3
六年前――すなわち、イェースズがちょうどマリアの胎内にいたころのことである。
初めての妊娠と出産ということで、マリアの心を不安と期待が大きく渦巻いていた。夫とは父と娘といっても通りそうなくらい年が離れていて、それだけに不安もまた大きかった。
ただ一つ、マリアにとって心の支えは、あの異次元体験だった。そしてそのほか、こと出産に関しては、従姉のエリザベツもまた頼りになる存在だった。しかしマリアがエリザベツを頼りにしていたのは、出産のことだけではなかったのである。
マリアはあの異次元体験については、今までに二人の人にしか話していなかった。一人は彼女が“ナザレの家”という僧院で、同じメシアの母候補として共同生活を送っていた七人の乙女のうちの年長格のサロメである。だがサロメは、
「夢でも見ていたんでしょう。とにかくまるで死んだように意識を失っていたんだから」
と、言っただけで、マリアの体験談を一笑に付した。それはマリアにとっても当然だと思えた。何しろ自分自身が、自分の体験に対してまだ半信半疑なのである。しかしサロメの心には何か響くものがあったようで、マリアはすぐそのあとにヨセフに嫁ぐという形で引き取られていったことから、マリアがメシアの母として選ばれたのではないかとサロメは考えたようであった。それを裏付けるかのように、マリアの結婚とほぼ同時にほかの六人の乙女の修道生活には終止符が打たれ、在家に戻ったもの、尼僧になったものとそれぞれ分かれていった。サロメが選んだのは尼僧だった。
そしてもう一人が、従姉のエリザベツである。
結婚間もなくして、マリアは夫のヨセフとともにそのエリザベツのもとを訪れた。エリザベツの家はエルサレムよりも南のヘブロンにあった。途中、異邦人の町としてユダヤ人からは嫌悪されているサマリアを通り、ヘロデ王が築いた宮殿が威容を誇るエルサレムを抜けて、さらに南へ行くとヘブロンがある。そこまで直線距離にして約百六十キロで、到着まではほぼ五日前後を要した。
マリアたちの住むカペナウムがある緑多いガリラヤと違い、一面の荒野の中にヘブロンの町はある。町全体が小高い丘になっており、その東は塩の海である。
そのヘブロンにヨセフとマリアが着いたのは、夕方だった。突然の来訪にエリザベツは玄関先まで二人を迎えに出て、慌てたような嬉しいような表情で二人を中へ入れた。
「まあまあ、先に知らせてくれたらいいものを。さあ、入って入って」
「お姉さま、ご無沙汰」
「ねえ。マリアが今度結婚したって聞いてたから、そのうちいつかは来てくれるだろうとは思っていたけどねえ」
はにかむように微笑んだマリアは、自分の隣にいる夫を目で示した。
「それにしてもねえ、ヨセフさんのお嫁さんになるとはねえ」
エリザベツは同じナザレ人としてヨセフを見知っていたが、まさか自分の従妹のマリアと結婚するとは思ってもいなかったようだ。だが、二人の年齢的に不釣り合いな組み合わせを気にする様子でもなかった。エリザベツもヨセフと同年齢で孫がいてもおかしくない年ごろだが、子供すらいない。この地方がパレスチナの中でもいちばんナザレ人が多く住んでいる地域で、それに次ぐのがマリアたちのいるガリラヤだった。
「マリアがナザレの家に入って以来よねえ」
「ええ、やっと自由の身になれたのですもの」
三人でひとしきり笑ったあと、マリアはふとエリザベツの腹部のあたりに目をとめた。
「あら。しばらく見ないうちに、お姉さま、太ったんじゃありません?」
エリザベツは意味ありげな微笑を見せただけで、黙って自分の腹をさすった。
「実は私、おなかに赤ちゃんがいるの」
「ええっ!」
驚きの声をあげたのは、マリアもヨセフも同時だった。
「こんなおばあちゃんがって、信じられないでしょう」
「でも……」
「それがね、不思議な話なんだけど……。ま、どうせ話しても信じてくれないでしょうから、やめにするわ」
「いいえ。お願いです。話して!」
身をすり寄せるようにして、マリアはエリザベツに懇願した。自分自身がそのような人に話しても信じてもらえない体験を持つだけに、マリアの好奇心は一層かき立てられたのである。
「実はね、ある夜のことなんだけど……」
エリザベツの話によると、彼女が寝ている時に突然大きな声で
――起きよ……
と、聞こえたという。その後、意識だけが肉体を離脱して異次元世界に行き、大いなる光のかたまりのようなガブリエルと名乗る人から、エリザベツはメッセージを受けたということだった。
――汝、今より後、一人の男子を生むならん。その者、ミチを開くための魁とならん。その名は四八音。天地創造の神のみ役なしたるみ使いの神の御名とみ働きの四十八の数霊をその音に秘めたる名なるなり……
マリアはその話に、身震いを禁じ得なかった。何から何まで、自分の体験と同じなのである。とにかくどう反応していいか分からずに目を見開いたままでいると、
「そんなこともあるんですかねえ」
と、ぽつりとヨセフが言った。
「ええ」
「ところで、ザカリアは?」
ヨセフが急に話題を変えたので、マリアはまだ自分の体験をヨセフには話していないだけに少しだけほっとした。
「うちの人はねえ、いることはいるんだけどねえ」
エリザベツはばつが悪そうに、奥の部屋に続く扉を見た。
「じゃあ、ごあいさつしなければ」
