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イェースズ一行は、また旅に出た。イェースズと弟のヤコブとユダ、ペテロとアンドレの兄弟、ヤコブとエレアザルの兄弟の総勢七人だ。
すでに雨季の、一年でいちばん寒い時期も過ぎていた。ローマ暦での正月も過ぎてもう一つ年をとったイェースズは、三十路の声がもうすぐ聞こえるという年齢になっていた。今の彼の風体は赤味がかった金茶色の髪は肩まで伸び、鼻の下にもあごにも豊かな髭を蓄えているが、不思議と清潔感が漂っていた。透き通る瞳は金属的灰色だった。
今回の旅はある目的があったのでやはり遠くへは行かず、ガリラヤ周辺を巡る旅だった。その目的とはナタナエルとピリポの召命ということにあったが、その前に癒しと説法に明け暮れながら旅を続けた。イェースズのうわさはガリラヤ全土に広まっているようで、彼の話を聞いているのはその町の人々ばかりではなく、遠くからわざわざ来た人々も混ざっているようだった。そして、前半生を遠い東の果ての国までの旅で費やしたイェースズは、今もまた旅人になっていた。だが、あくまで故国の中だけをめぐる旅人で、同伴者をぞろぞろとひきつれての旅だった。
そうして数日後、ナタナエルのいるカナへと向かった。カナはイェースズの婚礼が行なわれた町でもあり、そこにはイェースズの妻もいる。婚礼よりも一年たっていないのでまだ別居中だが、カナでは自分の妻の家ではなく、イェースズは第一の目的であるナタナエルの家を訪れることにしていた。ナタナエルは彼らがヨハネ教団にいた時に同じ幹部仲間だ。
丘を越え、遠くの丘陵にかぶさってカナの町が見えてきた。そこまで続く道には、芽を吹き出している草草のつぼみがいくつも足元に見られた。それを見つけるたびにイェースズは子供のようにはしゃぎ、手を差し伸べて愛でるのだったが、決して摘もうとはしなかった。
町の入り口まで、ナタナエルは出迎えていた。事前にイェースズは、自分の来訪を知らせるために末の弟のユダを走らせておいたのである。
久々の再会に、一同は手を取り合って喜んだ。ヤコブとエレアザルの兄弟とはイェースズの婚礼の時に会っているナタナエルだが、ペテロとアンドレの兄弟とはヨハネ師の宿営地を離れた時以来である。そしてイェースズはナタナエルにとって初対面の自分の弟のヤコブを引き合わせ、一足先に来ていたユダをもあらためてナタナエルに紹介した。
ナタナエルの父のトロマイの屋敷に着くと、ナタナエルは、
「さあ、先生、どうぞ足をお洗いください」
と言って、イェースズを家に招き入れた。
晩餐は、羊と子牛の丸焼き、、バターにヨーグルト、パンとぶどう酒という贅沢なもので、再会を喜ぶ話で宴も盛り上がった。
「ところでナタナエル」
少し赤くなり始めた顔で、イェースズはちょうど向かい側で床にひじをついて横になっているナタナエルに声をかけた。
「酔ってしまわないうちに言っておきたいんだが」
「はい。何でしょう」
「私は一人でも多くの人に神様のみ意を伝えたいんだが、あなたもいっしょに来てくれるかい」
ナタナエルは、にこやかにうなずいた。
「もとより、そのつもりです」
これで、旅の人数は一人増え、総勢八人になった。
翌朝は、よく晴れていた。イェースズはやはりこの町に来たのなら、素通りできない場所がある。この町には、彼の妻がいるのだ。婚礼後一年間は同居が禁じられているとはいえ、面会まで禁じられているわけではないので、イェースズは妻のイェースズの門を叩いた。ナタナエルの父の家からこの家まで、イェースズは久しぶりに弟子たちを連れないたった一人の外出となった。彼らは、ナタナエルの家に置いてきている。
迎えに出たのは妻マリアの母、すなわち母マリアの従妹で、ヨハネの母エリザベツの妹である。突然の婿殿の来訪に両親は大喜びで、早速昼食のもてなしの準備が始まった。ところが、妻マリアはいっこうに姿を見せないのである。
「マリアは、どうしました?」
思い切ってイェースズは、マリアの母に尋ねてみた。
「ここのところずっと、気分が悪いってふさぎこんでいるのですよ。あなたが来たことも知らせたんですけど、相変わらずの様子で」
申し訳なさそうに、母は言う。
「病気ですか?」
「いえねえ、どこかからだが悪いっていう様子でもないんですのよ、それが。だから余計に心配で」
「でも、どうしても会っておきたい。夏になれば、婚礼から一年ですからね。その後のことなども話しておきたいのですが」
婚礼から一年たって妻をカペナウムの家に迎えたとしても、イェースズは弟子たちとの癒しと説法の旅を続けるつもりでいた。それならばやはり事前に話しておかねばならないと考えたからだ。
だが、イェースズが妻の部屋に行くのは、あらぬ誤解を生じさせることになる。婚礼一年間の同棲禁止期間は、当然夫婦生活も禁じられている。その禁を破って妊娠などしてしまった日には、結婚は解消、子供は私生児ということになる。親たちはそのようなことを心配するに決まっているので、イェースズは無理にでもマリアを食事の場につれてきてもらうことにした。
果たして出てきたマリアは顔色も悪く、うつむいたままで、イェースズにも簡単な挨拶をしただけだった。ところがイェースズが優しい微笑をマリアに投げかけると、マリアは人が変わったように恐ろしい形相になり、イェースズをにらみつけた。だがイェースズは、自分をにらんでいるのがマリア本人ではないことはすぐに見抜いていた。
とりあえず、羊の肉とパンの午餐をともにしたが、その間マリアはほとんど口をきかなかった。イェースズはマリアの父、そして自分とは親戚でもあるマリアの母とばかり話をする形になった。イェースズのうわさは当然この町にも広がっているということだが、世間一般の人ならいざ知らず、彼らもエッセネ人であり、さらにはヨハネを甥に持ち、義兄ザカリアは祭司でもある。だから必要以上に特殊な感情をイェースズには持っておらず、あくまでその接する態度は親戚の一人、そして娘婿に対する範囲を出なかった。
食事が終わってからイェースズは、
「気分が優れないんだってね」
と、はじめてマリアに話しかけた。マリアは、黙ってうなずいた。
「もうすぐ、一年になるね。それから先のことなんだけど」
マリアは心ここにあらずで、瞳は虚空をさまよっている。そのオーラからは、どす黒い波動がイェースズを襲ってきた。
そのうち、マリアは泣き出した。そして、ぼそりと言った。
「私は、私は、罪の女……。マグダラで働いていたし」
イェースズは、ニッコリと微笑んで言った。
「本当の罪というのは、そのようなことではないのですよ」
「でも、世間は……」
確かに世間は、マグダラで働いていた女など色眼鏡の偏見でしか見ない。マグダラといえばガリラヤ湖西岸の、ローマ兵の保養地である。ヘロデ・アンティパスのいるティベリアからも近い。そこには、ローマ兵相手に商売する歓楽街がある。マグダラの女といえばその歓楽街で働くいわば水商売の女ということになり、さらに一部の女は娼婦でもある。マグダラの女すべてが娼婦というわけではないのだが、世間の持つイメージはどうしてもそのような部分が膨張してしまう。そこで働く女性は賄いの女、掃除の女、給仕の女などもいろいろいるはずだが、世間の目は短絡的だ。だが、マリアが自分を罪の女と言ったのは、自らを娼婦として告白したことにはならない。娼婦ではないこれら給仕や掃除の女であっても、ユダヤを植民地支配するローマの軍勢に奉仕する保養地の女である。いわば敵に奉仕するということで、収税人がローマの手先として忌み嫌われているように、マグダラの女というだけで罪びとの代名詞にもなったのだ。だから両親がエッセネ人でなかったら、娘をイェースズの嫁にと堂々と言うはずもなかった。しかし、親が気にしていないことを、本人は気にしてしまっている。
「分かった。まあ、お座りなさい」
マリアはそう言われて、イェースズと向かい合う形で床に横すわりに座った。父も母もいる部屋でだった。マリアがこのような陰の想念を持つことも、すべてが操られているとイェースズは見抜いたのだ。
イェースズは、マリアの眉間に向かって手をかざした。最大限の愛情を持って、その救われを祈って配偶者という最大の因縁の魂に霊流を注いだのである。
すぐにマリアの体は、小刻みに震えだした。
イェースズが問いかけると、それはマリアと父の三代前の先祖で、自分の悪業ゆえに幽界で苦しめられていることを訴えてきた。愛と真でイェースズがサトしたことによって霊は改心し、マリアの体から離れていった。だが、マリアの様子は依然変わらず、どす黒い波動もそのままだった。
イェースズはさらに手をかざし続けた。
今度はマリアは激しく首を左右に振り、指で床の上に何やら文字を書き始めた。それはマリアの祖母の霊で、マリアを心配して憑いているとのことだった。イェースズはそれをも優しく説得してマリアから離れてもらった。
だが、マリアの様子はまだ変わらない。さらに手をかざし続けると、次に出てきたのは犬の霊だった。そして戦争で死んだ兵士の霊、マリアの父の先祖に殺されたという女の霊、マリアが通りがかりに憑いたという無差別憑依の飢餓で死んだ少年の霊などが次々に浮霊し、イェースズのサトしで改心し、霊流によって浄められて離脱するかあるいは離脱を約束して鎮まっていった。
ところが、そのあとはいつまでもマリアの体は微動だにしなかった。しかし問題が解決いていないことはその蒼白い顔や、どす黒い波動から容易に察せられた。
ようやく、マリアは低いうめき声を発しはじめた。
「うう、やめよ、やめよ」
地獄の底から聞こえてくるような、不気味な声であった。マリア本人は、白目をむいていた。
「させぬぞ。させぬぞ」
イェースズはしばらく黙っていたが、ゆっくりと、
「何をさせないのですか?」
と、尋ねてみた。
「火の神、岩戸に閉じ込めたりしを、我らが目を盗んでそなたを遣わすなど、困るのじゃ。うまくいかなくなるのじゃ」
どうやらこれは大物らしいと、イェースズは思った。
「あなた様は、どなたですか?」
「お前ごときに聞かれても名乗れるものか」
「龍神様ですね。それも赤い龍神様ですね」
突然マリアは絶叫を上げ、床を転げまわって暴れだした。イェースズはそれを押さえたが、額にかざした手は離さなかった。だがすごい力で、一度はイェースズも弾き飛ばされた。そのままマリアは狂った状態で家ら飛び出そうとしたので、マリアの父がそれを抑えた。母はただおびえて、震えながらその状況を見ていた。
「おまえを邪魔するため、おまえの妻となるべきこの女にかかったのじゃ」
「あなたは、何がしたいのですか」
「この世を、モノと金が支配する世の中にして、その中で権勢を張るのじゃ。誰にも邪魔はさせぬ。火の神は岩戸に押し込めしなり」
イェースズはしばらく黙って、手をかざし続けた。
「熱いぞ。なんじゃ、この火のごとき力は。これは陽の光じゃ。熱い」
マリアは地面を転がって、のた打ち回った。そのうち、こぶしで床をどんどんと叩きはじめた。
だいぶたってから、マリアは目を閉じたままゆっくりと顔を上げた。
「うう、そうであったか、知らなんだ」
イェースズは、何も言っていない。人の目には見えないところで、高次元の神霊が憑依している神か霊かに直接サトしをしたようだ。
「それにしても何とまばゆい。恐いだけが火の神ではなかったのか。しかも、そのような計画があったなどとは……」
マリアはおとなしくなり、うなだれていた。そのうちまた大きな絶叫を上げると、両手を頭上に高く振り上げた。しばらくそれは揺れていたが、急にマリアは全身の力をなくして前につんのめってたおれた。
駆け寄ろうとする両親を制して、イェースズはマリアをゆっくりと抱き起こした。そっと目を開けたマリアは別人のような穏やかな表情で、イェースズを見た。顔は赤味がさし、目も生き生きとしていた。そして、
「ご主人様」
と、ひと言だけ言った。イェースズは微笑んで、ゆっくりとうなずいた。
「こんなことって……。娘に悪霊が憑いていたなんて。しかも、七体も」
へなへなと座りこんだマリアの母は、そう言ってつぶやいた。イェースズは、その母親の方へ首を回し、笑顔を送った。
「もう、大丈夫です。お嬢さん、いえ、私の妻は救われました」
「私の夫が、私を救ってくれたんです」
マリアは立ち上がると、元気になった様子で両親を見た。イェースズも立って、その妻の手をとった。
「夏になったら迎えに来るよ」
イェースズはそれだけを言った。
夕食は、午餐とはうってかわってにぎやかな談笑の場となった。そして夜も更けてから、イェースズはマリアのイェースズを辞した。マリアは一人だけ、門までイェースズを見送った。
ナタナエルの父の家に戻ったイェースズは、翌日は弟子たちとともにもうカナの町をあとにした。
次の目的地も、もう決まっていた。緑の山を越えて一度ガリラヤ湖畔に戻り、カペナウムは素通りして東へ行く。そこにベツサイダの町がある。ここから先はもう、ガリラヤではない。つまり、ガリラヤの最後の町である。
そこに、ヨハネ教団の幹部だったピリポがいる。彼とは、イェースズもヨハネ教団解散以来会っていない。
ピリポもまた、喜んで師とその一行を迎えてくれた。
ピリポの家はそう裕福ではないようで、宴は派手ではなかったが心がこもっていた。
「今、どうしているのかね」
と、イェースズはその席上でピリポに上機嫌で尋ねた。
「はい。ギリシャ哲学の勉強に打ち込んでいます。ヨハネ師の教えが聞けなくなってから、なんか心が空虚になりましてね。それを埋めようと思って」
「哲学もいいね。でも、もっと高尚な仕事をしてみないかい?」
「高尚な仕事とは?」
「私といっしょに行こう」
イェースズはそう言ってから、ぶどう酒を飲み干した。
「哲学とは、わけの分からないことを人知でこねくり回しているようで、私の性分には合わないよ。勉強することはいいことだけど、頭の中を学毒で固めるだけじゃなくて、もっと実践的なことを学ぶといい。神様の教えはもっと簡単で分かりやすく、だけど次元が高いものなんだ」
「はい。私もかねがねそんな気がしていたんです」
「さすがに律法をも、全部勉強したピリポだね」
イェースズは笑った。ピリポも微笑んで、明るく元気よく、
「先生についていきます」
と言った。ほかの弟子たちも、喜んで喝采を挙げた。
「これでみんなそろいましたね」
イェースズのとなりに座っていたペテロが、顔をイェースズの胸にもたれかけさせながらイェースズの顔を見上げるようにして言った。
「いや」
イェースズは首を横に振った。
「因縁の魂は、もっといるよ。輪廻転生の過程で結びついた魂の友どちは、これだけではないという気がするんだ。だから、それを探すために旅は続くよ」
イェースズは笑って言うと、またぶどう酒を飲み干した。その懐には、首から下げた御頸珠が揺れていた。そこにはまだ十二の玉がついたままだった。
散り散りになっていたヨハネ教団の元幹部を集めるという目的は一応達したので、一行はカペナウムに戻ることにした。湖畔沿いに街道は延び、ようやくカペナウムの町が見えはじめた頃にローマの関所があった。カペナウムは漁村であるだけでなく交易の中心地でもあるから、ローマはその出入り口に旅人や商人たちから通行税を取るための関所を設けていた。
「やれやれ、また税か」
イェースズの弟のヤコブがつぶやいた。確かにガリラヤの領民たちは領主ヘロデ・アンティパスへの税、ローマへの税と二重の税金地獄に苦しんでいる。エルサレムの神殿に参拝するにも、神殿税が取られる。それに加えて、ちょっと移動するだけで通行税なのだ。彼らの憎悪は、ユダヤ人でありながらローマへの税を代行して徴収する収税人に向けられていた。今も関門の下の小屋で、税を取り立てている収税人がいる。ローマの手先であり、ローマのお蔭で裕福な生活をしている彼らは、憎まれても仕方がない存在だった。
ここの収税人はまだ若者のようだったが、確かに身なりはいい。そんな収税人が、小屋の中でどうも誰かと言い争っている。ところが収税人は弟子たちに囲まれて歩いてくるイェースズの姿を見ると、
「あっ!」
と、声を上げてた。背後の小屋の中にいて収税人と言い争っていた男も、ちらりとイェースズを見た。
「あなたは、イスラエルの王!」
その収税人の叫びに、小屋の中の男は明らかに眉を動かした。イェースズは収税人の若者の透き通る瞳を見て、すぐに思い出した。
「ああ、あなたですか。まだそんなことを言っているんですか?」
苦笑とともにイェースズは言うと、若者は小屋から飛び出してきた。
「ぼくのこと、覚えていらっしゃるのですか?」
「ええ、覚えてますよ。確か、同じカペナウムの人だと言っていましたからね」
「本当ですかあ?」
若者の顔が輝いた。かつてヨハネ教団にいいた時、ベタニヤでイェースズはこの若者と会っている。ヨハネの洗礼の場でイェースズの話を聞いて感銘を受けたと、しきりにイェースズをイスラエルの王と呼んでたしなめられたあの収税人だ。
「確か、名前はレビ」
「え? 名前までも?」
「あの時私は確かにあなたとは因縁がありそうだと言ったが、本当だったね」
イェースズの苦笑はもう笑顔に変わっていた。
「本当に、因縁があるんですかあ? じゃあ、今夜はぼくの家に泊まってください。父にお願いしておもてなししますから」
だが、弟子たちはしり込みをしていたし、ペテロなどは露骨にいやな顔をしていた。
「先生、何でまた収税人の家なんかに」
弟のヤコブもまた、イェースズの袖を引いて言った。
「それに、もう家はすぐそこじゃないですか」
「まあ、いいから」
イェースズは笑ってそう言うと、うまく二人の問い詰めをかわした。
「じゃあ、今からご案内します」
イェースズたちを先導して歩き出そうとしたレビに向かって、小屋の中の男は、
「ちょっと待て」
と声をかけた。レビは振り向いた。
「さっきの続きはまた今度だ。あんたの言い分は分かるが、ぼくだって心の隅までローマに売り飛ばしたわけではない」
「て言うなら、なんで収税人なんかやってんだっていうんだ」
「だから、親父の仕事だからしょうがないだろうってことだよ。何度言わせるんだい」
「そんなもの、どうにでもなろうが」
男は、小屋からさっと出てきた。そしてレビの前ではなく、イェースズの前に立ちふさがった。
「てな話は、確かにまた今度でもいい。それよりもあんた」
男は、イェースズに向かい合う形で立った。頬がこけ、狐のような面立ちだが、頭が切れそうな男だった。いわば理知的で、秀才タイプの男で、イェースズより幾分年長のようだった。
「あんた、さっき、イスラエルの王とか呼ばれてたな」
ペテロとエレアザルの兄の方のヤコブが、左右からイェースズを援護する形で男を威嚇して前に出た。イェースズは、その中で苦笑した。
「それは、この方が勝手に言っていたことですよ」
男は、イェースズの顔を覗き込んだ。
「あんた、もしかして今うわさになっているイェースズとかいう祈祷師じゃないか?」
イェースズはニコニコと微笑んだ。
「祈祷師というのははずれてますけど、確かに私はイェースズです」
「ほう」
男はもう一度、じろじろとイェースズを見た。
「あんたが、どんな病でも癒してしまうと評判のイェースズか。思ったより細い体だな」
そしてレビに向かって、
「俺もついて行っていいか。俺はこの男に興味がある」
と言い、返事も聞かずに男は無愛想に一行のあとをついてきた。
