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霊界での見聞。それはイェースズにとって価値観がひっくり返るような重大な体験だった。何しろこの現界での常識というものが、ことごとく覆される世界だったのである。しかも、覆した方が実在の常識で、今この現界で常識とされていることが実は幻想にすぎなかったということを、イェースズはいやというほど思い知らされた。
現界に戻ってからのイェースズは、毎日クライ山の山中で反省の行を続けた。今までとは、反省の尺度が違う。霊界体験による厳とした霊的尺度を、今の彼は持っている。とにかく自分の過去を霊界の法則に照らし合わせて徹底的に洗い直し、一日の終わりには感謝とお詫びに徹するのだった。
罪ということを考えたら、身震いが止まらなくなる。とても人様に頭が上がるものではない。そこでやけっぱちになって開き直るか、あるいはそれでも生かして下さっていることに明るく陽の気で感謝できるかで人生は違ってくる。人生は伸達の節があって波を打つものだが、下向きの時に神の試練と感謝で乗りきり、自分の罪穢を詫びて向上するか、不平不満でさらに曇りを積み、罪を積んで落ちていくか、神を知っていると知らないとでは人生に大差が生じるのである。
とにかくス直になることだと、彼は思った。人は霊界に入ったら、素の状態になる。肉体も規制も見栄も外聞も道徳もない世界だから、自分の本性、秘めた心がむきだしになる。そしてそれによって魂の修行をすべき霊層界のランクが定められるのだが、イェースズはそれを現界でやってしまおうと考えた。肉体という柵の中で霊的に盲目になっている現界での状態において、それをするのは並大抵のことではない。それでもやろうと彼は考えた。現界で素になってしまえば、確かに難しいことではあるが、それがいちばんいいことだ。あの精霊界で誰しも必ず見せられていた自分の一生を映す鏡を、今自分の心の中で映してしまおうと思ったのだ。
素は主に通ず――素になることが、主の神に近づくより近いミチのはずだ。
そうして、来る日も来る日もイェースズの反省の行は続いた。さらには、自分の使命自覚をと、彼は焦った。この世に降ろされたからには、何かしらの使命があるはずである。それを自覚するには、ますます素になる必要を彼は感じた。己の本質を客観的に見るのは、時には辛くもある。しかしそうせねば魂の曇りを吹き払うことはできないし、神の光も魂には到達し得まい。
そう思いつつも反省の行を続けるうちに、太陽が頭上から熱く照りつける季節となった。この国に来てから湿り気の多い夏の蒸し暑さには閉口していたが、ここは標高が高いせいかさほど暑さは気にならなかった。
さらに、食料調達の狩りをする以外はずっと反省の行をしているうち、風の中に涼を感じ、山中の木々の葉も黄色く変色しはじめるようになった。
そんなある日の昼下がり、イェースズは瞑想をやめてすくっと立ち上がった。少なくとも自分の使命は、ここでこうして禅定を組んでいることではないという結論に達したからだ。それだけは、サトり得た真実であった。自分の使命は、人と人との交わりの中にあると過去の自分を振り返りつつあると気づき、そうなるともう足がむずむずして居ても立ってもいられなくなった。
イェースズは数ヶ月を暮らしたこの山を、一気に駆け下りた。ふもとに着いたのは、西日が傾きかけた頃だった。
そこに、人里があった。
とにかく人と会わなければと思った。人との接触を断ち、山中で魂を磨くための孤独な修行をしていた彼の魂は、磨かれもしたが枯渇もしていた。それを潤すのは、人と人との魂のふれあいのみであると思った。霊界でも現界でも、人は決して一人では存在し得ないのだ。神を真中心に、人々の一体化で三千世界は成り立っている。
ふもとの山間部の盆地にある竪穴式のわらぶきの家の並ぶ村落の一戸の前に立って、イェースズは中へと声をかけた。
「お願いです。私を一晩泊めて下さい」
中にはちょうど、家族がそろっていた。その中の主人格の髭もじゃの男が、怪訝そうにイェースズをみた。
沈黙の時間が流れた。イェースズは努めて、笑顔を絶やさずにいた。
しばらくたってから、イェースズはその髭もじゃの男に招き入れられる形となった。イェースズの顔が、さらにパッと輝いた。
中へ入ると、土間の中央のいろりを囲んで、髭もじゃの男とその妻らしき女、そしてまだ幼い女の子が二人、イェースズを無言で見つめていた。逸れは、明らかに人種が違うこの珍客への、好奇の目だった。
「まあ、お座んなさい」
と、男は言った。イェースズが言われた通りに座ると、その男もそばに座った。
「あんた、赤人だね」
「え?」
イェースズには、何のことだか分からなかった。
「五色人のうちの、赤人だろう」
「五色人?」
「世界の人々は、五つの色に分かれている。我われ黄人、そしてあんたのような赤人、さらには白人、青人、黒人」
確かに、イェースズがこの国に来るまでの見てきた世界では、いろんな肌の人がいた。はじめて祖国を離れて黒人を見た時は、度肝を抜かれたものだった。自分が赤人なら、確かにローマやギリシャの人々は肌の色が微妙に違う白人だ。
「なぜ、そんなことをご存じなのですか?」
この目の前の男が、自分のように世界を旅してきたなどとはとても思えない。
「このピダマの国のものなら、誰でも知っておる。ここは人類発祥、五色人創造の聖地だからだよ」
その言葉には、イェースズは驚かなかった。ミコからも聞いていたし、それだけでなくその事実は自分がいちばんよく体験によって知っている。
そこでイェースズは、身を乗りだした。
「そのような話を、もっと聞かせてください」
やはり山中で一人修行するより、こうして人間社会の中にいる方が何かと面白そうだった。
その夜、狭い竪穴住居の中で、イェースズと髭の男は酒を汲みかわしていた。男の妻と娘は、すでにすぐそばで眠りに落ちている。イェースズと髭の男の間は、わずかばかりの灯火にかすかに照らされていた。男は確かに髭もじゃだが、今はイェースズも負けないくらいに髭も髪も伸び放題になっている。
「私は今まで、クライ山にこもっていたんですよ」
「ほう。クライ山。そこで何をしていたんだね」
男は目を細めた。
「いろいろと、自分を見つめる修行をしていました」
さすがに霊界探訪のことは、この男には言う気にはならなかった。まだ、初対面なのである。
「あの山は、すごい山だ」
男はイェースズの氏素性など全く気にしていないように、、淡々と話した。
「あの山は昔、天祖の神が降臨された山であるし、人祖の神もまた降臨された山だ」
「人祖?」
「神の御名は言えないがな」
「人祖の神って、アマテラス日大神様?」
男の表情が変わった。イェースズは口をつぐんだ。言ってはいけないことを言ってしまったのかとイェースズは当惑し、しばらく沈黙が流れた。二人は黙って、酒を口に運んでいた。酒は白く濁った酒だった。
ややあって気まずさを打ち砕こうと、イェースズの方から口を開いた。
「先ほど言われた、五色人発祥のことですが、それはどう言ういきさつがあったのですか?」
故国の聖書では、人々がバベルの塔を造ったために多くの言語が生じたとあるが、人種が分かれたことまではそこには書かれていない。ただ、この国に来てからオミジン山のミコより、太古に全世界を統治していたスメラミコトの五つの肌の色を持つ五人の皇子が全世界に派遣されたということだけはすでにイェースズは聞いていた。その子孫が、現在の五色人だということである。イェースズは、果たして目の前にいる髭の男も、同じことを言うだろうかという好奇心にかられていた。そしてその好奇心は、満たされた。
「皇統第二代のスメラミコト様の十六人の皇子は、五色の肌だった。例えば黄人はバンシナテイセイ王民様、赤人はヲイロパアダムイブヒ赤人女祖様、白人はアシャシャムバンコクムス白人祖民王様、青人はヨハネスブルグ青人民王様、黒人はインドチユウラニア黒人民王様などで、それぞれ世界に派遣されてその地を統治された」
「では、この国はそのバンシナ……」
「違う!」
男の口調は強かった。
「その方は支国、つまり海の向こうの隣の国の黄人の祖だ」
「シムですか?」
男は、それには何も答えなかった。だが、イェースズの目からはシムの国の人もこの国の人も同じ人種に見えるので、同じ黄人だと思ったのである。
「いいかね、この国は霊の元つ国で、人類発祥の国だよ。だからこの国の人は黄人ではなく、本家の黄人なんだ。つまり、皇統第二代スメラミコト様の皇太子であらせられた皇統第三代スメラミコト様の直系の子孫だ。だから黄人で、皇人なのだよ。だからといって、偉いというわけではないがな」
男はやっと、少し笑った。だが、イェースズは無言だった。男は話を続けた。
「つまり、全世界の全人種は、同じ親神様によって創造された兄弟だ。だから、平等なのだがね、兄弟とは兄と弟がいるだろう。この国の黄人は、世界の人種の長男に当たる」
イェースズはス直に、それを受け入れた。この国に来てからの一年半の見聞で、それを疑う余地はイェースズの中にはなかった。ただ、ふと思ったことだけを口にした。
「どうして皇統第二代のスメラミコト様には、突然肌の色が違う皇子様方がまれたのですか?」
「そんなの知らんわい。何しろ、遠い昔のことだ」
男はまた、少し笑った。
「ただこの国は、天の神様がはじめて降臨された国で、人類がこの国で創造されたということだけは変わらないがな」
「この国というのは、この島国のことですか?」
「そう。でも今は島だが、昔は大きな大陸だったそうだ。神がここですべてを無の常態から有の状態へと創造された」
「つまり、霊を物質化させたということですね」
「さあ、そういうことはよく分からないけど、何もない所から形があるものを生みだしたということだ。だから、無から有を創造されたということで、この島を、いや、島だった大陸を無有の国といったんだ」
「え? ムー?」
興奮のあまりイェースズは大きな声を出してしまい、慌てて男の眠っている妻や子を気遣った。しかし、彼の興奮も無理はない。ムーという名前は、キシュ・オタンで彼が粘土版でその名を見て以来、大洋に沈んだ人類発祥の大陸として追い求めていたムー大陸だ。
「やはりこの国が、ムーなんですか?」
「かつて大陸だった頃は、そう呼ばれていた。今は霊の元つ国と呼ばれているし、特にこのあたりは人祖の神の降臨の地だからピダマの国という」
「ピダマとは、どういう意味なのですか?」
「ピは太陽でその球、つまりピダマの国とは太陽の直系国だということだ」
