5
イェースズの信奉者たちが去った後のカペナウムは、本来の町としての機能を取り戻していた。もはや群衆はいない。いるのはもともとのこの町の住民と、商用の旅人だけだった。もの寂しくもあったが、これでいいのだともイェースズは思っていた。
十二人の使徒たちも、久しぶりにのんびりとした毎日を送っていた。まさに、嵐が去った後の静けさという感じだった。
「これから我われを襲ってくるであろう試練は、今までのようなあんなものじゃあない。だから今のうちによく休んで、鋭気を養っておくんだ」
イェースズが使徒たちにそんなことを言っていたある日、エルサレムへ行っていた母と弟のヨシェ、そして妹ミリアムも戻ってきた。この頃ではもうミリアムも、まだ幼いながらもどことなく娘らしさを感じさせるくらいに成長していた。気候もだいぶ寒くなってきていた。
そんなある日、イェースズの安息は破られた。またもやパリサイ派の学者が三人、イェースズの家を訪ねてきたのである。使徒たちはまた顔をしかめたが、その学者は初めて見る顔だった。聞くと、このガリラヤの学者ではなくてエルサレムからはるばる来たのだということで、しかもイェースズに会うのがわざわざエルサレムから来た目的だという。
到着したのが夕刻ともあって、遠路はるばる訪ねてきた人々だけに、やはり礼として夕食でもてなさざるを得ない状況だった。本来は律法学者といえば、民衆にとっては下に置けない存在である。祭司階級のサドカイ派が親ローマであるのに対し、パリサイ派は律法を遵守することでローマに対抗していたので、特に反ローマの色彩が強いガリラヤでは民衆の心と共鳴していた。
母マリアと妻マリアがともに、子羊の肉とパン、ヨーグルトで彼らをもてなした。ぶどう酒も出したが、彼らはそれを飲むはずがない。
母マリアは客を席に着かせてから、イェースズを呼んだ。イェースズが同席を許したのは、ヤコブとエレアザルの兄弟、およびペテロ、ピリポの四人だけだった。ランプの灯された部屋に、イェースズはその四人の使徒といっしょに入り、学者たちとともに床に並べられた料理を囲んで横座りに座った。
「ようこそ、遠路はるばるおいで下さいました」
イェースズは愛想よく微笑んで、学者たちに料理を勧めた。
「では、ごちそうになります」
学者たちはパンをとり、子羊の肉を引き裂いた。そしてイェースズや使徒も同じように食事に手を出した時、学者たちは一瞬自分たちの手を止めて、イェースズたちの手先を見ていた。
「ところで、わざわざおいで下さったのはどのような用向きですか」
イェースズに訪ねられ、学者の一人が慌てて目を上げて答えた。三人とも若いが、イェースズよりかは年長のようだった。
「あなた方のうわさは、エルサレムにまで達していますよ。ガリラヤの方ですごいことが起こっているとね。今までにない預言者が現れたとか、パリサイやサドカイ、エッセネとも違う新しい宗教ができつつあるとか、そりゃあもう大騒ぎですがね」
「エルサレムでですか? 子供の頃は別として、私は最近では行ったこともないのに」
「仮庵祭で上京したこの町の人々が、盛んに言いふらしていましたよ」
別の学者が、そう口をはさんだ。またもう一人の学者も、顔を上げた。
「ガリラヤの王様も、あなたに会いたいそうです」
「ほう、そこまで話がいっているんですか」
ガリラヤの王といえば、ここから毎日見ているガリラヤ湖の西岸の町、ティベリヤに城を構えている。ローマ建築の強固な塀に囲まれたティベリヤにいるのはその王宮の関係者のみで、だからティベリヤには普通の町の住民というのはほとんどいない。そしてそこにいる方とは、ヘロデ・アンティパスに他ならない。イェースズも、使徒たちも、それを聞いて一瞬顔をしかめた。何しろ、ヨハネ師を殺した張本人なのである。だから、これは危険な誘いだった。だからイェースズは興味がないようなそぶりで、パンを口に運んだ。
「王が会いたいと思うほどの人ですから、どんな人なんだろうと思って我われは来たんです。ところがうわさに聞いた群衆は、どこにもいないのですね」
「解散しました」
イェースズの答えに、学者たちは驚きの眼を開いた。
「解散したって、もう新派の宗教はやめたのですか?」
「いえ、私は最初からそんな宗教の団体を作るつもりはありませんよ」
学者のリーダー格らしい男が、イェースズを見た。
「一つ、お伺いしてもいいですか?」」
「どうぞ」
「私たちイスラエルの民は誰でも祖先からの戒律を守って、その上で生活をしていますね。でも私は、あなた方を見て本当にびっくりしました。これはまさしく我われ普通のイスラエルの民ではない、新しい宗教だと思いましたがね」
少し間をおいてから、イェースズは逆に尋ね返した。
「それはどういうことでしょうか」
「あなた方は四人が四人とも、先ほど手も洗わすに食事に臨んだではないですか」
食前に手を洗うとは単なる衛生上の問題ではなく、ユダヤ人にとっては大切な宗教的儀礼なのである。
「昔の人の言い伝えも守らず、汚れた手で食事をするのあなた方はいったい何なのですか」
すると、イェースズが答えるよりも先に、ピリポが口を開いた。
「『イザヤの書』には、『この民は口先では私を敬っているが、心は遠く離れている。ただ、人知で作った戒律によって私を拝んでいる』って書いてありますね」
イェースズはそんなピリポを手で制して、学者の方を向いた。そして、
「いやあ、うっかりしていました。ご忠告、有り難うございます」
と、深々と頭を下げた。四人の使徒は意外な師の行動に、呆気にとられていた。だが学者は、納得していないようだった。
「あなたのお弟子は今、人知の戒律とか何とか言いましたね。確かにそういう語句が『イザヤの書』にあります。だからと言って、それが何だというのですか?」
「いえ、申し訳ありません。あとでよく言っておきますので」
「先生」
ピリポは明らかに不満顔だった。イェースズはそれをも笑顔で抑え、また学者の方を向いた。
「まあ、このものが言いたかったのは、『イザヤの書』のこの箇所に出てくる『民』というのが、人知で作った戒律を優先させて、本当の神様の置き手、つまり神理の方をないがしろにしていたのだということを言いたかったのでしょう。だいたい人間ってものは神様が大昔に直接み声でもって教え導いていたのに、それにどんどん人知で尾びれをつけて訳の分からないものにしてしまうんですね。これは地上のどの宗教も、そういう道を歩んできましたからね」
そう言ってイェースズは、呵呵大笑した。
「いや確かに、食事の前に手を洗わないのはまずい。手が汚れていたら、その汚れまでもいっしょに食べてしまうことになりますからね。ただ、手についてでも外から口に入るものはそんなに体を汚さないんですけど、体の中から外に出るものの方がよほど恐いと私は思っているのですが、いかがでしょうか?」
学者たちは、互いに目を見合わせているだけだった。
「さあさあ、どうぞ。お手が止まっていますよ。まだまだご馳走はありますからね」
イェースズは学者たちに食事をさらに勧めて、それから身を乗り出した。
「時に、ちょうどいい機会ですのでお伺いしたいんですが、自分の両親がおなかをすかしているのでやっと用意したご馳走も、神様にお供えするということになったらそちらが先ですか?」
学者たちは、苦虫を噛みつぶしたような顔つきになりはじめた。
「それは、神様が優先に決まっているではありませんか」
「そうですか? でも、モーセは『あなた方の父と母を敬いなさい』と誡めてますけれど」
そのイェースズの言葉が終わると、学者たちは次々に立ちあがった。
「私たちは今日、ここに泊めてもらおうと思っていましたけど、ここは私たちの寄る家ではなさそうですね。これから会堂へ行って、明日エルサレムに帰ります。手を洗わずに食事をするものたちと同席したことによって、我われも身を清めなければなりませんからね」
後は食事の礼だけを言って、学者たちは出ていった。
イェースズは別室にいた残りの使徒を呼んで、残ったご馳走をいっしょに食べようと言った。
ピリポが、ばつが悪そうにイェースズの顔をのぞいた。
「先生、すみません。私があの人たちを怒らせてしまったようですね」
イェースズは笑っていた。
「気にすることはないよ」
「有り難うございます。でも先生って、あのような方にも下座をされるんですね」
「あの方たちだって、神の子だよ。ましてや、人々を導く立場にある方たちだ。ただ困ったことに、少々霊的なことに無知だね。霊的に無知な人々がもっと無知な民衆を導いているんだから、まるで目の見えない人の手引きを目の見えない人がしているって訳だよ。そんなことしたら、やがて二人とも穴に落ちてしまう。私はどんな宗教をも否定したり攻撃したりはしないけれど、誤りは誤りとして正して差し上げないとまずいね」
ペテロが、顔を上げた。
「あのう、外から入ってくるものが体を汚さないって、どういうことですか?」
「外から体の中へ口から入るものは、少しくらい毒性が混じっていてもやがては体外に排泄される。そういうふうに、神様は人体を造られているんだ。たとえ排泄されなくて体内でたまっても、熱が出てそれらを溶かし、やがては排泄される。それが有り難い神仕組みだね。でも恐いのは、体の中から発生する悪想念で、怨み、ねたみ、嫉み、不平不満、人の悪口、怒り、それらを持つと体の中で毒が発生してね、体を汚すばかりか魂をも包み積み曇らせてしまうんだよ。そうなると神様の光は入ってこなくなるから邪霊にもやられるし、ますます不幸な人になる」
感心して聞いている使徒たちに、イェースズはさらに話を進めた。、
「まあ、とにかく食べなさい。今日は早めに休んで、明日出発だ」
「え? 出発って、どこへですか?」
小ヤコブが、くりっとした目をイェースズに向けた。
「今度は北の方。異邦人の町まで行く。また、みんなでいっしょに旅だ」
と、イェースズは言った。
旅は丘陵地帯を縫って、北西へと進路がとられた。この方角へ向かう旅人は少ない。街道を行きかう人々も港で船便を求め、ギリシャやローマに向かう人々だった。
ガリラヤの境を出てフェニキアに入った頃から、道は段々と高度が増し、周りの山々は森林に覆われるようになった。木々は針葉樹林で、幹がまっすぐに天を突いている。もはやヘロデ・アンティパスの領土ではなく、ローマのシリア総督の治める所で、完全なローマの属州である。つまりは、イェースズたちにとっては異邦人の土地なのであった。
寒風が身を刺した。十二人の使徒たちは外套で身をくるみ、風に立ち向かった。イェースズもまた、使徒たちと同様に徒歩だった。道はひたすらに木々の間を続き、このまま行けば世界の果てにってしまうのではないかという気がするような風景だった。だがそんな時こそ明るい笑顔で談笑しながら、一行は歩いていた。
三日後、道は下り坂となって、やがて町が見えてきた。しかしそれよりも使徒たちが歓声をあげたのは、その向こうに横たわる大海だった。
「先生、あれはツロの港ですね」
トマスが嬉しそうな声をあげた。峠の上から見る町は、大海のまっすぐな海岸線から海に突き出ている小さな岬の上まで続いている。
「あの町で、また教えを説きますか?」
そう言ったヤコブは、意気軒昂としている。だが、使徒たちとともに立ち止まって町を見下ろしていたイェースズは、静かに首を横に降った。
「ここではゆっくりしよう」
「わざわざ異邦人の町を選んでですか?」
ペテロの言葉に、イェースズはうなずいた。
「私も海が見たかったのでね」
使徒たちの中には、大海を見るのは初めてというものも何人かいた。何しろスケールの上で、大海はガリラヤ湖などとは桁が違う。
「とにかく町に入ろう」
イェースズは歩きだした。
町の中は完全にローマ一色だった。建築物もほとんどが石造りのローマ風で、その規模は彼らが知っているローマ風の町のマグダラやティベリヤの比ではなかった。円柱が立ち並ぶ道には、その両脇がほとんど店となって商人の声がかまびすしい。ごったがえす人ごみは、誰もが忙しそうに歩きまわっていた。
岬の方へ行くと、海に突き出ているだけ余計に海が広く感じられる。そこにはやはり巨大な何本もの円柱で支えられた、ローマ風の神殿が建っていた。岬はもともと島だったのだが、その島にできた要塞を攻略するためにアレキサンダー大王が石の橋をかけ、そこに土砂が堆積して陸続きの岬となってしまったのだという。イェースズはそんな岬から大海を見て、かつての東方への旅の記憶を蘇らせて胸を熱くしていた。岬の付け根は港で、大きな帆船がいくつも停泊しているのが見えた。
「いつかあんな船で、この大海を渡ってみたいですね」
と、ペテロが言った。
「あなた方はいつか、いやでもあの船に乗ることになる。私はあなた方を全世界に派遣すると言ったじゃないか」
そう言うイェースズの目も、海の彼方を見ていた。
異国町の中を歩くのは、使徒の大部分にとっては緊張を伴うようだった。イェースズとトマス以外は、皆初めて異国の土地に来たのである。ここはカイザリア、プトレマイオスと並ぶ海の玄関口で、国際都市でもある。町中に飛び交っている言語は実にかなりの種類があって、ローマ人の姿も多い。この地方の人々の言語はセム語で、アラム語は通じない。しかし、たいていギリシャ語は通じたので、イェースズにとっては不自由はなかった。通貨もローマの貨幣がそのまま使えた。
そんな商店が並ぶ石畳の道を一行が歩いていた時、背後から、
「ヤーサス!」
と、叫ぶ声がした。
「ガリラヤのイェースズ師とそのお弟子さんでは?」
振り返ってみると、一人の婦人がギリシャ語で話しかけてきた。服装や顔つきからしても、明らかにギリシャ人だった。もうこんな所まで自分のうわさは広まっているのかと、イェースズ本人が驚いていた。
「そうですよね? ユダヤのお方という服装ですし、お弟子さんを十二人連れてますから、聞いた通りです。さっきから私、お弟子さんの数を数えていたんです」
「でも、それだけで分かったんですか?」
イェースズも歩みを止め、女の方を向いてギリシャ語で話しかけた。
「いいえ。心にひらめくものはあったんです。まるでお体全体から光が出ているようで、おそばに来るとすごく熱く感じましたし。それも聞いた通りです」
ギリシャ語が分かるトマス、ピリポ、マタイは互いに顔を見合わせていた。そしてトマスが代表するという形で、そこに口をはさんでギリシャ語で言った。
「あのう、師は今回、休養のためにここに来られたんだ。ちょっとほっといてくれませんか?」
「あ、それはどうもすみません。でも、どうしてもお願いしたいことがあるんです」
それを聞いてイェースズは、トマスを手で制した。
「どうしました? 何かあったんですか?」
「実は」
女はひざまずき、泣きそうな叫び声でイェースズにすがった。
「娘に悪霊がとり憑いているんです。お願いです。救ってください」
やり取りが分からないシモンがトマスの袖を引き、通訳を求めた。トマスは耳打ちする形であらましを告げた。それを聞いたシモンは、そのままアラム語で女に言った。
「師は、ユダヤ人を救う救世主なんだ。あんた、ギリシャ人でしょ。だから知らないかもしれないけれど、我われイスラエルの民は唯一絶対の主なる神を奉じていてね、その神様は我われイスラエルの民を救うためにメシアを遣わしてくださるということで、ずっと待ち焦がれていたんだ。そのお方がこの方なんだ。イスラエルの救世主なんだ」
イェースズはそれをも制そうと思ったが、トマスが女にギリシャ語への通訳を始めたので、それを聞いていた。トマスは「メシア」を何とギリシャ語に訳そうか少し悩んでいたが、その語源の油を塗られたものという意味で、「キリスト」と訳した。イェースズはそれを聞き、全身が震えた。かつてエジプトのピラミドウの中で、自分が授かった称号である。
さらにシモンは言った。
「自分の子供を養う義務がある親がだね、その子供を十分に食べさせてあげられないうちに、そのパンを取り上げて犬にやったりするかい?」
トマスの通訳を聞いてから、女はきりっとしてイェースズを見た。
「でも犬だって、食卓からこぼれたパンのくずを食べてもいいでしょう?」
イェースズはにっこり微笑んで、女に直接ギリシャ語で言った。
「そのとおりだね。ましてやあなたは犬ではなく、神の子人だ。こんな強い信仰の人は、イスラエルの民の中でも珍しい。あなたの家はどこですか?」
女の顔が、パッと輝いた。また涙があふれ、何度も礼を言ったあと立ち上がって案内をした。
女の家は、立派なギリシャ建築だった。
娘は暴れて手がつけられないので、一室に監禁されているという。その部屋にイェースズが入ると、十代前半と思われるその娘は絶叫とともに暴れだし。部屋の隅をつたって何とかイェースズから逃げようとした。イェースズはヤコブとトマスに娘を押さえつけさせ、その眉間に手をかざした。霊光が放射され、娘の全身を目に見えない光が包んだ。苦しみもがいて娘は顔をそむけるが、そのたびイェースズの手はその眉間を追いかけた。
やがて娘は暴れなくなり、全身を小刻みに震わせながら泣きだした。
「御霊様、何かお話ができますか?」
いつもの調子でイェースズは優しく語りかけた。その言語も、いつものアラム語だった。娘は首を横に降った。
「苦しい、許さぬ」
それはおよそ若い娘の声とは思われない大人の男の声で、娘に憑いている霊は娘の口を使って語った。
「何か怨みがあるのですか?」
「そうだ。何百年もずっと耐え忍んできた。この家を根絶やしにしてやる」
「そのような想念で、苦しくはないですか?」
「苦しい。苦しいからやるのじゃ」
実はイェースズはアラム語で問い娘はギリシャ語で答えるという、はたから見たら実に異様な光景だった。
「その苦しさから救われるミチは、神様のみ光を頂くしかないんですよ。神様はすべてをご存じです。あなたを苦しみから救うためにも、まずあなたが神様に詫びてください」
「詫びる? 何を詫びるというのだ」
「あなたは今、幽界脱出をして人の肉身に憑かっているという重罪を犯しているのです。それに、どんなご事情でこの娘さんにお憑かりかは存じませんけど、あなたが怨みに思うような仕打ちをされたということは、あなたもまたその前世において、同じような怨みをかうことを必ず誰かにしていたんですよ。原因がなければ結果は出ないのです。その自分の罪穢をもサトって、よく神様にお詫びしてご覧なさい。楽になりますよ」
それからイェースズはしばらく、黙って手をかざした。そしてだいぶたってから、
「どうか、この方のお邪魔にならないところで鎮まって下さい。神様のお許しが出て、一日も早くこの方から離れますように」
と言い、それから口調を変えてやおら大声で、
「シー・ドゥー・マー・レー!」
という呪文のような言葉を言い放った。娘の体の震えは、ぴたりと止まった。
「静かに目をあけてください」
娘は、つぶらな青い瞳をパッと開けた。
「はっきりしていますか?」
こくりと、娘はうなずいた。完全に正気に戻っている。母親が泣きながら娘にしがみつき、それからイェースズの前で地に伏して涙声でイェースズに礼を言った。
「有り難うございます。有り難うございます、ご恩は忘れません」
「霊はまだ離れていませんから、安心しないように。霊が離れるのは、お嬢さんのこれからの回心と、川上であるお母さんの信仰にかかっていますよ。あなたが信じているあなたの神様でけっこうですから、強い信仰心を養ってください。それが救いになります」
「本当に有り難うございます」
「それから、お嬢さんのことで今日のこういうことがあったことは、この町では誰にも言わないで下さい。私が来ていることもね」
「はい。分かりました」
イェースズは戸外に出た。冬の日ざしが潮風とともに、雲の間からさっとさした。
「やはり、もっとよそに行こうか」
イェースズは使徒たちに、ぽつんとつぶやいた。
ところがもう翌日には何人かの人が、イェースズたちの泊まっている宿屋に押しかけた。最初に来たのは、耳と口の不自由な男だった。
「お願いです。夫の耳と口に手をかざして、治して下さい」
その男をつれてきたその妻に哀願されたイェースズは、驚いた。単にイェースズが病人を癒すということだけでなく、こんな異国の町にまで具体的な方法までもがうわさとして流れているのだ。
「そうですか。耳も聞こえず話もできないなんて、本当にお気の毒ですね」
イェースズはほとんど深いため息混じりに、男への憐れみを示した。それからまずその男の眉間に、手のひらから霊流を放射した。浮霊してきたのは、この男が前世に槍で目を突いて殺した兵士の霊だった。これもやはり、三百年ほど前だという。
「そうですか、それはお辛かったでしょう。苦しかったでしょう」
イェースズは涙を流さんばかりに御霊にも憐れみを示し、それから霊査とともに邪霊をサトしてそれを鎮めた。そして大声で、いつもの霊を鎮めるのとは違う呪文を唱えた。
「トポカミ、エミタメ」
その訳の分からない言葉を,使徒たちは「聞け」という意味のアラム語の「エファタ」だと思っていたようだ。しかもその通りに、次の瞬間には男の目と口が開いた。
「おお、しゃべれる」
泣きながら礼を言う妻と、癒された男に、またもやイェースズは、
「このことは口外無用」
と、言い渡しておいた。
ところが、宿を訪ねて来るものは後を絶たなかった。若い娘に手をひかれた、盲目の老人も来た。
「いつから見えなくなったんですか?」
と聞くと、老人は、
「十年くらい前から少しずつ霞んで、しまいには見えなくなっていたんだよ」
およそ突然なるものはたいてい霊障であるが、十年かけて次第にということを聞いてこれは濁毒の排泄による単なる清浄化作用と見たイェースズは、その老人の後頭部にしばらく手をかざし、それからまぶたの上に親指から霊流を放射した。
「どうですか? 見えますか?」
「おお、周りでふらふらしているのは、木か? 人間のようでもあるが……」
