3
「イヨマンデ!」
と、人々は口々に叫んでいる。
灯火を持つ男、躍る女など、コタンがこんなににぎやかなのは珍しい。いつもの特殊な紋様が衿に入って前で合わせる服に、今日はみんな木々の枝で飾った冠をかぶっている。広場の中央の篝火が夜空を焦がす後ろに、祭壇がある。祭司はヌプの父だった。
オビラ・コタンの、年に一度のイヨマンデの熊祭だ。祭壇の後ろには大きな木の檻があって、獰猛そうな熊が一頭、その中で咆哮している。
「おいらたち、みんな熊を食べて冬を越すから、その感謝の祭りさ」
ヌプがイェースズのそばで、けろりと言った。
「そうか、今日は熊祭りか」
イェースズも日常とは違う華やかさに、心が浮かれてきた。華やかで、それでいて素朴な祭りはゆっくりと展開していく。
「おいらたち、熊の肉を食べて自分たちの肉体を養っている。だから熊を殺すけど、殺すのは熊の肉体だけで、魂まで殺すことはできないからね。だからその魂に感謝するのさ」
確かにヌプの言うとおりだと、イェースズは思った。祭りの喧騒は最高潮に達し、人々は熊の檻を囲んだ。
「ミヤゲ! ミヤゲ!」
と、人々は叫ぶ。天からの恵みという意味の言葉だ。人々の叫びはさらに高く、炎に焦がされた夜空へと舞い上がっていた。
「イェースズ」
と、名前を呼ばれて彼は起こされた。
「もう、朝だぞ」
それは、ギリシャ語だった。ヌプの話していた彼らの言語からギリシャ語へ頭を切り換えるのに、イェースズは少し時間がかかった。目を開けると、ひげ面の赤ら顔がのぞきこんでいる。イェースズは目をこすって、テントの中で起き上がった。
「ずいぶんと寝言を言っていたな」
赤ら顔の隊商の隊長は、もちろんユダヤ人だ。
「え? 何ていっていました?」
イェースズはばつが悪そうに、笑った。
「いや、分からんよ。どこかの国の、訳の分からない言葉でしゃべっていた」
もうあの国を離れてから半年以上もたつのに、心のどこかはあの東の果ての海の向こうの島国に残してきているようだ。先ほどまで見ていた夢だけではなく、あの国で暮らしていたこと自体が遠い昔の夢だったような気もする。
イェースズは、テントの外に出た。隊商のメンバーがラクダをとめて、朝食の準備をしていた。色とりどりの絨毯が敷かれ、高度な技術で作られた色彩豊かの陶器の食器が並ぶ――これが文化生活というものだろうかと、イェースズは何気なく思っていた。
遠くへ目をやると、はるか彼方に薄っすらと青い山脈が地平線に張り付いて横たわっている。そこまでは果てしなく広がる巨大な空間の下、一面に広がる草原だ。草は申し訳程度に地面にはいつくばっている。霊の元つ国を離れてから、こんな大雑把な自然に慣れるまでに時間がかかった。そして半年以上たっていることが実感できないもう一つの要素は、季節感が全く感じられないということもあった。すっかり四季の移り変わりで月日をはかる癖が、彼にはしみこんでしまっているのだ。
イェースズがこの隊商と巡り会ったのは、大陸に上陸してからイェースズがまっすぐに向かったシムの都ティァンアンでだった。五年以上も前に、ほんの短い期間だがここで暮らしたこともある。だが、かつていた場所だというのに、イェースズはまるで月にでも来てしまったかのような感覚を覚えた。
何しろここには、文化がある。ものがある。さまざまな生活調度がある。高い文明の家がある。そんな違和感と共に、イェースズはユダヤ人街での日々を暮らしていた。確かに快適ではあるが、何かが違うと彼は叫びたかったのである。竪穴にわらをかぶせた家やその中にあるのは土器ばかりという霊の元つ国の村に対して、ここのは瓦屋根の家があり、その中には棚や扉、椅子やテーブルがある。貨幣もあって、ほしいものは金で買える。すべてが恵まれすぎているのだが、何かがもの足りないのだ。
夕暮れの市に出かけると、次から次へと肩に人がぶつかってくるような人ごみだ。高い楼閣が、そんな人々を見下ろしている。そしてティァンアン城の巨大な楼門と高い城壁、そしてそれを兵士が警護する。そんな中を、色とりどりに着飾った貴族の輿が通る。霊の元つ国はものはなくても、その素朴さの中に太古さながらの霊性があり、心があった。ここはものがあふれていても、ここの人々の唯物思考の中には、人の心などというものが入り込む余地はないようだった。ここは、金と目に見えるものがすべてのようだ。ほんの少し海を越えただけで、こうも違う。前にここに始めてきた時は、それほど違和感はなかった。そして今は印象が全く違う。しかし、街自体は何ら変わっていない。イェースズの方が変わったのだ。
変わったといえば、イェースズにとってのこの国の意味も大きく変わっていた。霊の元つ国で霊覚が開けたイェースズは、はじめてこの国に来た時に感じた妙な懐かしさの意味を、この大陸に再び上陸したその瞬間にすべてサトった。霊の元つ国では自分の過去世のヴィジョンを見たが、それは超太古に自分がムーの国のスメラミコトの王子だった時のものだ。だがこの国に来てイェースズの中に霊智として鮮やかに蘇ったのはそんな超太古ではなく、一つ前の前世記憶だった。
彼は、確かにこの国にいた。前世の自分の姿が、この国に来て手にとるように分かった。ちょうど約三百年前、その頃はまだティァンアンの都はなく、この巨大な帝国も当時は小さな国に分かれて相争う戦国時代だったが、イェースズはマング・カールという名でこの国に生まれ、そして多くの弟子を持つ人々の師となり、人の本質は神の子であって善であることを説き、「仁」と「義」を人々に教えていた。この国でかつて感じたデジャブは、そんな前世記憶だったのである。
やがてこの国に花火が上がり、イェースズは二十四歳になった。
そうこうしているうちに、やっとローマに向かう絹商品の隊商があると聞き、イェースズはそれに同行させてもらうことにした。こうしてイェースズは、隊商のメンバーの一人になったのである。
しばらくは高原の岩と土の砂漠状態だったがで、やがてステップの草原が広がるようになる。なだらかな起伏はあちこちにあって、遊牧されている牛や馬の大群と出会うこともあった。
こうしてティァンアンをあとにして二年と二ヶ月たったある日、夕暮れになってから隊長が前方を指さすので、見たら沙漠のはるか彼方に巨大都市が広がっているのが見えた。近づくにつれ、砂漠の彼方に巨大都市が横たわっているのが見えてきた。さらに近づくと、町全体を覆っている黄金のドームも見えてきた。
「パルチア王国の都、クテシフォンだよ」
