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暗闇の中でも、ミコはニコニコして立っているのが分かった。
「ミコ様。どうしたんですか? どうしてここに……?」
イェースズの声に、何事かとヌプやウタリも起きてきた。そして見慣れぬ闖入者に、二人とも身を硬くした。
「私の恩師だよ。心配いらない」
そう言いながらもイェースズは、いったいこんなことがあるのだろうかと、まだ夢の続きを見ているようだった。ミコは静かに座った。この雪に閉ざされた村にどうやって来たのか、そしてどうして自分がここにいるのが分かったのか……イェースズは一瞬だけそういぶかったが、すぐにそれが愚問であることに気がついた。ミコは瞬間移動など朝飯前の、尋常ではない能力の持ち主なのだ。
「探したよ。いつまでも帰ってこないのでな。プジの山のふもとへ行けば、釈尊の墓を探して旅立ったというしな。それなら、必ずここに来るはずだと思っていた」
「ミコ様は釈尊の墓のことも?」
「知っていたさ。そしてこの村が霊的にどういう場所であるのかもね」
人が悪いと、イェースズは思った。しかしそれが、ミコの思いやりであることも同時にイェースズはサトッた。もしミコが簡単に釈尊の墓のありかを自分に告げていたなら、これまでの貴重な体験はなかったはずだ。すべてが神の、寸分もらさぬ仕組みだったのだ。
「ここが霊的に特殊な村とは……?」
「超太古の因縁の土地だ」
ヌプとウタリは自分たちの知らない言語でのやり取りに、きょとんとして座っていた。
「この村のある場所は、かつて超太古にスミオヤ・スミラオ・タマシピ・タマヤの分霊殿があった所だ」
「やはり」
イェースズがこの村の人々の霊層の高さを感じたのも、いわれにないことではなかったのだ。
「皇統第十代タカミムスビノスメラミコト朝の御時、その分霊殿は造営された。だがその後の天地かえらくで荒れ果てて何万年も放置されていたのだが、皇統第二重四代アメノニニギスメラミコト朝の御時、分霊殿は再興されたんだ」
「この村のある所にですか?」
「正確にはトバリ山だ。この村を見下ろす三角形の山があるだろう」
「やはりあの山は霊山で、日来神堂なんですね」
「その通り」
「そういえばふもとに小さな祠がありましたけど」
「それこそ、分霊殿の名残だ。かつて万国からの来訪者の便宜を図るため、北のトバリ山と西のトクサ山に分霊殿が造営されたんだ。そればかりではない。アメノニニギ朝はトト山からアメノウキプネに乗って西のピムカの国のアソの山に降臨して始まった王朝なのだが、その時世の一時期、この場所に万国政庁が置かれていたこともある」
「そうしますと、やはりこのムータインという村の名前は、ムーと関係があるのですか?」
「もちろんだ。ちょうどそのニニギ朝の頃に大陸は沈みかけていて、多くの人が本来の人類発祥の地であるこの今では島になっている所に移りつつあった。その頃に万国政庁があったのがここなのだから、ムーの人々の血がここには濃く残っているのだよ。大陸が完全に沈み、万国政庁が完全にこの霊島に元還りしたのはウガヤプキアペズ朝になってからだ」
「あのう、ミコ様」
イェースズは身を乗り出した。
「この地が聖書でいうエデンの園なんですか?」
「なぜそう考える?」
この村では父をエデといって、ここは父の園だということなんです。それに男をアダ、女をアバと……」
「まあ、お待ちなさい」
ミコの目は鋭かった。
「神理の教えに、人知を付け加えてはいけないよ。エデンの園とはタカアマパラだ。それは超高次元神霊界の最奥で、それと二重写しに現界でスメラミコト様のお在します所を地上のタカアマパラという。確かにここも万国の政庁があったのだから現界のタカアマパラ、すなわちエデンの園の一つであることは間違いないが、何と言っても真中心はアメノコシネ・ナカ・ピダマの国であり、トト山なんだ。ただ、歴代のスメラミコト様方は各地に遷都されたから、地上のタカアマパラはあちこちにあったことになる。今は沈んだ大陸の部分がそうだったこともあるしな……。うん、しかしだな」
イェースズはゆっくりうなずいて聞いていた。
「我われ人間の手で、この現界のすべてをタカアマパラ、すなわちエデンの園、地上天国にしなければいけないのだ。大昔にそうであったように、だ」
しばらく沈黙のあと、イェースズは顔を上げた。
「ミコ様は、どうしてここに?」
「君の様子が知りたかったのだ」
ミコは自分を忘れていなかった……それだけでイェースズはうれしかった。
