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「おお」
こんな町で故国ユダヤの青年が、しかもブッダ・サンガーの僧衣のままで暮らしていたので、隊商の方も驚いたらしい。
「シャローム」
と、ラクダの上の四、五人の人々も一斉に言葉を返してきた。
「君は、この国に住んでいるのかね?」
挨拶の「シャローム」のあとの言葉はギリシャ語だったが、それでもイェースズにとっては何とも言えない懐かしい響きであった。彼らの服装はユダヤ人とはいっても完全にローマ人と変わらず、どうも離散ユダヤ人であるようだ。
「私はガリラヤのカペナウムの大工ヨセフの息子で、イェースズといいます。ここから南の白い山脈の向こうのアンドラ国で修行していましたけれど、今回どうしてもあることを知りたくてこの町に来たのです」
と、イェースズもギリシャ語で答えた。
「ほう。今いくつになられる?」
「十七です。故郷を出たのは十三の時でした」
「では四年も、ここにいるのだね」
「はい。皆さんはどちらへ?」
「東へ行くんだよ」
「え?」
イェースズが思わず大声を上げたので、ラクダの上の人々もびっくりしたようだ。彼らの周囲にはこの町の人々によって、すでに黒山の人だかりができていた。
「そう。東だよ。東のシムの国まで行くんだ」
「ここよりも東に、そんな国があるんですか?」
「ああ。東の多くの山を越えると、その大帝国に行きつくんだ」
「大帝国? そんなに大きな国なのですか?」
「そうだよ。そしてそこにも、イスラエルの民の町がある。我々はいくつもの峠を越えて、その地の絹をローマに運ぶ商人だ」
イェースズはすぐにでも同行を求めたかった。しかし、いきなりそのようなことを切り出してはあまりにも不躾だと思ったので、とりあえず逸る胸を押さえて、
「あの、本日のお泊まりは?」
と、だけ尋ねた。
「この町を出た頃には日も暮れるだろうから、この町のどこかでテントを張ろうと思っていたところだよ」
「よかったら、私が今いる所に泊まりませんか? 一人の尊師がそこにはいます。お願いしてみましょう」
隊商たちはしばらく互いに相談していたが、その間、彼らのギリシャ語の一つ一つの懐かしい響きをイェースズは楽しんでいた。
「そうしましょう。有り難う」
隊商の人たちの決定に、イェースズの顔にもパッと光りがさした。
隊商は二十代から三十代の男たち五人で、決して若くはない。そんな一行をイェースズは案内し、メングステの屋敷へと連れて行った。メングステは彼らを泊めることについて、和やかに許諾してくれた。驚いたのは隊商の一行が、イェースズがまだ堪能ではないこの町の言葉でメングステに挨拶したことだった。
その夜、夕食の後で、彼らの寝る部屋にイェースズは出向いた。イェースズが最初に尋ねたのは、隊商たちのしゃべったこの町の言葉についてだった。
「何を言っているのかね、君」
これが、隊商の中でもリーダー格と思われる男の答だった。大笑いしながら、エレアザルと名乗ったその男は言った。
「この広い世界の東の果てのシムから西の果てのローマまで、我われは何回往復したか分からないのだよ。その途中には、十何種類もの言葉があるんだ。そんなことで壁を感じていては、商人は務まらんよ」
「東の果てから西の果てまで?」
「そうだ。シムでは高級な絹が取れる。それを運ぶんだ。ローマ皇帝の服は、全部我われが運んだ絹でできているのだよ」
絹というのはイスラエルでもローマでも超高級品で、とても庶民の手に入るものではない。もちろんそういう高級品の存在はイェースズも知ってはいたが、それが東の国で産出され、このようなユダヤ人の隊商によってローマまで運ばれていたとか初めて知った。
「そんな東の果てまで、本当に何度も行かれたのですか?」
「ああ。我々イスラエルの民は、世界中どこへ行ってもおひと方の主に護られており、一つの律法が結んでくれる。この東と西を結ぶ交易は、すべてイスラエルの民の手によってなされているのだよ。名目上はローマの商人と異国では名乗っているが、イスラエルの民ではない本物のローマ人やギリシャ人などは隊商の中には一人もいないよ」
それで彼らは、言葉の壁も何ら苦もせずこなしているのだろう。事実、ユダヤ人でもこのような離散の商人は、数十ヶ国語が話せて普通なのだ。イェースズがヘブライ語、アラム語、ギリシャ語、サンスクリット語、パーリー語が堪能で、この町の言葉も読解だけならできるとしても、イスラエルの同胞の中ではそれは当たり前のことで、彼が時に語学の天才でもなんでもなかったことになる。
「バベルの塔を造ろうとした先祖を、いつまでも恨んでいてもはじまらんからなあ」
またひときわ大きな声で、エレアザルは笑った。イェースズはそんな笑い声の中でも心を静め、東方へ同行させてもらいたい旨を切りだした。
「え? 君がかね? 我われといっしょに?」 「はい。つれていってほしいんです」
「なぜ、また」
イェースズは東の果てに海に沈んだという伝説の国があること、その国の沈み残りがあるならぜひ訪ねてみたいと思っていることなどを隊商のメンバーに語った。
「さあ、そんな国は聞いたこともないなあ。シムの東は果てしない海で、そこで世界は終わりだよ。ちょうどローマの西も大海で、それで世界が終わりなのと同じだ」
「たとえシムの東は大地の淵でも、この足で行ってみたいんです」
「よし」
エレアザルは、自分の膝を打った。
「その気概あってこそ、イスラエルの民だ」
「え? いっしょに行ってもいいんですか?」
イェースズは身を乗りだした。その瞳は輝いていた。エレアザルは、ゆっくりうなずいた。
「ああ。しっかり勉強せい。自分の目で世界の果てを確かめ、勉強するのがいちばんだ。どんなに金銀を蓄えたところで、ある日異民族が来て追放されれば、金銀は奪われてしまう。しかし、どんな敵に襲われようとも、追放されようとも、失われることがないものはしっかりと勉強をして得た知識だ。バビロン捕囚以来、我われの祖先が歩んできた道から得られた教訓だからな」
「はい、有り難うございます」
イェースズは床に額をこすりつけんばかりだった。
翌朝、メングステに挨拶をしたイェースズは、一行とともに出発した。いよいよ東に向かって旅立つ。明るい陽ざしの中、太陽の町キシュ・オタンの光景を、イェースズは一度だけ振り返ってその目に納めた。山々に囲まれ、満々と水をたたえているオタン湖……その岸辺の一角のキシュ・オタンの町……。川沿いに進むにつれてそんな風景も、山の影に隠れるようにして見えなくなっていく。荷物だけのラクダの数頭のうち一頭の荷をほかのラクダに分け、その一頭がイェースズに与えられた。
そして目の前には、多くの山が果てしなく広がっているだけだった。
不思議な道だった。山と山の間を延々と続いている道だが、夕暮れ近くになると必ず集落にたどり着く。はじめからそういうコースで造られた道のようで、その集落は隊商宿が中心になってる。そんな隊商宿である夜、隊商のリーダー・エレアザルは言った。
