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ガンダーラに向かうイェースズは、この大洪水の前にあってはさすがに足止めをくらい、岩山の洞窟に何日か逗留して水が引くのを待つしかなかった。焦ったからとてどうにもなることでもなく、むしろ心を落ち着かせて調和させていた方が得だと感じたからである。焦りはとどのつまり執着であり、一切の執着を絶った心にこそ調和は訪れるということを、イェースズは思い出したからでもある。
数日たつうちに、雨も小降りになってきた。雲に覆われた空にも、幾分赤みが差しはめている。激しかった雨季も終わりに近づいたらしい。
やがて雨も降らなくなり、水が引きはじめると、岩山の下の遥か彼方の地平線まで広がっていた泥の海も、予想以上に急速に旧態に復しはじめた。そこは雨水が平原にたまっていたのではなく、大河の氾濫によって泥の海と化していたのだということを、イェースズは引きはじめた水を見てはじめて知った。確かに平原には巨大な大河が数本、地平線の向こうから蛇行してくる。これほどの大河ならちょっとした雨ですぐにあふれ出し、平原はほとんどが水浸しになるはずだ。大河のうちの一本は、もしかしたらカーシーまで続いてあのガンガーになるのかもしれなかった。
その頃、イェースズが精舎から持ってきた食糧も尽きようとしていた。食糧がなくなると同時に雨季が終わるということに神の実在が感じられ、その恵みにイェースズは深甚なる感謝を捧げずにはいられなかった。そして神だけではなく、あの夜の出来事以来、自分は一人でいても実は一人ではなのだという実感が彼の中にひしひしとあった。しかしそのことは、自分が人知れず心の中で思ったことや想念状態が常に見られているという恐ろしさと表裏一体であった。目に見えない世界では、すべてが想念で通じてしまう。だから、自分独りしかいないときの想念状態がいちばん大事なのだということは、今のイェースズには痛いほど分かっていた。そのことは今までも知識としては知っていたことだが、体験によって揺るがぬ真実として認識できるようになったのである。
「天上天下唯我独尊」
と、イェースズはつぶやいてみた。それは、ゴータマ・ブッダが生まれた直後に言った言葉だと伝えられている。精舎の僧たちはそれを「私はこの世において最も勝利者である」という意味だと解釈していたが、今はこの言葉はそういう意味ではなく「人は独りきりでいるときの想念が最も尊く、最も重要なのだよ」というブッダの生の声が、イェースズの心に直接響いてくるような気がしていた。
そう思うとイェースズは急にうれしくなって、軽く飛び跳ねながら一目散に山を降りていった。
ちょうど、山の中腹に村があった。
イェースズはそこで、托鉢をすることにした。こんな時期にいきなり托鉢僧が現れたものだから村人たちは驚いていたが、それでも快く布施をくれた。そしてイェースズは、ガンダーラという地名を、村人たちに尋ねて見た。しかし、誰もが知らないと言った。ただ、この山の下のそれまで泥の海だった大平原を北西の方に向かって何日かかけて横断すれば、山の麓に大きな町があるので、そこで聞けば分かるかも知れないという情報だけは村人から得ることができた。
雨季が終わって間もない土地だけに、水は引いたとはいってもあちこちにぬかるみがあった。やがてはこの平原も緑豊かな草原になるのかもしれないが、今の状態ではそれを想像するのは困難だった。
そんなぬかるみの平原を歩きながら日数がたつにつれ、イェースズの心の中に少しだけ不安がよぎった。ガンダーラなどという土地は果たして実在するのか……もしかしたら、あの夜の出来事はすべて夢だったのではないか……もしそうだとしたら、とんだ時間の浪費をしていることになる。まだどんよりと曇っている空が彼をどうしてもそんなくらい想念にいざなってしまうのだったが、すぐにイェースズはそれではいけないと首を振った。この想念は神からも、そして共におられるブッダからも見られているのだ。だから明るい希望と信念で前進しようと、イェースズは思い直してさらに進んだ。
