10
あの楽園は、緑の山の手前までだった。今、イェースズの目の前に広がっている世界は、赤っぽい土に覆われた大地に岩山である巨大な山脈が横たわり、威圧感をもって迫ってくるというような風景だった。山は幾重にも重なり、断崖となっている山肌から岩石が所々で顔をのぞかせている。
何もかもがスケールが大きく、山全体からにらみつけられているようでもあった。空気も、いつしか冷んやりとしてきている。イェースズはそんな風景にしばらく呆気にとられていたが、いつまでも峠の上でたたずんでいても仕方ないので、向こう側の山との間の谷間へと下りて行った。
そこは砂漠というような不毛の土地とも違って畑などもあったりするが、とにかく土が赤い。空には巨大な鷲が、三羽も旋回していた。そのうち向こうの方から、スードラらしき男が歩いてきた。天秤棒を肩に担ぎ、両端に下がった籠には石材がたくさん積まれていた。
「あのう、すみません」
イェースズが声をかけても、その男は表情一つ変えずに無言で足を止め、じっとイェースズを見ていた。
「ダンダカ山は、どの山ですか?」
「ダンダカ山かね」
眉間にしわを寄せて、スードラはすぐ目の前の山をあごでしゃくり、イェースズが礼を言う間も与えずそのまま目を落として行ってしまった。示された山は上に雪があるほどの天にそびえる山で、今ふもとを歩いている山の次の山だ。このまま谷間を歩いて行けば、ダンダカ山のふもとに出ることができる。割と広い谷底には小川が一筋流れており、それに沿ってイェースズは歩いた。
果たしてダンダカ山のふもとに着いてみると、山はほとんど垂直の壁と言ってもいいくらいで、その壁がそのまま天まで続いているようだ。上の方はそのまま雲の中に入っているので、よく見えない。
こんな山に登るのかと、イェースズは思わず身震いした。山とはいっても今までは単なる丘陵程度のものを想像していただけに、現実に直面した今の驚きはなお一層だった。緑は全くなく、総てが岩だけの山だ。イェースズはあたりを見回して、ふもとから山の側面を斜めに登る小道を見つけ、そこから登り始めることにした。
なにしろ木も何もないわけだから、登った分だけ高さが分かる。そしてかなりの高さまで登ったように思われたが、上を見ると山はまだ遥かに高く大空にそびえていた。
しばらく行くと、人々の一団に出くわした。皆スードラのようで、この場所が作業場になっており、石材を切り出す仕事に就いているらしい。
イェースズが黙ってその五、六人の人々の間を通り抜けようとすると、そのうちの一人が作業の手を止めてイェースズを見上げた。
「どこへおいでなさる?」
「この山の頂上までですが」
「頂上? 頂上なんかに、何しに行きなさるだ。この先は、もう道なんかねえ」
それはイェースズも重々予想していたことだったが、だからといってここで登るのをやめる訳にはいかない。
「大丈夫です。ありがとう」
まだ何か言おうとしているスードラたちを後に、イェースズはさらに坂道を登った。果たしてそれからすぐの所で道は終わっており、あとはこの壁のような岩山をよじ登らねばならなかった。足場となりそうな適当な岩を見つけ、イェースズは両手両足総動員で岩山を登り始めた。
とにかく登るしかない。もう、何も考えることもなく、彼は岩山を登ることだけに全神経を集中させた。汗がほとばしり、気温はかなり低くなっているから、熱いはずの汗が冷やされて額に当たる。
そうしてまたかなり登ってから、イェースズは下を見てみた。一面の大地が遥か下の方にパノラマとなって展開し、遠くの地平線までもが青く霞んで見えた。その景色をほんの短い時間楽しんだ後、イェースズは再び上に視線を戻してよじ登り始めた。
やがて、少し上の所に、ひと息つけそうな平らなスペースがあるのを彼は見つけた。そう広くはないが、人が一人休むには十分だ。とにかくそこまで上がろうと、イェースズは自分を励ました。後少し、後少しと平らな場所に近づいて行く。そしてその淵にようやく手をかけ、足に力を入れて上半身を平らな場所へとのし上げた。
ところが次の瞬間、イェースズの体は全身が硬直した。息をつく暇もなく、その平らなスペースに爛々と光る目でこちらを見ている巨大な虎が寝そべっているのを、彼は見たのである。
まだ完全に体を上に上げていないイェースズとその虎は、しばらく無言で向かい合う形になった。虎は何を考えているのか、じっとこちらを凝視している。その距離は、ほんの二、三歩くらいしか離れていない。
そのままイェースズは、息をひそめた。虎はこちらを見ているだけで、飛び掛かってきたり動いたりするような気配はなかった。
その時、「心の調和だ」という声が、イェースズの胸の中で響いた。心を調和させ、決してこちらから相手に敵愾心、対立の想念を持たぬこととだと自分に言い聞かせたのである。かつて、ジャガンナスでシャーミーとして修行していた際、野営の時に猛獣から身を守るためにつけた智恵だ。
イェースズは思い切って、虎のいる平坦な場所に登りきった。虎は微かに足を動かしたが、また微動だにしない体勢となった。
イェースズは、にっこりと笑って見せた。
「虎さん。あなたのお山にお邪魔して済みません。どうか通して頂けますか?」
穏やかな口調でイェースズは虎に語りかけ、より一層の笑顔を虎に見せた。あるのは、神への絶対的な信頼のみだった。
すると虎はわずかな時間の後、その場に腹をつけて寝てしまった。イェースズは大きくため息をついた。それでも笑顔のままで、平らなスペースに上がりきると座りこんだ。もはや虎にはイェースズへの関心はないらしく、そっぽを向いている。緊張から解きほぐされたイェースズは、目の下に広がる吸い込まれそうな大パノラマを見ながら体を休めた。しばらくすると虎は四つ足で立ち上がり、一目散に駆けて行った。
その時、イェースズの頭の中であることがひらめいた。虎が走って行ったということは、その後をたどって行けば少なくともどこかへ通ずる道があるはずだ。
そこでイェースズは、虎が走り去ったほうに向かって歩いて言った。その後はもう崖をよじ登る必要もなく、道とはいえないまでも比較的楽な岩の足場伝いに、イェースズは山を登ることができた。
そうしてまたかなりの時間がたったが、まだまだ頂上は遥か上にあった。やがて、霧が濃くなってきた。登れば登るほど霧は濃度を増し、目の前すぐの岩を見ることさえ困難になった。下界も何も見えず、一面が白の世界だった。イェースズは霧の粒を顔に受けながらも、とにかく頂上を目指した。
するとそのうち、目の前の霧の中に動くものの気配を感じたイェースズは、思わず足を止めた。さっきの虎かと思ったが、どうもそうではないらしい。そこで足場を固め、這うようにしてイェースズはその方に近づいてみた。
それは、人だった。しかも、老人だった。老人は岩場に倒れ、息も絶え絶えだ。
「おじいさん!」
イェースズは慌てて、老人を抱き起こした。こんな山奥の、しかも高い所に老人がいて倒れているというのも不思議だったが、イェースズはそれよりも老人の安否の方が気になった。頬はこけて体中は骨と皮だらけであり、無気味なほどの形相だ。イェースズに抱きかかえられた老人は力なく目を開け、うつろにイェースズを見た。
「お若いの。わしにかまって下さるな。わしは恐ろしい流行病で、息子夫婦にこの山に捨てられたのじゃ。わしにかまうと死ぬぞ」
「いいえ。どうしてそんなことができますか」
イェースズは手を差し伸べ、老人の額へと手をあてがおうとした。その瞬間、イェースズの体を霧よりも濃い雲が包み、イェースズはどんどん上へ通し上げられた。そして、あれよあれよという間に、イェースズは頂上に着いていたのである。
頂上はかなりの広さに平らなスペースが広がり、あれほど苦労して登った高い山の上だと思えないほどであった。驚いたことに緑の木々が潤う森があり、しかも畑まである。すでにここは雲の上であり、下界を見ると雲の海が広がっていてるが、空には青空が広がって明るい陽光が降り注いでいる。
畑と森の向こうには、石造りの小ぢんまりとした建物が見えた。畑仕事をしていた若い男が二人いたので、イェースズはその一人に尋ねてみた。
「ここは、どこです?」
「はい。ダンダカ山の上ですよ」
男は、にっこり微笑んで答えてくれた。
「あの建物は?」
「アラマー仙の家です」
イェースズはそれを聞き、先ほどの老人のことが気にはなっていたが、とにかく急いでその建物のそばに歩いていった。入り口は鉄の扉であったが、イェースズがその前に立つと扉は自動的に開かれた。
イェースズが恐る恐る入ってみると、すぐ正面の部屋の中央に壮年の僧が一人、こちらを見て座っていた。イェースズが入るなり、そうはニコリと笑って口を開いた。
「ようこそ、イェースズ」
「え?」
イェースズは、思わず立ちすくんだ。彼にとって初めての場所であるこの山の上で、しかも初対面の人からいきなり自分の名前を呼ばれたのである。
「私がカララー仙の四代目の子孫のアラマー仙だよ」
イェースズはカッと目を見開き、それから満面に笑みをたたえアラマー仙の近くに走り寄った。
「ご苦労だったね」
「え。あ。はい。あ、あの……、あ、いいえ。それよりなぜ、僕の名前や、僕が来ることをご存じだったのですか?」
「シュバラーの力だよ」
観自在力は、それをひとたび得ると何でも分かってしまう。人が考えていること、これから起こることなど、何でも見通せてしまうのだ。
「イェースズ。君が来ることは分かっていた」
それは自愛に満ち、それでいて威厳のある言葉だった。イェースズの目からは、とめどなく涙があふれ出た。
アラマー仙は、ひと声笑った。
