5
カーシーの大河ガンガの朝の、人々の沐浴は相変わらずの光景だった。
イェースズはガンガ沿いの石段の河岸の上を、ウドラカの屋敷へと向かっていた。カーシーで身を寄せることができるのは、今のところウドラカしかいない。門前で取次を請うと、すぐに奥へと通された。一年前の記憶が、おぼろげに蘇る。何も変わっていることはなかった。
奥の、かつてイェースズがウドラカと問答を交わした部屋で、ウドラカは背もたれのある椅子に座っていた。そしてイェースズを見るとウドラカは目を細め、かなり不自由になっているらしい腰を伸ばして立ち上がった。
「おお、おお、君か。よう来たのう」
イェースズも小走りにそばに寄った。ウドラカはイェースズの手をしっかりと握った。
「よう来たなあ。元気で何よりじゃ」
「僕のこと、覚えてますか?」
「覚えているとも。あの日のことは忘れんよ」
そう言ってからウドラカは、イェースズの頭の上からつま先まで何度も視線をはわせた。
「おお」
感嘆のため息とともに、ウドラカはイェースズの紺碧の目を見て言った。
「これが去年ここへ来た、あの少年なのかのう。本当にそうなのかのう」
「はい。僕です」
明るく微笑んで力強くイェースズは答えたが、確かに今のイェースズは去年のイェースズではなかった。一年前はまだ顔のどこかにはあどけなさを残す少年だったが、たった一年で立派な青年といえる風格になっていたのである。もはや青年らしいというぐらいではなく、完全な青年にイェースズはなっていた。十四歳から十五歳への間の一年間だから、イェースズがそれだけ成長したからとて何の不思議もない。しかもそれだけではなく、シャーミーとして修行していた去年と現在までの間には、スードラの中で生活したという一年間の経験が彼の中にはある。
「まあ、お座りなさい」
ウドラカは目の前の腰掛けを、イェースズに示した。イェースズも言われるままに腰をおろした。
「ところで、急にどうしたのかな。今日は一人のようだが」
「実は僕、もうバラモンではないんです」
「え?」
驚いたような顔、ウドラカはイェースズに見せた。
「バラモンじゃないって?」
「寺を飛び出してきたんです」
「寺を飛び出した? んー、いろいろいきさつはあったんだろうな」
イェースズはそのいきさつを、すべてウドラカに話した。特にイェースズがウドラカから聞いた空中の悪霊について悩み、それが寺を出るきっかけとなったことを話した時、ウドラカの表情は微かに変わった。
「あなたがおっしゃった空中の悪霊のことをいろいろなサロモンに聞いても、誰も分かりませんでした。そこはそのことを教えて頂けませんか」
そうしてイェースズはサロモンの修行場で悪霊を霊視したことや、幽体離脱という超常的な体験をしたことも全部ウドラカに話した。
ウドラカはしばらく黙って、何かを考えていた。
「君には本当に、空中の悪霊が見えたのかね」
「はい。はっきりと。でもこの肉の眼ではないんです。もっとほかの眼で……」
「うん……。君は、ヴェーダについてはよく勉強したはずだよね」
「はい」
「んー」
ウドラカはしばらくの沈黙とともに頭を下げ、そしてイェースズを見た。
「今夜、君のために宴を開こう。いろんな人たちを、君のために集めるよ」
そしてしばらく休むようにと、イェースズには屋敷内の一つの部屋が与えられた。
夕方近くになって、円卓を囲んでの宴会がウドラカの言葉通りに催された。
その部屋だけ二回まで吹き抜けになっている天井の高い部屋で、二階はバルコニーとなって円卓を見おろしている。テーブルの上には種々の果物やパンによく似たチャパティとナン、そして動物の肉などが盛られていた。肉は何の動物の肉かは分らないが、牛でないことだけは確かだ。もしイェースズが今でもバラモンなら、ウドラカは肉は控えたであろう。しかし、もはやイェースズが姿だけのバラモンであることをウドラカは知っている。食物のほかに、ところどころ花で円卓は飾られていた。花も果物も一年のうちでいちばん色とりどりの季節だ。微かな木蓮の香りの中、イェースズはそのテーブルに着いた。
最初はウドラカの家族と自分だけの食事かと思っていたところ、ちょうど食事が始まるころに何人もの人が訪れてきた。ウドラカは彼らにもテーブルに着くように勧めていたので、客はどうやらイェースズ一人だけではないようだった。全部で十人ほどの人々がテーブルをほぼ満席状態にすると、上座に座っていたウドラカが召し使いに合図をした。召し使いはカップに入った湯を人数分持ってきて、それぞれの前に置いた。かつてイェースズが初めてこの国に来た時、ラバンナの宮殿で飲んだ香りのある湯だ。最初、この国の人は熱湯を飲むのかと度肝を抜かれたイェースズだったが、飲んでみると熱湯ということでもなく、実に香ばしく、また色も透き通った赤茶色で、見た目も美しかった。その同じ飲み物が、今ここで香りを部屋に充満させている。
「では、それぞれの紹介は後にして、とりあえず召し上がって下さい」
ウドラカに促され、人々は食物に手を伸ばした。まずだれもがチャパティつかみ、それに皿に入った例の黄色いどろどろしたカリーをつけて食べ始めた。ここでも皆、左手の肘をテーブルに乗せて手首をテーブルの下に隠し、右手を使って手づかみで食物をとっている。イェースズもそれに倣った。
