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船は五十人も乗ればいっぱいになるような木造船で、エジプトからラバンナの国カリンガへ向かう隊商の所有する船であった。エジプトにあるラバンナたちの僧院で手配してくれたものである。
今、進んでいる海は、船の上からは陸地が全く見えない大海の上に浮かんでいるように見えるが、実は陸地に挟まれた長細い海峡であるということをラバンナはイェースズに告げた。
退屈なはずの船旅もイェースズにとってはあっという間に一日が終わるという毎日で、最初の数日は海というとてつもない大きさの中に小さな身を置いているということ、それと船旅という生まれて初めての経験からくる楽しさであれよあれよという間に夜が来てまた朝が来るという繰り返しだった。波も穏やかで、平穏無事に航海は続いた。
イェースズは船の舳先の近くにいて、欄干から身を乗りだし、潮風を思いきり胸に吸い込んだ。風が髪を揺らし、通り過ぎてゆく。青一色の世界だ。白い雲が塊となって、行く手の水平線あたりから中天近くまで高く盛り上がっている。イェースズのブルーの瞳には、夏の陽光はまぶしすぎた。カペナウムにいた時よりも、はるかに強い日ざしだ。世界がこんなにも明るいものだとは、彼は今まで知らなかった。海鳥が三羽、頭上を白い羽根を羽ばたかせて通り過ぎていく。
気がつくと、隣にラバンナがいた。通詞を通して、彼はイェースズに語りかけてきた。
「こんな風景、初めてでしょう」
「ええ、何もかもが今まで知らなかった世界です」
「私の国へ行けば、もっといろいろなものがありますよ。君が見たこともないような形の宮殿や寺院、そして象という動物がいます」
「象?」
「鼻が長く、大きな家ほどもある動物です」
驚きの表情でラバンナを見たあと、イェースズは視線をどこまでも深い青の海へ戻した。
「今はこの景色を楽しむ気持ちと、早くあなたの国いっていろいろなものを見てみたいという気持が半分ずつで、変な感じです」
ラバンナはそれを聞いて、かすかに笑った。イェースズはまだ海を見つめていた。
「あなたから聞いた天にも届く白い山とかも早く見たくて、それだけ気持が焦ったりもするんですよ。なんだかカペナウムでの暮らしが、ずっと遠い昔のことのような気もしますから不思議ですね」
こんな時、イェースズの表情にはまだ少年のあどけなさが残っていたりする。そのどこまでも透き通った瞳を、ラバンナはじっと見ていた。
「そんなに見ないで下さいよ」
と、イェースズははにかんで、ラバンナの国の言葉で言った。出港してから、ただ何もしないで暮らすのももったいないということで、ラバンナとその通詞によってイェースズはラバンナの国の言葉を勉強し始めていたのだ。文法はさほど難しくないが、問題は文字だった。知らない人が見るとヘブライ文字と非常に似ているようにも見えるが、もちろん全く違う。驚いたことに上から下へ綴るという。ギリシャ文字は左から、ヘブライ文字は右からという違いがあっても、文字というもの横に綴るいうのがこれまでのイェースズの常識だった。これから行く国は今までの常識などというものは全く通用しない世界なのかもしれないと、イェースズはその文字を習いながらふと思った。
エジプト出港後十数日にして、陸地が両側から迫る狭い海峡を通過した。これで陸地に挟まれた細長い海の航行は終わりで、いよいよ大洋に出るという。
ここで、最初の寄港地に寄った。もうそのころには、イェースズはラバンナの国の言葉で簡単な日常会話ぐらいはできるようになっていた。
ラバンナを初めて見た時、その褐色の肌に何とも言えない異様さを感じたイェースズであったが、その寄港地では度肝を抜かれた。何と上から下まで肌の色が真っ黒な人たちがほとんどなのだ。最初は肌をそういう色で塗っているのだろうと思っていたイェースズは、それが本来の色だと聞き再びびっくりした。土でこねたような家に、裸同然で人々は暮している。世界にはいろいろな色の人がいるのだという事実を、彼は初めて知らされた。