と、隊長はイェースズに言った。
そこは一大都市だった。シムのティァンアンを出て以来、二年ぶりくらいに見る都会だ。町全体は城壁に囲まれ、楕円形をしているようだった。ここへ来るまではずっと砂漠の中の旅だったが、目の前の都市は緑豊かな草原に囲まれている。その都市の背後には大河が流れ、そこから無数の運河が掘削されて、街中へと水が引かれている様子も遠目ながら分かる。そんな運河が、都市の中を縦横に走っているのだ。そして驚いたことに、大きな川の向こうにも、別の城壁に囲まれた別の都市があるのが見えた。
「川の向こうはセレウキアだ。このへんには、もっと同じような都市が集まっていて、全部まとめてマーホーゼーというんだ」
マーホーゼーとは、イェースズが幼い頃から使い親しんできたアラム語でも、すぐに意味が分かる名だった。すなわち「町の集まり」を意味する。アラム語での地名がつけられているあたり、いよいよ故郷が近くなってきたことを実感したイェースズだった。
「あの川は、チグリスだよ」
「え?」
さらにイェースズはその川の名に、頭がクラッとするのをさえ覚えた。実際に見るのは初めてだが、聖書にはその名も記された川で、名前だけはいやというほど耳にしている。つまりこのあたりは、アブラハムの故地でもあるメソポタミヤということになる。不覚にもイェースズは、川の名を聞いただけでとめどなく涙を流していた。こここそが、超太古にイェースズの直接の先祖であるヨイロッパ・アダムイブヒ赤人女祖様が派遣された場所なのである。だから女祖炎民野という。言霊をすでに理解できるようになっていたイェースズは、そんな地名の正しい意味も直勘としてすぐに分かるようになっていたのである。これが往路との大きな違いの一つでもあった。女祖様はバラの花がたいそうお好きで、それゆえこの地は当時は一面のバラの花畑となったという話も、イェースズはすでに聞いていた。
城壁の中は石造りの二階建ての箱型の家が隙間なくひしめき合い、道路はすべて石畳だった。街中を行く人々は、みな着飾って歩いていた。道の所々にはバザールの出店がテントを張った模擬店舗を並べ、店先には宝石や金属製の雑貨が並べられていた。そしてひときわ目に付いたのが、都市の中央で威容を誇る宮殿だった。シムの宮殿のような屋根のある木造ではなくすべて石造りで、三つの円筒形の塔が町を見下ろしている。
町の喧騒はどこまで行っても途切れることなく、それがこの都市の巨大さを物語っていた。そして人々の顔つきも、明らかにイェースズ自身の顔と似てきた。人種が同じなのだ。すくなくとも顔つきからだけでいうと、イェースズはもはやここでは異邦人ではなかった。そんな人ごみの中を、イェースズを含む隊商の一行はらくだから降りて、そのらくだの口紐を引いて歩いた。
やがて、町外れと思われるところに来た。ここは貧民窟のようだ。みすぼらしい人々が、所狭しとひしめき合って暮らしている。家は石積みの粗末なものだが、かの霊の元つ国の竪穴の住居よりもはるかにましに思われた。しかし人々は、卑屈さを背負って生きているように、背中を丸めて歩いていた。
イェースズは思わず、一人の少女を呼び止めた。少女といっても花のようなという形容とは無縁の、ぼろをまとい頭にはハエがたかりそうな少女だった。
「君たちはなんで、そんな悲しそうな顔をしているんだい?」
少女はきょとんとして、イェースズを見つめていた。その目はとろんとして、まるで死人のようだった。イェースズは人々の顔つきももう自分と同じであるし、文化も故国に近いため、試しにギリシャ語で話しかけたのだが、少女には通じないようだった。隊商の中でこの地方の言葉に堪能なものが、イェースズの言葉を通訳した。少女はそれを聞いても、しばらく黙っていた。やがて口を開こうとしたが、その前にイェースズはすでにその意識を読み取っていた。
――悲しそうな顔? いったい何のこと? これが普通の顔だよ。あたいら、喜んだり悲しんだりしている暇はない。
その時、貧民街の一角から、大声で怒鳴る声がした。少女は一瞬、怯えたような表情を見せた。イェースズがその方角を見ると、中流階級のような太った男が手に鞭を持ち、それで地面を叩いて何やら威嚇している。しばらく見ていると、どうやらこの貧民街の人々が集められているようだった。中には逃げ出そうとするものもいるが、たちまち捕らえられてしまう。
イェースズには信じられない光景だった。人が人を鞭で打つなど、原始的な文明しかなかったあの島国では絶対に目にしなかった。それなのに高度の文明を誇るこの国で、そんなことが行われている。
イェースズは駆けていき、鞭を持つ男の腕をつかんだ。
「何をしている。おやめなさい」
男はイェースズのギリシャ語が分からないまでも、いきなり腕をつかまれて憤怒の顔をイェースズに向けた。
「何だ! 貴様は!」
その怒りの想念波が、イェースズにも伝わる。毒気で頭がやられそうだ。それでもイェースズは、負けなかった。
「あまり怒りますと、体によくないですよ」
「何だ、この野郎。その言葉はギリシャ語だな。ユダヤ人の隊商か。だったらすっこんでろ。俺はこの貧民窟のやつらを奴隷として買い取ったんだ。ちゃんと金は払ったんだ。文句はあるか!」
これが今の世の中の現実だと、イェースズは悲しくなった。
「人が人を奴隷として、金銭で売買することなど許されないのですよ」
男はとうとう、イェースズにつかみかかってきた。いつの間にか、男の仲間の方が増えている。慌てたのはイェースズが加わっている隊商のメンバーたちだ。周りは黒山の人だかりとなってしまった。そこで隊商のメンバーたちが、何とか怒りまくる男たちを鎮め、場をとりなしてくれた。男たちがふてぶてしく去ると、貧民の群集から大歓声が上がった。自分たちがイェースズによって解放されたと思っているらしい。
それからイェースズは隊商とともにその場を後にしようとしたが、人々は群れをなしてイェースズの後をついてくる。ふとイェースズの頭の中に、生き神として祭り上げられてしまったあのプジの山のふもとの村でのことがよぎったが、あの時とは違ってここの人々は自分たちが奴隷から解放されたという即物的なレベルでイェースズを賞賛しながらついてくる。
歩きながら人々は、盛んにイェースズに話しかけてくる。彼らの言っていることは想念で分かるが、イェースズの言葉が通じないことは分かっているので、イェースズはただ笑顔でうなずいて見せるだけだった。そうして歩いているうちに、広場に至った。