「雪解けは、もうすぐだ。この地はここより西の海沿いよりも、雪解けは早い」
と、ミコは静かに言った。
ミコの言葉通り、一ヶ月もすれば雪は解け始めた。ミコとともにコノメハルタツの日を祝ったイェースズは、すでに二十二歳になっていた。
そうしてトバリ山のふもとの森まで残雪を踏みながらも行かれるほどに雪が解けると、イェースズは前に見つけた小さな祠へとミコを案内した。それを見てミコは、
「おお」
と、感嘆の声を上げた。
「これこそニニギ朝のスメラミコト様が再興されたスミオヤ・スミラオ・タマシピ・タマヤの分霊殿の名残だ」
それならば、この地方の部族の人々が見慣れない形式の社であることもうなずける。それにしても、この国の神殿は太古には天にもそびえる巨大神殿があったと昔話ばかりで、実際にはこのようにこぢんまりとしたものしかない。イェースズの故国やこれまで遍歴してきた国の神殿は、それこそ現時点で天を突いていたのだ。それらの国々では高度な文明が栄えているが、世界の文明の本家たるこの国では、人々は原始的な狩猟生活や農耕生活をしている。いったい今はどんな時代なのだろうかと、イェースズはふと思った。そんなイェースズの思考をよそに、ミコは、
「この近くに大木があるはずだが」
と、言った。それは確かにあることは、イェースズの記憶の中にはっきりとしていた。ミコは何でもお見通しだと、イェースズは近くの大木のそばへと案内した。その大杉の根元は、一件の家ほどもある。
「この木はニニギエイだ」
「アメノニニギ朝と何か関係があるんですか?」
「ニニギ朝の世界政庁を表象して残っている木だ。先ほどの祠はトバリ山のふもとのタカアマパラ・エデンの園の名残を社殿という形で残しており、この木は同じくそれを霊的に残しているんだ。」
そのような話を聞きながら、イェースズはいつしか自分の前世のことを考えていた。自分の前世はすでに、ムーのスメラミコト家の皇子であったことは分かっている。それがどうも、この地に世界政庁があった時代なのではないかという気がしたのだ。
「ミコ様、私はこの土地に来て、ここが初めての土地だという気がどうしてもしないのです。初めてここに来た時に体中に激流のようなものが走りましたし、懐かしささえこみ上げてきたんです」
ミコに説明しながらも、初めてこの村に来た時のあの感触はそういうことだったのかと、イェースズは自分で納得していた。
「私が故国を離れたのも、この土地へ来るための因縁だったのでしょうかね」
「何を言っているのかね」
ミコはイェースズを見て笑った。イェースズははっとした。自分の使命とこの村との愛着のジレンマで悩んでいたのを、ミコに見透かされたような気がしたのだ。そこでしばらく間を置いてから、恐る恐るイェースズは口を開いた。
「私の使命は人を救うこと、神様の神理のかけらを人々に告げて、人々が神様より離れすぎないよう歯止めをかけることだと気がつきました」
「その人々とは、具体的にどういう人々かね?」
イェースズは返事に窮した。今まで漠然と、人類としか考えていなかった。
「君はなぜ、君が生まれた国に、君の民族の一員として生まれたのだろう。これは決して偶然ではない」
ミコが言霊を発する前に、その想念は火球のように激しくイェースズにぶつかってくる。
「私がなぜここへ来たのか、本当に理由を教えてやろう。それは、君を連れ戻すためだよ。そろそろ時期だ」
「時期……とは?」
「重大な打ち明けごとがある。まだ君には伝えていない神界の秘密があるんじゃよ。そろそろ、伝えておかねばならない時期だ」
イェースズが今後の身の振り方について自分で考えても答えが出ず、神に真剣に祈ったその日の晩にミコは現れた。決して偶然ではなかったのだ。
「分かったら今日、今からトト山へ帰ろう。君が使命を果たし終えたら、ここに戻ってきて永住でも何でもすればよい」
イェースズはゆっくりうなずいた。これが答えだったのだ。
「あのう、あの二人、ヌプとウタリも連れて行っていいですか」
「いいとも」
「ありがとうございます」
イェースズの顔が輝いた。
それから、あわただしい旅立ちとなった。ヌプもウタリも、それぞれ自分のコタンの親に別れを告げる暇さえなかった。しかし彼らにとってはイェースズと同行できることの方が、数倍嬉しいようだった。彼らは自分たちを置いてイェースズがどこかへ旅立ってしまうことを、最大に恐れていたようだったからである。
雪はまだ解けきっていないだけに、道中は難渋を極めた。だが日がたってだいぶ南下し、歩いている道も山岳から平野部に降りるにつれて雪はどんどんなくなっていった。そして十日ほど歩くと、すでにそこは春の気配があった。