「この山を登るのは、大変だったろう」
「はい。でも、ひとたび登ってしまえば、あの苦労が嘘のようです。それに、不思議なこともありました」
イェースズは雲に包まれてここまで持ち上げられたことを語ろうと開いた口で、思わず、
「あっ!」
と、叫んでいた。部屋に大虎がのっそりと入ってきて、アラマー仙の隣にどしっと寝そべったのだ。
「あの……その虎は……?」
「これかね」
アラマー仙は、さらにニコニコと笑顔を作った。
「私の相棒でね」
虎のあごの下を、アラマー仙は二度ほどなでた。虎は気持ちよさそうに目を閉じていた。それは、ここへ来る前に山中で出くわした虎に相違なかった。
イェースズが驚いていると、アラマー仙は不意に立ち上がって腕を挙げ、両手をイェースズの方に向かってかざした。イェースズは一瞬、頭がくらっとするのを覚えた。目を凝らして見ると、そこに立っていたのは山中で倒れていたあの老人だった。アラマー仙の姿はどこにもない。
イェースズが呆気に取られていると、
「驚かせて悪かったな」
と、アラマー仙の声がして、たちまち老人の姿は消え、アラマー仙が代わりに立っていた。
「いたずらという訳ではなかったがね、老人に化けていたのは私だったのだよ。君をお迎えに行ったのだ」
「え? あの、ご老人が?」
「そう。君は山を登ることも忘れて、老人となっていた私の身を案じてくれた。もしあの時、老人であった私を見捨てて君が山に登ることばかりに執着していたら、次の瞬間には再び山のふもとにいる自分を発見しただろうね」
アラマー仙は、再び腰を下ろした。
「ところで、君がここに来た理由も分かっているが……」
そこで一つ咳払いをするアラマー仙に、イェースズは膝を詰め寄らせた。
「教えてほしいんです。ブッダの本当の教えを」
「それを知って何になる!」
今までとは打って変わったびしりとした厳しい口調で、アラマー仙はイェースズの言葉をさえぎった。イェースズは思わず、ぴくりと体を硬直させた。
「いいかね。どんなに素晴らしい教えでも、それ聞いてを頭で理解しただけでは何にもならない。素晴らしい教えを聞きさえすれば、この人について行きさえすれば救われるなどというような甘えた考えでは、真理には到達できない」
「では、どうすればいいのですか?」
「自分で考えることだ。私に言えるのは、それだけだ」
イェースズは何と返答していいか分からず、黙ってうつむいていた。
「どんな素晴らしい教えでも、それを受け売りして人に説いたところで波動は伝わらない。自ら実践し、体験し、自分の血と肉にすることが大切であろう。そうではないかな? この国で君は、民衆の心を開かせることはできたかな? シシュカルパルフでもカーシーでも、そしてサンガーの近くの村でも……」
すべてが知られている。やはりここにいるのは、並大抵の人ではなさそうだ。そのひと言ひと言がイェースズにとって思い当たることばかりだったので、彼は何も返す言葉がなかった。
「とにかく君は、まず真理を入れる器を作ってまいれ」
器を作ると言われても、果たしてどうすればいいのか……イェースズがそう思っただけで、
「器を作るにはな」
と、すぐにアラマー仙の答えはすぐに返ってきた。
「心の垢を落とすのだ。これから七日間、この山の森に入って禅定し、心の垢を落として来い」
かつてはじめてブッダ・サンガーに入門した時も、同じように七日間の禅定を言い渡された。その時は八正道を基準に心を正して来いと言われただけで、しかも禅定中にさまざまな悪霊が僧たちに憑依するのを以前に目撃したこともあったから、適当に山中に七日間座って帰ってきただけだった。心を正せと言われても、あまりにも漠然としていたからだ。
「ブッダ・サンガーに入る時の禅定は、形骸が残っておるのにすぎぬ」
イェースズの想念を読み、アラマー仙は何でも先読みして答えてくれる。いちいち言葉で告げる必要がないので便利といえば便利だが、ほかの一面では恐くもある。
「いいかね。森の中で七日間、生まれてからこのかた自分が生きてきた姿、そしてその心を徹底的に点検し、反省するんだ。そのための禅定だ。決して自分を裁くでないぞ。裁くのではなく、悪かったことはス直に詫び、二度と同じ過ちをせぬことを誓うのだ。それが改心だ。そうすることによって心の垢は洗われ、神の光が一気に注がれる」
その言葉のどれもが、ブッダ・サンガーでは聞いたことのないものだった。
「無心で行け。無心とは心を失くしてカラにすることではない。ただひたすら神を想う心、それが無心だ」
そこでまた、イェースズの中に疑問が生じた。心、心と言うが、心よりもっと奥の大切なものがあるのではないかという疑問だ。
「確かに、もっと大切なものはある」
イェースズは、しまったと思った。アラマー仙の観自在力を、ほんの一瞬でも忘れてしまっていた。
「こうした方法は確かに手間が掛かるし、遠回りだ。ブッダの頃は、もっと手っ取り早い方法もあった。世尊とその高弟マハー・モンガラナー亡き後は、この方法しかないのだ」
とりあえずス直になってみようと、イェースズは思った。もうすぐ夕暮れになるので少しはためらいもあったが、
「行け!」
力強いアラマー仙の言葉が、イェースズのそんなためらいを吹き飛ばした。
「はい」
慌てて返事をすると、イェースズは立ち上がった。
夕闇迫る中、イェースズは外に出た。いつの間にか現れた若い僧が、イェースズを禅定の森へと案内してくれた。手には長くて薄い板状の木の棒を持っている。
「ここがいいでしょう」
案内の僧は、ある大木に下を示した。イェースズはそこに座った。あたりを見回していた僧は、近くで禅定を組んでいた別の僧の所に慌てて飛んでいった。そして手にした棒で、禅定の僧の背後の空中を払っていた。
イェースズが腰を下ろしてそれを見ていると、若い僧はイェースズのそばに戻ってきた。
「安心して、禅定に入りなさい」
その僧の先ほどの行動については、イェースズはだいたいの察しはついていた。心が不調和なまま禅定に入ると霊が憑依してきてかえって危険な状態になるし、その現場をイェースズは目撃したこともある。人は精神統一すると、霊に憑かかられやすくなるのだ。さすがにアラマー仙はそのことを知っているらしく、また棒を持っている若い僧も霊視が利くらしい。禅定に入っているものに霊が憑かろうとすると、霊が嫌う南天の木で霊を払ってくれているようだ。
それならと安心して、イェースズは禅定に入った。
まず八正道を、イェースズは心の中で反芻してみた。
正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく仕事をする、正しく生活する、正しく道に精進する、正しく念ずる、正しく定に入る……これらを基準として今までの生活を反省することを、イェースズは要求された訳だ。
イェースズはさかのぼれる限り、つまり物心ついて直後の自分とその環境を頭の中に描こうとした。もう断片的にしか記憶が残っていない時代だが、ガリラヤ湖の湖畔、カペナウムの町での大工の息子としてよちよち歩いている自分をイェースズは思い浮かべた。
あの頃はいつも近所の悪がきにいじめられ、泣かされて帰ってくる毎日だった。そして弟のヨシェが、常に身代わりになってくれたものだった。
思い出そうとしてみれば、鮮やかに当時のことが頭の中で再現される。そしてそこには五歳の自分が主人公として、今の自分には関係なしに存在している。その昔の自分が果たして正しく物事を見て、正しく物事を考えて判断し、正しく言葉を語り、正しく生活し、正しく真理を求め、正しい願望を持ち、正しく自分を見つめていたかどうか、今の自分の目から昔の自分を客観的に見ていくのだ。
ヨシェは自分といじめっ子の間に入り、いじめをやめるようにいじめっ子を説得している。そんなことでいじめをやめる連中ではないから、今度はその攻撃が一斉に弟へと向かう。いつもヨシェはそれに耐えていた。そしてそのすきに、イェースズはこそこそと抜け出しては泣いて家へと走って帰っていたものだった。目を閉じていると、泣きながら走っていく自分が見える。ただ姿が見えるだけではなく、その心の中までありありと分かるのだ。
弟が身代わりになっていることなど、五歳のイェースズの頭の中にはなかった。ただ自分だけがその場から逃げ出せばいい、苦しみから逃れればいいという思いがあるだけだった。逃げたとて逃げられるものではないということは今なら分かるが、昔の自分はそれどころではなかったのである。ところが今の彼の目には、いつも兄をかばい、それによってひどい目にあっても恨みごと一つも言わず、あとからけろっとして帰ってきた弟の愛がいやというほど分かる。これ以上の愛があろうかと、今のイェースズなら戦慄さえ覚える。そんなことにも気づかず、昔の自分はそれが当たり前だと思っていた。
イェースズはがっくりと頭をたれた。弟への申し訳なさが胸の中から熱くこみ上げてきて、居ても立ってもいられない気持ちになったのだ。イェースズは心の中で何度も弟に対して詫び、その愛に感謝した。しかしそれは今のイェースズであって、五歳の少年イェースズの心の中にはまだどろどろとした憎悪の念が渦巻いていた。いじめっ子たちへの恨み、憎しみは、少年イェースズの中で簡単に消えそうもない。
イェースズは、瞑想しながらも深く息を吸った。
