3
涼しい風が、ジャガンナス寺院の上を駆け抜けていく。冷涼乾季といえども、決してこの国では寒くなるわけではない。直射日光を浴びている限りはそれで十分汗を流すことができるし、またひとたび日陰に入れば急激な気温差によって涼をとることができる。もっとも、たとえ暑熱乾季であったとしても、夜になればかなり涼しくなる。それほど気温の日格差が激しいのだ。
イェースズとラマースの二人が涼をとっていたのは、ひと月ほど前にイェースズが初めてこの寺院を訪れた日に目についた大きな山車の影であった。イェースズはその極彩色が施された山車を見上げて言った。
「前にも聞きましたけど、この車にはいったい何の意味があるんですか?」
「この車? そう、雨季が始まる前の祭りでは、この車が町中を牛に引かれて歩くんですよ。この車には、クリシュナ神の御神霊が宿っておられるのです」
「クリシュナ神って、どういう神様なんですか?」
「ヴィシュヌ神の化身です。つまりヴィシュヌの神様の御神霊が肉身を持ってこの世に顕現されたお方です」
「では、所詮は人間なのですね」
「人間は人間でも、み魂が違うんでしょうね」
「ヴィシュヌ神とは?」
ラマースは、『リグ・ヴェーダ賛歌』のうちの、「ヴィシュヌの歌」を暗唱しはじめた。
「私はいま告げよう。ヴィシュヌの業績を。ヴィシュヌは現界の境を測り、神界を支えて三歩歩いた」
「三歩?」
「ええ、三歩で現界から神界まで及び、三歩目は人間には不可視の領域だと教えられています」
「一歩目は現界、二歩目は幽界、三歩目は神界……」
ラマースはそれには答えず、イェースズが見えている山車を一緒になって見上げた。
「クリシュナという方は、マトゥラーで生まれました。叔父さんが国王で、その叔父さんは自分の一族の子は全部殺せと言ったのです。でもクリシュナは殺されませんでした。両親によってクリシュナは、一時的に牛飼いの娘である赤ちゃんと取り換えられたからです」
「なぜ、その国王は赤ちゃんを殺せと?」
「予言があったんです。一族の赤ん坊の一人が国王を殺すと」
「え?」
もう別世界にいて、ほとんど忘却の彼方に去ろうとしていた故郷における忌まわしい出来事が、急速にイェースズの脳裏に蘇った。まるで自分ではないか……王位を狙うという予言をもとに数万の赤ん坊がヘロデ王に殺された。自分は今難を逃れてここにきている……その話を母親から聞かされた時の自責の念がイェースズの中で蘇り、彼は思わずうつむいた。そんなイェースズの心情を、ラマースは知るはずもない。
「その後、クリシュナは若者になったとき、牛飼いの娘たちが川で水浴をしている場面に出くわしたんですよ」
ラマースの話によると、牛飼いの娘たちは服を川岸に置いて水浴していたという。クリシュナはその脱ぎ捨てられていた服をそっと隠してしまい、水浴から上がった娘たちが自分たちの服がないのを知って探し回っていたのを全部岩陰からのぞいていたという。やがて彼女らの目の前に姿を表したクリシュナは、恥じらいで再び川の中に戻った娘たちに、服を返してほしければ一人ずつ岸に上がり両手を高く挙げ、服を返してもらうよう懇願せよと言ったということだ。そうすればもう両手で恥部を覆うこともできず、全裸の何もかもがクリシュナの目の前にあらわになることになる……。
ラマースからそんな話を聞きながら、そのようなことをするものが神の化身でなんかあるものかとイェースズは心の中で思ったが、あえて言葉には出さず、
「そのクリシュナは、最後にはどうなったのですか?」
とだけ、尋ねてみた。
「瞑想中に足を猟師に弓で射られ、天上に帰りました」
イェースズは、薄気味悪くなってきた。聖書にさえ、こんな馬鹿げた話は載っていない。しかし、今聞いたようなことを行ったクリシュナという人物が、なぜだかここでは神として崇められているのだ。そこで外観絢爛な山車から目をそらし、
「行きましょう」
と、不機嫌そうにイェースズは言った。
シカラのすぐ下は人工の四角形の貯水池で、青い空のもとでも水は緑褐色となって微かにシカラを反映していた。
