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ナタンは最初イェースズに東に行けと言ったが、真東はパウゼツ山なので、そのまま行けば高い山を登って反対側に下りなければならない。そこで、やや南東へ行けば山も低くなり、峠を越えるような感覚で山並みを越せるということもナタンは教えてくれた。そのあとは平地なので、真っ直ぐに東へ行けばいいということだった。そしてその平地の真ん中に南北に細長く横たわっている丘があれば、それがトト山だという。
途中山中で一泊しても翌日の夕方までにはトト山に着くということだったが、こんなに近いのに文明が全く違うとナタンが言っていたことは、どうもイェースズにはまだ合点がいかなかった。
出発した日の昼過ぎには、道なき道も登坂になってきた。傾斜になるともう水田はなく、まだ草々の新芽が伸びきっていないのでかなり歩きやすかった。
ずいぶん登ってから振り向くと、海岸線の白い砂浜がずっと遠くまで一直線に延びているのがよく見えた。しかしイェースズの未来は、この海岸線とは反対側の峠の向こうにある。ナタンは、この峠を越える人は絶対にいないし、向こうからこちらに来る人もいないというようなことも言っていた。隔絶された二つの世界の境界線の峠を、イェースズは今越えようとしている。しかし、あの雪の住処のように天を突くような山の壁が境界線というなら納得もいくが、こんな半日で駆け上がって駆け下りられそうな峠が二つの文明を隔てており、誰も越えたことがないというのも不思議な話だった。そのうちすぐに頂上と思われる所に着いたが、パウゼツほど高くはない証拠に雪は全く積もっていなかった。
このあたりの木は針葉樹で、そのうちの一本の木の下でイェースズは休憩した。そして、持ってきた食糧を食べた。米の飯を丸く握り、木の葉の上に盛ったもので、彼はそれを手づかみで食べた。味といえば、塩がついているだけだった。そしてイェースズは、峠の向こうの世界に思いをはせた。文明の度合いが違うというし、何しろここは人類発祥の国なのだからそれ相応の、今までのような原始的な文明ではないはずだ。シムの国か、あるいはローマに匹敵するような文明が栄えているに違いない……イェースズは勝手にそう想像していた。昔はここに世界政府があり、その当時の世界大王の子孫がいるというのだから、さぞかし巨大な宮殿に住み、建築物も天を突くようなもので、人々の服装や乗り物も高度に発達し、それにはあるいは今でも空にはアメノウキフネという乗り物が飛来しているのかもしれない……そう思うとイェースズは、居ても立ってもいられなくなって軽い足取りで峠を下り始めた。
やがて視界が開けた。大平原が一望のもと、眼下に展開していた。緑の大地だった。大平原といっても大陸で見たような雄大なものとはいえなかったが、その美しさにイェースズは思わず目を細めた。もっともっと大きな果てしない平原は今まで何度も見てきたが、こんなに美しい大地ははじめてだ。その美しさは、単一の緑ではなく微に入り細をうがったさまざまな緑が織り成す模様による。そしてその平原の向こうには、巨大な山脈が視界を遮っていた。
頂に雪をかぶった岩山が壁のように横たわり、雪の下の岩肌はここからは青く見えた。雪の住処のよりもスケールは小さいが、この国にもあんな雄大な山脈があったのかと、イェースズはしばらく呆然としていた。
その時、イェースズはものすごい霊圧を全身に感じた。前方から向かってくるその光波は目に見えるものではなかったが、しばらくは前に進むのさえ困難になった。驚きながら、それでも一歩一歩と彼は前進した。しかしその時、日はとっぷりと暮れていた。イェースズは、この場に野宿することにした。
そしてよく朝、目の前に広がる草原へと下るべく、イェースズは一気に峠を駆け下りた。今度は下り坂だから速く、イェースズは全く違う文明、すなわち世界文明の元となったという高度文明を早く見ようと気があせっていた。
そして、昼前には何とかふもとまで降りてきた。しかし、峠を越えたからといって、自然の樹木には何ら変化はなかった。気温はさほど高くないのに、彼は汗びっしょりになっていた。そしてその目の前に広がる光景に、イェースズはただ呆然とした。峠を越える以前の平地は、湖沼のほかは例外なく水田だった。だがここは見渡す限りの草原で、水田など全くなかったのである。草原はここだけなのだろうと思ってしばらく進んでみても、水田は一向にありそうもなかった。
イェースズの頭の中にあった高度な文明というイメージは、徐々に消え去りつつあった。そのようなものの片鱗も見受けられないのである。背丈ほどに繁る雑草の平原と、時折点在する林しかここにはない。道もほとんどないに等しく、雑草をかき分けてイェースズは前進した。
やっと少し広々としたところへ出た。そこには集落があった。ところがそれは峠の向こうと何ら変わりはなく、竪穴にわらを円錐状に積んだ民家が点在するものだった。戸数は少なく、五、六戸だった。それらは丸く立ち並んでおり、その中央には広場が見えた。その方向へと、イェースズは進んでみた。