そして六日後の昼前、空の一角が途切れて久しぶりに陽光がさした。あたりは光に満ち、死んでいた大地が急に蘇ったようだった。イェースズにとって、これほどまでに太陽の光がありがたいと感じたことはなかった。
そして九日目には、前方に横たわる白銀の山脈が現れた。イェースズがそのふもとにたどり着いたのは、十一日目の夕方だった。
イェースズがたどり着いた山脈のふもとの町は、カーシーほどではないが大きな町だった。しかし、風俗は全くといっていい程、カーシーなどとは異なっていた。建物の様子、人々の服装などもぜんぜん違い、明らかに異質の文化圏にやって来たという感じだった。すでにここはアンドラ王国ではなく、隣国のパンジャブ国の領土なのだ。しかしイェースズにはそのようなことは知るよしもなく、ただきょろきょろとして町中を歩いていた。町行く人々は誰もがイェースズを奇異に感じることもない様子で、むしろ僧形のイェースズに対して布施を申し出てくる人々すらいた。そうなると、この町にもブッダ・サンガーがあるということになる。果たしてイェースズはすぐに、人ごみの中に自分と同じ黄色い僧衣をまとったサンガーのビクシュを見つけた。イェースズは人ごみをかき分け、そのものに近づいた。若い僧のようだった。
「ブッダ・サンガーの方ですか?」
イェースズが話しかけると、相手の若い僧も驚いたような表情で振り向いたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「そうですが。あなたもでしょう?」
「ええ。ここからずっと東の方の国の精舎から来た者で、旅立ってからもう一ヵ月半になります」
「そうですか。ブッダの教えを胸に、人々を救う旅に出ておられるのですね」
「え?」
イェースズの感触に、若干の違和感があった。イェースズがかつていた精舎では個人の悟りが修行の眼目で、他人を救うということはなかった訳ではないが、あまり重要視されていなかった。そのことをイェースズは疑問に感じていたものだが、今初めて会ったこのサンガーの僧は、いきなり人救いを話題にしてきたのである。
イェースズは戸惑いながらも、なんとか口を開いた。
「ブッダの修行の足跡を追って、ここまで旅してきたんです」
「そうですか」
若いビクシュは、またニコリと笑った。
「それはご苦労様です。今日は、われわれの精舎にお泊まり下さい」
「ありがとうございます」
イェースズにとって願ってもいないことだったので、ありがたく受けることにした。
この町の精舎は、町の中央の小高い丘の上にあった。正門に向かうなだらかな坂道を、イェースズは出会ったばかりの若い僧についてゆっくりと登って行った。高くなるにつれて、町全体がよく見渡せる。町は適当なところで途切れ、その向こうには赤茶けた平原が広がっており、地平線の付近は青く見える。空の大半には青空がのぞいており、雲も白い雲になっている。
やがて坂を登りきったあたりに赤レンガの簡単な精舎の門が遠目に認められ、その脇に一人のビクシュが立っているのも見えた。そのビクシュはイェースズたちの姿を見て、視線をこちらに向けてきた。
「旅のお方です。東の方の精舎から世尊の聖跡を訪ねて来られたそうです」
若い僧が門の脇のビクシュに大声でそう言うと、
「それはそれは、ようこそ」
と、同じような大きな声でビクシュはイェースズに微笑みかけた。まだ門まで距離はあるので、そのビクシュの顔はよく見えない。
「よろしくお願いします」
イェースズも頭を下げて門に近づくと、門の脇のビクシュと目が合った。その瞬間、イェースズは、
「あ!」
と声を上げていた。そしてもう一度そのビクシュの顔を見てから、
「もしかして……」
と、イェースズは下からのぞきこむようにして恐る恐る尋ねた。だが、相手もまた、イェースズの顔を見て大声を上げた。
「あ、あなたは確か……」
「そう。イェースズです。あなたは、アジャイニン!……ですよね」
「そうですとも」
二人は手を取り合い、満面に笑みをたたえて喜び合った。
かつてイェースズがカーシーにいた時、夜の闇にまぎれてしのんできて教えを請うたあのアジャイニンが、今イェースズの目の前にいる。あの時は確か遠い西の国から来たと言っていたアジャイニンだったが、あの頃はバラモンだったはずだ。ところが今や二人ともブッダ・サンガーの黄色い僧衣を来て、見つめ合って立っていた。