「じゃ、もうちょっと」
イェースズは目頭に霊流を放射し、それから老人の下あごを軽くなでた。しばらくして老人は、大きな声を上げた。
「見える! 見えるぞ! 木なんかじゃない、人間がいる」
老人はキョロキョロと、あたりを見回した。
「おじいちゃん、本当に見えるの?」
若い娘に聞かれて、老人は大きくうなずいた。
「ああ、見えるとも。ああ、有り難い。あんたは神様じゃ」
老人はイェースズを伏し拝んで、その場にひれ伏した。イェースズは笑いながらも、
「私は神様じゃあないですよ。どうかお立ちください。そんなふうに私を拝むのだけはやめてください」
と、きっぱりと言った。だが老人はしばらくやめようともせず、そしてやおら立ち上がると、
「神様じゃ、神様じゃ。神様がこの町に来たぞ」
と、言って外へ出ていった。あっとイェースズは思ったが、制止することもままならなかった。老人をぺテロとヤコブが追おうとしたが、イェースズはそれを止めた。
「もう追わなくてもいい、私たちの方がこの町を出よう」
イェースズはそう言って笑った。
「昨日来たばかりでもう出発ですか?」
使徒の何人かはいいぶかしげな顔をしたが、
「私はやはり、ここでも枕することがない」
と言い、そして慌しく仕度が始まり、ユダが勘定を払った時は外はもう昼過ぎだった。
「これから、東へと向かおう」
と歩きながらイェースズは言った。ところが、町を出る辺りで、何人かの人が走ってイェースズを追いかけてきた。
「もし、お待ちを!」
イェースズたちが立ち止まって振り向くと、男が三人、息を切らせて追いついてきた。ギリシャ人と変わらぬ服装をしているが顔はこの土地の民族なので、この町の上流階級の人たちのようだ。よほど走ってきたらしく彼らは皆肩で息をし、しばらくは言葉が出ずにいた。
「どうしました?」
イェースズは笑顔で、暖かく問いかけた。
「もう、ご出発で?」
確かに上流階級らしく、ギリシャ語を使う。
「そうですが」
「困ります」
三人のうちの一人が、そうきっぱりと言った。
「もう少し留まって下さいませんか? 町にはまだ、あなたの救いを必要としている人々が五万とおりますので」
イェースズはしばらく黙り、大きく息をついてから言った。
「それは分かっています。でも私は、長く一ヶ所に留まる訳にはいかないのですよ」
「なぜ、一ヶ所に留まる訳にはいかないのですか」
「まだ、時が至っていないのです」
「時?」
「やがて時は来ます。その時になったら、全世界に、そう、この町にも救いの訪れは告げられるでしょう」
「それはいつですか?」
イェースズはニッコリ笑って、隣に立っていたペテロを示した。
「彼はもともと漁師でしてね。空の雲の様子を見ただけでこれからの天気をぴたっと当てるんですよ。皆さんだって夕焼けだったら明日は晴れだとか、南風が吹いたら暖かくなるとか、空模様で天気を見分けたりしますよね」
イェースズの言葉の真意が解せないらしく、男たちは首をかしげていた。引き合いに出されたペテロも、ギリシャ語が分からないのでぽかんとしていた。
「いいですか。時と私が言いましたのはですね、神様のご計画ということなんです。もちろんそれは、人知で計り知ることのできるものじゃあありませんけど、でも御計画つまり御経綸はどんどん進展しているんですよ。そして天の印を見て天気を見分けられるのと同じようにですね、今何が起こっているのかを見れば、今の時代がどういう時代かも分かると思うんですけど」
「何が起こっているかって、あなたというすごい方が現れて、人々の病を癒しているじゃあないですか。ですからもっとこの町の人々を、病気から救ってください」
「いいですか。私は病気治しの治療師でもまじない師でもないんです。私はもっと全人類規模の、魂の救いのことを考えているんです。病気が治るという奇跡が起こっても、それは単に神様の御実在を知らしめるための見せる奇跡でしてね、行きがけの駄賃でしかないんですよ。自分の病気さえ治ればいい、自分さえ救われればいいという考えは、神様はお嫌いなんですね」
「ですから、私ではなくてこの町の多くの病人を癒して下さいとお願いしているんですが」
「あなたの考えは、実に素晴らしい。病に苦しむこの町の人々を何とか救ってほしいという思いはよく分かりますよ。でも、結局はこの町の人々だけが救われたらいいんですか? 私を必要としている人々は、ほかの町にもたくさんいるんです。自分の病気治しという利己愛ではなく、真の利他愛で神様とすべての人に奉仕できる人を、神様はお求めになっておられます。奇跡はそのための方便ですから。そして残念ながら、今の時代はまだ夜の世、水の時代、月の時代です。ですから、はっきりとした印は与えられないんです」
男たちがどう答えていいか言葉を選んでいるうち、イェースズの方から、
「それでは、失礼します」
と、言って踵を返した。
しばらく行ってから、ギリシャ語の分かるピリポが、
「今の時代に印は与えられないっておっしゃいましたけど、それはどういうことなんですか?」
と、聞いてきた。
「まだ、本当の意味での印が与えられる時代じゃあないってことだよ。今はまだ夜の世だからね。いつか神霊界が夜明けとなって昼の世になったら、本当の印が与えられるようになるんだ」
「それは、いつですか?」
「さあ、分からない。私にもはっきりとは言えないんだよ。ま、もう少し先だろうとは思うけどね。でも、確実に近づきつつあることだけははっきりしている。だからヨハネ師も私も、神の国は近づいたと言ったんだよ。こんなことはあなた方だけに言えることで、多くの人にはまだ言うことは許されていない。だから、あなた方もこの話は、ほかの人にはしないようにね」
そうしてイェースズは再び東に向かう道をとって山岳地帯に入り、針葉樹の背の高い木が並ぶ道を進んだ。
途中民家に泊めてもらい、翌日の夕方にはひどく水がきれいな川にぶつかった。川は白いしぶきを上げながら激しい流れとなって、密林の中をくねっていた。
「これは、ヨルダン川の上流ですよ」
と、ピリポは言った。今は小さな小川だがこの水が下流でガリラヤ湖に注ぎ、さらにガリラヤ湖からヨルダン川になって死海へと流れる。その川のほとりで、一行は泊めてもらった家のおばさんが焼いてくれたパンを食べた。食べながらイェースズは、
「くれぐれもパリサイ人やサドカイ人のパン種には、気をつけた方がいい」
と、言った。ナタナエルが、顔をあげた。
「まさか、昨日のおばさんがパリサイ人だとでも?」
「そんな訳はないだろう」
と、イェースズは声をたてて笑った。
「でも、パリサイ人やサドカイ人のパン種には気をつけろなんて」
アンドレも顔を上げた。
「彼らはパン種に毒でもしかけるってことですか?」
「つまり、我われは彼らに命を狙われているってことですか?」
エレアザルが、顔を引きつらせた。
「全く、何を言っているのかね、本当にもう」
と、さらにイェースズは声を高くして笑った。
「なあにを、いつまでもパンのことでごたごたと。まだ分からないのかね? 私が命のパンと救いの杯って言ったら多くの人は勘違いして去って行ったけど、あなた方だけは真意を分かっていたんじゃなかったのかね」
「はい」
と、ペテロが声を上げた。
「パンとぶどう酒は先生のお言葉から出る神様の教えで、それを実践することで肉にし血とせよということだったんでしょね。あ!」
急にペテロは叫んだ。
「パリサイ人のパン種って、パリサイ人が説く教えのことなんですね。でも、なんでパンではなくパン種なんですか?」
イェースズはにこやかに、大きくうなずいた。
「さすがだ、ペテロ。パリサイ人のパン種は、偽善だよ。それを毒というんだ。でも、毒入りのパンだったら最初から毒入りパンとして、そのままの大きさだろう? でも、パン種っていうのは最初は小さいのに、パンをどんどん膨らませていってしまうんだ。そのように彼らの偽善も、最初は小さいのにどんどん膨らんでいくんだね。偽善が通用するのがこの世だけだということも、もう再三話してきただろう? 霊界は想念の世界だからね。内に秘めた想念が、互いに筒抜けの世界だ。だから、偽善は通用しない。今までは異邦人の町にいたから、私を祈祷師か何かと勘違いした人々が病気治しのために押しかけて来たとしても、パリサイ人の律法学者はいなかった。だけど、いよいよこの川を渡ったらまたイスラエルの民の土地だから、また律法学者がいるぞ」
イェースズはいたずらっぽく笑った。
それから彼らは出発した。急げば暗くなる前に、ピリポ・カイザリアに着ける。何としてもそこまで行きたいとイェースズは考えていた。そしてこの川の上流が、そのピリポ・カイザリアだということであった。
この頃になると、カペナウムからも見える雪を戴く山が、かなり近くに見えるようになってきていた。カペナウムでは晴れた日にだけ遠くにどっしりと見える山だが、近づくとかなりの山容を誇る本格的な山岳だった。すでにその頂上は、雪化粧をしている。これが、イスラエルの地の最高峰、ヘルモン山だった。三つの頂に別れたその勇姿に、仰ぎ見る人は誰もが息をのむ。この日はいい天気で、その全容を見ることができた。冬の間は雲の中になって、見えないことも多い。裾野はゴラン高原で、その手前にあるのがピリポ・カイザリアの町だ。何とか暗くなる前に、イェースズたちはそのピリポ・カイザリアにつくことができた。カイザリアという名がローマの皇帝に由来することは海浜のカイザリアと同じだが、海浜のカイザリアはアウグストゥス帝、こちらはティベリウス帝を記念しての命名である。この付近はガリラヤやデカポリスとは別にピリポの四分領といわれ、かつてのヘロデ王の息子の一人でガリラヤの領主のヘロデ・アンティパスの兄弟のヘロデ・ピリポが領有する地域である。ピリポ・カイザリアはガリラヤでいうとティベリヤに当たる州都であり、ヘロデ・ピリポの居城がある。都市として整備されたのはヘロデ王の死後、ヘロデ・ピリポが領有するようになってからだから、それほど古い町ではない。その町が近づいた頃、ペテロが歩きながら何気なくイェースズに話しかけた。
「もしかしたらこの町にも、先生のうわさは広まっているかもしれませんね」
「そうかもしれないな。でもここへ来たのは、あなた方のためなんだ。訳は後で話すけどね」
「でもまた、人々が押し寄せてきたらどうしますか?」
「救いを求めてきた人々は、救わせて頂くしかないだろう。ところで、その人々は私をいったい何だと思っているだろうかね。人々の間に入っているあなた方の方が、私よりも彼らの声を直接聞いているんじゃないかな?」
マタイが、イェースズの脇まで歩いて言った。
「ダビデ王の再来だって、そんなふうに言っている人もいました」
「私が聞いたところでは」
と、ヤコブも口をはさむ、。
「エリヤに違いないってことです」
「エレミアに違いないって言う人もいます」
アンドレはそう言ってから、さらに付け加えた。
「あの会堂の司のヤイロなんか、先生の話し振りがエレミアそのものだなんて言ってましたよ」
エレアザルが、
「だいたいの人は、先生のことを預言者だって思ってますね。平和の王のメルキゼグだとか」
と言うと、トマスもそれに続けた。
「ヘロデ王は、先生がヨハネ師の生き返った姿だとか言って恐れているそうですよ」
イェースズは、いちいち苦笑しながら聞いていた。
「それだけかね? 私の耳には詐欺師だとかペテン師だとか言う声もかなり聞こえてくるけどね」
そのことは使徒たちも知っていたのだが、遠慮もあってあえて言わなかったようだ。イェースズは歩きながら、後ろを歩く使徒たちの方を振り向いた。
「ところで、あなた方は私を何だと思っているのかい?」
ペテロが最初に口を開いた。
「もちろん、メシアです。私たちイスラエルの民が、長年待ち望んでいた救世主です」
「ペテロ」
イェースズは歩みを止めて、自然とそれにつられて立ち止まる形になった使徒のうち、ペテロを厳しい表情で見据えた。
「あなたまで、そんなことを言っているのかね。メシアというのがイスラエルの救世主だとするなら、それは違う。私が救わせて頂きたいのは、イスラエルの民だけではない。ましてや、世間一般でいうメシア、つまりイスラエルをローマから解放する救世主だと考えているのなら、それは困る。頼むから、そんなことを決して人々に言いふらさないでくれよ」
いつになく厳しいイェースズの釘刺しに、ペテロは思わず身をすくめていた。
ピリポ・カイザリアは新しい町だけあって、ことごとくローマ化されていた。円柱の柱の建物や白亜の壁など、ガリラヤから歩いても二日とかからない距離なのに、完全な異文化圏だった。その点、ツロの港と変わらない。だが、中央に大きくヘロデ・ピリポの居城の城壁がそびえるほかは、町としてはそれほど大きくはなかった。
そんな町でイェースズたちは一軒の宿をとった。旅装を解いて早速見物に行こうとした小ヤコブと小ユダを、イェースズは制した。
「ここではあまり外出しないように」
イェースズはそれだけを言って夕食にし、あとは早々に休んだ。
翌日、イェースズは彼らを近くの川辺につれていった。町はずれの岩場の谷あいを流れる川は、ヘルモン山からの湧き水をヨルダン川に流す支流の一本で、ここがいわばヨルダン川の源流といっても差し支えない。その川岸に、一行は腰をおろした。ここまでくると、さすがに人はいない。周りは緑に囲まれているが、すぐに岩むき出しの小高い丘もあって、その近くには異教徒の神を祭っている祠さえもあった。そして程近い所で、ヘルモン山がその威容を誇っている。
「みんな、この景色をよく見ておくんだよ。いつまでも見られると思ったら大間違いだ」
使徒たちにとって明るい日ざしの中のこの景色は、一種の安らぎを感じるものだった。イェースズの言葉に、アンドレが微笑んで言った。
「そうですね。この景色は本当に心が和むから、よく見ておけと先生はおっしゃった。確かに、いつまでも見てはいられない。やがてはガリラヤに帰らなければいけませんからね」
「しかし」
と、イェースズは言った。使徒たちの視線が、イェースズに注目した。
「いつまでも私といっしょにいられると、安心してちゃいけない。いつ私がいなくなってもいいように、一人一人が私の代理となれるように自覚をしっかりと持ってほしいんだ。そのために、ここにあなた方をつれてきたんだよ」
「先生、そんなことをおっしゃらずに、いつまでも私たちといっしょにいてください」
訴えるように、トマスが叫んだ。ナタナエルも、それに続く。
「そうです。そんな悲しいこと、おっしゃらずに」
イェースズは、静かに首を横に振った。
「先のことは、誰にも分からない。すべて、神様のみ意のままだからね。私が言いたいのは、もし私がいなくなるようなことがあったとしても、その時はあなた方一人一人が私の代理人としてやっていける自覚を持ってほしいということなんだ。私がこの世に来た目的は、人々の魂を浄めてその魂を開かせ、あまりにも人々が神様から離れすぎないように自覚を促すことだから」
イェースズの座っているすぐそばを、川は音をたてて流れている。
「だから今回の旅は人々を救うのが主ではなくて、あなた方とゆっくり話がしたかったからなんだ」
「え? 私たちの休養のためじゃあなかったんですか?」
マタイが、情けない声を上げた。
「確かにこの間は、あなた方を休ませてあげるっていったけど、その休ませるっていう意味はボーっとして何もしないでいる時間を与えるってことじゃなくて、元気づけて明日への働くための活力を与えることなんだとも言っておいたはずだけど」
何人かの使徒は、無言でうなずいた。その後シモンが顔を上げた。
「先生、先生はどこかへ行ってしまわれるおつもりなんですか?」
「まあ、どこかへ行くというよりもだね、まだちょっと先にはなると思うけど、いよいよエルサレムに行こうと思っている。もちろん、あなたがたもいっしょだ」
エルサレムと聞いて、使徒たちの顔が少し明るくなった。
「私にとって、エルサレムは危険な町だ。ガリラヤにいて一度も、私はティベリヤには行こうとはしなかっただろ。でもティベリヤ以上に、エルサレムは危険なんだ。律法学者も私のうわさを聞いて手ぐすねひいて待っているだろうし、下手をしたら祭司や長老にまでひどい目に遭うかもしれない。霊的にも、今は夜の世だからあからさまに神理を告げると人々の反感を買うし、邪霊の妨害もあるはずだ」
「そんなあ、先生!」
ペテロが悲痛な声を上げた。
「ローマを追い払って神の国が顕現するまで、先生は死んじゃいけませんよ」
「黙りなさい」
それまでのイェースズの笑顔が消えて、激しい口調だった。
「まだ、そんなことを言っているのか。私がそのような政治的な救世主ではないってことは、何回言ったら分かるんだ。そのような考えは、私にとって邪魔でしかない。あなたは神様のことを考えないで、人知でばかり判断しているじゃないか」
いつにない剣幕で言われたペテロは、首をすくめた。イェースズは再び使徒たちを見回し、その時はもういつもの笑顔に戻っていた。
「いいかい。私についてこようと思ったら、古い自分は捨てて新しく生まれ変わるんだ。そしてそれぞれが自分の重荷を負って、自分の足で歩いて従ってきてほしい。真の救世主は、決しておんぶや抱っこで人々を神理へとつれていったりはしない。『私といっしょにいるだけで必ず救われる』なんていう師がいたら、それは信用できない。いや、かえって危ない。そんな人にはたいてい動物霊がついていて、本人もそれが神懸かっていると思っているから始末が悪いんだ。真の救世主は道案内をするだけで、歩いていくのは自分の足でなんだ。一人一人の自覚と精進が大切なんだよ。だから、いつまでも私を頼っていちゃだめだ。何かあっても先生がなんとかしてくれるなんて、そんな甘ちょろじゃだめなんだ。ましてや、私を神様と間違えて崇めるなんて言語道断だよ」
使徒たちは、息を呑んで静まり返っていた。イェースズはもう一度そんな顔ぶれを慈愛の目でさっと見渡して、続けた。
「あなた方はね、いつ私がいなくなってもいいように、私が伝える神様の教えを血とし肉として日々の生活の中で実践に移し、そうして一人一人が私の代理人になってほしいんだ。あなた方が、世の光なんだよ。世の人々を導くのは私の奇跡の業ではなくて、あなた方の生き様を見て人々は目覚めるんだ。いくら口でいいことを言っても、口先だけでは波動は伝わらない。『そんなこと言うけど、あんたはどうなの?』なんて相手に思わせたらおしまいだ。だからまず、すっかり自分が変わってしまうことだね。自己変革に勝る雄弁はないんだよ。教えを上手に受け売りしても、自分で身についていないのなら波動が伝わらないから論争になるだけだ。議論ではパリサイ人などにかなうはずがない。だから、議論になったら逃げろと私は言ったんだ。人知をぶつけあっての議論なんかで、神理に到達できるはずがないんだよ。だからと言って、これまた人知で教えに勝手に自己流の尾びれをつけちゃいけないけど、何も言わなくてもあの人のやってることなら間違いないって思わせてしまうほどに自分を変えてしまうことだ。後ろ姿で導くっていうのは、こういうことなんだよ」
「先生、受け売りしないで尾びれもつけないっていうのは、難しいんじゃないんですか?」
小ヤコブがそう尋ねると、イェースズは声をあげて笑った。
「難しくなんかないさ。受け売りせず尾びれもつけないってことは、教えを人知をいれずにス直に実践に移して身につけるってことだ。頭で聞いて頭で覚えたことだけを人に伝えることを、受け売りっていうんだよ。そうではなくて、自分がまず実践して自分の血とし肉としたものを、余計な物をつけ加えないでそのままお伝えするんだ。難しいって思うのは、まだまだ自分を捨てきれずにいるってことだ。つまり、執着を断ちきれていない証拠だ。自分の肉体的な命を救ってほしくて私についてきても、決して霊的な命は得られない。むしろ逆に私のために肉体的命が奪われることがあったとしたら、その人は霊的な永遠の生命が得られる。霊的な命を得られなければ、この物質の世界ですべてのものを手に入れたって仕方がないだろう? いいかい、この私のことを先生は特別で、自分なんかだめだなんてくれぐれも思わないようにね。そういった自己限定をしていたら、いつまでたっても精進はできないし、昇華もできない。自分をだめだって卑下するのは、創り主である神様をも卑下しているのと同じで、かえって慢心になるんだよ。卑下や自己限定と私がいつも言う下座とは全く次元も性質も違うものだから、そのへんは心得違いしないように」
「なるほど、そうですね」
エレアザルが感心した声をあげた。イェースズは優しくうなずいて、また続けた。
「だから自覚を持って、自分の道を歩んでほしい。私はエルサレムに行くことを、恐れたりはしない。議論をふきかけられても議論で勝負しようなどとは思わないし、私を捕らえようとする人がいても、私は戦わずに終始無抵抗を貫くつもりだ」
「そんな、先生が捕らえられて殺されることなんかあるんですか?」
トマスの悲痛な声は、相変わらずだった。
「ヨハネ師もああいうことになったし、かなりの覚悟がいるだろう。だから、いつまでも私がいると思わないようにね。むしろあなた方の自覚と独り立ちのためには、私はいなくなった方がいいかもしれない」
「いやだ! 先生、いつまでも私たちといっしょにいてください」
口々にそうさけぶ使徒たちを見て、イェースズは悲しみを含んだ微笑を彼らに見せた。
イェースズたちは六日間、ピリポ・カイザリアの町に滞在した。そして安息日の翌日、イェースズはまだ暗いうちに起きだしてヤコブとエレアザルの兄弟、そしてペテロの三人だけを起こした。
「支度をしなさい。山に登るよ」
三人は慌てて、身支度をした。