チャパティを口に運びながら、イェースズは一座の人々を観察した。半分はバラモンだ。彼らは決して肉には手を出さない。年齢的にはサマナーといわれる壮年層の人たちのようで、僧衣も高級なシルクなどで織られているいわゆるマハー・バラモンと称される上流のバラモンのようだった。ほかはクシャトリヤのようだが、武術を専らとするというよりは学者タイプのようだ。王侯の城内には、このような王に学問を講ずる役のクシャトリヤもいる。
とんでもない人たちと同席してしまったとイェースズが思っていると、さほど長い時間も経過しないうちにウドラカが口を開いた。
「今日、皆さんお招きしたのは、偉大なローマの青年を紹介したかったからです」
イェースズは突然の言葉に驚き、食物を口に運ぶ手を止めて集まった人々に軽く会釈をした。
「この青年は不思議な手の力で病を癒したり、空中の悪霊を見たりするすごい青年なんです」
「ほう」
人々は一斉に、イェースズの青い瞳をのぞき込んだ。この国ではローマ人というのは別に珍しくない。彼らの興味を引いたのは、イェースズの超能力に対するウドラカの説明だったようだ。
「ほう、あんたは本当に悪霊が見えるのかね」
イェースズにいちばん近い席にいたバラモンが、目を見開いて尋ねてきた。
「いえ、いつでも見えるという訳ではありません。見たことがあるというだけです」
「イェースズ、この方たちはね……」
ウドラカが今度はイェースズに客人たちの説明をした。
「この国を代表するようなマハー・バラモンや、学者の先生方だ。こういう方たちと交わりを持つのも、君にとって有意義ではないかと思って招いたのだよ」
「はあ」
うかない顔で、イェースズはうなずいた。カーシーに来れば何か新しいことが学べるのではとは思ってはいたが、このような上流階級の人々と交わることは彼の希望の中にはなかった。一年間スードラの中に身を置いていた彼としては、まるで別世界に来たような感がある。ただ、このような人たちを気軽に宴に招待できるというウドラカの顔の広さと、社会的地位の高さをイェースズは再認識させられた思いだった。
「さあ、イェースズ。なんでも君の知りたいことを、この方たちにお尋ねするがいい」
そう言われたとて、イェースズにはこのような人たちに尋ねることなどを何もない。そこで普段から疑問に思っていることに対する自分なりの回答を、いきなりぶつけてみることにした。
「私は皆さんに、この世に生きとし生けるすべての生き物の魂の元は一つだということについて、語って頂きたいんですが」
「ん?」
誰もが怪訝な顔をした。イェースズの言っていることがよく分かっていないようだ。しかし、分からないということは彼らの沽券にかかわるらしく、誰もが黙って食事に熱中し始めていた。そこで仕方なく、というよりも実はイェースズは十分に予想していたことだが、とにかくイェースズは言葉を続けた。
「私はこう思います。宇宙を創造された神様はおひと方ですけれど、でも神様はおひと方以上のご存在でしょう。なぜなら、天地一切すべてのものが神様のご意志が物質化したものだし、そういった意味ではすべての魂の元は一つだと思うんです」
「つまり、君は何が言いたいのかね」
一人のバラモンがたまりかねて、イェースズの話の腰を折った。
「ですから、元が一つなのだからそれぞれの魂も宇宙の大元のところでは一体なんです。そうなりますと、食べるためでなければたとえ蚊一匹殺しても殺戮の罪だし、他人を傷つけたり裁いたりすることは自分を傷つけて裁いたりすることと同じなんですね。だって、他人の魂も自分の魂も同じ大宇宙の一部なんですから」
「君は、自分の体に這う蚤もつぶさないのか」
「つぶしません。どんな微小な生物であっても、神様が必要とされてお創りになっておられるのですから、それぞれの役目があるはずです。百獣の王といわれるライオンでさえお腹がいっぱいのときには、すぐ目の前をウサギが跳ねていても決して殺したりはしないはずです。意味もなく生き物を殺し、また同種である人間同士で殺し合うなどというのはライオンなどの獣以下の所業だと思います」
一人の若い学者風のクシャトリヤが、顔をゆっくりと上げた。まだ真新しいターバンにはめられた宝石が、赤く輝いている。
「あなたが言う神様とは、何という神様ですか? どんな階級の人たちが拝む神様で、どこの何という寺院に祀ってある神様ですか? まず、それを聞いておきたい」
「私の言う神様とは、天地に普遍に実在する神様です。どこそこの寺院にだけ祀られているというような神様ではありません。神様はおひと方でも、人々が神様を見る見方は一様ではありませんよね。私の言う神様は智・情・意そのものですし、また愛そのものでもあります。その神様もいろんな国のいろんな民族はいろんな見方をして、神様のひとかけらを全部と思い込んで、人間の頭で勝手にそれぞれの民族でそれぞれの神様の名前を称えているのです。例えば、この国では神様のことをブラフマンと呼び、エジプトではラー、ペルシャではアウラマツダと呼び、ギリシャではゼウス、そして私の国ではヤハエと称しています。これは名前が違うだけで、みんな御一体の神様です。つまり天地創造の大元の親神様はおひと方で、各民族でその一部をとらえて勝手にいろんなお名前でお呼びしているにすぎないんです。その大元の神様はすべての生き物の繁栄のために、それら一切を統一運営なさる大源力で、人と万霊の共通の主なんです。天地の創造から、霊智の本源で、宇宙の意志となり、光となり、絶対力となってこの世を照らす主なんです」
一同はもはや食事も忘れ、水を打ったように静まり返っていた。