そこには、女が何人かいた。女たちは環頭衣ではなく、動物の毛衣を着ていた。イェースズが近づいていってもひざまずいて二拍手する礼をもとらず、突っ立ったまま不審そうな顔でイェースズを見ている。
彼らと向かいあって立つ形になってしまったイェースズは、足を止めて、
「シャローム」
と、笑顔で言ってみた。だが彼らは何もこたえず、きょとんとしていた。そして互いに顔を見合わせ、何やらしきりに話している。その言葉だけは、峠の向こうの人々と変わらないようだった。人種とて全く同じ黄色い肌に黒い髪だったが、それを峠の向こうの人々のように束ねたりせず、自然のまま伸ばしている。互いにしゃべっているその顔を見てイェースズが奇異に感じたのは、みな犬歯がないことだった。口の中の四ヶ所の歯がなく、これではものを噛むとき不便だろうとイェースズが思っていると、その中の一人の年配の女がイェースズに何か話しかけてきた。
言葉など分からないから、イェースズは自分の目的地である地名を、
「トト山、トト山」
と、連呼した。すると何かを納得したかのように、年配女はさらに東の方を指さしてまた何か言った。とにかくイェースズは笑顔で頭を下げ、その指さされた方向に再び草むらをかき分けて前進することにした。
確かに文明が違う。しかし、とんだ文明の違いで、これでは峠に向こうよりもずっと文明度は低い。この村の中央の広場に転がっている石槍や矢は、明らかに農耕のためのものではなく狩猟のためのものだ。ここには水田耕作もなく、人々が狩猟生活をしているだけなら、今までイェースズが旅してきたどの地方よりも原始的ということになる。
もっとも「文明が違う」と言っていたナタンの言葉は嘘ではなかった。それを自分が勝手に高度の文明があると勘違いしただけなのだ。そうなると、世界大王の子孫という存在に対しても、一抹の不安を感じてくる。しかしここまで来た以上、行ってみるしかない。
そう思ってイェースズが村をあとにし、再び草むらの中を前進すると、またいくつかの集落に出くわした。皆等しく五、六戸、多くても十戸前後の家の集まった集落で、どれもやはり村の中央の広場を囲むように立てられた円錐形のわらの家だった。広場にはいくつか土器があったりしたが、それらは厚手でどす黒く、表面には縄目の紋様がついていた。また。時折珍しいものにも出くわした。結構大きな穴一面に、二枚貝の貝殻が堆積しているのである。これは何なのだろうとイェースズはいぶかしく思ったが言葉が分からないので集落の人に聞く訳にもいかず、イェースズは横目でそれを見ながら幾つもの集落を通り越した。
ただ不思議だったのは、峠の上で感じた光圧は、今でもそのままだということだった。進めば進むほど強くなる。陽ざしはさほど強くないのに体中が暑く、汗さえにじみ出てくる。とにかくものすごいエネルギー・パワーが、この平地には注がれているようだ。
ナタンは一泊もすればトト山には着くと言っていたが、もう二日目の夕方になる。それなのに、相変わらずの草むらの平原が続いていた。
やむなくイェースズは、ナタンからもらってきた石斧で草を少し刈り、そこで野宿することにした。
翌日の昼前に、やっとイェースズの目の前に、左右に細長く伸びる小高い丘が現れた。樹木に覆われたその丘は、右も左も切れ目なくどこまでも続いていた。
うまい具合に、また集落があった。イェースズはそこにいた男をつかまえて、
「トト山?」
と、前方の丘を指さして聞いてみた。男はうなずいた。イェースズの胸に喜びが沸いた。しかし、男は続けて、
「オミジンヤマ」と、丘を指して言う。
「オミジンヤマ」
イェースズが怪訝な顔をすると、男はまた何か言った。その言葉の中に「オミジンヤマ」と「トトヤマ」の両方が出てきたことだけを、イェースズはかろうじて聞きとった。とにかく、この丘がトト山であることは間違いないようだ。
「ありがとう」
と、イェースズはヘブライ語で言ってから、その丘に登ってみることにした。道さえあれば、鼻歌一つ歌いきらないうちに登ってしまえそうな小さな丘だ。しかし、針葉樹で覆われているその丘には登れそうな道もなく、どこから登ればいいのか見当もつかない。
イェースズは木と木の間の適当な所から、無理に登りはじめた。そうでもしないと、どうしようもない。根をうまく踏み、枝につかまり、時には草をかき分けて、イェースズは悪戦苦闘だった。ただでさえ汗ばんでいたのに、イェースズは全身汗だくとなった。
汗は疲労のせいばかりではないようで、登るにつれて霊光の光圧はどんどん増してくるように感じられた。ものすごい力が前方から全身を抑えつけ、前に身を一歩乗り出すのもやっとのことだった。それでも全身の力を振り絞り、あと一歩、あと一歩と自分を励ましつつ、彼は頂上を目指した。霊圧はますます強まっていく。
