だった者たちには、その死を告げない訳にはいかないだろう。彼らを動揺させることは避けられまい。そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にかイェースズの脇に、一人の若い律法学者が来ていた。だが、その男からはほかの学者のような対立の波動は感じられなかったので、イェースズは優しい目で彼と向き合った。すると学者は、自分のかぶりものをさっと地面に捨てた。
「私はあなたの話を聞き、感銘しました。そして、自らを悔い改めました。どうか、お供させてください」
いつになくイェースズは、悲しそうな表情で学者に言った。
「それは拒みませんけど、もし私のそばにいれば安全だと思ったのなら、それは違いますよ。神の国の到来を伝えていた一人の男が殺されたことを、ついさっき知りました。ですから、私も危ない。別に、自分の身を案じている訳ではありませんけど、私といっしょにいる人々に害が及ぶのは、私としては耐えられない。今の世の中に神理を告げるのは、命がけなんです。野に住む狐には穴があって、鳥には巣がありますけど、私には安全な場所などないのです。それでもいっしょに来たいというのなら、ともに歩みましょう」
イェースズはやっと、いつもの微笑を見せた。
サロメはすぐに帰っていった。彼女が伝えたエッセネが抱いているという危惧というのはそれほど重大なものではないようで、来意の第一はヨハネの死を告げることにあったらしい。
また母マリアも、それからというものイェースズを批判するのをやめ、むしろ協力的になった。彼女の中で例の体験が、鮮烈に蘇ったのだろう。弟子たちを整備する妻マリアを、手伝ったりもするようになったのだ。
そんな頃、今年も仮庵祭が近づいてきた。秋も深まった頃、農業に携わる人々は収穫感謝として畑に八日間、この世は仮のものであるということを示す天幕をはってそこで生活する。そして八日目が最大に盛り上がり、過ぎ越しの祭りと並ぶ二大大祭となる。
イェースズは去年もヨシェに誘われたが、エルサレム行きを断った。今年もまた、ヨシェは誘ってきた。
「私がエルサレムに上るということは、たいへんなことなんだよ。ヨハネを殺した人の一派もそこにいるし、私はそんな人々をも神理へと導かなければならないからね。まだ、時じゃない」
今、使徒たちがいないこの時期に自分だけエルサレムへなど行かれるはずもなかったし、留守の間に使徒たちが帰ってくる可能性もある。
地方ではこの日、エルサレムに上れない人々のためにそれぞれ各地の会堂でも祭儀が執り行われる。祭りの八日目は聖書朗読の年間計画の最後の日ともなり、シムハト・トーラーともいわれ、「伝道の書」が朗読されると決まっていた。
イェースズも会堂に出かけた。会堂の中はごったがえしていたが、この日は祭礼とあって、そこにいたのは必ずしもイェースズを求めて集まった群衆ばかりではない。会堂に一歩入った途端、イェースズは自分に対する敵意の波動を強烈に感じた。その波動を出した人々の多くは、イェースズが人々を惑わしていると思い、とにかく新興宗教という先入観で反感を持っている人々だった。中にはイェースズの子供時代を知っている人々もけっこういて、話は複雑だ。しかし会堂を埋めている人々の中にはイェースズの弟子も多いので、それを恐れて批判派も思っていることを口にできずにいるようだった。
やがて朗読の時間になった。この会堂の司である祭司のヤイロは、かつてイェースズに自分の娘の命を助けられた人でもあるので、イェースズが来たのを知るとすぐに朗読をイェースズに任せた。イェースズは朗読台に立った。
「若いうちに、あなたの創り主を覚えなさい。悪い日が来ないうちに、年を取って『何の楽しみもない』などと言うようになる前に。太陽の光や月と星が暗くならないうちに。雨が降ったあとに、再び雲が広がる前に。そのときになると、家の番人は震え、力あるものもかがみこみ、窓の太陽は陰って、臼を引く女は仕事が減っていなくなり、窓からのぞくものの目は霞む――神に感謝」
イェースズは羊皮紙の巻物を、係りのものに返した。慣例どおりそのまま説教台の上で、イェースズは祭司に代わって朗読箇所の解説をする。
イェースズは、口を開いた。
「兄弟の皆さん。ここに書かれた『その時』は、必ず来ます。まだ、皆さんは若いといえるでしょう。それは皆さんお一人お一人の年齢のことを言っているのではなく、人類全体のことを言っているのです。人類は、まだ若い。しかし時が来れば必ず年老いていきます。同じ『伝道の書』の、今日の朗読箇所の少し前には、『すべてのものには時がある』と書かれています。神様にも時があります。ご計画があり、それは日々進展しています。いつまでも、同じと思ったら間違えます。その御経綸の進展に乗り遅れないように、ずれを修正して悔い改めなければなりません。神の国の到来の前には、今読んだ箇所にあるように、相当な大嵐が来ます」
