3
池をあがってすぐの所にある神殿の前に、イェースズはミコとともに再び額ずいた。
思えばここで同じようにミコと参拝し、その直後にあのお堂にこもったのだった。なぜかそれが、遠い昔のことのように思える。そして、同じ場所の同じ神殿に参拝しているのに、新鮮さを感じるのだ。場所は同じでも、自分の方が変わってしまったらしい。
拝礼が終わって立ち上がったミコに、イェースズは背後から声をかけた。
「あのう」
ミコは、笑顔で振り向いた。
「何かね?」
「あのお堂に入ってから、もう何日くらいたったのでしょうか」
「ちょうど四十一日目だよ」
「え? 四十一日も?」
途中から日数を数えることを放棄してしまった彼だったが、あらためてその日数の長さを知らされて驚いた。
「さあ、山に戻ろう」
ミコに促されたが、イェースズはまだ食い入るような目でミコを見て言った。
「一つだけ、聞いていいですか?」
「どうぞ」
「あの御神殿の扉にある絵は、何の絵ですか?」
「ああ、あれかね」
ミコは神殿の方を振り返った。その木の扉にある例の壷のような絵のことを、イェースズは尋ねたのだった。
「あれは、パパダマだよ」
「パパダマ?」
今のイェースズなら、「パパ」というのが、この国の言葉では母親という意味だということが、すぐに分かる。
「ピピイロガネという金属でできた巨大な壷で、全人類の魂がそれに入れられて天から下ってきたのだそうだ。その場所が、つまりここなんだよ」
ミコは、自分の足元を指差した。あまりの突拍子もない話にイェースズはしばらくきょとんとしていたが、またミコの目をみた。
「それって、いつごろの話ですか?」
「遠い、遠い昔だ。この国がまだ島ではなく、巨大な大陸の一部だった頃の話だ」
「では、少なくとも一万二千年前よりも昔ですね」
ミコは笑った。
「いくらなんでも、そんなに新しくはない。何十億年という悠久の昔だ」
「え?」
イェースズはしばらく言葉を失した。アダムとイブでさえ、四千年前の人だと聞いている。この国と地続きだった大陸が沈んだというのが一万に千年前ということさえ、イェースズの常識を打ち破っているのだ。しかし、億の単位がつくと、それどころの騒ぎではなくなってしまう。
「そんな昔から、人間はいたのですか?」
「ああ、いたとも。肉身ができたのがいつかは別にしても、霊による人のもと、すなわち霊成型が創造されたのは今から約五十億年前で、その二万年後に女が創られたのだ」
確かに聖書でもまず男が創られ、後に男のあばら骨から女が創られたとなっている。しかし、聖書では、男が創られた後に女が創られるまでの間の時間的感覚の記載はない。だから、二万年という数字は驚愕であったし、実際の人類の歴史は聖書の記載よりも遥かに悠久雄大ということになる。
「男が創られてから女が創られるまで、二万年もあったのですか? その二万年の間は、男だけの世界だったのですか?」
「違うよ」
ミコは笑っていた。
「あくまで今も言った霊成型という霊質による人間の原型の話で、実際に肉体を持つ人間として物質化したのは、ずっと後だろう」
「やはり肉体は、土をこねて創られたのですか?」
「こねてだかどうだかは知らんが、確かに肉体は土だ」
「その土の肉体に、神様が吹きを入れられたと私たちは教わりましたけど、その神様の吹が霊魂なんでしょうか?」
「霊の本質は火だ。そのへんの話になると複雑になるので、まあ、焦ることはない。追い追いに話していこう」
ミコは気さくに笑いながらイェースズの肩を軽く叩き、ゆっくりと歩きだした。ミコの話は、すべてパウゼツの老人ナタンの話と一致する。だからミコのあとを着いて歩きながら、イェースズは無性にうれしくなった。
歩きながらイェースズは、また鼻をすすった。
「おや? 鼻が出るのかい?」
「はい。あのお堂の中でずっとでした。そればかりか下痢はするし、大変でしたよ」
「熱は?」
「少しあったようです」
「それはよかった」
やけにニコニコして、歩きながらも振り返りつついった。イェースズは怪訝な顔をした。なぜ鼻が出たり下痢をしたり、熱が出るのがいいことなのだろうかといぶかっていると、ミコはすかさず言った。
「熱が出て体内にたまって固まっている毒素を溶かし、どんどん鼻水や下痢となって体外に排泄されるのだから、こんないいことはないではないか。それだけ、体の中がきれいになるのだからな。すべて体の清浄化作用なのだから、喜べばいいじゃないか」
どうもこの国で聞く話は、奇妙なことが多い。しかしイェースズは、疑うな、ス直に受け入れよと自分に言い聞かせるのだった。
しかし、どうしてもぬぐいきれない疑問もあった。昨夜の衝撃的な出来事が夢ではなかった証拠に、今こうしてミコとこの国の言葉で会話している。しかし、そんなことがあったその翌日に、ミコが自分を連れ出しに来たのは、単なる偶然なのだろうかと思う。しかもイェースズが突然この国の言葉が分かるようになっても、ミコはなんら不思議に感じている様子はないのだ。
その疑問をミコにぶつけたかったが、そうすることは昨夜の神啓接受をも打ち明けねばならないことになる。果たしてそうしていいものだかどうだか、イェースズには判断がつかずにいた。
イェースズが迷っているうちに、ミコの住む小高い山のふもとに着いた。そして、杉木立の間の登り口に差しかかった時、イェースズは意を決した。
「あのう」
「ん?」
ミコが振り向いた。しかしイェースズの口をついて出た質問は、
「あ、あのう、この山の名前は何というのですか」
という、ぜんぜん関係のない内容だった。なぜか気がついたら、口が勝手にそう質問していたのだ。
「この山かね。トト山ともオミジン山ともいわれているよ」
それらは山に登る前に、村人たちからも聞いた名前だった。
「私は、トト山と聞いてきたのですが」
「トトとは父という意味だよ」
父……天の御父の山、それはエジプトではピラミッドを意味していたことを、イェースズは思いだした。
道が右に湾曲して、五色の絨毯が現れだした。
「この五色の絨毯はね」
今度は、ミコの方からイェースズに話しかけてきた。
「全世界の人間を表しているんだ。全世界の人間は五つの色の肌を持つ人々で構成されている。その五色人を表すのがこの絨毯なんだよ」
確かに、イェースズのユダヤ民族の肌は赤い。ローマやギリシャの人々の肌は白く、青い肌の人も時々はいる。アーンドラ国へ行くと、黒い肌の人もいた。
「確かに世界には、いろんな肌の人々がいます」
「それら五色人の発祥地が、この国なんだよ。この絨毯は、そのことをも表しているんだ。この道は、五色人創造の神様を祀る神殿に続いているのだからな」
聖書には世界の人々の言語が異なる所以についてなら、バベルの塔の話として記載されている。だが、世界の人々の肌の色の違いについては言及されていない。
二人は階段を登り始めた。やがて小型の模型のような神殿が見えてきた。もしあのような小さな神殿が天地創造の神を祀る神殿なら、神様に失礼じゃないかなとイェースズはふと思った。
二人は階段を登りきり、神殿に向かって右手にあるミコの住む小屋の前に立った。はじめてここに来た時に見た三本の旗もそのままだ。
「いいかね。この旗をよく見なさい」
結局イェースズは、肝腎なことはミコに何も聞けないまま、ここに着いてしまった。ミコが旗を見よと言うので、イェースズはまずその旗を見た。旗はミコの住む小屋の屋根よりも高く、風にはためいていた。
「あの真ん中の旗の、赤い丸はどんな意味です? 太陽ですか?」
「その通り。この国がかつて巨大な大陸だったときからこの国は太陽の直系国で、太陽がその象徴だった」
太陽崇拝自体には、イェースズには抵抗はない。幼いころからエッセネ教団の特徴である早朝の太陽礼拝を行ってきたし、エジプトの太陽神ラーの信仰も知っていた。ただ、太陽の直系国とはどういうことなのだろうかと、ふとイェースズは思った。昨晩お会いした神様は、目もくらむような閃光のお方だった。
「あのう。太陽の直系国とは?」
「太陽の直系国というのはこの国が霊の元つ国であり、人類発祥、五色人創造の聖地ということで、あの日の御旗はそのことを表しているんだよ」
「霊の元つ国?」
イェースズは、昨晩の御神霊のお言葉の中にもはっきりと同じ言葉が出ていた。
「昔この国は巨大な大陸で、その頃この国にいて全世界を治めておられた世界大王がいらっしゃった。その大王をスメラミコト様と申し上げるのだが、その二番目の王朝ツクリヌシキヨロドゥオ朝のスメラミコト様が制定されたのがこの旗だ。その後、人類は何回かの天変地異を乗り越えて、二十六番目の王朝であるウガヤプキアペズ朝の初代のスメラミコト様が、この旗を再び国の印に選定遊ばされた。だが、決してこの国の旗ということではなく、日の神様を表す全世界の旗なのだ」
「昔、この国は巨大な大陸だったとおっしゃいましたが、私はかつてキシュ・オタンという所で、一万二千年前に大洋に沈んだムーという国のことを聞きました。そこが人類の母なる国であったということなんですけれど、その巨大な大陸とはムーのことですか?」
「うむ」
少しうなって、ミコは自分の顎鬚をいじった。
「そういっていたかどうかは、ここにある古記録やわしが伝え聞いた話にはない。しかし、そう呼ばれていた可能性はある。神様はこの国で、人類の霊成型をお創りになった。それを物質化された訳だが、そういうふうに無から有を生じせしめ得るのは、ただ神様だけだ。だから、無有の国といったかもしれない」
イェースズは、一応納得した顔でうなずいた。
「次にあの右の旗、あれは何だか分かるかな?」
「花……ですか? 菊の花?」
「違う!」
きっぱりと、ミコは言い切った。しかしどう見ても、中心の小さな円から放射状に花びらが伸びた金色の菊の花の図案にしか見えない。菊の花はイェースズがティァンアンにいた頃、よく目にした花だった。しかし、ミコは厳かに言った。
「あれも日輪だ。太陽を表している」