町を出て郊外へ抜けるまで、イェースズは終始無言だった。いつになく厳しい表情の師の顔を、三人の使徒ははじめて見た。歩いて行く方角から、登る山とはヘルモン山らしい。ヘルモン山といえばそのへんの山とは訳が違う本格的な山岳で、もうすぐ冬も近いというのにそんな山に登るという事実を、三人はなかなか受け入れられずにいるようだった。しかしイェースズの厳しい表情から、質問すらできるような雰囲気ではなかった。イェースズとてそのような使徒たちの心の動揺を十分に読み取ってはいたが、それでもあえて何も言わずにヘルモン山の方へと向かった。
麓の村に着いたのは、もう昼過ぎだった。しかしイェースズは、休息を許さなかった。まるで何かに憑かれたように、イェースズは黙々と山に向かって歩く。どうしても今日ヘルモン山に登らなければならないという確信を、イェースズは持っていたからだ。東の国への旅で、イェースズにとって登山はお手のものになっていた。
もはやこのへんは森林はほとんどなく、岩だらけの荒野で、その荒野の向こうに岩だけのヘルモン山がそびえている。ここがゴラン高原なのだ。そしてようやく山の斜面にさしかかった頃には、日はもうかなり西の方へ傾きかけていた。それでもイェースズは、登るのをやめなかった。山の上で夜を明かすのは、もはや寒くさえあるこの時期には危険だと使徒たちは思った。だが、今はただ黙って師のイェースズについて行くしかなかった。西日に照らされて岩場をよじ登る彼らの目の前には、雪をかぶった大きな峰がドンと立ちはだかって彼らを見下ろした。それが限りない威圧感で、使徒たちを圧倒していた。
日もとっぷりと暮れた頃、まだ頂上には着いていなかったが、イェースズは少し平らなスペースがあるのを見てそこに腰をおろした。使徒たちも息を切らせながら、その近くに座った。そこからは、座ったままで下界がよく見えた。だが今はもう宵闇が黒いベールを視界にかけて回っていた。
「完全に暗くなる前に、あの景色をよく見ておくんだ」
イェースズは使徒たちに言ったが、彼らは肩で息をするのがやっとで、最初は景色どころではない様子だった。
そのうちペテロが、顔を上げて景色を見た。
「おおっ!」
その声に、ほかの二人も同じように、夜の帳の中に入りつつある景色を見た。
イェースズが言った。
「ここから見ると、世界は広いだろう。そんな広い世界の中では、我われが笑い、悲しみ、傷つき、そして楽しんで生活している町は何とちっぽけなものか分かるだろう。この広い世界をお創りになった神様に、思いを馳せるんだ。あなた方の信仰は、まだまだ薄いからね。もうすぐ光がなくなる。光がなくなると再び闇だけになる。光があるうちにすべてを見ておきなさい」
使徒たちは景色に目を奪われ、イェースズの言葉を聞いてはいてもその深い真意などは分かろうはずもなかった。そのうち、濃い闇のベールがそんな景色を溶かしていった。
イェースズはその場にひざまずいた。
「さあ、祈ろう」
使徒たちもそれに従った。
しばらくそうして祈っていたが、突然イェースズの全身にエネルギーがぶつかってきて、そのエネルギーに満たされるのを感じた。そしてそのまま使徒たちを残して、一人で歩いていった。そしてしばらく歩いてから、ものすごい衝撃がずっと上の方からオレンジ色の光となって降りてくるのを感じた。そしてイェースズに近づくにつれてそれは一段と明るさを増し、とても目をあけて色を見ることはできなくなって、目がくらんだ一瞬の後に彼の体はその光に包まれ、もはや肉体でも幽体でもない彼の霊体も直接に光を発しはじめた。暖かく、安らぎがあって、気持ちよい光に包まれて、すでにイェースズは五官を断ち、大宇宙の大霊の波と交感していた。もはや宇宙と同化したイェースズの周辺を、エクトプラズマのベールが覆っていた。そんな事態を彼は、驚くほど冷静に受け止めていた。高次元の霊流がとめどなく流れ入って全身に満ち溢れ、宇宙のすべてのエネルギーが一身に集中しているような感覚さえあった。そのエネルギーは創造主の大愛にして大いなる叡智、いや神智であった。今、イェースズは、自らの真我を確実に自覚していた。その真我は神の分魂であるところの、神の子の自覚だった。
するといつの間にか目の前に二人、光に包まれた人が立っていた。ひと言も言葉をかわさないうちに、イェースズはその二人が誰であるのか魂の次元ですでに察していた。察したというより、はじめから知っていたと言った方がいいかも知れない。
「おおおっ!」
イェースズの目からは、たちまち涙があふれ出た。とめどない感激が、後から後からわいてくる。目の前の二人もイェースズを見て、やはり感無量というように泣いていた。
二人とも体全体が光に包まれ、その衣は白く輝いていた。その姿は今やイェースズも同じだった。右側の、顔が髭で覆われた老人は、
「しばらくです」
と、イェースズに言った。
「懐かしい」
と、イェースズも言葉を返した。
「お会いしたかった。モーセ」
イェースズはその老人の手をしっかり握り、それから左にいた自分と同年輩の男の手もとった。
「師、ヨハネ、いや、今はその魂の名でエリヤとお呼びしよう。本当に、申し訳なかった。あなたがはっきりとエリヤであるとは知っていながら、そのように接することはできなかった」
「仕方がないことです。肉身を持って現界に生まれれば、五官のみに頼るしかありませんからね」
「神霊界の友人と時を同じくして現界にいても、私はイェースズ、あなたはヨハネという名だった。もし私が平凡な大工だったら、又従兄弟のあなたを魂の友とも知らずに生活していたでしょう」
そこへ、モーセの低い声も響いた。
「肉身を持って現界に行ったのに、あなたはよく神理をサトッた。いや、サトッたのではなく、今のあなたは霊智であり、神理そのものだ。使命を帯びた光の天使とて、現界に下れば使命を自覚せずに堕ちていくものすらいる」
「確かに現界は厳しいところです。大いなる修行の場ですね」
「それどころか」
現界ではヨハネであったエリヤも、言葉をはさんだ。
「あなたはやがて人々に捕らえられ、鞭打たれるかもしれない。しかしその直前に、神の栄光があなたに現れる」
「はい。しかしどんな困難にも、神理は負けません」
モーセもうなずいた。三人は長い転生の過程で結びついた、強い縁生の魂の友だった。再会の感激に、また三人でひとしお涙を流し合った。
「一つだけお聞きしていいですか」
と、イェースズはエリヤに言った。
「エリヤ、いや、今だけ師ヨハネと呼ばせてください。あなたはなぜ、たった一人でティベリヤの王城に乗り込んだのですか?」
本当なら、死んだ直後の人に現界のことをいろいろ話題にするのはタブーである。執着をとる修行の妨げになるからだ。だが、目の前のヨハネだったエリヤは、魂のレベルが違うので話は別だ。
「弟子たちを助けたかった。だから弟子を救うために、私は単身で王城に乗り込んだのです」
その短い言葉の中に、イェースズはすべてを読み取った。ヘロデ王からもパリサイ人からも敵視されていたヨハネは、その教団本部を王の兵に奇襲されて、すべての弟子とともに捕縛される将来を見て取った。その先手を打って、ヨハネは弟子に解散を命じ、自分は一人で城に乗り込んだのである。また、解散を命じても動かないことが予想された高弟のペテロとアンドレ、ヤコブとエレアザル、そしてイェースズもまたその中の一人だったが、このメンバーはわざとベタニヤに使いに派遣したのだ。
「そうでしたか、師」
「私の方こそあなたが本当の救世主かどうかなんて手紙に書き、いくら現界の肉身の中にあって霊的なことが分からなくなっていたとはいえ、今になったら愚問でした。お恥ずかしい」
涙の中にも、イェースズは微笑を見せた。モーセの髭も、涙で濡れていた。
「私が現界でなしたことは、律法を伝えることだった。今やその律法も人知によって形骸化し、おかしなものになっているな。今の私は真の律法の象徴として、あなたに会っている」
「私は、真の預言者として」
と、エリヤも言った。イェースズもまた、静かにうなずいた。
「そして私は、律法と預言を高次元で完成させなければならない」
「あなたの立場は微妙だ」
といってからモーセは、さらに付け加えた。
「今や神霊界は火・日の系統の神々は御隠遁され、水・月の時代となっている。副神の統治の世においては邪神すら跋扈し、人びとはモノと金と権勢にしか欲がない。地には争いが絶えず、邪神の意を受けし石屋が今後はいよいよ本格的に世界制覇に乗り出すだろう。だが、正神の御経綸では、いつかは天の岩戸の注連縄は解かれる。国祖の神も艮よりお出ましになり、炒り豆に花咲く時代となろう。だが、御経綸上はそれは間もなくのことではあるが、この現界の時間でいえばもう少し先のことだ。だから月・水の系統の神々の時代に、龍神・日の出の神の鱗となって現界に降りた日の霊統であるあなたは、夜の世にあっては霊的な妨害も強かろう」
その言葉を、エリヤが受けた。
「だから私も現界でヨハネであった時、天国は近づいたと説き、水ではなく火で洗礼を授ける人が来ると説いた」
イェースズは二人の言葉にうなずいた後、厳かに言った。
「私は天の岩戸閉じが、単なる神々の色恋沙汰ではないことも知っています。大いなる創造の神のご意志なのでしょう?」
モーセは大きく首を縦に振った。
「ただ、今の世はそのような神界の秘め事を、明かなに人々に説くわけにはいかぬ。だがやがて封印が説かれれば、大千三千世界の大立て替え大立て直しが起こり、火の洗礼の大峠を越えてタテヨコ十字に結んだミロクの世が出現する」
「はい。私はユダヤというヨコの文明の国に生まれ、霊の元つ国というタテの文明の国で御神示を受けました。私は今、火の洗礼を施していますけど、それも一代限りで、私の後は、エリヤ、あなたがヨハネとして現界でしていたような水の洗礼になるでしょう。先ほどモーセが言われた通りに今は何もかもをもあからさまに伝えることは許されておりませんし、しばらくは水の洗礼も致し方ないこと、私の教えは水の教えとしてヨコの社会、ヨモツ国に広がるでしょう」
「それでいい」
厳かにモーセは、再び大きくうなずいた。
「我われの立場は、やがて天の時に至る前の正神と副神の戦いのどちらに加担してもならない。創造主は争いとは無縁じゃ。争いの渦の真中心に生じる一本の真空の空間、これこそが素の空間で、宇宙最高の唯一絶対神、創造主たる主の神へ通じるミチじゃ」
エリヤもうなずいてイェースズを見た。
「タテのみ、ヨコのみでは神主文明にはなりません。火と水、タテとヨコが十字に組まれた時に、真新文明、神の国は到来します」
「月の系統の神々の夜の世、すなわち自在の世に日の霊統のあなたが、物質一辺倒の人類があまりにも霊的な思考や神より離れすぎないよう歯止めをかける苦労は大変だろうが、がんばってほしい。やがて、自在の世は終わり限定のみ世が来る」
イェースズはモーセのその言葉に、力強くうなずいた。モーセはさらに、言葉を続けた。
「あなたはその使命どおりに、全世界に邪神への防御網である『フトマニ・クシロ』を張り巡らさねばならない。だからどんな迫害に遭おうとも、その使命を果すまでは死んではならぬ」
霊の元つ国を出る時に、師のミコからも「決して向こうで死んではならぬ」と言われたイェースズであった。
「有り難うございます」
二人の聖者、魂の友の激励にイェースズは心を込めて言った。モーセもエリヤもにこやかに微笑んだ。
「安心してお行き。私たちはいつでもあなたを見守っている」
まずそう言い残して、モーセが消えた。
「私の弟子だった者たちや、後のことを頼みます」
まだ地上の記憶が新しいエリヤは、ヨハネの感覚でそう言ってから消えた。
イェースズを包んでいた光も消え、また元の夜の闇が戻った。そして肉体の感覚がイェースズに戻り、寒さを覚えた。振り向くと三人の使徒はひざまずいて目を見開き、歯をかみ締めている。彼らはすべてを見てしまったようで、畏れ戦いて身動きもできずにいるらしい。
イェースズが歩み寄ると、ペテロは突然狂ったように叫んだ。
「先生! 私たちは素晴らしい!」
それは、悲鳴に近かった。
「こ、ここに、幕屋を建てましょう。三つ、三つです。一つはモーセのために、一つはエリヤのために、もう一つは先生のために」
気がよほど動転しているのか、そんな訳の分からないことを叫んで、ペテロはまだ震えていた。ほかの二人に至っては、口も聞けずにいる。イェースズはそのペテロの言葉には答えずに、ただ微笑んでいた。
するとまた、使徒を含めて四人を暖かなまばゆい黄金の光が包んだ。そして、その光の中から声がした。
「これは我が選びたる子なり。汝らこれに従え!」
その言葉は使徒たちには全く不可解な言語であったが、彼らの胸の中でアラム語になって響いたことは、イェースズなら体験上すぐに分かる。果して使徒たちは、地にひれ伏した。その言葉はイェースズにとっては懐かしい霊の元つ国の言葉であったし、父神であらせられる国祖の神のお出ましだということも理解していた。
すぐに光は消え、あたりはまた夜の闇となった。
「今日見たことを、決して誰にも話してはいけないよ。さあ、山を降りよう」
使徒たちは、力なく立ち上がった。その後も、彼らは全くの無言だった。幸い月があったので、つまずくことなく山を降りることができた。
麓近くにまで下った頃に、ようやくエレアザルがイェースズに話しかけた。
「マラキの予言には恐るべき日の前には主はエリヤを再び遣わすとありますが、今日エリヤが現れたことは何か関係があるのですか?」
イェースズは穏やかに笑んで、答えた。
「エリヤはとっくに来ていたではないか。肉身を持って別の名前でこの世に生きていたということは、私はいつかあなた方に告げたはずだよ。でも人々はそれをエリヤだと気づくこともなく、殺してしまったのだ」
それからまた、一行は無言に戻った。
夜遅くにようやく下山した彼らは麓の村に泊めてもらい、翌日になってからピリポ・カイザリアに戻った。
町の入り口で、イェースズたち一行を何人かの人々が待っていた。家族のようで、イェースズの姿を見て声をあげた。
「おお、戻られた」
イェースズはその人たちに、近寄ってみた。
「あなたは、ガリラヤのイェースズ師ですね」
「そうですが」
イェースズはニコニコと答える。
「すみません。すぐ来て頂けませんか」
イェースズに語りかけた男は、かなり慌てているようだった。その男についてしばらく歩き、ギリシャ建築の建物の角を曲がると、そこは黒山の人だかりだった。その中の何人かが、やはりイェースズの姿を見て声をあげた。人だかりの中にはこの町に残していったイェースズの使徒たちもいて、人々と何やら議論をしているようだ。
「先生!」
トマスがイェースズのそばに駆け寄った。人々はどよめきの声をあげた。
「どうしたんだね。何の騒ぎかね?」
イェースズがトマスに尋ねている間にも、群衆の中の若者がイェースズのそばに寄ってきた。
「あなたが、この方たちの師ですね。あの有名な」
イェースズがそれに答える前に、先ほどイェースズをここに連れてきた男がイェースズの前に出た。
「私はあなたのうわさを聞いて、息子を救ってもらいたいと思ったんです。でもあなたがいらっしゃらなかったから、お弟子さんに頼んだんですよ。だけど、ぜんぜん効かないじゃないですか」
「それ見ろ。こいつらの言うことは、まやかしだ。『我われに任せれば治る』なんて、詐欺だ、ペテンだ、大ほら吹きだ! それで効かなければ、『病気治しが目的じゃあない』なんて抜かす」
人々の中でそんな声も上がり、同調してわめく者も複数いた。
「そうだ、そうだ!」
イェースズは困り果てたような顔をして立っている使徒たちに、さっと目をやった。
「不信仰な時代だなあ。私はいつまでも、あなたがたのそばにはいないよ」
それから、息子を救ってほしいと言った男に目を戻した。
「いったい、息子さんがどうしたのです?」
「普段は何ともないんですけど、一日に何回か口から泡を吹いて、のたうちまわって暴れるんです」
「いつごろから、そんななんですか?」
小さい頃からですけど、特に火や水を見たらその状態になることが多くて、命を失いかけたことも何度もあります」
「今は?」
「今は落ち着いてますからここに連れてきて、あの木の下に座らせて休ませています」
そう言ってからおとこは、まだ少年である息子を連れてきた。蒼白い顔でうつむきながら、少年は父親に支えられて力なく歩いてくる。
ところが弱々しく顔を上げてイェースズを見た途端、少年は大声で奇声を発した。そして父親をものすごい力で跳ね飛ばし、地面に仰向けに倒れ、全身を引きつらせて白目をむき、口から泡を吹きだした。
「布切れ!」
とイェースズは使徒たちに言いつけた。ペテロが布を差し出すと、イェースズは少年を押さえてその口の中に押し込んだ。
「なぜ口に布を?」
そう聞く父親に、
「舌を噛まないようにです」
とだけイェースズは答え、それから使徒の方を振り向いた。
「ヤコブ。エレアザル。後ろからこの子を抱きかかえて!」
二人がそうすると、イェースズは大きな声で言霊をかけた。
「シードゥーマーレー」
それを三回繰り返すと、少年は途端に脱力して動かなくなった。イェースズは少年の口から布をはずし、ヤコブとエレアザルを離れさせ、少年の後ろに回って後頭部に手のひらからのパワーをしばらく放射した。そして少年の呼吸もだいぶ整ってきたのを見ると、再び少年の前に回り、しゃがみこんで眉間にパワーを当てた。ほんの短い時間の後に、少年の体は小刻みに震えだした。
「熱ちち! 熱ちち!」
目を閉じている少年の唇が動く。イェースズは黙って手をかざし続ける。
「熱ちちち!」
少年は自分の体じゅうをはたいたが、それはまるで降りかかる火の粉を払うしぐさに似ていた。どうもイェースズの放つ霊流が熱いと言っているようではなさそうだ。イェースズはゆっくりと、語り掛けた。
「このお方にお憑りの御霊様に申し上げますよ。あなたは熱い所にいるんですか?」
「熱ち、熱ち、熱ち。炎の中、熱ち。このガキの先祖に、俺は家ごと焼き殺されたんだ」
「そうですか? 怨んでいるんでしょうね」
「当たり前だ!」
「その怨みの念が炎となって、あなた自身を焼いているということが分かりませんか?」
「熱ち、熱ち、熱ち!」
「熱いでしょう? でも、あなたも救われるんですよ。まず、神様のみ光を頂いて下さい。そして肉体がない今でも、幽界においても神様の御用はできますよ。この方のお邪魔をしていたところで、あなたは救われません。その苦しみがこれからもずっと続くことになりますよ」
そしてイェースズは幽界脱出の罪について懇々とサトし、一切を許す想念が自分の救われにもなることを説いた。
「まずは許すことです。許せばあなたも許されます。あなたが焼き殺されたということは、その前の過去世において、必ずあなたも誰かを焼き殺しているんです。すべては原因があって、結果が生じます。まずはそのことを神様によくお詫びをして、想念を入れ替えて神様のお手伝いをしよう、この方のお邪魔はやめようと決意されたら、あなたは救われていくんです」
少年は目を閉じたまましゃくりあげ、やがて泣きだした。
「一日も早く、この方から離れますように」
イェースズはまた、先ほど最初に言った呪文の言霊をかけた。
「どうぞ、静かに目を開けてください」
少年はパッと眼を開いた。そして先ほどまでの蒼白い顔とは裏腹にとても血色がよい顔になって、笑顔が輝いていた。人々の間に歓声が上がった。礼を言う父親に応えた後、イェースズは使徒たちをつれてさっさとその場を後にした。歩きながらトマスが、イェースズの脇に寄ってきた。
「先生、お手数とらせて申し訳ありませんでした」
「いや、別に構わないけれどね、またうわさが広がったら困るな」
イェースズはいつもの慈愛の微笑みに満ちた顔になっていた。
「あのう先生、どうして私では効かなかったのでしょうか?」
笑みを含んだ顔を、イェースズはトマスに向けた。
「まあ、宿に戻ってから」
宿に戻るとイェースズは、早速使徒たちを丸く座らせた。
「トマスだけでなく、みんなに言っておこう。トマスの業がなぜ効かなかったか。あなた方はたくさん奇跡を体験して、それで自信がついたのはいいのだけれど、うっかりと落とし穴にはまったんじゃないかな」
「落とし穴……ですか?」
トマスが、ばつが悪そうに聞いた。
「トマスだけの問題ではない。前に、奇跡に狎れるなと言っておいたよね。奇跡に感動し、感激する心を忘れて、奇跡は起こって当たり前と思っていなかったかい? いいかい。起こって当たり前のことは、奇跡って言わないんだよ。起こり得なくして起こるのが奇跡なんだから。そこには感動がないとうそだ。そして自信がついただけに過信して、奇跡の業の力を自分の力だと勘違いしていなかったかい? そしてあたかも自分が治すんだと錯覚して、『私が治してあげよう』なんて言わなかったかい?」
トマスが首をすくめて、
「すみません」
と言った。
「この業は、決して自分の力じゃないんだってことは、再三言っておいたはずだけどね」
使徒たちはうつむいて、しばらく声を出せずにいた。
「そうしていつしか奇跡に狎れ、神様に狎れてしまうんだ。感謝の心を忘れて、当たり前に感じてしまう、それが恐い。そこが落とし穴なんだ。あなた方のこの力は」
イェースズは手をかざすまねをして見せた。
「あなた方の力じゃあない。かざした手のひらから先は、神様の権限だ。奇跡を起こされるのは、神様なんだよ。もういい加減、耳にタコができていてもらわないと困る。『神様、お願いします。どうかお使いください』と、そういう祈りがないと、神様は力をビシャッと止められる。あなた方は、奇跡の業の前に祈っているかい?」
またもやトマスは首をすくめた。
「済みません、忘れてました」
トマスはうつむいてしまった。それを見てイェースズは笑った。