息が苦しくなり、胸の鼓動が激しくなった。あの天を突くような絶壁のダンダカ山を登った時も、こんなには苦しくなかった。あれに比べたら、ここは丘とさえも言えないようなわずかな土地の起伏なのだ。これくらいの丘を登ったくらいで弱るくらい、彼の体は弱くないはずだった。これまでの旅で、さんざんに鍛えられてきたのだ。
そして、ようやく最後の木の幹に手をかけ、イェースズは腕に力を入れた。視界が開けた。頂上だった。
そこで彼が最初に見たのは、巨大な岩だった。横腹を見せながら横たわる岩は人の背丈の二倍ほどはあって、まるで城壁のようだった。それでも、一枚の岩なのだ。
イェースズがその岩まで歩み寄ってみると、左右は人が三十人くらい並んだ程の長さだった。濃い灰色の岩は何かの建物の礎石のようにも思われるが、いずれにせよこのような巨大な一枚岩を見るのはイェースズにとっては初めてのことだった。
登ってみようと、イェースズは思った。しかし、どうやって登ったらいいのか、見当もつかない。そこで彼は、岩の側面に沿って歩いてみた。どうやら丘の頂上にこの岩が乗っているというよりも、岩はいくらか地中に埋まっているらしい。
やがて、周りの木の枝が岩の上に張り出している所に来た。ひらめいたイェースズは、その木の幹に足をかけて木に登り、岩の上に張り出している枝をつたわって岩の上に飛び降りた。
そこには何もなかった。岩の上はほぼ平らで、冷たい岩石の感触が足から伝わってきた。
そこから、初めて丘の向こう側が見えた。わずかな平地越しに、峠の上から見た雪の頂きが青く白く壁のようにそびえて横たわっている。平地には二本ばかりの川が蛇行しているのが見え、左前方遥か遠くの海へと注いでいる。
イェースズは、ぐるりと辺りを見回してみた。すぐそばにこの丘のもう少し高い部分も見えるが、その上には何もないことはここから見てもすぐに分かった。
イェースズは、岩の上に力なく座った。息苦しさは、まだ感じている。これがトト山だと教えられた丘の頂上にはこんな馬鹿でかい岩があるだけで、ほかには何も見当たらない。人っ子一人もいそうになかった。
イェースズはしばらくそうして目の前に広がる平野と白い雪の山脈を眺めていたが、いつまでそうしていても仕方がないので、岩の縁に足をたらして下へと飛び降りた。だが岩は少し高すぎて、着地できずに彼は地面に叩きつけられた。ようやく立ち上がると、周りの林の中に何かないか探してみたが、何もありそうもなかった。
仕方なく彼は、丘から降りることにした。今来た方に戻ってもしょうがないので、反対側の平野の方へと続く斜面の林の中へと、彼は入っていった。登るよりも降りる方が、かえって大変だった。足をすべらさないように、注意して一歩一歩進まねばならない。
丘のふもとは、突然現れた。さほど背の高くない草の草原が、そこから遠くの山脈までずっと続いていた。
すぐに木の看板をイェースズは見つけた。程近い草原の中に、ぽつんとそれは立っていた。白く塗られた看板には何やら文字が書いてあったが、もちろんイェースズには読めない。ほかには、矢印が文字の下にあって右の方を指していた。それにつられてイェースズは、右を見て思わず声をあげそうになった。今降りてきた丘に別の登り口があって、道が続いているのが見えたからだ。
道は垂直にではなく斜めに丘のふもとに沿って緩やかに登り、杉木立の中へと消えていく。この丘にも、登り口はあったのだ。先ほどイェースズが登った頂上は山に向かって右手前方だが、その道は反対の左手の方に向かって延びていた。
イェースズは思わずその道の方へと歩き、昇り始めた。なだらかな傾斜の道で登っているという感じは全くなく、普通に山道を歩いている感覚だ。杉の木立が陽光を遮って薄暗く、空気もひんやりとしていた。道の左は登るにつれて傾斜が落ちるようになり、次第にその下が低くなっていく。
やがて道は、右に大きく旋回した。
そこからは何と、道に絨毯が敷かれていた。横に黄・赤・白・青・黒の順で縞が入り、その繰り返しだった。
その絨毯の上を歩くうちに、イェースズはまたものすごい霊光の光圧を感じた。すぐに道は階段となった。その上は見えない。イェースズは階段を一歩ずつ登り始めた。この光圧からしても、ナタンが言っていた天地創造の神を祀る神殿は、間違いなくこの上にあるとイェースズは確信した。目の前に現れるべき巨大な黄金神殿に胸をときめかせながら、イェースズはさらに階段を登った。
そうして、最後の一歩を登った。そこはちょっとした広場になっていた。向こうにはまだ木立に覆われて少し高くなっている。
そこに、神殿はあった。しかし広場のいちばん奥の丘の斜面際に、小さな祠があっただけだった。祠は自分の背丈ほどしかなく、しかも石の台に乗っているので、祠の正味は二間(90センチ)くらいしかない。こんな小さい祠が果たして神殿といえるだろうか……まるで模型である。それでも一人前に高床式で、木の階段、廻廊、欄干までついている。しかしこんな小さな階段は、小人しか上れそうもない。パウゼツ山頂の神殿さえ、まだましだった。
