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酷暑のまっただ中での日々が続いた。
日陰へ入れば涼しいし、夜はそれなりに気温が下がる。それでも、暑さによる不快感は人々をいらだたせる。それはイスラエルでは、よほどの砂漠へ行かない限りあり得ないような酷暑だった。
そんな毎日でも、イェースズはウドラカから聞いた悪霊のことが気にかかって仕方なかった。ときには病をうったえ、寝込むシャーミーも仲間の中にはいる。そのたびにこれも悪霊の仕業なのだろうかと、イェースズはしみじみと眺めてしまう。ウドラカはあのように言ってはいたが、今の自分の力をもってしてさえ悪霊を制するとなると全く自信はなかった。
そのうち、雨季に備えての食糧調達係りにイェースズは当たった。雨季の間はあまり外出もできなくなるからだということだ。二、三人のシャーミーとともに、イェースズは郊外の山林の中へと向かった。ヤシが点在する一面の大草原を大陸に向かって一日も歩くと、なだらかな山岳地帯にぶつかる。それを超えれば大高原となるのだが、その山岳地帯では多くのサロモンたちが独自で修行をしている姿が見られた。イェースズたち三人は、そんなサロモンたちの修行の間を邪魔にならないように進んだ。思いおもいの岩陰や大樹のもとで、サロモンたちは禅定して瞑想にふけっている。それがサロモンの修行ようだ。たとえその耳元で大声で騒ぎ、その体を揺り動かしたとしても彼らの禅定は解けそうもないような波動が伝わってくる。
その旅の間でもイェースズの頭からはウドラカから聞いた悪霊のことが離れなかった。それまでのイェースズの概念では、理解し難いことである。確かに悪魔についてなら、幼いころから両親やエッセネ教団の教師から教わってきた。しかし、それが何であるのかはっきりしたことは分からないし、また悪魔とウドラカがいう悪霊とは同じものなのかどうかということも分からない。イェースズの知っている悪魔とは、よく装飾のある門の両脇に住んでいるとかいわれている。だから、エッセネ人たちは決して装飾のある門をくぐらないのである。
実はサロモンがたくさん修行しているという山野へ行くというので、イェースズはサロモンにその点をぜひ聞いてみたいという腹でやってきた。しかし、実際現地で見るサロモンの様子は、とてもそのような質問ができる雰囲気ではなかった。
「皆、何を考えているのだろう」
イェースズは仲間のシャーミーに、歩きながら小声で聞いてみた。そのシャーミーはもっと声を落とすようにイェースズに合図した後、耳もとでささやいた。
「僕らシャーミーの預かり知るところではないけれど、徹底的に自我を見つめて、それによって悟りを開くそうだよ」
「悟りを開くって?」
「つまり、シュバラーの境地に達することさ」
シュバラーとは完全に神人一体化した境地のことで、観自在力を保有することである。イェースズはどこかに禅定をしていないサロモンはいないものかと辺りを見回したが、どこにもそのようなサロモンは見当たらなかった。
やがて一行は、山の上のような狭い平らな土地に出た。目の前には平原が広がっているが、振り向けば大地が遥か下に霞んでいた。ここではさらに多くのサロモンたちが修行していた。しかもただの禅定だけではなく、炎を燃やしてその上での禅定や、訳の分からない呪文を唱えながら何度も水を頭からかぶっているものなどの姿もあった。肉体を苦しめることで煩悩を消し去ろうとしているようだ。中にはわざと先の尖った石を集めて、その上で禅定している者もいる。見るとひざから下が血だらけだ。イェースズは、思わず目をそむけてしまった。この残酷な光景がどうして悟りと結びつくのか、彼にはどうしてもその答えが見いだせなかった。
ここでも、彼が疑問をぶつけることができるようなサロモンはいそうもなかった。
「ちょっと待って」
イェースズは、仲間のシャーミーを呼び止めた。
「僕も瞑想してみたい」
二人の仲間のシャーミーは、驚いたような表情を見せた。
「瞑想って、僕らはまだシャーミーだよ」
「いいじゃないか、ちょっとまねごとさ」
イェースズはそう言い捨てて、さっさと修行場全体が見渡せる岩の上で見よう見まねの禅定を始めてしまった。二人のシャーミーはあきれたような顔でそれを見ていたが、やがて程近い岩の上に腰をおろし何やらひそひそと話し始めた。
イェースズにはサロモンたちがなぜそのような禅定するのか、その心が分からなかった。だから、その心情を理解するには、同じようなことをしてみるのがいちばんよいではないかと考えたのである。しかし、禅定したからといって、なにを瞑想したらいいのか皆目分からない。ただ格好だけをまねして目を閉じてみても、頭に浮かんでくるのは雑念ばかりだ。雑念の中でも特に強いのは、やはり悪霊に関することだった。
イェースズはそっと目を開けた。足もしびれてきている。ところが目を開けたとたん、そこには驚くべき光景があった。修行場全体に言い知れぬ妖気が漂っていたのである。はっきりと肉眼でそう見えるわけではないが、灰色の靄で覆われたような妖気が彼の魂にずっしりと響いてきた。
イェースズは三度ばかり目をこすった。そうして、もう一度あたりを見回してみた。サロモンたちは相変わらず苦行に励んでおり、その苦行にじっと耐えて、顔は苦痛にゆがんでいた。そんなサロモンたちの体の周りを、やはり灰色の靄が包んでいるのもイェースズは見た。包んでいるというより、サロモンたちの体からその靄は発せられているようにも見える。
その時、空中を無数に飛来している白い物体が、イェースズの目に映った。その目とは肉の目ではない。従って物体というのは、形ある物質ではないようだ。
イェースズは、心を落ち着けることにした。大きく深呼吸をして、心をいかに静かな調和とれた状態にするか、この与えられた大自然といかに一体化して溶け込むかに努めた。
するとその白い飛来物は、その形をだんだんあらわにしてきた。ほとんどは動物だった。キツネ、タヌキ、ヘビなどのほか、牛もいた。そして動物ばかりでなく血みどろのクシャトリヤや、髪をふり乱し苦痛にあえぐ表情の女などもおり、それらは同じような苦悶の表情で修行しているサロモンの体の中にどんどん入っていく。サロモンたちの苦悶はますます深刻になる。白い実体のない様々な形の靄たちは、イェースズのそばには来られないようだ。イェースズの耳、それも肉の耳ではないもっと奥深い耳には、空中に飛び交う悲鳴やすすり泣きなども同時に聞こえていた。
すると、右前方で足音がした。今度は肉耳に響く音だった。見ると、禅定に入っていないサロモンが一人、こちらへ向かって歩いてくる。しかし、その背中には四つ足の動物がぶら下がって、しっかりと取り憑いているのがイェースズには見えた。
イェースズは立ち上がった。
その瞬間、肉の眼が彼の五官を再び支配し、修行場全体を包む妖気も白い靄も空中を飛来する物体も、そして歩いてくるサロモンの背中に負ぶさる動物も一瞬にして消えた。
サロモンは、すでにイェースズのそばまで近づいてきていた。すべてが太陽の降り注ぐ、何事もなかったような修行場となっていた。ただ、サロモンたちの苦行はそのまま続いていた。
岩の上に立ちあがったイェースズに、白い髭のサロモンは下から見上げる形となった。
「君はシャーミーだね。なぜこのようなところで禅定しているのかな」
イェースズの仲間の二人のシャーミーは首だけこちらに向けており、ここへ来る様子はない。イェースズは岩から降りた。
「雨季の食糧の調達に来ました。そうしたら皆さんがここで修行されていたので、僕も皆さんのまねをしてみたくなって禅定してみました」
「それで、何か悟ったのかね」
「いいえ、雑念ばかり浮かんで……」
「早く食料を集めて、帰りなさい」
それだけを言い残すと、サロモンは少し曲がった腰をかばい、イェースズに背を向けて立ち去ろうとした。
「あのう」
イェースズに呼び止められたサロモンは、首だけを振り向かせた。
「まだ何か用かね」
「どうしてもお聞きしたいことがあるんです」
うさん臭そうにそのサロモンはイェースズのもとにゆっくりと戻り、そして十四歳の少年をじっと見た。
「空中の悪霊について、お伺いしたいんです」
「悪霊?」
「はい。空中の悪霊が人に災いをし、病にいたらしめるということを聞いたんですが、本当でしょうか」
一瞬怪訝そうな顔をしたサロモンだったが、急にしたり顔でイェースズをにらみつけた。
「君は、自分の寺院でいったい何を学んでいるのかね」
「何をって、長老からヴェーダについて……」
「そのヴェーダだよ。すべての答えはヴェーダにある」
「アスラ……。ラークシャサ」
「そう。それだよ。分かっているじゃないか」
アスラとはヴェーダに出てくる魔族で、同じくラークシャサとは魔性神だ。これらについてはヴェーダを通して確かにひと通りの知識を持っていたが、イェースズにはどうも納得いかない点があった。ましてやウドラカが言った空中の悪霊と、このヴェーダでいうところのアスラやラークシャサのことなのだろうか……そんな疑問を、イェースズはサロモンにぶつけてみた。サロモンはしばらく黙ってイェースズを見つめた後、口を開いた。