ヨセフが立ち上がりかけると、エリザベツは急に慌てだした。
「いえ、それがその……」
「では、もうお休みで?」
「いえ、寝てはいませんけど」
「じゃあ」
と言って、とうとうヨセフは立ち上がった。もじもじしながらも、エリザベツはもはや止めなかった。
エリザベツの夫でアビヤ組の祭司だったザカリアも、もうかなりの老人だ。その老齢のザカリアは、ヨセフが扉を開けた奥の部屋の床に、空中を見上げて座っていた。
「ザカリア」
ヨセフが呼びかけても、ザカリアはそのポーズを変えようとはしなかった。
「ザカリア」
もう一度、ヨセフは呼んでみた。後ろでエリザベツが、ヨセフの衣の袖を引いた。振り向くと、エリザベツは黙って首を横に振っていた。
「夫は今は耳も聞こえず、言葉もしゃべれないんです」
「え?」
「実は私が先ほどお話した体験をする前に、夫も同じような体験をしたらしいのです」
「そう、ザカリアが言っていたんですか」
「いいえ。本人の口から言葉では聞いていませんの。何しろ、その後すぐに言葉がしゃべれなくなってしまったのですから」
マリアも立ち上がって、ヨセフのそばまで来た。
やはりザカリアも異次元にて、ガブリエルと名乗る光体よりメッセージを受けたらしい。だが、とことん信じなかったザカリアは、ことが成就するまではものが言えなくなるという宣告を受けたということだった。そのことは、エリザベツがガブリエルよりメッセージを受けた際、ガブリエルが教えてくれたことだったという。
その日の夜半、ヨセフが寝たのを確かめて、マリアはエリザベツの寝室に行った。そして暗い部屋で一本のろうそくだけをともし、マリアは自分の体験をすべてエリザベツに話した。
「んまあ、あなたもだったの?」
「ええ、だから私、びっくりしちゃって」
「びっくりしたのはこっちだわ」
興奮のあまりエリザベツの声が大きくなったが、それでヨセフが目覚めはしないかとマリアは心配していた。だから声を落とすように手で合図をしてから、マリアは言った。
「私、本当のこと言うと、自分で体験したことが、自分自身でも信じられずにいたの。でもこれで、はっきり分かったわ。だって、あんな体験したのは、私だけじゃなかったって分かったんですもの」
「私もだわ。やはり人間って、いろんなことがあっても自分の頭の中で考えて解決しようとしてしまうのね」
「ええ。でもこうしてお姉さまの話を聞いて、やっと目覚めたわ。神様って、本当にいらっしゃるんだ」
「そう。厳としていらっしゃって、そしてお力をお持ちになって生きておられるお方なのね。神様って」
「だって、『在りて有るもの』ですものね」
「そうだわ。そういえば、アブラハムの妻のサラも老婆になってからイサクを身ごもったのだけど、そんな遠い昔の話が今の私に現実に起ころうとしているのね。同じ神様のお力で……」
マリアもまたエリザベツと同じことを、ろうそくの炎を見ながら確認した。遠い昔の奇跡が、自分の身の上にもこれから現実に起こるに違いないということをである。
その時、
「あ、動いた」
と、エリザベツは腹をさすって叫んだ。
エリザベツの家にそのまま三カ月ほど滞在して、ヨセフとマリアはガリラヤに戻った。
マリアが確信した通りすぐに彼女は妊娠し、そしてようやく妊娠の兆候も目立ち始めたころ、エリザベツより知らせが届いた。
それは、無事に男の子を出産したという便りだった。そしてその瞬間に、ザカリアの耳も聞こえるようになったとのことであった。
すぐにでも祝いのために駆けつけたかったが、何とか雑事に終われているうちに年も明け、そのころになってようやくヨセフとマリアは旅に出ることができるようになった。
真冬で、しかもマリアは臨月である。しかし、この時を逃がしたらもう当分ヨセフの仕事の関係で旅に出ることはできそうもなかった。そこで無理をおして出発することにした。
出発の前の晩、マリアは不思議な夢を見た。暗闇の中に岩屋のような洞窟があり、そこからかすかな光が漏れていた。マリアが見ているとその岩戸が少しずつ開き、中はまばゆいばかりの光の洪水の世界だった。そこには、目がらんらんと輝く黄金の龍がいた。マリアは、不思議と恐ろしいとは感じなかった。するとその龍のうろこの一枚が、ものすごい光の塊となって自分の方に飛来し、マリアの腹部に飛びこんできたのである。そのあと岩戸は閉じられ、龍の姿も見えなくなり、あたりは元の闇にと戻った。
マリアがそんな夢を見たその翌朝、二人はカペナウムを後にした。マリアだけがろばに乗り、ヨセフは徒歩で出発した。
ところが思うよりもろばの足は遅く、ガリラヤ湖の西南の麦畑の中にぽつんと突き出た円錐形の山のふもとで、第一日目は暮れようとしていた。だが、町は遥か先だ。
そんな時、予定よりも早くマリアは産気づいてしまった。陣痛に顔をしかめ、ろばの背で彼女は苦痛にもだえ苦しんだ。だが、近くに民家はありそうもなかった。
途方に暮れたヨセフは、岩山に洞穴があるのを見つけ、とにかくそこまでろばを引いていってマリアを下ろし、穴の中に寝かせた。
さて、どうしたものかと、ヨセフはなすすべを知らない。マリアはますます陣痛に顔がゆがみ、うめきまわっている。もう外は真っ暗になりかけていたのでヨセフは松明をともし、それを岩の間にはさんで固定して洞内を照らした。