「ところでイェースズ。僕は君が来る前にラバンナからの手紙で、君はとても賢く君の国の聖典に精通しているということを聞いていましたよ。どうか、真理について教えてくれませんか?」
ラマースは貯水池のふちに腰をおろして、イェースズを見上げていった。イェースズもそのわきに腰をおろした。すでに彼を避けユダヤの貫頭衣ではなく、彼らの僧衣をまとっている。
イェースズはしばらく水面を見つめていた。ラマースの問いに答える準備はイェースズの頭の中にはなかったし、また無理に考えるようなこともあえて彼はしなかった。水面には青い空、流れゆく空が映っている。上空の風に乗って、白い雲が水面の上を右から左へと滑っていく。
イェースズは空を見上げた。今、水面上で再現された通りに、空でも同じように雲が風に流されていた。そして長い沈黙の後、イェースズはゆっくりと口を開いた。
「すべてのものが移ろいゆく中で、真理ってたったひとつ変わることのないものじゃないですか」
「え?」
驚いたような顔を、ラマースはイェースズに向けた。イェースズの目は、依然として水面にあった。
「この世は二つのものでできているんです。それは真理と嘘の二つで、真理こそが根本でその写し絵が嘘ということです。そう、ぼくが故郷で習った教えでも、人間の中には真我と偽我があるっていうことでした」
「でも、永遠に不変のものなんて、いったいこの世に本当にあるんですか?」
「あります。それがあなたの言う真理でしょう」
「今こうして目の前にある池も、あのシカラもずっとあるでしょう。だから、これらもみんな真理なんですね」
「違います!」
イェースズは、激しく首を振った。ラマースは、ハッとしたように身を引いた。
「そういった屁理屈の論議は、僕はあまり好きじゃない。どうして、もっと物事を簡単に考えられないんですか」
イェースズは次の瞬間、にっこりと笑った。だがラマースにとっては意外だった。イェースズは優しい口調になって、微笑みながら言葉を続けた。
「今目に見えているものは、いつかは壊れてなくなるでしょう。だから、嘘なんです。いいですか? 真理とは決してなくならないもの、そういったものなんです。それは決して目には見えないと僕は思うんです。どうですか?」
「人間って、何ですか?」
イェースズの問いかけは無視して、ラマースは次の質問へと話を進めた。イェースズは気にもせず、その質問にも笑顔で答えた。
「だから、人間というのも嘘の存在と、目に見えない真理とが一緒になっているものでしょう」
「いつも私が疑問を持っているもう一つのことを、聞いてもいいですか?」
「いいですが、頭でっかちの議論はあまりしたくないんですよ」
「これで最後です。神様を信じるって、どういうことですか?」
「神様は全智全能のだと、僕は故郷で教えられました。それに向かって、人間の方から歩み寄ることなんじゃないですか?」
「え? そんな大それたこと、できるんですか?」
「できると思いますよ、僕は。だって、あなたたちの教えでも、人間は神様によって創られたのでしょう?」
「え、ええ。偉大なインドラの神の叡智により、我われはあるんです」
「じゃ、人は神の子だ。子供が育って親になるように、人も精進次第で神様のようになれる……その努力をすることが、神様を信じるってことじゃないですか?」
ラマースはただただイェースズのにこやかな笑みの中の、透き通るような青い瞳に魅せられて言葉というもの失っていた。
「一歩一歩と神様に近づくために歩み、神様と人との差を取っていく。最後の段階で人が本当の意味で救われたといえるのは、人とを神様が一つになれた時ではないですか? どう思いますか?」
ラマースには、返す言葉がないようだった。
そのラマースがカーシーへ行こうとイェースズを誘ったのは、乾季も冷涼から暑熱期へと切り替わろうとしていた頃であった。暑熱期になれば緑に覆われ色とりどりの花が咲き誇っていたこれまでの大地は、すべて赤褐色に塗りつぶされるという。そうなる前にと、ラマースは言うのだ。すでに彼らが属するサロモンの許可も得ているという。カーシーは隣国の都市ではあるが、文化、学問の最も栄えている町だ。カリンガ国の西に隣接するアンドラ王国はこの地方で最も栄えている帝国であり、その都市であるカーシーはここからだと西の方になる。そこへ行くには、大地を超えてはるばると旅をしなければならない。だから、今しか行けないとラマースは言った。やがて雨季になると大地も草原も大河と化し、旅どころではなくなるというのだ。
