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舟べりから手を差し伸べてすくってみる水は、まだ刺すように冷たかった。陽ざしは温かく、昼前ごろまで一所懸命に舟を漕いでいたイェースズは、かなり疲れていたこともあって、包み込むような陽光の中で手を休めた。途端に、睡魔が彼を襲う。あまりに陽ざしが気持ちいいので思わずこっくりとして、それが時間としては長くなくても、我に帰って舟べりから顔を上げるとしっかりと舟は逆行していたりする。上流へとさかのぼっているのだから、船を漕ぐ手を止めると下流へ通し戻されて流されてしまうのだ。そんなことが何回かあったので、夕日が西に傾きかけてもあまり進んでいないような気がした。
時折川の合流点にさしかかったが、大きい方の川というのがイェースズの行く手を決める手だてだった。一度だけかなり迷ったこともあったが、彼は左から流れてくる川へと進路を決めた。やがて川の両側が山がちになった。樹木に覆われた低い山が、互いの境目もなく続く。
とにかく不思議な国だった。大陸を旅していたときは、来る日も来る日も砂漠や不毛の山という風景で、下手をすると数ヶ月も全く同じ単調な風景の中を歩いたものだった。ところがこの国は、実に風景が多彩なのだ。ほんの一日か二日の行程で風景は一変し、海があったかと思うとすぐに山で、その山も実に変化に富んでおり、同じ風景が幾日も続くということはないのである。極端な場合、その日のうちに風景は変化する。
舟からそんな風景の中のずっと列なる山を見て、彼は行くべき地であるクライ山に想いを馳せた。クライ山も目の前の山のような姿なのだろうか……そんな考えを彼はすぐに打ち消した。ピラミドウといわれているような山だから、ひと目でそれと分かるはずだ。
そんなことを考えているうち、イェースズはあることに気がついた。クライ山はミコのいたオミジン山からはちょうど南だとミコは言っていた。ところが、今進んでいる川の上流は、東から流れてきている。つまり、イェースズは東に向かって進んでいることになる。
しまった……と、彼は思った。どうも先ほどの合流点で、進むべき川を間違えたらしい。合流点まで戻って進み直そうかとイェースズが思った瞬間、左手の低い山並みの向こうにきれいな三角形の山が顔をのぞかせているのが見えた。さほど高い山ではなさそうだが、それが実にきれいな三角形なのだ。そしてそれがイェースズの幼児記憶を刺激し、エジプトで見たピラミッドの姿が彼の脳裏に鮮やかに蘇った。
理屈ではなく直勘的に普通の山ではないと思ったイェースズは、その山へ行こうと思った。行かなければならないと強く感じたのだ。どうも方角を間違えたようなのであの山がクライ山ということにはならないかも知れないし、ましてやこんな出発してその日のうちにクライ山に着くはずもないが、万が一そうだったら通りすぎたら悔やまれる。
舟を小砂利の河川敷に引き上げ、イェースズは山の方へと歩きだした。
イェースズが三角山のふもとに着いた時はちょうど日没だった。ふもとから見上げても、確かに異様な山だった。周りの丘陵からは独立して三角形の山は少しだけ高く、山全体が樹木で覆われていた。
ため息交じりに立ち止まって、イェースズは三角の山を見上げた。日が沈んだとはいっても、完全に暗くなるにはまだ間がありそうだった。山はさほど高くはなく、道さえあれば朝起きてから朝食をとるまでの間くらいの時間で登れるほどだ。だが、さすがに今から登れば、頂上に着くころには真っ暗になっているだろうと思われた。
それでも、イェースズは登ろうと思った。もし途中で暗くなったら、そこで野宿をすればいい。とにかく少しでも登れば、この異様な山の正体が分かるような気がした。クライ山ではないにしろ、この山もピラミドウなのではないかという気がしたのだ。
イェースズは歩きだした。登る道がないかどうか探すためである。そうしてイェースズが山のふもとでうろうろしていると、彼を呼び止める声があった。獣の皮衣を着た村人で、青年と中年の境目のような年頃の黒い髭の男だった。
「どこへ行くんだあ?」
イェースズは振り向いて、笑顔を作った。
「この山に登るんです」
「この山に登るだって? これから?」
「はい」
一瞬怪訝な表情を見せた後、男は慌てて叫んだ。
「だめだよ。あんたそんな赤い、このへんのものとは違う顔つきだからよそ者だろう。だから知らんのだろうが、この山に日が暮れてから入ったら、クライ山のオニにさらわれるだ」
「え? クライ山?」
イェースズは耳を疑った。そして興奮した状態で、男に歩み寄った。
「この山が、まさかクライ山……?」
「はあ?」
男はあきれたように、口を開けた。
「クライ山は、ここからもっともっと南だあ。こんな小さな山じゃないよ。これはトンガリ山だ」
「でも今、クライ山のオニって」
「だからあ、クライ山からオニがやって来てさらって行くだ。この山から南のクライ山の方角へ、夜になると時々光るものが飛んでいくのを何人も見てるんだ。それがきっとオニだ。悪いことは言わないから、よしな」
「あのう」
男は立ち去りかけたので、イェースズは慌てて呼びとめた。
「この山は、ピラミドウなんですか?」
男の表情が、急に変わった。そして何かに怯えるように腰を引き、
「おらあ、知らん。知らん!」
問って二、三歩後ずさりしたかと思うと、男はそそくさと行ってしまった。あとに残されたイェースズは訳も分からずに立ちすくんでいたが、オニが出ようがクライ山と聞けばかえって登らない訳にはいかなくなった。
道はなかった。木と木の間の草むらをかき分け、イェースズは登っていった。幸いまだ寒い時期なので、枯れ草がほとんどだった。
中腹あたりまで登った頃に、宵闇がトンガリ山をすっぽりと包んでしまった。もうこれ以上は無理かなと思いながらもうひと登りした時、イェースズは思わず声を発してしまった。
道があったのである。しかもそれは石畳の道で、石と石の間は赤土で固められ、明らかに人の手による道だった。そのお蔭で後は楽に登ることができ、本当に突然といった感じで頂上が現れた。三角系の山をそこだけ巨大な刀で切り落としたように、頂上にはわずかだが平らなスペースがあった。もう暗くてよく見えないが、何だか中央に置かれている石の周りに、やはり石が円形に配置されているようだ。
何だろうと思って、イェースズがそのストーン・サークルに近づいた時である。目もくらむような閃光が、彼を包んだ。それからというもの、時間の感覚を全く失ったまま、気がつけば彼は別の空間の林の中にいた。
山中であることには間違いない。しかし、その傾斜といい、風景といい、明らかにトンガリ山とは別の山の中に突然放り出された感じだった。イェースズは何だか訳が分からず、あたりをきょろきょろ見回した。あたりはもう薄暗く手よく見えなかったが、目の前に洞窟があるのだけは何となく分かった。もう少し時間がたてば、それもすっかり見えなくなるはずである。今の自分の状況を冷静に分析する暇など彼にはなく、とにかくその洞窟で今夜は泊まろうとうと思った。
とにかくイェースズは、洞窟の中に入ってみた。食糧袋は舟に残さず、持ってきていた。その荷物の中から松明を取り出し、石を打って火を起こし、洞窟の中を照らしてみた。
そこには、誰もいなかった。ちょっとかがんで入らないと頭をぶつけてしまうような小さな洞窟で、五、六歩ほど歩いただけで奥の壁にたどり着いた。幅も狭い。その側面も天井も大きな岩で、土を掘って作った洞窟ではないらしい。足元には平らな石が、石畳状に敷き詰められていた。奇妙なのは奥のつきあたりの壁の所が祭壇状になっており、上に人の頭よりはほんの少し小さいくらいの丸い石が乗っていたことだった。見事なまで狂いのない球形の石で、人の手で磨いたとしか思えなかった。
イェースズはその玉石を、松明の炎を近づけてしげしげと見た。なぜか手を触れてはいけないような気がして、ただ黙って見ていたのである。しかし、それが何であるのカを考えるゆとりは、すでにその時の彼にはなかった。空腹と疲労だけが彼を支配し、荷の中の食糧の木の実をむさぼるように食べると、そのまま松明の炎を消して仰向けに倒れ、彼は眠ってしまった。
翌朝、目を開いて、冷たい岩の天井が最初に目に映った時、。それも夕方のことばかりで、ミコに見送られて旅立った朝のことなど、遥か遠い昔のように感じられた。
確か、トンガリ山という山に登った。そしてその頂上で閃光に包まれたあと、瞬時にして別の林の中にいた。それがここなのだ。その意味を考えなければと体を起こしたが、まだ体に力が入らなかった。
首をひねると、昨夜見た祭壇の上の玉石が視界に入った。今見ても本当に見事な球形だが、そんな石がなぜここに置いてあるのか、見当もつかなかった。
イェースズは外に出てみた。当たり一面霧が漂い、空気はひんやりとして肌を刺した。
明るい所ではじめて洞窟を外から見て、やはりそれが土を掘ったものではなく、岩を組んで作られた岩屋だということを彼は知った。ひと抱えもある巨大な円柱状の柱石が左に、そして右は巨大な板状の岩がその上を覆う大きな岩を支えて、その下に空洞を作っている。岩の巨大さもさることながら、それらを小にように巧みに組み合わせて岩屋を作るというのは、とても人間わざとは思えない。だからといって、これは決して自然のものでもあり得なかった。こんな素晴らしい岩屋で一夜を過ごさせてもらえた天の配慮がありがたくて、イェースズは感謝の念に思わず手を合わせていた。
岩屋の前に、左右に延びる道があった。道は山腹を横ばいに、左上がりの坂だった。それに沿って彼は、山を登り始めた。登るといってもトンガリ山のような急な傾斜ではなく、登っているというよりただ単に坂道を歩いているという感じだった。林の中の日の当たらないと思われる所だけ、まばらに雪が残っている。そんな木立の中を歩いていると、やがて視界が開けた。道はもうそれ以上登り勾配ではないので、ここが山頂かもしれないと彼は思った。そこは、なだらかで広々とした高原だった。しかし霧が立ち込めているため、どのくらいの広さなのかは正確には分からなかった。それでも、広いということは十分に感じられた。山頂がこれだけ広いのだから、かなり大きな山だと思われる。しかし、下界は霧のため何も見えなかった。ここには樹木はなく、一面の熊笹で覆われており、ところどころに雪があった。霧は前方から流れてきて、冷たく全身に当たる。その白いベールのかかった風景のあまりの神々しさに、イェースズは思わず身震いをした。その神秘の世界に、彼は一歩一歩と足を踏み入れていった。
するといつの間にか、前方に人影が見えた。近づくに連れ、霧の中でその人は、次第に姿をあらわにしていった。それは、透き通るような白い衣を着た老人だった。頭髪は耳の周りにしかなく、その代わりに見事な白い髭が胸元あたりまでたれていた。イェースズが近づいていっても、老人はじっとイェースズを微笑みのまなざしで見つめたまま、微動だにせず立っていた。それは尋常な人ではあり得ないという風体で、まさしく仙人そのものだった。そしてその老人と向かい合う形となり、イェースズは歩みを止めた。
「あのう、あなたは?」
と、イェースズの方から口を開いた。
「イェースズ君だね」
イェースズの問いには答えず、いきなり自分の名を老人は口にしたので、イェースズはたじろいだ。
「は、はい。そうですが……」
老人はさっと両手を上へと広げ、大げさな身振りで、
「ここがクライ山だよ」
と、言った。
「え? でも、クライ山はトンガリ山からはずっと南だって……」
「確かに、普通に来れば二日はかかる。トンガリ山はコシの国で、ここはもうピダマの国だからな」
老人はゆっくりと手を下ろし、イェースズに背を向けて歩きだした。イェースズは慌ててそれを追った。無言で歩く老人に、イェースズも同じく無言で着いていくしかなかった。老人は林の中に入って行った。霧が深くて景色が見えないのでよく分からないが、どうも老人は道を下って行っている。
そしてかなり下ったあたりで、突然目の前に目をみはるような巨大な岩石が横たわっているのに出くわした。平らな舞台のようなその岩は上に人が六人ほど寝られそうな大きさで、真ん中からさらにもう一枚の岩が一段高く段状に乗っていた。
「ここに座りなさい」
と、老人に言われるまま、イェースズは弾みをつけて岩の上に上がり、そこに正座した。高さはそう高くないので、まるで故国のシナゴーグの祭壇のようだ。
「日の神様、アマテラス日大神様にここで祈りなさい。この山に天降られた神様に。そしてその父神様にも届くように」
イェースズはその言葉通り手を合わせようとすると、老人はもう着いて来いというそぶりで歩いて行ってしまう。どうも、今祈れという意味ではないらしいと察し、イェースズはまたその後を追った。
老人は再び山を登りはじめた。その間、道の脇にいくつもの巨石をイェースズは見たが、やがて再び山頂近くに登りきったと思われるあたりで、それまでにない巨大な岩に出くわした。今度は板状ではなく、人の背丈ほどの高さに立っている。
「きれいに磨かれているんですね」
イェースズが思わずそう漏らしたのも道理で、表面は見事に平らに磨かれており、人の姿も映りそうなほどだった。もうだいぶ霧も薄れてきていたが、その時はっきりと空が顔をのぞかせ、すでにかなり高くに昇っていた太陽の光がさっとさした。その木々の間をぬってさしこむ陽光はちょうど磨かれた大きな岩の側面に当たり、その光が反射してイェースズを直撃した。イェースズはそのまぶしさに、思わず目を覆った。
「アマテラス日大神様は、雄々しく輝ける太陽の神様だ。その神様が天にお帰りになったあと、人々は神様を慕ってこのように太陽の光を映す鏡岩を作り、この岩に映る太陽の光を通してアマテラス日大神様を礼拝しておった」
イェースズは振り向いて、老人を見た。
「昨夜私が泊まった洞窟に、玉のような石があったのですが……」
「それは霊石だ。岩の中から生まれる石で、決して人間が磨いたのではない。その証拠に、最初は小さくても段々と大きく育つ」
「え? 石が育つんですか?」
「育つ。だから霊石なんじゃ。玉石は世界中どこを探してもこの島国の中のここピダマの国と、ずっと西のピの国のアソの山のふもとの二ヶ所からしか絶対に出ない。そういった石をこの地にだけ神様が許されているというのはここが重大な霊的因縁の地、すなわちこここそが人類発祥、五色人創造の聖地だということじゃ」
イェースズはもう一度、鏡岩の表面を見た。それから、
「ところで、あなたは……?」
と言ってイェースズが振り向いた時、老人の姿はかき消すように消えて跡形もなかった。イェースズはあたりをきょろきょろと見回してみたが、老人が去って行く後ろ姿さえ見当たらなかった。
まるで狐にでも騙されたような感覚で、イェースズはそこらじゅうを走って老人を探したが、老人は影も形もなかった。とりあえずイェースズは、岩屋に戻った。鏡岩は、実際は岩屋のすぐそばだったのだ。その岩屋の洞窟の中で、イェースズは相変わらず鎮座していた玉石を見た。本当に岩がこんな石を生み、そしてこの石も育つのだろうかと当然ながら思うが、イェースズは自分に「ス直」と言い聞かせていた。あの老人がそう言うのならそうなのだろうと仰向けに横たわり、今自分が置かれている状況を考えようとした。しかし頭の中は混乱するばかりで、その混乱したままの頭でイェースズはその日一日を過ごした。クライ山の姿が見えたらどんな感動があるのかとイェースズは楽しみにしていたが、こんなにも突然に目的地に着いてしまうとかえって気が抜けたようになってしまう。
翌朝、老人と出会った同じ時刻に、イェースズは山頂のなだらかな高原へと登って見ることにした。同じ時刻の同じ場所なら、またあの老人に会えるかもしれないと思ったからだ。
この日は霧もなく、よく晴れていた。空も青みがさし、太陽が昇る準備は万端のようだ。今日は霧がないだけ、山頂の広さが実感できた。周りの山々の景色もよく見渡せる。山がひだのように幾重にも重なる山岳地帯の中に、今立っているクライ山はある。山岳地帯といってもそれぞれの山は独立して立っており、その間には低地もあって集落も見える。どの山もまだ頂上付近にはうっすらと雪が残っており、山は葉のない木々に覆われていて、特に隣の山はクライ山と同じくらいの高さで並んでいた。
イェースズは胸を開き、冷たい空気を大きく吸いこんだ。
広い頂上のどこにも、人影はなかった。空がどんどん明るさを増して昼間と変わらないくらい明るくなっても、老人が現れる気配はなかった。高原のあちこちを歩き回ってみたが、自分が熊笹を踏む音と木々の方から聞こえて来る小鳥のさえずりが聞こえるほかは、山頂に何の変化もなかった。
そのままイェースズは昨日見た祭壇石の所まで山を下っていった。もうそろそろ日も昇る頃だ。ここで祈れと昨日老人が言ったことを思い出したイェースズは、祭壇石の下の段の所に上がった。この目の前に一段高くなっているもう一枚の巨岩の上に祭具を並べればもうそれは祭壇以外の何ものでもなく、どう見ても自然の産物ではあり得なかった。しかし石はこの大きさで一枚岩であり、それがきちんと重ねられているというのは、イェースズの故国やエジプト、ローマなどではいざ知らず、現時点では未開とも思われるこの国の技術としては実に異様だった。目の前の林はスロープとなって、なだらかに頂上まで登っている。その方に手を合わせて二拝した後、三拍手を打ってイェースズはひれ伏した。
今はご神意を頼りにするしか、ほかの手だてはなかった。全身全霊を挙げて神のみ声を聞こう、御指示を仰ごうとイェースズはひたすら祈った。