そして海に出た。この国の北西にある海だ。それからは海岸線沿いに西へと進んだ。一行四人は、いつも談笑が絶えなかった。だが、言葉が分からないヌプとウタリは、ミコと直接会話することができない。そこでいつもイェースズが中に入って、それぞれの言葉を伝えた。
やがて直接海に落ち込む巨大な青い山脈が見えてきた。これを越えると懐かしいトト山だ。山脈が海に落ち込む断崖絶壁の海岸も難なく通り、目の前に広がった平地を進むうち、その平地の終点にぽつんとオミジン山が見えた。イェースズの胸は、急に高鳴った。何もかもが新鮮に感じ、イェースズは大きく息を吸い込んだ。オミジン山は、草の海の中に横たわる細長い島のようにも見えた。
一行は、山の登り口の杉並木の坂道まで来た。ヌプとウタリにとっては、何しろ初めての土地なので、ただキョロキョロしている。人々の風俗、顔つきなど、何もかもが自分たちと違う世界なので、戸惑っているのだろう。それに第一、彼らにとっては言葉が分からない。
ミコの家と神殿のある山の中腹の広場へと続く階段を登りきった時、父親の姿を見て真っ先に駆けてきたのはミコの娘だった。兄がその後に続く。だが二人の子供はイェースズの姿を見るや、関心はたちまち父親からイェースズの方へと向けられた。
「お兄ちゃん!」
たちまちイェースズを囲んで、二人は喜びはしゃぐ。
「帰ってきたんだ。お兄ちゃん!」
ところが、驚いたのはイェースズの方だった。ここを離れてまる二年だが、子供というのは二年でこんなにも成長するものかとただただあっけに取られるばかりだった。兄の方は、すでに青年の面影さえ芽生えつつある。
「この子たちは?」
兄妹の関心は、当然イェースズとともに来た二人の少年に向けられた。言葉が分からないまでも想念を読み取れるヌプとウタリは、兄妹に挨拶をした。だが、訳の分からない言葉に、兄妹はきょとんとしていた。
「さあ、ちょっと休むぞ。母さんは?」
ミコにそう言われて、兄妹は母親を呼びに行った。
それから、総勢七人の生活が始まった。戸惑ってばかりのヌプとウタリだったが、イェースズはここでの生活を丁寧に教えた。そして、いつしか二人はミコの子供たちと遊ぶようになった。思えば兄の方とヌプたちは、ほぼ同じくらいの年格好だ。言葉が通じないまでもヌプたちは相手の想念が読み取れる。後は何とか身振り手振りでのコミュニケーションだ。兄妹と遊ぶ二人の姿を見ていると、どんなにすごい霊的な力の持ち主でも、やはりまだ子供なのだとイェースズは思った。兄妹もヌプたちが異民族であるということは気にしていないようだった。何しろ民族どころか、人種さえ違うイェースズと接してきたのである。
ミコはというと、留守にしていた間の整理だろうか、毎日で歩いていた。重大な神界の秘密を打ち明けるということも、なぜかお預けになったままだ。イェースズがまだだろうかと待っているうちに月日はどんどん過ぎて、いつしか蝉が鳴く頃となった。
「君にとって、この国での最後の夏だな」
ミコに言われて、イェースズははっとした。ミコは重大な打ち明けごとについて、忘れていた訳ではなかったのだ。それにしても、「最後の」とはどういうことかと思われた。ミコの想念を読み取れば分かるかもしれないが、ミコに対してだけはそうすることが、イェースズにははばかられたのである。ミコに対する畏敬の念からかもしれない。時期があるのかもしれない、ミコに任せておけば間違いはないと、イェースズはあえて自分からそのことを切り出すことはしなかった。
ここへ来てからイェースズがヌプとウタリに教えたことは、神の教えではなくこここの人々の言葉だった。かつてヌプからイェースズがヌプたちの言葉を教わったように、今度はその逆をするのである。
そうして、秋にはヌプもウタリもすっかり言葉を覚え、ミコやその子供たちと肉声で話ができるまでになった。そんなある晩、イェースズは用足しに外に出た時に、ミコに会った。ミコもちょうど、暗い広場に出て空を眺めていたのだった。満天の星の中でも、中天に近くに仲良く二つ並んでいる明るい星が見える。
「私がいた村は、そろそろ雪がちらつく頃です」
と、イェースズは言った。
「君は、そんなにあの村が恋しいのかね」
「はい。どうしようもないんです。ここからだとあの村は……」
「あっちだよ」
ミコが指さしたのは、ひしゃくの形をした七つの明るい星が、その柄を下の方に向けている方角だった。
「ここからだと、東北の方角になる。東北といえば、霊的にも川上に当たるすごい土地なんだ。昔、神様の世界でも少しいざこざがあってね、ある系統の神様は東北の方角へとご隠退になった」
