1
果てしない荒野に点在する村々でイェースズは布施を請いながら、暑くもなく寒くもない恵まれた陽ざしを受けつつ、一路東へと軽やかな足を向けていた。
すべてが明るかった。天気がよく、場所も広く、景色が美しいからというだけではなく、とにかくすべてが明るく輝いて見えた。景色全体が光のかたまりのように目に飛び込んできて、ややもすればまぶしいほどだ。空も抜けるように青い。魂の状態でこうも目に見える景色が変わるものかと、イェースズは神に感謝しつつ進んだ。
日数がたつのが、恐ろしいほどに早かった。そのうち、ある小さな村で進むべき方角を確認したところ、目指すキショ・オタンはこのあたりから方向転換して少し南西の方角に山脈に沿って進まねばならないと教えられた。その方向に進むうちに、道なき道の両側には山が迫ってくるようになった。歩いているのは、一面の荒野である。木などは全くない。時々思い出したように苔のような緑が岩にはいつくばっているだけで、基本的には全く岩と砂だけの風景である。かなり広い盆地だが、遠くにはどの方向にも山があって視界を遮り、地平線は見えなかった。山にも緑など全くない。右手に連なる山脈は、その上の部分だけが雪を頂いていた。
風景は緑のない砂と岩ばかりなのに、イェースズの目にはすべてが美しく見えた。ごくたまに咲いている小さな黄色い花や空、遠くの山の頂の雪など本来美しいものは当然としても、そればかりでなく足元に続く黄色い土の大地、その上の石などまでもが美しく感じられる。
この世のものは本来がすべて美しいのだと、イェースズはそんな風景の真っ只中を歩きながら思った。現界は物質の世界であるけれども、その物質のことごとくが神の力で無から有へと顕現されたものである。すべてが神の芸術であり、だから美しくない訳がないのだ。それが美しいと感じられないというのは、魂を汚し曇らせてきた証拠ではないかとイェースズは考えていた。
とにかく三百六十度、見渡す限りの大パノラマだ。果てしなく広がる大空と悠久の大地の接点となる一点に、今の自分が存在している。この限りない大自然こそ神のみ意であり、その中で点粒ほどしかない人間が互いに我をはって暮らしているなど愚かなことだと、イェースズはつくづく感じていた。確かに肉体は大自然の中の小さな点にすぎないが、そんなちっぽけな我ではなく神様から頂いた魂というものを自覚すれば、その魂は大地や山や空に負けないくらいの広がりを持ち、大自然に一体化できるものだという自覚がこの時のイェースズにはあった。
もうすでに、ひと月ばかり不毛の大地である高原をイェースズは歩いた。この頃になると村に出会うこともめったになくなり、また木の実を採取できるような自然とてなく、空腹にさいなまれることもしばしばであった。ところが、時には見たこともない四つ足の牛に似た動物が行き倒れになっていたりして、その肉を頂戴して飢えをしのいだりもした。ブッダ・サンガーに入ってから長く肉食をしなくなったイェースズだが、故国では誰もが抵抗なく肉を食していたので、イェースズは久しぶりに獣肉を口にしたのである。
そうして、幾日も幾日も人間に会わない日が続いた。だが、イェースズは寂しくはなかった。神の芸術そのものの大自然に包まれて、彼は進んでいたのである。しかしやはり、この素晴らしい雄大な風景を母にも見せたい、弟たちに見せたらどんなに喜ぶか……などということも考えていた。そして、イェースズが故国を旅だってから出会った人々の顔が、走馬灯のように彼の脳裏を横切った。ラマース、アジャイニン、そしてビチャパチ尊者の顔さえ浮かぶ。ヒーナ・ヤーナの精舎はもはや自分の居場所ではないと思って戻らなかったイェースズだが、なぜかビチャパチ尊者の顔が懐かしく思い出されるのだ。必ず戻るといって旅立ったのだが、こうして二度と戻ることはないであろうと思われる結果となった。そのことが申し訳なく思われてならない。属している集団はどうしてもイェースズにとっては受け入れられないものだったが、ビチャパチ個人の魂は尊敬すべきものだったと思う。ヒーナ・ヤーナが何だ、マハー・ヤーナが何だと、イェースズは叫びたかった。どんな教団に属していても魂は同じで、同じ神様によって創られたのだから、そんなことで人が人を裁き合うのは愚かなことだとしみじみと感じられてきた。
そして、人間と会わないで歩き続ける毎日のうち、いかに大自然に包まれているとはいえ、どうしても人恋しさを感じてしまうのもまた事実だった。やはり、人は一人では生きられないらしい……人と人との結びつきの中で生かし生かされ、そうして人間社会という共同体が成り立っているのだということもまたしみじみと感じるイェースズだった。大自然も神の芸術であるが、最高の神芸術は人間なのだとイェースズは感じていた。
道は時には山道となり、また大地の中を流れる川に行きあったりもした。そのうち左手に続いていた山脈の中に、お椀を伏せたようなずんぐりした大きな峰が見えてきた。そのお椀の上だけが、雪をかぶっているのでよく目立つ。その頃、イェースズはわずかばかりの牧草を求めてさまよう羊の群れに行きあった。そして羊の群れには、馬にまたがっている人間も伴っていた。イェースズは思わず、その人の方へ駆け寄った。馬上の人もイェースズに驚いたらしく、馬からひらりと飛び降りた。若い男だった。イェースズがはじめて見る形の、黄色と赤で織られた長い外套を、その男は着ていた。