歓声は会堂の群衆の半分から上がった。すると、歓声をあげなかった部分の前の方にいた頭のはげた男が、大声で叫んだ。
「あんたは確かに、聖書についてよくご存知のようだ。しかし、どこでそれを学んだ。今話したことは、どこで教わった? そんなにも断定的にものを言う権威が、あんたにはあるのかね。そりゃ、あんたの考えだろう。それを断定して言うのはよくないぞ」
「いいですか」
イェースズは即答した。
「真に言っておきますが、先入観や固定観念ほど、神理の妨げとなるものはありません。神のみ光は、赤ん坊のようなス直な人の上にだけ輝くんですよ。私が教えているのは私の教えではなく、私を遣わした方の教えなんです。私はただその中継ぎの伝達者にすぎませんからねえ。私が語ったことは決して私が考えたことではないし、私が作った話でもないんですよ。教えを私に伝えさせている御方のみ意を、そのまま実践してごらんなさい。私の言葉が神の教えか私が作ったものか、すぐに分かりますよ。すぐに結果が出るんです。もし今私が語ったことが私の考えなら、私は自分の栄光を求めていることになりますけど、神の教えをお伝えしている訳だから、神の栄光を求めることになりますね」
人々はざわめいた。気が狂っている、悪霊に盗り憑かれている、神への冒涜だなどという叫びが、矢のようにイェースズに襲いかかった。
やがて使徒たちは二人ずつ、ぽつりぽつりと戻りはじめた。最初に戻ったのはイスカリオテのユダ、シモンの組だった。そして十二人がそろったところでイェースズは一席設け、その報告を聞くことにした。
「みんな、ご苦労だったね。で、どうだったかね?」
「はい」
最初にペテロが顔を上げた。
「すごいんですよ。ばんばん奇跡が出ましてね」
「ええ。先生と同じように、下半身不随だった人が立って歩き回ったり、喘息が突然消えたり」
ペテロに同行していたアンドレも、普段のおとなしさを破って興奮して言った。マタイも上機嫌だった。
「みんなの病気がどんどん癒されて、ついでにびっこひいてた犬まで治りましたよ。人救いやんないで、犬救いやってすみません」
これには、一同も大笑いした。イェースズもニコニコして聞いている。小ヤコブも、口を開いた。
「憑いている霊がしゃべりだした時は、びっくりしましたよ、体中が震えてしまって」
シモンも顔を上げた。
「みんな、うまくいっているようだな。俺はまだス直じゃないからすいぶんと断られたし、嫌味を言われたりもした」
それを聞いて、ペテロがうなずいた。
「そりゃあ私たちだって、全部が全部うまくいった訳じゃない。水をかけられそうになったこともあった」
「私らは」
エレアザルが口をはさんだ。
「いい若者が何が不足で新興宗教なんかに走るのかって、逆に説教されてしまいましたよ」
そしてヤコブが、
「間に合ってます。ビシャッ」
と、ドアを閉められた時の様子を演技で再現したので、またそれが一同の爆笑を買った。ピリポも言う。
「本当に『新興宗教、お断り』という感じの家が多いですね。そんじょそこいらの新興宗教と十把一絡げにされて、いくらそんなんじゃないって説明しても聞く耳を持ってくれません」
「先生は前に、『笛吹けど踊らず』っておっしゃったけど、全くその通りですね」
イェースズはそんな使徒たちを一通り見渡すと、ニッコリ笑って口を開いた。
「みんな、よくやった。今すぐに人々が聞いてくれなくても、くよくよすることはない。前にも言ったけど、これは種まきなんだ」
「でも、先生」
と、ペテロが口をはさんだ。
「生きている人間よりも悪霊に効きますね。悪霊がもだえ苦しんだ時は、本当にすごいと思いました」
イェースズは微笑んだまま、ペテロを見た。
「悪霊が服従したからとて、喜んではいけないよ。それでは霊媒信仰になってしまう。御霊も何かやむにやまれぬ事情や訴えたいことがあって、人に憑いているのだからね。悪霊とて本来は神の子だしね。愛と真で救わせて頂くという想念が大切だ。今までの自分の罪を考えたら、とても他人様に頭が上がる私たちじゃないはずだ。だからあくまでへりくだり、下座の心で救わせて頂くんだ。救ってあげるんじゃない、救わせて頂くんだよ。こんな罪深い自分でも神様にお使い頂いている、そんなことに感謝し、御奉仕をさせて頂くんだ。もしかしたらこの中で、いちばん罪深いのは私なんだろうな」
「そんなあ」
ペテロがと突拍子もない声を上げたけれど、イェースズは笑っていた。
「あなた方を導く訳をしなければいけないんだから、かつては逆にあなた方を神様から引き離してきた張本人かもしれない」
