8
数日後、イェースズは長老のビチャパチ尊者に呼ばれた。そして、狭い一室に二人だけで向かい合う形となった。相変わらずの雨の音は、遠慮なく室内を取り囲んでいた。
「先日の、ぶどう畑の話じゃが」
それを聞いてイェースズの瞳は輝き、まっすぐにしビチャパチの白いひげを見た。
「世の中いかにきらびやかに見える儀式や形式が人々の赤裸々な本質を腐らせているかを、ぶどうの枝葉と幹にたとえただけですよ」
ビチャパチはそれを聞いて何かを考えているようなので、イェースズもうつむいてしばらく沈黙を守った。それから少し顔を上げた。
「やがて訪れるでありましょう未来においては、僧も寺院も生き物の供物も、神様にとっては一切が不要になるはずですから」
「では、動物の生け贄は、いけないことと言うのかな?」
「そんなもので人々を救うことはできない、人々を神様のみ意にかなった生活へと導くことはできないと私は思ってます」
「まだ若いのう」
ビチャパチが目を細めて笑みも含めながらおだやかに言うので、イェースズも思わず顔を正面まで上げた。ビチャパチは言った。
「そなたの考えは正しい。根本のところでは正しい。しかしだ」
その言葉には力が入っていた。
「今、行われている儀式も形式も、不必要なものではないよ」
イェースズは黙って、ビチャパチの顔を見ていた。
「もちろん、儀式や形式が先行して中身がなくなってしまってはだめだが、儀式も形式も人々の心の中の状態を形に表したものだからね。つまり、そういったことの象徴として、儀式なども行われるのだよ。人が本当に自分から命を絶つことはよくないことだが、しかしそれくらいの気概を持って、他人のために喜んで命をも捨てるという愛が求められているんじゃ。犠牲というのは、そのことの象徴じゃ。そういったことを教えるための方便なのじゃよ」
「ウパーヤ・カウシャルヤ……」
「世尊もそういった方法でまず民衆を説き、それから真理へと近づけといくというやり方をされた」
「つまり、そのウパーヤ・カウシャルヤが不必要な段階になってはじめて、真理に到達するという訳ですね?」
「その通りじゃ。来るべき時代は、やがて正法の世から像法、末法末世となっていく。完全な時代は、まだその先じゃ。だから今は、まだまだ方便が必要な世の中なのじゃよ」
イェースズは一つため息をつくと、ゆっくり口を開いた。
「神様からご覧になった場合、僧侶が華美な服装をしたり豪華な寺院を建てたりすることはそのみ意に反することだと僕は思うんです。いくら外観絢爛に咲き誇っても、その中身が腐り果てているのでは何にもならないのではないでしょうか。自分が神に仕える身だということを顕示して、誇らしげに着飾って歩いたりするのは、神様が最もお嫌いになることなのではないかと……」
ビチャパチは、そこでひとつ咳払いをした。そして落ち着いた声で、優しくゆっくりとイェースズに言った。
「今はまだ霊の時代ではない。まだまだ霊を主体とした時代ではなく物が主体の時代で、もうしばらくは続くじゃろう。僧はマハーバラモンのようなきらびやかな僧衣をまとって、自分がいかにも神や仏に敬虔に仕えている身であるかを誇示していくじゃろうな。しかし、いつかはそのような時代は終わる。その時は弥勒が下生し、完全な時代が訪れ、特別な僧衣などなくなるのじゃよ」
イェースズは、思わず身を乗り出した。
「そのときは、いつ訪れるんですか?」
「さあ。わしも知らん」
その時、部屋の外を廊下の方から駆けてくる足音があった。
「長老!」
大声でビチャパチを呼ぶ声も聞こえる。これはただ事であるはずがない。
「大変です!」
果たして駆け込んで来たビクシュは、息を切らしながら叫んだ。
「倒れて、うなっている人がいます!」
「何?」
ビチャパチは、勢いよく立ち上がった。
「倒れているって、村人がか?」
「いえ。この精舎のビクシュです。講堂の方で苦しがって、転がりまわってうなっています。かなりの高熱のようです」
