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イェースズは北へ向かう前に、まず東へと進んだ。それがハタ族の村の村長の助言だった。イエスが目指すべきは正確には真北ではなく北東の方角ということで、まず東へ進んで海にぶつかったら、海沿いに北上せよとのことだった。
それにしてもイェースズが驚いたのは、本当に久々に、そしてこの島国に来てからは初めて広々とした平地を見たことだった。だが、大陸にあるようなどこまでも続く草原とか砂漠とかいう風景とは程遠く、やはりスケールは細かくして自然は繊細だ。平地にもなだらかな起伏があり、ところどころに雑木林が点在し、平地も背の高い草で覆われていた。そして視界の終点には平地を取り囲む山が横たわって続くのがうっすらと見えるのだった。そんな山がない一角は、その先が海であるようだった。
そうして村長の言葉通り海岸線に出くわしたのは、出発してからもう五日ほどたってからであった。海岸はどこまでも白く長く一直線に伸びる砂浜で、その砂浜沿いにイェースズは北上を始めた。食糧は今までは木の実などであったが、それからは海の幸を自由に採ることができた。そうして歩くことまた三日、再び山が海岸近くまで迫るようになった。平地は終わったらしい。だがその山の形や雰囲気も、今まで見慣れていたこの国の山のそれとは微妙に違ってきていることをイェースズは感じた。頂上に雪をいただくような高い山は、見当たらない。そんな峠道を、イェースズは越えた。
そこに村があった。小さな村ならこれまでいくつも通り越してきたが、それは久しぶりに見るまとまった規模の集落だった。
だがイェースズは峠を下りながら、近づいてくる集落の異様さに目を見張った。同じ島国の中であるはずなのに、その村は全く別の国のものではないかと思うくらい、景観が全く違っていたのである。しかもさらに驚いたことに、イェースズが近づくにつれ村中の人が総出でといえるほどに村の入り口の柵の所に集まり、イェースズの方を見ていた。イェースズが来ることは、誰かがすでに見つけて報告がされているらしい。だが彼らは武力でイェースズを向かい討とうというような様子ではなく、遠目にも笑顔さえ見えて和やかな雰囲気でイェースズが村の入り口に入ってくるのを待っているようだった。
イェースズはとにかく、村に入ることにした。そしてさらに近くなると、彼らの服装もよく見えるようになった。それは、今までの村の人々とは全く違ったものだった。少し厚めの皮衣の襟と袖はふしぎな紋様の入った帯状になっており、男は頭に同じ紋様の鉢巻きのようなかぶりものをかぶっていた。村人たちは数十人いたが、近づくにつれてその顔つきもわかってきた。顔までもが今までの人々とは違って彫りが深く、成人した男たちは一様に濃いひげを胸元あたりまで伸ばしていた。
イェースズが彼らの前へ来ると、中央のがっしりした体格の男が、
「イランカラプテ」
と言うようなことを言った。イェースズには全く聞き取れず、どうもはじめて聞く言語のようだった。こんな狭い島国なのに、ここまで来るともう住んでいる人の民族が違うのかとイェースズは思った。大陸の多くの人種や民族の中を旅してきたイェースズだけに、民族の違いには敏感だった。
「カニ アナクネ ニケウシケ」
言葉が分からないだけにイェースズがどう答えていいか戸惑っていると、その男の脇から一人の妙齢の女性が前に出た。服装はほかの村人とは変わらないが、恐ろしいほどに澄んだ瞳の女性は、その瞳で満面の笑みをイェースズに向けた。
「ヤマトのお方ですね」
イェースズははっとした。はじめて理解できる言語を聞いたのだ。それはこれまで使っていた、この島国の言語だった。
「は、はい」
言葉が分かるだけに、その内容はどうでもよくイェースズは返事をしていた。
「あなたを歓迎します。私はこの村でただひとり、ヤマトの言葉を話すニカプといいます」
どうやら、通訳らしい。しかも、今までの村と違って、ここでは堂々と自分の名前を名乗っていいらしい。
「遅いお着きですから、これからすぐに歓迎の宴をさせて頂きます」
確かに、もう日は暮れかけている。それにしても、初めて来る村でいきなり歓迎の宴というのは、本来なら戸惑うものだ。イェースズも最初は少しだけ肉体的感覚によって戸惑った。もしそのままその感覚でいたら、歓迎の宴と見せかけてこの村の人々は何かたくらんでいるのではないかと邪推さえしてしまう。それが当然だ。何しろ本当に唐突の成り行きなのだ。しかしイェースズは、その霊智に満たされ、この村人たちを信用していいという信号を霊界の自分の意識である種魂から受けていた。
「アフプ ヤン!」
「どうぞ、お入りください」
中央の男の言葉に引き続き、ニカプと名乗った娘が言葉を伝える。もしここが幽界なら相手の想念を読み取ることによって言葉が通じなくても意識は分かるものだが、しかし残念ながらここは現界であった。それでも霊勘を働かせれば、今のイェースズにとって通訳は不要な程度には相手の意思は分かる。自分は「ヤマト」という国の使者だと思われているということすら、イェースズには見えてきた。それでも、あくまで通訳の労をとってくれる女性を立てることにした。
「我らヒダカミの国とヤマトは、あくまで対等なお付き合いですから宴を出させて頂くのですよ。ヤマトにお帰りになりましたら、必ずお伝えくださいね」
ニカプの物腰はあくまで柔らかだった。やがて村の中を案内されたが、すでに夕闇に包まれていてよく見えなかった。そして村の中央のかなりがっしりとした大きな建物に通され、そこで酒宴が始まった。驚いたことに肉も豊富で、ほかに海の幸もふんだんに並べられていた。酒が、ことのほかうまかった。
村の入り口で最初にイェースズに言葉を掛けたがっしりとした男を、ニカプは酋長だと紹介した。
「この村……村のことをここではコタンといいますが、こちらが私たちのコタンの酋長のニケウシケです」
イェースズは軽く頭を下げた。いくら相手の想念がわかっても、イェースズの話す言葉では相手は理解できないはずだ。まずは宴の礼を述べ、それをニカプに伝えてもらった。
「酋長のことを、ここではエカシというんです」
それから酋長ニケウシケは何か言い、それをニカプは、
「今日は難しい話しはやめにして、大いに飲んでください」
と、イェースズに伝えた。話題は食べ物のことばかりだった。
やがてイェースズもかなり酔いが回り、宴も果ててあてがわれた客間のようなところに案内されて、イェースズは寝台に横になった。屋根のあるところに寝るのは、ハタ人の村を出て以来だった。酔いもまわってかイェースズはすぐに眠ったが、しばらくして不意に目がさめた。まだ夜中らしかった。布団はやけに厚くて温かかった。もうここはかなり寒い地方に属するらしく、これくらいの布団でなければ冬は越せないようだ。どうも鳥の羽毛か獣の毛を皮でくるんだものらしい。建物も今までのどの村のものよりも頑丈で、太い丸太をしっかりと組み合わせて壁にしており、暖が逃げないようになっている。
イェースズは上半身を起こし、そんな暗い室内を見回した。
その時、音とともに入り口の扉が開いた。月の光を背にしたその人影は、すぐには誰だか判別できなかった。だが、それは女だということは、イェースズにはすぐに分かった。
「起こしてしまいましたか? ヤマトのお方」
声を聞いて分かった。通訳をしてくれていたニカプだ。
「酔いはさめましたか?」
「ええ、ありがとう」
イェースズは笑顔を作った。
「旅のお疲れをお慰めするために、参りました」
そう言ってからニコプはイェースズの寝台のすぐそばまで来て、木の根で作られた椅子に腰を下した。今のニカプの着衣はやけに裾が短く、白くて細い足がももからすらりと伸びていた。そして懐から竹のへらのようなものを取り出した。親指の付け根から人差し指の先くらいまでの長さで、片方に糸がついていた。その竹をニカプは口にくわえ、糸を強く引いた。ビーンと糸は振動して空気を震わせ、妙なる音色となって闇の中に響いた。ニカプはそんな動作を何度も繰り返し、そのたびに音色は旋律となって空中を飛来した。折りしも入り口から月光が差し込み、ニカプの横顔を照らした。
それは実に美しかった。長い黒髪、黒い瞳が、イェースズにはないだけに余計に美しく感じていた。そこには、耽美の世界があった。だがイェースズは、純粋に魂で美しいと感じただけで、何の邪念もなかった。
イェースズは、ニカプに向かって手を伸ばした。楽器を見せてくれという意思はすぐに伝わり、ニカプはそれをイェースズに渡した。
「ムックリっていうんです」
竹のへらに糸がついているだけの本当に簡単な楽器で、これがあのような幻想的な旋律を奏でるのでるから不思議だった。糸を引く強弱で、音色が変わるらしい。
イェースズはそれを、ニカプに返そうとした。だがニカプの両手が包んだのは楽器ではなく、イェースズの手だった。
「温かいお手」
イェースズは少し驚いて、もう一度ニカプの顔を見た。月光に照らし出された顔は、驚くほどイェースズの近くにあった。若い女性の顔をこんなに近くで見るのは、イェースズにとって初めてのことだった。次の瞬間には、ニカプの両腕はゆっくりとイェースズの背中に回り、甘い香りが鼻をつく中でイェースズを寝台にと引き倒した。柔らかい肌の感触が、じかに触れる。目の前には豊かな黒髪がある。イェースズの肉体は、ほんの一瞬だけ恍惚の境地に入ろうとした。
だが、霊性がすぐに目覚めた。やさしくニカプの腕を解いて、イェースズは上半身を起こした。ニカプはあっけに取られたように、驚いてイェースズを見ていた。
「申し訳ない」
と、イェースズは優しく言った。
「どうしてですの?」
ニカプは本当に驚いているようだった。
「この村にヤマトのお使いの方が来られた時は、いつもこうして私が伽をするのが習慣なのです」
