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イェースズはヨハネがどこにいるか分からない。ただ、ユダヤのどこかにいて彼なりの教えを説き、人々を導いているということだけは知っている。しかしそれでは、何の手がかりにもならなかった。ユダヤといっても町ではなく、広い意味ではガリラヤやサマリヤも含む国だ。大海の底に沈む小石を探すようなものである。
イェースズはまずエルサレムに行ってみようかとも思った。だがあの大きな都会では、なおさら探しにくい。あるいはカルメル山のナザレの家へとも思ったが、かのエッセネ教団の本拠地のエジプトででさえヨハネの所在をはっきりつかんでいなかったのだ。
イェースズはとりあえず、故郷のカペナウムに一旦帰ることにした。
時にローマ暦では年も変わり、この地方ではわずかばかり雨が多い季節となった。イェースズももう、二十八歳だった。砂漠と岩地を進む旅が続いたが、うまいことに日が暮れると必ずオアシスがあった。そこには旅人用のテントがあって、暖をとることもできる。はるか太古のモーセの時代に、イスラエルの民を率いてこの道を通ったのは言語を絶する艱難だったと聞いている。今は楽に快適に旅ができるのも、時代の流れなのだろうとイェースズは思っていた。
そして、故郷も目の前になり、大地は荒野から緑豊かな土地となっていった。何日も砂漠の中を旅してこのガリラヤの緑が目に入った時、イェースズでなくともみな心のそこからほっとしてため息をつくであろう。そんな、もうすぐガリラヤ湖も見えてくるという頃になって、イェースズはやっとヨハネのうわさを聞いた。何でもヨルダン川で多くの人を集め、川の水で洗礼という業を行っているということだった。
「水につけて洗礼を?」
オアシスのテントの中でイェースズにこの情報を伝えた初老の男は、無精ひげの伸びた顔で怪訝な表情を作った。
「おまえさん、本当に知らないのかい? 有名な話だよ」
「いえ、本当に知らないのです」
そう言いながらも、イェースズには思い当たる節があった。水に浸かっての沐浴は、エッセネ教団ではよくやることだ。サドカイ人の祭司でさえ、沐浴はするであろう。
「で、洗礼って何をするんですか?」
「何でも、それで罪を洗い浄めるんだとよ。そしてヨハネという人は、民衆に悔い改めよと盛んに説いているそうだ」
水で罪を洗うという考えは、ますますエッセネ教団特有のものだ。普通、罪を浄めるのはエルサレムの神殿で流す贖罪の動物の血によってなされると決まっている。しかし、エッセネでは沐浴はあくまで自分の罪を沐浴で浄めるものであり、それで他人を浄めるという発想はない。そのあたりがヨハネの独自の発想のようだ。
「まあ、そのヨハネという人本人は獣の皮衣を着て、いなご豆やナツメヤシの蜜とかばかりを食べてるそうだよ。それで教えを説いてあれだけ信者を増やしたんだから、ちょっとした新興宗教だね。そのうち祭司たちににらまれるぞ。それに、場所が場所だけに、ガリラヤの王様も放ってはおくまい」
イナゴ豆とナツメヤシの蜜というのも、エッセネの荒れ野での修行者の常食だ。
「そのヨハネは、どこにいるんですか?」
「おいおい、ちょっと待てよ」
イェースズの真剣な眼差しに、初老の男は苦笑を見せた。
「あんな人のこと全く知らなかったおまえさんまで、ちょっと話を聞いただけでもう傾倒しちまったのかい? 最近の若い者は何に飢えているのだか、新しいものが出たらすぐに飛びつく。特に新宗教にね」
「で、ヨハネはどこに?」
「分かった、分かった。ヨルダン川がガリラヤ湖から流れ出たすぐの所だ」
男は、自分の髭をなぜていた。
イェースズはすぐにでもヨルダン川に飛んで行きたかったが、とりあえずカペナウムの自宅に戻ることにした。エジプトでのことを母に報告しなければならない。
再び故郷の人となったイェースズは、晩餐で母にはエジプトでのことはかいつまんで話すにとどめた。それよりも、母も弟たちもしきりにヨハネの話をしている。イェースズがエジプトに行く前は母もヨハネもまたエジプトにいるのだと言っていたのだから、ヨハネのヨルダン川での洗礼はここ最近のことらしい。それでも、ガリラヤ全土で話題になっているという。
「イェースズ、おまえも行って、ヨハネの洗礼を受けていらっしゃい」
母が言い出したことは、唐突だった。しかしイェースズ自身もヨハネに会いたかったし、その母の言いつけにそむく理由もない。だから、母がどういう意図でそうのようなことを言ったのか考える暇もなく、帰宅したばかりであるにせよス直に従うことにした。
カペナウムからだと、ヨルダン川の流出口はちょうど南の方の対岸になる。イェースズはそこまで、湖の西岸を歩いて向かった。しかし彼はヨハネが皮衣を着て洗礼を授けていると聞いても、幼い頃に遊んだ少年ヨハネが洗礼を授けている場面しか思い描けなかった。もはや、ヨハネもいい大人になっているはずだということは頭では十分承知してはいるが、彼の中にはまだ思い出の中のヨハネしかいない。
ガリラヤ湖を南岸に回るにつれ、同じ方向を目指す者がやけに多くなった。単なる旅人とは思えないその人たちは、明らかにヨハネのもとへ急ぐ信徒だろう。その中にイェースズも混じっていた。端から見れば、イェースズもそんな信徒の中の一人にしか見えなかったに違いない。
やがて、ヨルダン川が近づいてきた。人々の流れはそこで滞る。三千人くらいはいると思われる人々の群れが、広いスペースを埋め尽くしていた。そして中央の高台に立つ獣の皮衣の男……ヨハネだ、とイェースズには客観的にすぐに分かった。だが、あくまで客観的にはであって、それが幼少のみぎりにともに遊んだ又従兄のヨハネであるとはすぐに実感はわかなかった。イェースズは群衆の一員となって、ヨハネの演説に耳を傾けた。
「ですから皆さんは、今申しましたように、お一人お一人がその考え方や想念を切り替え、悔い改めなければならないのです」
人々の間でざわめきが起こった。
「何をどのように悔い改めればいいんですかあ?」
そう叫びを上げた若者もいる。人々のざわめきは、その質問に賛同していた。
「皆さん」
かん高いヨハネの声は、たちどころにそんなざわめきを抑えた。
「お一人お一人の想念が神様から離れていないか、み意通りかどうか、点検して下さい」
誰もが、自分は間違っていないと思っているようで、その波動がイェースズに伝わってくる。それならなぜ人々はここへ集まってヨハネの話を聞いているのかとなると、どうやらヨハネの洗礼を受ければ罪が洗い浄められると、それだけを求めての他力本願的な自己愛信仰で集まっているようだ。
「なぜ今悔い改めなければならないのかと申しますと、もう一度繰り返しますが、それは天の国が近づいたからです」
イェースズは目を細めた。イェースズにとっては実感を持って響くその言葉だが、なぜこの又従兄弟はそれを知っているのかと不思議だった。現界的には天の時は千年も二千年も先かもしれないが、神界の幾億万年の大仕組みの中では二千年先など「間近」といえる。
「だから、いったい何をどうしろとあんたは言うのかね」
ヨハネのすぐそばで叫びを上げた男からは、敵対の波動が伝わってきた。信徒に混じった反対派が論戦を挑みに来たのだろう。ヨハネもすぐに、
「あんたはサドカイ人だな」
と急に口調を変えて言った。
「そうだとも。神と契約を交わしたアブラハムの子孫の祭司だ」
ヨハネはそれを聞いてひとしきり笑い、
「馬鹿者!」
と一喝した。群衆は、波を打ったように静まり返った。
「何がアブラハムの子孫だ。おまえのようなのは、蝮の子孫だ。祭司であるというだけで、神の怒りから逃れられると思ったら大間違いだ。わが父も祭司だったから、本当だったら私だって祭司になっていてもおかしくないが、私はそのような道は捨てた。アブラハムの子孫だというが、神様の業は石ころからでもアブラハムの子孫を造り出せる」
それからヨハネはまた群集に向かって、穏やかな口調で語り続けた。
「いいですか、皆さん。下着を二枚持っているものは、持たない人に与えてあげて下さい。食物だってそうです。ただ愛の心で与えられているものを与えていけばいいのです。収税人は、決められている以上を取り立てなければいい。兵士は人を脅したりしなければ、それでいいのです」
しばらく群衆の沈黙は続いたが、やがてそれを破るかのように、
「あなたこそメシアだ。私たちが待ち焦がれていた救世主だ!」
という声が上がった。
「そうだ、そうだ!」
人々の歓声がどっと上がり、収拾もつかなくなってしまった。
「ちょっと待って下さい!」
ヨハネは両腕を上げ、あらん限りの声を張り上げたが、騒ぎを収めるのに時間がかかった。
「もしあなた方が、イスラエルの民を救うメシアだと私を考えているのなら、それは違う。私は今までひと言も、自分がメシアだとは言っていない」
「でもあなたは、こうして私たちを水で罪から浄めて下さる」
ヨハネは目を伏せた。
「確かに今、私はこうして仮に水で洗礼を授けていますが、天の時が来れば火と聖霊によって洗礼を授ける方が来られるのです」
「いつですか、それは?」
「それは、分かりません。今すぐかもしれないし、二千年先かもしれません。しかし、いずれにせよ私は、その方のくつひもを解く値打ちもない」
「ではあなたは、いったいどのようなお方なんですか?」
「イザヤの書には『ある声が叫ぶ。荒地に主の道を整えて、私たちの神のために荒れ野の道を均せ』とあります。またマラキの書には『見よ、私はあなたたちに使いを送る。彼は、私の前に道の妨げを除く者である』とも書かれています」
「では、あなたがその使いなのですか?」
人々がざわめく中、イェースズは呆然とヨハネを見つめていた。そして、これは本物だと思っていた。本物のヨハネであるし、また神の道を伝えるものとしても本物なのだ。
やがてヨハネは台から降りて、川の方へと動いた。人々の群れもそれについて動き出す。川の中での、ヨハネの洗礼の儀式が始まるようだ。群集もいつの間にか行列となった。その行列の中から抜けて帰っていくものも多い。それらは服装からパリサイ人やサドカイ人だとすぐに分かった。偵察に来ていたようだ。かといって並んでいる連中は熱心な信者かというと、先ほどのヨハネの話などどうでもいいようで、ただ罪から解放される洗礼を受けたい一心で並んでいる。ヨハネのもとには熱心な信者がかなりいると聞いてきたが、その数はこうして毎日洗礼を受ける人々の数からすれば少なすぎる。多くは洗礼を受けました、罪が消えました、ありがたい、はいさようならの手合いなのだろう。洗礼を受けてヨハネの信徒として定着する人は、かなり少ないようだ。
