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何もかもが美しい。
空はよく晴れている。そんな明るい日ざしを受けて湖水は青く、大地はより緑に輝いていた。
イェースズたち一行は、ガリラヤ湖を見下ろす丘の上にいた。この峠を下ると、カペナウムだ。
ガリラヤ湖は塩の海と違って、魚も多い豊かな湖だ。カペナウムの町の入り口を入っただけで、そこはもう魚の臭いが充満している。この町は、ガリラヤ湖畔でも屈指の漁業基地である。そんな町に入ったイェースズは、小さな川にかかる橋の上で足を止めた。ピリポとナタナエルは、すでに丘の上で別れていた。二人は自分たちの町へ帰るため、イェースズたちとは反対側へと丘を下っていった。そして、ヤコブ、エレアザルの兄弟とも、たった今別れたばかりだ。今、イェースズとともにいるのはアンドレとペテロの二人だけだった。
街道は、人通りが激しかった。商人の荷車も多い。ここで生まれ育った頃は気にもならなかったそんなことが、外から帰ってくると目に付いたりする。
村の入り口で、アンドレ、ペテロの兄弟と別れた。
「会おうと思えばいつでも会えますね」
笑って言うアンドレに、イェースズも同じく笑ってうなずいた。
「もちろんだとも。たとえ同じこの町に住んでいない人でさえ、因縁の魂というのは必要な時に一カ所に吹き寄せられるものだよ」
イェースズのその言葉を聞いて安心したかのように手を振って、湖畔の松林の方へ歩いていく二人を見送ってからイェースズは町中に入った。石造りの家が並ぶ。その一軒一軒をしっかりと見ながら歩き、イェースズは懐かしい我が家の前にたった。東の国から戻った後には数日滞在したが、エジプトへ向かう前、そしてエジプトから戻って来てヨハネの洗礼を受けに行く前にはそれぞれ一泊ずつしかしていない。イェースズの意見は、なんら変わっていなかった。そのことが妙にイェースズを安心させた。イェースズはドアを押した、涼しい空気が全身にぶつかった。
「ただいま」
と、彼は言った。そこにいたのはヨシェだった。彼は大工としての手作業をやめ、顔を上げた。そしてすぐにそれは驚きの表情になった。
「兄さん!」
漁業用の道具であろう発注品を放り出し、ヨシェは立ち上がった。
「ただいま」
「兄さん、心配していたんだよ」
ヨシェはつっ立ったまま、顔を引きつらせて兄を見ていた。
「兄さんはヨハネといっしょにいるって聞いた。そのヨハネが、王様の軍勢につかまったっていうじゃないか」
「まあ、いろいろたいへんだった」
イェースズは少しだけ笑顔から神妙な顔になり、室内に入ってドアを閉め、そして仕事場の石に腰を下ろした。ヨシェは奥に入って水を一杯持ってきてイェースズに飲ませ、またすぐに水の入った桶を持ってきた。
「さあ、兄さん。足を」
「ありがとう」
ヨシェに足を洗ってもらっているうちに、中から母のマリアが出てきた。
「まあ、イェースズ! 無事だったのね」
イェースズは立ち上がった。
「母さん。ご心配をかけてすみませんでした」
イェースズは笑顔を見せた。母は涙を流しながらも笑顔で我が子を見ていた。
その日の夕食は、ヨハネの話題で持ちきりだった。マリアにとってもヨハネは、親しい従姉の子である。マリアの話は、ヨハネの母であるその従姉エリザベツの嘆きに終始していた。食事をしながらも涙を流す母に、イェースズは、
「すべてが神様のみ意まにまに。今はただ、お任せするしかないでしょ」
と言って優しく慰めていた。ヨシェのさらに下の弟のヤコブとユダ、妹のミリアムは、兄にはまだ無関心のようで、黙って食事を続けていた。
それから数日、イェースズは毎日を近所の散歩などで時間をつぶした。なんとか幼児期の記憶を取り戻そうとして歩き回ったが、なかなかうまくはいかない。前世記憶は魂の覚醒とともに蘇っていたが、いざ肉体に入ってしまってからというもの記憶は肉の脳でなされるので、どうしても五官的制約を受けてしまう。
カペナウムからだと湖は南に広がり、その対岸のはるか遠くにエルサレムがあることになる。湖岸の右手の遠くには、ヘロデ・アンティパスが居城を築いているティベリアがかすかに望まれる。こんな遠くでも見えるのだから、相当巨大な城なのであろう。背後を振り返れば、ヘルモン山が白い残雪のいただきを見せて覗き込んでいた。
そんなある日、当のエリザベツがカペナウムのマリアのもとを尋ねてきた。幼児期にはともにエジプトで過ごしたはずのその婦人の顔はすでに老齢に達しており、イェースズの記憶の中では定かではなかったが、いかにも憔悴しきっている様子が見られた。イェースズはあえてエリザベツとはあまり接せずに、母のマリアと二人きりにしておいた。母がやけにニコニコして、イェースズに話があるといったのは、二、三日逗留していたエリザベツが帰ったその日の晩だった。しかも、いい話だという。
「あなた、結婚しなさい」
イェースズはあまりにも予想外の話に、何と答えていいか分からないでした。
「とにかく座りなさい」
マリアが言うのでイェースズは部屋の中央に座り、母もその向かい側に座った。
「エリザベツから初めて聞いたのだけど、あなた、エジプトではすごい称号を受けたというではありませんか。あなたには今まであえて言わなかったけど、もうエジプトで聞いてきているでしょう。いよいよあなたのお父さんの遺志を継ぐ時ね。だから私もヨハネのもとに行かせたのよ」
「それは重々心得ていますけど、それと結婚とどう関係があるのですか?」
「あなたはこれから師と呼ばれなければならない」
実はペテロたちからはもうそう呼ばれたことを、母はまだ知らない。
「師と呼ばれるためには、独身ではねえ」
これは確かに、習慣からいっても独身の師などはいない。結婚していることが、人々から師と呼ばれえる最低条件であることはイェースズも知っていたが、そのようなことにこだわるイェースズではないから師と呼ばせてきた。
「でも母さん、そのためだけに結婚するなど、相手の方に失礼じゃないですか」
「それはあなたの心の持ち様よ。実はナザレの家でも、あなたの結婚を強く勧めていると、エリザベツも言っていたわ」
「で、だれと?」
「エリザベツの姪御さんで、私と同じマリアという名前の人。私も会ったことあるけど、かわいらしい人よ。エリザベツの妹の娘さん」
そうなるとイェースズとは又従姉妹となり、何よりもヨハネの従妹となる。
「でも、ヨハネがこんな時に……」
「ヨハネのことでは、エリザベツも落ち込んでいるわ。だからこそ明るい話題がないとね」
「しばらく考えさせてください」
としか、今のイェースズには言いようがなかった。
夕食の席でもその話が出て、弟たちの知るところとなった。
「そのマリアという人は、どこに住んでいるんだい?」
ヨシェが興味津々だ。
「お生まれはカナなんだけど、今はマグダラで働いているって」
母マリアの説明に、ペテロは身を乗り出した。
「マグダラの女か」
イェースズは、ヨシェがなぜそのこまで血相を変えるのか分からなかった。
「マグダラだと、何かあるのかい?l
イェースズは優しく尋ねた。確かにイェースズは幼少期しかここで生活しておらず、大人になった目でこの国を見るのは初めてなのだ。ペテロはマグダラがどういう町なのか、簡単にイェースズに話した。それによるとマグダラはローマの兵士たちの保養地で、そこで働いているということは、少なくとも水商売の女だ。中には、そのままローマ兵と肉体関係を持って愛人になってしまう人も多い。当然のこと、マグダラで働いているというだけで、そのような女たちは罪びととされ、被差別階級に貶められていた。
それを聞いて、イェースズの心は動いた。普通なら、最悪の場合娼婦である可能性もあるマグダラの女を、進んで妻にしようという人はいない。だがイェースズは、罪びとであるだけに親しみを感じていた。
イェースズの言葉通り、翌日からイェースズは、一日中そのことだけを考え続けた。何しろ結婚など、今まで考えたこともなかったのである。だから、一人で湖畔に座って考えた。
まずは、その結婚がエッセネ教団の勧めであること。当然、その女はエッセネの信徒ということになる。次に、相手は「罪びと」である可能性を持つマグダラの女である。だから、イェースズの関心を引いた。それともう一つは、結婚したからとてすぐにともに住む訳ではなく、最低一年間は婚約期間がある。まずは婚礼があって二人は夫婦となり、1年後にもう一度婚礼を挙げる。その間は婚約期間とはいってももはや許婚ではなく妻なのであるが、実質上の夫婦生活に入るのは1年後で、その間は同居もしないし夫婦交渉も禁じられている。その間に十分に時間が稼げると、イェースズは思った。
恋愛や結婚は神がお与えくださる最高のプレゼントで、火と水を十字に組んで愛和の天国を家庭にて作る義務がある。八十島かけて火水結びに産すび給うた神の万物創造の業の象徴である結婚を、神のミチを説くものが実践していないというのはまずかろう。それよりも何よりも、母の言葉には逆らえない。母が恐いからとかいう次元ではなく、魂の川上である母を立てる道をイェースズは知っていたからだ。しかも相手は、ヨハネの身内である。すべてが神仕組みなのかもしれない。そう思ったイェースズはとりあえず結婚をし、それからのことは神様にお任せを決めた。
話はどんどん進み、夏の乾季に妻となるマリアのイェースズのあるカナで、最初の結婚式が挙げられることになった。カナはカペナウムからだと西南西の方へ、ガリラヤ湖から離れて内陸に向かった所だ。そう遠くはなく、その日のうちに着ける距離である。
カナはなだらかな丘陵の上にあり、遠くの方を低い丘に囲まれている。緑に覆われたこの地方ではいちばん美しい季節で、色とりどりの花が咲き、エルサレム近郊の荒野を思えばまるで別世界である。町は広くはなく、その中でもいちばんにぎやかに明かりをともし、人の出入りがいちばん多いのがその日のマリアの家だった。
カナに到着した花婿のイェースズがその家に入ろうとしたとき、いきなり声をかけてきた人がいた。
「先生!」
振り返ると、数日前に別れたナタナエルが驚いた顔で立っていた。
「ナタナエル!」
「どうして先生がここに? 先生のお宅はカペナウムでしょ?」
「ちょっとこの家で用があってね」
イェースズはにこやかに笑って見せた。
「この家は今日、結婚式ですよ。やはり、それに参列するんですか?」
「やはりとは?」
「花嫁さんは、ヨハネ師の従妹ですからねえ。花婿は……」
「私だよ」
イェースズは照れたように含み笑いを見せた。ナタナエルはただ呆気にとられていたが、しばらくして口を開いた。
「ヤコブとエレアザルも来ています。でも花婿が先生だと知ったら、驚くぞ、彼ら」
イェースズはそれには答えずに笑っただけで、ナタナエルとともに門に入った。その中庭で、確かにヤコブとエレアザルの兄弟が立ち話をしていた。二人はイェースズが入ってくるのを見て振り返り、大きく口を開いたままでいた。そして、
「ラ、先生! 先生がどうしてここに?」
と、二人で同時に同じことを言った。
「あなたがたこそ、なぜ?」
「父の言いつけで、ヨハネ師の従妹の婚礼だから出るようにと。先生もそうなのですか?」
「そうですよね。ヨハネ師の親戚なら先生の親戚でもあるわけだし」
二人の兄弟は口々にそう言っていたが、イェースズはただ黙って笑っているだけだった。そして、
「縁とは、不思議なものだね」
とだけ言った。
イェースズはそのまま彼らと別れて、家の中央の広間に入って婚礼の時刻を待った。
宴席には羊の蒸し焼きとパン、婚礼の宴独特の薬草が皿に盛られ、ぶどう酒の香りが漂っていた。そこへ花嫁とともに新郎としてイェースズが現れたのだから、ナタナエルやヤコブ兄弟の驚きようといったらイェースズがそれを見て思わず大声で笑い出してしまったほどだった。
宴が始まった。イェースズは終始、隣にいる花嫁のマリアに気を使っていた。今までにも何度か会ったが、あまりろくに話しもしていない。そして自分が結婚などというものをするなどとは今まで夢にも考えたことがなかったので、夢を見ているような、それでいて冷めたような複雑で不思議な気分だった。しかし、今となりにいるこの女性が自分の伴侶になることは神が決めたことであるはずだし、今はス直にその仕組みに従うまでだと思っていた。一人の女性も愛せなくて、人類を愛せるはずがないとイェースズは思っていたのである。
「先生も人が悪い。自分が花婿ならそうおっしゃってくださればいいのに」
かなり酒もまわっているようで、宴のたけなわにナタナエルがイェースズに詰め寄った。イェースズはただ笑っていた。みな、それぞれに歓談し、縁は盛り上がっている。イェースズもだいぶ飲んでいた。
そんなイェースズに母のマリアが耳打ちをして、ひと言何か話すようにと促した。イェースズは立ち上がった。それまで大騒ぎして飲み食いしていた人々も、さっと静まって視線をイェースズに集めた。
「皆さん、本日はご多端のところ、私どもの婚礼にご出席頂き真に有り難うございます」
まずは、型どおりの挨拶だった。
「私が新郎のカペナウムのイェースズです」
人々の間で、ちょっとしたざわめきが上がった。
「お兄さんの方だね。それにしても弟さんのヨシェとは瓜二つじゃないか」
「わたしゃてっきり、ヨシェの婚礼かと思っていた」
人々は、そんなことを口々に言っている。
「ところで、今日は結婚式です」
当たり前のことをイェースズが言い出したので、人々はまた静まった。
「結婚と申しますものは、いうまでもなく男性と女性が結ばれるものです。でも、それは何のためでしょうか? 結ばれるというのは、肉体的なことだけを言っているのではありません。精神も、そしてもっと高次元の魂も結びつくのです。それは、そこに神の栄光が現れるためです。そういった結婚は、この上なく幸せなものです。しかしそうではない婚礼ほど不幸なものはありません」
イェースズは一息つき、ぶどう酒で口を湿らせて続けた。
「夫婦とは縦と横、霊止水が従に結ばれることです。相反するものが十字に組まれることによって、愛和の天国を作っていく責任があります。二人が情愛のみで結ばれたのなら、それはにせものの夫婦です。それは姦淫に等しい。でも、魂と魂が神大愛で結ばれたのなら、それは天国にて結ばれたのです。人間の力で、それを切ることはできません。神の栄光と祝福が、皆さんの上にありますように」
参列者の誰もが、イェースズのその高らかな声とともに会場がまばゆい黄金の光に一瞬だけ満たされたような気がしたらしく、おおっという声があちこちで上がった。