「そうか。すぐ行く」
ビチャパチは、慌てて部屋を出ていった。イェースズもすぐにそれを追った。ゴータマ・ブッダも自分と同じ力を持っていたとかつてイェースズは聞いていたので、この精舎の人々もどのような力を使うのか、イェースズは廊下を走りながらも少なからぬ興味を抱きつつ考えていた。
熱でうなっていたのは割と若いビクシュで、広い講堂の片隅に寝かされて真っ赤な顔でうなっていた。顔全体から汗が噴き出し、苦痛にゆがんだその顔を左右に激しく振って歯を食いしばっている。その形相は、まさしくアシュラー像のようだった。
ビチャパチはビクシュたちの群れをかき分けて、病人のそばへ歩み寄った。そして腰をかがめ、そっと病人の額へと手を伸ばした。イェースズはお手並み拝見とばかりに、僧たちの後ろから身を乗り出すようにしてビチャパチの手の先を凝視した。ビチャパチは、しばらく黙ったままだった。念を凝集しているのだなとイェースズが自分の時の事と合わせて考えていると、ビチャパチはすぐに顔を上げた。
「こりゃ、たしかにすごい熱だ。医者は呼んだのかね」
イェースズは、耳を疑った。ビチャパチはただ熱を計るために額に手をやっただけであって、さらには医者を呼ぼうとまでしている。
「はい。すぐに来てくれるそうです」
「そうかね」
一人のビクシュの報告に、ビチャパチは手を離して立ち上がった。
「どこかね、病人とは」
そこへサンガーいるはずのない普通のクシャトリヤの服装の男が、講堂に入ってきた。これが医者だろう。医者は病人の熱を計ったり、胸に耳をあてて呼吸を調べたり、脈をとったりした後、
「心配はない。この季節にありがちな熱病だ。私のクスリを飲んで、一晩寝れば必ず治る」
と、居丈高に言い放ち、わらに包んだ生薬を置いて肩で風を切って出ていった。まるでバラモンなどよりもより一層、自分こそ神の使いであるといわんばかりの態度だった。
生薬は小石ほどの大きさの丸いクスリで、クスリはたいてい草や木の根をいぶして丸めるか、あるいは煎じて飲む。その草や木の根はたいてい臭い根で、臭いほどいいというのだ。そのクスリを見ながら、かつてウドラカが「クスリが病気を治すなんて、とんでもない迷信だ」と、言っていたのをイェースズは思い出した。
そこでイェースズは遠慮がちに人々をかき分け、立てひざのまま病人の脇に進んだ。
「すごい熱って、どんな熱ですか」
白々しくもイェースズはそう言いながら、病人の額に手を差し伸べた。
「たしかに、すごい熱ですね」
そう言いながらもイェースズは、そのまま手を額に当て続けた。そして念を集中し、高次元のエネルギーを自らの体に集め、掌を通して病人に注ぎ込んだ。
イェースズがずっとそうしているのでまわりのビクシュたちは奇異に感じはじめたらしく、しばらくするとざわめきだした。ところが、クスリを飲むために湯を用意してきたものが戻ってきたときには病人の熱はすっかり下がり、平然とした顔で上半身を起き上がらせていた。
「うわ! どうしたんだ?」
人々の間で、一斉に叫び声が上がった。
「おい.もう何ともないのか?」
一人のビクシュは、病人だったものに何度も尋ねていた。
「ああ、苦しかったのが嘘みたいだ。全身に力があふれて、かえって前よりも気分がいいくらいだよ」
「ちょっと……」
あるものはイェースズにそう言ってから、
「手を見せてくれないか」
と、イェースズの手を取ってしげしげと眺めていた。今度はイェースズが目をあげ、ビチャパチを見た。
「どうして、医者を呼んだのですか?」
この問いに、ビチャパチは一瞬戸惑っていたようだった。
「どうしてって、病人が出たら医者を呼ぶものじゃろう。あの医者は、この精舎の専属だしのう」
そんなビチャパチを、イェースズはしっかりと見据えて言った。
「聞くところによると、ブッダも僕が今やったようにして病人を癒したというではありませんか。どうして、このサンガーではそのようにしないのですか」