「別にトマスを責めてるんじゃないんだから、気を落とさないように。いいかい。癒しの業は自分の力ではなく、神様のお力だ。しかし、我われが手をかざさないと、神様はお力を発し得ない。だから、神様の力を頂くためには、祈りと信仰が大事なんだ。本当の信仰があれば、山をまるごと別の位置に移すことも可能だ。それを自分の力と勘違いして、我を出すとうまくいかない。ちなみにトマス、あなたはあの少年にどのように業を施したのかね?」
「おなかをかきむしっているのでまずおなか、それから泡を吹くので喉と口に、けっこう長い時間やりましたよ」
イェースズは片手で自分の額をさすり、ため息をついた。
「時間を長くやりゃいいというものではない。急所を外していたら、効かない。今回もそんな体に霊流を送るより、まずは霊的なものであることをサトってすぐに眉間だろう。本当は受ける方の想念が七分、施す方の想念は三分なんだ。だからといって施す方が我がいっぱいで『自分が治してやろう』なんて欲が出ると、さっきも言ったように神様はぴしゃりと止められる」
イェースズはそこまで言うと、またニッコリ笑った。
一行はカペナウムに戻った。そうして冬の間は、しばらく平穏な日々が続いた。春になると、イェースズが東の国への旅から戻って、ようやく二年がたったことになる。今で母ともすっかり打ち解け、ヨシェは大工仕事に余念がない。だが、イェースズにとって平穏な日々とはいっても、彼のもとを訪ねて来る人々は後を絶たなかった。この頃では、遠方から来る人々の方が多い。やはり依然として病気治しのご利益信仰で来る人々が多かったが、その誰もが真剣に救いを求めているので、イェースズはいつも笑顔でその病を癒し、神の国について説いた。中には、自分の病気を癒してもらうまでは腰が低く、その病が癒された後はたちまち態度が豹変して、イェースズに議論を吹きかけてくるものすらいた。
「私は治療師ではないのですよ。ましてや、新興宗教の教祖などではありませんので」
イェースズのいつもの答弁はこれで、議論からはうまく逃げていた。
「私が語っているのは人類共通の普遍な教えでしてね、やがて時が来れば私の教えは全世界に広まるんです」
そんなことを言おうものなら、たいていの者は大ほら吹きとののしって帰っていく。だからイェースズはなるべく多くは語らず、ただ問答無用で人々に火の洗礼の業を与えていた。時には、全く議論目的というだけの人もおり、そういう人にも一応火の洗礼の業を勧めるが、嫌がる人に強制することはなかった。
使徒たちも、訪れる人が多い場合はイェースズと並んで手をかざしていたが、教えが全世界に広まるというようなイェースズの言葉を隣で聞いていても、どうも彼らには実感がわいていないようだった。いくら毎日イェースズのもとに人々が押しかけるといっても、全ガリラヤの人口に比すれば微々たるものだ。それが、やがては全世界にイェースズの信奉者ができるといっても、実感がわくはずがない。使徒たちは口に出してこそ言わないが、そんな想念を読み取ったイェースズは、夜になってから、
「世界に広めるというのは、あなた方の役目だよ。そのために、あなた方に業を伝授した」
と、言った。
やがて町はすっかり春めいてきて、活気だってきた。春になると、祭りも近い。イスラエルの民の最大の祭りである過越しの祭りだ。その時期は、ガリラヤからもエルサレムに上る人は多い。だが今年も、イェースズはまだエルサレムに上ろうとはしなかった。使徒たちには間もなくエルサレムに行くと公言したのだが、「まだ時期ではない」の一点張りだった。
「私はあなた方に、もっと話したいことがあるからね」
そう言ってイェースズは、今回もエルサレム行きを見合わせたのである。そんなある日の昼過ぎ、イェースズが居間にいると母が外から入ってきた。
「あなたに、収税人が来てるわよ」
それを聞いてもイェースズは、一般の人々のように顔をしかめたりはしなかった。
「神殿税よ。もうそんな季節ね」
毎年過越しの祭りが近づくと、収税人が神殿税の徴収に来る。
「母さんは払ったのですか?」
「ヨシェがまとめて納めてきたと思うけど。あなたの分は納めなかったのかしら?」
「自分が聞いて参ります」
そう言って出ていったペテロは、すぐに戻ってきた。
「あなた方の師は神殿税を納めないつもりなのかと、かなりの剣幕ですよ」
「じゃあ、私がいってきます。だいたい先生は師なんだ。祭司からは神殿税はとらないはずですからね、何かおかしい」
と、元収税人のマタイが出て行こうとしたのを、イェースズは穏やかに笑って止めた。
「私は、祭司ではない」
と、さらにイェースズは笑い続けたままで言った。
「ここで課税を拒否したら、祭司気取りでいると思われてしまう」
「でも、先生」 と、ナタナエルが口をはさんだ。
「ダビデ王も、自分の子供から神殿税はとらなかったでしょう? 先生は神様の代行者なんだから、神様への税金はいらないと思いますけどね」
それを聞いたイェースズは、高らかに笑った。
「面白い理屈だ。でもね、こんなことでもめても仕方ない。やはり今は私は現界にいる以上は現界の掟も守って、良識ある態度でいたいね。これを渡してきてほしい」
イェースズは四ドラクマ貨をペテロに渡した。神殿税は一人にドラクマだが、この二ドラクマ貨幣はなかなか流通していなくて入手困難であるため、たいていの人は四ドラクマ貨で二人分を納める。そうやってきちんと税金も払ったイェースズは、また本格的な春の到来まで家にいた。だが妻マリアはイェースズが家にいても妻であって、だがそれ以上に弟子だった。
春になって多くの人がエルサレムに行ってしまったガリラヤで、使徒たちは互いに話し合う時間が持てた。話はたいてい、イェースズの教えについてである。当の本人のイェースズがそこにいても使徒たちが話す教えの内容に勝手に尾びれがついていたりするから、まだまだ目が離せないとイェースズは感じていた。
そんなある日、すべてが春の陽射しの中で明るく輝く湖畔に、イェースズは使徒たちを連れ出した。妻マリアもいっしょだった。風の香りに包みこまれるようだった。使徒たちは適当に座ってまた話を始めたので、イェースズは少し離れた所の岩に腰かけ、湖を見ていた。
今、自分に大きな何かが迫ってくるのをひしひしと感じていた。いよいよ使命を発揮する時かも知れない。さもないと、こんな風光明媚だというだけの田舎で、ただご利益信仰だけで押し寄せる人々の肉体的救いをしていても、それだけで使命が発揮できるはずはない。肉体的救い、もう少し進めて心の救いだけでは、それは水の洗礼にすぎない。霊の世界のレベルで魂の救いをしていかなければ、火の洗礼とは言えないのだ。
そんなことを考えているうちに、背後の離れた場所の使徒たちの輪が、どうも騒々しくなってきたのにイェースズは気がついた。彼らは何か議論をしているらしい。イェースズはゆっくり立ち上がって、体を使徒たちの方へ向けた。そんなイェースズの姿が動いたので、使徒たちはぴたりと議論をやめた。イェースズは使徒たちの方へ歩み寄って、微笑みながら、
「何をそんなにむきになって話していたのかね」
と、聞いた。使徒たちは皆、ばつが悪そうにしている。
「エレアザル」
と、イェースズは指名した。もう彼らの想念を読み取れば、何を議論していたかは十分に知っていたイェースズだが、あえて聞いてみた。エレアザルが顔を上げた。
「実は私たちの中で、誰が天国ではいちばん偉いのかって、話してたんです」
「つまり、この十二人のリーダーは誰なんだろうってことですよ」
と、ペテロが付け加えた。イェースズは大声でひとしきり笑った。
「いいかい。いちばん偉い人っていうのは、すべての人の僕になって仕える人だよ。偉い人になりたいと思ったら、自分を低くして下座の心で仕えることだ」
初めて聞く話ではなかっただけに、それを忘れていた自分を責める気持ちが十二人の誰しもにうかがわれた。
「あなた方は使徒だからっていって、偉いということじゃあないんだよって、前にも言ったよね。むしろ、あなた方は罪穢が深いから、人よりも早くこうして集められた。御神縁も深いけれども罪穢も深いんだよ。それを考えたら、他人様に頭が上がるはずがないって、これもいつか言ったと思うんだけれどね」
「はい、確かにおっしゃいました」
と、ペテロが首をすくめた。その時、湖畔の林の中から、母親に付き添われて幼児が湖畔に歩いて来た。まだ歩き始めたばかりのようで、足取りがおぼつかない。それでも、湖を見てけらけらと笑っていた。
「ごらん」
と、イェースズはその子供を示した。
「ああいう子供のような純な心にならないと、天国でいちばん偉いかどうかの騒ぎじゃなくって、天国にすら入れないんだよ。あなた方の心にも魂にも、余計なものがこびりつきすぎている。それらを全部取り払って、赤ん坊のような純粋な気持ちになることだね。自分を子供のような低い位置において考えられる人が、天国ではいちばん偉い人だ」
彼らはしゃがんでは石を拾っている子供を見て、イェースズの話を聞いていた。子供は石をすぐ口に入れようとするので、そのたびに母親が飛んできてたしなめている。
「普通、子供っていえば無価値な、とるに足らないつまらないものって考えているだろう。自分もそんな無価値な子供ですって下座できれば、最高だね。だけど、その子供の親にとって、子供は無価値どころか宝だ。あなた方も神の子なんだよ。神様からご覧になれば、宝なんだよ。下座しつつも尊い己を自覚して、決して卑下しないようにね。卑下は慢心につながるって、これも前に言っておいたはずだ」
イェースズは、もう一度子供に目をやった。
「それともう一つの意味だけど、子供は何も知らないね。再生転生の記憶も霊界の記憶もすべて白紙にして、分からない状態で生まれてくる。あなた方もそうだったはずだし、私もそうだった。そういう白紙の状態、先入観を一切持たずにス直に下座してすべてを受け入れる心、それが大事なんだ。そういう幼い子供の心のようにならないと、天国には入れないよ」
「おお」
アンドレが感嘆の声をあげた。
「子供なんてただうるさいだけの、無意味な存在だとしか今まで思っていませんでしたよ」
イェースズは一段と、微笑んだ。
「確かに今の社会が、子供をそのようにしか思わない社会だからね。それはみんな、自分もかつては子供だったということを忘れているんだね。ス直な心にいつの間にか社会の垢がついて、それが大人になったということなのだろうけど、そんなのが大人なら大人になんかならない方がいい」
「そういえば」
ナタナエルが口をはさんだ。
「先生は時々、まるで子供のような無邪気な振る舞いをされることがあるなあって思ってたんです。失礼ですけど」
また、イェースズはニッコリと微笑んだ。
「失礼でも何でもないよ。有り難う。いつまでも子供の心を持ち続けたいものだね。肉体的に大人になっても心が子供なのは恥ずかしいことだなんて考える人が多いけど、それは違う。心が子供だって言われたら、それは名誉なことだ。子供っぽいのが恥だなんて、そんなのは思いあがりだね。だって考えてもみてごらん。私たちは、神様の御前では神様の子供なんだ。それを忘れて自分は大人だなんて思うのは、神様に対する思い上がりだ。肉体的には親と同じ背丈になって、親がしている仕事を自分もできるようになって大人だって言われるけど、我われ人類は、まだ神様のなせる業をすることはできないんだ。神様のように、無から有を創造することなんて、人間にはできないだろう。神様と同等の高さにまで昇華したら魂は大人になったといえるけどね、そこまでいっている人なんて今の時代にはいないんじゃないかな。だから全人類は、魂はまだ子供なんだ。そんなことも分からずに思い上がっている人々から『おまえはいつまでたっても子供だ』なんて言われたら、むしろ喜びなさい」
先ほどの子供はもう、母親に連れられて行ってしまったようだ。
「今こそ悔い改めて、子供の心に戻るんだ。受け入れるのは社会の垢ではなくって、神様を受け入れるんだ。神様の御経綸の前に童心たらざれば、天の国には入れない。そして、自分が幼子の心になるだけじゃなくって、みんながつまらないもの、取るに足らないものと思っている子供をも温かく受け入れるんだ。今はたまたま大人と子供だけど、前世では逆だったかもしれない。子供といえども、魂はわれわれと同等なんだよ。子供だって、前世では大人だったんだからね。子供や社会的な弱者、罪人といわれて差別されている人々をも受け入れる心がなかったら、私の教えを受け入れていないということになる。私の教えは、実践する教えだよ。聞いて覚えたって、そんなのはクソにもならない。弱者を受け入れる心が、やがては神様をも受け入れることになる」
使徒たちは皆、なるほどという顔でうなずいていた。
「ところが、その逆に、ス直に何でも受け入れようとしている子供を間違った教えでつまずかせたりしたら、神様から裁かれても文句は言えない。碾き臼に首をかけられて、海に投げ込まれた方がましだ。本人たちはそれが正しいと思って一所懸命なんだけどね、結果として裁かれてしまう。それがいちばん恐いことだと思うよ」
「確かに」
小ヤコブが、顔を上げた。
「恐いことだけど、それを恐いことだって教えてもらってる私たちって、幸せですよね」
ピリポもまたそれに、相槌を打った。
「そうだとも。今こうして先生の教えを頂けるなんて、千載一遇の幸せだ」
そんな言葉に、イェースズはまた微笑を返した。
「ただ、本当に私の教えを聞いて幸せなのかどうかは、あなた方にかかっているのだよ。何度も言うけど、私の教えを血と肉にして実践しなければ、教えを聞いても何の意味もない。まずは自分がすっかり変わってしまわないと、教えが血と肉にはなりはしないし、幸福にはなれないんだよ。あなた方しだいだ。救われの道というのは、自分の足で入っていくしかないんだってことも、前に言ったと思う。教えを血と肉にして生活すれば、何事も思う通りにすらすらと面白いくらいに栄えていく。もしそうでなかったとしたら、反省することだ。幸せでないとしたら、どこか神様のミチから外れているという証拠だね。人は本来、放っておいても幸せになるように創られていると前にも言った通りだけど、そのミチから外れた軌道を修正することが、私やヨハネ師も言っていた悔い改めなんだよ」
使徒たちの何人かは、ばつが悪そうに頭を書いた。その中の一人のマタイが、言った
「分かってはいても、なかなか誘惑が多いんですね。まるで前に先生が言われた茨の中にまかれた種だ」
それが受けて、イェースズも含めて使徒たちは皆笑った。
「まあ、あなたが元収税人だからというわけではないけど、あなたに限らず誰でも物欲を断ち切るのは簡単なことではない。でも自分にとってつまずきとなるようなものなら、どんな高価なものでもそれへの執着をばっさり絶ってしまわないとすぐに負けてしまうし、そうなると邪霊の思う壺だ」
先ほどまで皆にこやかに笑っていたが、イェースズは顔こそ笑顔であるけれど言っている内容が厳しいので、また水を打ったようになった。
「覚えているか? 前に山の上で三日間私の話につきあってもらった時、目がつまずきとなるならえぐりだして捨てろ、腕がつまずきとなるなら切り落とせって言っただろう。全身がゲヘナに投げ込まれるよりかはいいだろうってね。ただ、これはもののたとえだから、本当に目をえぐりだしたり腕を切り落としたりはするなよってあの時も言っておいたけど、そのくらいの覚悟で執着を断たないと、本当に全身がゲヘナに投げ込まれるよ。これは脅しでも何でもない。本当にそうなるからそうなると言っているだけなんだ。執着ほど恐ろしい地獄の道はない。邪霊とも波調が合って操られやすくなる。そうなると天国も幸せも、何の話ですかってことになってしまうんだよ。天国で永遠の祝福を受けるか、地獄のゲヘナの火に焼かれるかは、執着を断ちきれるかどうかなんだ」
使徒たちは口々に、分かりましたと言った。
「それと、山の上の話で思い出したけど、確かあの時にはあなた方に世の光、地の塩になれと言ったと思う。あなた方が放射する聖霊の光、つまり霊的な火によって塩で汚れたランプを磨くように、人々は自分の霊魂の穢れを削ぎ取っていく。そうして弱者や罪人を救っていくのがあなた方の使命だ。救うといっても病気を治したり経済的に援助したりなどの物的な救いは、しなくてもいいとは言わないがあくまで従で、主体はあくまで魂の救いなんだよ。そうでないと、物的な救いのための洗礼はあくまで水の洗礼で、霊的な魂の救いにまでいってはじめて火の洗礼といえるんだからね。そういう意味で私はあなた方に、全人類の魂の穢れを磨く地の塩になりなさいと言ったんだ。ただ、その塩は他人の魂を磨くだけでなくて、自分の魂をも磨かないといけない。これがみ魂磨きだ。み魂磨きとは、自分の体に神様が宿っていることを自覚して、行いによって魂の曇りをとっていくことだ」
「先生」
ナタナエルが手を上げた。
「行いって、具体的にどんなことですか?」
「いい質問だ。とにかく等しく神の子である他人様のことを考え、他人様のためになることをするのが行いだ。だが具体的にと言っても、それは人それぞれ違うから一概には言えない。基本は、自分の利益ではなく他人様中心ということだね、。そしてすべて神の子だから、神の子を中心にする想念は、その親の神様中心ということになる。他人様のためと言っても、自分は神様の御用をしているからと言って、そのことのために他人様に迷惑をかけるようなことがあったら本末転倒だね。要は、自分には厳しく、他人には寛容であることだ」
イェースズがそこまで言った時、林の中から妹のミリアムが出てきた。
「お兄さん、皆さん。お食事ですよ」
「待ってました」
と言ってからイェースズが立ち上がったので、皆どっと笑った。
「その前に一つだけお伺いしたいんですが」
と、エレアザルが手を上げた。
「この前、兄といっしょに少し湖畔沿いに遠出してみたんですが、ここから東の方の村で、ちょうど先生と同じようにして悪霊を追い出していた人がいたんです。でも、我われの仲間ではない人でしたからすぐにやめさせましたけど」
「やめさせることはないじゃないか」
イェースズは笑ってそう言ったが、その意外な言葉には皆は首をかしげた。
「我われの仲間じゃないからというのは、ちょっと了見が狭いね。あなた方が授かった力はあなた方の力ではなくて、神様より特別のお恵みで頂いたものだ。人は神の子なんだから、この業は誰にでもできる。ただ、方法は間違っているかもしれない。そういう時は愛と真で、誤りを教えてあげればいいことだ」
エレアザルは一応は納得したようだが、それでもまだ小首をかしげていた。イェースズはその様子を見て笑った。
「私はこの世のどんな宗教も教団も、否定したり攻撃したりはしない。すべて神様のご用があって下ろされた霊団だからね。神様は、無駄なものは何一つお創りになっていない。でも、いくら神様がこの世に下ろしたのだとしても、この世に降りた途端に皆、独り歩きを始めてしまうんだね。だから非難や攻撃はしないけど、誤りは誤りとして正してあげなければならない。それも私は自分の使命だと思っている。私に反対しないものは、みんな私の仲間だよ」
話しているうちに日は西に沈み、あたりは薄暗くなってきた。イェースズは使徒たちとともに、家に帰った。
数日後のある日、何やら外が騒がしいとイェースズが思っていたら、そこへちょうどピリポが外から帰ってきた。
「外が騒がしいようだけど、何かあったのかね?」
と、イェースズはピリポに尋ねてみた。
「何でもパン泥棒が捕まって、裁判に連れて行かれるようです」
それを聞いて、イェースズは立ち上がった。
「その裁判に行ってみようか。あなた方も来るかい?」
使徒たちは全員、行くと言った。
外に出ると、ほんの少しだけ初夏の香りがあった。ガリラヤ全土を緑が多い、花が咲き乱れる季節ももうすぐだ。
裁判は、町の広場で行われていた。それを取り囲んでいるのは黒山の人だかりで、その中にイェースズたちの姿もあった。捕らえられた男はやせ細っていて、立ち上がる気力もないほどに体力的に弱っているようだった。着ているものも、悲惨なほどぼろだ。その男は役人に引きずられる形で、裁判官の前に引き出された。
「裁判官!」
叫びのような金切り声をあげたのは、でっぷりと太った中年女だった。着ているものからも、裕福な階層の女のようだ。
「この虫けらは、昨日も私の所にパンをもらいに来たので追い払ったのよ。そうしたら今日は、とうとうパンを盗んでいこうとしてね、早くもう牢にぶち込んでちょうだい」
広場を埋め尽くす群衆は、静かにことの成り行きを見ていた。裁判官は、立ち上がった。
「こいつを、牢にひったてい!」
「ちょっと待った!」
群衆の真ん中に躍り出たのは、イェースズの使徒のピリポだった。
「被告人の言い分も聞かずに判決を下す裁判なんて、ありますかね!」
「なんだあ、おまえは!」
裁判官が慌てていると、その耳に役人が何か耳打ちした。
「ああ、おまえはあのいわくつきの新興宗教の幹部だな。また説教でもしようというのか」
威勢ばかりはいいは、裁判官の額には冷や汗がにじんでいた。ピリポはじっと、そんな裁判官をにらみつけていた。
「わ、分かった。その男の言い分を聞こう」
男を連行していた役人は、男を小突いた。男はしばらく黙ってうなだれていたが、やがて恐る恐る顔を上げ、ぼそぼそと話しだした。
「私にはパンがないんです。妻も子供も飢えています。私はいい。妻や子供に食べさせるパンがほしくて恵んでほしいとお願いしたのです。でも、誰も見向きもしてくれません。みんな無関心でした。今朝も仕事を探しに行こうとすると、子供たちがお腹をすかせきって泣いているのです。そこで私は殺されてもいいから、この子たちの飢えを満たしてあげようとパンを盗んだのです。でも私はこの女に捕まり、女はそのパンを取り上げて犬にやってしまいました。私は罪を犯したのですから罰せられて当然ですけど、どうか、どうか子供たちに食べ物を与えてやってください」