カペナウムにはいわば地の民と呼ばれる人々の住む貧民窟もあるが、それと対照的に丘の上の方、つまり坂を上った当たりは高級住宅街になっていた。レビの家もそんな中の一つで、目を見張るようなギリシャ風の建築だった。同じ町にありながら、石を積んだだけのイェースズの家とは大違いだ。
まずは、家の中央の広間に通された。そこに、初老の男がいた。家に着いた時点でレビはイェースズたちの来訪を告げるため、召使を一人父のもとへ走らせていた。
「おうおう、ようこそ。私がレビの父、アルパヨです」
アルパヨと名乗ったその太った男は、相好を崩してイェースズを迎えた。
「まあ、どうぞおかけなさい」
イェースズたちは床ではなくギリシャ風のいすに座った。
「あなた方は、ヨハネ師のお弟子だったそうですね」
「はい。そうではなかったものもおりますが」
イェースズもニコニコしてアルパヨと話した。
「私もヨハネ師とは親しかったのですよ」
イェースズは内面的な力で、それがうそであることは分かっていた。アルパヨは、ヨハネとはただ一度会って話をしたことがあるだけだ。
「そうですか」
だがイェースズは、あえて気付かないふりをしていた。その時アルパヨは、「おや?」というような顔をした。イェースズの弟のヤコブとユダを見てからだ。
「あなたがたは、亡くなった大工のヨセフの息子さんたちでは? ヨシェの弟さんだろう」
「え?」
と顔をあげたヤコブとユダは、しばらく首をかしげてアルパヨを見ていた。
「いやあ、覚えていないのも無理はない。ヨセフが生きていた頃は、あなたがたはまだ小さかったからね。よく遊んであげたんだが」
パリサイ人などと違って、エッセネ人なら収税人も罪びとなどと呼んで差別したりはしない。だから、父ヨセフが同じ町に住むアルパヨと親しかったとしても不思議ではない。
「あなたがたも、ヨハネ師の弟子になっていたのか。確かに、ヨハネ師とヨセフは親戚だからね」
「いえ、違うんです」
ヤコブは慌てて言うと、イェースズを示した。
「こちらが私の師、そして兄です」
「兄? 兄って……」
「ヨシェの上の兄です」
「あ、そう? そうですか」
アルパヨは、今まで以上に相好を崩した。
「いやあ、それはそれは」
イェースズは、長くこの国を離れていたことを簡単に告げた。
「世の中、広いようで狭いですな。私がヨセフと知り合ったのは、ヨセフが亡くなるすぐ前だったから、あなたはちょうど旅に出ていた時ですな。そういえば、修行の旅に出ている息子がもう一人いると、ヨセフは言ってた。私はエッセネのことはよく分からないが、あなた方のお母さんもエッセネの中では特別な立場にあったお方だとか」
アルパヨがそう言っている時に、召使が入ってきてアルパヨに耳打ちした。
「宴の支度ができたそうです。お隣のお部屋へどうぞ」
アルパヨは、一同を見渡した。その時、レビと言い争っていて、ここに勝手についてきた男を見て、アルパヨは、
「君がここに来るなんて、珍しいな」
と少し眉をしかめて言った。
宴が始まり、酒も出て、いろいろな話題で盛り上がったが、アルパヨはもっぱらヨハネのことばかり話していた。
「それにしてもヤコブもユダも大きくなった」
アルパヨが上機嫌で、話題を変えた。イェースズもかなり杯を重ねている。
「ヤコブなんか、かわいかったんだ。あんまりかわいいから『おじさんの子になるかい?』って聞いたら、『うん』と答えていたんだよ」
一同は、どっと笑った。
「そうか、じゃあヤコブは、本当はアルパヨの子だったんだ」
イェースズも笑いながら冗談で返すと、また笑いの渦となった。そうして話も進み、皆に酒も入ってかなり時間がたってから、玄関の方が騒がしくなった。そして召使がしきりに止めるのを振り払って入ってきたのは、かつてイェースズの家でイェースズに毒づいたあの律法学者だった。今日は一人である。
「あの、何か?」
アルパヨはびっくりして、ぶどう酒の杯を床に置いた。自分たち収税人を目のかたきにしているパリサイ派の律法学者が家に入ってくるなど、普通なら考えられないことだったからだ。
その学者は、アルパヨは無視してイェースズのそばに立ち、イェースズを指さした。
「あんたがさっきこの家に入っていくのを、通りがかりで見てしまったんだ。あんたは何かね。あの時は律法がどうのこうのとあんな偉そうなことを言っていたが、そんなあんたが罪びとの家で罪びとと食事をしているではないか」
「あのう、罪びととは誰のことですか」
イェースズは、あくまで穏やかに尋ねた。
「決まっているじゃないか。こいつら収税人だ」
「なぜ、収税人が罪びとなんです? それに他人の家に足も洗わずに勝手にずかずかと入り込んでくるのはどうなんでしょうか」
「人の家? 収税人ごとき罪びとは、人なんかではないわい」
いいかげんアルパヨもレビもむっとした顔をしたが、イェースズは優しくそれをなだめてから、また学者の方を見上げた。
「すべての人は、神の子だと思いますよ。神の子を人ではないなどという理屈を言う人のお口から神様のことを語ってほしくないのですが」
イェースズは顔こそ微笑んではいたが、目は鋭く学者をにらみつけていた。
「なんだと!」
「あのう、それに、若輩者の私が言うのも申し上げにくいことなんですが、少し礼儀をわきまえられたらいかがでしょうか。私どもはここで、楽しく宴会をしていたのですが」
「そんなことはどうでもいい。罪びとと食事をするものこそ、神を語る資格などない!」
「律法に固執して、それに当てはまらないのは罪だというのは違うんじゃないですかって、この間も申し上げたじゃないですか。罪とは、神様と波調がずれていることだと思います。でも、たとえそういう意味での罪びととでも、私はいっしょに食事はしますよ」
「いいか。教えてやろう。罪びとと食事をすること自体が、これも罪なんだ」
「そうですか? 健康な人に医者はいらないでしょう? 医者を必要とするのは、病人ではないですか。だから、医者は病人のところに行かないと、医者としての仕事ができないではありませんか。私も同じように、義人とはいえずに罪の状態にある人の所に出向いて、食事も喜んでいっしょにとります、そういう人々をこそ、救わなければならないんです」
学者は何か言いたそうだったが、言葉が出ずにうなっていた。しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「だいたいここにいる多くは、あのヨハネの弟子だったものなのだろう。ヨハネは断食していたのではないのか? それくらいだったら、私も知っている。それなのにおまえたちはこんなに贅沢な飲み食いをして。イェースズ! その真っ赤な顔はなんだ! この大飯食らいの大酒飲みが!」
そう言う学者の顔こそが、酒も飲んでいないのに怒りと興奮で真っ赤になっていた。だがそれは単なる状況を形容しているのではなく、聖書によれば異教徒に対する罵声の言葉なのだ。
「聖書に、『私は慈しみを喜び、犠牲を喜ばない。いけにえよりもむしろ、神を知ることを喜ぶ』とあるではありませんか。あなた方は律法、律法とまるで金科玉条のように言いますけれど、律法なんて人知でまとめられた人間の教えじゃあないんですか?」
「何を言うか。律法はれっきとした神の教えではないかッ」
「そうですか? 何しろ律法は、難しすぎてよく分からないんですけどね。それに対して、本当の神様の教えはもっと簡単で、分かりやすいものですよ。そういった神様の教えを人知でこねくりまわして勝手に解釈し、尾びれをつけて、わけの分からないものにしてしまったのがその律法なんじゃないんでしょうか」
「おまえはどこまでも、神を冒涜するのか!」
「そんなあ」
イェースズは少し笑った。
「神様は絶対ですよ。その置き手の法も絶対です。でも今の律法はそれに余計なものをつけすぎているって、私は思うんですけど。いいですか? 古い革袋を新しい革でつぎはぎしても、いつかは破れてしまうんですよ。お酒だって新しいいいお酒を飲んでしまったら、もう古いお酒なんて飲みたくないじゃないですか。私が説いているのは、あなた方のようにパリサイ派がどうのサドカイ派がどうのなどというちっぽけな宗門宗派の枠を超えた、普遍的な根元の大元を説いているんです。だいたい、宗門宗派で分かれて争っているなんて、おかしいと思えいませんか? 宗門宗派の数だけ、神様がおられるのですか?」
「馬鹿な。神は唯一の神、絶対なる神だ」
「そうでしょう。 お一方の神様に作られた全世界の兄弟が。宗門宗派に分かれて争っているなんて、神様からご覧になれば兄弟げんかを見ている親の気持ちですよ」
イェースズは話しながらも横になっているからだの脇からそっと、気付かれないように律法学者に向かって手をかざしていた。
「なんだか頭が痛くなってきた。またあらためて説き伏せてやる」
捨て台詞を残して、学者は出て行った。すでに宴はあの律法学者の乱入のせいで、すっかりしらけてしまっている。ただ、レビだけが目を輝かせて、イェースズを見ていた。ところがもう一人、イェースズをじっと見ている目があった。レビと小屋で論争していたあの男だ。同じ部屋にいながらも少し後ろに横になって座り、男は食事には加わっていなかった。だが、鋭い視線は微動だにもせず、じっとイェースズを見据えていた。
しばらくして、イェースズはアルパヨの家を辞することにした。その出際に、レビがイェースズのそばに走り寄ってひざまずいた。
「先ほどの話を聞いて私は決めました。私もいっしょに連れて行ってください」
「私の弟子になりたいということなのですか?」
「はい」
イェースズはニッコリと微笑んでいたが、ほかの弟子たちは曇らせた顔を互いに見合っていた。イェースズはレビに立ち上がるよう促し、優しく言った。
「お仕事はどうしますか」
「辞めます」
と、きっぱりとレビは言った。
「お父様は、お許しになりますかね」
「父にはもうさっき、打ち明けました。賛成してくれました。あなたについていきたい。あなたはイスラエルの王どころか、世界の王だ。王の中の王だ」
イェースズはまた苦笑した。
「一つ条件があります。私を王、王と言うのをやめていただければ、いっしょに行きましょう。これからは魂の税を納めるべき本当のところについて、いっしょに勉強していきましょう」
「ちょっと待った」
弟子たちのいちばん後ろから、イェースズの前に人を掻き分けて出たのは、レビと論争していたあの男だった。レビはむっとした顔で、その男をにらんだ。
「また、邪魔するのか。あんたの誘いを断って仕事を続けてきたぼくが、いとも簡単に仕事を辞めるなんて言ったから、面白くないんだろう。でもこの方についていくことと、あんたの誘いに乗ることとでは次元が全く違う」
「まあ、落ち着け」
男は苦笑した、そしてイェースズに向かって言った。
「俺もいっしょに連れてってくれ。いや、下さい」
男は薄ら笑いを浮かべ、レビを見た。
「おまえとは、とりあえず休戦だ」
そう言われたレビは、呆気にとられてただ口をあけていた。男がまた、イェースズを見た。
「いいでしょう。いっしょに行きましょう」
イェースズはもう霊眼を開き、この男のこと、この男との因縁などもすべて見通していたので、あっさりと同行を許した。そして二人に向かって、
「あなたがたの方から私についてきてくれると言ってくれたのは、有り難いことだ。本当に有り難う」
イェースズは心の底からの笑みを見せ、大きくうなずいた。
「あ、それから、先生」
レビは早速イェースズのことを、師と呼んだ。
「言い忘れましたけど、さっき父に先生といっしょに行くことを話したら、今後先生の旅の費用は父が全部持ってくれるそうです」
ちょうどヤコブとエレアザルの兄弟の父のゼベダイがヨハネ教団の金銭的援助者、スポンサーだったと同じように、自分にはこのアルパヨが同じような立場になってくれるというのである。
「そうですか。いや、それは有り難い」
イェースズは目を閉じて、祈っていた。神の仕組みをス直に神に感謝し、そしてレビの家の玄関の中に向かって深々と頭を下げた。
「ではユダ。あなたがそのお金を管理してください」
イェースズの弟のユダがパッとイェースズを見たが、イェースズの視線の先には弟ではなく先ほどの男があった。男もレビも、大きく目を見開いていた。
「ラ、先生。確かまだ、こいつの名前は言っていなかったのに……いつの間に……」
レビが驚きの声を上げた。イェースズは、いたずらっぽくニッコリ笑った。男も、しどろもどろで、
「確かに俺は、俺は、ユダです。イスカリオテのユダといいます。なぜ、俺の名前を……」
イェースズは笑って答えなかった。ペテロがしゃしゃり出た。
「先生のされる奇跡の業を見たら、こんなことくらいでは驚かなくなりますぞ。我われはもう慣れっこだ」
「こら、ペテロ」
いつになく厳しい口調で、イェースズはペテロのことばをぴしゃりと制した。
「そのようなことは、言うもんじゃない。奇跡に狎れてはいけない。狎れるというのが、いちばん恐いことなんだよ」
厳しい顔になったのはほんの一瞬で、次の瞬間にはイェースズはもういつもの笑顔に戻っていた。
「ところで、先生」
イスカリオテのユダも、早速イェースズを師と呼んでいた。
「先生に、もう一人お会わせしたい人がいるんだ。今、つれてきてもいいですか?」
イェースズがうなずくと、ユダはすぐに走って言った。
待っている間、一行はガリラヤ湖畔に出た。イェースズとレビがともに語りながら歩いていたが、ほかの弟子たちはまだ一歩下がってついてくる。イェースズはレビに、
「さっき関所で会った時、ユダとは何を言い争っていたのかね」
と、聞いた。イェースズもレビに対して、打ち解けた口調で話すようになった。
「実はあの男は私が小さい時に死海の南の方から越してきたんですが、いわば私の幼なじみで、昔は私はよくお兄ちゃん、お兄ちゃんと言ってあとをくっついていっていたのですけどね、今では変わってしまった。あの男、今では実は」
レビがそこまで言った時、ユダがもう一人の男を連れて走ってきた。ユダと同年代、つまりイェースズよりは少し年長の男だ。それでも、若者の域はまだ出ていない。
「あ、あいつ、あの男まで連れてきた」
レビが驚きの声を上げた。息を切らせながらユダは、もう一人の男をイェースズに紹介した。
「シモンです。幼なじみです」
「シモンです」
シモンと紹介された男は、ニコリともせずにイェースズに挨拶をした。
「このシモンは先生のうわさを聞くにつけ、一度会ってみたい。できれば弟子になりたいとずっと言っていたんだ」
話がどうもうそ臭いが、イェースズは不問にして笑顔でシモンを見た。
「ちょっと待ってください」
レビが、イェースズの前に出た。
「さっき言いかけたことですけど、この二人とも熱心党なんですよ」
イェースズの霊眼はすでにそのことを読み取っていたので全く驚かなかったが、ほかの弟子たちはざわめき立っていた。エレアザルの兄のヤコブが、一歩前に出た。
「おい、まさか私たちをまとめて熱心党に入れようっていう魂胆じゃないでしょうね」
「いえ、決してそんな。いつも会いたいと思っていた人がカペナウムに戻ってきたとユダから聞いて、飛んできたんです」
熱心党とは、武力革命でローマの植民地支配を終わらせ、イスラエルの民の民族自決を勝ち取ろうという政治的集団である。
「シモン、あなたもいっしょに言ってくれますか。ただし言っておきますけれど、私は武力でローマに反抗することによるイスラエルの民族独立を願ったりはしていませんよ。私が考えているのは追々お話ししていきますが、全世界に神の国を実現させるために人々を救うことなんです。それでもいいですか?」
ユダもシモンも何か腹に一物ありそうなうなずき方をした。
「それでレビとユダは言い争っていたのですね」
「そうです。幼なじみのユダなのに自分はさっさと熱心党に入って、そして私の仕事をいつもなじりに関所に現れていたんです。ローマの手先の仕事はやめろ、熱心党に入れとうるさくてね」
「それにしても、収税人と熱心党が幼なじみだなんて、そしてその両方が私のもとに来た。なんと不思議なお仕組みだね」
イェースズは穏やかに言った。イェースズの弟たちを別にすれば、初めてヨハネ教団には属していなかった弟子がついたことになる。だが、それがただの人ではなかったのだ。それについてひそひそと何かを言い合っていた弟子たちが、ペテロを先頭にイェースズを取り囲んだ。
「先生。どういうご料簡です? 収税人を弟子にしただけでも信じられないのに、今度は熱心党。その犬猿の仲を一つ屋根の下に住まわせるんですか。それに熱心党が加わったとなると、完全にローマを敵に回すことになりますよ。」
「まあ、落ち着いて」
イェースズは今度は優しくペテロをたしなめた。
「この仲間は、過去世においてもきっといっしょに活動していた仲間なんだよ。深い因縁があるんだよ。その因縁の糸を手繰り寄せて、今生でもこうして吹き寄せられてくるんだ。今はいろんな立場になっていてもだね、たとえ収税人になっていても熱心党になっていたとしても、魂はみんな因縁の魂なんだ。だから、神様は私のもとへ吹き集められる。今ここにいるだけじゃない。これからもまだ、因縁の魂が吹き寄せられてくるよ。宿縁の絆で結ばれた友どちは、やがて必ず一堂に会する。これから来る人は、ガリラヤ人とも限らない」
弟子たちの上に、さっと風が吹いた。
イェースズは十一人の弟子を連れて、家に帰った。狭い家は、男たちであふれた。イェースズが帰るとすぐにまた、うわさを聞きつけてたくさんの人が救いを求めて押し寄せた。イェースズはいやな顔もせずに一人一人の病を癒し、憑いている邪霊をサトした。新たに加わったメンバーもイェースズの奇跡の業を目の当たりにして、自分の選択が間違っていなかったことを確信したのである。
そんな中に珍しく、肉体的な救われを求めてきたのではない人もいた。母によればこの前も来たそうだが、イェースズが不在だったので出直してきたようだ。それほど年配でもないのに、頭の上が禿げ上がっている小柄な男だ。
「すみません。トマスって言います」
ギリシャ語だった。顔つきはユダヤ人だが、ギリシャ語をしゃべるということはディアスポラである。果たして男は、
「アンティオケから来ました」
と、言った。アンティオケはシリアの北方、地中海に面した町だ。そこはすでにローマの領土であり、ローマ帝国の一都市として栄えている。
「私はギリシャ哲学を勉強しています。もっと深く哲学を学びたくてギリシャに行こうとしたのですけど、船の出るカイザリアに行く途中にこの町に立ち寄ったら、町はあなたのうわさで持ちきりだったのです」
「そうですか。それは遠路はるばるご苦労様です」
イェースズは笑みを作って、ちょうどそこにいたピリポをちらりと見た。
「ここにもギリシャの哲学が好きなのが一人いますけど、でも私は哲学者ではないし、わたしの教えも哲学ではありませんよ」
「会堂であなたの言葉を聞いたという人から、あなたは素晴らしい哲学をお持ちだと聞いたのですけど」
「神の教えは、哲学のような人知の遊戯ではありませんからね」
「そうですかあ?」
男はまだ、疑わしそうな顔をしていた。
「ご謙遜されているんでしょう。私は疑わしいと思ったことは、自分が納得するまでとことんまで追究しなければ気がすまない性格なんです。私もいっしょにここにおいていただけませんか?」
「分かりました。私はずっとここにいるわけではなくてまた旅に出ますけど、よかったら一緒に行きましょう」
こうしてイェースズの集団には、ガリラヤ人ではないディアスポラまでが加わった。
その日の夕食は狭い部屋にひしめきあうかたちで、パンと魚という質素な食事をした。