ジャガンナスの寺院でサロモンから講義を受けるようになって三カ月、ほとんど哲学化している教義にいささかうんざりしていたイェースズは、ラマースの申し出を受け入れることにした。今度はこの大地の、ずっと奥の方へ入ることになる。それだけにもっと未知の土地へ行く訳であり、故郷との心理的距離はますます遠のくことになると思われる。しかしそれでもいいと、イェースズは思っていた。
ラマースも、カーシーは初めてだという。カーシーへ行くことはかねてからの念願であったが、やっとサロモンの許しが出て、うれしさついでにイェースズも誘ったのだと彼は白状した。
それを聞いて、イェースズはただ笑っていた。
そして、まだ空気がひんやりとしている朝、二人はジャガンナスを後にした。供はいない二人だけの旅で、二人とも馬上だった。国境を超えるのだから、どんな山賊や猛獣が現れるかもしれない。しかし、二人ともそのバラモンとしてのいでたちに、ひそかに信頼を寄せているようだった。
目の前を遮るものは何もなく、ただ広いだけの大地を二人の馬は進んだ。そろそろ額の汗も激しく流れるようになってきており、そんな時は密林を探して涼をとることにした。だが、そう長くはいられない。そういった密林には必ず虎や毒蛇などの猛獣がいて、いつ襲ってくるか分からないからだ。幸い出発してから今日までの四日間、猛獣にもまた盗賊にも彼らは出くわしてはいなかった。
夜は野宿だった。密林の中でも特に巨大な大木を探してそのふもとか、あるいは岩山の山肌の洞窟を中に大蛇がいないか確認してからそれを寝ぐらとし、かがり火を盛大に一晩中焚いて睡眠をとった。そして、どちらかが必ず交代で見張りのために起きていて、猛獣の襲撃に備えた。イェースズが見張りの番の時は、いつもラマースの寝顔を横に一人で炎を見つめていた。空には満天の星がちりばめられ、獣の咆哮があちこちの山野から不気味に木魂してくる。しかしこれだけかがり火を焚けば、ちょっとやそっとでは獣は寄ってこない。よしんば獣が姿を現してもその気を荒立たせるのは、こちら側の対立の想念によってだとイェースズは自分に言い聞かせていた。炎を眺めて心を落ち着かせていると、自然とそう思えてくる。……夜空も、炎も、林も、風も、この大地の上は一切調和でできている。その調和の心で接する限り、猛獣といえども危害を加えてくることはあるまい。調和を乱した想念のみが、相手に危害を加えさせる要因となるのだ……と、イェースズは思っていた。
そして遠くで聞こえている咆哮は、一向に近寄ってくる気配はなさそうだった。
さらに恐ろしいのは山賊だが、この方はかえって心配はいらない。なぜなら彼ら二人はどう見てもバラモンだし、バラモンを襲っても金目のものを持っていないことを山賊たちはよく知っているはずだ。それに、山賊といえどもバラモンを襲撃などした後の神罰には、大いに恐れを抱いているに違いない。
翌朝、二人は久しぶりに人里に出た。数十戸がかたまっている小さな集落だった。この国の大自然はおおらかで実にのびのびとしているのに、ひとたび集落となると大都市と同様おびただしい人の群れがそれを埋め尽くしている。そんな集落に、バラモン姿の二人の青年は村はずれから入って行った。
誰も彼らに気をとめる者はいなかった。彼ら二人とて、この集落に入ったからといって物乞いができるわけではない。六十代のサロモンとなってはじめて、一般の民衆から托鉢を受けることができる。それでもほんの時折、彼らのバラモンとしての修行僧姿に布施を申し出る人もいた。バラモンとしての礼をもって、ラマースはそれに応えた。