そして、さらに言った。
「みんな、疲れただろう。今回はあなた方をガリラヤに派遣しただけだったけど、やがては全世界に派遣する時がくる。その時は一人一人が私の代行者にならなくてはいけない。本来は救いを求めてくる人を救わせて頂くというのが本当の救いで、救いの押し売りは本物の救いじゃないんだけど、今回の派遣はやがてあなた方一人一人が私の代行者となるべき時のための訓練だったのだよ。今は疲れたなら、私のもとで休むがいい。私は休ませてあげよう。しかしそれはただ単に『休息』という意味ではなく、再び立って歩いていく力を与えてあげるってことだ。今まで多くの預言者や王でさえ目にすることができなかったことが、今あなた方の目の前で起こっている。これからも、どんどん奇跡の体験を積んでほしい。話を聞いただけでは半信半疑でも、実際に手をかざしてはじめていろんなことが分かってくるものだ。あなた方も、どんどん奇跡の体験を積んでほしい。神様の世界の奥義は、実際に手をかざしてみなければ永遠に分からない。実践あるのみだ。今の世でこの業が許されたのはあなたがた十二人だけなんだということも、肝に銘じていきなさい」
確かにイェースズは使徒たちを休ませてあげられる。しかし、イェースズ自身には安息はない。彼自身の言葉で言えば枕するところがないのである。しかしイェースズは、それを憂しとはしなかった。すべては神様にお任せしているからである。
しかしイェースズはヨハネの死を、使徒たちに告げない訳にはいかなかった。
ペテロはただ、大声で泣いた。ヤコブは合点がいかぬとしきりに叫んだ。そしてアンドレやピリポ、ナタナエル、エレアザルなどヨハネ教団の幹部だったものたちは、誰もが泣いた。親戚であって、幼い頃のヨハネをよく知っている小ヤコブや小ユダも同じだった。ヨハネの演説を聞いたことのあるマタイも、衝撃を隠せないようだった。
彼らをひとしきり泣かせたあと、イェースズは言った。
「とにかく今日は休みなさい、明日、みんなで人里離れた静かな所に行こう。旅の疲れを癒すためにね。私も、そうしたい」
翌朝、晴れていることは晴れているが風が強く、雲も幾分多くなってきていた。
「もうすぐ雨季ですね」
と、ペテロが空を見あげて言った。漁師のペテロの天気の予想はいつも正確だった。そして群衆や弟子たちがまだ起きやらぬ頃に、イェースズと使徒はペテロの船で沖に出た。ふと港を見ると、もうすでに群衆たちはイェースズの出航に気づき、騒ぎだしている。
ペテロは帆いっぱい風を受け、船を東へと進めた。
やがて、ベツサイダの町が見えてきた。ここはビリポの故郷だ。ところが岸に近づいていみると、誰もが唖然として言葉を失った。人々の歓声が聞こえるのである。しかも大群衆だ。最初はベツサイダの町の人々が噂を聞いて集まったのかとも思ったが、彼らはイェースズたちが来ることを知っている訳がない。そしてその旅装を見ても、どうもカペナウムから追ってきたイェースズの弟子の人々のようだった。
「なんてことだい。これから休みに行くのに……」
舌を打ったのはペテロで、続いてトマスも言った。
「それにしても、先回りしてくるなんて」
「先生、どうします? 沖合いに引き返しますか?」
船の帆を操っていたアンドレが、目をイェースズに向けた。イェースズは、静かに首を横に振った。
「いや、上陸しよう。見てごらん、あの人たちを。まるで飼い主を失った羊の群れのようじゃないか。素通りすることなんてできないね」
その言葉通りにイェースズが上陸すると、人々はすぐに殺到した。イェースズは人々を順番に並ばせ、早速いつものように訴えるところを聞いてその病を癒し、人々の魂を浄めていった。そして自分だけがそうしたのではなく、もはや使徒たちにも横に一列に並ばせ、自分と同じように人々に癒しの業を施させた。
たちまちに日は西に傾いた。それでも人々は、一向に減ろうとはしなかった。そんなイェースズに、隣にいたペテロが耳打ちした。
「もう日が暮れますから、いつもの一斉に人々に両手をかざすのをやりますか?」
イェースズはうなずいた。
「私たちも、みんなでその一斉のをすれば早いですね」
「だめだよ」
イェースズはいつになく厳しく、ぴしゃりと言った。
「それは、私だからこそ許されているんだ。あなた方の業は、あくまで一人対一人だ」
そうしてイェースズはおもむろに立ち上がり、人々に向かって両手をかざして一切にパワーを注入した。それから普通はイェースズの説法が始まるのだが、何しろ今集まっている人数はざっと五千人はいそうで、いくらイェースズが声を張り上げても肉声で聞こえる数ではない。そこでイェースズは人々を十二の組に分けた。そして使徒たちを集めて、言った。