次の瞬間、満場の歓声と拍手が上がった。イェースズはにこりと笑って席に着いた。
そこでイェースズは感謝の想念とともに母を見ようとした。だが、母の姿はなかった。接待役として、表を飛び回っているようだ。
夜も更けて、宴席は庭へと移された。すでに夏の盛りで昼間はかなり暑いが、夜ともなるとひやりとしている。庭には篝火が焚かれ、庭の周辺の色とりどりの花の絨毯を一層鮮やかに浮かび上がらせている。
やがて音楽が始まった。参列者たちは幾重もの円い輪になって、手をつないで音楽とともに踊りだした。それがこのあたりの民族ダンスだ。小刻みに皆、ステップを踏んでそろえ、輪が回転する。その輪が掛け声とともに小さくなり、また膨らむ。そして皆が手を打つ。また輪が回転するといった単調なダンスだ。
イェースズは輪の外にいた。その手のグラスに、いろんな人がどんどんぶどう酒をついでいった。満月は、すでに中天近くまで昇っていた。
イェースズはエレアザルとともに、喧騒をよそに静かな家の裏側を歩いていた。月があるのでなんとなく歩ける。
そのイェースズの蔭になっているところで、家を呼び止める女の声がした。
「あの、もし、どうしましょう、ぶどう酒がなくなりかけています」
「私にそのようなこと言われましても」
そう言ってイェースズがよく見ると、それは母マリアだった。
「あら、花婿さんでしたの」
マリアもおどけて言った。
「ぶどう酒がなくなりかけているのですか?」
「そうそう、どうしましょう。買いに行くって言ったってもう店は開いていないでしょうし、開いていたって運べないし」
「そんなこと、私に言われてもねえ。母さん。とにかく、給仕の人を呼んできてください」
イェースズがそう言うので、訝しく思いながらもマリアは三人の給仕を呼んできた。イェースズはその給仕に、
「水瓶があるでしょう」
と、言った。
「そりゃあ、ありますが」
どこの家にも浄めの水を入れる水瓶があって、かなりの量の水が入る。
「それに水をいっぱい入れて、持ってきてください」
「はあ?」
給仕たちは、ただただ不審そうな顔をしていた。この花婿はまさか水をぶどう酒だと偽って客に出すつもりなのだろうか……そんなふうに疑っている想念が伝わってくる。ただ、いっしょにいたエレアザルは、妙に安心した顔で師の言動を見ていた。ただ、母マリアはもしかしてと思うところがあるようで、
「とにかく、息子の言う通りにしてください」
と、給仕たちに言っていた。
給仕たちは三人がかりで一つの瓶に水を満たし、それを合計六つは運んできた。
それを目の前に置いて、イェースズは目を閉じた。しかしそれは肉の目を閉じたのであって、同時にカッと霊の眼を開いていた。そして水瓶の中の水の、物質としての水ではなくその霊質を凝視した。そうしておいてから神に強く念じ、力添えを願った。そして自分の全身を高次元のエネルギーで満たし、黄金の霊流がどんどんとそのメンタルボディーに満ちてくるのを感じた。それをアウルに乗せ、手のひらから思い切り瓶の中の水に向かって放射した。水は一気にエクトプラズマ化し、エーテルが揺り動かされ、そして水からぶどう酒へというイェースズの強い想念を波動として受けて意力に動かされ、イェースズの想念が物質化現象を起こしはじめた。水がみるみる赤みを帯び、香りを放ちはじめたのである。
その水瓶を、給仕たちは客のいる中庭へと運んだ。
宴が終わってから、イェースズは別室で花嫁と向かい合った。当分は話ができることもない。目の前の女は確かに今日自分の妻となったのだが、まだ一年間はそれぞれの家に戻って、今までと同じ生活をすることになる。
「すべてが縁あってのことです。決して悪いようにはならないでしょう。どうか、よろしくお願いいたします」
イェースズは、あくまで優しく言った。だが母と同じ名の妻となったマリアは、浮かない顔で小声で返事をしただけで、うつむいてしまった。今にも泣きだしそうな顔だ。イェースズはこの女の過去や今の苦しみを、すべて見ぬいていた。それだけでなく、なにやら彼女の中でうごめく黒い影までをも、しっかりと霊の眼はとらえていたのである。
「何も心配することはない。私を信じて、私についてきてください」
「はい」
女の返事は、またもや力がなかった。
婚礼が終わったからとて、慣習によって今夜が新婚初夜ではない。それは普通は一年後になるのだが、自分にはそんな日は来ないとイェースズには分かっていた。だからといってこの妻とは、強い縁でずっと結ばれ続けていくであろうことも知っていた。
その時ドアが叩かれ、何人かの客が入ってきた。
「おお、花婿殿。あなたは素晴らしい。普通は最初にいいぶどう酒を出し、みんなが酔っ払って訳が分からなくなった頃にわざととっておいてどうでもいいぶどう酒を出すものなのに、あなたはいちばん上等のを最後の最後までとっておきましたね」
イェースズはただ笑っていた。そして、ひとことだけ、
「それは私の力ではないのですよ。神様のお力です」
客はその話がどうも分かっていないようだった。ただ母マリアは幼い頃から我が子の不思議な力を見せつけられていたにしろ、久しぶりのことだったので、恐ろしいものを見たかのように呆然と立ちすくんでいた。
一行はガリラヤに戻った。イェースズは、新しく妻となったマリアをそのままカナに残しての帰郷だった。そしてヤコブとエレアザルの兄弟は自分の家に戻り、またそれぞれの生活が始まった。
イェースズの家では彼が加わったことで、家族にいささか不協和音が生じるのは致し方ないことであった。イェースズにとってこの町は故郷とはいっても長年離れていただけに、もはや異郷に等しい。家族の誰もが持っている隣近所との付き合いにも、彼は入れないでいた。ヨシェはすでに立派な大工の棟梁となっており、結婚こそまだしていないが一家の大黒柱である。弟たちもそれなりに大工仕事を手伝っており、家族の中では今さらイェースズの出る幕はなかった。ただ、弟たちは少しずつだがイェースズに心を開いてきているようで、昨夜もヤコブが遠い国の話をしてくれとせがみ、深夜まで話したものだった。
だが、昼間は弟たちも仕事で忙しい。仕方がないのでイェースズは毎日町の中を散歩して暮らし、そのまま四、五日たった。町はそれほど広くはないので、歩き回る場所も多くはない。交易で栄えているだけに旅の商人やよその土地のものが多く、イェースズのようなみなれないものが歩いていても誰も気もとめない。それでも町の中を歩いていても仕方ないので、イェースズはガリラヤ湖が一望できる町の背後の丘の上に登ってみたりもした。風が心地よい。ユダヤ暦で第三の月であるシワンの月も終わろうとしているが、ローマ暦では六月になったばかりだ。
丘の上に腰を下して湖を見ながら、イェースズはこれからどうしたものかと考えた。ヨハネの教団に入って少しは足場ができたと思ったものの、これではまた振り出しに戻ったことになる。自分は使命を帯びて戻ってきたのだ……ここで毎日散歩などしていていいはずがない……そう思うものの何をどうしたらいいか分からない。ただ、焦ってはいなかった。あくまで落ち着いていた。だが、急がねばならないことも事実だった。
イェースズは丘を下りて、湖畔に出てみた。やはりここは自分が生まれ育った町なのだと、自分に言い聞かせながら湖畔に出たところで、一層の漁船が漁から戻ってきたようで、沖から岸へ近づいてくるのが見えた。それをイェースズはなんとなく見つめていたが、乗っているの人がどうも見覚えがある。そして船が岸に近づくにつれ、乗っている二人はアンドレと自分がペテロと名づけ男だと分かった。イェースズは少し歩いて、漁船が着くあたりまでさきまわりした。それでも船の方が早く、イェースズが着いた頃には二人の漁師は網をつくろっていた。どうも収穫はなかったようだ。そしてイェースズが近づくと目を上げ、驚いて二人とも立ち上がった。
「先生ではありませんか」
「おお、こうしてまた会えたのも、神様のお引き合わせだな」
イェースズは満面に笑みをたたえて、二人の手をとった。二人の顔も喜びに満ちていた。
「あなた方は、またここで漁師をしているのかい?」
ペテロの相変わらず強情そうで武骨な顔は、よく日に焼けていた。イェースズよりもほんの少しだけ年齢は高いようだ。
「ええ、また何年かぶりでもとの生活に戻りましたよ。先生、いよいよ始めるんですか?」
「何かを始めねばと思っている。あなた方も、私といっしょに来てくれるね」
アンドレが、
「もちろんですとも」
とうなずいた脇で、ペテロは顔から笑みを消していた。
「ついていきたい気持ちは山々なんですが、漁師の生活も楽じゃあないんです。一日働いて、今日のように魚が一匹も獲れない時もある。それで生活が左右されるんですよ。先生は大工だから、注文のない日はないでしょう。先生は、その大工の仕事もやってるんですか」
「こら、シモン。先生になんてことを」
アンドレが慌てて制止したが、ペテロはまだしゃべっていた。
「私には女房もおりますし、寝たきりの母親の看病もしなければならないんですよ」
ヨハネ教団にいた頃と違ってもとの生活に戻ったら、すっかり自分の生活優先の想念にペテロはなっていた。
「どうだね、ペテロ。私ともう一度漁に出よう」
「え?」
ペテロは怪訝な顔をした。
「申し訳ないんですが、先生は漁に関しては素人じゃないですか? 今日はまる一日漁に出て、一匹も獲れなかったんですよ」
「こら、シモン。先生の言われるとおりにしよう。ヨハネ詩の所にいた期間に、我われの感覚も鈍っていたんだ」
「しかし、兄さん……」
「強情をはるんじゃない。素直が大切だと、ヨハネ師も言っていたではないか。あまり強情をはるから、岩のようなペテロと呼ばれるんだ」
ペテロは仕方なく、また湖の沖へ今度はイェースズとともに引き返すこととなった。イェースズは笑みを浮かべて、船に乗り込んだ。
沖に出るまで、ペテロはひと言もしゃべらなかった。
「さあ、そのへんでいいよ」
イェースズが指示すると、素人に指示されたのが面白くないらしく、ペテロはしぶしぶと網を湖水に投げ入れた。水しぶきを上げて、広がった網は水の中へ消えた。
イェースズは湖面をじっと見ていた。肉の目ではなく霊の眼でだ。その目からも、霊流が流れ出て水の中へと入っていった。それが磁石作用を起こしたのかたちまち網は重くなり。三人掛かりで船に網を引き上げた。ペテロは思わず船の甲板にしりもちをついた。驚きの声それ以上に魚の大群が甲板にあふれ、足の踏み場もないほど銀色の腹を見せてピチピチ跳ねる魚の山が甲板にできた。
とたんにペテロは船の上で小さく縮こまった。
「先生、お許しください。あなたがどんな方であるのかも忘れて、とんでもないことを言っちまった。これは私が罪深い証拠です。こんな私は、あなたについていく資格などない」
イェースズは優しく,ペテロの肩に手を置いた。
「そういうふうに、まず罪を意識することが大事なんだよ」
イェースズがそう言っているうちにも、大漁船は岸へとまた戻っていった。
「いいか、ペテロ。前に言っただろう。魚を獲る漁師ではなく、人間を獲る漁師になれとね。あなたもアンドレも、今後もう二度と漁に出ることはないだろうね。私に従うというのはそういう意味だよ。これからは人間の海に神理の網を投げ、群衆を捕らえて神聖の中に入れるんだ」
「でも先生」
と、アンドレが口を挟んだ。
「私どもには寝たきりの、年老いた母がいるのですが」
「それは、たいへんだろう。だが私についてくるというのは、何もかも捨ててついてくることなのだよ」
「はい、その覚悟はできています」
と、ペテロは胸をはって言った。
「偉い。立派だ。むしろ、それくらいの気持ちでいないといけない。では、行こう」
「はい。でも、どこへ行くのですか?」
ペテロの問いに、イェースズは笑って言った。
「あなた方の家だよ。お母さんがたいへんなんだろう」
そう言ってイェースズは、もう歩き出していた。
アンドレとペテロの家は、すぐ近くだった。湖岸の林の中にあると言ってもいいくらいだ。その家の窓の下の床に、老婆が寝ていた。イェースズの母はまだ若い面影を残しているが、彼らとイェースズとがほぼ同世代であるにもかかわらず、その母親はかわいそうなほどの老婆であった。そして、部屋に入ってすぐに感じられるほど、婆はすごい熱を発してうなっていた。その部屋に、もう一人太った女性がいた。
「私の師を連れてきた」
と、ペテロはその女にイェースズを紹介した。
「え? 師って、師はヨハネ師じゃないの?」
「新しい師だ」
女は急にイェースズに向かって、相好を崩した。
「まあ、これはようこそ。シモンの家内です。夫はヨハネ師に心酔して家を出て行ってしまいましたけど、こうして戻ってきたというのもあなた様という新しい師を持ったお蔭なんですね」
ペテロの妻は、イェースズにすがりつかんばかりの歓迎ぶりだった。夫が戻ってきたのが、よほどうれしいことだったのだろう。どうもヨハネの逮捕と教団の解散といういきさつを、ペテロは妻には詳しく話していないようだ。
「いえいえ奥さん、申し訳ないが、実はもう少しご主人をお借りしなければならない」
「え?」
ペテロの妻の顔が、一瞬曇った。
「でも、ただではお借りしませんよ」
イェースズは笑いながらそう言って、言われなくてもペテロの母だと分かる老婆の床の脇に寄った。熱にうなされて、あまり意識もはききりしていないようだ。
「さあ、お母さん、布を替えたらお薬飲みましょうね」
そう言ってペテロの妻が、老婆の額の濡れた布を取り換えようとした。
「奥さん、ちょっと待って」
イェースズは手を出して、新しい布をペテロの妻が老婆の額に当てるのを制止した。
「その布は?」
「はい? 熱が出ているから冷やしているだけですけど」
「冷やさない方がいいですよ」
「え? 冷やすなって? 普通、熱が出たら冷やしません?」
不思議そうな顔つきで、ペテロの妻はイェースズを見た。そこへ、ペテロが割って入った。
「いいから、師の言う通りにしなさい」
イェースズは優しいまなざしを、ペテロの妻に向けた。
「お母さんはこのお年ですから、きっとたくさんの毒物を体内に少しずつ入れてこられたのでしょうね」
「毒なんて。私、お母様に毒なんて飲ませておりませんわ」
ペテロの妻の言い方が、少しきつくなった。それでもイェースズは微笑んでいた。