ヨセフは、ただ祈るしかほかに何もできなかった。ひたすらひたすら、妻のうめき声を隣にして神に祈った。
それからかなりたったころ、
「どうしました?」
と、言って、洞窟に駆け込んできた少年たちがいた。ヨセフはひたすら祈り続けてたから、洞窟に入ってからどれくらい時間がたったかは分からなかった。
「何かあったんですか?」
「妻が、産気づいてね」
ヨセフの言葉に、みすぼらしいなりの三人の少年たちは視線を寝ているマリアに向けた。
「じゃあ、産婆さんを!」
「でも、こんな人里はなれた所に産婆さんがいるのかい?」
少年たちもそれに対する返事は持っていないようで、ただ立ちすくんでしまった。
「とにかく、そんな岩の上に寝ていたら寒いでしょう」
やがて彼らは、藁と飼い葉桶を持ってきた。
「どこで、そんなものを?」
「僕たち、羊飼いですから」
「今は雨季で、羊は小屋に入れてますけど」
羊飼いの少年たちは、口々に答えた。
「じゃあ、君たちは野に出ていた訳じゃあないのに、どうしてここに私らがいるってことが分かったんだい?」
「不思議な声を聞いたんです」
「不思議な声?」
「天からの声とでも言ったらいいような、不思議な声だったんです」
「そうそう。『天のいと高き所には神に栄光。地には善意の人に平和あれ』って」
「聞いた聞いた。はっきりと、なあ、聞いたよなあ」
少年たちは、互いに顔を見合わせていた。
「それで外へ出てみたら、この洞窟に明かりが見えたんです。普段ここに明かりが灯っていることなんかないので来てみたら、中からうなり声が聞こえたもので……」
一人ではなく、複数の少年が同時に声を聞いたと言っているのだから、あながち幻聴とも言い切れない。だが今は、ヨセフにとってそれどころではなかった。妻のマリアのうめき声は、ひときわ高く、激しくなった。
「き、君たち。女の人を呼んできてくれ。なるべく、子供を産んだことのある女の人を!」
ヨセフに言われ、少年たちは急いで洞窟から飛び出していった。
暗い夜道で、少年たちが最初に会ったのは幸い女性だった。
「すみません。子供を産んだことがありますか?」
いきなりの不躾な質問だったが、その少年たちのあまりの慌てぶりに単なるからかいとも思えなかったようで、女性は、
「私は尼僧だから子供を産んだことはないけど、何があったの?」
と聞いてきた。こんな夜になってから一人で外を出歩く女性など、確かに尼僧くらいしかあり得ない。少年たちは、とにかくことのいきさつを告げた。
「じゃあ、私、行ってみるわ」
少年たちと一緒に、その尼僧は洞窟に入った、そして入るなり、
「あ、マリア!」
と、叫んだ。ヨセフはその尼僧を見た。顔に見覚えはなかったが、その尼僧の服から自分たちと同じナザレ人であることはすぐに分かった。だから
「おお!」
と、彼は叫んだ。
「ナザレ人ですね。私たちもです」
「ええ、知っています。こちらはマリアでしょう? そしてあなたは、その御主人のヨセフ」
「え? なんで?」
「私、『ナザレの家』でマリアと一緒だったサロメといいます。それにしても、こんな所でマリアが……」
その時マリアは、すでに破水していた。そこでサロメはてきぱきと、羊飼いの少年たちに指示を下した。
「桶に水を入れて持ってきて。布も!」
そして、高らかな産声が上がったのは、夜半も近くになってからだった。男の子だった。
サロメが取り上げてその子をヨセフが抱いた後、サロメはひとしきり泣いて、そして天を仰いで祈った。
「神様、お許し下さい。私がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であることを思い出して下さい。私はマリアを疑っていました。マリアの話を聞き、それをマリアの夢と決め付けていました。しかし神様、彼女は今や神様のみ言葉通りに身ごもって、そして男の子を出産しました。年老いた夫の間に男の子が生まれたという、あり得ない奇跡があり得たことは、すべて神様のみ言葉の成就であります」
サロメの祈りの言葉が、松明の灯かりだけの薄暗い洞窟の中に響いた。
ヨセフは生まれたばかりの子を、羊飼いが持ってきた飼い葉桶の中にそっと寝かせた。
時に西暦紀元前四年一月五日。ただし、この地方の暦では第十の月の中旬のことであった。
ひとまずエリザベツ訪問を中止してカペナウムに帰ったヨセフとマリアは、その初子が生後四十日になった時にエルサレムに上った。子供は生後八日目にすでに律法通りの割礼を受け、マリアの異次元体験に基づいてイェースズと名づけられていた。そして全パレスチナの新生児で初子は、パリサイ、サドカイ、ナザレ人すべての共通の慣わしとして、エルサレムの神殿で祭司より聖別を受けることになっている。そして涜罪の証として、子羊一頭と小鳩二羽を奉納しなければならなかった。男であれ女であれ、初めて母の胎内より出る子は一切の穢れを母から受け継いで誕生してくる訳であり、そのための聖別であった。
