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しばらく平穏な毎日が続いた後、雪もすっかり溶けてからイェースズは再び旅に出た。この旅路で、何としても奥の座を習得しなければならない。奥の座とは簡単に伝授してはもらえないほど、大それたものらしい。
ミコは、東へ行けといった。東へ行くには雪の頂が天を突くあの山脈の壁を越えねばならない。しかも、ミコからは神業である瞬間移動の術を使うことは禁じられた。二本の足で、しっかりと大地を踏みしめて歩いて行けというのだ。だが、同時にミコは海岸伝いに行けば難なく山脈は越えられるというアドバイスもくれた。
そのミコの家族は、今頃また日常生活の中にいるであろう。イェースズは明るい砂浜に足跡を残し、海岸を東へと向かっていた。その海岸線は大きく左に湾曲し、その先に山脈の終点がある。そこまで何とかたどり着いた時、彼はとてつもない不思議な光景を見た。大山脈がそのまま傾斜して、海に突入しているのだ。やはりミコから聞いた、天変地異で陸地が沈んで今左手にある湾ができたというのは本当の話らしい。そうでなければ、これほどの天を突く大山脈がそのまま海に飛び込んでいるはずはない。
やがて海岸線はそそり立つ断崖となり、イェースズは呆然と立ちすくんでしまった。海岸づたいの道など、もはや存在しないのである。断崖の上はそのまま、頭上に天高くイェースズを遥かに見下ろす白い雪の頂きである。仕方なくイェースズは断崖をよじ登って岩伝いに、時には両腕でぶら下がりながらその難所を越えようとした。足元は遥か下を、怒濤が吼え狂っている。
無心で身を運びながら、なぜミコが自分の特殊能力を使うことを禁じたのか、その理由が彼にはおぼろげながらも分かってきた。神業は絶対他力である。ミコも、自分がするのではなく神様がされるのだと力説していた。しかし人は神が全智全能を振り絞られて創造された最高芸術品で、地上で物質を駆使し得る最高の叡智を与えられている。それを蔑しろにして他力ばかりに頼るのは、ご利益を期待するご利益信仰と同じである。しかしまた、その自力を絶対とうぬぼれたら、逆の誤りをも犯す。絶対他力にて創造され、生かされあることをサトリつつも、与えられた自力で精一杯精進するというのが、本当の精進なんだとイェースズはあらためて認識した。神業は自分のためではなく、人救いのために与えられているのである。絶体絶命の時に他力におすがりするという謙虚さは必要だが、あくまで神業は利他愛顕現のためだ。なぜなら、神そのものが利他愛に終始したもうお方だからである。そういったさまざまなことをこと細かに教導下さったミコに、あらためて感謝の念が湧いてきた。そして、精進、精進と一つ別の岩に手をかけるたび、イェースズは心の中でつぶやきながら身を運んだ。
潮風が容赦なく頬を打つ。
ようやく断崖が終わって再び海岸線が砂浜になった頃には、日はもうとっぷりと暮れていた。
それから何日か泊まりを重ねた後、今度はイェースズは別の山脈沿いに南下した。海岸線はここから北上を始め、ミコの言葉通り東に行くには海岸線とは別れを告げなければならなかった。だが真東はかなりの高さの山岳地帯のようで、その山脈沿いの谷間のような平地を流れる川に沿って南下すればそのうち東へ向かえるだろうとイェースズは思ったのだ。
そして五日くらい進んだが、いつまでも山脈は左手に彼を追ってきた。時には壁のように垂直にそそり立って天を突いていたりする。白い頂の上は、まるで神々が遊んでいるかのようにも見える神々しさだ。まるで雪の住処と見まごう大山脈が、しかも海岸近くにあるところなどから、この国が世界の霊成型であるというのは本当なのだと実感される。世界にあるすべての自然はその大元がこの国にあり、スケールこそ小さいが全世界がこの国に凝縮されているといっても過言ではないとイェースズは痛感した。
やがてようやく山脈が空の彼方に遠のいてきた頃、東進が可能なくらいに行く手左前方に東に向かって盆地が開けた。盆地を取り囲んでいるのは、山また山が幾重にも重なる山地だ。その盆地の中央に湖があった。この国にしては大きな湖だが、ガリラヤ湖の半分くらいしかなさそうだ。峠の上からその湖の全景を見下ろし、イェースズはその美しさに思わず息をのんだ。
ずっと道沿いにあった川はこの湖が水源のようだが、この湖からはちょうど反対側に流れ出る川もあって、今度はその川に沿ってイェースズは若干東向きに南下する形となった。左右を山に挟まれていることには変わりないが、今度の川沿いは少しは広々とした平らな土地で、そんな高原を進むこと三日にして、イェースズはこの世のものとも思われる実に神秘的な姿の山に出くわした。周りには山脈といえるような山岳地帯はなく、なだらかな丘陵地帯の上にその山はどっしりとあぐらをかいていた。見事なまでの円錐形で、高さはこの国に来て見たどの山よりも高く、その巨大さからまさしく神の山といえる様相だった。三角形の頂点は大空にそびえ、頂上付近には冠のように雪が残っている。あまりの高度に、雪のない部分の山肌は青く見えた。そしてイェースズが何よりも驚いたのは、頂上からもくもくと煙が出ていることだった。
火を吹く山というのが存在するとは聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだった。今はおとなしく煙を吐いているだけだが、ひとたび起これば中天まで真っ赤な炎を吹き上げることもあるという。
イェースズは思わず足を止め、息をのんだ。こんな神々しい山が地上に存在すること自体、まだ信じられなかった。
そのうち、イェースズはノリクライ岳の頂上で、遠くの一角に小さく三角形の山が見えたのを思い出した。あの山こそ、今目の前にある山に間違いないと思った。その時もその神秘的な山容に心打たれたが、間近でその巨大な裾野に立って山を見上げるともはや心打たれるどころの騒ぎではなかった。
イェースズは跪いた。そして両手を挙げて山を仰ぎ、
「神様!」
と大きく叫んでいた。それほどまでの山だったのである。
それからイェースズは、どんどんとその山に近づいて行った。だが、近づいても近づいても山はどっしりと鎮まり、なかなかたどり着けそうにもなかった。山は目の前にあるのに、まだまだその距離は遠いと感じているうちに日が暮れてしまった。
翌日は、山までの間にちょっとした峠道があって、それを越えねばならなかった。そして峠を越えた時、イェースズはまたもや思わず目を見開いて足を止めてしまった。何と山のふもとは大きな湖がちょうど裾野を洗うようにぐるりと取り囲んでおり、湖水に三角形が逆さに反映してこれ以上の絶景はないといえるほどの大パノラマが彼の視界に飛び込んできたのである。ここから見ると、山はまるで湖の中に浮かぶ島のようだ。イェースズは今すぐにでもその湖のほとりにまで行きたいと思ったが、彼の行く手を阻むものがあった。それは峠の下あたりから湖までの間に広がる果てしない樹海であった。昼だというのに薄暗い雑木の樹海で、そのような密林に入れば東も西も分からなくなって永遠に出られなくなるということを、世界中を旅して来たイェースズは直勘として感じた。山に向かって直進することは不可能のようだ。よしんば樹海を抜けたとしても、イェースズの目を感動させたあの湖が今度は行く手を阻む障害物になることは目に見えている。しかも山からは風景としての威容ばかりでなく、光圧の如き霊流が激しく放射されていた。まさしく霊峰といって差し支えない山だった。イェースズは直進を断念したとはいえ、どうしても素通りしていい山ではないと感じ、しばらくは今までそれに沿って歩いて来た川に従って行くことにした。川はここからは川幅を広げ、真っ直ぐに南下している。それに沿って歩くと、正面にあった山は次第に左手の方へと移ってきた。
そうして三日ほど泊まりを重ねたが、山はまだ左手にあった。その三日目の夕刻、イェースズは一つの集落に出くわした。十五、六戸の竪穴式住居が点在しているだけの村だったが、そこへたどり着いた時はすでに薄暗かった。村の中央に広場があって、篝火が焚かれているような気配があった。それが唯一の灯りだったので、イェースズはその方へと歩を進めた。
雪解けを待ってトト山を旅立ってからもうかなりの月日がたっており、こんな夜でもあまり寒さを感じない頃になっていた。篝火の周りには村人たちが円くなって座っており、何やら寄り合いをしているようだった。そこへ髪も長くなり髭も伸び放題になっているイェースズが歩いてくると、人々は一斉に彼を見た。そして急に寄り合いを中止して皆でイェースズに向かってひざまずき、手を二つ鳴らした。
「ハタ人様、こんな夕暮れにおいでとは」
村長らしい風格の男が、恭しくそう口上した。
「ハタ人?」
村人たちの手を二つ打つというしぐさは、これまでの村々ではなかったことだ。ただ、二年前にこの国にはじめて上陸した際、そこの水田を持つ村々の人々も確か同じようにしていたのをイェースズは思い出した。あの時は自分は「ウシ」と呼ばれたが、ここでは「ハタ人」と呼ばれた。しかし今のイェースズには、そのようなことにこだわっている余裕はなかった。体力が限界だったのである。
「このたびは、大神宮に御参拝でしょうか」
村長のそんな訳の分からない口上に応えるよりも、イェースズはひと言だけ言葉を返すのがやっとだった。
「くたびれ果てております。どなたか泊めて頂けませんか」
「あのう」
すぐに名乗り出たのは、腰の曲がった老婆だった。
「わしの所へ、お泊まり下され」
「あ、ありがとう」