アマテラス日大神は太陽の神、その天降りましました聖地だから、太陽の直系国なのだとイェースズはすぐに察した。
「昔はもっと広い範囲がピダマの国だったんだ。もっとずっと東の方までね。今では東の方はサヨシヨの国と称していて、ピダマの国というのはクライ山を中心とするこのあたりだけになってしまったのだよ」
「東の方って、だいたいどこまでなんですか?」
イェースズは、また酒を口に運んだ。
「ノリクライ岳までだな。そこへ行ってみるといい。神とのかかわりも深い所だというから、もっと霊的な人類発祥のいきさつが分かるかも知れない」
「高い山ですか?」
「頂上は、一年中雪だ」
それなら、かなり高い山のはずである。山中での修行の無意味さをサトって人里に降りて来たばかりのイェースズだから、また山かと一瞬たじろいだ。だが、別にそこにこもってまた修行をするわけでもないと思って、目を上げた。そして、
「明日、行ってみます」
と、言った。
翌朝起きだしたイェースズを、髭もじゃの男は笑って迎えた。竪穴住居の中には、もうほかには誰もいなかった。
「さあ、俺は狩りに行くぞ」
男がそう言うので、イェースズもノリクライ岳に向かうべく仕度を始めた。
外へ出るとまぶしい陽光がよく晴れた空から降り注がれ、あたりを輝かせていた。イェースズはその明るさに慣れるまで、しばらく目を細めていた。
「昨日はいろいろとお話を聞かせて下さり、有り難うございました」
「いやいいが、このピダマの国は世界ではじめて地名がついた場所でもあるんだ」
辺り四方を取り囲む山々と、その間から遠くに見える雪をかぶった連山、そして素朴な人情がイェースズの心に焼きついた。
村の中には一本の小川が、清らかなせせらぎを見せていた。そのまま川は、北へと流れていっている。
「この川は、どこまで流れているのですか?」
「トト山を通って海に出る」
「え?」
それなら、イェースズが最初に舟で上ってきたあの大河ではないか。それが今はこんなに小さな小川なのである。
「天の安川というんだ。天の高天原にもそのような川が流れているというし、ここにも流れている。だからここは、地上の高天原なんだ」
それを聞いてイェースズは、ミコがいつも御神前で「タカアマハラニカンドゥマリマス」と祈っていたことを思い出し、同時にそれはあの霊界探訪の最後に垣間見た光の洪水の世界の記憶と重なった。
そんなことを考えながらもイェースズは男に一泊の恩を謝し、村を後にして東へと向かった。
まずは教えられた通りに川に沿って北上した。次第に川は幅を広くしたが、浅い川なので底はよく見えた。しばらくは山間の少し開けた盆地の中央に川は流れていたが、途中で何と水がなくなって石ころだらけの河原だけが続くようになった。その河原に沿って歩いて行くうちにいつの間にかまた水が流れるようになった。何とも不思議な川だが、そこの部分だけは川の水は地下にしみこんで、伏流水として河原の下を流れていたようだ。やがて左右がまた山となり、両岸に垂直に岩肌が迫るようになった。川幅も狭くなり、その分流れも急になっている。かろうじて道はあったのでイェースズはなおも川に沿って歩いて行くと、今度はもっと広い平野に出た。平野といっても遠くを山に囲まれている盆地には変わりなかったが、その神々しさにイェースズはしばらく絶句した。そこはまさしく地上の高天原だった。そしてその平野の一角に実在しない巨大な黄金の屋根が見えたような気がしたイェースズの頭に、遠い将来には世界のさまざまな肌の色の人がこの地に集う時が来るという予感が飛来した。そして東に目をやると、盆地の終点に頂上に雪を頂く巨大な連山が横たわっていた。あれこそがノリクライ岳に違いないと、イェースズはここから北上してた足の方向を転換し、東の連山に向かって歩き始めた。
そして草むらの中の一本道をそのまま歩いていくうちに、イェースズはまた不思議な光景に出くわした。今度は実際の光景ではあるが、最初のまだ遠いうちは何だろうと思っていたところ、近づくにつれてそれは木が覆い繁った小高い丘だと分かった。そして近づけば近づくほど、その丘が異様な姿をあらわにしはじめた。丘自体はさほど高くはなく、オミジン山などよりも遥かに低い。ただ異様なのは山を覆っている木立が、頂上付近で鋭く天を突いていることだ。つまり、見かけ上の丘全体が鋭角三角柱のようになっており、頂上付近の木がその三角柱の鋭い先端になっているのだ。
イェースズは立ちすくんで、思わず息をのんだ。丘の中腹には人工の神殿ではなくいくつかの岩に結界をはって神域にしている磐座が認められたが、あまりに木立が鬱蒼としているのでその全容は明らかではない。しかもイェースズの足を止めたのはその異様な光景ばかりではなく、ちょうど磐座のあたりからものすごい霊流が発せられていてこちらにぶつかってくることもあった。それはあの霊界の太陽から発せられていた霊流と、明らかに同質のものだった。その背景に、ノリクライ岳を含む連山が横たわって見える。
イェースズは一歩一歩ゆっくりと、その丘へと近づいてみた。すると霊流はものすごい高圧となってぶつかってくるようになり、イェースズは軽いめまいさえ覚えた。丘のふもとから磐座までは石段が続いており、丘はどうも自然のものではなさそうだった。これも間違いなく、日来神堂と思われた。
そして丘の頂上を見上げたイェースズは、思わず声を発した。肉眼にはただ緑の尖りと青い空が映るだけだったが、霊眼には丘全体から立ち昇る巨大な炎の柱がはっきりと見えた。それは物質ではなく霊的な炎であったが、真っ赤に燃えながら光を放つその火柱は、左回りに回転しながら空へと昇っていっていた。
イェースズは、思わず一歩後ずさりした。しかし次の瞬間には、彼は炎の柱に向かって歩きだしていた。なぜかそちらへと引っ張られる感覚を彼は覚えたのだ。
やがて彼の足は地を離れ、からだが空中を浮遊して、そのまま炎の柱の中へと吸い込まれていった。その途端ものすごい上昇感を感じ、イェースズの体は大空へと放り出されていた。そのまま火柱に乗って、彼は上空を飛行した。肉体もろとも霊質化し、霊的な炎に乗っているのだ。
眼下には今まで歩いていた盆地やそれを取り囲む山など、大自然のすべてが雄大に展開されていた。そしてそのままイェースズの体はものすごい速さで、ノリクライ岳の方に向かって引っ張られていった。そして本格的な山岳地帯の上空にさしかかると、風景も一変した。険しい谷と岩肌が続き、もはや木々さえまだらであった。そして、ノリクライ岳の頂上が、見るみる眼前に迫ってきた。
そしてイェースズの肉体が再び物質化した時は、もうノリクライ岳山頂の、巨大な石の祭壇らしきものの前に放り出されていた。
そこはクライ山のようなふもとから見上げられるような山ではなく、本格的な山岳地帯だった。ただ、ものすごい霊圧を感じた。頂上付近はいくつもの岩の峰が起伏となり、その間が狭いながらも平らなスペースで、祭壇石はそこにあった。直方体の岩石で、高さは人の背丈くらいはある。明らかに人工の岩だが、どうにもその上に登る術はなさそうだった。ところが一回りすると、ちゃんと上に登る石段が付いていた。上は人が五十人ほど乗れそうな広さで、そこに登ってイェースズはあたりを見回した。山は単独の山ではなく、尾根伝いに次の峰へと連なっている。すぐ下の峰に囲まれた低い所には、青緑の水をたたえる小さな池もある。そして遠くは大地の皺が岩となってそそり立って連なる連山が幾重にも重なり、遥か遠くの山脈まで三百六十度の大パノラマとなって見渡せる。その谷間の遥か下が下界だろうが、下からはどんどん雲がわき上がって谷間を埋め、隣の山脈などは雲の海に浮かぶ島のようだ。
それはよく晴れていたが、空気がひんやりとして肉体的にはとてつもなく冷たく感じた。
そしてひときわイェースズの目を引いたのは、東の方の遥か彼方の山脈の向こうに、きれいな円錐形の山が独立して小さく顔をのぞかせていたのである。それを見た時、イェースズは思わず身震いがした。遥か遠くからとはいえ、こんな神々しい山を見たのは初めてだったのだ。むしろ、神そのものものを見たような衝撃がイェースズの中で走った。
今立っている峰は岩山だが植物が全くない訳ではなく、ところどころが緑の草に覆われていた。そして峰の上の方は、所々が冠雪さえしていた。
とにかく、何もかもが美しかった。すべてが神の被造物である。神がこの世界をお創りになった後、「善しとされた」というのもうなずける。大自然は神の至高の芸術で、至って善なるがゆえに至善――自然なんだと納得し、その大自然のてっぺんにぽつんと置かれたちっぽけなわが身をイェースズは実感した。自分を含めて人類は、その神の至高芸術の大自然の中で生かされている。その人類もまた、神が全智全能を振り絞られてお創りになった最高芸術品で、それゆえに神の子人なのだという思いが、イェースズの中でひしひしと湧きあがってきた。そうなると、今しがた大自然の中の自分がちっぽけな存在と感じたことを、彼は急に否定したくなった。大自然も神の芸術、神の子人も神の芸術なら、わが身と我が魂をちっぽけだと感じるのはおかしいと思ったのである。
イェースズは、岩の上にどっしりとあぐらをかいて座った。そして、ここへつれてこられた意味を考えた。もちろん、偶然に空に放り上げられて、ここに落下したというはずは絶対にない。すべてが神の御意志のはずだ。では、なぜこの場所なのだろうかと思って、イェースズはもう一度あたりの限りなく広がる空間を見渡した。この大自然と比べると、肉体は確かに小さい。しかし魂は神から分け与えられたものだから小さいはずがないと、イェースズはもう一度心の中で反芻した。そう思うと、イェースズの心の中になともいえない安らぎ、平静で平和な安堵感が広がりはじめた。それはとてつもなく暖かく、内から湧き出た感情のはずなのに、なぜか外から自分の意識全体が包みこまれたような感覚となっていった。そして、神はどこにいるのだろうと考えた。霊界探訪で最後に見たあの究極の黄金神殿に神はいらっしゃるのか……ではあの神殿は、どこにあるのか。そう思って空を見上げた時、イェースズの心の中にその答えが自ずと湧いてきた。神がどこかにいるのではない。自分が神の中にいるのだ、と。自分は、そして自分だけでなくすべての人類、すべての生き物、大自然を含むすべての被造物は、神の愛の中に存在している。そう思った時、イェースズの心の中にまた熱いものがこみ上げてきた。そして、驚くべき現象が、次の瞬間に起こった。