なだらかな盆地の真ん中に、エルサレムの都はあった。都市全体が石の城壁で囲まれ、周りの荒野と区切られている。荒野といっても全くの不毛の土地という訳ではなくて、若干の緑ならあり、そんな土地がなだらかな傾斜となって都市を囲んでいる。都市の北東部には神殿、西の端にはヘロデ王の宮殿があり、かつて栄華を誇ったダビデ・ソロモン王の神殿はバビロン捕囚時代に取り壊されていたが、ヘロデ王はソロモンの栄華もかくやと思われる神殿を再建したのだ。いわゆる第二神殿である。神殿の規模はソロモン王当時のものの二倍はあり、エルサレムが都市として最大に機能した時代でもあった。華美を尽くした宮殿は王の専制を嫌悪すら知識人の間でさえ称賛され、ヘロデの神殿を見ずして建築の荘厳を語るなかれともいわれたくらいである。
ヨセフとマリア一行は城壁の北、カルワリオの丘からエッセネ門をくぐって町に入った。この門は「一切装飾のある門をくぐってはならぬ」というエッセネ人=ナザレ人の掟のため、特別に造られた装飾のない門であった。ろばの上のマリアが幼いイェースズを抱き、ヨセフとサロメは徒歩である。
到着したのが夕暮れということもあって、その日は参拝の手続きのみをして、神殿の南のダビデの町と呼ばれる一角に宿を取った。
町は決して平らではなく、かなりの起伏がある。しかし、モザイクのような立方体の石の建物が積み重なり、さほど起伏は感じなかった。また、最近ではかなりローマ風の建築も目立つようになっている。
翌日、順番を待つために、一行は神殿の南の二重門より中に入った。高い城壁の上には王の廊と呼ばれる横に長い屋根付きの回廊が乗っており、それは幾本もの巨大な円柱に支えられ、息をひそめて横たわっている化け物のようでもあった。ヨセフはそんな回廊を見あげていたが、後から次々と続く人々の群れに押されて、立ち止まってゆっくりと見物している訳にはいかなかった。
それから一行は二つある二重門のうち、右側の門から神殿の城壁の中に入った。神殿全体が小高い丘で、それはかつてアブラハムがその子のイサクを犠牲として捧げようとした山であると伝えられている。門に向かって右手の角がいちばん高い部分で、神殿の頂と呼ばれている。
地下道を通る形で石段を上がると、そこはもうさっき見上げていた城壁の上だった。王の廊は後ろに、同じ高さにある。異邦人の庭と呼ばれているこの広場には両替商や露天商の屋台が並び、自由に歩けないほど人でごった返していた。よく晴れた空の下、広場全体が活気づいており、客を呼び止める商人の声、値切る客、家畜の鳴き声などが充満している。
そんな雑踏をかき分けて、神殿を目指す人々は黙々と進んでいた。すぐに低い石の欄干に囲まれたスペースに出る。そこから石段を五段くらい昇るとそこはもう神域で、ここから上はユダヤ人以外が入ることは禁じられていた。
その神域の中央に神殿の聖所(拝殿)があった。神殿は東を向いているので南から入ると神殿の側面を見る形となり、正面に回るには右の方へ回り込まなければならない。神殿はちょうど直方体を二つ縦にT字型にくっつけた形となっており、正面の美門をくぐった所にある庭が女人の庭で、そこでヨセフはマリアからイェースズを抱き取った。女性が入れるのはここまでで、中門であるニカノル門をくぐることは許されていない。そのニカノル門の向こうに、神殿にそびえ立っているのである。
ここまで入ると今までの喧騒が嘘のように静まり、微かに外から騒音が聞こえ続けている程度になる。ヨセフはニカノル門をくぐる順番を待つ列に加わり、やがて門に入って行くと、それまで黙っていたマリアはサロメの耳元で遠慮がちにささやいた。
「のみ込まれそうな気になる御神殿ですね」
マリアはニカノル門越しに、神殿の正面を目を凝らして見上げた。青い空を背景に、それは静かに息づいているようでもあった。
「神様の栄光を表すため、これだけの巨大な御神殿が造られたのでしょうけど」
「でもねえ」
サロメは腑に落ちぬ顔で、やはり神殿を見上げていた。石造りの赤茶けた聖所の書面には四本のヘレニズム風の円柱があり、その内側の二本の間がかなり高い所まで口を開いている。
「かつてソロモン王の神殿は、これより規模は小さくても目を見張るような黄金神殿だったっていうけど」
「ほかの神様を祀ったために、神様によって破壊されてしまったというあの神殿ですね」
「ええ。でも、この神殿も、なんか仮のようなものって感じがするのよね」
「どうしてですか?」
「だって……。この神殿は、なぜ東を向いているのでしょう?」
二人はさっきくぐってきた美門のそばまでゆっくり歩いていって、門の外の異邦人の庭の雑踏を見た。その向こうには城壁の東の縁にソロモンの廊がやはり何本もの円柱に支えられて横たわり、柱越しにオリーブの丘が遥かに眺められた。その丘と神殿との間の谷は、緑茂るゲッセマニの園だ。
「実は私……」
そんなオリーブの丘を眺めながら、サロメが口を開いた。
「ヨセフはあのお年だから、正直言ってあなたに子供ができるとは思っていなかったわ。だから、この間洞窟であなたを見た時は、本当にびっくりした」
それから、サロメはマリアと目を合わせた。
「そしていつかあなたが話してくれたあの体験が、本当の話だったって初めて知ったの。やはり人間の頭では理解できない不思議なことが、この世にはまだまだたくさんあるのね」
「だからこそ、神様って本当にいらっしゃるって言えるのではないでしょうか。私が身ごもることができたのも、すべて神様のお力ですから」
「そうね。それにあの洞窟に私が行ったのも、偶然のように見えて偶然じゃなかったのだわ。すべてが神様のお仕組みで、この世の中に偶然なんてものは一切ないのね」