「あの、羊飼いの方ですね」
息を切らせたまま、イェースズは話しかけてみた。だがその男は、きょとんとした表情をしていた。
「あの、キショ・オタンに行きたいのですけど、この方角でいいのですか?」
とにかく人と何か話がしたかったイェースズだからそう聞いてみたが、それでも羊飼いは黙ってイェースズを見つめていた。久々に会う人間にイェースズの胸は波打つように高鳴り、目頭さえ熱くなってきていた。そして、相手が何も答えないのは警戒しているからかとも思い、イェースズは思い切り笑顔を作って見せた。すると、相手はようやく口を開いた。だが、その口から発せられた言葉は、イェースズには全く解することができなかった。もうここでは言葉が全く違うのだということを、イェースズははじめて認識させられた。
当惑したイェースズは、とにかく大きな声で、
「キショ・オタン。キショ・オタン」
と、連発した。何とかそれだけは通じたようで、羊飼いの男は黙って荒野の一角を指差した。そこでイェースズは見え始めていたお椀を伏せた高峰を指さし、
「あの山の名は?」
と、聞いた。羊飼いの男も、イェースズの言葉の内容を推測したらしく、
「カンリンボチェ」
と言った。それが山の名らしい。それを聞いた時イェースズはどこかで耳にしたことがあるような名だと思っていたが、丁重に礼を言って羊飼いと分かれたあとでようやく思いだした。それは、ジャガンナスにいた時に読んだリグ・ヴェーダの中に出てきた山の名だった。そうなると、近くにマーナサという名の湖もあるはずである。果たしてしばらく歩くと、対岸の山も霞む大きな湖が青々とした水をたたえて横たわっているのに出くわした。リグ・ヴェーダの中には天女ウルバシーとブルーラバス王との恋愛譚があり、その話の舞台となっていた山と湖がここなのだ。
それからしばらくは、右手にずっと頂上に雪を頂いた山が、どこまで行っても壁のように続く毎日となった。この山は、精舎から見ていた白い雪の山――ヒマ・アーラヤで、それを精舎からとは反対側から見ているのかもしれない。だが、精舎で見ていた時ほど高くは感じられなかった。今いるこの土地自体が高原で、かなり高いからかもしれない。
それからイェースズは、少し歩みを速めた。季節は間もなく、冬になろうとしている。昼間はまだぽかぽかと温かいのだが、夜は急激に温度が下がり、野宿はもはやできそうもない様子になってきたからだ。朝板の冷え込みからして、冬になればこのあたりは一面の雪に閉ざされることが予想される。温暖な国で五年も暮らしていたイェースズだから、まともな防寒の服を持っていない。
そうして先を急ぎ、地元の羊飼いから何とか手に入れた毛皮の外套を着てさらにふた月ほど歩くと、ようやく目指すキショ・オタンらしき土地にたどり着いた。集落が増えてきたので、そう感じたのである。集落といってもこれまでごくたまに目にしたのは羊飼いのテントばかりであったが、ここに来てようやく石造りの長方形の家がかたまった申し訳程度の集落が点在するようになってきた。
そこは、周りを山に囲まれた盆地だった。川がくねりながら湖に流れ込んでくるあたりに少し大きな寺院らしきものが見え、出くわした人に身振り手振りで聞いても、そこはキシュ・オタンに間違いなさそうだった。それが分かった途端にイェースズは全身の力が抜けてその場に座りこみ、目からは涙があふれていた。
周囲の山は雪をかぶっているというほど高くはない岩山で、その背後からしっかりと雪を頂く高峰が顔をのぞかせていた。盆地の大半は、湖沼となっている。岸辺近くには水草が繁り、土と水の境界は遠目では分からなかった。
この集落を初めて見たとき、イェースズは本当にここがキショ・オタンなのかと疑ったものだった。イェースズの想像していたキショ・オタンはカーシーやシシュパルガルフほどの大都会で、こんな土臭い田舎の村ではなかったはずだ。
とりあえずイェースズは、その集落に行ってみた。盆地の中に足を踏み入れて、イェースズはあまりの猿の多さに驚いた。ここにもあそこにもと指させるくらい、盆地の草むらの中を猿が遊んでいる。そんな猿たちに見つめながら集落に着いたイェースズに、今度は同じように人々の好奇の視線が集中した。中にはわざわざ立ち止まってじっとイェースズを見ている中年婦人もいるし、遊んでいた子供たちもイェースズが来るとおずおずと場所を変えてしまう。
この町ではイェースズのような異国の僧が来ることは、よほど珍しいらしい。イェースズにとっても、あのカンリンボチェの山のふもとを過ぎたあたりから、出会う人が皆珍しく感じられた。まずカーシーあたりの人に比べて顔つきがまるで違う今まで見たこともない人種で、肌も黒っぽくなく黄色だ。髪の色も瞳の色も皆黒く、顔の掘りも浅くて鼻が低い。服も決して高級という訳ではないが、色とりどりの裾の長い外套を人々は着ていた。一年中気温が下がらないカーシーの人々のような薄着の人は、まずいない。
土壁の家の間を歩きながら、イェースズは何度もあたりをきょろきょろと見回した。出会う人すべての視線が、自分に絡みついてくる。こうなると、恐怖さえ感じてくるものだ。
意を決してイェースズは、一人の男に話しかけてみることにした。それは、イェースズがこのキショ・オタンに来た最大の目的についてであった。
「メングステ、メングステ」