そう言われてもう一度旗を見てみると、そう見えなくもなかった。花びらは、中心の太陽から放たれる光条とも思える。
「あの旗も、日の御旗と同じスメラミコト様によって制定された。中心の円は太陽であり、世界の中心であるこの国を表している。そしてそこから伸びる光条は、十六本あるだろう?」
数えてみると、確かに十六本だ。
「皇統第二代ツクリヌシキヨロドゥオ朝のスメラミコト様の御時に世界の各地に支国を建てるため、本家であるこの国から十六人の皇子が派遣されたんだ。その十六人の皇子が建てた国が、今世界に存在するさまざまな国なんだよ」
「じゃあ、隣のシムの国も?」
「そうだよ。シムは何度か王朝が代わっているが、大元は十六人の皇子のお一人のバンシナ・テイセイオウミンという方だ」
「では、私の故国のイスラエルは? 私の国の教えでは、神様が最初に創られた人類はアダムとイブという名の男女ですけど」
「十六人の皇子の中の唯一の皇女様で、ヨイロパ・アダムイブヒ・アカヒトメソ様という方がおられた。派遣された土地を、メソ様が行かれた土地だからメソポタミヤという」
「アダムイブヒ?」
「その王子に、さらにアダムイブ・ミツトソンという方がおられた。君の民族の祖先は、その方だ」
「アダムとイブという二人の男女ではないのですか?」
「二人ではない。アダムイブとういう一人の方だ。いいかね、もし仮に最初の人間が男女二人しかいなかったら、その子どもは誰を嫁さんにしたのかね?」
そのことはイェースズがかねがね疑問に思っていたことだけに、心の中であっと叫びたい気持ちだった。しかも、その後のミコとの言葉は、イェースズにとってさらに衝撃的だった。
「その方は、エデンの園に行かれた」
エデンの園というのは、イェースズの故国の聖書にでてくる存在だ。それがこんな遠い異国の人の口からその名が出ようとは、イェースズは一瞬呆気にとられてしまった。
「そのエデンの園も、この国にある」
「え?」
しばらく目を見開いていたイェースズは、ようやくミコの腕をつかみ、
「もっと詳しく、教えて下さい」
と、ぽつりと言った。
「神理というものは、そう簡単に一度に教えられるものではない。物事には順序というものがあって、すべてが段々なのだ。階段だって一段ずつ段々に上がるだろう。それを一気に何段も飛びあがろうとしたら、ひっくり返って頭を打ってしまう。夜が朝になるのも段々だ。いきなりパッと明るくなったら、多くの人は気が狂ってしまうだろうよ」
そう言って、ミコは高らかに笑った。そして、最後に残ったもう一本の旗を指さした。
「今度はあれだ」
「あれは……」
初めてここに来た時から気になっていた旗だけに、イェースズはじっとそれを見つめた。
「あれは……ダビデの星……」
正三角形を二つ、上下逆に重ねたヘキサグラム――六芒星は、ダビデ王がその紋章として使っていたマークで、いわばイスラエルの民のシンボルなのだ。
「あれは、この国の言葉ではカゴメという」
「カゴメ?」
「神と人との関係を示した、神秘の紋だ」
「私の国ではダビデの星といいますが……。それがなぜここに?」
「モーセがここで修行していた時、モーセが神から授かった紋だ。それが、ダビデ王に伝わったのだろう」
何から何まで不思議だった。自分の民族の印が、こんな遠い国にある。しかもそれだけではなく、こちらが発祥元だというのだ。もうひとつの十六光条日輪紋も、幼い頃の記憶をたどれば、エルサレムの城壁のどこかについていたような気もする。
「さあ、神殿にお参りしようか」
ミコに促されて、イェースズは小型神殿に向かった。そして、ミコとともに御神前に額ずいて、ミコに合わせて三拍手を打った。参拝が終わって四拍手を打った後、ミコは立ち上がった。
「御神殿の名を教えておこう。スミオヤ・スミラオ・タマシピ・タマヤという」
「本当にこんな小さな神殿が、天地創造の神様を祀っているんですか?」
あの巨大なエルサレム神殿のことが、どうしてもイェースズの頭から離れない。偶像崇拝のクリシュナ神の寺院でさえ、あんなにも堂々としていた。
ミコは黙っていた。イェースズはしまったと思った。またス直になれず、屁理屈を言ってしまった。しかしミコはすぐに、笑顔を取り戻して言った。
「天地一切を創造された主催神はおひと方だが、奥の奥のそのまた奥の神様であって、その神様のみ意を顕現させる多数の眷属の神々や御家来神がいらっしゃる。そのすべての八百万の神々を合祀するのがこの御神殿だ。神様のみ働きには二つの面があって、一つは霊の面、一つは体の面で、この御神殿は霊の面のみ働き、すなわち日の系統、火の系統の神様を祀るみ社なんだ」
イェースズはばつが悪く、黙って聞いていた。ミコはさらに、話を続けた。
「君が籠もっていたお堂の近くのもう一つ後神殿だがね、ほら、先ほど一緒にお参りした」
「はい」
「あの御神殿は月の系統、水の系統の神様をお祀りしているんだ。今はこの山の上とふもとで、火と水の神様がほどかれて祀られている。この御神殿がホドの宮、川の向こうの御神殿がメドの宮ともいう」
火と水がほどかれていると言われても、この時のイェースズにはまだ何のことだか分からなかった。だから、
「メドの宮の方が、大きいんですね」
と、率直な感想だけを言った。
「そういう時代なんだよ、今はまだね」
ミコは、神殿の背後に続く山の頂きに目をやった。
「かつてこの国にまだ世界政庁があり、スメラミコト様が君臨されていたころはな」
ミコは山の頂上を指さした。
「あそこに、あの山の上に、今の世界のどこにもないほど巨大な神殿、それもすべて黄金で造られた大神殿があったんだ」
イェースズも、ミコが指さす山の上を見上げた。若葉萌えいづる木々の緑が覆うだけの、今では何もない山頂だ。
「その黄金神殿はな、アマツカミ・クニツカミ・パジメタマシピ・タマヤといったんだ」
ミコの声が、ひときわ大きくなった。ただ顔は、常に柔和さを崩さずにいた。
ミコの小屋には、三つの部屋があった。それぞれの部屋に行くには、外の廻廊に一度出ないとならない。廊下が中央にある建物になじんだイェースズには、不思議な構造の小屋だった。
夜になって、中央の部屋でイェースズとミコは、中央の部屋で灯火を間に向かい合って座っていた。ここは居間か客間のようだ。床は板ばりでその上に直接座ることは、パウゼツのナタンの家と同じだった。右の部屋は寝室のようで、ミコの家族もそこにいる。今日の神殿参拝の後、ミコに妻がいること、そして赤い池のお堂にイェースズが籠もっていた時に毎日食事を届けてくれた童女がミコの娘だということを、イェースズははじめて知った。ほかにも、男の子が一人いるという。ミコの妻は少し太り気味だが気さくな女性で、今もニコニコ笑いながら酒の入った瓶を持ってきてくれて、冗談を一つ二つ言ってから隣室に帰ったばかりだ。
酒の瓶はどす黒くて縄目の紋様が入っていることは、このあたりの庶民の集落にある土器と同じものだ。同じようなどす黒い杯でイェースズは酒を何杯も飲み、ただでさえ赤い顔をさらに赤くしていた。
「よく飲むなあ」
と、ミコが感心したほどだ。故国を離れた頃はまだ酒が飲める年齢ではなかったイェースズで、そのまま禁酒のブッダ・サンガーに入ったが、酒の味はキシュ・オタンからシムに至るまで一緒だったユダヤ人の隊商との旅の生活の中で覚えた。
「君はいくつだ?」
「十八です」
と、イェースズは答えた。そして、ミコを見た。
「ミコ様は何でもご存じで、しかもそのことすべてが、私が求めていたことのようです」
「君は、どんなことを求めてきたのかね?」
ミコも、杯を口に運びながら上機嫌だ。
「私の国には、聖書という神の教えがあります。しかしそれを説く教師たちの行動や、今の儀式や形式ばかりの教えに疑問を感じていたのです。同じ神に仕える身でありながら、パリサイ派だのサドカイ派だのに分かれて、お互い争っているんです」
「君はそのどちらだったのかね?」
「私の家はそのどちらでもなくて、エッセネという特別な教団に属していました。でもどれもが唯一の真理とは思えずに、それで国を飛び出したんです。そして最初に行った国でゴータマ・シッタルダーという人、つまりブッダの教えに触れ、その教団であるブッダ・サンガーに入りました」
「おお、ゴータマ・シッタルダーか」
「ご存じなんですか?」
「釈尊のことだろう」
「釈尊?」
「彼も、この国で修行していたんだよ」
「ええ、ブッダ・サンガーにいた時、実はブッダが修行したのはサルナート、つまり東の日の出る国だとある人から聞きまして、それでその国に行きたいとここまで来たんです。やはり、ここがそうなんですね?」
「そうだ」
今までほとんど確信していたとはいえ、自分の疑問に対するはっきりとした回答をイェースズははじめて得たような気がした。
「彼はこの国では、釈迦天空坊と名乗っていた。だから釈迦尊者、あるいは釈尊というんだ」
確かにゴータマ・シッタルダーは、シャキープトラーという一族の尊者だった。
それにしてもこのミコという人は、イェースズの疑問をことごとく氷解させてくれる。そして、ゴータマ・ブッダの名さえすぐに出てきたような人だ。だからイェースズは、居を正した。
「ミコ様、お願いです。私をこの地で修行させて下さい。私を弟子にして下さい」
ミコはすぐに、大声で笑いだした。
「今さら何を言うのだね。わしは最初からそのつもりだ」
「え?」
むしろイェースズの方が、きょとんとしてしまった。
「だからこそわしは、君を釈尊やモーセも籠もった赤池白龍満堂に入れたのだよ」
「ブッダもあそこに?」
「そうだ。ブッダもここで修行したのだ」
そうだったのかと、イェースズは納得した。しかしそれ以上に、モーセやブッダの修行の地がここと聞いて飛び上がらんばかりだった。
「ありがとうございます」
イェースズは、深々と頭を下げた。
「どうかこの国の教えを、私に伝えてください」
「この国の教えではないぞ」
ビシッとミコは言った。