「あなた方が彼らに、命のパンを与えるんだ」
「そんな」
会計係のイスカリオテのユダが、目をむいた。
「こんな多勢の人々にパンを与えるには、二百デナリあっても足りませんよ」
「二百デナリなんて、われわれの二十日分の食糧が賄えます」
ピリポが叫ぶように言うと、アンドレも、
「今、ここにはパンは五つしかありません。それに干し魚が二匹」
イェースズは笑った。
「今、命のパンといっただろう。人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出る言葉で生きると、聖書にも書いてあるだろう」
ピリポがうなずいた。
「前にもおっしゃっていた『申命記』ですね」
その答えに満足げにうなずいたイェースズは、
「さあ、あなた方で、命のパン、つまり私から聞いた神のみ教えを人々に伝えてくれ」
使徒たちは十二に分かれている群衆の中にそれぞれ入って、自分の聞いた限りの神のミチを説いた。十二に分けても、一つのグループには四百人くらいの人がいるので、使徒たちは皆声を張り上げていた。だが、奇跡の業をもらうと、説法は聞かずにさっさと帰ってしまう人も多い。
その間イェースズはまずヤコブに、その父ゼベダイのカペナウムの屋敷の倉庫の、魚の干物を大量に拝借したい旨を申し出た。ヤコブは二つ返事で、次にマタイにその実家の倉庫のパンを拝借する旨了承を得た。
「でも、どうやって運ぶんです? うちの下僕に運ばせても、着くのは明日ですよ」
マタイの心配そうな問いに、イェースズはただ微笑みだけを見せた。そしてイェースズはそこから遠隔操作で、パンと魚をエクトプラズマ化して目の前に出現させたのである。
「さあ、もう日が暮れるし、朝から何も食べていないという人がいるんじゃないか。せめてものお土産だ」
イェースズは目の前の箱に収められた魚とパンを目に見える形に復元し、そのパンと干し魚を弟子たちに命じて人々に配らせた。結局、配り終わっても十二のかごいっぱいにあまった。群衆が喜んでそれを食べている間に、イェースズは使徒たちに語った。
「神の教えはパンに勝る命のパンだよ。私は神の教えを自分の血とし、肉としているからね。だから私の教えを受け入れるということは、私の体を食べ、私の血の杯を干すことになる。神の教えは頭で理解するものではない。自らの血とし実践に移すよう。そうしてこそはじめて、神の子といえるんだ。さあ、このことをあなた方が担当する人々に伝えてほしい。あなた方が行かないと始まらない」
使徒たちは一斉に返事をして、人々の方へ走っていった。
そうして使徒たちがそれぞれにイェースズの教えを群衆に告げ、それが終わって群衆に解散を命じてイェースズのもとに戻ってきた時、四、五人の若い男たちがゆっくりとイェースズの方に近づいてきた。そして、イェースズの前にひざまずいた。
「お願いがあって、参上致しました」
それを見てイスカリオテのユダの眉がぴくりと動き、シモンと顔を見合わせていた。
「あなたこそ、神が遣わしたメシアとお見受け致した。どうか、我われの王になって頂きたい」
「お願いです」
男たちは口々に、イェースズに訴えた。そこへイスカリオテのユダが、一歩前に出た。だがユダが何も言う前にイェースズはそれを制し、またひざまずく男たちの言葉をも手でさえぎって、使徒たちに言った。
「あなた方は先に、カペナウムに帰っていなさい」
「え? 今日はここに泊まるのでは?」
ピリポが驚くと、ペテロも前に出た。
「先生はどうされるのですか?」
「私も、後から行く」
「あとから行くって、もうとっぷりと日が暮れてますよ。それに私たちが船で帰ってしまったら、先生はどうやってカペナウムに?」
「まだ、ス直ということが分かっていないかな?」
イェースズは笑顔で穏やかに言ったのだが、ペテロたち十二人は厳しくたしなめられたような表情で船に乗り込んだ。だが、ユダとシモンは後ろ髪が惹かれるというような感じで、何度もイェースズの前にひざまずいている男たちを見ていた。
使徒たちが去ってから、イェースズは目の目にひざまずいている男たちを立たせた。
「あなた方は熱心党だね」
男たちは、無言でうなずいた。そして、その中の一人が、イェースズを見据えた。
「あなたこそ、ローマの支配を覆して、我われイスラエルの民の自主独立を勝ち取るための王にふさわしいと見込んだ。あなたは救世主だ」
そこでイェースズは、
「救世主って何でしょうか?」
と、穏やかに反問した。
「今申し上げましたように、ローマの支配からイスラエルの民を救う王です。我われはずっとずっと、そんな救世主の出現を待ち焦がれてきたではないですか。そして、あなたこそそれだ」
「あなたの言う救世主は、本当の意味の救世主ではありませんね」