どうせ普通に話しても通じないだろうと、イェースズは会いたい人の名前をただ連呼した。男はここの言葉で何やら話しかけてきた、もちろんイェースズに分かるはずもなく、イェースズはさらに「メングステ」を連発していた。さらに何か言う男の腕を隣にいた老婆が軽くたたいて言葉を途切れさせ、その老婆は今度はイェースズを見て町の中央の少し高くなっている土地の上の建物を指さした。
イェースズは笑顔で頭を下げた。老婆は無言のまま、笑みを返してくれた。
示されたのは、木造の小さな建物だった。瓦の屋根の下の柱は赤が基本のどぎつい原色のみで色が塗られ、そのふちはすべて金だった。その入り口でイェースズは、大きな声で、
「メングステ尊師!」
と、叫んでみた。しばらくして、一人の威厳のある初老の僧らしき男が出てきた。ひげが若干あるが、頭は剃ったのではなく自然に禿げているようだった。額には深いしわが三本あり、全体的につぶれているような顔をしていた。
イェースズを見て、その初老の僧は何か言った。イェースズには聞いても分からない言語だった。
「あの、メングステ尊師ですか?」
イェースズは、長く暮らしていた国の言葉で言ってみた。すると「ン?」というような顔つきのあと、イェースズが話した言語と同じ言葉で返事が返ってきた。
「確かに私はメングステだが、君は雪の住処の南から来たのかね?」
「そうです。いや、よかった」
イェースズは、思わず顔をほころばせてそうつぶやいていた。メングステにやっと会えたというだけでなく、メングステはアンドラ国の言葉が分かるようだ。もしメングステに会えても言葉が通じなかったらどうしようかと、実はイェースズはひそかに悩んでいたのである。
イェースズは懐から、アラマー仙の紹介状を出してメングステにさし出した。それを見てメングステは急に顔をほころばせ、一気にそれを読んでいた。そして急に柔和な顔になって、メングステはイェースズに微笑んだ。
「よく訪ねてきて下さった。君が見たいという古文献は、裏山の洞窟の中にある。本来、絶対に異国の人に見せることはできないものなのだが、アラマー仙に免じてご覧に入れてさしあげよう」
それからメングステに促されて、イェースズは建物の中に入った。日陰に入ると、急に空気は冷たくなる。それから狭い一室に通されたイェースズは勧められるままに石の腰掛けに腰をおろし、それに向かい合う形でメングステも座った。
「道中、大変だっただろう」
「いいえ。尊師にお会いしたい一心で参りましたから、何ということはありませんでした」
「お若い証拠だ。いくつになられる?」
「十七です」
「そうか。私もちょうどそれくらいの年頃だったかな、雪の住処を越えて、南の国にいったことがある。その時、ブッダ・サンガーの人々と語り合ったこともあった」
道理でこの男は、イェースズの話すパーリー語を使うことができるのだ。
「では尊師も、ブッダ・スートラを学びに?」
メングステは、静かに首を横に振った。
「いや、違う。ブッダ・サンガーではついに意見が合わなかった。だから、帰ってきた。だからこの国ではブッダの教えに接したことがあるのは私一人で、ほかのものは誰も知らぬ」
「尊師も、サンガーで僧になられたのではないのですか? それとも、バラモンなのですか?」
メングステは、大声で笑った。
「この国には、バラモンなどおらぬわい。それに私は、ブッダ・サンガーの僧でもない。この国には、この国の教えがある」
「この国の教え?」
「そうだ。ボンの教えという」
ブッダ・サンガーとは違う教え、違う風俗、違う言語、異なった人種――これらのものに接したイェースズは、自分がこれまでと別世界にいることを感じた。
「その教えとは……?」
「生命の神、ラーを奉じる教えだ」
ラー……イェースズの幼児体験の中から、その言葉に対する記憶が微かに甦った。聞いたことのある名だった。どうも、エジプトと関係があったような気がする。
「とにかく、腹がすいておろう。食事になさい。古文献はそれからだ」
確かに、イェースズは空腹だった。外はもう、薄暗くなり始めている。イェースズは勧められるまま、食卓に着いた。
そして夜も更けてから、メングステはイェースズをつれて裏口から出た。そのまま夜道を少し歩き、たどり着いたのは低い丘のふもとだった。それまで灯火を手にしたメングステは深刻な表情で、ほとんど無言で歩いていた。そのまま丘の斜面に開いた穴倉の扉を押して中に入ると、メングステの手の灯火に洞窟内が照らし出された。そこには、棚がいくつも並んでいた。メングステはイェースズに入るように促した。イェースズが入ると、中から扉は閉められた。
かび臭い、薄暗い部屋だった。窓はなく、土壁もこの部屋だけは特別に厚いようで、ひんやりとした空気が漂っていた。
「アラマー仙の手紙では、君はこの古文献が見たいそうだな。しかし、いろいろな内容の古文献がここにはたくさんある。君は、いったいどの内容のが見たいのかね?」
「東の国です。アラマー仙の話ですと、ゴータマ・ブッダはかつて東の国で修行し、最終的にその地で亡くなったらしいんです。このことは、一般のブッダ・サンガーの人たちは知らないことですけど」
「東の国ねえ」
「太陽の出る国という意味でサルナートといったり、ブッダ自身はジャブドゥバーとかケントマティとか言っていたそうです」
「サルナートは、君がいた国にあっただろう」