イェースズもその行列に加わって並んでいたが、イェースズまで順番が回ってくるまでかなりの時間がかかりそうだった。川の岸は緑豊かな林が続いている。そんな中を行列は、川に向かってゆっくりと進んでいった。イェースズの前は彼より少し年上の男たちのグループ、後ろはおばさんが二人と女の子だ。女性までもがこうして男と同じ列に並べるというのもまた、民衆の心を捉えているのかもしれない。伝統的な会堂や神殿でも、男女はことごとく別けられるからだ。
皆、思い思いにざわめいて、口々に勝手なことを言っている。イェースズはそれを聞きとがめるでもなく、微笑みながら行列の前進とともにゆっくり進んでいた。
だいぶ時間がたってから、ようやく川が見えてきた。腰まで水に浸かった皮衣のヨハネが、同じように水に浸かっている髪の長い女の頭に貝の殻で水をすくってかけながら、口では何か唱えていた。その左手には背丈以上の長い杖が握られている。髪が長く髭も伸び放題の形相は、今のイェースズと全く変わらない。ただ自分より少し無骨な所があるなと、イェースズは幼少時代の記憶の中のヨハネと重ねて感慨深く眺めていた。
その女はすぐにすんで岸に上がると、次は頭のはげた男だった。何かしきりにヨハネと問答したあと、合掌して同じように頭にヨハネから水を注いでもらっていた。こうして次々に人が入れ替わり、そのたびに確実に行列は前に進んで、すでにイエスまであと四、五人となった。ヨハネは自分が洗礼を授けることに集中しており、順番を待つ行列など見てもいないから、イェースズに気付くはずもない。
一人進み、また一人進み、ようやくイェースズも水の中に入った。水は冷たかった。必ずしも透明とはいえない。イェースズの前に並んでいた男が、今は洗礼を受けている。その時間が実際以上にかなり長く感じられ、やっとその男も岸の方へと水をかき分けて歩きだした。
いよいよ、イェースズの番だ。
皮衣の洗者とイェースズは、川の水の中で向かい合って立った。だが、なぜか洗者は次の行動を起こさない。その目はじっとイェースズを見つめ、そして潤んでさえきた。イェースズとて同様で、二人はしばらく無言のまま見詰め合っていた。次の順番を待っている列の方から不審さを感じてのざわめきが聞こえてきたが、二人ともお構いなしだった。
「イェースズか」
やっとヨハネのほうから、口を開いた。
「ああ。よく分かったな」
「幼い頃、ともに過ごしたあのイェースズだろう。遠い異国へ行ったと聞いたが」
「ああ、つい最近帰ってきたんだ。それからまた、エジプトへ行っていた」
「エジプト?」
もうヨハネは、イェースズのエジプトでの出来事のすべてをサトったようだ。また少し時間が経過してから、今度はイェースズの方から、
「さあ、洗礼を授けてくれ」
と、言って微笑んだ。驚いたような表情で、ヨハネは眼を見開いた。
「何を言うんだ。君は僕から洗礼など受ける必要などないじゃあないか」
「なぜ、そう言えるのかい?」
二人の耳には、
「早くしてくれえ」
などという背後の人々の叫びなど耳に入らなかった。ヨハネはもう一度、イェースズの顔をじっと見た。
「君はもう、普通の人ではない。その笑顔は、もう僕から洗礼を受ける必要のない顔だ」
「なぜ、分かる?」
「目がそう言っている。こんな浄い目は見たことがない。それに、全身から光がさしている。僕は、君の足元にも及ばない。何と言うか、神様がここに現れたようだ」
「馬鹿を言ってもらっては困る。早く洗礼を受けさせて頂きたい」
どこまでも自分が下座して、洗礼を受けさせて頂こうというイェースズの態度だった。
「僕の方こそ君から洗礼を受けなければならない立場だ」
「いや、僕が受けさせて頂く。頼む」
「僕の洗礼は、罪から魂を洗うものだ。しかし今の君には、何の罪も認められない」
「それは違う。罪のない人間なんていない。大いなる輪廻転生の過程で、前世、前々世での罪穢というものを皆背負い込んで生きているのだ。私とて例外ではない」
ここでは、輪廻転生の話は同じエッセネの仲間内にしか通じない。だが、ヨハネはもともとエッセネの仲間だから理解したようだ。
「だから、洗礼を授けてほしい。別に自分が罪から逃れたいというようなことではないんだ。君は悔い改めを説いていたけど、それこそ僕が今全人類に説きたいことなんだ。君の洗礼を受けるということは悔い改めることだし、人々にせよと言う以上、まず自分が率先してやらなければな。だから悔い改めの証として、君の洗礼が受けたいんだ。そして、君の教団に入る。これはエジプトで受けた指示だ」
エッセネの指示と会っては、ヨハネはもう反論できない。今はエッセネから分派独立して活動している形のヨハネだが、実はすべてエッセネ教団公認のもとその傘下にあるというのが現状だからだ。そのことはイェースズもよく理解していた。
「分かった。では洗礼を授けさせて頂く」
イェースズは合掌し、目を閉じた。そしてヨハネに言われるままにひざを曲げて頭まで川の水に浸かり、そっと水面から再び頭を出した。その頭にヨハネは、貝で水をすくってかけた。
「これで君の洗礼は終わった。あとでみんなに紹介するから、とりあえず岸に上がっていてくれ」
「ありがとう」
イェースズは微笑んだ。その瞬間、ヨハネも、後ろで並んでいた人々も、すべてが雷で打たれたような衝撃を感じた。当のイェースズは鳩のような形をした光の塊が、自分にぶつかってくるのを感じていた。そしてそのまま光の柱はタテの炎となって、横に流れる水の上に突き刺さり、火と水はタテヨコ十字に組まれた。その中に、声があった。
――イスズよ。わが愛する子よ。霊の元つ国で汝に会いし、父神なり。
久々の神示である。
――今、わが名を初めて、汝に明かなに申さん。我は国万造主大神。神の名を知るものは、奇跡をなすに至らん。そして国常立大神にも変化致し、枝国にては弥栄とも申さしめしなり。ゆえに神の名を唱うるを、十戒にてもキツク戒めたり。汝、我が心にかないしものよ。往け!
次の瞬間、川はもとの静けさを取り戻していた。
イェースズはヨハネに言われた通りに、岸へと上がった。
ヨハネ教団の本拠地は、そこから程近い岩山のほとりだった。ガリラヤは緑豊かな牧草地に覆われているが、時にはこのような岩がむき出しの山もある。そんな岩山のふもとに石造りの小屋があって、そこに四十人ばかりの人がいた。だが、小屋にいるのはどうも幹部らしき数人だけのようで、多くの人々は岩山の上の方の洞窟に分散して住んでいる。あの、毎日ヨハネの洗礼に押し寄せる人々のおびただしい数から考えると、どうにもここはひっそりしていた。
「風当たりは強いよ」
と、小屋の中でヨハネは苦笑しながらイェースズに言った。イェースズは今日ヨハネとヨルダン川で再会して初めてこの小屋に来たのだが、二人は二十年近くの空白などとうに埋めてしまっている。
「君も見ただろう。サドカイ人やパリサイ人もちょくちょく偵察に来る。ひどい時は、ヘロデ王の配下の兵までが見に来る始末だ。ただ、今のところローマ兵の姿はない。ローマだけは気をつけた方がいい。気をつけなければならないのはローマそれ自体よりも、ローマに反旗を翻してやろうなんて考えている血の気の多い連中のほうだったりするけどな」
ヨハネはひとしきり笑っていたが、イェースズはそこに深い示唆がこめられているのを感じていた。
「ところで、ここでみんなと生活するためには、洞窟にこもって四十日間修行してもらうことになっているんだ。エジプトであのピラミッドに籠もったであろう君には必要のない行なんだということは分かっているけど、ほかの幹部の手前もあるんでね」
ヨハネは、ばつが悪そうに頭をかいていた。
「それだったら、問題ない。何でもさせて頂くさ」
イェースズはにっこりと笑った。確かにイェースズにとって、十年以上もの永きにわたる旅の生活から考えれば、四十日などあっという間だ。
「ほかの連中も、みんなやったもんでね。すまないな。四十日というのは、モーセが四十年荒野をさまよったのを追体験してもらうんだが」
「分かっているさ。何も君が考えたことではあるまい。エッセ年にも同じ入門儀式があったしな」
「君には何もかも見透かされている」
ヨハネはまたひとしきり笑った。
翌朝から早速、洞窟での行が始まった。行といっても何もすることはないので、ひたすら禅定を組んだ。エッセネの人々は禅定を組む習慣はなく、瞑想をするにも普通は歩き回りながらする。イェースズは静に目を半開きに閉じ、霊の元つ国から今日までのことをもう一度反芻した。
――自分はまだまだ『我』が強い。私とて肉体の中にいる。では、どうすればいいのか……。
イェースズは、そんな自問を投げかけた。
――肉体に入ってしまえばどんな魂でも五官に振り回され、盲目になってしまう。私とて例外ではない。
そこで、大きく息を吸った。
――その五官に打ち勝って人を救っていくものにならねばならない。
禅定の思考はそのようなものだが、修行というのはそんな禅定ではなく、本当は断食の行なのである。全く四十日間何も食べなかったら死んでしまうので、一日に一食だけの食事は提供される。それもイナゴ豆とヤシの蜜だけだった。空腹を感じないといえばうそになるし、食事をしないことによって霊力が落ち、その分邪霊に操られやすくなるわけであるが、それでもイェースズはス直に断食の行に励んでいた。そうして、四十日もそろそろ終わろうとしているある夜のことであった。イェースズが寝ずに瞑想をしていると、一陣の寒風が吹いた。それと同時に、目の前に大いなる光の塊が出現するのを彼は見た。だが心はざわめき、胸が鼓動を打つ。いつもの高次元の存在との邂逅の時のようなような心の安らぎが感じられない。しかも風とともに、ちょっとした異臭さえ漂ってきた。
心の中に、声が響いた。
――イェースズよ。いったい何をしているのか。
「瞑想をしております」
――ばか者! そのような行為は邪霊に憑かられやすいから、禁じておいたはずだぞ。
心に響く声は、ただ居丈高に厳しく迫ってくる。
「あなたは、どなたです?」
「どなた」なのかイェースズにはほぼ分かっていたが、あえて聞いてみた。
――何度会えば分かる? 汝の父神ではないか。
出現する時に、我神なり、観音なり、天の父なりと名乗って出てくるのは、邪神・邪霊の常套手段だ。もしそれが本当なら、状況はかなり違うからよく浄まった霊眼にはすぐに分かる。
――さあ、いつまでもつまらない修行などしていないで、パンで空腹を満たしなさい。ゴータマ・ブッダが難行苦行ではサトれず、一人の娘の牛乳でサトったことを忘れたのか。
その理屈は巧妙だ。
――汝は神がアブラハムを試して、その子を殺させようとした時の状況と同じだ。我が子ならぬ自分のみに、汝は手をかけようとしている。だから私は、その手を止めに来たのだ。
論旨が支離滅裂である。イェースズはその光源を見つめた。風は依然として激しく吹いている。その光の塊の周囲には、締め付けるような暗黒の塊があった。
「神は、いわれもなく人を試したりはなさらない」
光体が動揺したかのように揺れたが、また威圧的な口調の声がイェースズの胸の中に響いた。
――何を言うか! わしは神だ! 神の言うことが信じられぬのかッ!