その夕食の席で、イェースズは一堂の顔ぶれを見回した。十二人になった。彼の首の御頸珠が揺れた。そこにはちょうど、十二の珠がある。今、目の前にいるのも十二人。これで十二人そろった、とイェースズはひそかに思った。神から与えられた魂の友はそろったのかもしれない。そう思うと、十二人の男たちがイェースズにはいとおしくて仕方のない存在に見えてきた。
ただ、紛らわしいのは同名がいることだった。アンドレの弟のシモンは今ではもうペテロがすっかり通称になっている。だから、熱心党のシモンとは区別する必要がなかった。あとはヤコブとユダが二人ずついることになるが、イェースズは自分の弟のヤコブをエレアザルの兄のヤコブと区別して小ヤコブ、同じくユダをイスカリオテのユダと区別するために小ユダと呼ぶことにした。
また、レビには新しい名前を与えた。神の賜物という意味の「マタイ」という名だった。
すぐにイェースズは、十二人の弟子とともに旅に出た。十二人が全部カペナウムの家にいたら家が破裂してしまうし、母もいい顔をしない。そしてヨシェの大工としての仕事にも支障をきたすと思ったからだ。
時は春で、雨季が終わって温かかくなると緑がパッと萌え、色とりどりの花が咲き、ガリラヤが一年でいちばん美しくなる季節だ。夏の乾季には、花は一斉に枯れてしまう。
そんな神の恩寵の風景の中をイェースズたちは旅をし、麦畑の中を丘のふもとの小さな町に向かっていた。間もなく日も暮れようとしている。この日は日が暮れたら週の終わりの日が始まり、安息日となる。だから、日が没する前になんとか町に着きたかった。
だが間に合わず、宵闇があたりを包んでも、町はまだ一面の麦畑の向こうにあった。一行は一列になって、麦畑の中を黙々と進む。ちょうど冬麦の収穫の頃で、腰のあたりまでふさふさとした穂に埋まりながら彼らは歩いていた。最後列の小ヤコブと小ユダの兄弟は、しきりに腹が減ったと文句を言っていた。最前列からイェースズが振り向いて、
「もう少しだ。我慢しなさい」
とたしなめた。そういう時のイェースズの顔は、師ではなく兄に戻っていた。
「もう我慢できない。どうせこの麦はパンのもとだから、パンを食べるのといっしょだ」
と、小ユダが麦の穂を積んで手の中でもみ、口の中に入れながら歩いていた。その頃はもうとっぷりと日が暮れていた。
暗くなりかけた頃、町に着いた。どうやら真っ暗になるまでには間に合った。だが町の入り口にこの町のパリサイ派の律法学者らしき男が二人、彼らの行く手を阻むように立っていた。そしてイェースズたちが町に入ろうとすると、両手を広げてそれを制したのである。
「旅のお方ですか。もう日が暮れている。すでに安息日ですぞ」
そう言われてイェースズが笑顔で会釈をすると、最初に声をかけた方ではないもう一人が、イェースズをじろじろと見ていた。
「どちらから、来られた?」
「カペナウムですが」
「やはり」
その学者は、うなずいていた。
「カペナウムのイェースズの一行ではないのかね?」
「そうですが」
「あなた方のうわさは、この町でも持ちきりだ。私の師はカペナウムにいるんだが、あなたのことは詳しく師から聞いている。ずいぶんと論争をしてくれたそうですな」
よりによってこの学者は、カペナウムでイェースズと二回も論争をしたあの学者の弟子のようだ。
「それにあなたの弟子は、安息日だというのに麦の穂を摘んでましたな。遠くからでも見えましたよ。人の畑の麦を勝手に積むのもさることながら、どうして安息日にしてはいけないことをするのです?」
もはやイェースズたち一行は、前に進めなくなった。イェースズは一つ、咳払いをした。
「人の畑の麦を取ったのは、申し訳ない。お詫びいたします。今後は気をつけさせます」
「しかしですよ」
と、ピリポが口をはさんで身を乗りだした。
「ダビデ王が自分とその従者に食べ物がなかったとき、どうしたかご存じですよね」
律法学者だから知らないわけはないだろうが、あまりにも突拍子もない突然の質問に答えに窮していた。ピリポはしたり顔で続けた。
「あれは大祭司アピアタルの時でしたね。神殿に行ってお供えのパンを自分も食べたし、従者にも与えたではないですか」
「それがどうした」
学者がいきがって問い返してきたので、イェースズはピリポを見て、
「自分の知識を、自らの非を正当化するために使ってはいけないよ。それにそれはアピアタルではなく、アキメレクの時だ」
とたしなめ、もう一度学者に顔を戻した。
「しかし、安息日だからどうのこうのというのは、どんなものでしょうね。安息日って由来はともかくとして、人が休むためにあるんじゃないですか。人が安息日のためにあるんじゃないと思うのですが。そんな形式よりも、人が生きていく糧の方がずっと大事だと思いますが、いかがでしょう。すべての人は神の子なんですから、へりくだって神とともに歩むのなら、その神の子人はいかなる文字に書かれた掟よりも尊い存在ではないですか」
「師から聞いていた通り、一筋縄ではいかない男のようだな」
それだけ言うと、二人の学者はイェースズたちに背を向けて町に入っていった。だが、これで引き下がったわけではないことは、イェースズは十分に察していた。
イェースズたちは町には入らず、その外でテントをはって野宿した。そして翌朝、礼拝のために皆でそろってこの町の会堂を目指した。会堂には、当然例の律法学者の姿もあった。イェースズが会堂に入ると、人々は途端にざわめきはじめた。この町でもイェースズのうわさで持ちきりだという律法学者の話は、本当だったようだ。そして会堂をぎっしり埋める人々の中でも、すぐに人をかき分けてイェースズに近づいてきた婦人がいた。
「あなたがこの町に来て下さることを、どんなに心待ちにしたことか」
婦人はほとんど涙を浮かべている。
「どうされました?」
イェースズは、優しく婦人に問いかけた。
「私の夫が、手が動かなくなったんです。ずっと両手がだらりと下がったままで、ぜんぜん動かないんです」
「そうですか。前からずっとなんですか?」
「いえ、ついこの間から急になんです。それまでは普通でしたのに」
突然の症状の悪化というのは、まずほとんどが霊障である。だがイェースズは、あえてそれは言わなかった。イエスの業は、口で言うより問答無用である。
「分かりました。ご主人はどこにおれます?」
「あそこです」
婦人は立ち上がり、イェースズをつれて人ごみをかき分け、会堂のほぼ中央に連れて行った。そこは、普通は女性は入れない所である。そして、そこで一人の男性をイェースズに示した。
「手が動かなくなったというのは、あなたですか?」
男はうつろな目でイェースズを見あげたが、すぐにイェースズを誰だか察したようですがるような表情になった。
「ど、どうか、救ってください」
そのときまた人ごみをかき分けて、昨夜の二人の律法学者が、イェースズのそばに来た。
「今日は安息日ですぞ。安息日に癒しの業をするのが禁じられていることを、まさか知らないわけはないでしょうな」
「あのう、ひとつお伺いしたいんですが」
イェースズは律法学者を見た。
「安息日にいいことと悪いこと、どちらをした方がいいのでしょうか」
「どちらもしてはいかん」
「ではもしも、あなたが安息日に穴に落ちて、そこに人が通りかかって助けてくれようとした時にも、あなたは『今日は安息日だから、自分を助けてはいけない』と言って、一晩穴の中で我慢しますか」
「そんなのは詭弁だ!」
「詭弁か偽善か、どちらがどうなのでしょうねえ。あなたと私と。安息日は命を救うためにあるのであって滅ぼすためではないと思うのですが、いかがでしょうか?」
イェースズはニッコリ微笑んで見せた、あとは律法学者を無視して手が動かなくなったという男に目を閉じさせた。そして眉間に手をかざすと、男はすぐに霊動が出た。イェースズの霊査によって、この男に斧で両方の前足を切断された猫の霊による怨みの霊障だと判明した。そして手のひらからの霊流で憑いていたネコの霊は浄化され、イェースズのサトしによって離脱した。目を開けた男は、あたりを見た。会堂に集まっていた人々は、丸く人垣を作っている。その衆人監視の中で奇跡は起きた。男は腕が動く動くと大騒ぎなのだ。
「さあ、もうこれからは、あんまり残酷なことはしないほうがいいですよ。動物霊とて侮ってはいけません。今ここであなたが改心しないと、あなたの曇った魂と波調の合う霊がまたやってきて、もっと悪いことになりますよ」
「はい、ありがとうございます」
男は涙を流して立ち上がった。その妻である夫人は、もう泣きじゃくっている。そしてそれを人垣を作って見ていた人の間からは、感嘆の声とため息が漏れていた。ところが先ほどの律法学者だけは、居丈高だ。
「安息日だというのに、とうとうやったな」
その声は、しんとした会堂の中に響いていた。
「ヘロデ王の側近にも通告して、おまえを逮捕してやる」
イェースズはまた、学者を見た。
「天にまします父なる神には、安息日なんてありませんよ。七日間ずっと、そして丸一日中休みなくお働きになっています。もし神様が本当に休まれたら、人間の世界には無秩序になって崩壊してしまうんじゃないですか。この神様は、調和の神様ですからね」
「今、父なる神とか言ったな」
「そうですよ。我われはみんな神の子なんですから、神様は天のお父様です。そして、一切の森羅万象の運営を司っておられますからね、その神様が休まれるということは自然の運行が止まってしまうということじゃないですか。安息日だからと言って、太陽が休みますか? 神様が天地を創造されて、七日目に休まれたというのはもっと深い意味があるんです。神様の一日は、我われの一日とは違うんです」
「今度は神の子か。自分が神の子だというのか。こんな神への冒涜は、今までに聞いたことがない」
「はい、私は神の子ですよ。人類は、一人残らずみんな神の子です。あなたも神の子ですよ。そして人に限らずあらゆる生きとし生けるもの、すべてが神の子なんじゃあないですか? この世のすべてのものは、神様によって創造されたのですから。だから我われの先祖をずっとずっとたぐっていけば、最終的には誰に行き当たりますか?」
「あ、アダムだろう」
「そうですか。そのアダムには人間の父と母はいましたか? いないとすれば、アダムは天から降ってきたのですか? 地からわいてきたのですか? 猿から生まれたんですか?」
「アダムは神に創られたに決まっているではないか」
「そうでしょう。親は神様ですよね。そのアダムの子孫の我われも、みんな神の子ということにはなりませんか? 肉体は親から生まれてきますが、霊魂は神様がご自分の霊質をひきちぎって一人一人に入れてくださっているのです」
イェースズは周りを囲んでいる人々の垣根をさっと見た。
「皆さんもお聞き下さい。皆さんの額の奥には、神様が下さった霊魂が入っているんですね。私は入っていないという人、いますか? いませんね」
人々はどっと笑った。
「だからみんな神の子なんです。神様のみ意をこの地上に顕現するために降ろされた、いわば光の天使なんです。皆さん、そうなんですよ。あなたがた一人一人が、みんな天使なんですよ」
人々は、少しざわめきだした。
「皆さんは私の力のことをうわさしていますが、このように魂を浄め、邪霊を浄化し、病を癒す力は、本来は皆さんにもあるはずなんです。でも、我と慢心で神様から離れ、魂を曇らせてしまったことが、ちょっとばかり邪魔をしているんですね。ランプだって表面がすすで汚れたら、光が鈍くなるでしょう」
人々は、静まりかえった。
「本来、人の霊力は山一つ動かすくらいの力があるんです。でも今は肉体という殻の中に入っているので、なかなかそれができないんです。しかし、その肉体がすべてではないのです。霊こそが主体であると自覚した時に皆さんの本然の霊力は発揮され、神のこの力が甦るんです。なぜなら人は地上における神の代行者なんですね。あらゆる物質を司れと、神様から任されているんです。皆さんの中に、一人とて例外という人はいないんですよ。皆さんがそうなんですよ。いや、私は違う、私はそんなの嫌だって言ったって、だめなんですね。なぜなら、神様はそういった目的で人をお創りになったのですから、嫌だって言っても目的通りしないのなら、そんな人はいらないよということになってしまうではありませんか。ですから、すべての人が神の子なんです。そうなると、神様を愛するってどういうことでしょうか? それは、神様を愛するがゆえに、等しく神の子であるすべての人を愛するってことになりませんか? あなたの隣の人、そして敵である人でさえみんな神の子ですから、神様を愛するというのならそういった人々をも全部愛さなければうそです。本来、神と人とは一体なんですよ」
人々の間から、どっと歓声が上がった。律法学者はもうどうすることもできず、苦虫を噛み潰したような顔でひそかにその場を後にしていた。
その時、イェースズの衣の袖を引いたものがいた。見ると、まだあどけない少女だった。
「ねえ、おじちゃん」
イェースズは苦笑した。
「おじちゃんじゃないよ。お兄ちゃんだよ」
「おひげのおじちゃんだよう。あのねえ、おうちに来てほしいの。お父さんがたいへんなの」
「どうしたんだい」
「とにかく、来て」
そう言われてイェースズは会堂のざわめきをあとにし、少女に案内されるままペテロとヤコブだけをつれて少女の家へと向かった。その道すがら少女から詳しい事情を聞いたが、それによると少女の父は大酒飲みで、少女の母が一日中働いてお金を持ってきてもすべて酒に費やしてしまい、母娘は食べるものにも窮しているという。父親は一日中酒を飲んでは暴れ、近所の人にも乱暴し、母親がいつもその尻拭いで謝ってまわっているということだ。
「お母さん、いつも泣いてる。お願い、助けて」
少女は歩きながらも、何度もイェースズにそう訴えていた。
家は壁の石灰もはがれかけ、屋根も今にも穴が開きそうなひどいものだった。少女の母は安息日だというのに会堂にも行かず、一人で泣いていた。
「お父さんは?」
窓もなく壁があるだけの洞窟のような狭い家に入るなり、少女は母に尋ねた。母が指さしたのはすぐそばの扉の裏側で暗くなって見えなくなっている所で、暗闇に目が慣れるにつれ、そこに毛布にくるまった父親が飲んだくれて寝ているのが見えてきた。部屋中、酒の臭いが蔓延している。
少女に続いて入ってきたイェースズを見ると、母親はふと顔を上げた。
「あなたが、うわさのカペナウムのイェースズですか?」
「はい。呼ばれてやってきました」
イェースズは優しい表情で少女の母親を見た。
「あなたはどんな病気をも治し、悪霊をも退散させるって聞いてます。そのあなたがちょうどこの町に来ていて、そして今会堂にいると近所の人が教えてくれたので、娘を走らせたのです」
母親は泣きながらそこまで言うと、イェースズの方にいざりよって来た。
「お願いです。救ってください。このままではこの家は滅茶苦茶です」
「分かりました。では、ご主人を起こしてください」
「はい」
母親はその夫の体を揺さぶった。夫は眠ったあととはいえまだ酒が残っているようで、真っ赤な顔で不機嫌そうに起き上がった。そして床に座り、目をこすってからイェースズに気付いてすぐににらみつけてきた。
「何だあ、こいつは」
「あなたの酒飲みを、治してくださるそうよ」
「何だ、またお祓い師か」
イェースズはちらりと、母親を見た。母親は目を伏せて言った。
「今まで律法学者の師にも相談しましたけど、ただ断食をして祈れ、いけにえを捧げろでかたづけられてしまって、それで思い余って霊祓い師に何人もお願いしたんです。でも結局お金ばかりとられて、全然効き目はありませんでした」
「そうでしたか」
イェースズは穏やかに、酒飲み男に向かい合って床に座った。男はまだ、イェースズをにらみつけている。
「何だ、てめえ。また祈れとか、酒を飲むなとか説教に来やがったのか」
「今まで、そんなふうに言われてきたののですか」
「ああ、こいつが」
男は、自分の妻を指さした。
「変な拝み屋をつれてくるたびにまじないされて、酒を飲まないという強い意志を持てとか何とかごたごたと、ふん、ばかばかしい」
イェースズは優しくうなずいた。
「お酒、おいしいですか」
「ああ、うまいよ」
「じゃあ、好きなだけお飲みになっていいですよ」
そばで聞いていた男の妻は、少し怪訝な顔をした。話が違うというような顔つきだ。
「ほう、あんたも拝み屋なら、こりゃ話せる神様だ」
「その代わり」
目は笑ってはいたが、イェースズはぴしゃりと言った。
「今から、私の言う通りにして下さい」
「酒を飲んでいいって言うんなら、何でも言う通りにするぜ」
「では、そこでしばらく目を閉じていてください」
「こうかい?」
「全身の力を抜いて」
イェースズは目を閉じた男の眉間に向かっていつものように手をかざし、高次元エネルギーパワーを注入した。パワーはスーッと通って、男の額の奥の霊魂にと集中された。
すぐに男の頭部が小刻みに震えだした。それは、意識的にやろうと思ってもできるような震え方ではなった。しばらくそうしてから、イェースズは問いかけてみた。
「御霊様はこの方に、ご因縁の方ですか?」
「祖父だ」
男は口を開いた。男に憑いていた霊が、男の口を使ってしゃべりだしたのである。
「おじい様がなぜ?」
「酒が飲みたくてしょうがないんだ。だからこいつの体に憑いて、飲んでおった」
「御霊様はいつごろ、そちらに行かれたのですか?」
「四十二年前だ」
死んでから四十二年たっているというのなら、普通はもう霊層界にいる頃だ。この御霊は執着が強く、まだ精霊界から出られずにいるらしい。四十二年という現界の年数をさらりと言えるのも、そのせいだろう。
「いや、しかしのう、その後も一度だけ現界に来たぞ」
「再生したことがあるのですか?」
男の首は、こっくりと前にたれた。四十二年のうちに一度再生してくるとは、あまりない話だ。
「わしゃ、蛇になっちまった。そして息子夫婦を守ってやろうと天井にいたら、その頃まだ子供だったこいつに見つかって殺されちまっただよ」
執着の深さゆえの蛇への転生らしい。霊層界にも行っていないのに、精霊界から直接転生したケースのようだ。そこでイェースズは、
「あなたのお気持ちはよく分かります」
と、幽界脱出の罪の重さを懇々とサトした。
「そうか。そりゃまずかった。でも、酒が飲みたいんだ」
「今あなたがいるのは、本当の幽界ではありません。幽界誕生から三十年ほど、現界への執着を取るために修行する世界で、いわば待合室のようなところです。そこでごまかしのきかない本当の自分になると、幽界に行くのです。でも御霊様の場合は執着が強いからいつまでもそこをさまよい、行くべき幽界に行かれずにいるのですよ。この世への執着を断たないと、終いには地獄へ落ちていきますよ。苦しいでしょうけれど、執着を一つずつ取るたびに天国に近づいていきます。執着ほど恐ろしい地獄の道はありませんからね。御霊様が幽界でのご修行にお励みになりますことが、いとしいお孫さんであるこの方やそのお嬢さんなど、遺された方々のお家が栄える道が開けるのですよ」
男は首をたれて嗚咽を始めた。しばらくそうしてから、目を閉じたまま顔を上げた。男の口は霊の言葉をまたしゃべりだした。
「分かった、しかしわしにも頼みがある」
「なんでしょう?」
「わしの墓に酒を供えてくれ。二十日間だけでいい」
「分かりました。そうお伝えしておきます」
「酒は土間のかまどの奥の、茶色い瓶の中にある」