「今夜、アグニの神の祭りがある。アグニ神こそラークシャサの屠殺者でおわします火の神様じゃ。今夜、この場所へ来て特別にその祭りに参加するがよい」
それだけを言い残し、サロモンは去って行ってしまった。
山中で果実などの食料の調達を終え、夕方近くになったので、イェースズは仲間に火祭りのことを告げた。
「アグニ神の祭りが、今夜あるそうだ。特別に参加させて頂けるようだよ」
「アグニの神……」
仲間たちは顔を見合わせた。彼らの寺院はクリシュナ神を祀っているから、アグニ神についてはヴェーダで見るのみであまりなじみがない。
「そうか。ここのサロモンたちは、アグニ神を崇める人たちなんだ」
「行ってみよう。せっかくの祭りなんだから」
そうして三人とも、この夜の祭りに参加することになった。
夜になると、昼間の酷暑が嘘のようになる。空には満天の星が変らず散りばめられ、多くのサロモンたちが集まる中で一斉に三つの巨大な火がともされた。その度ごとにサロモンたちは地に伏して火を崇めて拝んだ。まず東側に焚かれた火は神々を表すアーハーヴァエーヤと呼ばれ、南は死者のためのダクシナという火、西はこの世の食物のためのガールハパティヤという火だった。そうなるとそれぞれが、天と空と地、つまり神界・幽界・現界の象徴だということになる。
イェースズらも周りの人々と同じように、恰好ばかりをまねて火を拝礼した。しかし、イェースズの頭の中には、わだかまりばかりがうず巻いていた。
確かに火は神聖なものであり、火の神はすなわち日の神である。それを礼拝するのは、毎朝太陽礼拝をしているエッセネ教団の一員として育ってきたイェースズには理解できないこともない。しかし、そのときでも太陽自体を拝むのではなく、偉大な太陽を存在さしめ得たさらに偉大な神の叡智に、太陽を通して礼拝をするのだと教えられてきたものだ。ところがここでは、完全に物質としての火を礼拝している。火は神聖なものでも物質としての火はあくまで物質であって、それを礼拝するのはイェースズが幼いころから戒められてきた偶像崇拝に等しいのではないかとイェースズは思ったのである。
火は夜空に届かんばかりに、ますます高く燃え上がる。パチパチと火の粉が飛ぶ音が聞こえ、その中を火に一番近い祭壇の上から極彩色の僧衣をまとったマハー・バラモンのヴェーダを唱える声が響いた。
「われ、アグニを讃えん。祭りの司祭として、われ、アグニを讃えん。アグニは古の聖賢により讃えられ、また今の聖賢により讃えられ給う。願わくは、アグニのみ力もちて、ここに神々の集い来たらんことを……」
ヴェーダの朗詠は延々と続く。それには軽い節がついていて、節の中で踊る炎は無気味にさえ見えた。確かにヴェーダは偉大な教えだし、智恵の宝庫であることはイェースズも認めていた。しかしイェースズが失望を感じていたのは、そのヴェーダを奉じるバラモンたちであった。ヴェーダの偉大な教えを頭の中に知識として詰め込み、その上であぐらをかいている。
そして今夜の火祭りも、単なる形式のみの残骸としかイェースズには思えなかった。まるで故郷のユダヤ教のようだ。
そんなヴェーダの朗詠の切れ目で、イェースズは不意に背中を軽く叩かれた。振り返って見ると、昼間のあの白髭のサロモンだった。サロモンは無言で、アグニの火を顎でしゃくった。訳が分からずイェースズはそのサロモンを見ていると、
「特別に君に近くで参拝させてあげられるよう、マハー・バラモン様にお願いしておいた。君は、どうやら遠い異国の青年らしいからね。その顔つきは、たぶんローマ人だろう」
イェースズはローマの市民権を持っているわけではないが、適当にうなずいておいた。
「さあ」
サロモンにつつかれて立ち上がったイェースズは、多くのサロモンたちの視線が集まる中をゆっくりとアーハーヴァエーヤの火の近くへと歩んでいった。
燃え上がる炎を目の前にして、イェースズは立ちすくんだ。熱が体全体にもろに当たってきた。
その時、イェースズの頭はくらっとした。次の瞬間、その体は地面に前向きに倒れた。周りのサロモンたちの間でどよめきが起った。突然、異国のシャーミーが気を失って倒れてしまったのである。
ところが当のイェースズは、少し上空を浮遊しながらその光景を見ていた。倒れているのは確かに自分だ。まるで死んだように身動き一つしない。そしてその周りで騒いでる人々の様子も、上から見おろせる。仲間のシャーミーたちもあわてて駆け寄ってきて、倒れているイェースズをゆり起そうとしている。
それからイェースズは、浮遊している自分の周りに目を向けてみた。昼間にも見た空中を浮遊する物体が、今度は手に取るようにはっきり見える。動物霊やもの凄い形相の人霊が、そこでは所狭しと無数に飛び交っていた。その数は、祭りに集まっているサロモンたちよりも遥かに多い。人霊はどの顔も苦痛にゆがみ、怒りに燃えているようだ。その恐ろしさは正視に堪えない。いくつかの霊は、どんどんサロモンたちの肉体へと飛びこんでいく。そのサロモンたちが崇めている炎はというと、その中に悪霊の親玉とも思える鬼のような巨大な霊が仁王立ちとなって人々をにらみつけていた。これではアグニ神どころか、むしろラークシャサの炎をそのもののようだ。
空中の浮遊霊たちは、イェースズにも一斉に襲いかかろうとした。そのときイェースズは、浮かんでいる自分の体から黄金の光が発せられているのを見た。襲いかかる霊にとってその黄金の光はバリアのような効果があり、どの霊もイェースズに近づくことができずにいた。
そのうちイェースズの頭上に、目もくらむような閃光が放たれ、体がぐいぐいと上昇する感覚を覚えた。気がつくと、辺り一面の光の洪水の中のような所に彼はいた。やや上空には、光のかたまりともいえるような黄金色のようなものがある。しかし、炎の前に立った時のような物質的な熱を感じた訳ではなく、魂の奥底から温められるようなやすらぎの熱だった。
目の前の光の塊の中から、厳かで、それでいて心の安らぐ声が聞えてきた。
――汝、イェースズよ。今、汝に示し置くこと、永遠に想いて忘るるなかれ……
心に響くその声にはなつかしさに似たようなものさえ感じられ、イェースズは思わず涙が出そうになった。
――今世、汝ら人々の心いよいよ神を離れいき、悪のみ盛える世なれば、神いささかの懸念ありて、ここに示しおくなり。汝ら本来聖霊聖体なりし神の分けみ魂を肉身に内蔵しあるも、そを汚し行き過ぎて、此までは人類気まま許したるも、このままにては神策成就らせ難ければ、重大因縁のカケラを示しおかん。そは日用の糧の中に汝ら見出し得るも、日用の糧を得られざるもまた罪と知りおけよ。今は明かなに告げ申すことできぬ訳ある秘め事ある故、神は罪をも許し給うも、天意はまだ今の世になければ、人々また神をも分からぬようなり果てんを神は憂れうるなり。本来神の子霊止にてありしを、神より勝手に離れすぎていつしか人間となり果て、神の策りし神の国はますます遠ざかり行くならん。神の真の名すら、知らざるべし。神は天に在します御祖神よ。汝まず此事、サトルこと肝要なり。それにはまず、汝自らの魂霊浄め大事中の大事にして、あまりにも穢れ多き身を霊削ぎ開陽霊すべし……。
次の瞬間、イェースズは地上で目をあけた。心配そうにのぞき込んでいる仲間のシャーミーの顔が、目の前にあった。しばらく放心したように、イェースズはその顔を見つめていた。
彼らはイェースズの肩と足をかついで運び去り、祭りは何事もなかったかのように続行されていた。
イェースズたちがシシュパルガルフに戻ってすぐ、イェースズがこの国に来てから初めての雨季が訪れた。イェースズの故国にも雨季はあるか、それは雨が多く湿気がある季節だというにすぎない。しかしこの国の雨季は、そのような生易しいものではなかった。ほかの季節に一滴も雨が降らない代わりに、この時期にはまとめて大量の洪水が空から大地に及ぶ。
もちろんこの時期、外出などは不可能である。したがって、イェースズたちシャーミーは寺院にこもる毎日が続いた。そんな毎日は、イェースズが山中の火祭りで体験した出来事を反芻するのには十分な時間だった。いったいあれはどういうことだったのか、イェースズにはいまだに分からない。彼の知識では、どうしても説明がつかないのだ。人にはない特殊な能力を持つ彼だからちょっとのことでは驚かないが、あのことばかり思い出すたびに恐ろしくて夜も眠れなくなることもあった。あの時聞いた不思議な声は、内容もはっきりと覚えている。だが、その言わんとしていることについては、何のことだか皆目見当がつかない。ただ、自分に何かしろと、何かしなければならないと告げていたような気だけはしていた。
この国へ来て、こんな遠い国に来て、自分は今何をしなければならないのか、何ができるのか、イェースズはそればかり考えながら毎日を暮らしていた。
そしてどうしても気になるのは、この国におけるひどすぎる身分制度であった。
雨季は三ヶ月ほどで終わる。そして間もなくいちばん多く花が咲き乱れ、緑が反乱する冷涼乾季が訪れようとしていたある日、イェースズはぼんやり窓から雨の庭を眺めていた。ほかのシャーミーたちは、雨期が終わったら思いっきり鬱憤を晴らそうと雨を忍んでいる。
「イェースズ!」