「我われの祖先はバビロンによって、そしてアレキサンダーによって祖国を追われ、東へ行けば圧迫のない天国たどり着くと信じて、この道を切り開いたのだよ」
しかし昼間の道ときたら天国にたどり着くどころか、地獄の真っ只中を歩いているようだった。見渡す限り山また山の地で、空にも雲ひとつない。鳥も飛んでいないし、空には雲ひとつなく、小動物も全くいない。あるのは照りつける太陽だけだった。行けども行けども山は続き、何度も峠を越えながら、夜までに本当に次の集落があるのかどうかさえ不安になるほど人間と出会わなかった。しかし、夕暮れ前には次の集落にたどり着く。昼は炎天下で額に浮かぶ汗をぬぐうのが忙しいが、夜ともなると急激に寒くなる。山はすべて不毛の岩山で、山ばかりでなく何本もの大河をも越えた。そしてキシュ・オタンを出てから三度目の満月を見る頃にはもう昼間は暑くなくなり、逆に夜の寒さが身にこたえるようになった。
そのころたどり着いた土壁に瓦屋根の家のある集落では、ちょうど祭りの日だった。赤をベースに原色のみの鮮やかな色彩の衣装を身にまとった少女たちが、円くなって踊る。それをさらに円く取り囲んでいるお囃子の人々は、獣の顔をかたどった面を頭にかぶっていた。奏でられているメロディーは辺りの風景とマッチし、風が流れるようになだらかに伸び、この道を歩いて行けば必ず希望にたどり着けるという確信を与えるような旋律だった。
この村でイェースズが加わっている対象は、別のユダヤ人の隊商と同宿になった。彼らは東から西に向かっている連中で、ラクダには絹が山と積まれていた。これまでも、こんなユダヤ人の隊商とは、三日に一度くらいは必ず出会った。夜だけではなく、山道を歩いている時も峠の向こうから別の隊商が歩いて来るときもある。すれ違う二つの隊商のメンバーはどちらも互いに「シャローム」と叫び、歩み寄ってラクダに乗ったまま笑顔で手を握り合う。時には行くべき土地の市場の情報を交換したりもし、そして懐かしい国の同胞と分かれるたびに新しい旅が始まる。
山道を進む隊商は、七日に一回はまる一日歩みを止める。安息日だからだ。久しく忘れていた安息日などという懐かしい言葉が引き金となり、イェースズの頭の中に一気に幼時記憶が飛び込んできたりして、頭がクラッとなりさえした。
そうしてある日、夕方にいつものように集落に着いた。しかし、目の前に横たわっているのは久しぶりに見る大きな本格的建物だった。長い城壁が左右に延び、その中央にイェースズにとっては見たこともない形の屋根の楼門が乗っている。
「さあ、いよいよ着いた」
前の方のラクダに乗っている隊商リーダーのエレアザルが後ろの方を振り向いて、イェースズに向かって大声で叫んだ。
「あれがシムの国のいちばん西の町、キァムジョンだ」
夕陽をあびて、大地も城壁の上の楼閣もすべてが真っ赤に輝いていた。
楼門の下の石造りの門をくぐったとき、そこにはこれまでとは異文化圏の世界が展開されていた。人々は前の合わせの長い、袖のだぶつく服を着て沿道に群がっている。カーシーなどのように町中が人々であふれているという訳ではないが、それでも人々は入城してきたローマの隊商一行を出迎えるような視線を投げかけ、その真ん中をイェースズたちは通る形となった。このときのイェースズは髪も伸び、服装も僧衣からほかのユダヤ人商人と全く同じ服にあらため、ラクダの一頭にまたがっていた。
時々人々が何かささやくのが聞こえるが、もちろん言葉は全く分からなかった。人々はキシュ・オタンの人々と同じように肌の色も黄色で、髪も瞳も黒い。イェースズはラクダの上から首を伸ばして、珍しい町をきょろきょろと見まわした。町全体が城壁で囲まれているのはちょうどエルサレムと同じだが、城壁の形はぜんぜん違う。家はほとんど土の白壁で、重そうな黒い瓦が乗っていた。イェースズには、こうして庶民の家まで瓦で葺かれているのが珍しくてしょうがなかった。何ヶ月も人間とあまり接しておらず、大自然の中を旅してきただけに、イェースズにとっては久々に接する文明だった。しかも、東の果てと思われるこんな所にもこんな高度な文明の国があろうとは予想だにしていなかっただけに、イェースズは驚きを通り越してただ唖然とするばかりだった。だがその文明は故国のものとも、アンドラ国のものとも全く異質の、イェースズがはじめて接するものだった。
しかしイェースズは、不思議なことに気がついた。なぜか懐かしいのである。はじめて接する文明のはずなのに、初めてという気がしない。昔、自分の記憶がない時代に自分はこの国にいたのではないかということすら感じさせるような、そんなデジャブに襲われた。
その時、人ごみの中から人の群れの中から路上に躍り出た。三、四歳の子供たちであろうが、はしゃぎながらイェースズのラクダの前に出てくる形になったのである。しばらくは無言で、彼らはじっとイェースズを見つめていた。その中の一人の、吸い込まれてしまいそうになるほどの透き通った黒い瞳の少女に、イェースズは思わずはっとさせられた。
イェースズはにっこりと笑って見せた。
「シャローム」
そう言ってはみたが、子供たちは笑いながら一目散に逃げて行った。イェースズは、苦笑を一つもらした。
すぐに町並みは切れ、町の中央を横切っている大河のほとりに出た。アンドラ国の大地で暮らしてきたイェースズは、もう並大抵の自然の景観には驚かなくなっていたが、しかしこの大河には思わず息をのんだ。側はさほど大きくはなく、ガンガーよりは遥かに小さな川だった。川のすぐ向こうにまで、山が迫っている。
イェースズが驚いたのは、川の水の色だった。それはまるでレモンのような鮮やかな黄色だったのである。目が慣れてくるとそれは土砂による黄土色だとすぐに分かったが、それでも汚いという感じはなかったから不思議だ。この色が視界に映る風景と、妙にマッチしている。
イェースズは前方のラクダの上の隊商リーダー・エレアザルに、声をかけてみた。
「水がこんなに濁っていますけど、ここニ、三日に大雨でもあったんでしょうか」
「いや」
にっこり笑って、エレアザルは振り向いた。
「この川は、いつもこんな色なんだよ」
イェースズはもう一度川の方を見ながら、川沿いの道へとラクダを歩ませた。
この町ではこれまでの簡易テントの隊商宿ではなく、本格的な旅館に彼らは投宿した。イェースズにとってはただ奇妙な建物でしかなかったその旅館は、隊商のほかの仲間の説明によってはじめて旅館だと分かった。ローマ領やその属州ならいざ知らず、こんな旅の果てに旅館に泊まれるなど全く予想外のことだった。どうやらこの国は東の果てとはいえ、文化水準はローマに劣らないようだ。
彼らが通された二階の部屋の窓からは路上がよく見渡され、柳の木が長い枝を風になびかせているのがよく見えた。窓枠には訳の分からない装飾が施されていたが、柱という柱が皆赤く塗られているのはどうもいい趣味とはいえないとイェースズには感じられた。壁には天に垂直に伸びているような岩山を描いた絵や、この国の文字で何か書かれている紙が張られている。紙という貴重品が惜しげもなく張ってあることも十分驚くに値するが、イェースズの気を引いたのはその上の文字だった。はじめて見るこの国の文字である。それは今までイェースズが知っている文字の中でも、いちばん複雑なものに思われた。きれいな模様にも見える。