それだけ言うと男は両手をゆっくりと高く上げ、さらに上に引っ張られる形となったと思うと急に脱力して、前につんのめった。
イェースズはゆっくりと男の肩を持って、体を起こした。
「あ、何だ、今のは。口が勝手に動いて、勝手にぺらぺらしゃべって」
「あなたに憑いていた霊です。あなたのおじい様でした。あなたがお酒ばかり飲んでいたのは、おじい様があなたに憑かって飲ませていたんですね」
男は妻を見た。すると妻は思い出したように、
「夫の祖父も確かに大酒飲みで、酔っ払って池にはまって死んだって、義父から聞いたことがあります」
「奥さん、では早速二十日間だけ、おじい様のお墓にお酒をお供えしてください。ただお墓の前に置くだけじゃなくて、『おじいさん、どうぞお飲み下さい』と言葉に出して言うことが大切ですよ」
「酒っつったて」
男が口をはさんだ。
「うちには酒はねえぜ。こいつがみんな隠しちまった。だからおいら、隣のおやじの酒をかっぱらって、さっき飲んでいたんだ」
ニッコリと笑って、イェースズは男を見た。
「さっきあなたの口を使って、おじい様の霊が教えて下さいましたよ」
そしてイェースズが男の妻の方を見ると、妻は、
「はい、確かに台所のかまどの奥に、茶色の瓶に入れて隠してあります。この人に見つからないように」
「何イ、そんなところに隠していたのか」
男が立っていってみると、確かに茶色の瓶に入った酒があった。
「こんな所に隠していたなんて」
「あなた、知っていたんでしょう? さっき自分の口で、お酒はここにあるって言ってたじゃない」
「ああ、確かに俺の口が勝手に動いてそう言ってた。でも、本当に俺は知らなかった。知っていたらわざわざ隣のおやじの酒なんかかっぱらうわけねえじゃねえか」
イェースズはそのやり取りを見て、ニコニコ笑っている。
「御霊様はご存じだったんですね。では言われたとおり、ちゃんと二十日間お供えしてください。霊との約束を破ると、もっととんでもないことになりますから。これは脅しでもなんでもなく、本当にそうですから申し上げているんですけど」
「分かった。そうする」
と、男は言ったが、急に不安そうな顔になった。
「また霊に取り憑かれたらどうすればいいんだ」
「自分の魂を浄めて想念を感謝と利他愛の善で満たしていれば、霊は憑かりたくても憑かれませんよ。邪霊は不平不満、人の悪口や陰口、怒りや妬みなど人の悪想念と波調が合ったときに憑かってきますからね。だから、自分を常に高めていればいいんです」
「分かりました」
そう言いながらも男は、手元に残っていたわずかな酒の杯を口に運んだ。その妻があっと言った時には遅かった。もう酒を口に運ぶ習性になってしまっている。妻はぜんぜん効かないというような想念で、横目でチラッとイェースズを見た。
だがその時、男は口に入れた酒をぷーッと吹き出した。
「なんだあ? あんなにうまかった酒が、こんなにまずい。飲みたくもない。やはり、霊の仕業だというのは本当だったんだ」
男は杯を置いて大笑いをした。イェースズもまた笑った。男の妻だけが、笑いながらもそっと涙をぬぐっていた。
イェースズはカペナウムに戻った。するともう連日のようにイェースズの家には人々が押し寄せ、イェースズは食事を撮る暇すらない状態になった。季節は静かに春爛漫となり、やがてこの国での三つの大祭である過ぎ越しのみ祭りの季節となった。大祭ともいえる大きなみ祭りは年に三回あって、春の過ぎ越しのみ祭り、初夏の五旬節、秋の仮庵のみ祭りである。それぞれの地方でも行事はあるが、何といってもメインはエルサレムの神殿であり、ガリラヤを含む全ユダヤの人々がエルサレム目がけて大移動する時期でもある。
「兄さんは、過ぎ越しのみ祭りにはいかないのかい?」
弟の中で唯一イェースズを兄と呼べるヨシェは、何気なくイェースズに聞いてみた。イェースズが東の国への旅から戻って二度目の春であるが、昨年はちょうどヨハネ教団の中で活動していたので、家で過ごす最初の春なのだ。
「兄さんがやろうとしていること、まだ僕にはよく分からないけど、やはりこんな田舎じゃなくてエルサレムの方がいいんじゃないか?」
イェースズはそれにはニッコリと微笑んで、
「まだその時期じゃないさ」
とだけ言った。
「時期じゃないって、今出発すればちょうど間に合うよ」
「そういう意味ではなくて、私自身にとっての時期ではないのだよ」
そう言ったイェースズだが、やはり家にいると人々が押し寄せてヨシェや母マリアにも迷惑がかかる。ちょうど多くの人々が過ぎ越しのみ祭りでエルサレムに行ってしまい、ガリラヤの人口が若干減った頃を見計らってイェースズは弟子たちとともに家を出た。それでも町が無人になることはなく、ほんの少し人が少ないかなというくらいで、どんなに多勢の群集がエルサレムに押し寄せたとしても、そのまま自分の住む村で過ぎ越しを迎える人々の方がはるかに多いのだ。
今度は、イェースズは遠くへ旅に出る様子ではなかった。まず目指したのは、カペナウムから程近い麦畑の中の小高い丘だった。そこはカペナウムの北西で、家を出てからまだほんの小一時間ほどしか歩いていない。
「今回の目的はあの丘だ。あの丘に登ろう」
ペテロが怪訝な顔をした。また旅に行くと考えていた皆は、これでは旅どころか日帰りの外出にすぎないと思っていると、イェースズは一人でさっさと丘へと登って行き、頂上で弟子たちを待っていた。
やがて弟子たちが登ってくると、イェースズはそんな一同を見渡した。
「あなた方は、よく今まで私とともに歩んでくれたね」
いつもの陽光のごときイェースズの笑顔である。
「それでそろそろまとめて、私の考えや神様についてゆっくりと話がしたいと思うんだ。今まで落ち着いて話す機会もなかったからね」
弟子たちの顔は喜びに満ちていた。だがその中から、イスカリオテのユダが一歩前に出た。
「その前に、私も先生に確認しておきたいといいますか、先生のお気持ちをしかと承っておきたいことがあるんですが」
イェースズはユダが何を聞こうとしているのかすでに分かっていたので、ゆっくりと微笑んでうなずき、
「その話も、この丘の上で追々触れることにしよう」
と言った。ユダはとりあえず納得したようだった。
「しかし先生」
まだ食い下がっているのは、熱心党のシモンだった。
「なぜこんな丘の上で? やはり危険が伴う話なのですか? 万が一にそなえて丘の上なんですか?」
シモンはイェースズの話がどんどん自分に都合がいい方向に行くものと期待している様子がまる見えだった。だが。イェースズはあえて何も言わなかった。
「話しは少し長くなるかもしれない。今日と明日の夜は、この丘の上で野宿だよ」
朝晩はまだ冷え込むが、春とはいっても日中はもはや汗ばむ季節だ。だがこの丘の上は風が吹いて、けっこう涼しかった。頂上からはカペナウムの町や、その向こうのガリラヤ湖が一望できた。イェースズは弟子たちに円陣を組んで草の上に座るように指示した。空は晴れて、白い雲が固まりとなっていくつか浮かんでいた。
この日のイェースズは、いつになくニコニコとしていた。
「あなた方は皆、私についてきてくれるといった。だから私は、いっしょに歩いて行こうと言ったはずだ」
ガリラヤの風かおる丘で、イェースズの話がいよいよ始まった。
「今日は私が神様から頂いている教えをあなた方に少しばかり告げたくて、こうしてここに登ってきたんだ」
「その前に」
と、イスカリオテのユダが口をはさんだ。
「私とシモンの質問に答えて頂けますか?」
イェースズは柔和な顔をそのままに、ユダを見た。
「何でしょう?」
聞かずともイェースズにはユダが聞きたいことの内容は分かりすぎるくらいに分かっていたが、あえて知らないふりをした。
「ご存じの通り私とシモンは熱心党として活動してきた。ガリラヤはかつて私と同じ名のユダが蜂起してからずっと、反ローマの民族自決の機運が高まっている。先生はこうして奇跡の業で信奉者を集めておられるけど、その人々とともにローマに対して立ち上がるおつもりはあられるのか」
イェースズは微笑んだまま、黙っていた。
「先生は人を救うといつもおっしゃっているけど、救世主として、ユダヤを救うおつもりがおありだろうか」
イェースズはユダから目をはずし、一同を見回した。
「みんなも、同じことが聞きたいかい?」
誰もそれには答えずに、皆固唾を呑んでいた。しかしここはガリラヤである。ただでさえ「救う」と言う言葉は、ユダヤ民族のローマの圧制からの解放と同義になっている土地柄だ。
イェースズはうなずいた。
「分かった。その質問に答えよう。その前に長くなるけれど、まずは私の話を聞いてほしい。それが終わった時点で、もう一度同じ質問をするならば、答える。それでいいかな?」
ユダもシモンも、じぶしぶという感じではあったが一応うなずいた。
「そこで」
イェースズの口調が変わって十二人全員に呼びかけた。
「信仰でいちばん大切なものは、何だろう」
「祈りです」
と、ペテロが即答した。
「では、祈りって何だろう」
弟子たちはお互いに顔を見合わせてささやきあっていたが、やがて沈黙して立っているイェースズを皆で見あげた。その視線はイェースズ自身による回答を求めていた。
「祈りとは。神様と心を一つにすること。神様との対話だ。そんなことはみんなも昔から聞いているだろう。でも、もっと突き詰めて言うと、対話である以上、人間の方から神様へのああして下さい、こうして下さいという一方的な願かけでは、対話って言えるだろうか。普通祈りと言えば、人間の方から神様に祈ると思うだろう」
弟子たちはうなずいた。
「しかしね、実は神様の方から人間に対する祈りというのもあるんだよ」
初めて聞くことに、弟子たちは首をかしげた。
「人間の祈りよりももっともっと切実な祈りが神様にはある」
「それって、何ですか?」
ピリポが、質問をはさんだ。
「それは一人一人違う。神様からピリポへの祈り、エレアザルへの祈り、ヤコブへの祈り、みんな違うんだ。だから、その声なき声を聞く耳を持たないといけない。それなのに、そっちはちっともお聞き申し上げないで、人間自体が果たすべき本当の努力はしない人間ナマケ放題で祈っている」
分かったのか分かっていないのか、とにかく弟子たちはまたうなずいた。
「祈りとは、神様と意を乗り合わせること、波調を合わせることだと私は思う。神様と同じ心になってしまうことだね。だから祈る時は自分と神様との関係なのだから、誰もいない部屋で戸を締め切って祈ればいいんだ。わざと人目につくところで、これ見よがしに祈る必要はない。あの偽善者さんたち、誰とは言わないけれど、某律法学者さんたちが、ああ、いや、こういうことを言ってはいけないね。いや、言ってしまったけど」
弟子たちは、どっと笑った。
「まあとにかく、偽善者さんたちのように、ほら、私は祈ってますと人々に見せて信仰者らしく思われたがる心は、持たないほうがいいんじゃないかね? どう思う?」
それぞれにうなずいた。
「祈りの言葉は、簡単でいいんだ。くどくど言う必要はない。神様は人間が何を祈ろうとしているのか、祈る前からもうご存じなのだからね。ただ、それを祈りという形に表すのを待っておられるだけなんだ。だから祈るためのきらびやかな祭服は必要ない。形式だけの儀式も、神様からご覧になればうるさいだけだ。ましてやその祈る人たちが宗門宗派に分かれて争い、さらには祈ることを生存の具としているとなると、それはもう祈りというより逆訴だね」
「先生、それは」
小ユダが顔を上げた。
「ずいぶん危険な発言じゃないですか?」
「危険だよ、危険だとも。今の世は頑なだからね、だからこそ、人の耳のないこんな丘の上に上ってきたんじゃないか」
イェースズはニッコリと笑みを漏らした。
「じゃあ、何と言って祈ればいいんですか?」
エレアザルが目を輝かせて、尋ねた。
「まずは祭司だのレビ人だの律法学者だのという化衣人造位階を脱ぎ捨てて、神様の前に一列揃いにすることだ」
そのときイェースズは、頭がクラッとするのを感じた。何かが自分にぶつかったという衝撃だった。それは光の固まりのようでもあった。遠い昔の忘れかけていた記憶が、見えざる手によって強引に引きずり出された気がした。
イェースズは、しばらく黙って立っていた。生まれて初めて神示しを受けた時の神の聖言が、記憶の中から鮮やかに甦る。それは東の国への旅で最初に行ったアンードラ国でバラモンたちといっしょに瞑想するうち、包み込むような暖かい黄金の光の渦の中で聞いた声だった。
今世、汝ら人々の心いよいよ神を離れいき、悪のみ栄えん世なれば、神いささかの懸念ありて、ここに示しおくなり。汝ら本来聖霊聖体なりし神の分けみ魂を肉身に内蔵しあるも、そを汚し行き過ぎて、此までは人類気まま許したれどもこのままにては神策成就らせ難ければ、重大因縁のカケラを示さんか。そは日用の糧の中に汝ら見出し得るも、日用の糧を得られざるもまた罪と知りおけよ。今は明かなに告げ申すことできぬ訳ある秘め事ある故、神は罪をも許し給うも、天意はまだ今の世になければ、人々また神をも分からぬようなり果てんを神は憂れうるなり。本来神の子霊止にてありしを、神より勝手に離れすぎていつしか人間となり果て、このままにては行き過ぎの度合いキツクなり過ぎて、神の策りし神の国はますます遠ざかり行くならん。神の真の名すら<知らざるべし。神は天に在します御祖神よ。
その言葉は、今なおはっきりと胸の中で反芻できる。思えばこの聖言が自分の出発点だったという気がした。当時は全く訳の分からない内容だったが、今もイェースズにはそれがはっきりと分かるのであった。
「先生、どうしました? 突然」
アンドレにそう言われて、イェースズはやっと我に帰った。そして再び笑顔を取り戻して、弟子たちを見回した。
「先生、祈りの言葉を教えてください」
また、エレアザルが繰り返して言った。
イェースズは、今心の中で思い出した神の言葉を思った。それは「これではいけない」という一種の警告だった。だから、そうならないようにという祈りがいちばん神様のみ意にかなっているはずだとイェースズは感じていた。だから、心の中にある神のみ言葉の順序も意味も逆にして祈りの言葉にし、ゆっくりとイェースズは話しはじめた。
「先生」
マタイが、それをさえぎった。
「書きとってもいいですか?」
「いいよ」
マタイは懐から羊皮紙を出した。ほかの弟子たちはそのような高価なものを手軽に持ち歩くマタイに目を見張った。そしてそのマタイが準備を終えるのを待ち、イェースズはゆっくりと口を開いた。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
「おおっ!」
ペテロが歓声を上げた。それは今までにない簡潔で、要点を突いた祈りだった。
「何と素晴らしい祈りだ。これだけを祈ればよいのですか」
「しっかりと、忘れないで覚えておいてほしい。これは私が考えたものではなくて、一切が神示しなんだよ」
イェースズはニコニコしながら、一人一人を見てうなずいた。
ピリポが、顔を上げた。
「先生、今の祈りについて解説してくださらないんですか?」
イェースズはゆっくりうなずいた。
「いいだろう。解説させて頂こう。『天におられる私たちの父』とは、単にイスラエルの神だけでなく、全世界全人類の親神様だ。人類は等しく神によって創られたのだからすべての人が神の子であって、その創り主は『父』なんだよ。『父神』なんだよ。その『み名が聖とされ』ることを願うのは、神の子としての人類の親神様に対する当然の責務だ。み名を讃えるというのは、尊敬するという意味ではない。『神の御名、弥栄えに栄えいかれますことを御祈念申し上げる』ということで、弥栄えるように私たちは努力を致しますということなんだよ。それだけの努力をさせて頂くお許しを願いたいということで、それだけの努力をしないとだめなんだよ。神様を信じてはいるけど、神様のことを人々に告げ知らせるのはいやだなんていう人がいるけど、そんなことじゃあ救われない。つまり、下から『神の御名』を上へ『フキ上げ』ていくことによって神の権限を万華させ、神の方からは人の方へ恵みを与えてくださる関係になる。これを表したのがモーセが用いダビデ王がその紋章としたカゴメの紋章で、それは天地創造の火と水を十字に組んだ神のみ働きを表していて、モーセもこの関係を知っていたのだろう。その神の『御国が来る』ということは、どういうことだろうか?」
イェースズは弟子たちを見渡したが、答えられそうな気配のものはいなかった。
「これは、そもそも神様は何の目的で人類をお創りになったのかということと関係してくる。神様の目的は、地上天国を物質にて顕現されようというところにあって、それを神の子である人類にさせようとされているんだ。だから、神様の御経綸成就を祈念し、それに参画させて頂くお許しを願い、またそのために精進努力する決意は人類にとって重責であり、それなくしては人類の存在意味もないということになる。そこで『みこころが天に行われるとおり地にも行われますように』となる訳だ。つまり、神のみ意が一日も早くこの地上に成就しますようにという祈りで、人類が一丸となって御神意成就に邁進することが大切になってくる。そして『日ごとの糧』となる訳だが、これは肉体を維持するための『食物』だけとは限らない。もちろんそれも含むけれど、もっと大事なのは神の光とみ教え、つまり神の御守護と御導きということだ。聖書の「申命記」に、『人はパンだけでは生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによって生きる』とあるだろう?」
ピリポをはじめ、何人かがうなずいた。
「その次に『罪」が出てくるが、罪とは詫びる心があってはじめて許されるもので、そのお詫びの証を形として神様にお見せする必要がある。その一つが、人を許すことだ。憎めば憎まれる、殺せば殺される、人を傷つけたら傷つけられる、そして許せばあなたも許される、これらはすべて神様の世界の厳とした法則なんだよ。だから罪の許しに、贖罪の儀式などいらない。次の『誘惑におちいらせず』とは、『誘惑』に打ち勝つ勇気をお与え下さいという意味だ。最後に『悪からお救いください』とあるが、天地創造の折にすべてを『善し』とされた神様が、わざわざ悪をお創りになったのだろうか? いや、神様は悪などお創りになっていないというのなら、悪は神に創られず自然発生したのだろうか? 結論から言うとだね、神様は『悪』はお創りになっておられないが、一見『悪』に見られるような存在も人間をモノの面で進歩向上させるため、一時方便としてお許しになっているだけだ。だから、人知で善悪を判断することは、神様の権限を犯すことになる。神様は奥の奥のそのまた奥の御存在で、そのみ仕組みも非常に奥深い。とても人間の人知で分かろうはずもない。今まで何度も言ってきたことだけど、病気も不幸現象も神様はお創りになっておられず、それらはすべて神大愛のクリーニング現象なんだ。神様は善一途のお方で、病気も不幸現象も、人間が勝手に神から離れて勝手に積んできた罪や穢れから洗い浄めるための清浄化現象だから、一切に『感謝』する要がでてくる。よく『悪魔憑き』なんて言ったりするけど、私がこれまで人々の体から追い出してきた悪霊というのは厳密には悪霊ではなく、もともとは神の子として創られた人間の魂もしくは動物霊が、執着、恨み、妬み、嫉みなどで生きている人にとり憑いた憑依霊なのだということは、実例を目撃しているあなた方にはすぐに分かるはずだ。以上、解説だが分かったかな?」
「本当に、そう祈るだけでいいんですか?」