ふと目を上げると、頂上の向こうに朝日がさしていた。太陽が昇ったらしい。この祭壇で祈れば自然と朝日を礼拝するという、そういう向きに造られているということも彼は知った。
それからひとまず岩屋に戻り、持ってきた食料で朝食を済ませた。そして今日は、山全体を一日中探してでもあの老人に会おうと彼は思った。そうして実際にイェースズは山頂を隈なく歩きまわったが、クライ山はミコのオミジン山やトンガリ山などとは比べようもないほど大きな本格的な山で、一日ではとても探しきれなかった。
翌日になってようやく全山を歩き尽くしたが、老人はどこにもいなかった。そしてその代わりにさまざまな巨石を見たが、この山がピラミドウという実感はまだ持てずにいた。トンガリ山ならちょうど大きさといい形といいエジプトのピラミッドと似ているので、トンガリ山がピラミドウだというのなら理解できるが、クライ山はエジプトのピラミッドよりもとてつもなく大きく、あくまで「自然の山」なのだ。だからピラミドウとまでは思えないまでも、ただの山ではないということだけは実感できた。理屈ではなく、山全体の霊妙な空気を魂が感じるからだ。この山が、そしてこのあたり一帯のピダマの国が神々の降臨の地であり、世界の神都であったというミコの話も、この神秘のベールに包まれた霊気からは十分にうなずけると、林の中を歩きながらイェースズは考えた。そしれ、もう老人を探すのはやめようと彼は思った。その正体は謎だが、あえてその謎を知りたいとは思わなくなったのである。探すというよりも、待とうと彼は思った。待っていれば、忘れた頃にまたひょこりと現れるかもしれない。仙人とはそういうものだ。そう思った彼は、次の日からは毎日岩屋で修行をした。食料がなくなりかけても、神との絶対なる信頼感を持っていた彼は何の不安もなく、本当に食料がなくなった日に山菜の若芽を見つけたし、食料になる小動物も穴から出てきた。しみじみとありがたいと感じた彼は、心から感謝をした。
修行といえばまずは祭壇石での朝の礼拝で、これは時間をかけてやった。それからは鏡岩の前や夕方からは岩屋の中で、ダンダカ山でかつてやったように禅定を組み、これまでのい自分の人生を洗いざらいに点検して反省する行をすることによって、心の垢を落とそうとした。
そうした修行の毎日が続き、三十日くらいがたった。時折吹き過ぎる風は、もはや早春の風ではなかった。山全体がすっぽりと春に包みこまれ、優しい陽ざしも温かさも増し、その中にかすかな香りもあった。
ある朝、いつものように祭壇石で礼拝していると、目の前がパッと明るくなった。しかしそれは、朝日のそれとは違った。そっと目を開けると、何と祭壇石の二段目の上が燃えていた。驚いてイェースズは顔を上げた。
炎は祭壇の上いっぱいに広がっているが、その発する光は普通の炎のそれとは全く異質のものであった。この世のものとは思えない、不思議な光だったのである。つまり、現界の物質としての火ではない。そんな炎をイェースズが見たその時、彼の全身に閃光のかたまりがぶつかってきた。軽いめまいを覚え、そしてその次の瞬間には全身が宙に吊り上げられた感じがした。まるで頭を何ものかにつかまれ、空中で振り回されているようだった。
正気に戻ると、当たり一面が閃光の洪水の中に彼は立っていた。いつぞやの体験と同じで、彼は思わず懐かしさを感じていた。それは魂の奥からにじみ出てくる懐かしさなのだ。
――イェースズ、イェースズ。
と、前方で声がした。前の時と同じ、耳に聞こえるのではなく心の内に響く声だ。その声の方にすこしだけ、彼は歩いてみた。何しろ立っている場所、つまり足の下が地面なのかどうかも分からない。上も下も前後左右も、全く同じ黄金色の光に塗りつぶされている。確かに立っているし歩くこともできるが、足の裏に地面の感触があるのかどうかといえば、それは何とも言えないのだ。
そして三歩くらい歩いた時、
――ここより近づくこと、許さず。
と、厳しい口調の声が響いてきた。その声は、自分の背丈の何十倍もあるかと思われる巨大な存在から発せられたようにも感じられた。全身を包みこむ、実に重々しい声だった。かといって暗い声ではなく、口調に微笑みを含んだ大らかな声でもあった。
――履きものを脱ぐべし。ここは聖なる場所なればなり。
慌ててイェースズは、その通りにした。閃光はいよいよそのパワーを増し、まるで大風のような圧力を全身に感じてイェースズは立っていられなくなった。足がへなへなと力なく折れ、その場にひれ伏す形となった。これがこのとてつもない光圧に堪え得る唯一の姿勢だった。
うずくまりながらイェースズは、この状況何か覚えがあるように感じた。そして頭の中にひらめいたのが、聖書の「出エジプト記」でモーシェがはじめて御神霊と遭遇した個所であった。それと全く同じである。しかし、同じではあっても、聖書を読んだだけでイメージしていた光景とはだいぶ違う。モーシェは現界の荒野にいるまま神の声を空の方から耳で聞いているように聖書には描かれているが、実際はこうだったのかとイェースズは何となく感じていた。
そしてもうひとつ気がついたことは、これまでのこのような体験では内なる声は訳の分からない言語で、それが胸元でどんどんアラム語に翻訳されて彼の意識に入ってきたものだった。それが、今度はアラム語に翻訳もされず、またその必要もなくイェースズには理解できる。つまり、これまで訳の分からない言葉と思っていたのは、何とイェースズが今では理解可能のこの国の言語だったのである。
そこで、今度はその言語でイェースズの方から尋ねてみた。
「神様はモーシェに、御名を『エイーエ・アシエル・エイーエ』とお告げになられましたね」
――その言葉を、霊の元つ国の言葉で申してみよ。
それは、今のイェースズにとっては容易なことだった。
「在りて有るもの……」
自分でそう言ってから、イェースズは短く「あ!」と叫んだ。
――その義、心静に想いを馳すべし。
「『在りて』とは『存在して』、『有る』は『力がおありになる』ということ……」
この国の言葉で言えば、すべての謎が氷解する。「エイーエ・アシエル・エイーエ」とヘブライ語で言っている間は、イェースズにもその意味が分かりかねていたのである。「在りて有るもの」――すなわち、神様は「厳としてお在します有力光」なのである。
――汝、我が愛する子よ。吾は父神なり。
「天の、天の御父の神様なのですね」
――汝が会いたる日の神の父神にて、万物の造り主なり。枝国にまいらば、汝ら吾を弥栄の神とも申すならん。
もはやイェースズは、何も言えなかった。
――汝らの申す聖書にては六日目に、霊の元つ国のヒダマの国にて万物の霊成型造りしなり。故に、天の下造らしし大神とも唱えしめしよ。
「天地の創造主。全能の父なる神……」
――されど、宇宙の真中心の大祖神はさらに奥の奥のそのまた奥にして、今世の汝らにはまだ分からずしてよきなり。吾はまたその大根元神の体の面の働きとして、大根元神を真中心に、霊成型造り致せしなれど、もと仮凝身にして今は水神の統治の世なれば一時身を引き、艮の方へと神幽りあるゆえ、今水神・月神の目を盗みて化身のみここへ来たれるなり。
イェースズはただ黙って、ひたすらひれ伏していた。こんな感動ははじめてだった。全身が小刻みに震え、涙が流れて止まらない。とにかく、「懐かし」というひと言で片付けてしまっては簡単すぎてしまうほどだがそれに似た感情が堰を切って溢れている。
――立て。
その声で今まで萎えていた足が急に元に戻り、イェースズはすくっと立ち上がった。すると、あたりの風景も一変した。えも言えぬ色とりどりの花が一面に咲き誇る中に彼はいた。空も不思議な色彩で明るく輝き、まるで空全体に虹が敷き詰められたようだ。
気がつくと、目の前に人がいた。その姿を見た時、イェースズの胸ははちきれんばかりに高鳴った。ニコニコしてそこに立っていたのは、イェースズがずっと探し続けていたあの白い髭の長い老人だったのだ。
目であいさつをしてから、老人は空に向かって右手を上げた。すると空の一角がぴかりと光り、そこからものすごいスピードで光の塊が降りてきた。それは、金属の円盤だった。円盤は膝くらいのところで空中に浮遊して停止し、それに乗るよう老人はイェースズに促した。イェースズが乗ると老人もともに乗り、二人で小さな円盤の上に立つ形となった。円盤は白っぽく、鏡のようにものが映る金属でできている。
たちまちにイェースズは円盤の上で下降感を味わい、次の瞬間、葉のない木々で覆われた山々が連なる丘陵地帯の上空にいた。その一つの山を目がけて、円盤はぐっと下降する。
「あれがクライ山だよ」
と、老人は足元の山の頂上を指差して言った。
「え?」
確かに山頂の地形と熊笹の高原から、クライ山に違いなかった。山頂から斜面を少し下ったところの山の中腹の林の中には、祭壇石があるのも上空から認められた。しかも、その上で倒れている人影は、ほかならぬイェースズ自身だった。イェースズはその倒れている自分と円盤の上に立っているもう一人の自分の体とを、交互に見比べていた。今や霊魂だけの存在でイェースズは円盤の上に立っていることになる。それにしては足も手も体もそのまま出だし、着ていた服もそのまま着ているのだ。その自分と祭壇岩の上で倒れているもう一人の自分との間は二本の銀色の糸で結ばれていたが、今誰かが倒れている自分を発見したら人事不省に陥っていると思われるだろうとイェースズは考えていた。
「これから三千世界をご案内致そう」
「三千世界?」
「大千三千世界じゃ。現界でいうちっぽけな世界ではなく、大いなる霊の世界を見せるようにと、大神様より申しつかっておる。つまり、仮に死んでもらいましょうということじゃ」
老人が声をあげて笑うと再び円盤は急上昇し、イェースズは思わず短い悲鳴をあげた。
気がつくとイェースズは、老人と二人で荒野の真ん中に立っていた。恐ろしくなるほど広い荒野で、地面にはわずかばかりの草も生えている。ずっと遠い遥か彼方を山脈がぐるりと取り囲み、そんな遥か彼方であるにもかかわらず山は中天近くまでそそり立つ岩山だった。あたりは何となく明るく、しかし光源はどこにもなくて、自分たちの影がないことにイェースズはすぐに気がついた。
ここはどこなのだろうと思って、イェースズは老人を見た。すぐに、老人の言葉が胸の中に響いた。
――ここは人が死んだら、最初に来る所だよ。
心で思っただけのことがすでに老人には伝わっており、相手の言葉も肉声ではなく心に響く声として伝わってくる。これまでたびたび遭遇した異次元体験での御神霊との遭遇の時と、ちょうど同じなのだ。ここはもはや肉声は不要の世界のようで、もっとも今のイェースズ自体が肉体として存在しているのではないようだ。なぜならついさっき、彼はクライ山の祭壇岩の上に残してきた自分の肉体を外から見たばかりである。しかし、立っている感触といい目に映る風景といい、肉体の世界と何ら変わりはない。
イェースズはしゃがんで、大地に生えている草を手にしてみた。その感触も普段となら変わりなく、草自体も普通の草である。ただ、風景が限りなく広いことと、現界では決して見ることのできない遠くの高い山というのが異様だった。故国でも、悠久の大地と思えたアーンドラ国やシムの国でも、これほど広い盆地はなかった。
老人に促されて乗ってきた円盤にイェースズが再び乗ると、円盤は広い原野の上を滑りだした。やがて、いつの間にか円盤は高台にいて、さらに広い盆地が眼下に大パノラマとなって展開された。ところどころに小高い丘があり、遠くには大きな湖が遥か彼方の山すそまで広がっている。丘と丘との間には林もあり、いくつかの家が建っているのも見えた。家は今までイェースズが現界でいた国のものと同じ、わらを円錐状に積んだ竪穴式の家だ。その林の一つに向かって、円盤は急速に近づいていった。大地に降り立つと、林の木々の梢からは小鳥のさえずりさえ聞こえてきた。
イェースズがあたりをきょろきょろしていると、不意に家の中から若者が出てきた。やはり黒い髪と黄色い肌の人だ。
――あれ?
若者の声が、イェースズの胸で響いた。その若者と、イェースズは目が合った。
――あんた、新しく来たんかね。
――は、はい。イェースズも、心で答えた。
――そうかね。今はまだ状況がのみこめないだろうが、心配するこたあねえ。わしらも最初は戸惑ったが、慣れればここの方がずっと地上よりも暮らしやすいんじゃ。
若いくせに、その口調はいやに年寄りじみていた。イェースズの隣にいる老人は、ただ微笑んでいるだけだった。
――わしゃあ地上で八十一歳の時にここへ来たが、そう、地上ではもう十年くらいたったかのう。
イェースズがまだいぶかしげな表情をしているうちに、若者は行ってしまった。あの若さで八十一とは……。その想念を読み取って、老人が心の声で言った。
――この世界は現界でどんな年齢で亡くなっても、おまえさんくらいの年霊になる。年寄りは若返り、子供は成長して若者以上にはならない。
――そんな……。
――これからもっと驚くことがあるぞ。
老人が歩きだしたので、イェースズもそれに従った。そして二人は、湖畔に出た。小鳥のさえずりのほかは、何の音もない静寂の世界だ。しばらく歩くと、湖畔で一家族と思える四人が座って食事をとっていた。父、母、そして二人の男の子だ。
イェースズは、それに近づいて行った。
――あんた、一人でここに来たのかね?
父親と思しき人がイェースズに目を向けた。
――いえ、あの、そのう。
答えに窮したイェースズは、隣の老人を見た。そして、ふと心の中に疑問がわいた。先ほど老人は、ここでは皆若者になると言ったのに、目の前の家族には子どもがいる。
――皆同じ年齢になると言っても、すぐにではない。段々とそうなっていくんだ。その速さが現界よりも速いということで、地上で十八年かかる成長が一年くらいしかかからないし、年寄りは同じ速さで若返っていく。老人や子どもがいるとしたら、それはまだ来たばかり、つまり亡くなったばかりの人だ。
心の声さえ発していなくても、疑問を感じただけで伝わってしまい、即座に返事がもらえるから便利といえば便利だが、
――わしは特別なのだ。
と、返事が返ってくるときは、失礼な疑問まで伝わってしまったことになって、それは困ると感じた。誰でも若者になるなら、自分を案内しているこの老人はなぜ老人なのかとイェースズは考えたのだ。
そんな想念のやり取りを、目の前の家族の父親は読み取っており、少なからぬ驚きの表情を見せた。
――この人は特別な人なんだ。
と、イェースズについて考えていることが、イェースズにはありありと分かる。
――あんた、本当はまだ地上で死んでいないね。
――ええ、この方に案内されて来ました。
――なるほどそれで、まだ霊波線がつながっている。イェースズが先ほど見たクライ山の祭壇岩の上の肉体と今の自分をつなぐ二本の銀の糸のことであると、イェースズは説明されるまでもなく分かった。相手の想念が伝わってくるから、説明されずとも相手の考えていることや言ったことの根拠が分かるのだ。今の二本の糸はイェースズの体から出て、空中にずっと延びて見えなくなっていた。
――その霊波線が地上の肉体とつながっている限り、あんたはまだ死んじゃあいない。
――その通りだ。
隣で老人が相槌を打つ。
――おまえさんは特別にここに来たのだから、また再び肉体に戻れるように霊波線はそのままだ。普通の人は、霊波線が切れてはじめてここへ来るのだ。そうすると肉体は冷たくなって硬直し、やがて腐りだしてもとの土に返る。
――死とは、そういうことなのですね。
――そうだ。死とはすべてが終わって無になることではなく、ただ霊魂が肉体という乗り舟を乗り捨てるだけのことだ。霊魂は死なない。このご家族は死んだ後も、ここでこうして生きて暮らしている。だから人が死んでも決して墓に入って、安らかに眠っている訳ではない。墓に入るのは、乗り捨てられた空の舟だ。魂がない空だから「亡骸」というのだ。
父親がまた、イェースズを見た。
――おれもな、人が死んだらすべてが無に帰してそれで終わりと思っていたんだよ。でも死んだのにこうして生きているから、最初はずいぶん戸惑ったよ。死んだということがなかなか分からなかった。お迎えの方に説得して頂くまではね。妻や子供たちとてそうだ。
それを聞いたイェースズの疑問に、父親は一瞬顔を曇らせた。
――俺たち一家は、流行病で死んだんだ。あっという間だったよ。村が全滅だった。
父親は、自分の末の子らしき子供を指さした。
――この子は生まれたときから両手両足だ動かなかったのだ。
その子供が、今は両手を使って食事をしている。イェースズは首を傾げた。その疑問に、老人がすかさず答えを送ってきた。
――ここでは年齢が同じになるだけでなく、生まれつき体が不自由なものは五体満足になるんだ。
――あんた、まだ地上にいるんなら……
父親は、イェースズを見据えた。
――みんなに言ってくれ。俺もこういう世界があることを知っていれば、死んだ直後にあんな遠回りをしなくて済んだ。
その時、老人がイェースズの腕を引いて歩きだしたの出、イェースズは慌ててその後を追った。そして歩きながら、老人の想念が伝わってきた。
――ここでは、「どうして死んだのか」ということは聞くものではない。この世界は死んだ霊魂が最初に来る世界で、本当の霊界ではない。ここでみんな生きていた時のことを忘れ、現界への執着をとるために修行しているんだ。それができたものがはじめて霊層界に行ける。だからここでは現界にいた時のことや、現界での死のいきさつなどは聞かないであげた方がいいのだ。
――現界への執着を断つというのは分かりますが、何もかも忘れるんですか?
