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砂浜から黄土色の断崖の上に斜めに登る狭い道があるのを、イェースズは見つけた。そこで食糧の袋を背負い、彼はゆっくりとその道を登った。すぐに、人の背丈の二倍ほどの低い断崖の上に着いた。砂浜はすぐ下に見える。上に登ってしまえばあとは平らな道で、そのまま松林の中に続いている。そこで上陸以来イェースズがはじめて会ったのは、一匹の犬だった。イェースズの姿を見るとそれはけたたましくほえてきたが、イェースズが向けた笑顔ですぐに犬はどこかへ行ってしまった。
松林はすぐに終わった。パッと視界が開けると、そこは小ぢんまりとした山間の水田地帯だった。今は春先で水田には何も植えられておらず一見沼のようでもあったが、縦横にきちんと畦が作られていたことによってすぐに水田だと分かった。五十歩も歩けばすぐに山に着いてしまいそうな狭い水田で、その山も丘といいてっもいいくらいのものであり、土が露出している部分はなくすべてが緑の木々で覆われていた。わずかばかりの起伏があるだけなのに、視界は狭い。山の向こうがすぐにもう反対側の海なのかずっと陸地が続いているのか、皆目見当もつかなかった。
イェースズは歩を止めて、はじめて見る上陸地の風景を見つめた。カーシーやシムで見てきた悠久の大自然に慣れていたイェースズの眼には、何もかもスケールが小さく見えた。ここは間違いなく島であって、だからこそ自然のスケールが小さいのだろうと思われたが、よく見ているうちにイェースズはひとつのことに気がついた。小さいなりに、繊細で優しい自然が目の前にある。か弱い母親の腕に抱かれているような優しい山や優しい見晴らしが、今イェースズの目の前に展開されていた。
心の中に心の名かに急に暖かさがこみ上げてくるのを感じ、イェースズは水田の方に向かってなだらかに下降する細い道を歩いた。両側からかぶさる萱草をかき分けながらでないと、なかなか歩けないような細い道だった。
そしてようやく水田の脇まで来たとき、イェースズはそこでこの島に来てはじめて人間に会った。
少女だった。黒い髪と黒い瞳、彫りの深いその顔から、シムの人々と人種は全く同じようだった。ただ髪は黒く延ばして束ねてはおらず、服は木綿の白布の環頭衣で、シムのティァンアンのユダヤ人の村でも見たユダヤの古代の服装そのものだった。しかし顔を見ても、ユダヤ人ではない。それに奇妙なことに、足に何も履いておらずに裸足だったことである。
少女はイェースズを見るや否や慌てて道の脇の草むらの中に入り、イェースズの方を向いてうずくまった。そして、両手を合わせて二回ほど拍手を打った。イェースズはただ呆然として、そんな少女のしぐさを立ったまま見下ろしていた。少女は伏目がちにイェースズを恐る恐る見上げ、その唇が動いた。
「シャローム」
「え?」
イェースズは、ただ呆気にとられた。少女は確かにヘブライ語で「シャローム」と言った。聞き間違いかとも思ったが、もう一度少女が、
「シャローム」
と言うので、もはや聞き違いではなかった。少女は再び顔を伏せてうずくまっている。イェースズの顔は、驚きから輝きに変わった。ヘブライ語が通じるのだ。そこでイェースズは、
「どうぞ、お立ちなさい」
と、ヘブライ語で話しかけてみた。だが、少女は動かなかった。
「ここは、何という国なんだい?」
しかし少女はますます恐れ入ったという感じで地に額をこすりつけるので、イェースズは戸惑ってしまった。どうやらこの少女は、今の「シャローム」しかヘブライ語を知らないらしい。
「おお」
と、イェースズはため息をついた。その声に、少女はパッと顔をあげた。そしてそのままニコリと微笑んですくっと立ち上がり、片手である一方を示して何かを言った。シムの言語とも違う言葉で、当然イェースズには全く解せなかった。だから何がなんだか分からなかったが、少女はどうもその方角の方へついて来いと促しているらしい。そこでイェースズは、とにかくついて行ってみることにした。
しばらく歩いているうちに、少女とイェースズは小さな村落に着いた。
村の周りには城壁も柵も塀もなく、建物も質素なことには驚いた。多数点在しているのは庶民の家らしいが壁はなく、干し草を円錐状に積んでいるだけの小さな家ばかりだった。地面からいきなり屋根のようになっている家の並ぶ中心には、木で造られた少しはましな建物もあった。しかしその木材は素地のままで、シムの国で見られたような彩色や装飾は一切ない。それでいて、かえってシムの国の建物よりもさっぱりとした清潔感が感じられる。
ひときわ目についたのは、集落のはずれにある足の長い建物だった。倉庫のように思われるが、柱が長く延びて建物全体を空中に持ち上げ,はしごが地面までついている。空中に持ち上げられた床は下を柱に支えられ、床の下は空間になっていた。このような建物を見るのは、イェースズにとってははじめてのことだった。
村を行き交う人々は、皆少女と同じ肌の色で、同じ服装だった。それらの人々とすれ違うたびに少女はイェースズを彼らに示し、何かを言っている。それも、イェースズは全くはじめて耳にする言語だった。その少女の言葉を聞いた村人たちは一様にイェースズを見ては驚きの表情を見せ、たちまち道の脇にうずくまって、ちょうど少女がしたのと同じようにイェースズに向かって二拍手を打った。
イェースズが案内されたのは村の中央の、ひときわ大きくそれでいて簡素な建物だった。屋根は乾燥した草で葺かれ、庶民の家と違って壁はあったが、シムの国ではこの規模の家なら必ず瓦葺きだったのを思うと、イェースズにはその屋根の方が新鮮だった。先ほど見た倉庫と同じように床の下に柱があり、床は空中に持ち上げられている。そこまで、地面からは木の階段がついていた。人々は裸足だからそのまま上り下りしているようなのでイェースズもそのまま階段を昇ろうとしたら、少女は慌ててイェースズの足元を指さして何かを言っていた。しばらくは分からないでいたが、ややあって履きものを脱げという意味らしいとイェースズは察し、サンダルを脱ぐとそれでよかったらしく少女は何も言わなくなった。
五段ばかりの短い階段を上がったところで、中から若い男が土でできた褐色の瓶を持って出てきた。中には水が入っていた。男は腰を低くかがめ、その土器の中の水とイェースズの足を交互に指さし、うやうやしくお辞儀をした。足を洗えという意味だとすぐに分かったイェースズは、驚きを禁じ得なかった。それはまるで、故郷の風習と同じなのである。あのティァンアンのユダヤ人村でならいざ知らず、ことばも通じない絶海の孤島に故郷の習慣を見たのだ。
足を洗い終わって通された部屋は、床までもが木張りだった。そこに、一人の別の男がうずくまっていた。そしてイェースズを見ると膝を立て、やはりイェースズに向かって二拍手してまたひれ伏した。
イェースズは、ただ戸惑うしかなかった。そしてその男に上座へと勧められるまま、床に直接腰を下ろした。この座り方とて、イェースズの故郷そのものだった。ギリシャもローマも、そしてイェースズがこれまで行ってきたアンドラ国やシムの国でもすべて椅子とテーブルを使い、決してこのように床に直接座ることはなかった。
「お疲れさまでした」
男の開口のひと言に、イェースズは再び驚いた。たどたどしい口調ではあったが、それは紛れもなくヘブライ語だった。しかし、黒い髪に黄色い肌で、どう見てもユダヤ人ではあり得ない。あごも一面に黒ひげで覆われ、村を歩いていた人々より少しはまともな環頭衣を着ていた。
「ナの国の方でしょうか? イトの国の方ですか?」
「は?」
イェースズは答えるすべもなく、男を見てきょとんとしていた。イェースズの答えがないので、
「私は、この村のピコでございます」
と、言いながら顔を上げた男は、不思議そうにイェースズを見た。
「ウシ様は、失礼ですがご身分は?」
「ピコ」というのも「ウシ」というのもヘブライ語ではなく、イェースズには何のことだか分からなかった。それに、いきなり分けも分からずこの建物の中に通されて上座に据えられ、そして「ご身分は?」はないだろうとイェースズが思っていると、イェースズがさらに答えないので男は慌てた様子を見せた。