そのうち、女中が料理を運んできた。円いテーブルに乗る久々の本格的な料理で、イェースズも隊商のメンバーとともにそのテーブルを囲む椅子についた。椅子に座っての食事など、イェースズは本当に久しぶりだった。料理はどうも油こいものが多く、カーシーにもあった米の飯もあった。ただ驚いたのは手づかみで食べるのではなく、細い棒を二本片手で使って食べるのだということだった。さすがにイェースズは使いきれず、隊商のほかのメンバーに笑われながらも手づかみで通した。さらには勧められた酒が大変だった。白い透明な酒だが、ぶどう酒のつもりで口に含んだところ、あまりの度の強さにイェースズは思わずそれを吹き出した。隊商のメンバーたちの爆笑が、室内に木魂した。
翌朝はもう、一行はこのシムの都のティァンアン目指して旅立つことになった。ティァンアンへは、三日もすれば着くという。この国の玄関ともいえるこの町がこんな高度の文明の都市だったので、都ともなればどのようなのだろうかと、イェースズは歩きながらラクダの上からほかの隊商のメンバーに聞いてみた。その都度返ってくるのは、メンバーたちの愉快そうな笑いのみだった。同じユダヤの同胞でありながら、この人たちは自分の知らない世界を知り尽くしている……イェースズはそう考えると、羨望さえ感じてしまうのだった。
暑くもなく寒くもなく、さわやかな風が頬をなでるそんな季節だった。キァムジョンの町を出て以来、風景が急に柔らかくなった。山がちな丘陵地帯ではあるが、山岳というような高い山はなく、豊かではないものの一応緑には覆われている。それでも時々は黄土の高原となり、岩山が多くなったりもした。時には畑も広がり、明らかに文化水準の高い人たちの国と分かった。
途中、両脇に山がそびえる谷間に差し掛かった。ほとんど日も射すことなく、岩ばかりが空にそそり立つ道を一行は進んだ。そんな所に、関所があった。小さな楼閣が門の上に乗り、甲冑に身を固めた兵士が二人、矛を持って守っていた。しかし隊商は、難なくそこを通過することができた。その関所を過ぎてからしばらくして、視界が一気に開けた。キァムジョンを出てから、もう半月が過ぎようとしている。その時イェースズは峠の上から、はじめてこの国の都――ティァンアンを見た。
ティァンアンは三方をなだらかな山に囲まれ、東の方だけ平野が続いている広い盆地の中にあった。町全体が城壁に囲まれ、大きな川に沿って町は大地にへばりついていた。川はキァムジョンで見た黄色い川とは別の川のようで、遠くから見ても水はあのような黄色ではなかった。町の北側をその川が斜めにかすめているため、城壁はきれいな四角ではないようだ。東西はまっすぐだが、南北は相当でこぼこしている。
「エルサレムより大きい」
イェースズはラクダの上で、そうつぶやいた。それを聞いた隊商のメンバーが、声をあげて笑った。
「君は故郷を離れて久しいから、そう思うのだろうね。実際は、エルサレムの方が大きいよ」
いわれて見れば、エルサレムの町がどれくらいの大きさであったかイェースズ中での記憶は薄く、はっきりと思い出せる自信がない。
「この国では夜の星座の大熊座の、水を汲むひしゃくの形になぞらえているんだ。あの町の北の城壁も南の城壁もちょうどそのひしゃくの星の形に曲がっているから、この町はひしゃくの都とも呼ばれているんだよ」
イェースズが感心して聞いているうちに、一行は峠を下り始めた。
そこからティァンアンの町の城壁の南の門に着くまで、沿道はずっと柳並木だった。門は高さが人の背丈の十倍はあろう石造りの城壁の上に、二重屋根で威容を誇る楼門が乗っている。黄色い瓦の楼門は何本もの太い円柱で支えられ、柱は木製だがすべて赤く塗られていた。その柱には蛇のような動物が巻きついている彫刻が施されているのが下から見え、屋根の四隅は勢いよく宙に跳ね上がっていた。
ラクダの上から、イェースズはそんな楼門を見上げた。高い所から垂直に彼らを見下ろしている楼門は、まるで巨大な化け物のようだった。つぶされそうな気にさせる圧迫感がある。
門に見とれているうちにイェースズのラクダだけ置いてきぼりにされそうになったので、イェースズは慌ててほかの隊商のメンバーを追った。門の下の城壁のトンネルをくぐってティァンアンの町に入ったイェースズの目に最初に映ったのは、ずっと真っ直ぐに北まで伸びている大通りだった。幅はちょっとした広場ほどもあり、その道の両側にさらに道があって、中央の道の左右に延々と続くのは、やはり柳並木であった。道には一面に小砂利が敷かれ、まるで白亜の道のように見える。左右の道の脇には赤く塗られた高い土の塀が続き、塀の中には黄色い瓦の巨大な屋根が幾つも見えた。
思わずイェースズは、エレアザルのそばへ自分のラクダを近づけた。目が無言で案内を請うている。リーダーはそんなイェースズを見て、目元で微笑した。
「右も左も宮殿だよ。この町では、庶民の住み家は北側に少しあるだけだ。それもまだ裕福な庶民だけでね、多くの貧しい民は城壁の外に締め出しさ」
「こんな巨大な宮殿に住んでいるなんて、この国の王ってそんなに偉大な人なんですか?」
「偉大だかどうだか……。ただ、あの宮殿の主で、この国を治めているのは王ではなくって皇帝だ」
「皇帝? 皇帝ってローマの?」
イェースズが驚いてエレアザルを見たのも、無理ないことだった。彼の世界観では地上に王は多数いても、皇帝といえばローマにいるそれしかあり得なかった。イェースズに限らず、当時の普通のユダヤ人の感覚なら皆そうだ。例外は、この隊商のメンバーのように、交易のため東の果ての国まで往還している者たちだけだ。
「ローマの皇帝ばかりが皇帝ではない。この一大帝国はローマに匹敵するほどの広大な領土があり、統治者もローマの皇帝に匹敵する権力者だからそう呼んだんだ」
ローマ皇帝以外にこの世にもう一人皇帝がいると知ったイェースズはしばらく頭の中が白くなって、ラクダの上から道の左右の宮殿を交互に見ていた。見えるとはいっても宮殿は高い塀の向こうにわずかにその屋根をのぞかせている程度だが、それでもいかに珠玉をふんだんに使った豪華な宮殿であるかははっきり分かる。ただイェースズにとって異様だったのは、屋根の瓦と城壁以外は、すべてが木で造られていることであった。
「この道もだね」
エレアザルの言葉に、イェースズたちが歩いている道の中央には、一段高くなったもう一本の道が走っているといってよかった。
「これは皇帝しか通れない道なんだ」
路上はごった返すでもなく、かといって全く人影がない訳ではなかった。それでも北上するにつれ、次第に人の数は増えていった。かなり歩いてから、ようやく左右の宮殿の壁が途切れた。この都の城壁の門をくぐった時は昼過ぎだったのに、今ではすでに夕刻近くなっている。いよいよここから高官や庶民の居住地となると思っていたイェースズがまた驚いたのは、道が十字に交差して真っ直ぐに延びていることだった。こんなに道が整然と縦横になっている町は、イェースズにとってははじめてだった。
