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イェースズは大きな湖の岸に立った。まぎれもなく、夢にまで見たガリラヤ湖だ。その広さはまるで海のようだが、それでもいつしか彼はあの霊島の北国のトー・ワタラの湖を思い出していた。そのトー・ワタラの湖を見ていた時はこれが故郷のガリラヤの湖だったらなあなどと思っていたものだが、今や正真正銘本物のガリラヤの湖の前にいるのである。そのこと自体が、夢のようであった。
今やアシナビとも別れて、イェースズは一人である。そして目指す懐かしい故郷のカペナウムは、この対岸に当たる所になる。真正面よりも右手の対岸に町が見える。あれがカペナウムだろう。湖の周りは緑豊かな高原だ。湖畔に立つとなだらかな丘陵のようにも見えるが、湖水はそのすり鉢状の下にある。
太陽は湖の向こうの西の方へとすでに高度を低くしていた。早く渡らねば、日が暮れてしまいそうだ。母は自分の突然の帰郷に驚くに違いないが、弟たちはどうだろうと気が急くが、湖を渡る方法がない。竹のさおを二本投げれば水上を歩けない訳でもないイェースズだが、この土壇場でそれはしたくなかった。
見ると、すぐ近くで漁師が漁から帰ったようで、網をいじっている。
「申し訳ありませんが、向こう岸まで船に載せてくれませんか?」
イェースズの問いかけに、漁師は顔を上げた。若い漁師だった。イェースズは、故郷に帰ってきたのが夢ではないことを確認したくて、わざと十四年ぶりに使う故郷の言葉のアラム語で聞いてみた。
「カペナウムにいくんですか?」
アラム語が返ってきた。そのことが、イェースズにとっては飛び上がらんばかりにうれしいことだった。
「は、はい」
「いいですよ」
漁師は、気前よく船を出してくれた。
対岸に着いた頃は、もうすっかり宵闇が辺りを包んでいた。
漁師はイェースズを下ろすと、慌てて引き返そうとした。そうしないと、彼が帰りつく前に暗くなってしまう。
「有難うございます。助かりました。お名前は?」
「シモンです」
イェースズはそのシモンの手を取った。シモンは怪訝そうな顔をしていたが、イェースズにとっては帰郷以来はじめて会話をした故郷の人がこのシモンなのだ。
そのシモンと別れて宵闇迫る町を歩きながら、ここが自分の生まれ育った町だと思おうとしても、なぜか実感がわかなかった。旅の途中で立ち寄ったどこにでもある漁村のように思えて仕方がない。全く記憶がない訳でもないが、かなりそれらは断片的なものだった。それでも湖岸のちょっとした林など、確実に思い出のベールを剥ぎ取ってくれる。ここが自分の故郷なのだと、イェースズは無理にでも思おうとした。そうすることによってようやく彼は、帰郷の感慨を覚えることができた。東西の交易で栄えている町だけに夜になってもにぎやかで、灯りもまぶしかった。ようやくガリラヤの風を確実に感じたイェースズは、行き交う人すべてに声をかけたい衝動に駆られた。町のたたずまいは記憶を刺激はしたが、まるで初めて来る町と感じてしまう部分もぬぐい去り得なかった。ただ、自分の家に向かう道だけは、間違えることはなかった。
イェースズは、ついに戸口に立った。だが、その黒光りの木の扉を押すのに、ずいぶんと時間が必要だった。その時彼は自分が旅でぼろぼろになった衣服を着て、ひげも髪も伸び放題になっていることを忘れていた。
何とか、ドアを押した。ろうそくにともされた室内が、すぐに目に入った。最初に見た室内の人は青年で、ドアが開くとともにこっちを振り向いた。ほかにも二人ばかり、若者がいた。最初の青年はイェースズを見ると胡散臭そうな顔をし、
「こんな暗くなってから誰ですか。今日は忙しいんですよ。兄が旅から帰ってくるんでね」
その顔と声に、イェースズは胸が熱くなって言葉も出ずにいた。するとその青年の背後から、鋭い声がした。
「イェースズ!」
母のマリアだった。白髪が増えたな……少し老けたな……そんなことをイェースズはほんの一瞬の間に考えた。兄を見ても兄だと気付かなかったイェースズの弟たちは、まだ呆気に取られてイェースズを見ていた。
「イェースズなのね!」
「母さん!」
イェースズはやっと声を発すると、母子はしっかりと手を握り合った。すでにマリアの瞳は、潤んでいた。この時はじめてイェースズは、自分が故郷に帰ってきたのだという実感を持った。母の潤んだ瞳を見つめ、その髪に手を伸ばしてみた。まぎれもなくここは故郷で、目の前にいるのは母、そしてここは自分の家なのだ。
「イェースズ、よく帰ってきたね。今日を指折り数えていたんだよ」
マリアはそれだけ言うと、どっと泣き崩れた。その震える背中をいたわるように、イェースズは母をやさしく抱き起こした。
「母さん。突然帰ってきてびっくりしたろう」
「いや。知っていたんだよ。今日、おまえが帰ってくることはね。全部ナザレの家の人が知らせてくれたんだ。今日、この時間におまえは戻るって」
エッセネの人たちの情報網の緻密さには、イェースズはあらためて驚かされた。そして、再会を喜ぶ母子の背後の若者たちに、イェースズは目をとめた。そして、最初に見た青年の方へ、イェースズは近づいた。
「おまえ、ヨシェだろう」
ヨシェはそう言われても、無表情でイェースズをも見ていた。イェースズは、にっこり笑って見せた。
「面影が残っているなあ」
それでもヨシェは、無言だった。そのことをいぶかるよりも前に、母がイェースズをヨシェからはぎ取った。
「とにかく、裏で水を浴びておいで」
確かにイェースズは乞食同然で、汚いし臭い。そのことが自分でも分かっていたイェースズは、裏へと行った。そこは建物と建物との間のわずかな空間で、屋根はない。いわば露地のようになっているが、幼い頃もここで水浴びをしたという記憶がよみがえり、イェースズは頭がクラッとする思いだった。それでもまだ自分の家にいるということが、夢のように思われてならない。イェースズはそこで水を浴び、ひげと髪の手入れもしたが、ひげはあえて剃らず、髪も長いままにした。
そうして母の用意した新しい服を着て、イェースズは再び家族の前に出た。その時、誰もが一瞬だけ
「おおっ!」
と声を上げた。イェースズは自分の体から黄金の光が発せられていることを自分でも感じ、それは家族の目にも見えたようだった。だが弟たちは次の瞬間には、また遠巻きにイェースズを冷めた目で見ているのだった。ヨシェやヤコブはともかくイェースズが家を出たときにはまだ幼かったユダは、おそらくイェースズのことは記憶にないのであろう。ただ、話に聞いていただけにすぎないはずだ。
「この人がお兄ちゃん?」
弟たちの後ろから突然小さな少女が前に出てきて、マリアにそう聞いた。
「そうだよ。初めて会うんだよね」
マリアは、少女にそう言ってからイェースズを見た。
「おまえの妹だよ。ミリアムっていうんだ。おまえがこの家を出た後に生まれたんだよ」
「へえ、妹ができていたなんて」
イェースズは初めて会う妹に手を伸ばし、その手を取ろうとした。だがミリアムははにかんだように後ずさりし、マリアの後ろに隠れた。
「今日はおまえのために、ご馳走を作っていたからね」
マリアがイェースズを、食卓へと招いた。食卓といってもテーブルはなく床に直接座って食べるのだが、弟たちは誰もいっしょに席に着こうとはしなかった。たとえイェースズのように霊道が開けて即座に相手の想念が読み取れるものでなかったとしても、この弟たちがイェースズにいい感情を持っていないであろうことは容易に知れるはずだ。
マリアが席に着いたので、イェースズも弟たちを気にしないふりをして席に着いた。ろうそくに照らされた床にはパンとぶどう酒、子羊の肉、果物などのご馳走が並んでいた。弟たちはまだ席に着こうとしない。そればかりかどす黒い想念がかたまりとなってイェースズの方に飛んでくるのだ。
「まあ、おまえたち。早くお座りよ」
マリアは軽くそう言っただけで、すぐに視線をイェースズに向けた。
「大変だったねえ。でも、すっかり大人になって」
「いろいろご心配をおかけしました」
イェースズが頭を深く下げるので、マリアは口に手を当てて笑った。
「まあ、他人行儀に」
「いえ、なんだかまだ落ち着かなくて」
長い旅路においては、自分の家という存在に対する感覚が鈍っていた。ただ、分かってはいたことではあったが、すでに父がいないということを現実として知ることになり、急にイェースズは寂しさを感じ始めた。
弟たちは突っ立ったまま、イェースズをにらみつけるような目で見ていた。ヤコブの想念が、伝わってくる。
――なんだ、この男。俺たちの兄貴だっていうことらしいけど、突然にやって来て。訳の分からない所をほっつき歩いて、無一文になったからといって戻ってきただけの、ただのフーテンじゃないか。父さんが死んだ時さえ、いやしなかった……。
彼らにとって十数年ぶりに戻ってきた兄など、兄とはいってもどうしようもないエトランゼなのだろう。それは無理のないことだと、イェースズも思う。今まで彼らだけで、イェースズのいないこの家を運営してきたのだ。ただ、ヨシェだけはその記憶の中に兄の印象が残っているだけに、複雑な心境でいるようだ。
「母さん!」
そのヨシェが、突然口を開いた。