「世尊は、われわれ凡人を超越したお方じゃ。世尊にできたとて、我われにできる訳ではない」
それで果たして本当にブッダの弟子といえるだろうかと、イェースズの中に疑問がひしひしとわき上がってきた。
「当時のブッダのお弟子では、ブッダと同じような癒しの業をされた方はいらっしゃらなかったのですか?」
「いや、おひと方だけ、当時の長老のマハー・モンガラナー尊者は、ブッダと同じような力を持っておられたそうだ。モンガラナー尊者は、あの世までも見通す神通力を持っておられたということじゃよ」
「たった一人?」
「そうじゃ。しかし、過去世の記憶を取り戻してアラハンの境地に達したお弟子は、五百人にも達したというが」
「過去世の記憶を取り戻す……とは?」
「過去世の言葉で、しゃべり出すんじゃよ」
それは危ないと、イェースズは思った。異言が過去世の記憶を取り戻した証拠になるというが、異言とは憑依する動物霊か地獄霊が表面に浮き出した、いわゆる浮霊現象のことではないかとイェースズは思うのだ。第一、アラハンとなって過去世の記憶を取り戻すことを目的として修行するなら、輪廻のめぐりの中で人は前世への執着を絶って過去世を忘れるためにあの世では修行し、しかるのちに再生転生を繰り返すというブッダの教えと矛盾する。しかし、そのことはあえて口に出さず、イェースズをもう一度クスリを見た。
「この国の第一の医者が、クスリは毒だと言っていましたけれど」
「そう。確かにそうじゃ。しかし、病も毒によって起きるのじゃよ。つまり、毒をもって毒を制するんじゃ」
緊張がほぐれたようにやっと笑みを取り戻したビチャパチはそれだけ言ったが、真剣な表情のイェースズはまだ食い下がってくる。
「しかし、神様が全智全能を振り絞られてつくられた人の体に毒を入れるというのは、たとえ毒を制するためといっても許されることなのでしょうか」
「すべてはウパーヤ・カルシャルヤじゃよ」
再び厳しい表情になってビチャパチは言い放ち、一同に解散を命じた。
その夜、イェースズはなかなか寝つけなかった。そこで、寝床の中で雨の音を聞きながら考えた。
……ゴータマ・シッタルダーという人は自分と同じような、あるいはもしかしたら自分以上の力を持って病を癒して歩いた人だったということは、スートラにより明らかである。だから、その教えも間違いはないだろう。しかし、今のサンガーはどうだろうか。ブッダの力で病人を癒すどころか、サンガーが医者を雇っている。人の病すら癒せない神力仏力で、どうして魂の病を癒す僧という立場を主張できるだろうか。どうして、魂の次元で人を救うことができるのだろうか……。イェースズの疑惑はどんどん膨らんでくる。しかし、その思いに待ったもかかる。……今、この小さな精舎で、ブッダ・サンガーのすべてを断定してしまうのは早計すぎないか……。精舎はほかにも無数にあるはずだ。そのほかの精舎の一つも知らないで、ああだこうだと理屈をつけるのは人知にほかなるまい……。
そう思ったイェースズの中に、この国のさまざまな精舎をめぐり、またブッダが実際に歩いた道や悟りの地のサルナートをはじめ説法した場所を、その目でどうしても見たいという思いがわき上がってきた。そうすればきっと何か得ることがあるし、少なくともここにいるよりはずっといいと思ったイェースズは、今が雨季であることなどすっかり忘れていた。だから、明日はビチャパチにこのこと申し出ようと思い、そのうちに眠りに落ちていった。
これには、さすがにビチャパチも驚いた。イェースズがブッダの足跡をたどる旅に出たいという申し出の内容についてではない。サルナートの開悟地、ジェッター・ヴェナーやヴェル・ヴェナー、そしてこの当時のブッダ・サンガーの一大拠点であるナーランダーやサーンチーなどを巡礼することは大いに奨励されるべきことであるし、また実際にそれらの聖跡を巡る修行者も多い。