庶民の居住地といっても商工業者ではなく、一応は政府の役人クラスの屋敷らしい。それらは決して都大路には直接面してはおらず、ひと区画ごと白い塀で囲まれ、その塀の門が大路に向って設けられていた。その門からのぞけば、白い塀に囲まれた中もさらに縦横に道はあって、その小路に向かって屋敷の門は設けられていた。ごく例外的に直接大路に向かって門がある屋敷もあるが、それはよほどの高官の屋敷らしい。縦と横の道が十字に交差する地点には必ず木の看板が立っており、書かれている文字はイェースズにはもちろん読めないが、どうやら道の名前が書いてあるようだった。
ここまで来ると、人出もだいぶ増えてきた。ラクダの上からそんな町を見回していたエレアザルは、感嘆の声をあげていた。
「この町は生きかえったな」
隊商のほかのメンバーも、その言葉にうなずいている。しかしイェースズはいきなりそのようなことを言われても、ただ途惑うだけであった。そこで、すぐに、
「生きかえったとは?」
「私が前にここに来たのはちょうど二、三年前だったが、ちょうどそのころに戦争があって、この都はひどい荒れ方だった」
「このような大きな国が、どこと戦争をしたんです?」
「外国との戦いではない。今の皇帝が前の王朝を滅ぼすための戦争だ」
「この国は、そんなに新しいのですか?」
「ああ、できてからまだ二、三年だよ」
「二、三年で、これだけの都を?」
イェースズのまじめな問いに、エレアザルは大声で笑った。
「シムは、もっとずっと古い国だ。しかしその同じシムの中で皇統は何回も替わっていてね、我われはこの国を昔からずっとシムと呼んでいるけど、この国では皇統が替わるたびに国の名前を変えている。今のこの国の名はこの国の言葉ではシェンというが、二、三年前まではハンと呼ばれていた。そのハンの皇帝を倒して新しい王朝を開いたのが、今のシェンの皇帝なんだ」
「でもなぜ、シムというんですか?」
「さっき言ったハンの前の皇統の国家の、ジェンに由来するんだ。その国があったのは、もう二百年ほどの昔なんだが」
「なぜ二百年も前の名前で……?」
「君もこの国にしばらくいたら、この国の複雑な事情も分かると思う。ジェンの皇帝だったジェン・チャーグ・フアンという人物が、どんな人物だったかもね」
何気なくエレアザルは言ってのける。それでもまだ理解できないイェースズは、小首をかしげていた。
「でもどうしてジェンがシムなのですか? 今のシェンの方がシムという音に似ているんじゃないですか」
「字が違うのだよ」
「字が違う?」
同じような発音なのに字が違うという概念は、イェースズには理解が難しかった。ヘブライ語にしろギリシャ語にしろ表音文字で、その中で育ってきたイェースズなのだ。しかも、アンドラでもキシュ・オタンで接した文字も、すべて表音文字だった。
「この国の文字は音ではなく、ひとつひとつに意味があるんだよ」
今まで何回かこの国の文字をイェースズはすでに目にしていたが、いったい何種類の文字があるのだろうかと疑うくらいにそれらは複雑多岐を極め、まるで象形文字のジャングルに迷い込んでしまったような感を受けた。
とにかくイェースズは、頭が混乱してきた。太陽はすでに、西の方に傾きかけている。目の前には、はじめてこの都に来た時にくぐった門と同じような巨大な楼門が行く手に立ちふさがっていた。この町の北の門で、それをくぐれば郊外となる。隊商はさらにその門をくぐろうとしていた。つまり都の南の門から入って南北に都を縦断し、今や反対側の北の門から出ようとしている。
城壁の外へ出ると、かえって都城の中よりもものすごい人でごった返していた。はるかに活気がある。商工業を営む本当の庶民の居住地域は、この門外にあるらしい。道には小砂利がなくなり、自然の土となって砂ぼこりがすさまじかったが、それでも同じ幅を保ちながら道はすぐ先で大河にかかる橋に続いていた。その都城の北の楼門の外と橋との間が、いちばんにぎやかな区域のようだ。そこには市場が広がり、家は白い土壁の家もあれば赤い煉瓦の家もあって、その軒先が店になっている。
イェースズを含む隊商の一行はそこでラクダから降り、口輪を取った。イェースズもそれにならい、人ごみをかき分けて歩いた。そして驚いたことにひと目でユダヤ人と分かる青い目の人々も多く、彼らはイェースズたちとすれ違うたびに必ず「シャローム」と笑顔であいさつしてくれた。市場の店先には今までイェースズが暮らしてきたアンドラなどの産物の小物を扱っているものも多いが、食料を売るところもずいぶんあった。豚を丸焼きにしたものを何頭も、後ろ足から吊るしたような店もある。
この市場の一角には五階建ての木造の、まるで塔のような高い建物もいくつか建てられており、イェースズがそんな風景を見ながら宵闇迫る喧騒の中を何とか隊商の人々について歩いていくうちに、いつしかまた市場の外れまで来てしまった。
「あのう、今日はどこに泊まるんですか? 旅館じゃないんですか?」
イェースズはたまりかねて、エレアザルを呼び止めた。隊商の別のメンバーが振り向いて、
「旅館なんて、そんな必要はないよ」
と、笑って代わりに答えた。イェースズはその意味がよく分からなかったが、とにかく彼らに着いていくしかなかった。そのうち、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
隊商一行はたいまつに火をともし、そのまま長い橋を渡った。木でできた橋だった。後方の市場からは明かりがこうこうと漏れており、それがちらちらと川面に浮かんでいたりする。そしてその向こうには巨大な城壁が、黒く重く夜の闇の中にたたずんでいた。
橋を渡りきっても、道はまだ同じ幅でずっと前の方の黒い山まで続いていた。ところが隊商はそちらの方へは進まず、橋を渡りきるとすぐに右に折れた。背の低い常盤木の中に延びる細い道だった。しばらくその道を無言で進むうちに、暗闇の中ながらもぱっと視界が開け、いくつもの篝火が見えた。集落があるらしい。その周りはやはり低い塀でぐるりと囲まれている。その塀の小さな門を、隊商はくぐった。集落のあちこちにある篝火で、町の様子はよく分かった。この国ならどこにでもあるような赤煉瓦の壁と瓦屋根の平屋が、そこには並んでいた。何人かが小ぜわしく歩きまわっていたが、そのうちの一人が隊商に目をやった。
「おお、シャローム!」
そう言ってその男は、走り寄ってきた。同じくエレアゼルも、
「シャローム」
と、あいさつをかわした。そのひと言に驚いて、イェースズは隊列の後ろの方から頭だけを延ばしてのぞいてみた。走り寄ってきた男は、間違いなくユダヤ人だった。
「やあ、今到着かね」
その言葉を聞いて、イェースズは驚いた。なんと、ヘブライ語だったのである。
「今回はずいぶん長旅だったよ。キシュ・オタンの方を回ってきたからね」
「それはご苦労だった」