「僕らずっと家にいたのに、僕らのためにこんなご馳走を作ってくれたことはなかった」
「なあにを言っているの」
マリアは取り合わないというふうに、大笑いをした。
「おまえたちはずっと私のそばにいたじゃない。でも、お兄さんはいなくなっていたはずなのに、今ここにいるのよ」
おそらくマリアはただ何気なく言ったのであろうが、その言葉がイェースズの胸の中にやけに残った。マリアはイェースズを見た。
「ずいぶん、いろんな所に行ってきたんだろう? エッセネの人たちの目の届かない所まで」
「はい。最初のアンードラ国に三年、それからユダヤ人の隊商に加わって、東の果ての国、太陽の国に長く住んでいました」
――この大ほら吹き、山師、ペテン師め……。
弟たちのどす黒い想念は、ますます強くなってきている。
「ねえ、お母さん」
何かを思い出したように、ミリアムは立ち上がった。
「この人、本当に私のお兄ちゃんなの? 証拠はあるの?」
「本当よ、母さんが見て間違いないって言うんだから、偽者のはずないでしょう」
「どうして、お父さんが死んだ時もいなかったのお? いろんな所に行ってきたっていうけど、そんなにすごい人なの?」
「まあまあ」
マリアは憤る娘を何とかなだめた。
「そんなことより、ご馳走がもったいないわよ。みんな、席に着いて!」
弟たちも仕方ないという感じで、イェースズとは距離を置いて床に寝そべった。
翌日はいい天気で、空も青かった。
イェースズは昨日着いたのが暗くなってからだったので、明るい日差しの中の故郷の風景が見たいと思って、外に出た。その時、亡き父の仕事場であった所でいちばん上の弟のヨシェがもう作業に入っていたので、イェースズは声をかけた。
「ちょっと散歩したいんだけど、いっしょに来ないかい?」
ヨシェはやけに緊張したような目でイェースズを見た。
「午前中はだめだね。木の腰掛けの注文が来てるんだ。午後ならいい。僕も兄さんに話がある」
「分かった。湖のそばで待ってる」
それだけ言うと、イェースズは外に出た。
かつて少年イェースズが走っていた生まれ故郷の町を、成長したイェースズは歩いた。わずかばかりの思い出を拾うとことはできたが、鮮明に覚えている建物はまれだった。ただ、昔は広く感じられた道もやけに狭く感じられ、家から湖まではかなりの距離を歩いた記憶があったのに、実際は家から目と鼻の先が湖畔だった。巨大な町と思っていたこの町さえ、こんな小さな町だったのかと拍子抜けするくらいだ。ここが故郷と意識して来なければ、今まで見てきた世界各国の村や町のひとつと同じような感覚で通り過ぎてしまっていたかもしれない。それでもイェースズは、包み込むような優しさを感じた。子宮の羊水の中につかっているかのように、故郷の風景の暖かさを実感した。
町外れの小さな川の川原で子供たちが遊んでいるのが、石橋の上から見えた。ちょうどあの子供たちと同じくらいの年齢の頃に、イェースズもこの川原で遊んでいたのだ。そして気がついたことは、この町は今も何ら変わっておらず、変わってしまったのは自分の方だということだった。
イェースズはそのまま湖畔に出た。町と湖畔の間は林になっているが、木と木の間は十分に離れていて景色はよく見渡せる。
この町を離れる直前に、この場所でヨシェに父と母のことを頼んだ。そのヨシェももう一人前の大人になっており、間もなくここに来るはずだ。すでに太陽は中天にまで昇っている。
イェースズは、湖の景色を見ながらしゃがんだ。そして、どうやって家族を神のミチに導けばいいのだろうかと考えた。人類を霊的に目覚めさせる使命を帯びて戻ってきた以上、まず自分の家族を目覚めさせなくてはならない。家族すら導けない想念では、人類など救えないと考えたのだ。
しばらくして、彼は立ち上がった。ここで考えていても仕方がないと思ったのだ。すべては神のみ意にお任せだと思ったイェースズだが、もちろんやるべきことをやった上でのお任せでないとならないと同時に自戒した。
その時、背後に人が立っているのに気がついた。振り向くとヨシェだった。イェースズは笑顔を作ったが、ヨシェの表情は変わらなかった。だが、その目元あたりがハッとするほど自分に似ていると、イェースズはあらためて実感した。まぎれもなく、自分と血を分けた兄弟がここにいるのだ。イェースズはそんな弟を見た後、視線を湖畔に戻した。広大な水をたたえるガリラヤ湖の水面は、今日も穏やかだ。ヨシェは、無言のまま兄の背後に立っていた。
「ヨシェ。覚えているかい?」
イェースズは背中で言った。
「私がここを離れる前に、ここでおまえとこうして湖を見ていたな」
「あの時の……」
ヨシェは、ボソッと言った。
「本当に、あの時の兄さんなんですか?」
イェースズは笑顔で振り向いた。
「そうだよ。当たり前じゃないか。なぜ、そんなことを聞くんだい?」
「だって、兄さんは変わりすぎた。遠い人になってしまったようだ」
「それはお互い様じゃないか。時がたてば誰でも年を取るんだ。私もおまえも大人になった」
「そういうことでは、ないんだ」
ヨシェは、じっとイェースズを見ていた。そこで、イェースズの方から口を開いた。
「肉親という感じがしない、他人のようだって、そう思っているんだろう」
ヨシェの顔が、急にこわばった。
「察しがいいですね」
「それに、自分には兄がいたが、もう死んだものと思っていた。エッセネの人たちの目が届かない所まで行ってしまって、父さんが死んだときも戻ってこない兄なんて、もう死んだも同然……そう思っているだろう」
あまりにも図星を突かれて、ヨシェは言葉を失くした。ヨシェはどうやらイェースズが勘が鋭いだけでも、読心術があるというだけでもないことに気付いたようで、その驚きの想念波がイェースズにはひしひしと伝わってくる。
「兄さんはいったい今まで、どこで何をしていたのですか?」
「私はある所で修行をしていた。そして、大きな使命を持って戻ってきたんだ。神様のお使いとしてね」
その時、イェースズの体からまた黄金の光が発せられ、ヨシェは目を覆った。その間に、イェースズは懐から短剣アマグニ・アマザのうちの一振りを取り出し、袋から出して抜身をヨシェに見せた。ヨシェはたちまち血相を変えた。
「兄さん、それは危ない。殺されますよ。兄さんはずっとこの国を離れていたから知らないだろうけど、今ローマ当局は血眼になっているんだ。だめですよ、そんな滅相もないこと」
ヨシェがどのような勘違いをしているのかも、イェースズは想念を読んで分かっていた。だが、あえて反論はしなかった。
一人の婦人がイェースズの家を訪ねてきたのは、二日後のことだった。ちょうど夕食の時間となって家族と食事をともにしたその婦人、サロメは上機嫌だった。何しろ、十数年ぶりのイェースズとの再会なのだ。しかも子供だったイェースズは、立派な若者になっている。だが、イェースズの方にしてみれば、この初老の女に関する記憶はわずかしかない。サロメがイェースズと深くかかわっていたのは、もっぱらイェースズがまだ幼児期だった頃のことだ。かつてイェースズの母マリアとナザレの家でともにメシアの母候補として修道生活をしていたサロメは、マリアがヨセフのもとに嫁いでイェースズが生まれてからは、イェースズの養育係のような立場でイェースズと接してきた。いわば、イェースズの家族にとってはエッセネ教団の窓口のような人だった。
だから食事をしながらのサロメの話は、ほとんどがイェースズの幼児期の話ばかりだった。
「本当に信じられないわ。あんな小さかった子供が、こんな若者になって。ねえ、マリア」
サロメは饒舌だ。マリアもうれしそうだった。
「ええ、この子も突然戻ってくるものですから」
「エジプト本部からの知らせで、私も飛んできたのよ」
そのエジプトという地名を耳にしたイェースズは、心に弾けるものがあった。ここへ戻る直前まで同行していたアシナビと、エジプトへ行くという約束をイェースズは交わしていたからである。
「ねえ、マリア。思うんだけど、イェースズにもそろそろエジプトに行ってもらったら?」
「そうねえ。私もそう考えていたの」
アシナビの言った通りだった。家に戻れば、イェースズは母からも必ずエジプト行きを勧められるとアシナビは言っていたのだ。
「エジプトに、何かあるんですか?」
アシナビから聞いて知っていたのだが、イェースズはわざと鎌をかけた。サロメはにっこりと笑った。
「エジプトには、ヨハネも行っているのよ」
これもイェースズはすでに聞いていたが、わざと驚いて見せた。アシナビはヨハネをイェースズの従兄と言っていたが、正確には母マリアの従姉のエリザベツの子だから、イェースズにとっては又従兄になるのだが、そのヨハネはイェースズの子供のころはいちばんの遊び相手だった。
「あのね、イェースズ」
と、マリアが口を開いた。
「エジプトには太陽神殿があってね、エッセネの男の子は一人前になったらそこに籠もって試験を受けて、合格してはじめて一人前のエッセネ教団のナザレ人と認められるのよ」