イェースズの顔に、パッと笑みがさした。
「わしの家はすぐそこじゃて、案内致しますだ」
歩きだした老婆に、イェースズはついていった。その間、ほかの村人たちはイェースズに一礼したままだった。老婆の家は、確かにすぐそばの竪穴式の住居で、中には誰もいなかった。
「今、火を灯しますだで」
「いえ、いいですよ、お婆さん、ありがとう、とにかく眠らせて下さい」
その言葉通り、イェースズは中に入るとすぐに眠りに落ちた。
翌朝目を覚ますと、老婆はもう朝飯の仕度をしてくれていた。
「さ、どうぞ」
と、いう言葉にイェースズは起き上がり、土器の並ぶ前に座った。そして驚いた。土器に盛られていたのは、何と米の飯だったのだ。パウゼツの山を降りて峠を越えて以来、イェースズはもう二年近くも米の飯を見たことがなかった。土器も分厚い縄目の紋様が入ったものではなく、薄茶色の薄手のものだった。
イェースズが驚いたのはそれだけではなく、そばで給仕してくれている老婆の着ていた貫頭衣にも眼もみはった。昨夜は暗くてよく見えなかったが、老婆の服はこれまでの村の人々のような獣の皮衣ではなく、またこの国に来てからよく見たような植物性の麻布でもなかった。
「お婆さん、その服」
「服がどうかされましたかいのう」
「だって、それって絹でしょう?」
絹はシムの国で産するもので、ユダヤの隊商によって西へ運ばれる超高級品の織物で、故国ではローマ皇帝や各地の王クラスの人でないと手にできないものだ。
「キヌ? さあ、このへんの人はみんな、これを着てますだ」
老婆は欠けた歯を見せ、からからと笑った。しかしそんなことよりもイェースズは空腹を抑えきれず、とにかく米の飯を平らげた。するとすぐに老婆は立ち上がった。
「お宮はこちらですだ」
さっさと老婆は出て行くので、イェースズもそれに従うしかなかった。
外へ出てから、イェースズはまた驚いた。これも昨夜は暗くて見えなかったが、一面の水田が広がっているのだ。そして行きかう村人たちも皆、老婆と同じような絹の環頭衣を着ている。そしてイェースズとすれ違うときは足を止め、ひざまずいてイェースズに二拍手を打つのだった。
「さあ、お宮はあそこですだ」
例の巨大な三角の山を背景にほど近い所にこんもりとした森があり、老婆はそこを指さした。なぜ老婆は自分をそこへ行かせようとするのか訳が分からなかったが、とにかくその森へ行けば何かありそうな気がしたので、イェースズは笑顔で老婆に礼を言ってから森へと向かった。
森の周りは見晴らしのいい広々とした高原で、そのまま巨大な山まで緩やかなスロープになっている。裾野がそのまま高原になってしまうことが、その山の雄大さを物語っていた。
森へと歩きながら、イェースズは状況を整理した。ここでは自分は「ハタ人」という名の部族の者と思われている。そのハタ人という人たちは、ここへ来れば必ずこの森へと向かうらしい。そこまでは推測がついた。あとは森へ行ってみるだけだ。
森の中には、巨大な社があった。それを取り囲むだけの規模の森だったのだ。社はオミジン山の神殿と同じような造りだが、何倍も大きかった。苔の匂いとひんやりとした空気に包まれ、イェースズは社殿の前にたたずんでそれを見上げた。高床式で、社殿までは何段かの木の階段がついていた。そして、その脇には小屋があった。ちょうどオミジン山の神殿の脇の、ミコの家と同じような位置関係だ。小屋は高床式でも竪穴式でもなく土の壁で、屋根にわらがふかれていた。その前まで行き、イェースズは中へ声をかけた。
「どなたかいらっしゃいますか」
すぐに扉が開き、小太りの中年男が顔をのぞかせた。そしてイェースズを見るや否や相好を崩し、扉の外へと出てきた。
「これはこれはハタ人様。ようこそ」
その男もやはり絹の環頭衣を着ていたが、村人たちと違ったのは袖の裾に房がついていたことだった。これはイェースズの故国のサドカイ人の祭服と全く同じである。
「今日は御参拝ですか」
「いえ」
イェースズはどう答えていいか戸惑った。この男はちょうどオミジン山のミコのように、この社殿の神に仕える神官らしい。
「お一人ですか?」
「はあ、実は」
とにかく、言ってしまうしかない。
「私はその、ハタ人というものではないのです」
「え?」
男の表情に、驚きが現れた。
「だってそのお顔つきといい、そのお目の色といい、ハタ人様ではありませんか」
「違うんです。わたしは遠い西の果ての国から来た者で、真理を求めてこの国まで来たのです」
「西の国って、ジョプク様の故国ですか?」
「ジョプク?」
「ハタ人様方のご先祖ですが」
「さあ、よく分かりませんが、とにかくずっとずっと西の国です」
「たったお独りで?」
「はい」
「その西の果ての国とは、どれくらい遠いのですか?」
「私は今二十歳ですけれど、十三歳の時に故郷をあとにしてずっと旅をしてきました」
「そんなに遠いんですか?」
男はますます驚いた様子を見せた。
「ええ。そしておととしこの島国に着いていろいろとまた旅してきましたけれど、あの山」
イェースズは程近い所にどっしりと見えている山を指さした。
「あの山の不思議さにひかれて、この村へ来たのです。ところで、ハタ人というのは、どういう人たちなんです? ジョプクとかいう人の子孫だと言っておられましたが」
「ここから少しだけ南に行った所に、ハタ人様方の村があります。正確にはジョプクの子孫というより、ジョプク様がつれて来られた五百人の従者の子孫ですけれど」
「あの、すみません。ジョプクという人は、五百人の従者をつれてどこかからここへ来たのですか?」
「ええ。ジョプク様は海の向こうに西の国の王の命令で、ポウライ山にあるという不老不死の薬を求めてこの国に来られました」
「え?」
イェースズは、思わずその男に詰め寄っていた。
「そのジョプクって、もしかしてギァグ・ピュアクのことではないですか?」
「さあ、そのような呼ばれ方もされてますかねえ。海の向こうの言葉では」
「あのう、その話をもっと聞かせて下さい」
「いいですとも。あなたはただものではないと見た。きっと、かなりの霊力をお持ちでしょう」
「はあ」
とにかくイェースズは何とか、小屋の中へ入れてもらうことに成功した。中は土まで、中央にいろりがあった。その周りの筵の上に二人で座った。
「ところで」
と、イェースズは開口一番、あの神秘的で巨大な山についてきりだした。
「あれはどういうお山なのです? どう見ても霊峰だと思いますが」
「ああ、プジの山ですね」
「プジ?」
「昔からそう呼ばれています。二つとない美しい山だから、『不二』なんです」
男はそう説明したが、イェースズには「プジ」という言霊にもっと重大な秘め事があるような気がしてならなかった。そしてミコが東には「不死」の山があるとも言っていた。この山が「プジ」なら、これがミコが言っていた「不死の山」ということになる。そして「不死」といえば「不老不死」だ。不老不死の薬を求めて船出したギァグ・ピュアクの話ともあう。さらにそれを裏付けるかのように、男の言葉は続いた。
「ジョプク様はあの山こそ自分が求めていたポウライの山だと言って、この地に従者とともに住みついたんですよ」
「ポウライとはブンムラグのことですか?」
「ジョプク様の国の言葉では、そうなりますか」
イェースズはもともとシムの国でギァグ・ピュアクの話を聞いたことも、この国へ来た理由の一つでもあった。そしてとうとうギァグ・ピュアクが目指したというブンムラグに、イェースズ自身もたどり着けたようだ。話を聞いた時は半信半疑だったが、まさかこのように美しくも荘厳な神々しさで実在していようとは思いもよらなかった。
「で、ギァグ・ピュアク、つまりジョプクという人は、不老不死の薬を見つけたのですか?」
「いいえ。そんなものありませんよ」
「では、なぜここに住みついたのでしょうか」
「それは、こういう訳です」
と言って男は立ち上がり、奥のやはり土壁でしきられた部屋に入ると、すぐに手に何枚かの巻物を持って戻ってきた。しかも、紙の巻物だった。
「この文献が、ジョプクをしてここに永住させたのです。普通はめったに人には見せませんが、あなたなら見せてもよさそうな気がする」
巻物は、シムの国の文字で書かれていた。しかしイェースズにとってあれほどお手上げだった象形文字のジャングルのシムの文字も、今でも読めこそしないが、その内容は霊勘によってすべて分かるから不思議だった。
「歴史の書物ですね」
「全世界の歴史です」
「私はトト山と言うところで、やはり同じような歴史書を見たことがあります。でもそれは、この国固有の文字で書かれていましたよ。なぜこれはシムの文字で書かれているんです?」
「もともとは同じように、この国の文字で書かれていたんですよ。それをジョプクが今のその文字に書き替えたんです」
「これ、ゆっくり読ませて頂いていいですか?」
「どうぞどうぞ、何日でも泊まって、ゆっくり読んでいらっしゃって下さい」
笑顔で言う男の言葉に、イェースズの顔も輝いた。
「有り難うございます」
イェースズのその地への逗留は、一カ月近くに及んだ。その間ずっと彼は、巻物を読みふけっていたのである。
すでにオミジン山で莫大な料の太古文献を閲覧していた彼にとって、その内容はさほど驚くべきものではなかった。ただ、神代七代から始まる点では同じでも、その後の皇統のスメラミコトは、ここではすべて「神」になっている。それでも、超太古の初発神はすべて「火の系統」に属することは、しっかりと記されていた。だが、ジョプクの作為もかなりあるようで、人類が発祥したのがこの国になっていない。皇統の祖は西のこの頃でいうパルチア王国あたりから移住して来たとなっているが、それだけはいただけないとイェースズは思った。それでも神々の御名の合致や皇統の治世の合致など、オミジン山の文書を合わせ鏡のごとく裏付けるものであった。そのほかに、ジョプクの渡来のいきさつやプジの山の噴火の記録なども、おびただしい量に及んでいた。