「あ、お許しを。ただ、お顔の入れ墨がないもので……」
「顔の入れ墨?」
イェースズははじめて口を開いた。顔の入れ墨とは何のことだろうと、不思議に思ったからだ。故郷でもこれまで行ってきた国でも、そんな風習がある所はなかった。
ピコと名乗った男は、畏まって平伏している。
「あのう、ピコというお名前なのですか?」
ヘブライ語で、イェースズも尋ねてみた。
「いえ。この村でピコの役を賜っているものでございます」
ピコとはどうやら村長とかいう意味の役職名らしい。
「では、お名前は?」
それを聞いてピコは飛び上がらんばかりに驚き、少し後ずさりをした。イェースズはますます訳が分からなくなった。
「め、滅相もございません。いきなり、名前など……」
なぜ名前を聞いただけで、この男はこんなに狼狽するのか……イェースズは頭が混乱し始めた。その混乱を収拾させるためには、疑問点をひとつひとつ解決していくしかない。その前に自分のことを告げておく必要がある。相手はどうやら、自分のことを何か勘違いしているらしい……そうは思ったが、名前でこの男はこんなに狼狽したのだからと、名前だけは名乗らないことにした。
「私は海の向こうの、シムの国から船でここへ渡ってきました」
「シムの国とは?」
「今は、シェンという国名でしたね」
「え? シェン?」
しばらくピコは、言葉を失っていたようだった。
「でも、シェンは少しいただけで、本当の故郷はずっと西のユダヤのガリラヤという国ですけど」
ピコの反応はなかった。ピコにとっては、はじめて耳にする地名らしい。
「今、私たちがこうして話している言葉こそが、そのユダやの言葉、イスラエルの民の言葉ではないですか」
「いいえ。これはナの国やイトの国の、ウシ様方の言葉ですが」
「ウシ様?」
「あなた様も、ウシ様ではございませんか」
「ナとかイトとかいう国は、どこにあるのです?」
「この島のひとつ西に、大きな二つの島がわずかな海峡を挟んでありまして、そのいちばん北の水門がナの国で、その少し沖合いの小島がイトの国でございます」
「そこに、ウシという人々がいるんですか?」
ナの国もイトの国も、そこを治めているのはあなた様と同じ金色の髪と青い瞳を持ち、赤い顔で鼻が高いウシ様たちです。ただ、そこのウシ様たちは皆、顔に入れ墨をしていますが。道でウシ様に会えば、我われ黒い髪で黄色い肌のグェコは、二拍手をもって礼をなさねばならないのです」
「それでか……」
この村の人々はイェースズをナやイトの国の支配層の「ウシ」だと思ったのだろう、だからあんなにパチパチと手を打たれたのだ。
「ナの国もイトの国も、その手前のプミの国も、みんな小さな国です。この島国は、そんな小さな国の集まりなんです」
「ここは?」
「はい、コシの国といいます」
「では、この島全体は、何という国なのですか? 私はシェンの国で東海海中にブンムラグ山という山がある島国があると聞いて、船出してきたんすけど。なんでもジェン・チャーグ・フアンという皇帝が不老不死の薬を求め、そのブンムラグを探させるためにギァグ・ピュアクという人物を遣わしたとか」
「さあ、申し訳ないが、そのような名前の山のことは聞いたことがない。シェンではこの島国のことを、ワールといっているとは聞きましたが」
そのような名は、今度はイェースズの方が聞いたことはなかった。
「特にナやイトの国のウシ様方は、大陸との交流も行っています。大陸にシェンの国ができてからは一時中断していますが、その前のハン王朝のころには、ずいぶん盛んに交流していたようですよ」
ハン王朝のころといえば、わずか四年前である。
「だけど私はシェンにいた時に、一度もワールなどという国の名前は耳にしませんでしたけど」
「ワールの使者は、ティァンアンの都までは行っていないでしょう。大海を渡ってすぐの所に、ハン朝のころはグラックラン郡というハンの地方政府があったそうですから、使者が行ったのはそこまでではなかったですかね」
ピコの言葉を何気なく聞いているうちに、イェースズの心の中にはっとひらめくものがあった。ナやイトのウシといわれる人々はヘブライ語を使う紅毛碧眼の人々というのだから明らかにイスラエルの民であろうが、船出するときテンチェンのディェン老人はギァグ・ピュアクのほかにもこの大海を渡っていったダドゥ・ジェン・ニェン、すなわちユダヤ人がいたと言っていた。その人々が今この島国で、支配階級になっているらしい。そうなるとまぎれもなくユダヤ十支族、すなわちエフライムだ。十支族は歴史の中で消えたと思っていたら、シムではその子孫からジェン・チャーグ・フアンなどのような人物が出てジェンという大帝国を造ったかと思うと、こんな絶海の孤島で支配階級になっていたりする。エフライムのパワーに、イェースズは呆然とした。同じユダヤ人でもユダ・ベンヤミンの二族は故地にありながらも、今やローマの圧政の下に息を潜めている。思えばエフライムという部族名の由来ともなっているエフライムというその人自身の父親のヨセフは末子でありながらエジプトの宰相になり、長子のユダはその下に隷属したのであった。
「ところで」
ピコの顔が、急に険しくなった。
「あなた様がナやイトのウシ様ではないと分かったので申し上げますが、今あなた様は確かジェン・チャーグ・フアンとかギァグ・ピュアクとか言われましたね」
「はい、そのギァグ・ピュアクが……」
イェースズの言葉を、ピコは右手を上げて遮った。
「その、ギァグ・ピュアクとかいう人のことは存じませんが、そのようなことはこの島国では口にされない方がいいですよ」
「え? ジェン・チャーグ・フアンが多くの書物を焼いたことと、何か関係があるのですか?」
イェースズの頭は切れすぎるようで、ピコは慌てて部屋の内外の人影を確認し、さらに声を潜めた。
「ここではジェン・チャーグ・フアンのことや、ブンムラグとかのことは言わない方がいいですよ」
「え? 何でですか?」
イェースズの方はあっけらかんとして尋ねたが、ピコの顔はますます険しくなった。
「この国は、あなた様が考えておられる以上にとんでもない国なのです」
「つまりそれは、ここが全世界の人類と文明の発祥国だということですか? 世界の大元であるムーという国が大洋に沈んだ、その沈み残りの国ということですか? 実は、私はここがそんな国なのではないかと思って、それでわざわざ海を渡って来たのですけど」
ピコはほとんど顔面蒼白となり、おお慌てて人差し指を口に当てて、
「シーッ!」
と、言った。
「そんなことをウシ様に聞かれたら、殺される!」
この地でウシと呼ばれている連中はこの国の由緒を抹殺して、自分たちのこの国における支配を正当化しようとしているのだなと、イェースズにはすぐに察しがついた。ジェン・チャーグ・フアンが自分の築いた帝国よりも古くて由緒正しい国があっては困るということで、その関係の文書を焼却したという事実からも、そのことは十分に推察できる。やはりジェン・チャーグ・フアンもこの国のウシも、同じエフライムなのだ。
「とにかく、そのことには触れない方がいいです」
ピコはそれだけ言うと、立ち上がって部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待って!」
イェースズは、慌ててそれに追いすがった。
「この国のことを、もっと詳しく聞きたいのですが」
ピコは、力なく振り向いた。そしてだいぶ穏やかになった目で、イェースズを見おろした。
「海岸沿いに東に行くと、パウゼツという山があります。そのふもとに一人のウシ様が住んでおられまして、ほかのウシ様から隠れてそこに身を寄せておられるのですが、その人に聞いて下さい。私の口からは、もうこれ以上は言えない」
ピコは優しくそう言うと部屋を出て行き、イェースズが一人とり残される形となった。
まだ朝食を取っていなかったことを思い出したイェースズは、そのままその部屋で自分が持ってきた朝食を取った。そして、それが終わるとすぐに外に出た。日はすでに、中天近くにまで上がっている。