ラマースの手には、器ごと温かい粥が入っていた。イェースズはこの国に来て、はじめ粥というものを見たものだった。ここには故郷で慣れ親しんだパンというものはないようで、そのかわりに粥とかいう湯の中に白い粒が浮いているようなものを食べさせられた。パンにする前の小麦の粒をそのまま食べさせられているようで最初は抵抗があったが、慣れればなんていうことはなくなった。庶民の食生活といえば、もう少し上流になると湯に浮いているのではなく塊として盛られた白い粒の山の上に、黄色いどろどろしたものをかけたのを食べている。イェースズはさすがにそれを食する気にはなれなかったので、まだその黄色い食べ物を口にしたことはなかった。
この朝の粥はうまかった。白い米粒のほかはわずかな野菜が入っているだけのものだが、それでもうまかったのである。シシュパルガルフを出て以来、口にするものといえば果実と野草ばかりの毎日だったのだ。水とて川の水をそのまま飲むとよくないとラマースに言われ、火をおこして汲んできた水をそれにかけ、一度沸騰させてから冷まして飲んでいた。
イェースズは暖かい粥をすすりながら、村を見下ろす小高い所に腰をおろしてラマースに尋ねてみた。
「頭に布を巻いている人と、そうでない人がいますね。シシュパルガルフでも気になっていたんですけど」
確かに頭に細い布を何重にも巻き付けている人と、そうでない人とがいる。どちらもバラモンでもクシャトリヤでもない庶民だ。布を巻いている方が悠々と町を闊歩しており、何も頭にない者たちはせっせと働いていた。
「布はターバンといいます。ターバンがあるのがバイシャで、ないのがスードラです」
「それって、どういう人たちなんですか?」
「バイシャは、見ての通りの町民です。クシャトリヤの階級の者ですよ。そして、バイシャの下がスードラ」
そうすると、スードラとは奴隷ということになる。こうして見る限り、スードラは少なくとも人間としては扱われていないようだ。
こんな小さな集落なのにこんなにも人があふれている訳が、イェースズには何となく分かったような気がした。シシュパルガルフでもそうだったが、この村でもおびただしい路上生活者がいるらしい。イェースズの故郷でも「地の民」と呼ばれる非差別階級があったが、それは律法を守れないがために罪びととして差別されていたのである。またローマ人などはよくギリシャ人を奴隷として使っていたが、彼らは被征服国民としてそのような差別を強いられていたわけである。しかし、ここではイェースズがスードラの差別理由をラマースに聞いてみても、ラマースは、
「生まれつきですよ」
と、言っただけだった。バラモンとクシャトリヤが生まれつきで一生そうであるのと同様、バイシャ、スードラも一生、そしてその子孫も代々バイシャやスードラであるというのだ。
「ひどい」
と、イェースズはつぶやいた。自分の故郷の差別よりも、もっとひどい差別がここにある。
朝日は村のずっと上の方の空まで、すでに昇っていた。イェースズがひどいと思ったことがこの村ではまるで当り前かのように、今日一日の営みがこの村で始まろうとしていた。
カーシーの町はさすがに文化、学問の中心都市らしく、それなりの気品があった。シシュパルガルフのあるカリンガからだとここは異国であり、アンドラ王国の一都市である。しかし、両国は今のところ友好関係を保っているし、同じ文化圏に属するので誰もラマースやイェースズの姿を怪しがるものはいなかった。ましてや、この国は人種のるつぼである。イェースズがはじめて来た時にこの国の人たちの顔つきを異様に感じたほどには、彼らはイェースズを異様には感じていないように思われた。事実、ヨーロッパ系の人種がこの国にはおびただしく流入して来ていてして国民となりきっているし、ここ数年はローマとの交易も盛んになっているようだ。それを裏づけるかのように、イェースズらがカーシーに入った瞬間、ちょうど上陸したばかりの時と同様に無数に差し出された褐色の腕にイェースズは故郷から持ってきたローマの貨幣を握らせたが、それでもみんな喜んで走り去っていった。ローマの貨幣さえ、この国では流通している。そればかりか、ローマの商人も多数この国にやってきているようで、町中で驚くほど多くのローマ人とイェースズはすれ違った。しかし、イェースズにはすぐ気がついたことがあった。ここではローマ人ということにはなっているが、その商人たちはほとんどユダヤ人だったのだ。国外離散のユダヤ人かもしれないが、じつに多くの同胞がこの町を歩いている。中には、ギリシャ語で大声で談笑しながら歩いているものもいた。