「え?」
イェースズは驚いた。話の内容ではない。その話ならむしろミコよりもイェースズの方が詳しい。驚いたのは、なぜミコがそれを知っているのかということだった。このことはイェースズが御神示を受け、重大な神界の秘め事なので絶対に隠しおけとイェースズのみに明かされたことのはずだった。つまり、火の系統の神々が水の系統の神々より引退を余儀なくされたという万古の秘め事である。そして今、その火の系統の神々が神幽られたのが東北の方角だったとミコから初めて知った。
「それからというもの、人間界で変な風習が始まってな。この地方はちょうどコノメハルタツの祭の時は雪に閉ざされているが、そうではない地方ではコノメハルタツの日の前夜に豆をまく」
「畑に豆をまくんですか?」
「いや、炒り豆をまくのだ」
「そんな……」
イェースズは一瞬笑いそうになってしまった。
「炒り豆なんかまいても、芽は出ないじゃないですか」
「その通りだ。芽の出ない炒り豆をまいて、それに芽が出たら出てきていいという火の系統の神々への呪詛だ。おまけに豆をまく時、正神のニの神様の御名を呼んで、『おニは外、副は内』、つまり正神を追放し副神にどうぞ中へと、と言って正神の火の神様を呪い続けているのが今世の人々だ」
心なしか、ミコの口調は悲しそうだった。そういえばハタ人の村で、人々が春にそう言って豆をまいていた。そのときはおかしな風習があるなと、イェースズは気にもとめずにいた。だが、考えてみれば空恐ろしい。そのような意味合いも知らずにイェースズもその豆まきに手を添えていたら、限りない正神の神々への反逆となっていたのである。
正神・火の神の引退と副神・水の神の統治への政権交代が、太古に行われていた。それはイェースズが祈座岳で聞いた御神示の内容だった。神霊界でも色恋沙汰があって、そのもめごとの責任を取って国祖の神様が東北の方角に神幽られたのである。しかしその色恋沙汰というのは、神々に対して発表された表向きのことで、その御引退になった方角が東北だと言うのだ。しかしその色恋沙汰とは表向きに神々に対して発表されたもので、それは宇宙の大根元神の仕組んだシナリオであって、本当の理由はもっと多く深いものであるということだった。だが、イェースズはそれを他人にしゃべることは神より許されていなかった。
「今、天の岩戸は閉ざされているのだよ」
そしてそれが、人類共通の親神様に対する罪穢、天津罪だというのだ。ミコの顔に悲壮感があった。
「罪とは本来神様より頂いた魂を、曇りで包み積んで枯れせしめしものなのだよ」
ミコの説明もうわの空に、もうこの時しかないとイェースズはミコにさらに近づいた。
「ミコ様、前に言っていた重大な打ち明けごととは……」
ミコは何も答えず、しばらく前方の闇を見つめ、真剣な表情で何か考えているようだった。
「今、ここで告げるには軽々しすぎる」
それだけ言うとミコは、家の方へと歩いていってしまった。
翌朝イェースズが目覚めた時は、ミコはもういなかった。すると、ミコの娘がすぐにイェースズを呼びに来た。
「お父さんが、下のお堂に来るようにって」
下のお堂とは川向こうの赤い池の中の、自分がかつて何十日も参篭して修行したあのお堂のことだとイェースズにはすぐに分かった。その場所を指定されたということは、いよいよ重大秘め事の伝授があるだろうことを意味しているに違いないとイェースズは感じた。
イェースズはミコの娘とともに、平静を装って山を降りた。だが、お堂に着いてもミコはいなかった。
「お兄ちゃん、乗って」
娘に促されて、イェースズは池に浮かぶ小舟に乗り込んだ。堂に着くと娘はイェースズだけを下ろし、岸へと戻っていった。
「お父さんが、ここで待つようにって」
娘は行ってしまった。そのままイェースズはずっと、心を落ち着かせてミコを待った。
ミコの姿が現れたのは、夕方になってからだった。だがミコは小舟に乗ろうともせず、岸からイェースズに叫んだ。
「しばらく、ニ、三日ここに籠もって、祈っていなさい」
ミコはそれだけ言うと、行ってしまった。よほど重大な打ち明けごとらしい。ニ、三日というのは、そのために身も心も魂をも浄めるための期間なのだろうと、イェースズは言われたとおり禅定を組み、心の垢を洗い落とすべく一身に神に念じ、神と波調を合わせようとした。
次の日もイェースズはそれを続け、禅定を解いたのは一日に二回、ミコの娘が食事を運んで来てくれた時だけだった。