「いいえ。今のあの国のサルナートは、違うらしいんです。その国はほかに、スートラにはクイガの国という名称でも出てきます」
「おお、クイガの国かね」
メングステは四つばかりある天井までの棚の一つから、濃い灰色の厚い板を持ってきた。それがイェースズに手渡されたが、持ってみるとずっしりと重い粘土板だった。表面には細かい文字が、ぎっしりと刻まれている。
「それが、クイガの国について書かれた古文献だ」
イェースズは驚いた。古文献とは、このような粘土板だったのだ。文字はサンスクリット文字だが、その通りに発音してみてもサンスクリット語にもパーリー語にもならなかった。
「この言葉は?」
「この国の言葉だよ。この国には文字はないので、よその国の文字を借りて記録されているんだ」
イェースズは、両手で持った粘土版の文字を何度も眺めた。しかし意味が分からないので埒が開かず、仕方なく目を上げてメングステを見た。メングステは笑った。
「言葉は追い追い覚えることだな。確かにその粘土版には、君が言った国のことが書いてある。そこにはムーという名で出てくるが、おそらくそのムーの国がクイガの国だろう」
「その国は、東にあるんですか?」
「そうだ、ずっとずっと東に行くと海があって、その海の向こうにムーの国はあったという。その国こそ世界の人類発祥の母なる国で、太陽の直系国だったそうだ。ここにある粘土版のすべてが、そのムーという母なる国にて記された『聖霊の書』を翻訳したものなのだよ」
太陽の直系国ということは、太陽の昇る国という「サルナート」という表現と一致する。間違いなくムーとは、クイガの国のことのようだ。
「ブッダが修行されたのは、間違いなくその国でしょう」
イェースズは思わず興奮して、叫んだ。しかしメングステは、静かに言った。
「だが、そのムーの国は、一万年も前に大海に沈んだのだよ」
「え?」
「ものすごい大天変地異があって、大陸もろともに海に沈んだとその粘土版には書いてあるんだ」
一万年も前に海に沈んだとなると、五百年前の人であるブッダが修行に行ったことはあり得なくなる。
「まあ、落胆することはない。沈んだとはいっても、沈み残っている部分もあろう。ブッダが行ったのは、その沈み残りの島か何かではないかな」
「あ、そうですね」
落胆していたイェースズの顔に、光がさした。そしてもう一度彼は、手の中の粘土版の文字に目を落とした。
「詳しくは、それを読むことだ。明日からゆっくりと、私が読んで聞かせよう」
「いえ。それより、言葉を教えて下さい。ここの言葉、つまりこの粘土版に書かれている文章の言葉です」
「言葉を覚えるより、私が読んだ方が早いだろう」
「いえ、それでは申し訳ありませんし、自分の目で読みたいんです。すぐに覚えますから」
たしかに故郷ではほかの子供よりも早くヘブライ語を覚え、ギリシャ語もマスターし、故郷を離れてからも瞬く間にサンスクリット語もパーリー語も身につけたイェースズだった。
そのイェースズの申し出に、
「分かった」
と、メングステはうなずいた。
それからその粘土板の穴倉をあとにして、イェースズは寝室に通された。夜になってからのものすごい気温の急降下にイェースズは歯を鳴らしながらも、羊毛の布団を抱きしめてイェースズは眠りについた。
翌朝イェースズが起きた時には、メングステはいなかった。一人でとり残されてじっと待っているうちに、昼前になってメングステは戻ってきた。
それから、早速言葉のレッスンが始まった。文字はすでに知っているサンスクリット文字であるし、会話ではなく文章が読めるようにということが主眼だったので、イェースズにはすぐにのみ込めた。話はできなくても、文章が読めればいいのだから早い。だいたい四、五日で、イェースズはひと通りの文章の読解はできるようになった。もちろん、会話はまだ無理である。
その間、メングステが終日付き添って教授してくれた訳ではなかった。メングステは時折、ふらりとどこかへ行ってしまうのだ。それも断りなくであり、そういうときイェースズは独りぼっちになる。仕方なくイェースズは退屈さを紛らわすために、庭から見える湖を眺めていたりした。盆地の大部分を占めているこの湖は、オタン湖というそうだ。対岸はすぐになだらかな山が迫り、その向こうに雪の山脈が顔をのぞかせて横たわっている。
イェースズにとってメングステがどうして時々いなくなるのか、若干の興味があった。そして、昼間は裏山の方へ行っているらしかったが、朝夕はどこかほかの場所へ行っているのではないということがそのうちすぐに分かった。ある一室で、メングステは礼拝を行っているのだった。こっそりとイェースズが覗き見をすると、メングステは地に全身をうつ伏せに寝かせ、足を伸ばし、両腕をも前方に伸ばして祈りの言葉を唱え続けていた。祈りの言葉の最後は、「オムマニ、パドメフム」という言葉で終わっていた。拝んでいる対象物は、何もない。壁に向かって拝んでいるのだ。
メングステは「この国には、この国の教えがある」と言っていたが、イェースズはその教えについていささかの関心を抱いた。しかし今のイェースズにとっては、その教えへの関心よりも粘土板を早く読めるようになることが先決問題だった。
ひと通りの読解力がついたくらいに言葉を習い終わった後、イェースズはメングステがいない間にも自由に粘土板の文献を閲覧する許可を得た。
「くれぐれも落として割るなよ」