もともとサロメの来訪は、イェースズをエジプトに連れて行くのを目的とするエッセネ教団からの派遣であることは、想念を読み取るまでもなくすぐに分かることだった。イェースズは断る理由もなく、むしろアシナビにはすでにエジプトに行くことは言ってある。それに、何よりもヨハネに会いたかった。ここで自分が使命を果たすそのよすがに、どうもヨハネがなりそうだという予感がイェースズはしていたのである。今、自分が会うべき人物はヨハネに違いないと、イェースズの中ですでに確信ができていた。
「このガリラヤの地にエッセネの教えをもっと広めるというのが、死んだお父さんの願いだったわ。それをお父さんは、おまえに継いでほしかったのよ」
今、エッセネ教団に所属しておく方が自分の使命を果たすための方便としても有利なのではないかと、イェースズは考えた。別に功利を狙ってではないが、神のためにいちばん最良の方法を工夫しなければならないのである。
「明日、エジプトに行きます」
と、イェースズは言った。まだ故郷の町に帰ってきてから数日しかたっていないが、いつまでも感傷にふけっているだけでいいイェースズではなかったのである。この申し出にマリアは驚き、サロメは喜んだ。
そしてその翌日、イェースズは本当にガリラヤを後にした。
サロメはラクダ、イェースズは徒歩でまずガリラヤ湖沿いに南へと向かった。今が大地の緑のいちばん美しい季節だった。イェースズが歩いているのはまぎれもなく故国の山河で、その明るい陽春の真っ只中にイェースズはいる。
ガリラヤ湖の南の端、ヨルダン川が流れ出すあたりまで来ると、サロメは進路を西へ向けた。そうして、なだらかな丘陵を越える。ここまで来るとすでにガリラヤではなく、その異邦人の国のサマリヤだ。ガリラヤは今でもヘロデ、・アンティパスが治めているが、このサマリヤはユダヤ本土、イドゥマヤなどとともに今ではユダエヤ州というローマの属州となっている。ここを通って次の日には大海の岸に出る。そこにあるのはカエサリアの町で、ローマの知事が常駐する町だ。ここはエルサレムにも負けない大都市で、ローマが造っただけにまるで異国に来たような風情だった。何よりも目を引くのは、北のカルメル山から延々と続く大水道のアーチだった。しかしこれを造ったのはローマ人ではなく、かのヘロデ王なのである。それでも町の中はローマ人があふれ、ローマ兵の姿も目を引いた。ガリラヤを治めるヘロデ・アンティパスとて、ローマの傀儡に他ならない。
幼い頃、乳児であったイェースズを連れて両親がエジプトに向かったのは、この道ではなかったはずだ。その頃のサロメとイェースズも昔は婦人と幼子だったのが、今では老婆と男になっている。そんな二人は今回は先を急ぐので大海を船で行くことにしたのであった。当然、エルサレムには寄らないことになるが、故国にいればエルサレムはいやでもまた来ることになる。故国に帰ったからとて、旅を終えて安堵できるイェースズではない。大いなる使命を持ってこの地に派遣されたのも同然だ。その故国は今やローマの直接統治下にある。そんな不穏な空気の中を、イェースズはかつて祖先のモウシェの出エジプトと逆のコースを船で南下していた。ただ、これまでの長い旅と違ってありがたいことは、夜になっても野営をする必要がなく、旅館に泊まれるということだった。そして船で三日ほど穏やかな海を進むと、太陽の光も心なしか強くなったように感じられた。いよいよ南国に到着した。
やがて行く手の大地に、緑がおおらかに横たわって見えてきた。そして近づくにつれ、緑はどんどん大きくなる。
「あれはナイル川の下流の三角州で、あの森の向こうにアレキサンドリアがあるのですよ」
そうなると、いよいよエジプトに到着したことになる。やがて緑の大地と砂漠との境目の海沿いの、アレキサンドリアの町に船は着いた。ここはカエサリアと同様ローマ色が強かった。町の中はローマ風の甲冑をつけた兵や護民官の姿が目立つ。だが、エジプトは、正確にはローマの属州ではなかった。プトレマイオス朝滅亡後にローマに支配されるようになったエジプトだが、その人々は長い間祭政一致の王政に馴染んでいたので、総督や知事ではなく皇帝が王、すなわちファラオとして直接統治する必要があった。そのため、皇帝は自らの代理としてエジプト領事を派遣して治めさせていたのである。従ってエジプトは、属州というよりむしろローマ皇帝の私領なのである。
町は人ごみでいっぱいだった。ちょっとした路地をのぞくと、店頭に袋を山積みにした店がいくつもある。香辛料を売る店らしい。ある骨董品屋では驚いたことに、店先であのシムの国でよく見た青い紋様の陶器が売られていた。聞けば、やはり東の国から来たのだという。手にとって見ると、底の部分にはまぎれもなくシムの国の文字が入っていた。
町の中で威容を誇っていたのが、四百本もの巨大な柱に支えられた大図書館だった。完全にローマ建築だ。ほかにも競技場や劇場など、ローマの建築が多数ある。だがそんな強い日ざしと砂ぼこりと潮風のアレキサンドリアに、イェースズたちが滞在したのはたった一泊だけだった。すぐにサロメたちの修院のあるタニスという町にいくという。そして最終的に目指すのはヘリオポリスであるということも、イェースズは告げられた。ヘリオポリスはここから南へとナイル川沿いに三日ほどさかのぼった所にあるという。そこは太陽の都といわれる所だと聞き、それだけにイェースズにとっては自分が今そこに行くことがごく当然のことのように思われた。
二人は進路を東に取り、ナイル川下流の三角州の緑の多い地帯を旅した。やがて何本もの川を渡って何日か歩くと、前方からイェースズが忘れかけていた霊流が自分にぶつかってくるのを感じた。果たして、遠くの砂漠の中に三角形が屹立しているのが、砂ぼこりの中に望まれた。三角錐の人造物は、ピラミッドだった。はるか東方の霊の元つ国の日来神堂から感じた霊流と同じものだが、かの国ではそれが自然の山だったのに対して、こちらは人工の山だ。まだ遠くて細部はよく分からないが、見事な直線の三角のシルエットが砂漠の中に浮かんでいた。
ところが、まだそれが遠いうちに日が暮れてしまった。だが、サロメは全く慌てていなかった。そんな時、川沿いのやしの林に抱かれて、村があった。その村の入り口に、サロメと同じような尼僧姿の老婆がいた。イェースズとサロメが近づくと、老婆はゆっくりと歩み寄って相好を崩した。気品のある老尼僧だった。
「どうもご苦労様でした。ようお連れ下さいました」
ラクダから降りたサロメに老尼僧はそれだけ言うと、すぐに視線をイェースズに向けた。
「まあ、あなたがイェースズなの? 本当に、あの……」
老尼僧は、うれしそうにイェースズを見ていた。イェースズはただ困惑して、はあとしか言えなかった。サロメが、その老尼僧をイェースズに示した。
「このお方はエリフ様といって、エッセネ教団のユダヤ州での大元締めのお方です」
つまりは、偉い人のようだ。
「まあ、大きくなりましたね」
この年になって「大きくなった」と言われるのには、はにかみがあった。
「何しろこんな小さい時」
と、エリフは手のひらを下にして子供の背丈くらいを示した。
「あなたはここにいたのですよ。このタニスの聖林で、あなたのお父さんやお母さんといっしょに暮らしていたのですから」
そう言われてあたりを見回しても、イェースズの記憶の中に蘇るものは何もなかった。
「ここがタニスなんですか?」
「ええ、古代のエジプトの都でもあった町ですよ。タニスというのはギリシャ語でして、ヘブライ語ではツォアンといいます」
「え? ツォアン?」
イェースズは驚きの声を上げたのも無理はない。ツォアンといえば聖書や詩篇に、神が奇跡をなしたと記されている町だからである。出エジプトの時のモーセも、この町から出発したともいわれている。
「今日はここに泊まって、明日ヘリオポリスに向かいましょう」
サロメにそう促され、イェースズはその背中について行った。イェースズにとっては二十数年ぶりにここに来たということになるのだが、感覚的には全く初めての土地である。イェースズは、ふと思いついて急に気になりだしたことをエリフに聞いた。
「あのう、ヨハネもここにいるのですか?」
エリフは振り向いた。そして、首を横に振った。
「残念ですけど、一足違いでヨハネは国許に帰りました」
「ユダヤへ?」
「はい。あの方も、大変なみ役を頂いています」
「そうなんですか。実は子供の時以来、彼とは会っていないのですけど」
「あとで、詳しくお話します」
エリフはにこやかにそう言ってから、また前を向いて歩き始めた。イェースズはまた、それについて行くしかなかった。
ろうそくの数も多い明るい部屋の中は、エリフとサロメ、イェースズの三人だけだった。
「あなたのお父さんは、とても強い意志をお持ちでしたよ」
エリフの話が父の話題に及んだので、イェースズは思わず身を乗り出した。
「そしてその遺志をあなたに継いでもらいたいと、今はの際まで口癖のようにおっしゃってました」
父の遺志とは、イェースズにとって寝耳に水だった。父が自分に望んでいたのは、イェースズの記憶では早く一人前の大工になることしかない。しかも、どこへ行ってしまったか分からない遠い異国で行方不明になっていた自分に父はいったい何を託したのだろうかと、イェースズは気になった。
「あなたのお父さんは、単に大工としてあなたを育てようとしたのではありません。もっと深い志があったのです」