最初はイェースズ自身、何がどうなっているのか分からなかった。座っていたはずの石の祭壇が、遥か下に小さく見えるのである。しかし以前に幽体離脱したと木のような浮遊感も上昇感も全くなかった。依然として彼は、石の上に座ったままなのである。尻の下の岩の感覚もそのままで、それは身近にあった。それでいて、同時に遥か高い所から祭壇岩を見下ろしているのである。そしてその高度は、どんどん増していく。ただ単に高くなっているのではなく、周りの山々や雲に包まれた谷などが、どんどん小さくなっていっているのだ。
驚きのあまりに声も発せられずにいると、そのうちあれほど巨大に感じられていたノリクライ岳を含む連峰が足もとの小さな皺のようにさえ感じられはじめて、周りの景色も丸く全方角が一望できるくらいになっていった。そして、遠くの海さえも見えはじめた。その水平線ははじめははっきりとしていたが、段々と海と空が同じ青でぼけあい、輪郭もはっきりしなくなった。
すべての世界が小さくなっていくということは、自分が大きくなっていっているということだ。だが肉体感覚はまだ岩の上に座ったままなので肉体が巨大化している訳ではなく、どうやら彼の意識だけがどんどんと巨大化していっているようだった。
意識の巨大化は、どんどん速度を増していった。したには緑の大地と、青い海が見えるだけになった。その大地というのも、意識の巨大化に伴って島である全貌を表しはじめた。もちろん頭では今いる国が島国であることは分かってはいたが、今はじめてそのことをイェースズは確認した。イェースズが現在暮らしている島の形は、実に面白かった。もちろん、こんな形をした島だとは、イェースズは今まで知らなかったのである。頭や胴体、足や尾などに当たる部分が見え、全体的に細長く、弓なりに身をそらしている。
龍だ……と、彼は思った。かつてトト山の赤池の中のお堂で見た尊い龍体の形をしているのが、霊の元つ国といわれている島国で、つまり霊島だったのだ。弓なりにはっている方は広い広い大洋が彼方の水平線まで広がっていたが、その大洋こそがムーの国をのみ込んだ大洋なのかとイェースズは思った。その反対側がすぐそばまで、広い大地が迫っている。その大陸がティァンアンのあるシムの国のようだ。上空から見ても緑美しい島国とは対照的に、大陸は海からすぐの所からもう赤茶けた砂漠が広がっていた。やがて遠くに白い雪の壁のような皺が見え、その下は三角形に海に突き出ている半島だった。白い雪の壁は雪の住処に違いない。そなると、その下の三角の半島はアーンドラ国ということになる。自分がかつて生活し、別れを告げてきた国を、再びこのような形で見ることになるとは、イェースズは予想だにしていなかった。それならと思ってイェースズは、もっと遥か西の自分の故国――イスラエルを見ようとした。ところが、イスラエルは見えないのだ。そこに行く前に大地は地平線となって終わり、濃い青いラインで空とつながっている。空も輝きをやめて青も濃さを増していき、やがて星が見えはじめた。それでも太陽は、まばゆい光を放っている。
そしてとうとう大地は、丸く星空の中に浮かんでしまった。この円盤が全世界ならば、なぜユダヤの地が見えないのかとイェースズはいぶかしげに思っていた。シムもアーンドラもこんな眼下に近く見えるのに、それならばユダヤの地が見えてもよさそうなものだ。だが、見えない。それでもイェースズの意識の巨大化はどんどん進む。
空には月も見えた。それも地上で見るような淡く黄色い光を放つものではなく、あばたやしみだらけの岩石のかたまりだった。そしてそれは円盤ではなく、球だった。
イェースズははっと何かに気づいて、下の方の大地をもう一度遠くまで見た。月だけではなく、今自分が生活をしている大地さえ人々が考えているような円盤ではなく、球だった。今まで自分が歩きまわり、皆が平板だと思っている大地は、実は宇宙にぽっかりと浮かぶ丸い球だったのである。今まで円盤だと思っていた大地が何と球だったということを知ったイェースズの驚きは、筆舌にも尽くしがたいほど巨大なものだった。その球体となった地球もどんどん小さくなり、青い海と緑と茶色の混じった部分が認められ、表面を部分的に覆う白い雲も下の方に見えた。その姿は、実に美しかった。こんな究極の美の世界で自分たちは生かされてきたのである。
地球が小さくなるにつれ、そのほかの球体、つまりほかの惑星も見えてきた。ただ不思議なことに普通の星々は最初こそ見えていたものの、イェースズの意識が地球より大きくなった時に星たちは一斉にその光を消した。星が見えないのである。
やがてイェースズの意識がさらに巨大化すると、ほかの惑星たちは地球を含めて皆一定の軌道で太陽の周りをまわっていることを知った。すでに時間の感覚がなくなっており、今は静止しているように見えたが、それら惑星には軌道があることがイェースズにははっきりと智覚できた。
イェースズの意識は、さらに巨大化する。
多くの惑星たちによって星系をなしている太陽が遠ざかると、太陽と同じように自ら光と熱を発する光球――恒星が無数に間近に見えてきた。これらこそが地上から眺める満点の星々なのだろうが、それらはやがて巨大な渦となって、太陽もまたその中に溶けていった。ちょうど地上から見る天の川が光度を数百倍に増して、渦を巻いているようだ。その渦の中には二千億個近い恒星があり、その中でも地球と同じような惑星を持つ星も相当の数で認められた。その中には霊的な存在、つまり霊人の住みかとなっている所はあるようだが、地球のように物質による肉体を持った生物が存在する星はひとつもなかった。
やがてイェースズの意識はますます巨大化し、それにつれてあれほど巨大だった恒星の集まりの渦もどんどん小さくなっていった。そしてその周りに同じような銀河の渦が無数に散りばめられはじめ、その数は何千億にも達すると思われた。そしてそれらが群れをなすようになって、銀河群や銀河団を形成しているのである。
イェースズはあまりのスケールの大きさに面食らいながらも、すぐに覚醒した。この宇宙こそが神なのだと。神とは宇宙の大いなる意識、大宇宙意志で、真空に思えるこの空間こそが神の智・情・意の充満界であることを瞬時にサトッたのである。なぜなら今やイェースズの意識もまた、宇宙大にまで拡大されている。これが本然の人の魂なのだと思った瞬間、彼の魂は最高の光の渦で満たされ、すべての叡智が彼のものになった。大いなる神の大愛に包まれ、育まれ、生かされていることをしみじみと実感した。その境地は、神と自分のとの差を取った差取り――サトリの境地だった。人の魂とは本来誰でもこのように偉大なもので、水晶球のように透き通ったものだったのだ。それを今までは肉体というちっぽけな空の中に閉じ込められ、肉体の五官に振り回されて何も見えなくなっていた。今のイェースズの目の前に浮かぶ銀河のうちの一つの、さらにそれを構成している銀河の数千億分の一である太陽の、その周りを回って入る地球の地表のわずかな一角に、ほこりのように這いずり回っている肉体を自分のすべてと思い込み、それにとらわれて生きることの悲しさもイェースズは知った。そしてその肉体には限りがあるが、魂はこんなにも巨大で、永遠のものだったのである。地上で人類は、物質による地上天国顕現という神のご計画と目的のために再生転生を繰り返して魂を磨き、罪穢を消し、昇華を図るべきものだが、ひとたび肉体に入ると霊界のことも前世のことも人類の使命も創られた目的も分からないようになってしまい、五官に振り回される。それもまた、人に与えられた神大愛の試練なのだ。そして砂粒のような地球の表面の細菌のような人類の一人一人に、神は愛を降り注いで下さっているのだ。だから神は極大であって、同時に微に入り細に入りの極微の仕組みもできるお方なのである。だから極大の宇宙は同時に、極微実相の世界でもある。
今やイェースズの意識は宇宙大霊の波と一蓮托生、境なく交流し、生命の力、法則の力、産土の力と交感し、無限の力がとめどなく流れ入ってきていた。神魂と永久に連なり、神の大愛の光が流れ入る。神の妙智の光が流れ入る。神の清浄の光が流れ入る。
そうなると、巨大化していながら逆に極微の世界までが、すべて見通せるようになった。人の体も豚も桜の木もすべて小さな粒――細胞の集まりであり、さらに細胞は細かい素粒子の集まりであった。その素粒子さえ一つの核に無数の粒子が回転するいわば太陽系のようなもので、その粒子もまたもっともっと極微の素粒子の回転体なので、そんな極微の世界にも神の智・情・意は働いており、神の愛と意志は発動されている。巧妙な仕組みの中で、神の大愛の中ですべての人も生物も生かされている。しかも、肉体を頂いているのが、地球の人だけなのだ。その肉体はちっぽけなものだが、そこには大宇宙意識と一体の魂が注入されており、そのことをサトり得ないほど人類は堕落し、神から離れてしまっているのが現状である。
さらにイェースズの意識は巨大化し、銀河群でさえ密集しはじめて、とてつもなく巨大なかたまりとなっていった。しかも、その形は人間の形だった。神がその姿に似せて人を創ったというのは、こういうことだったのかとイェースズはサトッた。人間の形というのは、宇宙の形だったのである。今イェースズが智覚している逆を言えば、宇宙こそが人間の意識の投影なのである。そして人の形の巨大な宇宙のちょうど眉間に当たるところがひときわ輝いており、イェースズはそこのすっと吸い込まれる形となった。すると中に銀河系があり、太陽系があった。
だがそれまでイェースズが智覚した宇宙はあくまで物質の世界の宇宙であり、神という存在はどこにもなかった。だが、次の瞬間、イェースズの目の前で霊的な宇宙の実相が展開された。それは何と、ピラミッド型だったのである。とてつもなく巨大な人間の姿の銀河群の集合体は消え、その変わりに巨大な三角柱のピラミッドが出現した。それが左回転に回転しており、底辺の方にあれほどちっぽけなほこりよりも小さいはずの地球の物質界が大きく広がり、その上が四次元幽界、五・六次元神霊界、七次元神界と上昇し、頂上に当たる部分はものすごい光を発していた。そこが、かつてイェースズが霊界探訪の最後に訪れた光の渦と洪水の世界で、宇宙創造の神のおわします所なのだ。それは奥の奥のそのまた奥の最奧なのである。
しかしイェースズがその大ピラミッドを見たのはほんの一瞬で、次の瞬間には彼はもう元の肉体の大きさになってノリクライ岳の頂上の祭壇石の上に座っていた。