そうだったのかと、イェースズは思う。だが、彼はそれを受け入れることはできない。自らにそのような戒律を課している訳ではなく、またいいとかいけないとかの問題でもなくて、霊的にそういう行動には自然に出られないように彼の魂はなっている。
「お気持ちだけで、有り難いです。私の場合は、必要ないんです」
ニカプはばつが悪そうに、ゆっくりと出ていった。
しばらくはイェースズの肉体に、甘美な経験が記憶として残っていた。物質としての肉体の脳には、少なくともそう刻まれていた。だが彼は、肉体には勝っていた。この国に来る前の覚醒に至る前の彼だったら、甘美な誘惑に負けていた可能性がある。何しろ、肉体的には彼は二十一歳の男性なのだ。だが、霊界には、この種の甘美はなかった。霊界の歓喜はもっとレベルの違う、別の種類のものだったと彼は厚い布団の中で考えていた……肉体のこの営みは子孫を残す上では必要なことだが、それは正当な夫婦の間だけで許されるべきもので、それゆえに神聖な営みであるはずだ。男と女の交わりは火と水を十字に組むことで、そこにものすごい産土力が生じる。神の宇宙創造の原理そのものなのだ。神聖なだけに、不純なものは許されない。太古の「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の時代は別としてである。
イェースズがこの耽美な誘惑に打ち勝ったのは、心で制したからではない。禁欲は神の摂理に反する。だが、制欲は必要で、それは心で制して肉体が納得するようなものではない。人類を増やすために、神から賜った快楽なのである。それを制御し得るのは、霊性、魂でしかない。心で戒律を課しても、肉体は弱いものなのである。心よりもさらに奥の霊・魂の世界があくまで主体なのだということをイェースズはなおさらに実感した。心は従属しているにすぎないもの、ずっと肉体に近いものである。それを、心の方を主体にして欲望のままに行動したら、それはもはや人ではなくて獣に等しい……そんなことを考えながら、イェースズはいつしか眠りに落ちていた。
朝日が痛いほどに目をさす。起きて外に出たイェースズは、はじめて見るこの村の明るい陽ざしの中の風景を見た。
ここも、山に囲まれた盆地だった。山はそれほど高くはない。だが風土がなんとなくこの島国のこれまでいた所よりも大陸的で、大まかな雄大さがあった。そんな景色を見ながら、イェースズは昨夜のことを考えた。いきなりここへ来て宴会だった。そしてすぐに寝床に就き、あの出来事があって、そうして朝を迎えた。この村の人は、自分を「ヤマト」という国の使者だと思っているらしい。そこで自分はどう振舞ったらいいのかと思う。とにかく自分は使者などではなく、釈尊=ゴータマ・ブッダの墓を求めてここまで来たのだ。
「おはようございます」
背後で声がした。振り向くとニカプだった。昨日のことが全く何もなかったように、笑顔で彼女は立っている。昨夜自分の所に来たのはこの女性ではなく、魔性の化身だったのかという邪推さえしてしまう。
イェースズも、そこで笑顔を返した。
「村をご案内いたします」
それだけ笑顔で言うと、ニカプは歩き出した。イェースズはその後ろを歩きながら、もう一度村の様子を見た。家はこれまでの円形の竪穴ではなく、どれも四角くて長細い壁のある建物だった。屋根は笹か萱で葺かれていてかなり急な傾斜の屋根であり、壁はしっかりとした丸太を積み重ねた頑丈なものだった。多くの村人がすれ違い際にイェースズに挨拶をして行ったが、その言葉といい村人同士が話し合っている言葉といい、全くこれまでの村とは形態が違う別言語だった。
やがて、昨夜宴が催された中央の大きな建物に着いた。中は中央に炉があり、その左側にはこの村の村長のニケウシケがすでに座っていた。
「アフプ ヤン! エ ヤン、エ ヤン」
「どうぞお入りください。朝食を召し上がってください」
ニケウシケの言葉を、ニカプが伝えた。朝食は、穀物と魚を焼いたもの、さらに獣肉を焼いたものもあった。
朝食が済むと、ニケウシケが村を案内すると言うので、ニカプとともにイェースズは外に出た。
「冬はほとんど雪に覆われます。人の背丈の二倍は積もりますから、家が頑丈でないとつぶれてしまうんです。そして、寒さにも強いんです」
ニカプを通して、ニケウシケは説明しながら歩いてくれた。ここの人々は、かなり過酷な自然の中で生活しているらしいことが察せられた。集落は秩序だって配列されており、村の全体はかなりの広さがある。そしてイェースズが驚いたのは、集落と周りの山の間に、水田が広がっていることだった。水田はパウゼツの山の向こうは至る所にあったが、オミジン山周辺よりこちらは、人々は狩猟生活をしていて農耕の水田は全く見たことがなかった。唯一の例外が、ハタ人の村だったのである。あそこは彼らの先祖との関係で特殊事情があった訳だが、ここはこんなにも北の寒い地方なのに、それまでなかった水田が忽然として現れたのである。ハタ人の村でこれから北へ行くと言ったら、北の地方では土人が穴倉生活をしているだけだなどと言った人がいたが、それは嘘であった。この国にしては、かなり高度な文明を持つ村のようだった。さらには家畜としての馬や牛の姿もあった。馬や牛は大陸では飽きるほど見てきたイェースズだが、この島国に来て馬や牛の姿を見るのは初めてだった。
やがて、ひときわ大きな高床式の建物があった。
「あれは飯塚です」
質問するよりも前に、ニカプが説明してくれる。
「凶作の年に備えて、食料を貯蔵しているんです」
「この村の長は、そんなことにまで気を使っているんですか」
「ここの酋長は、人々の君主でも王でもありません。そこがヤマトとは違います。人民を保護し、導く役目です。年齢性別に関係なく、酋長は村人の間から村人によって選ばれます。酋長といえども、罪を犯せば罰せられます」
「罰せられる?」
「はい。すべての民は酋長も含めて、財的に平等です。一食一汁に至るまで、皆人民の共有財産です。ここには、私物は一切ありません」
さらにここでは労働も、自分が食べるためではなく、人民全体に奉仕するためになされるという。それらのことを象徴するかのように、村でいちばん大きな建物は中央の酋長の館ではなく、食糧貯蔵庫だった。
イェースズはそれを聞きながら考えた。全体への奉仕、すべてのものは共有財産で自分のものは一切ないというのは、神理の世界に非常に近い。だが、この村の主は酋長ではなく人民だという。そうなると、神不在ではないだろうかとも思ったのである。だから、
「ここでは、神様を祀っていないんですか?」
と、聞いてしまった。そのイェースズの言葉をニカプの通訳を通して聞いたニケウシケは、近くの山並みのひときわ高い山を指さした。
「あの山の上で石を並べて石神を祭っています。この国では神のことをカムイと言うんです」
ニケウシケの言葉を伝えるニカプは「この村」ではなく、はっきりと「この国」と言った。それによって、この異民族は同じ島国の中でも、自分たちを別の「国」と位置づけていることが分かった。
こうして村を一巡し、もとの中央の建物に戻った。今度もニカウシケは自分が上座、イェースズを下座というふうにではなく、入り口から見て左右に対等な位置に対座した。
「この度は、ようこそおいで下さいました」
相手の想念を読んでいるイェースズは言葉が分からないまでも何を言っているかは分かっていたが、一応ニカプの通詞を待ってから微笑んでうなずいた。イェースズの意思を相手に伝えるには、ニカプの力を借りねばならない。
「ところでヤマトの使者のお方。このたびのご来意は?」
しばらくイェースズは黙った。それからようやく口を開いた。
「実は私は、あなた方がいうヤマトとかいう国の使者ではないんです」
ニケウシケはニカプの通詞を聞き、怪訝な顔をしていた。さらにイェースズは言った。
「その、ヤマトの国とは、どういう国です?」
「あなたと同族の国ではありませんか? お顔から、あなたはまぎれもないヤマトの方だ」
「どこにあるんです? その国は」
「ここからずっと南に行って、さらに西に行くと、我われと同様に農耕をするヤマトの国がありますが」
これでイェースズは分かった。ユダヤ・エフライムの民を「ウシ」と呼ぶあの地域だ。かつて彼が初めてこの国に上陸した場所が、すなわち「ヤマトの国」らしい。大陸では「ワール」と呼ばれ、オミジン山のミコは「霊の元つ国」といっていた。ここで初めて耳にした「ヤマト」という呼称だが、イェースズはその霊勘によってその言霊の本義をすぐにサトった。かつてここが大洋に沈んだムーの国の一部だった時、今のこの島国に当たる部分は相当高い山であったはずだ。そしてムーが沈む時、人々はこの山に逃げ込んだ。だから今は島となったこの地にとどまった人を「山にとどまった」という意味で「ヤマト人」といい、その土地をヤマトというようになったらしい。「ヤマ」はあくまで縦・日・火を現す。ゆえに、日の国(火の国)で、太陽の直系国、霊の元つ国なのだ。
「実は私は、そのヤマトの国から来たのではありません。ここからヤマトまでの距離の、三十倍も遠い所から来ました」
ニケウシケは、しばらく何を言っていいいか分からないような様子でいた。
「それでは、何をしにここへ?」
やっと動いたひげの中の口から出た言葉がこれだった。
「はい。神理のミチを求めています。そして偉大な聖者、ゴータマ・ブッダの教えを知りました。この国では釈尊というそうですが、その人のお墓がこの国にあると聞いてはるばるとやって来たのです」
ニカプの通詞を聞いてからも、ニケウシケからは返事はなかった。
「その釈尊について、何かご存じありませんか?」
「いや、知らぬ。そのような人のことは聞いたこともない、いつごろの人ですかな?」
「もう五百年も前の人とか」
「そんな昔の人のことは、分かりませぬな」
ニケウシケは、はじめて少し笑った。