今のイェースズなら、すべてが自分に原因があることが分かる。輪廻の法を学んだ以上、現在の結果を見れば過去の原因が分かるというブッダの因果律と照らし合わせれば、自分をいじめる者に対して自分が前世でどんなひどい仕打ちをして来たかを痛感できる。いじめられているという事実によって、自分が積んできた罪穢が認識できるというものだ。その前世の罪穢というものは現界に居る限りは分からなくなっているものだから、いじめという現象を通して自分の罪穢を教えてくれて、さらには罪穢のアガナヒまでさせてくれるいじめっ子たちに本当はむしろ感謝をしなければならなかったのだ。
しかし、昔のイェースズはそのようなことは知らず、ただいじめっ子たちを恨み、憎み、そんな怒りの想念が渦巻いていた。自分かわいさの自己保存欲と、自分への執着以外の何ものでもなかった。
しかもいじめっ子たちはイェースズの罪穢を消してはくれたが、いじめという行為によって自分たちが新たな罪穢を積んでしまったのだ。そんな罪穢を積ませてしまったということに、イェースズはさらに申し訳なさがこみ上げてきた。彼らとて今はもう青年に成長しているであろうが、イェースズをいじめていた心が核となって現在の彼らを形成しているはずだ。イェースズは今にも飛んでいって彼らを探し、詫びの言葉を告げるともに真理の法を伝えて救ってあげたい衝動にかられた。
あのころの自分は、正しく自分自身を見つめていなかったとイェースズは実感した。正しくとは偏りのない中道の心で、恨みや妬みなど人を害する想念がない調和の心である。しかし、憎たらしいやつは憎たらしいんだと、少年のイェースズは反駁してくる。だが、少年イェースズがいじめっ子たちを憎たらしいと思っていた以上に、いじめっ子たちもいじめの背景に、少年であったイェースズを憎たらしいと思っていたはずだと、今のイェースズは思い当たった。少年イェースズはすぐに嘘を着いていたし、自分が彼らとは違うエッセネ人であることを鼻にかけ、自分だけが特別でえらいのだという態度を誇示することも往々にしてあった。そんな自分であったから今にして思えばいじめられて当然であったし、いじめさせてしまったという申し訳なさが再びイェースズの心中に湧きあがってきた。
大自然と一体化し、その中で自然の一部とし生かされていたのに、その自然の恩恵を感じることもなく、それが当たり前だと思い、あたかも自然の征服者のような錯覚を持っていくらしていた昔のイェースズであった。弱い小動物を捕まえては残酷な方法で殺したり、虫を捕らえては面白半分にいたぶっていた。いじめっ子にされていたことの数倍の苦痛を、自分はもっと弱者にしていたのである。そんな自分であったのに、教えを聞いたからといって受け売りし、「食べること以外には、どんな生き物でも殺したら罪になります」などと説いていた自分がこの上なく恥ずかしく思えてきた。まさしく赤面ものだ。こうして反省して心の垢を取った上での説法でないと、波動は伝わらないようだ。
その時、野獣の遠吠えが聞こえた。イェースズは少しだけそれに意識を向けたが、すぐに反省の禅定に戻った。もう、とっぷりと日は暮れている。
イェースズは、今度は父母のことを思った。幼いイェースズにとって父母を含め、すべての大人が敵愾心を抱く対象だった。大人はすぐに子供の遊びを邪魔すると、ぶつぶつと文句を言っている幼い自分が見える。今のイェースズなら大人の言い分も分かるが、少年イェースズは大人によって傷ついていた。いじめっ子たちと違って、大人は愛ゆえに自分を教え導こうとしてくれた。幼い自分は、その愛を愛と感じることもできなかったのである。今さらながらイェースズは、両親が自分を育てるためにどれだけの愛を注いでくれたかを痛感する。父は自分の成長だけを楽しみにして、仕事に精を出していた。母も厳しく自分を導いてくれた。そして何よりも今こうして肉体を持って現界に存在しているのも、すべて父と母のお蔭なのである。それだけでも父母の恩は空よりも高く、ましてや十数年も育ててくれた恩は海よりも深いといえる。そしてそんな父母に、自分は今まで一度でもいいから心から感謝をしたことがあっただろうかと、イェースズは胸が締めつけられる思いだった。今自分がここの存在しているのは、両親に望まれて生まれてきたからだ。そして愛に包まれて育てられたその愛に、自分は万分の一でも報いただろうかと思う。そして報いる前に、父は逝ってしまった。
昔、母はよく「幸せだな」と言っていた。イェースズは、「何が幸せなものか」と、心の中で反抗していた。足りる心、感謝の心よりも、もっと幸せな人はいると、むさぼる心、不平不満が渦巻いていた。両親のそんな愛さえ理解できなかったイェースズだから、ほかの大人には反発しかなかった。確かに大人の方に非がある場合もあったが、それを思った途端に幼いイェースズは、たちまち今のイェースズに反撃を開始する。大人は汚いし、許せない……確かに成長した今の方が、むしろ大人の裏が見えていたりする。だが、許せないという想念は、自分がまだその人よりも魂が下であるという証拠なのだ。大自然の調和は、互いに許し合い、譲り合って成り立っている。雲が自分を隠したとて文句を言う太陽はない。仲間が虎に食われたからとて、それが許せずに団結して虎に歯向かったという野の動物の話も聞いたことがない。広く円い心で人を許していくこと自体が自分の心の広さを表すことだとイェースズは幼いころの自分を説得し、許せなかった人一人一人を許していった。誰もが、人を裁くことはできない。なぜなら、自分は裁かれずに許されているのだ。許されて、大地の上で息をしている……すなわち、計り知れない罪穢を思うとき、許されてこうして生かされていること自体が奇跡なのである。決して、人を裁けるはずなどない……だから、果てしなく人を許していかなければならないのである。神様からの莫大な借金を背負って生きているお互いなのである……今のイェースズの心には、ス直にそのことを受け入れられた。
そこまで考えて、イェースズはさすがに眠気を感じてきた。森のあちこちでは、かがり火が焚かれている。イェースズは五歳の時に急に自分が身につけた不思議な力について考えようとしたが、さすがに睡魔には勝てなかった。
次の日も、快晴だった。ひんやりとした空気が、木々の香りと共に全身を包んだ。だが、寒くはなかった。また暑くもなく、天候による不快感は全くなかった。
イェースズは再び大木の下で禅定を組み、昨日の続きの反省をしてみることにした。精神統一して霊が憑かりそうになれば、霊視のきく僧が南天の木の板で霊を払ってくれるから安心だ。
朝食はすでに済んでいる。食事は係りの別の僧が配りに来てくれるので、自分で果実などを採取する必要もない。
イェースズは眠ってしまわないように半分だけ目を閉じ、不思議な力が突然与えられた日に記憶をさかのぼらせていった。
まぶたの裏に青々と水をたたえたガリラヤ湖が浮かび、普通の少年だった自分になぜ不思議な力が与えられたのかと、イェースズはそのガリラヤ湖の青い湖水を見つめながら思い出そうとしていた。
その時は、とにかく自分をいじめるものが憎いという、そんな憎しみがすべてだった。それが強力な念の力を作り上げていった。その力で、イェースズはずいぶんと恨みの思いを晴らした。ゼノンの全身の力を奪い、すれ違いざまにぶつかってきただけの子供の足を枯らしてしまった。しかしその後で心は満足していたかどうかということを点検すると、確かに表面ではやったとばかりに躍り上がっていたが、内心では調和どころか嵐の生みのように波立っていた。その力がどこから来たか、なぜ突然自分に与えられたのかは、今もって分からない。いずれにせよ、その力で許されるはずもないことをしたのに、今も許されて生かされている。昨夜は自分が許さなければならない人を一人ずつ許していったが、今は自分が許しを請わなければならない人の方が遥かに多いことを痛感していた。そして、神に対してもである。
学校へいってからも、教師をずいぶんと苦しめてきた。教師たちに対して、生徒のイェースズは自己顕示欲そのものだった。我と慢心のかたまりだった。自分には特別な力があるから神の独り子で、何でも知っていると思っていた。万人が等しく神の子であることを自覚した今ならそのような考えは馬鹿げたことだと分かるし、分かるだけに過去の自分に対して赤面を禁じ得ない。しかし、赤面したとてことが済む訳ではない。とにかく、今は詫びるしかなかった。そしてそんな罪深い自分が許されて今も存在させていただけていることへの感謝という言葉の意味が、イェースズははじめて分かったような気がした。
イェースズは、地面に頭をこすりつけんばかりだった。涙がとめどなく流れる。この山に来て、こんな残酷なことになろうとは予想だにしていなかった。誰でも現界に新たに誕生した時はその心は丸いはずだったが、成長するに従って我というとげを出し、イガイガになってしまう。神から頂いた時は水晶の玉のように透明だった魂を、再生転生を繰り返すうちに罪穢によって曇らせてしまったため、心もトゲトゲになってしまうのであろう。我と慢心、自己顕示欲、そしてものごとへの執着、これらのものほど調和とは正反対のものはない。
幼いイェースズはいつも、「あなたはお兄ちゃんなのだから」という親の言葉に、いつも反発を感じていた。長男に生まれて損したと、いつも感じていたのである。自分が長男である以上、下の弟たちは自分に服従すべきだと思い、自己保存への執着のみで生きていたような自分だった。長男だからこそ弟たちを愛と真で導かなければならないという下座の心など、微塵もなかったのである。そんな幼いイェースズが今のイェースズに食ってかかり、それを説得するのは容易なことではなかった。山ほどに積まれた神様からのお借金を返済するには、よほど人を救って歩かなければならないと、今のイェースズは実感する。そんな剣の刃の上を歩んでいたような少年時代だったのに悪魔に足を引っ張られなかったのは神の御守護と、そして父母の愛であったと、今さらながらにイェースズは気づいた。そして母に告げられた、衝撃的事実があった。自分の存在のために、何千という新生児がヘロデ王に殺されたのだ。