そこを出港してからは、たしかに大海に出ただけあって波も高くなり、船は大揺れに揺れだした。乗り合わせている僧や商人たちはひどい酔いに苦しみ、ラバンナとて苦しんでいる人のうちにいた。だが、イェースズだけはなぜか一人元気であった。イェースズは苦しんでいる人々のためにここで例の力を使うことに関しては、一抹のためらいがあった。しかしラバンナにだけは、頭上からと背中に手をあてがってみた。そして二、三日続けるうちに、彼はイェースズと同じくらい元気になった。しかし、それがイェースズの力によるとは、彼は気づいていないようであった。ほかの人たちにはどうしてもためらってできないでいるうち、約二カ月ののち船から久しぶりに陸地が見えた。そこは岬のようで、それを回るとあとは陸沿いに航行し、それから数日たった朝、
「今日中には、到着しますよ」
と、ラバンナはイェースズに告げた。もはや二人は通詞などなしで会話できる状況になっていた。
イェースズは目の前に横たわる大地を眺めた。山は見えない。濃い緑と、ところどころにある色とりどりの花が灼熱の太陽の光を反射し、明るく輝いていた。
「ちょうど雨季が終わって、一年中でいちばん美しい季節です。木は茂り、花は咲いて、国中が緑に覆われています。この時を過ぎたらあとは乾季だから、全土は黄土色の砂漠に変わります」
「では、いちばんいい時に来たんですね」
「その通りですよ。君は幸福だ」
ラバンナの言葉通り、船はその日のうちに大きな港へとその身を収めていった。
とにかく圧倒されるのは、人の多さだった。どこから湧いたかと思われるよう人の群れが、港中を埋め尽くしている。たとえエルサレムでも、こんな人で埋め尽くされるようなことはなかった。あるいは見慣れない風景の異国の地だから、余計にそう感じるのかもしれないとイェースズはふと思ったりもした。
船はゆっくりと港へと近づき、横づけになった。岸に上がるというより、群衆の中に上がるといった方が正確かもしれない。ラバンナと同じような肌の色の人々の中に、イェースズ一行は上陸した。
イェースズがまず感じたのは、町全体から醸し出される体臭だった。人びとの群れからというより、本当に町全体が体臭を持っているようなのだ。
そんなことを考えながらイェースズは歩いたが、一斉にイェースズらに向って茶褐色の腕が差し出され、その何百本とも感じられるくらいのおびただしい腕に囲まれてイェースズは身動きの取れなくなった。それが何を意味するのか、イェースズには皆目見当がつかなかった。前を見ると、同じようにラバンナも差し出された無数の腕に囲まれていたが、ラバンナはそのようなことにおかまいなしに後ろを振り返り、イェースズのそばまで戻ってきた。そして差し出されている腕たちを払い、彼はイェースズの肘を引いて歩いてくれた。褐色の腕たちは執拗に追ってくるが、それをかき分け、ラバンナはイェースズとともにどんどん歩いて行った。
突然、目の前に怪物が現れた。少なくともイェースズにはそう思われて、
「あっ!」
と叫んで、彼はとっさに身を引いた。灰色の胴体で、柱のような四本の脚に支えられ、鼻は蛇のようで、耳は翼のようになっている奇妙な生物がどっしりと目の前に立っていた。イェースズは思わず叫んで立ちすくんだ。
「これが、前に話した象という動物ですよ」
微笑んで話しかけるラバンナの脇でイェースズは口を開けたまま、背中に四角い座席が乗っている巨大なその象という動物を見上げた。
「これに乗って、行くんです」
「えっ! この怪物に?」
「怪物じゃあないですよ。ただの動物です」
大声で笑ったラバンナは、イェースズを象の背の鞍へと上がるはしごに押しやった。
象の背中では、すべてが低く見下ろせる。そして遠くへ目をやると、船の上でラバンナが言っていた通り、緑の大地が遥か彼方の空の下の一直線の地平線まで続いていた。
もはや、イェースズは言葉を失っていった。象は人ごみをかき分けてゆっくりと進み、数分で前方に白亜の建造物が見えてきた。
「あれが、私の一族の宮殿です」
と、ラバンナは前を進む別の象の上から振り向いて、イェースズに言った。
ラバンナの宮殿は、一行が上陸した地点から少し内陸に行ったシシュパルガルフの町の郊外にある小高い丘の上にあった。
ラバンナは王族とはいってもカリンガ国全土を納める大王の一族ではなく、このシシュパルガルフの小城を預かるいわば諸侯であった。今イェースズが立っているのは大洋に突き出たほとんど亜大陸ともいえる巨大な三角形の半島で、カリンガ国はそのほんの東海岸の一部に領地を占めているにすぎない。西隣はそれまでの小国の群雄割拠をようやくここ二、三十年前に統一したアンドラ国が君臨し.半島の西海にまで達していた。