マリアが伏し目がちにそう言っていた時、
「終わったよ」
という声がした。見ると、ヨセフがイェースズを抱いて出てきている。
「あら、早かったのねえ」
マリアはそう言って、イェースズを再び受け取って抱いた。
一行はそれから、美門を出て再び異邦人の庭の雑踏の中を進んだが、店でもない所に人垣ができているのを彼らは見た。好奇心からヨセフがのぞくと、人垣の中には今にも崩れそうなよぼよぼの老婆が座っており、一人の若者を前にして何やら語りかけていた。
「何ですか? あれ」
ヨセフが見物人の中の、自分とほぼ同世代と思われる男に聞いてみた。
「預言者ですよ。若者の将来のことを予言してるようですがね」
「女預言者ですね」
「アセル族のバヌエルの娘で、アンナという預言者ですよ。旦那はガリラやの訛りがあるから知らないのかもしれませんがね、エルサレムじゃ有名ですぜ。それがまたよく当たるんだ」
どうやら一種の霊感占いのもののようだ。都にはいろんな人がいるものだと思いつつ、ヨセフは立ち去ろうとした。すると、
「あれ、もし!」
と、鋭い呼び声がヨセフら一行を呼び止めた。振り向くと先ほど人垣の真ん中にいたアンナという老預言者がよたよたと頼りない足取りで、群衆をかき分けてヨセフたちのそばまで歩み寄ってきていた。
「おお、その子は……」
アンナはマリアが抱いているイェースズを見て、その場にひざまずいて大声を上げた。
「この子を包んでいる、黄金の光は何じゃ!」
しかしどんなに目を凝らしても、ヨセフにもマリにも我が子のイェースズがそのようには見えなかった。だから二人とも、そして周りの群衆たちも呆気にとられてアンナを見ていた。アンナは狂ったように胸をかきむしった。
「ついに神が、われらとともにいましたもうた。ああ!」
あとは何度も何度もマリアの上の中の乳児であるイェースズに向かってひれ伏し、拝礼していた。
そこへつかつかと歩み寄ったのは、サロメであった。サロメはアンナの背に、そっと手を置いた。
「お婆さん、おやめなさい。この子は人間の子ですよ。人間を拝礼するのはおやめなさい。それは偶像崇拝と同じです。人物主体の信仰はいけませんよ。尊敬するのならいいですけどね。いいですか? 拝礼すべきは神様のみです。神様だけを拝礼して下さい」
サロメはそれだけを優しく言うと、ヨセフたちにこの場を去るように促した。だがこの出来事は、マリアやそしてヨセフの心にも深く刻まれていた。
一行が宿に帰るべく、ダビデの町に戻ったのは昼過ぎだった。朝はだいぶ冷え込んでいたが、ようやくぽかぽかとする陽気となっていた。彼らはエルサレムにもう一泊してから、次の日にガリラヤに帰る予定である。
ところが宿に着く前から、どうも町の様子がおかしいとヨセフもマリアも感じていた。ダビデの町全体がざわめきたっているのである。
「何かあったのかしら」
ろばの上でマリアがつぶやくとやはりそう思っていたヨセフも、あたりを見回した。
「あっちの方にみんな駆けていっているようだなあ」
確かに人々は、ヨセフが今指差した方角に向かって走っているし、そうでない人もひそひそと何かをうわさしたり人々が駆けていく方の方角を指差したりしている。
「行ってみよう」
ヨセフがサロメを促した。
「でも、私たち疲れてますから。マリアはもっとでしょう」
「じゃあ、わしが見てくる」
ヨセフはロバの手綱をサロメに預け、人々が走っていく方角へと人の流れに乗って向かった。そしてある大通りまで来ると、その左右には延々と人垣ができていた。何ごとかと人に問う間もなく、
「来たぞ、来たぞ!」
という、幾人もの叫び声をヨセフは聞いた。人ごみの中で背伸びしてのぞいてみると、巨大ならくだがこっちの方へゆっくりとやってくる。らくだは三頭で、それに騎った人は高貴な身分であろう服装をしており、しかも一目で異国人と分かる人々であった。そのことが、らくだという動物の珍奇さに加えて、こんなにも人垣を作っている要因だった。ギリシャでもローマの人でもなく、またエジプトの隊商でもなさそうだ。この地ではめったに見られない紫の錦織の服で、異様なのは頭にかぶった白い布であった。三頭のらくだがゆっくりと進んで行く先には、ヘロデ王の宮殿がそびえていた。
らくだの異邦人が行ってしまうと、見物人は三々五々に散っていった。ヨセフもマリアとイェースズが待つ宿へと戻った。
「いったい何でしたの?」
「なんだか訳が分からなかったけど、遠い国の偉い人たちのようだった。王様にあいさつにでも来たのだろうな」
「ローマの人?」
「いや、むしろ、東の方の人のようだな」
その話題は、それ限りで終わった。
その日の夕方、サロメに客が来たということを、宿屋の主人が告げにきた。そしてそのまま、サロメは客と一緒にどこかへ行ってしまった。程なく一人で戻ってきたサロメは、ヨセフたちにさらにもう一泊して、ガリラヤに帰る日を一日延期するように告げた。突然そのようなことを言われて、ヨセフもマリアも顔を見合わせた。
「もう一泊?」
「ええ。あなた方に会いたいという人たちが、明日ここに来るんです」
ヘロデ王の宮殿は王の趣味なのだろうか、壁の装飾、柱に至るまでことごとく大理石を駆使したローマ建築となっていた。そのことによって王は、自分がローマから認められた正統なユダヤの支配者であることを誇示しているようだ。王は宮殿ばかりでなくエルサレムの町もローマ化しようと、地中海の島々から多くの大理石を運ばせたりしていた。