朝と同じように、道行く人々はイェースズを見るとさっと路傍にうずくまり、二拍手の礼を取ってきた。それには見向きもせず、イェースズは歩いた。そして、上陸した海岸まで戻った。岸の崖の上から見下ろすと、乗ってきた小船がまだ砂浜にあった。再びその小船で海岸沿いに東行しようかとも思ったが、せっかく上陸したのだからとこの国に対する好奇心から、イェースズはその小船は乗り捨てることにした。
崖の上の松林の中を東に向かって、彼はとぼとぼと歩きだした。何しろまともな道はほとんどなく、わずかばかりのけもの道だけが頼りで、左手に大海原が時折見え隠れしながらどこまでも追いかけてきた。
気候は温暖だった。大陸の乾いた空気に慣れていたイェースズは、はじめはじめじめと湿った空気に戸惑ったが、まる一日ほどで気にならなくなった。夜は露営しなければならないが、世界を股にかけてきたイェースズにとって露営はお手のものだった。露営では猛獣よけに焚き火をするのが普通で、イェースズはここでもそうした。木も湿っており、なかなか火がつかずにイェースズは苦労した。夜になると若干は涼しくなるが、気温が急激に下がるわけでもない。イェースズは林の中の草むらに身を横たえ、焚き火の炎を見つめながらようやくうとうとしはじめた。海岸が近いので、波の音が繰り返し響いてくる。湿り気が多い木を燃やしているので、やたらパチパチという音もする。そしてあることに、イェースズは夜半近くになって気がついた。大陸では露営したときには当たり前に聞こえてきた野獣の咆哮が、ここでは一切聞こえないのである。この国には野獣はいないのだろうか……野獣がいないなら盗賊もいないだろう……寒くもないのだから、明日からは焚き火はやめよう……半分眠っている頭でイェースズはぼんやりと考えていた。
今朝、日の出とともに上陸した時、はじめて見たこの国の神々しさに、イェースズはここがまさしく神の国だと実感した。ここが本当に自分の目指していた国なのかどうかは、まだ分からない。しかし、あの神々しさからしてここが神の国だとすると、ここは天国なのだろうか……そんなことを考えているうちにイェースズは眠りに落ちた。
朝日に包まれ、イェースズは目覚めた。今日もまた、東へと進まねばならない。透き通るような空気を肌に吸い込み、彼は大きく伸びをした。周りの木々では、うるさいほどに小鳥がさえずっている。柔らかい日ざしが朝靄の中に何本もの光の筋を描き、木の枝と枝の間から真っ直ぐに地面に伸びていた。昨夜ここで寝ることに決めた時はもう暗くてよく見えなかったが、ここから東の方へは少しばかり平らな土地が広がり、それを靄が一面に覆っていた。
聖書の中で、神が七日をかけて天地を創造された時、すべてが終わったあと被造物をご覧になって「よし」とされたというみ意が、今のイェースズの胸の中にはひしひしとわきあがっていた。そこで、子供の頃からの習慣であった朝日に向かっての礼拝を、イェースズは行った。
海岸線は正確な東というよりも、北東の方角へと続いている。次第に靄が晴れてくると、東の方の平地をさほど遠くない所で、低い山並みが遮っているのが見えてきた。緑に覆われた山はずっと左右に延び、どこまでも続いているようだった。
イェースズは再び、海岸に沿って歩きだした。平地には、やたらと湖沼が多く見えた。水草がわがもの顔に背を伸ばし、その中で水面が光っていた。それでも時には、ちょっとは大きい沼もあった。これでは、この国は湿気が多いはずだと、歩きながらイェースズは思った。地平線を見ることなど、この国では決して望めそうもなかった。わずかばかりの平らな空間を遮るようにすぐに山地となり、しかもその山というのも空にそびえているというほどのものでもないから、そういうことがこの国の自然のスケールを小さく感じさせているらしい。その自然は美しく、緑もあくまで優しい緑だった。空の青さもさほどどぎつくなく、微に入り細に入りの繊細な、細やかな美しさだった。
平地は湖沼ばかりでなく、ほとんどが水田ともいえた。水田はこれまでも大陸でさんざん目にしてきたイェースズだが、ここで見る水田は大地の彼方まで続くというようなものではない。今は春先で何も植わっていないから、水田がすべて湖沼同然となっていた。そして水田のほかに、低地にかなりの規模の集落があるのに、時折イェースズは出くわした。それも今まで行ってきた国にあったようなけばけばしい建物や、ごみごみした町並み、あふれるような人ごみというのには、いつまでたってもお目にかかれそうもなかった。庶民の家もこの国に来てはじめて見た村のそれと全く同じで、円錐形に積まれたわらの山ばかりで、それが何百と集まっているような集落だった。
質素な風景だった。整然と町が造られているというより、これでは人々は一生野営しているようなものだ。これでは、シシュパルガルフのスードラの町の方が、まだましだった。彼らの家は、一応は石を積んだ壁を持っていた。今見ているこの国の人々の家は全く壁がなく、壁があるのは中央の倉庫や村長の家らしき建物だけだった。それでも村人たちは、奴隷という訳ではなさそうだった。
野営して二日目の昼前に出くわした集落で、イェースズは好奇心から村はずれの一軒の家をのぞいてみた。地面をわずかばかり円錐形に掘り、その竪穴の上に円錐形に柱を組んでその上にわらをかぶせている。外から見るとわらを積んでいるだけのように見えたが、中に入るとかなり頑丈な柱が組まれていた。床は自然の土まで、中の空気はやけにひんやりとしていた。そこには人が十人くらいいて、部屋の中央のかまどのようなものを囲んで座っていた。そして突然入ってきたイェースズに驚き、皆が一斉に後ずさりした。そしてすぐにイェースズが自分たちとは違う紅毛碧眼であるのを見て、ひざまずいて手を二つ打ち、ウシに対する礼をとった。
「パウゼツ」
と、イェースズは、自分が行くべき土地の名を告げてみた。家人たちは最初はきょとんとしていたが、イェースズが何度も、
「パウゼツ、パウゼツ」
というので、何かを察したように主人格の男が立ち上がり、イェースズを外に連れだした。そのままさらに海岸沿いに北東に進んだ当たりを指差し、なんだか分からないこの国の言葉でしゃべっていた。とにかく指さす方へ行けば間違いないだろうと、イェースズは思ったが、その方角を見ても普通の低い山並みがあるだけで、特別に高い山は見当たらなかった。
イェースズが頭を下げてその方角に向かって立ち去ろうとすると、家の人すべてが出てきて、イェースズに向かって深々と頭を下げていた。こんな粗末な家に住んでいる人々までがこんなに礼儀正しい国は、イェースズはこれまで行ったことがなかった。実に礼節が行き届いている国だと、イェースズは驚きとともにこの時に実感した。
そして野営を重ねて4日目、それでもイェースズは海岸を歩いていた。もはや波は断崖の下ではなく、延々と続く白い砂浜の波打ち際に彼の足跡が続いていたのである。砂浜は風紋鮮やかで、砂に混じって小貝が転がったりもしていた。すべてが明るい陽ざしの中で輝いていた。低い山並みは、ずっと海岸に近くなっていた。昼過ぎになってやっと集落が見えたので、ここでもイェースズは地名を連呼することによってパウゼツについて尋ねてみた。
今度は、村人は海岸沿いの行く手を指差さなかった。村人が示したのはこれまでと違って、海と反対側にある山だったのである。
イェースズの顔は輝いた。まさか最初の上陸地点から、わずか四日でたどり着こうとは思ってもいなかった。
頭を下げてから砂浜に背を向け、すぐにはじまる緑の草むらをぬけて、イェースズは指さされた山の方へと水田の間の道を歩いていった。山はあの雪の住処の大山脈などと比べれば山とはいえないかもしれないが、それでも一応は山であった。まだ冬の名残があって雪をかぶっており、その雪の間から裸の木々が繁り茶と白のまだらの山となっている。夏になれば雪が溶けてこの山も緑一色に塗りつぶされるであろうことは、十分に想像できた。
最初に行った村の村長であるピコの話では、この山のふもとに一人のウシがいるということで、その人を訪ねてイェースズは歩いているのである。