背後でラマースが呼びかけてきた。振り向くと講堂の中には六、七人のシャーミーが円座して菓子を囲んでいた。
「長老の差し入れですよ。一緒に食べましょう」
イェースズは黙ってうなずくと、円座の中に加わった。
「どうしたんだい、イェースズ。最近おかしいよ」
ラマースにそう言われても、イェースズは表情ひとつ変えなかった。
「おかしいって?」
「もの思いにふけってることが多いし、口数も少ないし」
「そうだよ。みんな心配してるんですよ」
ほかのシャーミーたちも、菓子をほおばりながらそう言ってくる。ラマース以外はみんな二十歳前後で、年齢的にいっても皆イェースズより先輩だ。
「とした? 故郷が恋しいかい?」
「いいえ、そんなことありません」
いきなり激しい調子でイェースズが否定したので、そんな質問を発した先輩のシャーミーの方がうろたえてしまった。
しばらく、沈黙が場を支配した。
イェースズはうつむいて床を見つめていたが、そのうち目を上げていちばん年上のシャーミーを見て言った。
「この国の階級制度について、教えてくれませんか」
年長のシャーミーは突然立ち上がり、イェースズを指さした。
「君は、ヴェーダをどんな気持ちで学んできたんだ!」
それは、ほとんど怒鳴り声に近かった。
「いいかね。ヴェーダにちゃんと書いてある。カーストというのは、絶対神のブラフマンがお創りになったんだって。み意のままに人間をお創りになったその結果がカーストなのだから、君はなぜそんなことに不平不満を言うんだ」
「しかし、ぼくの国の教えでは、神様はそんな階級をお創りになっておられない」
「黙れ!」
立ち上がっているシャーミーはかなり興奮しているようで、肩で息をしている。彼がなぜ突然怒りだしたのかイェースズに分からなかったので、ただ茫然と見上げているしかなかった。
「いいかね。ヴェーダにはこう書いてある。黄金に輝くブラフマンが人類を創造された時に、神のみ言葉により四人の人が現れた。第一の人はブラフマンの口から生まれた赤人で、その姿もブラフマンに似ていたからバラモンと呼ばれた」
聞きながら、それは当たり前ではないかとイェースズは思った。神が人をお創りになった時は、神はご自分のお姿に似せて人をお創りになったと、自分たちの聖書にも書いてある。
シャーミーはそんなイェースズの心を知るはずもなく、言葉を続けた。
「その赤人は労働をする必要もなく、全くの神の使者であり、神に選ばれた者たちだ。それが、われわれバラモンなのだ」
ユダヤ人が神に選ばれた民族だという考えにさえ疑問を持っていたイェースズだから、こんな話に同調できる訳はない。
シャーミーの話は続く。
「次に白人が、ブラフマンの手から生まれた。それがクシャトリヤで、バラモンを保護するために神から武力が与えられた人々だ。そしてその次にブラフマンの内臓から生まれたのが青人で、土地を耕すバイシャだ。最後は、ブラフマンの足から黒人であるスードラが生まれ、この者たちはただ奴隷として苦役をするために創られたのだ」
「ちょっと待って!」
思わず語気を荒くして叫ぶと、イェースズもそのまま立ち上がった。
「どうして神様がそのように、大元から人間を差別した形でお創りになることがあるんですか。もしそれが本当なら、それは嘘の神様です」
「何ッ!」
話を聞いていたほかのシャーミーたちも一斉に立ち上がり、イェースズを取り囲む形となった。今にもとびかからんばかりの勢いだ。しかし、イェースズの口調はそれを抑えるのに十分だった。
「考えてもごらんなさい。神様の愛の象徴である太陽の光は、バラモンにもスードラにも平等に注がれているではありませんか。恵みの雨も、平等に降り注がれているではありませんか」
「それは屁理屈だ! 周りを見たまえ。現にバラモンは存在し、クシャトリヤも存在しているじゃないか。人が人をスードラと決めつけてスードラとした訳ではない。スードラは生まれながらのスートラだ。スードラとなるべく定められて生まれてきたんだ」
「確かにスードラがスードラとして生まれてきたのは神様の思し召しでしょうし、それ相応の前世での因縁もあるでしょう」
イェースズを囲んでいたシャーミーたちは、少し驚いたような表情を見せた。だが、イェースズにとって再生転生は、幼いころから聞かされていたエッセネ教団の教義の一つなのである。
シャーミーたちの顔色を見て、イェースズはしまったと思った。故郷では、人の魂が何度も生まれ変わるという輪廻転生を認めないサドカイ人やパリサイ人とよく議論になったからだ。ここでも同じ議論が繰り返されるのかと、彼は不安を抱いた。しかし、シャーミーたちはそのことで議論を吹きかけてくる様子もなく、皆黙っている。そこでイェースズは、かまわず言葉を続けることにした。
「さっきあなた方は、バラモンはブラフマンの口から、クシャトリヤは手から、バイシャは内臓から、そして、えっと、スードラは……」
「足からだ」
「そう、足から生まれたと言いましたよね。いいですか。だからといって、口の方が手より偉いのですか? 手が足を軽蔑することはできますか? 働きこそ違っても、みんなそれぞれ大切な役割を持った体の部分ではありませんか。足は確かに口にはなれない。しかし、口は足に向かって、お前はいらないなんて言えますか?」
「えい。いつまでごたごたと屁理屈を言っているんだ!」
「そうだ! 新入りの癖に!」
「ましてやお前は、外国人じゃないか!」
イェースズはもはや彼らの言葉に応えようとはせず、黙って天井を見上げた。天井にも所狭しと幾多の神々が彫刻されている。彼の視線はそれら彫刻よりさらに上に貫かれた空へと向けられ、その両手は大きく上に向かって開かれた。
「神様。アルファでありオメガである私たちの父なる神様。大愛で人類を平等の魂としてお創り下さった神様を、人類の親神様として讃えます」
「この野郎! いいかげんにしろ!」
最初にイェースズと議論を始めた年長のシャーミーが、ついに飛びかかってきてイェースズの胸座をつかんだ。そのまま力を入れてイェースズを床に転がすと、続いてほかの二、三人が一斉にイェースズに飛びかかった。
「やっちまえ!」
一人がイェースズの体に馬のりになって、頭をぽかぽかと殴った。イェースズは抵抗することなくただ両腕で頭をかばい、さらに覆いかぶさろうとするものを足をはね上げてかわした。そしてよろめきながら立ち上がると、部屋の隅へと走って行った。シャーミーたちは、一筋に固まって追いかけてくる。そしてイェースズをつかまえては叫び声とともに袋叩きにし、イェースズも、
「わーッ!」
と、叫びながら体を激しくよじって彼らを払いのけ、また走る。それをまた、シャーミーたちは追いかける。
いつの間にかイェースズは、部屋のいちばん上座にあるクリシュナ神の像の前まで逃げていた。それをさっと囲むシャーミーたちも、そしてイェースズも肩で息をし、イェースズは興奮で真っ赤な顔となって衣服も乱れていた。殺気だったシャーミーたちは、一歩うしろに下がったイェースズを囲む輪をじりじりと縮めてくる。振り向いたイェースズは、背後のクリシュナ神を見た。そして彼の足は地を蹴り、クリシュナ神が祀ってある壇上に登った。
「あッ!」
と、シャーミーたちの誰もが声を上げた。
「こんな像を崇拝しているから、あなた方の考え方はおかしいんです!」
イェースズはそう叫んだ後、クリシュナ像を思いきり床に叩きつけた。シャーミーたちがパッと跳ね退いた石の床の上で、石造は粉々に砕けた。そしてイェースズは狂ったように暴れまわり、祭壇の調度を激しく打ち壊した。
最初は呆気にとられていたシャーミーたちだったが、我に返ると再び一斉にイェースズにつかみかかろうとした。
「な、な、なんてことを!」
「やめさせろ!」
ところが彼らがイェースズをつかまえるその直前に、イェースズの前にかばうようにして両腕をひろげて立ったのはラマースだった。
「みんな、待って下さい!」
「何だ、お前。俺たちを裏切って、こんなローマ小僧をかばうのか!」
「ちょっと待って下さい。僕は知っているんです」
「何を知っているっていうんだ!」
「気をつけた方がいいですよ。乱暴しない方がいいんです、この人には」
「なぜだ。おまえ、頭が狂ったのか?」
「違います。僕は見たんです」
「何を!?」
「彼が神を拝するとき、彼の体は黄金の光に包まれました。それにこの人は、すごい力を持っているんです」
「何馬鹿なことを言っているんだ。邪魔するな!」
シャーミーの一人がラマースの腕を払いのけて、そのうしろのイェースズに手を伸ばそうとしたが、ラマースは必死でそれを阻止した。
「本当なんです。聞いてください」
あまりのラマースの意気込みに、シャーミーたちもとりあえずは黙るしかなかった。
「彼が崇拝する神様って、とてつもない神様かもしれないんですよ。もしかしたら、ブラフマンより上かもしれない。だから、本当に彼が祈る神様というのがどんな神様か分かるまで、彼には何もしない方がいいと思うんです」
「じゃ、どうしろというんだ」
「任せてみようではりませんか。この人の言うことが正しいのなら、私たちはこの人に何もできないはずです。でも彼の言葉が嘘ならば、放っておいてもこの神様はこの人を罰するはずだ。私たちが今、何もしなくても」