トマスの問いに、静かにイェースズは顔をトマスに向けた。
「いけにえの動物の血はいらないけどね、お詫びの証とあがないは必要だ。まずは人を許すことが、神様からお許しいただく必要最低条件ではないかな」
弟子たちは、うれしそうな顔でうなずいていた。
「今の祈りも、ただ唱えればいいってものじゃあない。一度祈ったからには、もう神様は聞いてくださったという神様への絶対的信頼感も大切だ。ただ、神様の方のご都合もあるから、すぐにという訳にはいかない場合もある。本当の敬虔な祈りとはだね、全智全能にして偉大なる神様の本性を知って、神のご計画に自分を捨てて参与し、それを成就し奉ろうと精進するところにある。祈りというのは形だけ、形式だけではだめで、祈ったことに対する実践と努力が大切なんだよ」
「実践って、断食とかですか?」
ヤコブがイェースズと目があったのでそう尋ねてきた。
「実践って言ってもだね、さっき言ったように私は信仰者ですと見せびらかすような実践ではだめで、いまヤコブが断食と言ったけど、例えば断食をするにしてもいかにも私は断食をしていますというような苦しそうな顔をするのはよくないね。神様の御前では、人と変わった特別な祭服なんていらないんだよ。人になにか施しをする場合でも、たとえば右の手でいいことをしたのを左の手にさえ知られないようにするというくらいの心がけが必要だ」
「ああ、それで」
ペテロが口をはさんだ。
「先生はいつも人を癒したあと、あまり言いふらさないようにっておっしゃるんですか」
「うん、それもある。ただ、それにはもっと大きな問題もあるのだけどね。ま、とにかく今はそれは置いておいて、なぜいいことをしたことを隠せというのかというとだね、困っている人に何かしてあげてもそれを見せびらかすようでは、本当に困っている人のためという利他愛ではなくて、結局は自分自身のため、つまり自己愛からの行為だといえるだろう。そういう人は、本当の善人なのではなくて、善人と思われたがる心があるだけの人だよ。人からよく思われたがるというのは、本当はそうではないのにそれ以上の評価がほしい、人からほめられたいってことだけだね。もし人から評価されたりほめられたりしたら、もうそれで報いを受けてしまったわけだから、神様からの本当の報酬は受けられないってことになる」
みなはどっと笑った。イェースズもいっしょに笑いながら言った。
「違っているかな? 違わないでしょ。そういうふうによく思われたがる心、そのたがる心というのはタカル心なんだ。そんな心ではなくて、神様の愛の心持つことだ。神様は何でもかんでも我われにただでお与えくださっている。私たちは、一切が与えられて生かされているんだ。そんな神様の無償の愛の心、その心で人を救うのが本当の救いだね。等しく神の子であるすべての人のいいところだけを見て真心で相手の中にある神の子の姿をほめ、魂を揺り動かして、そして神の御名の尊まれんこと、弥栄えに栄えいくことを祈念する、それだけでいいんだ。これが本当の愛だと思うが、どうかな?」
イェースズはそこで、息を次いだ。
「さて、あなた方にどうしてもお伝えしたいことがあるからここに登ってきたと言ったけど、その話は最低でも三日はかかる」
「え? 三日も?」
小ユダが声をあげたが、その驚きは小ユダだけのものではなかった。
「神様の教えをすべてお伝えするとなると、本当は三日じゃ足りない。だから、三日でお話しするのは基本中の基本で、神様の世界はまだまだ奥が深いんだ。奥の奥のそのまた奥がある」
何人かの弟子からは、ため息が漏れた。
「この三日間断食をして、そして神様のみ声をともに聞こうじゃないか。あなた方は、そのために神様から選ばれたのだよ。あなた方は自分で私を選んだように思っているかもしれないけれど、あなた方が私を選んだその瞬間にあなた方が神様から選ばれたんだ。人知で考えると、そんなことが……?って思うかもしれないけどね、そこが神様の世界の摩訶不思議なところなんだ。三日間断食だよ、小ヤコブ、小ユダ、大丈夫かい?」
「はあ、大丈夫……だと思います」
自信なさそうなその返答にイェースズは大声で笑い、みなもいっしょに笑った。
「その代わりこの三日間は、神様の光が皆さんの上に降り注ぐ。光の温泉に浸かっているようなものだ。その中で、話を聞いてほしい。これから話すのは決して道徳や論理ではなく、ましてや哲学などではない。天国をもこの世をも貫く神様の置き手の法、つまり霊的法則なんだ。この法則のもとに、宇宙一切が運営されている。だから先入観や固定観念は捨てて、頭の中を空にしてス直に聞いてほしい。律法も聖書も忘れることだ。しかし三日後にあなた方は、律法学者や祭司以上に聖書の真の意味を理解できるようになる」
イェースズの顔は依然笑顔だったが、その口調は限りなく厳しさが込められていた。
「さっき、あなた方は選ばれたって言ったように、あなたがいたが今ここにいるのは自分の意志でいるようで実は違う。霊的には因縁をたどって、すべて神様の御意志で吹き寄せられたんだ。あなた方と私は、深い因縁があるはずだ。また、神様との因縁も浅くない人たちなんだよ。そういった御神縁があればこそ、神様から許されてここに集められたんだ」
「では、神様との因縁がなかったら、ここにはいられなかったのですね?」
ペテロのその問いに、イェースズはすぐに答えた。
「御神縁がかけらもない人なんて、この世にもあの世にも一人として存在しない。ただ、それが濃いか薄いかの問題なんだ。それにあなた方は御神縁が深いというだけでなく、使命を与えられた人々だ。今はこうしていっしょに集まっているけれど、将来は一人ずつばらばらになって、神の国の到来について告げ知らせなければならない」
「神の国って、どんな国ですかね?」
イスカリオテのユダが、問いを発した。すると、
「では、みんなはどう思う?」
と、逆にイェースズから反問されてしまった。ペテロが手を挙げた。
「すべての人が幸せな国ですか」
「では、幸せって何だ?」
「争いのない、平和な世界」
「それもひとつだ。ほかに?」
エレアザルが手を挙げた。
「病気のない世界」
さらにアンドレが、
「食うに困らない世界でしょう」
というと、イスカリオテのユダが、
「いや、違う」
と、語気を荒くした。
「イスラエルの民がローマの圧政から解放されて、異邦人を追い払って真の民族自決を勝ち取り、ダビデ王の子孫たるイスラエルの王を戴く世界じゃないのかね。みんな、何のんきなことを言っているんだ」
そのユダを、イェースズは優しく手で制した。
「まあ、それも一つの意見として聞いておこう。とにかく健康で平和で食うに困らない、この三つがそろって崩れない生活が幸せかもしれない。どれか一つ欠けてもだめだ。お金があって毎日の食べ物に困らないとしても病気をしていたのでは幸せとはいえないし、健康で食うに困っていなくても、家族がけんかばかりしていたらこれもまた幸せとはいえないね。ところで、今の世の中はどうだろう? この三つがそろった本当の幸せな人って、果たしてどれくらいいるだろうか」
「ほとんどいないんじゃないですか? 少なくとも、みんなどれか一つが欠けています」
きっぱりと、ペテロが言った。
「それはなぜなんだろう?」
その問いには、誰も答えられなかった。
「いいかい。真に私は言っておくけど、人は誰でも人生の目的は幸福のはずで、そのために汗の労働、涙の悲劇、血の闘争を繰り返してきたけれど、それによって得られた歓喜はうたかたのように消えてしまうものではないだろうか。しかし、すべての人は神の子なんだから、そして神様は真・善・美のお方なんだから、その神様によって創られた人々は放っておいても幸せになるのが本当のはずだ。それが、多くの人々は幸せではない。それは、なぜなんだろう?」
皆それぞれ、うなりながら考えていた。やがて、ナタナエルが顔を上げた。
「神様から離れているから、幸せではなくなるんでしょうか?」
イェースズは大きくうなずいた。
「私もその通りだと思う。子供だったら誰でも親からかわいがってもらえるだろう? ところがもし仮に親には問題がないのに、親からかわいがってもらえない子供がいたとしたら、それはどんな子供だろう?」
「はい」
やはりナタナエルが手を挙げた。
「親の心に背く子供じゃないですか?」
「そうだね。親の心にそむいているというのは、せっかく親が愛情を与えてかわいがってあげようとしているのに、子供の方がそれを拒んでしまうことじゃないかな。つまり親はかわいがってあげたいのに、そうしてあげられない状況を子供の方から作り出してしまっている、そんなことだろう」
「そんな状況って、あるんですかあ?」
と、小ユダが尋ねた。
「例えば、親がかわいがってあげようとして近づくと、一目散に逃げてしまう子供」
一同は、笑った。
「いつも外で遊んで、暗くなるまで帰ってこない。家によりつきもしない。帰ってきても誰とも口をきかない。ところで、今の世の中の人って、親である神様からご覧になればこういうことじゃないかな? そこで、親からかわいがってもらうためには、どうしたらいい。ナタナエル」
「はい、親から離れなければいいと思いますが」
「そうだ。だから今の世の人々も心を改めて、神様のミチに乗り換えれば神様は無限の愛を与えてくださって、ひとりでに幸せになれる。では幸せとは何か、霊的にもう少し突き詰めて考えてみよう」
一同は静まりかえり、風の音だけがあった。やがてイェースズは口を開いた。
「霊的に幸せな人というのはだね、世間では不幸と言われるがゆえに幸せな人たちだ。そういった人たちもいる。例えば自分の心は貧しいと思っている人は、決して驕り高ぶることがなくて下座に徹するから、かえって幸せな境地になったりするんだよ。天国とは、そういった下座ができる人のためのものなんだ。そして心が優しい人は、たとえ今の境遇が不幸であっても、その不幸のもとをよく見極めて精進するから、やがて悪徳の消し役が終わったら今度は受け取り役になる。そして正しいことを追い求める人は、いつか必ず満たされる。金持ちであることが、必ずしも幸せではないだろう? 人としての道を歩んで、神様に近づかせて頂くというほど幸せなことはない。さらには神の道に尽くしたために迫害されたり、批判されたり、罵倒されたりしたのならむしろ幸せだ。それによって神界からは偉大な力と無限の御神徳を頂ける第一歩だからね。だから、罵倒したり迫害したりして来る人には、そのことを感謝しなければならない。またそういった外からのものばかりでなく自分の内面的な自我にも打ち勝った人、そういう人が本当の意味での幸せな人だね」
このイェースズの言葉には、誰もが納得しがたい顔をしていた。
「こういった人々は現象的には不幸でも、不幸になったのは何かしら過去世あるいはお家の罪穢があったからだと、悲観をせずにお詫びとアガナヒに徹し、前向きに明るく陽ので、感謝に満ちて神様に向かうなら、不幸であることを悲観して不平不満を言い、人知でのみ対策を講ずる人とはゆくゆく人生大差が生じるんだ」
皆、まだ腑に落ちない様子だった。それを見てイェースズは笑った。
「まあ、頭で分かろうとしなくてもいい。神様の世界は理論理屈じゃあないんだ。三日間ここにこうしているだけで、あなた方の魂は私のアウルと言霊に乗った神のみ光で浄まる。要は魂霊の浄みが大事なんだ。神様のみ光に接することは神様に接することだから、問答無用で神様は浄めて下さる。そして魂が浄まれば、すべてのことは自ずから理解できるようになってくる」
イェースズは一段とニッコリ笑った。
「だから、三日間ここにいればいい。眠くなったら居眠りをしてもいいし、ボケーッとしててもいい」
やっと弟子たちは、緊張がほぐれて笑い声を上げた。
「ただ、魂だけはこちらに向けてほしい。いいかい。さっきの続きだけど、本当の不幸というのは不幸が実は不幸でないことを知らないことだ。神様のアガナヒ現象を知って感謝で乗り越える、そのためにもいつも喜んでいればいい。感動(神動)すれば神様が動いてくださる。もし人に批判されたら、それであなた方の罪穢がひとつ消えたと思って喜びなさい。批判したり罵倒したりした人を呪うのではなく、逆に感謝して、その人に恵みを施してあげるんだ。もし雑踏で人に足を踏まれたら、そのお蔭で罪穢が少し消えたと影でその人に手を合わせて感謝するくらいでないとだめだ」
「へえ?」
と、誰もが頓狂な声を挙げた。
「次に、逆に不幸について考えてみよう。いいかい、真にこう言っておくけど、不幸とはむさぼる心だね。つまり一切を与えられているということに感謝できないでむさぼる心、つまり足りることを知らないそんな心の状態のことをいうんだと思うよ。むさぼればむさぼるほど、欲望は無限に拡大する。それとね、人からよく思われたがる偽善者も、同じことだ。弱いものを虐げてその上で富を得ても、必ずどんでん返しが来る。食うに困らないというのが幸せの条件ではあるけれども、逆に金持ちが幸せかというと必ずしもそうではない」
弟子たちの中で、すすり泣きを始めたものがいた。ヤコブとエレアザルの兄弟、そしてマタイの三人だった。それに対して、イスカリオテのユダとシモンは、イェースズのはなしが腑に落ちないという感じで首をかしげていた。マタイが顔を上げた。
「確かに私は金持ちでした。しかし、先生と出会うまでは確かに心は平安ではなかった」
その気持ちは、網元の豪商の息子であるヤコブやエレアザルも同じであるようだった。イェースズは慈愛の目で三人を見てうなずいてから、話を続けた。
「世間の多くの金持ちは、そのことに気がつかない。そのどんでん返しは生きている間に来なくても、次に生まれてきたときに必ず来る。因があればそれに相応の果が、必ず来るんだ。このことについてあなた方は邪霊に憑かれていた多くの人の実例を見て、分かっていると思うけど」
「はい、確かに」
ペテロが真っ先に答えた。
「因があれば果があるということについて、これは私の経験から言うことだけど、人を呪ったりしたらその呪いの念は必ず自分に跳ね返ってくる。天に向かってつばを吐いたら、どうなる? 自分の顔に落ちてくるんだね」
弟子たちは笑い、先ほどまで泣いていた三人もなみだ目で笑いを浮かべた。
「だから、自分が不幸だあと思ったときはよくよく自分の罪穢をサトって、今がその罪穢を消す時なんだということを自覚して神様にお詫びをし、また今の不幸現象によって罪穢を消させて頂いているんだあ〜〜、これできれいな魂になれる〜と、神様に感謝することだ。それなのに不平不満ばかり言って、人を呪ってはますます罪穢を積み、それで魂を曇らせてしまうのは、これ以上の損はないと思う。さっき、人生大差が生じるといったのはこのことだよ」
しばらく弟子たちは静まり返っていたが、やがてピリポが手を挙げた。
「一つお聞きしたいのですけど、先生はどうして、いつもそうやってニコニコしておられるのですか?」
この質問に、一同はまたどっと笑った。イェースズも笑いながら、ピリポを見た。
「私だけではなく、あなた方もこうあってほしいね。神様に許されて生かされている、すべてを与えられている、この事実を思うときにありがたい〜〜と心から感謝できたら、人は誰でもうれしくてニコニコするはずだよ。何か願い事がかなって、思いが満たされた時にこんな苦虫をかみつぶしたような、口をへの字にした暗い顔をして」
イェースズはそこで、演技で暗い顔を作った。
「私はうれしい、感謝してますなんて言う人、いるかい?」
弟子たちはまた、笑った。
「いや、それが実際はいたりするから困るんだ」
また、笑いの渦となった。
「でもね、魂が本当に喜んでいたら自然とニコニコできるもんだと思うけど、どうだろうか?」
弟子たちは皆、それぞれにうなずいていた。
「どうだね、すましているよりニコニコしている方が、その場が明るくなるだろう? だから、あなた方も世の光になるんだ。『あの人が来たら急に雰囲気が暗くなった』なんて言われるようじゃ困るんだ」
弟子たちは笑った。
「そうじゃなくて、『ああ、あの人が来たらランプがついたようだ』と言われるように、いつもニコニコしていることが大事だ。いいかい? ニコニコだよ。ニヤニヤじゃないよ」
そこでイェースズがわざとニヤニヤした顔を作ったので、弟子たちは爆笑だった。
「口先だけで教えを伝えるだけでなく、『ああ、あの人の言っていることなら間違いない』って人々に思わせるような行動をとって、あなた方の行いを見て人々が神様を信じるように、後姿で導くことが大切だ。いくら教えをうまく受け売りしても波動が伝わらなかったら、『口ではいいこと言っているけど、あんた自身はどうなの?』って必ず言われてしまう。そうなったら、神様に申し訳ない。やはり、無為にして化すくらいでなくてはね」
イェースズが笑わせたお蔭で、弟子たちは魂を開いて陽ので聞いていた。
「最後にこれだけ言って、今日は終わりにしよう。私は安息日などという人知の掟からは自由だし、律法学者相手に散々律法を人知の固まりだとか言ったけど、私が言う自由は律法から自由になるということではない。私は決して律法や預言者を否定したり廃止したりしようとしているのではなく、今の律法という人知の固まりではなくて、本当の意味での神の律法というものを、より霊的な高次元で完成させたいと思っている。本来の律法、つまり神様の置き手、霊界の法則を実践するためにこの世に来たんだ。その神様の法則はたとえ天地が滅んだって、滅びることはない。この霊界の法則によって万象は弥栄えていくように創られているわけだし、人知の律法と違ってほんの少しでも破るとその報いは必ず来る。だからパリサイ人がよく言うような人知の律法を守っていれば天国に入れると考えちゃだめで、むしろパリサイ人よりも霊的に勝っていないといけないよ」
その日のイェースズの話はそこまでだった。そのあと、日が没するまで、皆思い思いに山頂で暮らした。
翌朝、十二人のうちで最初に目を覚ましたアンドレが起き上がると、もうイェースズは起きて東を向いて座っていた。右前方の下の方にガリラヤ湖が見え、湖水はだんだんと淡い光の中に浮かび上がり、正面の丘陵の一角だけが明るく輝いていた。間もなく、そこから朝日が昇る。その方角に向かって、イェースズは座っていたのだ。しかも両膝を曲げて足の先を尻の下に入れるという、この地方の人々は決してしないような座り方だった。
アンドレは慌てて飛び起きると隣で寝ている弟のペテロをたたき起こし、急いでイェースズの方へ駆けていって後ろに座った。同じく気がついてそうしたのはヤコブとエレアザルの兄弟で、ほかの弟子たちも気配に気がついて目をこすりながら並んで座った。別にイェースズに言いつけられていたわけではないが、イェースズが朝日に向かって座っているのを見て、直勘的にそうしなければならないような気がしたのだ。十二人の弟子のうちヨハネ教団にいた六人とイェースズの弟の二人の、八人までがエッセネの出である。エッセネ教団にあっては、朝の太陽礼拝は欠くことのできない儀式であった。だが、彼らが座ると、イェースズはゆっくりと振り向いた。
「別にエッセネの方式で、太陽礼拝をするわけではないよ。神様に祈りを捧げる」
そう言ってから、イェースズはまたもとの方に顔を戻した。ひんやりとして張り詰めた空気が、草の香りとともに弟子たちを包む。日が昇ればかなり暑くなるだろうが、今はまだ空気は刺すような感じだ。