どうやらエレアザルとは顔馴染みらしい。ヘブライ語だから、会話の内容はイェースズにもよく分かる。しかし、ユダヤ人なら誰でもヘブライ語は分かるとはいえ、ヘブライ語は祭典用語、すなわち古語であり、普段使っているわけではない。一般の日常語はアラム語であり、またエレアザルのような離散は日常的にギリシャ語を話す。だから、ヘブライ語を日常語にしている人々というのを、イェースズは初めて見たのだ。さらにイェースズにとって奇異に感じられたのはこの集落の人は皆ハラショという環頭衣を身につけていることだった。ハラショは確かにユダヤ民族独特のものだが、聖書の中のような古典時代ならいざ知らず、現代では特にヘレニズム化されたイェースズの故郷のカペナウムなどではほとんど見られない服装だった。
やがて隊商は、再び歩きはじめた。そうして集落の奥へと入っていくにつれて、ここがまぎれもなくユダヤ人の町であることはイェースズにもはっきりと分かってきた。こんな東の果ての文明国にユダヤ人の町があり、そればかりか大時代なハラショとギリシャ語での会話など、イェースズにはそれをどう理解していいのか訳が分からなくなってきた。しかしその頭の混乱を収束させられずにいるうちに、隊商は一軒の家の前にたどり着き、エレアザルを先頭に皆でその家にと入っていった。誰もイェースズを意識していないので質問を発することもできず、イェースズはただ着いていくのがやっとだった。
家の入り口ではまるで故郷でどの家でも客人を迎えるときはそうするように、家人によって足を洗うための水桶が出された。家の造りこそなんらユダヤのにおいを感じさせるものではなかったが、すでに用意されていた夕食は故郷のそれそのものだった。広い部屋で寝そべって食べる食べ方に、イェースズは涙さえ出そうになった。
思えば長い旅だった。十三歳で故郷を離れてもう四年、その旅路の果てにようやく故郷に帰ってきたという感じだったし、少なくとも彼はそう思い込みたかった。それでもまだ戸惑いを隠せないでいるイェースズに、エレアザルはようやく少しだけ意識を向けた。隊商のメンバーは彼らなりにここにたどり着いたのがうれしいらしく、今までイェースズをあまりかまってくれなかったのだ。
「どうしたのかね。遠慮はいらんよ」
食事の手も進まないイェースズに、エレアザルは言った。
「ここは私の家だ。この国でのな」
「あなたの家? あなたの家がなぜここに?」
「ここはイスラエルの民が暮らす町だからさ」
「イスラエルの民の村ですって?」
「なぜこんな遠い国に、イスラエルの村があるんですか?」
「この国にイスラエルの民が村を造って住みはじめたのは、もう何百年も昔からだ」
イェースズがいたアンドラ国にもソロモン王の時代からユダヤ人が多数交易のために訪れていたとは聞いていたし、確かにカーシーの町では今でも多くのユダヤ人と出会った。しかし、そこからさらに遥か東の国で、ユダヤ人の村があるとは知らなかった。
「ここにいる人たちは、どういう人なんですか?」
イェースズは、エレアザルに聞いた。単なる離散とは思えなかったのだ。
「この村の人たちかね」
エレアザルはぶどう酒に赤くなった自分の顔の、ひげをさすりながら言った。
「みんな、エフライムだよ」
「エフライム?」
それきりエレアザルは隊商のほかのメンバーと談笑に入り、イェースズはそれ以上のことを聞く機会を失してしまった。もはや皆ぶどう酒によい、完全にできあがっていた。
翌日は安息日だった。
会堂へ行こうと、イェースズはエレアザルから誘われた。
「え? 会堂があるんですか?」
「あるとも」
この隊商と一緒になって以来、イェースズは安息日を欠かさず守ってきたが、これで安息日らしい安息日をイェースズは本当に久しぶりに体験することになる。
村は静まりかえっており、それはイェースズの故郷の安息日の風景そのものだった。会堂とはいっても外観は故郷のものとは全く違ってあくまでもこの国の文化によって建てられた建物だったが、一歩中に入るとそこはまさしく故郷の会堂の空気だった。
ヘブライ語による厳かな儀式が始まった。数年ぶりに会堂で過ごす安息日の礼拝に、イェースズは頭がくらくらする思いさえした。
礼拝の儀式は、聖書の朗読へと進捗していった。その時、思いもかけず朗読者としてイェースズが指名された。おそらくはエレアザルの計らいであろう。とにかくも、イェースズは立ち上がった。
イェースズの手に、巻物が渡された。そのまま朗読台に上がって巻物を開くと、「民数記」だった。静まりかえっている会堂の中、イェースズの若い声が響いた。
読み進めるうちに、イェースズは驚きを隠せなかった。聖書を手にするのさえ数年ぶりであるが、今あらためて故国の聖典を手にし、まるで目新しい書物を読むかのごとく文字が新鮮に見えた。本文の内容がスーッと頭に入ってくる。そしてこの部分はこうだったのかと、内容についてもどんどん納得できてしまうのだ。昔から聖典の理解については人より勝っていたイェースズだったが、しかし今はそれ以上に理解できてしまう。昔は理解していたといっても頭で分かっていただけであり、それでも大人たちを驚かせるには十分だったが今はそれにも増して一字一句が魂に響いてくるのである。どうも年齢のせいばかりでもなく、故郷をあとにしてからここへ来るまでの霊的因縁がそうさせているのだと、イェースズは自信にもにた感覚を抱いた。
朗読個所は、まだユダヤ十二支族の祖の十二兄弟がアブラハムとともにいた時代のことである。
朗読を終え、目を上げて会堂を埋め尽くしている人々の顔を見渡したとき、イェースズは心の中にはじけるものを感じた。
礼拝が終わっても、安息日だからもう外出はできない。安息日には歩く歩数も決められており、あとは夕方になって安息日が終わるまでエレアザルの家にいるしかなかった。
その昼下がり、イェースズは気になっていたことを思い切ってエレアザルにぶつけてみることにした。昨夜エルアザルが口にした「エフライム」という言葉についてである。部屋の中はイェースズとエルアザルの二人だけで、円形の赤い枠の窓からは肌寒い風が容赦なく吹き込んでくる。
「ここの人がエフライムって、どういうことですか?」
「君もイスラエルの民なら、エフライムという言葉くらいは知っているね」
「はい。昔のイスラエル十二支族のうちのひとつでしょう?」
「確かに聖書にはそう書いてある。しかし今イスラエルの地にいる部族は?」
「ユダ族とベンヤミン族だけですね」
「君は?」
「ユダ族です」
「今、イスラエルの地にいる部族は二歩族だけだ。では、ほかの十支族はどこへ行ってしまったのだろう」
「それは昔、アッシリアに……」
それが常識的な答えではあったが、イェースズは口をつぐんだ。先ほど会堂で気がついたことを思い出したのだ。ユダヤ人の太祖アブラハムの孫のイスラエルの十二人の子供を祖とするイスラエル十二支族だが、ダビデ王、ソロモン王の時代を経て、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、エフライム族、マナセ族、ルベン族、シメオン族、イッサカル族、ゼブルン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アセル族の十支族は北のイスラエル王国に、ユダ族とベンヤミン族の二支族は南のユダ王国に属した。その後北のイスラエルはアッシリアに、南のユダはバビロンにそれぞれ滅ぼされて人々は捕囚となるが、やがて解放されて故国に帰ったのは南ユダ王国のユダ族とベンヤミン族のみであった。つまり北イスラエルを構成していた残りの十支族は奇怪な消え方をしているのである。