「しかし……」
その時イェースズの頭の中で、あることがひらめいた。山の神を祀る所なら祭司に当る人がいるはずだ。祭司なら何か知ってるかもしれないと思ったのだ。
「すみません」
イェースズは視線を変えて、ニカプだけに言った。
「山の上に神を祀る所があると言っていましたね。そこへ連れて行ってくれませんか」
ニカプはニケウシケとなにやら話していた。イェースズをそこへ連れて行く許可を取っているのだろう。やがてニケウシケは、何か言いながらうなずいた。
「分かりました」
そう言ってからニカプは、にこりと微笑んだ。
イェースズはニカプとともに外に出た。その建物の前は少しばかりの広場となっており、その向こうに木立があった。イェースズとニカプがその木の近くまで来ると、木の枝が風もないのにゆれてざわめきだした。イェースズは立ち止まって、それを見上げた。
「どうして枝が?」
と、不思議そうな顔をしたのはニカプの方だった。イェースズは落ち着いている。すると目の前の二本の木の幹が大きな音とともに折れて、木全体がばさっと倒れた。根元からそれは、完全に切断されていた。かなり太い幹だったが、木の下ではその木を切ったような人は見当たらない。イェースズならこんなにも離れた距離で同じことをするのは簡単だが、今はイェースズは何もしていない。ニカプはおびえきっている。かといって、この状況は決して自然現象ではない。何かしらの霊的な作用が、折れて倒れた木に及んだのは確かだ。イェースズは霊の眼を開いた。霊的な力がこの広場全体に漂っているのは感じる。しかし、そのことよりもまず、石神を祭る山に行くのが先決だとイェースズは思った。恐怖におびえているニカプをやさしく促し、とにかく霊的束縛がかかっているこの広場を出た。あとはニカプの道案内で、目的の山へとイェースズは向かった。山はこの集落を四方から取り囲んでいる丘陵地帯とは独立していて、きれいな円錐形の山だった。こういった形の山は、イェースズの経験上たいていが日来神堂であることが多い。特にこの島国ではそうである。果たして近づくにつれてかなりの霊気をイェースズは感じた。かつてピダマの国あたりでは本来聖域である日来神堂が祟りの山になっていたりうち捨てられていたりしたが、ここではこうして日来神堂としてちゃんと信仰の山になっている。木々に覆われた山肌には。まっすぐに頂上に向かう細い石段がよく整備されていた。
頂上はすぐだった。わずかばかりのスペースに神殿らしきものがこぢんまりと見えたが、これまで見てきたどの神殿とも違って、柱で櫓を組んでいるだけのごく簡単なものだった。それよりもイェースズの眼を引いたのは、その神殿を中心として同心円を描くように、幾重にも並べられている列石だった。一つ一つの石は小さいが、並べられている様子は見事な円形で、これでこの山が日来神堂たるべき要件のひとつが備わった。あとは、東西南北を示す太陽石があればよい。
果たして近寄ってみると、中央の木組みの神殿の祭壇の上にそれらしきものが乗っている。それが御神体なのだろうかとイェースズはさらに上を見て、そして驚いた。
太い柱が三本直立した上のもうひとつの祭壇の上に、二つの石が安置されていた。向かって右はそそり立つ男根、右は女陰を明らかにかたどった石だった。
「あれは……」
イェースズは思わずそれを指さし、ニカプを見た。
「あの祭壇はヌサといいます。下の方の石はイシカカカムイ、つまり太陽の神の御神体です」
そうなると、確かにあの石は太陽石だ。
「上の方のは左がカモカムイ、右はイベカムイで、互いに相反する陽と陰なんです。その二つを合わせてホノリのカムイ、つまり母なる大地の神となります」
イェースズはうなずいた。単なる未開民族の土着信仰と馬鹿にできない要素がある。むしろ哲学化、観念化してしまったこの時代のブッダ・サンガーの教えやバラモン、そしてユダヤの教えよりもずっとましで、その素朴さは神理に近いとイェースズは感じた。
「あれが大地の神なら、大宇宙の主催神も祀る所があるんですか?」
「さあ、そこまでだいそれたことは、私たちには分かりません。ただ、私たちはこの二柱の神の結合として成りませるアラハバキの神を戴く民なのです」
これらの神々の御名も、空想の産物とは言いきれまい。実在する御神霊の別名なのだろうと、イェースズは思っていた。ニカプはさらに言葉を続けた。
「私たち人間の運命は、ダミのカムイが握っておられます。人は死して後、その魂はダミのカムイによって生々流転して生まれ変わってきます」
この民族は、すでに輪廻転生のことまで知っている。
「そしてアラハバキの眷属の神としては海の神のツボカムイ、衣の神のドギカムイ、飢えの神のセモチカムイ、住居の神のコタンカムイ、山の神のアソベカムイ、農耕の神のオヤゲカムイ、戦の神のシャーマンカムイ、薬の神のシラクカムイなどがいらっしゃいます」
延々とニカプの説明が続いている間に、彼女の後ろに一人の老人がニコニコして立っていた。それに気づいたニカプは言葉をとめて、老人に微笑みかけてからイェースズを見た。
「この方が、この山で神々を祭祀されている神官です」
イェースズは慌てて頭を下げた。神官はニコニコ顔のまま、何かひとことふたこと言った。そこでイェースズは、来意を告げるべく口を開いた。
「あの、私は五百年前にこの国に来たはずのゴータマ・シッタルダーという方の足跡をたどってここまで来たものです。それについて、何かご存じありませんか?」
ニカプの通訳を聞いても、老神官はニコニコしたまま首をかしげるだけだった。
「五百年も前かね」
ニカプの通訳よりも前に、イェースズは相手の老人の想念を読み取った。
「或いはブッダとも釈尊ともいいますが」
「その頃といったら、このあたりにはアソベの民がいた。狩猟生活だけの民でな、アソベとは山という意味だ。カムイの降り遊ぶ所だから山なのだ」
そういえば、プジの山のふもとで見た古文献には、プジの山の別名をアソの山ともいうと書かれていた。アソとは天祖という言霊のようだ。
「アソベの民は山の民で、そこへ西の海の向こうからツボケの民がやってきた。ツボは海だから彼らは海の民で、海で魚貝を採っておった」
これもプジの山のふもとで聞いたオポヤマツミとオポワダツミという二つの、山と海の民のことと重なる。
「そしてさらに西より稲作、農耕を伝えた民が来て、それまでのアソベとツボケの民の戦いを収めて、ここにアラハバキ族が誕生したのじゃ」
しかしイェースズが聞きたいのはそのようなこの民族の歴史などではなく、ゴータマ・ブッダという一人の人のことだ。イェースズはもう一度、そのことを聞いてみた。
「知らないのう」
あまりにもあっさりと言われてしまったので、イェースズは引き下がるしかなかった。そして、ニカプを見た。
「申し訳ないが、私は出発します」
「え? もうですか?」
「あなたには感謝しています。いろいろとどうもありがとう」
相手の言うことは想念をよみとれば分かっても、こちらの言いたいことはたとえ想念を送ってもそれを読み取れる人は現界にはいない。だから、ニカプの通訳は助かった。
「本当に、ありがとう。酋長さんには、よろしく伝えておいてください」
それだけ言うと、イェースズは村には帰らずに、まっすぐと北に向かった。
盆地が切れて、イェースズは峠道にさしかかった。どちらを見ても木が生い茂る山で、進むうちにどんどんと山奥へと道は入っていった。
一陣の風が、さっと吹いた。
その時イェースズがはっと上を見あげると、巨大な岩が地響きとともに彼めがけて転がり落ちてきていた。イェースズは身をかわそうと走ったが、なんと岩はまっすぐに落ちずに自分を追ってくる。これで、自然の落石ではないことは明らかになったが、ただ誰かが上で落としたというだけのことでもなさそうだ。それならば、たとえ故意に落とした岩でも、落とした人の手を離れた瞬間に自然の落下を始めるはずだ。今のは自然の落下ではない。明らかに超常的な力が加わっていた。イェースズは自分の念動力を、岩に向かって放った。だが、それさえも跳ね返されてしまった。そこでイェースズは全宇宙の意識と波調を合わせ、強い想念波動を送った。それでやっと、岩は粉々に砕けた。
息をつく暇もなく、今度は周りの木々がイェースズめがけて一斉に倒れこんできた。いちいちそれをかわしながら、イェースズは空中に向かって手のひらを向け、霊流を発した。悪霊の仕業かとも思ったからだ。だが、どうも違うようだ。霊視しても魑魅魍魎の姿は見えない。だが、自分のちょっと上の木立の中あたりに、かなりのエネルギー体の存在をイェースズは感じた。そこでそちらへと、イェースズは手のひらの向きを変えてみた。とたんに茂みがざわついて、一人の人間が、イェースズの目の前に転がり落ちてきた。しかもそれは、まだ十歳にもなっていないだろうと思われる子供だった。服装から、ニカプたちと同じ民族らしい。一度は尻餅ついたもののを、子供は立ち上がって何か叫んで尻をはたいた。「痛い!」とでも言ったようだ。ところがその少年は、すぐに消えた。そして近くの木の枝の上から、イェースズを見下ろして笑っていた。
「君は誰かね? 降りておいで」
イェースズがそう呼びかけても、少年は消えては別の木上からイェースズを見て声を出して笑っている。
「何で、そんなことするんだ?」
また、同じことが何度か繰り返された。こんな力を持ってはいても、ちゃんと肉身を持った人間の子供のようだ。その子供が現れる木の枝が、だんだんとイェースズから遠ざかっていった。
そこでイェースズは自らの肉体をエクトプラズマ化させ、高次元へ滑り込んだ。少年の瞬間遠隔異動の原理を、イェースズなら熟知している。高次元で少年を捕まえて、すぐに三次元界に引きずり込んだ。まだ少年はイェースズの胸を抜けようとしたが、その霊力はイェースズがすでに封じ込めてしまっている。
――君は何ものかね?