そこでイェースズをはじめ、隊商のメンバーは足を止めざるを得なかった。広場の中央に横一列になって、彼らの行く手をさえぎっている者たちがいたのだ。それは、長い刀を抜いた兵士たちだった。
「我われは王宮護衛兵である。正当なる奴隷売買を妨害し、奴隷を逃がした罪で、そこのユダヤ人隊商の中の若者を逮捕する」
そう言って彼らは、いっせいにイェースズに詰め寄ってきた。群集たちは一目散に逃げ去り、隊商のメンバーでさえらくだを引いてあたふたと逃げていってしまった。これはとがめられない。彼らは異境を旅することを生業としているだけに、身の危険の回避は天性のものだ。しかし、イェースズには逃げ場がなかった。もはや四方を取り囲まれている。こんな時は瞬間移動の術を使うしかないとイェースズが決めた時、兵士たちに動揺が走った。彼らはイェースズに横顔を見せて、広場の一角に意識を集中させた。その方角から三人の老僧が、ゆっくりとこちらへと近づいてきていた。
兵士たちはすばやく刀を納め、緊張して直立不動で立ちすくんだ。イェースズだけが何事が起こったのかと、呆気に取られて立ちすくんでいた。もはや、逃げることも忘れていた。
三人の僧は、すぐ近くにまで来た。きらびやかな錦の糸で飾られた僧衣から、かなりの身分のある高僧のようだった。
その僧たちは、イェースズの前まで歩いてきて立ち止まった。かなりの高齢で、腰も曲がっているようだ。そしてイェースズを見ると、無言で目を細めた。イェースズは何ごとか分からず、想念を読み取るのさえ忘れてたたずんでいた。群衆は息を潜め、成り行きを見守っている。
しばらくしてから、三人の中でもいちばん年齢が高いと思われる老僧が、
「お待ちしていましたよ」
と、口を開いた。ギリシャ語だった。
「お懐かしい」
「立派な青年におなりになりましたね」
ほかの二人の僧も、口々にそういう。怪訝に思ったイェースズが想念を読み取ろうとしても、なぜかはじき返されてしまう。相当強い霊力を持った存在であるようだ。ところが、もっと奥深い魂の次元での叫びがイェースズの中で起こり、それが全身を震わせた。理屈ではなく、霊性がすべてをサトらせたのであった。三人はそのイェースズの様子を見てうれしそうにうなずき、優しく口を開いた。
「わしはホルタザールという」
「わしはメルヒオール」
「わしは、アスパールンじゃ」
再会を懐かしむ涙が、イェースズの頬にも伝わった。肉体的な頭脳では、イェースズはこの三人については何の記憶もない。だが、霊的には分かる。イェースズが物心つく前、つまり生まれた直後、エルサレムに滞在していたイェースズのもとを、わざわざ東の国から尋ねてきてくれた東方の三博士だ。母の話では、黄金と没薬、乳香をくれたという。
今、その三博士が、年老いた姿で目の前にいいる。そうして三人とイェースズは、しっかりと手を取り合った。誰もが泣いていた。
そのあとで、ホルタザールと名乗った僧が驚きの声を上げた。
「なんというすごい光だ」
「光?」
イェースズが尋ねると、ホルタザールはゆっくりと言った。
「あなたの体を、黄金の光が取り巻いておる」
「そうじゃな」
と、アスパールンも話に入った。
「人は誰でも霊衣という目に見えない衣をまとっている。普通の人には見えないが、わしらには見えるのだ。そしてそなたの霊衣は、黄金の光を放っているぞ」
その時、周りの群衆からどよめきの声が上がった。しっかりと手を握り合う四人の周りを、ものすごい閃光がとりまいていたのである。
四人は歩きだした。メルヒオールの住む僧院へ行くとのことだった。ホルタザールとアスバールンはイェースズのらくだに乗り、イェースズとメルヒオールがその手綱を引いて歩いた。
やがて、広場での四人の変容を見ていた群集が、口々に神の降臨と言って騒ぎ出した。そんな人々をかき分け、一行は町外れを目指して歩いていった。群集はもはや畏敬のためか、もう誰もついてこようとはしない。ここまでイェースズといっしょに旅をしてきたユダヤ人隊商のメンバーたちの姿も、もうどこにもなかった。
町外れといっても、そこにたどり着くまでにはかなりの時間を必要とするようだった。
「本当にこんな所で皆さんとお会いできるなんて、神様のお仕組みとしか思えません」
歩きながら、ともに歩いているメルヒオールにイェースズは言った。
「あなたは、私たちのことは知らないでしょう? 何しろ、まだ生まれたての赤ちゃんでしたから」
「もちろん覚えている訳がありませんけれど、あとで母から詳しく聞いています。でも、私ごときを訪ねてきてくださった訳は何だったんです? 母に聞いても要領を得ないので、ずっと気になっていたんです」
「星ですよ」
と、メルヒオールは言った。
「巨大な星が西の方の空に現れましたからね。そのことについて、あれこれと訳なんて考えません。我われは星の動きで未来を予測する術を心得ています。そしてあの時のおきな星は、まぎれもなく偉大な魂の誕生を暗示するものだとして、その星の導きに従ったまでです。何も考えていませんでした。星はうそをつきませんから」
「こんな遠い国から、エルサレムまで?」
「星の導きには、ス直に従うのです。今回も、成長したあなたがこのちを訪れれことを星から読み取って、それでお待ちしていました」
「私が来るのを、知っていたのですか?」
「知っていたというより、そういうふうに星が出ていたのです。あの時と同じ星が出たのですよ。しかも、今度は西ではなく東の空に。あなたは、今回は東から来られたのでしょう?」
「その通りですが。十三の時に故郷を離れて、ずっと東の果ての島国に行っていました」
「今は、確か……」
「二十六です」
「すると、十三年も」
「はい。私がいた国は、ここから東へ七ヶ月くらい歩かねばならないのです」
「そんな遠い所へ……。でももう、故郷は目の前ですよ。ユダヤまでは、ここからだと一ヶ月ほどで着きます」
それを聞いたイェースズの顔が、パッと輝いた。
「もう、そんな近くまで来ていたんですか」
そう分かっただけで、周りの景色が変わって見えてくる。故郷の香りさえ感じられるから不思議だ。
「われわれが行った頃にいたヘロデ王という王は残忍な王だったが、今はもうその王も死んで、ユダヤはローマの属州になっているそうですね」
ヘロデ王という名を聞くと、イェースズは触れられたくない心の傷口が開いたようで、胸が痛む。だから黙ってうなずいただけだった。
しばらく行くと建物が切れてまた広場となり、その中央に円筒形の建物が見えた。太くて低いそれは、石造りで上部は平らだった。