そして三日後、ミコは純白の衣を着て、夜中に訪れてきた。イェースズはまだ寝ていなかった。禅定を解き、暗いろうそくの明かり一本に照らされる中、ミコと対座した。
「いいか。前のときと同様、今日話すことも決して筆記してはならぬ」
「はい」
イェースズはゆっくりとうなずいた。
「この暗い時刻に、暗い光の中で話すのは、今がそういう時代だからだ」
しばらく沈黙があった。お互いの吐息の音さえ聞こえそうな静寂だった。ろうそくの炎は時折ゆらゆらと揺れ、そのたびに室内の明暗が小刻みに変わった。
「男と女がいて、子供ができる」
ミコの口調は、厳かでゆっくりだ。
「これが、神が万象を創られた時の基だ。すなわち、森羅万象は火と水でできている。火の系統の神々、水の系統の神々がおられるのももっともなことだ。男は火であり、女は水。火と水を十字に組むことを産霊という。ゆえに火・水で『火水、すなわち『神』なのだ」
ほうとイェースズは思ったが、黙って聞いていた。
「塩の『からい』のと砂糖の『甘い』を十字に組めば、『うまい』という不可思議な力が生じる。これが産土力。男と女、霊と体、火と水、日と月、心と物、このようにこの世は一見相反するものを十字に組んで生産されている。分かるね」
「はい」
「十字に組むといっても、あくまで縦となって主体となるのは日だ。だが今の世は、その十字に組むべきものがばらばらで分化対立している『ホドケの世』だ。水が縦となり、水と火はほどけているのだ。天の岩戸がまだ閉じられているからだ」
火の系統の神々の御引退のことを言っているのだと、イェースズにはすぐに理解できる。
「だが、やがては解かれている縦と横が、再び十字に組まれる時代が来る。それが神のご計画だ。それがいつかは分からない。まだ数千年は先のことかもしれない。ところが人間にとって数千年といっても、数十億年にわたる神のお仕組みの前では、ほんの目前だ。天の時は迫っているのだ」
天の時がやがては訪れると、聖書でも預言されている。つまり、神の国の到来だ。しかしその真意を知っているものは、イェースズの故国のラビや祭司でもいないはずだ。
「君の祖国のユダヤは、神との契約の民だろう?」
なぜ聖書も呼んだこともないはずのミコがそのようなことまで知っているのか、イェースズにはそれが驚愕だった。
「神の契約は二本立てで、一つがヤマト、一つがユダヤだ。今までの歴史を紐解いても、この国で世界政庁が衰退し始めたにイスラエルが興り、栄華を極めただろう。そして今のようにエルサレムが栄えている時、この国はこのざまだ」
ミコの口からイスラエルとかエルサレムという言葉が出ること自体、驚き以外の何ものでもなかった。決して人知ではあり得なかった。
「やがてこの国に、新しいスメラミコトが立とう。そのときにエルサレムは滅亡し、ユダヤの民は故国を失い、全世界に散らばらせられる。ヤマトとユダヤは合わせ鏡で、二つの歴史をつなげればゆるぎなく万世一系といえる」
すさまじい預言である。聖書の預言者よりも、ミコはすごい人なのかもしれない。その聖書では、
「天の時が来れば、ホドかれていた火と水が再び十字に組まれる。その時に天の岩戸がこの国で開かれ、国祖神もおでましになる。このヤマトは火・日・霊の直系国で、その霊の元つ国が十字のタテである。そして、その枝が「エダ」から「ユダヤ」になったのだ。今はまだホドケの世だから、どちらかが栄えればどちらかが衰退する。天の時にはヤマトの精神文明、ユダヤの物質文明が十字に組まれ、地上天国エデンの園が顕現される。その前に天地かえらくの大天変地異もあろうが、君がユダヤに生まれさせられた意味を、もう一度考えてごらん。決して偶然ではない。偶然どころかものすごい重大な秘め事が込められている」
イェースズは大きく息を吸って目を閉じたが、続くミコの言葉にすぐに目を開けた。
「ユダヤは水の国だが、そこで君は惟神の法を説け。今は神様のご都合で、物質文明の世が展開されている。いずれ天の時が来たら霊をタテに、物質をヨコにして十字に組むためだ。ところがあまりに物質文明が行き過ぎると、十字に組む前に天地かえらくのどがきつくなりすぎるので、君はその助長に歯止めをかけるのだ」
イェースズはただ、唖然としてしまった。何もかもが、自分が受けた御神示の内容と一致するのだ。
「水の国にて水の教えを立て、来たるべき十字文明に備えるのだ。すべてが神の御経綸の御成就のためだ。そのために働け。火と水を結ぶ魁だ」
ミコは懐から、二本の木をタテヨコ十字に組み合わせた小さなものを取り出し、イェースズに渡した。
「これを、君の表象とするのだ。この十字は、太古のムー帝国の印の一つでもある」