ビチャパチが驚いたのは、イェースズがこの雨季の真っ只中に出かけると言いだしたことについてであった。どうしても必要があってという外出さえ困難なこの時期に、一人で旅をするなど常識の範疇を超えていたからだ。
「何も、今行かなくても……」
ビチャパチが返答に窮していると、
「いえ。雨季が終わるまでなど待てません」
と、強い口調でイェースズは言った。周りで聞いていた仲間たちも、驚いたような表情でイェースズを見た。そして口々に、この国の雨季が半端なものではなく、そんな時期に旅をするのは自殺行為だなどと言ってイェースズを思いとどまらせようとした。しかし、イェースズの決意は固かった。
それを目を閉じて静かに聞いていたビチャパチは、しばらく何かを考えているようだった。そして、静かに目を開けた。
「よかろう。道中気をつけてな」
皆の驚きの目は、今度は一斉にビチャパチに向けられた。ビチャパチは微笑んで、イェースズに向かってゆっくりとうなずいた。イェースズのビクシュたちの前での説法、不思議な癒しの業、そしてかつてのアラボーとの問答も立ち聞きしていたビチャパチだけに、どんな雨季でもイェースズなら大丈夫だと判断を下したのだろう。
「はい。有り難うございます」
イェースズはビチャパチの前で、手を合わせた。その日から、イェースズの旅支度が始まった。雨季だから托鉢はままならぬであろうと、数日分の食糧は精舎が持たせてくれることになった。そして、雨も幾分小降りになったと思われる頃、ビチャパチやビクシュたちに見送られてイェースズは旅に出た。
まず目指したのは、サルナートだった。だいたいの方角は、ビチャパチから聞いてきている。カーシーからここまで来た道のちょうど中間地点にサルナートはあるので、つまりはもと来た道を戻ればいいのである。旅は、高地を伝っての旅となった。低地は水浸しで、とても歩けたものではない。それでもどうしても必要なときは、食糧を頭に乗せて腰まで水に浸かって歩いたりもした。
こういう時期なので森林や平野での野宿は不可能であり、岩山を選んで歩いては夜寝るための適当な洞窟も探さねばならない。ある時は手ごろな洞窟が見つかったが、暗くなるまではまだ間があると思って素通りし、いざ暗くなるといい洞窟が全く見つからずに、仕方なくそれだけの距離を引き返したこともある。重い食糧を背負って雨の中の山道を歩くのは、決して容易なことではない。そこでそれからは、いい洞窟があれば、まだ明るくてもそこに逗留することにした。しかし洞窟は往々にして蛇や猛獣の棲みかとなっていることが多く、それがいちばん恐いことだった。
しかし、かつて聞いた話だと、ブッダはのちに弟子になるウルヴェラ・カシャパーという男に、大蛇の棲む洞窟に泊められたことがあったという。しかしブッダは大蛇とともに一夜を明かし、翌朝元気に洞窟から出てきたので、それがきっかけでそれまでブッダに敵対心を抱いていたウルヴェラ・カシャパーはブッダに帰依したのだということだった。
要はそれだと、イェースズは思っていた。たとえ猛獣に対してでも調和の心で接すれば、相手がよほど空腹であるかあるいはこちらから危害を加えたりしたなどという場合は別として、恐れる必要はないとイェースズは考えていたのだ。
そうこうして何日も洞窟に寝泊まりしつつイェースズは進んだが、目的地はまだ遠いようだった。来る時は数日で来た道のりだったが、今は雨季の中の旅であり、条件が違う。イェースズは洞窟の入り口で焚き火をしながら、座ってぼんやりと暗い外を見ていた。洞窟の外は、相変わらずの雨だった。
サルナートで、そしてナーランダーで果たしてブッダの本当の教えに接することができるのかどうかについて、イェースズには一抹の不安があった。ブッダがどんな素晴らしい法を説いたところでもう五百年はたっているし、その間には人知による尾びれもつくだろうし、また観念化、哲学化もしているだろう。真理は永遠不滅であっても、ひとたび現界に下ろされたらすべてのものは変化してしまうのだ。そのことはブッダ自身も説いていることだし、ブッダの教えとて例外ではないはずだ。