「釈尊が学んだのもモーセが学んだのも、単なるこの国の教えではない。一国の教えではなく天地一切の万象弥栄えの法、惟神のミチだ。全人類に普遍の教えなのだよ」
「その通りだと思います。すべての国の神の教えは元一つだと、私はかねがね思っていました。だからこそ、この国に来たんです」
「分かった。その、全世界の教えの大元の教えを、君に伝えよう。ただし、昼間にも言ったように、すべてが段々だぞ。一度には教えられん」
「はい」
明るく元気よく、イェースズは返事をした。
翌日から、イェースズの修行の日々が始まった。
まず彼が命ぜられたのは、小屋と御神殿前の広場の掃除だった。早朝、まだ太陽も昇らぬ前に起こされ、そのための道具を渡された。掃除が終わったのはようやく日が昇ろうとしている時で、朝食もまだだからかなり空腹を覚えていた。
しかし次にイェースズはミコにつれられ、御神殿の前に座らせられた。朝の参拝だという。ミコとその家族も整列し、イェースズもそれに加わった。ミコの先達で参拝を終え、それからやっと朝食だった。
それからというもの、毎日がこの連続となった。昼は時には海に行き、魚や貝を採ってくる。北に真っ直ぐに行くと、朝食後すぐ出発すれば、昼前には海に着く。ずっと長く続く白い砂浜で、海岸の松林の緑が鮮やかだった。岸は左右とも湾曲して海に突き出ているので、ここはちょっとした湾になっているらしい。驚いたことに、海に向かって右手の方の湾曲した砂浜の先は、白い壁のような山脈がそのまま海に沈みこんでいる。
貝は砂浜を掘ればすぐにざくざく出てくるが、これは食用ではなく捕獲した魚や獣肉を腐らないように保存するためのもので、貝肉が含んでいる海の塩分を利用するのだそうだ。平地の集落の周りにはそのような貝の殻を捨てる一定の場所もあって、次に海に出る時は貝殻を背負って途中で捨てて行ったりもした。
イェースズはてっきり毎日のようにミコから神の教えや世界の歴史の真実について矢継ぎ早に教えてもらえるものだとばかり思って期待していたが、実際の生活は清掃と神殿参拝、そして狩猟に明け暮れるというものだった。その間、ミコから教わったことといえば、石の鏃のついた槍でいかにして草原を走る鹿や猪などを捕らえるかということだけだった。
海に行かない日は、そうして草原でけものを一日中追っている。それでもイェースズは何か深い訳があるのだろうと、不平不満の想念だけは持たずに、与えられた任務に力を出しきった。
東に連なる山脈の雪も少なくなり、青い山肌を見せるようになってきた。頂上には若干雪が残っているとはいえ、気候も一気に暖かくなってきている。そうなると、枯れ草ばかりだった平原に若葉が一斉に芽を吹き、色とりどりの花が咲き乱れるようになった。明るい陽ざしの中、その間を蝶が群れ飛ぶ光景は、まさしく天国そのものだった。アーンドラ国でも一年に一度、国中の花が開く季節があったが、これほどまでには美しくはなかった。この美しさと明るさは単に咲き香る花のせいばかりではなく、もっと霊的に高次元な意味での明るさと美しさであって、やはりここが故国で教わってきた天国なのではないかと、イェースズは変わりゆく四季の表情豊かなこの国の自然の中で実感していた。大自然というほどスケールは大きくはないが、繊細で優美な自然に抱かれてイェースズは暮らしていた。
花の季節は終わりはしないが一応一段落つくと、今度は草がものすごい勢いで伸びて、平地中が草いきれの茂みと化していった。
そんなある夕暮れ時、ミコやその家族とともに夕食をとりながら、イェースズはここ最近質問しようと思っていたことをミコに聞いてみた。夕食は外で焚き火をし、その火で今日獲ったばかりの猪の肉を焼き、貝から取った塩水に浸して食べる。ほかの土器には山菜の若芽が盛られていた。
「ミコ様。ここでは獣を御神前で焼き、神様に生け贄として捧げるという風習はないのですか?」
「君の国では、そうしているのかね?」
「はい、神殿で子牛や羊などを焼いて、生け贄として捧げています」
「何のために?」
「何のためなんて、私には全くその意味が分かりません。神様の前で動物を殺す、それを神様は本当にお喜びになるでしょうか?」
「確かに、間違ってはおるな。しかし、意味がないとは思わない」
ミコの口から自分の疑問に対する弁護が出たので、少しイェースズは意外に思った。
「自分が得たものを自分だけの力ではなくて神様のお蔭と感謝して、その感謝を形に表すと言う心は間違ってはいない。ただ、その方法がどうかなというところだ」
「はあ」
「確かに、無益な殺生には違いあるまい。すべての動物も植物も神様がお創りになって生命をお与えになったものだから、それを殺す権利は人間にはないだろう。神様は不必要なものは、一切お創りになっていないはずだ。だから生きものを、食べるため以外に殺すことは大きな罪になる」
「食べるためなら、殺してもいいってことですね」
「いいって訳じゃあないが、大目に見られるということだ。だから食べる時も、今こうして自分に食べられ、自分の生きる力になってくれるのだからと、その動物に手を合わせて感謝するくらいの想いがないとだめだ。もちろん、その創り主の神様にも感謝を忘れてはならん。一切が感謝だ」
「確かに、当たり前と思いがちですよね」
そばで聞いていたミコの妻も、ふふと笑った。
「そう、それが人間の我で、いちばん恐いことよね。よく村に獲物を交換に行くと、これは自分が獲ったんだと鼻にかけている人もいるし」
この国では貨幣というものがなく、すべて物々交換なのらしい。
「結局自分が、自分がって言っている人は、物欲旺盛で、執着心も人一倍」
「そうだとも。執着は、それ自体で地獄行きだ」
と、ミコが妻の言葉を引き継いだ。それを聞きながらイェースズは、この人たちの言葉は間違いないと実感していた。ブッダ・サンガーで聞いた話とも矛盾しないし、自分の故国の教えともまた一致する。それでいて難しく哲学化されている訳でもなく、実に分かりやすい。やはり、ブッダの教えの元はこっちなんだと感じる。それだけでなく、ユダヤ教といいバラモン教といいゾロアスター教といい、すべての教えの大元は一つ、つまり万教の元は一つであって、その大元がこの地にあると感じられるのだ。
ミコはさらに、言葉を続けた。
「猛獣といわれる狼でも、お腹がすけば小動物を捕らえて食べるが、満腹の時はどんなにウサギやネズミが目の前をちょろちょろしていても知らんぷりをしている。この動物を殺していい土器や穀物と交換しようなんて、そんな欲心で殺生をするのは人間だけだ。ましてや、時には人間同士で殺し合いをする。そんな動物はほかにはいない」
あたりも暗くなりはじめた。焚き火の炎だけを頼りにイェースズは肉を一つ口に運び、それから顔を上げた。そのイェースズに対し、微笑みながらミコはまた言った。
「人間の欲とは、きりがないものだ。不平不満の想いで貪れば、余計に新しい欲が湧いてくる。その悪循環を断ち切って想念を転換し、すべて与えられたもので足りる心を知ることが大切だ。そうすればそこに、おのずから感謝の想いが湧いてくる。どうかな。君はここで暮らせるのが、当たり前と思っていなかったかな? 毎日毎日掃除や狩りばかりさせられ、ちっとも神理を教えてくれないじゃないかと、不平不満の想念になってはいなかったかな?」
「いえ」
と、だけイェースズは言った。その言葉に嘘はないつもりだったが、心の隅々まで点検すると、どうもぼろが出る。そういった悪想念が出そうになるのを、必死に心で抑えていたのがイェースズの現状だった。
イェースズが少しうつむいたので、ミコは大声で笑った。
「どんなに真実の人類の歴史を知っていても、どんなに霊的な知識に長けて、また霊的な力があっても、ちっとも偉いと言うことにはならないのだよ。人格、つまり徳が備わってないといかん。まずは自分を創ることだ。あの人の言うことなら間違いないと、無為にして化すことのできるくらいの人に、まず己が切り替わって見せることだ。明日からはすべてのことをことごと一切感謝してさせて頂くよう。いいかね、『する』んじゃない。『させて頂く』のだ。そう心がけてみなさい。霊的な行がもちろんいちばん大事なのだけれど、心の行もおろそかにしてはいかん」
「はい」
「今こうして生きているのも、実は『生きている』のではない。『生かされて』いるのだ。すべての事は『させて頂いている』んだ。その生かされている意味をよく考え、させて頂けていることに感謝ができるようになると、自然と人は顔つきもにこやかになる。暗い顔つきをしているうちは、感謝ができていないということだよ」
慌ててイェースズは、ニコッと笑って見せた。それがうけてミコも妻も大笑いをした。
「そうそう。そうしていつもニコニコして明るい想念でいて、明るい言霊を発していれば、自然と運命さえ陰から陽に切り替わってくる」
「はい。有り難うございます」
顔を上げ、明るくはっきりとイェースズは言った。ミコも、満足げに笑ってうなずいていた。
「そういて心の行を積んで、そしていちばん大事な霊的な体験をも積んでいくことによって、はじめて神理は体得できる。そうでなければ、いくら言葉で語ったところで、神理というものは到底受け入れられるものではない。まずは、すべて霊が主体であるということをサトるのが、いちばん大切なことだよ」
そう言ってからミコは、貝の汁を吸った。
翌日から、イェースズはいつもニコニコするように心がけた。もちろん、自分一人でいる時もだ。そうするだけでこんなにも周りが違って見えるものかと、イェースズは驚いた。掃除も狩りも、全くつらくなくなった。明るく楽しくさせて頂いているうちに、感謝ということをかけらでも分からせて頂いたような気がしてきた。明るく感謝して過ごすこと自体がス直の行でもあり、自分自身が目指していた子どものような心もこれなのではないかとイェースズには思えてきた。その証拠に、最初は話をするにもぎこちなかったミコの二人の子どもとも、打ち解けて楽しく接することができるようになったからである。子どもたちも最初はイェースズとの間に垣根を作っていたかのようであったが、イェースズが変われば子どもたちの態度も変わってきた。お兄ちゃん、お兄ちゃんと言ってイェースズを慕い、海に行くのも狩りに行くのも一緒だった。