男の顔が、引きつった。イェースズは穏やかなまま続けた。
「真の救世主とは、地上の王ではないのですよ」
「でもあなたは、神の国は近づいたといわれた。神の国とは神が直接支配する選ばれた民の国、つまりイスラエルの再建にほかならないでしょう」
イェースズは笑みを見せて、首を静かに横に振った。
「神の国とは、地上の政治的な王国ではないのですよ。イスラエルだの異邦人だのも、関係のない国です。一人ひとりが自覚して魂を活性化した時に、神の国は到来します。確かに神の国近づいてきていますけど、待ってりゃくるってものじゃあない。一人ひとりの魂の次元上昇が必要なんです。分かりますか?」
「分かりません。とにかく闘って、ローマ人をこのイスラエルの地から追い出す人、それが救世主です。そしてあなたには、その力がある!」
イェースズはひとつ咳払いをした。
「よく聞いてください。この世で富を得たものは、地上の王になればいい。だけど、真に霊的力を持つ人は、そんな地上の地位は放棄するものです」
これ以上話しても、らちは明きそうもなかった。イェースズは微笑だけ残して、その場をあとにした。だが、男たちは執拗にイェースズについてくる。もうすっかりあたりは暗くなっていた。やがて、湖の岸にたどり着いた。沖を見ると、使徒たち十二人を乗せた船が帆を張ろうとしていた。
イェースズは足元にあった木の枝を二つ拾い、それを湖に投げた。そして、すぐにひらりとそれに飛び乗った。そのままイェースズは水上を歩行して船の方へと向かった。岸に残された男たちは、ぽかんと口をあけてその成り行きを見ていた。
水上歩行は、霊の元つ国で得た霊術のひとつである。この時イェースズの体は、すでにエクトプラズマ化されていた。
やがて船に追いついた。船の上で使徒たちは、水の上を歩くイェースズの姿を見て大騒ぎだった。中には、「幽霊だ!」と叫んだものもいた。イェースズは船べりを下から見あげ、
「私だ。恐がる必要はない」
と、言って、ようやくイェースズは船の上に引き上げられた。
「先生、どうして水の上を歩いて?」
ヤコブがそう言ったのを、ペテロが受け継いだ。
「先生におできにならないにことがあるものか」
そしてペテロは、すぐにイェースズを見た。
「そうですよね。だから、私に命じて私が水の上を歩くこともできますよね」
「私が命じてと言ったけど、これは各人の信仰の問題だよ。水の上を歩くのは、この誘惑多い俗世間で強い信仰を保持していくのと同じだ。ちょっとでも疑ったり、不安を持つとたちまち水に溺れてしまう。まあ、やめといたほうが無難だ」
使徒たちは笑った。こうしてイェースズを乗せた船は、一路カペナウムを目指して進んだ。
折しも風が出て、カペナウムに行くはずがペテロの話だとだいぶ西に流されているという。そしてようやく岸にたどり着いたが当たりはもう真っ暗で、とりあえず一行は船を岸に上げてその船の中で一夜を明かすことにした。
明るくなって外に出てみると、湖岸はなだらかな丘陵で、すぐそばまで台地が迫っている。その谷間に町があった。何という町だか見当がつかないが、湖の西岸のゲネサレであることには間違いがないようだ。ゲネサレとはカペナウムから西岸のマグダラまでの地帯を指す。
それはどんよりと曇っていた。
イェースズ一行はその町に入ったが、すぐにイェースズだと知られ、多くの人が病の癒しを求めて押し寄せてきた。小さな町だから町中の人が押しかけてもたいした人数ではないが、なんと情報は町の外に飛び火し、午後になると次々と町の外からもイェースズを探してやってくるものが増えだした。マグダラからカペナウムは街道が走っており、旅人も多いのである。
使徒たちと手分けしてそんな人々の病を癒しながら、イェースズはいつまでも行きがけの駄賃ばかりを与えていてもいいものだろうかと感じ始めていた。最初はそれでいいが、いつまでも神大愛の大慈観ばかりではなく、大悲観の厳しさも必要になることはイェースズは百も承知していた。それでも、病の癒しのみを求める信仰薄いものも、イェースズは決して裁きはしなかった。太陽が無償の愛を万生に降り注ぐごとく、求められるままに病を癒し、邪霊を離脱させ、人々の魂を救っていったのである。
だが、その翌日には、ベツサイダに残してきた七十人ほどの弟子たちが、この町に到着した。そこで困った光景をイェースズは目にした。彼らは病の癒しを求めてイェースズを訪ねてきたものに対し、自分たちは定着した弟子であることを鼻にかけ、優位性を誇示し始めた。何か特殊な階級であるかのように振舞い、初めて来た人々を見下し始めたのである。おそらくは今に始まったことではないだろうが、今までのイェースズは忙しすぎてそれに気がつかなかった。