というのが、メングステが出した条件だった。さらに、粘土版を格納している部屋の外へ粘土版を一枚たりとも持ち出すことも固く禁じられた。
イェースズは早速、始めてここに来た夜にメングステに示された粘土板を手に取った。そしてひとつひとつの文字を追った。あの時はまるで何かの呪文のように意味がさっぱり分からなかった文字の行列も、今ならだいたいは解読できる文章になっていた。
「ムーの国に、大地の星が落ちた。町の七つの黄金の門、そして黄金神殿は、町全体と共に激しく揺れ動いた。国全体が巨大な象が震えるように、大地は裂け、炎は立ち昇り、人々は恐怖の叫び声とともにただ逃げ惑うだけであった。人々は黄金神殿の『太陽の子』と称される神官のもとへ詰め寄ったが、ラ・ムーは『すべてなるがままになっただけだ』と言うのみであった。やがて大地は巨大な津波にのみ込まれ、大洋の底へと沈んでいった」
頭の中で翻訳しながらの読解であったが、それでもイェースズが戦慄を覚えるには十分だった。イェースズの頭には、すぐに聖書の「ノアの箱舟」のことが浮かんだ。クイの国が沈んだと言うのも、ノアの洪水と関係があるのかもしれないと、ふと思ったりもした。そうなると、クイの国、すなわちムーの沈没も、やはり神の怒りに触れてのことなのだろうか……そして、ノアのように助かった人もいたのだろうか……。疑問はいろいろと湧いてくる。そこでイェースズは棚という棚の粘土版を、片っ端から読み始めた。それでも粘土板はおびただしい数があり、すべてを読破しようとしたら優に一年はかかりそうだった。ただ、一つ一つがどれも興味尽きない内容であり、時間がたつのも忘れてしまうくらいだった。
イェースズの疑問に対する答えはすぐに見つかりそうもなかったが、イェースズが驚いて目を止めた記事は、今自分がいるこの高原がかつては海岸だったという記載だった。白い砂浜に波が打ち寄せる海岸が、一瞬にしてこのような山に囲まれた高原になってしまったのだという。そのくだりも「星が大海に落ち」という表現で始まっていた。
「大地はひっくり返り、寒いところが暑くなり、暑いところは寒くなった。大洪水が全世界を覆い、大地は激しく揺れ、巨大な陸地が砂浜にぶつかった。たちまちに砂浜は高原となり、ぶつかった地点には雪がかぶるほどの大地の壁ができた」
本当にこんなことがあったのかと、イェースズには想像することすら困難だった。これが神の力だといってしまえばそれまでだが、あまりにもスケールが大きく、ノアの箱舟の四十日四十夜降り続いた雨どころの騒ぎではない文章を見て、イェースズはただ愕然としていた。
粘土板の内容は大きいスケールの方ばかりでなく、一個人の魂のことにまで及んでいた。人が死を迎え、その魂が死後四十九日間で経る遍歴、そして再びこの世に戻ってくるまでのことが克明に記されているのだ。輪廻転生の法を知っているイェースズには、そのこともすんなりと受け入れられた。
こうして粘土板の研究を始めて十日以上がたったある日、部屋にメングステがふらりと入ってきた。イェースズは慌てて、粘土板より目を上げた。
「どうかね。ムーのことは分かったかね」
「はい。ありがとうございます。ただ、ムーに関して、本当に沈み残っている部分があるのか、そこにいた人々のうちで生き残った人はいるのかなど、分からないこともまだたくさんあります」
「そうか」
にっこり笑ってメングステは、イェースズのそばに腰を下ろした。
「生きのびた人は、いるはずだ。君もそうだし、私だってその子孫だから」
「え?」
イェースズはすぐにはその言葉がのみめず、メングステを見ていた。
「ムーで生き残った人々が、我々の祖先なんだ。つまり、その沈んだムーの国こそ母なる国、全世界の人類発祥の国なのだよ。君はまだ、文献のその部分は見ていないようだがね」
何しろ粘土板はたくさんありすぎて、イェースズがまだ見ていないものの方が数が多い。
「つまり、その国が沈んだ時に助かった人々がいて、その子孫が今の世界の人類ということなのですね」
「そう。その人々は周りの陸地に這い上がって、それぞれの地方に住みついたんだ」
「では世界中のどの国の人々も、ムーの子孫ということなのですね」
「一応、そういうことにしておこう」
穏やかにメングステは、うなずいた。
「我々のボンの教えの中心の神は生命神ラーだが、それだけでなく、すべてが神ということになっておる。そのへんの石ころ、山の木、そして山自体もだ」
「それは確かに、そうだと思います。天地一切ことごと、神様のご意志の現象化だと思いますから」
「だから我々は、偶像は作らない。大地こそ神殿であるから、人造の神殿も必要ない」
それを聞いてしばらく小首をかしげて考えたイェースズは、
「でも、神様と接する場所や媒体は必要なのではないですか?」
と、小声で言った。それには何の反応も見せず、メングステは言葉を続けた。
「つまりだな、すべてが神であるからには、この人間も神の力を受けられるようにできておる。すべての世界が神の力の充満界だ」
それは全くその通りだと心の中でうなずきながらも、メングステの突然の話題の転換にはイェースズも戸惑っていた。メングステは、お構いなしに話を続けた。
「ボンの教えには、チャクラというものがある。人の体のそれぞれの部分にチャクラはあって、そこで神の力を吸収するのだよ。最も重要なのが、ここ」