エリフの顔がろうそくに照らされ、薄赤く揺れている。
「ここだけの話ですが、あなたのお父さんは、ご自分にできなかったことをあなたに託されようとしたのです」
「自分にできなかったこと?」
あまりの話の唐突さに呆気に取られ、イェースズはエリフの想念を読むことすら忘れていた。
「今、ユダヤの神の教えは、混沌としています。パリサイ人、サドカイ人など、いろいろな宗門宗派に分かれています」
「ええ。それはどの国でも同じようで、たいていの社会は文化対立し、相争っています」
「神様は、御一方です」
「それなのに、今世の社会は全く神のみ意は伝えていないバラバラ事件です」
イェースズは笑みを見せた。エリフの顔も穏やかに笑んでいた。
「ですから、あなたの父さんも、そんなユダヤの教えを改革しようとなさっていたんです」
「それが父の遺志……」
父がそんな志を持ち、しかもそれを自分に托そうとしていたなど初めて聞く話だった。記憶の中の父は何らそんなそぶりさえ見せたこともなく、ただの大工にすぎなかった。あるいは時期を見て自分に打ち明けようとする前に、自分は故郷を飛び出してしまったのかもしれない。しかし、待てよとも思う。思い当たる節もあるのだ。自分が「ゼンダ・アベスタ」や「聖書」に必死にかじりついているのを、父は黙認していた。普通の大工の跡継ぎを育てたいと思う父親なら、それも大事だがもっとカンナの削り方も覚えろと言っていたかもしれない。だが、ついぞイェースズは父からそのような言葉を聞いたことはなかった。むしろ黙認どころか、父としてはイェースズのそんな姿を喜ばしく思っていたのかもしれない。そしてイェースズが旅立ったのも、将来に備えて世界を見せようとした父の思いからのことだったことも考えられる。
「つまり父は、ユダヤの教えをパリサイだのサドカイだのと争っている状況から建て直し、真実の神様の教えに近づけようしたのですか」
「そうです。お父さんは、神様を真中心とした自主独立のユダヤを夢見ていました。そしてそれを自分ができなかった分、後進に托すお考えで二人選んでいたようです。一人はもちろん、あなた。そしてもう一人は、ヨハネです」
意外な名前が出た。
「ヨハネと二人で、父の遺志を継ぐんですか?」
「あなたは霊の面でヨハネは体の面、つまり、あなたは火でヨハネは水です。二人で十字に組んで、お父さんの遺志である大業を成し遂げてほしいんです」
「で、そのヨハネは、今は?」
「すでにユダヤで、一足先に活動に入っています。もう、多くの信者がいます」
「では、私もすぐにそこに行けと?」
「いいえ。あなたはここで、エッセネ兄弟団のテストを受けねばなりません」
「テスト?」
今お伝えした大業を成し遂げるには、エッセネ教団を基調にしなくては、お父さんのご遺志ではなくなります。お父さんはこのエジプトの地からエッセネの教えをユダヤに伝え、それによってユダヤの宗教の改革を図られたのです。ですから、あなた方もエッセネの一員として活動してほしいのですが、それは必ずしも教団の組織内で動かなければならないと言うことを意味するものではありません。自由になされて結構ですが、一応前提として入団儀式はしなければならないのです」
「はあ」
現にヨハネは、エッセネ教団の組織とは別に活動しています。しかしそれも、エッセネ兄弟団のテストに合格したから許されるのです」
「その、テストとは?」
「別に、難しく考えなくてもいいのですよ。教団の構成員の子供で男の子が一人前のメンバーになる資格があるかどうかを試すもので、一種の通過儀礼です。申し込んでからその翌日には受けられます。ヘリオポリスの太陽神殿で、テストは行なわれます」
これでサロメが、自分をヘリオポリスに連れて行こうとしたのだということが分かった。アシナビがエジプトに行けと言った真意も、これだったのだ。
イェースズには神霊界から、そして霊の元つ国で授かった神経綸の一端を担う聖使命がある。そしてここで、新たな課題が自分に課せられようとしている。しかしイェースズは、腹をくくっていた。自分の聖使命もエッセネ教団の上に乗って果たせれば、それに越したことはない。ここで、地上の宗教団体に所属などしないと拒否してみたところで、それは損こそすれ益などない。損得勘定で考えている訳ではないが、すべてが神のみ意成就のためになることなら、それは方便となる。ここにサロメやエリフとともにいること自体、神様のお考えがあっての仕組みだろうと、イェースズはス直に受け入れることにした。
翌朝、太陽礼拝があるからということで起こされた。林の中にちょっとした広場があって、ここからは砂漠の向こうのピラミッドがよく見える。ちょうど今、日が昇ろうとしており、広場に集まったエッセネの修道僧たちは一斉に朝日に向かってひれ伏した。朝日はゆっくりと万生を照らし、人々はますます額を地にこすり付けてから朝日を仰ぐ。その中にはエリフとサロメもいた。これがエッセネの旭日礼拝である。朝日は東から昇る。東には日出づる国、霊の元つ国がある。
「ラーの神よ。おお、ラーの神よ」
礼拝にイェースズも加わりながら、彼の中には感動が走っていた。「ラー」は言霊からいえば「陽」である。かつて霊の元つ国ピダマの国のクライ山の祭壇石で、彼も朝日を礼拝していた。太陽は天地創造の神の愛の物質化であり、アマテラスピ大神様の物質化でもある。こんな地玉の反対側にあるこの国でも、同じように朝日を礼拝する。やはり世界は元一つ、万教もまた元一つなんだなとイェースズは実感した。
そしてその日の昼前に、イェースズはエリフとサロメに連れられて、ヘリオポリスへと向かった。再びナイルに沿って上流へと南下する。川の上には白い帆船がいたりして、三角の帆が水面を漂っていた。
「エッセネの教えは」
ラクダの上で、エリフが口を開いた。
「その昔、エジプト皇帝アメンホテプ四世が、白色大同胞団として作られたのが最初でした。そのときの日の神の神殿こそ、ピラミッドなのです」
話のつじつまは、霊の元つ国で聞いた内容とぴたりと一致するので、イェースズは感心した。
「今では昔の王の墓などということになっていますが、ピラミッドが墓などとはとんでもない。真実はそのようなものではありません。今は、真実が隠される時代です。メシアの到来までは……」
空気が乾いているのを気にさえしなければ、すがすがしくて明るい雄大な気分の真っ只中だ。
やがて、三日ほどして、ツォアンで見ていたのよりもはるかに大きい巨大なピラミッド太陽神殿が三基、砂漠の近くにそびえる位置にまでたどり着いた。そのすぐ隣接する石造りの修院が並ぶあたりが、ヘリオポリス――太陽の都らしい。その町に、三人は入った。商人たちの姿は皆無ではなかったが、町を歩くのは修道僧たちのほうがはるかに多い。町のどこからでもピラミッドが見え、驚いたことにピラミッドのすぐそばに同じくらい巨大な石造があるのも見えた。伏せているライオンのような四足の動物だが、顔は人間なのである。イェースズは呆気に取られて、そんな風景を目に納めた。
すぐにエリフに案内されて、イェースズはエッセネの教団本部へと向かった。白い石造りの建物に二階は、赤い絨毯が敷かれていた。エリフは教団の幹部らしく、顔が立つようだ。人々の会釈を下に見て、どんどんと奥に入っていく。
エリフがイェースズに引き合わせたのは初老の男で、ユダヤ人だった。実に愛想のいい腰の低い人で、イェースズの名を聞いて笑顔の中にも驚きの表情を見せていた。
「ほう、あのヨセフとマリアの」
両親をよく知っているようだ。何しろ母マリアはナザレの家僧院でメシアの母候補として暮らしていたのだし、その子のイェースズが目の前にいるのだから自然と扱いも変わるはずだ。
「あの方たちのお子さんがこんな立派な若者になっておられるのだから、世の中もどんどん変わっていくはずだ」
男はニコニコ笑って、イェースズに椅子を勧めた。
「エッセネ教団ではそんな方の子息でも、成人に達した時点であらためて入会の儀式がありまして、明日から早速太陽神殿の中にお入り頂きましょう。その中で一切の儀式は行なわれますが、そこでのテストで合格して入会となるんですよ」
とりあえず、その日はそれで終わりだった。そしてエリフやサロメとともに、イェースズは宿舎として割り当てられた僧院へと向かった。窓の外のすぐ間近に、ヤシの林越しにピラミッドが望まれる。まだ昼過ぎだったがイェースズは疲れていたので、そのまま夕方まで休んだ。目を覚ますと窓の外はとっぷりと日が暮れていて、空も色を濃くし、闇が微かに漂い始めていた。すべてが沈み込んでいくような時間に、ピラミッドだけは夕日の残照を照り返して黄金色に光を放っていた。
翌朝、イェースズはサロメとともにピラミッドへ向かった。町よりも一段高い所にピラミッドはあり、町とピラミッドの間は緑豊かな林だったが、ピラミッドの背後は一面の砂漠で、遠くまっすぐに横たわる地平線までそれは広がっていた。北の方角は大地にへばりつくように緑の地帯がはるか遠くに霞んでおり、それがナイル川河口の三角州のようだった。