ラバンナからそんな話を聞いているうちに巨大な象は宮殿に近づき、それにつれて白亜の殿堂はその威容を誇りはじめた。小高い丘の周りは、ずっと遠くの地平線まで続く平らな土地だ。だからといって決して荒野ではなく、畑は畑なのだが土から作物が生えているのではなく、縦横に区切られた畦の中の四角い土地は水浸しで、水面から勢いよく青い作物が生えているのが見えた。イェースズにとってそのような水田は初めて見るものだったから、そこにいる植えられている作物がいったい何なのか大変興味があった。その水田の中では、巨大な白い牛がゆっくりと動いて耕作している。まるで時間が止まったような風景だった。いや、この大地では、時間というものは最初から存在しないのかもしれないという気さえした。ところどころに思い出したように、ヤシの木が二、三本ずつ群がって点在している。土の香りとそれを運んでくる風が、どこまでも限りない雄大な世界からイェースズのもとへと訪れ、イェースズは心が落ち着くのを感じていた。
宮殿の門が、目の前に迫ってきた。白い壁に幾多もの宝石がちりばめられているそれは、茶褐色の粗雑な石造りのエルサレムの宮殿とはおよそ異質の世界だった。
象から降り、ラバンナに案内されて、イェースズは宮殿の渡り廊下をきょろきょろしながら歩いた。廊下には給仕人が一列に並び、口々にラバンナの帰りを歓迎するようなことを言って身をかがめていった。
宮殿の規模は小さく、エルサレムの宮殿の何百分の一ぐらいしかないが、白い何本もの円柱に支えられた天井は極彩色に施され、さらに宝石がちりばめられており、四角い中庭はその大部分が人工の四角い池だった。建物は二階建てで、回廊の上はバルコニーになっており、そんな中庭を見渡すことができた。池には蓮の群れがところどころに群生し、池の周りは芝生になっていた。極彩色と、壁の白と、庭の緑と、水に映る空の青が見事に織りなされた美しさにイェースズが目を細めて歩いているうち、王の部屋に着いた。
王はラバンナの叔父にあたるというが、まさか王に会えるとイェースズは思っていなかったので彼はいささか緊張していた。部屋のドアを開ける前からにぎやかな聞いたこともない不思議なメロディーの音楽が流れ、部屋の前には召使いらしき男が一人いて、ラバンナとイェースズが来ると深々と頭を下げ、ドアを開いた。
ラバンナに促され、イェースズはラバンナの背中について中へ入った。さっきから聞えていた音楽が、一段と高くなった。部屋には赤い花が描かれたカーペットが敷き詰められ、全体に白檀の香りが漂っていた。
「おお、ラバンナ。無事に戻ったか」
部屋の中央から、甲高い声がした。ラバンナは右ひざを立てて、ひざまずいた。イェースズも同じようにした。
「久しいのう。便りがあってから首を長くしておったぞ」
もうすっかり聞き取れるようになった言葉を聞きながら、イェースズは上目遣いに王を見てみた。四本の柱に支えられたテーブルのような王座の上に、鼻髭を生やした王がいる。しかしそのほとんど裸同然の格好には、イェースズは唖然となった。冠だけは黄金の立派なものだが、上半身は首飾りと腕輪と襷のような細い布だけをまとってるだけであり、下半身もひざ上までのズボンのようなものをつけているにすぎなかった。しかしそれ以上にイェースズを驚かせたのは、それを取り囲むおびただしい数の女官だった。しかもその姿は王とほとんど同じで、つまりはその豊富な胸のふくらみたちはみなあらわにされていたのだ。
ひどいところに来てしまったというのが、イェースズの正直な感想であった。裸の女に囲まれた王など、イェースズの国の倫理からすれば堕落以外の何ものでもない。それがこの国では倫理的堕落でもなくごく当然なことなのだということをイェースズが知るのは、ずっと後になってからだった。
その王と、イェースズは目があった。王は目もとに笑みを浮かべながら、
「ようこそ、ローマの少年よ」
と、言った。確かにイェースズの育ったガリラヤはローマ帝国の属州だが、この辺りに来ると本国も属州も一緒くたですべてがローマになってしまうらしい。イェースズにとっては未知の土地であるこの地の人の口からローマという地名が出るということは、ローマ人ならこのあたりによく来るのだろうかと、そんなことを考えているうちに王はイェースズにさらに言葉を続けた。