もう立ち直れないほどの自己嫌悪に陥りそうになったイェースズであったが、一筋の光明は、アラマー仙が自分で自分を裁くなと言ってくれたことであった。罪穢をサトってお詫びをし、お借金返しのための積極的なアガナヒを明るい想念でしていけばいいのだ。
イェースズは、生理現象を覚えた。こればかりは禅定中だとて致し方ないことで、決められた場所へ行って用を足した後、イェースズは森の中を流れる川で沐浴した。川を流れる水は、身を清めてくれる。そして反省は心の垢を清めてくれる。しかし、曇った魂はどうしたらいいのだろうかと漠然と考えながら、イェースズは無心に水を浴びた。程よい水温で、とても気持ちがよかった。
三日目も四日目も、イェースズの反省とお詫びの行は続いた。こうすることによって、心にしっかりと不動の姿勢が形作られることを、彼は感じていた。徹底して厳しく、自分のこれまでの心のすべてを漏らすことなく点検し、正すべきところはただして行った。その基準が八正道だった。イェースズがいた精舎のヒーナ・ヤーナは、肉体的苦行こそなかったが精神的には徹底的な厳しさが求められた。それに対して、アジャイニンのいた精舎のマハー・ヤーナは、実に大らかであった。だが、自分自身に大らかすぎても、それは本当の修行かというと疑問が残る。どちらも両極端で、ブッダのいう中道とは程遠いのではないかと、五日目の禅定でイェースズは感じはじめていた。
ヒーナ・ヤーナのように自分に厳しいと、ついつい他人にもその厳しさを求めてしまう。例えばシシュパルガルフでもカーシーでも自分の話を聞くために多くの人が集まってくれたが、イェースズは自らの血や肉としていない教えを、教えの内容自体は正しかったとしても、相手の心を考え、相手のレベルまで下座することもなしに、ただ押し付けていたのではないかということが反省された。どんなに正しいことでも、自分に厳しくするあまり他人にまでそれを押し付けてしまうのは、本当の愛ではないと感じられたのだ。厳しくするときは厳しさも必要だろうが、その厳しさは自らへの厳しさに裏打ちされたものでなければならないはずだ。もちろん、マハー・ヤーナのように大らかなだけで、他人を甘やかして優しくするだけなのも本物の愛とは思われない。まず他人に厳しくする前に、自分の厳しくすることが大切だとイェースズはサトった。自分への厳しさを縦に、他人への大らかさを横にして二つを十字に組んだものが、本当の愛ではないかと思ったのである。これこそ神の愛だと、イェースズは直勘した。自分に甘く人に厳しくするのは最低で、ヒーナ・ヤーナとマハー・ヤーナの中道とは、他人にはマハー・ヤーナで自分にはヒーナ・ヤーナということではないかとサトッたのだ。
太陽の光とて温かくて気持ちのよいものだが、直接に見れば容赦なく目を焼いてしまう。そして時には強く照りつけ、身をも焦がさんばかりになる。しかしこの強烈な日光があってこそ植物は青々と力強く繁るのであり、そうでなければすべての植物は背が高いだけのひょろひょろとしたものになってしまうであろう。
そのことを前提にしてイェースズはもう一度今までの記憶のベールをはぎ、自分の過去をもう一度点検していった。その過程で、決して人は裁けないということが、あらためて認識させられた。計り知れない負債を負っている自分の罪穢を思うと、決して人を裁けないと思った。だが同時に、どんなに罪深き自分であっても、その自分を裁くなというアラマー仙の言葉が再び彼の中に蘇った。罪深い自分でも、今日もこうして生かされているのだ。さらには、細やかな至れり尽くせりの神仕組みの中で、何不自由なく生活できるように一切が与えられられている。そのことを有り難くしみじみと感謝した。反省とは自分を責めることばかりではなく、自分自身をよく見つめ直すということであると、この六日にわたる禅定で彼は感じていた。つまりは、自分のよいところの確認も必要である。そのよいところは、結局は神より与えられた使命を発揮するためのものであるから、そのこともまた謙虚に感謝することが大切であるとしみじみと感じたのである。そう思うと自責の念の暗さからは解放され、明るい喜びで心は充実し、生きる喜び、生き甲斐が不思議と湧き起こってくるのを実感したイェースズであった。
そして禅定も明日で終わりという六日目の夜、瞑想を解いて現実に戻ったイェースズは眠りにつくことにした。
その時、自分の体に、いつも人に手を当ててエネルギーを注入しているときのような力が満ち溢れてくるのを感じた。一度は横になって目を閉じていたイェースズだが、目をそっと開けてみると、周り一面が黄金色の光の洪水となっていた。現界の光とは明らかに違う霊光だった。
イェースズは、跳ね起きた。すると、夜の闇などどこかへ飛んでいってしまったのではないかと思われる光の渦の中に、やはり光り輝く人が立っていた。それは女性だった。目を凝らすと、果たしてかつて対面した生来は女性であるゴータマ・ブッダであった。
イェースズは、慌てて居を正した。
懐かしげな表情で、慈愛に満ちた眼差しをもってブッダはイェースズをじっと見つめていた。あたりは今までイェースズが禅定していた森の中であるのかあるいはそうでないのか分からないくらい、おびただしい黄金の光で満ち溢れていた。
イェースズも、ブッダをじっと見つめていた。紛れもなく、あの不思議な世界で出会ったブッダだった。よく地獄の邪霊や魔王、または動物霊などが、自分は神であるとか天の使いであるとか名乗って現れることがある。しかしその場合、これほどまでの慈愛の光明に包まれていることはまずない。たいていはおびただしい悪臭とともに、居丈高な態度で出てくるものだ。だいいち、イェースズの目の前のブッダが邪霊の化けたものなら、霊視のきく付き添いの僧が南天の板を振りかざして走ってくるはずだ。だが、その様子もない。
「正しくお座りなさい。姿勢を正し、背筋を伸ばして。そして、肩の力を抜いて、その気を臍下丹田に収めなさい」
ブッダは優しく、イェースズに語りかけた。
「そう。膝と膝を合わせ、足首を下にして」
こんな座り方を、イェースズはしたことがなかった。直接地面に座る時も、あぐらをかいていたのだ。
「あなたは、だいぶ器ができてきましたね」
「恥ずかしいことばかりです。自分がこんなに罪深い身だったなんて……。お詫びしなければならないことが多すぎます」
「これまでの自分を、想いの界でひっくり返すことが大切ですよ。神様の世界は肉体や物質の世界ではありませんから、眼や耳や鼻や舌や身や意識などという肉体を通しての現象は通じません。まずは想いの界をひっくり返し、あとはそれをどれだけ形に表すかが大切です」
「はい。有り難うございます」
「罪穢も深いけれど、因縁も深いんですよ。とにかく私が現界で教えを説いていた時に強調してきたのは、反省の大切さです。それは八つの正しい心の物差しを基準に、偏らない立場で現在・過去・未来にわたる輪廻の輪の中で今を止観して心を正すことです。一切の執着、とらわれの心、こだわりの心は地獄ですよということを教えてきました。しかし今のサンガーはそんな簡単な教えを人知の屁理屈でこね回して、哲学にしてしまいました。そのことで今、私は霊界で大変苦しい思いをしています」
ブッダほどの人もあちらの世界で苦しむこともあるのかと、イェースズは不思議に思った。
「あなたは私の教えを、しっかりと受け継いでほしいんです。でも、今ここで私がすべてを教えてしまうのは、あなたにとってよくありません。どうかあなたは絶対他力の中で生かされつつも、与えられた自力で精一杯精進して、自覚、すなわち自己確立をして下さい。私とあなたは現界で下ろされた場所も違うし、役目もそれぞれ分担しなければなりません。私の教えは東の国で、あなたの教えは西の国で栄えるでしょう」
「では私はこれから、いったどうしたらいいのですか?」
「すべては、アラマー仙が示してくれるでしょう。その前に、大切なことがあります。あなたは反省によって心を清めました。しかし、もっと重要なことは、魂の問題です」
それだ! と、イェースズは心の中で叫んだ。今まで、わだかまりの一つになっていたことだ。
「心を清めただけではだめで、その奥にある魂を浄めなければなりません。それができるのは反省などという心の行ではだめで、唯一神の光によってのみ可能となります」
でもどうやって? と、イェースズが言葉に出して質問を発する前に想念は伝わり、ブッダはイェースズに一歩近づいてきた。
「さあ、手を合わせて、目を閉じなさい。私がいいと言うまで、目を開いてはいけませんよ」
イェースズは、ス直にそうすることにした。
目を閉じてしばらくしても、ブッダから何も語りかけられることはなかった。ただ静寂だけが、周囲を支配していた。
まぶたの裏が、明るく感じた。それだけではなく、額の眉間の部分がものすごく熱く感じ、エネルギーが額の奥まで集中してくるようだった。
いったい自分が目を閉じている前でブッダが何をしているのか、目を閉じたままのイェースズには分からなかった。しかしエネルギーが額から全身に回り、体中に力があふれてくるようだった。
かなりの時間が経過したように思われたころ、
「はい、静かに目を開けてください」