ピラミッドの脇の奇妙な人面獣は、近寄ればかなりの大きさだった。東向きに座っているその目はじっと遠くを見据えており、イェースズはその時その瞳の中に霊の元つ国ピダマの国のクライ山をはきっりと霊視した。その目が見つめているのは、実は霊の元つ国の日来神堂のクライ山だったのである。
「あれはですね」
サロメが人面獣を見ながら、イェースズに言った。
「あれは、人間が神様からあまりにも勝手に離れすぎると、このような四足獣人に成るよという型示しですね。神様の御用をするという使命を忘れた時、人間はすでに四足獣人といえるでしょう」
そんなサロメの話にうなずきながら、イェースズは大神殿の方へ向かった。
それにしても人面獣といいこの神殿といい、見事なまでの山である。しかもその山が人造の建造物だから驚きだ。真下で見あげると、その雄大な威容に押しつぶされてしまいそうな気もする。石を積み上げて作ったのであろうが、表面は斜面が石灰石で滑らかに加工されている。その技術には、圧倒された。とても普通の人間業とは思われず、超太古の高度文明の名残かとさえ思ってしまう。本来ピラミッドは自然の山なのだが、この国には山がないので仕方なく人造で「山」を造ってしまうしかないのだ。それにしても大掛かりな人工であるとイェースズは嘆息をもらした。ここからは一人で行けということだったので、イェースズははるかピラミッドの頂上を見上げながらその一番下の部分の、地下へと続いているような四角い穴倉へと入っていった。
空気がひんやりとしている中、どこまでも続く下りの階段を松明の光だけを頼りにイェースズは下りていった。空気が冷んやりとしている。かなり下ってから、今度は階段は上りになった。音が全くない世界で、松明がなかったら完全な暗黒の世界であろう。また、かなりの時間イェースズは上って行った。
すると突然、体全体がものすごいパワーに包まれた。周りの世界が黄金色に輝きだす。しかし、肉眼で見える光は松明の炎だけで、周りを包んでいる光は明らかに霊光なのだ。ものすごい高次元パワーが、宇宙から注がれているようだった。明らかにそれは、神霊界からの霊流だった。
やがて、ちょっとした広間に出た。七つの篝火で煌々と照らされた室内はただでさえ明るいのに、霊光が充満していてイェースズにはまぶしいくらいだった。そこではじめて、イェースズは人間に会った。何人かの白衣の僧が左右に並び、中央の円卓の向こうには昨日会った初老の男が立っていた。
「私はハイロファント」
昨日と打って変わって、そのハイロファントと名乗った男の表情は厳しかった。
「汝、カペナウムのイェースズ」
「はい」
思わずイェースズも緊張しながら、ゆっくりとうなずいた。それを見ていたハイロファントの表情に、少し驚きの色が見えた。彼は目を細めた。聖師だけあって、イェースズが放つ霊光に気がついたのかもしれない。
「汝はこの儀式を受ける必要があると、自分で思うか?」
イェースズの霊光を見ての、予定外の言葉のようだ。
「お願いします。受けさせて頂きます」
と、イェースズは言った。かのアポロキティーシュバラーも下座の行を積んでボディーサトゥーヴァーになったという。自分にとっては、これがその下座の行なのかもしれないとイェースズは思ったのだ。
「それでは」
ハイロファントが目で合図すると、一人の僧がイェースズに着いて来るように無言で促して歩き出した。廊下を少し行ってから右側にくぼんだ狭い洞窟があり、そこが灯火に照らされていた。そこには、湧き出る泉があった。そこで沐浴せよというようなしぐさを僧がしたので、イェースズは霊の元つ国のミコからもらった御頸珠を突き出た岩にかけてから衣服を脱いだ。これは決して濡らさぬよう、足の着く所に置いたり落としたりせぬよう、ミコにきつく言われていたからだ。イェースズが水を浴びているうちに、白い衣が用意された。イェースズは泉から上がり、御頸珠を自分の首にかけてからその白い服を着た。さらに僧はイェースズを連れて、下りの石段を下る。暗闇の中に案内の僧とイェースズの足音のみが、こつこつと響いていた。
やがて、大きな石の扉の前に来た。僧はそれを開け、無言でイェースズに中に入るように促した。イェースズが中に入ると僧は外から扉を閉め、中にイェースズだけが取り残された。松明は僧が持っていってしまったので、寸分の光もない真っ暗闇だった。霊眼を開けば、イェースズは何も不自由はしない。しかしこれが与えられた試練ならあえて肉眼に頼ろうと、彼は決意した。
しばらく暗闇の世界に座り、イェースズは瞑想した。何しろ目を閉じても開けても、変わらないくらいの真っ暗なのだ。そんな中で彼が考えたのは、この部屋に入れられた意味だった。だが、彼は落ち着いていた。そして、どんな意味があってもス直に従うまでだというのが、彼の決意だった。心は平穏を保っていた。
かなりの時間が経過した。ここでは肉眼では何も見えない。ここには物質の光はない。しかし部屋は存在するし、部屋の中にはいろんなものが見えないだけであるのかもしれない。そして何より間違いないのは、自分が今ここに間違いなく存在しているということである。しかし、何も見えないのだから、肉体的には「無」である。実在しているはずのものが、暗闇では見えないのである。つまり「無」になってしまう。今世の現界人は、全くこの状況に置かれているのではないかとイェースズは思った。肉眼では見えないから「ない」と断ずる。しかしその「無」の世界が実在の世界で、それを観ずるミチは唯一、肉眼に頼ることをやめて霊眼に到達すること、つまり到霊眼で、五官を一切断ち切った時に開陽見たに到する。無の世界こそ実相で、その無から有を生ぜしめる無有の力は生む力である。イェースズはそのことを再確認し、肉眼を開けた。そこには依然として、無の世界が広がっていた。
その時、微かに彼の深層意識の琴線に触れる存在を感じた。前方に人がいる。もちろん、肉眼では見えない。だがイェースズの霊眼にははっきり映るその人影は、真っ黒の僧衣を着ていた。だが、顔が分からないので年齢などはさっぱり分からない。
「私は、あなたを救いたい」
と、突然その人影は言った。
「救う?」
「あなたは騙されている。ここに入れられたものは、あのものたちの餌食になる」
あの者たちとはエッセネ教団の幹部たちだろうかと、イェースズはぼんやりと考えた。だが、その心は落ち着いていた。
「やつらはあなたがものすごい力の持ち主だと知って、ここへ閉じ込めたのだ。あなたはやつらの奴隷とされる」
「何だって?」
「だからあなたはやつらに言うんだ。ここに留まる、と。そうすれば私は、あなたに秘密の出口を教えてあげよう」
言っていることがどうも矛盾していると、イェースズは感じた。教団幹部が自分をここに閉じ込めて奴隷とするつもりなら、なぜ彼らにここに留まると言う必要があるのだろうか? そんな疑問よりも、すでにイェースズはこの人影の正体を見破っていた。
「それではまるで、詐欺ではありませんか。私は詐欺を守るために、ここに来たのではありません。詐欺は神様のみ意ではありませんからね。私は神様のみ意のまにまに生きようとしています。たとえここで奴隷になっても、それが神様のお仕組みならス直に従います」
「何と素直ではないのう」
「はい。そのような話には素直にはなれません。私はただ、神様にス直なんです」
イェースズは暗闇の中ながらも、にっこり微笑んで見せた。人影は、たちまちかき失せた。
それからまた、かなりの時間が経過した。すると、イェースズが入った扉とは反対側の扉が開いた。そして、灯火を持つ案内人が現れた。イェースズがその方へ行くと、案内人はイェースズに巻物を手渡した。そこにはただひと言、ギリシャ語で「誠実」とだけ書かれてあった。
それから案内人は、無言で足元から下へ続く階段を示した。
イェースズはその冷たい石の階段をまたかなりの時間、一人で下りていった。すると扉があり、イェースズがその前に立つと扉はひとりでに開かれた。その中の部屋はあらゆる所が灯火で照らされており、暑いくらいだった。ちょうどピラミッドの真中心の地下に当たる部屋だとイェースズは直勘し、ここは火の部屋だと感じた。部屋はそんなに狭くはなく、壁はきらびやかな宝石で飾られ、部屋の中央にはいくつものテーブルがあった。そこには肉や果実など、ご馳走が所狭しと乗っていた。ぶどう酒が入った瓶もある。また、目を休ませる詩が載った書物もあったが、俗物的な詩だった。
イェースズはとりあえず、椅子に座った。そして、この部屋の意味を考えた。この部屋は恵まれすぎている、物質的には実に豊富だ。肉眼では何も見えず肉体的には無であった先ほどの部屋とは、まさしく対照的だ。今はテストの最中なのだ。まさか自分をもてなすための料理であるはずなどない。イェースズはしばらく、部屋の中央の燃え盛る灯火を見て考えた。だが、すでにここに入ってから半日以上たっているため、イェースズはさすがに空腹を覚えていた。目の前には、食べ物があふれているのだ。だがそれは、自分に与えられたものでないことは、イェースズは十分に理解していた。なぜなら、これを食べてよいという指示は一切出ていないからである。かなりの時間が経過したが、それでもそのような指示が出そうな気配はなかった。目の前の食べ物は、自分のものではない。しかし突き詰めて考えれば、今空腹を覚えている肉体とて、自分のものではないのだ。自分で造ったものではない。さらには魂までもが、自分のものではない。すべてが神から与えられ、仮に自分のものになっているにすぎない。死して幽界へ行けば、肉体は土に還る。魂とて、神の御分魂なのだから、自分という存在は一切が無なのだ。すべてが貸し与えられている借り物である。そのことを思い出すと、イェースズはかえって自由になった気がしてきた。自分を束縛するものは、何もないのである。その境地こそ、神人一体の最たるものであった。今イェースズは、頭上から降り注ぐ神霊界のパワーを浴びながら、強く神と一体となったことを感じていた。これだけの魂や肉体が貸し与えられているのに、どんなに空腹でも与えられていない食物に手を出すことはできない。それが秩序の立て別けなのだ。