「とにかく、中へお入りください」
アジャイニンに促され、ここまで連れてきてくれた若いビクシュとともにイェースズは精舎の門をくぐった。
「ここで再会できるなんて」
アジャイニンは無邪気にニコニコと笑って、イェースズを見ていた。
「ええ。僕もびっくりしました」
「それに、ただの再会じゃなくって、互いにブッダ・サンガーのビクシュになって再会するなんて、思ってもみませんでしたよ」
遠い異国の、しかも広大な国土のこの国で、ひと晩ほんの短い時間だけ会話をかわした人と、何十日も歩かなければならないほど離れた距離の場所で再会するなど、奇跡としかいいようがなかった。そして、二人とも前とは違う境遇にあって、それが同じブッダ・サンガーのメンバーとなっての再会だ。
「ええ。こうなると、神様の絶対的な手による仕組みとしか思えませんね。入門はいつですか?」
「このプシュカラヴァティーに戻ってからすぐですよ」
「え? ではここが、あなたが故郷だと言っていたそのプシュカラヴァティーなのですか?」
「そうですよ。知らずにここまでこられたのですか?」
アジャイニンは、意外そうに首をかしげていた。
「ええ。大平原を横切れば大きな町があると聞いて、それで来たんです。それが、あなたのいる町だったなんて」
「ここからなら、その町がよく見えるでしょう」
町の向こうの平原と反対の一角は山地で、その方角に今や夕陽が真っ赤になって沈もうとしていた。赤い光に横顔を照らされながら、アジャイニンは視線を町の方から隣のイェースズへと戻した。
「実はカーシーであなたの教えを受けてからこのプシュカラヴァティーに戻るまでの間、私はいろいろと考えたんです。そして野宿して迎えたある朝、昇りくる太陽を目の当たりに見ましてね、これだって思ったんですよ」
「朝日を見て?」
「ええ。正直言って以前にあなたの話を聞いた時は、まだよく理解できずにいたんです。でも、その後で朝目が覚めて、目を開けて最初に朝日を見るという体験をした時に、バラモンだのクシャトリヤだのそういったカーストというものがどんなにちっぽけで馬鹿らしいものかって自然に感じたんですよ。太陽は、まさしく正義の太陽でした。しかし、それというのも、その前にあなたが、人は皆等しく神の子であって、お互いが兄弟なんだという考え方の種を私の心の中にまいてくれたからですよ」
「そんな……」
イェースズは照れて笑った。アジャイニンは、さらに言葉を続けた。
「そしてこのプシュカラヴァティーに戻ってから、同じようなことを説いている教団がこの町にもあるということを耳にして、バラモンという身分を捨てて早速入門したって訳なんです。あなたが言ってくれたように、バラモンのきらびやかな僧衣は脱ぎ捨てました」
それから、アジャイニンは大声で笑った。イェースズもいっしょに少し笑うと、アジャイニンはまたイェースズの顔をのぞき込んだ。
「ところで、カーシーではご無事でしたか? かなり危険な状態でしたから、心配していましたけど」
ひと息いれてから、イェースズは語り始めた。
「やはり彼らは、とんでもない方法で僕を殺そうとしましたよ」
イェースズは、カーシーでバラモンの陰謀によって殺されかけたが、なんとか事前に察知して危機をすり抜けたこと、さらに人の勧めでブッダ・サンガーに身を寄せたいきさつなどを手短に話した。
「そうですか。いろいろあったんですね。ともあれ今は、同じブッダの教えを胸に進む同志ですね」
満面に笑みをたたえ、アジャイニンは何度もうなずいていた。
「ところで、どちらの精舎におられるのですか?」
「ここからずっと東です。カーシーからだと北になりますが、白い山脈のふもとです」
「それでは、ヒーナ・ヤーナですね」
「え?」
イェースズにとって聞き慣れない言葉だったので聞き返したが、
「とにかく今日は、ゆっくりとお休み下さい」
と、アジャイニンは言って、イェースズを精舎の建物の中へといざなった。