その時、イェースズの心の中で、五百年の歳月越しに人づてで聞くブッダの教えではなく、直接の真のブッダの教えを切実に聞きたいという思いがひしひしと湧きあがってきた。そしてそれが居ても立ってもいられないほどの強い念となって、自分自身でさえ体が熱くなるのを感じたほどである。
そして次の瞬間、炎の向こうの洞窟の外の闇が突然輝きはじめた。炎の明るさとは違った、まさしく霊光とでもいうべきまぶしさである。
イェースズは驚いて、目を凝らした。
そしてさらにその次の瞬間には、イェースズは別の場所に立っていた。現界の明るさとは別の黄金色の光の洪水の中に、立っているのか浮いているのかも分からないような感覚で彼は存在していた。
前にも一度このような幽体離脱経験を持っていたイェースズは、さほどうろたえもせずに静かに現実を直視していた。
すると、目の前の黄金の光の中に、微かに人影が見えてきた。あまりの光の渦に塗りつぶされ、輪郭も定かではない。
イェースズは、人影の方に一歩近づいて見た。人影は女性のようだった。長い髪で、実に神々しい姿をしていることが、次第にはっきりとしてきたのである。透き通るような純白の衣を着たその女性は、額のあたりから燦々と光を発していた。そしてその目は、涙に潤んでいるようだった。
「やっと、お会いできましたね」
そう言われてイェースズの心は戸惑っていたが、なぜか魂の方がス直に感じて、
「はい」
と答えていた。この女性が誰なのか知らないはずなのに、イェースズの頭の先からつま先まで電流が走ったように懐かしさがどんどん湧きあがってくる。本当に、やっと再開できたという感じで、胸の中に熱いものがこみ上げてきて、涙があふれて止まらない。
この自分の感覚が不思議で、イェースズは相手の女性と互いに涙を流しながら無言で見つめあって立っていた。
やがて、女性の方から沈黙を破り、
「こんなに早くお会いできるとは、思っていませんでした」
と、慈愛に満ちた言葉で語りかけてきた。その言霊には、それだけで魂を和ませる波動があった。だが、同時にそこには、厳しさも感じられた。
「本来なら、あなたが肉体を有して現界にいる間は、そばにいてもこうしてお会いすることは許されておりませんから」
「あなたはいったい……。なんだかすごく懐かしい。あなたとは、深い因縁があるような気がしますが……」
「あなたに私が分からないのも、今は無理ないでしょう。あなたが幼い頃から聞いていたエッセネの教えの中にある、守護の天使とでも思ってくださればそれでいいでしょう」
「天使なのですね、あなたは」
イェースズは、慌ててその場にひれ伏そうとした。だが、女性の方からイェースズに歩み寄り、そのイェースズの動作を制した。
「天使というのを人間を超越した存在と考えるなら、その教えは間違っています」
イェースズは促されるままに立ち上がった。気がつくと自分自身もいつの間にか黄色い僧衣ではなく、相手の女性と同じような純白に輝く衣を着していた。
「天使というのは肉体の世界である地上よりもずっと高次元に住する魂で、もはや肉体をも必要としない存在のことです。私とて肉体という衣を着して地上に降り、あなたが今生きている世界で暮らしていたこともあります」
「人間だったのですか?」
「ええ、一時期は。でも、本来の私の魂は、あなたの魂とはいわば兄弟なのです。あなたとは、それだけ強い因縁があるのですね。今あなたは、私を真剣に求めました。その念が、今こうして私とあなたが対面できるパワーを生んだのでしょう」
「僕が、あなたを求めた……?」
「そうです。私は、あなたが求めたものです。私が地上で生きていたときの名前は、ゴータマ・シッタルダーといいました」
「え?」
イェースズはしばらく言葉を失って、目の前で柔和な笑顔を見せる美しい女性を見ていた。今確かにこの女性は、自分がゴータマ・シッタルダーだと名乗った。だがゴータマ・シッタルダー、すなわちブッダが女性であるはずがない……。