――そうしなければ、本当の魂の故郷では生活できない。肉体があった時の感触や現界での地位、名誉などすべてをきれいに洗い流して、本当の霊魂としての自分を取り戻すまでは、霊層界には行かれないんだ。ここは、そのための待合室で、長い人では三十年もここにいる。
――本当の霊魂としての自分?
――生きている時は五官に振り回され、とかく本来の自分を押し殺して生活をしている。村の掟とか、見栄とか外聞などもそうだ。現界での行動は魂の行動ではなく、「そう決められているから」とか、「恥ずかしいから」「人にとやかく言われるから」挙げ句の果てには「制裁を加えられる」とか、そんなのが優先となる。そして、肉体があるだけに人には外見しか見られないので、本当の自分を押し隠すことは簡単だ。ごまかしがきくのだよ。
――ごまかし……
――しかしここでは肉体はもうないし、みんな幽体と霊体だけで生活しているし、想念がすべて筒抜けだ。会話も想念でする。だからごまかしはきかない。それに、ここには律法も法律も道徳も世間体もない。つまり、してはいけないということがなく、何をしても自由なんだ。それだけに。己の本質がむきだしになる。
イェースズは納得した。そして、現界の林の中と何ら変わりのない林の中を歩いた。
――ここに来ただけでたいていの人は戸惑うのだから、とてもとても本当の霊層会には直接に行かれるものではない。だからここでゆっくりと現界への執着を断って、魂の故郷である霊界のことを思い出すんだ。こういう世界が用意されていることもまた、創造主の至れり尽くせりの御愛情だ。
――でも人はどうしても現界の名誉や地位、欲望を持ってきてしまいますよねえ。
――それがそうはできないのだよ。
老人は大らかに笑った。
その時、前方の林の中で男の叫び声が聞こえてきた。
「やめてくれえ!」
と、いう声は肉声だった。
――今から、面白いものをお見せしよう。
そう心の中で言って老人は、叫び声がした方へと微笑みながらイェースズをいざなった。
林の中央は、ちょっとした広場になっていた。そこに十人ばかりの白い衣の人たちが、中央で頭を抱えてうずくまっている人を取り囲んでいるのをイェースズは見た。白い衣の人たちの表情は、皆穏やかだ。
叫び声の主は、中央の男だった。すらりと背が高く、年配だがいかにもまじめそうないい男だ。その男が耳を両手でふさぎ、地面を転がりながら足をじたばたさせて泣き叫んでいる。
「もう、いい! やめてくれ! 俺が悪かった。やめてくれ、頼む!」
だが周りの人々は依然として穏やかな表情で、黙って男を見ていた。
――あれをご覧。
老人が、イェースズに男の上空を示した。ちょうどそのあたりの空中に、風景が展開されていた。
――あれは、何ですか?
――この男の一生が鮮明に、空中に映し出されるんだ。現界に生まれてから死ぬまでの一瞬一秒の善行や悪行がすべて映し出され、自分の一生を客観的に見せられるんだ。
イェースズはしばらく黙って、そんな映像を見上げていた。見事な立体映像で、状況が手にとるように分かる。まるで芝居を見ているようだが、舞台は空中にあり、主人公は今目の前でのた打ち回っている男その人だ。
どうやらその男が一人の女をめぐって、同じ村の仲間を謀殺しているシーンが繰り広げられているらしい。巧妙な手口で相手を誘いだす男の声が、頭上からはっきりと聞こえてくる。口に出した声以外の、心の中で思っていたであろう想念まで副音声で聞こえてくるのだ。そこには何の装置もなく、ただの空中である。
――絶対に人に見られていないはずの行いも、こちらではすべてこのように記録されている。一瞬一瞬の想念やたくらみなども、本人が覚えている覚えていないに関係なく、すべてだ。
これはあまりに残酷だと、イェースズは思った。
――残酷だと思うかね。すべてがこのように明らかにされて本来の姿になった方が、ずっといい。それを、ごまかしで包み隠している方がずっと残酷だよ。
老人の声が響いてきてはじめて、思っただけが伝わってしまうことを忘れていたとイェースズは気づいた。
――ここは嘘のつけない世界だ。現界では人をだますだけでなく、自分自身にさえも嘘をついて生きている人が多いが、ここではそれすらもできない。この儀式は、ここへ来た誰もが必ず通過しなければならないことなのだ。
――しかし、何のために。
――その人を裁くためでも、賞罰を与えるためでもない。
確かに裁判官のような審判者はどこにもいない。
――その人の、魂としての本来の姿を正しておかないと、霊層界へは行かれない。これによって、霊層界で行くべき所が決まるのだ。
――つまり、天国か地獄かということですか?
――確かに霊層界には天国といえるような所や地獄ともいえる所があるが、そんな二つの内どちらかというよな単純な所ではない、霊層界は。
その時どうやら映像は終わったようで、男はゆっくりと立ち上がった。しかしその姿は先ほどまでの紅顔美麗な姿ではなく、見るも無残な醜男がそこにぼんやりと立っていた。
現界では想念がどうであろうと、外見でごまかすことができる。醜い心の持ち主でも、その美麗で人をだますことはできるがな、ここは想念の世界だから姿も想念通りになってしまうのだよ。最初は生前の姿や服装でいるが、あの儀式を通過するといやでも自分の本質を自分で知ることになるから姿も変わるのだ。
老人はそれだけ想念で語るとゆっくりと歩きだし、その場を後にした。イェースズはその老人と再び並んで林の中を歩きながら、自分が現界でしていた修行の大切さを実感した。多くの人はここに来てはじめてあのような目に遭う。しかし、現界にいる時から自分の一生を深く瞑想し、すべての行いを点検して詫びるべきは詫び、改めるべきことは改めて反省するという行をしてすでに心の垢を落としておけば、ここに来てあんなにのた打ち回る必要はないはずである。
――確かに、自分の本質を知るのは大切ですね。でも、ここでは現界のことは忘れなければならないのでしょう?
――わしの言った忘れるという意味は、執着をとるということだ。悪いことから逃げるため、それを忘れるというのとは意味が違う。そういう意味では、決して忘れることは許されない。逆に覚えていないことまで認識させられてしまう。ただ、現界での物欲に基づく執着心はここには持ってこられないのだよ。
――生涯かけて愛した人や、自分に注がれた慈しみや恩を思い続けるのも執着なのですか?
老人は笑った。
――こちらの世界の方が現界よりもずっと、真の愛と慈しみに包まれた世界なのだよ、もっとも、地獄は別としてだが。この世界のことも、現界に生まれた人は皆忘れてしまう。いいかい、ここよりも現界の方が、ずっと厳しくて残酷なのだ。だから現界は、魂の修行の場ともいえる。
――確かに。
――今いるこの精霊界はずっと現界に近い様相を呈しているが、本当の霊層界に行けばそこは完全に相応の世界だ。同じような魂の状態、想念の人、つまり同じ霊相の人々が集まって暮らしている。互いの交流はできない。いろいろな霊相の人が渾然と交じり合って生活しているのは、現界だけだ。そういう意味でも現界は厳しい世界だし、魂の修行の場なのだ。霊層界では、現界で家族であったもの同士でも、魂のレベルが違うと別々の世界へ行って二度と会えない。
その老人の言葉に、イェースズの中でひらめいたものがあった。
――あのう、私の亡くなった父も、今この世界のどこかにいるんですか?
――人によっては四、五年もここに留まらずに霊層界に行ってしまう人もいるが、たいていは二、三十年はいるから、おまえさんのお父さんもこの世界のどこかにいるだろう。
――では、探せば会えるんですか?
イェースズは興奮しはじめた。心臓が高鳴る。肉体はなくても、幽体としての心臓はきちんとあるようだ。だが、老人は首を横に振った。
――おまえさんの国の人々が集まって暮らしているあたりに行けば会えるかもしれないが、会ってはいけない。
――え? 何でですか?
――お父さんも、現界を忘れる修行をしているのだよ。
――あ、そうか。
そんなところに現界で息子であった自分がのこのこ現れたら、執着を断つための修行の妨げになる。
――いいかね。亡くなってこちらに来た人に対しては、残された人はなるべく早く忘れてあげる、それが本当の供養だ。現界の感覚では冷たいかもしれないがな。年に一度くらい亡くなった日にみんなで偲ぶくらいならよいが、現界にいる人がこっちに来た人への執着をたたずに、いつまでも嘆き悲しんでいるとその波動がこの世界にまで伝わってきてしまうのだそれで修行の足が引っ張られて、みんな迷惑する。それに、東の国では子孫が先祖を供養するが、おまえさんがた西の国では供養はしなくてもよい。東の国は火で象徴されるタテの霊界、西の国は水で現されるヨコの霊界なのだ。
なるほどとイェースズは納得し、やがて二人は円盤の所に戻ってきた。二人が円盤に乗ると、円盤は上昇し、すぐに光のドームの中にすごいスピードで吸い込まれて行った。
気がつくと、別世界にいた。
先ほどよりも狭い感じがする。スケールの小さい山が間近に取り囲んでいる。
円盤が下降すると、村があった。イェースズにとって見慣れた、いつもの竪穴式の家だ。人々は皮衣を着ており、老人もいれば子どももいる。新しく来た人たちなのかなとイェースズが思っていると、
――ここは現界だよ。
と、老人は言った。イェースズがもう一度村を見渡してみると、確かに現界でイェースズが暮らしていた国の村だ。だが皆気ぜわしく動き回り、狩りにも行かずに、村は人で溢れていた。
イェースズと老人を乗せた円盤は地表すれすれまで下降して、停止した。それでも村の人々は誰一人として老人やイェースズを見もせず、二人は完全に無視された状態となった。
「何かあったんですか?」
と、イェースズはすぐそばを通り過ぎようとした村人の中年女性に、肉声で尋ねてみた。それでも女性は振り向きさえもしなかった。イェースズの隣では、また老人が笑っていた。
――いくら現界に戻ったといっても、おまえさんはまだ肉体には戻っていないのだよ。だから今はまだ霊体と幽体だけなんだ。彼等から見えるはずはない。
確かにそうだと思っているうちに、老人が円盤から降りた。イェースズもそれについて地上に降りたが、足が地面に着かず、ふわふわと浮いた状態だった。そして移動しようとすれば、空中をふわりと飛ぶこともできる。
――この村の村人が今朝方猪に突かれて、今死にそうになっているのだよ。
確かに村人たちからは、そのような想念が伝わってくる。
ところがイェースズがしばらく飛んでいるうちに、あちこちに同じようにふわふわ飛んでいる人たちがいることに気がついた。彼等はイェースズが見えるらしく少し意識して、それでいてわざと無関心を装って飛んでいく。
――あの連中は、死んでも向こうに行けない魂だ。
イェースズの疑問を読み取って、老人がそう答えてくれた。
――現界への執着がとれずにいたり、あるいはまだ自分が死んだことが分からない困った人たちだよ。生きていた時に、死んだらそれですべてが終わりだと思っていて、霊の世界のことなど信じなかった人たちだな。死んだら墓に入るだけだと思っていた人たちは、死んでも生きているからそれが不思議で、死んだということがサトれない。それがサトれない限り、その霊はこうしてふわふわと現界を飛んでいなければならない。でも、現界に生きている人からはその姿は見えないのだから、彼等は安らぎは得られないだろう。
それから少し行って、老人は一軒の家を指さした。
――あの家だ。死にかけている人がいるのだ。
その家まで飛んで行き、そのままわらの屋根を素通りして二人は中に入った。多くの人が、中央のいろりの脇の土間に敷かれた筵の上に横たわる男を囲んでいる。もちろん彼等にはイェースズたちが見えないから、勝手に入っていったところでとがめるものはいない。
誰もが心配そうな表情で男を揺さぶり、大声でしっかりしろと励ましているものもいる。男は血まみれで、苦しそうな表情でのた打ち回り、見るも無残な姿だった。周りの人々は、ただ手をこまねいているだけだった。
その時、男を囲む人の背後に、落ち着いた穏やかな表情の人がいるのをイェースズは見た。ほかの人の皮衣とは違って純白の服を着たその若い男は実に輝くような容姿だったが、一人だけ澄ましているのは奇妙な違和感があった。しかも驚くべきことに、その人はイェースズや老人の姿を見て軽く会釈してきたのだ。霊・幽体となっている自分が見えるということは、その人も現界の人ではないということになる。
そのうち、血まみれの男はこと切れた。周りのものはわっと泣き崩れて、男にすがりつく。男の妻と思しき女はほとんど狂乱となって髪を振り乱し、男の肩をゆすっている。男の顔は苦痛にゆがんだままもはや動かなくなっており、硬く閉ざされた瞳は開きようがなかった。
その時、白い衣の若者は、今息を引き取った男の耳元で何かをささやいていた。本来なら聞こえようもないほどの小声だが、不思議とイェースズの心にははっきりと聞こえてきた。肉体の中にいた時よりも、今は数倍も聴覚も視覚が研ぎ澄まされている。
白い衣の人は、この男の名前を呼び続けていた。男の体は硬直したままで、顔も蒼白になっていった。しばらくはそのままだったが、やがて死んだはずの男の体から心臓の鼓動が聞こえはじめた。イェースズは、男が生き返ったと思った。白い衣の若者は、男を死から救いに来た霊人だったのだと納得していた。しかし次の瞬間、
――違うぞ。
という老人の声が、心に響いた。
――あの男の肉体意識は、今消えようとしている。
――でも、心臓の音が……
――肉体の心臓が止まったのと同時に、霊・幽体の心臓が鼓動を開始したのだ。ようやく、霊として誕生した訳だ。現界では死でも、幽界では誕生なのだよ。
――あの白い衣の人は?
――あの男の守護霊だ。
守護霊といえば、故国のエッセネの教えでは守護の天使という名で伝えられている。それが単なる観念上の教義ではなく、実在のものだということはすでに彼は知っていた。かつて、自分の守護霊であるゴータマ・ブッダと、すでに彼は邂逅している。気がつけば、ここにいるすべての人の左肩の上あたりに、一人に一人ずつ白い衣の守護霊が付き添い、イェースズが意識を向けた途端に見え出したその守護霊たちは、一斉にイェースズに向かって微笑んで会釈した。現界人と守護霊は銀の糸で結ばれ、さらに糸は先に延びてどこかへ消えている。自分にもゴータマ・ブッダが寄り添っているはずだと振り返って見たが、そこには何も見えなかった。そんな意識を、老人は読んでいた。
――あのお方はおまえさんが肉体から離れている間は任務外で、ほかの用事をされている。何しろ本来は高次元神霊界におわしますべきお忙しい方だから。
この老人は、自分の守護霊がブッダであるということさえ知っているということは、よほど特別な人らしいとイェースズは感じた。
――あの銀の糸は?