「いえ、あなたが毒を飲ませたと言っているのではないんですよ。どんな食物にも、この人間界の食べ物には少しずつ毒が入っています。それがいつしか体内にたまって、固まってしまうんです。その固まった毒を溶かすための熱なんです。だから、冷やしたら、せっかく神様がそう創って下さった体の仕組みを邪魔することになってしまうんですね」
「はあ」
ペテロの妻は、半信半疑でぽかんとした表情で聞いていた。
「そうして体の中で固まった毒を熱を出すことによって溶かして、それが溶けたら鼻水、痰、汗、下痢となって体外に出るんです。それを人々は病気だというんですね。そうして冷やしてせっかく溶けているのをまた固めたり、クスリを飲ませてその溶かす働きを止めてしまう。クスリを飲めば病気が治るというのは、迷信なんです。確かに直ったように見えますけど、それは熱を出して体内の毒を排泄させるための作用を封じ込めただけで、そうなると毒はいつまでも排泄されずに体内に残ってさらに固まって、取り返しの付かない業病を招きますよ」
生まれて初めて聞く論理に、ペテロもその妻も唖然としていた。
「だいたい、体の外に出るものって、みんな汚いでしょ。鼻水も、痰も、下痢も。そんな汚いものが、大切なんですか? クスリを飲んで出す作用を止めて、体の中から出ないようにして、大事にとっておくほどのものなですか? 汚いものは、どんどん出させていただいた方がいいじゃないですか。それにですね、クスリというのが、またこれ毒なんです」
「それじゃあ、毒漬けの生活じゃないですか」
ペテロが口を開いた。
「そうなんです。でも、食べ物や薬の毒よりも、もっと恐い毒があるんです。それは、人間の体内で発生する毒ですよ。人間は悪いことを考えたり、怒ったり、人を恨んだりすると、体の中で毒が発生するんです」
「そういえば母さんは、ずいぶん怒りっぽかったなあ」
「今後は、せいぜい怒らせないようにすることですね」
イェースズは笑って、老婆の方を見た。
「おつらいですか。お気の毒に。でも、楽になりますよ」
そう言ってイェースズは老婆の額の上に手を伸ばした。そして眉間に向けて手をかざした。高次元の霊流が、どんどん手のひらから放射される。イェースズは力を抜いて、心をも無にして霊流を送った。眉間の奥に霊流を当てると、それが全身に行く。
「何かのおまじないかい?」
ペテロの妻がそう言ったのを、ペテロは
「シーッ」
と制し、そのまま三人はしばらく無言で、イェースズのすることを見ていた。
それからイェースズは老婆をうつぶせに寝かせ、首筋や背中の下、腰にかけて手からの霊流を放射した。小一時間ほどそうしてから、イェースズは老婆の手をとって引き上げた。老婆は床から降り、すくっと立ち上がった。そして急に走り出した。走っていった先は、便所であった。
しばらくしてから戻ってきた老婆は、ニコニコと笑っていた。
「あれまあ、なんともないよ、嘘みたいだ。気分がいい」
誰もが、言葉を失っていた。
「今、すごい下痢をしたんだが、それがとまったら急に気分がよくなったんじゃ」
老婆本人も、しきりと首をかしげていた。
「お母さん。こちら、私の師です。師がお母さんの病を癒してくださったんですよ」
「これはこれは」
老婆はイェースズに体を向け直した。
「どうも、お蔭さまで、まあ」
「よかったですねえ。でも、これからは怒ってはいけませんよ」
イェースズはそういうと、声を上げて明るく大笑いをした。
「何とお礼を言ったらいいか……」
「私にお礼はいりません。なぜなら、これは、私の力じゃないんです。私を通して、神様がされたことなんです。お礼は神様になさってください」
老婆の目から、涙があふれているのをイェースズは見た。イェースズもまた笑いながらもその目を潤ませ、そしてともに涙を流して喜んだ。感謝の波動を受けるのは実にうれしい、また、救われた人の姿を見ることもこの上ない幸せだ。イェースズはひたすら神に感謝していた。
外へ出たイェースズに、アンドレもペテロも口々に絶賛の声をかけた。
「いやあ、まさか先生が、母の病気を癒してくださるなんて」
「驚きました」
「さっきも言ったようにね、私の力じゃないんだよ」
「はい。神の力が現れたのですね。その神様に、どうやってお礼の心を見せればいいんでしょうか? エルサレムまで行っていけにえの子羊を買うには、うちはあまりにも貧乏でして」
「そんなものはいらない。これからあなた方二人が私とともにあって、今度はあなた方が悩める人や病んでいる人などを救って歩くんだ。それがいちばんの、ご恩返しだよ」
歩きながらも、イェースズは笑みを絶やさなかった。
「でも、病気が実はそんな毒の蓄積で起こるなんて」
アンドレが率直な驚きを言った。
「いや、実は病気なんてものは存在しないんだよ」
意外なイェースズの言葉に、二人は歩きながら、左右からイェースズの横顔を同時に見た。イェースズはにこやかに微笑みながら、話を続けた。
「病気なんてものは、ないんだ。考えてもみてごらん。神様は全智全能をふり絞られて、最高の叡智で人類をお創りになったんだ。そんな神様が、人間の体が時々故障するように創るなんて、そんなへまなことをされるわけがない」
「でも現実に、たくさんの人が病気になっていますけど」
ペテロは、なかなか引き下がらない。アンドレはおっとりと、二人の会話に耳を傾けていた。
「人々が病気と言っているのはだね、十のうち二までがあなたのお母さんのように、体内の濁毒を外に排泄させる働きなんだ。体内に毒がたまったら、ちゃんと熱を出してとかし、体外に排泄されるように神様が人間を創っておられる」
「では、あとの八は?」
ペテロのその問いには、イェースズは、
「そのうち、分かる」
と、だけ言った。三人は林の中に入った。
「何度も言うけどね、今日、あなたのお母さんが癒されたのは、私の力じゃない。すべて、神様のお力だ。ペテロは寝たきりのお母さんをも捨てて、私についてくると言ってくれた。その心は必要だが、その通りに病気の親を見捨ててまで私に従うのは、神様がお喜びになることではない。そこで神様は、ペテロが心置きなく私についてこられるように、お母さんに奇跡を下さった。この奇跡は神様の力と栄光を表すために見せられた奇跡であって、またペテロが私に従うための行きがけの駄賃だよ。そのことを忘れてはいけないよ」
林をぬけると、そこは市街地だった。
「先生、どこにでもついていきますが、まずはどこへ行くんですか?」
「まずは、私の家に行こうか」
そう言って、イェースズは笑った。
イェースズはアンドレとペテロを伴って、自分の家に帰った。急に二人も見知らぬ人を連れてきてとめると言い出したものだから、さすがに母マリアもいい顔はしなかった。
「うちは狭いのに。せめて前もって言ってくれたら」
「申し訳ないです」
イェースズはにっこり笑った。だが、母のいうことももっともだった。家は人があふれてしまうという感じだ。それでも、ああ言ったものの母は客人には愛想よく、手料理でもてなした。
席上、ペテロが、
「先生の奥さんは?」
と聞いてきた。「師」と呼ばれる以上、結婚していて当たり前というのが彼らの感覚だ。
「まだ、ここにはいないよ。」一年たっていないからね」
イェースズのこのひと言で、彼らはイェースズが新婚であることを知った。夜がふけて、イェースズの弟のヤコブとユダが、客人と一つの部屋で遅くまで語っていた。母と妹はもう、早々に寝てしまっている。イェースズは別室でヨシェと二人で語り合っていた。話は大工道具のことなど、他愛のないことだった。
ヤコブとユダはは、アンドレから今日起こったばかりの奇跡の話を聞いた。弟たちもカナでの婚礼での奇跡を知っているので、ペテロの話す奇跡もすんなりと信じた。
「僕らは、どえらい兄貴を持ってしまったのかもしれないぞ」
ぽつんとつぶやくユダの顔を、ランプの炎が赤く照らした。ヤコブもそれに、相槌を打った
「そう、考えてみたら兄貴について何も知らないんだよな。僕が小さい頃にいなくなって、突然大人になってから帰ってきた」
アンドレが、顔を上げた。
「確かに、あなた方のお兄さんは、すごい人かもしれませんよ。その教えを説く言葉は、黄金の光が乗っているかのように魂に沁みてくるんですからね。ところで、あなたは今、お兄さんが小さいときにいなくなって大人になってから帰ってきたといわれましたが」
「僕が八つくらいでしたかね、ある日東の国の高貴な方が来て、兄を連れて行ってしまったんです。それきりでした」
ペテロが口をはさんだ。
「じゃあ、十五、六年もの間、師は、どこに行かれていたんでしょう」
「さあ、詳しくは何も聞かされていないんです」
ヤコブが申し分けなさそうに言った。
翌日は週の終わりで、安息日だった。イェースズにとってはこの言葉自体が懐かしかったが、今はそんな感情におぼれているわけではない。
そうして家族は二人の客人とともに、礼拝のために会堂へと出かけた。エッセネのナザレ人専用のそれではなく、ここは一般のユダヤ人のためのものだった。イェースズにとっては、帰省して初めての会堂だった。
ここには幼い頃の思い出がたくさんあるはずだが、イェースズにはどうしても初めて来る場所のようにしか思えなかった。それでも微かに面影だけは、記憶の中にあった。その面影の会堂がとてつもなく巨大な建物だったが、今目の前にしているそれはこぢんまりとしたものに感じられた。会堂は長方形の建物で、その左半分だけが二階建てになっており、天井は左右に傾斜する屋根だった。その屋根の三角形の下、二階の部分には、アーチ状の大きな窓もあった。入り口に向かう階段は横向きに上る形についており、石段を登りきって少し歩くと、右側が入り口だ。中に入ると外では二階建てのように見えていた半分の部分も実は二階建てではなくい天井裏まで吹き抜けであり、二階は左右にバルコニー状になっている。そこが女性たちの席だ。壁はすべて石造りで、柱は円形という、明らかにギリシャ様式の建築だった。湖のほとりのこの会堂は湖に向かって立っているので、南を向いていることになる。南は、その先にエルサレムがある。
中はすでに人であふれていた。だが、イェースズが見知っている人は、ほとんどいなかった。それでも、忙しそうにたち歩いている大人の何人かは、なんとなく記憶の中に残っているような気がする。マリアの方からそんな人たちを捕まえて、
「いちばん上の息子です」
とイェースズを紹介した、その時の人々の反応はさまざまだった。
「おお、おお、懐かしい人が来た」とか、「あんな子供が、もうこんな立派な大人になったのか」とか、「言われなければ誰だか分からなかったよ」など、そんなことを言われるたびにイェースズは頭を下げた。まだおぼろげにも記憶にある人はいい。こちらが全く覚えていないような人から懐かしがられるのは、少し妙な気分だった。誰もが少年だったイェースズを見るのと同じ目で、今のイェースズを見ている。中には、「おや、ヨシェにこんなお兄さんがいたなんて、存じ上げませんでした」とか、「ヨシェにそっくりだ」とか言う人もずいぶんいた。「顔を見ただけで、ヨシェの家の人だとすぐに分かったよ」という人もいた。
やがて礼拝が始まり、人々のざわめきはさーっと静まり返った。
その時ヨシェがイェースズに近づき、耳元でささやいた。
「兄さん、せっかく久しぶりに来たのだから、朗読をさせてもらわない?」
「うん」
イェースズは何も考えずに、承諾の返事をしていた。
「じゃ、司に言ってきます。朗読箇所も聞いてきますから」
人ごみに消えたヨシェは、間もなく戻ってきた。
「了解、取れましたよ。今日は『イザヤの書』の六十一章の一節から三節までですって」
「分かった」
普通、朗読は祭司がするもので、一般の人々には許されないものだった。それがすんなり許されたというのは、どうしても神の後押しを感じずにはいられない。まず、一般の人は、ヘブライ語が読めない。だが、イェースズはそれが読める。そのことをヨシェは司に告げたので、特例として許されたのだろう。
やがて、礼拝が始まった。イェースズは表面上は敬虔に参加しながらも、どこか違和感を感じてしまうのを否めなかった。彼は霊の元つ国で、本物の御神霊と邂逅しているのである。だから、神を直接知らない人々の分かったようなふりでの祈りが絵空事に感じてしまう。だからといって、そんな人々を見下すような傲慢な想念は、イェースズにはかけらもなかった。むしろイェースズは人々に少しでも真実の神に接してもらいたいと、ひそかに下手で手をかざして霊流を放ち、会堂をパワーで満たしていた。
朗読の時間が来た。立ち上がって前に進み出たイェースズは、祭司から羊皮紙の巻物を手渡された。そして朗読台に立つと、一つ咳払いをしてからイェースズは読みはじめた。
「イザヤの預言」
朗々とした声が、静まり返った会衆の頭上を飛来する。
「主である神のみ霊は、私の上にある。貧しい人々に福音を述べ伝えるようにと、主が私をお立てくださった。主は私を遣わして、霊的病人を癒し、霊的囚人を解放し、主の恵みと我われの時が始まったことを告げ、すべての悲しむものたちを慰め、エルサレムの悲しむものたちに喜びと賛美の歌声を上げさせるためである。彼らは主の栄光を表すために義人となり、樫木のようにいつも命のあふれたものとなる。神に感謝」
引き続き、イェースズが説教をする。朗読をしたものが司に代わって、その解説をするのが近頃では一般的のようだ。民衆の中には、ヘブライ語が分からないものさえいるからだ。
「兄弟の皆さん」
イェースズの第一声が、会衆を包み込んだ。
「今日読んだのは、イザヤの預言です。この預言には来るべきメシア、すなわち救世主の来臨を伝えています」
威厳あるイェースズの声に、一同はますます静まりかえった。
「主は彼の頭上に油を注がれる――つまりメシアのときはもう来てしまったのです。この預言は今、成就しようとしています」
人々の間に、少しだけざわめきが起こった。
「ただし皆さん、勘違いしないで下さい。主が油を注がれた真の救世主とは、決して今のユダヤをローマから自主独立させ、ユダヤ人の王となる人物ではありません。地上の王ではないんです。それは魂の救済であり、導きの主なんです」
人々は圧倒され、目を細めて聞いていた。その説教の内容よりも、その言霊に乗っているアウル、黄金の霊流のエネルギー・パワーに魂を打たれてしまったようだ。ものすごい波動が、会衆を包んでいる。しかし会衆の中には感銘を受けている人々ばかりではなく、敵意の波動をイェースズに送り返してくるものもいた。イェースズはそんな人々の、内面の声もよく聞こえる。
――あいつは、大工のヨシェじゃないのか?