海岸から山のふもとまでは、すぐという訳ではなかった。途中、水田の中にくちばしの赤い白い鳥がいてこちらを見ていたが、すぐに鳥は飛び立った。そうして山のふもとまで来て、イェースズはようやく集落に出くわした。ここから山がはじまるという低地の隅に、集落はへばりつくようにかたまっていた。
村の中を歩くと、やはりここでも人々はイェースズを見て道をさっとあけ、路傍にうずくまって手を二つ打ち鳴らした。その中の一人、子供を抱いた若い母親がいたので、イェースズは思いっきり笑顔を作って、
「ウシ」
と、尋ねてみた。若干の間をおいて、女はすぐに近くの小高い丘を指差しながら、何か言った。イェースズはその言葉は分からなかったが笑顔のまま頭を下げ、その丘の方へと行った。
村のはずれに、その小高い丘は冬でも葉の落ちない緑の木々に覆われていた。丘の淵はそのまま雪の残るパウゼツと思しき山の方へと続いている。その丘に向かって、林の中を石段が続いていた。三十段ほど昇ると、丘の上の平らなところに出た。そこに、さほど大きくはないが一つの建物があった。木の壁を持ち、木に何の塗装もされていない太くて丸い柱が何本かあって、床はやはり地面からかなり高い所にあった。その床はそのまま回廊になって欄干がつき、その上に建物はあった。屋根は草葺きで側面をこちらに向け、左右の端の屋根のてっぺんは稜線が伸びて、その木材が十字に交差している。さらには屋根の上部に太くて短い丸い木材が五本、タテについていた。屋根の頂上のラインとは垂直だ。高い床から地面までは、木の階段がついていて、ちょうど六段であった。
イェースズは履き物を脱いで、その木の階段を上がり、
「ウシ」
と、呼びかけてみた。
しばらくしてから正面の入り口にかかっていた筵が、下からまくり上げられた。そして、明らかにユダヤ人と分かる老人が、こわごわと顔をのぞかせた。イェースズは思い切り笑顔を作って、
「シャローム」
と、言った。
「ひえーッ!」
意外なことに老人はイェースズを見るや白目をむき、すだれを上げていた手を放すと中へ戻っていってしまった。イェースズは何が何だか分からずにそこにとり残されたが、とりあえず自分ですだれを上げて中へ入ってみた。
狭い部屋の片隅で老人はうずくまり、手には短い槍を持って構えていた。槍は自然石を削って作ったもののようだった。
慌てたのはイェースズの方だった。
「わ、私は、怪しいものではない」
「えーい、これまでよ!」
老人は途切れがちなヘブライ語で叫び、槍を自分の喉へと向けた。
「何をするんです!?」
床を蹴って老人に飛びかかったイェースズは、老人としばらく揉み合ったああとやっとその槍を取り上げた。老人はへなへなとその場に座りこみ、やがてカッと目を見開いて、立ったままのイェースズを見上げてにらんだ。
「さあ、殺せ! もはや、逃げも隠れもせぬ!」
イェースズはゆっくりと老人のそばにしゃがみ、なだめるかのように語りかけた。
「私は、あなたを殺すつもりはありません」
「ええい。もう分かっておるわい。わしが守り通してきた本当の歴史は、お前さん方エフライムがこの国を統治するには不都合だからな。とうとう、わしを殺しに来たか。よくここが分かったもんだ。しかしわしを殺したとて、真実は滅びぬぞ!」
一気に老人が語り終わるのを待ち、イェースズは再び口を開いた。
「私はただ、この国の本当の姿を知りたいんです」
「何を! 知ってどうする。おまえさん方には、都合が悪いだけじゃろう」
「私はエフライムではありません。それに、この国を統治しているウシでもないのです」
「え?」
興奮の中でも老人の心は揺れたようで、横目でイェースズを見たが、それでもまだ方で息をしていた。イェースズは語り続けた。
「私は海の向こう、大陸のシムの国よりもさらにずっとずっと西の、ダビデの国、イスラエルの地より来たものです」
「何だって?」
老人の中で、興奮が驚きに変わったようだ。
「イスラエル?」
「はい」
「では、モーセの国かね?」
「モーセって、聖書を書いたあのモーセですか?」
「そうだ。そのモーセの国から来たというのかね?」
「そうですよ」
「たった一人でか?」
「ええ」
「いったい、どれくらいかかったのかね?」
「途中いろいろな国に長く滞在しましたので、国を出てから五年になります」
「ここにはいつ来たんだ?」
「四、五日前に、小船で大陸からこの島国に着いたばかりです」
大きくため息をついて、老人はグッと肩の力を落とした。そして、しばらく沈黙があった。
「で、君は何のため、ここまで来たんだ?」
先ほどとは裏腹に、落ち着いた低い声で老人はゆっくりと言った。かなり気が抜けている。
「実は真理を求めていろんな国で学びましたが、そのうちに東の方に人類発祥国があるということを耳にしたんです。その国があった大陸は大昔に大洋に沈みましたけど、その沈み残りである太陽の直系国がどこかにあるんじゃないかと思って船出してきたんです。教えて下さい。この島国がそうなんですか?」
「今はまだ明るい。その話は夜になってからしよう」
「なぜです?」
老人は、ぐっと声を落とした。
「今この国を治めているエフライムたちは、この国での自分たちの正統性を捏造しようとして、この国の由緒正しきことを何とか抹殺しようとしている。真実を知っているものは、ことごとく殺されてしまうのだよ」
ちょうどシムの国で同じエフライム出身のジェン・チャーグ・フアンが学者を穴埋めにし、書物を焼いたのと同じことである。しかし、暗くなるまで待つには、イェースズの若い好奇心は抑えきれそうもなかった。それを察したがごとく、老人は立ち上がった。そして窓を内側から押して、開けた。下から外へ木の板を跳ね上げる窓だ。そこでイェースズを手招きして、老人は外を示した。密林の中に雪を残す山が、窓の外間近にそびえていた。
「あれはパウゼツの山という」
「はい」
それこそ、イェースズが目指してきた山だ。ところが次の老人の言葉は、実に驚くべきものだった。
「あの山は、モーセが神様より十戒石を賜った山なのだ」
「ええっ?」
イェースズは、一瞬言葉を失った。自分の聞き違いではないかとも思ったのだ。
「モーセが十戒を授かったのは、シナイ山ではなかったのですか? あの山が、シナイ山なのですか?」
「いや、違う」
違って当たり前である。イェースズは今回の旅に出る時、出向の地であるエジプトに向かう途中で実物のシナイ山をその目で見ている。
「いったい、どういうことなのですか?」
途惑うイェースズに、
「あの山に登ろうか」
と、老人はイェースズに言った。
けもの道は、小さな流れに沿って続いていた。雪解けの水を含んだ小川は、せせらぎの音を響かせて前方から流れてくる。枯れ木に覆われた低い山が左右に続き、今歩いているところはちょうど谷になっていた。
いつの間にか、道は登り坂になっていた。林の中を登っている間は木々に遮られて見えなくなった雪の頂が、時折は顔をのぞかせたりもした。道は林の中をくねりながら、どんどん登っていく。
「ところでわしはナタンというのだが、君は?」
老人があっさりと自分の名を名乗ったので、イェースズもためらいはなかった。
「アラム語でイェースズといいます」
「おお、すごい名だのう」
イェースズはこのナタン老人がなぜ感嘆の声をあげたのか、理解できなかった。イェースズの故国では、イェースズなどという名前はごくありふれたものだ。
「あのう、ひとつお伺いしていいですか?」
「なんだね?」
「この国にはじめて上陸した時に行った村でピコという黄色い肌の人は、名前を聞いたらすごく驚いていましたけど……」
老人は笑った。そして、言った。
「名前には霊力が宿っていると言われているんだよ、この国では。だから、自分の名前をたやすく人に言ったりもしないし、人に名前を尋ねたりもしない」
それを聞いてイェースズは、聖書で神の御名を口にすることが禁じられているのを思いだした。この国では神の御名どころか、人間お互い同士の名前でさえそうであるらしい。それだけ、この国の人々は神に近いのだろうか……そんなことをイェースズが考えて歩いているうち、道の両脇に雪が現れはじめた。小川はまだそのそばで、激流となっている。そして坂を登るにつれて、道の両脇にしかなかった雪が次第に道全体を覆いはじめ、雪の中から枯れ枝の木が伸びている形となった。歩くときれいな足跡が雪の上につく。すでに踝までは、雪に埋まりながら歩くようになった。時には雪の上を獣の足跡がくっきり残っているのも見受けられた。