「しかしだ」
いちばん右にいたシャーミーが、声を張り上げた。
「この壊れたクリシュナ神を見ろ。こんなことをした者は、死しかないとヴェーダには書いてある」
「しかし、この人を殺してはいけない!」
ラマースは肩を激しく上下させながら、叫び続けた。その肩に、イェースズは背後から軽く手を置いた。
「いんですよ、もう。ラマース。ありがとう」
イェースズはひとつため息をついて、ゆっくりと言った。
「僕は、出て行きます。バラモンでいても、この国では真理はつかめないようだ」
「え?」
驚いてラマースは振り返った。そのすきに、再びシャーミーたちは塊となってイェースズにとびかかろうとした。ラマースは必至でそれを防御しようとしたが、いくぶん小勢に多勢だ。激しくもみあっているうちに、イェースズはいつの間にかすり抜けて講堂の出口の方まで走って行ってしまった。
「あ!」
シャーミーの一人が気づき、皆でそれを追おうとした時、イェースズはすでに雨の庭へと飛び出していた。
すぐに、門前の広場へと出る。もう誰も追ってはこない。広場は雨にすっぽりと覆われており、その中央でイェースズは一度だけ雨に煙るジャガンナスの寺院を振り返ってみた。一段と高くそびえるシカラの手前のデウル(本殿)やジャガモハン、アト・マンディラ(歌舞殿)、ボーグ・マンディラ(供物殿)と、縦に一直線に巨大な建物が並んでいる。それらはすべて雨の中でひっそりと息をひそめてたたずんでいた。
イェースズは前方に向き直し、一目散に駆けだした。もう二度とここへ戻ってくることはないだろう……そんな訣別の情とともに、とにかく早くここから立ち去りたいという焦りが彼の足を速めた。すべての世界が雨の中で、全身に水滴を激しく受け、ずぶ濡れになって彼は走り続けた。
さすがにあれだけの人込みだったシシュパルガルフの町も、この雨の中では人影もまばらだった。イェースズはもう走るのをやめ、雨に濡れながら町角をとぼとぼと歩いた。もうどれくらいそうしていたか分からなかったが、気がつくといつの間にか町はずれまで来ていた。
その間、いろんなことが頭に浮かんだ。水滴が何本もの筋となって顔を流れるが、それが本当に水滴なのかあるいは涙なのかは彼には分からなかった。
彼がまず考えたのは、これからどうしようかということだった。ここに来てからの生活のすべてを、一挙になくしてしまった訳である。かといって、今さら故郷に帰ることもできない。行くあては全くない。ラバンナの宮殿もサロモンの修行場も、自分の行くべき所だとは思えない。しかし本当なら途方に暮れているはずなのに、なぜか今のイェースズの心の中にはとてつもない解放感があるのも事実だった。すべてのしがらみから解き放たれ、自由という名の天地の真っ只中に中に飛び出したという感じだ。もはやこれ以上あの寺院にいる訳にはいかず、あそこでバラモンとして修行していても真理には到達できないことははっきりしている以上、これでよかったのだとイェースズは何度も自分に言い聞かせていた。
しかし、これからどうするのかという現実問題は、どうしても目の前に横たわってしまう。まずは、今晩寝る場所が問題になる。こんな雨の中では、野宿も容易ではない。しかも、もう少し時間がたてば確実に空腹となる。ジャガンナスを捨てたということは、食や住の心配のない生活からも離れたということを意味しているのだ。それでも、何とかして生きていかねばならないことは分かりきっていることだし、そうやって生きていく限りにおいては確実に未来はあるはずである。自由の大地に躍り出たのだから、今日という日が新しい自分への第一歩となるのは間違いない。遠い昔に忘れ去っていたことや失いかけていたことが、今や一気に自分のもとに返ってきたことをイェースズは感じていた。
とにかくなんとかなると、彼は考えた。神様は必ずいいようにして下さるはずだ、一切を神様にお任せしようと、彼は神に対する絶対の信頼感からそう心に決めた。
さらにイェースズは歩き続け、かなりの時間がたっていた。
その時ふと、雨の中から人の泣き声が聞こえてきた。女の、しかもかなり年のいった女の声のようだ。イェースズはあたりをうかがった。気がつくと彼がいたのは、スードラの住むような貧民街だった。ちょうど故郷の、「地の民」の町のようなところだ。イェースズは泣き声を頼りに雨の中を歩き、やっとそれが一つの小屋の中から聞えてきていることを知った。まるで石と藁の山とも見えるような、みずぼらしい小屋だった。
イェースズは中をのぞいてみた。果たして、泣いていたのは一人の老婆だった。
「どうしました?」
イェースズは声をかけてみた。ぼろをまとった老婆が、泣きながら振り向いた。
「あ、バラモン様」
いきなり僧衣のイェースズが入ってきたので、老婆は怖れ慄いて縮こまった。バラモン階級の者がスードラの住み家に入るなど考えないことだったから、老婆はびっくりしたのであろう。見わたすと、小屋の薄暗くて狭い部屋の奥に一人の若者が藁をかぶって横になり、額に汗してうめき声を発していた。
「いったい、どうしたのです?」
老婆はそれでも縮こまっていたが、やがて目を上げ、イェースズが若いシャーミーであると知ったからか遠慮がちに話し始めた。
「息子が、病気で死にかけてますだ」
「そうですか」
イェースズは何も考えることもなく、気がついたらすでにその若者の傍らに立っていた。
「苦しいですか?」
イェースズの問いにも若者は答えることもできぬらしく、ただ苦悶深く眉間にしわを寄せて首を激しく振っていた。老婆はイェースズの後ろでおどおどしながら座り、心配そうにのぞき込んでいる。
イェースズは、若者の胸の上の藁をどかした。そして、そっと腕を伸ばし、若者の胸の上に掌をあてがった。
「どこが苦しいですか?」
あえぎながら若者は、自分の左胸を指さした。イェースズの右手は、その胸に置かれた。
イェースズは、全身の力を抜いた。宇宙のエネルギーを、自分の体に集中することを強く念じた。大地の上に陽光のごとく降り注いでいる高次元のエネルギーを、自分の体でキャッチしてレンズのようにぎゅっと凝縮する。そしてそれを、掌を通して若者に与えるのだ。決して、自分自身の体から発するエネルギーを与えるわけではない。今は自分の境遇の言葉が頭になく、ただただこの若者が救われてほしいということを強く念じているイェースズだった。そこには自分という存在はもはや存在せず、神とそして苦しんでいるこの若者の中に自分がいるだけだった。あとは無心、そして心の調和があるだけだ。
そのまま三十分を過ぎたころから、若者の表情に変化が見られた。そして一時間ぐらい経っただろうか、苦悶もかなり消え失せておとなしくなった若者は、急に跳ね起きて入口の方へと走って行った。残されたイェースズも老婆も呆気にとられているうち、戸外で激しく吐く音が聞えた。おびただしい量の濁血を、若者は嘔吐した。それが済むとけろりとして普通に歩き、そのまま小屋に入ってきたものだから老婆は飛び上がった。
「あれよォ、おまえ。大丈夫なのか?」
「うん。治ったよ。すっかり元気だ」
訝しげに若者は答えると、イェースズに視線を向けた。イェースズはにっこりと微笑んだ。
「いやあ、すごいバラモン様じゃ。こんな霊験あらたかなバラモン様って、ほかにいるだろうか」
老婆はイェースズの前にひざまずき、何度も礼拝の形をとった。
「まあ、お婆さん。お立ち下さい」
イェースズはかえって慌てて、老婆の肩を持ちあげた。
「僕を拝まないでください。本当にお礼を言うなら、僕にではなくて神様にですよ」
しかし、老婆はそれでもイェースズを拝することをやめず、若者も自分よりずっと年下のイェースズにの深々と頭を下げるのだった。
その時、困ったような表情でたたずんでいたイェースズのお腹が鳴った。今はじめて緊張感が解けて、空腹を感じたのだ。
「あ!」
バツが悪そうにお腹を押さえるイェースズに、老婆は一杯の粥を差し出した。
「どうか、食べて下さい。こんなんじゃ、お礼にはならないだろうけど」
イェースズは遠慮なくその粥を頂くことにした。まだ温かく、とてもおいしく感じられた。
食べ終わると椀を返し、丁重に礼を述べて、イェースズは小屋を出ようとした。あたりはすでに宵闇深くなってきていた。
「これから、どちらへ行かれますだ?」
老婆はイェースズの背後から問いかけてきた。イェースズは、首だけで振り向いた。
「行くあては、ありません」
「修行場に戻られるのでは?」
「訳あって、修行場を捨ててきました。行く所も寝る所もありませんけど、まあ、なんとかなるでしょう」
イェースズは、手短に自分のこれまでのことを、遠い異国からやってきてシャーミーとしてジャガンナスで修行していたが、そこを出るはめになったことなどを老婆に語った。
老婆はこの辺では珍しいイェースズの青く透き通る瞳を見つめて、それを聞いていた。ひと通り語り終えると、イェースズはまた深々と頭を下げて出て行こうとした。外はまだ雨が激しく降っていた。
「もしおよろしければ、こんなところで申し訳ないですが、泊まっていってくれませんでしょうか」
「え?」
イェースズの体は、完全に向きが変わった。
「泊めて頂けるのですか?」
「ええ、あなた様でさえよろしければ、何日でも」