文書閲覧を終えた日、イェースズは森のはずれに出てプジの山を見つめながら座っていた。春の真っ盛りで、風の中に初夏を感じたりさえする。プジの山はその頭の雪の冠をかなり小さくしており、それでも白い煙を吐き続け、青い山肌でどっしりとあぐらをかいている。
イェースズがここへ来る前に見た裾野を取り囲む湖は「セの海」というのだそうだが、こんなにも美しい山は、本当に世界に二つとないであろうと思われる。だから「不二」であり「不死」なのだ。もしかしたらこの山こそ世界の真中心、世界の霊界のヘソかもしれない。
その時、またイェースズの心に直接響く声が聞こえた。
――「ジ」は二、二は火と水、霊と物とがホドケたる姿よ。されどフジは二に非ずよ。火と水結びて産土力となるよ。
イェースズは顔を上げた。そしてプジの山と、その向こうの青い空を見た。心の声はそこまでだった。
そうして、ハタ人という部族の村に行ってみようと、イェースズは思った。イェースズはまずジョプクやその従者の子孫に会ってみたいと思ったのだ。ジョプクについて知りたいことは、山ほどある。それは、渡来の真意、あの古文献に接した時の心情、そしてなぜ故国に戻らなかったのか、などであった。
ハタ人の村は、二日くらい歩けば行かれるとのことであった。イェースズは神官の男に丁重に礼を言って社のある森をあとにした。峠を一つ越えれば、そこがハタ人たちの住む村落だという。そこで彼等は絹を生産しているとのことだった。
そして峠を越えた時のイェースズの驚きは、言葉では言い表せられないほどのものであった。村ではなく、町があったのである。そこには竪穴式の家ではなく、壁と屋根を持つ家が密集する文明が、山に囲まれた盆地に展開されていた。この島国に来てから、イェースズがはじめて見る「町」であった。
峠を降りてから町までの間は、背の低い木が植わっている畑だった。畑とはいっても、この木は実もなく、葉もとても食べられそうもないようなもので、食用のための耕作ではないような様子だった。
イェースズが町に入ってそこで会った人々は、紛れもなく自分と同胞だった。赤ら顔に青い眼は、完全にユダヤ人なのだ。だからイェースズは行きかう人々に、
「シャローム」
と呼びかけてみた。しかし誰もが怪訝な顔で、見知らぬ旅人を迎えるのだった。もはやここでは誰も、イェースズに二拍手を打つものはいなかった。その代わり、イェースズの周りは黒山の人だかりとなった。皇帝しか着られないような絹の服を、彼等は惜しげもなく着用している。
「あなた方は、ハタ人というのですか?」
と、イェースズはアラム語で尋ねて見た。反応はなかった。次にヘブライ語で聞いてみたが、人々はざわめくだけだった。顔つきこそユダヤ人だが、ここの人々はアラム語もヘブライ語も分からないらしい。そのざわめきの言葉は、この国の言葉だった。そこでイェースズは、この国の言葉でもう一度同じことを尋ねてみた。
「あなた方はハタ人ですか?」
「いかにも、この絹で機を織って生業としているので、ハタ人と呼ばれておる」
力強い返事が、人垣の中央の若い男から帰ってきた。今までの村では顔つきが違うだけにイェースズは特別扱いでちやほやされていたが、ここでは全く同等だといった感じで、人々の態度は横柄ですらある。
「あなた方はジョプクの子孫だと伺ってきたのですが」
「いかにも、ところでそう言うあんたは、何だね? 我われと同じ顔をしているが、同族ともいい難いような」
「私は全世界を旅しているもので、西の果ての国から来ました」
すでに大地が球であることを知っているイェースズは、ユダヤが西の果てではないことも知っていたが、ここではあえて彼等の文化的知識に合わせておいた。
「西の果ての国とは、ダドゥビェク王の国かね」
「ダドゥビェク王?」
その名だけがなぜかシムの国の言葉のようだったが、イェースズはそれが何ものか分からず少し考えたが、思考とは別のところでひらめきがあって、
「ダビデ王……」
とつぶやいた。
「そのダドゥビェク王とは、いつごろの人です?」
「そんなこと知るかい。ずっとずっと大昔だ」
「千年くらい昔かのう」
脇にいた、老人が口をはさんだ。千年前の西の果ての大王と言えば、ダビデ王かソロモン王だが、ダドゥビェクという音から紛れもなくそれはダビデ王のことらしかった。だからイェースズは、
「そ、そうです」
と、叫ぶように言っていた。その言葉に、人々の間でどよめきが上がった。イェースズは、一歩前に出た。
「この村の村長さんの所へつれて行って下さいませんか?」
「ご案内致します」
イェースズがダビデ王の国から来たと言っただけで、人々の態度は一変した。最初にイェースズと会話をかわした男が、丁重にイェースズを導いてくれた。その男について行きながらも、イェースズはしっかりと町を観察した。この国にはふさわしくないような高度な文明水準は、町の建物を見る限りシムのそれとほとんど同等だった。丘陵地帯の向こうにはまだプジの山が顔をのぞかせ、盆地を見下ろしている。
「あのう、どうしてこの国にこんな町が……」
と、歩きながらイェースズは、男に尋ねてみた。男は少し笑った」
「ジョプクはここへ来る際、ありったけの知識人を選抜してつれて来たんですよ。農耕、養蚕、大工、紙師、傘張り、楽人、機織女、酒酔造人、製油職人、製塩職人、鍛治、鋳物師、石工、諸細工師、医師など当時の超一流の有識者をつれて来ましたから、こんな町は訳ないです。その子孫が、我われですからね」
いささか男は誇らしげだった。
「今は皆さん、何をされておられるんです? 先ほど、機を織っておられるとかおっしゃってましたが、この周りは木が植わっている畑がありましたが」
「そう、絹を織っているんです。周りの畑は、そのための桑畑ですよ」
「桑?」
イェースズにとって、はじめて聞く植物の名だった。
「その桑から、絹を作るのですか?」
男も、周りの人も一斉に笑い始めた。イェースズは自分の失言を知り、恥ずかしい思いになった。
「これは失礼。その桑の葉を食べる虫が、絹を出すのです。桑はその虫のえさです」
「虫が絹を出すって?」
「桑の葉を食べた虫が繭のために吐く糸で織った布が、絹なんです」
イェースズは感心して聞いていた。これまでイェースズが知っている服は獣の皮衣か植物繊維ばかりだったからだ。虫の吐く糸で布を織る……何と絶妙な自然界の仕組みなのだろうと、イェースズは舌を巻く思いだった。
やがてイェースズは、一つの建物に通された。中央の一室には木の寝台があり、頭髪のない白い髭の豊かな老人が、そこに寝ていた。イェースズは、久々に寝台というものを見た。
寝たままイェースズをじろりと見たその老人が、この村の長らしい。ここまでつれて来てくれた男は軽くイェースズを老人に紹介すると、すぐに出て行った。部屋の中は、イェースズと老人だけとなった。しばらくは無言で見つめあっていた二人だが、
「村の長ですか?」
と、イェースズの方から尋ねた。
「いかにも。そなたは西の果ての国、ダドゥビェク王の国から来たとな」
老人はやっと、力なく上半身を起こした。そして、イェースズの頭の上からつま先まで、じろじろと眺めた。
「まだ、若いのう」
イェースズは少しはにかんでからうつむき、そのままその場に立っていた。
「実は西の果ての国からここに来るまでの間にシムの国でジョプクのことやポウライのことなどを聞いてきたのですけれど、あのプジの山こそジョプクが求めたポウライの山ですね。シムの言葉ではブンムラグといいますが」
「ジョプクが求めたのではない。シクワウテイが求めたのだ」
「シクワウテイ?」
「海の向こうの国の昔の王だ。ジョプクに命令してこの国に来させたのもその王だよ」
その話からすると、シクワウテイとはジェン・チャーグ・フアンのことだと思ってほぼ間違いなさそうだった。
また、沈黙が流れた。今度は、老人の方から口を開いた。
「あのプジの山は、確かにポウライだ。ジョプクがそう認めたのだから間違いない」
「ではなぜ」
イェースズは一歩進んで、老人に近づいた。
「あの山が目指すポウライなら、なせジョプクは帰らなかったのですか? そこで不老不死の薬でも見つけて」
「そんなもの、あるかい」
老人は冷たく言いはなった。もちろん、肉体をそのように保つ薬が存在し得ないことは、イェースズの方がむしろよく知っている。
その時、イェースズはひらめいた。肉体が不老不死になるのは不可能だとしても、魂は永遠である。そしてその魂を永遠にせしめ得る薬――それは宇宙の根本の妙法にほかならない。それがこの国にはある。つまり、魂にとっての立派な不老不死の薬は、果たしてこの国にあったのである。もちろんジェン・チャーグ・フアンもジョプクも、そのことまで考えていたかどうかは分からない。
「あのなあ、お若いの」
イェースズがそんなことに思いをめぐらしていたら、老人に厳かに呼ばれて、イェースズの思考は中断した。
「ジョプクがこの国にきた真意は、お若いの、ご存じかな?」
そのような話を、なんとなくシムの国で聞いた気がする。
「シクワウテイから逃れて来たんですか?」
「その通り。シクワウテイというやつは我われと同種だが残忍なやつで、自分の意見と合わない学者を生き埋めにしたり、都合の悪い書物はみんな焼いたりした」