――いや、遠い国に行っている兄がいると、ヨシェはいつも言っていた。
――しかし、今までの律法学者の話とは、ずいぶん違うな。この人は別に祭司でもなんでもないただの人のようだけど、いったいどこで学んで、こんなに権威に満ち溢れたように語れるようになったのだろう。
そんな想念を読み取りながら、イェースズは自分が生まれ育った場所で教えを説く難しさを実感していた。ここには自分の過去があり、自分の昔を知っているものもいる。そんな彼らは、先入観を持ってイェースズの話を聞いてしまう。神理の前に先入観は最大の敵なのにと、イェースズはそこが悲しかった。
その時、イェースズの背後で声がした。
「ちょっとお待ちなさい」
厳かに言って、祭壇の椅子の上からこの会堂の司である祭司が立ち上がった。温和そうな顔をしている祭司は、優しくイェースズに言った。
「私はこの会堂の祭司でヤイロというが、あなたは今この預言が成就されると言いましたな」
あくまで穏やかな、諭すような口ぶりだ。足が悪いらしく、ゆっくりとイェースズのいる朗読台の方へ近づいてきた。
「そりゃ、危険な思想だ。確かに預言はいつかは成就する。しかしそれが今の時代のことを指した預言だと言って、いたずらに騒ぐのはよくない。人々の心をかき乱すことになる」
イェースズはその老人の方を振り向いて、丁寧に笑顔で挨拶をした。
「ご忠告、有り難うございます。しかし私は、そんなのんきなことを言っていられない時代だと思うのですが、いかがでしょうか? 神の国は近づいていると思うんです。いや、思うじゃなくて、近づいているんです。神様の御経綸は、日々進展しているのではないでしょうか?」
「なぜ、あなたにそんなことが分かるのかね? 何の証拠があって、そんなことを言うのかね」
祭司はゆっくりと、イェースズを指差した。
「それとも、何か、あなたがそのメシアだと言いたいのかね」
「私がメシアであるかどうか、そんなことを判断する権利を、誰があなたに与えたのですか? そんな権利は誰にもない。私にもない。そのようなことが決められるのは神様だけだと思うんですが、いかがでしょうか」
イェースズは、会衆の方へと向き直った。
「皆さん、預言者はその故郷では受け入れられないと書いてあります。エリアもエリシアも、大飢饉の時に遣わされたのは故郷ではなく、シドンのサレブタやシリアのナアマンだったでしょう」
その時、会衆の中の一角で、絶叫が上がった。周りの人々が、さっと退く。そのわずかにできた空地で、絶叫を上げた男はのたうち回っていた。
「悪魔憑きだ!」
人々のざわめきも、一気に立ち上った。そして。男から退く人々の輪が、次第に大きくなっていった。男は口から泡を吹き、白目をむきながら全身を痙攣させて転がって暴れまわっている。
イェースズは急いで人ごみを掻き分け、その男のそばに駆け寄った。
「すみませんが、この人を後ろから押さえて頂けませんか」
イェースズが近くにいた人々に叫んだが、誰もがしり込みをしていた。
「早く!」
イェースズの一喝で、仕方なく一人の若者が暴れている男を後ろから羽交い絞めにした、しかし男はすごい力で、若者はたちまち弾き飛ばされた。
「もっと多勢で!」
イェースズに怒鳴られ、今度は数人の男が暴れている男をやっと取り押さえた。イェースズはその前にしゃがみこみ、男の眉間に手をかざして霊流を放射した。男の体は小刻みに揺れ動き、やがては押さえていた数人の男さえも弾き飛ばした。しかし男はもはや暴れず、全身を震わせながらも座っていた。
やがてパッと両腕で自分の顔を覆い、首を左右に振りはじめた。イェースズの手は、その額をずっと追いかけていた。
「ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、熱い!」
男はうなるような声を、発しはじめた。
「熱い! まぶしい! 苦しい!」
男は尻で地を這って、後ずさりしようとした。イェースズは平然と、落ち着いて男の額に手を向けている。周りの人はただ息をのんで、そんな光景を見ていた。
「ううっ!」
男は目を閉じたまま、重々しい声でたどたどしく話しはじめた。
「おまえは誰だ。我われと何のかかわりがあるというのだ。われわれを滅ぼしに来たのか」
イェースズはあくまで落ち着いて、
「私はあなたを滅ぼそうなどとは、思っていませんよ」
と、優しく慈愛に満ちた口調で語りかけた。
「じゃあなぜ、こんなまぶしい光で俺を苦しめる? やめてくれ。苦しい! まぶしいんだ!」
男は怒鳴って、顔の前の両腕をさらにきつく結んだ。
「私は決してあなたを苦しめるために、こんなことをしているのではないのですよ。これは天国の光、一切の浄化の光です。このお方にお憑かりの御霊様。どのようなご事情でこの方にお憑きかは存じませんが、今ご自分がなさっていることがどういうことだか、ご存じですか」
イェースズが語りかけているのは目の前で苦しんでいる男その人ではなく、この男にとり憑いて暴れさせている憑依霊に対してだった。
「おまえは何ものなのだ。さっきおまえがしゃべっている時、おまえの全身からも、しゃべっているひと言ひと言の言葉からも黄金の光が発せられていた。それがまぶしくて、苦しくて、じっとしていることができなくなって、とうとう俺は出てきたのだ」
イェースズのオーラから発せられる霊流と言霊に乗っている霊流に耐えられなくなって、男に憑いている霊が浮き出た、つまり男は浮霊状態になってしまったのだ。
「この光が苦しいというのは、あなたの魂の曇りと、我と慢心、執着があるからではないですか? それがあなた様を天国から遠ざけている。だから、天国の光が苦しいんです」
男は首をうなだれた、その目からは涙があふれてきた。
「あなたはこの世で生きていた時に、人は肉体だけがすべてで死ねば一切が終わりだなんて、そう思っていたのではありませんか? 神様から勝手に離れて自己愛に生き、あらゆるものに執着を抱いていたのではありませんか? 今あなたがいる世界は、暗くて寒い所でしょう?」
男はこっくりとうなずいた。
「あなたも、救われたいと思っているんでしょう?」
もう一度、男はうなずいた。正確には、男に憑いている霊が男をうなずかせたのだ。
「あなたも本来は、神の子なんですよ。この光を受け入れて浄化されて、本来行くべき幽界での修行をして下さい。霊界を勝手に抜け出て現界に生きている人の肉身にかかると、幽界脱出の罪といって二百倍も地獄で苦しむことになりますよ。これが霊界の、厳とした置き手の法なんです」
「え? そんなあ、しまった!」
男は、目をつぶったまま顔をあげた。
「しまったと思ったのなら、よくよく神様にお詫びをすることですね。心からお詫びをすれば、神様もきっとお許しくださいます。どうか、神様にお詫びをしてみてください」
それからイェースズは、しばらくは黙って手をかざしていた。男はうなだれていた。だいぶたってから男がゆっくりと顔を上げたので、イェースズはまた話しはじめた。
「お詫びはできましたか? そして、生きていたときの自分の想念を、一つ一つ点検して下さい。天国にいる人ならこうはしないだろう、天国にいる人ならあの時はどういうようにしただろうか、と」
また、しばらくイェースズは黙って手をかざしていた。しばらくたってから、イェースズはまた言った。
「では、早くこの方から離れ、霊界での修行をして下さい。この方から離れるお許しを、神様にお願いしてみてください。霊界はサトりの世界です。我と慢心や執着を断てば、スーッと上の世界に上がれますよ。救われるんですよ」
「ありがとうございます。なんだか、苦しくなくなってきました。暖かい。包み込まれるような気分です。あ、この人から、今離れます」
男は目を閉じたまま、両手を上に上げた。座ったままではあるが、全身が天へと引っ張り上げられる形だった。やがてすとんと男の力が抜け、男はその場にうずくまった。イェースズはゆっくりと、その体を起こした。
「静かに目を開けてみてください」
イェースズは男の肩に手を置き、今までの口調とは違う口調で男の顔を覗き込むようにして話しかけた。もはや霊ではなく、この男自身に語りかけているからだ。それでもあくまでも優しく慈愛に満ちた口調だった。男は目を開けた。
「はっきりしていますか?」
男はうなずいた。そして、あたりをキョロキョロと見回した。穏やかな表情だった。そして立ち上がると、別人のような軽快な口調でイェースズに話しかけた。
「今のは、いったい何だったんです? 意識ははっきりしているのに、まるで私のその意識とは関係なしに体が動いたり、口が勝手に動いていろいろしゃべったり」
「あなたに憑いていた霊が浮き出て、あなたの口を借りてしゃべっていたんですよ。もう大丈夫です。霊はあなたから離れました」
それまで言葉を失していた会衆が、再びざわめきだした。
「この人の教えは、権威ある新しい教えだ」
「今までの律法学者や祭司とはぜんぜん違うぞ」
「言葉だけでなく、離れろと命じただけで悪霊さえ出て行く、この権威と力は何だ」
人々がざわめいている中で、イェースズは早くその場を立ち去りたかった。あの東の国のプジの山のふもとの村でのように、病気治しの生き神様にされてしまっても困る。ここでは生き神様とは言わないだろうが、預言者だとか何だとか人々は言い出すに決まっている。しかし、この人ごみを掻き分けて出て行くのは、不可能なようだった。人々はもう、熱狂しだしている。
そこでイェースズは全身に霊流を満たし、一気に肉体をエクトプラズマ化させた。次に肉体が物質化したのは、会堂の外でだった。
イェースズは自宅に戻り、一人静かに座っていた。
昼前には家族もペテロたちも戻ってきた。この日は安息日だから、あとは皆このまま日没までは家にいなければならない。
戻ると、ペテロやアンドレは、イェースズの弟たちとともに早速イェースズを取り囲んだ。
「先生、さっきのはいったいなんだったんですか?」
「教えてください」
ペテロなど、好奇心丸出しだ。イェースズはニコニコ笑って座り、
「ん? あの男の人についていた霊が、離脱しただけだよ」
と、簡単に言った。
「やはり悪魔憑きだったんですか?」
「ま、一応そういうことにしておこうか」
彼らの理解の程度に合わせて、今のうちはとりあえずそうしておいた方がいいとイェースズは判断した。何もかも霊的なことを真正面からぶつけても彼らには理解できないだろうし、またかえって害になると思ったからだ。まだ、時は至ってないのである。
しかし実際は、あの男に憑いていたのは悪魔でもなんでもなく、人間霊だった。今は地獄などにいる邪霊であることには変わりはないが、本質的な悪ではない。
「一つだけ言えることは」
イェースズは、ペテロを見た。
「前に、病気というものは存在しないといっただろう。そんなもの迷信だって」
「はい」
ペテロがうなずく。
「その時、病気といわれている現象の二割くらいは、体内の毒素が溶けて排泄される作用だと言ったよね」
「はい、おっしゃいました」
イェースズは微笑んだまま、視線をゆっくりと全員に回した。
「ではあとの八割はというと、さっき見たような邪霊の仕組みなんだよ。病気だけじゃない。事故や争いなど、あらゆる不幸現象のほとんどがそうだと言って差し支えない。そして、俗に言う『悪魔憑き』のように、ほかから見てそうだと分かるものは逆に少ないんだ。実際に邪霊に操られている人ははたから見れば普通の人だし、本人も自分で考えてやっていると思っているから始末が悪い。まあ、普通に生活している人でも、ほとんどすべての人にじゃ霊は憑いていると言っても過言ではない。ただ、表面に出ていないだけなんだ」
「私もですか?」
ペテロが身を乗り出した。
「憑いてないと断言はできないね」
イェースズは笑って言ったのだが、ペテロは深刻だった。弟のヤコブなど、震えだしていた。
「いたずらに恐がることはない。むしろ、そういった事実を知らずにいるほうが、ずっと恐いことだよ。まあ、邪霊にかかられるというのは、その人自身の罪とも相応してくるけど、体の故障という意味での病気というのは存在しないんだ」
外はその後も、ずっと静まり返っていた。
やがて日が沈んだ。日が沈むと安息日も終わる。彼らは日没が一日の始まりと考えていたから、日没とともに安息日の翌日の週の初めの日が始まるのだ。だから急に、表通りが騒がしくなった。しかしこの日の騒ぎは、いつものそれとはだいぶ違っていた。人々が大挙して、イェースズの家に押しかけたのである。
ドアが激しくノックされ、母のマリアが出てみると人々は一斉に室内になだれ込んだ。真っ先に飛び込んできたのは、中風と思われる足のなえた人だ。
「まあまあ、何ですか、あなたたち。人の家に勝手に」
慌てて制するマリアだったが、人々はお構いなしだ。
「このうちのヨシェの、遠くから帰ってきたばかりのお兄さんは、すごい力を持っているというじゃないか」
「頼む。おいらの病気を治してくれ」
「まあ。そんなこと、どこで聞いたんです?」
マリアの問いに、人々は口々に叫んだ。
「今日の会堂でのこと、みんな見てたぜ」
「ほら、そこにいるシモンの家でも、すごい奇跡が起こったっていうじゃないか」
「もう、カペナウム中の評判だ」
「だから、安息日が終わるのを待ってたんだ」
「とにかく!」
マリアがまた人々を押し返そうとした時、その背後にイェースズが立った。
「あ、この方だ!」
誰かが指さして叫んだ。
「まあまあ、皆さん。そんないっぺんに来られても困りますから、お一人ずつ中に入ってください」
イェースズは慈愛に満ちた穏やかな笑顔でそう言うと、先に奥に入った。追いかけるように中風の男が、足を引きずりながらそれを追った。ヨシェの大工としての仕事場はあふれんばかりの人で、さながら待合室のようになってしまった。マリアが困惑しきった顔で、そんな人々を眺めていた。
奥の部屋にはイェースズのほかにアンドレとペテロの兄弟、そしてイェースズの弟のヤコブとユダがいた。そんな中でイェースズはまず中風の人の人と対座した。
「どなたかお身内で、中風のまま亡くなった方はいらっしゃいませんか」
イェースズはそう中風の男に聞いた。
「いえ、だれも」
「そうですか。分かりました」
イェースズは微笑んでうなずくと、男を向こう側に向けて座らせ、首筋に後ろから手をかざしてパワーを当てた。しばらくそうしてから、
「どこが動くようになりたいですか?」
と聞くと、男は
「手も足も動かないんだが、まずは足」
と、言う。そこでイェースズは、今度は足に向かって手をかざした。そうしながら、
「今度来た時は、また動くようになってほしいところをさせて頂きましょう。この病気は、根気よく続けて受けることが大切です」
「いやあ、有り難うございます」
男はイェースズの方に向きを変え、イェースズを拝みだしたのでイェースズは慌ててやめさせた。
「あなたの足が動くようになったのは、私の力じゃないんですよ。神様のみ意です。よくよく神様にお礼を申し上げてください。そしてその、感謝の心を忘れないようにね。今日帰ったら下痢をしたり、もしかしたら鼻血が出るかもしれないけれど、止めてはいけませんよ。ましてや、クスリなどで止めないように。体の中の毒素が、排泄されただけなのですから」
その後、元気に歩いて部屋を出る男の姿を見て、人々は一気に歓声を上げた。
続いて入ってきたのは、がっしりとした体格の、髭の濃い初老の男だった。あまり上品とはいえない雰囲気で、
「あんた、何でも治せるんだってね」
と、イェースズに対してもそのような口をきく。それでもイェースズは、微笑を絶やさなかった。
「見たところ、お元気そうじゃないですか」
「いやあ、おいら、いつも肩がこってしょうがねえんだ。何とかしてくれ」
「はい。では向こうを向いて座ってください」
「あんた、医者みたいだね」
そう言いながらも、初老の男は言われた通りにした。イェースズはその肩に後ろから手を置き、手のひらを二、三ヶ所ほど移動させた。そして、一ヶ所にやおら親指を立てた。
「いてーェッ!」
男は飛び上がらんばかりにして叫んだ。その場所に向かって、イェースズは手のひらを少し離して霊流を放射した。男の肩が、ピクッと動いた。
「今、ストーンと何かが背中の方に落ちた。おりゃ? 肩が楽んなったぞ! うそみてえだ」
男は立ち上がると、イェースズの方を振り向いて、
「有り難よ」
と言って、ローマ貨幣のいちばん小額の一レプタ銅貨を二枚、ぽんとイェースズの前の床に投げて出て行った。完全にマッサージ師か何かと間違えている。それでもイェースズはニコニコして、怒るそぶりは全くなかった。
同室していたペテロたちも、男のそんな無礼な動作よりもイェースズの力に呆気に取られ、ただ無言ですべてを見ていた。ただイェースズは弟のユダに命じて、男が投げたレプタ硬貨を丁重にお返しするようにと追いかけさせた。
次に入ってきたのは、中年女だった。どこが悪いということもなさそうだったが、本人が言うには、
「気が重くて、毎日が暗くてしょうがないんです」
ということだった。何か気を病んでいるらしい。イェースズはこれまでと同じように後ろ向きに座らせ、女の長い髪をかき上げて首筋に触れてみた。そこはパンパンにはっていた。