「パンで空腹を満たせと言われても、ここにはパンはない」
――もし汝が神の子なら、そこの石をパンに変えよ。そうすれば、汝を信じよう。
この仮定法による会話は、まさしく邪神の特徴である。
「聖書には、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのもので生きる』と書いている。あなたが私を信じようと信じまいと、どうでもよい。しかし私は神を信じている。いや、知っている。ここで石がパンに変わったら神を信じるというのは、本当の信仰ではない。たとえ石をパンに変えることができたとしても、私はそれをしない。自分だけがここでパンで満たされたとて、それが何になるというのだ」
――では、もし汝が神の子なら、この洞窟の入り口から岩山の下まで飛び降りてみよ。聖書にも、『主があなたのために天使たちに命じ、あなたの道を守られたのだから、あなたが石につまずかぬよう、彼らがあなたを手で支える』と書いているぞ。
「そんなに奇跡が見たいのか?」
――人々は神などを求めてはいない、ただ奇跡を求めているのだ。奇跡を見れば、神を信じよう。
「聖書には、『マッサで試みた通り、あなたたちの神である主を試みるな』とも書いてある。奇跡を見ないと信じられない人間の弱さは、もちろん神もご存知だ。だから方便として、奇跡も見せられる。だが、奇跡のみを求める御利益信仰者は、おまえのような邪霊に操られてたいへんなことになる」
――おまえのような邪霊だと? わしは神だ。
もうとっくに正体はばれているのに、まだそのようなことを言うなど論理が破壊されているのも邪霊の特徴だ。すると、突然光の塊の上に、表象が見えだした。その空中映像にはエルサレムの町の繁栄が映し出されている。――その目を見開いて、このエルサレムの繁栄を見よ。わしを拝め。わしを拝めば、このすべての栄華を汝に与えよう。
「シェマー!」
という激しい声が、イェースズから発せられた。「聞け!」という意味のヘブライ語だ。この言葉から発せられる聖句は、イスラエルの民がその宗派を問わずに朝な夕なに必ず唱える句だ。
「聞け! イスラエル。主は我われの神、主は唯一のものである。あなたの神である主を、心を尽くし、魂を尽くし、全力を尽くして愛せよ」
これも聖書の一節である。ちょうどエッセネでもよく問答をする時、聖書の聖句を引用し合ってその知識を競うことがあるが、まさしくイェースズは邪霊への問答を、ほとんど聖書からの引用で行った。そして、さらに続けた。
「この栄華が私のものになるかならないかなど、どうでもよい。すべては、神に委ねている」
――そのような考えが、神のみ意にかなっているとうぬぼれているのだな。
「神のみ意にかなっているかどうかは分からないが、しかし私はすべてを神に委ねているし、神を信頼している。私はもう、五官による肉体的欲望はすべて捨て去ったのだ」
次の瞬間、光体の光が薄れて、中に人影がうっすらと見えた。しかしそれは実際は人ではなく、異形の化け物でしかなかった。
「奇跡が起こせるかどうかで、神の子かどうかが決まるわけではない。自分がいかに神から愛されているか、その自覚が大事なのだよ」
――俺は、神から愛されてなどおらぬ。地獄の底で、いつも苦しんでいる。神から見捨てられたのさ。
「私が神の子なら、あなたも神の子だ。すべての人は神の子だからね。あなたもかつては肉体を持った人間として、この世に存在していたでしょう?」
――ふん、忘れたね。俺が神の子だって? 笑わせるんじゃねえ。俺は神を憎んでいるし、神も俺を嫌っているさ。俺はいつか、神の座を奪ってやるんだ。それなのに、おまえが出てくると邪魔なんだよ。
「その恨みや嫉妬心が、今のあなたの姿を作っているのですね。どの世界に行っても、あなたがもともとは神の子であることに変わりはない。神様もあなたを救いたいんだ。それなのにあなたの方で、勝手にその救いを拒絶している。あなたが救われるかどうかは、あなたの心一つなんだがね。本来は光の天使として肉体を持って地上に降りたあなたが、いかにして自ら神様から遠ざかり、離れていったかを反省するんだ。そして、どんなに醜い心や姿になっても、神様の愛によって生かされ、存在を許されているということに感謝するんだ」
――馬鹿なことを言ってんじゃねえ! 俺様は地獄でも、一番偉いんだ。何を好きこのんで敵の大将の神なんかに頭を下げなきゃなんねえんだ!
言葉で言っても無駄である。だがイェースズは、何としても目の前の邪霊を救いたかった。今は邪霊でも、本来は神の子なのである。イェースズは自分の霊体を満たす霊流の圧力を上げた。肉眼ではそこは闇のままだが、明らかにあたりの暗黒の闇は消え、イェースズのオーラが放つ霊光を受けて輝き始めている。邪霊は一歩、二歩と後ずさりする。
「この光は、天国の光です。神様の愛の光です。これを受けて、あなたも悔い改めてください。神様の大愛は、必ず許して下さいます」
――うるせえ!
邪霊はまだ何かを、苦し紛れに言おうとしていた。しかし、議論からは何も生まれない。神理は理論理屈の世界ではないし、理屈に関しては邪霊の方が一枚も二枚も役者が上だ。
問答無用、とイェースズは思った。この邪霊を救いにはこれしかないと、イェースズは邪霊に向かって手のひらを向けた。そこから霊流が束となって、邪霊に放射された。それを受けた邪霊は改心するどころか、苦しみもだえはじめた。まるでナメクジに塩をかけたように縮こまった邪霊は、
――覚えてろ! もしおまえが神の子ならという問いかけで、一生おまえに付きまとってやる。
それだけ言い残して、邪霊はイェースズから離れた。イェースズは声高く、言い放った。
「悪よ、去れ!」
決して目の前にいた邪霊を悪と言ったのではなく、邪霊が持ちかけてきたさまざまな物質的欲望のことを言ったのである。そして、今夜の邪霊の誘惑と試練は今までの人生の中で自分が受けてきたさまざまな神試し、神鍛えの総集編のような気がしてならなかった。たとえどんな高級神霊をみ魂に持っていようと、この世に肉身をもって生まれてきた以上すべてが分からなくなり、物質的快楽と欲望の誘惑の中にさらされることになるのだ。使命は、それを乗り越えてはじめて達成できる。そして今イェースズは「悪よ、去れ」のひと言で、それらに打ち勝ったことを高らかに宣言したのであった。その宣言によって、一切の物主欲を拭い去り、霊主に生きることを確認したのである。
そこには再び夜の闇に包まれた洞窟があった。イェースズはくたびれたので、その場に倒れ伏してそのまま眠ってしまった。
イェースズはヨハネ教団の本拠地の小屋に戻った。そして出されたパンをほおばると、まる一日死んだように眠った。
もう確実に冬が到来している。ローマの暦では、新しい年も明けたであろう。イェースズはすでに二十代も後半になったことになる。
ひとしきり眠ってから、彼は起き上がった。ここはヨハネの住む小屋で、自分が寝ていたのはヨハネのベッドらしい。ベッドといっても木の枠にわらを詰め込んだだけだが、仮にも師のベッドである。そこに寝てしまった後ろめたさに、イェースズは勢いよく飛び起きた。
部屋の中には、誰もいなかった。外は明るい。今は昼間のようだ。
イェースズは外へ出た。昼の日ざしが一気に顔にぶつかり、思わず彼は目を細めた。
緑の麦畑が広がる中の岩山のふもとの小屋で、程近いところにヨルダン川沿いの林が横たわる。小屋のすぐそばに、ヨハネはいた。自分の若い弟子二人と何やら立ち話をしている。だがこみいった話ではなく談笑という感じだったので、イェースズはそのそばに近づいていみた。ヨハネは、笑顔のままイェースズを見た。岩山での修行の後で正体もなく眠ってしまった自分がばつが悪く、イェースズも照れ隠しの笑いを浮かべながら、三人の方へ歩み寄った。
「ほら、見てごらん」
ヨハネは二人の弟子に、笑ったままイェースズを示した。
「神の子羊が来たよ」
イェースズは、歩みを止めた。
「何ですか? その、神の子羊って言うのは」
イェースズも笑っていた。イェースズはいくら又従兄弟ではあっても今は自分の師へ言葉を正した。会話はアラム語で、アラム語には別に敬語はないが、心の中では霊の元つ国の言葉のような敬語を使っていたのだ。
「いや、何となく、そんな言葉が頭に浮かんだのでね」
そう言ってからヨハネは、二人の弟子にイェースズを示した。
「今度、四十日の修行を終えたイェースズだ」
「はじめまして。イェースズです」
その口調に少しおどけた様子があったので、二人の弟子も明るく声を上げて笑った。
「私はベツサイダのピリポといいます」
「私はカペナウムのアンドレ」
「え?」
イェースズは、思わず叫びをあげた。
「私もカペナウムですが」
「本当ですか?」
アンドレと名乗った男も、驚きの声を上げた。
「今までカペナウムで、何をなさっていたんですか?」
早速質問が、イェースズに飛ぶ。
「父は大工でしたが、もうなくなりました。大工は弟が継いでいます」
「大工? 失礼ですが、お父さんのお名前は?」
「ヨセフです」
「ああ、あのヨセフ。よく知ってますよ」
「本当ですか?」
このアンドレももとはエッセネのナザレ人なのだと、イェースズにはすぐに分かった。そうでなければ、カペナウムのヨセフといってよく知っていると、近所の人でもない限りは言う訳がない。
「でも、ヨセフの息子さんってヨシェとか」
「ヨシェは弟です」
「確かにそっくりだ。それにしても、ヨシェにお兄さんがいたとは初耳だ」
「ちょっと国を離れていましてね」
「エジプトへでも行っていたのですか?」
「はい、エジプトにも行っていましたけれど、その前はもっともっと遠い国へ行っていたのです」
イェースズはひとしきり笑った。
その日から、イェースズのヨハネ教団での生活が始まった。
午前中はヨハネが洗礼を求めて集まってきた人々に説教をし、弟子たちもみなその群衆の中に入って毎日ヨハネの説教を聞いた。午後は洗礼の儀式が始まるので、その人員整理に大わらわだった。修行といえばヨハネの説教を聴くことと、夜にそれを回想して互いに話し合うことだけだった。ここでは、あまり瞑想をする人はいない。