「信じられないのも、無理はありません」
イェースズは再び驚いた。心で思っただけなのに、相手には通じてしまっている。ここは想念だけで通じる世界なのらしい。
そこでイェースズは、あたりを見回して見た。黄金の光の渦だけだったはずの世界が、いつの間にか色とりどりの花が咲き乱れる野に変わっており、そんな中に自分は立っている。花畑には小川が流れ、遠くには山も見える。それらすべてが、明るい陽光の中で輝いていた。
ブッダと名乗った女性の背後には黄金の屋根の寺院のような建造物が幾棟も建ち並んでいるが、今イェースズが住んでいるこの国のものとも、また故郷のガリラヤやエルサレムのものなどとも全く違う形をした不思議な寺院だった。地上のどこの国の文化にも属していないような気さえする。
「私、ゴータマ・シッタルダーは、本当は女なのです。地上にゴータマ・シッタルダーとして生まれた特だけ、仮に男として生まれたのにすぎないのです。かつてこの第四トゥシタ界にもっと高次元の第五の界から天下って男に化けて、あなたが今いる第三の界の地上に誕生した訳です。そして再びこのトゥシタ界に戻り、しばらくしてからさらに高次元へと戻っておりました。そして今回はあなたが地上に出るに当たって、再びこの第四の界まで降りてきたのです」
イェースズには、話がよく分からなかった。そこで首をかしげていると、ブッダである女性は潤んだ目のまま微笑んで言った。
「今、あなたは地上で修行の身ですからはっきりと申しあげる訳にはいきませんが、さっきも言いましたように、あなたと私はもっともっと高次元の世界ではかつて兄弟だったのですよ。でも、人は一度地上に下ろされると、すべてが分からなくなってしまうのです。肉体という衣を着ると、何も見えなくなってしまうんですね。光の天使として使命をもって地上に下ろされた指導霊が地上で堕落し、いまでは地獄の支配者になっているという例もずいぶんあります。私も苦労しました。地上で悟りを開く前は、ずいぶんと悩んだものです。そしてこちらへ戻ってからも地上で積んだ穢れのためにすぐには高次元へ帰れず、この第四トゥシタ界でしばらくは垢落としをしたものです」
「では、ここは人が死んだら来る世界なのですね」
イェースズは、恐る恐る尋ねてみた。
「ここはトゥシタ界の内院、浄土です。たいていの人は外院、穢土に生まれ変わるのが実情です。そこで地上の垢を落とし、執着を断ち、そして再び地上に下りるのです。そうした輪廻の輪から解脱し得て浄まった魂のみ、この内院に入れるのですよ」
「私は、死んだのですか……?」
「その黄金の糸をごらんなさい」
確かにイェースズの今の体から二本の黄金の糸が、ずっと下の方へと続いている。よく見ると、その下の方の洞窟の中の炎のそばに倒れている自分が見える。その倒れている自分と今の自分が、黄金の糸で結ばれているのだ。
「その糸が切れたら、はじめて死んだことになってしまいます。でもあなたはまだ地上に置いてきたあなたの肉体と霊波線がつながっていますから、まだ肉体に戻れますよ。死んではいません。心配する必要はありませんよ」
すっかり調和の取れた心になったイェースズは、ブッダの言葉に素直に笑えるようになっていた。
「ところであなたがブッダなら、教えてほしいことがたくさんあるんです。僕は、本当のあなたの法を知りたいんです」
ブッダはそれを聞いて、静かに首を横に振った。
「ここでこうしてあなたとお話をしているということ自体、本当は絶対にあり得ないことなのですよ。でも、神様が特別にお許し下さったのでしょう。あなたがそれだけのみ魂だということでしょうね。しかし、それ以上は許されないこともあるのです。今ここで私があなたに説法することはたしかにたやすいことですけれど、それはあなたのためにはなりません。あなたは地上で修行している以上、自覚つまり自己確立を地上にてしなければなりませ。神様から特別のお許しがあったとしても、それはそれからのことです。ただ……」