その後は、男はただ泣きじゃくるだけだった。裁判官は、無表情で男を見下ろしていた。
「裁判官」
そう言って前に進み出たのは、一人の律法学者だった。
「モーセの十戒にも、盗んではならないとあります。いかなる理由があろうとも、盗みは神の律法に背く行為です」
「あなた方はもっと、多くの罪を犯しているのではありませんか?」
そう言って前に出たのは、イェースズ本人だった。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛しなさいと、聖書には書かれています。神様をそのように愛するなら、なぜ神様がお創りになったすべての人を愛せないんですか?」
「何だ、おまえは。さっきのでしゃばり男の仲間か」
裁判官はそう言ってから、また役人の耳打ちを聞いた。
「ほう。教祖様じきじきのお出ましとなったわけだな」
「私どもは、そのような宗教ではありませんよ。私は教祖などではありません」
イェースズはニコリと笑い、言葉を続けた。
「今回の事件で、ここにいる多くの人の中に真犯人がいます」
人々はどよめいた。
「何を言ってるの? わたしゃあこの男がパンを盗むのを、直接この目で見てるのよ。それにこの男は自分が犯人だってたった今、自分の口で認めたじゃないのさ」
そう叫ぶ中年女を、イェースズは指さした。
「まず、真犯人の一人は、あなた!」
「な、何ですって? 私は被害者なのよ」
それを無視して、イェースズは今度は裁判官を指さす。
「それからあなた」
裁判官は、ビクッと一瞬身を後ろに引いた。
「そしてあなた、それかからあなたとあなた、そしてあなたもだ」
イェースズは次々に、群衆の中の人々を指さしていった。
「この方が飢えて苦しそうにしているのに、パンを恵んであげなかった人たちです。ほかにももっといます。誰もがこの方に無関心でした。憎んでいたのならまだしも、無関心だった。こんな愛と正反対のことがあるでしょうか? あなた方一人一人がすべて神の子であるように、この方とて神の子です。神を愛せよという律法がありますが、神の子を愛さないで神を愛しているとはとても言えないと私は思います。そうすると、この方を愛さなかった皆さんは、皆律法に反しています。いいですか。無関心とは決して法律で罰せられることもなく、誰からもとがめられることはないけれど、実は殺人よりも恐ろしい罪なんですよ」
中年女は赤面してうなだれ、裁判官は足を震わせていた。イェースズは男に手を貸して、立ち上がらせた。
「今、私の使徒に送らせますから、私の家に来なさい。あなたと奥さんや子供さんへのパンを上げよう。そしてパンだけでなく、もっと大切な命のパンをあげよう。今、あなたは生活が苦しいようですけど、今の苦しみはあなたの罪を許すための神様の大愛のあがないなんですから、苦しい分だけ罪が許されたと喜んで神様に感謝なさい。そして神様の御用に撤していけば、つまりあなたがこの世でする御用と神様の御用が一致すれば、知らず知らずのうちに食べものにも困らない生活になってきますよ。あなたは、神様に愛されているんですよ」
男は何度もうなずき、涙を浮かべて礼を言っていた。そしてイスカリオテのユダを呼んで、男を家に連れて行くよう頼んだが、その前にイェースズは、
「でも、人間の社会の掟では、裁判官の判決には従わないといけない。人間の社会に住む以上は人間の社会の掟に従うべきだから、一応裁判官に聞いてみよう」
と言って、裁判官を見た。
「裁判官、この方の判決に変更はないのですか?」
裁判官がしぶしぶと、
「おまえの好きにせい。どこへともつれて行け」
と言ってから裁判官が訴えた中年女を見ると、女も苦虫を噛み潰したような顔でうなずいたので、イェースズはイスカリオテのユダに男を連れて行かせた。そしてイェースズも背中を向けようとしたが、
「ちょっとお待ちなさい」
と、イェースズを大声で呼び止めるものがいたので振り向いた。さっきの律法学者だった。
「あなた方は何ですか。人の不幸につけこんでて、そうやって自分たちの仲間を増やそうとするのですか。それがあなた方のやり方ですか」
イェースズは再び、律法学者と群衆の方を向いて立った。
「ではお聞きしますが、あなた方は皆、たとえ不幸につけこんでだとしてでもいいですから、あの方に何かしようとしましたか? さっきも言ったように、愛の正反対の無関心だけだったのではないですか? いいですか、学者さんだけでなくこちらにいる皆さんにもお伺いしますが、皆さんがあの方と同じ立場だったらどうされますか?」
誰もが口を閉ざし、静けさが広場を包んだ。
「さあ、あなたはどうされます?」
イェースズは律法学者に尋ねたが、学者は口をへの字に結んだままだった。そこで今度は裁判官に矛先を向けたが、裁判官も黙ったままだった。イェースズは再び群衆を見渡した。
「いいですか、皆さん。人が人を裁くことはできないんですよ。自分が盗人である人ほど、他の盗人を裁きたがるものです。でも、みんな罪びとなんですよ。みんな罪を背負って生きているんです。私は罪なんか犯していないなんて言う人でも、前世では分かりませんよ。前世の記憶はありませんけど、この世で何らかの不幸が起きるということは、何もないところに結果は生じませんから、必ず原因があるはずなんですね。その原因が自分が生まれてからこのかた見つからないのなら、それは前世にあるとしか考えられないではないですか。だから、自分の罪をしっかりと自覚したのなら、他人様に頭が上がるはずがないんです。ましてや、人を裁くなんてことはできないはずです」
イェースズはそれだけを言うと、使徒たちをつれて広場を後にした。
歩きながら、ペテロがイェースズに話しかけた。
「さっきの神様の御用と人の御用が一致すれば、食うには困らなくなるということで、前に山の上でのお話の時、先生は空の鳥と野の白百合の話をされたのを思い出しましたよ。空の鳥も全く食うに困っていないし、白百合もあんなにも着飾っているから、神の子である人が神様の御用さえしていれば、何を食べよう、何を着ようと思いわずらわなくても、食うに困ったり着るものに困ったりはしないということですよね」
イェースズは笑った。
「ペテロ、ようやくあなたも、打てば響くというようになってきたね」
「あのう」
そこへ、ピリポが口をはさんだ。
「さっきは私が出すぎたまねをしたばかりに、先生にお手数をかけて申し訳ありませんでした」
それにもイェースズは、笑顔を向けた。
「いいんだよ。あまり政治的なことに首を突っ込むのはよくないけど、先ほどはあなたが前にでなければ、あなたも無関心という罪を犯してしまうところだった。あなたが前に出なくても、ほかの使徒の誰かが同じように前に出ただろうからね。あなたのお蔭で、先ほどの方は救われたんだ。あなたの功績は大きいよ」
「しかし先生、一つお伺いしたいんですけど」
と、トマスがイェースズのそばに来た。
「もし、犯罪を行っている人を現行犯で見てしまった場合は、どうしたらいいんですか? 自分の罪を考えたらその人を裁けないから、見て見ぬふりをしなければならないんですか?」
「さっきも言ったけど、人間社会の掟も守らないといけない。人間社会の掟も守れない人が、神の置き手(掟)を守れるはずがないからね。法に反している人を見た時は、法にのっとった行動をしなくてはだめだ。法にのっとった行動なら、これは裁きにはならない」
「では、法律に背くというほどではなくて、道徳的に悪いことをしている人を見た時は?」
「まず、気をつけなくてはいけないのは、前にも言った通り陰でその人の悪口をいわないこと。その人に愛と真で、直接忠告してあげることだ。これもまた、裁きにはならない。それも人前じゃなくって、誰も見ていない所でそっとというような気配りも大切だ。それでも聞かなきゃ放っておけばいい。人それぞれ時期があるから、そのうちサトるだろうってね。それを、『私は裁かないけど、そのうち神様に裁かれるよ。かわいそう』なんて、それも裁きだよ。神様が裁くか裁かないかなんて、人知で判断できるものじゃあいない。ましてや神様でさえかわいい神の子を、そう簡単には裁いたりはなさらない。それを勝手に神様が裁くなんて決めつけて、ましてやそれを期待しているかのような想念は、神様へ責任転嫁しているようなもので、それ自体裁き心だね。だから我われにできることは、どこまでもその人を許すことだ」
「許すっていったって、限度があるでしょう?」
と、ペテロが口をはさんだ。
「もしその人が悔い改めたって言った後で、また同じことしたとしたら?」
「許すんだよ」
「分かりました。でもやはり、限度があると思います。あまりにも許していたら、その人のためにならないんじゃないんですか?」
「そんなことは、神様がちゃんとお考えになるから、心配しなくてもいい」
と、イェースズは笑った。
「じゃあ、私たちは許していけばいいんですね? 何回くらいが限度ですか? よく言われているように、七回までは許さないといけないんですか?」
「いや、七の七十倍までもだ」
それは単に四百九十回という意味ではなく、何度でもということの比喩にすぎないことは、質問したペテロもすでに分かっていた。
家に着いた。
先ほどの男はイスカリオテのユダから眉間に霊流を放射してもらったあと、パンを与えたが自分は全く食べようともせず、抱きかかえるほどのパンを妻と子供たちのためといって持って帰ったそうだ。今度、妻と子を連れてあらためてイェースズの話を聞きに来るとのことで、何度も礼を言って帰っていったとのことだった。
イェースズはそのままユダを含めた使徒をひと部屋に集めた。
「さっきペテロが言っていた許す話だけどね、こんな話がある」
使徒たちを座らせてから、イェースズ者その輪に加わって座り、話しはじめた。
「昔、ある王様の家来が王様にかなりの額の借金をしてね、それをいつまでも返さないからというとう王様の前に引き立てられた。その借金の額とは、一万タラントくらいだったかな。その家来はそんな大金を返せるすべもないと王様に惨状を訴えたら、王様は全財産を売り払ってでも借金を返せと言ったんだ。家来は『どうか、もう少し待ってください』って一所懸命頼むから、その借金を全部帳消しにしてやったんだ。ところがその家来は自分の仲間で、ほんの少しの百デナリ程の金を貸していた人の所に行って、その首根っこをつかんで早く返せと責めたんだよ」
使徒たちはみな、額にしわを寄せた。イェースズは続けた。
「そこで首根っこを押さえられた仲間は、『どうかもう少し待ってください』って頼んだんだけど、とうとうその最初の家来が借金を返さない仲間の男を牢に入れてしまった。それを見ていた人がそのことをこっそりと王様に告げたので、王様は怒ってその家来を呼び寄せ、『私はあれほどの憐れみをもっておまえを許してやったのに、おまえはなんで仲間を許せないんだ』と、その家来の借金帳消しをなしにして借金を復活させ、さらには牢に入れてしまった」
「先生」
と、トマスが手を上げた。
「それって、実話ですか?」
イェースズは苦笑した。
「それが実話かどうかなんて、そんなことは今はどうでもよろしい。これと同じことが、結構われわれの周りでも起きてるんだよってことが言いたかったんだ。私たちは皆罪びとなのに、神様に許されて今もこうして生かされている。こんな罪深い私たちを神様は許してくださったのに、その私たちが人を許さずに裁いていたら、その家来と同じように牢屋行きだ。許せばあなたも許される、裁けば裁かれる。こういうふうに厳とした原因があってそれ相応の結果が必ず生じるのが、霊界の掟だ」
使徒たちの顔は引きつり始めた。その緊張をほぐすかのように、イェースズはこの上ない笑顔を見せた。
「では、私たちが罪を犯した時は?」
と、ナタナエルが質問し、マタイが、
「やはり神殿の涜罪所へ行って罪を告白しなければなりませんか?」
と、言うので、イェースズはまた笑った。
「そんな人知で考えた形式で、罪が許されるはずがない。涜罪所に立ったからとて、神様の御前に立った訳ではない。神様に直接祈って、よくお詫びをすることだ。それも許されたいという執着じゃなくて。心から申し訳なかったと頭を下げ、お詫びの証として何をさせて頂けるか一人一人考えることだね。それは一概にこうだとは言えないんだ。一人一人、魂の状態や魂の背景は違うからね」
イェースズはまた、十二人を見渡した。
「まずは何よりも神様の御用をすることだけど、罪を許してもらうためというのは本当は下だ。そんなこと抜きにして、ひたすら御用をさせて頂いた時に罪は許されていく。いいかい。召使が一所懸命主人のために畑で働いてきて帰ってきたとしても、主人は『さあ、食事にして下さい』なんて言うかなあ? たいていは『さあ、私の食事の支度をしろ』と言うだろう? 主人の食事の給仕をして、それが終わってからでないと召使は自分の食事はできないよね。主人の食事の世話までしたとしても、召使はそのことに対するお礼の言葉を主人に要求するかい。だから神様の御用もそれと同じで、させて頂いたことにまず感謝し、『なすべきことをさせて頂いただけです』と謙虚でいなければいけない。それを、これだけやったんだから罪を許してくださいなんてそんなの神様との取引みたいで、本当の信仰じゃあない。ただひたすら無心に神様にお仕えし、すべての神の子にお仕えする。そうしているうちに、罪というのは許されて、本来だったら不幸現象でアガナわなければならなかった罪穢による魂の曇りをも消して頂いてそれがみ魂磨きともなり、大難を小難に、小難を無難にして頂けるんだ。そして罪が許されるというだけでなく、神様の御用はやがては神様への功しともなって、恵みと救いが与えられる。これが報い求めざる報いということだ。求めずとも、与えられる人になっていく」
イェースズは、使徒たちの顔を見て微笑んだ。そしてなぜか、イェースズの目に涙が浮かんだ。
イェースズは再び、使徒たちを連れて旅に出た。使徒たちの何人かはてっきりエルサレムに上るものと思っていたようだが、イェースズはまだ時ではないと言い、行き先は相変わらずガリラヤの中をめぐるのだと使徒たちには告げた。
「先生はいつになったらエルサレムにお上りになるのですか? そのおつもりはおありなのですか?」
小ヤコブが食ってかかったが、その質問は使徒たち全員の気持ちだった。だがイェースズは笑っているだけで、黙って歩いていた。
一行はまず、ガリラヤ湖の最南端に達した。ここからヨルダン川が南に向かって流れており、この付近が懐かしいヨハネ教団の本拠地のあったところだ。だがイェースズは、対岸のデカポリスに行くと言った。デカポリスの領域内に入るのは、墓場でローマ兵の霊に憑かれた男を癒して以来二度目であった。
最初の村に入った時、一人の少年がイェースズを見つけた。そして驚いた顔をして、町中に触れ回り始めた。
「ガリラヤのイェースズ師だ!」
たちまちにどこからわいたかと思われるような人々が、それぞれの家から飛び出してきた。イェースズの顔を見ただけでそれと分かるということは、うわさだけではなくイェースズの似顔絵までもが流布しているようだ。
「有り難い」
「おらたちの村にも来てくれるなんて」
人々は押し合いへし合いし、寄ってたかってイェースズの衣に触れようとする。ガリラヤ、特に故郷のカペナウムではまるでイェースズの存在は忘れ去られたかのように、人々の熱狂も沈静化していたが、かえって異郷の方で根強いイェースズ崇拝があるようだ。
「お願いします」
口々にそう言って、早速人々はそれぞれの体の不具合を訴えだした。また、経済的困窮や不和などを訴えるものもいる。イェースズは使徒たちと手分けして彼らに神の光を与え、病を癒すとともに魂を浄めていった。群衆といっても小さな村なので、せいぜい七十人ほどだった。そしてその中にパリサイ派の律法学者がいることに、イェースズは気がついた。どこの町にいっても必ずついてまわってくるのがこの律法学者で、彼らの間でネットワークのようなものができていて、イェースズへの警戒が叫ばれているのかもしれないとさえ思ってしまうほどだ。イェースズを素人から身を起こした新興宗教の教祖とみなし、自分たちは既成宗教の伝統の権化のようなつもりでイェースズを論破しようと息巻いている。
だが、この村の学者は背が低いだけでなく、腰が低かった。恭しくイェースズの前に出ると、
「イェースズ師よ、実はあなたに教えてもらいたいことがあるんだが」
と言った。態度こそ慇懃だが、その目には明らかに敵意が表れていた。
「何でしょう?」
敵意に対して敵意をもってせず、イェースズは愛和の笑みを向けた。
「あのう、離婚についてですが、あなたはそれを許されますか?」
「モーセの律法には、何と書いてありますか?」
「あなたもご存知でしょう。妻のことが原因で離婚するなら、その理由を書いた離縁状を渡しなさいとなってますね。その時に書くのがどういう理由なら離婚は許されると、あなたはお考えですか?」
それは学者の間でも時々議論のネタになるものであることを、イェースズは知っている。この学者は自分たちの仲間内での議論を、イェースズにまで吹きかけてくるつもりらしい。自分たちの高尚な議論をこの素人に持ちかけて辟易させ、天狗の鼻をへし折ってやろうという魂胆であることは見えみえだった。
しかしイェースズは、落ち着いていた。
「モーセの時代ではですね、離婚が許されないからと言って腹いせに妻を虐待するものがいると困るので、離婚が許されたのですよ。その時も、夫の一方的なわがままで女が離婚されないように、理由を記した離縁状を書けとこうなったのですね。でもそれはモーセの時代だからこそ許されたことで、神様の御経綸は日々進展しているんですよ。いつまでも同じと思ったら間違えます。その時代では真理でも、現代では御経綸にそぐわなくなっているということも多々ありましてね。モーセは偉大な預言者でしたけれど、どの預言者もその時代の教えを説いている訳で、それが何千年かたってカビが生えて、人知も加わっているのにいつまでもそれにしがみついているのはおかしいですよ。刻々と進展する神様の御経綸に乗り遅れますよ」
学者の顔は、ちょっぴり曇った。
「神様の真理は、万古不易、永遠に普遍のものじゃあないんですか?」
「その通りです。神様は天地初発の時からのミチの本源で、その教えは古くして永遠に新たなるミチですからね、神理は不変です。では『創世記』には結婚について、どう書いてありますか?」
学者は一瞬黙った。先にイェースズの方が言った。
「人はその父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体になる」
聖書の箇所がすぐ出てこなかった職業上のばつの悪さに、学者は苦虫を噛み潰したような顔で黙ってしまった。
「結婚というのは、前世からの契りなんですよ。因縁の世界ですね。双方の家の浄まり具合が相応となれば、神様が結ばれるんです。私はこの世の制度の結婚のことを言っているのではなくて、魂のレベルのことを言っているのですよ。人は結婚すれば、目に見えない霊波線という線でつながるんです。親子や兄弟、友人ともつながっていますが、夫婦の霊波線は最初は細くても、次第には親子以上になってしまいます。そして友人などとの霊波線は人間が勝手に切ることはできますけど、親子や夫婦の霊波線は人間が勝手に切ることは許されていません。それは、神様が結ばれたものだからです」
それからイェースズは、その場に居合わせた村人たちにも呼びかけるように言った。
「皆さんもお聞きください。夫婦とは二つで一つ、霊的には完全に一体なんです。火と水が一体となって万物が生成されるように、タテとよこを十字に組んで愛和の天国を作る責任が夫婦にはあるんです。家庭は社会の最小単位ですから、天国の礎も家庭の夫婦にあるってことになりますね」
「あのう」
イェースズのそばにいた若者が、声をかけた。
「そんなに重い責任が生じるのなら、最初から結婚しない方が楽なんじゃないですか?」
イェースズは笑った。
「確かにね。でも、ほとんどの人は一人では生きていけないんじゃないですか。火だけ、水だけではものは生まれないんですよ。火は水によって燃え、水は火によって流動するんです。一人でも生きていける人は特別な恵みをもらった人で、いろいろ事情があって結婚しない、あるいはできないという人、もしくは一生を神様に捧げて結婚しないって人もいるでしょうけど、普通は結婚すべきでしょう」
その時、イェースズのすぐ足元で二人の子供がちょろちょろと追いかけっこをしてはしゃいでいた。この村の子供のようだ。すると村人の年寄りが、その子供をイェースズから遠ざけた。
「こら、子供の来る所じゃない、あっちで遊んでいなさい」
イェースズはその年寄りの肩に、そっと手を置いた。
「子供たちを追い払ってはだめですよ。そのままにしておいてください」
そしてイェースズはその子供のうちの一人を抱きかかえた。
「皆さん、私は使徒たちにも言ったんですけど、天国というのはこのような子供たちのものなんですよ。つまり、みんな悔い改めて、この子供のようにス直に神様を受け入れなければ天国には入れませんよ」
イェースズはその子供を地面に下ろし、頭に手を置いて霊流を送った。そして、再び村人たちを見た。
「さっきの話の結論としましてはですね、結局離婚したりその後で別の人と再婚したりしたら、それはそのまま十戒で禁じている姦淫の罪になるんですよ」
だが、律法学者の姿は、もうそこにはなかった。
翌日からイェースズたちは、ガリラヤ湖の東岸を北上した。早朝明けやらぬうちの出発だった。さもないと、村人たちはすんなりとイェースズたちを旅立たせてはくれそうもなかったからだ。緑多い西岸と違い、こちらは岩がちな切り立った崖が湖まで落ちている。その崖の下と湖までの間にわずかに耕地があり、村落は崖の上だった。そんな崖の上を歩いて次の村まで来た時には、すでにうわさは広まっていて、村に入るや否や人々は早速イェースズ一行を取り囲んだ。