「これじゃあ、苦しいでしょう。人間の体は、本来はこんなに硬くはないんですよ。ここが硬いと、火のが頭に行かないから暗くなるんですね」
イェースズは優しくそう言って、中風の男の時と同じように女の首筋に後ろから手をかざした。しばらくそうしてからもう一度イェースズは、女の首筋に片手の親指で触ってみた。
「あ、だいぶ軟らかくなりましたね」
そうして今度は女を正面に向かせた。
「全身の力を抜いて、目を閉じていてください」
イェースズは、女の眉間にパワーを放射した。パワーは、眉間の奥深くにまでを貫いていた。
沈黙の時間が、少し続いた。やがて女の体が、小刻みに震えだした。パッと顔を真左に向け、イェースズの手がそれを追い、すぐに反対の右を向く。それでもイェースズの手のひらは、どこまでも追いかけて眉間からそれることはなかった。すると女は両手を合わせたままそれを頭上高く上げて、くねくねと体をくねらせはじめた。イェースズは何も言わず、問答無用で手かざしに徹していた。
女はしばらく同じ動作をしていたが、やがて両手を一段と高く上げると、すとんと力がぬけた。うつむいている女に、イェースズは優しく声をかけた。
「静かに目を開けてください」
女はゆっくりと顔を上げ、目を開けた。
「はっきりしていますか?」
「はい」
女はびっくりしたような表情で、一応うなずいた。
「はっきりしていますけど、今のは何だったんですか? 体が勝手に動いて、止めようといてもとまらなくて」
「今のはあなたに憑いていた霊が浮き出してきて、あなたの体を動かしていたんですよ」
「霊だなんて、そんな恐ろしい。やっぱり私には、悪魔が憑いていたんですね。今までいつも気持ちが暗くて、時々暴れだしたくなる衝動に駆られたもんですから」
「ええ、そうですね」
「でももう、悪魔は離れたんですか? あなた様が、悪魔を祓って下さったんですか?」
「私はそんな悪魔祓いの祈祷師じゃありませんよ」
イェースズは大声で笑った。
「それにあなたに憑いていたのは悪魔なんかじゃなくって、ただの蛇の霊でしたよ」
「蛇?」
「蛇に関して、何かお心当たりがありますか?」
「そういえば」
女は話しはじめた。
「今の家を新築する時に庭に大量の蛇が出て、私はまだ若かったもんですから、蛇が恐くて恐くて、全部油をかけて焼き殺したんです。確かに、気分が重くなったのはそれからでした」
「食べるため以外の目的で生き物を殺すのは、まずいですよ。今後はお気をつけになった方がいいんじゃないでしょうか?」
「はい、分かりました」
その顔は、さっきまでの重苦しい気分のものではなく、明るく微笑みさえ浮かべていた。女は丁重に礼を言って出ていった。霊動をまともに見たペテロたちとイェースズの弟を含めた四人は、ただ恐ろしさに震えていた。
「本当に、悪魔憑きといわれているような人ではない普通の人もで、霊は憑いているんですね」
と、ヤコブが口を開いた。
「普段は霊が憑いていても人それぞれ自分の魂があるから、表面には出ない。自分の霊力があるからだ。だから自分でも分からないし、人が見ても普通の人に見えてしまうんだよ。それがこの力」
イェースズは手のひらを四人に見せた。
「この力を浴びると霊は苦しくなって浮き出てしまう。でも世の中には、ずっと霊が浮きっぱなしの人もいる。そういう人のことを、人々は『悪魔憑き』というんだよ。でもそういう人は例外でね、普通の人の場合、霊は巧みに、気付かれないようにその人を操る。自分で考えてやっているつもりのことでも、案外操られていることが多いんだよ」
「先生の力は、そんな霊をも追い出すなんてすごい」
そう言ったペテロに、イェースズは微笑んだ目を向けた。
「この力は決して霊を苦しめて追い出すんじゃない。神の愛に満ちた、浄化の光なんだ。それで霊は浄められて、自分の非をサトって自ら離脱していく。それと、その人の本霊をも浄めるから、罪の許しともなる新しい火と聖霊の洗礼だよ」
「あ!」
ペテロとアンドレは、息をのんだ。かつてヨハネが、やがて水ではなく火で洗礼を授ける人が後から来ると、何度も言っていたのを思い出したからだ。そこでペテロが何か言いかけたとき、次の人が部屋に入ってきた。
今度も女だが、若い女だった。入ってくるなり女は慌しく咳き込んだ。もう何も、言葉も言えないほどだった。イェースズにはすぐにぴんと来たので、まずは女を後ろ向きに座らせ、その背中の左右肩甲骨の内側辺りに霊流を手のひらから注入した。それからまた正面を向かせて、眉間に手をかざした。イェースズの手から高次元エネルギーが、目に見えないパワーとなって女の眉間にスーッと入っていく。やがて女は手を震わせ、うなりながら何かを言おうとしていた。そのうち右手を自分の膝の上に乗せ、人差し指でしきりに膝の上に何か文字を書きはじめた。
「このお方にお憑かりの御霊様に申し上げます」
イェースズは手をかざしたまま、優しく女に、いや女に憑いている憑依霊に語りかけた。
「何か、お話したいことがありますか?」
「う、うッ! ママ、ママ」
子供の霊のようだ。霊がその口を借りて語らせている女の口調が、幼児そのものになったからだ。とても大人の女がしゃべっていることとは思えない。
「ママ、ママ。ボク、ボク、苦しい。さみしい」
「君は子供なの?」
イェースズもまた、幼児に語りかけるように口調を変えた。
「うん。ボク、苦しいの。せきが出るの。ママ、ボクを殺した。ボクのせきで眠れないって、お尻ぶたれた。そして、首しめた」
「そう、せきがでるの?」
「暗い。ここ、真っ暗なとこ。ボク、さみしい。独りぼっちだから」
「この女の人が、君のママなの?」
「うん。ボク、ママのそばにいたかった。だから、ママといっしょにいるの」
「でも、ママも今はせきが出て苦しんでいるよ」
「ボク、知らない。ボクのせいじゃあないよ。ボクが今まで通りせきをしたら、ママもせきをするんだ」
しかし、生前に持病をもったまま死んだ人が他人に憑くと、憑かれた人にも同じ症状が出ることをイェースズは知っていた。
「ボク、大きくなったら何になったんだろう。漁師かな? 先生かな? 偉い祭司になってたかなあ。でも、ママはボクを殺しちゃった」
ゆっくりとたどたどしく、女は子供の霊の言葉をしゃべる。
「かわいそうだね。お兄さんねえ、ママに代わって謝るよ」
そう言うイェースズの頬に、涙がふた筋流れていた。
「ごめんね。本当にごめんね。でもね、幽界の置き手っていうのがあって、人の体に憑くのは、とてもいけないことなんだよ」
「ボク、子供だからよくわかんない。ママといっしょにいちゃいけないの?」
「でも、よーく考えたら分かるよ。だって、生まれる前の君は大人だったんだから」
「ボクが大人だった?」
「そうだよ。だから、分かるはずだよ」
「うん。でも、今すごくまぶしいんだ」
「神様の光だよ。この光を浴びて、そして神様にごめんなさいって謝るんだ」
「どうしてボクが、あやまるの?」
「まず、人の体に憑いちゃったことをね。それとね、君がママに殺されたってことは、君も前に生きていたときに、何か同じような悪いことをしたからかもしれないよ。だからそのことを、覚えていなくてもごめんなさいって謝るんだ」
「覚えていないのに?」
「そう。覚えていなくてもごめんなさいって謝れば、神様は許してくれるよ。しばらく神様の光の中で、神様にごめんなさいって言って、神様と心を一つにしてごらん」
知らない人が見たら、大の大人が二人向き合って幼児言葉で会話をしているのだから、かなり奇妙な光景に写っただろう。それからかなり長い時間、イェースズは黙って女の眉間に霊流を放射し続けていた。女はゆっくりと上半身をかがめ、深々と頭を下げていた。イェースズは顔の下から、眉間に向かって手をかざし続けた。長い髪がたれて、イェースズの腕に当たった。
だいぶたってから、急に女の口から再び声が出た。
「うわっ! あれ? なんだこれ?」
「どうしたの?」
「あの、すみません。僕、急に大人になってしまったんです」
「ああ、よかったですね」
「なんだか変な感じです。でも、救われたんですね」
女のしゃべる口調はもう幼児のそれではなく、若者らしい凛々しいしゃべり方になっていた。そして女は閉じている両目から、涙を流しはじめた。それは女の涙であって、女の涙ではなく、憑いている霊の涙だった。イェースズもまた、一度は止まっていた涙を再び流しはじめた。
「あなたが、神様と波調を合わせた結果ですよ」
「はい、ありがとうございます。神様からは、母から離れるお許しも頂きました。あなたは素晴らしい、もしかしてあなたは……」
「それ以上は言ってはいけません。さあ、早く離脱された方がいいですよ」
イェースズの霊眼には、霊がスーッと離れたのが見えた。
「静かに目を開けてください」
目を開けた途端、女は堰を切ったように泣きだした。
「そんなことって、そんなことって」
その号泣には、手もつけられないほどだった。
「あの子が、今ごろ出てくるなんて。あの出来事は消えていない。私の罪が恐ろしい。何てことをしてしまったんだろう、私」
イェースズは、優しく女の肩に手を置いた。女はまだ、泣きじゃくっている。
「せきはまだ、出ますか?」
ハッと気がついて、女は泣きはらした目のまま泣くのをやめた。
「あ、出ない。こんなに泣いているのに、せきが出ない。とまった!」
「もう、あなたの罪は許されたんですよ。もう二度と同じ過ちはしないように心を入れ替えて、罪を許して頂いた感謝の心で、これからの人生を神様のため、他人様のために使いなさいよ」
「はい。ありがとうございます」
女はまだ泣きながら、出て行った。
「えーい、どけ! 俺様を先にしろ」
部屋の外で怒鳴り声が聞こえた。今来たものが、順番を待っているものたちを押しのけてきたようだ。部屋の外は、大騒ぎになっている。そして荒々しくドアが開けられ、怒号の主の中年男が入ってきた。身なりのいい太った男だった。そしてイェースズを見るとその前に立ちはばかり、居丈高にイェースズをにらみおろして指さした。
「昨日初めて商用でこの町に来たんだが、ここでおまえのうわさを聞いた。おまえがこの町で今、いちばん力があるという行者か?」
あくまでもイェースズは穏やかに、笑みを浮かべて応対した。
「私は行者などではありませんが」
「嘘をつけ。おまえは悪霊を祓っているというじゃないか」
事実、ガリラヤでは悪魔祓いの行者も多い。イェースズもそんな中の一人だと、この男は思っているらしい。
「おまえの祭儀の道具はどこだ。全部ぶち壊してやる!」
「そんなものはありませんよ」
イェースズが言ったとおり、室内には祭儀用具など何もない。今横行している悪魔祓いは道具を使って長時間にわたる儀式を行い、それで悪霊を祓うというものだ。だから、男は道具と言ったようだが、そういうことを言い出すということは、男は悪魔祓いの行者と過去に何らかの接点があったことになる。
「どうせおまえも無知な人々の悪霊への恐怖をあおって、悪霊を祓うなどとおどしとごまかしで金をまきあげているんだろう。結局は金儲けなんだ。この詐欺師、ペテン師!」
「私は一レプタも一ドラクマももらっていませんよ」
「今時、そんな行者がいるか」
「落ち着いてください。私は行者ではないと申し上げていますよ」
落ち着けと言うイェースズの態度自体が実に落ち着いているので、男の方も少し首をかしげた。イェースズの顔は笑みこそ浮かべているが、その目は鋭く男を見据えていた。その目から、イェースズは霊流を男に放射していたのである。そのためか、男の態度もだんだん弱腰になってきた。そこで、イェースズは尋ねてみた。
「何か、行者でひどい目に遭ったんですか?」
男はゆっくりとうなずきながら、近くの椅子に腰をかけた。
「あったとも。俺の親父は変な行者に引っかかって、何タラントもの金をつぎ込んで信仰していた。変な悪霊が憑いているが自分のとこに来れば救ってやると言われて、親父はほいほいと行ってしまったんだ。そうしたら、なんだかんだって名目を付けられて金を巻き上げられ、ちょっとでもいやな顔をしたら悪霊のせいだと脅され、生活はますます苦しくなって親父とお袋はけんかばかり、家庭は崩壊していった。金もどんどん底をついて貧のどん底に落ちて、それでいて全く救われやしない。救われないのは修行が足りない、献金が足りないとさらに脅しをかけられ、辞めるといったら、辞めれば地獄へ落ちると言う始末だった」
イェースズは、ちょっと考えた。
「確かに、ひどい行者はいるようですね」
「何を言ってやがる」
男はまた怒鳴って立ち上がった。
「おまえもそのうちの一人だろう! 何でもかんでも悪霊のせいにして脅しをかけて、信者の心を完全に操って辞められなくして金を巻き上げる。誰だって霊がついているなんて言われたらいい気はしない、だからついていくけど、結局目的は金儲けだ!」
「あなたが、自分でそう体験したんですか?」
「俺だって、親父が信じているならと思って、最初は信じたさ。俺にも悪霊が憑いてるって言うんだものよ。しかし俺も相当金をつぎ込んだけど、救われやしない。親父はとうとう無一文になって、気が狂って崖から飛び降りて死んじまったよ。だからそれ以来俺は行者のインチキと詐欺やペテンを暴いてやろうと、商用で行った先に行者がいたら首根っこを締め上げてやることにしているんだ。もう俺に首の根つかまれて、五十人以上の行者がインチキを白状したぜ」
今は問答無用と、イェースズは思った。
「まあ、お座りなさい。とにかく、目を閉じてください」
「何だあ、なんで目なんかつぶんなきゃなんない? おまえも儀式を始める気か?」
「私は儀式など致しません。お金も全く要求しませんから」
「ふん、金をとらんだと? 終わってから悪霊がどうのこうのと脅して金を出させようたって、そうはいかないぞ。そんな話を少しでもしたら、その首をへし折ってやる!」
そう言いながらも、男は座って目を閉じた。イェースズはさっとその男の額の前に、手をかざした。するとすぐに霊動が出はじめた。
「このお方におかかりの御霊様に申し上げます」
イェースズが語りかけるのと同時に、男は今までとは全く違った弱々しい口調で、
「み、水を、水を下さい」
と、途切れがちに言った。イェースズがヤコブに目配せをして、水を持ってこさせた。男は目を閉じたまま、その水を一気に飲み干した。
「この方と、何かご因縁のある方ですか?」
「ち、父です」
「ああ、行者に騙されて、崖から飛び降りたというあの」
男はゆっくりと、首を大きく縦に振った。
「どうしてお父様が、息子さんに?」
「私は最初、私を死に追いやった行者というものが憎くて、息子を使ってそいつらに復讐をしてやろうと、それで息子に憑かったのです」
「そうですか。おつらかったでしょう。そのお気持ち、分かりますよ。お気持ちは分かるんですけど、人の肉身にかかったら幽界脱出の罪になって二百倍もの期間を地獄で苦しみますから、そのようなことはとんでもないことなんですよ」
「え? 地獄?」
しばらく男は、無言でいた。
「この世への執着、恨み、ねたみの想念を持ったままですと、そのためにあなたが幽界で余計に苦しむんですよ」
「……………………」
「あなたが行者の門を叩いたというのも、救われたかったからでしょう?」
「そうです。でも、救われなかった」
「唯一の救いは、神様から来ます。神様に祈ってください。神様に波調を合わせてください。怨み、妬みなどの想念は神様の大調和の波調とは正反対のものですよ。それらを捨て去って、神様の大愛を感じてください。苦しくても執着をとるそのたびに、天の国に一歩ずつ近づいていくんです」
「私は死んでからも、息子にかかって行者たちを懲らしめてやろうと思いました。そして、ほとんどの行者が、本当に力などないのにただ芸当を見せて霊を祓ったように見せかけ、お金をだまし取っているだけだと知りました。私もその被害者の一人だったのです。あんなので救われるわけがない。もうやりきれなくて、ますます怒りがわいてきました。そうしたら、ますます苦しくなって、暗い世界へと落ちていくのです。中には本当に霊を祓う行者もいましたが、そんなのはその行者に狐か狸の霊が憑いていて、それが霊を払っているのです。ああ、しかし、あなたは違う。あなたから発せられる黄金の光が暖かい。まるで故郷の景色のように、私を包む」
イェースズはただその御霊のサトリと救われを念じて、あとは無心で手をかざした。すると男は、突然泣きだした。
「有り難うございます。私は幽界に帰ります。私が悪かった。今、神様によくお詫びをしました。ただ、私に生前悪霊が憑いていたことは本当で、その悪霊が今は息子に憑いています。ただ、今はこの家の天井あたりにいます」
それだけ言って男の父の霊は、男から離れていった。
イェースズはまだかざした手はそのままで、目を天井に向けた。霊眼を開くと、屋根の上あたりに確かに霊が浮いている。イェースズは叱りつけるような目でその霊に霊流を送ると、浮いていた霊は今まで憑いていた男の体にスーッと戻った。
「こいつはアホだ」
これが開口一番、今入った霊が男の口を使って言った言葉である。
「こいつ、いろんな霊祓いの行者の所に行きやがったが、俺は入り口でこうしてぬけて屋根の上で待っていて、こいつが出てきたらまた憑いていたんだ。こいつは金だけ取られていい気味だった」