それからこの精舎の長老にあいさつした後、イェースズは客室とも思える一室に通された。そこには、驚くべきことに一体の石像があった。像を見るのは、あのヴィシュナヴァートの神像以来だ。だが、神像のような抽象的な像ではなく、ここのはずっと写実的で、しかも引き締まった顔はローマやギリシャ人のような顔つきだった。それともう一つ、この精舎に入ってきてから、イェースズはアジャイニンや長老以外は数人のビクシュの姿しか見ていない。精舎は人影がほとんどなく、がらんとしているのだ。瞑想の禅定を組んでいる人の姿もない。そんな少人数のビクシュしかいない精舎にしては、建物は大きすぎる。
そんなことを考えているうちにすぐに外は暗くなり、それから急に精舎の中に人があふれはじめた。外からビクシュたちがぞろぞろと戻ってきてるといった様子だ。そこへアジャイニンが顔を出し、長老の話があるから講堂へ行こうと誘われた。行ってみると、講堂を埋め尽くしていたのはビクシュだけでなく、ぞろぞろと戻ってきたビクシュたちと同じくらいの数の一般の大衆が講堂にひしめきあっていたのでイェースズは驚いた。老いも若きも、そして男ばかりでなく何と女までもいる。イェースズがいた東の精舎では、考えられないことだった。
そこで、長老の話が始まった。話は「サッダルマー・プンダリカ・スートラ」の中の例え話等をふんだんに引用した、実に分かりやすい話だった。
それが終わってからイェースズは与えられた部屋に戻ると、追いかけるようにしてアジャイニンが顔をだした。そこでイェースズは、早速ここへ来てからの疑問をぶつけた。まずは、石像のことである。
「あれは、世尊ですよ。あなたの精舎には、まだなかったでしょう。西の方の国の影響で、ここではあれを造るようになったんです。一種の方便として、石像を通して自分に内在するブッダの叡智と波調を合わせるのです。心配しているような、偶像崇拝ではありませんから」
それについてはその答えで一応いいにしたが、ほかにも自分がいた精舎といろいろ違う点についてアジャイニンにイェースズは聞いてみた。
「驚くのも、無理はないでしょうね」
と、アジャイニンは穏やかに言った。
「ここは、ブッダの教えの中でも、新しい部類に属する集団です。我われのサンガーはマハー・ヤーナと称して、あなたがいたような従来のサンガーのヒーナ・ヤーナと区別して考えています」
「何でしょう? そのマハー・ヤーナとかヒーナ・ヤーナとかいうのは」
単純な単語の意味なら、イェースズにも分かる。ヤーナは「乗り物」で、ヒーナは「粗末な」、マハーは「立派な」ということである。だが、その言葉がどうしてもサンガーの名称には結びつかない。だから、
「それは、どういうことなのですか?」
と、もう一度イェースズは尋ねてみた。
「乗り物とは、すなわちブッダの法ですよ。ブッダに到達する乗り物が、牛の車か鹿の車かということでしょうね」
つまりはこのサンガーは、ブッダ・サンガーの中でも新興集団であるようだ。ブッダ入滅後五百年もたてば、いろいろと分派して宗門宗派も生じよう。
「ヒーナ・ヤーナは己の自覚、己の悟りを主体にしているでしょう? つまり、字理的なんですね。自らの個人的な修行や戒律、形式を尊びます、ブッダの教えの一語一句を絶対的なものとしているのではありませんか?」
確かに、その通りであった。イェースズはその点が納得いかず、かつていた精舎を飛び出してきたのだ。
「でも、ここ、マハー・ヤーナは、大衆の救済を第一に考えています。つまり、利他的なんですね。ですから、昼間は人救いのためにビクシュたちは出払っています。そこで初めてここへ来られて、あまりにも人がいないことを奇異に感じられたのでしょう。そして夜は、多くのウパシカ・ウパサカのために、精舎は開放されます」
イェースズのいた精舎でも男性在家信者や女性在家信者、そして一般大衆にも説法はしていたが、確かにそのことに主眼は置いていなかった。あくまで自己を完成して、アラハンの境地を経てシュバラーの境地に達するというのが修行の究極的目的であった。
そのことをイェースズがアジャイニンに告げると、アジャイニンは笑った。