イェースズは想念で語りかけた。肉声で語っても、言葉が通じないだろうと思ったからだ。
――見ての通りの小僧さ。
想念が返ってきた。イェースズの想念が通じたことになる。少年にはそれが感受できたようだ。そこでイェースズは肉声で、彼らがいう「ヤマト」の言葉でしゃべった。言葉が通じなくても、互いに想念を読み取れば会話はできるはずだ。
「どうして、あんな力があるんだい?」
「知らないよ」
少年も自分の民族の言葉でしゃべったが、イェースズもまた想念を読み取って理解した。
「ある日突然、強く念じるとその通りになるようになったんだ」
似ている、とイェースズは思った。自分の少年時代もちょうど同じように、自分に霊力があると分かったのは突然だった。
「なぜ、私にあんなことをしたのかい?」
「あんた、コタンに来た時からずっと見てたけど、あんた、普通じゃないね。ただものじゃあない。すごい人が来ちゃったなあって、すぐに分かったんだ」
「それで?」
「でも、癪に障ったから、おいらの力とどっちがすごいか試してみたかったんだ」
「そうかい。その気持ちは分かるけど、力があっても立派な人とは限らない。それに、試すというのはよくないと思うな」
イェースズは説教調ではなくやさしく諭すように言ったので、少年も少しは心が開いたようだった。だからイェースズは、少年を捕らえていた手を離した。少年は道に座り込んだ。イェースズもその前にしゃがみこんだ。少年は下を向いて、小石を軽く投げた。
「悔しい。おいらの力を打ち破ったのは、あんたが初めてだ。特に隠れていたおいらにあんたが手のひらを向けた時、すごい光がそこから飛び出てきて、おいら、頭がくらっとなった。あんなこと、おいらにはできねえ」
「私もちょうど君と同じ頃、いや、もっと小さかったかな、そんな時にある日突然に不思議な力がわいたんだ。それでけんか仲間をやっつけたりもしたさ。だけど、この力が自分のものじゃあないって分かった時、世のため人のために使うべきなんだって分かったんだよ」
「自分の力じゃないって?」
「そう。私の力も、そして君の力もね」
「違う! これはおいらの力だ!」
本当に自分の少年時代に似ていると、イェースズは感嘆した。そしてこの少年に、少なからぬ因縁を覚えた。この少年との出会いは、決して偶然ではないことをイェースズは知っている。前世からの因縁まで、今のイェースズにはあからさまに見ることができるのだ。
「君のコタンには、君と同じような力を使える人がいるのかい?」
「いねえ。おいら一人だ。でも、隣のコタンに、一人いるよ。そいつとおいらと二人だけだ。知ってる限りではね」
「ほかの人には、そんな力はないんだね」
「ねえ」
「いいかい。君もほかの人も同じ体を持っているだろう。手が二本あって、足も二本あってね。だから、もし君の力が自分の力だって言うんなら、ほかの人にもみんな同じ力があるはずじゃないか。それなのに、力があるのは君ともう一人だけだろう?」
少年は、何も答えられずにいた。
「君の力はね、私の力もそうだけど、神様が何かお考えがあって特別に下さった力なんだ。だから、神様のお力であって、自分の力ではなんだ」
「特別に? おいらに? カムイが? 何で?」
「それは、私には分からないよ。本来人間はみんなすごい霊力を持っているはずなんだけど、肉体に閉じ込められると普通はそれが発揮できなくなる。特に、現代ではね。それが肉体の中にいながらにして霊的な力が使えるというのは、それはもう自分の力ではなくって神様のお力だ。だから、君は今どうしてと聞いたけど、どうしてなのかそれは私には分からない。どうしてそんな力を神様がお与え下さったのか、君自身が自分でそのあたりを読み取ることが大事だ」
少年は、しばらく考え込んでいた。
「分かんねえ。何でだろう」
そして急にぱっと姿勢を正し、少年はイェースズに向かって座って地に手を着いた。
「おいらを弟子にしてくれ。もっといろいろ教えてくれ。あんたに、いや先生についていけば、何か分かるかもしんねえ」
イェースズは当惑した。自分を慕ってきた人が、一村を形成してしまったこともあった。しかし、その中から誰も、彼は自分の弟子にしようとは思わなかった。そのような存在を、彼は今まで持ったこともない。あのハタ人の村でも、自分を慕ってきた人々は自分を治療師か生き神様くらいにしか思っていなかった。
だが、少年の目を見た時、ス直さで燃えていた。だから、イェースズも成り行きにス直になろうと思った。出会うべくして出会った少年である。この場で別れてもいいはずの浅い因縁ではない。
「まあ、立ちなさい」
イェースズもゆっくり立ち上がり、少年を優しく引き起こした。そして微笑んで言った。
「私は弟子を持つようなものじゃあない。それに、私についてくれば救われるというのも間違いだよ。私は何も教えてあげることはできない。君が与えられた自力でもって他力をサトるしかないんだ。自分の足で歩いていくんなら、一緒に歩いていこう」
「はい」
少年はにっこり笑った。
二人は、連れ立って歩きはじめた。少年は自分の名を「ヌプ」と名乗った。ヌプとはあれだと少年が指さした先には、山があった。ヌプとは、山という意味らしい。そのヌプの方から、イェースズにある話題を持ちかけた。
「さっき山の上で、ゴータマ何とかという人のお墓を探してるっていってたね」
「そうなんだ」
「ここからずっと北の方に、夏の間だけ真夜中に小さな光が現れる山があるんだ。昔、西の国の偉い人が来て、その山で亡くなったので、その人のお墓なんだって」
「え?」
イェースズはびっくりして、喜びを顔中に現した。
「そこへ、連れて行ってくれないか?」
「いいよ。ここから見れば、おいらの村もその方角さ」
その後、二人は多くは語らなかった。何しろ肉声の言葉は互いに通じないので想念を読み取って会話しているのだが、それはかなり霊力を使うので、長く語り合っていると疲れてしまうのだ。その日のうちの峠を越えて平地に出て、そこで野営だった。イェースズはまず、少年ヌプの民族の言葉を覚えようとした。それで肉声でしゃべれるし、この国のほかの人との会話もできるようになる。それには、逆にヌプがイェースズにとってはよい教師だった。
二人が歩いているのは一面の平野の中で、驚いたことに見渡すかぎりの水田だった。ニカプのコタンを出てからもう十日以上も歩いているのだから、かなり北に来たはずだ。それなのにまだ水田がある。右手の方には山地が続き、いくつか高い山も見える。平野は左手と、そして前方へと広がっていた。それでも、所々に若干の起伏はあって雑木林が視界をさえぎり、この国ではどうしても地平線というものを見ることはできないようだった。そんな景色の中に、北国の遅い春を感じた。
「今日中には、例の山につけるよ」
と、歩きながらヌプは言った。その言葉通り、右手の四つの山が後方に退いた夕暮れ、前方に見えてきた丘陵地帯の中のそう高くない山を、ヌプは指さした。
「あれが、光るものが飛ぶ山だよ」
その山のふもとに着く頃には、日もとっぷりと暮れていた。そこにコタンがあり、ヌプが交渉して泊めてもらえることになった。久々の野営ではない宿泊になる。ヌプの話では、このコタンで一、二ヶ月は過ごさねばならぬという。光が出るのは夏で、この国の暦では第四の月のウベコ月になってからだという。今はまだ第二の月のケサリ月が終わろうといている頃だ。
そこでその二ヶ月というもの、イェースズは毎日山を見て暮らした。最初の印象は、パウゼツの山によく似ているというものだった。高さも同じくらいだ。そしてこの二ヶ月のイェースズにとっての課題は、ヌプたちの言葉をしっかり覚えることだった。その勉強が進むにつれてヌプともかなりこみいった話ができるようになったし、コタンの人々とも直接に交流することが可能となった。村人たちには便宜上、イエスはヤマトの使者であるとしておいた。だから、みんながヤマトの話を聞きたがった。これにはイェースズも困惑したが、自分が見た範囲での西の方の国の話を適当にしてごまかし、イェースズの方からは当然のこととして、山の光のことを村人に聞いてみた。その話によると、光は夏の間は毎晩出るが、特に真夏の一定の日付の日は光がまぶしく、その日はコタン中の人々が光を拝むために全員で深夜に登山するという。
そんな日を楽しみにイェースズはコタンで生活し、コタンの子供たちもイェースズになついて、イェースズの周りには笑顔と笑い声が絶えなかった。
そして二ヶ月くらいたったある日、ヌプがイェースズのもとに来て今日は寝てはいけないと言った。
「いよいよ今日からなんだ」
この日、第四の月のウベコ月に入った第一日目ということだった。暗くなってすぐに登っても、光が出るにはまだ早い時間に山頂に着いてしまうということで、二人は夜がふけるのを待った。光が一段と大きくなるというのは第七の月のフクミ月の初旬だということであと三ヶ月くらいあるが、その日までイェースズは待てなかった。幸い「その日」ではないので、二人のほかには深夜などに山に登る人はいないはずだ。
夜も更けて、はやる胸でイェースズはヌプとともに山に登り始めた。月初めなので月も出ておらず、何しろ真っ暗だった。松明は登山の邪魔になるので、途中で火を消して捨てた。とにかく、眼をとじても開いても視界の暗さは変わりがない。本来なら手探りのみで進まなければならないのだが、こんな時イェースズはかえって肉眼は閉じてしまい、代わりに霊眼を開いた。そうすれば周りの霊界の風景が、手に採るように分かった。霊界には昼も夜もないので、明るい風景が飛び込んでくるのだ。回りの木々や障害物の霊質が、はっきりと見える。
そうしてどれくらい登っただろうか。夜半をかなり過ぎ、相当の高さまで上った頃に頂上らしき所に出た。夜の闇の中なので、景色は分からない。だが、遠くの闇の中に、ピカッと小さく光るものがった。そしてそれが火の玉となって、ものすごい勢いでイェースズたちの方へと飛んできた。そしてそれは、ほんの至近距離の木立の枝の上にぴたっと止まった。
それはあくまで肉眼で見る範囲の出来事だった。だがイェースズの霊眼にはものすごい閃光となって襲いかかった。肉眼では小さな光にしか見えないのだから、それは物質的な光ではなく霊光だったのだ。イェースズはそのまぶしさに思わず目を覆ったくらいだが、隣のヌプは平然として閃光を指さしている。
「あの光をごらん。あれだよ」
ごらんと言われずとも、イェースズは閃光に包まれているのだ。
「ほら、ろうそくの火のような小さな光が、ぽつんと見えるでしょう。あれが例の不思議な光だよ」
ヌプの肉眼には、小さな光としか見えないのだ。イェースズは、あたりを白く塗りつぶす光の洪水の中にいる。だからといって、その光で周りの風景が見えるという訳ではなかった。あくまで、霊的な光なのだ。
そんな光に包まれて、イェースズの意識はすでに肉体よりも巨大化して別の次元にいた。そんな光に包まれた中で、イェースズの目の前にはいつしか一人の貴婦人が立っていた。その姿に、イェースズは懐かしさのあまりに胸を熱くしていた。限界にてはゴータマ・シッタルダーという男性の肉身の中にあって活躍した神界の女性で、イェースズとは霊的に旧知の仲である。旧知どころか常にイェースズのそばに付き添って守護してくれている守りの主でもあるが、肉眼では見ることができないので悲しいほどに恋焦がれた人だったが、今その人が目前に立っている。久しぶりの再会だった。しかもここはゴータマ・ブッダの故地ではなく遠く離れた霊の元つ国であり、ブッダが修行をし、また終焉を迎えた国でもある。その国での再会なのだ。