ヘロデはユダヤの南に隣接したイドゥマヤの出身で、ユダヤ王朝ハスモン家の王ヒルカノス二世の友人であったアンティパルの子である。
プトレマイオス朝エジプトおよびセレウコス朝シリアの支配下にあったユダヤで反乱を起こしてユダヤ人の自主独立を勝ち取ったハスモン王家ではあったが、アレクサンドラ王の没後に王位継承をめぐって内紛が生じ、それに乗じてローマ共和国のポンペイウス将軍がユダヤに兵を出してこれを占領した。ヒルカノス二世は王位を剥奪されて民族指導者・大祭司とされたが、その友人のアンティパルは親ローマ的であったために優遇され、その次男であるヘロデはガリラヤの領主となったのである。
その後、ポンペイウスがカエサル(シーザー)に敗れ、シリアはローマの属州となったが、そのころヨハネ・ヒルカノス王の子のアンティゴノスがローマに反旗を翻してハスモン王朝を再興した。その間、ヘロデはローマに逃れて、ローマでは貴賓として扱われ、アントニウスと後に皇帝となるオクタビアヌスからユダヤにおける唯一のローマの同盟者と認められ、ユダヤの委託当地が決定されて王の称号が与えられた。それから、ローマの将軍によってアンティゴノスが滅ぼされてハスモン王家が滅亡すると、ヘロデ王はエルサレムに戻って全ユダヤの支配権を掌握したのである。
こうしてユダヤはシリアのようなローマの属州にはならず、ローマに対する個別の服属王国として存在していた。ヘロデ王はローマの同盟者という建前でユダヤに君臨していた訳だが、当時ローマ帝国周辺には属州のほかに、このような服属王国も数多く存在していたのである。そしてかつてのハスモン家の王が大祭司を兼ねていた祭政一致の政治を行っていたのに対し、ヘロデ王の政権は完全に政教が分離されたものであった。
そのヘロデ王は宮殿の王座で、蒼ざめた顔をして座っていた。目の前には三人の異国の僧が額ずいている。ギリシャ語が堪能なヘロデ王はやはりたどたどしいギリシャ語で話すその僧たちの言葉を聞くうちに、落ち着かず何度もローマ風の倚子のひじかけを指でこすっていた。
僧たちは自分らが聖者ゾロアスターの教えを奉ずる僧侶で、ユーフラテスの東のパルチア王国に住むホルタザール、メルヒオール、アスパールンというものだと名乗った。まずはそこでヘロデ王の顔は曇った。パルチアといえば、かつてローマに反旗を翻したアンティゴノスが同盟を結んでいた国である。ヘロデがガリラヤから追われてローマへ逃げ込んだ時も、彼を追ったのはパルチアの兵だったのだ。
しかしそれだけでなく、次の僧たちの言葉がヘロデ王の顔を決定的に蒼ざめさせたのである。
「私どもは新しくお生まれになったユダヤ人の王を拝するため、はるばるやって来たのです」
「新しい王?」
新しい王といえば自分の王子のこととなるが、彼に最近になって新しく生まれた子はいない。第一夫人が生んだアンティパル、マイアムネが生んだアレクサンドロス、アリストプロスをはじめ、アンティパス、アルケラオス、フィリポスなど多くの女に生ませた息子がいるが、いずれもみな成人している。だいいち、このヘロデ王自身がすでに七十歳の老人だ。
「そなたたちは、そのような情報をどこから得たのか?」
「印を天に見たのです」
ヘロデの額に青筋が立った。自分の子たちは父の王位の継承をめぐってそれぞれ対立し、ただでさえ険悪なムードになっている。ましてや、王位を狙うものはたとえ我が子でも許さないというのがヘロデ王の気性だ。事実、ヘロデの息子たちの何人かは父に反逆して王位を狙ったということで、この後にヘロデ王自身の手によって処刑されている。自分の子以外にユダヤ人の王が誕生しているとしたら、それは自分の政権を覆す反逆者にほかならない。これまでに何度も王朝の興亡を目にしてきたヘロデ王だけに、そのあたりには敏感になっている。ローマの同盟者の自分への反逆者となると、それは熱心党などの反ローマ勢力あたりから出てくる可能性がある。いずれにせよ、ヘロデ王にとってはこの上なく恐ろしいことだ。
彼は何度となく、隣の座にいる王妃テシアの顔を見た。王妃の一人といった方が正確だが、テシアはすました顔で正面を見て座っていた。
真冬だというのに、ヘロデ王の額には汗がにじんでいた。
「い、いったい、どんな印なのだ」
「東の国で見ましたところ、毎日夕暮れから宵の口にかけて、南の空にとてつもない明るい星が輝くのです。そのまま夜半過ぎには沈んでいくのですが、私どものいる所から見まして、その星が沈む方角がちょうどこのエルサレムになるのです」
「いつごろから見えているのか」
「昨年の暮れごろからです」
昨年の暮れとはローマ暦であり、ユダヤ暦では第九の月の下旬であることを、ローマ通のヘロデ王ならよく知っている。
「いつもは絶対にない星が突然現れ、大いなる光を発しはじめたという次第でございまして」
「それがどうして新しい王の誕生となるのか」
「私どもは、星の動きによって物事の未来を予測する術を持っております。明るい星が現れましたのはうお座と呼ばれる星座で、うお座は世の終わりと油塗られしものを意味します」
この明るい星とは、うお座の中で起こった木星と土星の合と思われる。