「スートラにも、書いてあるじゃないですか。人は誰でも精進次第で、ブッダになれます。どんな人も神の子ですから、精進すれば昇華して神性化できるはずです。そのためにはブッダと心を一つにすることが大切で、そのブッダの心とは人を救うことではないですか。人を救うための、己の精進も必要ですけどね」
「その通りだと、僕も思います」
「それにここは、世尊とも因縁の深いダンダカ山にも近いですから」
「え?」
イェースズは思わず、目を見開いた。
「今、ダンダカ山って言われましたよねえ」
その時、消灯の時間を告げる梵鐘が鳴った。時間に厳しいことは、ここでも同じらしい。
「では、また明日。あしたはこのプシュカラヴァティーの町を案内しますよ」
それだけ行って、アジャイニンは慌ただしく出ていった。
翌日は約束通り、アジャイニンがイェースズを案内して町を見物させてくれた。イェースズが暮らしていたアンドラ王国もイェースズの故国から見れば全くの異郷だし、何から何まで驚くようなことばかりだった。しかしこの町全体がかもし出す雰囲気はカーシーなどと違って落ち着いた雰囲気があり、同じ文化圏の延長ではあろうがどこか違った印象を受けた。
二人は、朝の市場へとやってきた。ここでも、喧騒というものはあまり感じられない。女性の服装の柄も、カーシーなどのようにただ派手というようなものではなく、どこか洗練されている。
イェースズはアジャイニンと共に、市場の商品の一つ一つを眺めて歩いた。その間も、アジャイニンは多くの道行く人々から、笑顔での朝のあいさつを受けていた。イェースズは並べられた商品の中に、ずっと昔に見慣れていた故郷の国の品々も混ざっているのに驚いた。
「あ、あれは、種なしパンではないですか」
イェースズが指差した方を、アジャイニンも見た。
「あれは、ナンといいます。カーシーにはないものですから、珍しいでしょう。よくご存じでしたね」
「いえいえ、私の生まれた国には、たくさんありますよ。お祭りの日に、家族でこれを食べるんです」
少し感慨深げにイェースズが言ってから、二人はまた歩きだした。行き交う人々の中には、イェースズの故国では「東の商人」と呼ばれていた人たちと同じような服装の人が時折見かけられた。
「あれは、この国の西隣の、パルチア王国の人々ですよ」
イェースズがあまりにもそのような人ばかりに目をとめるので、アジャイニンが説明してくれた。それを聞いて、イェースズは奇妙な気持ちになった。パルチア王国の商人といえば、エルサレムではよく見かけたものである。遠い東の国から来た人々だと、幼いイェースズは両親から教えられていた。その「遠い東の国」が、今や「西隣」となっている。つまり、東の国のそのまた東の国に、今の彼はいるのだ。もう少し西へ行けば、「故郷の東の国」へ行けることになる。それだけ、故郷に近づくのだ。
そう気がついてからさらに道行く人びとをよく見ると、ギリシャ人やローマ人と思われる人もかなりいて、その数はカーシーで見かけたのよりも遥かに多い。町全体に故郷の風が吹いているようにすら、イェースズに感じられた。そして、長い間思い出すことのなかった故郷のこと、父亡き後今も自分の帰りを待っている母のことなどをふと思いだした。そして、ここからならこのまま西へ進路をとれば、故郷に帰ることもできるとイェースズは思った。西隣のパルチア国は、ゼンダ・アベスタのゾロアスターの国でもある。そこへ行ってゼンダ・アベスタのことを本格的に学び直すのもいいのではないかという考えが、イェースズの頭を微かによぎった。しかし、そのような考えはすぐに打ち消してしまう心の叫びが、彼の中にあった。彼にはダンダカ山へ行けという、ブッダの直接の言葉があるのだ。
そこでイェースズは、昨夜のアジャイニンの言葉を思いだした。アジャイニンの口からはっきりとダンダカ山と言う言葉が出たということは、そのような名の山が実在すると言うことだ。しかもそれが近いと、アジャイニンは言っていた。イェースズは早速にもそのことをアジャイニンに聞こうと思ったが、それより早くアジャイニンは前方に居丈高とそびえて見えてきた巨大な寺院を指差した。
「あれが、この町のバラモンの寺院です」