イェースズは涙が止まらなかった。熱いものが胸全体に満ちて、どうしたらいいのか分からないくらいだ。ブッダはどれくらい距離をおいて自分と向かい合っているのか、イェースズにも皆目見当がつかなかった。遠いと思えば遠いし、すぐ目の前のような気もする。空間がないから、距離という概念がないのだ。
ブッダは何も言わず、無言で微笑んでいた。だがよく見ると、そのブッダの頬にも涙が伝わっているように見えた。そのまま、どれくらい時間が経過したかも分からない。いや、時間そのものが、ここには存在しないのだ。
ブッダは、ゆっくりと口を開いた。その声は耳にではなく、いつもの通り直接イェースズの魂に響いてきた。
「よく来てくださいました。この日をどんなに待ったことか。あなたがここを訪れるように、一所懸命導いてきたのです」
今までも何回か遭遇したブッダの神霊だったが、今回は何かこれまでと違うような新鮮さと緊張がイェースズの中にあった。
「今までも確かに何度もお会いしましたが、本当の意味であなたとお会いするのは今日が初めてなのです」
ブッダの言葉の真意を、イェースズはすぐには理解できずにいた。
「分からないのも無理はないでしょう。今まであなたとお会いして来たのは私の仮身で、私の本霊はこの山の霊界から離れられずにいるのです」
「そんな……。あなたは神霊界でご活躍中だと思っていたのですが……」
「確かに私は、神霊界から天降りました。大天津神の使いとして、肉身をもって人間となった応身の仏です。そして肉身の中でみ使いとしての役目を果たしたあとは第四のトゥシタ界、すなわち幽界の内院で現界にて着した汚れを払い、やっと神霊界に帰ることができました。しかしそれも仮のことで、本霊は肉身が埋葬されたこの山の霊界から離れられずにいるのです。すべて、私自身のせいなのです」
ブッダともあろう人が……と、イェースズは厳しい霊界の秩序を今さらながら思い知らされた気がした。すでに彼は、ブッダの状況をのみ込んでいた。さらにブッダは、話を続けた。
「私は神のみ意のまにまに教えを説き、人々が勝手に神より離れすぎないようにと歯止めをかけてきたつもりでした。そしてその時点では私の話に耳を傾けてくれた人も多く、使命は成功裏に果たしたと思っていました。しかし、現界という肉体の五官に振りまわされてがんじがらめになる世界で神理を説くのは、本当に難しいことなのです。ましてや今の時代はなおさらです」
「確かに目に見えるもの、耳に聞こえるものしか信じない世界ですからね」
「それも、肉眼、肉耳のみですね。どうも私の教えを、真に理解していた人はいなかったようです。私の教えを聞いたものたちはブッダ・サンガーという組織をどんどん拡大し、あまりにも大きくしすぎてしまった。そして私を教祖として崇めている。私の真意はそのようなことではなかったのです」
「よく分かります。どんなに御神意を受けておろされた教団でも、現界におろされた以上は現界の組織として一人歩きを始めてしまうんですね」
大いなる共感を、イェースズは感じていた。
「そうです。ブッダ・サンガーも大きくなりすぎて、挙句の果てには分裂して闘争しています。すべての元は一つであると私が説いたこととは、正反対の様相を呈しています。もはや今のブッダ・サンガーには、私の心はありません」
ブッダの口調は厳しかった。
「ブッダ・サンガーはこれからもどんどん大きくなってやがてデイシャに広まり、そしてあと五百年もすればジャブドゥバーのケントゥマティー、すなわちこの霊の元つ国にも広まってくるでしょう。しかしその時には、私の教えとは似ても似つかないものになっているでしょう。後の世の人々が、人知を付け加えすぎるのです。どんどん自己流の尾びれをつけて哲学化し、しまいには訳の分からないものにしてしまう。その、すべての責任は私にあるのです」
イェースズにはもはや、返す言葉がなかった。
「私が説いた教えは、その時代、その場所にとっては最高の教えだったつもりです。しかし、そういった限定的なものなのです。しかし人々はそれを宇宙唯一の最高の法と思ってしまい、そのために人々は“我”と“慢心”を持つに至ってしまったのです。私は神理の証として、霊的な力も示しました。しかしいつの間にやらそれは土着の呪詛的な民族宗教に結びついてしまい、訳の分からない呪法や加持祈祷となってしまっているのが現状です」
しばらく、無言が続いた。ブッダは泣いているようだった。
「サンガーなどという組織を作ったのが間違いだったのかもしれません。人々との絆を断ち切って、自分たちだけがサトりを開こうなどという集団は、神のみ意ではないでしょう。なぜなら、その集団に入らない人々は救われないということになってしまいますから。現界という盲目の世界で、皆が手を取り合って神理に近づいていくという姿が本当の姿だったのです」
「確かに」
遠慮がちに、イェースズも口を開いた。
「俗界にいてサトリを開くのは困難なことだけに、サンガーのような環境でサトリに到達する方がやさしいかもしれませんけれど、それでは意味がないということですね。困難な方が、より本物だったということでしょうか」
「そうです。私はウパサカ・ウパシカというような在家の信者という制度も作りました。しかしそうなると今度は逆に、徹底した他力信仰、いえそれならまだいいのです。徹底したご利益信仰に陥ってしまったのです」
「おっしゃる通りだと思います」
「絶対他力にて創造され、生かされていることを認識した上で、その他力に与えられた自力で精一杯精進しなさい、一人一人の自覚と覚醒が大事なのだと、私は説いてきたつもりだったのですが」
「現界とは、難しくも厳しいところです」
イェースズはそう言ってから、少しうなだれた。ブッダの目の涙は、流され続けているままだった。そしてイェースズが顔を上げるのを待って、ブッダは静かな口調に戻って語り続けた。
「あなたに、どうかお願いします。あなたも神様から大きな使命を頂いている訳ですが、もう天の時は近づいているというのにのほほんとしている人類に、今がどんな時期かをサトらせてあげてください。現界の人々の時間感覚ではまだ何千年か先のことであっても、幾億万年という高次元の神御経綸の中にあっては、本当に目前に迫っているといえます。やがてミロク下生の時を迎え、聖霊が降下しますが、そのときはまた私と一緒に現界に参りましょう」
ブッダの言葉は、切々とした訴えというようになって来た。
「お願いしますよ。頼みますよ。決して私のブッダ・サンガーの二の舞にならないようにしてください。私は、自分の教えの真意をせめて今世の人々に知らせたいのだけれど、直接はできません。ですからせめてもと思って、毎年夏が来るたび、この山で毎夜御霊灯明をともし続けているのです」
突然目の前の閃光も光の渦も、そして仏陀の姿さえ見えなくなった。遠くの峰に、小さな火がゆれているのだけが見えた。
「どうしたんだい? 立ったまま気を失っていたのかい」
ヌプの言葉で、イェースズは現実に戻った。
すると今までのことは夢だったともいえる。しかし、夢にしては極彩色で鮮烈すぎた。
「どうしたんだい?」
しばらく放心していたイェースズの顔を、ヌプは心配そうに覗き込んでいた。イェースズも無言でうなずいた。現界での修行も厳しいが、それ以上に霊界の置き手(掟)と秩序の厳しさに、夏だというのに彼はしばらく震えが止まらなかった。
翌日はイェースズは一日中死んだように眠り、その次の日になるとまた例の山に登ると言いだした。ヌプも同行を快諾した。
「よかった。先生はてっきり、気が狂っちまったかと思った」
安心したような微笑とともに、ヌプはイェースズに従った。今度は夜ではなく昼間である。登るにつれて、ここから見る景色はこんなにも美しかったのかとイェースズはあらためて実感した。天気もよく、雲ひとつない。一息ついたところで辺りを見回すと、南の方はちょっとした平野で、すぐにその向こうが山地になる。左の方にはここへ来るまでずっとみえていた五つか六つの峰のかたまりの連山があり、右手には平野の中にぽつんとひとつだけうずくまっている山があった。どちらも、今いるこの山よりははるかに高い山のようだった。
「あれが、昔あったアソベの山の名残だよ」
と、ヌプが指さした。山の形はちょうどプジの山を何十分の一かに縮小したような円錐形だ。
「大昔はもっと大きな山だったんだ。神の遊ぶ山だから、アソベの山といわれていた。そしてアソベの民は、あの山が見える範囲に広がって暮らしていたんだ。でも、ある日ツボケの民がやってきて、アソベの民は山の中に逃げ込んで、そんな時に山が突然火を吹いて、峰は吹っ飛んで、今のあの山の大きさになったんだそうだよ」
「いつごろの話?」
「だから、大昔。それしか分かんない」
そんな会話をしながら先を急ぎ、やがて頂上に付いた。ここが一昨日の晩に昇ってきたところだ。この山の本当の頂上は少し離れた所に見える。ここから登ってきたのとは反対側の山の北を見ると、遠くに海が見えた。それほど高い山ではないのに、こんなにもよく周りの見通しがきく山も珍しい。暗い時と今とでは、全く別の場所に来たみたいだった。海は大きく入り組んだ湾のようで、左右とも大きな半島が突き出ている。特に右側の半島は、正面の水平線を隠すようにはるか彼方で霞みながら湾曲し、水平線はほんのわずかだった。湾曲する半島に囲まれた海はまるで鏡のように大きく広く、満々と水をたたえていた。その向こうをイェースズは見た。ここは北の果てである。ついに、この国の最後の土地まで来てしまったのかとイェースズは感慨深かった。そのことを確かめるために、
「あの海の向こうは?」
と、イェースズはヌプに聞いてみた。
「一晩くらい舟を漕いで行ったら、大きな陸があるよ。アイヌモシリっていうんだ。そこにはアラハバキの同族が住んでいる。でも彼らは狩猟だけで農耕はやっていないって。すごく寒い土地だから、作物が育たないんだ」
ヌプの説明に、イェースズはもう一度水平線の彼方を見つめた。それからイェースズは、一昨晩の出来事があったと思われる場所へといってみた。そこには、腰の高さくらいの土の塚があった。塚は無言でイェースズに何かを語りかけているようで、彼の胸は高鳴った。さらには、ものすごい霊圧を感じる。これがブッダの墓であることには間違いないようだった。イェースズは、静かに手を合わせた。
するとその時、目の前の杉の木の樹齢何百年もあるだろうと思われる図太い幹が、風もないのに大きく揺れだした。鋭く天を突く杉の木の全体が揺れだしたのである。これはただ事ではないと、イェースズはすぐに察した。やがて大音響とともに大杉の幹は左右に真っ二つに裂け、その間から大きな鷹が羽音も鮮やかに青空めがけて飛び立って行った。それを見てイェースズは、思わず涙ぐんでいた。隣ではヌプが、ただあっけにとられてそれを見ていた。