メングステはそう言いながら、自分の額の中央の眉間を指差した。
「ここがアジナー・チャクラー。つまりマニの珠で、第三の目だ。ここで神の力を人は受けるんだ」
イェースズの心の中に、パッとはじけたものがあった。肉の目を閉じて心の目を開けというのは、ブッダ・サンガーでさんざん聞かされてきた言葉だった。しかしもっと大事な目があるのではないかとイェースズが思っていた矢先、あのダンダカ山での体験があった。アラマー仙は、霊の眼を開けといっていたのだ。そのことを思いだしたイェースズは、自分の額にそっと手を当ててみた。ダンダカ山での禅定の最終日、現れたブッダが自分に眼を閉じさせた時に、ここが異様に熱くなっていた。ブッダ・サンガーにあった仏像も、ちょうどこの位置に宝石を埋めていた。そんな、これまで気にならなかったことが、メングステの言葉で急に気になりはじめたイェースズだった。
翌日、残っている疑問をすべてぶつけようと思い、イェースズは昼前に帰ってきたメングステをつかまえた。そして粘土板の収蔵室で、二人は向かいあって座った。
「君がここに来てから、もうひと月だな」
と、先に口を開いたのはメングステの方だった。
「はい。その間、お蔭様で大変勉強になりました。ありがとうございました。ところで……」
イェースズは何とか、疑問を切り出すことにした。
「ムーの国が人類発祥の国だということですが……」
「ああ」
「遠い西の果ての私が生まれた国の教えでは、最初の人間は神によって土で造られたとなっています」
「何という聖典かな?」
「聖書といいますが」
「聞いたことがないなあ」
「私たちの国の言葉では土を「アダマー」といいますから、土から造られた人間はアダムっていうんです。それが男で、次にエヴァという名の女が造られました。そのことを私たちは小さい時から信じてきましたけど、東の国のムーが人類発祥国なら、神様はそのムーでアダムを造ったんでしょうか」
メングステは自分の額に手を当て、ひじが膝の上という格好で、うつむきがちに何か考えていた。やがて、メングステは目を上げた。
「私はそのトーラーというのを読んだことがないから何とも言えんが、その二人は夫婦だったのかね?」
「はい。その二人の子孫が人類となったのです」
「ヒマ・アーラヤの向こうの肌の黒い人々や、我々のようなこの国の人々も、皆そのアダムの子孫なのかね?」
「さあ、そこまでははっきりとは書かれていませんが……。その子孫のユダヤ人の系譜なら書かれています」
「やはりな。そんなことじゃないかと思った」
メングステは、満足げに何度もうなずいていた。
「そのアダムとエヴァというのも、間違いなくムーの国で造られておる。何らかの事情で君の生まれた国へ行って、君たちの民族の祖先になったのではないかな? つまりその二人は人類の祖ではなく、君たちの民族の祖なのだよ。私はそう思うが、どうかね?」
パッとはじけるものが、イェースズの中にあった。聖書では、アダムとエヴァは罪を犯した結果としてエデンの園を追放され、そのあとで子をもうけたことになっている。「何らかの事情で君の生まれた国へ行き」――このメングステの言葉が引き金となってひらめいたことは、これから行こうとしているムー――クイガの国が、トーラーの中のエデンの園なのではないかということだった。
イェースズがそんなことを考えているうちにも、メングステは話を続けた。
「その二人だけが人類の祖先なら、その二人の子供たちは誰を妻としたのかね? その子孫は代々続いているのだろう? まさか、兄弟姉妹で次の子を作った訳ではないだろう?」
「はい。そんなことをしたら、我々の民族の掟であるタルムードに背く重罪になります」
「と、いうことは、ほかにも人類はいて、そのほかの人類の女を妻にしたということだな。つまり、君がいうアダムとエヴァとかいう二人のほかにも、少なくとも二人の子供の妻となった女の親はいた訳だ」
確かにお説後最もと言う感じだった。そこでイェースズは、さらに尋ねてみた。
「では、もっとずっと前の、本当の人類の祖先は?」
「我われボンの教えでは、人間は猿と鳥の子孫だということになっている」
「え?」
イェースズは驚いて、声をあげた。確かにこの盆地には驚くほど猿が多かった。しかし、人間が猿の子孫であるなどという考え方に接したのはイェースズにとって初めてだったので、とにかく彼は面食らってしまったのである。
「人の魂は、これまでこの世のあらゆる生物を経験してきたんだ。人間の肉体が造られてから今に到るまで、いろいろな生物になってきたからだろう。大昔、まだ人間がいなかった頃には、せいぶつといえば海の中のカビのようなもので、それがクラゲのように変化してきたんだ。長い長い年月のうちにな」
「ちょ、ちょっと待ってください。人間が昔クラゲだった?」
「そうだ。そして魚となり、やがて陸に這い上がり、虫となり、トカゲとなって、そして鳥や猿になって、その猿と鳥の子孫が人間という訳だよ。すべてのものには普遍の法則があって、不完全から完全へと進むのだ」
それは違う!――と、イェースズは叫びたかった。いくら何でも神の似姿に創られた人が猿の子孫だなどというのは、イェースズにはどうしても受け入れられなかった。
だから、イェースズは黙り込み、視線を落として床を見ていた。メングステはさらに言葉を続けた。