ここにいるのは五十人くらいで、若い人が圧倒的に多い。だが、毎日あんなにおびただしい数の群衆がヨハネからバプテスマを受けるのに、その数は一向に増えなかった。聞くと少しは入門希望者も残るが、イェースズと同じ四十日間の修行でたいていは脱落し、五人に一人が岩山から帰ってくればいい方なのだという。ここでは小屋に住んでいるのはヨハネだけではなく、幹部クラスの人たちは皆、一軒の小さな小屋が与えられているようで、それは広い範囲に分布して点在していた。
そうして月日を過ごしているうちに。イェースズはどうもこの教団の中で特別待遇を受けているというような気がしてならなかった。彼としては、ほかの弟子たちと同じように振舞っているつもりである。それでも、弟子たちの自分に対する態度が違うのだ。待遇もヨハネの新米弟子というより、明らかに幹部の一員として扱われて、小屋も一軒与えられた。いた。しかしことは簡単で、イェースズがヨハネの又従兄弟であることは、誰もが知っている。しかもイェースズがヨハネから洗礼を受けた直後にイェースズに御神示が下ったとき、ヨハネの目には鳩の形をした炎が空から下ってきてイェースズの頭上で輝いているように見えたようで、それを弟子たちにもう言いふらしているのだ。
だがイェースズは何も気にせず普通に生活することにしていた。それよりもイェースズは、五十人ほどいる弟子のずべては無理だとしても、めぼしい幹部の名前と顔を一致させたかった。最初に名乗りあったアンドレとピリポのほかに、自分の弟と同じ名前のヤコブの名もすぐに覚えた。彼らもまたガリラヤ人である。アンドレは少しイェースズよりも年長のようだが、みなほぼ同世代だった。ヤコブの父はゼベダイというガリラヤ湖の漁師の総元締めのような人で、ガリラヤ湖で採れた魚のエルサレムへの運搬と販売をすべて請け負っており、今はエルサレムに近いベタニヤにいるという。この漁師であり豪商でもあるゼベダイが、息子たちの縁でヨハネ教団の経済的支援者になっているようだ。そうして気がついてみると、五十人ほどの弟子たちもほとんどがガリラヤ人であった。ここがガリラヤなのだから当然といえば当然だが、それだけにイェースズが溶け込むのは簡単だった。
そんなある日、バプテスマを終えて幹部たちが自分たちの小屋へと帰途についていた時である。
「イェースズ」
と、後ろから声をかけられた。呼んだのはアンドレで、そしてピリポやヤコブもいた。
「今日、あなたの小屋をお邪魔してもいいですか」
イェースズはにっこり笑った。
「かまいませんが、何か用でもおありですか?」
「いえ、別に用はないのですけど」
「そうですか。どうぞ、いらっしゃってください」
と、イェースズは明るく笑って言った。
「では、後ほどうかがいます」
そう言ってアンドレたちは、一度は自分たちの小屋へ帰った。
しばらくしてやってきたのは、アンドレたちのほかにもう一人別の人を連れてであった。
「弟です。昨日たまたまカペナウムから来ましてね、イェースズの話をしたらぜひ会ってみたいと」
「シモンと申します」
いかにも漁師らしい、無骨な男だった。だがその顔を見たとたん、イェースズの記憶の中であるシーンが蘇った。それは故郷を離れて幾星霜、ようやく故国の地に帰り着いた時、カペナウムをまでガリラヤ湖を漁師の小舟で送ってもらったものだった。
「そうだ、あなただ。私をカペナウムまで漁船で送ってくださった漁師の方は」
「そういえばなんか、そんなことがありましたっけねえ」
シモンの記憶の方はあやふやだった。もう数ヶ月も前の話だ。
「いやあ、やはりすごい方ですな。たったほんのちょっと舟にお乗せしただけで、私のことを覚えておいてくださっただなんて」
シモンは、しばらくヨハネ教団の中に留まるとのことだった。
こうして、次々に紹介されて、イェースズの交際の輪は広がっていった。次の日は、やはり同じころににピリポが、同じガリラヤの友人だといって別の弟子を連れてきた。その顔を見るなり、イェースズは笑って言った。
「また、すごい方を連れてきてくれましたね」
なぜ初対面ですごいなどと分かるのかといぶかる想念波動が、イェースズに伝わってくる。
「あなたは、聖書をだれよりもよく読んで、その研究に没頭していますね」
「え? なんでそんなところまで? 確かにこのお方は、ピリポが言うようにすごいお方だ。あ、申し遅れました。私はトロマイの子で、ナタナエルと申します」
そして同時に、ヤコブは自分の弟のエレアザルを連れてきていた。そんな人々がイェースズの狭い小屋の中でひしめき合った。
「あなたこそ、救世主だ」
と、唐突にシモンが言った。
イェースズは声を上げて笑ってから、シモンの顔を見た。
「どうでもいいですが、そのユニークな顔はなんとかしてくださいよ」
「これだけは持って生まれたものですし、なんせ漁師ですから」
いわれたシモンも、怒るでもなく笑っていた。
「あなたもなかなか頑固そうですね。まるで岩のような顔ですよ。思わず、ペテロと呼びたくなるね」
「何ですか? そのペテロって」
「ギリシャ語で岩のことですよ」
一同、大笑いだった。
「本当は、岩のような硬い信仰心を持ってもらいたいと思いましてね。あなたは漁師だということですが、これからは魚ではなく人間を獲る漁師にしてあげましょう」
「人間を獲る漁師?」
しばらくしてから、ペテロと名づけれられたシモンは、
「師」
とイェースズに向かって叫んだ。イェースズは、それは手で制した。
「ここで師というのは、ヨハネだけです。私もそのヨハネの弟子なんですから、きちんとけじめをつけなくてはなりませんよ」
「はい」
シモン・ペテロは静にうなずいた。
「分かりました。でも、私はあなたについていきたい」
「ついてきて、どうするのです?」
「救われたいからです。いえ、自分がではなくて、この国を救うためです」
あまり学問のなさそうな様子の漁師のペテロだが、その言葉には力が入っていた。
「では聞きますが、どういう状況になったら救われたといえるんですか?」
「それはもちろん」
そこへ、ヤコブが口をはさんだ。
「このローマの圧政から、イスラエルの民が解放される時です。そのための支配者こそがメシアではないですか」
イェースズは苦笑しながら、もう一度自分がペテロと名づけた男を見た。
「私についてくるって言いましたけれど、ついてくるって言うのは、一切の欲望も、自分さえも捨てるということなんですよ」
顔も笑顔だし、口調も優しかったが、いつしかイェースズの目は厳しい眼光を放っていた。
「私はすべての人を救いたい。でもですね、私は救われたいっていう人の手を引いたりおんぶしたりして、救いの道に入れて差し上げることはできませんよ」
誰もが言葉を忘れて、イェースズに見入った。
「そういう意味では、ヨハネ師よりも私の方が厳しいかもしれませんね。それに、私の言う救いというのはローマがどうのこうの、イスラエルの民がどうのこうのというような物質的なものではなくて、もっと全人類的な、もっと霊的なものなんです。地上の王なんて、私は興味はありませんから」
「おっしゃることがよく分かりません」
はじめてヤコブが、口を挟んだ。
「全人類って、イスラエルの民とローマ人を合わせてということですか?」
それを聞いて、イェースズは思わず失笑してしまった。
「あなたがそう思うのも無理はありませんが、全世界には何億という民がいるんです。イスラエルの民もローマ人も、その中の一つに過ぎないんですよ。世界には肌の黒い人、黄色い人とか、それこそいろんな民がいます。私はそれらをこの目で見てきましたからね、間違いないんです」
「黒い肌?」
エジプトにさえ行ったことがない彼らが、驚くのも無理はないとイェースズは思った。自分でさえ、初めて肌の黒い人々を見た時は度肝を抜かれたものだった。
「あなたはやっぱり素晴らしい。あなたについていきたい」
そう言ったペテロを、ヤコブはまだ押しのけていた。
「霊的な救いって、何でしょうか。あなたについて行けば、そのイスラエルの独立よりも素晴らしい霊的な救いというのに行き着けるんですか?」
「その、私について行けば、というのが曲者なんですよ。着いていくというのを、ただ崇拝して崇め奉って、その前でひれ伏すことだと思ったら大間違いですよ。ただ、いっしょにいて行動を共にすることが、着いていくということとも違います」
「では、どうすればいいんですか?」
一途な岩のペテロの目が、ますます一途になっていた。
「いいですか? 『私を崇めなさい。そうすれば救われる』なんていう師がいたら、それは偽者だと思った方がいいですね。救われの道って、そんなに甘くないんです。この人にただ着いていけば救われる、おんぶに抱っこで救いの道に入れてもらえる、そんな心はすぐに悪魔に隙を与えます。本物のメシアは、人々に魂の覚醒を促すんです。だって、自分を救えるのは、自分しかないんですよ」
一同、波を打ったように静まり返った。
「ヨハネ師をご覧なさい。決して自分に着いてくれば救われるなんておっしゃらない。いいですか。魂の覚醒を促すというのは、普遍なる神の置き手の法、神理のミチを人々に教えるために、神様から使わされる方です。ですから、甘くはないんです。甘チョロじゃないんです。厳しいんですよ。なぜならその教えを聞いても、生活の中で実践するかしないかはその本人にかかっているんです。神様は人間に自由を与えておいでです。ですから、教えを聞いて実践しないのも自由だけど、その結果としてその人が地獄に落ちるのもその人が自分で自由に選んだということになるんです。それは神様が悪いのでも導く人が悪いのでもなく、その人自身の責任です。地獄へ落ちるのは裁かれて落ちるんじゃない。自分で地獄を選ぶんです」
しばらく沈黙があった。どうも、皆よく分かっていないようで、この人は何を言っているんだろうという波動が伝わってくる。やがて、ペテロが顔を上げた。
「じゃあ、メシアに着いていってはいけないんですか?」
「いや、そういうことではありませんよ」
イェースズはあくまで笑顔を絶やさず、口調も穏やかだ。