「ありがとうございます」
頭を深く垂れ、内心の喜びをス直にそして無邪気に表現して、イェースズは小屋の中へ戻った。しかしそのことよりもイェースズにとって無上の喜びは、人一人の命を自分が救わせて頂けたということであった。かつて幼いころにはこの力で自分に害するものを傷つけたこともあったが、今はこの力で人を救わせていただけたのである。そして感謝の波動を受けることの喜びが彼の中で沸々と湧き上がり、彼の胸を熱くした。
翌朝早く、イェースズは目が覚めた。まだ老婆も若者も眠っている。目が覚めても起きもしないで、イェースズは粗末な天井を眺めた。今にも崩れそうな藁の天井だ。
今朝の目覚めは、昨日までの目覚めとは違った。確実に昨日とは違う毎日が始ったのだ。それを思うとイェースズの胸は高まりはじめた。そして今、ここでこうして雨に打たれずに朝を迎えられるということに、尽きることのない感謝を思わずにはいられなかった。全く行くあてもない自分であったのに、命の糧も与えられ、屋根の下で休めたのである。ここで老婆の泣き声を耳にしたのがすべてのきっかけだったが、一般社会ではそれを「偶然」のひと言で片付けてしまうであろう。だが、神様の世界から見ればすべてが神仕組みによる必然であり、偶然などというものは一切存在しないのだと彼はサトッた。
いずれにせよ、これで昨日までの生活にははっきりと訣別できた。昨日のうちならまだいくらでも後戻りができたのだが、もはやこの朝は新しい生活、新しい人生の第一日目の始まりとなったのである。ここはジャガンナスとは全くの別世界で、全く別の人生が今日を境に始まる。これからは全く自由な、何事にもとらわれない日々が始まろうとしている。
老婆や若者と一緒にチーズと粥のの粗末な朝食をとった後、午前中、そして昼と時間を過ごしていくうち、ここの生活の自由をイェースズは満喫していた。
生活は決して楽だとはいえない。スードラという階級の人たちだから生活に余裕はないし、雨季が終われば終日の苦役が待っているはずだ。しかしバラモンの生活に比べて、心の次元での自由はこの階級の人々は遥かに多く所有していた。
昼も過ぎたころ、この老婆の小屋におびただしい数のスードラたちが詰めかけてきた。自分の息子が完全に病から癒されたということを、老婆が言いふらしたらしい。その話を聞いて、人々は押しかけてきたようだ。老婆の狭い部屋は、たちまちスードラたちでいっぱいになった。入口の外にまで、雨に打たれながらも群衆は押し寄せてくる。
驚いて立ち上がるイェースズに、
「ありがたいバラモン様」
と、人々は口々に叫びながら詰めよってくる。
「ここの息子の病が癒されたって、聞いてきただ」
「俺は足が生まれつき曲って、まともに歩けねえだ」
「この喘息を、ありがたい力で何とかしてくれませんか」
困ったような表情で、両手をあげてイェースズは人々を制した。
「まあ、皆さん、お静かに。そんなにいっぺんには無理ですよ」
とりあえずいちばん前の老人の前に、イェースズはしゃがんだ。喘息で苦しんでいると言っていた人だ。その人を後ろ向きに座らせ、イェースズは右手の掌をその背中に当てた。そしてしばらく念じているうち、イェースズの掌が当たっている辺りが熱いと、老人はしきりに言いだした。
約三十分の後、老人は激しく咳こんで大量の痰を排泄し、そのあとは咳はぴたりと止まった。
「あ、ありがてえ。長年苦しんでいた咳が出ねえ」
立ち上がって興奮して叫ぶ老人に、ひしめき合っている人々はどよめきの声を上げた。老人は再び座って、何度もイェースズを礼拝するしぐさをした。それには答えず、もうイェースズは次の足の萎えた人に手を当てがっていた。
こうして夕方近くまで五人ぐらいの人の病を癒したが、ひしめき合っている群集はそのままそこにいたにもかかわらず、もはや治病を依頼してくるものはなくなった。どうやら好奇心半分で見物に来たものが、群衆の大方を占めていたようだ。ひと通り病人がいなくなると、群衆の中のゴマ髭の痩せた男がイェースズに問いかけた。
「バラモン様はそんなにお若いのに、なんでまるでサロモンのような力を持ってるんですだ?」
それが口火となって、群集は一斉にイェースズに質問を浴びせた。
「サロモンのような修行をなさったのですか?」
「いや」
イェースズは意外な顔して、立ち上がった。
「サロモンにも、このような力があることを私は知りませんよ。あるんですか?」
群衆はどよめいただけだった。
「あのう、バラモン様よお。バラモン様っていうのはみんな偉い人で、俺らスードラとは口もきけないはずじゃなかったんじゃあねえですか」
「んだあ。バラモン様がスードラの家の中にいて、俺らの病気を癒してくれたなんて聞いたことはねえ」
「こんなすげえことがあったら、俺らにバチが当たるんじゃねえかなあ」
まだ群衆は口々に何か言おうとしていたが、イェースズの言葉がそれを遮った。
「バラモンといってもスードラといっても、みんな同じ人間でしょう?」
一同は愕然としたような表情を見せ、ざわめきは一層大きくなった。
「皆さん、いいですか」
イェースズも一段と声を張り上げた。後ろの方から、前のものは座れと口々に叫ぶ者がいて、イェースズに近い前列の者たちから順番にしゃがんでいった。これでイェースズは、狭い小屋にひしめきあう人々の顔を全部見わたせるようになった。
「太陽はバラモンの上にもスードラの上にも、分け隔てなく光をくれるでしょう? 私はバラモンだから太陽の光は四倍当たるなんてこと、ありますが? 私はバイシャだから半分だとか、私はスードラだから太陽の光は四分の一しか当たらないなんてこと、ありますか? ないでしょう?」
もはや誰も話をする者はいなかった。しんと静まりかえった小屋の中に、イェースズの声と雨の音だけが響いた。
「みんな同じなんです。その証拠に、神様は皆さんにも同じように力を分け与えて下さって、この中の何人かは病気を癒して頂いたではないですか。これは神様の力なんですよ。私の力ではない。いいですか?」
イェースズは、一同の顔を見わたした。
「さっき、私に向かって一生懸命礼拝をしていた人がいましたけれども、それは違いますよ。私が病気を治したのではなく、神様がお力を私に貸して下さって、神様の力で病気が癒されたのです」
イェースズはしゃべりながらも、自分で驚いていた。自分が頭で考えて話しているのではなく、どんどんと頭に浮かんでは言葉が勝手に口から出ていく。偉大な叡智が霊波線を通して語るべきことをイェースズに示して下さっているようだ。
「だから皆さんが本当にお礼を言うべき相手は、私ではなく神様です」
「神様なんつったって、バラモンでもねえわしらには分からねえだよ」
「そうだそうだ。わしらスードラは、神様なんかとは関係のねえ生活をしている。神様はバラモンだけのものだ」
群集は再びざわめきはじめた。
「皆さん、いいですか」
また静まるのを、イェースズは少し待った。
「俺らスードラには、神様は分からねえだ」
「まあまあ、皆さん。いいですか? バラモンといえどもクシャトリヤもバイシャもそしてスードラも、みんな神様がお創りなった人間です。この世の人は誰一人として、神様によって創られたのではないという人はいません」
「だって僕を生んでくれたのは、お母さんだよ」
最前列にしゃがんでいた子供が、イェースズを見上げて笑顔で言った。人々の間にわずかながら笑いが起こった。
イェースズも、にっこり笑った。
「でもね、お母さんのお母さん、そのまたお母さんってどんどんどんどんたどっていくと、どうなるかな?」
イェースズの問いかけに、しゃがんでいる子供は首を振った。
「分かんない」
イェースズは微笑んだまま、再び群衆を見わたした。
「われわれ人間は、バラモンもクシャトリヤもバイシャもスードラも、みんな神様の御手により創られたのです。だから神様というのは、我われ人類共通のお父さんです」
「その神様っつうのは、あのバラモンの寺院にいるんですかあ?」
「いえ。寺院に祀ってあるの本当の神様ではなく、神様の姿をかたどったものです。本当の神様、私たち人類の共通のお父さんは天にいます」
群集の何人かが天井を見上げた。
「天にって……?」
イェースズは笑ったまま、話を続けた。
「天にいらっしゃって、だけどいつも私たちのそばにもいらっしゃって、私たちを見守って下さっています」
「じゃあ、その天のお父さんと、お話はできるの?」
さっきの子供だ。
「できるよ」
イェースズは、天に向かって両手を上げた。
「神様との対話は、祈りです。さあ、皆さん、私と同じようにして下さい。そして私と同じように唱えるのです」
はじめはためらっていたような人々も、次第に全員が両手をそろえて上げた。
「天におられるわたしたちの父よ」
不ぞろいではあったが、人々の声が狭い小屋の中に響いた。
「天におられるわたしたちの父よ」
イェースズの話に夢中になっていた人々は、外で雨が止んでいることにさえ気づかなかった。
翌日は、からりと晴れていた。
雨があがったのでさえ数ヶ月ぶりだったのに、晴れ間が広がって太陽の光が注がれるなど本当に久しぶりのことだった。雨季は終わったらしい。雨季が終われば緑の草や色とりどりの花々が全土を覆う一年のうちいちばん美しい季節で、イェースズがこの国に生きてからちょうど一年たったことになる。