しばらく雨ばかり降り続いた季節を通り過ぎると、太陽の陽射しが急に強く当たるようになり、この国にも夏が来ようとしていた。それにしても、こんなに季節感をはっきりと感じ、しかも四季折々独特の風情がある国はイェースズにとってはじめてだった。春は若葉と色とりどりの花、そして暖かい陽光に包まれ、夏は夏で強い緑が山を多い、蝉の声がけたたましい。空には大きな白い雲がわき上がり、草原にはトンボが飛びかっていた。どこまでも繊細で優しい自然だ。このような気候に恵まれた土地だから、人々は自然の中に溶け込んでそれと一体化し、自然と対峙、対立しようなどという考えは微塵もないようだった。
そのように季節が変わっても、イェースズはよくなついてくれている二人の子どもの名前を知らずにいた。この国に来てはじめて行った村での体験が、どうしてもイェースズに子供たちの名を尋ねることを躊躇させてしまう。ここでは名前は聞いてはいけないのだという固定観念が、イェースズの中でできてしまっていた。しかし、ここで生活する以上、名前も知らないではどうもちぐはぐな関係になってしまう。ミコに対しては「ミコ様」と呼べばいい。もちろんそれも実名ではないことは分かっている。ここではイェースズは師弟というより家族の一員として遇されている。しかし、上下の縦分けは実に厳しい国のようで、それと同じような現象が名前に対してもあるのではないかとイェースズは勘ぐっていた。
ある夕食時、イェースズは思い切ってその点をミコに聞いてみた。
「この国では、人に名前を聞いたり自分の名前をやたらに名乗ったりしてはいけないのでしょうか?」
ミコは意外な質問をされたというような驚きの表情を少し見せた。
「どうして、そのようなことを聞くのかね?」
イェースズは、はじめての村での体験をかいつまんで話した。
「そういうことか。この国では確かに名前をやたらに名乗らず、人にも聞かないという習慣がある。しかし、絶対に聞いても名乗ってもいけないということではない。ただ、言葉には言霊という力があって、その言霊の働きがいちばん強く働くのが人の名前なんだ」
「言霊?」
「一つ一つの言霊には、霊力がある。明るい言霊を発していれば運命が陽に開けるということは、前にも言ったよな」
「はい」
「逆に悪い言霊を口にしてばかりいると、それはすぐ現象化し物質化して、悪い運命、陰の運命が訪れる」
「名前を告げるということは?」
「言霊の力は、一音ずつでも働く。アならアのみ働き、イならイのみ働き、ウならウのみ働きがあって、人の名前もそれを表している。だから人に自分の名前を告げるということは、その相手に自分の魂をすべて明け渡すことになると人々は考えておるようだ」
「そうだったんですか」
確かに、神がこの世をお創りになった時も、「光あれ」という神のみ言葉ですべてが始まっていた。
「例えば娘にその実名を尋ねると求婚を意味し、それに答えて自分の名を告げれば承諾したことになる。この国では子どもの実名は母親がつけるもので、時には父親さえ自分の娘の実名を知らなかったりする」
「ええ?」
これにはイェースズも驚いた。
「でも、その話は本当なんでしょうか。つまり、名前を相手に告げたら、魂を明け渡すことになるというのは」
ミコは声を上げて笑った。
「それは、この国の村人達が、勝手にそう考えているだけだ。ただ、言霊という霊力の存在は真実だぞ」
「あの」
イェースズは、真っ直ぐにミコの目を見た。
「私の名を名乗っていいですか? 名前で呼んでほしいんです」
家族として遇されて数ヶ月もたつのに、イェースズはまだ一度もミコやその家族から名前で呼ばれたことはなかった。いつも「君」とか、「おい」とか呼ばれておしまいだ。この時、ミコの妻も子供たちも食事の手を止め、一斉にイェースズを見た。やはりこの国では、名前を名乗るということはかなりの一大事らしい。
「私の名は、私が故国で普段使っている言葉ではイェースズといいます。祭典用の古典語ではヨシュア、故国の周りの国々の共通語ではイエスースです」
「ほう」
何か重大なことを聞いたかのように、ミコはしばらく言葉を失っていた。食器も床に置いてしまい、何かを考えている。イェースズは思わず身を乗りだした。
「私の名前にも、言霊のみ働きがあるんでしょうか」
「ある。すごい名前だ」
「私の国の言葉ででも……ですか?」
「神様は人類の言葉というものを、統一してお創り遊ばされておる。そしてこの国が、言霊のみ働きがいちばん強く出る所なんだ」
確かに、バベルの塔がなければ、全世界全人類は同じ言葉をしゃべっていたことになる。
「君のイェースズという名だがな」
ようやくミコは話しはじめた。
「言霊からいうと、イスズになる。それが言霊的に正しい君の名だ」
「イスズ?」
「そうだ。日の神様をお祀りした御神殿には、必ずイスズ川という川がある。御神殿をタテとすれば、ヨコになる水としての川で、それで十字に組むということだ」
「十字に組むとは?」
「まあ、おいおい話すこともあるだろう。イスズのイは日であり火でもあって、そしてスは宇宙の真中心となる神様の御名だから、君の名はすごい名前だ」
イェースズは照れくさくもあったが、自分の名もそんな強い霊力を持っている――そんなことをいきなり聞かされ、ただ唖然とするイェースズだった。
この日も暑い日だった。強い陽ざしが容赦なく大地に照りつける。とにかく狩りをしていても漁をしていても一日汗だくになる。陽ざしはあのアーンドラ国の暑熱乾季の時のようなきついものではないが、それでもこんなに暑いのはこの国特有の湿気のせいだろう。今まで乾いた空気の大陸の国ばかり旅してきたイェースズにとって、島国の湿気はこたえた。日向と日陰の温度差はほとんどなく、夜になっても気温は一向に下がらない。
「感謝だぞ」
と、それでもミコは言う。
「汗を思いきりかけ。感謝して汗をかかせて頂くのだ」
汗をかくことによって、体の健康と精神の健康が促進される。汗によって体の温度が調整されるばかりでなく、体内に滞留している濁毒・毒素を排泄することができる。体内の毒素が滞留することによって人は業病化するので、汗をかくことはこの業病を防ぐ。つまり、夏のうちにどれだけ汗をかいたかによって、冬の健康が決まるというのだ。
だからその日も汗をかかせて頂くべく、二人の子どもとともにイェースズは狩りに出ていた。背丈以上に繁る草をかき分けて草原を進む。しかし、あまり激しくかき分けると動物が逃げてしまうので、そっと進まねばならない。
平地の東の山壁はほぼ青い山脈となっている。イェースズは狩りの手を休めてそんな山脈を見つめ、いつかはあれに登ってみたいものだと思っていた。
その時、すぐ近くの草むらで悲鳴が上がった。聞き慣れたその声にイェースズはとっさに振り向き、急いで駆けつけようとした。しかし、背の高い草に阻まれ、思うように進めない。そこで腰につけていた石斧で草をなぎ払い、ようやく声の主が倒れている所まで来た。二人の子どものうちの妹の方が、足を押さえて転がり回っている。ちょっと目を離したすきの出来事だ。兄の方はどうしたらいいのか分からないようでただおどおどしており、イェースズが来るのを見ると、
「お兄ちゃん」
と、叫んですがりついてきた。倒れている妹のそばには、一匹の蛇が這っていた。これにかまれたらしい。蛇はマムシだった。遠い昔、イェースズがまだ幼かった頃、自分の弟もこのマムシにかまれた大変な目に遭ったことがあった。あの時は、自分の不思議なパワーで、弟は全快した。だから、
「心配はいらないよ」
と、イェースズは言った。そして女の子を背負い、とにかくミコの小屋まで帰ろうとイェースズは歩き始めた。幸い、ミコの小屋のある山を降りたすぐの所だった。石段を登ると、御神殿の前の広場にミコはいた。上半身裸になり、何やら木材を加工してちょっとした大工作業をしているようだった。
「おお、どうした?」
イェースズが自分の娘を背負って石段を登ってきたので、ミコは手を休めてこっちを見た。娘はイェースズの背中で、「痛いよ、痛いよ」と、泣きじゃくっている。
「マムシにかまれたみたいです。大丈夫です。私に任せて下さい」
「君に任せるって……?」
怪訝な顔つきで、目つきだけは鋭くミコはイェースズを見ていた。その視線の中でイェースズは女の子を背中からおろし、土の上にあお向けに寝かせ、足の傷口を探した。それは、膝の少し下あたりだった。
その患部に、イェースズはまず自分の手をそっとあてがった。あとは自分の体を宇宙に充満する高次元のパワーにあけ渡し、そのエネルギーを手のひらからあてがっている少女の患部に注入するだけだ。
イェースズは、しばらくそのままでいた。エネルギーがイェースズの体で凝縮され、どんどん手のひら少女の肉体へと注がれていくのが感じられる。イェースズの全身は、汗だらけだった。
ミコは立ったまま、イェースズのしぐさをじっと見つめていた。そして、しばらくの時間が経過した。もう少し時間がたってエネルギーの注入が終わると、少女は何事もなく立ち上がるはずだ。しかし、イェースズの頭上で響いたのは、
「もう、よい!」
という、ミコのいつにない厳しい声だった。そして、少女の兄である息子に、兄妹の母親を呼びに行かせた。あともう少しで少女は完治するはずなのにと、イェースズは内心不満だった。そして少女の母親がすぐに飛んで来て、娘を抱き上げてどこかほかの場所へとつれて行ってしまった。
訳が分からずにたたずんでいるイェースズに、
「そこへ座れ」
と、ミコは指示した。厳しい表情のままだった。いつもニコニコと笑顔を絶やさないミコだっただけに、とにかく異様な雰囲気をイェースズは感じた。
「君はあの力を、どうして得たんだ?」