イェースズは柔和な中にも厳しさを込めた口調で、
「なぜそのようなことをするのですか? この方の前世にお怨みがあるのですか? それとも、ご先祖にですか?」
「両方だ。俺はこの男の父親が前世で将校だった時の部下の兵だ。だが、明日はエジプトへ遠征に出発、いよいよエジプトと戦という時に、俺はエジプトに通じているというあらぬ疑いをかけられて、大勢の前で左肩を突かれて殺されたんだ」
「殺されたとは、誰にです?」
「上司の将校にだ。だまされて、殺されたんだ。しかし、その将校の子孫の中に、その将校が、将校自身が転生してきたんだ。なぜ、そんなやつがぬけぬけと転生が許されて、俺がいまだに苦しみの中にいなければならぬ。うう、許せぬ。憎い。だから、この男の親父を変な宗教に凝らせてだまし、金を巻き上げて命をも奪ってやった。だが、怨みは晴れぬ。その子であるこの男の命をも、奪ってやるつもりだったのだ」
「そうですか。お気の毒なことでしたね。エジプトとの戦いとは、どういう戦いだったのですか?」
「エジプトの総督、プトレマイオスとの戦いよ」
「そんな、もう三百年ほど前のことですね」
アレキサンダー大王亡き後、その後継者をめぐって各地の総督が小競り合いを続けたが、その中の一人のデメトリウスはエジプト総督のプトレマイオスと今ではユダヤの地になっているガザで一大決戦を繰り広げた。今、目の前にいる男に憑かっている霊は、その時の兵士の霊だという。
「そうだ。三百年だ。三百年もの長い間、俺はじっと復讐の機会を待っていたんだ。ずっとずっと辛抱して、待っていたんだ。この気持ち、分かるか。三百年だぞ。ずっとずっと待っていたんだ。そしてやっとその時なんだ。だから、頼む。邪魔をしないでくれ」
そう言われて同情もするが、神の置き手は厳しいものだ。
「あなたのお気持ちは分かりますが、それはそれとして、幽界には神様がお定めになった厳とした置き手の法があります。そこからは、誰も逃げられませんよ。あなたが生前にこの方のお父さんの前世に殺されたのだとしても、あなた自身がさらに前世で誰かに同じことをしてきていませんでしたか?」
「知らぬ。そのようなことは、覚えておらぬ」
「覚えておいででも覚えておられなくても、原因がないところに結果は生じないのです。殺せば殺される、人を傷つければ傷つけられる、財産を奪えば財産をなくす、これが厳とした幽界の仕組みの置き手です。自分の身に起こったことは、全部自分に原因があるのですよ。そこには、同情は入り込む余地はないのです。非情なようですが、実はその奥には神様の大愛の仕組みがあるのです。それを考えれば、自分がしてきたことの結果なのだと思えば、人を憎んだり、怨んだりできないはずでしょう? 自分がまいた種は自分で刈り取らねばならないというのが、神様の置き手です」
男は、急に黙ってうなだれていた。
「憎しみを捨て、執着を捨て、神様に心からお詫びをして、おすがりしてごらんなさい。神様はお許しくださいます。必ずあなたは救われますよ。幽界はサトリの世界ですから、スーッと上の世界に上がれて、幸福な人生を送れるような家に再生が許されますよ。なぜなら、あなたも本来は神の子だからなんです。あなたのその魂も、神様から頂いたものなんですよ」
「うう」
男はまた、うなり声を上げた。そして、腹のそこから出るような低い声で続けた。
「三百年! 三百年越しの怨みだ。そう簡単には捨てられぬ。ましてや最近は、俺が命をとったこの男の父親が、この男に憑かって俺の邪魔をしやがる」
「そのお父さんでしたら、もうこの方から離れて幽界にお帰りになりました」
「そうか、じゃあ俺は、これで好き勝手にこの男を操れるわけだ」
「それは違いますよ」
イェースズの言葉に、厳しさが加わった。
「いつまでもそんなことをしていたら、いつか許されなくなる時がきますよ」
「俺はどうなったっていい。この恨みを晴らせれば、どうなってもかまわぬ」
「そのようなことは、神様はお望みではありません」
イェースズは断言し、放射する霊流のボルテージを上げた。
「うわっ! 苦しい! 熱い! やめてくれ!」
「この光を受ければ、あなた自身も浄められますよ。この光が苦しいのは、あなたが神様から離れているからです。よくお詫びして、神様の御用に立たせて頂きたい、なにとぞお使い頂きたいというふうに神様と波調を合わせれば、救われるんですよ」
「分かった、分かった。俺は出て行く」
「そう簡単にはまいりません。御霊様が本当に浄まって、自らサトってでないと、神様は離脱をお許しにはなりません」
そうしてイェースズはまたしばらく無言で、霊流を放射し続けた。男は下を向いて、静かに涙を流していた。かなりの時間がたってから、イェースズは放射をやめた。霊が浄化の光を浴びてサトリ、離脱したことを認めたからだ。
「静かに目を開けてください」
ここに来た時とはまるで別人のような穏やかな表情で、男は顔を上げた。そして、
「うそみたいだ。今までずーっと、何年もつらくてたまらなかった左肩の痛みが、きれいに消えている」
と言って、今度は霊ではなく男自身が涙を流した。
「あなたは本物だ。有り難う、有り難うございます」
と、イェースズの手をとって何度も頭を下げて礼を言ってから、
「多くは払えませんが」
と言って、懐からディドラクマ銀貨を三枚出し、イェースズに渡そうとした。イェースズは断乎としてそれを受け取らなかった。
ほかにもまだ押しかけている人はいたが、もう夜も遅くなったので、母マリアが強引に引き取らせた。やっと静かになった家の中で、ペテロが、
「先生、お疲れになったでしょう」
と、言った。イェースズはにっこりと微笑んで、
「有り難う。でもね、この力は使えば使うほど、私自身も元気になっていくのだよ」
そう言ってまた声を上げてイェースズは明るく大笑いをした。そしてペテロだけでなくアンドレや弟たちに向かって、
「これで目に見えない世界が厳として実在し、またこの世に生きているわれわれの生活にいかに密接にかかわりあっているかがよく分かっただろう」
と、にこやかに言った。
翌朝早くから、もうイェースズの家の扉を叩くものがあった。眠気眼でヨシェが出ると、うわさを聞きつけて押し寄せてきた人々だった。
「こんな朝早くから、勘弁してください。済みませんが兄は昨日の夜遅くまで皆さんのお相手をしていたのですよ、今はまだ休んでいます」
「ええ? そんなあ。わしらも昨夜はかなりの人だったからあきらめて、一度帰って出直してきたんですぜ」
「でも、とにかくもうちょっとしてから来てくださいませんか?」
「じゃあ、ここで待たせてもらいます」
座り込みをはじめた人々は、十人ばかりになった。ヨシェは仕方なく扉を閉めて、とりあえず兄の様子を見に行った。
ところが、イェースズはいなかった。寝床の上はもぬけの殻だ。
慌ててヨシェはヤコブとユダを起こし、その声でペテロとアンドレも起きてきた。
「なんだって? 先生がいないって?」
一同は手分けして捜そうと、座り込みをしている人々に気付かれないようにと裏口から外へ出た。だが出てすぐに、手分けする必要がないことを彼らは知った。家から少し離れた町を見下ろす小高い丘の上に、よくはれた青い空を背景にぽつんと白い衣のようなものが見えた。それがイェースズだと、皆すぐに直勘した。そこで一目散に町を出て、丘を皆で駆け上がった。
イェースズは丘の斜面に腰をおろし、よく見渡せるガリラヤ湖を見ていた。
「兄さん!」
まず、ヨシェが声をかけた。足元から彼らが昇ってくるのをイェースズはすでに見ていたから、別に驚きもせずに目線を彼らに向けた。丘は所々に木が思い出したようにあるだけで、大部分が緑の草に覆われているだけだった。
「兄さん、こんな所で何をしているの?」
ヤコブが、まず問い詰めるように尋ねた。
「祈っていたよ」
「祈っていたって、いつから祈っていたのですか」
ペテロが息を切らしながら、口を開いた。
「まだ日も昇る前からだ。さっき終わったところだよ」
「何を祈っていたの?」
ヨシェもまた、肩で息をしていた。「これから先どうするか、神様にご相談申し上げていた」
誰でも冗談でなら言いそうなことだが、イェースズが言うと真実味があって、一同は息をのんだ。これから自分がなすべきことも、神に祈り、神の声を聞いて決定しようとしているイェースズの態度に圧倒されたのである。
「祈れば、神様は必ず答えを下さる」
「で、神様は何て?」
もう一度、ヨシェが聞いた。
「この町には、いない方がいい」
「いないほうがいいって。またどこかへ行ってしまうの?」
ヨシェが心配そうな顔をしたがイェースズは微笑んで、立ったままの五人に草の上に座るように言った。
「ちょっと旅に出るだけだ。でも、今までのようなそんな遠くには行かないよ。ガリラヤの中を回るだけだ」
ヨシェは、少しだけ安心した顔になった。
「でも、また人々が押し寄せてますよ」
「それは分かっている。ここからも見える」
たしかにこの丘の上からはカペナウムの町の全貌が一望でき、イェースズの家もはっきりと分かる。そしてそこに人々が押し寄せている様子も、手にとるように分かった。
「この町にも、救われたい人は多いだろう。しかし、私が治療師か祈祷師、行者であるかのように思われるのが、いちばん困るんだ」
その点に関しては、イェースズには苦い経験がある。
「私には断乎として伝えなければならない神の法があるんだよ。この町だけではなくて、ガリラヤ全土に神の教えを伝えたい。だから、旅に出るんだ」
「分かりました」
ペテロが声を張り上げた。
「私と兄は先生について行くって決めたんだから、いっしょに行きます。なあ、兄貴も行くだろう」
アンドレもうなずいた。イェースズはにっこり笑った。
「いっしょに行ってくれるのか」
「もちろんですとも」
「僕らも行く」
「僕も」と、口々に言ったのは、イェースズの弟たち三人だった。
「おもえたちもか」
「うん、兄さんについていく」
「分かった。私に従ってきなさい。ただし、そうするからには、今後は兄さんではなく師と呼ぶこと。何も偉そうにそう言うわけはなく、神様の世界はたて分けが厳しい世界だから、けじめをつけてほしい。立場には敬意を表してほしい。それから」
イェースズはヨシェだけを見た。
「おまえは残れ」
「え?」
ヨシェは、目を見開いた。
「おまえまでいっしょに来てしまったら、母さんはどうなるんだ。大工の棟梁としての仕事はどうなるんだ」
「でも」
「頼む、残ってくれ。おまえの気持ちは分かるし、有り難いと思う。しかし、その気持ちで十分だ。おまえが母さんに気兼ねして私に従うのをためらうような男だったら、そんな男はいらない。しかし、おまえは違う。だからこそ戻って、母さんのことを頼む」
「うん。分かった」
しぶしぶという感じではあったが、ヨシェは一応引き下がった。
「で、先生」
ヤコブが照れながら、初めて兄をそう呼んだ。
「いつ、出発するの? じゃない、出発するのですか?」
「本当なら今ここで出発したいところだが、今日の夕方までは私はここにいなければならない」
「なぜです?」
と、ペテロは愚問を発した。彼はまだ、イェースズの本当の力が分かっていないようだ。
だがイェースズは、とがめもせずに微笑んで、
「夕方になったら分かるよ」
 と、だけ言った。
「それまでは?」
ペテロに聞かれて、イェースズは町の中の自分の家を顔で示した。
「あんなに人がきている、みんな救いを求めている。私を頼ってきた人だ。大切にしなければいけない。まずは出発前に、一人でも多くの人を救わせて頂こう」
そう言ってイェースズは、もう丘の斜面を下りははじめていた。
その日一日、イェースズは来た人にどんどん手をかざし、そのたびに降る星のごとき奇跡が起きた。ある人は霊が離脱し、ある人は体内の毒素が排泄される清浄化現象、一般にいう病気が快癒した。そうして夕方になって、イェースズが言っていた意味はこれだったのかとようやくペテロは知った。ゼベダイの子のヤコブとエレアザルの兄弟が、イェースズを訪ねてきたのである。
「父はベタニヤだし、留守の家に兄弟二人でいてもやることもないし、それにどうしても先生に会わなければならないような気がして、やってきました」
そう言う二人に、ペテロが詰め寄った。
「何でもう一日早く来なかったんです? すごい奇跡が起こって、それを目の前で見られたんだ」
「そんなこと言ったって、昨日着くはずだったのが安息日で足止めだったんだから」
「まあまあ」
イェースズは二人を制して、旅に出るという心情を語った。
「たまたま今日来て、よかったんですね」
聡明そうな若いエレアザルは、顔を上気させながら言った。
「本当にそうだね。もし来るのが明日だったら、会えないところだった。でも、たまたま、じゃないよ。世の中にはたまたまなどという偶然のことは一切ないんだ。すべては神様のお仕組みの中で生かされているのが私たちで、ヤコブとエレアザルは今日ここに到着することを、神様にお許し頂いたんだよ。感謝しなくちゃね、真に」
イェースズが話の腰を折った。
こうしてヨシェは母のもとに残し、イェースズとアンドレ・ペテロの兄弟、イェースズの弟のヤコブとユダ、そしてヤコブとエレアザルの兄弟の計七人は、翌朝暗いうちに出発することにした。
イェースズたち一行は、ガリラヤのあらゆる町を巡った。ガリラヤ湖北岸のカペナウムの東はベツサイダという町があるだけで、すぐにピリポ・アンティパスの治めるトラコニティスという地方になる。西へ湖沿いに行くと、マグダラを経てガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの居城のあるティベリアへたどり着く。ここは湖の西岸である。湖から離れてまっすぐに西の方へ行くとやがて地中海へ出るが、そこまでが緑豊かなガリラヤなのである。
イェースズは一つの町に着くごとに、その町で救いを求めている人がいると必ず手を差し伸べ、癒しの業を行なった。あとから来たヤコブとエレアザルは、この旅でイェースズの業を初めて目撃することになる。
イェースズがまず目指したのは、カペナウムの北にあるコラジンだった。そこでまずイェースズが救ったのは、全身が赤くはれ上がる皮膚病で苦しんでいた男だった。イェースズは手のひらからのパワーを、男の全身にくまなく浴びせた。特にうつぶせに寝かせ、背中から腰の上あたりの特に時間をかけた。そうしながら、イェースズは優しく言った。
「これは、決して悪い病気ではありませんよ。体の中の毒素が外に出ようとしているんですけどね、特に内臓を通して排泄すると内蔵がやられてしまうような猛毒を皮膚から排泄しようとしているんですよ。だから、猛毒が出きってしまえば終わります。今、私が施している神の光は、一切を浄化します。猛毒も早く溶かし、早く排泄させます。あとは、あなたの想念の持ち方ですね。つらい、苦しい、汚いと不平不満でいれば長引きますけど、猛毒を出させていただいていること、あまつさえ神の光を頂いていることに感謝していれば、すぐに楽になりますよ」
うつ伏せになりながらも、全く初めて聞く新しい理論に、男は呆然としていた。
「つらいからといって、クスリで止めない方がいいですよ。クスリをつければ確かに治るでしょうけど、それは猛毒の排泄作用をとめてしまうことでもったいないことですし、クスリ自体が新たな毒ですから二重の損ですよ」
男は一応うなずいていた。
その男が、仲間を連れてきた。家に帰ってから急に全身の発疹が消えたというので大騒ぎをしていたら、それを聞きつけた隣の家の女が、夫をぜひその治してくれた人のところに連れて行ってほしいと頼んできたというのである。連れてこられた男は、来てからずっと上を向いている。
「この人、今朝からずっと鼻血が止まらないって言ってるんですけど」
「そうですか」
イェースズは落ち着いて、にっこりと笑った。そして、ペテロにどこかから桶を借りてくるように言った。
ペテロが桶を持ってくると、イェースズは鼻血の男の顔が桶の上に来るように前かがみにさせた。
「それじゃあ、鼻血はどんどん出てしまうじゃないですか」
先ほどの皮膚病の男が、慌てて言った。イェースズはにっこり笑って、
「大丈夫ですよ」
と言った。
「鼻血は頭の中の毒が溶けて濁血となって出るわけですから、とてもいいことです。止めないで、どんどん出してしまえばいいんです」
「そんな、体中の血がなくなって死んでしまったらどうするのですか?」
「そんなことありませんから、安心してください。濁毒がなくなりますと、ぴたっと止まりますから」
そういいながらも桶の上に顔を出して鼻血を出している男の後ろから、イェースズはそのうなじに手をかざしていた。血は、桶がいっぱいになるくらいに出て、そしてぴたっと止まった。男は顔を上げ、あたりを見回した。
「ああ、頭がすっきりしましたねえ。いつも頭が重くてボーっとしていたのに」
「よかったですねえ」
イェースズはにっこり微笑んだ。
それからイェースズが会堂で司と話していると、若者である息子をつれた老婦人がうわさを聞いたと言ってやってきた。
「先生、息子をなんとかしてください」