そんな彼らの中の一人は、イェースズとすれ違いざまに、
「シャローム(主の平和=こんにちは)」
と、イェースズに語りかけてきたりした。そして、遥かな昔、ソロモン王の時代からユダヤとこの国は交易が開けていたということを、イェースズはその男から立ち話で聞いた。
この町はシシュパルガルフと同じぐらいに大勢の人がいるにもかかわらず、どこか違う雰囲気があった。それは、喧騒が感じられないことであった。町全体が落ち着いているのだ。
そんなことを考えながら歩き、黄土色っぽい寺院と寺院の間を抜けた時、イェースズとラマースの二人の視界は一気に広がった。イェースズは、思わず、
「うわーっ!」
と、声を上げてしまったほどだった。巨大な、とてつもなく巨大な大河が目の前に横たわっているその大河は、じっと息をひそめている生物のようでもあった。対岸は遥か彼方で、靄の中に林が点在するのが微かに認められた。
「ガンガですよ」
と、ラマースはつぶやいた。
「え?」
イェースズが問い返すと、ラマースは大河の方に目をやったまま、
「ガンガというこの大河は、我われの民族の母なる川です」
と、イェースズに説明した。折しも夕陽が空を真紅に染め、また大河の水をも同じ色に染める時刻であった。
大河との面会はこの日はこれだけにして、町はずれの山野で今までと同じように野宿をした二人は、朝になると再びガンガンの川岸へと出向いた。
岸は人工の石積みの段となっており、川に沿ってそれが延々と続く。ガードと呼ばれる沐浴場だ。朝の光を受けて、多くの人々がそこで腰まで川に浸かっていった。彼らは川の水で身を洗い、大空に向かって大きな声で祈りを捧げている。
イェースズは川岸近くまで降り、そっと川の水を手ですくってみた。この国の人たちにとっては。その水はとてつもなく聖なるものであるようだ。祈りの声もあちこちから聞え、とぎれる様子もない。川面にはさらに靄がかかってきて、もはや対岸も見えなくなっていた。だから、水面は地の果てまで無限に続いているのではないかという錯覚にさえ陥る。
イェースズはラマースとともに、祈りの声がまだあちらこちらで響いている川岸をあとにした。食事の布施を請うためにである。しかし、若いシャーミーとすぐに分かる二人に布施をくれる人は、田舎とは違ってさすがにそう簡単にはいなかった。
「また、山で果実でも取ろうか」
イェースズがラマースにそう言った矢先である。人ごみの一角が急に騒がしくなった。イェースズが何だろうと思っているうちに、騒ぎの渦はどんどん近付いてくる。そしてそのうち人垣が薄れ、騒ぎの原因がよく見えるようになった。
大きな白い牛が、何を怒っているのか暴れ回っているのだった。その角には身分のありそうなクシャトリヤがその衣を引っ掛けられ、突き上げられ、絶叫を挙げ、ほとんど血まみれになっていた。
イェースズは思わず走り寄って石を拾うと、大牛に向かって投げようとした。
ところが、その腕はうしろからつかまれ、すぐに止められた。振り向くと、ラマースだった。ラマースは慌てて、イェースズが石を投げようとする腕を必死に押さえていた。
「だめです。牛は神聖な動物です。その牛に石を投げるなんて」
「人の命より、牛の方が大事なんですか!」
二人がもめているうちに、牛の角に突かれていたクシャトリヤは弾き飛ばされ、人々の叫喚の中で血みどろになって大地に叩きつけられた。牛は一目散に疾走していった。倒れたクシャトリヤは身動きもせず、人々はしばらくそれを眺めていたが、あっという間に三々五々に散ってたちまちもとの雑踏に戻った。その中で、血まみれのクシャトリヤは人々の行き交う足元に倒れていた。
イェースズは呆気にとられた。誰もが倒れているクシャトリヤを顧みようともしない。そこでイェースズは、ほとんど虫の息になっているクシャトリヤのそばに走り寄った。ラマースも後からついてきた。