と、言うブッダの声がした。その声にイェースズがそっと目を開いた時は、あたりには森林の夜の闇が広がるだけの現実のみが存在し、ブッダの姿も光の洪水もどこにもなかった。
翌朝、イェースズは目覚めてすぐに、両手に金粉が無数についていることに気がついた。それは、昨夜の出来事が夢ではなかった証拠となった。金粉は、昨夜見た黄金の光と同じ輝きだった。
次の瞬間、イェースズは激しい腹痛を覚えた。下腹部が膨れるような感覚だ。これはいけないと、イェースズは慌てて屋外の便所へ向かおうとした。だが、あまりの痛みに立ち上がることもできず、それでも木々の幹につかまりながら、彼はようやく便所にたどり着いた。
おびただしい下痢だった。
それが収まるとやっと少しは楽になったものの、今度は体全体が熱っぽく、全身がだるくなって立ち上がることもできなくなった。
この日は禅定にはってからちょうど七日目だったので、堂々とアラマー仙のもとへ帰れる。イェースズは付き添いの僧に支えられながらやっとの思いで森を出て、アラマー仙のいる小屋へと向かった。
迎えに出たアラマー仙は、そんなイェースズの姿を見てもなぜかニコニコしていた。さらに不思議なことに、イェースズ自身も体の苦痛にもかかわらず顔はニコニコできるのだ。
「ご苦労だったね」
アラマー仙はとりあえず、イェースズを自分の小屋の一室に寝かせた。小屋は内部に全く装飾のない石造りの建物で、質素と簡素という二つの言葉だけで表現ができた。イェースズは高熱に意識も朦朧としていたが、周期的に襲ってくる激しい下痢の都度に排泄しなければならなかったので、寝てばかりいる訳にもいかなかった。一度は、胃の中のものをすべて戻した。そして寝ている間は、おびただしい量の汗が体中をぬらした。このような高い山の上だから医者はいなくて当然かもしれないが、誰一人クスリを持ってくるものはいなかった。
昼ごろと思われる時分に、アラマー仙がイェースズの寝ている部屋に来た。相変わらずニコニコしているので、イェースズも自然と笑顔を返した。アラマー仙は、イェースズに粥を持ってきてくれた。
「お食べなさい。食べないと、霊力がつかん」
「はい。有り難うございます」
こんな体の状態でも、イェースズには不思議と食欲はあった。食事を終えたイェースズに、アラマー仙は言った。
「今まで心の中にたまっていた垢が反省によって物質化し、また魂の曇りも祓われて、今こうしてどんどんと体外に排出させて頂いているのだ。すべて、感謝だぞ」
そう言われて、この熱や下痢、腹痛にス直に感謝できるイェースズだった。
夜になって、アラマー仙は再びイェースズのもとにやってきた。そのころには、イェースズの体はだいぶ快復していた。上半身を起こし、近くに座ったアラマー仙を見てイェースズは言った。
「ブッダの教えとは、反省することと執着を取ることに要約されるのですね」
「おお」
と、いう表情で、アラマー仙は目を細めた。
「自分で、よくそこまでサトッたな」
「いえ。すべてが御守護とお導きによるものです」
「そうか」
アラマー仙は少し考えてから、ろうそくの火だけが灯された薄暗い部屋でイェースズに言った。
「君になら、先祖代々受け継いだブッダの本当の教えを伝授してもよさそうだな。聞きたいことがあったら、何でも言いなさい」
「え? 本当ですか?」
イェースズの胸は、はちきれんばかりにときめいた。詰め寄るイェースズに、アラマー仙はゆっくりとうなずいた。
早速とばかり、イェースズは輝く顔でアラマー仙を直視して言った。
「あれです。あれの本当の意味が知りたいんです」
普通なら「あれでは分からん」と言われるところだが、アラマー仙はしたり顔で、
「アタ プラジャナー パーラミター ヒルダヤ スートラだな」
と、言ってから目を閉じ、そのスードラの冒頭の一節を静かに暗唱しはじめた。
「ナマス サルヴァジャナーヤ アルヤ・ヴァロキティーシュバラー ボディーサトゥーヴァー ガムビーラ プラジャナー パーラミターヤム シャルヤーム シャラマーノ ヴヤーヴァローカヤティー スマ、パムシャ スカンダース、タース シャ シュヴァバーヴァ スーンヤム パスヤティ スマ…………(一切を熟知したアポロギータシュバラー・ボディーサトゥヴァーは、深遠なる最高の叡智の行を行じつつありて、かの五つの元素は本性として空不実のものであると観ぜられた)」
「そうです。それです!」
アラマー仙は、深く息を吸った。
「では、お聞かせしよう。まず、アポロギータシュバラー・ボディーサトゥヴァーだが、」
イェースズは身を乗り出し、食い入るようにアラマー仙を見つめていた。
「これは世尊の時代に実在した人の名前だよ」
「人の名前?」
「そう。そして、世尊が若くして教えを受けた世尊の師だ。ずっとずっと南の、マラヤのポータラカ山に住んでおられた」
「しかし、シュバラーというのは? シュバラーとはアラハンよりもさらに高い境地だと聞きましたけど……」
「いいかな」
アラマー仙の鋭い口調のひと言が、イェースズの問いを妨げた。
「私の話を聞くなら、今まで学んできたこと、聞いてきたことの一切を捨てろ。先入観や既成観念は捨てて、白紙に戻せ。そうして屁理屈申さず、ス直に聞けよ。できるか?」
問い詰められるように厳しく言われ、イェースズは首をすくめてうなずいた。
「はい」
イェースズのしっかりとした返事を聞いて満足そうにうなずいたアラマー仙は、再びにっこりと笑って話をはじめた。
「確かにアポロギータシュバラーという方はシュバラーの境地に達した方だった。そして、ボディーサトゥーヴァーというのは、特に神様から特別の魂を頂いた御神魂ということだ」
イェースズは、微かに首をかしげた。アラマー仙はそれを見て、またにっこりと笑った。
「シュバラーとは観自在力、すなわち過去・現在・未来の三世を見通すことができ、さらには他人の心まで手に取るように分かるという自由自在な神通力だ。今は難しいだろう。しかし、君にもいつか分かる時が来る。今は分からなくてもいい。分かれと言う方が無理だ」
「はあ」
力なく、イェースズはうなずいていた。アラマー仙はさらに話を続けた。
「アポロギータシュバラーは世尊にマイトゥリー・カルナーを説いた方だ。このことについても今のサンガーは人知の屁理屈でこねくり回して訳の分からない解釈をしているようだが、要は偉大なる神の愛のことだよ。大らかで優しい母親のような愛であるマハー・カルナーと、厳しい父親のような愛であるマハー・マイトゥリーを縦横十字に組んでこそ、神の偉大な大愛が顕現するということだ」
イェースズは心の中で氷が溶けていくような気持ちにさえなり、ただ唖然としていることしかできなくなった。サンガーでの教えと違って何と簡明で分かりやすく、しかもそれでいて真を突いていることか……これこそブッダの真の教えではないかと、直勘したのである。
「そのアポロギータシュバラーは深遠なる叡智によって、すべてのものをジッと見つめられた。そういうふうに、世尊が御自らの師であった方のことをご自分の弟子のシャリープトラーに語っているのが、このスートラなのだよ」
「そのパーラミターのことなんですが」
「ああ」
「質問ならいいですか?」
「いいよ」
「パーラミターとは、本当に向こうの岸に行くという意味なんですか?」
アラマー仙はしばらくうつむいて、沈黙していたが、やがて目を上げた。
「世尊の教えも、年月がたつと変わってしまうものだな。パーラミターの本当の意味は、言葉の一つ一つに宿る霊的力の働きを知ってからでないと、まだ分からんだろう。今の君には、まだ伝えられる段階ではない。決してもったいぶっている訳ではないが、すべてのことには段階というものがある。まあ、ひと言で言えば、パーラミターとはすべてが明るく開かれるのを見たということで、霊的な眼が開かれたということだ」
「霊的な眼?」
「そうだ。今、君が私をみているのは、肉体としての目だろう? ほら、鼻の上に、こうして二つある……」
アラマー仙は、イェースズの両目を一つずつ指さした。
「この目は、ものごとの外見しか分からない。その人自身を知ろうとすれば、心の眼を開かねばならない。そしてそれよりももっと奥深いのが、霊的な眼だ。その霊的な眼で見れば、この世界を構成している五つの元素はすべてシューンニャターであることが分かったと、このスートラの最初の部分はそういう意味だ」
「そのシューンニャターです」
イェースズは、さらに身を乗りだした。
「シューンニャターについてはサンガーでいろいろ追究したんですけど、誰に聞いても訳の分からない答えしか返ってこないんです」
「それはそうだろう。今のサンガーには、ブッダの心はもうない。いいかね。五つの元素がすべてシューンニャターというのはだね、万象ことごとく一切、霊が主体だということだ。人間のとっても肉体は、この現界で生活するための服にすぎない。中身の霊魂が大切なのだよ。死とは単に服を脱ぎ捨てるだけで、霊魂はなくなる訳ではない」
「はい。たとえクシャトリヤがその服を捨ててバイシャの服に着替えても、中の人間は同じですからねえ」
「その通りだ。さすがにサトリが早いな。そしてスートラのその次の部分では、世尊はいちばん弟子のシャリープトラーに呼びかけて、空はそのまま色なのだと言っておられるな。つまり、『色は空とは別のものでないし、空も色とは別のものではない。色はそのままで空であるし、空もそのまま色である』と。このスートラを書いたのも後世の弟子だからこんな訳の分からない書き方になってしまっておるが、世尊の真意は霊とその霊によって構成される霊界、すなわち空と、物質の世界、すなわち色とは表裏一体、相即相入で、別々のものではないのだということだ」こんな簡単な理屈をスートラはよくもこんなに難解な表現で書いているものだと、こうなるとイェースズはあきれてしまった。