しばらくイェースズは何の思考もなく、目の前の雄大でちっぽけな風景のパノラマを見ていた。そしてそれが生き生きと、生気づいて感じられた。岩にも雲にも生命が感じられる。山も雲も木も皆生きている。神の大愛の中で生かされている。イェースズはそのことがもう嬉しくて、頬には熱い涙がいく筋も流れるのであった。
イェースズはまた、岩の上で瞑想を続けた。すべての実相が分かった今、残るは自分に与えられた特殊な使命のことだけである。それをサトるために彼は、全霊を傾けた。
もうふもとでもそろそろ冷たい風が吹きそむる季節であるが、ここは高い山の上なのでなおさらだった。また、天気がめまぐるしく変わる。そんな中で独りほとんど何も食べずに瞑想を続けるイェースズだったが、もはや孤独を感じることはなかった。すでに大宇宙と自分が一体であることを、彼は智覚している。時折瞑想をやめて静かに目を開け、周囲の大自然のパノラマを慈愛の目で見つめたりもした。すべてが自分と一体になった神の被造物だと思うと、何もかもがいとおしい。そして神の世界もこの世の自然も、すべてが調和で成りたっていることを実感した。狂いのない健で和でそして富の世界である。自分もそんな自然の中の一部であることが、身にしみて感じられる。こんな狂いなき大調和の波調を乱しているものは、ほかならぬ人間の我と慢心のみなのだ。
今しも、日は西の空に傾きつつあった。すでに大地が宇宙空間に浮かぶ球であって、それが回転しているからこそ太陽が昇ったり沈んだりするということを、もう彼は知っている。月が満ちたり欠けたりするのがなぜかも、もう理解した。恐らくこの時代で、そのことを知っているのは全世界でもイェースズ一人のみであろう。いろいろなことは分かったが、まだ自分の使命をサトリ得るには至っていない。しかし彼は、焦ってはいなかった。焦ったからとて分かるものではない。むしろ着実に、落ち着いて魂を開いていく方が、よほどの近道であるはずだと彼は確信していた。必ず神がお示し下さるという、絶対的な信頼感があったればこそである。
そうして瞑想を続けて七日目、急に目の前の視界いっぱいにヴィジョンが広がった。それも肉の目に外から飛び込んでくるものではなく、自分の内面から湧き上がってくる映像なのだ。肉の目には周りの景色が見えており、それと重なるように霊的な映像が繰り広げられる。周り三百六十五度を取り囲むヴィジョンの中に、彼はいた。
そこは町だった。巨大な自然石を巧みに組み合わせて造られた背の高い建物が、空を突くようにびっしりと並んでいる。自然石の一つ一つは人の背丈ほどもあるが、人工のものではなかった。それでいてかえって高度な文明の香りが感じられる。自然石とはいえ、このように寸分狂わず組み合わせて積み上げるのは、並大抵の人力では不可能だからだ。さらにその建物の間には金属製のチューブが空中にいくつも張り巡らされており、その上を時々奇妙な乗り物が何台もくっついたまま走った。遠くには透明な巨大ドームがいくつも並んでいるのが見え、空にさえ金属製の乗り物が飛んでいた。
町は人々でごったがえしており、その服装も今まで見たこともないものだった。その群衆が、一斉に空を見上げて騒ぎだした。空に巨大な星が現れたからだ。それは青い空にひときわ明るく輝いたかと思うと、見るみるこちらへと飛来し、気がついた時には巨大な円盤となっていた。まちぜんたいをおおうほど、その円盤は大きかった。金属製のようだが、黄金色と白銀色で複雑な構造になており、その下辺部には中心に向かって同心円状に無数の窓が配置されていた。その窓からも光が放たれており、そこの部分の中央からはそれ以上のまばゆい光が発せられていた。
町の中央の広場から空に向かって、石の階段が延びていた。階段は空中のかなり高いところまで登ってそこで終わっていたが、円盤はその上に着陸するらしい。広場には白時に赤丸、同じく白地に黄金の上六条の光状がえがかれたもの、そしてブルーのラインでカゴメの紋が描かれている旗などが無数にはためいていた。
円盤はゆっくりと回転しながら下降し、集まった人々の熱狂は最高潮に達した。
「ラ・ムー、ラ・ムー」
と、人々は口々に叫んでいる。やがてそれは一つのシュプレヒコールとなって、青い空に響く。
円盤が石段の上に着地し、その円盤の中から幾人かの人が出て石段を下りはじめた。群衆の興奮は、ますますエスカレートしていた。
いつの間にかイェースズは、石段のすぐ下に立っていた。その周りは、群集は少し間をあけて立っていた。その石段の下に立っている自分を、イェースズは別の目で見ていた。しかし、顔といい姿といい、全く今のイェースズとは別人なのだが。それでもあれは自分であるとイェースズは察知できた。
二列で石段を降りてきた人々が石段の下のイェースズの前に来ると、恭しくイェースズに向かって頭を下げた。そして、
「ミコ様」
と、イェースズのことを呼んだ。その人々の青い服の左胸には王家の紋章たる太陽の楯がつけられており、それは中心に十字が描かれた太陽を上部が平らのM字型の楯のマークが包みこんでいる紋様だ。
「スメラミコト様におかれましては、、ただいま万国御巡光より無事お戻りに遊ばされました。男の報告を聞いて、イェースズは満足げにうなずいていた。その間も、群集の歓喜はやまなかった。
「ラ・ムー。お帰りなさい」
「ラ・ムー、イヤサカ!」
「ラ・ムー、イヤサカ!」
「イヤサカ! イヤサカ!」
大群集が一斉に唱和する中で、イェースズは石段の真下に歩み寄った。その時、石段の上の方からものすごい閃光が放たれ、その中に一人の人影が現れた。その人こそが、閃光の発光体であった。通常の人の二倍の背丈があろうと思われるその人は。周りを光一色に塗りつぶしながら、ゆっくりと石段を降りてきた。人々の歓声はますます高まる。イェースズもまた、恭しく地にかがんで礼をした。
次の瞬間、イェースズはまたノリクライ岳山頂のもとの場所にいた。
「ああっ!」
とイェースズは突然叫んだ。
「私は、この国のミコだったんだ!」
その心の中の叫びは故国のアラム語ではなく、紛れもなくこの国の言葉だった。イェースズはすぐに、今のヴィジョンの意味を察した。それは自分の前世記憶だったのだ。それが蘇ったのである。人は現界に生きている間は本当の自分の意識の十分の一しか使ってはおらず、あとの十分の九は幽界に種魂として置いてきている。その種魂からもあらゆるレコードが取り出され、イェースズと一体になった。イェースズは十分の九の意識さえ取り戻したのである。現存する島国の霊の元つ国が巨大な大陸の一部だったころ、全世界を統治されていたスメラミコト様、すなわち世界大王の家族の一員、つまりイェースズは前世では王家の一員だったのである。
自分の前世を智覚した途端、さらなる叡智が彼に流れ込んできた。全身が熱くなるのを覚え、同時に内部からこみ上げてくる熱いものもが自然と涙を流させた。もはやイェースズは、輪廻転生のすべてをサトリ得た。前世ばかりでなく、前々世の記憶さえ、瞬時に甦ったのである。前世で霊の元つ国――ムーの王家の一員だった彼は、前々世ではインカに、そしてその前はアトランティスからエジプトにかけて活躍していた時代もあった。だからこそイェースズは、習いもしないのに霊の元つ国の言葉が、瞬時に分かるようになったのだ。これもまた前世紀億の蘇生といってもよいだろう。
イェースズはまた、感動にむせび泣いた。今までの二十年そこそこの人生が自分のすべてではなく、魂はずっと前から、モーセやアブラハムの時代より前から自分は存在していたのである。幽現の二つの界を行き来して、生き変わり死に換わりしつつ神の子としての力を磨き、そして昇華して、やがてはこの地上に神の国を顕現させるのが、神の子人を神が創造された目的なのだ。
そのときまた意識が遠のき、彼は幽体離脱しようとしていた。今度は、誰かに呼ばれてのことのようだった。そして光のドームの中で、イェースズの魂はどんどん上昇していった。
気がつくと彼は、一面の紫の花畑の中にいた。得も言えぬ優しい光圧を発する霊界の太陽が、真正面に胸の高さにある。そしてそこは、空全体も黄金色に輝く世界だった。
気がつくと、目の前のなだらかな緑に輝く丘の方に多勢の人が集まって、こちらを見ていた。イェースズは瞬時に、その人々の前に移動した。人々は皆、歓喜の涙で頬をぬらしていた。その中から二人の男と一人の女が出てきた。
女とは、現界では変成男子として活躍し、今はイェースズの守りの主となっているゴータマ・ブッダであった。
久しぶりの再会にイェースズは思わず駆け寄ると、彼女は静に手を伸ばした。そして二人は、硬く手を握り合った。
「イェースズ」
「ブッダ!」
この短いやり取りでイェースズは、今までは導きの親でもあったゴータマ・ブッダと、もはや同等の立場に立ったことが示された。
ほかの二人は、イェースズにとって初めての顔だった。ところがイェースズはその人たちに対して初対面という感じはなく、むしろ何百年来の知己に再び巡り会えたという感動がなぜかひしひしと湧いてきた。イェースズのその想念を読み取ったブッダが、二人を紹介してくれた。
「こちらはエリア、こちらはモーセです」
「あ!」
瞬時にしてイェースズは、すべてをサトッた。二人とは初対面どころは、高級霊界では魂の友――ソウルメイとだったのだ。もうイェースズは顔がくしゃくしゃになるくらい感激の涙を流しながら、二人と握手をかわした。
「この高級霊界から神に遣わされて地上に降ろされ他高級霊人でも、肉体に入った途端に使命を忘れて現界では没落していく人もいるのに、あなたはよく自分の魂を自覚して下さいました」
「あなたには、すごい使命があるのです。そのために邁進して下さい」
モーセとエリアの二人は、口々にそう言った。彼等の目とて潤んでいた。
「その使命が知りたくて、こうして瞑想をしているのですが……」
モーセは慈愛溢れる目で、イェースズを包みこむように見た。
「使命はやがて示されるでしょう。神もあなたがそれを自覚する日を、心待ちにしておられます」
「こんなに悩んで見つけようと苦労している使命が、そんなに簡単に示されるんですか?」
「心配には及びません」
と、ブッダが話に加わって言った。
「神から示されることのほとんどは、すでにあなたが行をされたことによって自らサトリ得たものです」
と、言って、ブッダはくすっと笑った。その三人の背後には多くの人が集まってきていた。
「よくご無事で……」
「またお会いできるなんて」
その人々は口々に叫んで、手を差し伸べてくる。イェースズも泣きながら、それらに応じていた。どの顔も初対面のはずなのに、懐かしさを覚える。そしてここに集まっている人々がまるで自分の分身のように、イェースズには思われた。顔形こそ違うが、性格や考え方、魂の状況など、すべてが完璧なほどにイェースズに似ていた。こここそ実在界で、本来自分がいた世界、自分が自分であり得る世界であった。