「そして人々は神様を自分たちとかけ離れた存在と勝手に決めつけてしまって、この国ではバラモン、私の国では祭司などという階級を作って、それに人と神様との仲介役をさせようとしています。でも本来の神と人との一体感、つまり神人一体が強く自覚できたなら、バラモンも祭司もいらないはずです。人が誰しも直接に祈り、手を組むことができるそういった神様こそ、本当の神様ではないでしょうか。神様は生け贄の犠牲は求めてはおられません。すべての人に愛を持って奉仕すれば、それこそ神様がいちばんお喜びになる犠牲ではないでしょうか」
イェースズはそれだけ一気にしゃべると、目の前の香ばしい湯を飲み干し、席を立った。
「ウドラカ先生。私がこの人たちに言いたいのはこれだけです。失礼させて頂きます」
「失礼するって、これからどうするのかね。外は暗いよ。うちに泊まっていけばいいのに。いったいどこで寝るんだ?」
「何とかなるでしょう。ご馳走様でした」
ウドラカにだけ頭をさげ、ほかの人々には一瞥もくれずにイェースズは部屋から出た。
自分が出たとたん、部屋の中から悪口が上がるのがイェースズの耳にも入った。
「な、何だ。今の若者は」
「びっくりしたなあ」
「ウドラカ先生、あなたはすごい若者をわれわれに会わせた」
そんな客人同士のやりとりが、はっきりと部屋の外まで聞こえてくる。それに気もとめず、イェースズは玄関の方へと歩いて行こうとした。
すると、廊下の前方に立っている男がいた。そしてイェースズの姿を見ると男は小走りに走り寄ってきて、イェースズの前にひざまずいた。
「私はこの屋敷に出入りにしている商人でございます。はからずもあなた様のお話を聞いて、ひどく感激するものがありました」
階級はバイシャのようだ。
「あのう、どうかお立ちください。私はあなたからそのような礼を尽くされるほどのものではありませんから」
「しかし、心の中からこみあげてくる何かを感じたのですよ。あなたのお話を聞いて、思わず目が潤んでしまいましてね。どうか、私の家にいらっしゃって頂けませんか? どうか私に、もっとお話をお聞かせ下さい」
イェースズはこのバイシャの家に泊まろうかと、ふと思った。
部屋の中では、相変わらず客人たちの議論が続けられていた。
「あの若者は、ブラフマンの霊勘を受けて語っていたのだ。神の化身に違いない」
「何をおっしゃる。気が狂っているだけだ。頭がおかしいんですよ」
「それとも、悪霊に取り憑かれているんじゃないのか。ヤクシャやアスラーに取りつかれて、操られてああいうことをしゃべったんじゃないのか」
議論は延々と尽きないようだ。イェースズはバイシャの男とともに表へ出た。満天にちりばめられた星たちが、とてもまばゆい夜空だった。
その日以来、イェースズは例のバイシャの家に逗留することになった。男自身は商人として飛び回っているが、家族はカーシー郊外で農耕に従事しており、今が農繁期ともあってイェースズも水田耕作に従事した。大方の仕事は巨大な白い牛がやってくれる。そののんびりとした動きを眺めているうち、気持ちまでもがすべての雑事から解放されるようで不思議な気分だった。ここへ来てから三日もすると、イェースズの心はもうすっかり落ち着いていた。
そんな昼下がり、イェースズは畔に腰をおろし、時間が全く存在しないような光景に目を細めていた。遠くの方に微かに横たわる山脈まで、水面は一面に広がってさえぎるものは何もない。
「先生、休憩ですか?」
イェースズを置いてくれているバイシャがにこにこしながら近寄ってきて、イェースズの隣に腰をおろした。
「その先生っていうのはやめて下さいよ」
イェースズも微笑みながら、その若者を見た。若者とはいっても、イェースズよりはずっと年上だ。
「僕なんか、ほんの子供ですから」
「いえ、いろいろ勉強されていて、本当にためになる話を聞かせて頂きました」
三日前の夜に彼の家に来てから、確かに折にふれて普段イェースズが思っていることをこの若者には話してきた。しかし、それは皆イェースズにとっては断片的なことでしかなかった。
「さあ」
と、言ってイェースズは立ち上がった。すると、程近い森の方から、一人のスードラが駆けて来るのが見えた。この若者の家で使っている召使いだ。息を切らせてやっと二人のところまで走ってきたそのスードラは、落ち着かないまま自分の主人の前に立った。
「だ、だんな」
「何だ。慌てなくてもいい」
「家の方にヴィシュナヴァートのバラモン様が何人か来てます」
「え? ヴィシュナヴァートの?」
ヴィシュナヴァートとは、このカーシーでいちばん大きな寺院だ。
「分かった」
歩き出す若者に、イェースズも従った。これはきっと自分に関係があるはずだと、イェースズは直勘したからだ。
森の中にあるバイシャの若者の家の入口付近にたむろしていた四、五人のバラモンは、若者よりもイェースズの姿を見て歩み寄ってきた。
「君がこの間、ウドラカ先生のお宅にいたローマの青年かね」
「はい」
バラモンとはいってもその僧衣からみると、身分はさほど高くもなさそうな連中だ。
「率直に言おう。われわれの寺院のマハー・バラモンが何人か、君とウドラカ先生のところで同席していたのだがね」
「はい、確かに」
「その時、君が話したことだよ」
イェースズは何かを覚悟するかのように、下腹に力を入れた。