「そのことも、シムの国で聞きました」
「そんなシクワウテイにジョプクは嫌気がさして、脱走を企てたというのが真相じゃよ。ジョプクはもともと帰国するつもりなどなかった。新天地を求め、そこで生活し得るだけの人材を取りそろえて、故国をあとにしたのだ」
「それで、おびただしい船団と、おびただしい技術者をつれてきたのですね」
「不老不死の薬を求めて戻るだけなら、そんな大船団や技術者などいらんだろう」
老人は声を上げて笑い、また言葉を続けた。
「ポウライだの不老不死の薬など、そんなのは口実だ」
「シクワウテイは知っていたのでしょうか。そんなジョプクの心を」
「恐らくは知らなかっただろう。むしろジョプクの話に、そんな自分の国よりも優れた国は打ち滅ぼしてしまえと、征討軍のつもりでジョプクを遣わしたのかもしれない。しかし、ジョプクの方が役者が一枚も二枚も上手だ。この国で太古文献を見て、この国の神聖さにジョプクは気づいてしまった」
「でも……」
イェースズはそこで口をつぐんだが、実はかつて見たジョプクの文献には、ただ太古文献をシムの漢字に直してあったというだけでなく、どうもジョプクの作為が加わっていたような気がしていたのだ。今、目の前にいる老人もユダヤ人だし、ハタ人もみなユダヤ人だ。するとジョプクもシクワウテイもみなユダヤ人……つまり、消えた十支族のエフライムなのである。だから、高次元から天下った神々を、西の国から来たなどと書き換えてしまったのだろう。枝の国であるユダヤを、正統化するためだ。
そこでイェースズは、
「ジョプクの書いた文献の、元になった文献は現存しないのですか」
と、聞いてみた。
「ジョプクの先祖が信奉していたコウシという人の著作とともに、プジの山のふもとの氷穴に納められておる」
やはり、とイェースズは思った。この国の西の方にいて「ウシ」と呼ばれていたエフライムたちも、自分たちのこの国における正統性を造り上げるため、この国の正史を葬り去ろうとして歴史の隠ぺい工作をしていたが、ジョプクも同じことをやったらしい。文献を書き変えるなど、もっと次元が高い。だが、見方を変えればジョプクの方がはるかに、この国の古文献に対して敬虔だったともいえる。少なくとも彼は、それを焼きはしなかったからだ。
イェースズがしばらく黙ってそんなことを考えていると、老人は優しい目でイェースズに言った。
「しばらくこの町に留まってはどうか」
「は、はい」
イェースズは目を上げた。それは、この地でもっと何かを勉強しろという神の仕組みに違いないと、イェースズはたちまちのうちに直勘していた。そしてここでなら、もっといろいろなことを学べると彼は信じていた。
「どこでも好きな人々の集まりに入りなさい」
「はい。有り難うございます。では、絹を作る……」
「養蚕部かね」
「はい」
「では、そこで暮らすとよい」
さっそくその後すぐにイェースズは養蚕の部落へ行き、老人の手配によってひと部屋が与えられた。
ここでの生活は、わずかながらも故国の匂いはあった。しかしその大部分、特にヤハエの神への礼拝など大切なところはほとんど失われているようだし、会堂すら見当たらなかった。シムの国のユダヤ人街と違い、ユダヤ本国との交通が全く遮断されているせいだろうと思われた。
イェースズはここではじめて、絹糸を吐く虫を見た。人さし指ほどの白いイモムシで、それがうじゃうじゃと何百万引きと飼われている。
イェースズはここで暮らしながら、養蚕の技術を身につけていった。人々ともすぐに打ち解けた。何も山中で孤独に修行するだけが行ではないことを、今のイェースズは知っている。すでにその意識が宇宙と一体となった彼だ。自分も宇宙の一部であり、またすべての人々も宇宙の一部である。つまり彼我の間に境はなく、すべてが一体となって調和された存在であることを自覚しているのである。
こうしてイェースズはここで暮らすうちに、季節は雨季をも通り過ぎて暑い夏がやってきた。作業は虫のえさとなる桑の木の畑仕事が主だ。やがて冬が来る前に虫は糸を吐いて自分の体をまとい、その中で一冬を過ごすという。その間に糸で巻かれた虫――すなわち繭を湯で煮て虫を殺し、糸をほぐして生糸として絹を織る原料とする。生糸を織って絹織物にするのは、機部の仕事だ。繭を煮て虫を殺さなければ、春になると虫は生糸の繭を破いて外に出て、蛾になるという。そうなるともう、生糸はだめである。そこで、虫を殺すのだということだった。
昔のイェースズなら、世ある虫を殺す何てと意いためたであろう。しかし今の彼の魂には神の声が直接響き、また、虫が蛾になる前――我を出す前に自分を殺してこそ美しく高級な絹がとれるのだという仕組みを、イェースズはじっくりと教えられた。そんな絹を、故国やローマでは貴族のぜいたく品として扱っているのである。
そうして何日か過ぎ、プジの山の頂上の雪も全くなくなった。その頃までに、イェースズは気になっていたことが一つあった。昨日今日思いついたことではないが、プジの山の向こうにもちょっとした丘陵地帯があって、その中の一つの山が妙に気になっていたのである。丘陵自体プジの山に見下ろされているようなっ低いものだが、その山からはものすごい霊気が感じられるのであった。
何日もその山を気にしながら暮らしていたイェースズだが、ある日この村の長の老人のところへ行って、その山のことを尋ねた。
「あの山かね。あれはアプリの山だ。あそこにも社があるが、オポヤマツミ一族の住む山となっている」
「オポヤマツミ?」
「あのへんには海の部族であるオポワダツミ族と、山の部族であるオポヤマツミ族とがいてだな、そのオポヤマツミ族の根拠地ともなっているのがあの山だ」
「そのお社とは?」
「アプリの神を祀っておる」
ふとイェースズの頭の中に、「アフリカ」という言葉がひらめいた。もちろんイェースズは、今はそんな地名を耳にすることはない。ただ、その名称はオミジン山でミコに見せてもらった古文献にあったのだ。超太古に全世界に派遣された皇子の中に、確かそんな名前の方がいらっしゃった。その派遣先であるアフリカというのは、エジプトを含む巨大な大陸だとミコは言っていた。そしてそのエジプトは、イェースズが幼少時に一時住んでいたこともある因縁の地だ。それだけでなく、エッセネ教団の本拠地でもあり、遠い祖先のヨセフからモーへまでのユダヤ人ともかかわりが深い。イェースズはアフリというひと言を聞いて、そのオオヤマツミ族のいる山への関心をさらに高めた。
数日後、イェースズは村長の老人に、
「アプリの神様の社のあるあの山に登ってみます」
と、言っていた。
その日はやけに、霧が濃かった。アプリの山のふもとまでは、朝にハタ人の村を出発し、歩いても翌日の昼過ぎにはたどり着いた。しかし山に登り始めると、傾斜が急になるにつれて次第に空気もひんやりとしてきた。所々にある雑木林の間からアプリの山を仰ぎ見ると、なるほどここもまた霊山らしい雰囲気が漂っていた。あのプジの山のような天を突く山ではないが、オミジン山などよりかはかなり高い本格的な山だ。山の上の方を隠している雲は紫色にたなびいており、山頂はその紫雲の上だった。イェースズはその雲の中に向かって、ゆっくりと登っていった。
最初は小川沿いに坂道を登っていたが、やがて岩の中から小さな滝が落ちている小川の水源まで来た頃から、本格的な山登りになってきた。針葉樹の樹林で覆われた傾斜はかなり急で、所々に岩が露出していた。うっすらと立ち込めていた霧がどんどん濃くなり、当たりの見通しもきかなくなってきた。もうかなり登っただろうと思って下を見ても、下界は白く霞んで全く見えない。単独の山ではなく尾根が幾重にも連なっている。もうだいぶ登ってきたと思ったが、頂上はまだ上のようだった。イェースズの呼吸も乱れてきた。
だが一心不乱に頂上目指してイェースズは登っていったが、どうも人間の視線が感じられてならなくなってきた。視線というより、正確には彼は人が放つオーラを知覚できるのである。だが歩みを止めてあたりを見回しても、誰も見えなかった。それでも、誰か人がいるのは間違いなかった。それも一人や二人ではなく、大勢のようだった。しかし今は、とにかくのぼることしかイェースズにできることはなかった。
やがて、頂上はまだ上らしいが、ある程度平らな場所へ出くわした。そこに神殿があった。イェースズは驚きと喜びで、その神殿の前まで駆けていった。霧の中にひっそりとたたずむ神殿は小さくはなかったが、さほど巨大であるという訳でもなかった。ただ、この国で今まで見てきた神殿と違うのは、素材は白木ではなくすべて朱色に彩色が施されていたことだった。
とにかくイェースズはその前に額ずき、柏手を打った。そうして参拝できたことに感謝をする祈りをささげている間中、背後の人の気配はますます強くなった。
イェースズは思わず立ち上がった。霧の中に黒い人影が、二人、三人と見えてきた。
「どなたですか」
とイェースズが問いかけても返事はないまま、段々と人影はその姿をはっきりと表してきた。
彼等は白い絹ではなく黒っぽい獣の皮衣を着ていた。伸び放題の髪は紋様の入った鉢巻きでしめられ、目つきは鋭かった。その鋭い目つきで、じーっとイェースズをにらんでいる。
やがてその中の一人が、イェースズのすぐそばまで来た。
「おまえこそ何者だ。見るとハタ族の者のようだが」
「私はハタ族ではありません。西の果ての国から来ました」
そう言いながら目の前の人々を観察すると、その顔はユダヤ人の顔ではなかった。
「あのう、このお社の神様は、どんな神様なのですか?」