時にはイェースズの意に反して、イェースズの教えはもっと厳しいもので、病の癒しのみを求めて来るものは来るなとか、挙げ句の果てには人々の前で説法まで始め、そんな信仰浅いことでは救われないと人々に脅しをかける光景も見られた。そのようなことはイェースズは命じていないし、彼らが勝手にやっていることである。しかもその内容たるや完全にイェースズの教えに自己流の解釈の尾びれをつけ、かえって人々の魂を萎縮させるものだった。
そのような惨状を使徒たちも憂いており、エレアザルが代表してイェースズに切々と訴えた。
「あの人たちの態度は完全に神様に狎れ、先生の教えにも狎れ、奇跡にも狎れている姿だと思います」
「しかしね」
こんな時でも、イェースズは微笑んでいる。
「あの人たちは決して悪気がある訳ではない。むしろ、自分が正しいと思ってやっていることなんだ。つまり、私の教えに熱心なんだね。熱心なあまり暴走することもあろうけど」
「暴走ゆえに、人々をつまずかせたらどうします?」
と、アンドレが口をはさんだ。
「それでつまずくなら、それまでの御神縁だ。世の中のことは一切必然であって、偶然というものはないからね」
「でも、何とかした方がいいんじゃないですか?」
ペテロの進言にも、イェースズは笑って言った。
「私は裁きはしない。いや、裁くことなんてとてもできない。裁かれる方は、ほかにいらっしゃるからね」
その日の午後、イェースズは癒しの業を中断して、人々の前に立った。
「皆さん。この中にはかなりの数、ベツサイダでお会いした方もいらっしゃいますね。またいつも私といっしょにいてくださって、活動してくださっているいわゆる弟子の方たちもいます。心から、感謝します。本当に有り難う」
イェースズはそこで、一度頭を下げた。
「皆さんは私がお伝えする神様の教えに、かなり満たされたことと思います」
群衆といっしょにその話を聞いていた使徒たちは、イェースズがここでかつんと弟子と称する人々に厳しく注意するものだと思っていたし、またそれを期待していた。
「私は今まで、ずっと神様の愛について語ってきました。神様の愛は大愛だから、どんな人でも愛してくださる。どんな罪をも許してくださる。だから皆さん、安心していいんですよ。神のみ光も神の教えも、分け隔てというものはありません。信仰のミチは、一律平等なんです」
イェースズは、微笑んだまま、群衆を視線を這わした。特に、病を癒してもらうために押し寄せた人々よりも、ずっとイェースズについて回っている弟子たちの顔をじっと見渡した。
「でも皆さん、いいですか。ここからが肝腎なんですが、形だけ、人知だけの信仰に陥っては何にもならないんですよ。形なんかよりも、神様のみ意をサトルことが大切なんですね。ですから、神様は甘チョロかと思ったらそれは間違いです。いつまでも甘えた想念でいてはいけないんです」
人々は、シーンと静まりかえった。
「神大愛は、時には厳しいものです。神様のミチにそれるとどうなるかと言いますとね、正しい神様は決してバチは当てられませんが型示しで気づかせようとなさいます。それは、神の子である人類がかわいいからです。かわいいからこそ、厳しくもご注意くださるのです。それが戒告であり、また不幸現象などのような魂の掃除の現象です。ですから今日は皆さん、少し厳しい話をしますよ」
そう言いながらもイェースズの顔はいつもの笑顔なので、今ひとつ人々の間に緊張感がないようだった。
「皆さんの中の多くは、奇跡を体験した方でしょう? 見えなかった目が見えるようになった。歩けなかったのが歩けるようになった。長年の肩こりが治った。家庭の中が乱れていたのに仲良くなったとか、数えたらきりがありませんね。本当に有り難いことに、神さまは降る星のごとく奇跡を下さっています。しかし、なぜ神さまは奇跡を下さるのでしょうか? 考えたことありますか? そのようなことを考えたこともないというのでは、自分の病気さえ治ればいいという自己愛信仰だといわれても仕方ありませんね。他人は他人、自分は自分と思っていたら、本当の愛和の世界は顕現しないんですよ」
ますます人々の間に、沈黙が広がった。イェースズはこの時しっかりと、ここに集まっているのは自分の信奉者ばかりでなく、例のどす黒い波動も少なからずあることも感じていた。
「そのような自分さえよくなればいい、病気が治ればいいなんていう想念は、真に残念ですが奇跡に狎れてしまっていると言わざるを得ない訳です。奇跡に感動し、感激する心を忘れて、もう奇跡を奇跡とも思わないで当たり前のことのように思って、病気になったら私の所へ来れば治してもらえるなんて、完全に私を医者と間違えている人はいませんか」