目の前の木の素地の小型神殿が天地創造の神を祀った神殿だなどということはイェースズの頭の片隅にもなく、なんだ、この山の神を祀った祠かと、イェースズは踵を返そうとした。
その時、右の林の中に小屋があるのを、彼は見つけた。竪穴の上に円錐状にわらを積んだ庶民の家ではなく、高床式になっている小屋だ。しかも、こちらの方は祠よりも遥かに大きく、人が住めるくらいの大きさはある。そしてイェースズが驚いたのは、その小屋の前にさおが三本立っており、それぞれに旗がはためいていたことであった。中央のさおは左右のよりも若干高く、そこには白地の中央に赤丸だけを染めただけの旗が上がっていた。右のは花のデザインのようで、やはり白地の中央に花びらがたくさんある金色の花が描かれていた。そしていちばんイェースズを驚かせたのは左の旗で、正三角形を二つ上下逆にして重ねたカゴメ紋……故郷のイスラエルではダビデの星といわれている紋章だ。その旗がなかったら、イェースズはこの場を黙って立ち去っていたかもしれない。
イェースズは、小屋の前に立った。背後には小屋よりも遥かに高く、杉の木が周りを囲んでいる。
少しためらったが、イェースズは意を決して、大声で、
「シャローム」
と、ヘブライ語で叫んでみた。反応はなかった。そこで今度は、
「ミコ様!」
と、呼んでみた。すると木の扉はすぐに開き、五段ほどの階段の上の廻廊に一人の男が出てきた。壮年で、黒い髭をあごに蓄えた細身の男だった。不思議なのは着ていた服で、環頭衣でも獣の毛衣でもないその白い服は木綿でも絹でもないようで、どんな生地か見当もつかなかった。袖も裾も長い。髭は決して無精髭ではなく、きれいに整えられて真っ直ぐ胸まで伸びていた。
黒い瞳と黄色い肌から、この国の庶民と人種は変わらないようだ。この人がミコだろうかとイェースズが思っていると、その男はすぐにイェースズに何か語りかけてきた。その言葉は理解できないまでも。やはりこの国の庶民が使うのと同じ言葉であることだけはイェースズにも分かった。
イェースズはゆっくりと、
「ミコ様?」
と、尋ねてみた。男はゆっくりとうなずいた。イェースズの目が輝いた。
「私は遠い西の果ての国から、真理を学ぶためにやって来ました。ゴータマ・ブッダ、モーセが修行した地がここだと聞いて、ここを訪ねてきたのです」
ミコにはイェースズのヘブライ語は分からないようだったが、イェースズの大げさなジェスチャーに注目していた。そしてにっこり笑って、また何か言った。その笑顔で、イェースズは自分の意思が相手に伝わったことを知り、ほっとする一方で全身の力が抜けていくのを感じた。
ミコは、ゆっくりと階段を下りてきた。そしてイェースズのそばまで来るとまた何かを告げ、今度はどんどん反対側へとイェースズを残して歩いて行ってしまう。
驚いたイェースズがミコの背中を見ていると、すぐにミコは立ち止まり、イェースズの方を振り返って手招きをした。イェースズがその方に歩きだすと、ミコもまた前を向いて歩き続ける。イェースズはミコの跡を追う形となった。
そのままミコは絨毯の階段を下り、丘のふもとのイェースズが看板を見た所まで歩いて行った。そのままミコは平地の草むらの中を歩いて行くので、イェースズもそれに続いた。その間、二人は全くの無言だった。
いったい自分はどこに連れて行かれるのだろうとイェースズは不安でいっぱいだったが、言葉の通じないミコに尋ねるすべもなく、黙って着いていくしかなかった。そのミコの後ろ姿を見ながら、本当にこの人が世界大王の子孫なのだろうかと、いぶかしくさえ感じた。何しろ、あんな小さな小屋に住んでいたのである。だが、着ている服や風格から、明らかに一般庶民とは違うという感覚はあった。現実とは案外こんなものかも知れないと、イェースズは自分に言い聞かせて歩いた。
やがて、川に出くわした。さほど大きな川ではないが、小川といってしまったらかわいそうな気がするような規模の川だ。流れが速く、歩いて渡るには抵抗があった。しかしすぐ左手の所に橋があった。橋といっても杉の古木と思われる巨大な丸太を二本、川に渡しているだけである。
橋を渡った所に集落があり、竪穴式の住宅の並ぶこの国としてはありふれた集落だった。ただ違っているのはその村のはずれに木造の神殿があることで、今度は小さなものではなく、ミコが住んでいた小屋くらいの大きさはあった。やはり高床式で、三段の木の階段がついており、屋根は側面を見せている。屋根の上には何本かの短い丸木が垂直に乗っているが、これがこの国の神殿の特徴のようだ。さっきの山の中腹の小型神殿は確か五本の丸木があったが、今度は四本だ。
ミコは、その階段の下にうずくまった。この国ではどこでもそうだが、神殿の階段の上の扉には黒い錠がかかっている。エルサレムの神殿の至聖所のように、その中には誰も入れないようだ。扉の左右には、また不思議な紋様が入っていた。言葉では形容し得ない「」という形だった。