「私がいけないと言ったのは、メシアを人物信仰で祀り上げて、崇拝の対称にしてしまうことなんです。本当のメシアなら救われる法則を説いてくれるはずですから、皆さん一人一人がそれを実生活の中で実践するんです、それが救われのミチなんです。メシアを拝んでも、救われるというものではないんですよ、救われのミチは自分の足で歩いて、自分から入っていかないといけないんです。地獄が裁かれていくところじゃなくて、自分で選んでいくものだといいましたけれどね、天国も同じです。誰かに救われて連れて行ってもらうところじゃなくて、自分の自由な意志で選んで、自分の足で入っていかないといけないんです。メシアは、その案内人にすぎないんですよ」
「分かりました」
と、ペテロがうなずいた。だが本当に分かっているのかどうか怪しいものだとイェースズには思われたが、すべては段々であるとイェースズは自分に言い聞かせていた。
雨季も終わり、春が近づいてきた。だが春は短く、すぐに夏が来る。
この頃になると、ヨハネはイェースズにもともにヨルダン川での洗礼をさせていた。二人が並んで人々に洗礼を授けるので、今までは一列だった行列も、今では二列になっていた。ヨハネといっしょに洗礼を授けることが許された弟子は、幹部といえども一人もいない。そこで、イェースズがこの教団のナンバーツーになっていることは、誰もが暗黙のうちに認めるところだった。
イェースズの授ける洗礼は独自のものではなく、ヨハネがしている水の洗礼をそのまま踏襲しただけのものだった。ただ違うのは、受洗者に水をかける短い瞬間に、額に手をかざして高次元の霊流を与えていたことだ。その時イェースズは、その相手を愛しきっていた。すべての人が愛しても愛し尽くせない天の親神様の被造物で、いわばすべての人が神の子なのである。親神様を愛するあまりに、その子まで愛するのは当然のことだった。ここに来た人すべてが救われてほしいとイェースズは心から願い、愛と慈しみの心で、一人一人の幸せを願ってその眉間に手をかざしたのであった。
ヨハネの列に並ぶかイェースズの列に並ぶかは、人々は偶然自分が並んだ方に並んだのだと思っている。しかし、実際はその人の魂の状態、前世の因縁などによって神様にふるい分けられているということをイェースズは感じていた。それにしても相変わらず毎日おびただしい数の人が押し寄せるが、ヨハネの弟子としてここに残る人がほんの一握りであることも相変わらずだった。ヨハネは今でも洗礼の前に説教をするが、たいていの人は聞いていない。皆、早く罪の許しが得たくてむずむずしている。確かにエルサレムの神殿で贖罪の子羊をいけにえにして罪の許しを得るときは、その前に説教など聞く必要はない。だから、人々は慣れていないのだ。それでもイェースズは毎日押し寄せる人々の群れを見て、こんなにも多くの人が救いを求めているのだと痛感していた。早くなんとか救わせて頂きたいと思うと、もうじっとしていられなくなる。
そんなある日、ヨハネがイェースズに説教を代行するように言った。それも、
「今日は、君がやってくれ」
という簡単なひと言でだった。ヨハネは疲れているというのをイェースズは感じていたし、師の言葉に逆らうようなイェースズではない。
「分かりました。有り難うございます。させて頂きます」
イェースズは微笑んでそう答えたが、イェースズにとってこの簡単なやり取りに、霊的にはものすごい意味が含まれている気がしてならなかった。
イェースズがナンバーツーであることはほかの弟子たちも暗黙のうちに認めているので、イェースズが説教台に立っても誰も不思議には思わないはずだ。最初はただイェースズがヨハネの又従弟だからだという理由しか考えていなかった人々も、イェースズの人格に打たれるようになってきていた。イェースズが来ただけで太陽が昇ったように雰囲気が明るくなり、またそばにいると実際熱く感じられたりもする。そのいつも絶やされることのない笑顔と、口にする神の教えの魅力から、イェースズのナンバーツーという立場にはもっと奥深いものがあると誰もが感じ始めていた。
時が来て、イェースズは説教台の上に立った。群衆はどよめいた。説教はヨハネがするものと思っていたからだ。イェースズとともに、ペテロもいた。
「今日は皆さん、この方がお話されます。師の代理の方です」
それだけ言うと、ペテロは下がった。イェースズは、群衆の前にたった。人々はものめずらしさも手伝って、静まり返っていた。故国に戻ってから、こんなにも多くの人の前で話するのは、イェースズにとっても初めてだ。
「皆さん、よくお聞きください」
イェースズの第一声が、群衆の頭の上を飛んだ。歯切れのよい、よく透き通る声だ。イェースズは微笑んで話していたので、その場に明るさが充満しているような気を、誰もが感じていたようだった。その言葉にも、高次元のエネルギー・パワーが乗っているようだった。
「天の国は近づいています」
人々が、少しざわめいた。この言葉は、いつもヨハネが言っている言葉である。所詮は同じことを繰り返すだけかと、落胆の色が人々の間にもれた。ところが、
「天国の鍵を握るであろう人が、ここにいるんです。その人は、エリアの再来ですから」
となると、ヨハネのいつもの話とは勝手が違ってきた。そこで人々はやっとまた静まり返った。
「さあ、その人が、天国のもんの鍵を開きました。さあ、皆さんどうぞ。誰でも入れますよ」
イェースズはニコニコして、両手を広げて見せた。イェースズの笑顔にいつしか人々の心も和んでいたが、それでも今日ばかりは真剣に聞いている。ところが笑顔はそのままでも、イェースズの口調は厳しいものとなった。
「さて、私は誰でもどうぞといったけど、入る前に自分で足がすくんで入れなくなっていしまう人もいるんですね。例えば、悪想念を持ったままの人、自己中心の我欲いっぱいの人、とかですね。だから門に近づくと、道ばかりひろくてもしっかり天国に向かって歩いている人はとても少なくなる。だって、物質的な欲望を持ったままみんなが天国に入ったら、天国はそんな人々の欲望の重みで傾いてしまいますよ。つまり、道は広くても門は狭いんですね」
イェースズは一息ついた。そして笑顔の量をさらに増やした。群衆といっしょにヨハネの弟子たちも、ひと塊となってイェースズの話を聞いていた。
イェースズはさらに話を続けた。
「皆さんが求めてやってきた罪の許しを下さるヨハネという方は、それは立派な漁師です」
ひとびとは少し怪訝な顔をした。
「漁師といっても魚を獲る漁師ではなくて、人間の魂を獲る漁師なんです」
人々は、ざわめきだした。
「つまり」
イェースズの次の言葉が、また人々を静まり返らせた。
「いいですか。漁師って、どうやって魚を獲りますか? まず、網を海に投げ込むでしょう。そうして引き上げたら、おいしそうな魚がたくさん入っている……となればいいんですけれどね。まあ、引き上げてみたら、いろんな獲物が入っているんですよ。例えばカニ」
人々はどっと笑った。それはユダヤの人々にとって、ご馳走にはならないものだからだ。少し間を置いてその間は笑顔をイェースズは人々に与え、そして、
「ほかにはタコ、それからイカ」
一つ一つに、人々は笑いを上げる。それらもまた、ユダヤ人が決して食べないものばかりだからだ。
「そしてサンダル」
人々は爆笑だった。イェースズもいっしょに笑っていた。
「皆さん、笑ってますけどねえ、笑い事じゃあないんですよ」
そう言うイェースズの顔も、まだ笑っていた。
「いいですか、まともな魚は、ほんの少し。これは、皆さんのことです」
笑いが徐々に収まっていく。
「毎日ここに洗礼を受けにくる人はたくさんいますね。みんな水に浸かって、それで罪が許されたって喜んで帰っていきます。でもねえ、失礼だがたいていの人はね、あ、皆さんがそうだと言っているんじゃないですよ、あくまで今まで来た人々ですけれど、いざ家に帰って、ああ、罪は許されたって、いい気持ちで一杯やって寝ますね」
人々は和やかに聞いていた。
「ところがもう、翌朝になったらヨハネの悪口を言っている。ずいぶん並んで待たされた。やれ暑いだの、洗礼は遅くて時間ばかりかって、お腹はすいたしって、それがみんな『ヨハネが悪い』ってことになってしまうんですね。ローマや王様が恐くて、ここで洗礼を受けたこともひた隠しにしている。そうして頭の中は、こりゃもうよからぬことばかり考えている。挙げ句の果てには、神を呪っている」
イェースズは笑顔のままであったが、口調は熱を帯びてきた。人々は、再び静まり返った。
「いいですか、心が浄いことが大事なんですよ。さっき言ったようなんじゃなくて、何ものにも動かされない不動の心を持つ人にとってこそ、天国は近いって言えるんです。罪が許されたら、その後が大事なんですよ。これで終わったと思ったら大間違い、これからの精進だ大切なんですね。いわば、ここからが始まりなんです」
イェースズは慈愛に満ちたまなざしで、群衆を見渡した。
「これで、私の話は終わります。真に有り難うございました」
大拍手喝采が沸き起こった。普通ヨハネが話したときは、こんな万雷の拍手で終わったりはしない。話が終わった終わらないかのうちに、人々はヨハネの先回りしてヨルダン川に殺到し、洗礼を受ける順番を少しでも前にしようと、我先にと駆け出すのである。この日は、イェースズが台から降りるまで、拍手は鳴り止まなかった。
台から降りたイェースズを、ヨハネの弟子の中の幹部たちが迎えた。
「いやあ、素晴らしかった」
「魂がゆすぶられる感じでしたね」
「その話術には、人をひきつける魅力があるんですね」
そう言ったピリポの後ろに、師のヨハネがいつの間にか来ていた。
「いや、話術だけではない。魂の波動が違う。その言霊にはすごい光で包まれているし、だいいちイェースズの体からも光が発せられている」
さすがにヨハネともなると、イェースズの全身のオーラから発せられる高次元のエネルギーが見えるのだろう。それに加えて、言葉の一つ一つにエネルギーが乗っている。
そのままイェースズはヨハネ教団の幹部として収まり、月日も流れてイェースズがここに来てから約十ケ月後のある晩、イェースズはヨハの小屋へと呼ばれた。話を聞いてほしいと、ヨハネが持ちかけたのだ。