「忘れてはいません。あなたの苦しみ」
人々の中の一人が、イェースズの手を握りながら言った。
「ここは幽界の天国より上の五次元の世界で、霊体のみで生活していますから、本来なら現界という恐ろしい世界に肉身を持って再生転生する必要はないはずなのです。輪廻からは解脱した我われですけれど、あなたは神様の特別な使命を受けて現界に降ろされた。たいていそういう時は、ものすごく苦しむはずです」
そう言われてみると、もはや転生再生の必要のない己であったこと、それが特別に現界に降ろされたことなどがイェースズの埋もれてきた記憶の中から鮮明に甦った。実際のところ、彼等の会話はこのように長い言葉でされていた訳ではない。霊界の言葉は現界のそれとは違い、短い単語で数万通りの意味を含ませることができる。「あのう」と言っただけで、一冊の本が書けるほどの内容を伝達できるのだ。
「あなたが現界に誕生した時、私たちの数人は現界近くまで降臨し、近所の羊飼いの意識に刺激を与えておいたんですよ」
「それは」
ふとイェースズの頭に、母から聞いた話が蘇った。
「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」
イェースズは、その母の話にあった自分の誕生時の天使の歌の文句を言ってみた。
「そうそう。それです」
人々の表情は、うれしさではちきれんばかりの様子だった。ここにいる高級霊人とは、つまり天使なのである。そしてイェースズも本来は、そんな光の天使の一員だったのだ。一員というより、実は別格なのだが、それを証明するような出来事が次の瞬間に起こった。
イェースズの頭上に閃光がきらめいた。それは翼を広げた鳩のような形の炎だった。人々の歓声は、より一層高まった。そして、高らかに鐘が打ち鳴らされたような感覚もあった。その時、イェースズは突然光の渦の中、黄金の光の洪水のほかは何も見えない世界に放り出された。目の前に光球があるが、輪郭がはっきりしない。イェースズは光圧に耐えられず、うずくまった。うずくまったところで地面がある訳ではなかった。
――ノリクラは祈りの座よ。ノリクライ岳よ。
魂に直接響くその声は、クライ山で遭遇した父神に間違いなかった。
――汝を祈りの座より耀輝霊の界に召したるは、今こそ重大なる秘め事を、汝に知らしめおきたるためなり。
言葉では表現のしようのない、心などというものを通り越えて魂に厳しく痛く響く、神の荘厳なみ言葉であった。
――父神は国祖の神にて弥栄の神なるは、すでに示しおきたる通りなれど、今は訳ありて、化身のみ汝の前に立ちおるなり。その訳を聞かさん。まずは天地創造の太初の秘め事よ。
イェースズはますます頭を下げ、ただ畏まって無言で、さらには無心の境地で聞いていた。
――汝等、国祖の神をして「万物の造り主」「全智全能」などと褒め崇めしは嬉しきも、国祖の神はあくまで体の造り主にして、物質を司るに終始し、宇宙の大根元、大宇宙の宇宙意識の大神は、奥の奥のそのまた奥なり。汝等人類にとりて、すぐに分からんとしても無理。大き無辺なる宇宙の真中心なればなり。
大祖神のみ意もちて、火と水の神のみ力もて地美造りなし、そを第三現界となしおきたるなり。かくして神、あらゆる叡智を絞り、最高の芸術品、神宝として神の子人を創りおきしは、ことごとく物にて地の上天国を顕現させん意にて、それこそ神の一大芸術と申すなり。
如何に宇宙広しといえども、肉身与えし神の子人の存在は、この地美のみなることを思え。そを思う時、大いなる神大愛に思いを馳さざるべからず。
かくして肉身は微小なれど、神の御用を相果たさせんための諸々の機能と智慧を分かち与え、霊力は神より劣るなれど、物造りの技を最高に与えしも、すべて地の上天国を推し進めん神の大経綸によるものと知れ。故に汝等人は地美を離るることも、地中深く潜りて生くることもなし得ざるならん。そはいわれありての事なり。
神、数百億年もかかりて人を造り、失敗や試行も繰り返しつつ、やがて成り鳴り也らしめし場所こそ、霊の元つ国の日玉の国なれ。そを無より有を生ぜしめし因縁ありて、この地を無有の地とも申すなり。
そもそも天地初発の人類は霊力もいと高く、神と直接交流交感致すもたやすきことにて、神、人類によろずの事ども手取り足とり教え参りしものこの時のことよ。
されば人類は神の教えのまにまに暮らしおりたるもまた地の上天国にてありしかども、そは神の望みし姿にはあらず。あまりに人類、ものを掘り出し造りださん心とてなく、ひと時大かえらく起こして地の上の大掃除致させしも、そは神の子の育つを楽しみと致せし神の大愛の方便なり。
かくして、幾度も泥の海となせし地の上にて、自ら知恵絞りて物造らしめしも神の鍛えにして、そのためには一時方便として人々に物欲をも与え、競争力さえ出だし得るようなさしめしも神なり。
そは神、人に欲司る霊、言い換うれば生命の木とともに、知識の木をも神は人類に与え給う。されど神は汝等にその実を食すること許さざりしこと、汝等の申す「聖書」とやらにも示されたる如し。しかるに、それを食せしこと、智慧を知枝とやらになしたるもまた同じことよ。すなわち、生命の木を主となし、神・幽・現三界にわたりて貫きたる置き手の法はすべて霊が主なるに、人間知識の木の実ばかり食らいて、霊主を蔑ろにし、小賢しき人知の実を主体となせしにより、おのものも万全と思いし「我と慢心」、ここに生ぜしなり。これ、人間最初の堕落と申さんか。
されど、神界・神霊界の写し世が現界にてあれば、その大元はすべて神界にあり。
神、人にはじめに欲与えしにより、すべての陪臣の神々との創造の糸を断ち切り申し、自在の世、神の甘チョロ時代はここに始まりたるなり。
加えて大いなる因縁の秘め事あれば、今その一部を茲に告げおかん。
神と申しても、大根元の神、最高神は唯一絶対なれど、さらに多くの神々はさまざまに変化し、神界にて活躍しあるなり。その中にも火のみ力強き火(日)神、水のみ働き強き水(月)神あり。あくまで火をタテとなし、水をヨコになして十字に組みてこそ、産土の力生じ、森羅万象創造のみ力出で来たるならんも、いろいろ便利なる物造り出ださんためには一時ヨコの力を主となす時期もまた必要なれば、今は火と水のホドケの世、物主仏主の仮の世、真如の法の世、月の教えの世、水神の統治せる世なるなり。
神々もまた自在の世を迎え、勝手気儘に振舞いたるその果は、神々もまた色恋沙汰で争うようにさえ相なり、そがため地の上一度かえらくとなり、その科によりて火の神隠遁せざるを得ざることと相なり、国祖は艮に神幽り申し、火の神々も地中海中に今は隠れあり。
されど色恋沙汰と申すも大根本神の大愛にして雄大なる大芝居にして、その義は水神も、また火の神の多くも知らざる重大因縁なり。さればいまだ汝にも明かなに告げ申すことできざる訳あるなり。
然らば汝のみ役は、あまりにも欲高くなりすぎて、水晶の如き神の分けみ魂、「真我の吾」を包み積み曇らせし今世の人々、このままにては大いなるアガナヒ受けさせ、「ゲヘナの火」の満員御礼となるを神は可哀そうに思し召せば、それに歯止めかけさせんみ役を汝に与えたるなり。
されば神幽りし艮より化身を水神の目を盗んで汝のもとへ遣わしも、なかなかの苦労よ。すべて密かになし給うことにて、さらば汝は人々を明かな正法に切り換えせしむる必要は未だあらざるなり。汝は水神の教えに徹しながらも、あまりにも物欲のみに生きんとせし今世ヒトビトに、歯止めかけやればそれでよきなり。
やがて時来りて岩戸開かれ、正神真神お出ましの世とならば、真理の御霊世に降り、すべてを明かな正法に導かん。それをそれ、ミロク下生、メシア降臨の世と申すよ。汝等人類の時間と申す感覚にては今しばし先のことなれど、幾億万年の大仕組みの神界にては、すでに間近に迫り来たれるなり。その時までに、汝、手遅れと相ならぬよう、しかと歯止めかけおくべし。
夜明けは近づきぬ。やがて陽光燦然と輝く世になるなり。それまでは汝、夜の闇を照らす淡き一筋の光となれよ。
汝の教えは、ヨモツ国に広がり行くならん。ヨモツ国の東、カナンの地は、東と西、言い換うれば火と水を結ぶ重大因縁の地なり。
今や神霊界は、正神のお出ましにお邪魔致さんとする邪神悪神が暗躍し、人間をも気ままに操り、この逆法の世はますます渾沌の度合いヒドクなりゆけば、まず汝に仮の方便として水の教えを広めしめんとして、汝をヨモツ国に龍神体のひと鱗とばして降ろし給いしなり。
されど、深く思え。汝がみ魂は火の直系にして、火は日・陽・霊なり。故に吾、汝の父神と申せしは、汝は火の直系、日出の神の分けみ魂なればなり。それ故、汝は我が愛し子と申すべき者にて、吾を天の父とも申させしなり。
これまで汝を永き転生の過程にて鍛え参りしも、今世のためなり。神、汝を使うよ。汝ただ真ス直になりて、己を捨て、人々がやがて霊主の世を迎え得るよう、歯止めかけるべし。
これまで大根元神の直系のみ魂、現人神のスメラミコトとして遍く世を統治め参りしも、人々の穢れ一度ミソがんがための大かえらくにて、これより後のスメラミコトは、五島のみのスメラミコトとならん。
汝の責、いよよ重きよ。さらに神鍛えも多く、人々の誹りをも受けるに至らん。されど、神は常に汝とともにあり。常に見てあるなり。忘るることなかれ。すべてを神に任せおけば、神、汝のやりやすきように仕組まん。
この示しは重大なる神界の秘儀なれば、書き記すなかれ。今世の人類に告げ申すべからず。己が心内に秘めおきて、ただ己の精進の糧とし、そのカケラを語りて教えを広めん基とせよ。
クライ山山頂の肉体の中に戻ったイェースズは、それから三日ほどずっとむせび泣き続けた。今までどんな預言者にも告げ知らされなった大宇宙の秘め事を、自分には示されたのだ。それは感動と感謝以外の何ものでもなかった。
そしてある朝、意を決してイェースズは立ち上がった。この感動を、人々にも分かち与えていかなければならないと思ったのである。昔の預言者と違って、すべての啓示をあからさまに人々に告げられないというところにもどかしさはあったが、今は時代が時代なのだと自分に言い聞かせて、とにかく彼は山を降りることにした。
そうして日数をかけて泊まり歩き、川に沿って北上して、トト山のある平野にたどり着いたころには山の木々はすっかり葉を落としていた。