「そなたの賢さは、ラバンナの便りで聞いておるぞ。ラバンナはそなたを僧侶として修行させたいということであるから、明日さっそく修行場に行くがよい」
イェースズは、黙って頭を下げた。
その後、王とラバンナとの間で二、三やり取りがあってから、イェースズたちは御前を退出した。
部屋の外へ出ると、イェースズは大きくため息をついた。それを見て、ラバンナは少し笑った。
「あなたの部屋に案内しますから、今夜はゆっくり休んで、明日はバラモンたちのいるところへ行きましょう」
「はい。とにかく、僕は疲れた」
「叔父は王とはいってもこの城を守るマハー・ラジャー、つまり諸侯ですよ。このカリンガ国の国王マハー・カリンガの宮殿はそれはもう豪勢で、この宮殿の比ではありませんがね」
「まあ、僕には無縁の世界です」
イェースズはため息まじりに言った。
その夜、イェースズはバルコニーで星を見た。船の上でも幾夜も眺めた星空だが、今こうしてあらためて見てみると、故郷のガリラヤで見る星座とは若干違うことに彼は気がついた。北の動かない星がかなり低いところにある。そんな星空を見ながら彼は、とてつもなく遠くへ来てしまったということを実感した。この国でいったい何がこれから起こるのか、どんなことが自分を待っているのか、この国で自分はいったい何をするのか……この国の第一日目の夜に、イェースズはこの国でのこれからの自分に思いをはせてみた。
のどかな水田地帯を抜け、ひとたびシシュパルガルフの町中に入ると、一瞬にして喧騒の世界に入る。どっと繰り出す人の塊、体臭、おびただしく差し出される褐色の腕……イェースズはラバンナと二人きりで、そんな熱気の町を歩いた。今日は象には乗っていない。イェースズの目にとって最も異様だったのは、故郷の町の家の屋根が平らであるのと違ってこの国の民家は屋根が左右に傾斜していることだった。
「昨夜はよく眠れましたか?」
ありきたりの問いかけを、ラバンナはイェースズにした。
「はい。お蔭さまで。揺れないベッドは久しぶりですから」
町には路上の木陰に座って涼をとっている人や、かたまって穀物の入った籠を囲んで談笑している人々もいた。ラバンナの話では、この町の人口の多くは家を持たない路上生活者だという。だから、いつでも町は人で埋まっているのだ。また、所々に大きな牛が寝ていたりする。牛も人間もこの町では全く同じ次元に存在していて、動物だからといって遠慮している様子は牛たちには全く見られなかった。人の群れは、ときには人垣を作っていたりする。イェースズが後ろからのぞいてみると、笛に合わせて蛇が踊っており、それを人々が見物しているのだった。蛇を首に巻きつけて歩いている人もいるくらいだから、この国では聖書で人類の仇敵とされている蛇でさえ人間と共存しているようだ。
「見えてきましたよ」
ラバンナの指さす方に、塔がそびえて見えた。
「あれが、ジャガンナス寺院のシカラです。あの寺院が、あなたの修行する場ですよ」
シカラとはまっすぐな塔ではなく上にいくにしたがってわずかに細くなり、先端はなだらかな丸みを帯びるようになっている。ラバンナに説明されて歩いているうちに、そのシカラはどんどん近くなっていった。
やがて、広場に出た。ここから先は寺院の建造物が一面に横たわっており、図太く黒茶色のシカラをはじめとするずんぐりとした円錐形の白い屋根を持つ数々の伽藍の形はイェースズの目に奇妙なものとして映った。
町中のあれだけの喧騒に比し、この広場は嘘のように静まり返っていた。ここはバラモンしか入れないからだ。
広場の入口には、一団の僧たちがいた。皆若く、いちばん年長でもせいぜい二十歳をいくつか越えたぐらいにしか見えなかった。彼らはラバンナの姿を見ると一斉に歩み寄って、
「お待ちしておりました」
と、言った。
「ローマの少年をお連れしました」
「この方ですね」
ラバンナの後ろで緊張して立っていたイェースズを、僧たちは見た。イェースズは慌てて頭を下げた。
「では」
と、言ってラバンナは、イェースズに僧たちのもとへ行くよう促した。イェースズが僧たちの間へ入ると、ラバンナは、