イェースズはずっと、そんなことを考えていた。また、時間が経過した。
ふと気がつくと、どこから入ったのか、また目の前に人がいた。来なさったなとイェースズは微笑さえ浮かべて、それでいて気を引き締めた。人影は頭からすっぽり入る黒い僧衣を着て、淡い炎の松明を持っていた。顔はかぶりもののせいでよく見えない。
「お若いの。私はあなたに光を与えに来た」
イェースズは黙って、その人を見据えていた。
「私も昔、あなたと同じようにこの儀式を受け、この部屋に入れられた。ちょうど今のあなたと同じように、こんないくつもの部屋を通り過ぎれば、栄光に達すると信じていた。だが、とんだ騙しである。ここにいる僧侶は皆、逃亡中の犯罪者だ。やつらはあなたを犠牲にしようとしている。早く束縛を解き放ち、逃げ出すがよい。自由になるために」
イェースズはその人影の手の、松明を見た。
「あなたの持つ松明の淡い光は、あなたをよく表していますね」
イェースズの口調は、穏やかだった。
「この寂光が、今の世の中です。陰光ですね。ところであなたは、どうやってここに入ってきたのですか?」
「抜け道なら、いくらでもある。私もかつてここに入れられたことがあるので、よく知っている」
「ではそんな抜け道を通ってここから逃げ出したということは、あなたは裏切り者ではないですか。そんな人は自利自欲のために、友人をも裏切るのでしょう。あなたの言うことは、私の耳には入りません」
人影は何か言いかけたが、その前にイェースズが続けた。
「あなたは自分が裏切り者であることを、自分で表明したようなものですよ。そんな言葉で、私はここの教団幹部の方々を裏切ることはできない。証拠がないうちは、何も聞きませんよ。あなたの言うことの証拠がすべてそろっているなら、私の聞く耳を持ちます。でもそうでない限り、ものごとは断定はできるものではありませんからね。あなたの淡い陰光よりもずっと強い真実の陽光が、私の中にあるのです」
すぐに人影は消えた。イェースズはまた一人になった。しばらくすると案内人が現れ、またイェースズに巻物を手渡しは、今度もやはりギリシャ語でひと言だけが書いてあるものだった。そのひと言とは「公正」だった。
次に案内された部屋も明るく、絢爛豪華な部屋だった。だが今度は食物はなく、あるのはあらゆる叡智に満たされた書物が並ぶ書棚だった。イェースズはその一つ一つの表紙を眺めていた。
すると、心の中で声がした。それは自分の心ではなく、明らかに他者の声だった。
「あなたの智恵は、ここにあるどの書物よりも勝っている。ここを出て、人々ともに歩みなさい。こんな所で行なわれている儀式など、すべて架空のものです。妄想です。妄想にとらわれてはいけません」
ところが、声とともに異臭が漂ってくる。次元を異にした邪霊のささやきであることは明らかだ。今度は目に見えない相手だけに厄介だったが、イェースズは動ずることはなかった。
イェースズは黙って瞑想し、そして祈った。確かにここにある書物の内容は、自分が身につけたどんな知識よりも上を行くものではない。だからここを出て自分の知識を披露すれば、たちまち哲学の一派でも打ち立てて名声が得られるかもしれない。しかしそのようなことは、イェースズの目的ではなかった。
イェースズはゆっくりと、自分に言い聞かせるように口を開いた。
「地上の名声など一時的なもので、霊界に持っていけるものではない。持っていけるのは魂だけだ。そして自分が積んだ善徳と罪穢だけである。名声を得ようなどという利己的な行為は、霊界においては何ら善徳とは見なされない。己を捨てて他人のよかれという利他愛を行事てこそ、神に向う梯子の一段一段となるのだ」
もはや、声は聞こえなくなった。
やがて、イェースズは呼び出された。今度手渡された巻物の文字は、「信仰」だった。
次の部屋に至る廊下は、上りの階段だった。今までのような洞窟というイメージではなく、真四角に続く廊下で、四角く切り出された石が積まれて壁や天井となり、その壁には灯火がいくつも掛かっていて、もはや松明はいらなかった。さらに壁には鳥や人や舟などを描いた象形文字が、ぎっしりと詰まっている。
階段の上に扉があった。中からは音楽と歓声が聞こえてくる。その扉の前にイェースズが立つと、扉は開かれた。まばゆい光が、彼の目を覆った。だがそれは、物質の光にすぎなかった。
室内の壁にも象形文字がぎっしりと書かれ、部屋の所々に人の像やワニの像が灯火の光に揺れている。中央にはテーブルがあってやはりご馳走が盛られているが、今度は無人ではなく、多くの人がそのテーブルを囲んで宴たけなわだった。その周りでは、女たちが舞を舞っている。
イェースズの脇に、いつの間にか聖者風の老人が立っていた。
「生命は短く、死んだ後のことは分からぬ。だから今を、楽しくおかしく過ごした方が得じゃ。自分のための人生ぞ。他人のために捧げるなど、おろかなことじゃ」
イェースズは耳も貸さなかった。そろそろパターンが読めてきたのだ。イェースズは彼らを無視して、ひたすら瞑想に入った。
しばらくすると、宴席で騒ぎが起こった。目を開けてみると、みすぼらしい乞食のような人がこの宴会の部屋にいつの間にか入ってきており、しきりに食を乞うていた。だが宴席にいる人々はそれを笑い飛ばし、取り囲んでは蹴ったり唾を吐きつけたりしていた。
そこで先ほどの老人が、またイェースズの隣に現れた。そしてしきりに、イェースズも宴会に加わるように勧めた。宴席の人々は、いずれも実体のない幻のような人々だった。
イェースズは言った。
「困窮している人を足蹴にして自分たちだけが楽しんでいる宴に、どうして私が加われますか。困窮している人もみな等しく神の子であって、兄弟なんです。大きな共同体の一部なんです。その先ほどの貧しい兄弟に対してあなた方がした事は、私にしたことと同じですね」
するとイェースズの傍らに、柔和そうな白衣の別の聖人がいた。その聖人がにっこりと笑っただけで、イェースズの心の中には安心感がよみがえった。そこでイェースズも、にっこり笑った。
「皆さんがお待ちです」
そういわれてイェースズがつれていかれた部屋は、最初に入った地下の広場で、ハイロファントも微笑んで立っていた。
渡された巻物の文字は、「博愛」だった。
「さあ、今度はこれから四十日間、神殿の秘密の扉の向こうに入ってもらいます」
「はい。有り難うございます」
イェースズはス直にうなずいた。
四十日間は瞑想の時間と食物が与えられた。すでに霊の元つ国の赤池白龍満堂で、長い日数を堂に籠もって瞑想をするのは経験済みだが、ここは場所が違う。違うということは霊界も違うのであり、また土地の守護神の霊統も違うはずだ。そこでイェースズはまた新たな気持ちで再出発するためにも瞑想を続け、心を点検して反省し、心の垢を洗い落とそうとした。
そしてその四十日が明けた日に、イェースズは暗くて狭く、四角い通路を進んでいた。案内人の松明だけが頼りだった。その案内人もいつの間にかいなくなり、暗闇だけが残された。
「こっちだ、こっちだ」
と、声だけは響いてくる。イェースズはその通りに進んだ。すると扉があった。その扉はゆっくりと開き、その向こうはほんのわずかな灯火に照らされた薄暗い部屋だった。
すると突然現れた数人の男に、イェースズはたちまち鎖で縛られ、部屋の中にに放り出された。扉が閉められた。イェースズは、何の抵抗もしなかった。
そのまましばらく縛られたまま転がっていたが、やがて近くで爆発するような獣の咆哮が響いた。見ると、それはライオンだった。それも一匹や二匹ではなく、六匹くらいはいた。気がつくと、目の前には、コブラが頭をもたげている。絶体絶命のピンチではあるが、イェースズは落ち着いて、優しい波動を出し続けた。そして言った。
「私は、ス直に縛られている。でも、魂までは縛ることはできないはずだ」
すると、イェースズを縛っていた鎖はあっという間に霧散した。
イェースズは微笑みながら、立ち上がった。ライオンたちもイェースズが優しい波動を持って微笑みかけていると、決して襲っては来なかった。
たちまちわずかな灯火も消えて、部屋の中は暗黒の世界となった。ライオンや蛇の目だけが輝いていて、それが自分を取り囲んでいた。
「今、私を闇が取り囲んでいるが、闇とは光がない状態にすぎないし、光とは神の吹きに他ならない」