本人と守護霊を結ぶ霊波線だ。その霊波線はさらに背後霊団とつながっている。守護霊は現界にいる人に四六時中付き添って直接守護する訳だが、霊界の奥深い所にいて、守護霊をさらに指導する方々が背後霊団だ。守護霊はたいてい本人の二、三代前の先祖で、本人より少しばかり霊格が高い霊で、背後霊団もたいていは先祖だ。普通は守護例の法が例格が高いが、本人が現界で修行して霊相浄化して霊層昇華すると守護霊の交代が行われて、もっと霊格の高い守護霊に代わる。そうなると守護力も増すから、その人は運命が急に開けたりするのだよ。もちろん霊相が下がると、その反対もある。
老人とそんなやり取りをしているうちに、目の前の現界ではもう葬式の準備が始まっていた。死んだ男の守護霊は死んだ男に向かって、彼が死んだことやこれから霊・幽体のみで幽界へ行かねばならないことなどを切々と説いている。硬直して動かない男と重なって、いまだに苦しみ二もがいている男の姿が見える。やがて苦しんでいる方の男の姿は頭の方へとずれていき、そのまま頭の先からずれ出てきた。そして腰あたりまで頭の先から出た時に、もう一人の死んだ男は上半身を起こした。そして蝉や蛾が己の殻から抜け出るごとくに、死んだ男の幽体は、肉体から離脱した。そして、自分の遺体の上空あたりに浮かんで、依然として苦痛にもがき苦しんでいた。
「この人も、これで苦しみから解放されたね」
何も知らない現界人が、身動きもしない遺体に向かってそうささやいている。しかし当の本人は、解放などされてはいない。
――肉体があるうちは肉体が痛みをある程度隠すが、霊・幽体になると霊体や幽体の痛みをもろに感じるわけだから痛みは数十倍になるし、下手したら数百年もそのままだ。このままでは、彼は幽界へは行けまい。よしんば行けたにせよ、死に際のあの苦悶深刻な表情では地獄行きだ。
老人の声を聞き、イェースズは黙って見ている訳にはいかないと思った。ところが、まだ生きている人の傷を例のパワーで癒したことならあるが、目の前で苦しんでいる人はもうすでに死んでいるのである。イェースズがためらっていると、
――ためらう必要はない。
と、老人は言った。
――苦しんでいる彼と遺体は、まだ霊波線がつながっている。まる一日たつと、あれも切れてしまう。
それを聞いてひらめいたイェースズは、遺体の傷口に手を当てた。そしてすべての宇宙のエネルギーをとらえ、手のひらから放出した。すると自分の体じゅうにすごい熱を感じ、自分の手が発する光で自分がまぶしくなったほどだった。そのエネルギーは男の遺体から銀の霊波線を通って、空中で苦しんでいる男の幽体に達し、すぐに苦しんでいた男は何事もなかったようにきょとんとした。
――すごい霊流でしたねえ。
と、男の守護霊が語りかけてきた。イェースズもまた、驚いていた。肉体の中にいる時は同じパワーを使っても、こんなに強烈にエネルギーは流れない。ましてやそのエネルギーが、肉眼に見えることは絶対にない。
男の遺体を囲んでいる人々の間からも、ざわめきが上がった。
「さっきまであんな苦しそうな顔だったのに、いつの間にかこんな穏やかな表情になっている」
「本当だ。信じられない。まるで眠っているみたいだ。今にも目を開きそうではないか」
「血色もよくなってきたわ」
人々はそう言いあいながら、遺体の顔をのぞいている。
「これでやつも、黄泉の国で永遠の眠りにつけるって訳だ。安らかに眠ってくれ」
しかし本人は、眠っている場合ではない。自分の遺体を取り囲んでいる一人一人に、必死に話しかけていた。
「おい、どうしたんだ。俺はここにいるぜ」
しかし、誰にもその姿は見えないのだから、それに答える人はいない。
「どうしたんだよ。何でみんなして俺を無視するんだ」
そんな男の方を守護霊が軽く叩き、すでに死んだということの説得が再び始まった。そして自分の遺体を見せられ、何が何だか訳が分からなくなって、男はパニックに陥っていた。しかし死んだといっても手も足もあって息もしているし、感覚は肉体の感覚よりも遥かに鋭敏になっている訳だからなかなか死んだことがサトれないのも無理はないと、イェースズはそう思って見ていた。
守護霊は、ひとまず引き上げていった。
――一応、四十九日間の猶予が与えられるのだよ。四十九日間はこのまま、霊として現界に留まることが許される。その間に自分が死んだということをサトれば幽界に行けるし、サトれずに執着が強ければそのまま浮遊霊になってしまう。たいていはどんなに霊界に無知であった人でも、死んで四十九日もたてば何かおかしいと感じ、やがて死んだということをサトる。だが、突発事故で即死した場合はなかなか難しい。場合によっては幽界に行かれないどころが、現界の死んだ場所からずっと身動きがとれなくなるときもある。自殺などした場合は、必ずだ。現界の時間で二百年から三百年くらいは、その場から動けない。
そう老人がイェースズに説明しているうちに、葬式が始まった。男は村はずれの貝の捨て場所の近くに運ばれ、すでに掘られていた穴に甕に入れられて埋められようとしていた。甕の中には、足を頭の上になるくらい、体全体を折り曲げられて入れられた。その間も、埋葬される男の霊は、自分を埋めるなと叫び続けていた。
老人とイェースズは、その場をあとにした。
――幽体と霊体は肉体と同形で、肉体が物質でできているのに対して幽体は精神世界、つまり心の体、霊体はさらに極微の霊質でできている。死ねば肉体を脱ぎ捨て、幽界では霊体と幽体のみで生活する。やがて昇華すると、幽体をも脱ぎ捨てて霊体のみで生活できるようにもなるが、そうなるとそれは高次元の神霊界の住人ということになる。
老人の説明を心で聞きながらしばらく行くと、老人は前方の林の中を指さした。
――あそこに、いよいよ守護霊に導かれて精霊界に旅立とうとしている人がおるな。
ところが老人が指さす方を見ても、イェースズに鼻にも見えなかった。ただ林の中の道が、現界の荒々しい波動の世界の中に見えるだけだった。老人は笑った。
――君が見ているのは、現界の風景だ。意識のレベルを、霊界にまで高めてごらん。
そう言われても、どうしたらいいのかイェースズには分からなかった。
――肉の目で見ようと思うな。肉の目は閉じて霊の目を開け。強く念じるのだ。
言われた通りにしてみると、確かにすぐ前方を二人の人が歩いているのが見えた。歩いているといっても、現界の道よりはほんの少し上空をすべるように飛んでいる。白い衣の守護霊に付き添われた年配の女性だった。
そして二人の人影が現れたのと同時に周りの景色が一変したので、イェースズは驚いた。それもパッと変わったのではなく、現れた別の風景は現界の風景と重なっていた。その別の風景にも山があり、林があり、野には川も流れていた。
――今、見えてきたのは霊界の風景だよ。現界の風景と重なっているだろう。もっと念を強くしてみなさい。
イェースズが老人に言われた通りにすると、徐々に霊界の風景が強くなって、現界の風景はその中に解けてやがて見えなくなった。ところが次の瞬間、イェースズの目の前は再び元の現界の風景だけとなった。精霊界に旅立とうとしている人の姿も、もうどこにも見えなかった。
――いいかい。ここに現界があって、霊界とはどこか別の場所にあるのではない。霊界と現界は表裏一体、ぼけて入り組んでいるんだ。いわば一枚の金貨の裏と表のようだな。
――金貨?
この国には無縁のものと思われるような言葉をイェースズは久しぶりに聞き、その言葉の響きが懐かしかった。そしてさらにその老人の言葉は、イェースズにアーンドラ国のブッダ・サンガーで聞いたスートラを思い出させた。――ヤドゥ ルーパン サー スーニャター、ヤー スーニャター タトゥ ルーパン……その一節は本当だった。空とは霊の世界で霊そのものであり、色が現界の物質のことだというのが、今はいやというほど理解できる。そしてこの霊の元つ国の言葉を知ってこそ理解できることもあって、スーニャター―――空は空であるがゆえに何もない、すなわち0=零であって、それが「零」に通じるのである。それは、霊体を構成する極微の世界のことで、それらの構成物質を人類が探求し得るのはこの頃から見てまだ二千年以上の歳月が必要とされるのだった。そしてさらに、スートラはスーニャターとルーパンが別のものではなく、「色は即ち是れ空、空は即ち是れ色」と説くのである。何の難しい哲学も理論もそこにはなく、ただ霊界の実相をありのままに述べたにすぎないのがあのスートラだったのだ。
――だいぶサトッてきたようだな。ただ、一つ、忠告しておこう。
老人の顔は微笑んでいたが、目は厳しかった。
――今おまえさんを霊界探訪に案内しているが、だからといって必要以上のへんな興味を霊界に対して持たないように。
――え? どういうことでしょうか?
――要は、霊界が厳として実在し、現界に影響を与えているということを知ればいい。それを好奇心を持って興味本位に根掘り葉掘り調べようとすると、道を誤る。神に向かうべき信仰が、変な霊媒信仰になってしまうと、たいへん危険なことだ。
――はい。心得ました。
イェースズが明るく返事をすると、老人は円盤の所まで戻り、イェースズに再び円盤に乗るよう促した。
円盤は急上昇した。そして再び精霊界に戻った。
――では、いよいよ本当の幽界、つまり霊層界に行くぞ。
――それは、どこにあるんです?
――あの山の向こうだ。
老人が指さした山は、現界の距離を表すどんな単位でも測れそうもないくらい遥か遠くにある。それでも、天に向かって巨大にそびえ立っている山だ。あんな遠くまでは、どんなに円盤がスピードを出してもかなりの時間が必要だろうと思われた。
しかし、次の瞬間には、円盤はもう山のふもとまで着いていた。老人とイェースズは、円盤から降りた。
――この先はもう、円盤はいらない。
と、老人は心の声で言った。あたりは針葉樹林で、シンと静まりかえっている。ところがイェースズがふと目を上げると、山がすごい勢いでこちらに向かってくる。イェースズは絶叫した。押しつぶされると思ったのだ。雪の住処の数十倍はあろうとも思われる山が、自分目がけて迫ってくる。だが次の瞬間、山の頂からふもとにかけてさっと真っ直ぐに縦の割れ目が生じ、それが次第に開いていった。まるで巨大な神殿の大扉が、ゆっくりと開くようだった。そしてイェースズは山が割れて開いた大扉の奥へと、吸い込まれるように飛行していった。
そして山の向こうは、石ころだらけの川原だった。目の前には大河が横たわっている。ガンガーやシムの国の黄色い河も果てしなく広かったが、この大河はその比ではない。対岸は全く見えずまるで一面の海のようだが、それでも川であるという意識が鋭敏に彼の中であった。
いつの間にか老人はいなくなり、イェースズは一人だった。そこでとぼとぼとイェースズは、川原を歩いた。気がつくと、薄茶色の衣を着た白い髪の老婆が突然現れ、うずくまってこちらを見ていた。
――あんた、まだ本当に死んじゃいないね。
イェースズはいきなりその老婆に、想念で呼びとめられた。
――わしが誰かって? わしはここを通るものから、一切の執着をはぎ取るという修行をしておる。現界への執着を完全に取り払らわねえと、この川は渡れねえ。それでも渡ろうとしたら、執着の重みで沈んでしまう。霊界へは、現界で得た地位も名誉も財宝も、一切持って行くことはできねえ。
――沈んでしまったらどうなるんですか? 一度死んでいるんだから、もう死なないでしょう?
――地獄まで流れていくさ。まあ、無事に渡っても、自分の足で選んで地獄へ行くものも多いがね。あ、そうそう、思いだした。
老婆の口調が、急に変わった。
――あんた、これから地獄へ行きなさるんだよのう。
――え? 私が地獄に?
――あんた、聞いとらんのかい?
――はい。
――そうかい。地獄を見物に行くものがもうすぐここを通ると聞いたが、あんたのことだろう。気をつけなされ。地獄は恐いところだ。あんたのように見にきただけの人にとってはなおさらだ。地獄に落ちるものは自分で選んで地獄へ行くからいいが、あんたは違う。
イェースズは大河に目を向けた。この向こうに地獄があるんだろうかと思って再び振り向くと、もう老婆はいなかった。それと同時に空には黒くもがたれこめ、あたりは薄暗くなった。川原には石が無気味に積み重ねられた石の小塔が、いくつも林立していた。
イェースズはまた何かに引っ張られるように足を進め、ついに川岸の水打ち際まで達した。そしてそのままさらに足は進み、気がつくと彼は水面の上を歩いていた。さらに二、三歩水の上を歩くと再び体が宙に浮き、猛スピードで水面の上を飛行していった。
気がつくとイェースズは、真っ赤な世界にいた。果てしなく広がる砂漠のような大地、そして空、遠くの山波も、すべてが赤一色だった。この荒涼たる風景に、イェースズは身が縮む思いがした。そんな風景に中にたった一人突っ立って、身動きもできないのだ。
その時、隣にいつの間にか例の老人が立っていた。
――霊界の中でも幽体で生活する所が幽界で、そこはいくつもの階層に分かれているから霊層界ともいう。まずはその最下層の世界から見てもらう。
――つまり、地獄ですね。
――そう。現界ではそう呼ばれている世界だ。あそこの岩影にも、地獄への入り口がある。
そう言われて老人の指さす方を見たが、イェースズには果てしなく続く赤い荒野が見えるだけだった。
――もっと霊的な力を上げて、強く念じるんだ。
言う通りにすると遠くに山が現れ、ふもとにどす黒く丸くなっている所が見えた。かなり遠くだが、鋭敏となった視覚ではよく見える。
――行くぞ。
かなり遠くであったにもかかわらず、老人とともにイェースズは三歩ほど歩いただけでもう山のふもとにいた。そこには黒煙が立ち込め、悪臭を放つ大きな穴があり、老人がそこに入っていくので仕方なくイェースズも従った。
どこまでも続く長くて暗い洞窟だった。その中の道は、どんどんと下降していく。そのうちかなり広い所に出たが、視界はよくきかない。かなりの広さがあるようだったが、視界を遮っているのはどす黒い霧で、さらに鼻をつく悪臭にイェースズは耐えているのがやっとだった。とにかく、薄暗い世界なのだ。
やがて闇の中に、多くの人がうごめいているのがイェースズにも分かった。ところがイェースズたちがそばに来ると人々は悲鳴をあげ、一目散に逃げ失せてしまう。
――彼らには、我われが光のかたまりにしか見えないのだ。この霊流は、彼らにはとてつもない苦痛なのだよ。
そう言われて自分のからだを見てみても、そこには普通の体があるだけだ。
しばらく行くと、ここにも林があった。そこまで長い時間がかかったのかほんの一瞬だったのか、とにかく精霊界も含めてここに来てから時間の感覚がなくなっていることにもイェースズは気づいた。
空にも一面にどす黒い雲が立ち込めているが、その一角だけほんの微かにぼんやりと明るかった。林の中にはたくさんの人影がいて、林を埋め尽くすような数でうろうろとさまよっている。イェースズは息をのんだ。あてもなくさまよっている人々は生気というものがまるでなく、その姿にイェースズは背筋が寒くなった。あるものは顔が半分つぶれ、全身血みどろの人もいる。ほとんど髑髏状の人もいて、まさしくそれは亡霊の姿だった。そのうち、林の一角で叫び声が上がった。頭のはげた男が近くにいた男につかみかかり、思いきり殴っている。さらにはそばにあった石で、その男の頭蓋骨を砕いた。イェースズは口を開けて、呆然とそれを見ていた。周りのものは止めるどころか、たちまち加勢している。
――やめろ!
ついに黙って見ていられなくなって、イェースズは叫んでその方へ走っていった。やはり人々は、クモの子を散らすように駆けて逃げていった。
――こういう世界なのだよ。ここの人々は他人に苦痛を与え、他人を支配することを喜びとしている。
イェースズはいたたまれない気持ちになった。なぜこのような世界があるのかと、イェースズはもう逃げだしたくなった。さらに地下におりる階段があり、老人とともにそれを下ると遥か遠くまで見渡せる高台の上に出た。見渡せるといっても大地は限りなく暗い。現界の夜の暗さとは、また違う意味の暗さだ。その一角に、町があった。かなり遠いが、そこだけ薄ぼんやりと明るい。
――目を閉じて、霊の目を開け。
老人に言われて意識を上げると、遠くの町なのにその様相がよく見えた。見ようという想念で、対象物の方がこちらにぐっと近づいて来るようだ。町の細部まで手に取るように分かる。家は皆あばら家で、その間を無数の人々がうごめいている。灰色系統一色に塗りつぶされた町は、見ているだけで悪寒が走る。故国に地の民の町もアーンドラ国のスードラの町も、ここに比べれば天国だ。
――あの人たちも、現界にいるときはまともな姿だったのだ。
前にも老人から聞いたように、ここでは想念通りの姿になってしまうということだ。道徳も法律も律法もない世界だから、悪の想念を秘めたものはその悪が表に引きずり出されてあからさまになる。
そしてよく耳を澄ますと、町のあちこちで互いにののしりあう声も聞こえた。争っている人々はどちら身自分のことばかり主張し、思う存分言いたいことをぶちまけた後は必ず暴力沙汰になる。それも石で頭を砕いたり、首を引きちぎったりしている。首をちぎられても彼らはすでに死んでいるのだから死ぬこともできず、首のないままうろうろしている人もいる。イェースズは、深くため息をついた。町の至る所で怒号と罵声が上がり、家と家の間の道も糞土と流血で覆われていた。
イェースズは、老人を見た。
――すべての被造物を慈しみなさる神様が、いくら罪びとを懲らしめるためとはいえ、こんな世界をお創りになったのですか。
――それは違う。この世界は神様がお創りになったのではない。最初はなかったのだ。神様が現界をお創りになったあと、現界は物質の世界だから物質の肉体はいつかは滅びるため、人は死ぬようになった。そこで霊界の中に、死んだ人の魂が次に転生するまで修行する幽界という場が必要になった。だから現界よりもあとに幽界が創られたんだ。そこには、はじめは地獄などなかった。現界すら神界そのものの天国であったし、人々も神々と自由に交信ができた。それが段々と人々が神から離脱し、堕落の道を歩みはじめたので、そういった人々の悪想念が地獄という世界を造り上げてしまったんだ。だからここにいる人々も決して神の罰で来た訳ではないし、地獄は裁きの場ではない。
――地獄に落ちる人は、罰せられて落ちるのではないのですか?