何人かは笑ったが、多くは静まったままだったので、笑った人もすぐに笑いを収めた。
「そういうのをですね、勘違いというのですよ。勘違いすれば、神様のみ意をまっすぐに受け取ることはできないんです。神様はですね、すべてを見抜き、見通して、すべてをご存じなんですよ。でも、このことが本当に分かっている方は非常に少ないですね。神様は皆さんの一挙手一投足を、ご覧あそばされていらっしゃいますよ。どこに隠れたとしましても、神様は皆すべて見抜き、お見通しなんです。いいですか、いつも申し上げていますように、奇跡には本当の奇跡と見せるための奇跡があるんです。ですから、奇跡を頂いたあとの想念が大切だということなんです。この奇跡の業は私の力ではなくて、神さまが私を使ってお力を注がれているんですよ。神様がピシャッと止められたら、もう私には何もできません。神様は皆さんに恵みを与えたくて与えたくてしょうがないんですけど、受ける側に受け入れる素地というものがなければ途中で止められてしまうんです。どうか自分の病気が治ればいいとかそんなけちな想念ではなくて、なぜ神さまが今の世にこの奇跡の業をお与えになったのかその目的と意味をよくお考えになりまして、永遠の生命に至るための食べ物を求めて来てください。いいですか、考えてくださいよ。考えるとは、神様に還ることですよ」
「すみません」
その時、程近いところに座っていた若い男が、群衆の中から手を挙げた。
「私たちは、病気を治してもらいたいんですけど、そんな想念がだめだとおっしゃるなら、具体的にどうすればいいんですか?」
「はい、いいですか。具体的には、神様の遣わされた者の言葉をよく聞き、それを信じて実践に移すこと、それが神様の業を行なうことになります」
別のものが手を挙げた。中年の女性だった。
「じゃあ、信じられるために、どんな証拠を見せてくださいます? 確かに私は長年の肩こりが治りましたけど、肩こりなら医者でも治せます。さっき、永遠の生命に至る食べ物とかおっしゃいましたけど、それを下さるんですか」
「そう、昔」
その近くの、頭のはげた男も口を開いた。
「神様は砂漠にマンナを降らせてくださいましたけど、そんなマンナみたいなものをあなたが降らせて下さるんですか」
「いいですか、皆さん」
笑顔の中でも、イェースズの目だけは鋭かった。
「マンナを人々に与えたのは誰でしたか? モーセでしたか? 違いますね。神様ですよね。神様が皆さんに、永遠の生命にいたるパンをくださいます。そしてそのパンとは、私です。私の言葉です。私がお伝えさせて頂いている神様の教えを信じて受け入れ、実践に移せば、魂は飢えもしないし、乾きもしないんです。いいですか。ここで皆さんに私がパンを配っても、それは肉体を一時的に満たすだけですよね。ベツサイダではパンと魚を配らせて頂きましたけど、それを食べた方も次の日にはまたお腹がすいたでしょ?」
論議を発したものも、群衆の中で沈黙した。イェースズは続けた。
「皆さんは、失礼ですけど、私の教えを受け入れましたか? 受け入れるとは、実践することなんですよ。耳で聞いて頭で覚えて理解したつもりになっても、実践していなければ受け入れたことにはなりません。神さまのみ言葉をお聞きしてもですね、上辺だけ、形だけの方が多いというのはたいへん残念ですね。形だけ、上辺だけの信仰では、神様はこれをお取り上げにはなりませんよ。見せかけだけの信仰、見せかけだけの祈りでは、真の神の子となることはできないんです。神様の教えもご注意も他人事としてお聞きになっておられる方が多いようですけど、他人事のように聞いていましたのでは決して身に付くものではありませんからね。何を見ても、何を聞いても、自分のこととして受け止めて反省していく人になりますと、霊的に飛躍していくんです」
イェースズは一息ついた。そして、人々を見渡した。
「だからといって私は、皆さんを裁きません。裁く権限もありません。どうぞお帰り下さいなどと言って追い払ったりもしません。皆さんは私にとって、神様が私に与えて下さった存在なのです。私がこの世に来たのは、私の意志じゃない。私は自分がしたいことをするために来たんじゃなくて、私をお遣わしになった方のご意志を行なうためなんです。その神様の御本願とは、すべての人が救われて、この世がそのまま天国になるということです」
人々は、ざわめき始めた。自分のことを生命のパンといい、遣わされたものという表現が受け入れられない人々がいるようだった。ざわめきの中でも、イェースズは口を開いた。