「はっきり言うがね、君の話を聞いてきたマハー・バラモンの先生方はたいへん立腹している。あんな馬鹿な話を堂々とする青年がこの国にいるのは問題だと言ってね。それでヴィシュナヴァートのバラモンがそれを聞いて、同じように大騒ぎをしているんだ」
イェースズは口を開いて何かを言いかけたが、それをバラモンの一人が手で制した。
「まあ、待ちたまえ。君にも君の言い分があるだろう。実際には、君の話を聞いてもいない多くのバラモンたちが又聞きだけで、あれだけの騒ぎを起こしているのだ」
あれだけの騒ぎというくらいだから、イェースズのウドラカの屋敷でのほんの短い発言がよほどの騒ぎになっているらしい。
「そこでだ」
バラモンは続けた。
「我われ五人は、そんな又聞きだけであれこれ批判して騒ぐのはよくないと思って、それで訪ねてきたのだよ。どうかね、君を客としてわれわれの寺院に招待したいんだが。そこで我われに、あらためて君の話を聞かせてくれないかね。もしかしたら多くの人は君を誤解しているだけなのかもしれないからね」
イェースズはしばらく黙って、顎に手を当てて考えた。とっさに彼の頭に浮かんだことは、もうバラモンの寺院はご免だということだった。いわばはバラモンの本拠地ともいえるこのカーシーの大寺院で、再びマハー・バラモンたちを相手にする気にはどうしてもなれない。言っても無駄だし、決して彼らを裁くわけではないが、所詮別世界の住人たちのようにイェースズには思えた。イェースズは、時間の浪費はしたくなかった。むしろ彼の関心は、社会の底辺で名もなく生きている人たちに向けられている。
イェースズは意を決して目を上げた。そしてバラモンたちを見た。
「光を求めるものは光が来るのを待っているのではなく、自分の足で光に向かって歩いていかなければだめなのです。私の話は私が考えたことではありません。私に与えられた叡智について知りたいのなら、どうかあなたがたの方からいらしたらいかがですか? そうすれば私は喜んでお話しします」
バラモンたちは、しばらく言葉を失っていた。
「なんと生意気な小僧だ」
バラモンの一人が、ほとんどヒステリックな声を上げた。それを皮切りに、彼らは口々にイェースズをののしり始めた。
「やはり、マハー・バラモンの話は本当だった」
「とんでもないやつだ」
突然怒りだした彼らを前に、イェースズが呆気にとられていると、
「もう相手にすることはない。帰ろう、帰ろう」
と、言って、彼らの方から歩き出した。そして振り返って、捨て台詞を彼らは言った。
「無事でいられると思いなさんなよ。やがてお前は追放されるだろうからな」
ところが、そのバラモンたちの中に一人だけ、立ち去りもせず、また怒ってもいない様子でにこにこしてイェースズの前に残った者がいた。そしてその若いバラモンは立ち去りかけているほかの仲間を気にかけつつも、イェースズのそばに来て小声で耳打ちした。
「私は、おっしゃる通りだと思います。でも、われわれにも事情があるんです。あなたの話は……」
残ったバラモンがそこまで言いかけた時、すでに門の外まで出ていっていたほかのバラモンの一行が振り向いて叫んだ。
「おい、アジャイニン。いつまでいるんだ。行くぞ」
イェースズよりは四つぐらい年長と思われるが、まだ二十歳前と思われるそのバラモンは、
「ではいずれ、また連絡します」
と、言い残して仲間の後を追った。
その翌日には再びヴィシュナヴァートからの使いと称するシャーミーが、黄金の壺をもってイェースズが逗留している家を訪ねてきた。壺には木片が付随しており、次のように書かれてあった。
「身分が高いものが低いものの家に入ることはできません。あなたの話を伺いしたいのですが、こちらから行くことはできないのです。これが、我われの事情というものです。ですから、ご足労ですがどうかはおいで下さいませんでしょうか。バラモンたちも、喜んでお話を伺うでしょう。今夜の夕食に、あなたをご招待致します。アジャイニン」
その署名から、すぐに手紙の主はあの最後まで残って微笑んでくれた若いバラモンだとすぐに分かった。入口の外で木片を立ち読みした後、使いを待たせて、イェースズはその木片の裏に返事を書いた。
「おっしゃることは、よく分かります。しかし、身分云々にあなたがこだわるなら、私の話を聞いても理解はできないでしょう。神様からご覧になれば、人間が人知で勝手に作った律法などには何の価値もないのです。贈り物はお返しします。どんな高価な黄金であったとしても、真理はお金で買えるものではありません」
それだけ書くと、抗う使いのシャーミーにイェースズは壺と木片を無理やり持たせて帰らせた。
冷涼乾季の真っ只中であるだけに、夜になるとかなり冷え込む。イェースズはこの家では一室を与えられていたが、粗末な布団で暖をとり、今日もなすべき一切を終えて眠りにつこうとしていた。
外は風が強い。夜空にうなりをあげて風は走り抜け、そのために決して立派とは言えない家をぎしぎしと揺らす。
イェースズはなかなか眠れずにいたが、夜半も過ぎて風も収まり、ようやく彼はうとうととしはじめた。
まぶたの裏に、遠い故郷の村と湖の風景が浮かぶ。この国に来てからの慌ただしい毎日は、ゆっくりと故郷を懐かしむゆとりを今まで彼に与えてはくれなかった。それでもこの国へ来たばかりの、まだジャガンナスに住んでいたころはよく故郷の夢を見たものだったが、ここ最近は故郷を思い出すことなどかつてなかったことだった。