――いや、違う。すべての人は神が愛する神の子だから、神はそう簡単に裁いたり罰したりはしない。ここにいる人たちは皆自分の意志で、自分で選んでここに来ているんだ。
誰がこんな醜悪な世界を自ら好んで選んだりするのだろうかと、イェースズは信じられないと首を横に振った。
――ここを選ぶはずもない人から考えれば信じられないことかもしれないが、ここを選ぶ人は外面的な喜びばかりを追及して霊的な真の幸せを感じようともせずに現界で暮らしていた人々で、自分さえよければどうでもいいという自己本位のものたちだ。肉体的、物質的な快楽の身を求め、憎悪、嫉妬、不平不満、怒りの想念のものたちで、そういった想念が内に秘められているだけで精霊界ではそれらが暴き出され、あらわになって、それ相応の姿になってここを選ぶのだ。神界・幽界・現界を貫く厳とした置き手に「相応の理」というのがある。同じような想念のものが、類は類を呼んで一つの世界を造る。そして想念通りの世界ができあがる。ここは、何から何まで想念の世界だからだ。
イェースズは、無言で聞いていた。
――だから悪の想念を持つもの同士が寄り集まって、そういう想念で造られた世界が地獄なのだよ。ここにいる人々は、ここにしか住めないのだ。仮に天国につれて行くと苦しい苦しいと言って、あたふたと逃げ出してここへ帰ってくるだろう。現界でも、こうもりはじめじめとした洞窟を好む。そんな所に普通住みたいとは思わないような所が、彼等にとってはいちばん居心地のいい住み家なのだ。そのこうもりをみんなが憩う春の暖かいお花畑のような明るい所に連れ出したら、大慌てで洞窟へと逃げていってしまう。それと同じだよ。ここにいる人々にとっては、地獄こそがその想念にふさわしい、いちばん居心地のいい所なんだ。いろんな想念の人が交じり合って生活している現界でさえ、例えば盗賊にとってはみんなが恐がる盗賊仲間のところがいちばん居心地がいいし、その一人を善良な市民の輪に入れたら場違いを感じて逃げ出してしまうはずだ。いいかい、あれをご覧。
老人が指さしたのは、空の一角の薄ぼんやりと明るい所だった。
――あれは太陽だ。太陽とはいっても霊界の太陽ではなく、現界の太陽だ。ここにいる人々は皆光を嫌うから、その想念があんな黒くて厚い雲を造り出して光を隠しているんだ。
それから、老人は歩きだした。イェースズも後を追った。そしてまた、道が下降する洞窟へと入った。今度は、下の方がやけに明るい。しかしそれは、温かさを感じるような光ではなく、無気味な炎の明るさだった。やがて、ものすごい熱も伝わってきた。そして洞窟を出た時、イェースズは声をあげた。一面の炎の海だった。ひと山ほどもありそうな炎の柱があちこちで上がり、それが延々と果てしない広さで広がっている。イェースズはもう、それよりも先には進めなかった。そしてその業火の中で、おびただしい数の人が焼かれていた。
――この炎は、物質の炎ではない。
と、老人はイェースズに優しく言った。
ここで焼かれている人たちの嫉妬や憎しみ、怨み、怒りの想念が現象化して炎となって、自分自身を焼いているんだ。皆他人の幸福のことなどかけらも考えずに、憎悪の心を持ち続けてきた人々なのだ。
――助けてあげた。どうしたらこの人々を救えるのですか。
イェースズの言葉は、叫びに近かった。
――あの人たちとて皆神の子だから、神も救いたくてうずうずしている。しかしそれを頑なに拒んでいるのは、あの人たち自身なのだ。だから救われるには、自分でサトるしかない。自分の意志でサトれば救われるが、そうでない限り誰も救えない。なぜ自分がこんな世界を選んだのか、まずそれに気づいて徹底的に反省し、こりごりさせられてサトッたものは、すっと上に上がれる仕組みになっている。
イェースズはまた、ため息をついた。
次の瞬間、イェースズはさらに自分がどんどん下降しているのに気がついた。投げ出されたのは殺伐とした暗い荒野で、今までとは逆にひどく寒かった。
前方にうごめくものがいた。イェースズが近づこうとすると、老人の声が心で響いた。
――これ以上近づくと、毒にやられるぞ。
しかし、左右のどちらを見ても、例の老人はいなかった。
ここでも、あちこちで喧嘩や殺戮が行われているようだった。互いに口汚くののしりあい、暴力に及ぶ。中には自分は神であるから従えと、高らかに吠え立てているものもいた。それに対して自分こそが神だという人が詰め寄って、そこでまた殺戮になる。ところが、ここでは殺されても死なない。だから苦しみは終わらないのだ。
イェースズは恐ろしくなって、立ちすくんでしまった。今まで以上に凶暴な人々なのだ。
――あの人たちはだなあ
また、老人の声だけが響く。
――大洪水の前に、現界に生きていた人々だ。
――大洪水って、ノアの時の?
――それもある。しかし大洪水のような天変地異は、一度ではなかった。大きいのだけでも過去に六回あった。その天変地異の直前の人たちの世界だよ、ここは。
――つまり、天変地異のような神裁きを引き起こした原因となったような想念の持ち主たちが、今ここにいるんですね。
――そういうことだ。かつては神界とも直接交流でき、地上も天国であった時代があったが、その後で人々はどんどん堕落していった。
――原罪、つまりエデンの園からの人類追放ですね。
――天国は生命の木と智識の木の均衡の上に創造された。それは火と水であり、霊と体であり、陽と陰の結合ということだ。それが神結びであり火水産霊なのだ。しかし人々は神に反逆し、神の法に逆らった想念を持つに至った。
――知識の木の実を食べたということですね。
――その意味が、分かるかな? 知識の木の実を食べたらタテの火の働きを失い、人間の文明はヨコの文明になってしまったのだよ。火と水の均衡が崩れた訳だ。そこで、物欲、肉体的感覚という外面的なものの比重が多くなって、そこから堕落が始まったんだ。
――人間の方から、神に背いたということですよね。
――そのへんになると、神の世界の方にももっと深い事情があるのだが、それは天界の秘め事であり、まだはっきりと告げる訳にはいかん。
イェースズの目の前に広がる暗黒の世界の中でうごめく人たちは、巨大な影のように実体はよく見えない。
――そこにいるそれらは、現界にいたときは皆英雄だった。しかし、物質的な力で英雄の座を勝ち得たもので、生きているうちから人々によって神と崇められ、ここへ来てからもその感覚を持ち続けているのだ。
そして、姿の見えない老人は、その後のイェースズの想念まで読み取って言った。
――ネピリムだよ。
やはり、とイェースズは思った。神の子たちが人の娘たちの所に入って、娘たちに生ませた存在。昔の勇士であり、有名な人々と聖書には書いてある。つまり、物質的欲望を満足させた結果生まれた存在で、ネピリムとは堕落した人々、物質欲のみに生きてきた人々なのだとイェースズははじめて知った。
――よく分かったな。
――でも、彼等とて、本来は神の子でしょう?
――確かにそうだが、だがあれらは自分の手で魂を汚し、落ちるところまで落ちたのだ。つまり、自分で自分を裁いているのであり、決して裁きではない。地獄といえども幽界の一部であって、そこに存在が許されているだけでも神の愛の残り火だ。神の本当の裁きは、もっとほかの所にある。そしてあれらの毒は全霊界に影響を及ぼし、さらには現界にも達している。霊界と現界は写し鏡だから、彼等の毒は現界で物質化しているのだ。
イェースズはすぐにローマ帝国やその他の国の暴君のことを思いだした。
――その通り。みんなあれらの影響だ
と、老人の想念は言った。
――しかしそのようなものは、間接的なものだ。霊界現象の現界への影響にはもっと直接的で、しかもたちの悪いものもある。
老人の言葉がそこまで来た時、イェースズは我慢の現界を越えた悪臭に包まれ、頭がクラッとし、嘔吐感さえこみ上げ、その場にしゃがみこんでしまった。見ると、周りをいくつもの光る目で取り囲まれていた。イェースズは逃げようと思ったが、あまりの恐怖に足が地について動かない。多くの目玉は、じわじわと近寄ってくる。その眼光は闘争心と憎悪に満ちており、つかまったら八つ裂きにされるのは目に見えていた。
その時イェースズの脳裏に浮かんだのは、いつも病人などを癒していたあのパワーだった。そのパワーを病人を癒すためではなく、目の前に迫りつつある魑魅魍魎に放射しようと彼は思ったのだ。しかし、直接手を当てるには距離がありすぎるし、そうでなくてもさすがにためらわれた。仕方がなくイェースズは、迫ってくる目玉の一つに向かって手のひらを向けた。ここは空間の概念がないのだから、もしかしたら直接手を当ててなくても空間を超越してパワーは届くのではないかと思ったのである。
イェースズは意識を高めて高次元エネルギーを凝集し、その宇宙のパワーを生体エネルギーとして、手を通して放射した。とたんに自分の手のひらからものすごい閃光が発せられるのをイェースズは見たので、自分でも驚いてしまった。閃光は光の束となって、相手へと飛んでいく。その瞬間それがあたりの闇を照らし、目玉の正体も見えた。口が耳まで裂け、目がつりあがった形相の、地上のどこにも生息していないような無気味な化け物の姿がそこにあった。長くて太いしっぽまである。
しかし、そんな異形の怪物の姿をじっと見ている暇はなかった。それらはイェースズの手の光が当たると一斉にもがき苦しみ始め、そして一目散に逃げていってしまった。それらを苦しめるためにそうした訳ではなく、何とか救わせて頂きたいというのがイェースズの本心だったが、それらにとってはイェースズの光はまばゆく熱く、この上なく苦しいものであったようだ。それよりも今見た光景に、本来の神の子がこのような醜いという言葉では表現できないような程の異形になってしまっていることに、イェースズはやるせなさを感じていた。
ところが次の瞬間、イェースズの体自体が黄金の光に包まれた。そして見るみる上昇感を味わい、光のドームの中を実際に上昇していた。
気がつくと彼は、最初に来た赤茶けた一面の広大な砂漠の中に再び立っていた。しかし、どんなに荒涼とした真っ赤な砂漠であっても、今の彼にはほっとして深いため息をつけるような感覚だった。地獄からは脱出できたのである。
――イェースズ。
と、彼は不意に自分の名を呼ばれて振りかえっすると例の老人が、いつの間にか再び隣に立っていた。
――霊の意識のレベルを高めるんだ。
前にも言われたことがあったので、同じようにしてみた。すると不思議なことに、一面の砂漠だったはずなのに、遠くに巨大な山脈が見えはじめた。そしてその山と山の間、ちょうど胸の高さあたりから日がさしはじめた。朝なんだなとぼんやり思っていたイェースズだったが、太陽は昇るでもなく、同じ位置でどんどん光を増してきていた。そこでイェースズは、もう一度あたりの風景を見ようとした。そしてさらに驚いたことに、太陽は自分が顔を向けた方角の真っ正面に常にある。いろんな方角を向いてみたが、どの方角を見ても太陽は胸の高さあたりの真っ正面にあるのだった。
――あれが霊界太陽だ。見るものの霊の意識のレベルによって、光が違ってくる。あの太陽は光と熱だけではなく、霊流という神のみ光を注いでくれるのだ。この霊流がないと、この世界で人々は霊として生きていけなくなる。
イェースズはよく分からないので、小首を傾げていた。
――霊層界の最下層を見てきたが、これからは軽労働界からもう少し上の温暖遊化界まで探訪だ。あの山の向こうに行こう。
老人が指さしたのは、現界の距離感覚では歩いて何十日もかかりそうなほどの果てしもない遠くにそびえる高い山だった。だがいつものことで二、三歩歩いただけで山のふもとに到着し、さらには山をも突き抜けて向こう側へとイェースズと老人は瞬時に移動していた。
そこはちょっとした高台で、見渡す限りの大地に、一面に村が広がっていた。面白いことに、どの村もそれぞれ家はすべて同じ形で、幾重もの同心円を描いて村の中の家は並んでいた。だが、一つの村の中の家はすべて同じ形だが、村と村では同じ形の家はなかった。多くの村が点在する広大な盆地の向こうは先が尖った山の壁で、まるで全体が氷でできているかのように山肌は透明に光っていた。不思議なことに、地上ならそのあたりが視界の限界になり、山がなくても地平線で終わるが、ここでは山のさらに向こうに大地が広がって、それがまるで空に向かってと湾曲しているかのように地上では考えられないくらい遠くまで遥かに見渡せる。そしてその向こうは地平線になって終わるのではなく、空へと溶け込んでいた。ここでも、顔を向けた方の胸の高さに、いつでも太陽は輝いていた。
老人に促されて歩きだしたイェースズは、やはり二、三歩で高台の遥か下に見えていた村の一つにたどり着いた。周りは森になっている。ところがその村の中で、イェースズは悲鳴を聞いた。そばによってみると、若い男が自分の首をしめている。
「おやめなさい」
イェースズは叫んでその男のそばに駆け寄り、首をしめている腕をつかんで離そうとした。だが、すごい力だった。
「いったい何をしているんです。死んでしまうではないですか」
そこまで言ってイェースズは、この若者が一度死んでこの世界に来たのだからもう死ぬ訳はないということにはっと気づいたが、しかし死なないだけに苦しみは延々と続くだろう。それでも何とか若者の腕を押さえ込んだイェースズに、若者は息を切らしながら言った。
「おお、光り輝くお方。自分でも何でこんなことをしてしまうか、分からないんです。地獄の悪霊が、僕に入ってくるんです。いつも足の方から入ってきて、気がつくとこうして自分で自分の首をしめているんです。光り輝くお方、助けて下さい」
「そんなことって……」
――本当にあるんだよ。
と、後ろから歩いて来た老人が想念で言った。そこでイェースズは霊の視覚を少し高めてみると、口が耳まで裂けて赤い舌を出した異形の悪霊が、若者と二重に重なって見えた。悪霊はイェースズの方を見て、無気味に笑っていた。イェースズはふと気がついて、先ほど地獄でしたように悪霊に向かって手のひらを向け、パワーを放射した。ここでも黄金色の光の束が手のひらから飛び出して、若者に当たっているのがよく見える。たちまち悪霊はのたうちまわって、退散していった。次の瞬間若者はすっと浮上し、空の上まで上がっていって見えなくなった。
イェースズが呆気に取られていると、老人はその隣でにこやかに微笑んでいた。
――おまえさんの今のパワーは、大昔は誰でもできた業なのだよ。
平然と言って、老人は驚いているふうもなかった。
――今の人はなぜ、空に昇っていったんですか?
――おまえさんのパワーで魂が浄まったから、上の世界に昇っていったのだろう。悪霊は離脱した。
――上の世界?
それには答えず、再びイェースズとともに歩きながら老人は話を続けた。
――しかし、いくら浄まって上の世界に昇っても、本人のこれからの想念次第ではまたここまで落ちてくることはあり得るし、あの邪霊も戻ってくるだろう。邪霊にとり憑かれるということは、どこか波調が合う想念があるからだからな。
――どうして地獄の霊が、こんなところに?
――やつらは我欲のかたまりだから。自分たちの地獄より上の霊界の人々が妬ましくてしょうがないんだ。だから、ちょっとでも波調の合うものを地獄に引きずり込もうと、憎悪と嫉妬だけで虎視眈々と狙っている。
――そんな、別の人の中に入りこむなんて……
――ここだからまだ自覚できるからいいが、現界では大変だな。
――え? 現界の人のまで、悪霊は入りこむことがあるんですか?
驚いて老人を見るイェースズに、
――そんなのは、ざらだ。
と、老人はさらりと言ってのけた。
――現界の人の肉身に入り込むのは、もっと簡単だ。何しろ現界の人は、悪霊に入り込まれていることを自覚できない。それだけに厄介でもあって、現界人は悪霊に操られていても、自分の意志でやっていると思っているから始末が悪い。
――悪霊が憑いている人は、どれくらいの割合でいるんですか?