「だから今この町の周りの森で遊んでいる猿も、やがては人間になる時代が来る。我々の先祖が猿だったようにな。そして今の猿が人間になるころには、わしら人間の子孫はもっともっと素晴らしい生き物になっているはずだ」
メングステは大声で笑った。イェースズの背中に、冷たいものが走った。
そこでイェースズは、ゆっくりと顔を上げた。
「人間の霊魂は、神様がほかの動物は区別して造られたものです。ですから、人間が猿の子孫だなどということは、絶対に受け入れられません」
その瞬間メングステの顔から笑みは消えて、急に厳しい顔つきになった。
「君は、この町に議論をしに来たのかね?」
イェースズはしまったと思った。議論からは何も生まれないというのは、イェースズの持論だったはずだ。つまり、痛い所を突かれてしまったイェースズだが、それでも已むに已まれぬ情が彼の中にあった。
「決して議論をするつもりではありませんが、神理に照らし合わせると……」
「いいかね」
メングステの言葉が、イェースズの発言を遮った。
「君は自分の生まれた国の教えがあり、またブッダの教えも学んできたのだろう。それはそれでいい。しかし、ここにはボンの教えがあるのだ。自分の一宗一派の教えを他の宗派の人にまで押し付けるのは、やめてもらいたい。お互いに認め合って、尊重すべきなのではないか?」
「それは確かにその通りです。でも、違うんです」
「何が違うのかね?」
メングステの口調も強くなった。イェースズもむしろ開き直り、胸をはってメングステを直視した。
「今、一宗一派とおっしゃいましたけれど、ブッダは数ある一宗一派と同列にブッダ・サンガーという宗派を打ち建てたのではないのです。そんな、宗門宗派などは超越した、天地の普遍の神理をブッダは説かれたのです。事情があって、それは真如でしたけれど」
「私も南の国へ行った時は、ブッダ・サンガーの連中とよく論争をした。彼らはブッダの教えを楯に、さんざんに斬りつけてきた。しかし、結論などは出なかったよ」
イェースズは深くいきをついた。
「ブッダの教えは、人をそのようにきりつけていくためのものではありません。私のような異邦人も差別しませんし、バラモンの人から来たものも歓迎します。天地の普遍の真理ですから、地上にあるどんな教えもけなしたり否定したりはしません。しかし、誤りは誤りとして、正していかねばならな私は思うのですけど、いかがでしょうか?」
「誤りだと?」
「はい、どんなに多くの、ガンガーの砂の数ほどの民族があっても、天地創造の最高神はおひと方で、真理の峰はただ一つのはずです。そこは、人知のみでは到達できないでしょう。例えばですね、人間が猿の子孫だなんてことは、どうやって分かったのですか」
「それは、悠久の昔から、我々の間で語り継がれてきたんだ」
イェースズの青い瞳に見据えられ、メングステの表情にわずかながら狼狽の色が見えた。
「そうでしょう。語り継がれてきただけですよね。人知によって語り継がれてきただけのことを、真理と盲信するのはいかがなものでしょうか。たとえブッダの言葉であろうとも、それを盲信して追従してしまうのは考えものだと、私は思っているんです」
「ではどうすれば、真実を知ることができるというのかね、君は」
「それは、体験でしょう。人の話を鵜呑みにして上手に受け売りしたところで、相手には波動は伝わりませんよ。厳として動かぬものを自らの中に秘めておくことが大切で、それが体験ということではないでしょうか。これも、私の苦い経験からいえることなんです」
しばらくは、二人とも言葉を発しなかった。重い空気が、狭くて薄暗い部屋に流れた。
やがて、イェースズの方から顔を上げた。
「あなたは人間の祖先が猿であるとおっしゃいましたが、人は何度も生まれ変わるものでしょ?」
「そうだ。すべての人々は輪廻によって復活する」
「ではあなた自身、かつて猿や鳥として生きていたことを覚えていられますか?」
「輪廻では、前世の記憶はないのが普通だ」
「かつてブッダ在世中はその弟子のうち五百人がアラハンの境地に達し、過去世の記憶を取り戻して過去世の言葉で語ったといいます。そのうちの全部が全部本物ではなく中には動物霊のいたずらもあったでしょうが、とにかく一人として過去世が猿や鳥だったと語った人はいなかったようですよ」
今度は、メングステの方が黙ってしまった。イェースズは言葉を続けた。
「自分の体験で証明できないってことは、たとえどんなに素晴らしい人から聞いたことでも、真の自分の知識にはなり得ないのではないでしょうか。つまりそれは、憶測にすぎないのですから」
その瞬間、イェースズの全身にものすごいエネルギーがぶち当たったような感覚があった。高次元から流入する叡智で満たされた感じだ。
あとはその導きのままに光の波動を発しながら、人から聞いたことでもなく自分の頭で考えたことでもない真実を、一気に彼はしゃべった。
「この世界が創られてから、人類が存在しなかった時代はなかったはずです。もしそんな時代があったとすれば、再びそんな時代が来るかもしれません。しかしそのようなことが、神のみ意でしょうか?」
たじろぎもせずに、メングステはイェースズを見つめていた。
「聖書では『神は七日で天地を創られた』とされています。まさか今の我々のいう七日ということではないでしょうけれど、実は故郷の私の家族はエッセネという特殊教団に入っていまして、その教えでは『三千世界を貫く神の吹きが、七つの霊を生じせしめた』となっています。その七つの霊が七日という表現のなったのだと思いますけど、その七つの霊を私たちの国の言葉ではエロヒムというんです」