「あ、あれは……」
イェースズはあえて、何も答えなかった。
山を降りながらも、ヌプはしきりと鷹の話をしていたが、イェースズは何の気もなしに、
「さあ、これからどうしようか」
と、つぶやいていた。
「じゃあ、おらがコタンに来てよ」
ヌプもそう言うし、拒む理由もないのでイェースズはそうすることにした。
次の日、二人は長く逗留した村をあとにした。そしてヌプの案内通りに進んでいくと、道は峰がいくつか見えていた連山の中に入っていくようだった。平地が終わって丘陵地帯にさしかかるなというあたりで、日が暮れた。本当にこの国は、二日と平地が続くことはない。
翌日には、山と山の谷間に添って歩いていく形となった。ミチは確実に高度を増しているようだった。狭い谷だが、中央には小さな川が前方から流れてくる。そのうち、かなり本格的な山岳地帯となった。山は樹木が生い茂り、谷間の川沿いの道は木々のトンネルのようだった。川は時折瀬を作ったり、小さな滝となって落ちたりと変化に富んだ急流だった。リスやウサギなどの小動物が、時折歓迎してくれたりする。ヌプの話では、今日中にはコタンに着くという。イェースズは村の様子を、ヌプに聞いた。それによるとあのニカプの村とたいして変わらないようで、村には一人の王がいるが君主ではなく村人の中から選ばれた人であり、またすべての財産も共有財産だという。ただ、山がちな地方の村なので水田耕作はしておらず、生産は狩猟のみだということだった。
昼も過ぎ、日も西にわずかに傾きかけた頃、道は急に険しい上り坂となった。道は細いので、がんばって草をつかんで登らなければならなかった。もはや、体力を使うと汗が出る季節だ。
やがて、視界が広大に広がった。目の前に展開する空間は、平野ではなく湖であった。これまで世界のいくつもの湖を見てきたイェースズからすれば、さほど巨大な湖とはいえなかったが、それでも決して小さくはなかった。この島国のスケールが細かく繊細な自然からすれば、大きな湖といってよいだろう。周囲は山に囲まれ、湖岸といえる所はわずかしかなく、ほとんどの岸が緑がよく映える岸壁となって湖水に落ちていた。だから水面は、かなり低いところにあった。水は恐ろしいほど青く、明るい陽光の中で輝いていた。濃い青の濃度は一様ではなく、その青さの濃淡によって水面に紋様が描かれているようだった。水はかなり深そうだった。
一切の音がない、静寂な世界だった。
「これがトー・ワタラの湖だ」
「きれいだなあ」
と、イェースズは言った。
「ええ。でもおいらは、小さい時から見慣れてるんだ」
イェースズは笑った。
「そうか。でも、やはり感動する心は失ってはいけないよ。感動が感謝に通じる。本来、この世のものはすべて美しいんだ。それが美しいと思えるかどうかは、自分の魂の状態によるね。本来、すべてが神様の最高芸術作品なんだから、すべてが美しいはずだ。それを感じられなくなっているのは、神様に狎れてしまっていないかな? 私はそう思うが、どうかね?」
「そうだね」
ヌプはすぐに、イェースズが言わんとしたことが分かったようだ。
それから二人は、湖畔に出た。
「この湖、こんなに大きいのに魚が一匹もいないんだよ」
「ほう」
それはイェースズにも意外だった。故郷のガリラやの海はこの湖と比べ物にならないほど大きく、岸辺は漁師であふれていた。イェースズはいつになく遠い昔の記憶をたぐって故国の湖の風景を思い出し、頭がクラッとした感じだった。
「さあ、もうすぐだよ。おいらの村は」
そう言ってヌプが歩き出すので、イェースズも付いていった。道は湖に沿って続いた。湖を半周するようだ。こんな大きな湖は、もし一周したらまる一日はかかりそうだった。
かなり歩いてから、道は湖から垂直に離れた。少し山に登る形となっている道だ。その峠道で、湖がまたよく見渡せた。ここからの風景が、いちばん素晴らしかった。対岸の崖の向こうには連山が青くそびえ、湖でも右手の方に、緑を青々とたたえる小さな岬が湖の中に突き出ているのが見えた。
その峠を越えてしばらく行くと、周りを山に囲まれてはいるがちょっとした平野になって、そこをまだかなりの時間歩くと活気づいた村が見えてきた。
「これがおいらの村、オビラ・コタンさ」
イェースズの手を引かんばかりに、ヌプは村の中へと入っていった。誰もがそれぞれの動作を止め、ヌプを見た。
「おお、ヌプ。帰ってきたんかね」
口々にそう呼びかける人々に黙って笑顔だけ振りまいて、ヌプは歩いていった。彼はこの村で愛されているのだなと、イェースズにはすぐに分かった。それは畏敬とも違うし、超能力少年としてちやほやされているというふうでもなかった。
「そのお方は?」
人々の関心は、当然ヌプの後ろについて歩いている絹の環頭衣を着て長髪でひげもじゃの異邦人に向けられた。
「ヤマトのお方?」
口々に問いかけてくる村人たちに、ヌプは立ち止まって対応する様子はない。
「おいらの先生だい」
歩きながらそう言うだけで、村人たちがいぶかしげな顔をしている間に、ヌプはもうその場をあとにしている。
やがてヌプは村を抜け、坂を少し下った所まで歩いていった。そこには見事な環状列石があり、その中央にヌサと呼ばれる祭壇があった。かつてニカプの村で見たものと同じだった。ヌプはその脇にあった小屋へと、イェースズを連れて行った。小屋の中には、冠をかぶった中年の男がいた。黒いひげがたくましい。ヌプが入っていくとちらりと振り向いて、
「おお、帰ったか」
と、男は言った。その人にヌプは
「父ちゃん!」
と呼びかけて、
「先生を連れてきたよ」
と言った。この男は、ヌプの父親だったのだ。
「先生?」
ヌプの父親は、本格的に首をねじってイェースズを見た。そこには、ばつが悪そうに立っているイェースズがいた。
「おいら、この人の弟子になったんだ。だから連れてきた。すごい人だよ。おいら以上の力を持っているんだ」
自分のことをヌプにそう言われてもイェースズはなんと切り出していいか分からず、困っていた。すると父親の表情がぱっと変わり、相好を崩した。
「あ、そうですか。せがれがとんだご迷惑をおかけしているようで」
「いえ、迷惑なんてとんでもない。申し遅れました。イェースズと申します」
「ま、どうぞあがってください」
この部族の言葉で、イェースズはすでにここまで会話ができるようになっていた。部屋は簡素なもので、柱は自然の丸太そのままであり、その図太さといい黒光りといい男性的なたくましさがある。
勧められるままに床に座り、イェースズは笑顔を作って恭しく尋ねた。
「失礼ですが、祭司の方ですか?」
ヌサの隣の小屋だから、イェースズはそう思ったのである。
「ええ。この村の神を祀っておりますが」
そうすると、ヌプとは祭司の息子だったのだ。
「ちょっと待っていてください」
父親は立ち上がり、いなくなった。そしてしばらくしてから夕餉の支度をして戻ってきた。
「あなた、ちょうどいいところに来た。そろそろ日も暮れるのでめしにしようと思っていたのですが、よかったらご一緒にどうぞ」
ニコニコして勧めるので、イェースズも受けることにした。
「恐れ入ります」
イェースズが勧められた席にひざを進めると、奥から女が一人、酒の用意をして出てきた。
「女房ですよ」
二人は、笑顔で会釈を交わした。
それからイェースズはヌプの父とともに食事をして杯を重ねながら、問われるままに、ヌプとの出会い、故国のことや旅立ちに関して、そしてこの国に来たいきさつやブッダの墓を探してこの土地まで来たことなどをかいつまんで話した。
「それで、目的は達成できましたか?」
「はい……と、言っても、まだ完璧ではありませんが……」
「なるほど」
父親はまた、杯を口に運んだ。
「それで、これからどうなさるおつもりで?」
「はい、ある程度目的は達成しましたから、この国で私が修行をしているトト山という所に帰ろうと思います」
ヌプがそれを聞いて、パッと顔をあげた。そんな我が子の姿を見て、父親は言った。
「あなたはせがれの先生になったのですよね」
「はい、おこがましいのですが、どうしてもと頼まれましたので」
父親は、杯を置いた。
「では、私からもあらためてお頼み申します。うちの子を、よろしくお願いいたします」
「はあ」
本来、弟子を持つというのは本意ではなかっただけに、またもやイェースズは当惑した。
「この子はご存じのとおり、普通の子ではない。私にもない不思議な力を持っていましてね。もっとも、この村の中では、決してその力を使うなとは言ってありますが」
イェースズにも覚えがある。並外れた超人は、故郷では受け入れられない。だからイェースズも、十三歳になるまで自分の力を秘めていた。
「どうですか。しばらくはここにいてくれませんか。狭い所だがここに泊まって、せがれの相手をしてやってください。私も神に仕える身ですから、あなたからいろいろと教わりたいこともある。何しろ、あなたは広い世界を見てこられたのだ。どうか、しばらくでいいですからここにいてくれませんかね」
そうしたひょんなことから、イェースズはしばらくこの村に住むことになってしまった。
こんな北の国でも、夏はそれなりに暑い。夏は暑く冬は背丈以上もの雪だった。自然だけではなく、世界のすべての気候がこの国には凝縮されている。季節の移り変わりは、その季節ごとに美を競う。こんな国は、世界にそうあるものではない。いよよ世界の真中心たる霊の元つ国ならではのことである。
その美が最も美しく映えるのは、この村のすぐ近くのあの大きな湖であるトー・ワタラの湖畔だった。イェースズは折りに触れ、かなり歩くことにはなるがその湖まで出かけて湖畔を散策した。この日の朝も小鳥の鳴き声が木洩れ日とともに木々の枝からこぼれる中を、イェースズは一人で歩いていた。その湖畔で、ヌプに会った。ちょっとしたいたずら心で、イェースズは、
「シャローム」
と、故国での挨拶の言葉を言った。もちろんヌプは分からないからきょとんとしていた。
「どうしたんだい? こんな所で会うなんて」
「だっていつも一人で散歩に行くから、今日は着いてきてしまったのさ」
笑顔のヌプを見て、ここで出会ったのはヌプの故意で、偶然ではなかったことをイェースズは知った。
この村にも、イェースズはすっかり溶け込んでいた。ヤマトの使者ということにはしていなかったし、特殊な力を使うことも説法もしていなかったので、イェースズのことを必要以上に詮索するものもいなかった。溶け込むには、普通の人であることがいちばんだ。
「おらあ先生と一緒にいると、とても心が安らぐんだ。先生はおいらよりもすごい力を持っているけど、最大の力はそれじゃないかなあ」
イェースズはただ微笑んだだけだった。湖畔に、ほかに人影はなかった。
「ただ、注文もあるさ」
「注文?」
「そう。先生なんだからもっと偉そうに、威張ってくれよ」
「それは無理な注文だな」
イェースズはまだ笑っていた。
「先生なんて呼ばれて偉そうに思い上がったりしたら、私は先生でいられなくなるよ」