「あれが私たちの僧院、拝火殿です」
メルヒオールが、その建物を指さして言った。その隣にはもっと小さい箱型の、石造りの建物もある。そちらが住居だろう。拝火殿に近づくと、ホルタザールとアスバールンはメルヒオールの手助けでらくだから降りた。
その時、四角い建物の方からやはり三人の老僧が出てきた。その姿を見ると、ホルタザールは声を上げて歩み寄った。
「おお」
そして互いに、しっかりと手を握り合った。
「来ていたのかね」
「突然お邪魔して、すまんのう」
「まあ、祭りも近いし」
「無論、そのために来たんじゃ」
はたでそれを聞いていたイェースズに、メルヒオールが耳打ちをした。
「この国きっての高僧の方々で、右からカスパー、ザラ、メルゾーンというお名前です。もうすぐここで祭りがあるので、北の国から来られたのですよ。あとで、あなたのことも紹介します」
この国きっての高僧といえば、かなりの宗教的指導者のはずだ。イェースズの胸が高鳴らない訳がなかった。
その三人の客人もともに、ホルタザール、アスバールン、メルヒオールも中に入り、イェースズも勧められたのでひんやりとした石の扉をくぐった。
室内もやはり石の壁だが、いたるところに装飾があり、明かり窓も取られている。壁に設けられた燭台の上のろうそくの照明が明るい。
中央のテーブルには、すでに夕食が用意されていた。皿の上には小麦粉を練ったパン、酒、そしてスープなどの料理が乗っている。テーブルの上にもまた、ろうそくがあった。
イェースズを含めた七人は、そのテーブルに着いた。そしてメルヒオールがイェースズとカスパーたち三人の高僧の中に入って、互いを紹介した。イェースズとホルタザールたちの不思議な縁に、カスパーたちは恐れ入った様子だった。このカスパー、ザラ、メルゾールがホルタザールたちよりも僧としては格が上であるらしいことは、その僧衣を見ればすぐに分かった。だが、どういう教えの僧なのか、今ひとつイェースズにははっきりしなかった。そもそもイェースズは母から自分の幼時のホルタザールたちの来訪の話を聞いた時も、それがどのような教えの僧なのかまでは、母は知っていたかもしれないが少なくともイェースズは聞いていなかったのだ。この国の風土はアンードラ国とはぜんぜん違うし、当然バラモンでもブッダ・サンガーでもあり得ない。しかも、このテーブルについているものすべてがギリシャ語で会話をしているところから、もはやここは東地中海の文化圏のようだが、彼らはユダヤ人でもあり得ない。
イェースズのそんな疑問はよそに、カスパーたちの関心はイェースズの遠い東の異国での見聞にあった。だから、イェースズは根掘り葉掘り体験談を聞かれることになった。
「あなたは、このこの世の果てまで見極めてきたのですか?」
「いいえ。この世に果てなどありません。たとえ大地の果てになっても、大海を船で漕ぎ出せば、また陸地があります」
「それをもっともっと行くと?」
「そこまで行ってはいませんが、どこまでも行けば、またもとの位置に戻ります」
六人ともが怪訝そうに、互いに顔を見合わせた。
「この大地の先の海の向こうの島が、霊的に世界の真中心なんです」
そこまで言うと、もはや彼らの理解の範疇を超えているようだった。それでも彼らの好奇心は収まらず、次から次へと質問攻めで、イェースズの方から逆に彼らに対する疑問を切り出す余裕を全く与えてくれそうもなかった。その間もイェースズは、何とか同席する高僧たちの想念を読み取ろうとした。そして強く伝わってくるのは、「火」ということだった。彼らの教えは火と関係がある……? そう思ったとき、イェースズの中にひらめいたものがあった。だから、
「ゼンダ・アベスタ」
と、イェースズは言ってみた。高僧たちの口も動きも、一瞬止まった。
「今、なんと?」
「ゼンダ・アベスタ」
「おお」
声を上げたのは、六人とも同時だった。
「我らが聖典の名を、なぜご存知で?」
「やはり……」
イェースズはパンをとった手を休め、目を上げた。
「あなた方の教えは、ゾロアスターの教えですね」
「いかにも」
と、いうカスパーの声は弾んでいた。
「ギリシャ語ではゾロアスター、我われがザラスシュトラと呼んでいるお方こそ、我われを偉大な光神のアウラ・マツダーにお導き下さった大導師であります」
これでイェースズにはすべてが理解できた。イェースズが幼いころに特に気に入って学んだ『ゼンダ・アベスタ』は、東の国のものだと聞いていた。そして今いるこの地こそがゾロアスターの故地であり、幼時に自分を尋ねてきてくれた目の前のホルタザールたち三人の僧も、ゾロアスターのマギ僧だったのだ。イェースズは、不思議なめぐり合わせに胸を躍らせた。かつてイェースズは幼い頃に『ゼンダ・アベスタ』にあこがれてそれを学んでいたが、彼はその故地を飛び越えてもっと東に行きすぎて、今や『ゼンダ・アベスタ』以上のものを身につけてしまった。その帰途になって、やっと『ゼンダ・アベスタ』の国に至ることが許された。この国がかの東の国よりもはるかに故国に近いのにだ。イェースズは幼少の頃に、聖書の原型が『ゼンダ・アベスタ』であることを見抜いていた。聖書は単に、『ゼンダ・アベスタ』のヘブライ語訳にすぎなかったのだ。そしてさらに高次元に達している今にして考えれば、『ゼンダ・アベスタ』に見える神と人との一体感は、まさしく霊の元つ国の惟神のミチである。だから、『ゼンダ・アベスタ』も本家である霊の元つ国の教えの流れを汲んでいたのだと、今ならば分かる。それも当然で、この地はアダムイブヒ赤人女祖様が霊の元つ国から派遣された土地なのだ。ゾロアスターの教えは火を尊ぶところからも、火・日の系統であることは明らかだ。
「『ゼンダ・アベスタ』こそ、私の出発点でした」
そのイェースズの言葉に、誰もが驚きの顔を見せた。
「ああ、やはり星は嘘をつかない」
目を細めてそう言ったのは、ホルタザールだ。
「我われが昔見た星は、まさしく救世主の降誕を告げるものだった」
「とんでもない」
慌ててイェースズは否定した。
「本当の救世主は、神様です。私はその手足として、お使い頂いているにすぎません」
「するとあなたは神のみ使いの、預言者ですかな?」
カスパーの発言は、まだどうもイェースズの言葉の真意を理解していないようだった。
「おお、そうだ」
と言って、ザラがひざを叩いた。
「もうすぐ祭りだ。われわれもそのために都に来たのだ。その祭りを機会に、この町の人々にぜひあなたの話を聞いてもらおう。われわれだけが聞いているのでは、もったいない」