「そんなことは知らん。それより吾等オポヤマツミ一族の本拠地であるこの山に一人で勝手に登ってくるとはいい度胸だ。しかし、冒険もここまでだな。とっとと降りろ!」
ものすごい剣幕だった。
「いえ、降りる訳にはいきません」
そのイェースズの言葉がまるで合図であるかのように、人々は一斉にイェースズに飛びかかった。
その時、社殿の上とさらに上へと続く峰の間から閃光が放たれた。光状はタテヨコ十字の形となり、その交わる部分は丸く光を放っている。あまりのまぶしさに、イェースズに襲いかかってきた人々は、あまりのまぶしさにその場に倒れこんだ。ただイェースズ一人だけが閃光を直視し、すべてがまぶしいほどに照らし出されている中に立っていた。
――汝、ユダの子よ。
光の中に声があった。いつもの心に直接響く声だ。ユダの子と聞いて、イェースズは故国に残してきた弟のユダのことを一瞬考えたが、弟の子と呼ばれるのもおかしな話だし、すぐにイェースズはそれはユダヤ十二支族のうちのユダ族のことだと理解した。確かに彼は、ユダ族の出である。
――汝ユダの子、人類を救うものよ。
今さらながらに気がついたが、いつもの心に響く声がこの国の言葉であるのに対し、今回の荘厳な声はヘブライ語であった。アラム語でもなく、ヘブライ語なのである。その時あたりは、もはや光のほかは何も見えなくなっていた。
――このみ社の神は火の神で、アフリカを統べ開き給いし太古スメラ家の皇子よ。だが、ここは仮の社で、元つ社は水神に隠されている。行け。言ってその元を正せ。さもないと、霊島が危ないのだ。
「元つ社って、どこにあるのですか?」
――この山の上から、晴れていれば見える。海を東へと渡れ。
「あの、あなた様は?」
――我はエフライムの父。ハタ人はエフライムの子よ。
光は消えた。そしてもとの静寂さが戻った。
イェースズを襲おうとした人々は、まだ地に伏したままだった。恐怖のあまりおびえきっているようだ。
何か重大なことを聞かされたような気がしたイェースズは、一目散に山を降りた。そしてひとまずハタ人の村に帰り、村長に海を渡る決意を述べた。ただその理由は、「何となく」としか言わなかった。
「東といっても、ここから東はずっと陸地だ。海は南の方に広がっている」
「でも、海岸沿いにでも、東へ行ってみたいんです」
イェースズの強い語気に、村長はほんのわずかに目を伏せた。
「舟を手配しよう」
「有り難うございます」
それだけで、イェースズの顔は輝くのだった。
イェースズは一度アプリ山のふもとまで行き、そこから南下して海に出た。海辺は夏の名残が残っているかのような風が吹いており、まぶしい風景にイェースズは目を細めた。右手の方は海岸が湾曲し、海に突き出た大きな半島となっている。その上には青く霞む山が連なっており、薄い水色のべた塗りのようにしか見えない。左もまた海外線は海へと湾曲して半島となっているが、こちらは小さく、緑の木々が繁る山が認められる。こうして見ると、この国は実に海の際まで丘陵で、平地は海岸沿いに申し訳程度にあるだけのようだ。島全体が山なのである。
この海はオミジン山の近くの海とはこの島国の反対側の海のようで、どこか優しく感じられた。オミジン山近くの海の向こうはシムの国であることは分かっているが、この海の向こうは分からない。まだ大地が球であることを知らなかった頃のイェースズなら、この海の向こうは世界の果ての断崖だと思ったであろう。この海こそ、その底に母なる国無有が沈んでいる大洋なのだ。それを今包みこんでいる海のやさしさは、母の優しさかもしれない。振り返ると、世界の真中心の誇りとともにプジの高嶺が威容をもって、海岸の松原を見下ろしている。
イェースズはハタ人の村長が手配してくれた舟で、沖へ出た。一人乗れば満員の小さな舟だ。舟が沖へ出ると、海岸に横たわる緑の松原、その上にさらに横たわる低い丘陵地帯、それらすべてを従えてどっしりと腰を据えるプジの山とその白い煙……それらの風景が一度に視界に入ってきた。
舟はどんどん沖へ出るので南へと進んでいるはずだが、どうも潮の流れで東に流されているようだった。プジの位置の変化から、そのことは容易に分かった。
それでいいのだと、彼は思った。自分は海を東へと渡らねばならないのだ。今こうして東へと流されているのも絶大なる神のみ仕組みで、絶対なる目に見えない力がこの舟を引っ張っていってくれているのだと彼は確信していた。
東へ流されればやがて半島にぶつかるが、この半島が海を東に渡った所とは思えなかった。それならわざわざ舟で海を渡る必要もなく、海岸線沿いに歩いてきた方が手っ取り早いはずだ。
そこでイェースズは舵を操作して、半島沿いに南下した。この半島の上に高い山は見られなかったが、海岸線はすべて黄色い断崖の上に緑が覆いかぶさる形で続いていた。海の色はどこまでも濃い深い緑で、その海も断崖の下では白いしぶきとなって砕け散っていた。そして半日もたたないうちに、半島の先端の岬を回った。先端には大きな島が、岬とは細長い水路で隔てられてついていた。
岬の先の島を回るのに、時間はかからなかった。そしてそこにはまた、別の風景が展開されていた。岬の先端から東の方は、海の向こうに陸地が横たわっていたのである。距離はさほど遠くない。多くの低い丘陵を乗せたその陸地が半島なのか巨大な島なのか、あるいはこの先ずっと陸地が続くのかイェースズには分からなかった。右手の方、南へと続く陸地はその先が霞んでいてよく見えない。左手の方は今回ってきた半島と目の前の陸地の間に海が続き、右も左も彼方は水平線だった。
潮の流れが速いのか舟はみるみる東進して、海峡の向こうの陸地に近づいていった。これこそ東へ海を渡った土地に違いない。目の前には、ひときわ奇妙な形の小高い山も見える。この国のなだらかな斜面の山を見慣れていたイェースズにとって、大陸ではいくらでもあった垂直にそそり立つ山が珍しくさえ感じられた。
イェースズが一夜を明かしたのは、その山のふもとだった。そして朝とともにイェースズは、その山に登った。山の北側はそそり立つ絶壁で登るのは大変なようだったが、南側はなだらかとはいえないまでも比較的登りやすい形状であった。頂上から眼下に見下ろされる海峡は、昨日小舟で渡ってきた海峡だ。海は穏やかで、水平線さえ見ないようにすればまるで湖のように感じられる。山の頂上に立ち、イェースズは周りを見渡した。すべてが明るく輝く陽ざしの中にあったが、空の三分の一ほどは雲が覆っていた。海峡の反対側は低い丘陵地帯で、この山もそれほど高い山ではないのに、今の自分よりも高い位置に存在するものは太陽と雲だけのようであった。プジの山でさえ、遠くに小さく見える。プジは遠くから見るとまた、つくづくときれいな三角形の山だと実感できた。海の反対側の丘陵地帯は大地の皺のように何重にも襞を見せていたが、このどこかに自分が探すべきアプリの元つ社があるはずと、イェースズは大きく息を吸った。だが、この広大なパノラマの中から一点の目的地を探し当てるのは、至難の業のようにも思えた。そこでイェースズは、絶景に向かって祈りをはじめた。祈れば何とかなるという安易な心を持っていた訳では決してなく、自分の力の限界を感じたときにス直に神におすがりするという心があっただけである。それだけすでに彼は神と一体となっていたし、また神は彼の中に境界なく内在していたともいえる。
ずいぶん長い間思念を凝集し、自分の行くべき先を示し給えとという強い波動を神界にまで送ろうとしていたイェースズは、やがてすくっと立ち上がった。丘陵の遥か向こうの一角が、ぴかりと光ったのである。
あそこだ! と、イェースズは深々と神に感謝した。自分の祈りが聞きいれられたことがただただ嬉しくもったいなく、涙が溢れてきた。それから山を降りたものの、山頂で見た方向感覚は下界ではあやふやなものだった。そこで大体の方向に見当をつけ、イェースズは樹木の繁る丘陵地帯へと足を踏み入れていった。所々に集落はあったが、もはや水田は見られなかった。このあたりの人々は、皮衣を着た狩猟生活の人々らしい。この国の文化は、狩猟と農耕がちょうど並存しているのだと感じられた。それは狩猟から農耕への過渡期にあるようでもあった。狩猟文化圏にはユダヤの匂いは全く存在せず、だからどの集落でも人々はイェースズに無関心だった。朝晩はだいぶ涼しくなったとはいえ、日中はまだ陽ざしは強かった。気温はさほど高くはないのだが、この島国特有の湿気の多さには時に閉口する。今ではだいぶ慣れたが、大陸の乾いた空気の中を旅して来たイェースズにとって、この国に来たばかりの頃にはそれがいちばんつらかった。そうして次の日にイェースズは社を見た。社は丘の上にあり、そのふもとには集落があった。その集落に、イェースズは入った。アプリの元つ社を探す以上、すべての社は調べてみなければならない。集落では竪穴式のわらの小屋のそばの小川で、中年女が四、五人、縄目の紋様の入った土器を洗っていた。彼女らはイェースズが近づくとふと手を止めて見上げたが、すぐに元の作業に入っていた。
「何か変な顔の人が来たね」
などと、お互いに言いあっている。そこでイェースズは、彼女等に声をかけた。
「あのう、あの丘の上の御神殿は?」
女の一人が、イェースズの指さした方をちらりと見た。
「ありゃ、アブリの神様じゃ」
「え?」
イェースズの驚愕をよそに、女たちはもう土器を洗いはじめている。イェースズは丘に向かって、一目散に走った。ふもとから社殿までは、長い石段となっていた。それをもイェースズは一気に駆け上がった。
社殿の前に出た。そしてイェースズは、膝を折って崩れた。
これは違う!