真っ先にすがってきたのは、一人の若い男だった。男は家の前まで来るとひざまずいて言った。
「私の話を聞いてください」
「何でしょう」
いつものようにニコニコしながら、イェースズは男を慈愛の目で見た。
「父が死にました。でも兄がその遺産を全部取ってしまったんです。どうか兄を説き伏せて、ちゃんと遺産を分配するように言ってくださいませんか?」
イェースズは苦笑した。
「あのう、私はこのような事件の調停員じゃあないんですよ。村のお役人にでも言ったらどうですか?」
「どうか、兄に神様の道を説いて回心させてほしいんです」
「あのですねえ。私は道を求めてきた人には神のミチを説きますけれど、こちらから無理に聞くことを強制したりはしないんですよ。一人一人の自覚によって自分の利己愛のベールを溶かしていかなければならない訳で、私の教えを聞いたとしても結局は自分にかかっているんですね」
「では師、あなたは私を救うことはできないと言われるんですか?」
「あなたは今、生活に困っているんですか?」
「いえ、そんなことは」
「一応食べていける経済力はあるんでしょう?」
男は静かにうなずいた。
「じゃあ、それで十分じゃないですか。どうしてそれ以上のものに、執着を持つんですか?」
イェースズは男を立ち上がらせ、すでにイェースズの周りに人垣を作りつつある人々をにこやかに見回して、その村人たちに言った。
「皆さん。真に言っておきますけど、ご自分の生活が満たされているのなら、それ以上のものをむさぼる心には注意してくださいね。すでに与えられている物への感謝、それが大事ですよ。神様は人類がかわいくてしょうがないから、どんどんどんどん何から何まで与えてくださっている、それに手を伸ばさないで、ほかのものをむさぼるとはどういうことでしょう。どんなに貧乏でも、犬や猫とは桁が違いますよ。神様からは一切を与えられているのに、何をまだ不足を言うのですか。感謝もしないで不平不満でむさぼれば。決して満たされはしません。今、大きなお城に住んで、毎日おいしいものをお腹いっぱい食べて、黄金の部屋の柔らかなベッドで美女に囲まれて休む、そんな生活を思い浮かべて、そんな人はなんて幸せなんだろうって思うでしょ? 思いますよね?」
村人たちは、遠慮してか誰も答えなかった。
「皆さん、謙虚ですね。でも本当は思うはずですよ。でも、もしかりにそんな生活を明日手に入れたとしましょう。まあ、最初のうちは有頂天になってそんな贅沢に酔いしれているかもしれませんけどね、そのうち飽きてきて、もっとすごいものがほしくなるんですね。黄金の部屋は飽きた。壁にダイヤをちりばめたい。美女に取り囲まれているといってもどうも年増だ、もっと若いのがいいとかね、どんどんどんどん欲望はエスカレートします。そうして、それがかなわないとですね、言っちゃ悪いですが皆さんにとっては夢のまた夢の御殿の黄金の部屋の柔らかなベッドの上で『私は不幸だあ〜〜』なんて言って泣くんですね」
これは人々に大ウケで、皆は一斉に笑った。
「欲望というのは、満たされないものなんです。満たされても必ず新しい欲望が出て、それで文句を言っている。悲しいかな、人間なんてそんなものですよ。どんな財産だって、命ほどの重さはないんです」
最初、人々は笑った余韻でざわついていたが、やがて静まりかえった。
「皆さんは、よく言うでしょ。私の家とか、私の体とか、でも、実はみんな神様からお貸し頂いているんですよ。何一つ自分のものなんてないんです。すべては神様からの拝借物なんです。私の家は大工でしてね、今は弟が継いでますけど、大工が家を建てたってそれは材料を加工して組み立てただけですね。何もないところから物を生じせしめられるのは神様だけです。人間はどんなにあがいたって、何もないところからは眉毛一本、ケシの種一つ作りだせないんです。体だってそうです。私の手、私の鼻なんてよく言いますけど、体でさえ神様から一時お借りしているんです。だってそうでしょう? 皆さんの体をお創りになったのは神様でしょう? 自分で作ったって人、いますか?」
人々は、忍び笑いをもらした。
「いませんね。当然です。いえ、両親が作ったって方もいらっしゃるかもしれませんけど、親は産んだだけで、子供を創造してはいません。だってそうでしょう? 皆さんの中で子供を生んだ方、お子さんをこんな顔にしよう、ここに目をつけて、こんな形の鼻になんて考えて作りましたか?」
人々はまたどっと笑った。
「誰もいないでしょう? よかったですね。もしそうならば、不細工な顔だったら親が怨まれることになって、親としてはたまったものじゃあないですよね」
また、笑いの渦だった。
「ですから、皆さんの体も神様からお借りしているんですね。この世での生活が終わったら、体はあの世に持っていかれないでしょ。その時はお返しする、つまり土に還るんですね。もともとは神様が、土から造られたのが人間ですからね。あの世へは霊魂だけが行かれますけど、じゃあその霊魂も自分で作りましたか? 神様は土で創った人間の体に、神様の霊をひきちぎって命の息として入れてくださったんですよね。そうなると、魂も神様のもの、つまり自分のものなんて何一つないんですね。自分なんて、ないんですよ。こう考えたら、ものごとへの執着など起こるはずがないでしょう。執着なんて、ありもしないものをあると思っているから生じるんです」
人々の何人かは、まだ腑に落ちないというような顔をしていた。そこでイェースズは語調を緩めた。
「いいですか。あるお金持ちがいましてね、その年も豊作で有り余るほどの財産が手に入って、もとの倉にはもう入りきれないくらいになったのでもう一つ新しい倉を造ったんです。そして自分の莫大な財産を見つめては、『もうこれで何年かは遊んで暮らせる』なんて考えていたんですね。それをご覧になって神様は何て言われたかというと、『愚かだなあ。おまえの霊魂は今夜肉体を離れて幽界に行き、肉体はお墓に入ることになっているのに、この莫大な財産はどこに行くのだろう』て言われたんですよ。ですから、自分のために財産を蓄えても何にもならないんです。もっと神様第一、神様中心に考えて、一切の執着を断つことですね」
イェースズはその村ではそれだけ語ると、あとはいつものように癒しの業を施した。人々の訴えに心から同情して、手をかざすのである。奇跡はたちどころに起きた。
その村には一泊だけして、イェースズたちはさらに北上した。カペナウムを出てから、もう五日くらいたっていた。
次の村は、湖からすぐの所にあった。ここで船を借りて、イェースズたちは今日中にカペナウムに帰る予定でいた。その岸辺の村に着いた時、一人の若者がイェースズの前に小走りで現れた。
「イェースズ師ですね。お願いです。教えてください」
イェースズは立ち止まった。眼前には湖水が、青々とした水をたたえている。その向こうに霞んでいる丘は故郷のガリラヤだ。
「何でしょう?」
イェースズは相変わらず微笑んで青年を見た。
「どんなよいことをしたら、死んだ後に天国に行けるんですか?」
「あなたは、どんなことをよいことだと考えていますか?」
青年は少し目を伏せた。
「例えば、毎日神様に祈ることですかね」
「それをよいことと考えたのは、なぜですか?」
「しないよりもいた方がいいに決まっているからです」
イェースズはゆっくりと微笑んでうなずき、青年の目を見据えた。
「こっちと比べてこっちの方がいいなんていう相対的な『いいこと』では、あまり意味がありませんね。だいいち、死んだ後に天国に行くためにいいことをするんですか? それじゃあ、あなたは死ぬために生きているんですか?」
「え、そんなことありません」
「そうでしょう。死んだ後にああなるこうなるということで、教えを広めるのは私は好きではありませんしね。人間は生きているうちに、つまりこの世で幸せにならなければ神様に対して不孝だし、この世を天国にするのが神様から人間に与えられた使命ですよ。この世で幸せになって、この世に天国を作り、この世での命を精一杯生きてはじめて天国に入れますよ。死んでから天国に行くためにいいことをするなんて、はっきり言って動機が不純ですね」
「そうですか。師。私はお金も財産もありますから、一応幸せだと思います。じゃあ、天国に行けますね?」
青年は今一つ、イェースズの話が分かっていないようだ。
「お金があることが、幸せですか?」
「はい」
「そう思ううちは、本当の幸せは遠いですね」
「じゃあ、もっと何をすればいいんですか? もったいぶらないで教えてください。あなたほどの素晴らしい師はいないって評判なので、わざわざ来たんですから」
「私が素晴らしいって言ってくださるのはうれしいですし、有り難く思いますけど、これも『ほかの人に比べたら』という相対的なことでしょう? でもあなたが心と魂を向ければ、相対的でなく絶対的に素晴らしいお方の教えを聞けますよ。そのお方こそが、神様です。神様は、絶対的に素晴らしいんです。ですから天国に入るためには、その神様のみ意を日々の生活の中で実践することですね」
「例えば?」
「人を殺さない。姦淫しない、盗まない、うそをつかない、両親を敬う」
「ちょっと待ってください」
青年はイェースズの言葉を止め、語気を荒くした。た。
「それは十戒じゃないですか。そんなの小さい時からずっと守ってますよ。イスラエルの民なら、守って当たり前でしょう?」
イェースズは青年の服装を見た。確かに上流階級の御曹司のようだ。
「あなたにはまだ、一つ足りないものがありますよ」
「え? 何ですか?」
「あなたの家には財産があるって言いましたね。それを世のため人のために使って、すっきりしてから私についてくるんですね。そうすれば、天の倉に宝を積むことになりますから」
すると見る見る、青年の態度が豹変した。
「やっぱりそうだったのか」
イェースズはすでに、その青年の心の中を読み取っていた。
「やっぱりって、そのやっぱりは当たっていませんけどね」
「いや。やはりあんたたちは金儲け主義だ。私が財産を持っていると口をすべらした途端に多額の献金を要求して、それを出さないと救われないとまで言った。結局は、どんなにいい教えを説いているふりをしても、信者から金をまきあげるのが目的だというのは見え見えだ」
イェースズは、落ち着いていた。
「私は、世のため人のためと言ったんですよ。私にくれとは言っていません」
「そんなの詭弁だ。最初だからそう言うのさ。そのうち本性をむきだして、多額の献金を要求してくるに決まっている。それを断ると、破門とかにするんだろう。よく分かった。もう、いい」
青年は踵を返した。そのやり取りを、使徒たちは唖然と見ていた。イェースズはほんの少し苦笑をしたもののあくまで落ち着いて、その後で突然その場に伏して祈りだした。真剣に何かを神に詫びているようだった。その青年の想念を神様に対して詫びているのだろうというのは弟子にもすぐ分かったが、祈りが終わってからイェースズは待っていた使徒たちに、ばつが悪そうにして、
「金儲け主義だなんてもし思わせてしまったとしたら、それ自体で罪になるんだよ。それを詫びていたんだ」
イェースズは使徒たちと船に向かった。船に乗りながら、イェースズは使徒たちに言った。
「ちょうど今の若者が来たから思い出したけど、この前の例え話、あったよね」
ナタナエルが、
「ああ、あの倉の中で金を数えていた爺さんの話ですね」
と、言った。
「そう。あれをもう少し詳しく言うとね、その人は以前私の所へ、足が痛いから何とかしてくれと言ってやってきたんだ。そして自分が金持ちであることを自慢するから、そのお金を世のため人のために使ったらどうですかって今日のように言ったら、やはりそのおじいさんも怒って帰っていってしまったんだ。それからしばらくしてから、その爺さんの近所の人に爺さんのことを聞いたら、倉の中でためた金貨を数えて喜んでいるうち、倉の中から火が出ておじいさんは倉の中で焼け死んだってことだった。私がはっきりとお伝えしなかったばかりに尊い命が失われたのだから、その後は私もさすがに少し落ち込んだよ」
「でも、自分の喜びの元である金倉の中で死んじゃうなんて、そのおじいさん馬鹿ですね」
小ヤコブが、そう口を挟んできた。
それには少しうなずいただけで、イェースズは話し続けた。
「そうしたらしばらくたって、ほかの人の眉間に洗礼の業を施していたらね、そのおじいさんの御霊が出てきたんだ。そして言うには、『今は炎に焼かれる地獄に落ちている』ということで、自分の執着心が炎となって自分を焼いているんだね。この世では炎に焼かれたらすぐに焼け死んじゃうけど、あちらではもう死なないんだからその苦しみは永遠に続くんだ。そしてさらにおじいさんの御霊は『エレアザル、エレアザル』って叫ぶんだよ」
使徒たちは一斉に、使徒のエレアザルを見た。
「私も最初はこの使徒のエレアザルのことかなって思ったんだけど、どうも別人のようで、聞くとそのおじいさんが生きていた時にお屋敷の門の前に住みついていた浮浪者の名前だって言うんだ」
浮浪者と聞いて、皆もう一度エレアザルを見てどっと笑った。エレアザル自身も照れて笑っていた。
「それで、その浮浪者のエレアザルももうすでに死んでいるのだけど、かなり高い世界に行っているってことで、このおじいさん、生きている時はエレアザルにびた一文恵んでやらなかったくせに、その時になってエレアザルに救ってほしいと頼んでいるんだよ。だからそんな虫のいい話は、できない相談だよと懇々とサトしておいたんだけど、今度は私に向かって、エレアザルを生き返らせてやってくれって言うんだ。そして生き残った遺族に、『自分と同じようにお金に執着していたら地獄に落ちるぞ』とエレアザルに伝えてくれるように言ってくれって言うんだね」
「それで、先生はなんて?」
と、トマスが口をはさんだ。
「そんなことをしなくても、生き残った方々に聖書を読んでもらえばそれでいいっていってあげたんだ。それなのにじいさん、死んだ人が生き返って何とか説得した方が効き目があるって言って聞かないからね、聖書が受け入れられない人には、死んだ人が生き返って何を言っても無駄ですよって言ったやったけど」
一行は全員船に乗り終わったので、ペテロが帆を上げた。
船が湖水の上に出てから使徒たちはイェースズとともに甲板に座った。
「先生、さっきの話ですけど」
と、マタイがイェースズに尋ねた。
「金持ちであるってことは、悪いことなんですか?」
「いや、決してそうではない。金持ちだってことは、その家の先祖が善徳を積んできたという家で、その因縁によって善行の受け取り役になっているってことだ。しかし有り余るほどの財産を築いた人に限って、お金に執着するんだね。そこで、ご先祖様のお蔭だということへの感謝の思いを忘れ、自分で築いた財産だと思いこんで、自分の欲望を満たすためだけにそのお金を使う。人は神様と波調が合い、この世での仕事の御用が神様の御用と一致すれば、神様からいくらでも与えられて食うには困らない。しかし、もっともっと自分が一生使いきれないほどの莫大な量の財産があると、その人のつまずきになる。だいたい財をなしているということは、善徳の結果であると同時に、どこかで人を苦しめた結果なんだね。そんな物質欲旺盛な人は、やはり救われは難しいだろう。いいかい、針の穴に糸を通すのって、たいへんだよね。金持ちが天の国に入るというのは、その針の穴に糸じゃなくってロープを通すようなものだよ。だいたい駱駝が針の穴を通ろうなんてしても、背中のこぶが邪魔になって通れないんだよ。あ、これはガムラ違いだ」
イェースズの駄洒落の冗談に、船上は一気に笑い声が満ちた。
アンドレがイェースズに言った。
「お金の心配をしちゃいけないってことですか?」
「前にも言ったし、さっきも言ったけど、まず神の国と神の義を求めればこの世で必要なものは与えられる。いやもう実は、与えられているんだよ。人々が手を伸ばさないだけだ。それなのに手も伸ばさないで不平不満を言っているようでは、何をかいわんやだね。神の国と神の義を求める、それはあくまで神様第一に、霊的なことに主眼を置く神主霊主の想念に切り換えていくことで、そうすれば現界的なものは何ら心配することなく無尽蔵に与えられる。それが与えられずに貧困にあえいでいるというのはどこか神様のミチから外れている証拠だから、よく反省することだ。もちろん、今貧困で苦しんでいる人に向かって、いきなりこんなことを滔々と説いちゃだめだよ。それに、貧困の人を見て『あ、あんたは神様のミチから外れてるんだ』なんて思いを持って裁いたら、それでは彼らを罪びとと言っているパリサイ派の学者さんたちと同じになってしまうよ。まずは、救いの手を差し伸べる。こういったことを説いて差し上げるのはそれからだ。私が言っているのは、他人のことをあれこれではなくて、自分のことを考えなさいってことだ。まあ、要は生きていくために必要なものは神様の道を歩んでさえすれば神様より与えられる。神様はあなた方が今何を必要としているかよくご存知だ。だから、ぴたっと与えてくださる。お釣りがないくらいにね。ただそれには、神様と波調が合っていることが必要だ。だから、どうしたらお金をもうけられるかなんてことはきっぱりと考えることをやめて、どうしたら神様のみ意と合い、波調を合わさせて頂けるか、それだけを考えていればいいんだ。あなた方はみんな自分の仕事を捨てて私に従ったが、私に従ってから今まで一度でも食うに困ったことやひもじい思いをしたことがあったかい? どうだい、ユダ」
話を振られたイスカリオテのユダは、
「ありませんでした。毎日来られる人々のお志や、マタイやヤコブのお宅からのご寄付で、十分です」
と、表情も変えずに言った。
「先生」
ペテロが顔を上げ、得意げに言った。
「私なんか親も妻も放っておいて、先生に従ってます」
イェースズはそれを聞いて一瞬困ったような表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「あのねえ、それが何だと言うのかね? 真に言っておくけど、あなた方はこの世で報いを求めちゃいけない。何かいいことをしてもこの世で報いを得てしまったら、神様からのご褒美は頂けないよ。まあ、神様からのご褒美目当てでいいことをするっていうのも、また違うけどね。他の人の見ていないところでこっそりと悪いことをする人ならたくさんいるけど、神様はちゃんとご覧になっている。それと同じで、ほかの人の見ていないところで善行を積む、つまり陰の徳を積むのも、神様はご覧になっているんだ。そして神様がいちばんお喜びになるのは、そのような陰の徳だね。だから前に、右の手でいいことをしたのを左の手にさえ知られないようにしなさいって言ったんだ。報いを求めちゃいけない。あなた方を人々の間に遣わした時にも、業を施して病気が癒されても決してお金を受け取らないようにと言っておいたよね。お金をもらうとそれで報いは受けてしまったから、天の倉に宝は積めない。そればかりか、そういう時のお金の動きには、相手の悪因縁まで乗ってくることがあるんだ。それを受け取ってしまうことにもなるんだよ。あなた方はただでもらったのだから、ただで与えなさいと言っておいたよね。もう与えて与えて与えて与えて、与えっぱなしにしていればいいんだ。神様は、霊的な意味で百倍にもしてお返しくださる。神様は犠牲がお嫌いなんだ」
イスラエルの風習として、羊など神に犠牲の動物を捧げるのは習慣となっていただけに、イェースズのこの言葉は実に意外ではっと全員でイェースズを見た。
「いいかい、誤解しないようにね。私が言いたいのは、神様は犠牲がお嫌いだからやめなさいということじゃあないんだよ。神様は人類が神様に向けてなした犠牲を、犠牲のまま終わらせてしまうのがお好きではないということだ。だから神様に犠牲をしてそれが正しい犠牲なら、神様は数百倍にしてお返しくださる。それからペテロ、また何人にかには言っておきたいことがもう一つある」
「何でしょう?」
ペテロは表情を引き締めた。
「あなた方十二人はずっと最初の頃から私といっしょにいるし、またペテロやアンドレ、ヤコブとエレアザル、ナタナエル、ピリポ、この人たちはヨハネ師の教団でもいっしょだった。小ユダヤ小ヤコブは生まれた時から私のそばにいる。でもね、いくら私とともにいる年数が古くても、熱く信仰をしてなければ救いはない。後のカラスが先に立つこともあるから注意なさい。油断禁物だ」
「後のカラス?」
ピリポがそう言って首をかしげたが、みんな同様に怪訝な顔をしていた。
「信仰には、古い新しいってことは関係ないってことだよ。これから後にひょろっと来たものが、霊的にはあなた方よりずっと昇華するってこともあり得るんだ。極端な話、私を直接知らないずっと後の人が、あなた方以上に私の教えの伝道者になるかもしれない」
「そんなことがあるんですか?」
トマスが言うので、イェースズは笑った。
「こういう話がある。あるぶどう園の主人が労働者を雇いに朝早く出かけて、何人かを雇ってきて一デナリの報酬を約束してぶどう園に行かせたんだ。そして昼前にも何人かの労働者を市場で見つけてぶどう園で働くように誘い、午後にもまた同じように何人か雇ったんだ。そして夕方になってぶどう園に行って、まず午後に雇った人に約束の報酬の一デナリを払って、昼ごろや取った人にもやはり約束の一デナリを払ったら、彼らは夕方来た人よりも多く働いたのだからもっともらえると思ってただけに文句を言い始めた。そして朝早くから働いていた人にも一デナリだったから、朝一からの人たちは怒りだした。一日中働いていた自分たちと、午後になってから来た人と同じ一デナリとはどういうことだってね。あなた方はどう思う?」
「そりゃ、怒るでしょう」