――まず、ほとんどの人がそうだと言っていい。それでも本人の霊力が強ければ表面に出ることはないが、場合によってはその人の人格すべてを支配してしまうこともある。
――でも、人の肉身に憑かるなんて、そんなことが許されるんですか?
――もちろん、よくない。そのようなことをしたら幽界脱出の罪といって、何百年も地獄で苦しむことになる。
――それなのに、そんなにも多くの人が憑霊されているなんて……。
――いけないことなのだが、やろうと思えばできてしまう。つまり、必要悪として許されているのだろう。あのさっきの若者にしてもそうだが、皆それぞれ因縁があって邪霊に憑かれてしまう。やはり、波調が合ってしまうということだ。
二人が歩く道は、いつの間にか森の中へと続いていた。ここでも木々や地面、小鳥のさえずりなど現界と何ら変わりはない。ただ一つ違うことは、顔を向けた方に常にある太陽だった。太陽が昇りも沈みもしないだけに時間の感覚がないようで、イェースズはこの世界に来てから今までどれくらいの時間がたったのか、皆目見当もつかなかった。ここへ来てから一度も夜になっていないし眠ってもいないのでまだその日のうちのはずだが、もう何日もたったような気もした。
イェースズが太陽のことを気にしていた想念を読み取って、
――あの太陽は、
と、老人は話し始めた。
――現界の物質の太陽とは違って、光と熱だけではなく霊流を注いでくれておる。
――霊流?
――神の光と言ってもよい。魂が存在するには絶対不可欠なものだ。つまり、神の愛の具現そのもので、すべての魂に平等に注入されている。
――あの地獄の霊にもですか?
――もちろんだ。しかし地獄霊たちは自らの想念で雲を作って、神の愛の霊流を自ら拒否している。現界人でも己の罪や穢れで魂を覆い曇らせ、自ら霊流が入り込みにくくしている人も多いがな。
――現界人にも、霊流は注がれているのですか?
――あたりまえだよ。現界人とて物質の肉体という容器に入っているだけで、本質は霊だ。現界人の肉の目には、霊界の太陽は見えないだけだ。
ここ霊界は、現界人の人知という既成概念は無意味になってしまう世界らしい。
しばらく歩くと、前方の森の木々の下で人の頭ほどの石をせっせと運んでいる人々の集団に出くわした。皆黙々と石を運び、森の中央の広場に積み重ねている。石の山は、もう空にそびえるほどになっていた。それでも人々は長い行列を作って、あとからあとから石を運んでくるのだ。
イェースズは好奇心から、その集団の中の一人の若者の前に立った。
「うわッ!」
若者はすぐに目を覆い、地面にひれ伏した。周りの人々もまた、石を放り出して同じようにしている。
「大いなる光の御方。あなたは神様ですか?」
ひれ伏したまま、若者は言った。そんなことを言われて、慌てたのはイェースズの方だった。
「違います。私は神様なんかじゃあない。どうか、お立ちください」
――意識のレベルを下げないと、彼等からはおまえさんは光のかたまりにしか見えんぞ。
言われた通りにイェースズは、自分の姿を現すように意識した。びっくりしたような顔で、人々は地に座ったままイェースズを見上げていた。
「何のために、石を運んでいるんですか」
だが、その疑問に即答する者はいなかった。なぜか、互いに顔を見合わせたりしている。確実に彼等は困惑していた。自分たちが考えたこともないことについて尋ねられ、当惑している想念がイェースズに伝わってきた。
「分からないんですか?」
と、もう一度イェースズは聞いてみた。
「はい、分からないんです。こうして石を運ぶのは当然と思っているからやっているだけです」
「もう、どれくらいやっているんですか?」
「どれくらいって、どういうことですか?」
「どのくらいの時間、やっているんですか?」
「どれくらいの時間って、どう言うことですか?」
この世界には時間の観念がないのだったということを、イェースズは思いだした。彼らの方も、イェースズのことを奇妙な人だと思い始めたようだ。そして彼らはもう、なにごともなかったように作業を再会していた。
イェースズの肩に、老人が手を乗せた。
――なぜこのようなことをやっているのか、彼らは分からなくて当然だ。分からないからやらされているのだ。
――どういうことですか?
――なぜこのようなことをしなければいけないのか、なぜさせられているのか、それをサトるまでこの行は続くということだ。ここはそういうサトリの世界なんだ。なぜこういうことをさせられているのかをサトれば、すっと上の世界に上がったりもする。現界でいう時間がここにはないから彼らはどのくらいやっているかも分からんだろうが、現界の時間でいえばもう二百年は毎日やっているな。
「二百年!?」
思わずイェースズは、叫んでしまった。
――毎日といっても、現界のように朝から晩までという訳ではない。
――では、ちゃんと休憩もするんですね。
――いや。その逆だ。朝から晩までではなく、現界的に言えば朝から次の日の朝までぶっ通しということだ。この世界には夜などというものはないからな。現界の肉体を持った人と違って、睡眠というものも必要ない。
――二百年も、つらくはないんですか?
――つらくても、逃げだそうという意志は持たないのだよ。しかし、決して幸福とは言えまい。彼らは罪穢消しをさせられているんだ。ここは現界での罪穢を消していくための修行の場でもある。
――では彼らは何をしたから、こんな石積みをさせられているんですか?
――石を積むということは、それほどまでに罪穢を積んできたということをサトレということだ。
――彼らも悪人なんですか?
――地獄に落ちるほどの悪人ではないにしろ、些細な罪穢を本人もそれと気づかずに積んできてしまったのだ。現界では一応外面は善人で通っていた人たちだろう。
――では、そうだと教えてあげればいいじゃないですか。
老人は静かに首を振った。
――他人が教えても、彼等が自分で自らの魂の本質からサトらない限り救われないのだよ。救われるためには、自分でサトるしかない。そういう意味では、ここは厳しい世界なんだ。決して他力にすがっていればいいという訳にはいかない。
石運びの集団をあとに、二人は再び歩き始めた。やがて森が切れ、二人はまた高台の上に出た。目の下の盆地には、限りない広大さにもかかわらず数々の村がひしめきあっていた。
――あのう、救われるとか上の世界とかって……。
――あの空を見なさい。
と、老人は言った。イェースズがそうしても、ただ空があるだけだった。
――よく見てごらん。
それでも何も見えないので、イェースズは小首を傾げた。
――肉の眼ではなく、霊の目で見るんだ。霊の目はここだ。
老人は、自分の眉間を示した。
――ここで見るんだよ。ここにもう一つの霊的な眼がある。そこにイェースズは意識を集中させた。そして、
「あっ!」
と、声をあげた。空中に垂れ幕のようなものが薄ぼんやりと見え、それが次第にはっきりした実体になっていった。しかも空中のその実体には同じように山があり、木々が生えている。
――あれが上の世界だよ。
と、老人は言った。
気がつくとイェースズは、再び光のドームの中にいた。ものすごい勢いで体が上昇し、ぱっと広い所に投げ出された。そこは今までいた所とは、別の世界だった。
やはり見晴らしのいい高台の上に、イェースズは白髭の老人とともにいた。太陽は依然として真っ正面にあるが、かなりその光度を増していた。そのせいか、先ほどまでいた所よりも全体的に明るく、暖かく感じられた。すべてが明るく輝く世界だった。
眼下の盆地にはやはり同じように、無数の村がひしめきあっている。本当にこの世界は果てがないようだ。大地は空の彼方まで永遠に広がりを見せ、遠くには湖も見える。さらに巨大な三角形の山がいくつも連なって、天を突いている。それらすべてが、手に取るように見えるのだ。
――ここが上の世界だよ。
と、老人は言った。目の前に明るく輝いて展開する大パノラマに視点を奪われながらもイェースズは小首を傾げた。老人は速やかに、そんなイェースズの想念を読み取って言った。
――霊界は一つだけれど、段階はいくつもあるんだ。
イェースズは驚いて老人を見た。故国の教えでは、人が死んだ後の世界は天国か地獄という二元論だった。サドカイ人などは、聖書に載っていないというだけの理由で霊界の存在さえも否定する。今この世界に来てイェースズは、現界の宗教の教義がいかに人知のみで作られた浅はかなものであったかを痛感していた。いかなる宗門宗派の教義も、今実際に体験している霊界の実相の前には単なる人知による観念遊戯にすぎない。霊界は一つなのに、それぞれの宗教が自らの正統性を主張して争うなど、何と愚かしいことかと感じる。
ただ、霊界は一つだが段階はいくつもあると老人は言っていた。事実、今家は下の世界からこの上の世界へと来た。
――まだまだ、ここより上の世界があるんだぞ。
――霊界の段階って、そんなにあるんですか?
イェースズは風景から老人に目を映し、その顔を食い入るように見つめた。
――いいかね。霊層界の最下層は、最初に行った地獄界だ。そして上に行くにつれ、段々と天国になっていく。地獄をのぞいても、霊界のうち幽体を持つ人々の住む幽界は、大まかに上・中・下の三つの段階に分かれている。つまり温暖遊化界、軽労働界、重労働界だ。しかし、さらに細かく分ければ、二百以上の段階に分かれている。
――え? 二百も?
こうなると、天国と地獄の二つどころではない。
――さらに上の世界では、幽体をお持ちになっている神々の世界、龍神界がある。
イェースズがかつてアーンドラ国のブッダ・サンガーにいた時に読んだスートラにあった第四トゥシタ界というのが、それのことだなとイェースズはひらめいた。トゥシタ界は浄土である内院と穢土である外院があると書いてあったが、この幽界が外院、龍神界が内院なのだろうか……そう思っていると、
――その通りだよ。
と、イェースズの想念を読み取った老人は言った。
――さらにその上には、
――まだ、上があるんですか?
――あるとも。龍神界の上には幽体さえいらぬ高次元の世界がある。現界が第三の界、ここが第四トゥシタ界なら、第五、第六の高次元世界があって、そこは神霊界、つまり大天津神様の世界だ。見たまえ。
老人は、前方の太陽を指さした。
――あの太陽の光は第八の界、つまり宇宙最高の世界から発し、あまねく大千三千世界の諸霊を貫いている。つまり、万物の存在の根源なのだよ。
――天地の創造主の神様は、その第八の界におられるのですか?
三次元と四次元でさえこんなにも違う世界なのに、八次元など到底イェースズには想像に余る世界だった。
――天地創造の神といっても、第八の界におられる唯一絶対神、宇宙最高の神様は奥の奥のそのまた奥の神様で、おまえさんがたの聖書とやらに書かれている神様よりずっとずっと上なのだ。聖書の神様は最高神の御意志によってその体の面を担当され、実際に世界をお創りになった造り主の神様で、いわば国祖だ。事情があって、今はお隠れになっているが。
――お隠れになっている? 事情とは?
その問いに、老人は答えることはなかった。決して言ってはならないことを隠すように、その口は貝のように閉ざされた。それからしばらくして、
――村に行ってみよう。
と、だけイェースズに言った。
老人のそぶりが気にはなったが、とにかくイェースズは老人に従うことにした。坂道を下ると、一つの村があった。すべてのイェースズが木造でトンガリ屋根という全く同じ造りで、同心円状に何重にも丸く配置されている。その間を、人々が行きかっていた。寸分違わぬ家がよくもこう並んでいるものだとイェースズが驚いていると、村人達はニコニコして寄ってきて、
「こんにちは」
と、明るくあいさつをしてくれる。そのあいさつは陽の気に満ち、善意が込められていた。イェースズがいちいちそれに答えていると、老人はどんどん行ってしまうので、イェースズは慌ててそれを追った。
ちょっとした森を抜けると、そこには次の村があった。今度はすべて石造りの立方体で、やはりすべてが同じ造りの家が同じように同心円状に並んでいた。
――よくこんな同じ形の家ができますね。
大工の家系の血が流れているイェースズにとって、それは驚異だった。
――造るといっても、別に材料を長達して、それを切ったり重ねたりして作られている家ではない。ここは現界とは違うのだ。
――では、どうやって?
――ここは想念の世界なのだ。その村の村人たちの想念が現象化して、家はできている。
――ではなぜ、皆同じ家なのですか?
――それは、一つの村の村人達は、同じ想念なのだ。だから自然と同じ家ができる。逆を言えば、同じ想念の人々が集まって村を形成しているのだ。ただ同じ想念といっても、村の中心に近ければ近いほどそこに住む人の霊格は若干高い。そして中央に住んでいるのが村長だ。村長の霊力は、山をも崩すこともできる。
そんな老人の話を聞きながらも、イェースズは村人たちの様子を観察していた。誰もが楽しそうに、笑顔で歩きまわっている。その姿一つにも、真さがにじみ出ているのだ。そして同じ村の人々は、顔つきまでも互いにそっくりだった。姿が想念どおりになってしまう世界なのだから、同じ想念の人同士なら顔が同じでも当たり前なのだ。家は一つ一つが非常に小さい。
――あの小さな家に、家族で住んでいるんですか?
――この世界では、家族なんてない。現界の家族など、精霊界にいるうちに離散してそれきり会えなくなる。それよりもここでは、一つの村全体が一つの家族なのだ。いや、家族以上かも知れない。愛の絆でしっかり結ばれた集団で村ができているから、一人の喜びは村全体の喜びとなるのだ。
――でもこんなに果てしなく広い世界で、同じ想念の者たちがすっと同じ村に集まるものですね。
先ほどの高台で見た光景は、現界のどこで見た風景よりも広大で、そこに何万何億の村が点在していた。
――現界と違ってここは、絶対的な秩序の世界なのだ。精霊界で自分の本性があらわになってからここに来る訳だし、現界と違って外見でごまかすこともできない。だからこの世界へ来るや人々は一目散に自分といちばんふさわしい世界の、自分と全く同じ霊相の人々の住む村にすっと引き寄せられるのだ。それ以外の所に行くことはできない。地獄の霊が自分の想念に合った地獄を選んですっと引き寄せられ、ほかの世界へ行かれないのと同じだよ。
――厳しい世界なんですね。
――前にも言ったが、徹底した「相応の理」でこの世界は貫かれている。従って、霊層の違う世界との交流は一切あり得ない。さまざまな段階の霊層の人が同居し、交流できるのは限界だけなのだ。
確かに現界では、悪人の家の隣に善人が暮らしていたりする。
――だから、現界こそ大いなる修行の場なんだ。そういう意味では、むしろ現界の方が厳しい世界なんだ。しかしそれとて神様の本来の御意志ではなく、神様はもっとほかの目的で現界を創られた。それを修行の場にしてしまったのも、神から離れた人間の我なのだ。
確かに現界は、さまざまな霊層の人々の坩堝だ。だがそんな現界でも、ある程度は同じ霊層の人で付き合い仲間を形成している。盗賊は決して知識人の会合や宴会に参加したりはしないし、その逆もまた同様である。
――ではこの世界は、本当に善人だけが住む世界なんですね。つまりここが天国なのですか?
――善人といっても、まだまだ上がある。本当の天国は、もっともっと上の世界だ。その上の世界を目指して、人々は精進と修行をしているのだ。
――え? この世界に来たら、ここに永住するのではないのですか?
――それでは、霊としての進歩がない。絶えず向上目指しての進歩があってこそ、創られた意味がある。同じ村でも少しでも中央に近い家に住めるよう皆精進努力しているし、また少しでも段階が上の世界に上がれるように互いに助け合って修行しているのだ。つまり究極的な目的は神性化、つまり一歩一歩神に近づくことなのだよ。
――でも、ほかの世界との交流はできないんでしょう? そうしたら、上がることも難しいのでは?
――そのままの状態では交流はできないが、霊層界が昇華すればすっと上の世界に引っ張りあげられる。いいかね。いいものを見せてあげよう。
老人はそう言って村を背に歩きだしたので、イェースズもそれに従った。老人は森の中に入っていく。するとすぐに、とんでもないものをイェースズは見た。何と空から人間が一人、降ってきたのだ。イェースズの右隣を歩いていた老人の向こうに降ってきた人は見事に足で着地し、不思議そうな顔をしてあたりをきょろきょろ見回している。
イェースズは老人の背後を通って、その若者の方へ行こうとした。その時、力強い腕がイェースズをつかんで引き戻した。老人が後ろに手を回して、イェースズを捕まえたのだ。
――気をつけなさい!
厳しい口調だった。イェースズはなぜ怒られているのか分からずにきょとんとして、降ってきた人に近づくなということなのかなと思っていた。
――そのようなことではない。
老人は、イェースズの想念をきっぱりと否定した。
――霊界では、人の背後を横切ってはいけないのだ。
――なぜですか?