皆がそれに賛成のようで、カスパーは満足げにうなずいていた。
祭りが行われるのが、この僧院の拝火殿であった。その前の広場は、群集が埋め尽くしている。四方八方より人々は拝火殿を囲み、一様にひざまずいていた。
イェースズには特別の計らいで、拝火殿の真正面に席が与えられた。中の様子がよく見える。壁は内側のみ木の壁の部分があり、いくつかの窓の上には半円形のけばけばしいアラベスク調の紋様が入っていた。床は石畳で、中央には大きな円形の炉が据えられていた。僧は四、五名で、その中にカスパーもいた。皆壁に背を向け、白いかぶりものをかぶって座っている。それぞれの前に座卓があり、そこには祭礼の調度が置かれ、それぞれの右手あたりには小型だが金属製の小さな炉があった。ホルタザールたちは、奉仕者として働いているようだった。
やがてざわめいてた人たちは波を打ったように静まり返り。部屋の中央の炉に火がともされた。皆が一斉にひれ伏すので、イェースズもそのようにした。壁を背に座っている僧たちが鳴り物を鳴らし始めたらしく、下げている頭の先でけたたましくガチャガチャと不断の音がした。
やがて、天まで透き通るかと思うような鋭い声で、祭文の奏上が始まった。
かれ、大いなる光神、アフラ・マズダーよ。スピターマ・ザラスシュトラにかく語りき。スピターマよ。神に義なるフラワシ。勝利に輝く天の栄光を告げん。その光輝は、ザラスシュトラよ、天空を天馳せ巡り、いと高く輝きて大地を包む。そは神霊の界の力動にて立てられ、その輝きは大三界を貫かん。
言語は理解できないまでも、その言霊は脈々としてイェースズの胸を打った。鳴り物のリズムに乗って、僧たちが唱和する声は延々と続く。
イェースズはそっと上目遣いに、視線を上げてみた。炉に燃える火は当然物質の火であるが、そこから燦々と放たれている霊光を、イェースズは強く感じた。
長い祈祷が終わり、静寂が一瞬取り戻されると、人々はごそごそと頭を上げた。僧たちが席を立つと、群集はざわざわと私語を始めた。
「皆さん!」
刺すようなカスパーのひと言が、人々を再び静まり返らせた。彼は拝火殿の入り口に、群集の方を向いて立っていた。最前列のイェースズとは、面と向かって向かい合う形だ。
「今日は神聖な祭りです。ここに集められた人々のうち志あるものは、自由に前に出て話がすることが許されています。我と思わん方は、出てきなさい」
そこで間髪を入れずにイェースズが立ち上がったので、群衆の中でどよめきが上がった。実はこれは前の日の、イェースズとカスパーたちの間での打ち合わせ通りのことだった。
「兄弟の皆さん!」
人々は一瞬静まったものの、再びざわめきだした。そのような表現に慣れていないということもあっただろうが、何よりイェースズがギリシャ語で話し始めたからだ。ただ、人々から伝わってくる波動によれば、彼らのうちの多くがギリシャ語を解すらしい。しかしここでは、もはや顔つきからイェースズを異邦人と思うものはいないようだ。ここの人々はすでに、人種的にユダヤ人と同種なのである。
「今、私は『兄弟の皆さん』と申し上げたのは、皆さんは等しく神のこだからです」
ざわめいていた人々も、次第に静けさを取り戻していった。
「皆さんだけでなく、この地上のすべての人は皆神の子なんですが、その中でも皆さんは特に恵まれています。皆さんが奉ずる教えは、神理にたいへん近い立派なものです。あなた方の大導師のザラスシュトラは、素晴らしい聖者です」
人々の間で、喝采が起こった。それが静まるのを待ってから、イェースズは話を続けた。
「私は幼い頃から、あなた方の聖典である『ゼンダ・アベスタ』を学んできました。私の故国の『聖書』では天地創造は七日にわたって行われたと書いてありますが、『ゼンダ・アベスタ』では七位の大天使によったとなっています。さらには、創造主は唯一無二の絶対的なお方であるとしていることからも、素晴らしい教えだと思います。しかしあなた方は、唯一絶対の善なる神に対し、絶対悪の存在というものを認め、善悪の二元的な世界観をお持ちのようですね。創造主が唯一無二の絶対的善であるなら、なぜ絶対悪が生み出される余地があるのでしょうか。どうかお教え頂けたら幸いです」
人々は、再びざわついた。その状態がしばらく続いたあと、一人の年配の僧がほど近いところで立ち上がった。
「ではお若い方、こちらの質問に先にお答えくださいますかな」
イェースズがしゃべったのと同じ、ギリシャ語だった。
「何でしょう」
「私たちは確かに絶対善と絶対悪の二者で、世界を見ています。しかしその悪を絶対神がお創りになったのではないのなら、いったい誰が創ったと言われるのでしょうか?」
まんまとイェースズの質問誘導にひっかかった訳である。イェースズは本来このような哲学的な論争は好きではなかったが、ここの人々がそれを好むようだから、相手に合わせて下座をして同じスタイルをとることにした。あくまで方便なのだ。それにしても、モノの文化が発達していればいるほど人々は理屈をこね回し、逆にモノがない方が素朴で、原始的で、ス直で、神さながらなのだと、イェースズは今さらながらに実感した。
「創造主は、善一途のお方です。その被造物もすべて善で、ゆえに神様は天地創造の後、すべてをご覧になられて『よし』とされたのです」
イェースズの声は、静まり返った群衆の頭の上を飛ぶ。
「はじめはすべての被造物が善だったのですけれど、神様は人間に人知をお与え下さいました。しかしその人知は、全智ではありません。そして神様は人に物欲、競争欲などもお与えになったのです。それは神様の方のご都合で、必要なことだったのです。しかしそれらからやがて“我”が生じ、それが一人歩きを始めて、人間が神から勝手に離れすぎた結果として悪が生じたのです。悪は人間の所産です。だから一時的なもので、絶対悪ではないのです。神様のご想念は絶対の大調和ですけれど、人間の想念は時には不調和を生み出すのです。それが悪だともいえるでしょう」
「では、神はなぜそれを許したもうたのだ?」
そう叫んだのは、先ほどの僧の近くにいた別の男だ。イェースズはにっこりと笑った。
「あくまで方便として、今は許しておられます。神様もそれを必要とされていますし、今はそういう時代なのです。つまり、神様のお考えによるものなのです。今は詳しく申し上げられませんが、光を知らしめるためには闇も必要なのです。でも、やがて悪は許されなくなる天の時が来ましょう」