ヌプには、その言葉がよく分からないようだった。そんな話をしながらしばらく歩いているうち、周りの木々がまた動き出した。ところが今度はヌプは一向に驚いた様子もなく、ただニヤニヤと笑っている。するとたちまち激しい旋風とともに木の葉などのすべての落下物が宙に舞い上がり、二人の方へと回転しながら向かってきた。ヌプはまだ笑いながら、
「エイッ!」
とかけ声をかけて、旋風を手で切るまねをした。すると風は真っ二つに割れ、その中からちょうどヌプと同じくらいの年格好の少年が現れた。それに向かってヌプは、
「よお」
と手を振り、相手からも同じ返事が笑顔とともに返ってきた。
「おいらの先生さ」
もう一人の少年に、ヌプはイェースズを紹介した。そしてイェースズに向かっても、
「ほら、いつか話したでしょう。おいらと同じ力を持ったやつが隣の村にもう一人いるって」
確かにヌプは、そんなこと言っていた。
「こいつ、おいらの仲間。こうして現れるのが、いつも俺たちの挨拶になっているんだ」
ヌプよりも幾分顔の彫が深く、とっつきにくそうな様子だ。
「ヌプの先生になったんだってね」
その少年の笑顔は、普通の人なら皮肉の笑顔と見ただろう。だが心が読めるイェースズは、それが安心感から来るものだということをすでに察知していた。
「ウタリっていうのかい?」
「違うよ」
ヌプに言われ、それが「友だち」という意味の言葉だったことをイェースズは思い出した。そのあとで少年は長い名を名乗ったが、イェースズは覚えきれそうもなかったので「ウタリ」で通すことにした。
それから村に戻り、ヌプの家で三人は夕方近くまで話していた。ヌプの時もそうだったが、このウタリに対してもイェースズは初対面とは思えず、そこに前世からの強い因縁を感じていた。イェースズについての詳しい話しはヌプがしてしまい、それだけでウタリもイェースズに心酔してしまったようだ。
「君の村は?」
と、イェースズは尋ねた。
「ここからちょっと東に行ったキムンカシ・コタンさ」
「年は?」
「ヌプといっしょ」
そして次の瞬間、ウタリは床に手を付いていた。
「お願いだ。ヌプと同じように、おいらも弟子にしてくれ」
これはまたイェースズにとっては困ったことになったが、ヌプだけ認めてウタリだけを拒絶する理由はない。
「分かった。弟子を持つほど私は偉くないのだけど、いっしょに修行していこう。これが神のみ意なら仕方がない」
ヌプとウタリの顔が、同時に輝いた。
「ただし」
イェースズの顔は、微笑みながらもその中に厳しさを見せた。
「そうなった以上、言葉遣いを正してほしい」
ヌプたちの言葉は普通の霊の元つ国の言葉のような敬語というものはない。それはイェースズの故国の言葉であれ、これまで行ってきたどの国の言葉でも同じだった。それを「言葉を正せ」というのは、話し方、態度、口調で霊の元つ国の言葉の敬語に匹敵するかそうでないかは分かる。イェースズは、そのことを言ったのだった。
「決して偉ぶって言っているのではないよ。神様の世界はタテの秩序が厳しい世界だ。形だけで内容が伴わないのはだめだけど、でも最初は形から入ることも大事だ。先生と弟子というタテ別けは厳しいよ」
「はい、分かりました。今後、気をつけます」
ヌプの口調が変わり、このように敬語で話したかのような態度になった。イェースズはそこで、やっとニコリと笑った。
それからウタリもイェースズとともに、ヌプのオビラ・コタンに滞在した。その間、イェースズが二人に教えたことは、たった二つのことだけだった。それは、「感謝」と「ス直」だった。
「私は、自分が生きているということが不思議でならないんだ。生きているというより、生かされているということだな。あなた方と出会ったことも、もっとさかのぼってふるさとを離れてここへ来ていることも、すべて神様のみ意で動かされているんだ。自分の意志に反することもあったけれど、あとになってすべてが仕組まれていたんだと分かるよ。結果はすべてが善なんだ。私たちは、神様がおつくりになって『よし』とされた世界の一部だからね。悪いと思われることも、神様からご覧になればすべて良かれと思って神様がされている。だから、人間の人知では、善悪の判断何てできない。できないから、いいに付け悪しきにつけ、ことごと一切感謝が大事なんだ」
決してあらたまって、さあ説教だというような感じでイェースズはそれを二人に告げたのではない。日々の暮らしの中の何気ない話の中に、そのようなことが盛り込まれていた。
「そうなると、いいことも悪いと思われることも、すべてにス直に従っていれば間違いはない。神様の大愛によるお仕組みなのに、人知で屁理屈言って逆らったら、神様に申し訳がない」
ヌプとウタリはそんな話を時には涙しながら聞き、そして二人とも日増しに前にも増して明るくなっていった。ただ、イェースズがこのコタンでこのような話をするのはヌプとウタリに対してだけで、一般の村人とはただの世間話しかしなかった。
やがてウタリは病弱の母が気がかりと、自分の村であるキムンカシ・コタンに帰ると言いだした。すでに、秋の訪れをしっかりと肌で感じる頃だった。そしてイェースズとヌプに、自分のコタンへ必ず来てくれるよう強く要請して、ウタリは帰っていった。
秋も深まってから、イェースズはウタリとの約束通り、ウタリのキムンカシ・コタンを訪ねるべくヌプとともにオビラ・コタンをあとにした。朝早く出れば、ちょうど中間地点にある別の村に夕方に着く。そこで一泊して、翌日の昼にはキムンカシ・コタンにたどり着けるというのがヌプの説明だった。
二人は、南の方角に向かってい歩いた。かなり広くなだらかな丘陵の草原の中を道は続き、山は遠くの方に低い山並みが見えるだけだった。それでもどちらも山に囲まれていることには変わりはなかった。道の両脇に広がる草原の草はすっかり枯れ、今は黄色い干草の海のようになっている。このあたりには水田は全くないようだった。
やがて、日が暮れだした。
もう暗くなってきたので、泊まることになっている村へと急いでいると、前方の枯れた草の茂みがざわめきだした。二人とも息を呑んで、立ちすくんだ。草は枯れてはいても、人の背丈以上に茂っている。すぐにそれを踏み分け、一匹の熊が現れた。ヌプは身構えた。その額には汗が生じてきていた。熊はその巨体を持ち上げて、大きく咆哮した。イェースズがこの国に来て、はじめて遭遇する猛獣だった。イェースズの方はいたって冷静で、微笑さえ浮かべていた。
「せ、先生、動いちゃだめだよ」
ヌプの声を押し殺して、それでいて叫びに近い言葉にもかかわらず、イェースズはニコニコして熊に近づいていった。ヌプはぎゅっと目をつぶった。しかし何も起こらないのでヌプがそっと目をあけると、イェースズと熊は鼻をつき合わせていた。イェースズは笑顔のままで、まるで熊と何か会話しているようだ。そしてそのまま熊は背を向けて、四足になって行ってしまった。ヌプは力をなくし、へなへなと座りこんだ。そして、力なくイェースズを見あげていた。
「何も恐がることはない」
と、イェースズはヌプに語りかけた。
「いたずらに恐がったり敵愾心を持つから、その波動が動物にも伝わって危害を加えてくるんだ。だから、友だちなんだよっていう魂の波動を、相手にも与えてやるといい。動物だって、魂があるんだからね」
それでもヌプは、しりもちをついたままだった。
翌日、道はちょっとした山間へと入っていった。また峠を一つ越えねばならないようだ。左右から山が迫ってくるそんな密林の中を歩き続けると、前方にどうもイェースズにとって気になる山が見えてきた。なだらかな草の大地の向こうの低い山のさらに向こうから、その山は顔をのぞかせていた。きれいな鋭三角形のとがった山だった。すぐに日来神堂だと、イェースズには分かった。こんなに遠くにある山なのに、霊気が感じられる。それも清浄な霊気だった。イェースズはどうしても、その山に行ってみたくなった。そのことをヌプにいうと、
「あの山のふもとにも村がありますよ。ムータイ・コタンっていうんですけど」
「え?」
イェースズは耳をそばだてた。その名前になぜかひっかるものがあったからだ。
そこからイェースズとヌプは道からはずれて、草原の中をその村へと近づいていった。やがて目の前には、鬱蒼と茂る密林が立ちはばかった。イェースズは草を掻き分け、密林の中の道なき道をほとんど手探りで進んだ。近づくにつれ、山はますますその異様な風体を押し付けてくる。それと同時に霊圧もただならぬものがあり、こうなるともう日来神堂であることは間違いなかった。それほど高い山ではなく、全体が密林で覆われている。
「この山のどこかに巨石か祭壇があるかもしれないが、知らないかい」
イェースズの問いかけに、ヌプは首をかしげた。
「さあ。だってこの近くのムータイン・コタンの人々でさえ、この山には近づかないですよ」
「なぜ?」
「よく分かりません。とにかく、ムータイン・コタンで祀っている祭壇は別の場所にちゃんとありますから」
話しているうちに、山のふもとに着いた。その時、イェースズは声を上げた。そこに小さな祠があったのである。周りは草が茫々で、祠自体も朽ちかけている。人の背丈ほどの穂からはここのアラハバキ族のヌサではなく、紛れもない西の地方の神殿と同じいわゆるヤマト方式だった。
「珍しいヌサですね」
と、ヌプがぽつんと言った。彼はヤマトの神殿を見たことは、おそらくないはずだ。そんなヌプを、イェースズは振り向いて見た。
「おそらくは、超太古の因縁があるのかもしれない。この地方にこのような神殿があるというのは、普通のことではないからな。大昔は巨大な神殿だった名残が、これかもしれない」
「こんな小さなヌサが……?」
ヌプには、とても理解できるようなことではなさそうだった。
イェースズは簡単に祠の周りの草を刈り、それから祠に向かって手のひらを向けた。そこから霊流が発せられ、霊界が浄まっていく。すると途端に祠の中から黄金の光が輝き始めた。イェースズ以外の普通の人には見えないであろうその霊光がヌプにも見えるようで、ヌプは声を上げてたたずんでいた。それをよそに、イェースズは土の上に座って祠に額ずいた。何が祀られているのかは分からないまでも、このあふれる光圧はただ事ではなさそうである。イェースズはこの地に来させて頂いたことがとてつもなく有り難いことに感じ、ひたすら感謝の念を発し続けた。
それから彼は立ち上がり、山を見上げた。
「登ろう」
しかしヌプは、イェースズの袖を引いて首を横に振った。
「早く行かないと、日が暮れます」
そうはいうものの、まだ太陽は中天にある。どうもヌプは怯えているようだった。足が小刻みに震えている。ウタリもまたこの霊圧を感じて、それに耐えられないのであろう。イェースズには、村の人々がこの山に近づかないというのも何となく分かるような気がした。だからヌプも無理に山に登らせるのは気の毒だと思い、イェースズはと登るのをあきらめた。
それからヌプが言っていたムータイン・コタンの方へと向かったが、その途中に小川があって、そのほとりに周りの密林の雑木とは明らかに違う独立した一本の大杉があった。幹の太さは大人が両手を広げて囲んだとしても、四、五人は必要だろうと思われる。その先端は天を突き、これまたただ事ではない様相を呈していた。