ここでも町の中央に寺院はドンと腰を据え、あぐらをかいている。ブッダ・サンガーの精舎が慎ましやかに建っているのとは対照的だ。これ見よがしに自分の権威を世界に誇示するかのように、寺院は絢爛豪華に居座っている。
その門前まで、二人は来た。その門前の広場に、大きな人垣が円くできていた。その中からは、絶え間ないメロディーが聞こえてくる。
二人は、人垣の中をのぞいてみた。
楽器は笛と太鼓だけであったが、その奏でる音色は魂が吸い込まれそうな不思議な旋律であった。そして、その音色に合わせて踊るまだ十にも満たないであろう少女の体の動きに人々は魅せられているようで、誰もが物音ひとつたてずに息を凝らして見ている。赤いズボンに黄色いほろのようなものをまとった髪の長い少女は、右足を高く跳ね上げたかと思うと、次の瞬間には上半身を反らせ、すぐに体をひねり、楽の音とともにありったけの体を表現していた。よくもまあこんなにも体が動くものだと感心もするが、それ以上に動きが見ていて飽きない。楽の不思議なメロディーと少女の動きが、まさしく一体化しているのである。
面白いという言葉は、こういうものを表現するためにあるのかもしれない。もちろん、滑稽などという意味の面白さではなく、興味をひきつけて放さないという面白さだ。イェースズはそれを見て、ため息をひとつついた。
「どんなに身分が高い人たちの間ででも、このような素晴らしい音楽は聞かれないでしょうね」
「ええ。心に響いてくるようですな」
「これこそが、芸術というものでしょう。人間の芸術は、神様の芸術を移したものですからねえ」
人垣の隣にいた人が、顔を曇らせてイェースズたちをシーッとたしなめた。イェースズはもっと見ていたかったが、その場を離れることにした。
「あんな小さな女の子に、どうしてあんな才能があるんだろう」
歩きながら、アジャイニンが話題がてらにそのようなことをイェースズに話しかけてきた。イェースズも穏やかに微笑んで、歩きながらアジャイニンを見た。
「あの年齢では、とてもあんな巧妙な踊りを習得できないでしょうね」
「え? どういうことですか?」
「人は天才などといいますけど、本当はすべて神様の法則の所産なんですよ」
「つまり、輪廻転生ってことですな」
アジャイニンはサンガーで修行しているだけあって、初対面の時よりかは遥かに悟りがいい。
「そうです。今生での肉体年齢は十歳にも満たない子供かもしれませんけど、魂は何千年と転生を繰り返してきたはずです。前世でもああやって踊っていたでしょうし、前々世でも踊りの修行をしていたことでしょうね。生き換わり死に換わりして、現界に降りてくるたびに一つのことに精進したら、七度目くらいの転生で人から天才って呼ばれるようになりますよ。神様は人それぞれ、その人に合った方法でお使い下さるんですね。神様の芸術を地上に顕現するのは、ほかの動物ではできないことですから」
それからイェースズは朝からずっと気になっていたことを、思い切って切り出してみた。
「ところで、昨日ダンダカ山のことを言われてましたよねえ」
「ええ。この近くですよ」
「教えて下さい。どうやって行ったらいいんですか?」
「どうやってって、行かれるのですか? ダンダカ山へ」
「ええ。それが今回の旅の目的なのです」
アジャイニンは不思議そうな顔つきで、首をかしげた。しかし、イェースズの目はひたすら爛々と輝いていた。
「どうなんです? ここから近いのでしょう?」
「あ、はい。ええ。ダンダカ山は山伝いにここからずっと北に行った所ですよ。でもなぜ?」
「ええ。ちょっと」
それ以上は、イェースズは口ごもってしまった。
「そんなところ、行く人はあまりいませんよ。確かにブッダの聖跡ではありますけど、何しろものすごく険しい岩山ですし、だいいち登ったところで何もありませんからねえ」
「でも、行ってみたいんです。ありがとうございます。明日、早速出発します」
「明日? もう少しゆっくりしていったらいいのに」
「でも、今すぐにでも飛んでいきたいくらいなのです」
そう言いながらも、イェースズの胸の中にはわくわくと期待が湧きあがってきていた。
翌朝早くイェースズは、精舎の長老やアジャイニンに別れを告げた。その別れ際に、イェースズはひと言だけアジャイニンに告げた。