神経綸による日神岩戸隠れの因縁など、今ここで話すことはイェースズには許されていない。それだけにもどかしくもあった。人々はまたざわめきだしたが、イェースズはこ今の時点ではれ以上何も言えないので席に着いた。
翌朝イェースズは早くに起きて、誰もいない拝火殿の炉の前に座って瞑想をしていた。
神経綸は人間に物質を使っての地上天国権限の前提としてまず物質を開発させるため、人々に欲心を与え、競争欲を与えた。だが、その欲を十分に発揮させるために火・日の系統は引退を余儀なくされた。だから今は陰光の時代、水の時代なのである。そんな時代だからこそイェースズにもこのような重大因縁の秘め事はこっそり耳打ちされたのだし。決して今世の人々に告げることが許されない内容だった。
その時、人の気配を感じたイェースズは、そっと振り向いた。そこには彼と昨日問答をした若い僧が立っていた。
「おお、あなたでしたか」
僧はゆっくりとイェースズの方に歩いてきた。
「この光は、何ですかな。広場の前を通りかかったら、ここからすごい光が出ているのを感じた。炉の火の光ではない。それで来てみたのですが、あなたから発せられた光だったなんて」
イェースズは目を伏せて、間をおいたあと目元で微かに笑った。
「魂が神様と一体になり、波調が合うと、魂が光明に満たされて、神の叡智が流れ込んでくるのですよ」
僧は少し驚いたような表情で、ほんのしばらく無言で立ちすくんだ。そしてゆっくりと口を開いた。
「どうすれば、神と一体になれるのですかな。どこへ行けば、どこで祈れば、それができるのだ」
僧は真剣に、自分よりずっと年下のイェースズに懇願するように尋ねた。イェースズは、穏やかに微笑んで言った。
「神様と一体になるのに、場所など関係ありません。特定の場所へ行く必要もないのです。私はスーッとし念を凝集させ、神様と大調和のご想念と波調を合わせることができます。神様の世界は、肉の眼では見えません。要は、魂を磨くことです。肉体の五官による一切の執着やとらわれれを捨て去って。物質中心の想念を霊主の想念に切り換えることが大事ですね。すべてを霊的に考え、自らの魂の曇りを落としていかないといけない。そして誰もが神の子で、魂は神様から頂いたもの、本来は水晶のごとく透明で輝く魂だったはずなのです。魂は必ず輝きます。肉の目を閉じて霊の眼を開くことです」
また背後から足音がして、誰か近づいてきていた。振り向くと、カスパーだった。
「ご高説、拝聴しておりました。確かにその通りだと思います。あなたこそが神の智、それが人の姿をして現れてきたお方ですな」
イェースズは困ったような、はにかんだような笑顔を見せた。
イェースズはそのままパルチアのクテシフォンに、数ヶ月滞在した。ここまでいっしょに来た隊商のメンバーも何とか探し出せたが、彼らはこの後ユダヤには寄らず、小アジアのペルガモを通ってローマに行くという。そこで、イェースズはここで彼らと別れることにした。ただ、ラクダだけはそのままイェースズに与えられた。
イェースズはすでに二十七歳になっていたよく晴れた朝、いよいよ故郷を目指して出発することにした。カスパーもまた途中のユーフラテス川まで、イェースズに同行することになっていた。カスパーの郷里は、ここから北へ行った所にある海のほとりだという。海といっても実は湖なのだが、あまりの広さに海としか見えず、水も海水なのだそうだ。
このクテシフォンを洗って流れるチグリス川とともにユーフラテス川というのも、イェースズが幼い頃から聖書で何度もその名になじんでいた川だ。
ホルタザールたちの見送りを受けてクテシフォンの城壁を出ると、城壁の周りはしばらく緑草地だったが、やがてこの地方本来の砂漠になった。悠久の、限りなく広がる大地は、かの島国の霊の元つ国では決して見られない光景だった。見渡す限り一面の、平らな砂の大地なのである。そして遥か彼方には、くっきりと地平線が三百六十度彼らを取り囲んでいる。砂の大地はどこまで行っても途切れることがなく、風景の変化がないので、自分たちがどれだけ進んだかも分からなかった。
ところが出発した翌日の昼前に、砂漠の向こうに町が見えてきた。町と入っても廃墟のようで、人は住んでいないようだ。だがその中央部には朽ち果てた宮殿の柱のようなものが見え、破壊されてはいるが断続的な城壁に町は囲まれていた。雄大にして忽然として現れたこの巨大な廃墟を前に、カスパーは、
「バビロンです」
と、だけ言った。
「え?」
イェースズは驚いて、もう一度その廃墟をしげしげと眺めた。あまりにも巨大で、そしてあまりにも荒れ果てた無人の都会は、朽ち果てた残骸を砂漠の砂ぼこりにさらしている。
町に入り、小さな川を渡ると、そこには宮殿の前庭のような広場が広がっていた。宮殿といってももはや建物ではなく、荒地に折れた柱が数本ばかり立っているだけだ。砕けて転がっているものもある。かつてオリエント世界に覇を唱えた大国の華麗な都が、今はその面影をしのぶよすがとてない。そしてここには、ユダヤ人にとって屈辱の歴史がある。多くの同胞がここに都したバビロニアの兵によって拉致連行され、若い女は犯され、男や年増女は全身の皮がむけるほど鞭打たれて重労働を課せられたバビロン捕囚のその地が、今イェースズの立っている場所なのだ。この地には、ユダヤ人の怨念がこもっているといってもいい。確かにイェースズの霊勘にはそんなどす黒い怨念の塊がひしひしと感じられて、息も苦しくなるほどだった。事実、霊視してみると、数限りないユダヤ人の霊がいまだに怨念を晴らせずに至る所で哭泣している。
イェースズは空中に手のひらを向け、そこから霊流を放射して、いまだにこの地であえぐ霊たちにかかぶらせて救っていった。
そして宮殿の廃墟の中央の太い柱の前で、一息をついて言った。
「バビロンは栄華を誇ったが、多くのユダヤ人同胞をこの地に連れてきて奴隷として酷使した。しかし因があれば必ず果があって、そのバビロンもことごとく崩壊している」
そして、カスパーの方を見た。
「聖書には、バベルの塔という話があるんですよ。それも『ゼンダ・アベスタ』に由来する話ですけれど、人知の思い上がりを戒めるいい話です。人知を至上と思い込んだ人間の浅はかさが、今のこの荒廃を招いたんですね」
そう言ってイェースズはまた霊たちを救って歩いたが、とても追いつくものではなかった。何しろ果てしない怨念は、肉眼でこそ青い空のいい天気に見えるが、霊眼で見るとどす黒い厚い雲になってこの町を、否、この地方全体を覆っている。