それが、社を一目見た時のイェースズの直勘だった。大きくはないが、素材の美しい立派な社殿だった。しかし屋根には一面にカラスがとまり、イェースズが近づいても飛び立とうともしない。そして社殿からは、何の霊光も霊圧も感じられなかった。本当に御神霊が鎮座ましましているのかも不安になる。
石段を降りるイェースズの足は、力がなかった。さっきの女たちはまだ小川のほとりにいて作業を続けており、イェースズの会釈をしてのあいさつも無視された。仕方なく彼はまた、東へ向かってとぼとぼ歩きだした。やがて日も西に傾きかけ、ちょうどその時に丘の谷間の狭い草原に出くわしたので、イェースズは夕餉に兎一羽を捕らえて焼いて食し、そこで野宿することにした。
翌朝、目が覚めたイェースズは、慌てて跳び起きた。まだ明けやらぬ東の方の空の一角が、光ったような気がしたからだ。しかもその光はアプリ山で見た、あの丸に十文字の閃光を小さくしたもののように感じられた。しかし次の瞬間には、周りはまた朝靄へと変わっていた。
とにかくイェースズは、その方角に進んでみることにした。そしてまた一日ほど進み、丘陵の間の盆地の中にぽつんと盛り上がっている丘の前に出た。そこでイェースズは立ち止まり、その丘をじっと見た。霊気を感じるのだ。しかも、いい霊気ではない。霊界において地獄という世界を訪れた時の気味悪さと同種で、どうもそれは邪気な霊気のようだった。そんな霊気の中で、イェースズはアプリ山でオポヤマツミ一族と名乗るものたちから襲撃されそうになった時のことを思い出した。こんな気味が悪い山は早く通り過ぎようと、イェースズは歩を進めた。
しかし、虫が騒ぐ。このまま行きすぎてはいけないという内面の声まで聞こえてきたりする。そして、あの異常な邪気を前に、ここで自分がなすべきことがあるのではないかと思い直して彼は歩を止めた。
その時、一人の村の老人と行き違った。その老人はすれ違い際に
「どこへ行きなさる?」
と、イェースズに聞いてきた。
「あの丘の上に行ってみようと思いまして」
「やめなさい、やめなさい。あの丘に入れば祟りがある。我われは誰も、あの丘には入らねえだ」
村人の口調は、かなり慌てたものだった。
「有り難う。大丈夫です」
イェースズはにっこり笑い、また丘の方へ歩きだした。あの村人の慌てようといい、ますますただの丘ではなさそうだった。丘の登り道は最初は楽だったが、次第に胸の苦しさを覚えるようになった。肉眼で見る空こそ晴れているが、まるで灰色の雲が立ち込めているような妖気を彼はひしひしと感じていた。
やがて道は上り坂となり、木の根などでできた自然の階段を、イェースズは両手も両足をも駆使して這いつくばるようにして登った。しかし、何かが自分の来訪を拒否いているという感覚が、まとわりついて離れなかった。
高い丘ではないので、すぐに頂上に出た。そこに朽ち果てた社があった。屋根も崩れ、柱も腐っている。その近くへイェースズは行こうとしたが、すごい力で押し返されるような感じで、近づくこともできなかった。社の回りは背の高い杉が林立し、昼でも暗いトンネルのようになっていた。あまりの暗さに、背筋に寒気が走るほどだった。肉眼では見えない灰色の雲は、ますますその濃さを増してくる。
イェースズは肉眼の目を閉じた。そして霊の目を開くと、肉眼では見えないものが見えてきた。それは跋扈するおびただしい量の魑魅魍魎であった。グロテスクなその形相は、まさしく地獄の霊以外の何ものでもなかった。これが邪霊の邪気の正体だったのだ。
イェースズは、もはや後には引けなかった。今来た道を戻って逃げるのも不可能だ。後ろもすでに、邪霊たちにふさがれている。怨念の嵐のような耳元まで裂けた口、つり上がった眼の異形の怪物たちは、すでにイェースズを十重二十重に取り囲んで荒々しい炎のような憎悪の波動とともに襲いかかろうとしている。
イェースズはまずそういった連中にも、対立の想念を持たないようにした。あくまで温かい愛と光の想念波動を送り、それから地獄での体験を思い出していた。霊界の太陽の霊流を送れば、彼等は苦しがるだろうがそれが究極的に彼等を浄めて、彼等の救いになるはずだ。魑魅魍魎とて、本来は神の子なのである。しかし彼等に、直接手を置くことは不可能だった。そこで地獄でしたように、迫り来る彼等に空中越しに手のひらを向けた。想念によって霊流は手のひらから飛び出し、光の束となって空中を魍魎たちに向かって飛んでいった。あたりの闇が割かれ、パッと黄金色に輝いた。超高次元のパワーを、イェースズは今放射していた。自分が宇宙と一体であるという強い認識とともに、霊流は宇宙から直接イェースズの体内に飛び込み、霊細胞を伝わって手から放射される。魍魎たちはあるいはもだえ、アガキ、あるいは苦しがってたちどころに退散し、二度と戻ってこなかった。
風景が元に戻った。周りの杉の枝が、風もないののい激しく揺れていた。
イェースズはゆっくりと肉眼を開き、社殿を見た。そしてそのまま社殿の前の広場に向かって、空中に手をかざし続けた。灰色の雲も霧散し、明るい陽光が降り注いできた。また、社殿にも手をかざすと、社殿の中からまばゆいほどの黄金の光が発せられ、灰色の雲に変わって紫雲がたなびきはじめた。イェースズは、思わずおおと声をあげていた。だが、肉眼で見る社殿は朽ち果てたままだ。そこでイェースズは、赤池のお堂で鍛練した力をもって、思念を凝集した。そのパワーはエクトプラズマの波となって社殿に飛んでいき、あっという間に社殿は元の新築同様に復元された。柱も壁も朱に塗られた、決して大きくはないが荘厳な社だった。屋根の上の鰹木は七本あった。社殿はどんどん霊光を放ちはじめ、清浄な霊圧となってイェースズの体を包んだ。イェースズは、社殿の前の地に伏した。これこそ間違いなく、アプリの元つ社だった。そして黄金の光の中にアラベスクを彼は見た。それは幼い頃を過ごしたエジプトの風景だった。
参拝が終わってから社殿の裏に行ってみると、そこはスロープ状の崖になっていた。ここから見る遠くの景色も丘陵が幾重にも重なり、平らなスペースは、この丘の下のわずかな谷間だけだった。今やどの山も全体が、気色に色づいていた。社殿を背に反対側に目をやると、少し離れた所に海が見えた。ここまで渡って来た海峡とは反対側の方角なので、やはりここは大きな島かあるいは半島であることを、彼は確信した。イェースズはその海を見ながら、とりあえずはハタ人の村に帰ろうと思った。
ハタ人の村に帰るとイェースズは、最初に村長の老人のもとへ帰還報告へと出向いた。しかし村の中を歩きながら、どうも様子がおかしいと彼は思った。こんなに人が多かっただろうかと思ったのである。そして気づいたことに、絹ではない獣の皮衣を着て、顔もユダヤ人ではあり得ない人々が多数村の中を歩いていたのだ。しかも、それがどうも最初に行ったこの近くのアプリ山の社殿の前で自分を襲ってきた、オポヤマツミ族と称する山の民のようないでたちなのだ。イェースズは訳が分からなくなって、とにかく村長の所へと急いだ。
「おお、帰ってきたか」
村長は首だけイェースズの方へ向け、時間をかけてから上半身を起こした。
「目的の場所には着けたのかね」
「はい。お蔭様で。有り難うございました」
その時、部屋にぬっと入ってきたものがいた。頑丈な体格の男で、皮衣を着ている。その顔を見てイェースズは息をのんだ。向こうも、イェースズを見て驚いていた。それは間違いなく、アプリ山の社殿の前で襲いかかってきた男だった。ところが男は、
「あの時は失礼した」
と、イェースズに丁寧に頭を下げた。
「このお方は」
と、村長が寝台の上から口を開いた。
「オポヤマツミ族の族長の方で、ここで一緒に住んでもらっておる」
「我われの部族では、村長とはいわずにムレコカミといいます」
呆然としているイェースズを、村長は見た。
「突然変異が起こってな、これまでアプリの山に籠もって我われハタ人を頑なに拒んでいた山の民が、急に山を降りはじめたのだ。こうしてこの村の人も、自由にアプリ山へ行かれるようになったし、ようやくアプリ山の社殿に参拝できるようになった」
村長の説明を、ムレコカミといった男が受けて続けた。
「今までがどうかしていたとしか言えない。これまではムラコの全員が何かにとり憑かれていたようにひたすらあなたがた天孫族を憎み、一歩も山に入れませんでした」
「天孫族?」
やっと一言だけ、イェースズは口を開いた。
「この山の民の方々は、我われハタ人を天孫族と呼ぶんじゃ」
ムレコカミに代わって、村長がそう説明した。さらにムレコカミが、言葉を続けた。
「二、三日前に、我われは憑きものが落ちたように、この天孫族の村にトケコミするべきだという声が聞こえたのです」
「声?」
「我われはずっと、あのアプリやまのお社は、我われ山の民の守護神であるオポヤマツミの神の御神殿だと思っていたのです。だから、天孫族を拒んできたのです。オポヤマツミの神はプジの山に鎮座まします御神霊のコノパナサクヤピメの父神にてあらせられます。しかしここ最近、先ほども言いました声が、あの社に神様は本当はもっとすごい神様なのだというのです」
「その声とは……?」