イェースズはとっさに考えた……今、自分がしなければならないことは、自分にできることは……その男を抱きおこし、血をぬぐって介抱することでもない。医者を呼びに行くことでもない。倒れている男のそばを見知らぬふりをして歩き過ぎる人々の群れと違い、その男に愛ゆえの関心を寄せることがまず第一歩だ。しかしそれ以上に、自分にしかできないことがある……もう何年も使っていないあの力……彼の中の愛の念は、それを使うことを躊躇するゆとりを彼に与えなかった。
イェースズは倒れた男のそばにしゃがみ、服が切り裂かれおびただしい血が流れ出ている胸にそっと手を置いた。かすかな胸の鼓動が掌から伝わってくる。周りの人は皆怪訝そうな顔をして通り過ぎて行くし、ラマースも黙ってイェースズの背後に立っていった。
イェースズは、男に触れている手の力を抜いた。この見知らぬ男への愛の想念を強く念じていく。あとは、神様におまかせだ。
そのまま、かなりの時間が経過した。イェースズは自分の体にだんだんとパワーがあふれてくるのを感じ、そのエネルギーは掌を通して男の血まみれの体へと伝わっていった。しかし、出血のもとは一箇所ではないらしく、これでは手が何本あっても足りそうもなかった。
その時、
――息を吹きかけよ……
と、どこかで声がした。明らかに肉の耳に聞こえる声ではないと、イェースズにはすぐに分かった。自分の内部から発せられてくる、慈愛に満ちた温かい声だった。
イェースズは手を男にあてがったまま、満身の力をこめて息を男の全身に吹きかけた。一瞬、男の全身が黄金の光で包まれたような気がした。次の瞬間、クシャトリヤの男はパッチリと目を開けた。そして何事が起こったのかと怪訝な顔つきできょろきょろと当たりを見まわし、それからすくっと立ち上がった。
イェースズは一つため息をついた。ラマースはもはや言葉を失い、口を開けてそれを見ていった。そしてイェースズは緊張していたせいか、通り過ぎていく雑踏の中で自分の行為をじっと見つめている二、三人の人がいることには気づいていなかった。
その人たちは、静かに家のそばに近づき、中でもいちばん年老いて頭も薄い老人がイェースズの肩に手を置いて言った。
「君はすごい力を持っているね」
イェースズは驚いて振り返り、その老人の顔を見つめた。
「わしは医者なんだけどね」
老人は、イェースズの肩に手を置いたままだった。
「君にお株を取られたようだね。これからわしの診療所まで来てくれんかね。どうせこの方の治療をしなければならないからね」
治療といっても当の倒れていたクシャトリヤの男は、何事もなかったように突っ立っている。
「もうなんともないようだが、一応知らせを聞いて駆けつけて来たからには、医者として彼を診なければならん。その時、君も立ち会ってほしい」
バラモンのシャーミー姿のイェースズは何も語ることなく、黙ってうなずいた。その年老いた医者の顔を見ていたラマースはハッとした表情をしたが、その時は何も言わなかった。医者と傷ついたクシャトリヤ、そしてイェースズとラマースはガンガの川岸の方へと歩き始めた。
大河に沿った道を一行が黙々と歩いていくうちに、はるかかなたの対岸の靄もだいぶ晴れてきた。祈りをささげるために川に入っていた人々も三々五々に上陸し始め、また彼らの日常の生活が始まろうとしている。
しばらく歩くうち建物に挟まれた一角に空地があって、そこで盛んに火を焚いている人たちに出くわした。イェースズが何気なくそれに目を向けると、日で焼かれている布から人間の手が出ているのが見えた。ぎょっとしてイェースズは、顔をラマースの方に向けた。
「あれは、葬式ですよ」
平然とした様子で言い放ったラマースはイェースズをちらりと見ただけで、すぐ前方に視線を戻した。これではまるでごみを焼くのと何ら変わりがない。宗教的儀式もないし行列もなく、また死者の縁者と思われる者の姿も見えなかった。
「あの亡くなった方の身内の人は?」