ここを離れていたのは、かれこれ半年くらいのはずだった。それなのに、ここで修行をしていた日々が遠い昔のように思われる。オミジン山はクライ山やノリクライ岳などと比べたらとても山とは言えないような、ちっぽけな丘にすぎなかった。その丘を斜めに登っていくなだらかな道を歩きながら、イェースズは無性に懐かしさを感じていた。道の両側の杉の木も、何ら変わってはいない。しかし、イェースズ自身の方が半年というわずかな期間に、矢継ぎ早にいろいろな体験を積み、もはや昔のイェースズではなかった。杉並木も、丘の下に広がる一面枯れ葉色の草原もみな生気を帯び、新鮮に見える。今のイェースズには、どんなものを見ても美しいと感じられるのだった。こんな美しいものを見ることができる目を二つも戴いている、そういうことに対する感謝の念に波調を合わせると、視界全体が余計に明るく輝いてくる。
やがて道が直角に折れ曲がって、イェースズは五色の絨毯の上を歩いた。突き当たりの石段を登ると、ミコの家と神殿がある。イェースズはその石段を、ときめく胸で登った。
ミコはいつもと変わらず、そこで薪を割っていた。相も変わらぬ日常生活を送っているようだ。そこへ突然ニコニコしてイェースズが現れたのだから、イェースズの姿を見るなりミコは、
「おお!」
と、驚きの表情を見せ、相好を崩して斧を放り出し、イェースズの方へ早足で寄ってきた。
「おお、還ってきたか」
「はい、ただいま戻りました」
笑顔のまま、イェースズは頭を下げた。
「そうか、よく帰ってきた。とにかく、御神殿にお参りしなさい」
「はい」
神殿の前にうずくまると、実はものすごい霊圧が神殿から出ていたのだということをイェースズは知った。前にここにいた時は、感じなかったことだ。イェースズは頭を下げた。今なら観念ではなく、はっきりと実在の神との対話ができる。
イェースズが参拝している間、ミコは妻や子供達を呼んできて、イェースズは彼等の歓迎を設けた。そしてその晩は、当然のことながらミコからピダマの国でのことをいろいろと尋ねられた。イェースズは迷った。クライ山での幽界探訪やノリクライ岳での神啓接受は、並大抵の体験ではない。そしてそれらのことは、一般大衆にあからさまに語ることは禁じられた。しかし、目の前のミコまでその一般大衆に入るのかどうかは、イェースズの悩むところであった。しかし、「ミコだけは特別」という言葉は老仙の口からも出なかったし御神示の中にもなかったので、とりあえずは差し障りのない話をイェースズはすることにした。
「ピダマの国は確かに神秘の国ですねえ。そんな列記の中で修行をさせて頂き、生まれ変わらせて頂けたような感じです。真に有り難うございました」
イェースズは終始笑顔を絶やさなかった。
「ピダマの国では、いろいろなことがあったようだな」
イェースズは一瞬、ミコにもすべての想念が読み取られたのかと思ってしまったが、そうではないようだった。
「どんな修行をしたのかは知らないが、素晴らしい人にと昇華して戻ってきたな。先ほど君が帰ってきた瞬間に、パッと明るい陽光がさしたような気がしたのだよ」
「そんなあ」
イェースズは照れて笑っていたが、ミコは真顔で話を続けた。
「かえって若返ったようでもあるな。話をしていて、ほのぼのとしてくる」
それだけ言ってから、ミコも嬉しそうに微笑んだ。
それから二、三日は、イェースズは特に何もすることなく過ごした。たった一つの作業は、ここを出てから帰ってくるまでの間のすべての体験の一つ一つを回想し、追体験することだった。ただ歯がゆいのは、それら一切を記録できないことだった。家としては文書にまとめたかったが。それはいけないと御神霊から固く禁じられていた。
そうして四日くらいたって、ひと通りの追体験が終わると、いるまでも家の中に閉じこもっている訳にもいかないと、半年前までと同じように、ミコの家での日常生活を復帰させた。そしてイェースズは、ミコの家族の日常生活に溶け込んだのである。二人の子どもたちも前にも増してイェースズになついてくれたし、不思議なことにイェースズは彼等との間に大人と子供という溝をぜんぜん感じなくなっていたのである。子どもたちが成長したということもあろうが、ただそれだけのことではないような感じだった。
そうこうして日々を暮らすうちに、もうこの里が雪に埋もれるのも時間の問題となってきた。
イェースズは平野の向こうの、もうすっかり雪をかぶった山脈の壁を見ていた。ノリクライ岳もあれくらい高さがあったから、あのような壁の上にイェースズはいたことになる。
背後に、いつの間にかミコが立っていた。
「このオミジン山はな」
と、ミコはいった。イェースズは笑顔で振り向いた。ミコの目も、遠くの山を見ていた。
「このオミジン山も、あの山くらいの高さがあったのだ。超太古にはな」
「え? この山がですか?」
「何しろ全世界の人々がこぞって参拝する巨大な黄金神殿があったのだ。今のようなこんな小さな丘では、とてもそのような巨大神殿は立たないだろう」
「はい、確かに」
「皇統第二十六代ウガヤプキアペズ朝の末期の天変地異でこの辺一帯は沈んで、貝を採った海もその時に湾となった。それまでは、海はずっと遠かったのだ。そしてこの山も、今のような小さな丘になってしまった」
イェースズは、黙ってうなずいた。ミコは遠くの山脈を指さした。
「あの山脈が海にぶつかった所に、春になったら行ってみるといい。おもしろいものが見られる」
「はい、いって見ます。有り難うございます」
ミコもしばらく微笑んで、イェースズの笑顔を見ていた。その心の中ではしきりに何か自問自答しているようだったが、やがて一人でうなずき、それから言った。
「そろそろいいかもしれない」
「何がですか?」
「よし。今から出かけよう」
「さっき言われていたその、山と海がぶつかる所へ行くんですか?」
「いや、違う」
「はい。分かりました」
それ以上は追及せず、イェースズはス直にミコに従った。冬の貯えの狩りは終わったし、貯蔵用の貝の採集も済んでいる。しかしイェースズは、あえて疑問をはさまなかった。
ミコがイェースズをつれて行ったのは丘の下の川向こう、メドの宮の裏手の赤池白龍満堂だった。イェースズがここに来てすぐに籠もらせられた、あの赤い水の池の中に浮かぶお堂だ。オミジン山の御神殿がホドの宮で火の宮なら、ここのメドの宮は水の宮ということになる。確かに火と水がホドケている世だなと、今のイェースズにはすぐに察しがついた。
そのメドの宮で参拝を済ませた後、小舟で赤い水面をすべり、懐かしい堂の中にイェースズはミコとともに入った。
「またこのお堂に、来年の春までこもってもらうことになる」
「はい。有り難うございます」
もはや「え? またここにですか」などという言霊を発することはないイェースズだった。時には拍子抜けするくらい、イェースズは無邪気で明るい。
「こんどはわしもいっしょだ。我が家に先祖代々伝わる秘伝や秘術、つまり神業の伝授を、一冬かけて行う」
イェースズはゆっくりうなずいた。
「ほとんどのことは、断片的にこれまでも語ってきたことだが、今ここにまとまった時間にまとめて伝授する。そのときが満ちたと、君の笑顔を見てそう思ったんだ。心構えはいいかね?」
「はい。よろいくお願いします」
イェースズは内心飛び上がらんばかりの嬉しさを感じていたが、ミコの表情といいその厳粛な雰囲気に、あえて喜びを表現することは慎んだ。
その日から早速、連日の講義が始まった。イェースズは神霊界での啓示を書きとめることが許されなかったのと同様、ここでも筆記は禁じられた。
「筆記は忘れるためにするようなものだ」
と、ミコは言った。
「全神経を集中させて聞いていれば、筆記する暇などないはず。話をただの話とせずに、己の血とし肉とせよ」
イェースズはまた、大きくうなずいた。イェースズはそのまま、長時間正座したままミコの話を聞いた。
池の外の小屋には、ミコの娘がせっせと食糧を運びこんでいるのが見える。彼女も恐らくひと冬をその小屋に寝泊まりし、前と同じように食事を運んでくれるのだろう。
講義はまず、歴史から始まった。
「そもそも宇宙太古の昔は、一つの卵のようなものから始まった。それが突然爆発して、膨らんでいったのだ」
ミコの口調はいつものそれとは違い、何かに憑かれたように講義内容を朗々と謳いあげていた。話の内容はピダマの国での異次元体験をしてきたイェースズにとっては耳新しいものではなく、見聞の再整理という形になった。それでも、「そのようなことはもう知っている」というような傲慢な態度は微塵も見せず、謙虚に下座して感謝しつつ拝聴した。むしろミコがそのようなことをすでに知り得ていることに対して、感服する思いだった。
ミコの話は、イェースズの国の『聖書』よりも遥かに正確で、悠遠なものだった。
宇宙の大根元神は大宇宙そのものであり、大いなる宇宙意志であって、宇宙エネルギーである。太初にはまず火の精霊、水の精霊が創造され、それが十字に結ばれて次々に神々が生まれていった。
「今より百五十億年も昔のことだ」
そう言ってから、ミコは静かに目を閉じた。
こうしてミコの講義は、毎日毎日延々と続いた。しばらくはずっと、歴史の話だった。大根元神から次々に八、七、六、五次元と創造されていき、第五代目の神は天祖として初めて地上に降り立たれたが、その場所がピダマの国であったという。そして第六代目の神こそが国祖であり、人類の霊成型がこの神様によって創造された。それが今から四十億から五十億年前のことだという。
この神様は、大根元神様が霊の面ならいわば体の面の神様で、人類のみならず、あらゆる動物、植物をも創造された。動物を創造する際は、神々の龍体の一部や全体的な縮小などの技術が用いられ、それらが一気に物質化されたものなのである。
国祖はピダマの国て御自らの龍体に男神の霊体をくるんで母魂とし、その二万年後には御自らの龍体に女神の霊体をくるんでこれをも母魂として、ともにこのアメノコシネの国のオミジン山に降ろされた。こうして人類が発祥するまで五千年、それまでは神にも試行錯誤があり、失敗作である類人猿や猿人などはみな亡び去った。従って、決して人類は何がしかの動物が進化したものではなく、その魂はすべて国祖を真中心とする四十八柱の神々、すなわち四十八の神々のどなたかの分けみ魂を頂いている。人がすべて神の子であるというのは、こういういきさつがあるからである。
第七代アマテラス日大神様は再びピダマの国にご降臨遊ばされ、すべての被造物をご覧になり、祝福され、「善し」とされて神界にお戻りになり、そして休まれた。以上、七代の神様を天神七代の神様と申し上げる。すべて神霊界の神様で、肉体を持ちになってはおられない……。