薄暗いろうそくの灯火の中で、ヨハネとイェースズは二人きりで対座していた。ヨハネはイェースズに横顔を見せており、その目もイェースズを見ていない。
「ヘロデ王を、君は許せるか?」
ヘロデ王といってもイェースズが生まれた頃の昔のヘロデ王と、その子である現在のヘロデ・アンティパスの両方を指す。だがイェースズはヨハネの想念から、それが今のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのことであることは分かっていた。
「聖書には、『誰も自分の兄弟の妻を、自分の妻としてはならない』と書いてある。それなのにヘロデ王は、それを破った。自分の弟の妻を自分の妻にしている。しかもそのためにそれまでの妻を追放し、その財産まで横領したのだ」
ヨハネは少々興奮していた。イェースズはしばらく黙っていた。そして、ヨハネの横顔に言った。
「神のミチを説くものは、地上の権力者のことはあれこれ考えない方がいいと思いますよ」
ヨハネもしばらく黙っていたが、やがて首を回してイェースズを見た。ろうそくの火の中で、その表情には悲壮感があふれているように見えた。
「ところで明日、弟子たちの何人かを連れて、ベタニヤに行ってくれないか。塩の海のほとりのベタニヤではなくて、エルサレムの近くのベタニヤだ」
「はい、行かせて頂きます」
「本来なら私がいくべきなんだ。ベタニヤのほうでぜひ私に来て話をしてくれという。でもここは君に私の代理として、行ってもらいたいんだ」
「はい。しかし……」
この又従兄は、何かを覚悟している。その悲壮な顔つきが十分それを物語っていたし、想念を読み取ればすべてが理解できてしまうイェースズにとって、自分まで胸を刺されるような心境になった。
「ベタニヤには行かせて頂きますが、どうか早まったことだけはなさらないように」
今のイェースズにできるのは、ヨハネにそう告げることだけだった。だが、おそらくその進言も無駄になるであろうことは、イェースズの能力をもってすればすぐに分かる。今は、すべてを神に委ねるしかなかった。
「イェースズよ。弟子たちを頼むぞ」
「はい、かしこまりました」
たとえイェースズの能力がなかったとしても、幼なじみというのはそれだけの会話ですべての意思が伝わってしまう。イェースズはしっかりと、ヨハネの目を見た。
イェースズがベタニヤに行くに当たって、ヨハネは弟子たちの前で正式に、イェースズが自分の代理であることを宣言した。これで、今までのような暗黙の諒承ではなくなった。そして、イェースズと同行するもの、ヨハネが選んだ。アンドレとその弟のシモン・ペテロ、ヤコブとその弟のエレアザル、そしてピリポ、ナタナエルの六人だった。そもそもヨハネをベタニヤに招いたのはかの地で活動しているガリラヤの網元のゼベダイだそうだから、その子であるヤコブとエレアザルが加わっているのは当然だが、ほかのメンバーも普段からイェースズと懇意にしているガリラヤ人ばかりだった。
出発に際して、ヨハネはいやに力を入れてイェースズの手を握った。無言で「後は頼む」といっているようだった。そして一行は早朝、ヨルダン川沿いに南へと向かった。ベタニヤまでは五日ほどかかる。ヨルダン川沿いは少しは緑があるが、南下するにつれて周囲は一面の岩だらけの荒野となっていった。しかも、ベタニヤに着く直前はヨルダン川からも離れるので、道は灼熱の下の岩の砂漠の中を進むことになる。草や木はほとんどない一面の茶褐色の大地であった。
やがて、そんな荒野の中に、ベタニヤの町が見えてきた。町は小高い丘の上にあって、全体が緩やかな傾斜になっている。四角い石をきれいに積み上げた長方形の箱型の家が、斜面の上から下へと段々に並び、その間に樹木が申し訳程度にある。
そんな村に彼らが足を踏み入れたとたん、彼らに近づいてくる一人の男がいた。しかもその若者はイェースズを見て、
「イスラエルの王よ、お待ちください」
と、言ったのである。イェースズは振り向いた。
「私は王なんかじゃありませんが、あなたは……?」
「あなたは、神の国が近づいていると言われたじゃないですか」
その時ヤコブが、イェースズに耳打ちした。
「これは収税人です。かかわらない方がいい」
確かにその身なりのよさは、収税人のようだった。そしてイェースズは、すぐに思い出した。たしかヨハネに代わって演説した時、群集の中にこの若者はいた。
「確かに、神の国は近づいていると言いました」
イェースズはヤコブの忠告は聞かずに、足を止めた。収税人といえば、人々から蛇蝎のごとく嫌われている存在である。ローマ当局はこのユダヤの人々から税金を徴収するのに自らの手は出さず、ユダヤ人によってユダヤからローマへの税金を徴収させた。そのローマに任命されたユダヤ人の税金徴収係が収税人で、ローマから高給をもらって裕福に暮らしている彼らは、ユダヤ人でありながらローマの手先になっているとして嫌われていた。嫌われているだけではなく、パリサイ人などに言わせれば民族の裏切り者であり、決して救われない「罪びと」なのである。だからヤコブはそう言ったのだし、ほかの弟子たちも少し距離を置いて立っていた。イェースズだけが一人ニコニコして、その若者の相手をしている。
「どうして神の国を説けば、それが王ということになるのですか?」
「神の国が近づいたと分かるのは、あなたがその王座に座る王だからでしょう?」
「いいえ、そうではありませんよ」
イェースズの態度は彼を罪びととして差別するでもなく、あくまでも柔和だった。その若者の驚きの想念が、イェースズに伝わってきた。もうここ何年も、彼は誰からも慈愛に満ちたまなざしを持って見られたことはなかったようだ。イェースズはさらに微笑みながら、優しく諭すように話を続けた。
「確かに、神の国は近づいています。でもそれは、肉の目で見ることはできないんですよ。その王国は、目には見えないんです」
若者は、イェースズの言っていることが理解できないようで、首をかしげていた。彼らの常識では、メシアといえばローマの植民地支配からユダヤを救う民族自決の烈士にほかならない。しかも、ローマの手先であるはずの収税人にとってでさえ、そうなのだ。
「いいですか。来るべき神の国とは霊的なもので、この地上に現存する国とは違うんです。霊的な国がこの地上に顕現されるということで、その王というのは人間ではないのですよ」
今の人々には理解は無理だろうとイェースズは思いつつも、イェースズはまだ話を続けた。
「人間がこの地上で新しい国を作るときには、武器を持って戦争をして、他国を滅ぼしたりしますね。でも神様が霊的な王国のこの世に顕現される時は一滴の血も流されることなく、歓喜のうちにその大革命は行なわれるんです。神様は、地上の権力を滅ぼしたりはなさいませんよ。神様が嫌われるのは、不正や罪、穢れだけです」
「あなたは、メシアではないのですか?」
「メシアとは人間ではなくて、天地創造の神様そのものなんです。この私は肉身を持った人間にすぎません。しかし、自分の霊籍は知っています。私は紛れもない神の子で、それが肉身を持って人となっています。人となった神の子、つまり人の子なんです。いいですか、このへんを誤解しないで下さい。私は自分が神の子で特別と言っているのではないのですよ。肉身を持っていても、肉体感覚だけに振り回されてはだめです。私の中に神が宿っておる、つまり私が神の子なら、あなたも、そしてそのへんにいる人も、ひいては全世界の全人類の一人一人が、皆紛れもなく神の子です。自分の中にある神性を見つめ直してください」
「私が神の子ですって?」
「そうです。なぜなら神様は土で人を創って、そこに神の命の息吹を吹き込まれたと聖書にあるではないですか。人の肉身は土で創られましたけれど、魂は神様そのものなんです。神様の霊質を引きちぎって、一人一人の魂として神様は入れてくださっておられるんです。あなたが浄まれば、あなたの中にある神性を見出すことができるんです」
「浄まるって、どうすればいいんですか?」
思った以上に長い立ち話になっているので、イェースズと同行していたヨハネの弟子たちは、遠巻きにそれを見ながらイェースズの話を聞いていた。
「いいですか? 思い、言葉、行いで魂を浄めるのです。魂が浄まれば心と体も清まってくるんです。要は悪想念を、いかに真・善・美の想念に転換させるかということですね。それを悔い改めというのです」
「すみません、具体的には?」
「そうですね。では最初に、自分がほかの人にしてもらいたいことを、まず自分が他人してあげたらどうですか?」
「はあ、なるほど」
若い収税人は、感心したため息をついていた。
「ところで、あなたもガリラヤの人だね」
と、イェースズの方から話題を変えた。若者がガリラヤ人であることは、言葉の訛りですぐに分かる。
「はい。アルパヨの子で、レビといいます。父アルパヨは、あなたの師のヨハネの友人ですが」
「そうですか。故郷はガリラヤのどこですか」
「カペナウムです」
「おお」
イェースズはうなった。
「私と同郷なのですね。私もカペナウムですから」
「え? 本当ですか?」
レビと名乗った若者は、目を皿のようにしていた。
あなたとは因縁がありそうだから、またお会いする日が必ず来るでしょう。その名前、覚えておきます」
最後にイェースズはもう一度にっこりと笑って、その場を後にした。
しばらく町の中を行くと、坂道に一人の初老の男がニコニコして立っていた。
「お父さん。ほんの少し帰ってきました」
と、ヤコブが挨拶をした。つまり、この人がヤコブ達兄弟の父のゼベダイなのだ。がっちりした体格の、貫禄のある風体だった。
「イェースズ師ですね。息子からの手紙であなたのことはよく存じ上げております。さ、どうぞ」
気さくな男だった。ベタニヤでは、もちろんこのゼベダイの家に泊めてもらうことになっていた。ヤコブとエレアザルにとっては父の家だが、彼らはガリラヤ育ちなので、父の家に入るのは初めてだった。それは家というより、屋敷だった。ガリラヤ湖の魚をエルサレムに運ぶことで、この網元は大きな富を得ていた。