「いいかね。エフライムとは昔は単なる一部族の名だったが、今は違う。今ではユダ族やベンヤミン族ではない十支族の総称となっているんだ」
「ええ?」
イェースズは思わず身を乗りだした。エルアザルは、目を閉じて暗唱を始めた。預言書である「エゼキエルの書」だった。
「神示はこう降った。『人びとよ。木片の上に“ユダとイスラエル”と書け。さらにもう一つの木片をとって“ヨセフ、エフライムの木およびイスラエルのすべての民”と書け。その二つを、あなたの手の中で十字に組み、両方をひとつの木として合わせよ。すると、神の子らは“これはどういう意味か、説明してくれ”と言うだろう。そのときはこう答えよ。“主は仰せられる。私はエフライムの木とユダの木を、時が来れば十字に組む。その時両者は融合し、一本の木となって新たな文明が始まるのだ』」
暗唱を終え、エルアザルは目を上げた。イェースズは、深く息をついた。
「つまり、行方不明の十支族が、この国でこうしてひっそりと暮らしているのですね」
「ひっそりとではない」
急にエルアザルの口調が激しくなったので、イェースズは思わず身を固くした。
「今のシェンの前の王朝のハンの、さらにその前のジェンという国はイスラエルの民の国だったし、その国の皇帝のジェン・チャーグ・フアンもイスラエルの民だった」
「え? この国が、昔はイスラエルの民の国?」
すぐにはとても信じられる話ではなかった。地理的にも故国とは遠すぎるし、住んでいる人の顔も違うし、文化も違いすぎる。
「今から、二百年以上も前のことだよ」
エレアザルは懐からイェースズの感覚では貴重品に属する紙というものを取り出し。それに惜しげもなくこの国の筆記用具である毛筆で一つの文字を書いてイェースズに見せた。このシムの国の文字のようだ。
「これは、『ジェン』という文字だよ」
イェースズはしげしげと、その複雑怪奇な象形文字を見つめた。
「この国の名は、今でもこの国で使われている」
「え? どういうことですか? 二百年以上も前の国の名前ではないのですか?」
「確かにそうだが、今ではこの文字はこの国の人がローマを呼ぶ時に使われている。この国の人々は、ローマ帝国のことをこの字を用いて『ダドゥ・ジェン・クク』と呼んでいる。『ダドゥ』は『大きい』、『クク』は『国』という意味だ」
「ローマのことを、二百年前のこの国と同じ名前で呼んでいるんですね」
「ところが、実はそれはローマではないんだ。我われはイスラエルの民でありながらこの国でローマの隊商と位置づけられているように、ダドゥ・ジェン・ククはローマ帝国のことだとされているが、本当はジェンの皇帝ジェン・チャーグ・フアンの故地ということで、実は我われのイスラエルの土地のことなんだ。『チャーグ』というのは『始め』、『フアン』は『皇帝』という意味だ」
イェースズの呆気にとられている表情を見て、エレアザルは大声で笑った。
「明日、ジェン・チャーグ・フアンの墓へ行こう。そこには墓守がいる。その墓守なら、君が行きたがっている東の、太陽の国のことももっと詳しく知っているかもしれん」
「え? 本当ですか?」
うれしさを隠し切れぬように、イェースズの顔が輝いた。それを見て満足そうに、エレアザルは微笑んで何度もうなずいていた。
翌日、空は晴れていた。
透き通るような青い空は、どこまでも高かった。空気は乾き、朝はかなり冷えこんでいた。季節は間もなく冬を迎えようとしている。
「ジェン・チャーグ・フアンの墓は、遠いのですか?」
ユダヤ人の村の門を出た所で、ラクダの上からイェースズはエレアザルに訪ねてみた。この日は、イェースズとエレアザルの二頭のラクダだけでの外出だ。
「そうだな、半日ぐらいで着くだろう。いや、急げば昼前には着くかもしれない」
そう言って、エレアザルはにっこり笑った。
ユダや人の村では郷愁にひたりきった生活ができるが、村の外に一歩出ると紛れもなくそこは異国であった。そんな異国の木々の間の小道を大きな川のほとりまで出ると、すぐに長い木の橋が見えた。前にこの橋を渡った時はすでに暗くなってからだったのでよく分からなかったが、今こうして明るい時に見てみるとかなりの長い橋だった。道の広さもかなりある。橋の向こうにはそんな広い道をも埋め尽くしてしまうほどの人の群れが見え、その人ごみの背後にはティァンアンの都の大城壁と巨大な楼門がそびえている。
橋の上から右の方の川の上流を眺めると、青い丘陵がほど近い所に横たわっているのが見える。反対側は、空まで視界を遮る山はない。
まだ早朝だというのに北門外の市の雑踏はすさまじく、あちこち売り手と買い手の声が響く。そんな人ごみを、二人を乗せたラクダは五階建ての楼閣に見下ろされながらかき分けて進み、やがて都の城門にたどり着いた。ここから中は幾分静けさはあるが、静まり返っているという訳ではない。
二人は都の中央の大路を南下し、ある個所で左に折れた。やはり、かなりの幅がある大路だった。行く手はまだ遠く、正面の楼門は遥か彼方に見える。それでも時間をかけて、二人はその楼門にたどり着いた。すべてが青一色に塗られた門で、これもまたいい趣味とは思えなかった。
その門から再び都の外へ出ると、そこには市の雑踏などなく、一面に畑が広がる農村の風景がそこにはあった。時折乾いた風が沙ほこりを舞い上がらせ、その中を太い街道は東へと続いていた。
視界に写る範囲すべてが畑で、瓜畑のようだった。そんな瓜畑の中を二人のラクダは進み、確かに日が中天にさしかかった頃に、
「さあ、もうすぐだ。もう見えてきた」
と、エレアザルは言った。彼が指さしているのは、前方の平地の中にぽつんと盛り上がった丘だった。小山ほどもある丘で、ちょうど丸い盆を伏せたようだ。
「あの丘の上にあるんですか?」
「いや、あの丘全体がジェン・チャーグ・フアンの墓だよ」
「え?」
イェースズは、すぐには状況がのみ込めずにいた。
「あの丘全体が墓……って?」
「あの丘はジェン・チャーグ・フアンの墓碑として、土を盛られて造られたのだよ」
「では、人造の丘なんですか?」
こんな巨大な墓を、イェースズは今までに見たことがなかった。自然の丘だとしてもかなり大きな山が人工の山で、しかもそれが墓の墓碑だという。イェースズが思い描いていたジェン・チャーグ・フアンの墓のイメージは、はかなくも消え去った。
街道を外れて丘へと続く細い道の左右は畑だが、今は何も作物が作られていないようだった。やがて丘のふもとにたどり着くと、そこには石造りで瓦屋根が乗った小屋があった。
「シャローム」
小屋をのぞきながら、エレアザルが声をかけた。すぐに中からも、