半日ほどで、山頂に着いた。そこには木がなく雪だけに覆われている平らなスペースが、わずかばかりあった。降り注ぐ日差しを雪が反映してまぶしく、その雪の白さが余計に景色を明るく見せた。
その平らなスペースに、建物があった。人が住むにはあまりにも小さすぎる木の建造物で、人の背丈ほどのそれはナタンが住んでいた建物と形だけは似ていた。
「これは、なんですか?」
小さな模型のような建物の前にたたずみ、イェースズはナタンに尋ねてみた。
「これは神殿だよ」
「神殿? こんな小さなのが神殿?」
「天地創造の神様ではないが、この山の神様、そしてモーセを祀っている」
「モーセ?」
イェースズのいぶかしげな顔にはお構いなしに、ナタンは参拝の仕方の説明を始めた。
「いいかね。手を打ち鳴らすんだ」
「そういえば、この国に来た時に、黄色い人々からも手を打ってあいさつされました」
「しかしそれは、二拍手だっただろう」
「はい」
「人に対しては二拍手だが、神様に対しては三拍手せねばならん」
「なぜですか?」
「人に対するあいさつと神様に対するお参りが同じでは、神様に御無礼じゃろう」
ナタンはにっこりと笑い、小さな神殿に向かって二回お辞儀をして手を三つ叩いた。イェースズも、同じようにした。今までいろいろな国にいってきたが、神参りの時に手を打ちならす国ははじめてだった。しかもそれを目の前では、自分と同胞の老人がやっているのである。
参拝が終わり、訳が分からないままにイェースズは登ってきた方を振り向くと、遥かふもとの平地、そしてすぐにはじまる大海原が一面に見下ろされた。海岸線は左の方で前方にカーブし、垂直に彼方まで続いている。反対側の陸地は大部分が低い丘陵地帯で、海からこんなに近いのに山また山になる地形は、イェースズははじめて見た。
イェースズがそんな景色に見とれていると、ナタンはその背後から、
「今、君の国では、十戒はどのように伝わっているのかね?」
と、言った。イェースズはすぐに暗唱を始めた。
「はい。
第一、我は主なリ。われを唯一の神として礼拝すべし。
第二、汝、神の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三、汝、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。
第四、汝、父母を敬うべし。
第五、汝、殺すなかれ。
第六、汝、姦淫するなかれ。
第七、汝、盗むなかれ。
第八、汝、偽証するなかれ。
第九、汝、人の妻を恋うるなかれ。
第十、汝、人の持ちものをみだりに望むなかれ。以上ですね」
「ふうん」
あごに手を当てて、ナタン何かを考え込んでいるようだった。
「やはりだいぶ変わってしまっておるのう」
「変わってるって? それ、どういう意味ですか?」
「内容が変わってしまっておる。大筋は間違いないが……」
「でもこれは、『出エジプト記』に記されている通りですよ。それが変わるなんて」
「いいかね」
ゆっくりとナタンは、体をイェースズの方へと向けた。
「たとえどのような書物でも、それが書き記された時点で人知の産物となる。時代がたち、何度も書写されるうちに、内容に人知が入りこんで変わってしまうものだ」
それだけ言うとナタンは小さな神殿の裏に回りこみ、しゃがんで何かごそごそとやっていた。ちょうど高床になっている神殿の床下が、ちょっとした格納庫になっているらしい。
やがてナタンは、二枚の巻紙を取り出してきた。広げても、さほど大きくはない。イェースズにそれを示すのでのぞきこんでみると、それは紙ではなく動物の皮のようだった。
そこにあるのは、イェースズにとってまた新しく見る種類の文字だった。シムの象形文字のジャングルのような複雑な文字に比べると幾分シンプルで、同じ文字が随所に見られるところから表音文字のようだった。
「これが、本物の十戒だよ」
ナタンは誇らしげにその皮紙を、イェースズの胸元にかざした。しかし、イェースズはそれが全く読めないので、ただ困惑するだけだった。それを察してナタンは、ニコニコしながら紙を自分の方に向けて目を落とした。
「読んであげよう。えー……テンゴクノクヮミノウォクヮミナムアミン。テンゴクオムヤクヮミパイレシェヨ。ピトノモノトルナヨ。ピトノオミウォヨコトリシュルナヨ。ピトニウソツクナヨ。ピトウォ……」
「ちょっと待ってください」
慌てたイェースズは、ナタンの朗読を遮った。
「そんな、この国の言葉で読んで頂いても、分かりませんよ」
苦笑するイェースズを見て、ナタンはさらににっこり笑った。
「よしよし、では訳して読んであげよう。いいかね。えー……天国の神の大神、ナムアミン」
「何ですか? その、ナムアミンっていうのは」
「天国の神様のことじゃよ。続けるよ。
一、天国の祖神様を礼拝しなさい。
二、他人のものを盗むな。
三、他人の妻を横取りするな。
四、他人に嘘をつくな。
五、他人をだますな。
六、他人を殺すな。
七、他人との境目を破るな。
八、天国の神に背くな。
九、わが教えに背くな。
十、他人を困らすな。
そして、最後にはこう書いてある。
アダムイブロクジユウタイロミユラス、イツイロピトノ ムオシェノトクヮペ、ヨムツクニシナイシャンシロニテツクリ」
しばらく、二人とも声を発しなかった。
「これが、十戒だよ」
肌を刺すような冷気が、山頂を覆い始めた。
「これが、神様がモーセに下された、イスラエルの民のための十戒だ」
「イスラエルの民のため?」
「そうだ。そしてもう一つのこれが、全世界全人類のための十戒だ」
そういえばナタンは、もう一枚皮紙を持っていた。今度は上下を重ね変えて、もう一枚を上にしてイェースズに示した。
「これが、全人類のための本当の十戒だ」
「よ、読んで下さい。訳して」
「じゃあ、読むぞ。いいかね。
一、日の神を拝礼せよ。
二、人類発祥国にて日嗣の神を礼拝せよ。
三、日の神に背くな。背くと死ぬぞ。
四、天国である世界の霊の元の神の律法を守れ。
五、世界の大祖国の大祖王に背くな。
六、世界の律法を守れ。
七、それぞれの国の律法を制定するそれぞれの祖国の律法を守れ。
八、正邪、白黒をはっきり立て別けよ。
九、聴け! この他に汝モウシェの他に神はない。
十、日の神を礼拝せよ」
たとえヘブライ語に翻訳していってくれていたとしても、どうもイェースズにはピンとこない内容だった。
「十戒とはこのように、表と裏の二つがあるんだよ」
「あ!」
「どうした?」
あまりにイェースズが突然大声で叫ぶので、かえってナタンの方がびっくりしてしまった。
「あのう、聖書ではモーセが十戒石を二枚授かったとなっていますが、今までずっとなぜ二枚なんだろうと思っていたんですよ」
そこで、ナタンはにっこりと笑った。
「真実は、君が今思いついた通りだよ」
「ではやはり二枚の石に十戒が刻まれていていたというのは、この二つの十戒が刻まれたということなんですね」
「そうだよ。そして今や、イスラエルの民のための十戒だけが、この世に伝えられている。さっき君から聞いたところによると、形や順番は変わってしまったがね」
「もう一度、その紙を見せて下さい」
ナタンは黙って、二枚の紙を再びイェースズに見せた。やはり、見たこともない文字だった。
「これが、この国の文字ですか?」
「そうだとも言えるし、違うとも言える」
ナタンの意外な返事に、イェースズはただきょとんとしてしまった。
「この国には文字はない……今は、表向きにはそういうことになっている。昔はあった。それがどこかで温存されているだろうが、それらの文字さえをもあのエフライムたちは消し去ろうとしているのだ」
「この国で、『ウシ』と呼ばれているあのイスラエルの民ですね」
「彼らは故地を出てから久しく、すでに文字を失っている。それだけでなく、この国に昔から何十種類もあった文字を否定し、消し去ろうとしている」
「なぜですか?」