メングステが何か言おうとしたのでイェースズは言葉を切って待ったが、メングステはそのまま口ごもってしまったのでイェースズは続けた。
「この七つの霊によって、万象ことごとくが創造されたわけです。まず神様の御思念によって万生の霊成型が創造され、このエーテルの段階がさまざまな生物ということで現れているのではないでしょうか」
このような言葉を目の前にいる初老の男に話しても分かるかどうかは疑問だったが、そのような懸念とは別に叡智はイェースズの口を使ってどんどんと言葉を発しさせた。
「神様のご意志の充満界は、肉の眼では見えないのです。肉の眼では見えないほどの極微の実相界で、それこそが霊の世界であり、物質の根本である霊体、すなわち魂を構成しているんです。ブッダのスードラの中でいう空ですよ」
メングステに分かるかどうかという心配は、取り越し苦労だった。メングステは涙を浮かべ、うなずいて聞いている。イェースズの光の波動と言霊が、メングステの魂に響いたようだ。
「エーテルが濃くなって波動が荒くなると、すべてのものは物質化して目に見える肉体という衣をつけたのです。ですから肉体というのはあくまで乗り物であって、乗っている魂こそが大元なんですよ。王侯は決してスードラの乗る乗り物には乗らないでしょう? 人は人、猿は猿なんです。人類は神様が全智全能を振り絞られ、ご自分の似姿として創られた訳ですから、人は皆神の子で、決して猿の子、鳥の子ではないのです」
「はあ」
やっとメングステはひと言だけ、言葉ともため息ともつかない声を発した。そこへ、、イェースズはとどめともいえるひと言を発した。
「あなたは、森の猿が一匹くらい人間に変化したのを見たことがありますか? 猿から人間の子供が生まれたということを、聞いたことがありますか?」
「そりゃあ……ないですな」
力なく、それでいてはっきりとメングステは答えた。イェースズはにっこりと笑顔を作った。
「偉そうなことばかり言って、済みません。でも、分かってほしかったんです。でも、あなたのお蔭で私もいろいろなことを分からせていただきました。そのことには感謝いたします。有り難うございます」
「いや、そんな……」
かえってメングステの方が恐縮していた。あんな居丈高だったメングステが豹変してしまったのだから、不思議といえば不思議だ。
「ただもう一つ、これだけは教えてほしい」
「教えるなんて、そんなおこがましいのですけど」
イェースズははにかんで笑っていたが、メングステは真剣な表情だった。
「魂は永遠だよな。人は死んでも、必ず復活するんだよな。粘土板の『聖霊の書』にも『人が死ぬとその肉体は生まれ出た大地に帰るが、肉体を形作る要素はほかの肉体となって蘇る』とあるが、つまり肉体は復活するということだよな」
「いえ、それは違います。確かに魂は永遠で、人が死んだからとて魂が滅びることはなく、永遠の生命を生きます。ちょうど旅人が川を渡る舟から降りるのと同じで、死とはそれまでの肉体という舟から魂だけ降りることです。そしてあちらが和の騎士、すなわち霊の世界での生活が始まるのです。でも、肉体の復活はあり得ない」
「つまり、死んだらおしまいとうことだな」
「死を迎えて乗り捨てられた肉体舟には、永遠の復活はありません。肉体は土から造られたものですから、死んだら土に返るだけです。ほかの肉体として復活するというのは、いちど土に返った物質が新しい乗り舟の材料になるということで、肉体がそのまま復活するということはありません。しかし土に神の吹きによって入れられた魂は永遠ですから、再び現界に別の肉体を持って再生してきます。これが輪廻です。魂の再生はあっても、肉体の復活というのはないんです」
「肉身が復活する訳ではないと……」
「ええ。魂のみが輪廻を繰り返し、生き代わり死に換わりつつ。神のみ意を地に成らしめるために修行をするのです」
メングステは、ゆっくりとうなずいた。
イェースズにはまだ見ていない粘土板も多かったが、今の彼の関心は東のクイの国のことであった。たとえそれが沈んでしまった国であり、本当に沈み残りがあるのかどうか分からないにしても、ここよりもっと東に行けば何かが分かるのではないかという気がしていた。とにかくクイの国を求めて、イェースズは東に向かって旅立とうと心に決めていた。だからある日メングステをつかまえて、この土地から東に行くとどのような状況になっているのかと聞いた。
「一面の砂漠だ。どこまで行っても」
あれからというものやけに優しくなったメングステは、穏やかに答えてくれた。しかし、砂漠とあっては、一人では厳しかろう。食料とて、ここではあまり持たせてはくれそうもない。布施を請う村も果実を取る森も、そして生物もいなければ、野垂れ死には必至である。
そんな絶望にくれていたある日のこと、この町にらくだに乗った隊商がやってきた。しかも、ローマの隊商だという。その話を聞いてイェースズは慌てて飛び出し、すぐに見つかった隊商の人びとの顔を見てみた。それは、紛れもなくユダヤ人たちだった。イェースズは町中を歩く彼らに向かって、大声で、
「シャローム、シャローム!」
と、懐かしいヘブライ語で呼びかけながら走っていった。