「いやあ、この間は素晴らしいお話をなさったそうではないですか」
「いや、お恥ずかしい」
イェースズたち一行は、その豪邸の中へと招き入れられた。廊下を歩きながら、ゼベダイはイェースズを見た。
「みんなの前で話をされるということは、相当前から内容を考えているのでしょう?」
「いいえ」
イェースズは意外な答えをした。
「頭では何も考えないんです。私の話は、頭で考えたことではありませんから。何も考えないで、頭を空っぽにしてみんなの前に立つと、その時に神様が話すべき内容を与えてくれて、気がついたらもうしゃべっているんです」
「いやあ、それこそ御稜威というものでしょうな」
感心した声を上げたあと、ゼベダイはふと我に返ったように、よく日焼けした手をイェースズに差し出した。
「ともあれ、今後ともよろしくお願いします」
「私も、この出会いを大切にしたいです」
二人はしっかりと手を握り合った。
その日からイェースズはほかの弟子たちとともに、ゼベダイの屋敷に逗留することになった。そしてその晩は、歓迎の宴となった。ゼベダイはイェースズに赤く美しいぶどう酒を勧めながら言った。
「あなたは、お酒は飲まれますか?」
「はい、戴きます」
「ヨハネ師は飲みませんからねえ。うちに来られた時も『酒は肉の体を喜ばせるが、魂は悲しませる』と聖書に書かれてあるといって、一滴も口にされませんでしたけど」
「それはまあ人それぞれですが、私は嫌いではありません」
そう言ってイェースズは大きな声で笑い、杯を受けて干した。ほかの弟子たちはヨハネに倣ってか誰も飲もうとしないので、イェースズは彼らにも促した。
「さあ、皆さんもいかがです?」
「しかし……」
ためらう弟子たちに、イェースズはしきりに酒を勧めた。
「まあ、いいから」
最初に杯に手を出したのは、ペテロだった。それからは、皆本来は酒が好きであったようで、次々に杯を干していった。
「世間一般の人々は、お酒が好きな方が多いですね。皆さんが飲むんだから、私も飲む。そういうふうに、人々のレベルにまで自分の方から降りていかないと、人々を救うということはできませんしね」
また、イェースズは大声で笑った。まじめに言えば嫌味ともとれる内容を、笑って言うことで冗談半分という印象を与え、誰からも悪くはとられなかった。
その日からイェースズは近くを散歩したり、ゼベダイと語り合ったりして毎日を過ごした。ここからはエルサレムは目と鼻の先で、小一時間も歩けば着ける。だが、今のイェースズには、エルサレムまで行ってみようという気にはなぜかなれなかった。そして弟子たちはいぶかって、ペテロが代表でイェースズに言った。
「なぜヨハネ師は、我われをここによこしたんでしょうかね。来たからといって、これといった用事もなかったような気がしますし」
だがイェースズにはヨハネの悲壮な覚悟が分かってはいたし、故意に弟子たちの中でも選りすぐりのメンバーを本拠地から去らせたのだったであろうが、あえてイェースズは弟子たちには言わなかった。
そんなある日、イェースズが散歩から戻ると、いつも陽気なゼベダイが悲痛な顔つきで座っていた。
「どうかしましたか?」
イェースズもただならぬ波動を感じて、ゼベダイのそばに駆け寄った。
「たいへんなことになりましたよ。ヨハネ師が……」
「え?」
その後の、
「ローマの兵に捕らえられたと……知らせが……」
という言葉は、イェースズの予想通りだった。それでも、イェースズはひとかたならず驚いた。そして、
「ほかのみんなは、知っていますか?」
と聞くと、ゼベダイは首を横に振った。
「まだ、誰にも話してはいません。特にうちのヤコブやエレアザルに話したら、ただでさえ気性の激しいやつらだから、何をしでかすか分からない」
イェースズはもっともだと思った。
「みんなには、まだ話さないで下さい」
イェースズは、それだけをゼベダイに言った。
イェースズは、ここへ来る前にヨハネが悲壮な顔で何かを自分に伝えようとしていたことを思い出した。何かを覚悟し、何かを決意していた。しかもイェースズはそれが何なのかをすでに見通していたが、あえてヨハネの言いつけ通りにヨハネのいる場所を後にしてここへ来た。
その晩、ほかの弟子たちが寝静まってから、イェースズはそっとゼベダイの寝室を訪ねた。最初から、その打ち合わせだった。寝室にはゼベダイの娘たち、すなわちヤコブやエレアザルの二人の姉のマルタとマリアも来ていた。マリアはイェースズの母と同じ名だが、それは女性の名としては実にありふれた非常に多い名前なのである。四人はなるべく声を立てぬよう、寄り添って静に話した。
「で、師が捕らえられたいきさつは?」
イェースズの問いに、ゼベダイは引きつった顔でイェースズを見た。
「ヘロデ王に諌状を書いたそうだ」
「ヘロデ王の離婚と後妻のことですね」
「あなたは知っておらるのか」
思わずゼベダイは大きな声を上げ、イェースズはそれを抑えた。ヘロデ・アンティパスは亡き弟の妻であったヘロデヤを手に入れるために、妻を離縁した。しかしそれは離縁というより、ほとんど追放だった。そのことに対してヨハネは、聖書のレビ記の一節を引用して諫状を書いてヘロデ・アンティパスに突きつけたのだという。それを見たヘロデ王が怒り狂うであろうことは、容易に想像がつく。しかも、ヨハネの集団は、ヘロデ・アンティパスからもローマ当局からも危険視されていたのだ。だが、容易に想像といえば、ヨハネの性格からいってそのようなことをしでかすであろうこともまた容易に想像がつくことであった。
「ヨハネ師はお酒を一滴も口にされなかったというほどの潔癖症だから、ヘロデ王が許せなかったのでしょう。とめても無駄だったでしょうね」
イェースズはそう言ってから、しばらく黙った。ゼベダイも同じように黙った。マルタとマリアは、それを黙って聞いているだけだった。
「で、ヘロデ王の兵が、直接師を捕らえたんでしょうか」
「いえ。その諫状をローマの知事にまわして、ローマ当局に捕縛を依頼したようです。実際に師を捕らえたのは、わざわざカエサリアから駆けつけたローマ兵だったようですから」
この事実は、ヨハネ教団が危険思想団体としてローマ当局のブラックリストにも載っていたということを物語るものであった。ローマ当局の目にはヨハネ教団が、現存する反ローマの過激派、特に熱心党などと同種のものとして映っていたのだ。さもなければ、いくらヘロデ王の要請があったからとてローマは簡単に兵を出したりはしない。ヘロデ・アンティパスが表面上の理由である自分への諫状だけなら、ローマにとっては異邦人のお家騒動にすぎない。だが、ローマにとってはヨハネを捕らえる絶好の口実となった。
「それでヨハネ師は今どこに?」
「塩の海の東の、マケラスに繋がれてるということです」
イェースズの問いに対するゼベダイのこの答えによっても、ヨハネを捉えたのはローマであることは確実となった。マケラスは、ヘロデ・アンティパスの領地ではないからだ。つまり、ヨハネの身柄はまだ、ヘロデ・アンティパスには引き渡されていないということにもなる。
ゼベダイはまた悲壮な顔をして、うなだれたまま言った。
「今、さしあたっての問題は、このことをうちのせがれたちやほかのお弟子に、どうやって告げるかですな」
「これは難しい」
イェースズもため息をついた。そして意を決したように、顔を上げた。
「いずれにしても、夜が明けたら言わない訳にはいかないでしょう。私から言います」
「そうして下さいますか」
ゼベダイの顔に、ほんの少しだけ安堵の表情が浮かんだ。
夜が明けてから、イェースズは六人のヨハネの弟子を、ゼベダイの家の大広間に集めた。ゼベダイや娘たちは、あえて席をはずしていた。
「落ち着いて聞いて下さい。ヨハネ師が捕らえられたんですよ」
誰も目を見開いたまましばらく言葉が出ないようで、口をぽかんと開けたまま蒼ざめた顔になっていた。
「いったい、どういうことなんですか?」
ようやくヤコブが、怒鳴るように口を開いた。すでに肩で息をしている。イェースズはゼベダイから聞いた情報に自分の状況判断を若干加えて、手短に説明した。すぐに立ち上がったのは、ヤコブとエレアザルの兄弟だった。
「早く行きましょう!」
そんな二人を、イェースズはゆっくりと見上げた。そんな落ち着いているイェースズが、二人には歯痒かったようだ。
「早く!」
「早くって、どこへ?」
「決まっているでしょ! 師を助けに行くんですよ!」
「助けるって言ったって、ローマ兵の守りは堅い。それをたった七人でどうやって?」
「何をのんきなことを言っているんです? それでもあなたは、師のお代理ですか?」
「まあ、ちょっと待て」
と言って立ち上がったのは、ペテロだった。
「とりあえず、戻ろうじゃないか」
両手で一同を抑えるように、ペテロはゆっくりと言う。
「どうするかは、それからだ。ここはエルサレムにも近いから、我われがここにいることが分かったら我われも危ない」
「しかし戻ったら、師から遠ざかる。マケラスなら、ここからの方が近いではないか。一度戻って引き返しているうちに、師にもしものことがあったらどうする」
エレアザルがそう言って反論し、ヤコブもそれに同調した。
「そうだ、シモン。あんたはこんな時も、師のことより自分の身の安全を考えているのか!」
たが、ほかのピリポやアンドレがペテロに同意し、イェースズも、
「ガリラヤに戻ろう」
と言ったので、ヤコブもエレアザルもしぶしぶという形でそれに従うことにし、一行は慌しくベタニヤの町を後にした。
とにかく、残された弟子たちは路頭に迷っていることだろうと、彼らは道を急いだ。情報によると捕らえられたのは師のヨハネ一人で、教団のメンバーが根こそぎ捕縛されたのではないらしい。
しかし五日の道のりを四日でたどり着いた時は、岩山の麓の教団の本拠地は無人の廃墟と化していた。小屋などはそのままだったが、誰一人としていない。ただ、ついこの間までここで人が生活していたという跡だけが、乱雑に残っていた。
「こんなものだろう」