「それは後で話すとして、この文字だが、これも昔からあった文字の一つで、この国の文字というよりは神様が直接お示しになった文字だ。モーセの十戒石も、この文字で刻まれていたそうだよ」
「ヘブライ文字ではなかったのですか……??」
イェースズは、息をのんだ。
「確かに聖書には、十戒石に刻まれた文字は神の文字だとありますね。その『神の文字』とはどのような文字なのかと、今までずっと疑問だったんです。この文字こそ、そうなんですね」
「そうだ。モーセはこの文字で書かれた十戒の内容を、ヘブライ語に訳して人々に伝えたんだ」
「さっきの内容にあった『天国』とは、どこのことなんですか?」
「天国とひと口で言っても二通りの意味があるが、ここでいう天国は地上の天国……つまり、この国だよ」
「では、エルサレムの神殿に祀られている十戒石には、この文字が書かれているんですね」
「もう十戒石は、エルサレムにはないだろう」
ぼそっとナタンが言ったので、イェースズも一瞬はその言葉が頭の中を通り過ぎただけだったが、やがてはっと気がついた。
「エルサレムの神殿にないって……。では、どこにあるんですか?」
「天国だよ」
「と、いうことは?」
「そう。この国にあるんだ。里帰りしたわけだな」
「え? どこにあるのですか?」
「ま、とにかく山を降りよう」
興奮するイェースズにナタンはそう言って、自分からさっさと山を降りる道を歩き始めた。裸の木々に隠されて目の前に展開していた絶景も見えなくなり、登ってきた時の雪の中の足跡を頼りに二人は山を降りた。
かなり夜も更けてから、ナタンはようやくイェースズにポツリポツリと語りはじめた。それまではというもの、夕食の間もずっとナタンは無言だったのだ。
木の床が部屋の真ん中だけ小さく四角く掘られており、そこに火が焚かれている。寒くはないが、それでもまだ夜ともなれば若干火が恋しくなる季節だった。
顔を炎に真っ赤に照らされながら、ナタン老人とイェースズは側面を向け合う形で座っていた。
「モーセがなぜこの国の、今日行ってきたあの山で十戒を授かったんですか?」
大いなる疑問をイェースズは、思い切って真っ先に単刀直入に切りだした。
「すべてが御神示だったのだ。イスラエルの民を率いてエジプトを脱出したのも、すべて御神示だったのだからな」
「たしかに、聖書にもそうありますね。柴が燃えてしまわない炎の中から『在りて有るもの』と名乗る神様が御出現になったと」
「その聖書には、モーセが民をおいて一人でシナイ山に登ったと書いてあるだろう」
「はい」
「その時モーセは、シナイ山を反対側に降りて、この国にやって来て十戒を授かったのだ。すべて、御神示に基づいてのことだ」
「そういう言い伝えなのですか?」
「いや、ちゃんと記録にもある。今、エフライムたちが血眼になって探しているのも、その文献だよ」
「探してどうするつもりなんでしょう?」
「焼き捨てるのだろうよ。おそらくは」
そんな大それた文献なら、自分ごときどこの馬の骨とも分からない若者がありかを聞いても、そう易々とは教えてはくれまいと、イェースズはあえてそのことを聞くのをやめた。そこで、話題を変えた。
「しかし聖書では、モーセは四十日間シナイ山に籠もったとなっていますが、四十日でどうやってここまで来られるんでしょうか? 私なんか片道で五年もかかりましたよ。もっとも、途中でずいぶん寄り道をしましたけど」
次のナタンの返事までには、少しだけ間があった。
「あの頃はな、この国はまだ人類発祥の国にふさわしいそれなりの文明の名残を残していた。瞬時にしてカナンの地よりここまで来られる空を飛ぶ乗り物、つまりアメノウキフネというのがあったのだそうだ」
「え?」
イェースズは息を呑んだ。彼の関心は空を飛ぶ乗り物などという話よりも、ナタンのたったひと言に向けられていた。これで今までの憶測が、憶測ではなかったのである。
「今、人類発祥の国とおっしゃいましたね」
東の日の出る国サルナート、人類発祥の国ムー、そしてブンラグ山、それらを目指してイェースズはこの島国までやってきたのだが、今のナタンのひと言でこの地が紛れもなく自分の目指していた国だということを彼は知ったのである。
イェースズの目が、輝いた。
「やはりここが、人類発祥の国なんですね」
詰め寄るイェースズにナタンは言い過ぎたかなというような困惑の表情を少し見せたが、やがて大きくうなずいた。
「やはり」
全身が興奮で震えるのを、イェースズは感じた。
「確かにここは人類発祥の国、つまり天国で、この国の言葉ではアマグニという」
「アマグニ? この国の名前ですか?」
「いや、それはこの国の言葉で『天国』という意味だ」
「では、この国の名前は?」
「この国の名前はいろいろとあるが、そのひとつはトヨアシファラ・ミドゥフォのくにという」
「ミドゥフォ?」
イェースズの頭の中に、ひらめくものがあった。それは「ミズラーホ」という、ヘブライ語で「東」を意味する言葉だった。語源は、「日の出る処」である。
「昔から私の国でいわれている『ミズラーホの国』とは、この国のことなんですか?」
「さあ。それはよく分からないが」
イェースズは大きく息をついて、何かを考えていた。ナタンは、ゆっくりと立ち上がった。
「明日、モーセの墓に参ろう。今日は休んだ方がいい」
そう言い残し、ナタンは部屋を出ていってしまった。一人残されたイェースズは、ただ呆然としていた。どうやらとてつもない国に来てしまったらしいという実感だけが、ひしひしと彼を襲っていた。
モーセの墓というのは、ナタンの家からはパウゼツの山と反対側の海岸に向かって少し行った所にあった。山ではない低地はすべてといいほど水田と化し、そうでない部分はたいてい葦の繁る湖沼だった。パウゼツの山はもう遠く、左右の山並みと切れ目なく繋がって、山脈は海岸線と平行に延びている。
ナタン老人の家のある集落とは別の村がしばらく行くとあって、そこで村人たちのうるさいほどの二拍手の礼を受けながら、二人は村を反対側に突き抜けた。
そこには、小高い丘があった。今は葉が落ちた木々に囲まれているが、夏になればちょっとした森林の中となると思われた。その人家の高さほどの丘の上に、三つの塚があるのが認められた。
「これがモーセの墓だ」
言葉少なげに、ナタンはそれだけ言った。イェースズはただ呆然と、その三つの塚の前に立ちすくんだ。土をちょうど椀を伏せた形に盛ったそれらの塚は、ちょうど大人の背の高さくらいだった。千数百年の時間が風化させたのか、丸いはずだった塚も若干形が崩れているが、それでも堂々としたものだった。
物音一つしない静寂の中で陽光が明るく降り注ぎ、ぽかぽかと暖かかった。
ナタンがゆっくりと塚の周りをまわるので、イェースズもそれについて行った。やがて塚に横穴がついている所があり、そこでナタンは止まった。穴は身をかがめればくぐれるほどだが、丸い小さな木石が積まれていてふさがれていた。
どうにもイェースズには、実感がわかなかった。あの、イスラエルの民十二部族の大群衆を率いてエジプトを脱出し、契約の地カナンに一大帝国の基礎を築き、聖書を著し、律法を定め、イスラエルの父と仰がれた大英雄モーセが今目の前のちっぽけな塚に眠っていると言われても、なかなかぴんとくるものではない。あの、ジェン・チャーグ・フアンの墓さえ、ひと山ほどの巨大な山陵だったではないか。
「これがモーセの墓だ」
と、ナタンはもう一度言った。
「我々の民族にとって、忘れることのできないお方だ」
「はあ」
イェースズはまだ、腑に落ちない顔をしていた。
「あれほどのお方だ。墓がない訳がない。しかし、君の生まれ育った故国には、モーセの墓はあるかね?」
「ありません。聖書に書いてある通りです」
イェースズは、『申命記』の暗唱を始めた。
「主のしもべモーセは、ここモアブの地に主の命令通りに死に、主はモアブの地に、ベト・ペオルに面した谷に彼を葬られた。しかし彼の墓はどこにあるのか、今に至るまで誰も知らない」
もしここにあるのが本当にモーセの墓ならば、イスラエルでその墓がどこにあるのか誰も知らなくて当たり前だ。このような遥か東の、遠い国にそれはあるのだ。