イスカリオテのユダがそう言い、ほとんどの人がそれに同調した。
「でもね」
イェースズは笑いながら続けた。
「その主人は言ったんだよ。朝早くに雇う時に、報酬は一デナリだとちゃんと言ったはずで、約束は守ったのだから文句を言われる筋合いはないってね。それに、午後から来た人も、仕事の質は朝早くから来た人に劣ってはいなかったとも言ったんだ。だから、神様の御用をさせて頂くに当たっても、早い、遅いは関係ないんだ。要は信仰がどれだけ熱く燃えているかだね。後のカラスが先に立つとは、こういうことだよ。むしろ、罪穢が深い人から順番に、神様は先に私の所に来させたのかもしれないよ」
穏やかな風を受けて、船は湖上を滑っていった。
カペナウムの家に戻ると、妻マリアの友人でやはりイェースズの弟子になっているスザンナという女性もいた。一度イェースズの弟子が十二人の使徒だけを残して一斉に去った後、癒しを求めてやってきた人々の中からごく少数ではあるがまたイェースズの弟子という形でカペナウムに住みつく人も出てきていた。
夕食はスザンナもいっしょにとイェースズは言った。いつもは十二人の使徒と妻マリアだけである。スザンナは自分が女性であることを理由に遠慮したが、イェースズは、
「私のもとへ来るものは皆同志だ。男も女もない」
と言って笑っていた。
食事が始まり、イェースズはパンをぶどう酒に浸し、
「みんな、ご苦労だった」
と使徒たちに言ってからそのパンを配った。
「ところで先生」
パンを受け取ったナタナエルがイェースズに言った。
「今日の話の続きですが、お金儲けは考えるなということでしたけど、仕事をするっていうのはよくないことなのですか?」
イェースズは首を振った。
「とんでもない。仕事は大事だ。お金も大事だ。私が言ったのは、お金に執着しすぎるのはよくないということで、自分のためよりも他人様、特に困っている人のためにお金を使うことが天の倉に宝を積むことになる」
エレアザルが親切にも、今日の船上でのイェースズの話を、イェースズの妻マリアとスザンナに小声で説明していた。
「仕事は大事だ。あなた方は特別に選ばれた人たちだから、皆仕事をなげうってきてくれたね。あなた方のような人々の案内役も必要だけど、世の中の人々があなた方のようにすべて仕事をなげうったとしたらどうなる? 誰が畑を耕す? 誰が旅人を泊める? 誰がパンを売る? みんな、それぞれ与えられた仕事があるんだ。どんな仕事も世のため、人のためになっているわけだからどれも必要で、その仕事をやる人も必要だ。そうして社会は動く。そういったそれぞれの仕事を通して、神様の御用をさせて頂くという事が大事なんだよ。人それぞれに、神様から与えられた才能があって、それはみんなそれぞれ違う。その才能を十分に使わせて頂いて、神様と世のため人のために奉仕する心が大切だね。それなのに与えられた才能を自分の力だと思って、金儲けばかり考えているとどんどん神様から離れていってしまうよ」
「では、私たちは特別なんですか?」
と、ペテロがパンをほおばりながら言った。
「特に神様からの召し出しを感じたら、仕事は捨てて神様に仕えるべきだ。ただ間違えないでほしいのは、あなた方は神様といえば会堂を思い出すだろうけど、神様に仕えるというのは会堂や祭司に仕えることじゃあないよ。会堂は物質の建物だし、祭司も神様じゃなくって人間だ。そんな社会の建物や人間、組織などは人知の産物でね、宗教なんていう人知の遊戯は、神様のみ意ではない。時が来れば神様はすべての宗教を壊してしまわれるだろうし、お互いの宗教の垣根も取り払われる。あなた方は知らないかもしれないけど、世界にはいろんな宗教がある。でも、どんな宗教も元は一つということをサトっていくことが致命的に重要だ」
スザンナは、ぶどう酒の瓶を取り換えるために出ていった。イェースズはそれを横目で少し見てから、話し続けた。
「宗教なんてものを超越した天地創造の主神様が、いよいよ天降られる時が近づきつつあるんだ。だからヨハネ師も、『神の国は近づいた。悔い改めよ』と言われていたんだ。時は熟しつつあるよ。東の空は今、黎明に輝き初めている」
「東の空?」
ナタナエルが、首をかしげた。
「確かに、太陽は東から出ますけど」
「私が言っているのはだね、それだけの意味ではない。光は東方よりさすように、主神様も東から来られる。だから自分の腰に帯を締めて、ランプにちゃんと油を注いで主人を待っている召使のような気持ちでいないとだめだ。そうやってちゃんと準備をしていた時に主人が帰ってきたら、その召使にとっては幸運だね。帰ってきた主人は喜んで、むしろ主人の方が召使を宴席に招いて、給仕してくれたりしてね」
一同は、笑い声を上げた。笑いながらイェースズは話を続けようとしたが、それよりも素早くトマスが質問を発した。
「私たちが待つべき主人は、いつ帰ってくるんですか?」
「そんなの知らないよ。夜中かも知れないし、明け方かもしれない。でもそんなことは、問題ではない。いつ帰ってきてもいいように、準備をして待っていたものは幸いだ。だからといってドアを開けっぱなしにして、それでいて居眠りなどしていた日には、主人どころか泥棒さんどうぞって感じになってしまう」
使徒たちは、また笑い声を上げた。
「そればかりか、主人が帰ってきた時に召使が居眠りなどしていたら、どうなる? だから、いつでも目を覚ましていなさいということになる」
小ユダが、杯を置いた。
「そんな、いつも寝ないでいるなんて、睡眠不足になったらどうします?」
「まあた、何を言っているのかね」
と、イェースズは大笑いした。かなりぶどう酒も回ってきているので、常日頃から明るいイェースズもその陽気さに拍車がかかってきた。
「これはねえ、たとえの話だよ。本当に睡眠も取らずに起きていろということじゃない。いいかい、私の話は耳で聞いて頭で理解するんじゃなくて、心と魂で聞くんだ。心を開いて、魂を開いて聞くんだ。いいかい、目を覚ましていなさいってことは、神様のお出ましをしっかりと自覚して毎日の生活を送りなさいってことだよ。神様のお出ましはいつかは分からない。その前に神様は必ず、魁のメシアをお遣わしになるはずだ」
「メシアって?」
シモンが驚いて顔を上げた。
「先生がメシアではないのですか?」
「先生はメシアに決まっているじゃないか」
と、ペテロが口をはさんだ。
「先生こそメシアなのだから、天の時が来たら先生が遣わされるってことなんですね。つまり、今ってことですか?」
「私は魁のメシアではないよ。でも時が来たら、もちろん私も再びこの世に来る」
そのイェースズの言葉は、使徒たちにはよく理解できそうもなかった。ペテロが、イェースズを見た。
「そのお話は私たちだけのためにして下さっているのですか、それとも民衆にもお告げになるおつもりですか?」
イェースズはこれまで群衆に教える時はすべてをあからさまには語らず、例え話でぼかしたりして、後で使徒たちだけに真意を告げたりしていた。だから、ペテロはそのようなことを聞いたらしい。
「あなた方はね、より多く知る恵みを受けたんだ。私は神理を何もかもすべて民衆に告げることは、神様から許されていない。神様のご計画からいって、今はまだその時じゃないんだ。だけど、あなた方にはある程度は許されているんだよ。それでも、あなた方にさえ伝えることが許されていないことの方がはるかに多いけどね。とにかく、時を待つんだ。待つといってもじっと待っていればいいってものじゃない。その自覚を持って、しっかりと準備しておくことが大切だ。あなた方は、神様の子羊の群れの牧者なんだよ。司牧を主人から任されている。その主人がいつ帰ってきても、きちんと羊の世話をしていれば褒められるだろう? でも、いつまでたっても主人は帰ってこないって言って、酒を飲んで羊を放ったらかしにしていたら、あとでたいへんなことになる。私たちの感覚で長い年月でも、神様からご覧になればほんの瞬きの間だ。私が言ったことがいつまでたっても実現しないからって、『何だ、うそじゃないか』なんて思って油断して、再び物質主体の想念に逆戻りしてこの世の快楽の中で生活していたりすると……」
イェースズはいたずらっぽく目元に笑みを含ませて使徒たちを見渡し、声を低くした。
「いつの日か、神様はまるで泥棒のようにこっそりとやってこられるぞ。その日がいつまでも来ないといっても、それは神様がご計画を延期されたんじゃなくって、すべての人類が悔い改めるのを神様は忍耐強く待っておられると思うことだ。神様の忍耐は人間とは桁外れに違うけれど、でも御経綸も日々進展しているということを忘れないように。いずれ堪忍袋の尾が切れたなんて、神様に言われたらたいへんなことになる。いいかい、ペテロ、そしてみんなもこのことをしっかり覚えておきなさい」
「はい」
返事をしたのは、十二人同時だった。
「あなた方はほんのかけらではあるけれども神理の一部を聞かされたのだから、その時になってもし怠けていたりしたら、神様のお叱りは何も知らなかった人よりも厳しいと思いなさい。少ししか与えられていなければ要求されることも少ないけど、多く与えられているあなた方には神様の要求も大きいよ」
食事は終わった。妻マリアとスザンナはイェースズの母マリアとともに片付けに入った。使徒たちは、そのまま部屋に残っていた。いつしか外では風が強くなり、気流音さえ聞こえてきた。
「なんだか外はすごい嵐ですね」
アンドレが心配そうに、突然の嵐のことを言った。ペテロも眠そうに言った。
「嵐になる前に、湖を渡ってきてよかったですね」
外が大荒れなだけに、余計に部屋の中の静けさが強調された。イェースズはランプを見つめて言った。
「これからあなた方が渡っていく世の中にも、こんな嵐が吹き荒れているだろね」
「先生」
と、アンドレが尋ねた。
「いつぞや嵐を鎮めて下さったように、世間の嵐も鎮めては下さらないんですか?」
イェースズは、静かに微笑んだ。
「いつまでも、私がいると思わないことだ。私はそんな妥協的な平和を訴えたりはしない。むしろそんな表面的な偽りの平和は、打ち砕こうとさえ思っている。この水の世の中に、私は火を投ずるんだ。それは物質の火ではなくて霊的な火だけれども、でもそこにはどうしても争いが起こる。神様の世界でも争いが起こって、それが地上にも降りてくる。本当の平和は、その後の話だ」
「先生は、争いが起こったらどうやって敵を打ち負かしますか?」
シモンが身を乗り出して聞いた。
「敵か。すべての人は神の子で私は敵だなんて思いたくないけれど、神様の世界の戦いでの神様のやり方を、ほんの少しだけ教えよう。神様は戦う相手、つまり敵だけどあえて敵とは言わない。その相手を、滅ぼすのではなく説得して回心させて味方にしてしまう。敵が味方になったらそれはもう味方であって、敵ではない。敵がいなくなったらその戦いは勝ちだ。ま、頭の片隅にでも入れておくんだね。どんな邪霊でも、神の光と愛と真でよくおサトしすれば回心してその人から離脱していった、そんな実例はあなた方も数多く体験しているだろう。すべては神の子で、回心するとは神の子の本来の姿に元還りする。その邪霊を『敵』とみなして無理やり叩きだしたら悲惨なことになるって、何度も話したよね。すべての存在は神の子で、その魂は神性を具備している。だから人の本来の性質は善なんだと、私は前世においても東の国でそれを人々に説いていたのだよ」
その時、母マリアが入ってきて、イェースズや使徒に寝室に行くように促した。
昨夜の嵐はよほどひどかったらしく、朝になってから小ヤコブとペテロだけをつれて湖岸まで出てみたイェースズは、大きな爪あとをいくつも見た。あちこちで木々が根から掘り出されて倒れ、家の土塀が壊れている所もある。町の背後の小高い丘の上では土砂崩れが起こり、そんな光景が一転して透き通るような青さで晴れた空の下に広がっていた。
そんな湖岸の一角に、何やら人が集まっているのが見えた。行ってみると、漁船が残骸となって打ち上げられていた。そこに集まっていた人々の何人かがイェースズに気がついて、胡散臭そうな目を向けた。ところが、一人だけ若者が、目を真っ赤にしたままイェースズに近づいてきた。
「イェースズ師ですね。昨日の嵐で、兄貴が死んじまったんですよ!」
若者が振り返った視線の先に、水死体が地面に転がされていた。
「お気の毒に」
そう言ってイェースズは、遺体に近づいていった。蒼白な顔が苦悶にゆがんでいる、そんな死に顔だった。イェースズはその前にしゃがみ、遺体の額に手をかざした。しばらくそうしていたが、別に遺体が動き出したなどというようなことはないまでも、顔に幾分赤みがさしてきた。
「兄貴を生き返らせて下さるんですか?」
「いや」
申し訳なさそうに、イェースズは首を横に振った。
「お気の毒だけど、生死を司るのは神様ですからね」
「でも師は、会堂の司の娘を生き返らせたっていうじゃないですか」
「あくまで、神様のお許しが出たらの話ですよ。あなたのお兄さんももし神様のみ意ならそうなるかもしれませんけど、私にはなんとも言えませんね」
イェースズ自身、ヤイロの娘の時のような強い動機は感じられなかった。
「ただ、この方はあちらの世界に行っても救われますよ」
イェースズは立ち上がった。
「ほら、顔色が変わったでしょう」
「本当だ。まるで眠っているような生き生きとした顔になった」
若者が驚いていると、イェースズはその方に優しく手を置いた。
「お兄さんはきっと、天国に行きましたよ。手厚く葬って差しあげて下さい」
イェースズが歩き出すと、小ヤコブが小走りにその脇に並んで歩いた。
「先生、あちらの世界で救われるっていうのは?」
「最初の遺体の顔を見ただろう? だいたい人の死に顔で、その魂はどの世界に行ったかは分かる。蒼白で苦悶深刻なら、気の毒だけど地獄だね。でも、死んでからまる一日は遺体とそこから離れた霊魂の霊波線はつながったままだから、その時に火の洗礼の業を施してあげれば、スーッと上の世界に行けるようになる。そうなると死相も変わって、赤みがさした穏やかな顔になる。天国に行った人の死に顔は眠っているようで、時には微笑さえ浮かべていることもあるんだ」
「本当に桃色で、つやつやになりましたね」
「不思議ですね」
と、ペテロも反対側から口をはさんだ。
「神様の愛だよ」
イェースズがニッコリ笑って言ううちに、林を抜けてイェースズの家に近づいていった。
ところが、家にはまた多勢の人が押し寄せていた。女性や子供がやたら目立つその群衆は、病の癒しを求めてきていた人々とはどうも異質のようだ。彼らはイェースズの姿を見てどよめき、そんな人々をかき分けて母マリアが出てきた。
「昨日の嵐でたくさんの船が沈んで人も多勢亡くなったみたいだけど、皆さんはその亡くなった方たちのご家族の方たちですって。何とか助けてって来たけど、あなたは留守だったし」
イェースズは慈愛深く母に微笑んで、それから家に入ってヨシェの仕事場である土間にいた人々と対した。
「師!」
「夫が、夫が」
「私たち、どうしたらいいんですか?」
人々は口々に叫んで、イェースズに詰め寄った。
「このたびはお気の毒でしたね。亡くなった皆さんのご家族のお救いをさせて頂きたいのだけど、ご遺体をここにお持ち頂くのも無理でしょうし、私が全部のご遺体の所をまわるのも厳しいですね。心から、亡くなった方々の冥福を祈らせて頂きます。神様に念じておきましょう」
人々はこぞって礼を言った。
「せめてものあなた方の魂を救わせて頂きたい」
イェースズは全員を土間に座らせ、両手をあげて一斉に霊流を放射した。ほんの短い時間だったが、中には泣きだす婦人もいた。泣きながらしゃべるのは、嵐で死んだ婦人の夫で、今妻の体を借りてイェースズの霊流を受け救われたと涙ながらに礼を言っていた。そんなケースが、二、三人はいた。
それからイェースズは、人々に言った。
「皆さんは、これから生活にもお困りでしょう」
それからイスカリオテのユダを呼び、
「この方たちに、私たちの財産を全部分けてあげなさい」
と、言った。驚いたのはユダの方である。ペテロもユダとともに、イェースズに詰め寄った。
「先生は魂の救いをあされるのであって、物質的な救済はなさらない方だと思っていましたが」
「もちろん、霊的な救いが主で物的な救いは従だが、従は従であっても無ではない。時と場合にもよるけど、自分の家の軒下に逃げ込んだ傷ついた羊がいたら、誰でも助けるだろう? さあ、ユダ」
ユダはまだ、躊躇していた。
「この人たちは見知らぬ人々だ。少しくらいなら分けてあげられますが」
「いや、全部だ。見知らぬ人って言ったけど、みんな我われが慕ってやまない神様の、その神の子たちなんだよ。同じ神の子だから、みんな兄弟じゃないか。家族じゃないか」
「確かに先生のお言葉だと、我われは無一文になっても必ず困らないようになるってことでしたよね」
と、マタイがユダをたしなめた。ユダはしぶしぶ自分が管理して来た金を、人々に配った。その人たちが礼を言って去ってから、イェースズはやっと家の奥に入ることができた。するとヤコブが、激しい口調でイェースズに言った。
「先生、霊の救いをいつも言っていた先生なのに、なんで物質的な援助までするんですか。我われの食べる糧まで全部なんて」
イェースズは苦笑した。
「相変わらず雷の子だね。確かに霊的な救いは大切だけど、人の心というものも大切にしないと人を導くことはできないよ。まず相手のことを親身になって考える。病で苦しんでいるのなら、心から同情する。あの人たちは食うに困っているのだから、まず飢えを満たしてあげる。そうしないと、いくら『神の国は』なんて話しだしたって聞く余裕なんてないじゃないか。ましてや、『今のあなたの不幸は前世からの罪穢で』なんて言おうものなら、感情を逆なでするだけだ。神理は確かに神理で、前世の罪穢はその通りなんだけど、人を導くにはそういった気配りも必要なんだね。病に苦しんでいる人にも、確かに病気治しが目的ではなくて奇跡は方便で、人々を無病化させて神様のみ意である全人幸福化を実現させることが究極の目的だけども、足が痛いと言う人に『病気治しが目的じゃないんですよ。神様のみ意は』なんて説いても、その人は『とにかく足を治してくれよ、そうしたら話も聞くよ』となるだろう。このことは、前にも言ったよね。私がなぜ何回も同じ話をするかって言うとだね、あなた方に常に基本に元還りしてほしいからだよ。そうしないと、どんどん人知の解釈がついて変な方向へ行ってしまう。いいかい? この話は、前にも一度したんだよ。それなのにみんな、初めて聞くって顔しているじゃないか。ほうら、みなさい。誰一人、『それはもう前に聞きました』って言わないじゃないか」
そう言ってイェースズは笑った。だが使徒たちは、神妙な顔をしていた。
「でも先生は『奇跡を見たら信じるなんて虫がいい話だ』ともおっしゃっていたような気がしますけど」
と、ペテロが言った。
「確かにそう言ったけど、それはいつまでもそこから脱皮できない人に向かって言ったんだよ。最初はどうしてもみんなご利益信仰だし、そこから入るのは仕方ないことで、そんな人類の心の習性を神様はよくご存じだから見せる奇跡も下さるんだ。足が痛いって人には、その足を治してもらいたいという心もまず大事にすることだね。それを先輩になればなるほど『病気治しじゃない』『奇跡を見たら信じるなんて本物じゃない』なんて本人に直接言っちゃうんだよ。そこは誡めないとね」
「でも、先生」
ナタナエルがしつこく食い下がる。
「ご利益信仰の人が、自分の病気が治ったらさっさと去っていってしまったら?」
「それはその人がそれだけの縁だったってことかもしれないし、いつかは時が来れば真の信仰に目覚めるかもしれない。『病気を治してくださったんだから、神様に感謝しなさい』と一応は言っても、それをス直に聞くかどうかはその人の問題だから、それも聞かないで我われを治療師のようにしか思っていない人でも、我われは決して裁いてはいけない。最初はそんなつもりで来た人でも、それがきっかけでやがて霊的に目覚める人もるはずだ。だから、最初はご利益信仰でもいいんだ。いつまでもそれでは困るけどね。それと、ちょうど思い出したのであなた方に聞くが、もし目の前で川に溺れている子供がいたらどうする?」
イェースズはさっと一同を見渡した。
「もちろん、川に飛び込んで子供を助けます」
と、エレアザルが言った。だがすかさず、ペテロが、
「メダイはどうする? 絶対に濡らしてはいけないと先生はおっしゃったんだぞ」
と、エレアザルに言った。エレアザルは、
「あ、そうか」
と、頭をかいていた。
「まずは落ち着いて、メダイを置けるような場所を探します」
アンドレがそう言ったが、イェースズはさらにアンドレを見た。
「砂漠の中の一本の川で、周りに木も何もなかったら?」
「つまり、メダイが置けるような場所がないということですね」
アンドレは、答えに窮した。
小ユダが、手を上げた。
「その子供に向かって、手をかざします」
「何を馬鹿なことを言っているのかね」
と、イェースズは思わず苦笑して言った。
「手をかざして、『神様、何とかしてください』っていうのはそれこそご利益信仰で、神様に責任をなすりつけているじゃないか。奇跡を起こすも起こさないも神様次第なんだから、自分で奇跡を起こせるなんて錯覚しないこと。かざした手のその先は神様の領域だって、前にも言っただろう」
「では、そんな時はメダイもつけたまま飛び込んでいいのですか?」
トマスがそう聞いた。
「いいと言ってしまうと語弊があるが、仕方がないだろう。何よりも目の前の命の危険にさらされている子供を助けるのが先決だ。そうやって川に飛び込んで命が救える力なら、神様は万人に与えておられる。それを見殺しにするのが、神様のみ意であるはずはない」
「でも先生は、メダイは命よりも大事とおっしゃいました」