イェースズも、ミコの後ろで同じようにうずくまった。ミコは二回お辞儀をしたあと両手を合わせて頭上に振り上げ、少し左右の手のひらを上下にずらした。ナタンの所で心得ていたので、イェースズもミコに合わせてともに三拍手を打ち鳴らした。そのあとミコはこの国の言葉で、何やら祈りを捧げていた。終わるとまた一拝して、今度は手を四つ打った。もう一度、ミコは二拝三拍手を繰り返した。今度はミコはすぐに体を起こし、節のついた奇妙な祈りを唱え始めた。
タカーアマーパラニー カミシドゥモリマスー カムロギーカムロミノー ミコトモチテー……」
延々と続くのかと思っていたら、わりと短かった。終わるとミコはまた一拝四拍手した。
そしてミコは立ち上がった。それから一度だけイェースズの方を振り向いて笑うと、また何か言ってから歩きだした。イェースズが全く言葉を解しないということも、意識の中にはないようだ。しかしそれが、ちっとも嫌味に感じられなかった。それだけミコの人格が素であり純であることが、無為にして伝わってくるようだ。
ミコは、神殿の裏手へと歩いていった。イェースズもそれに従った。表からは木々と草に隠されて見えなかったが、裏手に回ると池があった。大きさは十五歩も歩けば向こう側に行けそうな小さな池だが、水の色が血のように赤い。背筋が寒くなるような見事な赤で、池の周りには葦が群生している。ところが不思議なことにその葦は皆、茎の片方にしか葉が出ていなかった。
池の中央にはお堂があった。人一人が休むのにやっとのくらいの小さなお堂で、そこへは橋も何もなく、池の真ん中に孤立して浮いている形だ。
池に小さな舟があった。ミコはそれに乗るように、イェースズを促しているらしい。イェースズが乗るとミコも乗り、ミコは岸を押した。漕ぐまでもなく、ひと押しで池の中央のお堂まで舟は行く。
お堂に着くと、イェースズだけ降ろされた。お堂の中はひんやりとしていて、これといって装飾は何もない。イェースズを降ろすと、何とミコはそのまま舟に乗って岸へと帰ってしまった。イェースズは、一人とり残された。置いてきぼりにされたのである。
イェースズが慌てていると、ミコは微笑んだまま何かを言った。その表情から悪意で自分を監禁した訳でないことを知ったイェースズは、ミコの言葉に訳も分からないまま耳を傾けると、かろうじて「モーセ」という言葉が聞きとれた。モーセもこのお堂にいたというのだろうか……そう思ってイェースズは、
「私はここでいったい、何をすればいいのですか?」
と叫び、そのことを身振りで伝えようとした。ミコはまた何かを言って、しきりと両手を合わせて見せた。
「ここで、神様に祈れということですか?」
イェースズの言いたいことが通じたのかどうか定かではないが、ミコは笑ってうなずいた。
そのままミコは、岸に上がって行ってしまった。
イェースズは、完全に一人とり残された。
これでは監禁と同じではないかと、イェースズは池の赤い水を見ながら思った。そして、この池の水はなぜこんなに赤いのだろうということもぼんやり考えたりしていたが、やがてイェースズはごろりとあお向けになった。そして、屋根の裏に絵が描かれているのを、イェースズははじめて知った。
それは蛇のような動物だった。しかし蛇にしてはすごい形相で、目は輝き、馬のような鼻と口を持ち、たてがみを振り乱している。そして、何本もの長い髭があり、体は蛇と同様うろこがあるが図太いもので、蛇と違うのは背中にもたてがみが続いていることだった。そして蛇との最大の相違点は、足があることだった。その全身は、真っ白に装飾されている。
奇妙な動物の絵は、実に圧迫感がった。もしかしたらこれは動物なのではなく、人間以上の次元の存在なのかもしれないとイェースズはふと思った。
不意に彼は、跳ね起きた。ミコはここで、神に祈れと言っていた。イェースズは座り直して、とりあえずそうしてみることにした。
夕方近くになってミコが再び現れ、食糧だけを置いてすぐに去っていった。夕食をとり終わり、宵闇が微かに青くあたりを包みはじめる頃、イェースズは濡れ縁に出てみた。濡れ縁の幅はさほど広くはないが、堂をぐるりとひと回り取り囲んでいるので、それを伝って堂の背後まで行くこともできた。何しろ狭いので池に落ちないようにと、イェースズは堂の木の素材の壁を触りながら、濡れ縁を歩いて裏の方へと回ってみた。ちょうどその一角だけ壁が濡れ縁いっぱいに張り出し、小部屋のようになっていた。木の扉がついているので開けてみると、そこは便所だった。こんな人が一人しか住めないような小さなお堂にも便所がある。しかも、周りに誰もいないので池に垂れ流して用を足してもよさそうなものだが、ご丁寧に便所があるのだ。これは、決して池に垂れ流すなという無言の忠告だと、イェースズはすぐに察した。この赤い水からもこの池がただの池でないとは思っていたが、垂れ流しもできないなるとこの池は相当神聖な池ということになる。