「いいかね。世尊が説法をされたのは学のあるバラモンを相手にしてではない。相手にされたのはクシャトリヤや無学なバイシャ、スードラだ。そんな人々に、今のサンガーで説かれているような哲学を説いたところで人々は救われないし、だいいち理解ができないだろう」
「その通りだと思います」
「本来、神理というのは分かりやすいものなのだよ。万人に理解できて、そしてまたすぐに実践できるものだ。だからこそ世尊の御名は、五百年たった今でも残っている訳だ。神理から遠くなったものほど人知でこねくり回されて、難解な訳の分からないものになっている」
「霊界と現界が別の存在でないということは、今こうして私たちがいる現界もすなわち霊界ということですか?」
「その通りだ。物質は細かい塵でできておるが、その塵もまた極微の塵の集まりだ。そのスカスカの部分が霊界なのだ。だから肉の眼では見えないし、無であり零であるといえよう。だから空なのだ。しかし、本当に何もないかというと、そこには神の智・情・意が充満しておる。その霊を物質化させる、すなわち無から有へと創造し、産みだすことができる唯一のお方、それが神様なのじゃ」
「はあ」
イェースズはもうなんだかうれしくて、今にも寝床から跳ね起きたい心境だった。アラマー仙はまだ話を続けた。
「人の感覚も思いも行いも知る力も同様であると、スートラでは言っているな。すべての法も存在も空であり、つまりは現象界のあらゆる物質も霊が元であり、霊が主体であるということだ。霊が元になってそれが物質化したのが色なのだ。だから霊界こそが大いなる実在界であり、魂の故郷で、この世はすべて仮の現象界、霊界の写し鏡でしかないのだ」
イェースズはアラマー仙の話を聞きながら、自分がブッダと出会った美しい花の咲き乱れる光の充満界こそが霊界なのだろうかとうつろに考えていた。確かに自分はどこかをはるばる旅をしてあの世界へ行ったのではなく、瞬時にして気がつけばそこにおり、また気がつけばこの世界に戻っていた。現界即霊界ならそれも然りとうなずける。
そんなイェースズの心も、すかさずアラマー仙に読み取られていた。
「君が行ってきたのは霊界のうちでも第四トゥシタ界、つまり幽界といって、人が死んでから行く世界であり、生まれて来る前にいた世界でもある。神様のおわします神霊界は、さらに次元が高い。輪廻から解脱し得てニルマーナに入ったものだけが、高次元へと昇華していくのだ。輪廻とは幽界で生活し、現界で修行し、また幽界へ帰り、幽界での修行が終わればまた現界に下ろされるその繰り返しのことだ」
輪廻についてはエッセネの教えでもこれほど詳しく、また分かりやすくは教えてくれていなかった。
「この世のものも、例えば水でも氷になったり溶けて水に戻ったり、湯気になったりもするだろ。あれと同じだよ。水は水だが、氷は土と同じ、湯気は火と同じだ。火と水と土の三位一体が、この世を、いや神界・幽界・現界の三千世界を構成する実相なのだ。つまりブッダもダルマカーヤ、サンボガカーヤ、ニルマナカーヤの三態があることは聞いているだろう」
「あ」
と、イェースズは声を発した。ダルマヤカーナのベイロシャーナ、サンボガカーヤのアミターバ、そしてニルマヤカーナのゴータマ・シッタルダーの三者の関係は、イェースズにとってこれまで今ひとつ理解できないことだったのだ。
「それぞれ神霊界・幽界・現界のブッダということだ」
思わず、「なんだ。そうだったのか」と、叫びたくなるイェースズだった。聞いてしまえば、簡単なことだった。しかしその簡単なことが、簡単なまま世に伝わっていないのが現実だ。なぜか故意にぼかされているのではないかという気さえ、イェースズにはしてきた。
「霊界こそが魂の故郷であり、幽界は心の世界だ。そしてこの現界だけが肉体の世界で、物質の世界だから、人はとかく現界に下りてきて肉体をまとうと眼・耳・鼻・舌・身の五官に振り回されて、それらで感知できるものがすべてだと思い込んでしまいがちだ。しかし、スートラの後の部分には、実在界である霊界には生滅もなく垢浄もない永遠不滅の世界であるとかいてある。つまり五官などという肉体的なものは存在せず、従って迷いもない大調和の世界であり、大いなる光明の世界であると書かれているのだ。そういう所が、本来の魂の故郷なのだよ」
アラマー仙はそこまで言うと、ニッコリと笑った。イェースズはそんなアラマー仙を見て、不思議な思いだった。こんな場所にだけ正しいブッダの教えが伝承されていて、その他の表向きのブッダ・サンガーは形骸なのだ。
「いいかね。私がこれらのことを先祖から、ただ教えられただけだと思うなよ。私とて心の行を何十年と行って、ここまでたどり着いたのだよ。甘えていては、とてもニルヴァーナには入れぬ。自力だけで行こうという思いあがりはよくないが、他力だけに頼っていてもだめだ。ニルヴァーナとは、自力で入るものなのだよ。他力によって与えられた地力を最大限に発揮して自らの足でニルヴァーナに入るという心意気と祈り、他力にすがる心があってこそ、自力の足りないところを神様の他力は補って下さる。自力だけでは現界があるが、重い荷車を引いて坂道を登って力尽きた時に、他力が後ろから押してくださるのだよ。自力だけではとても重い荷車を坂の上まで上げることはできないし、逆に荷車を引こうともせず他力に頼みますと言っても荷車は動きもしない。さあ、いっしょにこのスートラの、最後の部分を唱和しようではないか」
「はい」
イェースズも眼を輝かせ、アラマー仙を見てうなずいた。
「ガーテ ガーテ パートナーラガーテ パーラサンガーテ ボディシュヴァーハー イティ プラジャニャー パーラミター ヒルダヤ スートラ」
夜は更けていった。薄暗い部屋に、二人の唱和の声は一つになって溶け込んでいった。
翌朝、イェースズの体はすっかり元通りになり、イェースズは元気になった。
朝食のすぐあとに、イェースズはアラマー仙に呼ばれた。アラマー仙はいつになく厳しい表情をしており、イェースズも緊張せざるを得なかった。二人が向かい合って座ると、アラマー仙の方から口を開いてきた。
「私の弟子もそれぞれ、この場所で修行に励んでおる。君だけを特別扱いにする訳にはいかないのだが、私の魂は君の顔を見ると騒ぐのだよ」
「はあ」
イェースズは、どう答えていいか分からなかった。
「だからといって、私の教えをそのまま君に伝授する訳にはやはりいかない。それでは大愛ではないからな」
厳しい表情はそのままで、それでいて明るい声でアラマー仙は笑った。
「そこでだ。君が質問をして私が答えるという形なら、よいだろうと思う。何なりと聞きなさい」
「有り難うございます」
力なくイェースズはそう言ったもののしばらく目を伏せ、黙ったまま心を整理しようとした。聞きたいことは山とあるが、それを取りとめもなく切り出したところで収拾がつかなくなりそうだった。だからいろいろと考えた末に意を決し、イェースズは顔を上げた。
「実は今まで、サンガーの人たちが心が大切と言うのを聞いて、疑問に思っていたんです。心よりもっと大事な何かがあるんじゃないかって。でも、昨日の夜のお話を伺って、やっと分かりました。心よりも大切なのは魂、霊魂であって、霊がすべての主体であるってことなんですよね」
「その通り。心で『死にたくない』と思っても、霊魂が肉体から離れればその人は死んでしまうのだ」
「ええ。ただ、今お聞きしたいのは、ブッダははっきりとそのことを人々に説いたのかということなんです。もしそれを説いていたなら、これほどまでに人々の間で曲解され、元であるはずの霊的なことがどこかへ行ってしまって心ばかりが強調されているのは不自然のような気がするんですけど」
アラマー仙は、一つ咳払いした。外は柔らかな陽ざしで包まれ、時折さわやかな風が部屋を通り抜ける。
「世尊の教えをひと言でいうとどういうことになるか、君は分かっているのかね?」
「え?」
イェースズは不意の逆質問に、首をかしげた。アラマー仙は、にっこりと笑った。
「それはね、ブフタ・タタターだよ」
「え? ブフタ・タタター?」
この「タタター」とは「〜のような」という意味の「タター」の名詞形で、「〜のようなもの」という意味だ。つまり、「真理の如きもの」ということになる。真理のようではあるけど、真理ではないということだ。
「世尊の弟子に、アーナンダ尊者という方がおられた。世尊の父上のシェット・ダナーの弟のドウロ・ダナーのお子であるから、世尊の従弟にもなる。あの、世尊を迫害したデーヴァダッタの弟でもあるが、そのアーナンダ尊者が世尊に『師の教えをひと言で言うと、どのような教えなのか』と尋ねた時、世尊のお答えが『ブフタ・タタターである』ということだったのだ。つまり『真理には似ているけれども、神理ではない』ということだな」
それは、イェースズにとっては考えてもみなかった回答だった。どう反応していいのか分からず、イェースズはただ眼をみはって黙っていた。頭の中がこんがらがりそうなのだ。
故国で聖書はもちろんゼンダ・アベスタや、この国に来てからはヴェーダなどを研究してきたイェースズがブッダの教えに巡り会い、これこそが絶対かつ至上最高のものと思って求め続けてきた。そしてサンガーに入門はしたもののそこで聞く教えに飽き足らず、ブッダの本当の教えはこのようなものではないはずだと、真のブッダの教えを求めてこの山の上にまで来た。そして、ブッダの神霊にも直接会うことができた。そのあとになってようやく耳にしたのが、このような衝撃的な事実だったのだ。だから、イェースズは何がなんだか訳が分からなくなってきた。追い求めてきた本当のブッダの教えは、実は仮のものだとブッダ自身が言ったというのだ。