「しかし、聖書ではモーセはネボ山に登って、そのふもとの谷に葬られたとありますね」
イエスの問いかけにナタンは、昨日登ったパウゼツの山を指さした。
「あれがネボ山だ」
「え?」
「パウゼツの山のことを、昔からここのグェコたちはネボ山と呼んでおる」
「ではここが、聖書に書かれたネボ山のふもとの谷なのですか?」
「そうだ。嘘だと思ったら、そのへんの村人にあの山の名前を聞いてみるといい。みんなネボ山と言うだろう」
「ネボとはどういう意味です?」
「この木だよ」
塚の周りの木々を、ナタンは指さした。確かにパウゼツの山の山頂まで、雪の中で群生していたのはすべて同じこの木だった。
「ネボの木が繁る山だから、ネボ山だ」
それだけ言って、ナタンはもう帰る仕度をしていた。
明るい間は何かにおびえているように、ナタンの口は堅かった。必要以上のことはしゃべらなかったし、イェースズも退屈だった。
そこで夕暮れ近くになって、イェースズはナタンの家のある集落の中を散策してみた。竪穴の上にわらを円錐形に積んだ粗末な家がいくつか並ぶだけの、この国ではありふれた集落だった。人々はやはり裸足で、木綿の環頭衣を着ている。時折、田を耕してきた帰りだろうか、農具を担いでくる男もいた。木製の鍬や鋤は皆立派なものだ。
家の周りには、いくつもの瓶が並べられていたりする。黄土色の粘土をこねて火で焼いた瓶で、そればかりでなく青銅器も時折見かけた。村の中央には米の貯蔵庫らしき高床式の蔵と、黄土色の瓶である土器を焼くかまども見られた。そんな土器で夕餉を炊いているのか、どの家からも一斉に煙が真っ直ぐに空に昇っていた。
暗くなるのを待ちかね、夕餉を取りながら、イェースズは今日一日感じていたこと、特に夕方村を散歩した時に強く感じた疑問をナタンにぶつけることにした。
「この国の人々は、大変貧しいですね。ユダヤやアンドラの奴隷や賎民でさえ、もう少しましですよ」
イェースズの言葉に、少しむっとした顔をナタンはイェースズに向けた。
「この国の民は、決して奴隷ではないぞ」
「だから不思議なんです。あなたは、この国が人類発祥の国だと言われましたよねえ」
「もう少し、声を落とさんかい」
「はい」
小声にして、イェースズは続けた。
「一瞬にしてここからユダヤへ行けるような、えっと、何でしたっけ……?」
「アメノウキフネ」
「そう。そんな空を飛ぶ乗り物があったようなこの国が、なぜ今はこんな状態なのです? 文明のかけらもないような気がしますけど」
しばらく間をおいてから、
「天地かえらく」
と、ナタンは言った。
「え?」
「天変地異だよ」
「天変地異?」
「そうだ。この国に限らず、全世界が泥の海となったような天変地異が人類創世よりこのかた数百回、巨大なものだけでも六回あったそうだ」
「天変地異って、地震とか?」
「地震だけではない。地震と洪水、火山の噴火、ひどい時には大陸が沈んだり、浮上したりもしたそうだ」
「聖書の、ノアの洪水のことですか?」
「ノアの洪水も全世界規模のもので、しかも一回だけではなかったのだ。聖書に記載されたのは、六回あったうちのどれかひとつだろう。大昔、人類は母なる大陸で発祥し、そこには世界を統治する偉大な大王がいたが、その大陸も一万二千年ほど前に沈没したそうだ」
まさしくイェースズがキシュ・オタンで見た粘土版に記載されていたムー大陸と、完全に話が一致する。
「そしてそれも一度に沈んだ訳ではなく、その帝国の一部だった今我われがいるこの島国のほかに、ミヨイ・タミアラという二つの大陸がかなりあとまで沈まずに残っていたようだ。だが約千年前、ちょうどモーセがここへ来た頃にそれも沈み、今は人類発祥の大陸の沈み残りはここだけだ」
「すると、モーセが来た頃までは、文明の名残はあったんですね」
「ああ、何しろアメノウキフネがあったくらいだからな。そのあとのミヨイ・タミアラが沈んだのが第六回目の大天変地異になるが、それからというもの、この国にあった世界政府もなくなり、高度文明も崩壊し、生き残った人々はこんな原始的な生活を余儀なくされるようになったんだ」
「ではこの島国は、人類発祥の大陸の沈み残ったかけらなんですね」
「違う。今残っているこの島国こそ、かつての沈んだ帝国の重要部分だったんだ。いちばん大事な所は沈まなかったということだよ。生き残った人々は工夫して、何とか命を取りとめてきた。きらびやかな服もなくなり、黄金の宮殿も民家もなくなり、人々は動物の皮衣を着て洞窟に住み、何とか生き延びようと必死だった。石を削って武器にして動物を捕らえては食い、やがて土器を焼くことを覚え、そして稲作が始まってやっと今に至っているのだ」
「なぜ、そんなことが分かるんですか? 記録でもあるんですか?」
「ある。しかし今は、公にはできんよ。エフライムはあとからやってきてこの国を統治しようとしている以上、この国が世界の中心だった文明発祥国では彼らにとって都合が悪いのだ。そこで歴史を捏造し、改竄してでもこの国が原始から始まったことにしないと困るのだ。彼らにしてみればな」
「なぜ、都合が悪いのですか?」
「原始文明から始まったこの国の人々に自分たちの文明を教えるということで、自分たちのこの国での支配を正統化しようとしているのだ。今でもそうだ」
イェースズがまだ頭の整理をつけていないうちに、ナタンは穏やかな口調になり、
「ところで」
と、話題を変えた。
「私も知りたいことがあるんだが」
「何でしょう」
「私とて君と同族で、君が生まれたところは私の祖先の地でもある。そこが今どうなっているのか、それを知りたいんだ」
「と、言いますと?」
「親のそのまた親の、そのまた親から代々伝え聞いてきた我が民族の歴史は、ダビデ王、ソロモン王まではよいが、その後、王国が北のイスラエルと南のユダに分裂し、北のイスラエルがアッシリアに滅ぼされて離散し、流浪を重ねた挙句にこの地にたどり着いたということしかない。滅ぼされなかった南の王国は、その後どうなったのかな? 君も、南のユダ王国の人だろう?」
「実は、ユダ王国も滅ぼされたのです」
「何? アッシリアにか?」
「いえ、バビロニアにです。ユダヤの人々はほとんどバビロニアに連れて行かれ、そこで捕囚生活を長きにわたって強いられました」
外ではふくろうの鳴く声が物悲しげに響き、そのほかの音といえば部屋の中央で焚かれている小さな火がパチパチと燃えている音だけだ。
イエスはそんな小さな火に顔を照らされながら、バビロン捕囚からユダヤ人は故国に戻り、今では神殿も再建されていることを語った。
「しかしその時、故国に戻らなかった人々もいて、ディアスポラと呼ばれるそれらの人々が今でも世界各地に散らばっています」
「それも、ユダかベニヤミンなんだな」
「そうです。彼らは主に商人として、ローマと追隣のシーンの国の間をいったり来たりしています。私もそういった人たちといっしょに、この国の手前まで来たのです」
「ん? ローマ?」
ナタンがゆっくりと顔を上げた。その顔もまた、小さな炎にたらされて赤く輝いていた。
「今、君はローマと言ったな」
「はい。ローマは今、西の方の世界のほとんどを支配する大帝国です。かつては王はなくて民衆だけで治めていたのですが、今は絶大な権力を誇る皇帝が君臨しています」
「ほう」
ナタンは、目を細めて聞いていた。
「ローマが、そんな大帝国になっているのか」
「ローマをご存じですか?」
「よく知っているとも。だが、そんな大きな帝国になっていようとは知らなんだ。イスラエルの民とローマの民は、仲良くやっておるのかね」
「え?」
イェースズは、いぶかしげな表情を見せた。
「ローマは今、イスラエルをも支配しています。いわば、ローマに服属しています」
「なにッ!?」
ナタンの顔が、今日にゆがんだ。
「イスラエルがローマに服属?」
ナタンは、しばらく呆然と言葉を失っていた。そしてしばらくしてから、力なくイェースズを見て言った。
「ローマとイスラエルの民は、仲良くせねばならないのだ」
「それは、どの民族でも……」
「いや、ローマとイスラエルは特にだ」
それからナタンは、体ごとイェースズの方を向いた。
「ローマという国がどうやってできたか、知っているかね?」