イェースズはそれを取って、しげしげと眺めた。
「これは、私の国では死刑の道具ですね。十字架というんです」
ミコはそれを聞き、少し間をおいてから熱のこもった口調で言った。
「死刑の道具か……。しかし、イェースズよ。決して向こうで死んではならぬぞ。必ず戻って来い。向こうへ行けば数限りない迫害と妨害に遭うだろうが、決して負けてはならない」
「はい」
「君が説く教えはやがてヨモツ国に広がり、釈尊の教えはこの国に広まるだろう。ユダヤの地はまさしく東と西の接点、火と水の交感する地でもある。釈尊には、この十字を右に回転させた卍が表象として与えられたそうだ。右回転は、水の回転だ。しかしやがて国祖がお出ましになり、神理のみたまが下ろされた時には……その時は……左回転になる」
「神理のみたま?」
イェースズのその問いには、ミコは答えなかった。これだけ莫大なサトリをイェースズはこの国で得たが、それでもまだ神のみ意には奥の奥があるらしく、イェースズはまだその本の入り口に立っているにすぎないことを自分でも実感していた。
「人を救うとは人々を霊的に目覚めさせ、天の時の到来に備えさせることだ。病気を癒したりするのはその方便にすぎないから、そちらが主体とならないように」
「はい」
「うん」
ミコは大きくうなずいた。
「よろしい。では、最後の業を伝授しよう」
「奥の座……ですか」
「そうだ。しかしそれは君がすでに得ていることだよ」
「すると……やはり……?」
以前イェースズは、病を癒す時にその人に手を置いていた。だが、それが不可能な時に取った方法、すなわち手を話して手のひらから霊流を放射すると、手を置くよりかえって強く力が感じられ、癒しの効果も高かった。
「君はもうすでにやっている、それが奥の座だ。決して病気治しの業ではなく、その人の霊を浄め、霊的に開眼させるための業だ。業そのものは、今さらに君に伝授するもへったくれもない。大事なのはここからだ」
イェースズは息をのんだ。
「最後の伝授とは、その業をほかの人にも分け与えることのできる方法だ」
「ほかの人に……?」
それは今までイェースズが考えたこともないことだった。ミコは自分の首に下げていた御頸珠を取り、イェースズに渡した。それは、球ではなく不思議な形にくねった勾玉を中心に、いくつかの小さな円盤状の金属板が連なっている連珠の首飾りであった。
「このいちばん下の大きな玉は、君が首に掛けなさい。ほかの玉にはわしがこれから教える神呪を唱えて霊線をおつなぎし、一つ一つを業を伝えるべき人の首に掛けてあげなさい。そうすれば、その瞬間からその人は奥の座ができるようになる。ただし、数に限りがあるぞ。君が掛ける玉を除いて、玉はいくつある?」
「十二です」
「釈尊は、一つしか玉をもらわなかった。だから、最愛の弟子のモンガラナーの首に掛けた。わしなどはいくら神呪を知っていたとしても、それで霊線をつなぐことは許されていない。わしがほかの人の首に掛けてあげても効果はない」
ミコは、ほんの少し笑った。
「君は十二個だ。十二個だけ、霊線をつなぐことが許される。やがて天の時が来たら、求める人は万人に業の伝授が許される時が来よう。しかし今はまだだ。今は十二個なのだ」
そうしてミコは厳かに、神呪の言霊の伝授を始めた。
それが終わってから、ミコは言った。
「この神呪の言霊は、ゆめほかの人に漏らすでないぞ。もしもらしたら、命はないぞ。神様が命をお取り上げになられるのだぞ」
もうその頃は、夜も白々と明けようとしていた。
「これが最後の伝えになる」
ミコは厳かに言い放った。
「君を故国へ帰すのは、もう一つ別の意味もある。それは、フトマニ・クシロだ」
聞きなれない言葉を、ミコは言った。ミコはすぐに、イェースズの想念を読み取っていた。
「簡単に言えばフトマニとは神理で、クシロはその展開、つまり神理の媒体のことだ。フトマニを宇宙、天地、大自然の法則と捉えれば、クシロは天地宇宙の運行の力ということになる。このフトマニ・クシロの業とは、霊的な結界を張り巡らせることだよ」
つまり、霊的なバリアの構築である。ミコはそれをイェースズになせというようだった。
「霊的結界を世界に張り巡らせることが、来るべき天の時のために必要なのだ。しかも今は正神がお隠れになっている時代だから、このことは実に密かにせねばならぬ」
そうなると、時分が思っていた以上に自分の使命は大きいということになる。イェースズは全身が小刻みに震えた。
「だから、向こうで死んではならぬと言ったのだ。世界に結界を張り巡らせ、最終的にこの国に戻らねば業は完成しない」