そうつぶやくと、イェースズは暗闇に手をかざした。すると手のひらより霊光がたちまち発せられて、室内は昼間の炎天下以上に輝きわたった。黄金色の光の渦となったのである。
魂は何も恐れない、とイェースズは考えた。肉体だけが恐れを感じるが、肉体は魂の乗り物であって、仮のものだし、死というものもそうなるとただの空想にすぎなくなる。恐怖というのはあくまで肉体肉身への執着から起こる感情だと彼は心得ていたのだ。
すると、目の前に黄金の階段が現れた。イェースズは、それを一歩一歩と上った。そしてその上には白衣の聖人が、こちらを向いて立っていた。その笑顔を見た時、またイェースズに巻物が渡された。そこには「壮烈」だった。
次にイェースズが案内された部屋は、ピラミッドの中でも秘密の部屋だと案内の僧は言葉少なに言った。秘密の扉というだけであれほどの冒険が待ち受けていたのだから、ましてや秘密の部屋となると何が待っているのか、イェースズにも見当がつかなかった。
それにしても、これほど華麗を極めた部屋を、イェースズは初めて見た。灯火で明るい室内には、黄金のマスクに胸まである棒のようなひげを持つスリムな人の像が何体も並び、壁には象形文字とともに宝石がちりばめられていた。全体的に、甘美な雰囲気が漂っている。暴力的な恐怖ではないだけに、虚を突かれるかもしれないとイェースズは身構えた。
部屋の中央には円形の舞台があり、淡い光に照らされていた。やがてその舞台の方から、音楽が流れてきた。舞台の上で白くて薄い絹の衣を着た長い髪の若い女が、ハープシコードをかき鳴らしているのだった。甘く美しい調べと、薄くて体の線がはっきり見えるほどの絹の服の女を前に、イェースズは微笑を持ちながらも心を抑えていた。
すると、もう一人の愛くるしい若い女が現れた。同じような薄い絹を着ている。その娘が、イェースズの方を見てにっこりと微笑んだ。そして舞台の中央で、娘は音楽に合わせて踊りながら、少しずつ絹の服を脱ぎ始めた。形のよい乳房が、灯火の中であらわになった。そのまま絹は白い肌をすべり、淡い草むらまでもが目に入った。娘はイェースズに甘い目を送り、そのまま舞台に仰向けに寝ると、足を大きく開いた。はっきりと口を開いたその部分は、十分に濡れていた。それを娘は自分の手で愛撫し始め、あえぎ声が部屋の中にこだました。そしてうつろな目で、イェースズを手招きする。さすがのイェースズも、心がほんの少しパニックになりかけた。娘はイェースズをも、舞台の上に上げようとしているのだ。
「さあ、来て。みんなこれを通過して、聖者になるのよ。性欲なんて悪魔のものが残っていたら聖者にはなれない。ここで私を使って、すべての性欲を吐き出して。そして、本当の愛を学ぶのよ。肉体の交わりを知らない人に、愛は分からないわ。だから、早く」
だが、心のパニック以上に、イェースズの魂は健全だった。心よりも魂の方が川上だから、イェースズの心のパニックはすぐに収まってイェースズは平常心を取り戻した。そして、大きな声で優しく言った。しかしそれは娘に対してというより、この部屋全体に向っての言葉のようだった。
「これが、人生の最大の試練なんだ。私は本当の愛と、性欲との区別はつく。本当の愛は与えることで、神様の大愛より賜ったものを与えることだ。しかし性欲は、ただむさぼるだけなのだ。性欲は決して悪魔のものではない。それは一つのエネルギーだから、無駄に消耗すべきではない。無駄でないのは神の子をこの世に誕生せしめるため、子孫を残すという目的で使われた時だけだ。このエネルギーを昇華させれば、神様の御用もさせて頂ける」
そこまで一気にしゃべって、イェースズは一息ついた。その言葉は娘には聞こえないのか、まだ娘は同じ動作をしている。
「男女の愛は素晴らしいもので、その快楽は神様から頂いたものだ。しかし、一歩間違えれば、これほど邪霊につきこまれる隙を与えるものはない。だから、恋愛は素晴らしいものでもあり、恐ろしいものでもある、そこには魔性が潜んでいる。人は性欲ゆえに異性を求めるが、それで終わってしまったら動物と同じだ。男と女の愛の行為は、神様が人間に下さった最大の贈り物だ。男と女が結ばれることによって火と水が十字に組まれ、一体となった時に摩訶不思議な力が生じる。これが産土力だ。こうして神の子を増やし、より神様の御用に立たせて頂けるよう、この地の上に神のみ意を成り生り也り鳴らせて頂けるよう、そのための贈り物だ。性の交わりは聖の交わりでなければならない。だから、互いを霊的にも嵩め合うそのような契りを結んだ相手以外とのまぐあいは、天津罪となる」
娘は一瞬悲しそうな顔をしたが、たちまち消えた。
そこまで言ってからイェースズは、ほんの少しだけさびしくなった。世間一般の人は契りを結んだ相手がいようが、使命を帯びた自分には許されないかもしれないと思ったのだ。しかし、それも自分に与えられた神仕組みであり、またそれ以上に今、恋愛をしている自分をイェースズは思い出して寂しさは消えた。自分は神様と恋愛をしているのだ……それを思うと、逆に彼の心には充実感がわいてきたのである。
その瞬間、イェースズの頭上で高らかな鐘が鳴った。目の前には、いつの間にかハイロファントが立っていた。
「ありがとう。そしておめでとう。あなたはあらゆる肉欲に対して勝利者だ」
そしてイェースズに、最後の巻物が渡された。そこには「聖愛」と書かれていた。
そしてハイロファントは、イェースズを宴会の席に招いた。
「この食物は、真にあなたに与えられたもの。存分に召し上がるがよい」
そして多くの喜びに満ちた僧たちとともに、イェースズは宴会の食卓に着いた。
ピラミッドを出たイェースズは、翌日よりハイロファントについてさまざまなことを学んだ。講義の場所は、僧院の方だった。講義の内容はかつて霊の元つ国でミコから学んだものを越えはしなかったが、それでもこの聖師の知識はすごいものだとイェースズは舌を巻いた。
それが何日か続いた後、ハイロファントはイェースズに言った。
「これからあなたに、死の部屋に行ってもらいます」
死の部屋という名称が意味するところをイェースズはその時とっさには理解できなかったが、再びピラミッドの中へと案内されて連れて行かれた部屋は、ピラミッドの中央の頂上から見て三分の二の高さの所だった。ここは死体の防腐の部屋なのだという。そして瞬間に、あらゆる叡智がイェースズの魂に飛び込んできた。
そもそも霊の元つ国の日来神堂は自然の山の頂上に方位石があり、拝殿があるだけだった。ところがここでは人工の山で、きれいな三角錐をしている。この三角錐の形こそ、神界・神霊界の形を現界に現したものなのだ。だからこの神殿は天と地のエネルギーを集積して凝集させ、増幅する働きがある。高次元からの霊流をピラミッドの形がレンズのように集め、内部に放射するのだ。だから、この位置にある部屋の中のものは腐らない。死体を置いておけばミイラになる。だから歴代の王が死ぬとここに遺体が安置されたので、いつの間にか王の墓だと思われるようになってしまったのだろう。
イェースズが部屋の中でそんなことを考えているうち、すすり泣きの声が近づいてきた。やがて目の前に現れたのは死んだ子を乗せた担架と、泣きじゃくる母親だった。
イェースズは黙って、その葬儀の様子を見ていた。白い衣の男が二人、子供の遺体の服を脱がせ、油を塗っている。そして全身に包帯を巻くのだが、ややもすれば激しい悲しみに泣きじゃくる母親がその作業を妨げるのもしばしばだった。それでも二人の男は、全くの無言で黙々と作業を行なっていった。しばらくはイェースズも黙ってそれを見ていたが、やがてこらえきれずに母親に近づき、その背中に手を置いた。驚いて振り返った母親は、慈愛の眼差しを向けるイェースズを見て不審そうな顔をしたが、とりあえず取り乱すのをやめた。
「お気の毒だと思いますよ、さぞかしおつらいでしょう」
イェースズは優しく声をかけた。その優しさと密かに下手でかざしている手のひらからの霊流が母親を包み、平静さを彼女に取り戻させた。
「私の……たった一人の、子供……なんです。昨日まで、元気だったのに……それが今朝になって急に……」
一度は落ち着いたものの、また嗚咽が始まった。イェースズは母親の脇にしゃがんだ。
「どうぞ、涙をぬぐいなさい」
イェースズは、優しく布を差し出した。七親はそれで涙をふいた後、鼻をかんだ。
「今、この亡骸に向かって嘆いても、無駄ですよ。息子さんは、もうここにはいない。この瞳は、二度と開かれることはないのです」
やがて包帯を巻く作業が終わり、遺体は部屋の中央の石棺の中に入れられる。ピラミッドのパワーを浴びて、ミイラになるためだ。
「あなたの息子さんは、死んではいないのですよ」
「え?」
驚いて、母親は顔を上げた。
「今、お棺に入ろうとしているのは、息子さんの肉体にすぎない。確かに肉体はもうこの世での役割を終えてミイラになるのですけど、息子さんの魂は永遠に生き続けるのです」
「はい……、そうとは……聞いてはいますけれど、でも……」
「肉体とは、魂の入れ物にすぎません。あなたの息子さんはこの世での役目を終えて、入れ物にすぎない肉体を脱ぎ捨てただけです」
「じゃあ、息子は……どこにいるんですか……」