太陽が昇った。イェースズはゆっくりと上半身を前にかがめた。地に両手を突いている。しかしすぐに体を起こすとまた同じようにかがめ、もう一度起こした時は手を三回打ち鳴らした。そしてまた身をかがめて頭を下げ、祈りの言葉を小声でつぶやいている。弟子たちにとって初めて見る祈りのスタイルだったので、どうしていいか分からず呆気にとられていた。
やがて祈りが終わるとイェースズは一度体を起こし、今度は四回手を打った。それから少しだけ弟子たちの方を振り向き、
「ともに祈ろう」
と言った。そして両手を大きく上に上げ、天を仰いだ。これなら、彼らもよく知っている祈りのスタイルだ。弟子たちは、手を合わせていた。
「天におられるわたしたちの父よ」
イェースズの声が、夜明けを迎えよう説いているのに響き、弟子たちの声がすぐにそれに唱和した。
「み名が聖とされますように……」
やがて太陽は、完全にその姿をはるかな丘陵の上にと現した。
祈りが終わり、イェースズは体ごと後ろを向いて、弟子たちに向かって座った。
「おはよう」
弟子たちも、挨拶を返した。彼らの社会では、あまりこのような習慣はない。やがてイェースズは、微笑みながらゆっくりと話しはじめた。
「エッセネ人は朝太陽を拝むけど、世界中で同じようにする民族を私はずいぶん見てきた。では、なぜ太陽を拝む? 太陽それ自体が神様なのだろうか」
「いえ、違います」
ペテロが真っ先に声を上げた。イェースズはまた、ニッコリ笑った。
「そうだね。ほかの人はまだ、頭が半分寝ているのかな?」
誰もが、少しだけ苦笑していた。
「今ペテロが言ったように、太陽が神様ではないね。確かに太陽は神様のみ意が形となったものだけど。神様だという訳ではない。ましてやこの世の太陽は物質の光しかくれないけど、天国の太陽は霊的な光をくれる」
「天国にも、太陽があるんですか?」
トマスが突拍子もない声を上げた。
「あるとも。その霊的光がなかったら、我われの魂はこの世でもあちらの世でもどこででも存在はできない。私が手をかざすと、天国の太陽の光が強く放射される。そして、今私がしゃべっている言葉にも、光が乗っている」
誰もが理解できずにいるようだった。
「聖書には神様は七日で天地を創造されたってあるけど、その一日というのは今の我われの一日とは違うよ。天地が創られたのは今から50億年も前だから、聖書でいう一日とは、それが何千年だったりもするんだ」
「50億年」
想像を絶する数値に、弟子たちは言葉を失っていた。
「そして第六の段階で天地と自然と草木や動物をお創りになられ、最後に人間を神様は創られた。土と水で体を造り、そこに神様の魂をひきちぎって一人一人に入れてくださった。だから人は皆、神の子なんだよ。そうして第六の段階、すなわち六日目に、神様はすべての被造物をよしとされ、寸分も狂いのない自然界を祝福し、天国にお帰りになった。それが『休まれた』という聖書の記述になったんだ。その頃の人々は誰もが直接に神様とお話ができたからね。で、神様のお姿というのは、光の固まりにしか見えない。だから人々は神様を慕って、代わりに太陽を拝むんだ」
そこまで話して、イェースズは立ち上がった。
「さあ、今日の話を始めるぞ」
弟子たちは、安心したような笑顔を見せた。
「今日はね、十戒の話をしたいと思う」
一同、うなずく。
「十戒って、みんな知っているかな?」
弟子たちの中で、どっと笑いが起こった。ユダヤ人で十戒を知らないものがいるはずはないので、すぐにイェースズが冗談で言ったと分かったからだ。もちろん、当のイェースズも笑っていた。
「ところがみんな、笑い話ではすまないところがあるんだよ。トマス、第一条は?」
「私はあなたの主なる神である。私のほか、誰をも神としてはいけない」
「そうだね。しかし今日私が告げるのは律法学者のような字義解釈ではなくて、本当の意味、十戒の本義を告げたいと思う」
「本当の意味ですか?」
ペテロが首をかしげた。
「今まで私たちが聞いていたのは、本当の十戒ではないのですか?」
「ものごとには裏と表があってね、この服にも裏と表があるように、十戒にも裏と表があるんだ。おそらくこのことは、律法学者も祭司も知らないことだ」
弟子たちはあまりの突拍子もない話に、誰もが怪訝な顔をした。
「聖書でも、モーセは二枚の岩に刻まれた十戒を賜ったとある」
「たしかに」
と、ピリポが言った。イェースズはそれに応えるように、微笑んでうなずいてから続けた。
「その一枚目の岩に刻まれたのが表十戒で、これがあなた方の知っている十戒、つまりイスラエルの民のための十戒で、もう一枚の岩に刻まれたのが裏十戒なんだ。これは全世界の全人類のための十戒なんだよ。しかしこれは、まだあなた方にすべてをお話しする段階ではない。ただ言えることは、どちらも無理な要求はなされていないってことなんだ。いわば、当たり前のことしか書かれていないんだよ。つまりは、霊的な法則でね、例えて言うなら、これはあくまで例えだけども、例えば『燃えている火の中に入ってはならない』という律法があったとする。こんなのは言われなくても当たり前だね。燃えている火の中に入ったらやけどをするか、下手したら焼け死ぬ。神様の掟って、そんなふうに簡単なことなんだよ。ところが今の世の人々は心が神様から離れてしまっているからそんな置き手も大それたもののように思ってしまってね、その置き手を無視して火の中に飛び込んでやけどをして苦しんでいるか、逆に遵守しすぎて尾びれがついて、『朝の何時から夕方の何時までしか火をともしてはならない。火を五分以上見つめてはならない』とか」
一同で笑いが起こった。
「そんな人知で勝手に掟を変更して、人々を縛りつけたりしているのが現状だ。いいかい、真に言っておくけど、神様は火の中に入るとやけどをするか焼け死ぬということをご存知だからそういった掟を下された。しかし人々はそういったことも分からないから人知で屁理屈をつけて火の中に飛び込んでいっている。だから、決して裁かれて火の中に投げ入れられるんじゃないんだ」
弟子たちは息をのんで、次の師の言葉を待っていた。
「本当の十戒では、第一条は『天国の親神を拝礼せよ』となっている。宇宙創造の最高神はお一方だけど、その神様はいろんな局面をお持ちで、異教徒たちはその部分的局面のみを祭って拝んでいる。イスラエルの民は神から選ばれた民というけれど、私もあなた方が神様から選ばれてここに集められたと言っておいた。あなた方が私を選んだのと同時に、あなた方が神様から選ばれたと言っただろう? だけどもっと大切なのは、あなた方が私を選んだように、しっかりとした自覚と認識を持ってあなた方が頼るべき本当の神様を選べということだ。選ぶとは、神様が人間にお与え下さった最大の自由なんだ。天国の親神様、つまり天地創造の宇宙最高の唯一絶対神を選ぶか、その一局面にすぎない幻影の神を選んでしまうか、恵みを祈ることだ」
日もだいぶ高くなった。そろそろ汗ばむようになる時刻だ。この丘の上に木陰はなかったが、それでも風があったので暑さはしのげた。
「さらに十戒には『あなたは、殺してはいけない』とある。けれども今の律法では、実際に人を殺した時だけ裁かれる。でも、神様の掟はもっと厳しいんだよ。殺したいと思っただけで、つまりそれほどまでに人を憎んでしまったら、実際には殺さなくてももうそれだけで罪穢を積んでしまっている。人の世では殺したいと思っても実際に殺さなければ罪には問われないけれど、霊界はもっと厳しい」
イェースズは、怪訝そうな弟子たちの顔を見渡した。
「この世では殺そうと思っても罪にならないのは、この世では肉体というものの中に入って生活し、肉体を通して感じる世界だけがすべてだなんて誰しもが思っているからなんだ。でも神様の世界には肉体なんかなくて、魂と想念の世界だから、憎いと思っただけでその想念が魂を曇らせて罪を積んでしまう。等しく神の子で兄弟であるすべての人に対して悪口、陰口を言ったり、批判したり、責めたり、怨んだり憎んだり妬んだり嫉んだりしたら、その想念が物質化して自分に跳ね返ってくる。例えば人を憎んだら、その想念が地獄の炎となって自分を焼く。地獄の炎は神様が人を罰するためにお創りになったものではなく、自分自身が発した恨みの想念が炎になって自分を焼いているだけだ。これが因果応報による裁きで、自分で自分を裁いているのと同じだ。神様はちょっとやそっとのことで、かわいい神の子である人間を裁いたりはなさらない」
「しかし、先生」
マタイが手を挙げた。
「とにかく表面だけでも律法を守っていれば地獄に落ちないなんて、律法学者は言っているようですけど」
「それは違うね」
微笑んでいても、きっぱりとイェースズは言い放った。
「形式だけでも律法を守っていたら心の中なんてどうでもいいなんて、そんな馬鹿な話はない。律法はイスラエルの民だけしか問題にしていない。異民族で聖書も知らない人々は、みんな地獄に落ちるとでもいうのかい?」
「律法学者はそう言っていますけど」
マタイが、弱々しくそう答えた。イェースズは笑った。
「神様がそんな無慈悲なお方なら、私は神様を信じないね」
そして、続けた。
「でも、そんなことはない。人は死ぬとまずすぐに天国や地獄へ行くのではなくって、最初に精霊界という所に行く。いわば煉獄だ。そこは律法も道徳もモラルもない。何しろお互いに相手の考えていることが分かってしまうのだから、隠しごともできない。だからやってはいけないということもないし、自分を表面的に偽っても無駄なのでみんなどんどん自分の本性を出していく。この世で律法をかさに偽善的な生活をしていた人々も、何をやってもいいのだし、他人の目を気にする必要はないのだからどんどん自分の本質がむき出しになって言って、姿まで想念どおりの姿になる。そうして全くその人本来の魂の状態が表に出たときに、天国か地獄か、自分にふさわしい場所を自分で選んでいってしまうんだ。つまり、霊界の法則はイスラエルの民だの異邦人だのそんなのは関係ない。全世界全人類に共通のもので、どんな宗教を信じているかも関係ないのだよ」
「あのう」
と、ナタナエルが口をはさんだ。
「この世に生きている我われの祈りでしか、煉獄の魂は救われないって本当ですか?」
イェースズはまた笑った。
「誰がそんなことを言ったのかね? 理解に苦しむね。この世に生きている我われで、煉獄の魂をどうできると言うのかね? 我われがいくら祈っても、それだけで救われるってものじゃない。要は本人の精進しだいだからね。自分の想念によって救われるかどうかが決まるんだ。想念とは怖いものだよ。儀式に形式だけ参加して心の中では『早く終わらないかなあ』なんて思っているようじゃ、」
また、皆でドバッと笑った。
「そんな形式だけでは救われるものじゃあない。だから、この世に生きていたときの想念もとても大事だね。誰かとけんかしているなら、まずは仲直りをしなければならない。煉獄の魂のために祈っている暇があったら、そっちの方がもっと大事だ。怒りの状態で夜に床に就くなんてことはないように、いや、ないよね」
また、みんなで笑った。
「寝る時は、ニッコリ笑った状態のまま眠りについてごらん。それが訓練だよ」
皆の気もだいぶほぐれてきた。だがイェースズの言葉は微笑んでいるその顔とは裏腹にとても厳しく、眼光も鋭かった。
「あなた方は『目には目を、歯には歯を』などと教えられているけど、これを今の人々は非常に誤解している。これはだね、目による被害には目で復讐するだけにとどめて、それ以上のひどい復讐はしてはならないということを誡めるものだともういけど、本当は目で悪いことをしたら必ず目でアガナヒをしなければならず、歯で悪いことをしたら必ず歯でアガナヒをしなければならなくなるという霊界の法則が述べられているんだ。それは相手に対してだけじゃなくて、神様に対して罪穢を積んでいる。いわば神様へのお借金だ。アガナヒとはそのお借金を返済することで、一タラントのお借金があってそれをほとんど返済したとしても、最後の一ドラクマが残っている状態ではだめなんだよ。神様の置き手は、それほど厳しい。ああ、それなのに、このアガナヒの法を説いているのを復讐を奨励して教えのように勘違いしている人がいる。目でひどい目に遭わされたら、目によって復讐してもよい、いやするべきだなんてね」
「え? 違うんですか?」
と、ペテロが口をはさんだ。
「やはりそう思っていただろう。しかしだね、私はさらに言うよ。人が人を殺したいと思っただけで霊的にはすごい曇りになるのに、ましてや実際に殺したりしたらどうなるだろう。すべての人は神様から頂いた霊魂を肉身に内蔵する神の子なんだ、。それを殺すなんて、つまり存在を否定するなんて、神様を否定することだね」
何人かは無言でうなずいた。
「動物たちを見てごらん。ライオンは確かに草を食べる動物を殺すね。でもそれは食べるためであって、お腹がいっぱいだったらそばをウサギが跳ねていようが知らん顔をして見ている。憎しみとか怨みで殺し合うのは、悲しいかな人間だけなんだよ。ライオンがほかのライオンを怨んで殺したなんて話は、聞いたことがない。神様は食用とするための殺生なら大目に見られるけれど、そうでないものは決してお許しにならない」
弟子たちの間で、ため息が漏れた。
「話がそれたけど、さっきの『歯には歯を』の話に戻ると、私が言いたいのは、例えば目に対してひどいことをされても、それは自分が過去世において目で人を傷つけた罪穢を目でアガナって、神様がその罪穢を消そうとしてしてくださっているのだからまずそれに感謝し、自分の罪穢を消してくださったその相手にも感謝して、その人の救われのために祈らなければいけないのに、その相手を怨んで復讐するようだとせっかく消してくださろうとしている罪穢が消えないばかりかますます罪穢を積んでしまうことになる。だから、復讐どころか右の頬を打たれたら左の頬を出すくらいでないとだめだ。上着を盗られたら、下着をも与えるんだ」
このイェースズの言葉は、弟子たちに驚愕を与えるのに十分だった。何から何まで彼らがこれまで培ってきた常識を覆すのが、今日のイェースズの話だったのである。
「いいかい。右の頬を打たれるということは、打たれなければならない罪穢があるってことだ。罪穢があることをサトッたら積極的に左の頬も打ってもらって罪穢を消してもらう方が得だろう。消してもらったら感謝だ。何もなければ打たれることはない。赤ん坊を見てごらん。赤ん坊が笑って走ってきたのを見て、その頬を打つ人なんかいるかい?」
皆、首を横に降った。
「そうだろう。それが本当の無抵抗というものだ。それともう一つ、あなた方は友を愛して敵を憎めと教えられているね。でも、敵だからといって憎んでいいはずはない。私はあえて言うけれど、敵を愛し、あなた方をののしる人々に親切にし、あなた方を憎いと思う相手のために祈るんだ」
「あのう、先生」
またトマスが手を挙げた。
「敵は憎んでいるからこそ敵なのであって、愛してしまったら敵ではなくなってしまうのですか?」
イェースズはその問いにも、笑顔で答えた。
「確かに、世間一般ではそうだけど、私は今そんな世間の話ではなく霊的世界の次元で話をさせて頂いているのだよ。いいかい、哲学的思考は一切捨てるんだ。私は決して道徳やモラルを話すんじゃないと、さっき言っておいたはずだよ」
「分かりました」
トマスはすでに引き下がったが、同時にイスカリオテのユダが憮然として手を挙げた。
「我われイスラエルの民にとって、最大の敵はローマでしょう。そのローマをも愛せよとおっしゃるんですか?」
「ローマ人も、神の子だ。ローマからの圧制から解放されるのが本当の幸せだって言った人もこの中にいたけど、それを勝ち取るためには血を流す戦いをしなければならないね。そうなると、我われが勝っても負けた方の傷つき殺された人々の怨みの念は、必ず霊界から集団で復讐してくる。そうなると本当の幸せを得たとは言えない」
イェースズはそれだけ言うと、次の話を始めていた。
「憎いっていうのは、悪いって決め付けることだけど、神様はそんな決め付けをするかな? もし我われが誰かを『おまえは悪い』と決め付けても相手はウンでもスンでもないけれど、もし神様が同じようにそう決め付けたらその人は生存することができなくなってしまう。魂もろとも木っ端微塵になるね。みんな、罪があろうと神様から許されて、生かされているんだ。考えてもごらん。神様は太陽の光を下さるにしても、あなたはいい人だからたくさん、おまえは悪人だから少しだけなんて、そんなことあるかい? 雨を降らせるにしても善人は倍、悪人には半分なんてないだろう? 善人にも悪人にも神様は等しく太陽の光を下さり、雨を降らせて下さる。これが、神様の愛だよ。たとえ罪のアガナヒとして不幸で苦しんでいる人がいたとしても、それでも生きているのは神様に許されて生かされているからだ。今の時点で不幸に陥っていたとしても、それは罪から魂を浄めてくださるためで、一切がよくなるための変化なんだ。決して神様の裁きではない」
弟子たちは、静まり返っていた。
「だから、あなたに敵対する人をこそ愛さなければならない。恩をあだで返すものに対してでさえ、そのもののために祈るんだ。すべて、あなたの魂の罪穢の消し役、魂の磨き役だ。そう思えば感謝こそすれ、腹など立たなくなってくる」
「先生のおっしゃること、分かります、その通りだと思います」
本当に分かっているのかどうかは別にして、ペテロがやたら大きな声で言った。
「少しだけでも分かってくれたらいい。ものごとは段々で、最初から分かろうなんて無理だからね。世間一般は敵を憎むけど、あなた方は光の子として人よりも一歩も二歩も先を進んで、みんなが神様に近づけるように引っ張っていかなくてはならない。あなた方には、そのような使命がある。あなた方は神様との因縁が深い。でも、罪穢も深い。だから使命も重いんだ」
「そんな」
弱々しく小ヤコブがいった。
「今わは私たちが先生に引っ張って行ってもらっているのに、私たちがひっぱるなんてそんなことができるんですか?」
「私の教えをス直に受け入れれば、必ずできる。そしてやがては、あなた方一人一人が私の代行者にならないといけない。そのためにあなた方を召命した。私は決して無理は言っていない。むちゃくちゃなことも言っていない。例えば、自分で自分のおでこをつねったら罪になるなんて、そんなとんでもないこと、まるで律法学者が言いそうなことは何一つ言ってない」
少し緊張がほどけて、弟子たちの中から笑いがあがった。笑いながらも、今イェースズに言われた使命のことで、少しだけ張り詰めた表情をしていた。
「でもおでこではなくて、自分で自分の鼻をつまんで口も閉じていたら、息ができなくなって死んでしまいますよってことを言っているんだ」
また、弟子たちは笑った。
「これは無理なことでも、無茶なことでもないだろう。そんなことをしたらどんな結果になるか知っているから、だから言うんだ。決して倫理や道徳じゃあない。私が説いているのは法則なんだよ」
そのへんは弟子たちも少し納得したようだ。
「でも、あえて言わせてもらえば、神様が完全なお方であるように、あなた方も完全になりなさい。これは決して無理なことではない。無理なことだったら、私は決して言わない。無理と思ったらやるというような意気込みも必要だ。人の魂は、みんな神様から頂いたもの。神様がご自分の霊質をひきちぎって一人一人に入れてくれた。だから、人間のもとは神であって、人の本質は神なんだ。人は神の子で、神様は親だ。子供がいつか育てば親になるように、あなた方も育てば神になる。人はみんな神様が本質だから、罪穢を消し、み魂を磨き、浄まれば誰でも神になれるんだ。それを神性化といって、一歩一歩神様に近づいていくんだよ。さあ、とりあえずはここまでで