懐かしいカペナウムの家が見えてくる。門前にたたずんでいるのは、父のヨセフだ。父は何をするでもなく突っ立って、こっちを見ている。イェースズは思わず、父のそばに走っていく。ところが、父はイェースズを見ても表情ひとつ変えず、ただ黙ったままでうつろに遠くを見ている。
「お父さん」
そう叫んでイェースズが父の手をとると、その手は氷のように冷たかった。
「わしは行かねばならん」
ヨセフはぽつんと、そうつぶやいただけだった。
「え? どこへ?」
イェースズの問いかけには答えず、ヨセフはイェースズの手を払うと背を向けてとぼとぼと歩き出した。父の背中は、見るみる小さくなっていった。
「お父さん。どこへ行くの? お母さんは? ヨシェやヤコブは?」
父は何も答えず、背中だけをイェースズに向けてひたすら歩いて行く。周りを見ても母のマリアも弟たちもその姿を見せる気配もない。
「お父さぁーーん」
力の限りイェースズは叫んだが、父の姿は光の中に消えてしまった。
「お父さあーーん!」
「イェースズ」
力強く自分の名を呼ばれ、イェースズははっとわれに返った。目に映ったのは、異国のバイシャの家の天井だった。イェースズはふっとため息をついた。一気に意識は夢の中から現実に引き戻された。なつかしい故郷ではなく遠い異国の地にいる……これが現実だ。
「イェースズ」
もう一度力強い声が、足元で響いた。その声は、現実の方の声だった。驚いてイェースズは布団を払い、上半身をはね起こした。
そこには、人影がうずくまっていた。イェースズは心臓がはちきれんばかりに驚き、あわてて目を凝らして闇の中の人影を識別しようとした。そのうち、人影の方から口を開いてきた。
「私です。昼前、お便りを差し上げたアジャイニンです」
「ああ」
ふっと長い息を、イェースズはついた。
「このような時刻に、しかも勝手に入り込んで申し訳ありません」
「どうしたんですか。ああ、びっくりした」
「済みません。でも、だいぶうなされていたようでしたが」
「あ、いえ、あの、ちょっと」
イェースズは、とんでもないところを見られたと思って慌てた。「お父さん」などとは、この年代としては最も聞かれて恥ずかしい寝言だ。しかし、よしんば聞かれたたにせよ、イェースズはアラム語で「アパ」と言っていたはずだから、このバラモンに解せるはずはないことに気がついて安心した。
「ところで、いったいどうしたんですか。こんな時刻に、ここにあなたがいるなんて」
無理に落ち着きを取り戻して、イェースズは人影に向かっていった。だいぶ目も慣れてきて、アジャイニンというそのバラモンの輪郭もようやく分かるようになってきた。
「実はあなたの木片の返事が寺院のバラモンたちの目に触れてしまいまして、ただでさえ大騒ぎのバラモンたちの怒りに拍車をかけてしまったんですよ」
イェースズはそれを聞き、内心あの返事は少しまずかったかなと反省した。態度が尊大すぎたようだ。
「そして今、彼らはみんな興奮しきって、何とかあなたをこの国から追放しようとたくらんで話し合っています」
「そうですか。で、あなたはなぜそのことを私に?」
「私はそんなたくらみには乗りたくないんです。どうしてもあなたの話を聞きたくて、それで夜の闇にまぎれて寺院を抜け出してきたんですよ。どうか、私に真理の秘密を教えて下さい」
「秘密?」
イェースズはしばらく黙った。闇の中に沈黙が流れた。そのあとで、イェースズは笑みを取り戻して言った。
「私は何も秘密など持っていませんよ。ただ、自分なりに真実だと思うことを語っているだけです。神様の普遍の道というのは聞いてしまえば当たり前のことで、その当たり前のことが分からなくなっていてそれを模索しているのが今の世の中じゃないですか。つまりは、宇宙の根本の法則について、私は語っているのです」
「それです。そのことです。それを教えてほしいんですよ」
「あなたはヴィシャナヴァートのバラモンにしては、ずいぶん話せる方ですね」
「私は本来、あの寺院のバラモンではないんです。ずっと西の、パンジャブ国のプシュカラヴァティーという町から、あなたの噂を聞いて、どうしても話が聞きたくてここまでやって来たものなんですよ」
「え?」
イェースズの驚きは、ひと通りではなかった。パンジャブ国というのがどれほど遠い国か、プシュカラヴァティーというのがどこにある町なのかは知らないが、自分の話を聞くためにわざわざこうしてまで来てくれた人が、しかもそれがバラモン階級の中にいたとは全くの驚嘆以外の何ものでもなかった。
「どうして私のことなんか、噂に聞いたんですか?」
「隊商から聞いたんです。ローマの青年がシシュパルガルフの町はずれで、スードラたちに説法しているって。そして、その話をスードラたちにまじって聞いていたその隊商の人は、ひどく感激したと語っていましたよ。そして、その人からあなたは話の一部分を聞いて、私も心打たれるところがあったんです」
確かに、シシュパルガルフでスードラたちに説法していた時、頭にターバンを巻いた人も若干聴衆に混ざっていたのをイェースズは思い出した。
「そこで私はまずシシュパルガルフへ行って、ジャガンナスで尋ねたのですが、あそこではさんざんなことをあなたに対して言ってましてね。それで近くのスードラの村で尋ね歩いたんですよ。そしてやっと、あなたはもうそこにはいなくてカーシーに行かれたという情報は得て、そしてカーシーのヴィシャナヴァートに着いたその日、寺院中があなたのことで大騒ぎしていたんです」
「あなたはそんなにまでして、いったい私に何を求めてきたのですか?」