「この因縁を解決しなければ、やがて天の時が到来するその前に、この地で大変なことが起こりますよ」
イェースズがつぶやくように言うと、カスパーはただうなずいていた。
それからまた半日ほど進むと、広々とした砂漠の中に左右にだけ緑をはべらせて忽然とユーフラテス川は現れた。満々と水をたたえて右手から左の方へと流れるその川の川岸に出た時、その光景がまた雄大なのでイェースズは驚いた。空には白い雲が三つ、のんきにゆっくりと流れている。それと川面のさざなみだけが動いているだけで、あとは時間をも含めてすべてが止まってしまったような世界だ。
「これが、ユーフラテス川ですよ」
と、カスパーは言った。
「私はこの川に沿って、北上しなければなりません。ここでお別れです」
多勢の隊商とともに来た旅も、クテシフォンからはカスパーと二人のみになったのだが、いよいよイェースズはここからは一人旅になる。
「この川を渡ってまっすぐ西へ行くとあなたの故郷ですが、もう故郷は目の前ですからちょっと寄り道をして、いいものを見ていきませんか?」
カスパーは、ユーフラテス川の黄色く濁った流れを見ながら微笑んでイェースズに言った。
「この川に沿って下流の方へ十日ほど行けば、海に出る間際に一つの町があります。そこが、イブラーヒームの故郷です」
イェースズにとってイブラーヒームというのは、聞きなれない名だった。
「誰です? それは」
「あなたもよく知っているはずの人ですよ。遠い昔の人ですが……」
それ以上は言わず、カスパーは微笑んでラクダの踵を返した。もっと詳しく聞きたかったのだが、もうカスパーは、
「旅の平安を祈ります」
と言って、自分のラクダを上流の方へと進ませていた。
だからイェースズは、
「いろいろお世話になり、有り難うございました」
と、その後姿に頭を下げるしかなかった。
果たして、確かに十日ほどである町に出くわした。砂漠の中に薄茶色の箱型の家がモザイクのようにいくつか重なっているだけの、寂れた町だった。やたら乾燥した風に舞い上げられた砂ほこりが路地を我が物顔に走り回るそんな町中で、イェースズはラクダから降りた。そして町の入り口付近の小さな家の黒っぽい茶色の木の扉を叩いた。
出てきたのは、どっぷりと太った中年女性だった。
「どなた? 何の用かしら?」
言葉は分からなかったが、イェースズは想念を読み取った。
「あのう、ギリシャ語は分かりますか?」
と、イェースズがギリシャ語で尋ねると、婦人は肩をすくめた。
「少しね」
確かにそのギリシャ語は、片言だった。
「私は、ガリラヤから来ました。ユダヤの北の、ガリラヤ」
「あら、あなたユダヤ人?」
なんと婦人の言葉は、そこからヘブライ語になったのである。イェースズは驚いて、返事もしなかった。
「ヘブライ語もそんなに上手ではないけれど、ギリシャ語よりはまし」
そう言って、婦人は笑ってから、
「ところで、何の御用?」
と、もう一度ヘブライ語で聞き直してきた。
「はい。ここがある方の生まれ故郷だと聞いてきましたので。ところでなぜ、ヘブライ語が分かるのですか?」
「ずっとずっと古い先祖から受け継いでいるのさ。で、そのある方とはもしかして」
「イブラーヒームとか」
それを聞いて、婦人はまたにっこりと笑った。
「どなたか、お分かりでなくって? ユダヤの方なら知らないはずないけれど」
「もしかして、この地方の言葉でイブラーヒームという人は、我われのいうアブラハムでは?」
「そうですよ。音が似てるでしょ」
「やはり」
イェースズの顔は、パッと明るく輝いた。
「ここは、アブラハムの生まれ故郷? すると、ウルの町ですか?」
「そうですよ。それにしてもガリラヤからわざわざ?」
「いろんな土地を自分の目で見るために、旅をしているんです。そしてわれわれの先祖のアブラハムの生まれた町へ、ようやくたどり着きました」
「そうですか。よろしかったらお入りなさい」
婦人は依然笑いながら、イェースズを中に招いてくれた。そしてイェースズを二階にと通すと、婦人しばらく姿を消した。部屋には小さなテーブルと、油で燃えるランプがあった。イェースズは小さな明かり窓から、外を見ていた。この家は町の入り口だから、窓からは町の周りがよく見える。そこは一面の砂漠で、聖書で読んでいたイェースズのイメージの「緑豊かな羊の遊牧の地」というものからは程遠かった。
ややあって、入り口のほうが騒がしくなった。そして階段をどやどやと上がってきたのは、この町の人々のようだ。みんな相好を崩している。
「いやあ、あなたですか。ガリラヤからアブラハムの故郷を訪ねてはるばる来られたのは」
みんなそれぞれ地元の言葉でそのようなことを言っていたが、先ほどの婦人がすべてヘブライ語にしてくれた。想念を読み取れば分かるので通訳は必要ないなどということは、決して言うようなイェースズではない。それにしても、こんな小さな町でこんな歓迎を受けるとは思わなかった。アブラハムを慕っての来訪者が来るというのは、この町にとってこんなにも大事件なのだ。イェースズもニコニコして立ち上がった。
「私はついに、我われユダヤ人の祖であるアブラハムの故郷に来て、わが民族の原点をここに見たのです」
「いやあ、友よ」
それを聞いて人々は、口々にそう言った。
「イブラーヒームがあなた方ユダヤ人の祖なら、私たちの祖でもあります。それならば、我われは兄弟ではないですか」
「そうですとも」
別のものが、口を挟む。
「我われはイブラーヒームの長男のイスマーイールの子孫、あなた方ユダヤ人は次男イスハークの子孫」
なるほど、それでこの国の人々とユダヤ人は共通の顔立ちをしており、この地に来てイェースズが懐かしさを感じたのも道理であった。イスマーイールとはイシュマエル、イスハークとはイサクのことに間違いない。ユダヤの民とこの国の民は、実に兄弟なのである。
「二千年もの昔に、私たちの祖であるアブラハムはこの地で生まれ、そして預言どおりに星の数ほどにも増えたイスラエルの父となりました。でも、その血は我われユダヤの民だけではなくて、確実にこの国の人々、つまり皆さんにも引き継がれていたのですね」
人々の間で、歓声が上がった。イェースズはさらに話し続けた。
「アブラハムが讃えた神様は、今でも厳として実在される神様です。かつてアブラハムが愛した緑豊かな大地はもう今はここにはありませんが、いつの日か必ず再びこの地に花が咲き、ぶどうが実り、羊が群れをなすようになるでしょう」