「六つの時、自然にです」
ミコにはそう聞かれたが、だがミコはまだイェースズの力を見ていないはずだ。何しろ、結果が出る前に途中で中断させられたのである。
「ミコ様、どうして最後までやらせてくれなかったんですか」
「あれを見てみろ」
ミコがあごでしゃくった方を見ると、ミコの娘はもう笑いながらこちらに向かって駆けてきていた。イェースズは驚いた。たった今、母親がつれて行ったばかりだ。自分が手を当てていたのでは完治したとしてももう少し時間を要しただろうと、イェースズはしばらく口を開けていたが、やがてミコの方へ顔を戻した。ミコは言った。
「君がやっていた業は、この国に昔から伝わる神業だ」
「神業?」
「それも、かなりの段階の修行を経て許される業だ。それを君は、自力で得たのだな」
「はあ」
賞賛されているようにも聞こえるが、それでいてミコの表情は硬く、口調も厳しかった。
「君は、あれを自分の力だと思っていないか?」
「いいえ」
慌ててイェースズは、首を横に振った。
「確かに小さい頃、はじめてこんな力が自分にあると知った時は、いろいろ悪いことにも使いました。でも、今は違います。自分にこんな力が与えられたということは、これで人を救えという神様のみ意だと思っています」
「では聞くが、なぜあれが蛇にかまれた時、すぐその場で力を使わずにここまでつれてきたのだ?」
「さあ、それは……。何しろとっさのことだったので……慌てて……」
「君はその力を、わしに誇示したいというそんな想いがなかったかね? すごいと思われたい、特別だと思われたい、自分をよく見せたい、感心されたいというそんな『たがる』心、自己顕示欲がなかったかね?」
「いえ、そんな……」
一度はイェースズは首を横に振りかけたが、すぐにうつむいた。自分の想念を点検すると、まさしくミコの言う通りだ。もちろん、あの時は力を見せつけようなどという気は毛頭なく、とっさの判断でここへつれてきたというのは事実だ。しかし、言われてみれば心の奥底のどこかに、ミコの言う「たがる心」がかけらぐらいはあったような気がする。
「醜い」
と、イェースズは心の中でつぶやいた。自分の想念が、である。
「まあいい、あまり自分を卑下するな。今後気をつければいい」
ミコがやっと声を上げて笑ったので、イェースズは幾分心が楽になった。そこでイェースズは、やっと顔を上げて聞いた。
「あの子はどうして、蛇にかまれた傷が治ったんですか?」
少女はもう広場で、その兄とともに遊んでいる。
「妻がやったんだよ」
「僕と同じようにしてですか?」
「同じではない。いいかね。君がやった手のひらをぴたっと当てるのは、神業の中でも初歩のものだ」
ミコは自分の手のひらを、イェースズがやったように患部にぴたりとあてがうまねをした。
「これは真手の業といって、神業では初の座というんだ。それからふっと息を吹きかける、これが真息吹の業といって、中の座だ。だが、まだ奥の座があるんだ」
「奥の座?」
しばらくの沈黙の後、イェースズは目を見開いた。
「それを教えて下さい。その奥の座を。お願いです」
「今はまだだめだ。それは奥儀中の奥儀だから、そう簡単に伝える訳にはいかぬ。今の段階では教えられない。これからもっと修行を積む必要がある」
再び、ミコの表情が硬くなった。
「すべてが神業なのだ。きちんとしたご神意をサトらないうちに伝授すれば、幼児に石の鏃を渡すようなものだ。これらの神業は、決して傷を癒したり病気を治したりすることが目的なのではない。一切の浄化の業だ。まず魂を浄めることが先決で、それによって人々に神様の御実在をサトらせ、神様のご計画に参加させるためのものだ。自己顕示欲があるうちは、与えられない」
「はあ」
「あくまで目的は霊的な救いで、病気やけが治るのは、乱暴な言い方をすればついでに治るのだ。しかし逆を言えば、病気もけがも治せない力に、霊的な救いの力などないということになる。いわば神業と教えにより想いの世界のひっくり返し、想念転換の二つがあってはじめて、惟神の教えである。業と想念転換の、どちらが欠けてもいけない」
「お兄ちゃあ〜〜ん」
元気になった少女が、再びイェースズのそばに来て袖を引いた。
「もう一度、狩りに行こうよう」
「行って来い」
と、ミコは、微笑んでうなずいた。イェースズもぱっと顔に陽光を灯した。
「はい、有り難うございます」
イェースズは立ち上がった。その笑顔を見て、ミコも微笑んでいた。
木の上であれほどけたたましく鳴いていた蝉が鳴かなくなったかと思うと、今度は夜になってから草むらの中から虫の声がけたたましくなった。ただ、蝉のようにうるさくはなく、おとなしく静かに聞こえる鈴の音のようだ。草はもう、すっかり黄色くなっている。すべての樹木が実を稔らせる季節になっていた。
食卓も肉のほかはそれまでの山菜や野草に代わって木の実が多くなってきた。そんな食事も終わり、日の後始末をイェースズがしていた。日が沈むと、そろそろ肌寒くさえなってきている。この後片付けが終われば今日一日の生業は終わり、後は寝るだけだ。
いつの間にか背後に、ミコが来ていた。
「いい虫の声だなあ。心に響いてくる」
「そうですか?」
イェースズは子首をかしげた。あたりの暗がりから聞こえてくる小虫が羽をこすり合わせる音を、ミコは声だと聞いている。何か歌声のような有機的なものとして、ミコの耳には聞こえているらしい。しかしイェースズにとってそれは、どこまでも雑音で、無機的なものでしかなかった。無機的な音を有機的な歌声として聞くのは、果たしてミコだけだろうか、それともこの国の人すべてがそうなのだろうか……もし後者だとしたら、この国はやはりただの国ではない。もうこの国に来てから半年以上たつのに、まだまだイェースズにとっては不可思議なことが多い。やはり文字通り神秘の国のようで、ミコの言葉にそれを再認識した形となった。ミコはもう、夜の闇の中に消えていた。
今日もまたイェースズは、自分の疑問を口に出して尋ねることができなかった。ここ一、二ヶ月ほど、ずっと頭の中を木魂していたある疑問について、毎日の忙しい生活の中でどうしてもそれを尋ねだせないでいたイェースズだった。
ミコは貯えをせよと言い、数多くの獣肉の貯蔵、獣肉保存のための塩分を採るための海岸での貝の採集と休む暇もなかった。イェースズのみでなくミコの家族も皆多忙を極めていたので、とても落ち着いて話ができるような状態ではない。また、イェースズがその疑問を口にするのをためらっていたのは、「まだ時期ではない」というミコの返事を密かに恐れていたからだともいえた。
今日もミコは忙しそうにイェースズが収穫してきた木の実を選りすぐって、貯えるために袋に詰めている。その後ろ姿を見ながら、本当にこの人が全世界を支配した世界大王の子孫なんだろうかという疑問がまたわいてくる。イェースズがなかなか口にできずに悶々としていた疑問とはまさにそれであった。ミコ自身からそのようなことは、一度も聞いたことはないが、パウゼツのナタン老人は、トト山にいるミコは昔の世界大王の子孫だとはっきり言っていたのをこのごろになってイェースズは思い出したのだ。別に忘れていたという訳ではなく常に意識の中にそれはあったのだが、ここ最近になってそのことへの疑問がふつふつと生じてきたのである。
だが、それを面と向かって言うのもまた失礼だとイェースズは尋ねるのをためらっていた。しかし、疑問を疑問のままにしておくのもじれったい。今しかないと、イェースズは思った。ミコの妻も子供たちも、ここにはいない。
「あのう、ミコ様」
思い切ってイェースズは、ミコの背中に呼びかけてみた。ミコはすぐに振り向いた。顔つきは厳しくても、目には柔和さを湛えている。
「あのう、一つお尋ねしてもいいですか?」
「何だね」
「あのう、どうして、そのう、今こんな貯えをしなければならないのですか?」
それは、イェースズの思っていた疑問とは全く別の質問で、気がつけばイェースズはそれを言っていた。イェースズは、ここに来てから、前にもこのようなことがあった気がした。
「そうか、言ってなかったか」
ミコは笑った。
「もうすぐ、寒い冬が来るんだ。冬が来たら狩りも木の実の採集もできなくなるからね」
かつてアーンドラ国でもそうだったように、この国でも大雨季が来るのだろうかとイェースズは思った。ところが、自分が聞きたいのはそのようなことではないと気がついたイェースズは、もう作業を始めていたミコのそばに立った。
「あのう、もうひとつ聞いてもいいですか?」
「何だい?」
今度は、ミコは作業の手も止めずに背中で言った。
「この国に昔いたという世界大王は、」
「ああ。スメラミコト様とおっしゃった」
「そのことは前に聞きましたが、そのスメラミコト様の御子孫は、今は……」
イェースズは単刀直入の質問を避けて、わざとそう言った。ミコは完全に手を止めて体を起こし、イェースズと向かい合う形で立った。
「君が最近浮かない顔をしていたのは、それが知りたかったからなのかね?」
その厳しい表情に圧倒され、イェースズは小さくうなずいた。ミコはまた笑った。
「教えてあげよう。しかし、そのことはこんな気楽な形で簡単に話せるものではない。だから、二、三日待ちなさい」
イェースズはうなずいた。
二日ばかり、それまでの生活がそのまま続いた。
そして三日目の朝、ミコはイェースズのこの日は狩りに行かなくてもいい旨を告げた。その代わりにイェースズが命じられたのは、丘の下を流れる川の所へ行って水浴をしてくることだった。
さすがに、もう水は冷たい。それでもイェースズは命じられるままに川に行って上半身裸になり、持ってきた土器で水を汲んで頭からかぶった。飛び上がらんばかりに水は冷たく、イェースズの全身は瞬く間に震えだした。それでも言われた通り、同じ動作を三回、彼は繰り返した。
小屋に戻ると、ミコはすでに神殿の前に端座していた。そしてその脇に来るように、上半身をくねらせてイェースズを招いた。