「ただ?」
「ヒントぐらいなら、与えてもいいでしょう。あなたはサルナートへ行こうとしていますが、今のサルナートにもナーランダーにも、そのほかのもろもろの精舎にも、もはや私の心はありません。唯一、私の法に接したければ、ガンダーラのダンダカ山を訪ねなさい。そこには私が地上にいた時の私の師であったカララー仙の子孫がいます。そのものに教えを請いなさい」
「ダンダカ山? それはどこにあるのですか?」
「進路を変えて、西北へ進むのです」
しばらく、ブッダは黙っていった。そして、ふたたび口を開いた。
「私は自分が悟ったことを何もかも人々に告げることは、地上では許されていませんでした。今はそういう時代なのです。すべての真実を告げ、人々が全くその通りに生活したら、たちまち皆がニルヴァーナに入ってしまうでしょう。しかし、後に残されるのはいまだに地上で悩む衆生です。悩み苦しむ衆生を放っておいて自分たちだけがニルヴァーナに達するのは、神様のみ意でしょうか? 地上に下ろされたからにはそれだけ神様からのお倚さしがあるはずですから、衆生とともに精進し、衆生の救いをあなたは考えねばなりません」
「あの、一つだけ教えて下さい。私はこのまま、今いる国にいていいのですか?」
イェースズはほとんどすがりつく思いで、ブッダに近づいた。すると再び周りは黄金の光に包まれた。その光の中で輪郭もぼやけながら、女性の姿のブッダは遠のいて行く。
「行ってしまうのですか?」
イェースズは叫んだ。すると、光の中から声がした。
「すべては、カララー仙の子孫に聞きなさい。あなたが行くべきケントマティーについても、彼がヒントを与えてくれるでしょう。私はどこにも行きません。常にあなたとともにます」
次の瞬間、イェースズは洞窟の中の炎のそばで気がついた。いつもの黄色い僧衣を着ていた。
すべてが夢だったのかと、イェースズの頭の中にそのようなことがよぎった。しかしこのような極彩色の現実のような夢があるだろうか……。いや、逆に今の自分のような幽体離脱の体験を人々は夢と称しているのかもしれない。いずれにせよ、あれは夢などではなかったとイェースズは確信した。だから、ガンダーラのダンダカ山へ行って、カララー仙の子孫という人に会ってみよう、またそうしなければならないとイェースズは思った。本当にそのような人がいるのかどうかは、ダンダカ山へ行けば分かる。また、ダンダカ山という山が本当にあるのかどうかも、行ってみれば分かる。だからとりあえずそのダンダカ山に、イェースズは向うことにした。
翌日から進路を変え、イェースズは西北へと向かった。ガンダーラというのがどこにあるのかも知らない。もしかしたら、サルナートやカーシーなどの比ではなく、遥かな遠い世界なのかもしれない。しかし、ガンダーラへは行かねばならぬ、行ってダンダカ山を探さねばならぬとイェースズは強く感じていた。それに、自分はもう一人ではないという強い自覚がイェースズの中にあった。あの美しい女性――自分の守護の天使であるゴータマ・ブッダが、目に見えなくてもともにいてくれる……その確信が自信へとつながっていた。
数日歩いたのち、山地は終わって大平原が目前に広がる地点までイェースズはやってきた。雨は依然として降り続いている。ずっと遠くまで続く地平線までの平原は、まるで大海原のごとく一面の泥の海の濁流となってすごい勢いで流れている。丘の上に立ってそれを眺め、目前で繰り広げられている大展開にイェースズは思わず息をのんだ。塗りつぶされたような灰色の世界だ。空一面に黒く垂れこめる雲はさまざまな紋様を描きながら、ものすごい速さで一定方向へと流れて行った。その雲からは絶え間なく雨の糸が泥の海となった大地へと降り注ぐ。そんな黒い雲と灰色の泥の海とに挟まれたわずかな空間に、時間から取り残されたようにイェースズは立ちすくんでいた。