「シャローム」
と、返事が帰ってきた。そしてエレアザルが促すので、イェースズもエレアザルとともに中に入った。人が五人も入ればいっぱいになるような小屋には、頭が禿げて白いひげを生やした老人が一人いた。イェースズと目が合うと、老人はにっこりと笑った。慌ててイェースズも笑みを作った。老人は服こそこの国の服を着ているが、顔は明らかにユダヤ人の顔だった。ベッドのような物の上に横たわり、上体だけ起こして布団をかぶっていた。
「よう来たのう」
老人は、やはりヘブライ語でエレアザルに声をかけた。
「いつ戻ってきたんだ?」
「もう、五日ほど前ですかね。今日は珍しい人をつれてきましたよ」
「その若い方かね」
老人はイェースズをみた。イェースズも照れ笑いをしながら少し会釈をした。
「何でも、ここよりもずっと東の国に行きたいと言っている。ダドゥ・ジェン・ククのガリラヤの、大工の息子だそうだ」
「ガリラヤとはカナンにあるのかね?」
確かにイェースズの故国のある土地は、大昔にはそう呼ばれていた。
「はい」
「そうかい。それで東の国ねえ」
老人には、何かひらめくものがあったようだ。
「まあ、そこにお座りなさい」
老人はイェースズたちに、室内にあった腰掛け石を示した。イェースズのそばに座ったエレアザルは、イェースズを見ながら手で老人を示した。
「この方はな、ジェン・チャーグ・フアンのことなら、生き字引だ」
エレアザルのギリシャ語での説明にかぶせるように、老人はヘブライ語で、
「お若いの」
と、イェースズに話しかけてきた。
「は、はい」
イェースズも、久しぶりに使うヘブライ語で答えた。故国ではこのようにヘブライ語を日常会話に使うことはないので、いささかぎこちない返事だった。
「あなたは東の国へ、何をしに行かれるのかな?」
「はい、あの」
すべてを一気に説明するには、初対面の人にはためらいがあった。そこでしばらく躊躇した後、イェースズは目を上げた。
「この国の東の海を渡れば素晴らしい国があると聞きましたので、そこで真理の勉強をしたいと思ったのです」
「真理の勉強? 何のために?」
「人々を救うためです」
老人は鋭い眼光をイェースズに向けたあと、何かを考えるごとくうつむいた。しばらくの間、時間がゆっくりと流れた。
「あの」
そんな空気にたまりかねて、イェースズの方から口を開いた。
「私は聞きました。東の海の向こうにムーという国があって、そこは太陽の直系国で、そこへ行けば真理が学べると」
「どこで、そんなことを?」
「キシュ・オタンという町でです。そこで聞きました」
老人はイェースズから視線をそらして、吐き捨てるように言った。
「この国の東の海の向こうに、国などはない」
イェースズは全身が硬直した。それは恐れていたひと言でもあった。ムーの大陸は一万二千年も前に大洋に沈んだというからないのは当たり前だが、それでも少しは沈み残りがあるのではないかという期待とともにイェースズはここまで来たのだ。
「では、この国の東には、海しかないのですね。そこでもう、世界は終わりなのですね」
あまりにもイェースズが興奮しはじめたので、エレアザルの方が慌ててイェースズの肩に手を置いて落ち着かせようとした。老人の方は落ち着いていたが、それでも何かをためらっているようにも見えた。やがて老人は、イェースズを見た。
「東の海の向こうには、国があるほどの大きな大陸はない。国はないが、しかし」
「え? しかし?」
「国はないが島ならある」
「え?」
暗くなっていたイェースズの顔が、パッと輝いた。
「どんな島ですか?」
「ブンラグという山がある島で、そこには不老不死の仙薬があるという伝説じゃ」
「ブンラグ……ですか。そこへ行った人は、いるんですか?」
「昔はいた。ジェン・チャーグ・フアンはその不老不死の薬を手に入れるため、ギァグ・ビュアクという家来をそこへ派遣した」
「で、その人は、不老不死のクスリを持ち帰ったんですか?」
「いや」
老人は、静に首を横に振った。
「ギァグ・ピウアクは大船団で東へ向かって船出したきり、二度とは帰ってこなかったそうだ」
「そのブンムラグについての記録は、この国には残っていないのですか?」
「残ってはいない。ジェン・チャーグ・フアンは、この国の古い文献のありったけをすべて焼いてしまったのだから」
イェースズはただ、呆然としていた。
ティァンアンへの帰り道、寒風吹きすさぶ瓜畑の中を歩きながらも、イェースズは興奮に口もきけずにいた。時おりエレアザルがラクダの上から話しかけてくるが、イェースズはいつも気のない返事をするだけだった。そのうち柳並木の道を歩きながら、イェースズは思い切って尋ねた。
「ジェン・チャーグ・フアンはなぜ、この国の古い文献を焼いてしまったのですか?」
「さあ、ねえ」
エレアザルは、前方を見ていた。
「実は文献を焼いただけ出なくて、ジェン・チャーグ・フアンは学者をもずいぶん穴埋めにして殺したそうだ」
「学者を穴埋めに?」
「この国の学者で、この国の歴史だけでなくすべての国々の歴史に詳しい人々は、ほとんどジェン・チャーグ・フアンによって殺されたということだ」
「なぜ、なんですか?」
「そのへんのところは、よく分からない。しかしこの話は、あまり大きな声でしないようにな」
「おかしい、絶対」
イェースズは、叫んだ。
「学者を殺して文献をも焼いたような人が、自分自身の不老不死を求めて家来を東の海に遣わすなんて」
「自分の意見と違う文献や学者は、都合が悪かったのではないか、ジェン・チャーグ・フアンにとっては」
「いや、違う」
イェースズはラクダの上から、進むべき道の方を見て言った。
「もっとほかに、何かあるような気がするのです。殺された人々は、真実を知りすぎてしまったとか」
「さあねえ。何しろもう、二百年も前のことだからな」
やがてティァンアンの東の城壁と、その中央の青い門が道の向こうに見えてきた。
さっそく次の日、イェースズはユダヤ人の村の会堂の教師に尋ねてみた。会堂の入り口でいきなりブンラグやギァグ・ピュアクのことを切り出したイェースズを教師はじろりと見下し、
「そんなことを知って、いったいどうする」
と、言っただけで中へ入ってしまった。
そこで村のユダヤ人の何人かに尋ねてみたが、誰もが口を閉ざすばかりだった。中には大げさなジェスチャーとともに、知らないと言って通り過ぎていくものもいた。明らかに、何かを隠しているようだった。
イェースズが同じユダヤ人でもこの村のものではなく、遠い西の、彼らのいう「カナンの地」から来たということは誰もが知っている。だから、何か知られたらまずいことでもあるのだろうかと、イェースズはいぶかった。そうなると、彼の心の中ではブンムラグやギアグ・ピュアク、ジェン・チャーグ・フアンなどについての疑惑がますます広がっていく。