イェースズが初めてスードラの若者を癒した日以来、毎日何十人もの人々がイェースズのいる小屋を訪れ、イェースズの話を聞いていくようになった。もちろん病を背負ってイェースズのもとを訪ねる人もいたが、癒されると丁重すぎるくらいイェースズに礼を尽くし、話を聞いてから帰っていく。そんな人々に、イェースズは自分なりに人間の平等と、すべての人が神の子であることを説いた。
イェースズの話はスードラだけでなく、その上の階級にも広がっているようで、ある日バイシャと思われるターバンの男に路上にまで呼び出された。本人はスードラの家に入ってくることはないので、その辺にいたスードラの子供に呼びにこさせたのだ。そしてイェースズが出て行くとその男は路上に座り、イェースズに背を向けたまま自分の右肩を指さした。
「頼むよ。最近肩こりが激しいんだ。あんた、すごい力を持っているそうじゃないか。治してくれ」
もはやイェースズは僧衣を脱ぎ捨て、スードラと変わらないいでたちで毎日を暮らしていた。だから、バイシャといえどもバラモンに対する礼ではなく、スードラに対するような尊大な態度で接してきたのだ。
「はい、肩ですね」
いやな顔ひとつせず、イェースズはそのバイシャの肩に手を置いた。そして、十数分の後にそのバイシャは叫びをあげた。
「ありゃあ、治っちまったぞ。嘘みてえだ」
バイシャは立ち上がり、
「ありがとうよ」
と、言うと、二、三枚のコインを地面に放り投げて歩いていった。
また、真夜中だというのに、クシャトリヤの召し使いとして使われているスードラが、イェースズを呼びに来たこともあった。自分の主人が長年頭痛で悩んでおり、イェースズの噂を聞いたから呼んでくるように言われたとのことだった。イェースズはその召し使いとともに、夜道をクシャトリヤの屋敷に向かった。
「そなたか、どんな病気でも治すというのは。また、子供ではないか」
「はい」台座の上に横になったまま、クシャトリヤはイェースズをじろじろと見ていた。
「わしの頭痛を治してみよ」
「はい」
イェースズはやはりその男の頭に手を置き、頭痛を癒した。
「本当に治ったな。また何かあったら呼ぶぞ」
クシャトリヤは細かい金塊が詰まった袋を、イェースズのひざもとに投げた。イェースズはそれをちょっとのぞいただけで、クシャトリヤのいる台座の上に置いた。
「これは頂けません。私はお金をもうけるためにしているのではありませんから」
「何ッ!」
クシャトリヤは怒ったようだ。
「これははわしからの、おまえへの有り難いほどこしだ。それを断るとは無礼な!」
今にも刀を抜いてイェースズに斬りつけてきそうな剣幕なので、イェースズは仕方なく金の袋を受け取った。
小屋に帰ると、イェースズはそういったコインや金塊はすべて小屋のある字である老婆や近所の人々に分け与え、自分が取るようなことはしなかった。
だいたいイェースズに金を与えて病をいやしてもらったようなクシャトリヤなどは、あとになると必ず「あれはちょうどクスリが効いてきたのだ」とか、「治る時期だったのだ」などと言って、イェースズを二度と相手にしようとはしなかった。スードラたちだけがス直にイェースズの話に耳を傾け、日々彼のもとへ話を聞きに集まってくる。しかし、何日かたつうち、話し終えた後にスードラたちが首をかしげながら帰ってくるのにイェースズは気がついた。自分が話す人間の平等に関し、どうもスードラたちの顔には今ひとつ腑に落ちないことがあるような表情が見えたのだ。しかも、訪れてくる人の数も、日に日に減っていく。
この日も四、五人の人の前で、イェースズはいつもの調子で話をしていたのだが、やはり同じように人々の顔はさえなかった。
「私の話は、面白くありませんか?」
思い余って、今日とばかりにイェースズは人々に問いかけてみた。沈黙が漂った。そのままイェースズも言葉を収めて息をこらし、集まった人々を見つめていた。
「あのう、先生さんよお。話が難しくって、おいらたちにはよく分かんねえだ」
イェースズは頭を金槌で殴られたような、そんな衝撃を受けた。
イェースズは人類の平等と神の実在について日ごろ自分が感じていることや自分が学んできたことを、どう話せばうまく伝わるか自分なりに考えて工夫してきたつもりでいた。もしここが故郷なら、聖書を引用して話すのが最良の方法である。しかし、この国では聖書に当たるのがこの国の聖典であるヴェーダであると考え、そこでイェースズはジャガンナスで学んできたヴェーダの知識を切り売りしてきた。
ところがその結果が、人々のこの状況である。イェースズはしばらく黙って、途方に暮れた。どうしたら、この人たちに自分の本当の魂の叫びを伝えられるのだろうか……。そんなことは考えているうち、人々はがやがやとざわめき始めた。
その時イェースズの胸の中に、頭の中で考えるからいけないのだというような声が響いた。そこで、彼ははっと気がついた。どうやら自分の国では地の民でもある程度聖書にかかわっているのとは違い、この国のスードラはでヴェーダなどと全く無縁の生活を送っているらしい。そんな人たちにヴェーダの話をしても、分かるはずがないのである。
そこでひらめいたのは、例え話だった。かつて神とは何かと聞かれた時、天のお父さんだと答えたら人々は納得したことを思い出したのだ。
イェースズは伏せていた目を上げ、人々の方を見た。
「皆さん!」
やっと、人々は話をやめた。
「この話を聞いて下さい。昔、ある所にものすごくたくさんの土地を自分のものにしている人がいました」
これまでのイェースズの話とは違うということを、人々は機敏に察したらしい。人々は息をのんで、イェースズの次の言葉を待った。
「その人には四人の息子がいました。その息子たちが一人前になると、父親は息子たちに自分の財産分け、それぞれ独立させようとしました。すると長男はこう言ったのです。『自分は長男なのだから、ほかの弟たちは自分の召し使いになるべきだ』って。そうしてその長男はすぐ下の弟を武士にし、剣を持たせて自分の土地を守らせました。次の弟にはその土地を耕させました。もちろん土地は全部長男のものだし、収穫も長男が独り占めしていました。さらにはいちばん末の弟を奴隷としてこき使ったのです。やがて時が来て、四人の兄弟の父親は息子たちの様子を見に来ました。そして長男が土地を全部独占し、弟たちを自分の召し使いや奴隷として使っていることを知ったのです」
人々が静まりかえる中で、イェースズの話は続いた。
「父親はたいへん怒りました。そして長男を牢屋に入れ、次の弟もその剣を折ってやはり牢屋に入れたのです。そして三番目の弟は、末の弟が奴隷として使われているのを助けなかったとして砂漠へ追放し、末の弟の鎖を解いて自由の身としました。さらに時が来て、牢屋に入れられたり追放されたりしていた息子たちがその罪の贖いを終えたとき、四人は再びそろって父親の前に並び、今度は土地を四等分して互いに平等に仲良く暮らすことを誓ったということです。どうですか? この話を聞いて、何か感じませんか?」
しばらくは誰も言葉を発しなかった。心地よい風が人々の頭上を駆け抜け、周りの木立の木々の葉をざわめかせただけだった。しかし、今度のイェースズの例え話には、誰もが納得しているようだった。
「先生!」
いちばん前にいた若者が、声を上げた。周りの人々の視線がそのものに集まった。
「俺らスードラは一生奴隷だ。また、これらの子孫もずっと変わらないはずだ。バラモンたちから見れば、俺らは馬や牛以下の存在なんだ。なのに、本当に自由になれるなんて信じられない。そんな日が本当に来るんですか?」
「神様は人に自由を与えて下さっている。人は自由に生きられるように創られているはずです。なぜなら、どんな人の魂もみんな同じ神様から出たものですだからです。つまり、どんな人間でもすべては等しく神の子なんです。いいですか。私たちみんな神の子なんですよ。みんな、神様からいただいた霊魂が、この肉体の中に入っているんですよ」
イェースズの説法は、この日はやけに力が込められた。
イェースズにとって、このスードラの村での生活は飛ぶように過ぎていった。すでに暑熱乾季も終わり、イェースズがこの国に来てから二度目の雨季が訪れようとしていた。
イェースズはスードラとともに苦役に出ることはあまりなかった。午前中にはバイシャたちの農場を牛とともに耕し、昼前から夕方ごろまでは家があるものは家で、家がないものは路上の木陰で寝て暮らす。この間はあまりの日射の強さに、労働は不可能だからだ。そして夕方から日没まで再び苦役が待っている。
イェースズが主に説法したのは、夜に入ってからだった。初めのころのように好奇心だけで多くの人が集まるということはなくなっていたが、それでも常に数十人の人がイェースズの前には群がっていた。イェースズはこれまで自分が故郷やジャガンナスで学び、その間に考えていたことなどを分かりやすく人々に説いた。自分がこう思うということを単に自分の中にしまっておくだけでなく、人々に分かち合うことによってその人たちが少しでも神のご実在を理解してくれたという願いと、またそれで自分も勉強して修行をし、さらにはこの村においてもらっていることへの恩返しに少しはなるのではないかと考えていたのである。