講義は時折、深夜まで及んだ。かすかな油明かりだけが頼りで、堂内はほかに火の気がないから暖をとるものは何もなかった。しかし、外は凍るような極寒だろうがここは神が堂に満ち、またイェースズも神が体に満ちて、不思議と寒さは感じなかった。
ミコの講義は、一日の休みもなく続いた。
アマテラス日大神様が神界にお帰りになり、そのミコが皇統第一代スメラミコト様の位にお即きになった。アメピトヨモトアシカビキミヌシスメラミコトで、この皇統というのは一つの王朝であり、皇統第一代は二十一世続いた。続く皇統第二代も三十三世続いている。この間、世界が泥の海になるような天変地異が八十四回もあった。
そして皇統第三代アメピトヨモトキビトミコトヌシスメラミコト様の時に人類は黄・赤・白・青・黒の肌を持つ五色人に分かれて全世界に散り、スメラミコト様はその皇子たちを民王として世界中に派遣した。だが直系はあくまで黄人であり、このスメラミコト様の御名がそれをよく表している。
その後、これまでになかった大天変地異で人類の大部分は死に、生き残ったもので次期文明を築きあげ、それが皇統第四代アメノミナカヌシ朝で、この王朝も二十二世続いている。こうして皇統が続き、スメラミコトは肉体神・現人神として全世界に君臨し、雨の浮舟に乗って世界じゅうをご巡行された。その間天変地異も百数回あり、大きいものだけでも三十数回。全世界が泥の海となってほとんどの人が死滅するような大天変地異は六回あった。その都度高度文明が亡んでは原始化し、再び文明を築き上げるという繰り返しだった。そしてスメラミコト様の叡智と、ノアのような選び子として生存したごく一部の人類によってそれはなされていった。
そして天変地異のたびに地球上の大陸は形を変え、今イェースズたちがいる島国もかつては偉大なるムーの国の一部であったが、時には海底に没していたこともあり、またムーとは反対側のシムのある大陸と地続きになっていたこともあった。
そして皇統第二十四代アメノニニギ朝の御時に世界政庁はムーの大陸部から後の島国となる部分に遷され、やがてムーの大陸とも地離れになり、皇統第二十六代ウガヤプキアペズ朝第六十九世カンタルワケトヨスキのスメラミコト様のご即位33年目の大天変地異で、ムー大陸の最後の沈み残りのミヨイ・タミアラの国も海底に没し、ムーの沈んでいない部分はこの五島のみとなった。そしてウガヤプキアペズ朝も天変地異の中で終わり、今の原始化した文明となって由々しき事態に陥っている。今は世界の真中心となるべきスメラミコトが不在で、各国はそれぞれ勝手な王を立てて国々は分化対立し、真の歴史がどんどん抹消されて、プキアペズ朝の亡んだ後の歴史だけが人類の歴史となっている。それ以前のことといえば、それぞれの国の神話の、それも冒頭部分に断片的に語り継がれているにすぎない。
「今は、大変な時代なんだ。これから後もしスメラミコト朝が興ったとしても、前にも言ったがそれはこの島国の中だけの大王として、世界のほかの国々の王と十把一からげに扱われるであろう。だから、大変な時代に生まれたということを、しっかりと肝に銘じておいてほしい」
もうすっかり外は、豪雪に埋まるようになった頃、ミコはそんな涙混じりの声で歴史の話を締めくくった。
ここに籠もってから、すでに二ヶ月くらいたっている。それでも、ミコの講義は終わらなかった。だが話のおもしろさにイェースズは全く苦痛も感じることなく、それどころか、そのような話を聞かせて頂けるという感謝の念から、床に入ってもむせび泣くこともしばしばだった。
次のミコの講義は、文字についてだった。文字というものは、すべて上古のスメラミコト様の作だという。アメノミナカヌシ朝のスメラミコト様の天日流文字や天越根文字など、十数種類の文字をイェースズは覚えさせられた。それらの文字のすべてが、スメラミコト様の叡智だという。そして一つの文字には一つの言霊が与えられ、その音霊は四十八柱の四十八の神々のみ働きが込められているという。ゆえに、文字は像神名という。また、ギリシャ文字、へブル文字、サンスクリット文字、シムの漢字など、すべての文字の発祥はこの国の太古の文字であるという。だから、この国には文字はないなどというのは、とんでもない歴史迷信なのである。
こうして講義を聞くうちに雪も溶けはじめ、次第に春めいてきた。
「今日の話は、ここで終わりだ」
と、ミコが言ったのは、本当に陽ざしが暖かくて、雪こそ溶けきってはいないが心も晴ればれとするような日だった。だが、まだ暗くもなっていない時刻に話が終わるというのは、これまでになかったことだった。
「今日はここで終わりにするのは、今日が特別な日だからだ」
「特別な日ですか?」
「ああ。今日は神霊界の一年の始まりの日で、コノメハルタツの日だからな」
コノメハルというのが神霊界でいう一月で、それが「タツ」というのだから月の最初の日で、いわゆる正月元旦である。イェースズの故国のユダヤ暦での正月は、季節的にもうあと一ヵ月後くらいだろうと思われる。ローマ暦での正月は冬の真っ最中だから、もうとっくに過ぎているだろう。だが、華やかすぎるほどだったシムの国の正月は、ちょうど今頃だったような気がする。もし今が正月なら、イェースズもちょうど二十歳を迎えたことになる。
「天神第六代の国祖の神様は神霊界にて暦をお造りになり、一年を三百六十日と定められた」
一年がなぜ三百六十日なのかについては、地球は現界的には太陽の周りをまわっている球だということをすでに知っているイェースズにとって、すぐに理解できることだった。地球が太陽の周りを一回りするのにかかる日数が、三百六十日なのだ。
「そしてその暦の最初の日、すなわちコノメハルタツの日に、国祖の神様は大天底に天祖の神様を勧進して祭ったのが、祭りの淵源なのだ」
イェースズの故国にさまざまな祭りがある。とりわけ大きいのは過ぎ越しの祭りやペンテコステの祭りだが、いずれもその起源は聖書に記載された歴史時代よりもさかのぼるものはなく、神霊界に起源を発するものは一つもなかった。また、この国に来るまでにも多くの祭りを見てきたが、どこの国の祭りもまた然りだった。
「神祭りの最初は、神様が神様に祈りを捧げられたのですね」
「祈りといっても、今の人間どもの祈りのような、ああしてくれこうしてくれという願掛けの祈りではない。本当の祈りとは、意を乗り合わせることだ」
物事の真実はすべて言霊に託されているから、霊の元つ国の言葉が分からないと神霊界の法則はわかりにくい。その点イェースズは、その言葉を習い覚えた訳でもないのに自由に理解できるので幸福だった。
「意を乗り合わせること、すなわち波調をあわせることが、祈りの秘訣だ。国祖の神様も天祖の神様と、この人類最初の祭りで波調を合わされた訳だ」
「波調合わせ……ですか」
「祈りとは、こちらからの一方的な願いごとをすることではない。例えば人が神様に祈るように、神にも人に対する願い、祈りがあるんだ。そのことをサトって、それと波調を合わせる、間を釣り合わせるんだ。だから、間釣りというんだよ。つまり、『和』だ」
イェースズは驚きを禁じ得なかった。ミコの話の内容もさることながら、何から何まで神霊界の秘儀がこの国の言葉には秘められている。
「コノメハルタツの祭りは国祖の神様が御自ら執り行われた人類祭であるのに、今では黄人の中にわずかにその名残が残っているにすぎない」
ミコの顔に少しだけ翳りが生じたが、すぐにミコは力強さを取り戻した。
「本当の神祭り、神との間釣り合い、波調合わせ、つまり意乗りが大事なだ。コノメハルタツの良き日に、このことをしっかり覚えておいてもらいたい」
イェースズはゆっくりとうなずいた。
「祈りとは、神様との対話なのですね」
「その通り。一方的な願掛けは人が神の上に立って、神を雇っているようなものだ。神のみ声に耳を傾け、今神様は人類に何をお望みなのかを読みとって、それを即実践に移すことが大切だ」
ミコの顔には、笑顔が戻っていた。
「こうして、国祖の神様、皇祖の神様からその人類祭の祭りを受け継いでこられた方が全世界の五色人の棟梁たる代々のスメラミコト様だった。スメラミコト様は地上の権力者でもないし、単なる統治者でもない。まさに肉身を持たれた神様、つまり現人神で、全世界人類のための天祭り役なのだ。それが今、長いこと空位になっている」
イェースズがキシュ・オタンで見た粘土板にも、ムーの国ではラ・ムーという神官が神祭りをしながら国を治めていたとあった。やはりスメラミコトとは、すなわちラ・ムーなのだ。
「神祭りと政治も、一体のものだ」
急にミコがそう言うので、まるで霊界にいた時のように想念を読み取られたのかとイェースズははっとした。
「政治は政ともいう。つまり、祭りだ。政治とは神祭りなのだ。昔のスメラミコト様は神を祭り、神と波調を合わせて、神のみ意のままにそのご意志を地上に移してこられた。だから、政治は祭りごとなんだ。そうして祭政一致を行ってきたのが、本来の霊の元つ国だ。それなのに、今の世は……」
熱をもって語り続けられてきたミコの言葉はそこで途絶え、その頬に涙が伝わった。イェースズはそれを見ているしかなかったが、だがイェースズにとってそれ以上のミコの言葉は必要なかった。今の世は邪神が跋扈し、それぞれの国の為政者も地上の権力者でしかなく、祭政一意を行っている所などない。すべて人知だけが主流となっている恐ろしい世なのだ。本来は祭政一致こそ正しい神のみ意なのだと、ミコの涙は無言で力説していた。
翌朝の朝食の後、ミコはイェースズをつれて舟で堂の外に出た。もうここに籠もってから何ヶ月たつのだろうかと思いながら溶けはじめた雪を踏みながら歩いていると、春はもう確実に到来していることが感じられた。
ミコのあとを歩きながら、これでミコの講義はすべて終わり、オミジン山に帰るのかなとイェースズは思っていた。するとミコはメドの宮の前のちょっとした広場で足を止め、
「これから、神業を伝授する」
と、言った。
「はい」
「神業とは自分の力を誇示するためのものでもないし、人々の注目を集めるためにやるものでもない」
「はい」
イェースズは大きく息を吸ってうなずいた。
空は青く、雲もない。まだ残っている雪に陽光がまぶしく反射し、輝いて見えた。
「神業は、己の力ではない。偉大な神のなせる業で、ごく選ばれたものだけがその業を用いることができるが、そのものとて神が定めたもうた道具にすぎぬ。あくまで業をされるのは神様であり、人はただお使い頂くだけだ。それを心得た上で、今から業を伝授する」