「目には見えない世界です。そんな霊の世界に帰りました。そこでまた、すべき仕事があるんです。それが終われば、またこの世に別の肉体に宿って生まれてくるでしょう。息子さんはそれまで、あちらの世界でこの世への執着を断つ修行をするのです。そうしないと、あちらでの仕事が手につかないんです。分かりますね。今は嘆くなと言う方が無理でしょうけれど、でもいつまでもあなたが嘆けば、息子さんを困らせるんです」
「そんな……、あの子を忘れろって……?」
お気持ちは分かります。でも、残酷なようですけれど、これが幽界の置き手です」
母親はまだしばらく泣いていたが、やがて立ち上がった。
「では……どうすればあの子は喜ぶんですか?」
「息子さんのためにも、人を救って歩くことです。他人の幸せだけを祈って生きるのです。それを息子さんはいちばん喜びます」
「分かりました」
母親は、力なくうなずいた。
「どうぞ、元気を出して、がんばってください。生命のない肉体は、もうあなたを必要としない。でも、この世にはあなたの助けを求めている生命がいるのです。それを忘れないで下さい」
母親は一礼して、立ち去った。
すると案内の僧がイェースズに部屋を出るように促したので、イェースズはそれに従った。連れて行かれたのは、上りの傾斜になっている広い廊下だった。その廊下は壁も天井も白と黒の石が交互にはめられて作られていた。白は善、黒は悪で、善悪の立て別けをはっきりとさせた時に真理は顔をのぞかせるもので、それを教える真理の廊下なのだとイェースズはすでに叡智でサトッていた。
かなり上ってから、大アーチが見えてきた。その向こうに部屋があり、それが新生の部屋だという。その部屋の中央には黒い石棺があり、その脇に黒衣の男がいた。そして無言で、イェースズに石棺に入るように示した。入ってもいい、ス直に入るべきだと、イェースズはそこで感じいていた。やがて、黒衣の男がはじめて口を開いた。
「あなたは死者の部屋で一度死んだのです。だから、石棺に入るのです。そして、ソチスの光を待ちなさい。その光が、あなたを復活させる」
イェースズはこれで死者の部屋に連れて行かれたわけが分かった。そこで言われたままにして、時を待った。それから長い時間、イェースズは一人で石棺の中で横たわっていたが、かなりたってから壁に穴があいているのが目に入った。穴は奥深く続いて外界まで達し、そこから外の光を取り入れている。そしてやっとそこから一条の光がさしたのだ。それと同時に、霊光が真昼の太陽のように燦々と室内に充満した。これで、イェースズは蘇ったことになる。これが、男は人生の途上で一度は体験する死と復活なのである。それは幼児期、少年期の自分の死であり、大人として復活する。いわばこの神殿の中での一連の出来事は、大人になるための通過儀礼のような意味合いもあったのだとイェースズは思った。イェースズはここで過去の自分の死と、新しい自分の復活を体験し、大人へと脱皮した。明星・ソチスの光の中で、、イェースズは深々と頭を下げた。
紫の装飾が明るく照らされた大広間――オリエンタルの間の中央に、イェースズは案内された。そこにはすでに聖賢たちが晴れの衣装で、横一列に並んでいた。皆、笑顔だった。その中には、ガリラヤまでイェースズと同行したあのアシナビもいた。
中央のハイロファントが静に立ち上がった。
「今日は、素晴らしい日だ。大導師がわれわれの中に誕生した。しかも、こんなお若い大導師だ。ここの神殿のすべてのテストに合格したのは、このイェースズが歴史上初めてなのだ」
満場の拍手が沸いた。イェースズは照れくさそうにはにかんでうつむいた。ハイロファントは、さらに言葉を続けた。
「イェースズは死者の部屋一度死んで、真理の廊下を通って新生の部屋で復活した。今、あなたの死と復活を記念して」
ハイロファントは、空に向かって両腕を大きく開いた。人々の拍手は、さらに高まった。イェースズはそんなハイロファントに手招きされ、前に進み出た。そしてハイロファントの手で、イェースズの額に油で十時が描かれた。
「今やメシアの母候補の子の手に、この巻物が渡される時がきた」
そう言って手渡された巻物には、「クリーストス」と書かれていた。イェースズは首をかしげた。確かにギリシャ文字では書いているが、ギリシャ語の中にこのような単語はない。従って、イェースズには意味が分からなかった。そこで彼は、目を上げた。
「あのう、これは……?」
「クリーオ」
とだけ、ハイロファントはギリシャ語で言った。それは油を塗るという意味だ。その時、イェースズの中で何かがはじけた。同じ言葉はヘブライ語では「マーシャハ」という。そしてその行為をする、つまり「油を塗る人」が「マーシーアハ(メシア)」なのである。そして目の前のギリシャ語の「クリーストス」は「油を塗る」という行為の人称形、「油を塗る人」という意味に他ならない。だがヘブライ語の「マーシーアハ」は油を塗る人の意のほかに救世主の意があるが、ギリシャ語で「クリーストス」とするとそれは本当に「油を塗る人」という意味のほかはない。ところがすでにイェースズの叡智は、その意味をすべて理解していた。そこには二つの意味が込められていたのだ。まず、本来「マーシーアハ」は救世主の意味だが、最近のユダヤでその言葉は、ローマの圧制からユダヤの民族独立を勝ち取る政治的革命家を意味していた。ギリシャ語で書かれていたのは、イェースズの称号はまずそんな政治的なものではないということを示すのが一点、そしてヘブライ語ではなく地中海地方の国際語であるギリシャ語で書かれていたことによって、イェースズの救いが民族にとどまらず国境・人種を超えたものになるであろうことを示すのが一点だった。
「今やあなたは、クリーストスの称号を得た。さあ、お出かけなさい。そして、人々によき知らせを伝えなさい」
やがて酒宴となった。紛れもなく、イェースズのために用意された料理だ。イェースズは同席の人々と歓談しながら、この神殿の中で経験したさまざまな試練を思い出していた。だが、それらは人為の試練であった。これからもっともっと大きな試練が。自分を待っているという気がひしひしとする。
「この神殿は」
ハイロファントが、隣の席のイェースズにぶどう酒を勧めながら言う。
「今では昔の王の墓ということになってしまっていて、人々はそう信じている」
それは、サロメからも聞いた話だった。
「ええ。でも本来は、太陽の神様を祭った神殿なんですよね」
イェースズは笑顔でそう語りながらも、すべてを理解していた。日神の天の岩戸隠れ以来、その神殿でさえ王の墓などとされてしまっている時代になってしまったのだ。
「すべてのものは、御一体なる御意志の顕現でして、その宇宙の根元の大意志こそが神様なんです」
人々はしばし歓談をやめ、この若い新しい大導師の話に耳を傾けた。
「大宇宙の意志は一つ、それが火と水にほどけて二つ、それが十字に組んで生産力が生じ、神・幽・現、日・月・地、天・空・地の三位一体となって、やがて七位の神々が天地を創造しました」
「ほう、聖書よりも正確で詳しい」
一人の聖賢が、すでに顔を赤くしながらも嘆息した。イェースズは微笑んでいた。
ハイロファントが、またイェースズにぶどう酒を勧めた。
「あなたは宗教とかいう垣根を取り払って、全世界に教会を建てて下さい」
イェースズはまた照れて笑った。
「私はまだそんな器ではありませんし、またその時期でもないと思います。私は世界のいろんな肌の色の人々の国、いろんな言葉を話す人々の国を巡ってきましたけれど、世界の人々は、ほとんどが神様のことが分からなくなっています。自分たちの民族の信仰に固執し、排他的ですから、世界の教会を建てる時期ではないと思いますし、神様が私に下さった使命もそのようなことではないと思うんです」
「では、何なのですか?」
一人の聖賢のその質問にはイェースズは笑っただけで答えず、話を続けた。
「私は世界教会の霊成型造りのみ役だと思っています。天の時が来たら、巨大神殿は人類界に復活するでしょう。今はその地ならしの時です。まずは私の故郷で、魁としてその下準備をしたいと思うのです。いえ、されるのは神様です。私はそのお手伝いをさせて頂くにすぎません」
「本当の聖者は、ここまで謙っていないと聖者ではない」
誰かの叫びに、また喝采が上がった。
ハイロファントの声が響いた。
「では私も神様になり代わって、宣言させて頂きましょう。イェースズ、あなたを遣わします。往け、地の果てまで」
またもや喝采が高く上がった。
イェースズはこうしてエジプトをあとにし、故郷に帰ることになった。さらに使命が加わったと、しみじみと痛感できる使命だった。だが、あくまで自分の使命は霊の元つ国で授かった神様からの直接の御神示によるものが主であると、イェースズは認識していた。
そして彼が気になっていたのは、又従兄のヨハネのことだった。ヨハネに会えると思ってこのエジプトに来たのだが、会えなかった。今や彼はユダヤに戻って、独自の活動をしているという。まずは自分の活動の第一歩も、ヨハネに会うことだとイェースズは思っていた。そこから、自分の故国で惟神のミチを説くという使命の実現が始まる。そうしてイェースズが今度は陸路で、モーセの出エジプトのミチをたどったのは、秋も深まった頃だった。