ピリポが静かに言った。
「それは自分の命よりもということだ。自分ではない神の子の命は、何よりも優先だ」
イェースズと使徒は、いつも食事する一室に入った。
「でも先生、ぶっちゃけた話、やはり昨日の嵐で亡くなった人にはそれだけの罪穢があったということなんですね」
と、ナタナエルが聞いた。
「原因のないところに結果は生じないよ。でも、繰り返すけども、それを面と向かって言わないこと。とにかく昨日の嵐によって、悲惨な光景がこの町で展開されている。そんな中で悲しむ人に罪穢がどうのこうのなんて言ったばかりに、『こんなひどい仕打ちをするのが神様なら、私は神さまなんか信じない』なんて人が出たらどうする? ましてやそんな人々は、『今こうして家族を失うという不幸現象を通して神様はあなたの罪を消してくださったのだから、感謝しなさい』なんて、そんなことをいわれた日にはわれわれは怨まれるのが落ちだ。確かにそれはその通りであったとしても、悲しみに打ちひしがれているさ中にそんな残酷なことは言ってはいけない。特に今の時代はね」
「ところで先生、そのひどい仕打ちがどうのこうのって言った人と話の内容が違いますけど」
シモンが沈黙を破った。
「私も心痛めていることがあるんですけど」
「なんだい?」
「この春、ローマ知事ポンティウス・ピラトゥスによって、多くのガリラヤ人が十字架につけられましたね」
その事件なら、ついこの間ガリラヤにも情報が伝わってきた。ガリラヤのエルサレム巡礼団が、饗宴中にいきなりローマ兵に捕らえられたのである。彼らはローマの反覆を謀る政治的メシア団で、もちろん熱心党の流れだった。ガリラヤはユダヤと違ってローマ皇帝直属の属州ではないため、いわば熱心党の本拠地ともなっていた。そんなガリラヤからエルサレム巡礼団を装って上京していたメシア団の一団はいともたやすく正体を見破られたのだが、逮捕後ピラトゥスは彼らを裁判にかけることもなくいきなり十字架刑に処した。エルサレムからエリコに向かう荒野の中の街道沿いに、おびただしい数の十字架が並んで立てられたのである。
そもそもこのポンティウス・ピラトゥスなる人物、ローマ皇帝ティベリウスの寵臣であり、反ユダヤ感情旺盛なセイアヌスの手下であったという。ちょうどイェースズが留守をしていた四、五年前にユダヤ州知事としてローマから赴任して来たのだが、ローマ皇帝の象と鷲の軍旗を掲げてのエルサレム入城は、ユダヤ人たちを興奮させた。完全なユダヤ蔑視政策と重税が、そこから始まった。最高法院の会議場でさえそれまではローマ人が入れなかった神殿の中にあったのに、ピラトゥスはそれを丘の上に移築させた。ユダヤ人の目から見れば、ピラトゥスの圧政よりもかの先代ヘロデ大王の暴政の方がまだ同じユダヤ人だけにましだったかもしれない。神の民を以って任じるユダヤ人にとって、異邦人であるピラトゥスの圧政は耐え難きものがあった。
そして去年、神殿の七枝の燭台の炎が消えた。それによっていよいよユダヤの終末を憂い、メシア待望の気運も高まっていたし、各地で自分こそ預言のメシアだと自称するものも増えた。だが彼らの末路は悲惨で、たいてい十字架にかけられて終わるのが落ちだった。彼らにとってメシアというのは、政治的にローマを覆す勢力のことだからだ。そんな気運の中で、現にイェースズのことをもそのような政治的メシアだと期待したものもかつていた。この十二使徒の中にも最初はそういう考えのものもいたし、今に至ってもまだ怪しいものさえいる。だからイェースズは、まっすぐにシモンを見た。
「その十字架にかかった人々も、前世の罪穢によるものかどうかをあなたは聞きたいのだね。それに対して神様が仕組んだことだと、もし仮に私がそんなことを言ったらあなたは信仰を捨ててしまうかい?」
「そんなことより」
シモンは目をむいた。
「私は先生に、彼らと同じような末路は取ってほしくないんです」
「真に言っておくけど、その人たちはあくまで現界的には罪を犯して罰を受けたんじゃない。ガリラヤ人は誰でも政治的な野望を捨てて、悔い改めない限り同じ目に遭う」
「じゃあ、先生はローマの支配を認めて、それに甘んじていると言われるんですか!」
「そんなローマだのユダヤだの、近視眼的なことは私にはどうでもいい。要は神様のみ意に沿っていくことだよ。ローマ人とかユダヤ人とかギリシャ人とか関係なく、神様は全世界全人類の親神様なんだ。そもそもあらゆる民族も、元は一つだったんだ」
イェースズはもっと高次元の霊的次元で話をしていたが、彼らの理解は確かにバベルの塔以前は民族は一つだったというくらいのものだった。
「じゃあ、全世界全人類の親神様は、なぜユダヤ人だけが迫害されるのを許されるんですか。こんな、何十本もの十字架を許されるんですか」
その答えは、イェースズは分かってはいても使徒たちに告げることはできなかった。その時、
「それはつまり」
と、イスカリオテのユダが口をはさんだ。
「彼らが十字架で殺されたのは、彼らが本物のメシアではなかったってことだけだ。本物のメシアなら、自分で十字架から降りてくるはずだ」
イェースズは少しため息をついた。
だがイェースズの方から、夕食の時にまたその話を持ち出した。この日は今ではこの家の一家の主であるヨシェも加わっていた。
「昼間の話だけどね、シロアムの塔の話は、あなた方も知っているね」
有名な話だから、知らない人はまずいないはずである。エルサレムのシロアムの塔が突然崩壊して、十八人もの人がその下敷きとなって犠牲となった。その話は、ついこの間ガリラヤにも伝わってきた。
「その十八人も罪びとで、神様から裁かれたのだろうか?」
イエスの問いに、誰も答えなかった。
「分かりません」
と、ヤコブが最初に言った。
「そうだね。近視眼的な見方じゃ、分からない。でも、霊界の厳とした法則を知っていれば、はっきりと分かる。その十八人は神様から裁かれた訳ではなく自分でまいた種を自分で刈り取っただけだ。その法則には、原因があれば必ず結果が生じ、自分の持っている原因は必ずいつか結果になる」
「じゃあ、やっぱり罪の報いじゃないですか」
ナタナエルが、そう言ってから眠そうに目をこすった。
「まあ、ある意味ではね。その罪も過去世に犯した罪であることは間違いなく、人にしたことは必ず自分に帰ってくる。人になした善行もはっきりと自分に帰ってくけど、悪いこともまた同じだよ。この法則からは、誰ものがれることはできない。これは法則であって、決して神様に罰せられてというわけではない。裁きは神様の権限だって言ったけど、実は神様でさえ神の子人を裁きはしない。ただ、軽い魂は上に上がり、重い魂は下に沈むように仕組んでおられるだけだ。これが法則なんだよ」
使徒たちは食事の手を置き、じっとイェースズの話に聞きいっていた。
「その因と果が一生のうちにある場合もあるけど、多くは前世と今生にまたがっているものだ。弱いものが虐げられて殺され、その一方ででくの棒が帝王でござい、裁判官でございとふんぞり返っている。誠実な娘が奴隷になって、どうでもいいような女が着飾っている。こんなのを見たら人々は滅茶苦茶だと思うだろうし、世の中は不公平にできていると思うだろう。でも、それこそ近視眼っていうものだよ。そんな人に限って神を呪い、神なんて存在しないとまで言いだす。でもね、もっと霊的に眼を開いてみれば、分かるはずだ。人が再生転生を繰り返すものだってことは、あなた方も手かざしの体験によってはっきりと分かっただろう。今、奴隷で苦しんでいる人は前世は暴君だったのかもしれないし、悪をしても栄えている人は何かしらの受け取り役なんだろうね。それでこそ公平ってもので、不平等のように見えるけどそれが平等で表面上は不平等である、つまり平等の不平等の平等で、これを神の絶対平等っていうんだ」
「じゃあ、先生。私たちは今先生に巡り会えて幸せですから、前世は善人だったんですね」
トマスが無邪気にそういうので、一同はやっと笑った。そして止めていた手を動かして、みんなまたパンをほおばりはじめた。イェースズもひとつパンを口に運び、笑って言った。
「私に巡り会えたってことよりも、神のミチに出会えたってことで、神様とのご因縁、つまり前にも言った御神縁が深いんだよ。でもね、油断しちゃだめだ。例のシロアムの塔につぶされた人たちもね、あの事件が起こるまでは幸せに暮らしていただろうね。不幸は突然やってくる」
「え、そんな恐いこと言わないで下さいよ」
マタイが首をすくめるので、それを見て皆また笑った。
「いや、脅すわけじゃないんだけどね、いいかい、あなた方は例えばぶどう園に飢えたイチジクの木に実がならないからって園の主人が切ってしまおうとしたのを、管理人が肥しをやってみるからもう一年待ってくれって頼んだのでかろうじて切られずに済んでいる、それと同じかもしれないよ。みんな誰だって前世で悪いことをしていない訳ないんだから、まず自分の罪穢をサトることだ。シロアムの塔につぶされた人や昨日の嵐で亡くなった人が前世の罪穢の結果というのは本当かもしれないけど、自分の罪穢を棚にあげて『あなたの不幸は前世の罪穢なんですよ』なんて配慮のかけらもないことを平気で言うのは、同じ穴の狢がよく言うよということになるんだよ。ああ、それなのに、ちょっとこういうことを聞きかじると、不幸な人を見て鬼の首を取ったように『あんた、罪穢が深いんだね』なんて言う。お互い様なんだから、そんなことは人様には言えないだよ。そんなことを人様に言っている暇があったら、まず自分の罪穢をサトりなさいってことだ。そもそも、罪があるから不幸が起こるっていってもだね、それは、さっきも言ったように決して神様が与える罰ではないんだ。神様はきれい好きなお方だから、人の魂が罪で曇ったらとにかくお洗濯してきれいにしてくださる。そのお洗濯ジャブジャブが、あらゆる不幸現象というふうに人間の目には映るんだね。原因があれば結果があるというのも、こういうことなんだ。曇った魂は病気、貧困、争い、災害、そういったものでお掃除され洗濯される。そういったアガナヒをしないと、元のきれいな明かな霊の魂にはならないからだよ。でもそれは、消極的な曇りの消し方だね。それよりもっと積極的に世のため人のために立ちあがって、霊的に人を救って歩くことによって神様の御用をし、さらにみ魂磨きの精進をすれば、どんどん魂の曇りは消されていく。だから不幸現象という結果を招くはずの原因を持っていた魂でも、アガナヒは小さくしてもらえる。つまり大難は小難に、小難は無難で済ませて頂けるんだ。どっちが得かよく考えてみよう」
使徒たちは、何度もうなずいていた。
「と、いうことで話は変わるけど、秋の仮庵祭にはいよいよエルサレムに上ろうと思う」
みんなの顔が、パッと輝いた。
「おお、先生、ついに!」
エレアザルが、喜びの声をあげた。
「これで先生の名声は、天下に広がる」
と、シモンもうれしそうだった。
「出発は一ヵ月後。それまでみんな、ゆっくり休むといい」
「一ヵ月後? 仮庵祭はまだ四ヶ月も先じゃないですか。一ヶ月後っていったら一番暑い時期だ」
と、トマスが言うと、イェースズはにこやかに笑んでぶどう酒の杯を置いた。
「途中、いろいろ寄りたい所もあるんでね。そのくらいに出ないと仮庵祭には間に合わない。まずは、サマリヤを通っていこうと思う」
「え? サマリヤ?」
アンドレが声をあげたのも、無理はなかった。そこは同じユダヤ人でもちょっと毛色が違い、エルサレムのユダヤ教から見れば異端の教えを信じる異教徒とされる人々が住む所だからだ。だから普通ガリラヤからエルサレムに上る人はヨルダン川沿いに南下して、サマリヤは決して通らない。イェースズが使徒たちを驚かせたのは、それだけではなかった。
「私はエルサレムに、これを打ち立てに行くんだ」
イェースズが懐から取り出したのは、霊の元つ国を離れる時にミコからもらった十字に木を組んだ形象だった。だがそれを見て、使徒たちは口々に、
「先生」
と、叫んで顔を引きつらせた。
「先生、なんて不吉な!」
ペテロも顔を蒼白にさせていた。それは火と水をタテヨコ十字に結ぶ神の御経綸を象徴するものだったが、使徒たちが慌てふためいたのも無理はなかった。彼らの目から見ればそれは、死刑の道具である十字架にしか見えなかったからだ。そんな慌てる使徒たちを見てイェースズはいたずらっぽく笑い、
「またあなた方は、人間の考えでこれを見てるね」
と言った。だがイスカリオテのユダだけは、
「大丈夫だ。先生なら大丈夫だ」
と、したり顔で言っていた。だが彼とて、エルサレムに十字を立てるというイェースズの言葉の真意が分かっていないという点では、ほかの使徒たちと同じだった。そしてそれを、ヨシェもまた悲痛な顔で聞いていた。
エルサレム出発までの一ヶ月間は、何かと慌しかった。エルサレムまでは五日ほど歩けば着くのだからそう遠くはないのだが、なぜか別世界のように感じられる。出発の日が近づくにつれ、日増しに暑くなっていく。
そんなある日、イェースズはカペナウムに集まってきていた弟子団を解散させ、説得してそれぞれの郷里に帰らせた。これには使徒たちも驚いた。
「先生、エルサレムに行くには人数が多い方がいいと思いますけど」
これは、シモンの意見だ。どうも彼はまだ、腹にいち物あるらしい。しかしシモンでなくても、ヤコブなども弟子団をきちんとした形の教団にして、それでともにエルサレムに上った方がいいと言う。
イェースズは黙っていた。教団を作る気はさらさらないことは、もう彼らに何度も言ってきたはずだ。どうしても、彼らは分かってくれない。教団は人知の産物でしかないのだ。だが、ほかの使徒たちの中には、弟子団は留守番させておけばいいという意見もあった。仮庵祭が終わったら、すぐに帰ってくると彼らは思っているのだ。その根拠として、いつもイェースズのそばにいる一番弟子で、表向きは妻でもあるマリアが留守番なのだ。しかしイェースズは、
「いや、来年の過越しの祭りまで、エルサレムに滞在することになるかもしれない」
と、言った。それは表向きで、師はエルサレムに根拠を移し、いよいよ世界宣教に乗り出すのだと勝手に解釈した使徒もいた。イェースズがこの教えはやがて世界に広がると言った言葉もガリラヤの田舎でくすぶっている間は実感がわかなかったが、エルサレムに拠点を移すとなるとそれが急に現実味を帯びてくる。ピリポやトマスをのぞいて多くの使徒たちの意識では、エルサレムこそが世界の中心だったのである。
そうして、いよいよ出発の日になった。その前まで、ピリポはベツサイダに、ナタナエルはカナに、そしてアンドレ、ペテロの兄弟、ヤコブとエレアザルの兄弟、マタイは同じカペナウムにあるそれぞれの実家に帰してもらっていた。そして昼過ぎに、全員がイェースズの家に戻ってきた。だが、ヤコブとエレアザルは、その母親までもつれてきていた。どうしても見送りたいと言う。エレアザルは使徒たちの中でいちばん若く、まだ少年の面影が残っていたりするから、母親も心配だったのだろう。だが、彼らの父親のゼベダイは一年の大半をエルサレム近くのベタニヤで過ごしているのだから、過保護といえば過保護だった。そんな母親を、二人の兄弟は喜んで連れてきたわけでもなさそうだった。
「母さん、やめてください。お願いですから」
イェースズの家に入るなり、ヤコブとエレアザルはその母親を制止しようとしているようだった。それを振り払って母親は毅然とイェースズの前に来た。気性の激しい女のようだ。イェースズは初対面ではない。まだヨハネ教団いた時にベタニヤで一度会っている。だが相手は、あの時息子たちといっしょにベタニヤに来たヨハネ教団の幹部と、今の息子たちの師が同一人物とは分かっていないようだ。
ヤコブの母親は、家の前でひざまずいた。
「ゼベダイの妻で、ヤコブとエレアザルの母のサロメです」
かのエジプトの尼僧と同名だが、この国では名前の種類の絶対数が少ないので同名が多く、従ってそのことはあまり意識されない。現にイェースズの嫁姑が同じマリアだが、そのようなこともこの国では珍しくない。
「これは偉大な師、せがれどもがいつもお世話になっています」
イェースズは慌てて、その婦人の前に腰を低くした。
「いえいえ、こちらこそご主人のゼベダイのお志には、いつも感謝申し上げております」
「ところで師」
ヤコブの母サロメの口調が急に代わり、イェースズを見上げるようにした。
「エルサレムに行かれるとのこと、おめでとうございます」
別にエルサレムに行くくらいでおめでとうは大げさだなとイェースズは思っていると、サロメは声を落とした。
「エルサレムにユダヤ人の王国を立てた暁には、うちのせがれをいちばん近い側近にしてくださいね」
ユダヤの王国など打ち立てる気などさらさらないイェースズは、ただ笑っていた。ヤコブもエレアザルも困りきった顔で、母親の後ろにつっ立っていた。イェースズはあくまでも穏やかに、微笑んでサロメに言った。
「あなたは私がしようとしていることを、よくお分かりになっていないようですね」
「は?」
怪訝な顔で、サロメは口を開けてぽかんとした。そこでイェースズはそれを飛び越えて、その後ろにいたヤコブとエレアザルの兄弟に言った。
「あなた方は私がしようとしていることを理解して、共についてきてくれるね?」
「はい、もちろんです」
と二人の兄弟は答えた。
「確かに、あなた方ならついてくるでしょう。しかし、私が言う神の国での地位は私が決めるのではなくて、神様のみ意一つですよ」
イェースズはとりあえず、それだけを言ってサロメには帰ってもらった。そのあとすぐに、使徒たちは庭に出た、ヤコブとエレアザルもっしょだった。
そこへ妻マリアが、もてなしの小料理を持って入ってきた。そして、サロメと何やら話を始めていた。だがイェースズの関心は、外の方へあった。部屋を出る時の使徒たちから、何やらどす黒い波動を感じたからだ。
そこでイェースズはサロメとマリアの話の区切りを盗んで、外へ出てみた。案の定、ヤコブとエレアザルはほかの十人の使徒に囲まれて、何やら論争をしていた。
「あなた方は何かね」
ヤコブたちに先頭に立って意見しているのは、ペテロだった。
「あんたたちも先生がおっしゃるように、物質的な欲はもう超越していたと思っていたのだがね」
「ちょっと待ってくれ」
ヤコブが慌てて答えているうちに、皆は出てきたイェースズに気づいた。
「この二人を責めちゃいけないよ」
照りつける陽射しの中で輝きながら、イェースズは涼しい顔で言った。
「この二人のお母さんがどうも誤解されているようで、決してこの二人が私におべっかを使って取り入ろうとしたんじゃない。そんな事をしたって無駄だってことは、この二人がいちばんよく知っている」
「その通りです」
ヤコブが、力強く答えた。イェースズはさらに使徒たちに言った。
「エルサレムに行くといってもだね、地上的な王国を築きに行くんじゃないってことは、あなた方ももう分かっているはずだ。地上の王国での重職は、神の国でもまた重職かというと、そんなことはない。地上の王は威張って人々を虐げるのが多いけど、神の国でいちばん偉いのは心の下座ができた人だ。前にも湖畔で、決して卑下ではなくて自分をいちばん低くする人が、天国ではいちばん上に上げられると言っただろう。だから、どこまでも人様に下座して、奉仕する事が大切なんだ。世のため人のためなら何でもさせて頂きますって想念が大事で、それが神様の御用は何でもさせて頂きますってことにつながるんだよ。自分は神様の御用がしたいって人でも、とにかく神様だけ、『世の中? 知らないね。人様? どうでもいい』なんて人は、神様の御用なんてさせて頂けるものじゃない。よしんばさせて頂いていると思っていても、それは自己満足なんだよ。下座していれば、やがて神様が吹きあげてくださる。私だって、群衆が私に仕える事を望んではいないし、そんなことのためにこの世に来たんじゃない。むしろ私は人様に仕えるため、すべての神の子の僕となって仕えるためにこの世に派遣されたんだ」
イェースズの家の玄関前の路上に立ったままイェースズの話を聞いていた使徒たちは、皆うなだれて沈黙していた。やがてペテロが顔をあげ、ヤコブの前に出て頭を下げた。
「誤解してすまなかった。許してくれ」
謝られたヤコブたちの方が、かえって恐縮していた。ほかの使徒たちもペテロに倣い、それを見てイェースズは大声で笑った。
「さあ、これで和解成立。大調和の神様の御想念と一体化できたね」
それからイェースズは、そのまま十二人を連れて湖畔に出た。
イェースズはその風景を、目に焼きつけた。使徒たちは、これまでも何回か旅に出たその旅立ちの時と同じような感覚でいるようで、今度は今までよりちょっと長くなるなくらいにしか考えていない。だがイェースズは、この故郷の風景をしっかりと目に焼きつけておく必要があるように感じられてならなかった。いや、感じられるというより、知っているといった方がいいかもしれない。長く離れていたこの故郷に帰ってきてから約二年、そこに自分の人生が凝縮されているような気がする。しかし、これからが本番なのだとも思う。いよいよエルサレムに上る。十二歳以来のエルサレムで、確実に何かが自分を待っているとイェースズは思った。そして希望とともに一抹の不安もあった。
夜。明日になれば出発である。イェースズはいつまでも起きていた。狭い部屋に雑魚寝している使徒たちも、眠れずにいるようだった。あちこちでため息や寝返りの音がする。
イェースズは外に出て、夜空を眺めた。月が大きく明るかった。いつの間にかそばに、妻マリアが来ていた。
「何だ、まだ寝ていなかったのかい」
今のマリアは、自分の心中をあからさまに吐露するような性格ではなくなっていた。
「君も必ず後から来てくれ。待ってる」
とだけ言った。マリアは、静かにうなずいた。それはあくまで妻ではなく、もう一人の使徒としての態度だった。