退屈さにイェースズはそのほかにもこの小さなお堂の隅々まで観察したが、ほかには特別なものはなさそうだった。
旅の疲れからその晩はゆっくり休み、翌朝かわいらしい声で起こされた時はすでに当たりは明るかった。声の主は小舟の上の小さな女の子だった。たった一人で小舟に乗り、こっちをみて微笑んでいる。まだ、六、七歳くらいに思われた。
童女は濡れ縁の上に食事を置くと、ひと言ふた言何か言ってから、濡れ縁を押した。小舟は、岸へと戻っていった。
「あ、君」
イェースズは立ち上がって呼びかけたが、童女はもう小舟から岸に上がり、葦の草むらの陰に見えなくなった。
イェースズは仕方なくため息を一つつき、童女が置いていった朝食をとることにした。米はなく、魚介類や獣肉を焼いたもの、そして山菜などのだけの食事だった。
それからというもの、同じ童女が日に二回の食事を届けてくれるようになった。
ある時イェースズはヘブライ語で話しかけてみたが、童女ははにかんで笑うだけだった。言葉は通じないらしい。
その他の時間といえば退屈以外の何ものでもなく、神に祈るといっても四六時中祈り続けている訳にもいかず、第一何を祈ったらいいのかも分からず、イェースズは一日ぼんやりと池の赤い水や屋根裏の絵を見て暮らしていた。
それでも、忙しいといえば忙しかった。ここへ来てからというもの、毎日おびただしい量の鼻水が出るのだった。いくらかんでもすぐに鼻が詰まる。真黄色の鼻水で、しかも痰もすごい、。すっかり風邪を引いてしまったようだ。さらに日に何度も襲ってくるのが下痢で、そのたびに便所に立つので、あまり落ち着いて座っていられる時間もなくなった。少々熱っぽい気もしたが、寝込むほどの熱でもなかった。そういった状態で何日かたち、イェースズもいい加減に嫌気がさしてきた。
下痢と熱はちょうどダンダカ山の時と同じだ。あの時ほどではないにしろ、ちょうど同じ症状に、イェースズはふとダンダカ山のことを思いだした。あの時山中で行った瞑想は、八正道に照らして自分の過去を反省せよと、具体的な課題が出されていた。しかし、今度は何もない。ただ神に祈れという漠然とした課題だけで、訳も分からずこんな狭いお堂に閉じ込められていることになる。見慣れない異邦人が突然訪ねてきたから、厄介払いにこんなところに閉じ込めたのではないかという悪想念さえわいてきた。
そうなるとイェースズはもう、ここから出たくて仕方がなくなった。こんな池は、ちょっと泳げばすぐに岸に着ける。
イェースズは濡れ縁からそっと、右足だけを池の水につけてみた。気候はかなり暖かくなってきているとはいえ、水は冷たかった。足の親指だけを水につけただけで、もう指先は見えなくなるほどの水の赤さだった。イェースズは寒気がして、足を元に戻した。
その時、胸の中で声なき声が聞こえた。
――この池に入ると、リューに食わるるぞよ。
今まで何度か経験してきたことだが、声なき声は異国の言語であるのに、胸元でたちまちアラム語に翻訳されて聞こえてくる。ただ、「リュー」という言葉だけは意味不明だった。もとの言語のままなのである。「リュー」とは何だろうと思っているうち、声なき声がアラム語に直される前は、まぎれもなくこの国の言葉であったことに気がついた。庶民もミコも、食事を届けてくれる童女も、同じような言葉を使っていたような気がするのだ。
イェースズは体中が震え、立っていることさえできなくなるような恐怖心に襲われた。そしてお堂の真ん中にうずくまった。そして震えながら、ここを脱出しようと試みたことの愚かさを恥じた。内なる声は、彼の魂をこうもゆるがすほどの迫力だったのだ。それにここを脱出したからとて、行くあてもない。この国はどこへ行っても竪穴にわらを円錐状に積んだ家に住む人々の村が点在するだけで、やはりこの国で自分の行くべき所はミコのもとだけのようだ。だが、ここにいろと言ったミコの言いつけを破って勝手に脱出したら、のこのことミコの住む所に行かれるような分際ではなくなる。
そしてミコの言葉の中に「モーシェ」という語があったことを思いだした。モーシェもゴータマ・ブッダもかつてはこのお堂で修行をしていたのだ……そう思うと、イェースズは急にうれしくなった。
そこで自分は何をすべきかということになると、それはもうミコから出された課題の神に祈るしかなさそうだった。
そこでイェースズは故国のやり方で、屋根裏に向かって両手を広げ、想念を凝集させた。
「神様。天地を創られた神様。私はあなたの思し召し通り、今ここにいます。どうか、あなたのお声を聞かせてください」
イェースズは必死で、額に汗さえにじんできた。
「私はこれから、いったいどうすればいいのでしょうか。お聞かせ下さい。すべてがあなたのみ意通りになりますように」
祈りとは神との対話だと、イェースズは思っていた。だから自分の言い分を述べ終わると、彼はひたすら神の声を聞こうとした。だが、神は沈黙しておられる。無言だった。神が一方的に無言である以上、対話は成り立たない。それでもイェースズは心を落ち着かせ、心の耳を澄まして神のみ声を聞こうとした。