そんなイェースズの心をすかさずアラマー仙は見通し、
「驚くのも、無理はない」
と、言った。
「つまりは、こういうことだ。世尊は輪廻からも解脱して涅槃に入られ、無上で真の正覚の境地に達しておられた方だから、もちろんすべての実相、すなわち神理にまで到達されていたはずだ。しかし、そのすべてを弟子や民衆に公開することは、その時点では神から許されていなかったのだ。だから、ブッダの教えはブフタ・タタターなのだ」
この話は、イェースズがブッダの神霊から直接聞いたことと見事なまでに一致する。だが、ブッダと違い目の前にいるのは肉身を持ったアラマー仙なので、疑問もまたぶつけやすい。
「なぜ、許されなかったのですか?」
アラマー仙は、黙って首を横に振った。
「そう言う時代なのだよ。世尊の時も、そして今も。その事情については、まだ君に詳しく告げられる段階ではない」
しばらくは、沈黙が流れた。やがて、イェースズの方から顔を上げた。
「ブッダも説くことが許されなかった神理とは?」
「それがすなわち、神理だよ」
サティヤとは、「厳として存在する」という意味である。すなわちイェースズの故国の聖書で、モーセが聞いた神の御名である「在りて有る者」とも通じるものがある。
「神理とは、神の法のことだよ。世尊は荒野で神の声を聞いて、救世の説法に立ち上がられた。世尊が語られたのは大いなる神の法だった。しかし世尊は、そのすべてをあからさまに公開することは許されていなかった。だから世尊入滅後に弟子たちが結集して体系化したブッダ・サンガーの教えや編纂された経典には神という概念は登場せず、すべてが仏陀ということになっているんだ。しかし、法身の毘盧遮那も報身の阿弥陀も、本来はすべて神なのだよ。そのへんが、今のサンガーの教えではぼかされておる」
まだきょとんとしているイェースズをアラマー仙はしばらく黙って見つめた後、不意に立ち上がった。そしてそのまま部屋を出ていったので、イェースズは一人とり残される形となった。
また一陣の風が、部屋を駆け抜けていった。
もう何にも考える気力のなくなったイェースズは、ただボーっとして寝床の上に座っていた。そのうち頭に疲れを感じ、再び横になって何の装飾もない天井を見ていた。
しばらくしてからアラマー仙が戻ってきたので、イェースズは慌てて跳ね起きた。アラマー仙の手には、小さな木の箱があった。
ゆっくりと座ったアラマー仙は、イェースズの目の前でその小箱を開け、中に入っていた折り畳まれた布を広げてイェースズに手渡した。
布にはぎっしりと、文字が書かれている。この国に来たばかりの頃は、それまで文字といえば横に書くものとばかり思っていたイェースズにとっては初めて接する縦書きの文字に面食らったものだが、今ではもうすっかり慣れた。
その縦書きの文書の右端のタイトルらしきところには、「サッダルマー・ヴィブラローパ・スートラ」と書かれていた。イェースズは首をかしげた。「妙法蓮華経」なら、よく知っている。それは必ずしも美しいとはいえない肉体という泥の中に美しく光る魂を、白蓮の花にたとえて説いたものだ。白蓮は花自体は美しいが、咲く場所はたいてい泥の中である。穢土における肉体の中には神様から頂いた美しい光り輝く魂があるのだということを、このスートラは説いている。
しかし、イェースズが目の前にしているスートラは「サッダルマー・プンダリカ・スートラ」のような何巻もの巻物ではなく一枚の布に入るほどの短いものだが、「法滅尽経」とは、いかにも奇妙な題目である。
イェースズは、その本文を目で追ってみた。
「このように聞いている。ブッダはかつてクシナガラにいたが、タタガータとして三月にニルヴァーナには入ることになり、ビクシュたち、ボディーサトゥーヴァー、そしておびただしい数の民衆がブッダの所にやって来た。ブッダはただ黙って何も説かず、光明も現れない……」
今までイェースズが接したことがない、ただただ不思議なスートラだった。イェースズは一気に、最後まで読み通した。そしれ背筋に冷たいものが走り、それからというもの震えが止まらなくなった。それは、戦慄すべき未来の予言だったのである。
スートラはブッダとその弟子のアーナンダとの問答形式になっているが、読み進むにつれてブッダがアーナンダに語る恐ろしい未来図が展開されていくのだ。まず、アーナンダが「世尊のこれまでの説法の時はものすごい光を感じたものですけれど、今日はこんなに多くの人々が集まっているのに光を感じません。それはなぜなのですか?」という問いかけにブッダが答えている。それによると、正しい教えが滅びるときはまさに五逆五濁の世となり、魔道が興って魔僧すなわち偽の僧となり、ブッダの説く道を撹乱するようになるという。殺人や性の乱れが横行し、修行僧すら戒律をないがしろにして、魔王が跋扈する末法・末世の時代が訪れるというのだ。その時に立派な法を説き、善行を行う心正しき者が現れるが、人々はその者を誹謗して寺院より追放し、道徳は全く失われ、寺院は廃墟と化して財宝の集積場となり、戒律も形骸化し、法典も空念仏となって、唱える者がいてもその内容は全く分からず、ただ人々に強要するのみという。僧はただ栄華と名声を求め、多くのビクシュは地獄に落ちる。世は罪業で満ち、女性ばかりが精進しても男たちは法を顧みようともせず、僧を見ても糞土を見るがごときになる。そこで諸天龍神は嘆き悲しむが、ついに人類は見放されることになる。天候は不順となって作物は稔らず、疫病が流行し、政治倫理も廃れて収賄が横行し、人々は楽をすることばかりを考えて享楽追及し、悪に転じる者は海の砂のごとしである。善人の数は甚だ少なく、人々の寿命も短くなり、女性は長生きする場合もあるが、男性はその淫佚ゆえに精力が尽きて往々にして短命となる。さらに恐ろしいことに、そのような悪一色の世を大水が押し流し、人々はことごとく魚の餌になってしまうというのだ。
イェースズは最後まで読むことができず、途中でうつろな眼を上げ、アラマー仙を見た。
「こんな時代が、本当に来るのですか?」
「ブッダのスートラにそう書かれている以上、そうなるだろう」
「いつですか? それは」
「他のスートラでは世尊入滅後三千年となっておる。このスートラでは大水となっているが、別のスートラでは、世尊は『やがて火事で燃えているような家のごとき世の中になる』とおっしゃっておられる」
「火で焼かれる家のような世?」
「そう。火宅の世だ」
イェースズは再び両手に広げたスートラに目を落とした。
かつても世界中に大洪水が起こってノアの一族のみが箱舟に乗って助かったという話は、聖書をはじめゼンダ・アベスタなどにも載っている。そして預言書には過去の大洪水ばかりでなく、未来に天から火が降って人々が焼き尽くされるという話が、エゼキエルの書やダニエルの書など至る所に出ていた。そればかりでなく、エッセネの書にもあった。
イェースズは今までそれらの書物を、いかに観念で読んでいたかを思い知らされた。どこか遠い世界の絵空事のようなイメージをぬぐいきれずにいたのだ。しかし、魂を開いて思い出せば、それらは今手にしている「サッダルマー・ビプラローパ・スートラ」にも匹敵する戦慄の預言だったのだ。
「このスートラはサンガーでも見ませんでしたし、この題目も見たことないんですが」
「それはそうだ。世尊はこの内容を広く一切に告げよと仰せられたにもかかわらず、後世の弟子たちはこのスートラを、たとえサンガーのビクシュやビクシュニーに対してであろうとも公開してはならぬと決め、秘蔵してきたのだ。だから全ヨジャーナでも、こことあと数ヶ所以外には写本も存在していない」
「何で、そんなに秘密に?」
「内容が内容だから、真意を解しない人々にいたずらに公開すれば混乱を招くということを恐れたのだろう」
「では、その真意とは何なのですか? 神の怒りを買って人々が滅ぼされるまで、神様は救いの手を差し伸べて下さらないのでしょうか?」
アラマー仙はなぜか自信たっぷりに、ニコニコしてイェースズを見ていた。
「神の世界は奥の奥のそのまた奥がある実に深遠極まりない世界で、ひと言で説明することはできないよ。神大愛は大慈観ばかりでなく、大悲観も厳として持っておられることを忘れないことだな」
「しかし……」
イェースズは絶句した。果たしてここに繋れて入るような時代が本当に着たら、救いはどこにあるのかということが期になるのだ。そして、今の時代に自分は何をなすべきか、そしてそのことが来るべき時代にどうかかわってくるのかなどということが、彼の頭の中で渦巻いていた。それをすかさず読み取って、アラマー仙は口を開いた。
「君はそのスートラを、まだ途中までしか読んでいないだろう。最後まで読んでみたまえ」
言われてみれば確かにそうだったので、イェースズは手の中のスートラに目を落とした。
その最後の部分には、このような時代を経て後、マイトレーヤーが現生に下生してニルマヤカーナのブッダとなり、そうなると天下泰平となって毒気消除の世を迎え、五穀は稔って人々の背丈も寿命も伸びるという内容で結ばれていた。マイトレーヤーとはブッダの弟子の女性、すなわちビクシュニーで、唯識派の祖であるが、ここでいうマイトレーヤーとその人物とは違うと、アラマー仙は説明してくれた。それによると、このスートラに出てくる弥勒とは、第四兜卒界の内院に菩薩として報身の仏陀となって浄土を構え、やがて法滅の時代には応身のミロクとなって人々を救済するといわれているみ魂であるという。