「はい、エプライムの父というふうに言われておりました」
イェースズは、すべてが納得がいった。二、三日前と言えば、自分がアプリの元つ社で、悪霊を退散させたときと一致する。やはりそこは元つ社で、山の民が何ものかに取り憑かれていたのも、元つ社が邪霊に封印されていたからだったのだ。その元つ社の邪霊の封印がとかれた今、霊界現象が現界に反映して物質化し、山の民の改心となったのだろう。やはり何から何まで、霊が主体なのだ。
イェースズはそこで、再びアプリ山に言ってみたいと思った。ムレコカミが、それに同伴してくれることになった。
この日は霧もなく、山全体が明るく感じられた。元つ社の方はひと息で登れるような丘の上だったが、ここはちょっとした山だ。その山肌には、前に来たときは霧でよく見えなかったが人家が点在していた。しかし、ふもとにあるような竪穴式住居ではなく、それよりもっと簡素な、イェースズの故国の羊飼いのテントのようなものだった。筵を二枚屋根型に組み合わせただけのもので、人二人が寝ると満員になる。
「あれは我われ一族のセブリですよ」
前を進むムレコカミは、振り向きもせずに説明した。
「あれが我われ一族の住居です。もっともこれはテンパモンのセブリでね、イツキになるともう少しはましですよ」
どうもこの民だけの特殊な用語が多く、イェースズは理解するのに少し苦労した。
「アマサカリピムカツピメのスメラミコト様の御時、それまで穴にすんでいたちの民をあない払いといって地上に引き出し。セブリ、タツキのムナパリにさせられたんですよ」
だがイェースズは霊勘を働かせると、テンパモンとは移動民のようで、だからこんな簡単に運搬できる家なのだろう。それに対するイツキとは、定住者のことのようだ。
「それでも私がトケコミをすると言ったとき、ユサパリの多くのものは、テンパして行ってしまったのですよ」
そんなことを話しているうちに、社殿の前に出た。
ここからは海もよく見える。そして海の彼方にうっすらと横たわっているのは、イェースズが行ってきた元つ社のある半島らしい。海と反対側はプジの山が一望だ。イェースズはあらためて、社殿に参拝した。社殿は、心なしか輝いて見えた。こちらが末とは言え、元つ社よりも大きくて頑丈だ。この社殿を守り抜くことは、偉大な使命だなとイェースズは感じていた。
山を降りながら、イェースズはかつてこの社殿で閃光を見た時のことを思い出していた。その時に聞いた声を、ムレコカミも聞いたという。エフライムの父と名乗っていたその声は、単純にそれを解すると古代のヨセフということになる。それがアフリカの神を祭る社殿とどう関連付けられるのか、また遠い故国の歴史上の人物とこの山とはいったいどんな因縁があるのかと思いをめぐらせていた。
そこでイェースズは、村長なら何か知っているかもしれないと思い、村に帰りついた日の夜に村長を訪ねた。そして、アプリの山でのことや元つ社のことなど、すべてを話したのである。村長はそれを、横になったまま聞いていた。
「元つ社はプサの国にあったか。それで光の中の声は、エフライムの父と告げたのだな」
「はい」
村長は、しばらく何かを考えていた。そして、寝床の上で首だけイェースズに向けた。
「明日、連れて行きたいところがあるから、朝ここに来なさい」
そう言われてイェースズが翌朝村長のもとへ行くと、もう村長は上半身を起こしていた。そしてイェースズが張ってきたのを見ると、もぞもぞと動き出した。どうやら寝台から降りようとしているようだ。
イェースズはあわてて駆け寄った。
「どうなさるんですか? そんなに動いて大丈夫なのですか?」
「大丈夫だ。ちょっと肩を貸してくれ」
村長はそう言うや否やもうイェースズの肩に両手をかけ、ゆっくりと両足を床に伸ばした。
「歩けるんですか?」
イェースズが尋ねたのも無理はなかった。初めてここへ来てから数ヶ月の間、イェースズはまだ一度も村長が寝台から降りて歩いているのを見たことがない。しかし村長は一度よろめいたものの、しっかりとイェースズの両肩を握りしめて立ち上がった。そのままイェースズの肩に負ぶさる形で、危なかしげにゆっくりと村長は歩を進めた。
「さあ、行くぞ」
そこへ村長と同居している例のムレコカミが入ってきたので、イェースズは同行を求めた。このような老人だから、万が一何かあった時に自分一人でない方がいいと判断したからだ。
村長が連れて行こうとしたところは、村から距離にしてそう遠くはないところだった。しかし村長のその体であるから、優にまる一日かかった。それはアプリの山の近くで、土地が丘陵に差しかかる前の最後の平らな場所だった。そんなすっかり黄土色になった枯れ草の草原の中に、ぽつんと胸くらいまでの高さの土饅頭があった。パウゼツの山で見たモーセの墓もちょうどこんな感じだったので、イェースズはすぐにそれが墓だと分かった。その前で村長は止まるように、イェースズとムレコカミに言った。
「我われの祖先のジョプクやシクワウテイもさらにその先を尋ねたら、アプリカに君臨していたある王に行きつく」
「ダビデ王、つまりダドゥビェク王ですか?」
「いや、もっと前だ。アプリカの神とでもいうべきおうで、モパモシェスという王だ。彼こそエフライムの父なのだ」
「やはりヨセフ!」
イェースズはこの、自分の父と同名の先人をすぐに思い出した。聖書の「創世記」のラストは、このヨセフの壮絶な死で終わる。そのときヨセフは一族のものに、「神は必ずかつてアブラハム、イサク、ヤコブと契約した土地へと、あなた方を導き出すでしょう。そのとき、私の遺骨をここから運び出しなさい」と遺言し、その後はそのままアフリカのエジプトにあったという。ヨセフは幼いころに兄たちの虐待を受け、ついにエジプトへと売られたが、エジプトであれよあれよと宰相になってしまった人物である。その後、ヨセフたちイスラエルの子らは、エジプトへと移住した。だがその後、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、ヨセフの言った通りに契約のとカナンへと戻った。だからヨセフの遺言が実現されれば、ヨセフの遺骨はすでにエジプトにはないはずである。そして確かにモーセは出エジプトの真っ最中に、この国を訪れている。ヨセフの遺言通りにその遺骨はエジプトの地から持ち出されたなら、それをモーセがこの国に持ってきたことも十分に考えられる。
あるいはエフライムの十支族、つまりこの国では「ウシ」と呼ばれている人たちが持ってきたのかもしれない。いずれにせよヨセフの墓はこの霊の元つ国にあったのだ。
イェースズはもう一度、土饅頭をながめた。
そのとき、肩にかかっていた力が急に弱くなり、村長は地に倒れ落ちた。
「どうしました?」
イェースズとムレコカミが慌てて抱き起こして揺り動かしても、村長はぐたっと元気がなく、意識もないようだった。いくら呼んでも、返事はない。イェースズはすぐに、自分の特殊能力のことを思い出した。そして手を、村長の頭に当てようと、近づけていった。ところがその手は、頭まであと一アンマーよりも少し短い約三十センチあたりでとまってしまった。見えない力に、止められたようだ。だがイェースズはス直に何かをサトッた。手のひらは村長の眉間にかざされた形になっている。そのとき頭をよぎったのは、アプリの元つ社で空中を浮遊する邪霊に手のひらを向けた時のことだった。その時と同じ状況になっている。たとえ手をぴたりと当てなくても、霊流は宙に放射されて対象に飛んでいった。この時もイェースズは、偉大なる高次元宇宙エネルギーが自分の手のひらから村長に向かって放射され、村長の体を包む生体エネルギーとなっているのをイェースズは感じた。肉眼でこそ見えないが、霊視するとまばゆい黄金の光が手のひらから出て、村長の肉体と重なる霊体を包んでいる。
すぐに長老は目を開けた。そして驚いたことに、一人ですくっと立ったのだ。それを見ていたムレコカミは呆気にとられ、ぽつんと立ちすくんでいた。村長は、しかもしっかりとした足取りで歩き出した。全く普通の人と同じ足取りだ。そして長老はひざを折って天を仰ぎ、
「ああ、神様! 有り難うございます」と叫んで、その場に泣き伏せた。イェースズも泣いた。どこからとも知れぬ感動が湧き上がって、村長と手を取り合って泣いた。
ムレコカミが言いふらしたのか、この話はたちまち村中のうわさになった。そうでなくても、今まで寝たきりだった村長が村の中を歩きはじめたのだから、うわさは事実として人々の目に焼きつかれた。そして毎日イェースズのもとに、病人やけが人が押し寄せてくるようになった。
「私は医者じゃあないんです。この力は病気を治すのが目的ではないし、また私の力ではない。神様の力なですよ」
そう言って笑ってかわすイェースズだったが、なかなか人々には分かってもらえなかった。これでは寓居させて頂いている家の家族にも迷惑がかかるので、家は村長に頼んでもっとアプリの山に近い草原の真ん中に家を建ててもらい、そこへ移り住んだ。
ところが家を慕う人々はそれでもそこへ押し寄せ、中にはハタ人の特殊技術でたちまち家を建て、それまでの草原がちょっとした部落になってしまった。その部落を人々は、イェースズの村という意味でイェスパラと呼んだ。アプリの山が見おろすあたりで、ハタ人とオポヤマツミ族の人々がちょうど半々ずつくらいだった。