イェースズはもはや言葉も発せず、黙って息をのんだ。そして確信を持ったことは、このミコにも御神示は降りているということだった。従って今日のミコの言葉は、そのすべてが神の声であるとイェースズは心得ていた。
「君の名にちなんだイスズのフトマニ・クシロの磐境29ヶ所に作り、それを結んで五十の三角を形成するのだ」
そう言ってフトマニ・クシロについてさらに詳しい伝授をした後、ミコは立ち上がった。
「わしが伝授すべきことは、これですべて終わった。ただこれで神様のすべてが分かったと思うような、傲慢な想念は持つなよ。わしが伝授したのは、神理の欠片にすぎない。それを万全と思ったら、それこそ我であり、慢心であるぞ」
「はい」
「往け! 往って君の祖国を救え。そして、全人類の救いの魁となれ。君の国の言葉でいう『メシア』となって、世人を救え。そして、任が終わったら、必ずこの国へ帰って来い」
「はい。有り難うございます」
力強く、イェースズは答えた。
これまではひたすら神理を求めて旅を続けてきたイェースズだが、その目的地にはじめて「故国」が加わった。早い話が、故国を後にして以来、はじめて「故国に帰る」という思いもしなかったことが現実として彼の前途に横たわったのである。当然それは希望として、彼の胸を躍らせた。もう、遠い昔の存在であった故国……それが現実味を帯びて自分の中に復活しつつあるのである。
イェースズの長い旅が、再び始まろうとしていた。問題はヌプとウタリだが、ミコは彼らにイェースズとの同行は許さなかった。だが、それはイェースズの故国へ彼らがいくことを禁じたことを意味してはいなかった。たとえ禁じたとて、彼らはイェースズを快く送り出すはずがない。そこでイェースズが二人に命じたのは、一度故郷に帰って親に別れを告げ、後で自分を追うようにということだった。何しろこのトト山に来るのも突然のことで、彼らはそれぞれの親にも言わずに来ているのである。一度は親元に帰って親に会い、それから遠い異国の地へ出向くのが人のミチであると、イェースズは二人を説得した。イェースズを師と仰ぐ彼らが、それに逆らえるはずもなかった。
そして、いよいよ出発の日となった。その日はよく晴れていて、平野の東の山脈の壁、そしてオミジン山の全景が青く輝く空の下にあった。秋も深まって風も冷たくなり、ぐずぐずしているとこの地方はまた雪に閉ざされてしまう。
ミコとその妻、息子と娘の総勢が、イェースズを見送るためにこの日は山に下りた。山の前を川が、裾を洗うように流れている。
「この川は、イスズの川、そこにイェースズ、君が来たのも決して偶然ではない」
ミコに言われ、今までこの川の名前も知らなかったことにイェースズはあらためて気づいた。
「昔はこのあたりを一世といったんだ。何しろ太古には世界政庁と巨大な黄金神殿があったのだからな」
それを聞いて、イェースズは青い山脈の壁との間の平地をもう一度見渡した。はじめてここに来たのが、もう遠い昔のように感じられる。そして今の彼自身も、あの時の彼とはもう違う。イェースズはミコが言った「イッセ」という言葉を思い出していた。
「今のイッセは別の所にある、そしてそれはまた、将来別の場所に移るだろう。それがこの国におけるフトマニ・クシロともなるのだ」
その時、イェースズの頭の中に飛来するものがあった。
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは智恵とサトりの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である〜その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。」
『イザヤの預言書』の一節である。エッサイとはダビデ王の父であるが、この箇所を故国ではただ「ダビデの子孫から救世主が出る」というふうにしか解釈していない。しかし今やイェースズはここで、「エッサイ」とはその人名にすぎないのではなく、この地の昔の名前が「イッセ」であることから、両者の関連性を痛感してならなかった。そうなるとこの預言書の部分は従来の解釈とは全く違い、これはこの霊の元つ国が根、すなわち超太古においては人類発祥の国で、この国から世界の為政者が派遣されたということ、そして将来にはまたこの霊の元つ国が世界を先導する立場に立つことの預言だったのである。
そして海岸まで、ミコとヌプたち二人だけが見送った。いつも貝を採った海岸で、聞けばその昔にシムの国に『ディェッケン』という学問をこの国から伝えたビャク・ヒャルが出航したのも、この浜辺からだったという。