、休憩しよう」
それを聞き、安堵の表情になった弟子たちが多かった。
「あなた方はそれぞれ、今の話をよく思い出して、自分の生活を点検して反省してほしい」
人々は立ち上がり、お尻の痛さをほぐした。
昼も過ぎた頃、弟子たちはまたイェースズの話を聞こうと集まってきた。休憩の間中、弟子たちは皆昼寝をしていたのをイェースズは知っていたが、それもよしとする笑顔でイェースズは話しはじめた。
「次は『あなたは、姦淫してはいけない』ということについてだ」
弟子たちの表情が、幾分硬くなった。弟子のうちの半数以上が未婚だったので、これは避けて通れない切実な問題だ。
「これは『あなたは、人の妻を望んではいけない』というのも同じことだ。律法によれば、結婚は祭司の承認のもとに行われるね。でも、本当の意味で魂と魂の結婚をお許しになる方は、神様だけだ。双方の魂の釣り合い状態を見て、神様がふさわしい相手を決める。でも霊界では、その二つの魂はすでに結び付けられることが決まっていてね」
イェースズは急にペテロを見た。
「ペテロ。あなたが自分の奥さんと初めて会った時のこと、覚えているかね?」
いきなり話をふられて戸惑っていたペテロだったが、しっかりと顔を上げた。
「初めて顔を見た時、あ、この人と結婚するのかなあと、おぼろげながらに思いましたね」
イェースズは満足げにうなずいた。
「そうだろう。魂の段階ですでに結ばれることが決まっているのを、魂が感じたからだ」
イェースズがにこっとすると、ほかの弟子たちもニヤニヤしてペテロを突っついたりしていた。そこで小ヤコブがため息などついたから、それが受けてどっと笑いが沸いた。イェースズも笑った。そして言った。
「人は誰も知り合いになったというだけで、目に見えない銀色の糸で結ばれる。もっとも知り合いになるということはすでに縁があってのことなんだけど、その銀の糸の中でいちばん太いのは親子、そして兄弟だ。夫婦は最初は他人だからその糸も細いけど、やがてどんどん太くなってしまいには親子以上になってしまう。そして友人などとのその糸は切ることもできるけど、親子や夫婦の糸は人間の方で勝手に切ることは許されていない」
「では、いかなるときでも離縁はしてはいけないのですか?」
ナタナエルの問いに、イェースズはうなずいた。
「人知の律法では条件付に離縁を許しているけど、それは男の身勝手で一方的に男から離縁を言い渡すようなことがないように、離縁に際しては理由書を書けと言っているだけで、本当は離縁はよくない。霊的な神様の掟は、離縁は許されない。そしてまだ結婚していない皆さんのために言っておくがね、結婚するまで、女性をいとしいと思う気持ちがあるのは致し方ない。これは神様からの最大の贈り物で、人間としても子孫を残すためにはどうしても必要な感情だ。でもね、素晴らしい反面、怖い面もある」
弟子たちは、首をかしげた。
「どういうことですか?」
小ユダが、顔を上げた。イェースズは全員を見渡した。
「そういった感情は、一歩間違えれば地獄の底まで落ちかねない。悪霊がいちばん利用しやすいのも、この異性を思う人間の心だ。だから、恋愛は魔性なんだ。今まであなた方が見て来た邪霊の霊障も、男女間の怨みがいちばん多かっただろう? 気をつけなければいけないのは、皆さん男だから女をというが、女を見る時その魂は見ないで肉体だけを見て情欲にかられると、いちばん邪霊に操られやすくなる。邪霊と波調が合ってしまうんだ。だから女性を好きになったらまずは一線を越えないように努力し、許しを得て堂々と結婚して、それから男女の営みに入ればいい。つまり、パリサイ派の学者さん連中がいうような禁欲は必要ないのだけど、制欲は必要だ」
「先生」
と、トマスが手を挙げた。
「一線ってどこに引けばいいんですか? どこまでが許されて、どこまでが許されないんですか?」
「それは、その人その人の魂の状態によって違う。神様の掟は決して押し付けではないから、自分がここが一線だと思うところを守ればいいんだ」
トマスはうなずいた。
「それで、何よりも大事なのが、神様と恋愛をすること」
初めて聞く論理に、弟子たちはただぽかんとしていた。
「人は恋をしたら、相手のために何でもしてあげたいと思うだろう。その気持ちを、まずは神様に向けることが大切だ。信仰とは、神様との恋愛だ。神様を信じるのは大切だが、そこで止まっていてはいけない。要はいかにして自分が『神様に信じてもらえるか』ということだよ」
次の質問は、ピリポからだった。
「やはり聖書にあるように、自分ひとりでの行為もまずいのですか?」
「まあこれは、男なら」
弟子の誰もがひそひそと笑っていた。
「絶対にいけないってことじゃないんですか?」
トマスが、急にテンションを高くしてきた。
「さっきも言ったけど、神様の教えというのはあれしちゃだめこれしちゃだめ、あれしろこれしろというような押し付けになっては困る。神様の教えは霊的法則なんだ。どちらを選ぶかは、人間の自由意志に任されているからだ。だから愛もなく交わると、せっかく神様から頂いているある霊的な力をどぶに捨ててしまうことになる。それにその時の想念って、決してよくないだろう。人を殺したいと思っただけで霊的には曇りを積んでしまうのと同じでね、実際に姦淫をしなくても、情欲の目で女性を見ただけで霊的には魂を曇らせてしまうんだ。霊界は想念の世界だからね。肉体でごまかすことはできないから、余計に厳しい」
イェースズの優しい笑顔との裏腹の厳しい話の内容に、弟子たちは皆唖然としていた。
「霊界は決して甘い所ではない。むしろこの世の方が、肉体があるだけにごまかしがきく。何を考えていてもそれを隠して、ごまかせる。しかし霊界は厳しいので、霊界ではどうなのかと考える癖をつけることだね。これを『霊的に考える』というんだけど、あなた方はぜひ霊的生き方を身につけてほしい。この世のものも大元はすべて霊で、一切が霊的なものが主体となっている。霊といっても、幽霊のことばかり考えていてはだめだ。自分の行動を霊的に見てどうなんだろうと考える癖をつけるんだ。そして、霊的にまずいと思ったらやめる。ちょっとでも霊界の法則にはずれていると思ったら、断乎として遠ざけること。例えば目がつまずきとなるなら、どうすればいい? どうすればいいかというと、その目をえぐって捨てる」
一同は、また笑った。
「そうしないと、全身がゲヘナの火に焼かれてしまう。そうなったらたいへんだ。そしてもし右手が悪いなら、右手を切り落とす」
また、笑いが起こった。
「あなた方は笑ってるけどね、右手一本なくすのと体全体がゲヘナの火に焼かれるのとでは、どっちを選ぶ?」
ゲヘナの火に全身が焼かれるのも困るが、だからといって右手とも簡単に答えられずに弟子たちは返事に窮していた。イェースズは声を上げて笑った。
「いいかい? これはもののたとえだよ。それくらいの覚悟を持ってほしいということだ。くれぐれも、間違っても、本当に目をえぐり捨てたり、右手を切り落としたりしないこと」
弟子たちは、また笑った。イェースズも笑っていた。昨日から話の内容はまじめで厳しいものなのに、なぜかずっと彼らは笑いっぱなしだ。それだけに丘の上は、明るい陽ので満ちていた。
「そして十戒にはほかに『あなたは、盗んではいけない』というのと、『あなたは、人の持ち物をみだりに望んではいけない』というのがあるけど、どちらも同じことだ。人のものを盗んだり、ただ単にほしいと思っただけでも、その欲望は地獄の炎となって自分を焼くことになる。ほしいというのは、むさぼる心だろう? 今の自分の持っているものでは足りないという不平不満だね。神様は、不平不満が何よりもお嫌いだ。まず、今自分の与えられているもので足りる心を知り、それがどれほどすばらしいものかを思うという発想の転換が大事なんじゃないかと思うが、どうだろうか。与えられているもので足りる心、感謝の心が大切で、とにかくことごと一切徹底感謝から神のミチは始まる。『これじゃ足りない。もっとほしい』ではなくて、『こんなにも頂いている〜〜〜。有り難い〜〜〜』って思うことだ。考えてもみてごらん。まず今日もこうして無事に生きている。息ができる。有り難いだろう。座る場所がある。肉体も健全だ。有り難いね。一切が神様から拝借しているもので、自分で作り出せるものなど何一つないだろう? 人間の力ではまつ毛一本、ケシの種一つ作れない。すべては神様がお創りになったもので、その神様から我われはこんな立派な体を頂いている。それだけでも感謝しかないはずだ。それなのにもっとほしいとむさぼる心は砂漠だ。いや、地獄だね。感謝を忘れていた人は、今日を機に一切に徹底して感謝するんだ。大体うれしいことがあれば自然と感謝するだろうけど、不幸なこと、いやなこと、そういうことがあっても一切が感謝だ」
何人かが、いぶかしげに首をかしげた。
「さっきか昨日かも言ったけど、不幸というのは、一切がよくなるための変化だ。自分にこれだけの罪穢があったのだをサトって、その不幸現象によって罪穢が消えていく。消させて頂いている、そのことにも感謝だ。不幸に対して不平不満を持つから、不幸は長引くんだよ。感謝していればすぐ終わる。今、生かされている、これも感謝だ。何事もないというのが、神様からの最大の贈り物なんだよ。じゃあ感謝して、少し休もう」
そのイェースズの言葉に、みんなはまた笑った。
休憩の時間は、割と長かった。空の雲も数が多くなり、日も西の方へほんの少し傾いた頃、イェースズはまた弟子たちに集合をかけた。長い休憩のせいか、弟子たちにくたびれている様子はなかった。
「どうだい? 休憩できたことに感謝できたかい?」
弟子たちは顔を見合わせ、はにかんでいた。それを見て、イェースズは声を上げて笑った。
「まあ、いいだろう。何事も段々で、一気には無理だ。階段も段々に上るだろう? それを二、三段飛ばして一気に上ろうとすれば、頭を打って気が変になる。朝も段々と明けていくね。それがいきなりパッと夜から明るくなったら、みんな気が狂ってしまう。ま、あなた方は正直でよろしい」
明るく、弟子たちは笑った。
「正直であるってことは大切だ。十戒にもあるね。『あなたは、偽証してはいけない』って。肉体に入っている時はある程度うそを言ってもごまかしがきくけど、ひとたび肉体を脱ぎ捨ててあの世へ行けば、うそは通用しない。昨日も確か言ったと思うけど、あの世はすべてが想念の世界で、想念はすべて伝わってしまう。つまり、お互いが何を考えているのか、すべて分かってしまうから隠し事ができないんだ。それだけじゃなくって外見すら想念どおりになってしまう」
何度聞いても弟子たちにはそれが厳しく感じるらしく、陽気な笑顔が一転して引き締まった顔になった。その時、ピリポが手を挙げた。
「先生。昔から『偽りを誓うな。誓ったことはすべて主に対して果たせ』とありますけれど、正直にというのはこういうことなんですね」
「いやあ、もうちょっと突っ込んでいうとね、誓ってはいけない」
弟子の誰もが「え?」というような顔をした。
「一切誓ってはいけない。だって考えてみてごらん。もし何かを誓ったとしても、その誓ったことが実現できるかどうかもすべて神様のみ意次第なんだ。それを実現させるかさせないかは、神様の権限なんだよ。それを誓うだなんて、人知の思い上がりじゃないかね? 人がいくら頭で考えたって、その頭に生えている毛を白くするのも黒くするのも神様がされる。人間の力では、自由に自分の髪の毛の色さえ変えられない。頭のてっぺんがはげてきたって、人間の力ではどうすることもできないだろ?」
また、皆で笑った。
「いいかい。神様は実在するお方なんだよ。誓っておいてしなかったらどうなるか、私でさえ誓うなんて怖くて怖くてできない。だからどうしてもの時は、『誓うことをお許し下さい』と祈ればいい。または『私はこうすることに決めました』と、誓うのではなくて宣言するんだ。これならばいい。でもね、その場合でもそんな宣言の言葉より実践の方がはるかに大事なんだよ」
「実践が大事」
小ヤコブが、ゆっくりとうなずいていた。
「正しい教えを実践することこそが、宝なんだ。中味がない人ほど、あれこれと言葉で飾りたがる。口で言うのは簡単だからね。だからあれこれ多く言わないで、そうであることはそうだ、違うことは違うって、ただそれだけを言っていればいい。それ以上のことを言っていると、いつしか悪魔に障やられる」
「先生」
と、小ユダが手を挙げた。
「話しがそれますけど、悪魔って本当にいるんでうすか?」
「んー」
イェースズは少し考えてから言った。
「人にとり憑いて霊障を起こす邪霊がいるのは、あなた方も知っているよね。私がかざす神の光を嫌がって、邪霊が霊動というかたちで暴れたのを何度も見てきただろう? でもそれは、純粋な意味では悪魔ではない。邪霊ももともと人間や動物として肉身を持って、この世で暮らしていた霊なんだ。地獄の底へ行けば、その大ボスのような悪魔がいるかもしれない。しかしそれとて神様が悪魔としてお創りになったわけではなくて、本来は光の天使だったのに勝手に神様から離れて勝手に悪魔になってしまったんだよ」
小ユダは、まだ首をかしげていた。
「どうして、勝手に神様から離れたんですか」
「すべて我と慢心だよ。だからあなた方にとっても、いちばん怖いのは自分の心の中の悪魔だね。心の中に邪悪な想念がわいたら、それが悪魔だと思えばいい。その悪想念が邪霊と波調が合って、邪霊を呼び込んで霊障を招くし、魂をも曇らせてしまう。魂が曇ったら、神の光は届かない。目が開いていれば世の中が明るく見えるけど、目が曇ったらこの世は真っ暗だろう?」
弟子たちは、ゆっくりうなずいた。イェースズは話を続けた。
「それと同じで、ここの一つの目」
イェースズは、自分の眉間を指さした。
「つまりこの眉間の奥約四分の一ペークスのところに人の主魂があるんだけど、その魂が曇ったら神の光は射してこないから真っ暗な人生になる。神様から頂いた水晶玉のような魂を曇らせ、包み積んで枯れせしめしこと、これが本当の罪と穢れだ。だから魂を曇らせないように、邪霊と波調を合わせないように自分の心を点検して、毎日反省することが大切だ。神様から頂いた魂は真我の吾で、その一つの目が浄ければ、それは川上に当たるから、川下になる体は全身が清いことになる。だけれどもその魂が曇ってきたら、その曇りがやがて偽りの自我、つまり偽我を造ってしまう。そしてこの偽我を本来の自分だなんて錯覚して、操られてしまうんだ。偽我さんは邪霊と仲良しだから、この偽我を払拭するには幼児記憶までさかのぼって反省し、形成されつつあった頃の偽我と対話することが大事だね。そして邪霊に操られないコツは、いつも人の幸せを願う愛の心もって、すべてのことに感謝して、明るく陽ので笑って暮らすこと」
「ああ、いい話だ」
と、トマスが声を上げた、イェースズは微笑んだ。
「いい話だで終わってしまってはだめだよ。聞いた話を実践しなければ、何の意味もない。耳で聞いて頭で理解するのではなく、魂で聞いてすぐに体で行動に移すことだ。この話は、決して哲学ではない。哲学は分析したらおしまいだ。でも私は、あえてあなた方に実践を促す。いいかい? まず、あなた方自身が実践するんだ」
イェースズは、全員に視線を向けた。
「毎日の生活を、もう一度点検してごらん。安息日にだけ神様を礼拝して、あとの六日間は自分の偽我や邪霊のご機嫌をとっているようでは、なかなか昇華はできないよ。週に一日だけ神様を信仰すればいいなんてものじゃない。誰でも二人の主人に仕えることはできないだろう? だから。本来あなた方の魂は神様の分けみ魂だ。それなのに、その本来のあなたの肉体の主であるべき魂がどこかへ行ってしまっている人がいる。代わりに己心、欲心がその人の人格を支配してしまっている人も多い。さあ、どちらかを選ぶか、それは明白だ。己の損得で動くような人は己心がある人で、その己心ある人は神様に使ってもらえない。自分が仕えべきの主はどちらか、はっきりさせることだ。だから、日々の生活の中でいかに神様の教えを実践しているかということが大切になってくる。人に知られないように陰徳を積んで、神様の御用をして、愛の心で人を救わせて頂く、こうすれば天の倉に宝を積むことになる。一所懸命お金をもうけて財を蓄え、それをせっせと地の倉に積んでも、火事になったら全部燃えてしまうね。だから、天の倉に宝を積めと言いたいんだ」
「先生」
ペテロが、問いを発した。
「天の倉って、どこにあるんですか?」
イェースズは優しく笑った。
「その倉は、目には見えないよ。神様の世界にある倉だ。目に見える地上の倉よりずっと大切だと言えば、皆さんは驚くべきことのように感じるかもしれないけど、肉体は魂が入っているからこそ何十年ももつんだよ。でももしひとたび魂が抜けたら、体なんて三日で蛆虫がわいいて腐ってしまう。だから、いよいよ肉体よりも魂、霊の方が主体だということを認識しないとね。そういう人は、いずれ天の倉より求めずとも与えられるようになる。そうなるともう、貧などとは無縁の人生だ。だから、人を救えば、救われるというのはこういうことなんだ」
「神様が、この罪深い我われを救ってくださるのですか?」
ペテロの問いに、イェースズは空を見た。そこには二羽ほどの雀が、空を飛んでいた。
「ごらん、あの空の鳥を」
それから、イェースズは地上に視線を下ろした。
「それから、この野に咲く白百合をね」
弟子たちも、言われるままに視線を動かしていた。
「かつて栄華を極めたソロモン王でさえ、こんなにも着飾ってはいなかった。動物や植物は自分で地に種をまいたり、作物を収穫したりなどという労働など一切していない。それなのに健やかに生きているんだ。こんなに小さな命にまで、神様は愛を降り注いでくださっているんだよ。そして自然界の微に入り細に入りの仕組み、生命の連動をジーッと見つめてごらん。鳥を、動物を、花を、虫に至るまで、ジーッと見つめてごらん。心を落ち着けて、一点にジーッと目をとめるんだ。そうすれば、それらをお創りになった神様の息吹が見えるはずだよ。神様のお力が分かるだろう? 『妙』の一言に、唖然とするだろう? ましてや私たちは神の子だ。一人一人が神のみ宝なんだよ。地の倉のことばかり考えて、何を着ようか何を食べようかとことさらに思い悩む必要はない。与えられたものを感謝して頂戴するいう、真ス直にして慎ましい生き方を身につけていかなくてはならない。考えてもみてごらん。明日は炉に投げ入れられる草にさえ、神様は心を注いでくださっている。雀なんて、神殿へ行けばいけにえ用として五羽がわずか二アサリオンで売られているじゃないか。そんな雀の命さえ、神様の権限の内にある。神様は、すべてをお見通しだ。我われの髪の毛の一本一本まで数えられていると思っていい。雀の命さえ神様は大切になさるのだから、ましてや尊い神の子である我われ人類を神様は不幸にされるはずがない。それなのに私は不幸ですという人は、『私は神様のミチからはずれ、神様から離れています』という看板を首から下げて歩いているようなものだ。神様から離れさえしなければ、人は誰でも放っておいても幸せになるように創られている。天の倉から無尽蔵に与えられるんだ。だから、求めずして与えられる人になっていかなくてはいけないんだよ」
もう弟子たちは誰もが無言で、イェースズの話に聞き入っていた。