暗闇の中で相手には見えないであろうが、イェースズはにこにこ笑っていた。外では相変わらずの突風が吹きまくり、時折思い出したように轟音とともに家を揺らしてきた。
「悠久の昔から伝わる叡智を、あなたはきっと持っている。そう思ったし、あなたの言われる神様とその世界について知りたくて、私は旅への衝動に駆られたんです」
「しかし、あなたたちにはヴェーダというものがあるでしょう?」
「本当の神様の世界が、あの中にありますか? 昔話の中ではなく現時点で生きておられる神様が、ヴェーダで分かりますか?」
逆にイェースズの方が誘導尋問にあっているようだった。
「神様の世界が本当はどこにあるのか、私はそれを知りたくてここまで来たんです」
「神様の国ですか……。神の国はずっと遠い別の世界にある訳ではないでしょう」
寝がしらをくじかれたイェースズだったが、ようやく頭も冴えてきた。そして闇の中の輪郭を見据えて、穏やかに話を続けた。
「今こうして私たちが生きているこの世界も、裏を返してみれば神様の世界でしょ」
「え? ここが?」
「ここに限らず、どこもですよ。いいですか? なぜなら、神様はどこにでも存在される普遍の愛です。神の国というのはどこか別のところにあって肉の目に見えるものではなく、目には見えませんけど私たちの住むこの世と表裏一体だと私は思ってるんですけど」
「んー、私にはどうも分からない」
「要は、その神の国をはっきり認識できるかどうかじゃないでしょうか。神の国はこの世と一体であっても、物質の世界ではなく霊の世界なんです」
「では、認識さえすれば、その国の門に入れる訳ですね」
「でもその門は低くて狭いですよ。頭を垂れて、己を低くしないと入れないし、またはこの世のもの、この肉体でさえ持っては入れないでしょうね。偽りの我を捨てて真我を自覚し、浄まった魂だけが入る門でしょう、きっと。私には何となくそんな気がするんです」
「私でも入れますか?」
「入れるでしょう。誰でも入れますよ。今の状態では無理だとしても、本人の自覚と努力次第ではその門を入れない人は一人もいないんじゃないですかね。ただ、入れるのに入ろうとしないだけじゃあないですか。なぜなら、人は誰でもその魂はその国から出てきたのですから」
「私でも、入れるのですね」
「ええ。でも、今のままではどうだか分かりませんよ」
「では、どうすればいいのですか?」
暗闇の中の人影は気を焦らせて、イェースズに詰め寄ってくる気配を見せた。それでもイェースズは落ち着いていた。
「まず、」
「はい」
「そのきらびやかな僧衣を脱ぎすることだと思います。人知で作られたバラモンの衣なんか脱ぎ捨てた方がいいんじゃないですか? そして、神様にお仕えするに当たっては、少しでもお金のため、食べていくためなどということを考えてはだめだと思うんです。神の子であるすべての人に奉仕することが大切なんじゃないでしょうか」
「はあ」
イェースズはそれ以上何も言わなかった。アジャイニンも丁重に礼を述べ、そのまま闇の中へ消えた。
いつものことだが、いざこのような話を始めるとえも言えぬような叡智に満たされ、自分でも驚くようなことがどんどん口から出る。その叡智が本来の自分のすべてがあるとすると、普段の意識は十分の一ぐらいしか認識されていないかもしれない。
アジャイニンは帰ることは帰ったが、今の自分の話を聞いて魂の奥底から納得しただろうかという疑問が、ベッドの上で暗い部屋をぼんやり眺めているイェースズの心の中に湧いてきた。おそらく、彼はあまり理解もできぬまま帰っていったであろう。そして自分はどうかと、イェースズは自分に問いかけてみる。全意識の十分の一の顕在意識で、偉大な偉大な叡智に語らしめられていることを真に認識しているかどうか、己の血と肉にしているだろうか……それがこれからの自分の精進となるであろう……そんなことを考えながら、イェースズは再び横になった。
朝が来るまでそれほど時間はかからず、うとうとしているうちに巨大な太陽が窓から彼の顔をのぞき込んだ。闇の世、夜の世にもいつかこのように日が昇り、陽光の世界になるんだ……そんな声が彼の心の中で木魂した。
この村でもイェースズの噂はたちどころに広がり、毎日彼の話を聞くために人々は押し寄せてくるようになった。最初は皆、噂を聞いて一目見ようという好奇心で集まってきた人々だったが、少しイェースズの話を聞くとさらに興味を引かれたようで、人数は日を追うごとに増えていった。もちろん、どうも話が理解できないというような顔をして立ち去って行く者もいたが、集まってくる人々はシシュパルガルフの時の比ではなかった。シシュパルガルフでは郊外のスードラの村で説法していた訳だから、集まってくる人々の階層も人数も限られていた。しかしここは小国カリンガ国の都市シシュパルガルフとは違い、大国アンドラー国の文化の中心都市カーシーだ。都会の規模が違うし、それにイェースズが身を寄せているのはバイシャの家だけに人々の階層もバラモンを除くすべての人々がいた。中でもいちばん多いのは、やはりバイシャだった。今は冷涼乾季だから一日中農作業はできるはずだが、それでも昼下がりになるとイェースズの話を聞きに多くの人が集まってきた。
そうして、幾日かがが過ぎていった。
ここでも、イェースズの胸をよぎる一抹の不安があった。その一つは、今ここでこうして自分の話を聞いている人々が本当に自分の話を日常の生活の中で生かしてくれるだろうかということだ。したり顔でうなずいて帰っていくが、いざ自分の家に帰ってしまったら普段と変わらない日常の生活に戻るだけなのではないのかという懸念があったのだ。