「そのような聖霊によって世は救済されるのだが、君が今この現世でこの時代にしなければならないみ役は、追々示されるであろうよ。しかし、君自身がそれを見出すための努力をすることが、いちばん大切だ。忘れるなよ」
「はい」
イェースズは力なくうなずいた。
イェースズはスートラをアラマー仙に返し、尿意を覚えたので席をはずした。外へ出たイェースズの頭の中はいろいろなことが入りすぎ、飽和状態になっていた。彼は歩きながら首を何度も左右に倒していた。
そして戻ってきたイェースズは、こんな機会だからと用を足しながら考えていた疑問をぶつけることにした。それは、先ほどのスートラの冒頭の「ブッダはかつてクシーナーラーにいた」というくだりの、その「クシーナーラー」のことである。クシーナーラーとはブッダ入滅の地と言い伝えられている場所で、カーシーから北へ行った所に今でもある。だが、なぜかイェースズにはそれが気になるのだ。部屋に戻ったイェースズは、そのことを早速アラマー仙に聞いてみた。
「それはクイの国だよ」
アラマー仙はそう言いながらもわずかに目を細めたように、イェースズには思われた。
「本来この部分は『クイの国』となっていたのだ。それを後世になって、勝手に『クシ-ナーラー』に変えられたのだよ。クイの国はずっとずっと東の国で、すべての神理が明かされる国だという」
「カーシーよりも東なのですか?」
「カーシーどころの騒ぎではない。ここからカーシーまでの数十倍も東で、その地はまた世尊がサトリを開かれたサルナートでもある」
「え?」
アラマー仙はおかしなことを言うと、イェースズは思った。サルナートはカーシーの少し北にある町で、クシーナーラーとは別の町のはずである。しかも、サルナートはブッダが最初に説法をした町であって、サトリを開いたのはブッダガヤという所だともイェースズは聞いている。
「いいかね。よく聞くのだ」
「はい」
いきなり厳しい表情で言われ、イェースズは身を硬くした。
「世尊がサトリを開かれたのはサルナートだ。しかもそれは、今のサルナートではない。今のサルナートは、本物のサルナートではないのだ。世尊がサトリを開かれた町はサルナートと呼ばれるということだけが伝えられているので、おそらくここがそうだろうと推測してあとから作られた町が今のサルナートなのだよ。世尊の時代には、今のサルナートという町もクシーナーラーという町もなかった」
「では、本物のサルナートとは?」
「今も言ったように、ずっとずっと東のクイの国のことだ」
「カーシーの北ではなく、カーシーから見ても東なんですね」
「そうだ。サルナートとは、太陽が昇る国という意味だろう」
確かに、サルナートとはそういう意味である。
「世尊がお生まれになったカピラ・ヴァーストも、『太陽の城』という意味だろう」
カピラ・ヴァーストはゴータマ・ブッダの父のシェット・ダナー王の城だったが、その一族はシャキー・プトラーと呼ばれていた。だからゴータマ・ブッダのことを、釈尊と呼ぶ人々もいる。
「私の先祖のカララー仙とて、その東の国から派遣されてこの国土を開いたものの子孫なんだ」
イェースズは故国を離れて東の果てのこの国に来たという印象を持っていたが、それよりももっともっと東には何だかとてつもない国がありそうだという気がイェースズにはしてきた。そして、イェースズの頭の中にひらめいたことがあった。故国のエルサレムの神殿の東壁には、スザの門と呼ばれる絶対に開かない門があった。幼い頃に両親に聞いた話では、天の国の到来の時には太陽の出る国である東の果てのミズラホの国から白馬に載ったメシアが訪れ、その門を開くということだった。その国と、今聞いたクイの国とは何か関係がありそうだ。
イェースズは、目を上げた。
「ブッダは、その国で修行されていたのですね」
今まで一度も聞いたことのない話だったが、今のイェースズにはス直に受け入れられた。
「そうだ。そして世尊は五十二歳で再びその国に帰り、そこで入滅されたのだ」
「え?」
忘れかけていた一つの疑問が、イェースズの中で蘇った。それは、ブッダの入滅についてのことである。サンガーに入る前は、ゴータマ・シッタルダーと言う人は従兄のデーヴァダッタに背かれ、陰謀のもと殺されそうになったので逃げ出し、南の島国であるシンハラ国で行き倒れになって死んだと聞いていた。ところがサンガーでは、この話は憤りとともに否定された。ブッダは老齢になったので故郷のカピラ・ヴァーストを目指した旅に出たが、その途中クシーナーラーという町で食中毒のため発病し、沙羅双樹の木の下で涅槃に入ったということだった。
「いったいどっちが本当なのかと疑問に思っていましたけれど、また今度はブッダが東のクイの国で亡くなったなんて、いったいどれが本当なんですか?」
「シンハラの国で行き倒れになったというのが、嘘で本当で嘘だ。世尊の従兄弟のデーヴァダッタとアーナンダの兄弟はともに世尊の弟子になったが、デーヴァダッタは後に世尊に反感を持ち、世尊を殺して自分が教団の盟主になろうと謀ったのだ。その陰謀を知った世損は弟子たちにはっきりと『東の国のジャブドゥーバに帰る』と告げてこの国をあとにし、シンハラ国まで行った時に行き倒れの老人を見つけたのだ」
「行き倒れの老人?」
「そうだ。そして、世尊は自らが変装するためにその老人の衣をもらい、代わりにご自分の法衣をその老人に着せた。世尊の体から出る神のみ光が十分に乗った衣だから、その老人の魂も救われただろう」
「その行き倒れの老人が、ブッダということになって伝わっているのですか?」
「その通りだよ。あとから追ってきた弟子がその老人を見つけたんだが、なにしろ死んでからもう何日もたっておったから遺体も腐って顔も分からなくなっていたし、見慣れた師の法衣を着ていたものだからてっきり世尊のご遺体だと思ったのだな。それも無理はない話なのだが、いずれにせよ弟子たちはどこの誰とも分からない行き倒れの老人の遺体に甘茶をかけて浄め、その骨を世尊の遺骨として現在各地の精舎の仏舎利塔に祀ってあるという訳だ」
「はあ」
ただただ呆然として、イェースズは聞いていた。自分の知らなかった事実を知ったときの驚きが、氷解した疑問とともに熱い大河となって心の中で激流を作る。
「しかし、その後のブッダは?」
「その後かね。つまりその後に世尊は東の国であるクイの国、つまり日出づる国、世尊ご自身の言葉ではジャブドゥーバに渡って、そこで亡くなられたんだ。それが、世尊百十六歳の時だ」
「では、八十歳で亡くなったというのは……?」
「そんなのは、嘘だ。それで、世尊が東の国に去られたのが五十二歳の時で、それで先ほど見せたスートラにも『五十二歳』という数字が書いてあっただろう」
正直言って衝撃的な内容に気を取られていて、イェースズはそのような細かい所までは記憶に残っていなかった。
「『五十二歳で去る』という記述があるのは、同じスートラでもこの山に伝えられているものだけだ。ほかの物はなぜか故意にその部分が削られているという。本当の歴史を抹殺しようという動きによって、手が加えられたのだな」
東の果ての日出づる国、サルナート、クイの国、ジャブドゥーバ、ミズラホの国……それらの名称のすべてが今のイェースズに、熱いかたまりとなってぶつかってくる。
「その国に、僕も行ってみたいです」
ほとんど叫びに近いような声を、イェースズはアラマー仙に向けた。アラマー仙はただ、黙ってニコニコしていた。
「どうやったら行かれるんですか? その国へは」
「さあ。私も行ったことがないから、分からないのだよ」
アラマー仙は声を上げて笑った。それと対照的に、イェースズは落胆して視線を落とした。
「そんなにがっかりしなくてもいい。ここからまっすぐ東に行った所に、キショ・オタンという土地がある。君がいた精舎からだと白い巨大な山脈、雪の住処を越えた北側になるが、そこまで行けば何か分かるかもしれない」
「あの山の、北側……?」
イェースズが最初に入門した精舎からいつも見えていたまるで巨大な白い壁のような山々は、その頂が中点まで達していた。その向こうにも世界があるなどあの時は想像もできなかったが、ここからカーシーの方に向かってではなくまっすぐに東へ高原の上を進めば、あの山脈の北側に回ることになるという。
「そこには、かなりの数の古文献がある。魂の輪廻の秘密とか、昔の天変地異のこととか書いてある古文献だ」
「天変地異?」
「あのヒマ・アラヤーの山脈ができたいわれとか、東の方の海に沈んでしまった大陸にあった大帝国のこととかな」
イェースズはしばらく考えていたが、きっぱりと顔を上げた。
「じゃあ、そこへ行ってみます」
「そうか」
イェースズの顔は日がさしたように明るくなり、死んでいたその瞳に一条の光明がさした。それを、アラマー仙はしっかりと見据えていた。
「マハー・ヤーナの機根は東方にある。光も東方より来る。行け! 東へ行け。イェースズ!」
それから、アラマー仙は不意に出て行った。イェースズが不審に思っているうちにアラマー仙は戻ってきて、イェースズに一通の書状を手渡してくれた。
「キショ・オタンにはメングステ尊者という長老がおられる。紹介状を書いておいたから、持って行くとよい」
アラマー仙は立ったまま両腕を挙げ、左右の手のひらをイェースズに向けた。イェースズは一瞬、頭がくらっとするのを覚えた。
次の瞬間、イェースズはダンダカ山のふもとの、赤い土の谷間にいる自分を発見した。