「では、よろしくお願いします」
と、言って立ち去ろうとした。
「あ、ラバンナ!」
イェースズの言葉にラバンナわずかに振り向いた。
「ここから先はバラモンの世界で、クシャトリヤである私は入れませんからね」
苦笑のような微笑みを見せただけで、ラバンナはすぐに後ろ姿の人となった。その去って行く背中をいつまでも見ているイェースズに、僧の一人が背後から声をかけた。
「あなたはバラモンとして、ここで修行をしたいとのこと」
イェースズはあわてて振り向いた。
「え、は、はい」
そう答えたものの、イェースズにはまだよく状況がのみこめていなかった。この寺院に来ること、このような人たちの間に一人取り残されることなど、勝手に運命が動いているした思えなかった。
「とりあえず、私たちの修行場へ行きましょう」
一行は歩きだしたので、イェースズもそれについていく形となった。
「言葉、お上手ですね」
いちばん最後尾を歩いているイェースズのすぐ前の少年僧が振り返って、イェースズに話し掛けてきた。年の頃はイェースズと変わりなさそうだ。それだけに、この人なら気を許してもいいのではないかとイェースズは考えた。
「はい、一所懸命勉強しました」
「僕、ラマースといいます。十三歳です」
まさしくイェースズと同じ年だった。そのラマースに、イェースズが最初に言った言葉は、
「あれ、何ですか?」
と、いうことだった。イェースズが指さした方には、大きな山車が二つあった。いまこうして見渡せば、かなり広いスペースがこの寺院の門前の広場となっている。その広場の隅に二階建てのくらいの高さのある一つの山車が、大きな車輪に支えられて息をひそめていた。
「ああ、あれですね。あれは雨季の前の祭りで使われるクリシュナ神の山車ですよ」
「クリシュナ神?」
「このジャガンナスの寺院は、クリシュナ神を祀っています。全宇宙をたった二歩でお歩きになられるヴィシュヌ神の化身が、クリシュナ神です」
はっきりいって、イェースズには訳が分からなかった。故郷ではあれほど聖典を勉強したイェースズであったが、それでもその話題はイェースズの知識の範疇外だった。だからイェースズは話題を変えた。
「これからここで、僕はいったい何をするんですか?」
「僕らと一緒にシャーミーとして修行するんですよ。サロモンについて、ヴェーダのことを勉強するんです」
バラモンは誰でも望んでなれるものではない。イェースズのような外国人がバラモンとして修行できるなどということは、特例中の特例なのである。すべてを決めるのは家柄だ。バラモンの家に生まれたものは、たいてい十二、三歳、すなわち今のイェースズの年代からこのような寺院に入って集団生活をする。それをシャーミーと呼ぶのだが、そのシャーミーの期間は長老についてヴェーダを習う期間である。その修行が終わると一時在家になり結婚して家庭を持つが、四十代で再び修行生活に入る。この期間はサマナーという。そして六十代まで生き延びることができたものは、孤独な、本格的な山林での修行生活に入り、その時期の修行者のことをサロモンというのである。
やがて寺院の入口についた。ここでイェースズは、どうもヴェーダについて主に学ぶことになるらしい。入ってすぐの部屋は五十人ほど収容できる講堂で、修行者たちがところ狭しとひしめき合い、いちばん上座に立っている老人の話を聞いていた。修行者も皆イェースズと同じ年代のようで、それがシャーミーであり、老人はサロモンと思われた。ラマースに促されて物音立てずにそっとイェースズは講堂に入った。ひんやりとした空気が身を包み、薄暗さに目が慣れるまで時間がかかった。そこで冷めた目でイェースズはシャーミーたちの頭をうしろから眺めたが、だれひとりとしてイェースズを気にかけ振り向くものはなかった。
こうしてイェースズがシャーミーとして、同じ年代の少年たちとヴェーダの講義をサロモンから聞く毎日が、この日から始まった。いわば初心者であるイェースズにラマースは付き添って、いちばん仲のいい友人として接してくれた。肌の色も違い目の色も違うそんな友人がいたからこそ、イェースズがこの集団に溶け込むのもさほど時間はかからなかった。
季節はいよいよ乾季となった。乾季の前半は冷涼期で、学問や研究にうってつけの日々だ。そして四ヶ月くらいたてば乾季の後半、つまり酷暑期が訪れる。