もうひとつは、自分がシシュパルガルフと同じように、ただ人々にこうして説法しているだけでいいのかということである。まずその話の内容を完璧に自分のものにしてしまわねばならない。そのためには、自分自身の精進ということも必要になろう。また、この説法が本当に集まった人々の魂の救いになっているのかどうかの不安だった。
しかし、それならどうしたらいいのかも分からないまま、大地に太陽は昇り、そして沈んでいく。ただ、シシュパルガルフで生き神にされてしまった二の舞だけは踏みたくないと思い、彼はここで超能力は制御してなるべく使わないようにしていた。
アジャイニンからといえば、その後一回だけ木片の手紙が来ただけだった。しかもそれには、イェースズとのあの夜のやりとりについては何もふれられていなかった。ただ、今ヴィシュナヴァートではイェースズを警戒し、本格的に追放しようとする動きが顕著になってきたから注意するようにということを告げてきた。とりわけイェースズの周りに群衆が集まるようになったからバラモンたちは神経をピリピリさせているということなどを告げ、自分はプシュカラヴァティーに戻るということも記されてあった。
さらに数日たった。イェースズは夕刻近く、ガンガの川岸で群衆を前にしていた。夕陽の真紅が大水面を染めるであろう時刻も近いので、イェースズはその日の話を終わりにしようとした。
「皆さん。これで本日の話は終わりです。気をつけてお帰り下さい」
人びとはざわざわと話をしながら三々五々に散っていく。イェースズはガンガの方を向いて静かに目を閉じ、今日も無事に叡智に導かれるまま人々に話ができたことを神に感謝した。
イェースズは帰ろうと思い、再び群衆の方を見た。まだ若干残っている群集がうろうろしているが、彼らとてすぐに帰途につくだろうとイェースズが思っているうちに、群衆の中にいる一人が彼の目にとまった。それは若い女性だったが、この国の若い女性ではなかった。ユダヤ人だと、イェースズはすぐに気づいた。金髪と赤っぽい顔が、同胞のイェースズにはすぐに分かったのである。この国でユダヤ人を見かけるのは珍しいことではないが、女性のユダヤ人は上陸してから初めて目にする。
そこでイェースズは、急いでその女性を追った。だがすでに女は人込みの中に消えてしまった。
イェースズが寄宿しているバイシャの家に帰りつくまで、イェースズはずっとその女性のことが気になっていた。シシュパルガルフのジャガンナスからの使いが訪ねてきたとイェースズがバイシャの家人から聞いたのは、その日の夜だった。
ジャガンナスと聞いて、イェースズにいい感情が起こる訳もなかった。わざわざこんな所までこの寺院のバラモンたちはいちゃもんをつけに来たのか、それともアジャイニンから聞いたようにヴィシュナヴァートのバラモンたちがイェースズを追放するため、わざわざジャガンナスのシャーミーを呼んでここへ来させるのか……いずれにせよ、イェースズは会いたくはなかった。居留守を使おうかと思ったが、とにかく会ってみるだけ会ってみようと思って、彼は入口へ出た。そしてこの日二度目の、息も伴うばかりの衝撃を受けた。
そこにいたのは、夕刻ガンガンのほとりで見たあのユダヤ人女性だったのだ。しかも彼女はイェースズを見るなり、ギリシャ語ではなく涙が出るほどなつかしいアラム語で、
「主の平和。イェースズ」
と、笑顔で語りかけてきた。イェースズはしばらくあいた口がふさがらなかった。
「あ、あなたは……」
「私はジャガンナスから来たクシュジアルといいます。ずいぶんあなたのことを探しましたのよ。スードラたちに聞いて、やっとカーシーにいるって分かって」
「ジャガンナスから?」
ジャガンナスの寺院にこのようなユダヤ人の、しかも女性がいたはずは絶対にない。
「驚くのも無理はないでしょうね。実はあのジャガンナス寺院の一部にエッセネ教団の僧院があることは、あなたは知らなかったでしょうから」
「ええッ!?」
それはイェースズにとって、二重の衝撃だった。ジャガンナスに一年もいて、自分が故郷で属していたエッセネ教団の僧院が同じ寺院の一部に存在していたなど夢にも思わなかったことだった。
しばらく茫然と立ちすんだ後、イェースズはふと気づいたように彼女を、自分に与えられている一室に入れた。
聞けば、そもそもイェースズがこの国に来ることをエッセネ教団が許可したのは、ジャガンナスに教団の僧院があるということが加味されてのことだったという。教団内でのイェースズの立場、つまりメシアの母候補のマリアの長男ということから、そういうこともなければイェースズの留学は教団側としては認めなかっただろうし、両親が独断でここへイェースズを出すこともできなかったのだということだ。つまり、イェースズをジャガンナス寺院に入門させ、寺院内のエッセネ僧院が陰で保護するという条件付きでイェースズはここに来たという訳だ。
もちろんイェースズ本人はそのことは全く知らされてはいなかった。それは当然で、エッセネ教団側としてもイェースズの自由な勉学を保障するため決して本人の前には姿を現さず、また教団の僧院が存在することすら知らせないようにと決めていたからだ。