この国ではスードラといえば、全く神とは無縁のまま生涯を終えるのが普通だ。しかしそれが神のみ意とは、イェースズには思えなかった。しかし聞いている方はどうも完全に理解して歓喜のうちに帰っていくというような感じはなく、たいていはああ、そうですかというふうに顔だけで笑って礼を言って帰っていく。何ぶんスードラたちには娯楽というものが全くなく、何かそのような感覚でイェースズの話を聞きに来ているようだ。
そしていよいよ雨季が間近であるという気配が強く感じるようになってきた頃、シシュパルガルフの町全体が浮足立ってきた。年に一度の、シシュパルガルフの祭りだ。祭りはクリシュナ神の祭礼で、イェースズにとっては二度目となる。しかし昨年はまだジャガンナスのシャーミーの一員だったので、もっぱら寺院内での祭事に追われ、町中の祭りの様子を見ることはできなかった。
そしていよいよその当日、すなわち二十日間行われる祭りの初日、ただでさえ人があふれているシシュパルガルフの町に全国からクリシュナ神を崇拝する信徒がどっと流れ込み、どこへ行っても身動きがとれないほどになった。そんな中を、イェースズは祭りの中心地に向かって出かけていった。メーンストリートはかなり広い大通りだが、それでも足の踏み場もないくらいの人出でごった返していた。この祭りを境に、苦しかった暑熱期も終わる。そして同じように苦しい雨季に入るわずかな狭間に、祭りはある。道の両側には同じような造りの民家が並び、たいてい二階はバルコニーとなっているが、そこにもあふれんばかりで人が詰まっていって路上を見下ろしている。民間のすぐ背後には、ヤシの木の林が一面に迫ってきていた。
この日ばかりは年に一度のこととて、スードラも苦役から解放される。イェースズの周りにはいつも彼から説法を聞いているスードラが数十人従い、人にぶつかったり押し合い圧し合いしたりしながら町の中に向かっていた。進もうにも、なかなか前に進めない。人々の喧騒、祭り目当ての商売人の売り声、そしてあちらこちらから響く楽器の音が青い空に木魂している。蛇つかい熊つかいも、普段の三倍は出ているだろう。あちらこちらに人垣ができ、のぞくとターバンを頭に巻いたバイシャの笛の音に合わせ、コブラが身をくねって愛嬌を振りまいていたりした。
この祭りの最大のイベントは、ジャガンナス寺院の山車巡行だ。一段と歓声が高く上がった方向を背伸びして見てみると、そこにジャガンナスの山車の先の赤い幌と旗が見えた。山門前の広場に普段置かれているあの巨大な山車だ。三階建ての僧院ぐらいの高さはある。
イェースズとその一行のスードラたちは沿道の露店に入り、涼をとりながら食欲を満たした。大きな木の葉に盛られた、例のカリーとかいう黄色い泥状のものがかかっている飯だった。左手の肘をテーブルの上に乗せて手先は下へ隠し、右手で手づかみで食べる。こんな席でスードラがテーブルに着いて食事ができるのも、一年に一度のことだ。この祭礼の期間中に限り、さすがにバラモンは別だが、その下のクシャトリヤ、バイシャ、スードラの三階級は食事で同席が許される。
目の前の路上の人ごみは相変わらずだが、ただ右往左往している人たちばかりではなくなったようだ。何本かの太い綱を、左から右へと大勢の人がゆっくりと引いていく。遠くを見るとクリシュナの山車は、はっきりと動いていることは分からないが、確実にさっきよりずっと近い位置に来ていた。
食事を終えたころには山車はすぐそこまで来ていて、人ごみをかき分けるとすぐそばまで見にいくことができた。イェースズは大きな車輪を目の前にしてそのまま視線を上の方へとはわせ、いつもジャガンナスで見慣れていたその山車を見上げた。普段は単に車輪の上の板に骨組みだけがうず高くそびえているだけの車だったが、この日は巨大な赤いドーム状の布で覆われており、いちばん上には旗が風にはためいている。車輪は片側八個、計十六個あり、その一つが人の背丈ほどもあった。車輪はそれを覆う平らな板の下に隠れており、赤い布のドームがそびえているのは船の甲板のようなその板の上だ。板の上にも大勢の人々がひしめき合って乗っていて、緑色の欄干から身を乗り出したり、あるいは欄干に外向きに座っているものなども大勢いた。板の下、車輪の外側には柱と横木の足場が組まれ、人はそこに足を乗せて板の上に上がる。上の者が上がろうとする者の手を引っ張り上げる光景も見られた。その柱にも極彩色が施され、そんな巨大な車を引く数本の綱は長さが三十メートルほどあって、上半身裸の大勢の男が合わせた掛け声とともに力まかせに引いている。それでも車の進み具合は、牛の歩み寄りも遅い。
また一つ、調子をそろえた掛け声が空に響く。わずかながら車輪が回転し、車は前進する。その繰り返しで、一つの車の後ろにはすぐに次の車を引く人たちの先頭が続いている。
ラタ・ジャートラと呼ばれるこの山車は全部で三基あって、それぞれクリシュナ神やヴィシヌ神が祀られている。赤い布で覆われていることは三基とも同じだが、一つは黒で一つは黄、もう一つは青のストライブがそれぞれ赤地に縦に入っている。三十分ほどの距離にある別の寺院までその車は一日がかりで巡行し、十日間そこに留まった後、祭礼の最終日には再びジャガンナスへと戻る。
この山車の巡行の綱を引くことを許されたものは、それだけで魂の輪廻から解脱できると彼らは信じており、またこの山車にひかれて死ねば、天上に生まれ変わるとさえいわれている。しかしわざわざ車にひかれて死のうとする者がほとんどいないのは、伝説はあくまで伝説であって、彼らにとってはそれが何ら現実味を帯びていないということになろう。
そして今、イェースズの目の前を巨大な車輪がゆっくりと転がって通り過ぎようとしていた。いつもジャガンナスの広場の隅にあって、シャーミーたちに日陰の涼を提供してくれた山車で、イェースズはこの蔭でヴェーダについて論じ、神について論じたものだった。山車が運んできた記憶の糸が次第に手繰られていくうち、イェースズの中でどうしてもあの寺院での忌まわしい思い出が蘇ってしまう。再び山車を見上げたイェースズは、こみあげてくる感情を制しできなかった。
「この車はぬけがらだ。魂の入っていない肉体と同じだ」
イェースズは、思わず大声を張り上げていた。
「あのクリシュナの像は、単なる偶像だ。偶像を不調和な心で拝んだって、神様に通じるものか」
まわりの者が、一斉にイェースズを見た。最初はただ単に驚いただけだったが、その叫びの内容のただならぬことに気づき、イェースズを敵意の目で取り囲む形となった。
「おい、この奴隷の小僧が、とんでもないことぬかしているぞ」
人垣は二重、三重にもなった。無理もない。全国のクリシュナ神の崇拝者が集まる祭りだ。殺気を感じ取ったスードラたちはイェースズの腕をつかむと、人垣を乱暴にかき散らしてすごい勢いでイェースズを連れ去った。十数人の者たちがそれを追ってきたが、スードラたちの機敏な逃亡はついにそれを振り切った。
少し離れた、もう関係のない人たちの人ごみの中でみなが肩で息をした。しばらくそれが収まるのを待ってから、スードラの一人が口を開いた。
「先生、だめですよ。あんな所であんなことを言ったら、殺されますぜ」
たしかに冷静に考えれば、イェースズの普段の論理では大いに反省すべき行為だった。しかし何ぶんイェースズは若く、その若さゆえという弁護もこの際なら成り立つだろう。
「帰ろう」
と、イェースズは言った。帰りながら、イェースズはスードラたちに告げた。
「私がさっきしたことは、確かにいいことではなかったですね。しかし、私が言った言葉だけ覚えておいてください。荒々しい心で偶像崇拝しても、決して神様には通じません。神様と波調を合わせるには心を静かに落ち着かせ、調和を保たなければだめなんです」
「先生」
数度の中の別の男が、イェースズと並んで歩く形となった。
「心を落ち着かせて調和を保つとは、どういうことですか? そうするためには、どうしたらいいんですか?」
熱心なその問いに、イェースズは右手を自分のあごに持っていって考えた。
「そうですね。今夜、そのことについて私が考えてることを話しますので、皆さんを集めてください」
やがて、イェースズが暮らしているスードラの村に着いた。
祭りの喧騒はふだんの数倍も高く、この町はずれのスードラの村にも響いてくる。この期間は全国から集まった巡礼者が郊外の原野に所狭しと自分たちの臨時の小屋をぎっしり建てるので、町が膨張する。建材は故郷から背負ってくることができる程度の簡単なものだ。雨季はもうすぐだといってもまだ始まってはいないので雨の心配はないし、夜は暑くもなく簡単な囲いで済む。町の方角を見ると夜空があかあかと燃え、人々の声や音楽が聞こえてくる。それがかえってこの村の静けさを強調する中、かがり火に照らされた人々の顔を見ながらイェースズは口を開いた。
「神様は人間の目で見ることはできませんね。それは、神様が霊的存在だからです。人間の目では、霊を見ることはできないのです。しかし、目に見えないからといって、ないと断定できますか?」