老人は、正面の太陽を指さした。
――あの太陽から来る霊流は、顔の眉間から入って背中に抜ける。だから背後を横切ると霊線を切ってしまい、霊流が乱れてしまうのだ。背後を横切られた人は力を失ってへなへなと倒れてしまい、当分は起き上がることもできない。
イェースズは感心して聞いていた。何から何まで不思議な世界なのだ。不思議といえば空から降ってきた人だが、その人はもう二人のそばまで来ていた。
――あのう、ここはどこですか? 金の砂の城に行こうとしていたのに、いつの間にか訳の分からないことになってしまいまして。
そう尋ねられても、イェースズには答えようもない。
――何だか、暗い世界ですね。
イェースズは首を傾げた。下の世界からここに来た時に、イェースズは一段と明るさを増した世界だと感じていたのに、この若者は逆のようだ。
――ここへ来る直前のことは、覚えているかね。
戸惑うイェースズに代わって、老人が受け答えをしてくれた。
――それが、よく分からないんです。気が重いな、気分が暗いなと思っていると大地が割れて、奈落の底に吸い込まれるようにどんどん落ちていって、気がついたらここにいたんです。
――おまえさん、他人への愛ということに疑問を感じはじめていなかったかね。
――ええ、おっしゃる通りで。だって、そうじゃありませんか。人は誰しも、自分が一番かわいいんですよ。そんな気持ちに正直になることは正しいことなんじゃないかなって、そう思いはじめてたんです。
――それだよ。その想念が正しいかどうか、サトるまでここで修行をしなさい。おまえさんの家も、もうちゃんと用意されているはずだ。
それだけ言い残して老人は歩きはじめたので、イェースズもそれに従うしかなかった。降ってきた人はぽつんと取り残され、老人やイェースズとは反対方向にとぼとぼと歩いて行った。
――今の人は、何なんです?
と、早速イェースズは歩きながら老人に聞いた。
――上の世界から、落ちて来たんだよ。
――上に上がるだけでなく、落ちることもあるんですか?
――あるとも。現界の人でも想念がいい時と悪い時があるだろう。この世界の人にも、そういう波があるんだ。現界と違うのは、現界では見た目ではその人の想念は分からないが、ここでは想念がよくなればスーッと上に上がり、悪くなれば下の世界に落ちる。一切が波なんだよ。
――波?
――そう。波をうつから伸達するんだ。波を打って精進して、どんどん上に上がって行く人もいる。波をうって上がったり下がったりで、いつまでも平行線の人や、中には地獄まで落ちて行く人もいる。
――地獄……?
――現界で死んでこちらへ来て、すぐに地獄やもっと上の世界に直行する人も多いが、それでも全員が一度はこの霊層界に来て、その精進次第で上に上がったり下に下がったりするんだ。
その時森は途切れ、視界が開けた。小さな花が咲く草原で、一本の小川が浄い流れとなってその中をくねっていた。
その小川のほとりに多くの人々が集まっているのが、イェースズの目に入った。小川のそばには、一人の男が横になって寝かされていた。その周りを同じ村の人と思われる人々が囲んで、何やら悲しそうにしている。すすり泣いているものも多かった。その中には、村長と思しき人もいた。
――いたずらに悲しむでない。このものの真の幸福のための決定だ。悲しいのは私とて同じだよ。しかし、涙をのんでこう決めたのだ。
そんな村長の想念が、イェースズにも伝わってくる。
――何ですか? お葬式ですか?
イェースズが老人にそう訪ねたのも無理もない、そんな雰囲気だ。しかし、死んだ後の世界であるここで葬式というのもへんな話だとイェースズは気づいて、視線を老人からもう一度前の方へ戻すと、風景は一変していた。遠くの山々の向こうの空が黄金色に輝き、空が高くなるにつれて紫の光を発している。今まで花畑だったところの地面には黄色い雲がたちこめ、地面があるのかないのかかなり実体のないものに感じられてきた。
いつのまにか、村長と横たわっている人以外には誰もいなくなった。村長は無言で、横たわっている人をじっと見下ろしている。小川だけは依然としてそこにあり、心なしか流れが速くなったようだ。
黙ってイェースズは、老人を見た。その想念は事態の説明を求めていた。
――あのものは、これから現界に転生するのだ。
――では、赤ん坊になって生まれるのですか?
今まで接したさまざまな宗教の教義の中で観念としてしか聞いたことのなかった転生再生が、今目の前で現実に起ころうとしている。その事実を、実際の体験として目撃しているのだ。
――人は行き代わり死に換わりつつ、この幽界と現界の間を行ったり来たりする。それがサンサーラ、つまり輪廻転生だ。だからこの幽界は死後の世界であるというだけでなく、生前の世界でもあるのだ。
――生前の世界?
かつてイェースズが幼児期に、いちばん疑問に思っていたことだ。
――人の一生は、現界では五十年か六十年くらいだろう。しかし魂は死なずに、この幽界に来る。そしてまた現界に生まれる。人はそうして何度も転生を繰り返して、長い魂だともう何万年と生きている。
確かに自分もそうだった気がすると、イェースズは思った。しかし、何も思い出せない。本当に自分も生まれる前にこの幽界から限界に転生したのなら、この幽界で暮らしていたことになり、ここでの不思議な現象にいちいち驚くのはおかしいともイェースズは考えた。その想念は、すでに老人には読み取られていた。
――あの人は何で、横たわって眠っているようにしているか分かるかね。
――いえ。なぜでしょうか?
――ああして眠ったようになって、この世界でのすべての意識を潜在化させるんだ。それを見守るのも、村長の役目だよ。すべての人はこうして幽界での記憶をなくし、白紙の状態になって現界に生まれるんだ。人の意識を百とすれば、そのうちの九十は潜在意識として幽界に置いていく。現界に持っていけるのは百のうちの十の意識だけだ。その方がさまざまな霊層界の人がいりまじって生活する現界で、修行がしやすい。
――現界へ行くのは、修行のためなんですね。
――それもある。現界でみ魂磨きをして、これまでの再生転生中に包み積んできた罪穢を消していかねばならないのだ。
――記憶がないのに過去世の罪穢を消すなんて、至難の業じゃあないんですか?
――だからこそ、現界は厳しい世界なんじゃ。現界に生まれて、それから死んで幽界に戻ってきた時に、同じ村に戻るのは恥だ。少しでもいい世界に行けるように、昇華して戻ってこなければならない。それが現界へ行って罪穢を消すどころか、逆に罪穢を積んで帰ってきて、戻ったら地獄行きという人もたくさんいる。
――今の現界の状況なら、あり得ますね。神様は修行の場として、現界を創られたのですね。
――それは違う。逆だ。物質の肉体には現界があるから、あとから幽界が創られて、人の魂は幽現の二つの界を往き来するようになったのだ。その場を修行の場としてしまったのは、人間たちだ。
――では現界が創られたのは、修行以外の理由もあるのですか?
老人は少し沈黙してから、想念を送ってきた。
――神は現界に、神の超高次元が投影された世界を物質によってお創りになろうとした。そこで、物質駆使の最大の能力を、人間にお与えになったのだ。神の地上代行者として人間に、神の御意志の現れである物質による地上天国を造らせようということだ。だからそういう使命を持って、皆現界に行くのだ。しかし、幽界の記憶をなくすとともに、そんな使命をも誰もが忘れてしまうので、現界はますます厳しい修行の場なんだ。誰かが教えてやらねばならぬ。
イェースズは息をのんだ。老人の言外の言が聞こえたような気がした。
そして前方に目をやると、横たわっている人の姿がぼんやりとしてきたことに、イェースズは気がついた。
――人はここでこうして意識を失っている間に、生まれる環境が決まる。そのものの過去生での因縁もあるが、もっとも修行のしやすい環境を選ぶ。そして性交をしている夫婦の発する想念の波動と波調が合った時に、すっとその現界で母親となるべき人の胎内にと宿る。地上天国建設という人類共通の使命のほかに、人それぞれ個人的な使命、役割というものも持って生まれてくるのだが、そのことと生まれ出る環境も大いに関係してくる。
気がつくと、もう横たわっている人の姿はなかった。あとは村長だけが寂しそうな表情で、ぽつんと立っていた。風景もいつの間にか、元のお花畑に戻っていた。
――神様の御意志の現れということでしたけど……
――そのことは、もっと上の世界で話そう。
次の瞬間、イェースズは再び激しい上昇感を覚え、気がつくと森の中にいた。老人の姿はなく、ただずっと森が続いているだけだった。イェースズは仕方なく、その森の中をとぼとぼと歩き始めた。
そのうち心なしか温かくなり、正面の太陽の光も増したように感じられた。母親の腕に抱かれたような安心感が、彼の全身を包んだ。いつしか美妙な音楽も微かにあたりに充満し、安心感はますますその度合いを増していった。イェースズは自分が歩いているのか走っているのかも分からないような浮遊感覚でいたし、左右を流れる木々は葉が陽光を受けてきらきらと輝いていた。
やがて、巨大な城壁がイェースズの目の前に立ちふさがった。エルサレムの神殿の、あるいはシムの国の皇帝の宮殿のそれよりも遥かに高く、延々と左右に伸びていた。現界ではどんなに巨大な建造物でも途中で見えなくなるが、ここでは果てしなく永遠の彼方まで見ることが可能なのである。
次の瞬間にイェースズは城壁を突き抜け、その向こうの世界にいた。そこは黄金に輝く森で、足を一歩踏み入れた途端にイェースズは黄金のドームに包まれ、上昇感覚を味わった。そしてあっという間に彼は、一面の花畑の中にいた。
ものすごい芳香である。頭の芯までとろけそうな甘い香りに、思わずうっとりとしてイェースズは花畑を眺めた。花はどれ一つとて同じ花はなく、中には差し渡し人の背丈ほどある花もあった。花畑は極彩色の光と香りを放って、どこまでもどこまでも広がっていた。遠くの山はなだらかな曲線を描き、今まで行ってきた世界で見たようなとんがった山はなかった。正面の太陽の光はどぎつく、エネルギーがかたまりとなって全身にぶつかってくる。とても正視できないほどまぶしい。そして暖かく、ややもすれば暑いくらいだ。ただ現界のような不快な蒸し暑さや灼熱地獄のような身を焼く熱さではなく、どこまでも愛に満ちた優しい暑さだった。とにかく、世界全体が明るく輝いている。
そしてすぐそばに、宮殿のような巨大な黄金屋根の建物が現れはじめた。イェースズが意識を高めたからである。イェースズは、その宮殿に行ってみたいと思った。しかし、花を踏まずに花畑の中を通る適当な道が見つからなかった。それでもとぼとぼ歩くと彼の身体は急に宙にふわりと浮き、空中飛行して宮殿の方へと行った。
宮殿は現界のどこにもあり得ないほどの巨大なもので、柱は白地に色とりどりの宝石がちりばめられ、屋根はすべて黄金で、勢いよく空へと跳ね上がる棟も、何もかもがまばゆく光を放っている。イェースズは息をのんで、その前にたたずんだ。何も言葉を発することができず、ただぽかんと口を開けて、のしかかってくるような巨大な宮殿を見上げていた。
するとそこへ、ふわりと人が飛んできた。その若者の、雪のような純白の衣はかなり薄い。青年はイェースズを見ると、パッと陽光のごとくに笑った。
――こんにちは。あなたは、現界の方ですね。
声をかけられたイェースズは、あいさつも返事をも忘れ、ただ詰め寄るように宮殿を見上げて指さした。
――このすごい宮殿や花畑は、一体どうやって造ったんですか?
微笑みながらも首かしげる青年の肌は、白い陶器のように透き通っていた。
――この世界では、みんな人々の想念でできるんですよ。
――では、すべて実体のない幻なのですか?
――とんでもない。
青年は自分の顔の前で手を左右に振った。
――あなた方の現界の宮殿こそ、幻ですよ。
確かに現界ではどんなに宝石をちりばめれても、どんな黄金で屋根を造っても、それは生命のない無機質であった。しかしここでは、屋根を支える幾本もの太くて丸い柱や、すべてを映している黄金の床に至るまで、すべてが生き生きとした生命が感じられた。
青年はニコニコしたまま忙しそうに、一礼して空中を飛んで去っていった。
村が見たいと、イェースズは思った。思っただけで、村が見下ろせる小高い丘の上に彼は立っていた。村は家々が何重もの同心円状に配置されているのは今までの下の霊界と同じだが、その規模がとてつもなく大きい。今までの世界の村はせいぜい数十戸だったが、ここは一つの村が数千戸はある。だが、今までのように村がひしめきあっているという様子はなく、隣の村は遥か彼方に霞んでいる。いくら村の規模が大きくても、これでは現界的に言えばかなり人口は少なそうだった。
イェースズは、村へと降りてみた。ここでもたった三歩足を運んだだけで、かなり遠くに見えていた村の入り口に瞬時に到着した。整然とした町並みと、道にさえ宝石が散りばめられている様子は、美しいという言葉はこの世界のためにあったのかと思えるほどだった。とっさにイェースズの脳裏を、ブッダ・サンガーで修行した時に読んだ「スクハーバティービューハ」というスードラの一節が浮かんだ。そこには天界の荘厳と称される情景が描写されていたが、今まさしく目前にしている光景こそがその描写そのものだった。ブッダもここへ来て実際に見たものを説き、それが記録されてあのスードラになったのだ、ここが天国なのだとイェースズは実感した。家と家の間からは、小鳥のさえずりが聞こえる。……この世界の鳥は罪業ゆえに畜生道に落ちた鳥ではなく、すべてが方便なのだ……「スクハーバティービューハ」には、確かそう書かれていた。この美しい鳥たちも、この世界の人々の想念の現象化なのだ。そのスードラはこの世界の主宰神をアミターバ・アミターユスと説いていた。無量の寿命と無量の光という意味だから、その神は高次元からこの世界に天降られたアマテラス日大神様に違いないとイェースズが考えながら歩いているうち、何人もの人が彼とすれ違った。皆一様にニコニコと笑顔が顔中にあふれ、幸福を身体全体で表現していた。すれ違うたびにイェースズにニコリと微笑んで、――こんにちは、とあいさつをしていく。すべてが善意のかたまりのように感じられ、いつしかイェースズはほのぼのとした気分になっていった。ただ、村の中はどこも戸数が多いわりには、人々が溢れているという感じはなかった。
やがてイェースズは、村の中央に近くの池の所に出くわした。そして、思わず息を飲んで彼はたたずんでしまった。
池の差し渡しはそれほどでもないが、その淵は金や銀はともかくエメラルド、赤真珠、水晶や瑪瑙、琥珀などの宝石が散りばめられている。散りばめられているというより、むしろ宝石だけでできているといっても過言ではなかった。
イェースズは目を細めた。あまりにも風景自体がまぶしすぎる。水はどこまでも透明で、底に敷き詰められた黄金の砂までが輝いていた。池の中には人が両腕を広げたほどの大輪の花が五つ、水面から茎を出していた。中央の黄色い花はどこまでも黄色く、ほとんどそれは黄金色に近かった。そして赤い花や白い花のほかに、現界では決して見られない青い花や紫の花まであった。それらが放つ芳香は、心が溶けてしまいそうになるほどだった。
イェースズはしゃがんで、水をすくってみた。透き通る水が、手の中で光った。水さえも芳香を放ち、それを口にしてみるとなんとも言えず甘い水だった。
イェースズは立ち上がった。そしてもう一度あたりの風景を見てため息をついた。こんな世界を造り上げるこの世界の人々の想念とは、いったいどのようなものなのだろうかと、思わずのぞいて見たくなったりもした。
――それは愛だよ。
誰かが、想念を送ってきた。イェースズにとって懐かしさを覚えるような馴染みのある波動なので振り向くと、そこにはあの老仙が立っていた。
――愛がすべてだよ。ここは他を生かす心、利他愛に終始する世界だ。太陽のように分けへだてなく、すべての人に注がれる大愛の想念が、この世界の光景を作っている。この世界には、自分だけがよければいいという自己中心で、自己顕示欲の強い自己愛のものは一人もいない。愛の波動に満ちた人々の想念が現象化してできた世界だから、たとえ下の世界の人がここに紛れ込んできても、この世界の想念波動と波調が合っていなければ何も見ることはできない。それどころか、光圧に耐えられなくてものすごい苦痛を味わうことになるだろう。
――ここが天国なのですね。
いつしかイェースズも、満面の笑みをたたえて老人を見た。
確かに、愛だけの世界ということでは、ここは天国だ。一人の幸福は万人の幸福で、その万人の幸福こそ一人の幸福になる世界だからな。でもまだここは、神の世界、神界ではない。高次元の神界、神霊界はもっとさらに上だ。
老人は池のそばを離れて村の中へと歩きだしたので、イェースズもそれに従った。何しろ会う人会う人善意のあいさつを送ってくるので、それへの対応でなかなか忙しい。そんな村を歩きながら、老人はまた想念を送ってきた。
――この世界に入ったからとて、まだまだ至福ではない。
――先ほど言われた、まだ上の世界があるということですか?
――そうだ。
――では、この世界の人々も、さらに上の世界に昇るために修行しているんですか?