イェースズがジャガンナスを飛び出したのは教団としては全く予想外の出来事で、大騒ぎだったという。それでも自由に見聞を広めさせるのもよし、このまま行方不明になるようなら所詮彼は待望のメシアではなかったと断定するしかないと、僧院では話し合っていたということだ。今まで何百年もの間、何百人ものメシアの母候補が選ばれたが、失望のうちに平凡な子供しか生まなかったから、今度ももし同じことの繰り返しということになったら、新しいメシアの母候補が選ばれることになる。
それらのすべてをクシュジアルはイェースズに告げた。それから急に、彼女は笑顔をかき消した。イェースズはその表情の変化にはっとして、思わず、
「それで、なぜ今日は僕を訪ねてきたのですか? ジャガンナスへ連れ戻すためですか?」
と、聞いていた。だが、クシュジアルは静かに首を横に振った。
「いいえ。今日はそんなことよりももっと大事なことを、あなたに告げなければならないのです。実は、あなたのお父さんのヨセフが、」
「父が……?」
「実は、もうこの世にはいないのです」
「え?」
巨大な岩石がイェースズの脳天をめがけてものすごい勢いで落下してきたのと同じような衝撃を、彼は受けた。目の前が真っ暗になり、すべての思考能力が彼から消え去った。
「本当お気の毒です。エジプトのエッセネ本部から知らせが届き、どうしてもそれだけはお伝えしたくて、あなたを捜していたのです」
イェースズの目はうつろに、もはやクシュジアルを見ることもなく、視線は前方の壁をさまよっていた。しばらくの沈黙の後、クシュジアルはイェースズに言った。
「マリアは毎日、嘆き悲しむばかりだそうです。そして、今の気がかりは、あなたのことだそうですよ。あなたの身の上だけを、今は案じておられるそうです」
イェースズは唇をかみしめたまま、何も答えなかった。
「一緒にジャガンナスに戻り、エッセネの僧院に行きませんか? そうすれば、あなたの消息も向こうに知れるでしょう。そのままそこで勉強してもいいし、帰りたいのなら帰国の手続きも取りますよ」
それでもイェースズは何も答えなかった。クシュジアルはさらに話を続けた。
「それに、たとえエッセネでなくてもこの国にはユダヤの兄弟も多く生活し、ユダヤ人の町も多くあります。ですから、常にエルサレムと直結しています。そのままこの国で勉強するのもいいと思いますけれど」
それでもイェースズは沈黙していたので、クシュジアルが困ったような顔をしていると、イェースズはやっとぼそぼそと言った。
「とにかく、今夜は一人にしてくれませんか? どうか、先に帰って下さい。後で追いかけますから」
クシュジアルは、その言葉のままにしてくれた。父を亡くした青年の心を尊重してくれたようだ。
一人になったイェースズは、在りし日の父を思い浮かべた。ただでさえもう老齢だったから、無理もないといえば無理もない。しかし、知らせはあまりにも突然だった。
父への回顧がひとしきり終わると、クシュジアルの言葉が浮かんできた。しかし、それへの答えはもう彼の中にある。今さらジャガンナスへは戻れない。たとえバラモンたちのもとへではなく、エッセネの僧院へだとしてもだ。ましてや、エッセネの僧院で修行するなら、はるばるこの国へ来た意味がなくなってしまう。だからといって帰国するには、この国で考え悩んだことへの回答が何ら得られていない以上、まだやり残していることが多すぎる。
イェースズは昔ジャガンナスとのシャーミーだったころに着ていた僧衣を取り出し、それを程よい大きさにちぎった。そしてそこへ手紙をつづり始めた。
「主の平安。
お母さん。
お父さんが亡くなられたこと、聞きました。僕は人の死ということについて考えました。お母さん。もう何も嘆くことはありません。この世での死は、あの世での誕生です。新しい生活の場が、肉体を離れて魂だけとなったお父さんに与えられただけでしょう。
この世でのなすべきこと一切を立派に果たしたので、神様はお父さんにあの世への転勤を命ぜられたにすぎません。
この世もあの世も、等しく神様の御手の内にあります。だからこれからも変わらず、神様はお父さんに御守護を下さるでしょう。
いつまでも嘆かないでください。嘆くのは怠けの罪だと思います。生きている人へ愛の奉仕をすることこそが、お父さんへの最大の供養になると思います。
僕は元気です。きっと素晴らしい、お金で買えない宝を持って、お母さんのもとへ帰ります。
シャロム、アルカリヤハエ」
久々のヘブライ文字でつづった布切れの手紙を持って、イェースズは翌日町じゅうを歩いてユダヤ人の隊商を探した。さほど苦労はしなくても、それはすぐに見つけることができた。イェースズはそんな隊商に、故郷への手紙を託した。
その帰路、もはや夕刻も近くなって空気が一気に涼しくなり、宵闇が人々でごった返すカーシーの町を包み始めていた頃、どうも行く手が騒がしいことにイェースズは気がついた。イェースズは、いつの間にかヴィシュナヴァート寺院の門前まで来ていたのだった。何気なく、イェースズは騒ぎの方へ行ってみた。するとそこには、血みどろの若者が倒れていた。また暴走する牛の角にでも引っ掛けられたのかと思い、人垣に混じってイェースズは倒れている男を見た。
「あッ!」
イェースズは思わず大声を上げた。人垣の中の、イェースズのそばにいた何人かがイェースズに視線を向けた。人垣を押しのけ、イェースズは血まみれの男のそばまで駆け寄った。
あのジャガンナスで唯一イェースズと友情をもって接してくれたシャーミーのラマースが、今カーシーの町で血まみれになって倒れている。