「皆さん、どうか不平不満はやめてください。皆さんも自分の意志でここに来たと思っておられるかもしれませんけど、実は皆さんは神様に許されて、神様に集められたんですよ。神様に選ばれてここに来させて頂けたということに、まず感謝しなければなりません。誰も、神様を目で見ることはできませんね。それでも神様を信頼しておすがりする人は、永遠の生命が得られるんです。そして私こそが、私の言葉こそがそこに至るための生命のパンと救いの杯なんです。私たちの先祖は荒れ野でマンナを食べましたけど、みんな死んでしまったでしょ? でも、私という生命のパン、つまり私の肉と救いの杯の私の血、そんなパンを食べぶどう酒を飲めば魂は永遠に安らぐことになるんです」
また人々はざわめき、それは次第に大きくなっていった。互いに何かを論じ合っている。自分の肉を食べろ、自分の血を飲めと、こんなおかしなことをいう預言者ははじめてだなどという想念が伝わってくる。彼らには、もののたとえが分かっていないようだった。
「真に真に、私は皆さんに言っておきますけど」
イェースズがそこまで言っても、騒ぎはなかなか収まらなかった。イェースズは構わず続けた。
「皆さん、もっと霊的にものごとを考えてください。私の肉を食べ、私の血を飲めと言ったのはですね、私が伝える神様の教えを受け入れて日々の生活の中で実践し、自分の血とし肉とすることなんです。耳で聞いて頭に入れただけでは、食べたとはいえないんです。私の体は真の霊的食べ物、私の血は霊的飲み物です。私の体を食べ、私の血を飲む人はいつも私の中にあって、私もその人の中にいます。そういったお互いのしっくりした関係が大切ですね。今も生きておられて御実在する神様が私をお遣わしになり、私は神様に生かされているように、皆さんも今この時を神様から許されて、生かして頂いているんです。だから神様の生命のパンを食べれば、肉体は別にしても魂は永遠となるんです」
人々の騒ぎは、いっこうに収まらない。そんな時、群衆の中央で大声で叫んだものがいた。
「なんてひどい話だ! こんな話、聞いてられるか! 自分の肉を食べさせ、血を飲ませるなんて、悪魔の儀式だ。我われを食人鬼にしようというのか」
叫んだものは最初からどす黒い想念波動を発していた張本人で、錯乱目的で入り込んだイェースズの批判派だったのである。おそらくは、パリサイ人の学者の忠実な弟子だろう。
ところがその叫びで人々のざわめきはさらに高くなり、群衆のかなりの数がその想念波動に同調してしまって、あちこちで、
「そうだそうだ。帰ろう、帰ろう」
という声が上がり、何人かが三々五々に散り始めた。それでもイェースズは、微笑んで語り続けていた。
「永遠の生命を与ええるものは、パンのような形あるものではありません。それは霊です。私が教えを伝える言葉には、神の言霊が宿ってるんです。物で霊的な救いがもたらされることはありません。救いは神の教えと火の洗礼によってもたらされるんです。私に近づいて私の教えを聞き、それを生活の中で実践することで神の光に近づくんですよ」
ところがいったん堰が切れたらそこから水が一斉に流れ出すように、勝手に解散してその場を去っていく人が雪崩のように急増した。引き際は実に見事で、あれだけの群衆があっという間にいなくなり、結局十二人の使徒だけが残った。
その使徒たちを自分の周りに座らせ、イェースズは苦笑をもらした。
「やはり、神様のお許しがない人はこの場にいられないんだね。前にも言ったろう。『私は決して裁きはしない。どんな人でも受け入れる』って。でも神様から許されない人は、私が裁かなくても、自分の意志で自分で歩いて去っていくことになるとも言ったね」
アンドレがうなずいた。おりしも曇っていた空の西の一角だけ雲が割れ、夕日がさっとさした。たちまちあたりは真っ赤に染まり、港町の夕暮れの寂しさを強調した。
イェースズは、使徒たちの顔を見渡した。
「あなた方は去っていかないのかね?」
ペテロが顔をあげ、イェースズを見据えて言った。
「主よ、あなたは神の子のメシア。永遠の命の糧だ。あなたをおいて誰の所に行きましょうか」
その気持ちは、十二人全員のものだった。
「これでいい。真の自覚ができた人が五人いるだけで、この世は救われていくんだ」
「去っていった人々は、きっと神様がお掃除してくださったんでしょう」
そう言ったエレアザルを、イェースズは少し厳しい目で見た。
「そういうことは、言わないように。神様のされることは、人知では断定できないんだよ」
マタイも顔を挙げた。
「彼らはなぜこうも簡単につまずいてしまうんでしょう。先生がスーッと天にでも昇れば、彼らは信じるんでしょうかね」
その言葉を、イスカリオテのユダが眉を動かしながら聞き、それからペテロと顔を見合わせていた。
イェースズは立ち上がった。そして明るく、
「さあ、カペナウムに帰ろう」
と言った。使徒たちも、笑顔を取り戻していた。