イェースズが同じように座ると、ミコとイェースズは二人で神殿に柏手を打って参拝した。ミコの参拝の言葉は、声が小さくてイェースズには聞き取れなかった。
その後すぐにミコは、家を小屋の中へとつれて行った。そして部屋の中でイェースズと向かいあって座ると、ミコは妻に外から扉を閉めさせた。部屋の中には、ミコとイェースズの二人きりとなった。
こんなあらたまって話される内容は、よほどの内容だろうとイェースズの胸は高鳴った。
「神様が」
沈黙を破って、ミコが最初に発した言葉はそれだった。
「この国で万生とヒトを創造されたことは、すでに話したな」
「あ、はい」
「すべての生きとし生けるもの、そして存在するものは、一切が神様がお創りになったものだ。空も雲も山も海も川も、ウサギも猪も、そして人間も、すべて神様がお創りになった。まず最初に、このことを肝に銘じておきなさい」
言われるまでもなく、それらのことはイェースズの中で「常識」だった。またしばらく沈黙があった。その後、ミコがまた話を続けた。
「この小屋の素材の木も人の体も、人間が作り出せるものは何一つない。木を加工して家を作ることならできるが、それはすでに存在するものを加工して別の形にしたにすぎない」
「はい、確かに」
「神様は無から有を生ぜせしめ得る唯一のお方だ。だからすべてのものは神様からの拝借物であるということを、まず認識する必要がある」
それらのことも、イェースズは幼い頃から父母に叩きこまれてきたことで、聖書にもそう書いてある。
「やはり、神様は唯一の御方なんですね」
「ある意味ではそうだ。宇宙天地万物創造の主神、万生の祖神様はおひと方だ。つまり、宇宙の真中心の神様で、その神様は奥の奥のそのまた奥の、とても人間に理解できる御存在ではない」
イェースズは一つ、ため息をついた。ミコはさらに言葉を続けた。
「しかし、実際に天地を創造されたのは、七柱の神様だ」
「え?」
イェースズは思わず声を発した。唯一絶対神を奉じるユダヤ教の教えとは相容れない話だが、しかしイェースズは普通のユダヤ教徒ではない。
「私の国の教えでは神様は絶対に御ひと方ですけれど、でも私の家族が属していたエッセネという特殊な教団の教えでは、七位の霊が天地を創造したということになっています。ゾロアスターの『ゼンダ・アベスタ』という経典にもそう書いてありますし、聖書でも神は七日でこの世を創られたと……」
ミコはにっこり微笑んだ。
「前にも言ったように、私の話は特定の教団の教理ではないんだ。全世界に共通の宇宙の根本原理で、万教の大元なんだ」
「確かに、その通りだと思います」
「君の国の聖典の、何だったっけ?」
「聖書」
「その聖書では七日で天地ができたと書かれていると君は言ったが、その何日目に人間は創られた?」
「六日目です」
「そうだろう」
ミコは満足げにうなずいた。
「この七柱の神様この真の天の神様、つまり大天津神様だ。そしてその第六代の神様が直接人間をお創りになった訳で、その神様を父神様と申し上げる」
「天の御父」
「別名を、弥栄の神様とも申し上げるのだ。だが、本当の御名は、まだ明かす訳にはいかない」
イェースズは絶句した。子供の頃から唯一絶対の最高神、天の御父と崇め奉ってきたヤハエの神様は天神六代目の神様で、その上にさらに神様がいらっしゃることになる。
さらには、あの赤池白龍満堂での異次元体験で遭遇した御神霊は、聖書でいう七日目の神様と名乗っておられた。
イェースズは目を上げた。
「聖書では、神様は七日目に休まれたとなっておりますが」
「天神第七代の神様は、これも本当の御神名は今はまだ告げる訳にはいかないが、仮の御名をアマテラス日大神様としておこう。この神様ははじめて天祖としてこの地美、すなわち地上に天降られた神様で、すべての被造物を良しとされ、祝福されて天に帰られた」
「それが『休まれた』ということなのですね」
そのようなことも知らずに、ただ「休んだ」ということを模倣した安息日など、実に馬鹿げた習慣といえる。
「七日といっても現在の一日の長さでの七日ではなく、一日が何億年もの時間を表しているのだがな」
「やはり、すべてを祝福されたのですね」
「思ってもみたまえ。今の我われの目から見ても、この世にあるものはすべて美しい。すべてが素晴らしいではないか。風景でも、どんな風景だって美しい。今こうして見ているこの部屋の中だって、美しい。目に映るもの、すべてが色とりどりで美しい。ただ、いつも見ているから、特別なとき以外は今の人間の目には美しいと感じられなくなっているのだ。もしこの目が白と黒しか見えなくなり、数日してから今の状態に戻ったら、すべてが美しすぎて感動するだろう」
イェースズは室内の、何も装飾も彩色もない壁や天井を見回してみた。確かにちょっと観点を変えて美しいと思って見てみると、何でもないものが確かに美しく見えてくる。
「この世のものはすべて、巧妙に創られているだろう。動物も鳥も雲も、そして人間も、すべて神様が全智全能を振り絞られて創られた最高芸術作品だ。そんなこの世の真っただ中に存在を許され、生かされているということ自体、感謝しかないはずで、それに感謝できないというのはもはや人間ではない。獣だ」
イェースズは、首をうなだれた。
「さあ、そこでだ」
ミコの言葉はさらに続く。大切なことは何としても伝えてしまわなければいけないというような、そんな気概さえ感じられる。
「そのアマテラス日大神様の天祖降臨のあと、当時は巨大な大陸の一部だったこの国に、世界大王様ははじめて世界政庁を開かれた。最初の皇統第一代はアメピノモトアシカビキミノシミピカリオポカミスメラミコト朝で、二十一世続いた。そして次の皇統第二代ツクリヌシキヨロドゥオミピカリカミスメラミコト朝の時に前にも話した五色人が発生し、十六人の皇子が全世界に派遣されて、それぞれの民族の祖となったのだ」
「では、最初の人間は?」
「そんなもの、おらんよ」
意外なミコの言葉に、イェースズは首をかしげた。それにはお構いなしに、ミコは話し続けた。
「いちばん最初のころの人は皆半神半人で、それが段々と今の人間になっていったのだ。つまり神と人はもともと合一で、どこまでも入り組んでいる。代々のスメラミコト様は皆、肉身を持たれていてもそのみ魂は神様、つまり現人神だった訳だ。しかし今の人は、人どころか神様との間が開きすぎている『人間』になってしまった」
そうすると、聖書の「創世記」の第一章は別として、第二章以降はすべて人が人間になってしまったあとの、ずっと新しい歴史を書いていることになる。
「アマテラス日大神様が天降られ、そして神界にお帰りになったあと、皇統第一代のアメピノモトアシカビキミノシミピカリオポカミスメラミコト朝が始まってから、上古の皇統は二十六代まで続いた。もちろんその御一代に何世ものスメラミコト様がおられるわけだから、御一代が千年か二千年もの期間はあったろう」
「人類の歴史って、そんなに古いんですか?」
「そうだよ。前にも言ったと思うが、モーシェがこの国に来たのは、もっとも新しい皇統の第二十六代ウガヤプキアペズ朝六十九世のスメラミコト様の御宇だし、釈尊は同じプキアペズ朝の七十代目のスメラミコト様の御宇にここに来た。ちょうどその頃、巨大大陸の最後の名残として、この島国の南方海上に残っていたミヨイ・タミアラの二つの大陸が大洋に沈んでいる」
もうちょっとやそっとの話で驚くイェースズではなくなっていたし、とにかく今は心をス直にとミコの話に耳を傾けていた。
「これまで大陸が沈むような天地かえらく、すなわち天変地異は百三十回、全世界規模の巨大なものでも六回あった。君の国の記録には、そういうことは書いてないのかね?」
「あります。聖書の創世記には、大雨が全世界に四十日四十夜にわたって降り、人類は洪水に押し流されて一度滅亡したとあります」
「ほう、あるかね。どこの国の記録にも、同じような内容がある」
「私が行ってきたキシュ・オタンという場所にあった記録では、それまで海岸だったところにある日突然沖合いから巨大な大陸が衝突し、雪の住処という山ができあがってしまったと書いてありました」
「そうか。とにかくこの世はそのような天変地異を繰り返し、その都度大陸の形も変わって、今に至っているのだ。この国ももともとは巨大な大陸の一部だったが一万二千年ほどまえにほとんどが大洋に沈み、最後まで残っていたミヨイ・タミアラが沈んだのが千五百年ほど前だ。ちょうどそのすぐあとに、モーシェが来ている」
「そんなに世界は変わっているのですか?」
「この島国の方が海中に没していた時代もあった。六回あった天地かえらくとは、皇統第四代アメノミナカヌシカミミピカリスメラミコト朝、皇統第十四代クニトコタチミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第七代ツヌグイミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第十八代オポトノディオウミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第二十一代イザナギミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第二十二代アマシャカリピムカツピメミピカリアマツピツギスメラミコト朝のそれぞれの御時だ。当時のスメラミコト様は力を尽くして、大天変地異から世界を復興させたのだ。その天変地異の直前は、いつでも高度な文明が発達した時代だったのだ。例えば人が乗り物に乗って空を飛んだり、町はピピイロガネという金属でできていた。スメラミコト様はアメノウキフネに乗って、瞬時にして全世界を御巡行されたのだよ」
「それほどまでの文明が、今は跡形もなく……」