やがて冬になった。オミジン山あたりはとっくに大雪の中に埋もれていると思われるが、この地方は冬も温暖で、雪も積もっていない。
そこでイェースズは求められるまま、人々の病を癒した。それが目的ではないとは分かっていても、やはり苦しんでいる人々を救うのも自分の使命だと、イェースズは毎日朝から晩まで何人もの人に手をかざした。それは、手のひらをぴたりと当てていた時よりも霊流は強く感じられ、効果も早くて顕著であった。そのパワーは肉体に作用するのではなく霊体に直接影響を与え、その結果として肉体も癒されてしまうもののようだった。かつて霊界探訪した時の最後の天上界の光そのものが、イェースズの手から発せられていた。これほど偉大な神業はあっただろうかと、イェースズは驚いた。そして一人癒されるごとに神への感謝と喜びと歓喜がこみ上げ、また癒された人々からの感謝の波動がまたこの上もない楽しみであった。決して自分の力ではないということは、イェースズはよく知っていた。神がイェースズの霊体をお使いになり、神の権限と栄光を現すために霊流を送って下さっている。しかも何日か続けているうちに、そこに住んで毎日イェースズからパワーをもらっている人々の人相が、いい方に変わってきた。人相が変わるということは霊相も浄化している証拠で、個々の魂の霊層も昇華していることになる。このパワーは肉体の癒しのみではなく、霊質の向上という霊的救いになることもイェースズには分かってきた。そしてそのことに気づいたときも、イェースズは声をあげて泣き、天を仰いで神に感謝した。それは神の愛想のものであった。それに包まれている自分が、イェースズには実感できた。もはや、神は別の存在ではなく、自分の中に神がいることを感得するイェースズだった。生かして下さっているだけでなく、こんな力を与えてくれてお使い下さっている、それを思うにつけ、イェースズはそれまでの自分の至らなさに思いをはせて涙が流れるのだった。それなのにこんな力を授かったということは、よほどの使命が自分にあるに違いないとイェースズは身を引き締め、またどっしりと重みを感じていた。
そしてイェースズは、あるものすごく大きな事実に気がつき、愕然とする思いとなった。それは、これこそミコの言っていた奥義中の奥義、奥の座ではないのだろうかということである。それに気づいたとき、イェースズは一晩泣き明かした。
そこでイェースズは神の力を賜ったのなら、神の光のみではなく神の教えも伝えるべきだと思った。まだ本当にすべてを自覚などしてはいなかったアーンドラ国ででさえ、知ったかぶりで人々に教えを説いて反発も買った。それに今は神に、すべてをはっきりと人々には告げ知らせないようにとの命も出ている。だが。イェースズ自身もいろいろな体験を積むことができた。現界にいる人でも、かなりの数の人が幽界の霊に取り憑かれているということだった。そういった霊が不幸現象の原因になっているのだが、イェースズの放射する霊流はそういった憑依霊にはまばゆく痛く、苦しいものであるようだった。時にはイェースズが手をかざしている間に、憑いている霊が浮き出て本人を操り、暴れたりもした。
こうして人々がますます集まってくるようになってから、イェースズは疑問と不安を感じるようになった。この地のとどまってこの村の人々を救うことだけが、果たして自分の使命なのかということだ。そして、なぜ自分はこの霊の元つ国ではなく、西の果てのユダヤの地に生を受けたのかということだったが、そこには偉大なる神のご計画があるはずだとイェースズは確信していた。そうなると、この村にとどまっていることは、絶対に自分の本来の使命ではないとイェースズは強く感じ始めていた。ユダヤに生まれた以上、自分の使命はユダヤにあるということもまた感じた。もちろん、全人類的な意味での救いと言う使命もあるだろう。しかしいくら偉大な神業を与えられたからといって、イェースズはいまや肉体の中にいるのだからどうしても肉体的限界も生じてしまう。
さらにイェースズは、「歯止め役」という神から賜ったみ役もまた気になった。サトリ得た神理正法も、大部分はまだ明かしていけないということだ。もしそうではなく本当のメシアならユダヤという西の果てではなく、この霊島に生まれてもよさそうだ。とにかく今は水の教えに徹せよという神示もイェースズは受けているし、そうなると急に故郷が恋しくなった。
おまけに、この新しくできた村の村人たちの、イェースズに対する様子もおかしなものになりつつあった。治療師と間違えられているうちはまだいい。最近はまるでイェースズを神のごとく崇め、しかもここに集まってきている人たちはほとんどが生業を投げ打って来ている人たちだということも聞いた。イェースズはアーンドラ国のスードラの村での苦い思い出もあることから、自分が神のごとく崇められるのをいちばん嫌った。神理正法は決して他力本願で到達し得るものではないが、自分がこの村にいる以上人々の他力本願は断ち切れそうもなかった。ましてやこんなところで教団を作って、自分が教祖に収まるのも自分の使命だとは思われない。霊的にはここは霊の元つ国で太古は世界の文面の中心地であったとしても、現時点での文明的にはここはまだ未開国なのだ。
だからと言ってイェースズは決して村人たちを邪険にはせず、いつもニコニコと接したので、イェースズを取り巻く人々の間では笑い声が絶えなかった。だから、イェースズの人気はますます高まっていってしまう一方だった。
イェースズは現状打開の必要性を認識しながらもなすすべがなく、この地も本格的な冬を向かえた。イェースズがこの島国に来てから三度目の冬だった。
イェースズがもう一つ気になってたのは、ブッダ=ゴーダマ・シッタルダーの墓だった。モーセやヨセフの墓は見たが、やはりこの国で亡くなっているはずのブッダの墓はまだ見ていない。そもそも彼がこの国を目指したのは、ムー大陸のこととブッダの足跡を尋ねてということだった。ブッダのが修行した堂で自分も修行できたが、仏陀の終焉の見届けるまでは、いくら故郷が恋しくても帰れないとイェースズは思った。オミジン山のミコなら何か知っているかもしれないが、ここは冬でも雪がないにしてもオミジン山のあたりは雪に埋もれているはずだから、向こうの雪が解けた頃を見計らって一度オミジン山に帰ろうとイェースズは思った。それが、この村を離れるいい口実にもなるはずだった。
そんなことをも相談するため、ある日イェースズはハタ人の町を訪れ、村長を訪ねた。もはや村長は寝台の上ではなく、イェースズとは座って対座した。
「実は」
と、イェースズはいきなり切り出した。
「この国に来る前、ある国で偉大な聖者にお目にかかったんです」
「と、いっても、もう五百年も昔の人なですが」
え? というような表情を、村長は見せた。確かに普通に聞けば、おかしな話だ。イェースズはかまわず話を続けた。
「その人は立派な法を遺し、人々は彼を崇めました。でも五百年たって、その教団は伽藍を誇るだけの形骸化したものになってしまっているのです」
「どんな教えも、時間がたてば人知が入るものよのう」
「ですから、私はここで私の周りに人々が集まって、教団ともなりかねない勢いになっているのが怖いんです。同じように形骸化してしまうのが怖い。あれほどの偉大な聖者の教団とて、今はこの状態ですから」
「その聖者とは?」
「ゴータマ・シッタルダーといって、サトリを開かれてブッダとなられました。この国で亡くなっているはずです。私はその人の足跡を尋ねて、この国に来たのです。この国では確か、釈尊と呼ばれていたはずですが」
「おお、釈尊かね。確かにこの国に墓がある」
イェースズはこれから尋ねようとしていたことへの答えを先にもらってしまって、驚くと同時に目を輝かせた。
「本当ですか? 実はそれを、今からお伺いしようと思っていたのですが、どこにあるんです?」
「ずっと北の方じゃ」
イェースズはすくっと立ち上がった。
「行きます。そこへ」
もはや、オミジン山に戻る必要はなくなった。
「待ちなさい。ここは冬でも暖かいが、その地は今は豪雪の中で、春にならなければ近づくことさえできない」
イェースズはため息を一つつき、また座った。結局は、雪が深いことはオミジン山と同じなのだ。
「では、春になったら行かせていただきます。こちらは、おいとまさせて頂くことになりますが」
「今では村人たちもずいぶん、君を慕っているそうではないか。彼らはどうするのかね?」
「このまま私がここにいたら、彼らはだめになります。気づかれないように夜中にでもそっと旅立ちます」
「分かった。行くがいい」
村長は、きっぱりと言った。
「ここから北へ北へとまっすぐに行って、そう、ひと月も行けば海にぶつかる。そこが北の果てだ。そうしたらあたりを見回して、目立つ山の一つに釈尊の墓はある」
「ありがとうございます。いろいろお世話になりました」
そうしてイェースズは、それまでの日常の生活を続けながら、春を待った。
春が来た。
イェースズは自分の言葉通り、夜中にこっそりと村を出た。目指すは北であった。