そう言われて若者に目をやっても、外見上はどこも悪いところはなさそうだった。ただ、力なくうつむいて座っている。
「このこの父親は大酒飲みで、とうとう冬の日に飲んだくれて行き倒れになって、それっきりになってしまったんです。でも自分は酒が飲みたくないらしく、酒の瓶に『酒は飲まない』と書いていたくらいなんです。それでもお酒を飲んでしまったというのは、悪霊の仕業でしょうか?」
イェースズは、やさしく微笑んで即答した。
「自分で努力もせずに何でも安易に悪霊の仕業にするのはよくないと思いますけれど、ただご主人の場合はご自分もお酒を飲まないようにと努力したのに飲んでしまって、ましてやそれで命が奪われたというのですからねえ。まあ、断定はできませんが、心で飲みたくないと思っても飲んでしまうというのは、やはり心のもっと奥にある霊の問題ではないでしょうか。一切は霊が主で、心は従、体は属しているにすぎませんから」
「では、この子は?」
老婦人は、つれてきた我が子を示した。
「この方は、どうされたんです?」
「主人が亡くなってから私は一所懸命働いて、この子をなんとか一人前になるまで育てたんです。そして、息子は麦畑を持つ地主に雇われて、その畑をほとんど任されるくらいにまでなったのです。でもある日、農夫の頭に言われるままに麦を倉庫に収めていたら、あとでその頭の収穫隠しがばれて、言われた通りにしていただけの息子も同罪でクビになってしまいました」
老夫婦は、そこで一息ついた。イェースズは、うなずきながらも黙って聞いていた。
「それでこの子はしばらくぶらぶらしていたんですけれど、ある日収税人の家の前を通りかかったらドアがパタンと開いて、そして何気なく入ってみるとお金が積んであったのでそれを手にとって見ているうちに、泥棒としてつかまってしまったんです」
老婦人は、そこまで言って泣き出した。当の本人の息子は、無表情のまま座っている。
「先生、なんとか救ってください。どうして我が家には、こうも不幸が重なるのですか?」
「そうですか、それはたいへんでしたね」
イェースズはそれだけ言って、息子の方へ目を向けた。それはああなのだこうなのだと、ぺらぺら言うことはイェースズは決してしなかった。まずは黙って手をかざすのである。今回も息子に、
「では、しばらく目を閉じていてください」
とだけ言った。そしてイェースズは、その眉間に向かって手をかざした。すぐに息子の体は震えだし、幾分前かがみになった。
「御霊様、お話ができますか?」
イェースズが尋ねると同時に、
「許せん! 殺してやる。絶対に殺してやる!」
と、霊は自分が憑いている若者の口を使ってしゃべりだした。
「御霊様はこの方と、どのようなご因縁でいらっしゃいますか?」
すると、若者は目を閉じたまま、火であぶられて苦しんでいるようなしぐさをした。
「焦熱地獄にいらっしゃるのですか?」
若者はうなずいた。
「焼き殺されたのですか?」
また息子はうなずいて、低い声でうなるように話しだした。
「この男、この男の先祖は、地主。わしはそこの農夫だった。しかしある日、収穫隠しの濡れ衣を着せられて、火あぶりになったッ。ううッ、熱い!」
「そうですか。それはおつらかったでしょう。お気の毒に思いますよ」
「憎い。悔しい。だから、この男の父親の命はもらった。しかしそんなことでは、この恨みは消えはせぬ」
「この方が仕事をクビになったのも、泥棒としてつかまったのも、御霊様がされたのですか?」
若者は、こっくりとうなずいた。イェースズは間をおいてから、厳かに言った。
「恨みを晴らしたとて、焦熱地獄から救われると思いますか?」
息子は身動きもしなくなった。そこでイェースズは幽界脱出の罪について、こんこんとサトした。
「分かった。離れる。離れるから、外にいた犬に憑かせてくれ」
「それはできません」
イェースズはきっぱりと言った。
「そうすれば、犬が苦しみますね。私には私の命が大切であるように、犬にとってもその命は大切なんですよ。いいですか、あなたが今焼かれている地獄の業火というのは、あなた自身の怨み、憎しみの想念が物質化して、炎となってあなた自身を焼いているのです。幽界は想念の世界ですから、想念がそのまま現れますよ」
それからイェースズは御霊自身の前世の罪穢のこと、を説いた。
「どうかス直にお詫びすることです。結局自分を救えるのは、自分しかないのですから。いつまでもこの方のお邪魔をしていないで、神様のみ光を頂いて浄まって、本来行くべき所に早く行かれるように神様にお願いしてごらんなさい」
またしばらく時間が流れた、そして霊が離脱したことを認めたイェースズは、若者に
「はい、静かに目を開けてください」
と、言った。目を開けた息子の目は、別人のように明るく輝いていた。
それを見ていた会堂の司は、ただ呆気にとられて口をあけて立っていた。イェースズは立ち上がって司の方へ行くと、その手をとった。
「神理のために、手を取り合いましょう。仲たがいしたら共倒れ、邪霊の思う壺です」
言葉だけではなく、高次元からの霊流がイェースズの手を通って司の魂になだれ込んだ。
コラジンを後にしたイェースズ一行は、方向を変えて南下した。まっすぐに南下するとカペナウムに帰ってしまうので方向を少しだけ右手の西の方へととり、タビハという町で再びガリラヤ湖の湖畔へ出た。その町の入り口の所で、イェースズは街道にひれ伏している一人の男に気がついた。もうすっかり、秋の気配が漂っている頃だ。
男はそっと顔を上げた。イェースズを取り囲むように歩いていた弟子たちは、思わず一歩下がった。そのただれた顔は、明らかに病人だった。それもただの病人ではなく、本来なら人里離れた山奥に隔離されて、このような街中に来ることは許されない病気だ。体中が腐敗して死に至る不治の病で、後世でいうハンセン病である。
イェースズは、その男に近づこうとした。しかし完全に足を止めている弟子たちの中から、ペテロがイェースズに叫んだ。
「先生、その男に近づいてはいけません」
その病気が伝染病であることを知っている彼らは、イェースズの身を案じたのである。しかしイェースズは振り向くと、微笑みながら言った。
「なあにを心配しているのだね。伝染病なんてものは存在しない。そんなの迷信だよ」
そうして男のそばにしゃがみ、顔をのぞき込んだ。
「おうわさを聞いて、山奥を抜け出してお待ちしていました。み意にかなうのなら、どうか私の穢れた体を浄めてください」
やっと聞き取れるような声で、男はぽつんと言った。
「浄めるのは私ではなく、神様なんですよ。神様のみ光を頂いてください」
それだけ言うとイェースズはいつものように男に目を閉じさせ、手のひらからの霊流を男の眉間に向けた。しばらくそうしていたが、別に霊動は出なかった。だが、さらに時間が経過すると男は勝手にすくっと立ち上がり、自分の体を見下ろしていた。
「歩ける! 治った。 救われた!」
男は目からぽろぽろと涙を流し、イェースズに向かってひざまずいた。感謝の言葉を述べたいようだが、涙でのどが詰まって声が出ずにいるようだった。
「あのう、あまり言いふらさないで下さいね。ただ、会堂に行って、祭司にだけは体をお見せなさい」
この病気は祭司が完治したということを証明してはじめて、患者は再び市民権を得ることができることになっているからだ。男は何度も頭を下げて、立ち去っていった。
歩きながら、イェースズの弟の方のヤコブが、
「あの人は、先生の業でもなんらしゃべったり動いたりしませんでしたから、悪霊が憑いていたというわけではないのですか?」
「いや、そうとは一概に言えない。霊動がなくても霊障はあるんだ。霊動と霊障は違うものなんだよ。霊が憑いているのに霊動が出ない人の方が、実はよっぽど注意した方がいい場合もあるんだ」
周りを歩く弟子たちは、誰もが注意深く師の言葉を聞きながら歩いた。
「そもそも霊が憑くっていうことは、前世で何か怨まれるようなことをしたということばかりではないんだ。その人の自身の前世や前々世での罪の結果なんだよ。そのひとの魂が曇っていれば、邪霊と波調があって憑いてしまう。逆に、霊に怨まれている人でも、その人が想念転換して明るい波動、感謝の波動を出していれば霊と波調が合わない。そうなると霊も憑けないし、よしんば憑けたとしても何も活動はできないと、こういうことになっている」
「邪霊と波調があうとは、どういうことなのですか?」
と、今度はエレアザルの兄の方のヤコブが聞いた。
「邪霊というのは怨みや憎しみの塊だからね、今生きている我われが同じような怨み、ねたみ、憎しみ、怒りの想念などを持って人の悪口・陰口を言い、不平不満ばかり言っていると、邪霊と波調が合って、スーッと呼んでしまうんだ。幽界はサトリの世界であるのと同時に、想念の世界でもあるからね。先ほどの病気も、罪による魂の曇りが肉体化したものだ。だから、神の光で魂の曇りを削ぎとってしまえば、体は放っておいても自然によくなる」
同行者たちは皆半信半疑のようで首を傾げてイェースズの話を聞いていた。
やがて、町が近づいた。ところが先ほどの男が言いふらしたのだろう。多くの人々がイェースズたちを待ち受けていた。
「これはまずい」
今、イェースズが町に入ったら、大パニックになりそうだった。青いガリラヤ湖の湖水を左に見ながら、イェースズは、
「あの町は中止だ」
とだけ言った。
間もなく冬も近づいたので、イェースズは弟子たちを連れたまま一度カペナウムに帰ることにした。自分がもう一つ年をとって二十八になる日を、故郷で迎えたかったということもある。また、今回の旅は遠くへではなくガリラヤ内をめぐるにしても、なにしろあまりにも突然出てきてしまったのだ。母への気兼ねもある。
山々や草原の草も、黄色く色づき始めていた。イェースズが我が家の扉をくぐると、母は優しく温かく、包み込むようにイェースズを迎えてくれた。イェースズとその弟たちのためばかりではなく、母にとってはよそ者の弟子たちのためにもすごいご馳走の晩餐を用意してくれた。
ところが、そんな安らぎのひと時も束の間、どこでうわさが流れたのか翌日にはもう大勢の人々がイェースズの家の前に押し寄せていた。ほとぼりは冷めていなかったのだ。
しかしイェースズは旅の疲れもどことやら、嫌な顔一つせずに笑顔で、一人一人に癒しの業を施した。
昼ごろになって現れたのは、若いのに頭のはげた男だった。男にはその妻が介添えとしてついてきた。聞けば、この男は突然耳が聞こえなくなったのだという。
「何でもなかったのが突然というのは、たいてい霊的なものですね」
イェースズはそう言ってから男に目をつぶらせ、いつものように眉間に霊流を放射した。すると浮霊してきたのは、木にかかって修行をしていた霊だということだった。しかも、耳が聞こえないはずの男がイェースズの問いかけには一つ一つうなずいたり正確に答えるのだから、これはもう物質界の業ではなかった。
「御霊様はなぜ、木にかかって修行などしていたのですか?」
「われは人間などの霊にはあらず。龍よ。龍神なり」
耳が不自由だと言語にも障害が出るもので、確かにここに来てから男はほとんどしゃべらなかった。だが、今は霊がしゃべらせているだけに、言葉も明瞭だった。
「あなたは、木龍さんですね」
耳が聞こえないはずの男は、イェースズの言葉にこっくりとうなずいた。
「このもの、我の寄りたる木を、何の断りもなく切り倒したるぞ。許せぬことよ」
木龍という龍神は、耳がないことをイェースズは知っている。だから木龍がかかったら、耳が聞こえなくなるのだ。
「そうですか。分かりました。この方を説得致しますので、どうかお邪魔はやめて鎮まって下さいませんか?」
その言葉に、男はうなだれた。やがてイェースズが静かに目を開けるように言ったが、男はうつむいたままだった。男には聞こえていないらしく、介添えの妻が男の手のひらに文字を書いて、男はやっと顔を上げた。その妻に、イェースズは、
「ご主人のお仕事は?」
と、聞いてみた。
「樵です」
イェースズは大きくうなずいて、木片に文字を書いて男に示した。
「あなたは、霊がかかって修行をしていた木を切りました。あなたの耳が聞こえないのは、そのためです。ですから、この前切った木の近くに若木を植えて、切った木にかかっていた御霊様によくお詫び申し上げ、その若木に移ってもらいなさい。今度から古い大木を切る時は、同じように若木を植えて移ってもらうなど、よくお断りしてから切るようにね」
男はそれを読んで、何とか口を動かして礼を言おうとした。先ほど流暢にしゃべったのとは裏腹に、ほとんど言葉を発音できずにいた。だがその男が夕刻に再び来た時は、言われたことをス直に実行したら耳が聞こえるようになったと嬉しそうにぺらぺらしゃべって礼を言った。外ではまだ、癒しの順番を待つ人々が並んでいた。
その時、人々を割って押し入ってきた三人の男がいた。服装を見れば一目で分かることだが、三人ともパリサイ人の律法学者のようだった。年のころは、中年にさしかかった頃の人々だった。
「あんたがイェースズかね。町中すごいうわさになっているが、あんたと話がしたいことがあるのだがね」
既成宗教の権化のような彼らは、居丈高にイェースズの前に立ちはだかった。
そのとき、イェースズの頭上の天井のあたりが、みしみしと音がした。土ぼこりが落ちてくる。そしてすぐに天井に穴が開き、夕暮れの淡い光が直接室内に差し込んできた。
やがて音はミシミシから、バリバリという激しいものに変わった。穴はどんどん大きくなっていく。屋根といってもこのあたりの家の屋根には瓦はなく、石造りの家の壁の上に横たえられた棟木の上を葦と浅屑を粘土で固めたもので覆ったものだ。だから、手で崩して穴を開けるのは容易なことだった。
穴がある大きさになると、寝床に寝かされた男が寝台とともにロープで吊り下げられ、イェースズの目の前にゆっくりと下ろされてきた。寝台といってもギリシャやローマのようなものではなく、肩までかかるタリトと呼ばれる毛布が寝具なのだ。皆、これにくるまって床に直接寝る。普通タルトには四隅には房がついていて、天井から吊り下げられたロープはこの房に結んであった。音を聴いて隣の部屋から駆け込んできたマリアは、腰を抜かさんばかりに金切り声を上げた。
「な、何です、あなた方は! 人の家を壊して!」
「すみませ〜ん」
穴から、一人の若者が顔をのぞかせた。
「うちの親父です。中風で歩けないんです。こちらのイェースズという方に癒して頂けると言う話でしたのでつれてきたんですけど、とにかくものすごい人なので天井から失礼します」
「冗談じゃあありませんわ。そんなことで人の家を壊されたんじゃ、たまりませんよ。ちゃんと順番を待ちなさい」
「母さん、まあいいじゃないですか」
イェースズはニコニコ笑って、母をたしなめた。
「こうやって天井がはがされていくのを下から見ているのも、はじめて見るんで面白いものですよ」
イェースズはまるで子供のようにはしゃいでいる。
「そんなこと言っても、あなた」
「あのう」
天井の男が、また顔を出す。
「屋根の修理代は、あとで弁償しますから」
「まあ、うちは大工ですから、こんなのはすぐ直せますけど」
マリアは苦笑しながらも、まだ割り切れない表情だった。そんな母を、イェースズは見た。
「順番を待たなければいけないのは確かですけど、天井を破ってまで私のもとに近づきたいっていう強い思いを、私は受け取りたいですね。神様への強い信仰によって、病も癒されるのです」
それを聞いていた律法学者の眉が、ぴくりと動いた。
「あんたは、本当にこのものの病が癒せるのか」
「さあ。だって、癒すのは私ではありませんから。私の力ではない。神様が癒されるんです。私を使って」
イェースズはそれだけ言うと、やっと天井から地面に下ろされた寝床の上の老人のそばに寄って、顔をのぞきこんだ。
「足がおつらいのですか?」
老人は、寝たままうなずいた。
「お気の毒ですね。どなたかお身内で中風で亡くなった方はおいでですか?」
「わしの父も兄も、中風で死んだ」
「そうですか」
イェースズはにっこり微笑んで見せると、真剣な表情になって、寝たままの老人の眉間に上から手をかざした。顔は真剣だが腕には力が入っておらず、まるで細い木の枝のように風が吹くと揺れそうであった。
やはり亡くなった父親の霊が憑依していて、そのための中風だったが、憑依されていること自体にはこの老人の過去世の罪穢も関係しているようだった。激しい霊動は出なかったのでほかの人にはただ老人は黙って目を閉じてパワーを受けているように見えたが、イェースズの霊眼にはそれらのすべてがお見通しだったのである。しかしパワーによって霊は浄められて改心し、またこの老人自身の魂も浄まって、過去世の罪穢も浄化されていった。パワーはいまや、老人の全身にみなぎっていた。
「さあ、あなたの罪穢も浄められましたよ。でも救われた、有り難うございましたではなくて、神様に対して何らかの報恩の行をしなければ、本当の魂の救いにはなりません。自分を救うのは、あなた御自身ですよ」
イェースズが霊ではなく目を開けた老人本人に優しく語りかけた時、律法学者の眉がますます動いた。
――なんだこの男、頭がおかしいんじゃないのか?