ナタンの声は、急にトーンが落とされた。
「さあ、詳しくは知りませんが、昔、川に捨てられていた双子のロムラスという人が造った国だとか……」
「そのロムラスとは……」
ナタンの声のトーンが、一段と落とされた。
「モーセのことだよ」
「え?」
イェースズはまだ、状況がつかめなかった。だから、ナタンの目をじっと見た。
「では、ローマとは……」
「そう。モーセが造った国なんだ」
この国に来てからというもの、頭がこんがらがるようなややこしい話が多すぎた。ナタンは小声で、さらに話を続けた。
「モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、カナンの地につくまでの四十年間、その間にシナイ山に登り、実はそう見せかけて反対側に降りてこの国に来て十戒を授かったことは話したよのう」
「はい」
その時モーセは。この国で一人の娘を嫁にもらっておる。その娘は三人の子を設け、モーセがカナンの地に戻ってからも、モーセの嫁になったその娘さんはこの地にとどまり、六年後に三人の子をつれてカナンの地へと行ったんだ。その女の名が、ローマ姫なのだ」
「え? ローマ?」
「そう。一方モーセはカナンの地にあと一歩という所でイスラエルの民のことは向こうでの子供であるヨシュアにすべて任せて、自分は死んだことにして身をくらませたという訳だ」
「それが、モーセの百二十歳の時のことですね」
「そうだ。その後、モーセはローマ姫とともに、ローマを打ち建てたのだよ。イスラエルの民はその後一時偶像崇拝に走って神の怒りを買い、ほとんど滅ぼされかけたが、モーセの子孫はちゃんと残るという仕組みだったのだよ」
「確かに、神様はモーセに『あなたを大きな民に増やそう』と、そう仰せられたと『出エジプト記』にありますね」
「その通りだ。モーセはローマを建国した後、この国からローマ姫がつれていった三人のこのうちの一人のヌーマボンをローマの王とし、そしてアメノウキフネに乗ってこの国に舞い戻ってきたという訳だ」
「そういえばモーセは生まれてすぐにナイル川に捨てられ、エジプトの王女に拾われて育てられたんでしたよね。そしてローマのロムラスも、子どもの時に川に捨てられていたと……」
「同じだろう。ローマの方で双子となっているのは、恐らくローマ姫のことだろうな」
「では、ロムラスが狼に育てられたという話は?」
「モーセは誰に育てられたんだったけかな?」
「エジプトの王女にです」
「君の話では今でこそエジプトもローマの属州だそうだが、かつてはエジプトとローマは仇敵の仲だった。だからローマでは、エジプトの女王のことを狼とも称するだろう」
イェースズはまだ半信半疑のような顔をしており、それを見てナタンはやっと少し笑うと、立ち上がって小さな窓から外を見つめた。
「ほう」
ナタンはそれから、感心したような声を上げた。イェースズも窓の方を見ると、ナタンはイェースズを後ろ手で招いた。イェースズがナタンの背後から窓の外を見ても、そこには深くて冷たい夜の闇が支配していた。ここから見下ろせるはずの村の民家からは、ひとつとして明かりはもれていない。日が沈むと人々は、早々に眠りについてしまうようだ。
しかし、右前方のうっすらとした明かりは、いやでもイェースズの目に入った。そこには、赤い炎の柱のような発光体が、淡くぼんやりと大地から夜空まで真っ直ぐに昇っていたのである。ここからはずっと遠い所のようだ。
「あ、あれは何ですか?」
慌ててイェースズはナタンの背中に尋ねた。
「あれはちょうど、モーセの墓の所だ」
「え?」
もう一度イェースズは、赤い火柱を見てみた。モーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出した時、夜に先導として見えていた火の柱とはあれのことではないかと、イェースズは思った。そんなイェースズの心を見透かすように、ナタンは笑った。
「時々、あれが見えるんだ。特に、話を聞いただけでは信じない屁理屈屋さんが来た時は、これでもかと神様が見せて下さるんだよ」
その言葉に、イェースズは頭を打たれたような気がした。今まで自分なりにいちばん大事だと思っていた「ス直」というものを忘れ去っていたことを、いやと思い知らされたのである。そしてイェースズは、その場にうずくまった。涙が溢れて止まらない。何度も心の中で、彼は神に詫びた。ス直ではなかった自分を詫びたのである。その震える肩に、ナタンは優しく手を置いた。
「明日は、ここから東に行きなさい」
「東へ?」
潤んだ瞳をゆっくりと上げたイェースズは、首だけねじってナタンを見上げた。
「東へ……ですか?」
「そうだ。ここから峠を越えて、東へ行った所のトト山という所に、ミコと呼ばれる方がおられる。そこには天地創造の神々を祀ったこの国でいちばん古い神殿もある。そのミコ様こそ、君が神理を学ぶべき師となろう」
「ミコというお名前の方ですか?」
「いや、その本名は誰も知らぬ。ただ、ミコと呼ばれているだけだ。この国に世界の政庁があった頃、全世界全人類の大王だった家の子孫だそうだ」
「大王の子孫?」
「そこには、世界の本当の歴史を記した記録もあるし、モーセの十戒石もそこにある」
意外なほど、イェースズは冷静だった。そしてその顔は無表情だった。しかし、ス直にナタンの言葉を受け入れていた。
「行かせて頂きます。明日、早速」
「峠を越えたら、何もかもがまるで違うぞ。文明の度合いも違う。それにミコ様は、ヘブライ語はお分かりになられない」
「大丈夫です。何とかなります」
やっとイェースズは元気に明るく笑うと、ゆっくりと立ち上がってうなずいた。ほっとしたような表情が、ナタンの顔にもあった。
「ところで、なぜ私のようなどこの馬の骨とも分からないような若僧に、そんな大それたことを教えて下さるのですか? ウシたちに聞かれると、まずいことでしょう?」
「何となく、教えねばならないような気がしたのだ。昨日、パウゼツの山の神殿で祈ったとき、そうひしひしと感じたんだ。これも一種の御神示かのう」
ナタンは大声を上げて笑い、さらに続けた。
「君のような若者がいずれはやって来て、今まで話したことをその若者に教えるのが私の役目なのではないかと、最近ことにそう感じていたんだ」
それを聞いたイェースズは大きく息を吸い込んだあと、再び頭を下げてうずくまった。
「有り難うございます。私ごときに」
その目は、再び潤んでいた。そして、顔を上げて言った。
「もう一つだけ、教えて下さい」
「ん?」
ナタンの眉が、少し動いた。
「あなたはいったいどなたなのですか? エフライムとは違うのですか? あるいは、ディアスポラですか?」
ナタンは、黙って笑っていた。そして、しばらくしてから笑顔のまま口を開いた。
「そのどちらでもない。これ以上のことは、聞かないでくれ」
ナタンはそれきり、笑顔のまま黙ってしまった。
翌朝は早くから、村の方がにぎわっていた。ナタンに石段の上で見送られたイェースズは、村の方へと下って行った。にぎわう声のわりには、村の中に人はいなかった。喧騒は、村の中央から聞こえてくる。そこの広場に、村人はみんな集まっているらしい。
イェースズはちょっと寄り道して、広場の方をのぞいてみた。その中央には舞台のようなものが設けられており、その上で男女二人が舞を舞っている。普段の環頭衣ではなく、黄緑がかった派手な服装をし、顔には面をつけていた。
その音楽がまた、イェースズには耳慣れないものだった。メロディーは何の特徴もない単一のもので、テンポは気だるいくらいにゆっくりしたものだった。それに合わせて舞う二人の舞いも、動作は自然とゆっくりとしたものになっていた。
その舞台を囲んで、村人たちは歓声を上げていた。舞台の四隅には細い柱が立てられ、いろんな色の布の総が何本も下がり、大きな金の鈴と銀の鈴が総の一番上にはついていた。柱と柱は上の方が縄で結ばれ、縄にはところどころにジグザグの白い紙が小さく結んであった。
イェースズは横目でそれを見ただけで、すぐに村を出た。
水田の中の道を歩く間も、人々の歓声と舞いのメロディーは、いつまででも後ろからイェースズを追いかけてきた。