「だから、地の倉に宝を積もうとしてあくせくすることなど、ばかげたことだと分かったね? 生命があって、しかもそれが繁茂繁栄するものは、神様しかお創りになれない。あなた方は背伸びをすれば少しばかりは背が伸びるけど、そうではなしに自分で自分の背丈を伸ばしたり縮めたりすことができる人はいるかい? いないだろう。人知ではまつ毛一本、けしの種一つ作ることはできないんだ。そんな人知で地の倉に宝を積もうとすれば、またそこに争いが生じる。でも、肉体を殺せても、魂まで殺せないものを恐れる必要はない。本当に畏れ戦くべきは、魂をゲヘナの火で抹消できる権限をお持ちのお方だけだ」
「あのう」
ピリポが力なく手を挙げた。
「天の倉に宝を積むためには、何をしたらいいんですか?」
「さっき言ったように、神様の御用に立ち、他人様をお救いさせて頂く。つまり、神の国と神の義をまず求めることだ。この世のものは、もうすべて与えられているんだよ。あくまで霊を主体にして考えていけば、そして実践していけば、物質的なものは自ずから付随してくるものなんだよ」
分かっているのかどうかは分からないまでも一応弟子たちはうなずいていた。
まだ日は高かったがそれでもイェースズはこの二日目の話はここまでであることを告げ、弟子たちに休むように命じた。
三日目の朝、同じように一同で祈りを捧げたあとイェースズはまた弟子たちを自分の周りに集めた。
「みんなかなりくたびれてきただろうし、頭の中がパンのことばかりなんていう人はいないだろうね」
一同は、どっと笑った。
「今日の日が沈んでからは、みんなたらふく食べられるよ。だから忍ぶんだ。我慢をするというのは陰のになってしまう。忍んで耐えるというのは、いつかはと言う希望があるから陽のだね。ちょうど冬に雪の下で春が来るのを待ちながら耐え忍んでいる莟と同じで、莟は冷たい雪を我慢しているのではなくて春が来ることを知っているから耐え忍んでいるんだ。その陽のでもって、今日一日耐え忍んでほしい。辛く苦しいのはみんな同じで、自分一人じゃあない。そういった時の想念こそを、神様はご覧になっているのだよ」
それを聞いてがんばろうというが弟子たちからひしひしと伝わってきたので、イェースズは大きくうなずいた。
「前置きはこのくらいにして、話を始めよう。今日は、三日のうちでいちばん大切な日だ。昼過ぎくらいになったら、それが分かるようになると思う。それまでまだ、いくつか律法についての話が残っているから、そのことを話してしまおう」
イェースズは一つ、咳払いをした。
「十戒には入っていないけど、『人が自分を裁くように裁き、人が与えてくれるだけ人に与えよ』と、こんな掟があるね。でも、こんなのは人知による掟だ。いいかい。裁いてはいけない。一切裁いてはいけない。なぜなら裁きは神様にだけある権限で、その権限は人には与えられていない。だから人が人を裁いたら神様に対する越権行為となり、やがては人を裁いたのと同じような分量で神様から裁かれることになる。裁きは罪だ。いいかい、人の悪口、陰口、これも裁きだ」
誰もが、意外な顔をした。
「裁きだよ。言いたいことがあったら、必ずその人に直接言う。これは裁きにはならない。たとえ相手が怒っても、神様は真を見ておられる。親が子を裁き、子が親を裁き、兄弟を裁く。神の子を裁く、これは神の権限を犯すことなんだ。神の子としての本霊は絶対『悪』ではない。人類から裁く心がなくなったら、たいへんな愛和の世界ができる。それと、人から与えられた分だけ人に与えるというのも違っていて、本当は神様から与えられた分だけ人に分かち与えるべきだね。考えてもみてごらん。人は皆、神の子だよ。親が子供をしつけのために叱ることはあっても、子供同士が叱り合うなんてあるかい? ましてやその子供は、地上にあっては肉体の中に閉じ込められて霊的には盲目同然になっている。盲人が盲人の手引きをしたら、どういうことになるかね? 二人そろって穴に落ちてしまいかねないよね」
「たしかに」
と、ペテロが口をはさんだ。イェースズはうなずいた。
「そうだろう。だけどね、人は神の子なんだから霊的修行をして、魂を磨いて曇りをとっていけば、前にも言ったけど必ず神性化できる。ところが、だいたい人ってものは他人のことはよく見えるくせに、自分のことはてんで分かっていない。他人の目の中に小さなゴミがあったらすぐに分かるんだけど、自分の目の中に丸太が入っていても分からないものだよね」
この丸太が受けて、弟子たちは笑った。
「だからまず、自分の目の丸太をとってからでないと、他人の目のゴミをどうのこうの言う資格なんてないだろう? だからまず自分自身の魂の曇りをとって浄まってからでないと、とてもとても他人様の目のゴミを取らせてください何て言えたものじゃない。まず自分の罪穢を消して、自分が浄まることだよ」
「浄まれば、神様のお恵みも頂けるのですか?」
と、アンドレが口を開いた。
「さっきも言ったように、すべての恵みはすでにもう与えられている。まず、そのことに感謝することだ。そしてその神様からのご恩に報い、その恵みを人に分かち与えることだね。門は叩けば開かれるし、求めれば与えられる。そして与えられたものをどんどん隣人に分かち与えていけば、またさらにどんどん与えられて、最終的には求めずして与えられる人と化することもできる。これが、救え、そうすれば救われるということだ」
トマスが、手を挙げた。
「与えられてる恵みって、具体的に何なのですか?」
「さまざまな恵みがあるはずだ。今、生かされているということ自体が最大の恵みだし、五体が満足で、家族がいて、家がある、これだけでもすごい恵みだよね。今、一回息を吸えた、これもまた恵みだ。世の中には偶然などというものは一切なく、すべてが神様のご意志によって動いているのだからね」
「本当にそれらは、神様から来た恵みなんですか」
トマスはまだ、納得していないようだ。
「自分の子供がパンをほしがっているのに石を与えて、そのパンを犬にやってしまう親なんているかい? 魚をほしがっている子供に蛇を与え、豚に真珠なんか与えるそんな人いるかな?」
笑いがどっと起こった。
「神様は天の御父で、私たちはは皆その子供なんだ。神様が人類に、よいお恵みを下さらないはずがない。だから、まず先に自分がしてほしいと思うことを、自分から他人にしてあげることだ。決して自分がそうされるためにするんじゃなくて、本当に愛と慈しみの心に徹して人のためになにかしてあげたとき、神様は十倍にもして返してくださる。情けを人にかけてあげるのはその人のためだけではなくて、自分のためでもあるんだね」
「それって、難しいですね」
ヤコブが、首を挙げて言った。
「自分がそうしてもらいたいから人にもそうする。でも自分がそうしてもらいたいってことを考えてはいけないなんて、ほとんど芸当に近いような気がするんですけど」
イェースズは優しくうなずいた。
「確かに難しいね。でも神の国の門は、とても狭い。人々を導くには霊的な眼を開かなくてはならないし、その霊的な眼でないと狭い門は見えない。肉の目でも見える門は広くて入りやすいのだけれど、それは利益と欲望追求の門で、その門の中は不幸へと続いている。そのどちらの門を選ぶのかは人類に与えられた自由なんだけれど、せっかく神の国の門を入って神様の屋敷の入り口までたどり着いたのなら、中へ入れてもらって庭をも見せて頂ける魂へとなりたいね。門からちょっとのぞいて、『ああ、素晴らしい。立派なお屋敷だ。いいものを見せて頂いた。では、さようなら』と言って『回れ右。前へ進め』で『はい、地獄行き』という人がほとんどじゃないかな?」
弟子たちの笑い声が、青空に響く。
「そんなのはもったいないよね。もっともっと奥へ入ればもっと奥の深い素晴らしい世界が待っているのに。だいたい門から入ってそのまま門から出てくるのは、押し売りか泥棒だけだよ。せっかく御神縁があればこそ救ってあげたのになあと、神様は思われるだろうね。神様はもう人類に、恵みを与えたくって与えたくってしょうがないんだ。人類は一人残らず、かわいい神の子なんだからね。それなのに、人類の方でそれを拒絶している。例えば自分の子供がいつもねだっていたもの、ある日父親が手に入れたとする。早速子供の喜ぶ顔を想像して、早くこれをあげようと思って父親が家に帰ると子供は庭で遊んでいて、ちょっと家の中に来なさいと言っても子供は遊びに夢中で父親の言葉を聞こうともしない。無理に家の中につれて入ろうとすると、『遊びの邪魔する』って父親に食ってかかる始末。これじゃあ何も与えられないよね」
「その通りです」
トマスはやっと理解したようだ。
「さっき、裁きは神様だけの権限だって言ったけど、神様とて容易に人を裁いたりはなさらない。まずは大愛でもって恵みを与える。これは種まきといっしょだ。よい木はよい実をつけるだろう? 悪い木がよい実を結んだり、よい木が悪い実を結んだりすることは普通はない。すべて因果応報という、厳とした霊的法則にのっとって動いている。だから、どんな実ができたかですべてが判断される。神様は辛抱心が桁外れに強いお方で、実に長い目で人類をご覧になってくださっているんだよ」
「ああ、先生。我われは何と素晴らしい師を戴いたんだ」
アンドレの言葉に続いて、エレアザルもそれに同調した。
「これこそが最大の恵みですね」
「また、よく言う」
イェースズは照れたように笑っていた。ペテロが仲間を見渡した。
「なあ、みんな。もう先生と呼ぶのさえはばかられる師だから、主とお呼び申し上げるのがふさわしいじゃないか。みんな、これからはこぞって『主』とお称え申し上げようではないか」
ペテロの言葉を、笑いながらもイェースズはさえぎるように言った。
「何を言うかね。いいかい、私に向かって『主よ、主よ』なんて崇め奉っても、それで神の国に入れるわけじゃあないよ。ただ、神様のみ意にかなうものだけが入れるんだ。つまり、神様のみ教えを実生活の中で実践する人が、神の国に入れるんだよ。私を崇めるだけで、私がお伝えさせて頂いた教えを実践もせずにあとですがってきたって、『私はあんたなんか知らない』って言うだろうね。私はヨハネ師のように教団を立てるつもりはないし、その教祖になろうなんて思わない。私は教祖じゃないよ。私を崇めないでくれよ。強いて教祖といえば、それは天の神様だ。ましてや私は、神様じゃあない。みんなと同じ神の子だ。ただ、特別な使命を受けて神様から遣わされた、神の言葉の代弁者だ。だから、信仰の主体は、あくまで私じゃなくって神様だよ。そこのところは、特に間違いないでほしい」
「はい」
と大きく返事をしたのは、小ヤコブだけだった。ペテロなどは、まだ首をかしげている。エレアザルもまだ納得いかない顔で、イェースズを見た。
「いや、あなたの言葉は、まさしく神の言葉だ。まるで神の言葉が、肉体を受けて生まれてきたようだ」
イェースズはただただ苦笑していた。
「そうおだてられるのはうれしいし有り難いけど、私がいちばんうれしいのは、あなた方やあなた方が教えた人々が神様のミチを実践に移してくれることだ。それも道徳や倫理として表面上だけ実践するんじゃなくって、霊的意味をかみ締めて実践させてほしい。同じ実践でもその時の想念によって霊的意義がかなり違ってくるから、想念は大事だ。やりゃあいいってものじゃない。何度も言うけど、私の教えは倫理や規範でもないし、人生訓でもない。この三日にわたってあなた方が聞いた話を、『いい話だった』で内容を暗記したとてだめだ。それを自分の血とし肉として、日常生活の中で生かすことが大切だ。話だけ聞いて、その話を覚えて、でも実践しない人は、砂の上に家を建てるようなものだ。砂の上に家を建てたらどうなる?」
「雨が降れば流されて、つぶされてしまいます」
そう答えたのも小ヤコブだった。
「だから、家は岩の上に立てるべきだ。そうだろう? ペテロ」
ペテロというニックネームの由来を知っている人は、そこで笑った。
「土台がしっかりとしていないといけない。教えを聞いてそれを実践に移すということは、しっかりとした土台を築くということだ。今を土台にして、その上に未来という立派な家を立ててくれ。この未来とはあなた方一人一人の個人的な未来だけでなく、人類の未来もまた入っている。さあ、昼前の話はこれで終わり。休憩」
休憩といっても昼食をとるわけでもないので、弟子たちは寝そべったり、二、三人で今までの話について議論したりしていた。ただ、午後が重要とイェースズは言っていたので、誰もがそれを気にしているようだった。やがて、イェースズの集合がかかった。集まってきた弟子たちにイェースズは、今までのような円陣ではなく四人ずつ三列に縦に並ぶように指示した。
「今からあなた方に、洗礼を施す」
誰もが怪訝な顔をした。中央の最前列にいたヤコブが、顔を挙げた。
「ここには川も水もないじゃないですか」
イェースズはヤコブに、微笑んだ目を向けた。
「ヨハネ師が何とおっしゃっていたか、覚えているかい?」
ヨハネは十二人の中でも古参の六人には、いまだに大きな存在である。
「と、言っても、ヨハネ師を知らない人もいるのだから、もう一度言っておこう。ヨハネ師は水で洗礼を授けていた。ヨハネ師を直接知らない人も、その名前を聞いたことがないという人はいないだろう。その時ヨハネ師は、自分は水で洗礼を授けているけど、後から来る人は火と聖霊で洗礼を授けるとおっしゃっていた。その火と聖霊の洗礼は、あなた方も今まで見てきたはずだ」
「もしかして」
向かって右前方のペテロが声を上げた。
「今ままで先生が悪霊を追い出していたあの業が……?」
「そう。あれが火と聖霊の洗礼だ。この業は奥義中の奥義でね、この目に見えない火は一切を浄化する炎なんだ。即ち霊界の太陽から流れ出る霊的な光で、これを火との眉間の奥にある魂に手のひらから放射するとその人の魂が浄まって、川上である魂が浄まれば川下の肉体も清まる。つまり、一切の罪を許す業であって、それだけに肉体的な病も癒されてしまう。そしてじゃ霊が憑依していた場合はその邪霊をも浄化するから邪霊はサトって離脱し、邪霊ももとの善良な霊となって天国に入れるし、それで霊障も解消するって訳だ。ただし、この業の目的は肉体的な病気を治すことではなくて、魂の浄化にある。人は長い輪廻転生の過程において魂を曇らせてきてしまっているし、人々がこぞって神様に反逆してきたという人類共通の罪もある。そんな魂の曇りを削ぎとってくれるのも、この業だ」
「先生の業が、そんな大それたものだったなんて」
ペテロの後ろのアンドレが、驚嘆の声を上げた。イェースズは微笑んで、全員を見回した。
「この業を、あなた方にも授けよう」
「え?」
驚きの声は、弟子たちから一斉に上がった。
「私にも、先生とおんなじ業ができるようになるんですか」
右列最後尾のトマスが、頓狂な声を上げた。イェースズはゆっくりうなずいた。
「でも、今ではない。もう少しして、時が来てからだ」
輝いていた弟子たちの目に、ほんの少し落胆が見えた。
「先生」
と、マタイが手を挙げた。
「罪を許すなんて、そんな大それた、神様みたいなことができる業なんですか?」
「罪を許すのは、あなた方ではない。神様が許される。あなた方は神の光を放射することによって、そのお手伝いをさせて頂くだけだ。詳しくは、業を授ける時に話そう」
すると、ナタナエルも手を挙げた。
「その業を受けないと、罪は許されないんですか? ヨハネ師の洗礼でも、罪が許されるってことでしたけど」
「神様は人間の魂が曇ったままでいるのはお望みではないから、浄めようとしてくださる。前にも言ったけど、不幸現象とはそういった魂の曇りを取るためのアガナヒの現象で、決して懲らしめや罰ではない。いわば人の魂の製造元の神様による、魂のお掃除だね。洗濯ジャブジャブだよ。でもそうした魂の曇りを、ただ不幸現象を待ってとるという消極的アガナヒと、自ら進んで人のために尽くし、神様の御用をして曇りをとる積極的アガナヒとでは、後のほうが得だね。でもこの火と聖霊の洗礼は、もっと手っ取り早く有無を言わさずに魂の曇りを削いで、魂を陽に開いていくれる業だ。だからといって、これで罪は許されるなんて安心してはだめで、心の行も必要だし、神様の御用をするという実践行も大切だ。要は、この業によって魂が浄まれば心も清まって、それができやすくなるということでね、想念転換はしやすくなるけれど、それは自分の意志でなさなければならない。救われるためには、自分で精進努力することだ。自分を救うのは自分しかないというのは、そういうことだよ。精進努力なんかしなくても私が救って上げる何て言う人は危ないし、たいていそんな人は邪神に操られている」
風が一段と強くなってきていた。
「これから目を閉じていなさい。私はその間に、あなた方に洗礼を授ける。今までもう何度も見てきただろうけど、今度はあなた方自身が受ける番だ。あなた方の魂は、神様から頂いたときは水晶玉のように透明だった。それがどんどん曇りを積んできてしまっている。その神様から頂いた魂を汚してきたことをお詫びし、千載一遇のチャンスでこの業を受けられることをひたすら感謝していなさい。この神の光を魂に受けるのは霊的な修行で、お詫びと感謝は心の修行だ。霊的な修行のない心の修行は無意味だけど、霊的な修行をすれば心の修行はいらないって訳じゃない。また、人を救って歩き、神の教えを説いて歩くという体の行も必要になってくる。この霊・心・体の三位一体の行があってはじめて、人々は許しを得られるんだ。では、みんな目を閉じて」
弟子たちが目を閉じると、イェースズは両手を挙げてその左右の手のひらを弟子たちに向けて一斉に霊流を浴びせた。両腕はゆっくりと動かし、時には交差をさせて、満遍なく光を配っていった。
ペテロが、目を閉じたまま口を開く。
「ああ、なんだか額のあたりが熱い」
「しゃべらないで」
と、ぴしゃりとイェースズは言った。そのあとは、イェースズも無言だった。イェースズの霊眼には、弟子たち全員が黄金の光に包まれているのがはっきりりと見えた。そしてイェースズの目には、過去世において自分を取り囲んでいた彼らの姿が、ありありと見えたのだ。栄光あるムーの子ら……霊の元つ国で自分が皇子だったとき仕えてくれた十二人の魂の友がここにいる。輪廻転生の過程を超えて結びついた友は、縁生をたぐって今こうしてこの世でまた集いきた。探して探してようやく再会した光の天使たち、この絆は何万年たっても切れるはずはない。手をかざしたイェースズの目から、いつしか涙がこぼれていた。その高く掲げてかざす両手で、十二人もろとも抱きしめたいしょうどうにかられるイェースズであった。
一行は、夕方に山を降りた。まずはカペナウムを目指したが、小ヤコブは一足先に、イェースズの帰宅を母に知らせに駆けて行った。
その夜は、ちょっとした宴会となった。断食の後のご馳走ほどうまいものはない。そんな席で、イェースズの妹のミリアムが母マリアの袖を引いた。
「この人たち、前に来たときと違う。ヤコブ兄さんやユダ兄さんも含めて、みんなまぶしく輝いている」
それは、母マリアも感じていたようだった。
翌朝早く、イェースズは十二人とともに家を出た。ほんの束の間の帰宅だった。だが出発前に、母のマリアはイェースズに耳打ちした。
「そろそろ一年よ。カナのマリアをこちらに迎えなければね」
それにはイェースズは、生返事だけをしておいた。
また、イェースズは旅に出た。今度は十二人を連れて、ガリラヤ全土を巡る。弟子教育が一段落した今、いよいよ本格的な使命に基づく伝道の旅が始まろうとしていた。