だがヌプが早足で歩くので、イェースズはその木が気になりながらもコタンの方へと向かった。すると急に山間から平地に出て視界が一気に広がったので、イェースズは驚いた。見晴らしがよく、遠くは原生林に覆われた低くてなだらかな丘陵が起伏を見せながら広がっている。広々とした土地は芝のような苔が一面に覆い、所々にシダが生い茂っている。その中央にコタンがあって、例の三角の山が見下ろしている。
イェースズはウタリのコタンへ行くのは一日延期して、このコタンに泊めてもらうことにした。
翌朝、すぐに出発しようというヌプを引き止め、少しこのコタンの周辺を見たいとイェースズは言った。もうウタリのキムンカシ・コタンはすぐそこで、昼にここを出ても明るいうちに着けるとヌプも言ったからだ。
イェースズの感覚では、ここは絶対に普通の村ではあり得なかった。まず、村人たちの顔つきが違う。全体的に明るい表情で、村人たちは行きかっている。それも優しく上品な顔立ちの人が多く、また性格も気さくな人が多いようだった。しかも、村の名前の「ムータイン・コタン」の「ムー」が、イェースズには気になるのだった。当然、超太古に太陽に沈んだというあの「ムーの国」を連想してしまう。この島国がその沈み残りだというのだが、このコタンのあるこの土地は何かムーと強い因縁があるのではないかと思ってしまうのだ。すると、万国の政庁が置かれていたトト山との関係はどうなのだろうと、イェースズの頭の中でいろいろなことが渦を巻く。ただ、頭で考えても結論は出るはずないので、とにかくイェースズは村の周りを散策してみることにした。
まばらな樹木の中にイェースズが点在するこの村は、さながら園のようであった。今は秋で草木も枯れているが、春や夏などの風景はいかばかりかと想像してしまう。村のはずれには、大きな池があった。その周りを背の高いススキが囲っている。この風景は、山地とその間の平地の水田というこの国の風景とは、明らかに質を異にしていた。大陸の西の果てのような羊飼いが羊の群れを追って現れたとしても、何の不思議もないような風景だった。
「まるで楽園だね」
と、イェースズは歩きながらヌプに言った。
「楽園といえば、このコタンは別名を『エデの園』っていうんですよ」
「え?」
あまり大きな声でイェースズが驚くので、ヌプもびっくりしたようにイェースズを見た。
「エデの園とはどういう意味なんだい?」
「エデ」というのは、イェースズが覚えているこの部族の言葉の単語の中にはなかった。
「大昔は父のことを、そう言ったんだって聞いてますよ」
「まさか……エデンの園? あの、アダムがいた……」
「アダムって、男でしょう?」
「そうだよ」
「このコタンの独特の言葉で男のことをアダっていって、女のことをアバっていうんですよ。ほかの村では通じませんけどね」
「じゃあ、ここから川が四本流れ出ていないかい?」
「え? よく知ってますね。さっきの池から川が四本、東に向かって流れていますよ」
「聖書」の記述では、エデンの園には川が四本流れていたことになっている。そのエデンの園とは、ここなのだろうか? この国が人類発祥の国なら、ここにエデンの園があってもおかしくはない。そして超太古この国から、追放ではないがアダムイブヒ赤人女祖という方がメソポタミヤに派遣されたのである。
そんなことを考えながらもっと見たかったのだが、ヌプが時間がないと言うのでイェースズはこの村をあとにすることにした。
それからヌプとともに、ここからだと東に当たるというウタリのコタンを目指した。そこからは、平凡な風景だった。左右を低い山に挟まれた谷間のような平地が細く延び、その中に川が一本流れていた。平地はわずかながら水田であって、谷間といっても割りと見通しはいい。その川に沿って進む形でイェースズとヌプは歩いた。
やがて夕方には、集落に着いた。東西に細長いコタンだった。ウタリの家は北側の山に向かって、少し坂道を登ったあたりだった。
イェースズたちが着く前から霊勘で察したらしく、ウタリは外に出て待っていた。ウタリは家に、恭しく礼をした。そして勧められるままにウタリの家に入ると、中はほとんど土間だったが、わずかばかり板が張っていある所があって、その上の寝台の上に女が横になっていた。
「母です」
と、ウタリはイェースズに紹介してから、女は上半身だけ起こして力なく頭を下げた。
「ご病気?」
「はい。母一人子一人なんですが、母は熱病で寝たきりなんですよ」
「それはお気の毒に」
イェースズは寝ているウタリの母親の脇に、イェースズは座った。母親はひと言ふた言世間並みな挨拶をして、ウタリが世話になっている旨の礼をイェースズに言った。
「いえいえ、こちらこそ」
戸、イェースズも世間並みな挨拶を返してから、おもむろに立ち上がった。そして母親に向かって空中にかざす形で手のひらを向けた。
その夜、母親の熱は急に上昇した。ウタリが慌てて医者を呼びに行こうとしたが、イェースズはそれを微笑んで制した。
「こういう時こそ、感謝が必要なんだよ」
そう言ってからイェースズは、ヌプとウタリの二人に祈ることを勧めた。
やがて母親はおびただしい下痢をし、薬の臭いのする大量の汗をかいたあと、翌朝には長年わずらっていた熱病がけろりと治って元気に起きだしてきた。イェースズはこのことをヌプにもウタリにもそして本人にも固く口止めして、ほかの村人に知られないようにと言い渡した。また噂が広まって、病気治しのご利益信仰の教祖に祀り上げられるのがいやだったのである。
そうしてイェースズは、しばらくこの村に滞在することになった。狭いウタリの家にヌプとともに寝起きし、日々を重ねるうちに秋はますます深まりゆき、木枯らしが身に突き刺さるようになってきた。
ところが、とうとう噂は広まってしまった。いくら口止めしても、長年寝たきりだった人が元気に歩き回っているのだ。それがイェースズという異邦人の来訪と期を一にするのだから、人の口に戸は立てられない。イェースズは何となくいづらくなってきたことを感じて、ヌプの村に帰ろうかと思っていた矢先、ウタリの母が、
「どうか、ここで冬を越してください」
と、言ってきた。冬になると豪雪ですべての村が雪で閉ざされ、互いの行き来は不可能になるであろうことは、トト山もそうだったのでイェースズはよく知っていた。だが、時が悪かった。ご利益信仰の教祖にならないためにも、この村にはいないほうがいい。かといってヌプのオビラ・コタンに帰るとウタリも着いてくるに決まっているし、いくら元気になたとはいえその母親に一人で冬を来させるのも忍びない。ウタリとておそらく同じで、ジレンマに陥るだろう。
そこでイェースズは、妙案を思いついた。
「ムータイン・コタンで、冬を越そう」
ヌプもウタリも驚いたが、それに従うと言った。ウタリにとっては、自分のコタンをさほど遠く離れる訳ではないので心強い。
やがてウタリの母親の感謝に満ちた目に見送られながら、三人は西へと向かったその日、この地方に初雪が降った。
この地方の豪雪は、トト山以上かもしれなかった。背丈よりも高く積もった雪に、コタンでは除雪ばかりが日課となる。屋根の雪を下ろすのを一日でも休めば、家は雪の重みでつぶされてしまう。そしてせめてコタンの中では互いに行き来できるよう雪を掘って道を作り、白銀に輝く壁を持つ道で家と家は結ばれる。そんな労働を、皆嬉々としてやっていることにイェースズは気がついた。この村全体の霊層の高さを思わせる。やはり、ここは普通の村ではない。霊層が高いということは、再生度数が多い人々が吹き寄せられているのだ。
そしてイェースズも、その労働にともに加わっていた。いっしょに働く人も皆笑顔で作業し、それがほのぼのと胸を熱くする。そして寝泊りさせてくれているヌプの父の友人である祭司の家に帰って夕食をとると、イェースズはたいていすぐ寝てしまった。この村では、冬に入る前に各家庭で食料採取は考えない。冬の間はすべて平等に、コタンの飯塚から村民に平等に食料は配分される。その食料は秋のうちにコタンの共同作業として、皆で収穫または狩猟したものである。トト山もここよりずっと南なのに、冬は雪で閉ざされた。しかし、プジの山の付近は、冬でもほとんど雪が降らなかった。どうやら海が北にある島国の北岸の地方は冬は豪雪地帯で、海が南にある南岸地帯は雪は少ないらしい。冬でも雨が降るという話をしたら、ヌプもウタリも目を白黒させていた。
そしてたまには、夜更けまで二人の少年と語らうことも多かった。
「感謝をせずに、寝てはいけない。感謝をせずに起きてもいけない。今、生かされているということ自体が感謝なんだ。再生転生中に、どんな罪穢を積んできたか分からない。それでも神様は許して、生かさせてくださっているんだ。感謝以外はないだろう? 息を一つ吸わせて頂いた、これとて神様のお許しがあってのことで、奇跡以外の何ものでもないんだ」
時には、祈りのコツというものも教えた。
「祈りとは、神様の波調と自分の波調を合わせることだ。人が神様に対して祈りがあるように、神様にも人に対する祈りがある。それを聞き取ることが大切だ。まずは思念を凝集して祈る。祈りが御神意にかなっていれば、必ずかなえてくださる。その絶対的信頼心が大事なんだ。神様にすがりきって、お任せしてしまう。でも、やるべきこともやらないでただお任せというのは違うぞ。そのように神様のみ意に合っていなければ、祈ってもかなえては下さらない。または、祈ってもかなえられないのは、神様がもっと深い別のお仕組みをご用意下さっている時とか、あるいはまだ時期ではないなど、神様のほうのご都合もあるんだ」
そんなイェースズも、ふと春になったらどうしようかと思う。このコタンに永住してしまいたいという気もするのだ。おそらく春になれば、色とりどりの花が咲き乱れるこの世の楽園になるだろう。人々の心も温かい。だが、果たしてそれがご真意かどうかと思う。自分には使命がある。人々が神より離れすぎないよう、導いていかねばならない。しかし、それがこの村にいて可能だろうか……。だがイェースズは、必要以上に頭で考えることはしない。まずは神のみ声を聞かんとして祈り、そしてもし答えが与えられたらス直に従うだけだと思っていた。すべてを神への絶対的信頼の上においていた。
そんなある晩、イェースズは夢を見た。行くべき道を示したまえと、ことのほか強く祈った晩だった。
一面の花畑の中で、イェースズはヌプやウタリとともに童心になって蝶を追いかけていた。相変わらず三角の山が、そんな光景を見下ろしている。
その時、
「イスズ」
と、背後で呼ぶ声がした。自分の名前をそんなふうに呼ぶ人は、この国には今のところいないはずだ。そこでイェースズは振り向こうとしたが、振り向く前にもう一度、今度はもっと力強く、
「イスズ」
と、呼ばれた。
その声で、イェースズは目が覚めた。まだ暗い。そんな前方の闇の中に人影があった。
イェースズは飛び起きた。暗くて顔は分からないががっちりした体格で、少年のヌプやウタリではあり得なかった。目が暗闇に慣れるのを待って、イェースズはもう一度その人影を凝視した。
「イスズ」
はっきりとした肉声が、その人影から発せられた。聞き覚えのある声だった。
「ミコ……様?」
「そうだ。久しぶりだなあ」
しばらく耳にしていなかったこの地方でいうヤマトの言葉だった。