と、ペテロがつぶやいた。ひとたび師が捕らえられたとなると、五十人ほどいた幹部や弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃亡してしまった。自らの身にも災難が降り注ぐことを危惧してのことだろう。洗礼を受けただけで去っていく人たちの中でも、去らずにヨハネのもとに残った篤志の人々であったはずが、このざまである。人間の真心など、所詮はこのようなものかとさえ思ってしまう。
そこで、残された七人はヨハネの小屋だった所に入って、まるくなって座り込んだ。しばらくは、皆無言でいた。
しばらくして、ヤコブがまた立ち上がった。
「すぐに引き返しましょう。ここにいる全員が討ち死にしたとしても、師を助け出しに行くべきだ。すたすたと逃げたやつらと我われは違う」
また、エレアザルが言葉を受けた。
「そうだ。師への真心を示すんだ」
この兄弟は、どうも気性が激しい面でも気があっている。
「まあ、二人ともお座りなさい」
イェースズが、なんとかその二人を静めようとした。
「あなた方二人はゼベダイの子といいますが、ゼベダイの子というよりも雷の子ですね」
あくまでイェースズは落ち着いて、着実にものごとに当たっていた。
「それよりも皆さん。我われもとりあえず、それぞれ自分の家に戻りませんか?」
このイェースズのひと言は皆にとって意外だったようで、誰もが驚いて顔を上げた。
「しかし……」
おどおどしながら上目遣いに、ピリポがイェースズを見た。
「ここにいるみんな、ガリラヤに家がある。ガリラヤにいたら危険ではないですか?」
イェースズは少しだけ、微笑んで見せた。
「私は心配していない。私は神様からお与え頂いた命を、まだ全うしていません。命は使命でもあります。それを果たすまでは、たとえ死を願っても神様はそれをお許しにはならないでしょう。すべては、神様のお許しがってのことですからね。私のなすべき仕事は、これから始まるんです」
皆再びうなだれて、イェースズの話を聞いた。
「ヤコブやエレアザルの気持ちも分かりますし、ピリポの心配ももっともだと思いますよ。だけど、師がヘロデ王にというよりもローマ兵に捕らえられたのだから、ガリラヤにいた方がむしろ安全かもしれませんね」
もう誰も、反論するものはいなかった。
「とりあえず今夜はここで寝て、明日の朝にそれぞれの家に帰ることにしましょう」
と、イェースズは言った。
翌朝、一行はまた旅支度だった。そして小屋を後にした一行は、誰が言い出したのかヨハネがいつも洗礼を施していたヨルダン川の川原に行ってみることにした。今までは毎日おびただしい数の人々が押しかけていた川原だったが、ヨハネが捕らえられた情報は人々の間にも伝わっているようで、今は人っ子一人いなかった。
どうしても、一種の寂寞間を感じてしまう。
「水の洗礼の時代は終わる」
イェースズは、ぽつんとそうつぶやいた。そして一行は、ガリラヤ湖畔に沿って北上した。空は透き通るように青く晴れていた。
それぞれの家に戻ると言っても、しばらくは皆同じ方向に進むことになる。歩きながら誰もが、これからどうするのかということを考えているようだった。皆、口数少なく黙々と歩いている。イェースズにとっていえることは、自分はヨハネのような人里離れた原野で教えを広めるより、人々のいる都市の方が性に合っているのではないかということだった。
湖が見える丘の上で、一行は休憩した。炎天下とはいっても南の方の砂漠の中を進むのではなく、ガリラヤの緑豊かな大地の旅なので、幾分気が楽だった。涼しい風が、一行の頭の上を通り過ぎていく。
「あなたは、これからどうするのですか?」
みんなが考えていることを、ペテロがイェースズに切りだした。
「とりあえず母のいる家に帰るが、そのあとのことは神様にお任せですね」
イェースズはにっこりと笑った。
「皆さんもそれぞれイェースズは近いから、何かがあったらすぐに集まれますよ」
「いいえ」
ペテロは、イェースズの座っているそばに近づいて、目を見ながら言った。
「これは昨日の夜にみんなで話し合って決めたんです。あなたをあらためて、師と呼ばせてください」
前にも申し出た時は、イェースズはそれをやんわりと拒絶した。しかし今日は、涼しい眼を六人に向けた。
「あなた方がそう望むなら、いいでしょう。私はヨハネ師から『後のことは頼む』と託されました。あなた方のことも、その中に入っているのかもしれませんね」
六人の顔が、パッと輝いた。ここでは師と弟子の集団というのはよく見かけるもので、サドカイ人やパリサイ人の間でも一人の師に数人の弟子がつくというのは普通のことだった。イェースズの感覚は、その普通のことを越えてはいなかった。
「私は、ヨハネ師のようにはしないよ」
と言ったからである。
「どういうことですか?」
ペテロの問いに、微笑とともにイェースズは優しい目を向けた。
「教団は作らないということだ」
師と呼ばれる以上、敬語がない言語ではあっても少しイェースズは言葉つきを改めた。それが立て分けというものであると心得ていたからだ。一人の師に数人の弟子がつくというのは普通のことであっても、群集が信者となって教団を形成するというのはあまりなく、それだけにヨハネ教団は異色の存在だったのである。しかしペテロたちはその真意が分からず、怪訝な顔をしていた。
ここガリラヤでは少ないにしても、世界では教団という形の集団が無数にある。しかし、自分がここで一教団を打ち立てるのが、果たして神のみ意なのだろうかとイェースズは考えたのだ。パリサイ人やサドカイ人など、宗門宗派に分かれて争ってさえいる。イェースズ自身もかつてブッダ・サンガーという一つの教団に属したこともあったが、ゴータマ・ブッダの死後にその教団は形骸化し、ブッダがかつて反発したというバラモン教と同じような一宗教になってしまっていた。そのことを悔いても悔やみきれないとブッダの御神霊がかつて直接イェースズに訴えてきたその言葉は、今もイェースズの心の中にはっきりと刻まれていた。
神の教え、神理のミチ、天地創造の時に定められた万世弥栄えの仕組みの置き手は、決して宗教ではない。宗教とは、あくまで人造のものである。人間が人知でこしらえたものだ。現に、イェースズが実際に探訪してきた神界・神霊界に宗教などというものはなかった。だからイェースズが数人の弟子をもって、また多くの人々に説こうとしている教えは、宗教という垣根を破った全人類的な普遍なる神の法なのである。だが同時に、今世の人々がそのようなことを理解し得ないことも分かっていた。特に自分の同胞は、ユダヤ教という宗教にとっぷりと浸かっている。それも無理はないことで、世界を見てきたイェースズと違って、彼らにとってはユダヤだけが全世界なのである。外の世界といってもせいぜいギリシャやローマくらいしか、その意識の範疇にない。
いずれにせよ、イェースズは宗教の教祖になるつもりはなかった。だが、ついてくるものにはついてこさせようとも思った。それが神のみ意である以上、そうするしかないと思うのである。
イェースズはそのようなことを考えながら沈黙した後、かつてはヨハネの弟子で今は自分の弟子になった六人を再び見た。
「ここにいる七人は、何かしらの因縁があるんだな。ガリラヤに着いたら、それぞれの家の近くで、同じような因縁の魂を探そう。そういう人たちは、必ずわれわれの周りに吹き寄せられてくる。そうしたら、また集まろうじゃないか」
弟子たちは、一応うなずいていた。
一行はまた、歩き始めた。湖と反対側の高台の上は、一面の麦畑が続く。だが今は麦はない。
「あのう、先生」
ピリポが半歩前を歩きながら、振り返る形でイェースズに問いかけた。
「お伺いしたいんですけれど、先生はこの間、すべてのことは神様のお許しがないとあり得ないとおっしゃいましたけど、なぜ神様はヨハネ師が捕らえられて投獄されることをお許しになったのですか?」
イェースズは即答した。
「神様のなさることは、人知では判断がつかないものなんだ。神様は人間をはるかに超越されたお方だから、その計り知れないご計画は、人知であれこれ論じることのできるものではない」
一応弟子たちは、うなずきながら歩いている。そんな彼らに、
「ほら、あの麦畑を見てごらん」
そこにはすでに収穫された後のわらが残っているだけだった。
「穂が実って収穫されたら、茎はあの通り倒れているだけだ」
「用が済んだから、土に戻るのですね」
口数少ないナタナエルが、真っ先に答えた。
「そうだね。ヨハネ師は茎とはいっても、黄金の茎だった。どんな教団でも、神様が必要あって下ろされたものだ。でも、神様のご計画はどんどん進んでいるから、役目を終えたという教団が出てくるのも自然だ」
「では、ヨハネ師の役割はも終わったのですか?」
「それは神様がお決めになることで、人間である我われが判断できるものではないんだよ」
「では先生の役割もいつかは終わるんですか?」
心配そうな顔をしたのは、エレアザルだった。
「私には分からないね。神様がお決めになることだからね」
「先生も、ヨハネ師のように捉えられて投獄されてそいしまうんですか?」
「それは分からないけれど、でも、神様から頂いたみ役はここで終わりという日が来るかもしれないね」
ヤコブがイェースズの少し先で立ち止まって、激しく振り向いた。
「あり得るということですか?」
「分からないね」
イェースズはニコニコ笑ったままだった。
「私が教えを説くに当たって、このままではと神様はお考えになったのかもしれない。神様は、地ならしの教団を下ろすこともある。すべては神のご計画のままにだ。だからヨハネ師が捕らえられたことも、嘆く必要はないのですね。今は善が悪にしいたげらてしまう世の中だけど、いつか勝つのは神のみ意にかなったものだよ。いつかは悪はアバカれて信賞必罰の世がくる。やることをきちんとやったら、後はすべて神様にお任せするんだ。それくらいに、神様に対する絶対的信頼感を持つべきなんだよ」
やがて誰もが、故郷に包まれていることを実感した。故郷は懐かしい。故郷は暖かい。その故郷で、イェースズは活動を始める。何が待っているのか、何か起こるのか、イェースズはガリラヤ湖の湖畔を見ながら、そんなことを考えながら歩いていた。