「今は……どころではない。天地かえらくは何度もあったのだから、その都度原始化してはまた文明が栄え、それが滅んでまた原始化の繰り返しだったのだ。今もちょうど千五百年前の天変地異で生き残った人々が、ようやくここまで文明を復興させたということだ。その頃から、つまりウガヤプキアペズ朝が終わった頃から世界はばらばらになって、それぞれ自分たちの国だけになっているのだ。もう世界政庁もなく、世界大王もいらっしゃらなかったからなあ」
「世界政庁は、この国のどこにあったのですか?」
「どこといっても、皇統によってあちこちに動いている。大昔、父神様が人類の霊成型をこのトト山の奥の、南へ一日ほど行った所にあるヒダマの国のクライ山でお創りになったのがざっと四十五億年前、そして皇統第一代のスメラミコト朝が始まったのがざっと五万年前。もちろんその前の何十万年も前から人類は存在していたが、それ皇統が始まって以来、世界政庁は今は沈んだ大陸の部分にあったこともあったし、今のこの島国のあちこちにあったこともあった。いずれにせよ、その頃は祭政一致、つまり政治を執るスメラミコト様が天まつり役で天の神様に直接お仕え申していた。その巨大な黄金神殿は、このトト山の上にそびえていた」
「ええ。いつかお話し下さいましたね」
「そう。アマツカミクニツカミパジメタマシピタマヤの黄金大神殿が、この山全体の上にそびえており、全世界から民王たちが集まってきた。そして奥の宮は、ピダマの国のクライ山にあったのだ」
今のこの山は小さな山だが、山の一角ではなく山全体に乗る形で建っていた神殿となると、よほど巨大だったっと思われる。
「さっきもお名前を申し上げた皇統第二十二代アマシャカリピムカツピメ朝のスメラミコト様は、実に美しい女性であらせられたそうだ。何しろ現人神であらせられるから、御体から黄金のみ光が発せられていたというのだが、天神第七代の男神のアマテラス日大神様に対し女神様だからアマテラススメ大神様とも申し上げるそのスメラミコト様が、御神殿の復興造営式の時に羽衣をお召しになって御自ら舞を舞われたそうだ。その時群臣百官は美しい姫を見たということで、それ以来今でもこの山の下の村はピミの村と呼ばれている」
イェースズは、はじめて聞く村の名前だった。ミコの話だと、ここから南へ行けば「ピダマの国」という国があるらしい。
「あのう、村の名前がピミの村なら、この国は何という名なのですか?」
「この国とは?」
「はじめ、私が上陸した所では『コシの国』と聞きましたが、ここもそうなのですか?」
「そうだよ。アメノコシネの国という。そしてここから南のピダマのクライ山までを、地上のタカアマパラともいうんだ」
「地上の……? と、いうことは?」
「するどいな。天のタカアマパラもある。それはこの世ではない。高次元神界で、大天津神様の世界のさらに最奥のことだ」
イェースズは、もぞもぞと足を動かしはじめた。しびれてきたのだ。もう何時間も正座のしっぱなしだった。しかし、話の内容がとてつもないものなので、足をくずす機会さえなさそうだった。それを見て、今夜はじめてミコは笑った。
「いいよ。足をくずしなさい」
「はい、有り難うございます」
イェースズはうれしそうに、ス直に足をくずした。そしてすぐに、ミコを見た。
「ところで、今は世界大王、スメラミコト様はいらっしゃらないとおっしゃいましたけど」
「ああ。ウガヤプキアペズ朝の皇統が途絶え、全世界が天変地異にやられて人類はほとんど死に絶えた。プキアペズ朝の最後の頃のスメラミコト様方の時代は、度重なる震災と天変地異に見舞われて、高度文明もすべて崩壊してな、命からがら生きのびた人々は全く原始人になってしまって、今に至っている。縄文の紋様の入った土器を使っている彼らだよ」
「実は、ミコ様はそのスメラミコト様の末裔だという話を聞いてきたのですが」
「スメラミコト様の王子のことを、昔は『ミコ』といったんだ。だからわしはミコと称している。もっとも、わしの父がスメラミコト様だという訳ではないが、その血統を受け継ぐものとしてな」
つまり、ナタンが言っていたことは本当だったのだ。
「昔はさっきも言ったように祭政一致で、スメラミコト様は世界を統治されるとともに天まつり役だった。しかし、時代は変わった。今はミコであるわしが細々と神様にお仕えし、御神宝を守らせて頂いている」
「これから世の中は、ずっとこのままなのですか?」
「さあ、それは分からん。これからのことはすべて、神様のご計画のままだからな。ただ、わしが思うには、君の同胞で、この島国の西の方で着実に勢力を延ばしている人たち……」
「エフライムですね」
「そう。今では小さなたくさんの国に分かれているこの島国だが、やがては彼らがこの国を統一し、その中にはスメラミコトと称して新しい皇統を開くものも出てくるかもしれん。歴史始まって以来の、赤人スメラミコト様だ」
ミコは、ひとしきり声をあげて笑った。イェースズは無言だった。
「ただしそうなったとしても、昔のような世界大王という訳にはいかんだろう。せいぜい、この島国の大王だろうな」
「スメラミコト……スメラミコト……シュメール……ん?」
イェースズはふとつぶやき、その言葉を何度も口にしていた。
「どうしたのかね?」
ミコの不安げな問いに、イェースズは我に帰った。
「いえ、何でもありません」
「いいかね。上古にあっても皇統は二十六回も代わっている。今は空白期だが、やがてこの国に新しいスメラミコト朝が興ったとしてもそれが連綿と続くとは限らないだろう。やがてすぐに黄人に代わると、わしは思う。しかし、重要なのは血統、血筋の問題ではないんだ。たとえ血統が交代しようと、同じくスメラミコトと称するなら、変わることのないスの霊統で、すなわちこの国では万世一系なのだよ」
ミコは一つ咳払いをした。気がつけば時刻は、すでに昼過ぎになっていた。
「いいかね。もう分かっていると思うが、今日聞いた話は軽々しく口外しないようにな。君の心の中にだけしまっておけ」
と、ミコは言った。
トト山のふもと、ピミの里に雪がちらつき始めた。イェースズにとって別にはじめて見る雪ではないが、この国に来てからははじめてだった。そして雪は、あれよあれよという間に積もりはじめた。普段見慣れている風景が、白一色になった。そんな中、雪に足跡をつけ、イェースズはミコの子どもたちといっしょになってはしゃいでいた。イェースズの心は、子どもたちのそれと全く同質になっていた。
それから半月ばかりの間に寒さは増し、雪も何日も降り続くようになって、とうとう積雪は背丈を越えた。毎日ミコの小屋から神殿までの道を雪かきするのが、イェースズの朝の日課になった。一日でも休むと、せっかく作った雪の壁の中の道は雪に埋もれてしまう。ミコが食糧を蓄えておけと言った意味も、ようやく分かった気がした。
思えば不思議な国で、夏は湿気のせいでカーシーよりも暑い。秋は草木の色も一変して黄色と赤に山が塗りつぶされたかと思うと、冬は豪雪でいながらにして雪の住処の山中に分け入ったかのごとく白銀世界である。動くことなく、一年の四季の移ろいの中でいながらにして世界の北の果てと南の果ての旅行をしたのと同じような感覚がある。ここは雨季も乾季もなく、一年中程よく雨が降る。ここは雨季と乾季で季節を知るのではなく、気温の変化で色とりどりの多彩な変化に富んだ四季があるのだ。
この雪に閉ざされた生活ではとうてい狩りもできず、小屋に閉じこもりっぱなしの毎日に子どもたちも飽きあきしているようで、イェースズは格好の話し相手だった。イェースズは自分が生まれた国のこと、エルサレムのこと、そしてアーンドラ国や雪の住処やシムの国についてなど、面白おかしく子どもたちに語った。子どもたちは目を輝かせて、それに聞き入っていた。
そんなある日、ミコが「ちょっと」と言ってイェースズを招いた。そして部屋を出た廻廊を裏手へとミコは歩いて行く。イェースズもそれに従って行くと、小屋の真後ろに当たる所にまた扉があった。イェースズはここへ来るのははじめてだったので、こんな所に扉があることを始めて知った。
「ちょっと手伝ってくれんかね」
背中でそう言いながら、ミコは扉の錠をはずして中へ入った。ちょうどイェースズが居住している部屋の裏手に当たる。窓は全くなく、薄暗い部屋だった。
ミコは石を打ってたいまつに火をともし、壁の一面に安置した。室内が照らし出されるとそこに見えたのはいくつもの棚で、その上には石だの箱だのいろいろなものが乗っていた。
思わずイェースズは、
「ここは何ですか?」
と、尋ねた。
「御神宝の神倉だよ。冬になると一年に一度、こうして一日がかりで点検するんだ」
ミコのあとについて、イェースズはさほど広くない部屋の中をゆっくり歩きまわった。
「ほい、これ」
人の頭ほどの大きな石をミコは棚から取り、それをイェースズに渡した。
「いいんですか?」
ためらうイェースズに、
「いいとも」
と、ミコが言うので、イェースズはこわごわそれを手にしてみた。表面にはぎっしり文字が刻まれ、裏には地図のようなものが描かれていた。
「これは?」
「モーシェの十戒石だよ」
「え?」
危うくイェースズは、それを落とすところだった。文字はヘブライ文字ではなく、石には穴が三つ開いており、それぞれは貫通していた。
「それから、これ」
もう一つの石を、ミコはイェースズに手渡した。最初の丸い石を右手に抱き、イェースズは今度の細長い石を受け取った。
「これが裏十戒だ。表十戒は君も知っているだろう。裏十戒は全世界の五色人のための十戒だ」
そのことは、パウゼツのナタン老人からも聞いていた。ナタンは、十戒石がこのトト山にあると確かに言っていたのだ。これが本当の十戒石だとすれば、本来のエルサレムのあの巨大な神殿の御神体であるはずだ。イェースズはことの重大さに手が震えだして、慌ててそれらをミコに返した。イェースズの、そしてすべてのイスラエルの民の想像の中にある十戒石は、二枚のきちんとした形に削られた石だ。しかし、たった今見たミコの言う本物の十戒石は、どちらも自然石だった。いずれにせよ、現在エルサレムの神殿に祀られているものはイミテーションとういうことになる。もっとも十戒石が安置されているはずの至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入り、その大祭司といえども御神体を見ることは許されてはいない。だからイミテーションどころか至聖所が空であったとしても、誰にも分かりはしないのだ。