――ある意味では、そうだといえる。しかし、下の世界の人々の修行とはちと違う。この世界には、自分だけが上に昇ろうとしているものなどおらぬ。修行の目的は、霊格の完成だ。いかに神のみ意に近づくか、神大愛のご想念に波調を合わせるようにしていくかだ。それが霊格の完成で、神と人が一体となる神人一体、つまり神性化が究極の目的だ。その神と人の差が取れた状態を、本当の「差取り」という。
――この世界にも、段階があるのですか?
――あるとも。いかに神のみ意、神の法、宇宙の根本原理を認識しているかで段階は決まる。まずその認識がないとそもそもこの世界には入れないが、一応の認識だけでは天国でも一番最下層の天国に入れるにすぎない。
――認識だけでは、まだ途上ということですね。
――さよう。そしてさらに上に行くには、認識と行動が統合されていなければならん。つまり、神のみ意のまにまに行動することだ。神さながらの行為で「義」とされるものだ。これを真という。言行一致だけでは誠実の「誠」ではあるが、真のマコトはもっと格が上なんだ。
――現界でもそういう生活をしてきた人が、ここに来るのですか?
――現界で死んで、つまりこちらで誕生してから真っ直ぐここに来る人はほとんどいない。たいていはまず下の世界に行く。そして昇ったり落ちたりを繰り返しながら、修行をしてサトリを得、そして人々はここへ昇ってくる。つまりは、一切が波なのだ。
――ここから逆に、下の世界に落ちて言ってしまう人もいるのですか?
――もちろん、ある。しかもその方が、下から上がってくるよりずっと簡単だ。上へ上がるのは容易なことではない。しかし、下に落ちようと思ったら、あっという間だ。現界の山でも、そうだろう? 確かにどんなに労力と時間をかけて山に登っても、ほんの一瞬足を踏みはずしたらあっという間に落ちていく。
――一切が波だ。たとえ下の世界に落ちなくても、やはり波はある。例えば気分がいい時は同じ光景でもやけに光って見えたり、その逆の時はすべてが暗く感じたりするだろう。そういう波があるからこそ、霊界の人々は時間という概念がない所でも自分がピチピチと生きていることを実感するし、時間のない中でも時の経過を感じたりする。
二人はいつの間にか、小高い丘の上に立っていた。一面に青草が繁る、見晴らしのいい丘だ。いくつかの村が花畑の中に点在する光景を見下ろして立つ二人の向こう側にはもう一つの同じような丘があり、すべてが明るい光の中で輝いていた。
――おまえさんは今、こんな素晴らしい世界もあって、これが神様のみ意に近い世界なら、地獄のような凄惨な世界をも神様の愛は許されるのだろうかと、そう疑問を持っておるな。
――はい。
もはやイェースズは、心の中が相手に見えることに対し、抵抗が少しずつなくなってきた。
――おまえさんは実習としてここに来たのだから、疑問はどんどん持っていい。ここの世界の人なら疑うことは心にすきを作り、下の世界に落ちる要因にもなるがな。ス直とは、納得のいかないことを鵜呑みにすることではない。それでは、不平不満の種をまいてしまう。納得がいかない自分は至らぬ自分だとサトリ、よくよく教えを請うことが大切だ。ただし、屁理屈はいかんぞ。
――はい。
――先ほどの疑問だが、ひと口で言えば、地獄があるから天国もあり得るということだ。闇があるから光があるのと同じだよ。
――じゃあ、神様は、この天国のために地獄を創られたのですか?
――それはちょっと違うな。先ほど時間について話したが、確かにこの世界には時間はないが歴史はあった。
――歴史?
イェースズは、もう一度当たりの光景を見た。色とりどりの花に埋め尽くされたなだらかな丘がいくつかあり、時折その間に村落がある。その光景は、地の果てまで続いているのが一望できる。
――地上の歴史などというようなちっぽけなものではない。人類の歴史とも違う。人類の歴史はあくまで時間の軸の上にある。だが、霊界の歴史は時間とは次元が違う。いわば、神の経綸の歴史だ。大昔、神が天地を創造されたばかりの頃は、霊界はこの天国しかなかった。そもそも神の意志は、第三の界である地美に物質による神の国を顕現しようということだ。だからこそ、神は全智全能を振り絞って、神宝、つまり最高芸術品である神の子人を創造された。霊力は、ある程度現界では封じられているが、物質開発能力は最高のものを神は人に与えておる。
――確かに人は、ほかの動物とはぜんぜん違う。
――物質には現界があって、人の体とて例外ではない。だが魂は永遠だから、限りある肉体が朽ちて次の肉体に宿るまでの間の魂の居場所が必要になった。そこで神は霊界のうちの第四の界を許された。それが、我われが今いる幽界だ。その幽界もかつては天国しかなかったのだから、現界もまた地上天国だった。幽界も現界も神が全智全能を振り絞られて創られた訳だから、真・善・美の極致であって当たり前だろう。それなのに堕落した人間の想念が幽界に勝手に地獄を造り、そして現界をも修行の場にしてしまった。
――でもどうして、そんな幽界でも現界でも天国にいた人々が堕落してしまったんですか?
――どうしてだと思う?
――やはり、聖書にある「知恵の木」の実を食べたことですか?
――イェースズは自分の思いつきに、自分で酔っていた。しかし、老仙はうなっていた。
――うーん、そのアダムとイブというのは実際はアダムイブ民王という実在の一人の人物で、その説話とは無関係だ。その知恵の木の実を食べたということは、もっと奥深い意味が込められた象徴的な話なのだよ。
――確かそのことは、オミジン山のミコからも聞いていたような気がする。
――いいかね
老人は、さらに想念で話を進めた。
――神が造られた地上も幽界も天国そのものだった。そんな天国の中で、人類は創られた。生活の術のすべてを神が教えた。だが、そんな環境では人は何でも満ち足りているため、向上心を持てなかったのだよ。それでは神の目的である物質による地上天国建設はできない。物質を開発させるためには、神はどうしても人に物欲、競争心を与える必要があった。しかし、その物欲の方を主体にしすぎてしまったのが、人間の堕落の始まりだ。そもそも人は神の霊をとどめた神の子で、だから霊の元の言葉では「霊止」なのだよ。それが堕落した人々は、「人には間がある」存在になってしまった。だから「人間」なのだ。
――はあ。
――知恵の木は、その木自体は悪い木ではなく、神より与えられた有り難いものだった。しかし「その実を食べた」ということは、しかも、これは地獄を見ている時にも言ったと思うが、もう一本あった「生命の木」ではなく「知恵の木」の実の方を食べたということは、人々が霊的な力よりも物質的欲望をのみ主体にしてしまったということだ。これによって神の智慧は知枝となり、小賢しい人知を万能と思い込む人間思い上がり時代が始まった。これが堕落の始めだ。
地上が天国だったということは、いわゆるそれがエデンの園だったわけである。その現界的エデンの園からの人類追放が、いわゆる堕落の始まりだったんだと、イェースズは驚くほどの早さで理解してサトッた。そしてしばらくは口を開けて、呆然と空を見ていた。そしてその瞬間から、目の前の霊界太陽からの霊流が、痛いくらいに眉間に当たった。しかし、疑問もまた泉のようにわいて出る。
――確か霊界現象がすべて現界に反映するんでしたよね。現界の人々の堕落も現界の現象だから、もとになった霊界現象があったのですね。
――あった。
老人の声は、心なしか小さくなった。視線はイェースズを見ておらず、前方を直視している。そしてようやく、想念を送ってきた。
――それは、神霊界での出来事だ。
――何があったんですか?
老人は、静に首を横に振った。
――それはまだ、言える段階ではない。いずれにせよ、人間はこうして原罪を作った。
老人はゆっくりと、山のふもとへ続く黄金の道を降り始めた。慌ててイェースズも、背後に立つ形にならないように気をつけて老人の後を追った。その中腹で老人は立ち止まり、もう一度眼下の花畑の中に広がる村を見た。
――最近ではめっきり、天国の住民が減ってきた。がらがらだよ。
――でも、地獄は人でひしめきあっていましたねえ。それが今の時代の現状なんですね。
――神は悲しんでおられる。だが、悲しんでおられるうちはまだいい。その悲しみが怒りとなって、その怒りが雷のごとく力を奮うこともあるぞ。
イェースズがすぐに思い出したのは、ノアの洪水の話だった。
――おまえさんが今考えたノアの洪水も、その一つだ。
確かに老人は、同じような天変地異が大きいものだけでも六回はあったと言っていた。
――小さいものも含めると、何百回もてんちかえらくはあった。そのように、多いなる大悲観で天地かえらくという地上の大掃除を神はされたことも何度もあるし、神霊界の事件が現界に映されての天変地異もあった。いずれにせよそれらは神の怒りからとはいえ、神は決してわが子である人類を憎んだりはしない。だから人類への罰ではなく、大愛のみ意から発した大掃除なのだよ。現界の人々にとってはただの自然災害にしか見えないから、そのへんの事情は分からないであろうが。
――肉体に入ると、何もかも分からなくなってしまいますものね。
――物質的な能力だけでいえば人はほかのどの動物より抜きんでているともいえるが、霊的な力ともなると魂として本来備わっている霊力の十分の一しか人は現界では使えなくなる。現界人は想念で話すことも、時間や空間を超越することもできないだろう? 霊的能力だけじゃない。意識すら十分の九はこの霊界において、人は現界に生まれていくのだ。その霊界に置いていく魂を種魂といって、そこには再生転生中のあらゆる記憶、罪穢などが記録されている。そういう意味でも霊界こそが実在界で、現界はそれが投影された写し絵、仮の現象界にすぎない。
――それなのに、目に見えるものがすべてと思い込んでいる現界人は、哀れなものですね。
――逸れは仕方がない。そういうふうに仕組まれているのだから。今は、神が人々に物質開発をさせようとなさっている時代だ。神経綸の歴史ではそうなる。しかし、いつまでも仕方がないとはいってはいられなくなる。今は神が人間に自由を許し、ある程度の悪も認めている自在の世だが、やがて悪は許されなくなる限定の世が来る。
老人の言葉――想念に力が入った。この世界に来てイェースズは、ブッダ・サンガーで聞いた「プラジャナー・パーラミター・スートラ」の内容が実体験として分かるようになったし、またそれがいかに偉大なスートラであったかも実感した。
――パーラミターとはだな、
もう老人は意識を読みとっている。
――パーラとは「陽が開く」という意味だよ。陽が開けば左回転となる。つまり、霊が主体であることを「見た」ということで、つまり霊眼に達するということだ。そうすれば人は輪廻から解脱し、さらに高級な神霊界の住人となれる。天国より上の世界で、もはや幽体もいらない第五の界だ。さらに第六、第七と上がるにつれ、神霊界から神界となっていく。つまり、そこが本当の神の世界だ。
話を聞きながら、イェースズはふと疑問を感じた。
――あのう、天国の上の段階の人は自分が高級霊界に入ろうなどという自己愛はないとのことでしたが、しかし高級霊界に入ることが魂としての究極の至福なら、現界にて物質による地上天国を造れという人に与えられた使命とは矛盾するような気がするのですが。だって、高級霊界に入ったら、輪廻を解脱して、もはや二度と現界に転生することはないのでしょう?
老人はニコリと笑った。そしてしばらく間をおいてからゆっくりうなずき、語りだした。
――確かに神霊界にまで上がったら、現界に転生はしない。しかし、神から与えられた使命と無縁になるわけではない。すべては神の広大な、計り知れない偉大な計画のうちに生かされているんだ。
――例えば、どういうことですか?
――神霊界に住む高級霊人は、宇宙の指導霊として活躍する。おまえさんがたのいう「天使」だよ。つまり、神の仲間入りだ。そして時には、現界に歯止めをかけるため、神の依さしを受けて現界に下ろされるものもいる。例えばゴータマ・ブッダ、モーシェらがそうだ。しかしその場合でも現界で肉身を持った以上、すべての霊的感覚は閉ざされるから、一から修行をし直す必要があるのだ。おまえさんも、分かったかね?
老人の最後の謎めいた言葉にイェースズはめまいを覚えた。頭がクラッとしたのだ。すぐにわれを取り戻したが、何かが頭の中に引っかかっていた。とてつもなく重要なことなのに急に忘れてしまって、どうしても思い出せないという時の感覚とよく似ている。
それにはかまわず、老人は言葉を続けた。
――また、天の時が来れば高級霊人たちは、聖霊として一斉に降下するのだ。さあ、おいで。
老人が歩きだしたので、イェースズがそれを追うと、まだ山を下っていないはずなのに気がつくと別の山の山頂にいた。かなり高い山のようで、眼下を黄金や紅、紫など色とりどりに織りなされた雲が雲海となって広がっている。
今度は本格的にイェースズはめまいを感じ、その場に倒れた。意識がどんどん薄らいでいく。そして気がつくと、自分が宙に浮いているのを彼は知った。下にはもう一人の自分が倒れていて、ちょうど現界のクライ山で肉体から離脱した時と同じ状況だ。しかし、肉体は現界にあるはずである。
――あれは、おまえさんの幽体だ。
心の中で、老人の声が響いた。しかし、どこを見ても老人の姿はなかった。
――現界で肉体から幽体離脱したように、今度は幽体から霊体離脱したのだ。今、おまえさんは幽体をも脱ぎ捨て、霊体のみの存在となったのだ。
次の瞬間、イェースズは光のドームの中で急上昇していた。そして突然、目の前に閃光が現れた。
――体を伏せなさい!
そう言われるまでもなく、そうせざるを得なかった。ものすごい光圧が襲ってくるので、縮こまらなければ立っていられない。また、立つということ自体不可能だ。なぜなら地面はあってないようなものだからだ。前も後ろも右も左も上も下も、自分を取り巻くすべての世界が閃光の渦であった。今イェースズは、黄金色の光の洪水の真っ只中にいた。光のシャワーが、四方八方から襲いかかる。そんな中にいても、イェースズは恐怖ではなく、むしろ安心感を覚えていた。言葉では表現できないような包みこまれるような懐かしさに胸の中に熱いものがこみ上げ、それがそのまま涙となって彼のほほを伝わった。この嬉しさは、歓喜は何だろうと、イェースズはただただ戸惑うだけだった。
――ここが、神霊界だ。神の懐に包まれた世界だ。
そんな心の中の声に、イェースズはせめてもう少しでもと前に進もうとした。すると前方の光に塗りつぶされた中に、うっすらと巨大な宮殿が見えたような気がした。黄金の巨大な屋根はちょうど切り妻の三角の部分をこちらに向け、棟木は勢いよく湾曲して宙に上がっていた。棟木の中央には、赤い玉があった。屋根の下は鳥が羽を広げたように左右にさらに屋根は三重になっており、中央には幅の広い大きな階段が大屋根の下まで伸びていた。また、その宮殿の手前には光の塔が二基、左右対称に立っていた。
イェースズがたどり着けたのは、その垣根の所までだった。あれが神様の住む宮殿なのかと思っていると、
――おぬしと言えども、ここより先は入ることできぬなり。
と、言う声がまた心の中でした。今までの老人の声とは違う口調だった。
光はすべて黄金だが、宮殿は微妙に赤や紫などの色彩が織り混ぜられており、しかも仮に赤とか紫と表現しても、実際は現界には絶対に存在し得ない不思議な色彩だった。さらには、得もいえぬ芳香が漂い、またこれも現界には存在しない不思議な音声が絶え間なく響き渡っていた。それは芸術の極致で、神の世界は至高芸術界であり、人間の想念では造り得ない最高の芸術であると、イェースズはその世界に酔いしれていた。するとイェースズの体は何かに急激に引き寄せられ、どんどんと落ちていった。
そして再び幽体の中に戻り、先ほどの山の上に立っていた。ゆっくりと立ち上がると、そばには霊の老人がいた。
――これで、霊界探訪は終わりだ。
イェースズは、老人を見た。
――ここで見聞したことを、これからの精進の糧としなさい。決して文章に記録するに及ばない。すべてを明かなに人々に告げてもならない。天の時は近づいているとはいっても、まだしばらくはそれをはっきり告げる時期ではない。ただ、ほんのカケラなら伝えてもよい。
――あのう、あなた様は?
――とある老仙、神の使いの神だ。
やはり、神の一人だったのだ。
――行け! 行って精進を積め。おまえさんの使命は、おまえさん自身でサトルしかない。
イェースズがゆっくりうなずくと、彼は小さな雲に乗っていた。やがて雲は次第に上昇していった。
――ス直を忘れるなよ。子供のような心が大切だぞ。
最後の老仙の言葉が、心に響き渡った。次の瞬間、雲は消えた。雲から振り落とされたイェースズは、どんどんと落ちていった。そして、現界のピダマの国のクライ山の祭壇岩の上で再び肉体の中に戻り、イェースズはゆっくりと立ち上がった。当たり一面を夕日は、真っ赤に染めていた。