人々は歓喜の渦の中で、こぞってイェースズに握手を求めてきた。
この晩、この家の広間で、イェースズを囲んでの晩餐会が行われた。パンとさまざまな果実に子羊の肉、そしてぶどう酒とヨーグルトなどが食卓を飾っていた。そして宴たけなわの頃、一人の祭司らしき中年男が、広間に入ってきた。人々は、立って一斉に礼をした。祭司とはいってもカスパーのようなマギの僧のようでもなく、かといって故国ユダヤのサドカイ人などとも少し雰囲気が違った。その男を見るなり、イェースズは奇妙な感覚にとらわれた。
男は入ってくるとすぐにイェースズのそばに来て、
「あなたがいるという話を聞き、飛んできましたよ、イェースズ君」
と、言った。イェースズは驚いた。なぜこの男は自分の名前を知っているのだろうか……。
「私は、アシナビといいます」
「この地方最大の聖者です」
と、この家の主でもある婦人が、ヘブライ語でイェースズに告げた。そのアシナビも、宴の席に着くや、
「この方はすごいお方なんですよ。本当の神様の言葉を、あなた方に告げるお方です」
と、イェースズのことを皆に言うのだ。初対面なのになぜ自分のことをこのように言うのだろうとイェースズはいぶかしげに思い、その想念を読もうとしたができない。しかし、このアシナビというのがただものではなくすごい聖者だということは、そのオーラが黄金に輝いているのを霊視すればすぐ分かることだった。
アシナビは、イェースズにぶどう酒を勧めながら言った。
「かつてはこの周辺は、あなたが言ったように牧草地でした。しかも、羊を放牧していたのです」
やはり……と思うのと同時に、イェースズには不思議でもあった。イェースズが先ほどその話をしたのは、アシナビがここに来るずっと前だったはずだ。そこでまたアシナビの想念を読もうとしたが、またもやできなかった。逆に、こちらの方がすべて見透かされているような気がする。
「明日から、しばらくお供します」
アシナビのその申し出は、イェースズに有無を言わさないという感じだった。
それから数日、イェースズはアシナビとともに西に向かっての旅路に着いた。すでに雨季に入っており、冷たい雨がぱらつく日が多い。風もすっかり冷たくなっていた。そうして一月ほど歩くと、平坦な砂漠も終わって緑豊かな丘陵地帯となり、道はちょっとした峠を越えるようであった。そんな晩、いつもと同じようにイェースズとアシナビはテントを張った。だが、イェースズの心はいつもとは違っていた。なぜならアシナビが、ここで一夜を明かせば明日はガリラヤ湖畔に出るといったからだ。思えば故郷を離れて十数年、何度この日を夢に見たか分からない。その故郷に戻る日が、とうとうやってきたのである。それを考えるたびに、イェースズの胸には熱いものがこみ上げてきた。
「どうですか。故郷へ帰る気持ちは」
テントの中のろうそくの明かりの中で、アシナビが言った。
「複雑です。故郷といっても、もう記憶も定かではありませんし」
「故郷に戻ってから、あなたは何をするのですか? 大工を継ぎますか?」
「え?」
イェースズはまた驚いて、アシナビを見た。死んだ父の生業が大工だったことは、まだアシナビには告げていないはずだ。
「どうして大工だと?」
「まさか大工をやるために、故郷に戻るのではないでしょう?」
イェースズの疑問ははぐらかされ、アシナビに自信たっぷりに言われてしまったので、イェースズにもいたずら心が生じた。
「はい、大工をやります」
しかしアシナビはもう、イェースズの冗談の意味が分かっているように微笑んでいた。
「人間の魂を建て直す大工ですね」
アシナビの方が、一枚上手のようだ。
「やられました。その通りです。神理のミチを説いて人々の霊眼を開かせ、神様から勝手に離れすぎている人類に歯止めをかけること、それが来るべき天の時に向かって私がなすべきみ役であり、神の御用だと思います」
その後、アシナビはしばらく何かを考えているようだった。そして、目を上げた。
「一度故郷に戻ったら、その後でエジプトに行ってほしい。そこに我われの太陽神殿、ピラミッドがある」
「あッ!」
イェースズの中で、すべての疑問が氷解した。アシナビはナザレ人と呼ばれるエッセネ教団の、その聖者だったのだ。エッセネ教団とは、イェースズの亡き父や、そして母が所属している教団である。だから、今ここにこの男が現れたのも決して偶然ではなかったのである。全世界に張り巡らされたユダヤ人の情報網の中でも、ひときわ緻密なのがエッセネ教団の連携であり、イェースズはカリンガ国シシュパルガルフのジャガンナス寺院を飛び出すまでの間、自分でも気付かないうちに彼らの監視下にあったのだ。いくら彼らの情報網でもさすがに霊の元つ国にまでは把握できなかったにせよ、彼らにとってメシアの母候補の生んだ失うべからざる子であるイェースズが長い行方不明からやっとその消息が知れ、しかも故郷を目指しているという情報を得たのだろう。アシナビは、そんなイェースズの護衛として派遣されたのだ。
「エジプトにお行きなさい」
アシナビの言葉は、すなわち教団の指示だった。エジプトは言うまでもなくエッセネ教団発祥の地であり、今でも一大拠点である。アシナビがイェースズをエジプトに誘うのは、至極当然のことなのである。今のイェースズは地上の教団などという存在をすでに超越しているのだが、だからといって無関係を装うほど傲慢にはなっていない。イェースズにとってもエジプトは、その幼少期を過ごした土地でもある。
「エジプトには、ヨハネもいますよ」
「ヨハネって、あのヨハネ?」
ヨハネなどというのはそう珍しい名でもないので、イェースズは一応確認した。
「あなたの従兄です」
しかしイェースズの記憶にあるヨハネは、今でも少年でしかない。しかし、自分より年上なのだから、彼もすでにいっぱしの青年になっているはずだ。イェースズは、無性に会いたくなった。
「分かりました。エジプトには参ります。でも、やはり私が留守中に父が死んだので、一度は故郷に戻りたいのですが」
「それは当然ですね。いいでしょう」
アシナビは、しばらく黙った。それから、
「あなたのお母さんも、きっとあなたにエジプトに行けと言うはずです」
と言った。
「有難うございます」
「私は一足先に、エジプトのナザレの家に行ってあなたを待ちます。明日、とりあえずお別れしましょう。あなたはお一人で故郷にお帰りください」
そう言ってアシナビは、にっこりと微笑んだ。