ずいぶんそうしたあと、イェースズの頭にまたダンダカ山での瞑想が蘇ってきた。その時のことを思い出し、同じ禅定のスタイルを彼はとった。課題はあの時と同じ「反省」である。ダンダカ山以来この国に来るまでの出来事を思い出し、ひとつひとつ自分の想念を点検していった。あれほど心の垢を落としたつもりだったが、ちょっとの間にすぐに穢れを積んでいることにイェースズは自分ながらに驚いた。
ダンダカ山を後に東に向かって以来、不思議なことが多すぎた。その都度、疑いの想念ばかりを浮かべていた自分だった。それを思うにつけ、申し訳なさがこみ上げてくる。そしてすべてが神の妙なる仕組みであったにもかかわらず、いつしかその神仕組みに狎れてしまっていた自分をも発見した。
今日からは疑うことをやめ、すべてをス直に受け入れようと彼は決意した。どんな不思議なことがあろうともすべて神のみ声として、ス直に受け入れよう……そして決してそれに狎れることなく、感謝と感動と感激をもって頂戴しよう……それは子どもの心だ……と彼は思った。子どもは何も知らない状態で、この世に生を受ける。そして何でも生長の糧として吸収する。いちいち疑ったりはしない。そんな子どもの純粋でス直な心に立ち返ったとき、はじめて神理に出会えるのではないかと彼はつくづく感じていたのだった。
その晩、彼は早速不思議なものを見た。眠りについた彼が外が騒がしいので目を覚ますと、どうも池の水が波立っているようだった。
イェースズは起きあがった。風が強いのかなと思って扉を開けてみたが、風はなさそうだった。だが次の瞬間、池の中から発光体が飛び上がるのを彼の目はとらえた。太くて長いそれは池の水面から飛び出て、宙で体をくねらせてはまた池に戻る。そしてまたすぐに、飛び出てくる。これこそ、屋根裏に描かれているあの蛇に似た動物だった。池いっぱいに巨体をくねらせつつ水面から出す顔は、まさしく屋根裏に描かれた動物だ。体を覆う白く光る鱗、顎鬚や鬣、細い手など、何もかもが絵と同じである。しかし、「動物」という言葉で表現するのには、その姿はふさわしくなかった。むしろ、動物とは正反対の、人間をも超越した高次元の神格ともいえるような神々しさを放つ姿だった。それは、この世の肉体とは思えなかった。これは霊的な存在であると、イェースズはすぐにサトッた。その証拠に、イェースズの肉眼はその存在を見てはいなかった。霊の目を開いて霊視していたのである。
すると見る見るうちに白い生き物は、天へと高く登っていった。
あれが「リュー」なのか……と、イェースズはぼんやりと考えていた。
あとは夜の闇と穏やかな水面が、月の光に照らされている静寂だけが残った。
そのうち、イェースズの頭はクラっとした。それでも全身の力を振り絞って部屋の中へ戻った途端、部屋全体がまばゆい閃光と熱と光圧に支配された。
意識が遠くなる。閃光に包まれたまま、全身が上昇していくのを感じる。
そして気がつけば、別の世界にイェースズはいた。今までに何度となくこのような幽体離脱を体験していたイェースズだけに、そのこと自体にはさほど驚かなかった。ただ、今度来た所は、今までとはまるで違う。風景が何もなく、ただ黄金一色に塗りつぶされた光の洪水の中だった。その光圧に、身動きすらできない。
そして、前方の一段と強い光の中から声があった。声は内なる声として、耳ではなく直接胸に響いてくる。
――汝、心を尽くし、思いのすべてを尽くして神を求めん心、そが天に届きあれば汝を起こせしなり。
イェースズは、その場にひれ伏した。だが、足元には地面がなく、体は光の中に浮いている。前後左右上下とも、全方向が吹き寄せるまばゆい光波の真っ只中だった。
その声は、今までにはない威厳があった。高次元界でブッダの霊と対話した時も、これほどまでに威厳や光圧を感じたりはしなかった。とにかく恐ろしく、足が震えている。
――恐るる勿れ。
イェースズは子どもの心になるんだと自分に言い聞かせて、わざと微笑みながらそっと顔を上げた。その途端、ものすごいエネルギーのパワーが注がれ、満たされていくのを感じた。眉間の間が特に熱く、むずむずさえする。
――その心、大事なり。ス直とは主に直くなることにして、人間素の状態こそ、主のみ意になお近づくを知るべし。幼子のごときス直な心になりて、はじめて神霊の力界の波動、その全身に貫き流るるを見るに至る。よきぶどうの酒を得るためには、古きぶどうの酒は捨て去る必要あるならん。今まで学び来れるものども、すべて捨て去るべし。無の心になりし時、神の子の力、汝の内に甦るよ。
イェースズのすべての内面の想念は、読み取られていた。
――汝、ひたすら神を求め、神の声を聞かんとする願い、神霊界にも通ぜしなり。
「では、あなたが神様なのですか?」
もう恐れもなくなり、興奮だけでイェースズは立ち上がって、声のする方に駆けて行こうとした。神の懐に飛び込もうとした。だが、イェースズは一歩も前へ進むことはできず、再びその場にひれ伏した。