数十人集まった聴衆たちは、お互いに顔を見合わせた。イェースズは続けた。
「例えば、あのラタ・ジャートラが人々に引かれて道を進むのは、それを引く人の力が加わるからでしょう? とすると、力というものは確実にありますよね。車が進んでいますから。でも、力というものは目に見えますか? 見えないでしょう」
ようやく聴衆はうなずいた。
「だから、目に見えないからといって、ないとは断定できないんです。私の故国では神様のことを、『在りて有るもの』というふうにいいます。確かに実在し、ピチピチと生きておられる御存在なのです。しかし、目では絶対に見えません。そこでどうすれば神様の足もとの踝だけでも見せて頂けるのか、ということになります」
「じゃあ、どうすればいいのですか?」
あちこちから、そんな声が上がった。イェースズはにっこり微笑んで、そんな人々を見わたした。
「お互いの人間を見ればいいんです。人は神様が全智全能を振り絞られ、ご自分のお姿に似せて創られたのです。だから、今まで私が人はすべて神の子であると言ってきたのは、そういう訳なんです」
祭りの喧騒は相変わらずだ。それをよそに、村の広場は静寂が支配していた。
「ですから、お互いが神の子であり、神さまの分けみ魂である霊魂が入っているのです。つまり、そのお互いの霊魂に、神様をわずかながらでも見いだせるはずです。だから、人はお互いに拝み合うこと、尊敬し合うことが大切で、他人を拝めばすなわち神様を拝することになるんです。このことは、たとえバラモンとバイシャ、そしてスードラやクシャトリヤ同士でも、全く同じです。バラモンもスードラも、皆同じ貴さの神の子なんです。そうなると、お互い他人の悪口を言ったり、他人を傷つけたりするのは大変なことでしょう。例えば、他人の悪口を言ったとすると、その相手の魂をお創りなったのも神様ですから、創り主であらせられる神様の悪口言ってることになるのではありませんか」
人々は、はっとしたような顔つきをした。ああ、そうかというの表情があちらこちらで見られた。
「だから、神様に近づきたいと思う人は、まわりの人々に奉仕することが大事ですよ。いいですか、自分の家族だけじゃだめです。家族ではないもの、通りすがりのもの、または自分に攻撃を加えようとしていたり、自分を嫌っているような人に対してでも、神様が私たちお創りくださり育み生かして下さっている愛、その与えられている愛と同じ愛を今度は私たちが他人様に与えていくんです。不平不満でむさぼる心は地獄です。与えるということは足りることを知ることで、そこには自ずから感謝の想念が生じ、心は調和で満たされ、神様と波調を合わせることができるでしょう。要するに、神様と波調を合わせるとは、神様の愛のみ意と同じ心になってしまうということなんですよ」
「神様が目に見えないなら、どうやって動物を捧げればいいのですか?」
一人の若い男が質問を発した。どうもまだイェースズの話をよく理解していないものもいるようだ。そういう人に対しても、イェースズはにっこりと笑って親切に解き始めた。
「天のお父様である神様は、人間がほかの動物を殺すことをお許しにはなりませんよ。私はそう思います。だってどんな動物だって、みんな神様がお創りなったのでしょう。無駄なものは、神様は一切お創りなっておられないはずです。ただ、食べるために動物を殺すのなら、神様も大目に見られるのではないでしょうか。しかし、神殿で生け贄として動物を焼いたとしても、それをあとで食べますか? 食べないで捨てるだけでしょう。世の中には飢えている人々がたくさんいるのに、そういう人たちを無視して食べもせずに動物を殺して捨てるなんて、神様のみ意だと思いますか?」
人々は黙って聞いていた。
「いいですか? 神様に動物を捧げたいなら、本当に人々に役立つもの役立たせてくださいという気持ちで備えるのです。食物などは、それを貧しい人たちたちの食卓に置くのが、最大の神様への供物となるでしょう。私はそう思いますが、いかがですか?」
「おおっ!」
大きな声で、叫び声をあげた者が何人もいた。
「先生、そのお考えこそ神様の声なんですね!」
「私はそう思います」
「おお、先生こそ神様なんだ」
「ああ、きっとそうだ。あの寺院のクリシュナ像は、本物ではないと先生は言った。きっと先生こそが、クリシュナ神の化身なんだ」
「いや、インドラ神だよ」
「どっちにしろ、神様だったんだ。わしらそうとも知らずに、ただ話を上の空で聞き流していたなんて……」
人々は口々に叫び、一斉にひざまずいて、クリシュナ神像に対してするような礼拝をイェースズに対して行いはじめた。
イェースズは困ったような表情で、立ちすくんでいた。どうも話がおかしくなっていく。今ひとつ、言おうとしている真意が伝わらない。
「皆さん、もう一度聞いて下さい」
大声で、イェースズは人々の頭上に叫んだ。
「私は皆さんと同じ人間です。皆さんがみんな神の子であるのと同じく、私も神の子の一人です。私は皆さんの兄弟です。ただ、神様に近づく法を、私が考えたなりにお話ししているだけです。しかし、それも私が頭で考えたのではなく、偉大な叡智が私の言うべきことをどんどん与えて下さるので、私はそれに従って皆さんにお伝えしているだけなのですよ。さあ、立ち上がって」
イェースズは人々に立つよう促したが、人々は一向に礼拝をやめようとしなかった。
「人間同士のお互いの尊敬は必要ですけど、人間を神様のように拝むのは間違いです。人間を崇拝しちゃだめですよ。崇拝すべきは目に見えない天の神様だけです」
その日に、寝床に入ってからもイェースズはなかなか寝つけなかった。どうも自分の波動が人々に伝わっていかない。確かに今日の話し方には誤解を与える余地はあった。しかし、それだけではなく、もっと根本のところで想念的誤りであるのではないかと、イェースズは自分を反省した。
しかし、それからというもの、村の者たちは完全にイェースズを生き神扱いにするようになってしまった。道行けば、今までなら会釈で済んでいたものがたちまち土下座に変わってしまう。
もうここにはいられないと、イェースズはそんな気になり出した。ただ、もうすぐ雨季になって外出はほとんどできなくなるので、その間の数ヶ月は屋内に潜んでよく考えてみようとイェースズは思った。
確かに説法の度に偉大な叡智に心は満たされ、自分でも知らないようなことまで口から出ていく。しかし要は、その話の内容と自分の実際の行動とが一致しているかどうかだ。話の内容を自分の血とし肉としなければ、いくら学んできたことを人々に受け売りしても波動は伝わらない。もしかしたらそういうことなのかと、ふと頭の片隅に浮かんだりした。しかし、だからといってどうしたらいいのかは、今のイェースズには分からなかった。とにかく、ここにいてはだめだという思いだけは日増しに強くなっていった。
やがて雨季を迎えた。接するのは世話になっている老婆と、その息子の若者だけだ。確かに雨季は、イェースズが今後のことについて考えるのに十分な時間を与えてくれた。そして固まった決心は、雨季が終わったらここを出ようということだった。問題はどこへ行くのかということだが、答えは自ずから胸の中の声が教えてくれた。それは、カーシーであった。
カーシーはジャガンナスのシャーミーだった時、一度だけ行ったことがある。しかし今度は自由の身となって行くのだから、前回とは違って得るものや学ぶものが多くあるはずだ。カーシーはシシュパルガルフからだと隣国の町ということになるがこのあたりはどの国も民族のるつぼだし、同じ文化圏なのでそのあたりはあまり気にする必要もなかった。
そして雨季が終わり、イェースズは約一年のこの村での生活から離れることにした。そのことを村人たちに告げた時の、人々の動揺はすさまじかった。
「いやだ、行かないで下さい」
「あなた様がいなくなったら、この村はおしまいだ」
「どうして、俺たちを見捨てなさる」
老いも若きも、男も女もほとんど泣きながら、イェースズにすがりついてきた。
「皆さん。皆さんは何か勘違いしているんじゃないですか? どうして私がいなくなると、この村はおしまいなんですか? 私は決して皆さんを見捨てるために、旅立つのではありません。一つは、自分の修行のためです」
「あなた様に着いて行けば救われるんだ。それなら、ここにいるみんなを連れて行って下さい」
「それがいけないんですよ。私についてくれば救われるなんて、誰が言ったんですか? 自分を救うのは、自分しかいないんですよ。つまり、自分の自覚しかないんです。これ以上ここに留まらない方がいいと思ったのは、皆さんが私を頼り切って、自覚ということを忘れてしまいそうな気がしたからです」
もうそれ以上は何を言っても無駄だとイェースズは思ったので、彼はしまい込んでいた僧衣を再びまとうと、一人でカーシーに向けて旅立っていった。彼が僧衣を着たのは、クシャトリヤやバイシャの服装での一人旅は盗賊などに襲われる危険性が大きく、またスードラの一人旅というのは理屈からあり得ない。そこでいちばん無難なのが、バラモンの僧衣だったのだ。これなら途中で乞食もできる。それでしばらくほこりをかぶっていた僧衣を、彼は取り出したのだった。