そんなことをイェースズが考えているうちに、
「十戒石は、里帰りしたんだよ」
と、言いながら、ミコはもう次の棚の方にと歩いていっていた。そして次にミコが手に取ったのは、ひと振りの剣だった。イェースズが手に取ると、ずっしりと重い金属製の剣だった。この国に来てから青銅器は見たが、鏃も槍もすべて石器であり、金属製の武器を見るのははじめてだった。
「これは太古の金属、ピピイロガネで造られた剣だ」
「ピピイロガネ?」
「見たまえ。全く錆びていないだろう。この剣が何千年も前のものだと、信じられるかい?」
確かに、さっき出来上がったばかりの新品のように、剣は白く輝いている。
「ピピイロガネは絶対に錆びないんだ。だが今ではもう、世界中のどこを探してもピピイロガネはない。大昔のアメノウキフネも、このピピイロガネで造られていた。この剣は白金色だがピピイロガネは自在に色を変化させ、太古の神殿の屋根は黄金のピピイロガネで葺かれていたんだ」
ミコはまた、にっこり笑った。
次の棚は、膨大な巻物だった。紙質は、動物の皮紙のようだ。ミコがそれを一つイェースズに開いて見せたが、そこには訳の分からない文字がぎっしり詰まっていた。
「いつか話した、天地創造から現代に至るまでの全世界の歴史を記した古文献だ」
興味深げにイェースズはのぞきこんだが、文字が読める訳がなかった。ミコはそのほかのいくつもの巻物も開いて見せたが、巻物ごとに何種類もの文字があるようだった。
「これが、この国の文字ですか?」
「いや、違う。この国の文字と言うより、超太古の全世界の文字だ。すべて太古のスメラミコト様がお造りになった文字で、カタカムナ文字という」
「カタカムナ?」
「カムナとは神名、つまり神様の御名ということで、神様の御名を象った文字だからカタカムナというんだ」
言葉を失っているイェースズをよそに、ミコは説明を続けた。
「例えばこれは」
また別の巻物を、ミコはイェースズに示した。
「これはプキアペズ朝末期のアメノコシネ文字、そしてこれが」
また別の巻物を、ミコは開く。
「アメノミナカヌシ朝のアピル文字だ」
「これは、何と書いてるのですか?」
巻物の冒頭の、幾何学的に文字が並んだ部分をイェースズは指さした。
「ピプミヨイムナヤコトモチロラネシキルユウィツパヌソウォタパクメカウオエニサリペテノマスアセウェポレケウウィエ……」
「え?」
イェースズには解せない言語だった。
「すべての文字が、神様のみ働きを現している。このカタカムナの四十八の音は、天地創造の神様の御直系の四十八柱の神様の御名を示しているんだ。言霊の秘密はここにある。だから神霊界の謎を解く鍵は、言霊にあると言っても言いすぎではない」
「あのう、よく分からないんですけど」
ミコは笑った。
「今は分からなくていい。分かろうとする方が無理だ。ただ、ス直に聞いておけよ。段々と分かるようになって、やがてはパッとすべてをサトるときが来る」
そんなものかなあとイェースズが小首をかしげていると、ミコはまた別の巻物を広げた。
「この文字、見たことないかい?」
「さあ」
「これはタカミムスビ朝のピプ文字だ。君の国の文字の元だよ」
「え?」
驚いてイェースズは、もう一度その文字をまじまじと見た。今のヘブライ文字とは違う。しかし習い知っている古代ヘブライ文字とは、似ているといえば似ている。
「全世界のどの国の文字も、すべてこの国から発している。もっとも、それぞれの文字をスメラミコト様のミコが持って行かれた後の歳月によって変わってはいるだろうがな」
「ギリシャも字もサンスクリットも字も、シムの国の文字もですか?」
「そうだ。すべての元は一つだ。言葉に言霊があるように、文字にも文字霊がある。文字は単に記録や伝達の道具ではない。カタカムナによって神様の御名を呼び、そのみ力にすがって御神業を行うのだ」
ほかにも鏡や金属製の十六光状日輪紋などの御神宝を見つつ、点検はまる一日かかった。イェースズにとって、胸踊る一日だった。
そのことに刺激され、この部屋を出てミコが施錠した後、イェースズはここ数日思い願っていたことをミコに話した。
「ミコ様。私は、ピダマの国のクライ山に行ってみたいのですが」
ミコは、さらりと言った。
「雪が解けたらな」
しかしそのひと言は、イェースズにとっては飛び上がらんばかりの喜びであった。
その雪解けが、イェースズにはただ待ち遠しかった。
しかし、来る日も来る日も雪は降り続き、神殿までの道を毎朝雪かきしなければならない日課はなかなか終わりそうもなかった。わくわくする心を抑えるために、イェースズはクライ山のことをいろいろとミコに聞いた。この平野の東に横たわる高い山のことも気になったが、それを越えたところでこのトト山の麓にあるような村が点在するだけの原野があるばかりでつまらんとミコは言った。クライ山は普通の山ではないと、ミコは言うのだ。
「確かに、この山の上にあった巨大神殿の奥宮があったっておっしゃってましたね」
「そうだ。しかし、それだけではない。山自体が、巨大な神殿でもある」
「え? では、人工の山なんですか?」
「いや、違う。昔からある自然の山だ。しかしきちんとした三角形の山なら、たとえ自然の山でも太陽石を置き、その周りに東西南北の方位石を並べて祭壇を造れば、その山はピラミドウという神殿になる」
「ピラミドウ?」
「日の神様のご来臨を祀る神殿だ。クライ山に約五千万年前に高次元から天降られた天神第七代のアマテラス日大神様は、輝くばかりの太陽神であらせられた」
確かにそうだったと、イェースズはかつての異次元体験で遭遇した御神霊の目もくらむ閃光を思い出していた。そして、もう一つ、彼の頭にひらめいたものがあった。
「今ミコ様はピラミドウとおっしゃいましたけれど、実は私が小さい頃過ごしたことのあるエジプトという国には、ピラミッドというのがあるんです」
「それは山かね? 神殿かね?」
「きれいな三角形をした、小さな人工の山です。一般には昔の王様のお墓とされているんですけれど、私の家族が入っていたエッセネ教団の教えではそのピラミドウをヤハエのお山と呼んで、実は太陽神ラーを祀る神殿なのだと密かに語り継いでいます」
「太陽神を祀るのなら、まさしくそれもクライ山と同じピラミドウだ」
「でも、クライ山っていうのは自然の山なんですよね。エジプトのは人工の山ですけれど」
ミコはやけに嬉しそうに微笑んでいた。
「その国には、自然の山はないのかい?」
「ありません。砂漠が広がる平らな土地です」
「やはりそうだろう。山のない所にピラミドウを造るには、人工で山を造るしかないじゃないか」
「確かに」
「で、太陽石はあるのかね?」
「太陽石とは?」
「頂上の丸い石だよ」
「なかったと思います。でも、古いものですから昔はあったものがなくなってしまったのかもしれませんし、第一私がそのピラミッドを見たのはずっとずっと小さい頃のことですから、私自身の記憶があいまいでよく覚えていないんです。ただ、きちんと東西南北を向いていたということだけは覚えています」
「ふむ、そのことが方位石の代わりとなっているようだな。それは間違いなくピラミドウだ。この国から全世界に散らばった人たちは、各地にピラミドウを建てたと古文献にもある、しかし、それにしても……」
ミコの顔が、少しだけ曇った。
「その超太古からの御神殿であるピラミドウが、今の君の話では王の墓となっているそうだな。歴史の改竄は、ずいぶんと進んでいるようだ」
「エジプトの文明の元も、この国なですね」
「そうだ。いいか。クライ山に限らず、そのあたりにはピラミドウが多い。まあ、ひと夏くらいこもってくるといい。神秘な神の力が、ピラミドウには充満しているから。
「はい」
「雪が解けるのももうじきだから、今日あたりから準備を始めるといい」
「え? 本当ですか?」
イェースズの顔には、明るい光が満ち溢れていた。
それから半月、まだ所々に雪は残っているが、もうほとんど黒い土が見えるようになった。その頃、イェースズは旅立った。当面の食糧を背負い、狩りのための石槍や矢を持ったイェースズを、ミコの家族は山の下の川の所まで見送ってくれた。川には一艘の小舟が、ミコによって用意されていた。
「この川を下っていくとすぐに大きな川と合流するから、そうしたら今度はその大きな川を逆に上流へと上っていくんだ。そのまま下流へ行ってはだめだぞ。すぐに海に出てしまう」
ミコのイェースズもニコリと笑った。
「はい、上流に行くんですね」
「そう。そうすれば二日ほどでクライ山のふもとに着く。その大きな川は、クライ山の上から流れてくる川なんだ。神に通じる川と、昔からいわれている。ただ、途中でほかにもいくつもの川が合流してくるから、間違えるなよ」
「はい」
ミコの息子が、舟に乗りかけたイェースズの袖をつかんだ。
「お兄ちゃん。ピダマへ行くの?」
「そうだよ」
「途中川が狭くなって流れも急になるから、気をつけてね」
「まあ、一人前に」
と、ミコの妻が笑った。ミコの娘も、じっとしていない。
「こんな小さな舟だから、ひっくり返らないかなあ」
「こら。そういう言霊を出すもんじゃない」
と、ミコも笑って自分の娘を戒めた。
「では」
別れを告げたイェースズは、舟を押して岸を離れた。
「冬になる前には、戻って来いよ」
「はい」
舟はゆっくりと、川の流れとともにすべりだした。やがて、丸太をわたした橋をくぐってイェースズのこもっていた赤池のお堂のそばを舟が過ぎるまで、ミコの子どもたちは岸を走って手を振ってくれた。