「僕は、あなたがたマハー・ヤーナの方が、よりブッダの教えに近いような気がします」
「え?」
アジャイニンは、意外な顔をした。実はイェースズがヒーナ・ヤーナの精舎の一員であることを意識して、アジャイニンは努めてこの話題を避けてきた様子だったからだ。
「やはりあの世まで持っていける本当の宝は、人を救ったという功績ではないでしょうか」
それだけ言って、イェースズは旅だっていった。
それから、イェースズは再び一人旅に戻った。しかし、目的地の見当もほぼついていたので足取りは軽かった。思えば故郷を出てから、総てが旅であった。さまざまな人と出会い、さまざまな人が自分の前を通り過ぎていった。
そして今、彼は一人になった。一人の気楽さ、自由さを満喫しながら、イェースズはひたすら北へと向かった。北へ行けば、探し求めていたダンダカ山にたどり着ける。そのダンダカ山には何もないとアジャイニンは言ったが、なぜかイェースズはダンダカ山で何かが自分を待っているという気がしてならなかった。だから、知らずしらずに歩調も早まっていった。
時に色とりどりの花が咲き乱れ、緑が大地を覆う一年でいちばん美しい季節を迎えていた。年間通してこの状態なら、この国はもう地上の楽園といえる。
プシュカラヴァティーを後にしてから六日目、道は山中に分け入っていった。緑の木々の生い茂る山だった。草の香りと風のざわめきの中、明るい日差しを浴びて歩くと、それだけで心が洗われるような気がする。
そんな時、パーッと目の前の視界が開けた。青々と水をたたえた湖が、峠の下に広がっていたのである。決して広い湖ではなく対岸はすぐそこにあるが、あまりにも青い空を映して穏やかな湖水までもが透き通るように青く見えた。対岸には針葉樹の森が広がり、緑の山がその向こうに横たわっている。
すべてが明るい陽光の中で輝いていた。イェースズは思わず足を止め、目を細めてそんな風景を見た。こんなにも美しい自然は、人間にはまねができない神様の芸術だ。このような土地なら、自分が目指していた場所としてふさわしいだろう……そう思ったイェースズは、軽い足どりで坂道を下っていった。
湖畔に着くと、湖の上にやたら小舟が多いことにイェースズは気がついた。そこで、一艘の小舟の上の人にダンダカ山について尋ねてみると、果たして驚くほど近くにまで来ていることをイェースズは知った。
「ダンダカ山は、あの緑の山の向こうだよ。白い山脈のふもとだがね」
舟の上の若者は、そう教えてくれた。その舟の上にはいっぱいに花が盛られていて、聞くと花売りの舟だということだった。
イェースズはそのまま、その若者としばらく話をした。この地方の舟は、バラモンの寺院の塔と同じ発音のシカラと呼ばれている。両者にどういう相関関係があるのかはイェースズには分からなかったし、舟の若者に聞いても知らないと言われた。そのまま、イェースズはその若者の小舟に泊めてもらうことになった。白木で作られた簡素な、それでいて十分趣のある小舟だ。この地方はどうも、圧倒的に水上生活者が多いらしい。
翌朝イェースズは小舟の上から、岸辺で遊ぶ少女の集団を見た。独特の黄色いスポーティーな衣装に色とりどりのネッカチーフの少女たちは、背後の景色とも相まって天使そのもののように見えた。イェースズが旅支度をし、一宿の礼を述べて上陸しても、少女たちはまだその場にいた。その中の一人に、イェースズは微笑みながら話しかけてみた。
「ダンダカ山って、遠いかい?」
少女ははにかみも見せず無邪気に微笑み、小首をかしげて見せた。
「ダンダカ山?」
引き込まれてしまいそうな愛くるしい瞳と陽光のような笑顔のまま、鳥のような声で少女は答えた。
「も、すぐそこよ。あの緑の山の向こう」
それだけ言うと、もう少女は仲間たちの中で遊んでいた。
ダンダカ山に近づいたというだけでこれほど美しい土地なのだから、ダンダカ山とはどれほどの楽園なのだろうとかと、イェースズの胸は知らずしらずのうちに弾んでいた。そして教えられた通りに緑の山を越えて白い山脈の方へと、イェースズは向った。しかし緑の山を越えると、イェースズの目に飛び込んできた風景は、今までのような緑の楽園ではなかった。