「いいか。くれぐれも向こうで死ぬなよ。必ず帰って来いよ」
と、ミコはもう一度繰り返した。そしてイェースズにミコから与えられたのは、ふた振りの短剣だった。その袋には、菊の花にも見える十六光条日輪紋が鮮やかに染められていた。
「この刀はアマグニ、アマザといって、超太古の金属のピピイロガネで打たれたものだ。アマグニとは天国、アマザとは天国の座のことだ。そして、天国とはこの霊の元つ国のことでもある。これを肌身離さず、守り刀としなさい」
それを渡す時のミコの目は、潤んでいた。その涙を見て、そしてこのような刀をわざわざ贈られて、イェースズは故郷に帰るという希望に胸を膨らませてばかりいられない状況を痛感した。これから自分を待ち構えているであろう艱難辛苦に、悲壮感さえあった。
イェースズはこの時二十三歳、重大な御神命ゆえに故郷に帰るというより故郷へと遣わされる身に、ミコのありったけの思いのこもった刀を受け取る彼の手もいつしか小刻みに震えていた。
「有り難うございます」
と、彼は言おうとしたが、言葉にならなかった。思えば初めてこの地に来たのは、十八の時だった。それから足掛け五年。
「君も、ずいぶんと大人になった」
と、ふとミコは言った。それがイェースズにとっては面痒くもあったが、一口に五年と言っても口では言い表せないあらゆるものがこの歳月には詰まっている。遠くへ砂浜沿いに岬の先端まで湾曲している松林を見ながら、イェースズの脳裏にその歳月が総集編のようにして駆け巡り、そのたびに目頭が熱くなった。ここで青春を過ごし、ここで神理を学び、ここで覚醒を得た。そんなイェースズの懐の中にはミコにもらった十字の木の表象と、ふた振りの刀がしっかりと抱きしめられていた。ところがさらにミコは、何かを差し出した。
「これも、持って行きなさい」
昨夜、ミコが知り合いの絵師に描かせたイェースズの肖像画だった。その時イェースズは普通の貫頭衣を着ていたが、その木板に描かれたイェースズは、明らかに霊衣と思われる光輪に頭を包まれていた。その光輪は上から二つ縦に十六光条日輪紋が並び、服の胸のあたりにも同じもんが三つ縦に並んで描かれていた。さらに穂が二つ、右には稲、左には麦が描かれている。昨夜のイェースズの服は、白無地だったはずだ。
「三つの紋は上から神界、幽界、現界を現している。即ち父・聖霊・子、天・空・地、日・月・地、日・水・土、霊・心・体の三位一体の象徴だ。一番上がいちばん大きいだろう。そして、左、つまり向かっては右になるが、左は霊の面なので稲、右は体の面なので麦だ。霊の元つ国をはじめ黄人は米を、エダ国やヨモツ国は麦を食せという御神勅に基づく」
ミコは、そう説明してくれた。涙を浮かべながら、イェースズはそれをうなずいて聞いていた。
いよいよ、頼んでいた船が来た。人が一人乗れば満員の小さな帆船だ。イェースズはそれに乗り込んだ。ミコとイェースズのしっかり握り合った手は、何よりもの惜別と再会の約束だった。
「私の名を、告げよう。私はタケオココロ、息子はスクネ、娘はミユだ」
初めて聞くミコの実名だった。この国では名を告げるということがいかに重大なことかよく知っているイェースズは、感激の極みに握った手に力を入れた。ヌプとウタリに関しては、ほとんど気がふれたように泣き転げまわり、
「先生、すぐに行きますから」
と、涙声で口々にそう言っていた。
ミコが砂浜に上がっていた船を押した。かつて十三歳の時、故国を離れることになったその時、出発の二、三日前に隣室で一晩中すすり泣いて父にたしなめられていた母の姿を、イェースズは思い出した。その父も、今はもう亡い。目を沖に転じると、そこには水平線が横たわっていた。その向こうには、シムの国がある。かつて通ってきたその国を再び通って、イェースズは故国へと向かう。すべての風景はここへはじめて来た五年前と何ら変わってはいなかったが、自分の方が変わりすぎたのかもしれないとイェースズは思った。
船は沖に出た。船上からイェースズは、再びミコやヌプ、ウタリに手を振った。船はどんどんと沖へ出て行く。イェースズの頬にとめどなく流れる涙は、彼がいかにこの国を愛していたか、この国の人々を愛していたかを如実に物語っていた。どんなにすべての心を言葉にして贈ろうとしても、もう届かない。
やがて松林は遠くに帯のように横たわり、遠くの山々がその上にやはり横たわって見えてきた。限りなく神々しく神聖なこの国の風景を、イェースズはしっかりとまぶたの裏に焼き付けた。