「そんなの、死体焼きの人に死体を引き取ってもらったらそれで終わりですよ。死体は魂のぬけがらでしかないのですから、死んだ人の魂だけを祀っていればいいでしょう?」
この国では、死というものは何ら重要に考えられていないらしい。朝目が覚めて、お腹が減って、眠くなるとあくびが出て……肉体が死ぬのもそれらと同じような感覚のようだ。
「それで、イェースズ」
今度はラマースの方から、小声でイェースズに話しかけてきた。
「あのお医者さん、知ってます。いや、この国では知らない人はいないでしょう」
「え? あのおじいさんのお医者さんが?」
「この国の医者の第一人者で、ウドラカという人です。バラモンやクシャトリヤなど上流の人たちし掛かれない医者でしてね」
そんなすごい医者が自分に話があると言ってきたのは、イェースズにとって恐いような、また好奇心を引かれるようなことでもあった。なにしろあのクシャトリヤを癒した業の一部始終を、全部目撃されているのだ。
老医者ウドラカの診療所は、いっぱしの宮殿並みの建物だった。さすがにマハー・ラージャンの宮殿のように宝石がちりばめられてはいないが、それでも造りは相当立派なものであった。その一室で、ウドラカは傷ついていたはずのクシャトリヤを診た。診ながら何度も、彼は首をかしげていた。
「おかしい。あれだけの出血でありながら、何ら外傷は残っていない」
すべてがイェースズの力によって癒されたということを、この医師は認めざるを得なかった。
「君はいつ、あんな力を身につけたのね」
いすに腰掛けたまま、ウドラカは脇に突っ立っていたイェースズに尋ねた。
「小さい時です。ある日突然に……」
イェースズは自分が不思議な力を持つに至ったいきさつを、詳しく老人に話した。
「なるほど……。それで、どうかね。君の力はすごい。今日一日ここに留まって、わしの話を聞いてくれんかね」
医学で病を治す医師から、医学など何も知らずただ不思議な力で病を癒す自分にこのような申し出があったことを、イェースズはうれしく思っていた。それからクシャトリヤは返して、ウドラカとイェースズ、ラマースの三人は昼近くまで話しこんでいた。
「君の力は、それだけで素晴らしい。しかし、わしの持っていている医学の知識と合わせれば、もっとすごいものになるだろう。わしはどう逆立ちしても、そんな力は得られない。だから知識のみで患者に接している。しかし、わしの話を聞くことは君にはできるだろう」
「医学の知識といっても、僕の国では石屋が『クスリを飲めばそれでいい』って言ってますけど」
「とんでもない話だ。そんなのは本当の医学ではない。クスリで病気を抑えこんで症状が消えればいいなんて、そんなのは迷信だ。問題はもっと根本にある。病気の原因からとり除いていって、病気を治すのではなく病気そのものをなくなくしてしまうことが必要だ」
「じゃ、病気って何なのですか?」
「いいかね」
ウドラカは一つ咳払いをした。
「大自然の法則は、一切が健康なんだよ。太陽も月も大地も、完璧なほどを健康に創られている。従って、人間とて自然の一部ならば、つまり大自然の法則のままに生きているのならば必ず健康で、病気など存在し得ようがない。つまり、大自然の法則を破った場合、宇宙の調和を乱したとき、健康は狂って病気になる。調和を乱すことは罪だ。いいかね、宇宙もこの大地もとにかく大自然というものは大商はなのだよ。そして、人間もね。だから病気になっているという人は、どこかでその大調和を乱しているという罪を犯してますよという看板を首から下げているようなものだ」
このようなことは、イェースズは今まで考えたこともなかった。ただ病気の人がいると夢中で手を置いて、その病気を癒していただけだった。
「なあ、君もバラモンの一人のようだから、神様については知っているだろう」
「はい。一応勉強しました。でも、確かにすべて先生のおっしゃる通りです。神様は全智全能を振りしぼって人間をお創りになったのですから、その人間がときどき故障するなどというへまな創り方をなさるはずはないですよね。ということは、病気になっているということ自体人間の方に責任があるんですね」
「その通り。君はまだ若いようだが、のみこみは早いようだな」