「そこで私どもは、エルサレムにユダヤの、あるいは全世界の王ともなるべき人物が誕生したことを知り、拝みに来た訳です。王様にお尋ねすれば何か分かるかもしれないと存じまして、こうしてお伺いさせて頂いた次第でございます」
ヘロデ王は心の狼狽を抑えて、わざと平静さを装ってしばらく何かを考えていた。そして、
「誰かある!」
と、手を打って人を呼んだ。
「祭司たちをつれてこい」
やがて王の前につれられてきたのは袖に房のついた服を着た祭司二人で、どちらも白い髭をたくわえており、そのうちの一人は頭が禿げていた。
「そなたたち。イスラエルの民を統治する油塗られたものに関する記載が、どこかにないか」
「はい」
即答したのは、頭の禿げた方だった。
「『ミカの書』によりますと、預言者ミカは『ベツレヘムはユダの氏族の中ではいちばん小さいが、イスラエルを治める支配者があなたの所から出るようになる。その出ることは永遠の昔から定められている』と言っております」
ヘロデは三人の僧の方を向いた。
「これが、予がそなたたちに与えることのできる唯一の情報だ。行って探せ。そして見つかったら、直ちに報告してほしい。予も行って拝みたい」
僧たちが退出した後ヘロデは倚子から立ち上がり、部屋の中を何度も行ったりきたりしていた。だから、王妃テシアがそっと退出したことも、彼は気がつかなかった。
僧たちは宮殿を辞する直前、一人の女官に呼び止められた。そして通された所は先ほどの謁見の場よりも狭い部屋で、かがり火が明々と照らされていた。
そこは王妃テシアの私室だった。
僧たちが額ずくと、テシアは人払いをした。そして、いったい何が始まるのかというような不安な顔つきでいる僧たちの前にゆっくり歩み寄った。鼻が高く、頬あたりがほのかに赤いブロンズの美人である。目も透き通るようなブルーの瞳だった。
「兄弟の皆さん」
と、テシアがギリシャ語ではなく自分たちの言葉で語りかけてきたので、僧たちは三人とも顔を上げた。
「皆さんがパルチアからいらっしゃったと聞いて、私は皆さんが私たちエッセネ兄弟団のゆかりの方たちであることをすぐに察しました」
驚きのあまりに口をぽかんと開けたままで、僧たちは言葉を失ったままでいた。
「王には内緒のことなのですが、私はある家臣を通して、私たちの共同体であるエッセネ兄弟団の一員とならせて頂いております」
「おお、これはなんという巡り合わせだ」
三人の僧のうち、ホルタザールという名の僧がようやく言葉を発した。
「このような所に兄弟団がいるとは……」
「私も驚いています。王の前では平静を装っていましたけれど……。何と言ってもゾロアスターの教えは、私たちエッセネ兄弟団の教えの源流ですから。ところで、今あなた方が探している新しい王は、紛れもなくこのユダヤの地に生まれています。メシアを待望するわれわれエッセネ兄弟団の、ここではナザレ人と呼ばれている集団の中に生まれているはずです」
「やはり。そう思ったからこそ、私どもはここまでやってきたのです」
「新しい王がどこにいるのかは分かりませんが、エルサレム在住の兄弟団の方々ならすぐに探し出せるでしょう。ただ、カルメル山のナザレの家にいたメシアの母候補の一人が男の子を最近出産し、ユダヤの律法に従ってエルサレムに聖別を受けに来ていることなどは分かっています」
「このエルサレムに?」
「そうです」
三人は顔を見合わせ、喜びの表情を見せ合った。
「ベツレヘムではなく、このエルサレムですね」
「はい。私たちが探しますので、あなた方は知らせを待っていて下さい」
「やはり帰途には、王様にご報告した方が……?」
テシアは黙って首を横に振った。
「王には気をつけて下さい。彼は自分の勢力の拡大にしか関心はありません。粗暴で、残忍で、そのような社会的制約も意にないのです。自分の息子たちに対してでさえ、自分の王位を狙っているのではないかと疑心暗鬼の目で見ています。私は妃として迎え入れられてから今に至るまで、一同も王に愛を感じたことはありません」
「やはりそうでしたか。王の『新しい王を自分も拝みたい』という言葉は、真実ではないという気はしておりました」
「新しい王を拝した後は、夜のうちにそっと国許へお帰り下さい」
と、テシアは言った。
そうしてその日の夜、すなわちヨセフたちがガリラヤのカペナウムへ帰るのを一日延ばした日の夜、三人の僧はヨセフたちの泊まっている宿屋を目立たぬ姿で訪ねた。
王妃テシアの寵臣でナザレ人である男がすぐに、エルサレムのエッセネ兄弟団・ナザレ人のまとめ役であるエリフという年老いた尼僧に事の次第を告げたのである。エリフはかねてから知り合いのサロメがエルサレムに来ていることは知っていたし、その日の朝にサロメがエリフを訪ねていたから、サロメやそれと同行しているヨセフ一家の居所も知っていた。
こうしてエリフやサロメの手引きで、三人の僧は難なくヨセフとその子のイェースズを見つけたのである。宿屋の一室で三人の僧は早速に神を拝して感謝の意を述べた後で、今度はイェースズにうやうやしくあいさつをし、手土産である没薬、黄金、乳香を捧げ、テシアの忠告どおりにその夜のうちにパルチアに向かっての帰途に着いた。