――吾は大天津神にして、天地創造主の化身なり。大天津神界より汝等の住する現界へは、神直接天降ることはでき申さず、我が耀輝身は馳り身となりて、汝に語りたるなり。故に化身と申すも、皆訳ありてのことなり。
話は難しいが、それでもイェースズはあえて疑問ははさむまいと努めた。
――吾は大天津神とは申すも、天地創造の主神には非ず。汝等の聖書とやらには、神七日にて天地の創りなし、七日目にて休みたりとあるならん。その七日目に休みし神の化身なり。神霊の界の実相は奥の奥にして、すぐに分かるべきものにては非ず。今は徒に知らんとせん心よりも、使命を知ること大事なり。今は水神の統治の世なれば、すべてを明かなに告げ申すことでき得ざりし訳あるも、やがては真の岩戸開かれ、炒り豆に花咲く世きたるならん。天の時の到来近み来れば、汝その舵取りの役なせ。水神の統治の故にて行き過ぎし人間の我と物欲に歯止め掛け致すべし。神より離れすぎし人間どもに、心改めをさせよ。否、魂改めよ。それなくして、来るべき岩戸開き、人類大峠の曲がり角を曲がることはなし得ざるならん。汝等の民はヨコのみ役なれば、少しはタテと組み、ヨコになりっぱなしにならぬよう、時来りなばそれにては困ることある故、汝を遣わせしよ。時至らば、神、必ずメシアの魁遣わすなり。それまでは、人間神より離れし度合いヒドくならぬよう、汝は歯止めかけおればよきなり。主の神のみ意、地に成り鳴りならしめん世近み来れば、頼みしよ。
イェースズはもう何がなんだか訳が分からなくなっていたが、とにかく重大な使命が自分にあることを思い知らされたという感じだった。イェースズは、思わず身震いした。
――今、我が名を告げおかん。シルせ。
そしてゆっくりと、閃光の中からの内なる声はイェースズに自らの御神名を告げた。長いみ名だった。
――この名は汝がシルすのみにて、ユダヤの人々には未だ秘めおけ。ユダヤには天の御父、弥栄のみ名を出だしあるなり。その名は仮に示せしものなるも、今は汝にも父神のみ名は明かなには告げ申すことできざる訳あるなり。汝はこれより、この地にてミコより学ぶべし。ここは霊の元つ国、霊島なれば、すべての神理の霊智はここにあるなり。時至らば、天の御父のお出ましもあるならん。我が大天津神の化身なる証として、汝は明日よりこの霊の元つ国民の言葉をも解することのでき得るよう、言知主神、汝に力を与えん。
その時、前方の閃光が、いちだんと光を増した。イェースズは後ろに弾き飛ばされそうになった。そして、閃光の中に動くものを彼は見た。
それはまさしく、堂の屋根裏に描かれていた生き物だ。しかし今は白ではなく、黄金の光に全身は輝いていた。
「リューだ!」
と、イェースズはつぶやいた。黄金のリューは周りの光の洪水を波打たせたかと思うとものすごい速さで飛び去り、遠くに小さくなって消えた。
次の瞬間、イェースズは堂の中で横になっていた。いつもと変わらぬ狭い部屋が、夜の闇の中にあった。
ひと眠りして朝日に目が覚めた彼は、不思議な体験のことを思い出していた。今までに比べても、特に強烈な体験だった。過去の同様の体験と同じように、今回も夢だったで片付けてしまえばそれまでだ。しかしそうするにはあまりにも強烈な印象で、彼の目にははっきりとその極彩色が残っている。
「お兄ちゃん!」
毎朝来る童女の声が、外の池の方でした。イェースズは外をのぞいた。童女が小舟の上で、いつものようにニコニコして座っている。
「はい、朝のお食事」
「ありがとう」
無造作に受け取ろうとしたイェースズは、はっと気がついて手を止めた。そして童女の顔をしげしげと見た。
「どうしたのお?」
童女は愛くるしい目を光らせ、無邪気に小首をかしげた。
分かる。今のイェースズには分かるのである。童女は決して今朝から急にヘブライ語を話しはじめた訳ではなく、昨日までと同じようにこの国の言葉をしゃべっている。
「ねえ、君。分かるの? お兄ちゃんの言葉が分かるのかい?」
「うん、今日は分かるよ」
童女は、大きくうなずいた。
「昨日までは、ぜんぜん分からないへんな言葉をしゃべってたけど」
「ああ」
イェースズは、思わず立ち上がった。昨日の「夢」の中で龍体と化した神の言葉では、対面した証拠としてこの国の言葉が分かるようにしてくれるということだった。やはりあれが夢ではなかった。習いもしないのに、こんな異国の島国の人々の言葉が突然分かるようになったのだ。このような奇跡は本当にあるのだ、神様は本当にいらっしゃるのだと、イェースズは熱くなる胸を抱き、涙を流して青空を仰いだ。
昼前になって、ミコが来た。ミコはニコニコして小舟で堂に近づいて来た。
「ミコ様!」
と叫んで、イェースズは濡れ縁まで出た。
「さあ、今日から私のもとへ来るがよい」
いつもと同じ言葉でミコは言ったが、今はそれが完全に理解できるイェースズは、
「はい」
と大きくうなずいた。