――罪を許すと言ったって、何の権限があってこの男はそのようなことをいうのだ。それは神様だけの権限のはずだ。――いけにえの動物の血を贖罪所で流すこともせず、またその司式の資格もないこの男がこんなことを言うのは、神への冒涜だ。
その時イェースズは微笑んだまま、さっと律法学者たちを見渡した。
「あなた方はさっきから、何をお考えですか?」
そう言いながらイェースズは、先ほど読みとった律法学者の想念を、ものの見事にそれらを全部口に出して言った。学者たちは見るみる蒼ざめ、一歩引いて呆然と立っていた。イェースズはだからといってとがめる様子もなく、ニッコリと笑っていた。
「いいですか? お伺いしますけど、『あなたの罪穢は祓い浄められて消えましたよ』と言うのと、『あなたの体は癒されましたよ』と言うのと、どっちが簡単でしょうかねえ」
律法学者たちは答えるすべもなく、ただ黙ってイェースズを見つめていた。イェースズはさらに続けた。
「たぶん皆さんは、口で『罪穢が消えた』と言う方がたやすいと思っているでしょう。結果が目に見えませんからね。でも、違うんですね、これが」
「ち、違うとは、どういうことかね」
やっと一人の学者が、口を開いた。イェースズはまたニッコリ笑った。
「つまりですね、罪が消えたということと、体が癒されるということは同じことなんです。世間一般に病気といわれている現象とか、そのほかのあらゆる不幸現象も、例えそれが邪霊の仕業であったとしてももともとの原因は自分にあるんです。自分の罪穢の結果なのです」
「では、この男は、どんな罪をおかしたというのだ」
「さあ、それは分かりません。前世の罪穢である場合も多いですしね」
「そんな前世だの生まれ変わりだの、そんなもの我われは認めない。そんなのはエッセネ人だけの主張だろう。だいいち、聖書のどこにも書いていないではないか」
「これはですね、エッセネ人がどうのこのうのというような、宗門宗派にこだわったちっぽけな問題じゃないんです。認める認めないは皆さんの自由ですけど、私はその事実が厳として実在していることを知っているからこそ、お話し申し上げているんです」
イェースズの顔こそさわやかにニコニコ笑っていたが、目は鋭かった。
「神様が人を創られた時は全智全能を振り絞って創られたと、聖書にはそう書いてありますよね」
「ああ、そうだ」
「すると、人は神様の最高芸術品、神宝ということになりますよね」
「ん、ま、まあ、そうだが」
「そんな神様の全智全能によって創られた神の子である人が、不幸になるってこと自体が本来的におかしいと思いませんか? それなのに、現実問題として不幸な人がいるということは、どういうことでしょう? まあ、中には神様がその人の魂を鍛えるために特別にされている場合も無きにしも非ずなので一概には言えませんが、普通に考えれば、神様の最高芸術品の人間が不幸であるというのは、『私は神様から勝手に離れています』って書いた看板を首から下げて歩いているのと同じではないかと私は思うのですが、いかがですか? その、神様から勝手に離れた状態というのを、『罪』というのではないのですか? 皆さんはたいへんご立派な学者さんですから、ご存じだと思います。どうか、そのへんをお教え願えませんか」
「どうして、そのように考えるのだ」
「だって、神様から勝手に離れるということは、神様の置き手の法からずれているということでしょう? そうでない限りは、人は放っておいても健康で、平和で、貧しくない、そんなふうになるはずでしょう? 神様の御本願は万象の弥栄えですから、人は放っておいても幸せになると思うのです。だって、聖書によれば、神様はこの世とすべての動植物と、そして人間を創られたあとにそれをご覧になって『よし』とされたとあるじゃないですか」
「ちょっと待て。その神の掟の法とは、律法のことか? おまえは我われ律法学者に向かって、律法の講義をするつもりなのか」
学者の口調がかなり激しくなった、顔も真っ赤になっている。
「私の言う神の置き手と律法とは、ちょっと違うような気がするんですけど」
「どう違うんだ!」
学者はついに怒鳴った。その質問にまともに答えたら、彼らはますます怒るとイェースズには分かっていた。だから、答えなかった。彼らを怒らせたら、その波動からこの部屋にも彼らの体内にも毒を発生させてしまうからだ。そしてイェースズはわざと話題を変えた。
「ところで先ほどもお尋ねしましたけど、『罪』というのが神様から離れた状態であるというのは間違っていますか? 教えて頂きたいのですけど」
「うん、まあ、ある意味は正しい」
学者は自分が立てられたので、少し落ち着いてわざと居丈高に答えた。
「神から離れる、つまり神の律法を守らないのを『罪』という」
「では、事情があって律法を守れない人は?」
「もちろん罪人だ」
「では、その罪の許しは?」
「分かりきったことを聞くな。神殿でいけにえの動物を買って、その血を贖罪所で流すことだなんて子供でも知っているだろう」
「では、貧しくていけにえの動物を買えない人は?」
「罪は許されない」
「じゃあ、神様って、ずいぶん無慈悲なお方なんですね」
「何ッ!」
学者たちがまた顔に青筋を立てたので、イェースズは笑って、
「まあまあ」
と両手で制した。
「もちろん私は、神様が本当に無慈悲なお方だってわけではないことは知っていますよ。『罪』の状態が不幸を招くというのは、神様が罰してそうするのではないと思うんですけど。神様はかわいい神の子に、ばちなんか当てませんよ。不幸になる人は、自分の意志でそうなることを選んでいるんじゃないですか。自分から勝手に神様から離れて、勝手に不幸になることを自分で選んでいるんですね。石も重くなればなるほど、水の中にどんどん沈んでいくじゃないですか。でも軽い木片だったら、ひとりでに浮きますよね。あれと同じじゃないですか。だから誰でも罪をサトって神様にお詫びをし、それなりの償いの行をすれば、神様は許して下さるでしょう。神様の世界は想念の世界、サトリの世界ですからね」
学者たちは何か反論したそうだったが、言葉が見つからずにもごもごしていた。
「人の本質は霊でしょう? ところがひとたびこの世に生まれて肉体という着物を着てしまうと、五官に振り回されて本当の霊的なものが分からなくなってしまうんですね。目で見えるもの、手で触れるものだけがすべてになって、それにとらわれてしまうんです。でも、神様は肉体を超越されたお方ですから、神様が罪を許されたら目に見える形で現れるんじゃないでしょうか?」
「目に見える形とは?」
「先ほど私が行った業は、一切の罪を浄化する業です。人の霊は本来、水晶の玉のように透き通ったものだったんですけど、転生再生を繰り返しているうちに神様から離れて、どんどん魂に曇りを積んできてしまったんですね」
これ以上のことは、今話しているアラム語ではうまく説明できないと思ったので、イェースズはそこで言葉をいったん止めた。つまり、魂霊を包み積んだものが「罪」、そして魂のが枯れてしまったのを「枯れ」というのである。だが、律法学者たちだけでなく居合わせた人たちみんなが、静まりかえってイェースズの言葉を聞いていた。
「霊魂は川でいえば川上、肉体は川下です。川上が濁れば、川下の水はどうなりますか?」
「そりゃ、濁るだろう」
学者たちもだんだんばつが悪くなってきたようで、もぞもぞしはじめた。
「そうでしょう。川上の水の濁りが『罪』、川下の水の濁りが『不幸現象』なんですよ。別に川上が濁っているからけしからんと言って、わざわざ川下の水を濁らせに行く人はいないでしょう? 川下は自然に濁るでしょう? これが神様の仕組みの置き手じゃあないですか? 不幸現象によって人々は、消極的に魂の曇りを消して罪を浄めていくんです。病気を含めた不幸現象というのも、罪で曇った人々の魂を浄いものにしてあげようという、神様の愛の現れなんですね。そして私は人々の魂のランプの曇りをぬぐう塩の役割を、神様から仰せつかったんです。その業が先ほどの業で、火と聖霊の洗礼なんです」
「そうか。おまえはヨハネとかいう新興宗教の教祖の弟子だったんだな。おまえはまだ、自分に罪を許す権限があるなどとほざくのか」
「ではお聞きしますけど、贖罪所で動物の血を流した人が急に病気が癒されたとか不幸現象が解消したとかいう話、ありますか?」
学者たちは口をつぐんだが、その中の一人が弱々しく言った。
「病気なんか、医者に治してもらえばいい」
イェースズはまだ、ずっとニコニコしながら話を続けた。
「お医者さんですか。お医者さんって、川下だけに明礬をまいているようなものじゃないですか。だって、今のお医者さんの中で、病気といわれる現象のうちの八割までもが邪霊による霊障だって分かっている人、いったいどのくらいいるでしょうね」
「そんなのは、おまえがそう信じているだけではないのか。自分が信じていることを、人にも押し付けるな」
「さあ、果たしてそうでしょうか。私はそれらの事実を『信じている』のではなくて『知っている』のですけど。要は、体験ですよ。体験もないのに霊障なんてないって決め付けるのは、どうかと思いますけれど」
「今、八割は霊障と言ったが、ではあとの二割は?」
「はい。体内の毒素のクリーニング現象ですね。それなのに、それをもお医者さんたちは病気だって大騒ぎして、クスリで止めてしまう。すべてが、よくなるための変化なんです。病気も不幸現象も、肉体だけでなくて魂の浄化でもあるんです。神様は人が罪の常態にいることをお望みではありませんから、そういう仕組みをされているんです。神様の愛ですね。それなのに今世の人々は不幸を呪い、病気も医者が治す、クスリが治すという迷信に陥って対処療法ばかりをあてにしています。そうしてますます体を毒化させて、悪想念をつのらせているといえるんじゃないですか? だから、神様は私を遣わされたんです」
「神に遣わされただと? おまえは自分が預言者のつもりか」
学者たちの顔は、再びこわばってきた。
「う〜ん、預言者とはちょっと違いますけれど。まあ、人々がこれ以上神様から離れすぎないように歯止めをかけろって言われて、遣わされたってところですかね。だから、有無を言わさずに川上の霊魂を浄めてしまう業を、私は許されたんだと思っています。魂霊の曇りを消極的に不幸現象でアガナうか、火と聖霊の洗礼で霊の曇りを削ぎとってしまうか、どっちが得だと思いますか?」
学者たちは、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していた。
「私が罪を許すんじゃあないんです。罪を許すのは、あくまで神様です。神様のみ力によって、罪穢を浄めていくんです。だから、もし神様が急に私に対してみ力をお貸しくださるのを止められたら、私は何もできません。私は神様のみ力で人々の川上である霊を浄めているんですけど、川上が浄まれば川下も清まるんです。病気も治るし、不幸現象も解消します。でもそれが、本当の目的じゃないんです。私は決して病気治しのまじない師でもないし、霊祓い師でもありません。病気が治るなんてことは、方便なんですね。本当の目的は霊の曇りを祓い浄める、つまり罪の許しと魂の浄化によって人々を救うために私は遣わされたんです」
「それほどまでに自信たっぷりに語るなら、証拠を見せろ」
このひと言で、沈黙していたほかの律法学者も急に勢いづいた。
「そうだ。証拠を見せろ!」
「先ほども申し上げましたが、贖罪所で動物の血を流しても病気は癒されたり不幸現象は解消しないということでしたね。肉体をも救えないのに、魂の救いができるでしょうかねえ」
そのとき、天井の上からまた声がした。
「すみませーん。お取り込み中のようですけど、うちの親父の方はどうなったんですかあ?」
例の天井を壊した張本人の男だ。イェースズは慈愛に満ちた目で、床の上で寝ている老人に目をやった。先ほどイェースズが、さんざん手のひらからのパワーを注入した老人だ。老人はイェースズと律法学者たちとのやり取りを耳にしながらも、手を合わせて一心に祈り続けていた。
「罪が許されたということと床を撮って歩けということが同じことなのだということを、お見せしましょう。本当は見ないで信じるのがいちばんですけれど、見ないと信じない今世の人々の心を神様もよくご存知です」
イェースズは律法学者たちにそう言ったあと、床の老人に向かって優しく、
「どうぞ、もう大丈夫ですから、寝具をたたんでお歩き下さい」
と言った。そのイェースズの言葉が終わるか終わらないかのうちに老人はすくっと立ち上がると、たたんだ寝具を持って歩き出したのである。そしてそのうち再び足を折って体を崩したが、それは感動のあまりに泣き崩れたからであった。そしてイェースズの方に向かって何度も何度も涙声で礼を言うと、寝具を肩にかついでしっかりとした足取りで歩いて出ていった。学者たちはもう、ぽかんと口をあけているだけだった。
「この業は私の力ではありませんから、神様がご自分の栄光を現すために奇跡を見せてくださるということもありますが、大事なのは受ける方の想念です。本人の回心ですね。業と想念転換は、車の両輪のようなものです。あの方も、いわばご自分の信仰がご自分を救ったのです」
イェースズがそこまで言った時、律法学者の中でも一番若く年がイェースズに近い人が絶叫して床にひざまずいた。
「ああ、今日はなんというものを見てしまったんだ。常識では考えられない。われわれの理解を絶するものだ」
イェースズはその肩に、優しく手を置いた。
「今の世の中で常識となっていることが神様の世界では非常識で、非常識だと決め付けられていることが神様の世界では案外常識だったりするんです。人間のものさしを捨てて、神様のものさしを持つことですね」
そう言いながらもイェースズの手からの霊流が、若い律法学者の体にどんどん流れ込んでいた。その学者は、ますますすすり泣きを続けていた。そばにいた二人の年配の律法学者はあきれた顔をし、そして鬼のような形相でイェースズをにらみつけると、足早にその場を去っていった。
その晩イェースズは弟子たちに、再び旅に出ようかとふと漏らした。