「はい」
ミコの言う業というのはどういうものなのか分からなかったが、イェースズは張り詰めた心になっていた。すでに自分に備わっている癒しの業以上の業が、まだあるらしい。
そんなことを考えて、イェースズは一瞬だけ目を伏せた。そして再び目をあげた時には、ミコの姿は目の前になかった。一瞬にして、ミコは消えうせた。あたりを見回してみると、少しはなれた雪のかたまりの上に、ミコはいた。だがその姿も突然に消え、ミコはもう別の位置に立っていた。その間は人間が足で跳ねて移動できるような距離ではない。まるで時間と空間を超越した霊界で体験したような現象を、物質の世界である現界で見るのは始めてだった。
今度は、ミコの体は宙に浮き、旋回してイェースズの前に戻ってきた。
イェースズは呆気にとられていた。ミコは一度だけニコリと笑い、そしてまた厳しい顔になった。
「神業は神のご実在とそのみ力を万人に知らしめるためのもので、この業自体が目的ではない。神の栄光を現すための業なのだ」
「私にもできるのですか?」
ミコの眼が、また厳しく光った。
「君がするのではない。神様がされるのだ。自分にできるかどうかなどという疑問は、神を馬鹿にしたことになる」
イェースズは神を馬鹿にするなどということに対し、顔から血の気がさっと引くほどに恐ろしさを感じた。
「申し訳ありません」
イェースズはすぐに頭を下げた。ミコは笑った。
「それに、できるはずもない人にやれとは、わしは言わん。君ならできると、わしには分かるので言ったのだ。お前にできると言うことが分かるのも、一種の神業だな」
それからミコは、また厳しい表情に戻った。
「手段と目的が入れ替わった時、自分の願いばかりを神に訴える世間一般の人の祈りと同じになる。ただご利益だけを頂けばいいという想念はまるで神を雇っているようで、神と人とどちらが上だか分かりやしない。そういった想念の人には動物霊かなんかが一時的なご利益を与え、やがては自分の範疇に引きずり込もうとする。そうならないためにも、神様に許されてさせて頂いている、お使い頂いているという謙虚な態度と感謝が大切だ」
ミコが今度は近くの竹やぶを見つめると、細い竹が二、三本空中を浮遊して赤い池に落ちた。するとミコは、ひらりとそれに飛び乗った。その姿は、まるで水面上を歩行しているかのようだった。その時イェースズの目は、ミコの体が肉体であって肉体ではなく、エクトプラズマ、すなわち幽体化していることをはっきりととらえていた。
次の瞬間には、ミコはイェースズの前で再び物質化して立っていた。
「これらの力は、本来は誰でも持っていたものだ。しかし今世の人々はその魂の曇りから神様もお使いになることができず、従ってこういった業もできなくなっている。ただ、それだけのことだ」
イェースズは無言で、それを聞いていた。
「君ならできる」
急にミコの口調が変わってミコはそう言うので、イェースズは驚いた。
「神様にお使い頂けるかどうかは、いかの魂を浄めて本来の水晶だまのような魂に戻っているか、神の子として元還りしているかどうかにかかっている」
今のイェースズには、原理は分かる。肉体を幽質化させれば、あの時間や空間がなく想念の世界である霊界にいるのと同じ状態になるから、同じことができるのだ。しかし、肉体をエクトプラズマ化させるなどということは、人間の力ではどうにも無理なことで、だからこそミコの言うように神のご意志によってはじめてなし得ることなのである。だから偉大な神業なのだ。幼い頃にイェースズが泥で作ったすずめを空中に飛ばしたのも、神のご意志だったのである。
「やってみろ」
イェースズがそんなことを考えてぼんやりしているうちに、ミコの鋭い口調が飛んだ。
「はい」
幼い頃からずっとやってきたようにイェースズは意識をギュッと凝縮した。そして想念のボルテージをあげ、宇宙意志との一体化を計った。すると想念の波動は幽体波として飛んでいき、赤い池の水の上にある竹を空中に浮かび上がらせた。竹はミコとイェースズの足もとで、音を立てて落ちた。ミコは満足げにうなずいた。イェースズは目を閉じ、大きく域を吸い、現界に持って生まれた十分の一の意識だけではなく、霊界に置いてある種魂の九割の意識と叡智を、宇宙意志との一体化のもと呼び寄せたのだ。意識は肉体の五官に閉じ込められた状態から一気に解放された。そして次の瞬間には、イェースズは想念通りのかなり雪の上に立っていた。すべて自分の意志ではなく、神のご意志であった。すぐにミコも、イェースズの隣に移動してきた。
「決して人間業じゃあないぞ。あくまで神業だ。人間が人間である間は許されない業なのだ。すべての人が神のみ魂を注入された神の子であるという自覚を正しく持ち、人には間がある人間ではなく、神の霊を止めた神の子霊止として復活した時、神はその証の力をお見せ下さる」
「神の子の復活……」
「それがいちばん大事なのだ。君にまだ人間性があるうちはだめだ。よくない意味での人間性を脱却し、神性化することだ。だから日々、神の子の力甦らせ給えと祈る事が大事なのだ」
ミコは懐から、ろうそくを取り出した。
「いいか、神と一体化すれば、こういうこともできるぞ」
ミコはろうそくに火をつけ、そのろうそくを上から親指、人さし指、中指の三本の指ではさんだ。ろうそくの炎はもろに手のひらに当たる。それでもミコの顔は全く苦痛にゆがみもしなかった。イェースズが呆気にとられているうち、ミコはそのままろうそくをさかさまにした。今度は炎は三本の指をあぶり、たれた蝋が手のひらにたまった。
「こんなことができたとて、神のみ意の人救いにはならないが、一応参考までにな」
ミコはまた笑った。
それからは講義ではなく、神業の修錬の毎日となった。イェースズは瞬く間に水の上を歩く術を身につけ、三日ほどで瞬間移動もできるようになり、やがてろうそくを手に持って歩くこともできるようになった。
だが、イェースズにとっての一番関心事は、そのようなパフォーマンス的な神業ではなく、自分の使命遂行のために必要な万人救済の神業だった。そして、気になっていたのは、彼がすでに身につけている手のひらを置く癒しの業だが、それもまた神業であることはすでに了解していた。だが、ミコはかつてそれについて、それは癒しの業の初歩であると言った。そのことについて、イェースズはミコに尋ねてみた。
「ミコ様は私の癒しの業を、初の座とおっしゃっていましたね」
「そう。あれもまさしく神業だが、ただこれまでの水上歩行などとは違って癒しの業となると、直接人救いにつながる反面、想念の持ち方を誤るととんでもないことになる」
それは、イェースズとてすぐ理解できた。自分が不思議な力を突然身につけた幼少時の想念の記憶をたどれば、容易に分かることだった。
「癒しの業とて、決して自分の力ではない。神様に自分の霊体をお貸し申し上げているだけで、されるのは神様だ」
「はい」
「要は、その目的が病気治しではないということだ。あくまで霊的救いとしてその人の霊体を浄め、病気のない状態にしてしまうことなのだ。肉体の病は霊の曇りから生じるもの、だから霊の曇りを削ぎはらってしまえば肉体の病も自ずから癒えてしまう。だから肉体にばかりとらわれ、薬などの手を施しても、根本の原因を取り除かない限り本当の無病化とはならない」
「すべての実在は霊であって、霊が主体であるということですね」
「そういうことだ。逆を言えば、肉体の病すら癒せない力が、なぜ霊的な救いができるのかということになろう。だが、この業の目的は病気治しではなく、神がされる業であるだけに、この業によって神の御実在、霊の実在を万人に知らしめ、霊細胞を浄めて魂を浄化向上させ、よって神様のご計画の成就に万人を参画せしめるための業なのだ」
「ところで、私の業が初の座だということなら、まだ上がある訳ですね」
「ある」
と、きっぱりとミコは言った。
「君もできる手を直接当てる按手の法は初の座で、これを真手の業という。そしてこれから伝授するのは、中の座だ」
「え? 中の座というのは確か、真息吹の業とかいいましたね。それを教えて頂けるのですか?」
イェースズの顔がパッと輝いた。
「よく覚えていたな」
ミコは笑ってそう言ってから、すぐにイェースズに向かって力強く息をふきかけた。家は慌てて一歩退いた。それは普通の息ではなく、ものすごい熱をその中に感じたからだ。
「これが中の座だ。やってみろ」
イェースズも腹中に息をため込み、フッと吹きかけてみた。
「人の息に神力を乗せる吹きだ。これによって一切を吹き浄め、浄化させる」
今度は自分の手の甲に、イェースズは息を吹きかけてみた。
「あ」
イェースズが叫んだのも無理はない。手の甲一面にきらきら輝く金の粉が、一面に付着しているのだ。驚いて手をのぞきこむイェースズに、頭上からミコは言った。
「その金粉は、時に神のみ光がものとなって現れた証だ。大切にするがいい」
イェースズがゆっくりと目を上げると、ミコは、
「では、山に戻るぞ」
と、言ってイェースズに背を向け、雪の上に足跡をつけながら歩きだした。
「あ、待って下さい」
イェースズは慌てて、その背中を追った。
「初の座と中の座の上に、まだ奥の座があるっておっしゃっていましたよね」
ミコは歩きなが振り向いた。
「それはまだ、伝授できぬ」
ミコが立ち止まったので、イェースズはようやく追いついた。そんなイェースズに、ミコは言った。
「雪が溶けたら、また旅に出なさい」
「旅に? どこへ行くんです?」
「今度はあれを越えて、東へ行くのだ」
ミコが指さしたのは、平地の東に壁のように横たわる白い山脈だ。
「東へ行けば不死の山がある。アフリの神を祀った社もある。その旅路において、奥の座は自ら習得しなさい。今わしが簡単に伝授できるものでもないし、また君に、いや君だけでなく誰にも伝授することはわしにも許されていないのだ」
ミコはそれだけ言うと、また行ってしまった。
一人残されたイェースズは、呆然と白い山脈を見つめた。
あの向こうには、どんな世界が開けているのか分からない。ただ、奥の座を習得し得る何かがあるのかもしれない。それにミコが言っていた不死の山というのが気にかかる。そういえばシムの国で聞いた話では、この国には不老不死の薬があるというブンムラグという山があって、昔ギァグ・ピュアクという人がシムの皇帝ジェン・チャーグ・フアンに遣わされたということだった。だがイェースズはまだこの国に来てから、そのブンムラグらしき山には巡り会っていない。長らく忘れていたそんなことが、ふとイェースズの頭の中に甦った。