何から何まで不思議なことばかり起きるので、マリアの頭はいささか困惑気味になっていた。すべてはあのナザレの家で体験したことから端を発している。あれ以来、老齢の従姉のエリザベツの妊娠と出産、イェースズの誕生と続き、そしてこのエルサレムでは女預言者に賛嘆されたり、見知らぬ異国の僧までもが遠路はるばる拝しに来た。マリアにはイェースズが我が子であって自分の子ではないような気がし、いずれは手の届かない所に行ってしまうのではないかという不安にさえ襲われた。
翌日、ヨセフ一行はカペナウムに帰る仕度に慌ただしかった。朝方はのんびりと滞在していたが、昼ごろになってようやく宿をあとにしようと腰を上げ、仕度を始めたのである。
「ガリラヤのヨセフさん。お客さんですぜ」
出発間際でそろそろ勘定を済ませようと思っていた矢先、宿の主人がヨセフにそう告げた。
「客?」
「入り口でお待ちです」
ヨセフが出てみると、みすぼらしいなりのほとんど乞食としか思われない奴隷女が一人で立っているだけだった。
「客って?」
「それ」
と、宿の主人は乞食女をあごでしゃくり、そさくさと中へ入ってしまった。
「あんたかね。私を訪ねてきたのは」
「はい」
その時、頭を覆っていたぼろ布から、こぼれんばかりのブルーの色彩を放つ美しい瞳がのぞいた。それと同時に、奥から昨晩より一緒に泊まっている老尼僧のエリフが出てきた。そして乞食女を一目見るなり大いに驚き、女の方に歩み寄って深々と頭を下げた。
「これは、お妃さまではありませんか」
「シッ!」
ヘロデ王の妃テシアは指を口に当て、それからエリフとヨセフに小声で言った。
「大変なことが起ころうとしているんです」
「大変なこと?」
「訳はあと。とにかく、中へ入ってから」
テシアはそれだけ言って、自分から宿の中のヨセフが借りている部屋に入っていった。ヨセフは何がなんだか訳が分からず、ただ呆然としていた。
テシアがヨセフたちに告げた次第はこうであった。
ヘロデはまる一日たっても異国の僧が戻らないのにいらだち、ついに人を遣って探させた。すると、僧たちはすでにらくだに騎って故国への帰途に着いているとの情報を入手した。
「謀りおったな!」
激怒した王は家臣一同を集め、興奮しきった様子で高らかに命を下した。
「イスラエル全土のダビデ王の血統であるユダ族の、二歳以下の子供をことごとく殺し尽くせ!」
この命令には誰もがたじろいだ。かねてからの王の残虐さに愛想を尽かしていた家臣で、この命令を機に王のもとを逃亡したものもかなりの数にのぼった。そして王妃テシアさえ王とともにいることに限界を感じ、二度と戻らぬという腹で宮殿を脱出してきたのだという。まずは乞食のなりで宮殿の庭をふらふら歩いていたら、番兵に見つかってつまみ出された。すべてがテシアの策略通りだった。
「こうしては、いられないわね」
それを聞いたエリフは、すぐに立ち上がった。それから、
「絶対にここから出ないで下さい」
と、ヨセフたちに言い置いて、エリフは宿から出て行った。
程なくして戻ってきたエリフは、小声でヨセフに告げた。
「エルサレムにいる兄弟団の指導者会議で決定しました。あなた方はこれからすぐに、エジプトに行って下さい。エジプトはローマ帝国の直轄地で皇帝の私領ですが、ほぼ属州に匹敵する地です。ですから、ヘロデ王の力は及びません」
「え? エジプトへ? 今から? こんな小さな子供をつれて?」
「ためらっている暇はありません。さもなくば、イェースズはヘロデ王の手のものに殺されてしまいます。虐殺はまずエルサレムから始まり、やがて全国に及ぶでしょう」
日はもはや西の山に傾きかけている。
「今から出発です。私たちもともに行きます」
そうしてエリフとサロメもヨセフ一家に同行し、一行は夕暮れのエルサレムをあとに西のエマオへと道をとった。普通エジプトに行く人々は南下してベツレヘムを通るのだが、ベツレヘムがメシア出生の地と預言書に出ていることにヘロデ王が着目していることを一行はテシアから聞いていたので、わざとそこを避けたのである。
一行は夜を徹して歩き、一夜にして地中海沿岸までたどり着いた。イェースズを抱くマリアがろばで、ほかは皆歩きだ。そしてその夜のうちに、エルサレムでは何千という赤子の命が絶たれた。ヘロデが派遣した兵士は戸籍上子供がいるとなっている家をすべて回り、その家系を調べた。そしてかつてのユダヤ十二支族のうちの現存する二氏族の中でも、ユダ族のものだけがことごとく男児の乳幼児を取り上げられて路上で斬首されたのである。現存二氏族のうちのもう一つのベンヤミン族の子は惨殺を免れたが、それでも冬の夜の都では満天の星空の下に子供の泣き声、兵士の勇み声、親たちの絶叫が響き、路上にはおびただしい血が流された。さらには、あくまで我が子をかばおうとして兵士に抵抗し、ともに斬り殺された親も無数にいた。
エルサレムのそのような状況をよそに、ヨセフ一行は昼に睡眠をとって夜だけ闇に紛れて地中海沿いを進んでいった。そして彼らがシナイ半島の付け根にさしかかったころには、殺戮はユダヤ全土に及んでいた。
マリアは闇の中を歩みながらろばの上でイェースズをきつく抱きしめながらも、自分たちの身を案ずるよりも、この我が子一人のために多くの罪なき子供たちの血が流されているであろうことに思いを向け、その事実を深く胸に刻んだ。
そしてさらに気がかりなことは、従姉のエリザベツとその子のヨハネのことであった。