ウドラカは何度もうなずいていた。
「だからだね、自然の調和をそこね、宇宙の均衡を乱すとき、心の中に張りつめていた糸が緩んで調和に戻そうとする反作用が生じる。それが病気というものだよ。お分かりかな?」
「はい。だいたい分かりました」
「ところで君の力だが、その根源は君の念にあるようだね。君のような力は、あのヒマラヤを超えた国のバラモンなどは山中で四十年間修行をして、身につける人もいるというがね」
と、いうことは、このような力を持つ人は世界に自分一人ではないらしいということを、イェースズは何となく考えた。
「人間と神が、すなわち人間と自然とが一体化するとき、力が与えられると彼らは言う。しかし、与えられる力は補助的なもので、本当の意味で病をどう救うかは、その病に苦しむ人の自覚しかないと、ヒマラヤのバラモンたちも言っているそうだ」
「自覚? 何の自覚ですか?」
「だから、人が神や自然と一体であり、すべては調和で成り立っているということを自覚することだよ。人を救うということは、そういった自覚を苦しむ人に持たせるということだろうな。それも理論理屈で言っても、口から出る言葉は右の耳に入ったら左の耳から出ていってしまう。要は魂をもって相手の魂を揺り動かすということだ」
ウドラカの言葉には、たしかに説得力があった。ただ単に話術の問題ではなく、波動が伝わってくるのだ。
「君の手や吹く息には確かにすごい力があるが、忘れてほしくないのはその想念だ。憎しみや恨みの念ではなく、その力を最大限に発揮するのは愛の念の力だよ」
そのことは、イェースズなりにいささか自覚はしていたことだった。しかし、まさか医者からこんな話を聞くとは思わなかった。イェースズの国の医者は、とにかくクスリを飲ませて症状が消えればよしとし、あとは治療代を高くすることしか考えていないような連中だ。そんな石頭の医者連中から、このような話を聞くことはあり得なかった。
「それにね。いいかね。このことはいちばん大事だよ。今、病気で苦しむ人たちの真の原因の多くは、空中の目に見えない悪霊の仕業なんだよ。悪霊は狙う人に憑依し、その人を操って神の法を破らせ、よって病気にさせてしまうんだ」
「悪霊? その悪例が病気の原因なのですか?」
「全部が全部そうではないが、まあ、十あるうちの八ぐらいまではそうだろう。悪霊の力は人の心を自由に操り、暗くしてしまう。しかし、真の自覚を人々に促すことのできるものは、この悪霊の力をも制することができる。確かに空中の悪霊は、この世に生きている人間の力ではどうすることもできない強力なものもいる。だからこそ神様と一体化し、その力を頂くしかないんだよ。どうかね。君にはそれができそうな気がするんだが……」
イェースズは力なくうなずいた。
ウドラカのもとを辞したイェースズの耳のもとで、ウドラカの言葉など馬耳東風だったラマースがささやいた。
「君って、すごいんですね。すごい力を持ってるんですね。知らなかった……」
翌朝、ラマースとともに再びガンガの川岸に来てみたイェースズは、自分もこの町の人々と同じように川に入って祈りを捧げてみたいとふと思った。それを言いだすと、ラマースはとめはしなかったが、自分は岸で見ていると言った。
イェースズはシャーミーの僧衣を脱ぎ捨てて簡単な下着になると、ゆっくりと川に入っていった。川岸に沿って長く延びる人工の階段は、水面下に入ってもしばらく続いていた。
イェースズはゆっくりと天を仰いだ。調和の心を保ち、ただこの大自然と一体化させて頂いているということへの感謝の念をぎゅっと凝縮し、神を讃えて祈った。そのときラマースは、イェースズの全身が黄金の光で包まれているのを見て、思わず口をぽかんと開けていた。もちろんイェースズ自身は、そのようなことは知らなかった。
二、三日滞在してから、二人はシシュパルガルフへの帰途に着いていた。もうすぐ暑熱の乾季が訪れ、焼けつくような太陽が赤茶けた大地を焦がすようになる。そしてその乾季が終わると、イェースズがこの国に来てから初めての雨季であった。イェースズはすでに十四歳になっていた。