さらに次の日からイェースズは毎日市に出てはユダヤ人の商人をつかまえ、ブンムラグやギァグ・ピュアクのことを聞いてみた。しかし、なかなか知っている人は見つからない。はじめ、ギァグ・ピウアクという名を出し、東の方へ船出したという人のことを述べただけの時は何とか心当たりを思い出そうとしてくれる人もいたが、二百年以上も前のことだと告げた途端にたいていの人は笑いながらきびすを返した。それでも市でユダヤ商人を捕まえるのが彼の日課となったし、時には何か分かるかもしれないと都城の城中にまで出かけたが徒労に終わった。
日増しに寒さは増してくる。もはや外套がなくては歩けないほどになり、朝晩の冷え込みも耐えられないほどになってきた。そんな頃になってやっと、イェースズはわずかながらに情報を持っているものと出会った。三十代くらいの金髪の男が、同じ市で店を広げているシム人の老人を紹介してくれたのだ。ラバンというその金髪のユダヤ人を通訳にして老人からイェースズが聞きだしたところによると、ギァグ・ピウアクは東海海中にブンムラグ山という黄金や宝で埋まった島があり、そこへ行くと不老不死の薬が手に入るということを自らジェン・チャーグ・フアンに奏上し、そこへ行くことを許可されたのだという。つまり、不老不死の薬を持ち帰ることを委託された訳だ。そうなるとジェン・チャーグ・フアンの命令によってギァグ・ピュアクが派遣されたのだという墓守の言葉は、大筋はその通りだとしても細部に微妙な違いがあったことになる。ギァグ・ピュアクはかつてイェースズがいたアンドラ国にて学んだこともあるという人で、そのギァグ・ピュアクがジェン・チャーグ・フアンに建白した内容は、「東海海中にブンラグ・ピャンディアン・ギェンティオンという三つの島があり、ここが世界の大元の国で、世界の人類も文明もすべてここで発祥した。今でもそこには世界の帝王だった家の子孫がおり、不老不死の仙薬を持っている」と、いうものであった。
この話を聞いて、イェースズの中には弾けるものがあった。それならあの、キシュ・オタンで見た粘土板にあったムー大陸以外の何ものでもない。粘土板にも、ムーの国は全世界の人類発祥国だと書かれていた。
イェースズがうれしくなってさらに聞きだすと、ギァグ・ピュアクは八十三隻の大船団で、巨額の財宝やさまざまな技術者、多くの子供までをも乗せて船出したのだという。いったいこの大げさな出発は何を意味するのだろうかとイェースズが考えているうちに、老人の話は終わったようだった。イェースズは何度も礼を言い、その場をあとにした。
一時的には喜んだイェースズだったが、ギァグ・ピュアクはジェン・チャーグ・フアンの命で派遣されたのか、自分の意志での船出を願い出て許可された形だったのか……そして大げさな大船団での船出は何を意味するのか……イェースズの疑問は誰に問うこともできず、ただ悶々として日々を送っていた。
ブンラグという島が本当に実在するのかどうか、たとえギャク・ピュアクの時代にはその島は実在したとしても今もあるのか、いずれも確証はない。だが、人類発祥の国ということは、キシュ・オタンの粘土板の記載にあったムーの国とも一致する。ムーは巨大な大陸ですでに大洋に沈んだというが、ブンラグはピャンディアン、ギェンティオンとともに三つの島だというのならそのムーの沈み残りだということは十分に考えられる。そしてそこには、かつて世界帝王だった家の子孫がいるとまでいう。もっともそれらは、すべて二百年前の話だ。
とにかく、自分も東の海に船出してみるしかないのではないかとイェースズは思い始めた。確かにここは故郷のようで、居心地もいい。しかしここでいつまで暮らしていても、イェースズの目的は達せられない。なにしろギャク・ピュアク以外にその土地に行ったことのあるものは後にも先にもいないようだし、ギャク・ピュアクとその大船団は出航したきり消えてしまい、戻ってはいないというのだ。とにかく、自分の目で確かめるしかない。
だが、イェースズはなかなかそのことをエレアザルに告げることができず、いたずらに日々は過ぎていった。
そしてある日、やたら外が騒がしい日があった。どうも祭か何かしているらしい。しかも、村の周りだけでなく、遠く都城の方からも楽器の音やら喧騒が聞こえる。
「いったい何があったのですか?」
イェースズがエレアザルに尋ねると、エレアザルは笑っていた。
「この国の正月だよ。この国では、こんな真冬が正月なんだ。でもね、この正月を境にだんだんと春になっていく。だから正月とは、春の祭なんだ」
「そうですか」
「もう、正月か」
エレアザルは、つぶやくように言った。ユダヤ暦での正月はまだまだ先だし、ローマ暦ではすでに正月から一カ月以上たっている。イェースズはもう十八歳で、もはや少年ではなく一端の若者だ。
イェースズは隊商のメンバー数人と、正月の風景を見に都城の方へ行ってみた。そしてイェースズの故国でもこれまで行ってきた国でも正月は暦上の単なる区切りでしかなかったのに対し、この国では何よりも盛大に正月を祝うのだということを知った。
その夜、いつまでも収まらない戸外の喧騒をよそに、エレアザルはイェースズに、
「ところで君は、今後どうするんだ」
と、言った。唐突な問いにイェースズは途惑っていたが、エレアザルも神妙な顔つきだった。
「実はこの国での正月が過ぎれば、我われは絹を積んで再びローマに向かって旅立つのだよ」
「え、帰るんですか?」
「ああ」
イェースズは視線を落とし、しばらく考えたあと思い切って顔をあげた。
「私は東へ行きます」
「やっぱり、そうするんじゃないかと思っていたよ」
「ええ。ここでこうしていても仕方ないですから」
「では、ここでお別れだな。我われは四日後に出発する」
ちょうどイェースズは東の海に向かって船出をしてみるべきだと考えていた矢先だったので、これでイェースズの方が先に旅立つことになった。しかもその考えに目鼻がついたのは、かつて市で老人からギャク・ピュアクの話を聞いたとき、通訳してくれたユダヤ商人ラバンがちょうど東に向かって行く用事があると二日ほど前に聞いていたことだった。そこでイェースズは、とりあえずはラバンに同行して東に行くことにした。ラバンは自分の隊商からは離れて、単身東に絹の買い付けに行くのだという。エレアザルの計らいで、イェースズがここまで乗ってきたラクダはそのまま乗って行ってもいいということになった。
出発の朝、隊商のメンバー全員およびラバンの隊商仲間も、イェースズとラバンを見送ってくれた。見送りは都城を抜けて、都城の東側の青い門から城外へ出てしばらく行った所にある大きな橋のたもとまでだった。
「東へ行く旅人を見送るのかはここまでというのが、この国の風習なのだよ」
柳並木が橋の手前に並んでいる路上で、エレアザルは言った。そこでイェースズ以外は全員ラクダから降り、エレアザルは近くの柳の木の風に揺らぐ枝を何本か折ってそれを組み合わせ、小さな輪を作ってイェースズに手渡した。
「これもこの国の風習だ。主の平安があなたとともにあるように」
「また、皆さんとともに」
イェースズはそう答えてから、しばらくの沈黙のあとで、
「さようなら」
と、言った。
「さらば」
と、メンバーも口々に答えると、イェースズの乗るラクダの鼻を橋に続く道の方へ向けた。イェースズのラクダは東に向かって、橋を渡りはじめた。