〜アジア横断編〜

探鳥日記 中 国(広東省〜香港区)

(2001年6月10日〜6月27日)


6月10日(日)(曇日中雨/大余〜始興)
 きのう郵電局までついて来てくれた女の子が、今日は雨になるからもう1泊していきなよと引きとめてくれたけれど、きっと明日も雨だよといって、8時半出発。国道323号線を南西へ。丘陵地をつらぬく広くて新し い道路で、両側にはタバコの畑が広がる。朝は曇りだったのに、彼女の言った通り、10時過ぎには雨が降り始めた。急いで自分と荷物に雨具を着せる。雨の日の昼飯は、呼び込みの声を掛けてくれた食堂に入るようにしている。びしょ濡れのカッパのまま店に入るのが、気の毒だから。3時半頃には雨もあがって、薄日が差し始めた。このあたりまで南に来ると、農家のまわりや小川沿いにはバナナが植えられている。濡れた葉がつやつやと光って南国の雰囲気だ。国土が広くていろんな気候の地方がある中国は、果物の国でもある。カラフルなビーチパラソルの露店では、バナナの他にリンゴや洋ナシ、パイナップル、メロン、スイカ、モモにスモモにヤマモモ、マンゴーにドリアンまである。今はライチが旬だ。夕食のあとに買ってきて、30個も食べた。始興のホテルに宿泊。(写真;道路は水牛優先。)
6月11日(月)(曇のち雨/始興〜韶関市)
 9時出発。雲は薄く、しばらくは降りそうにない。国道323号線を西へ。バンケンとアオハウチワドリのさえずりがよく聞こえる。川沿いの道なので、アカガシラサギ、ヒメカワセミ、カワセミ、アオショウビンなどもよく見る。河畔林にはコウラウンがいた。黒いトサカの立ったグレーのヒヨドリで、目元と下尾筒が真紅。サイズもちょっと大きめで、こずえにとまっていると目を引く。昼過ぎ、雷が鳴り始めて土砂ぶりに。雨宿りに入った食堂には高校生くらいの男女10人ほどが居合わせて、いっしょに昼食をとる。筆談を始めると、もの珍しさに大騒ぎだ。彼らと1時間ほどたあいもない話しをして天気の様子をうかがうけれど、通り雨ではないようなのでカッパを着て走り出す。
 韶関(シャオグアン)市のホテルに泊まる。びしょ濡れになると、シャワーつきの宿を選ぶことになる。雨はそのまま夕立になったように強く降り、夜まで続いた。(写真;何キロも続く絶壁。)
6月12日(火)(曇時々雨/韶関市〜乳源)
 9時過ぎ出発。川沿いの323号線を西へ。交通量は少なく走りやすい。時々リュウキュウヨシゴイを見かけるようになった。河川敷きのススキの中にいたり、上を飛んで行ったり。昼前から雨でカッパを着たが、天気 が不安定で薄日が差すこともあって暑い。3時過ぎにはいったん晴れ間も見えはじめたけれど、6時頃から夕立。
 乳源(ユーユアン)の酒家(食堂つきの旅館)に宿泊。このところの天気のパターンは、朝方と夕方前には雲は薄いが、その時降るか降らないかは日による。(写真;田舎町の酒家で働く普通の女の子たちと、右端がお女将さん。中国の女性はほとんどみんな仕事をもっている。)
6月13日(水)(雨/乳源)
 朝6時半頃から雨が降り始めた。知らない土地の者でもわかるくらい、回復しなさそうな厚い雲。宿の小さなロビーでテレビの天気予報を待ちながら、10時までは時々空を見上げていた。11時半、今日は走るのをあ きらめた。きのうは3人部屋に3人分の金額で泊まったけれど、交渉して1人分にしてもらって連泊を決めた。することもないので、市場へ鳥を見にいくことにした。家禽のニワトリやアヒル、ウズラ、ハトの他に、採っ て来たカノコバトやキジがいた。イワシャコもいて、店の人にどこで採ったかと聞いたら、地元だという。もっとすずしいところのものだと思っていた。宿に帰って図鑑を見ると、分布は北中国となっている。乳源(ユーユアン)周辺は1500m以上の山があるので、野生でいるのかも知れないし、イギリスには移入で定着しているというので、このあたりのもだれかが連れてきたものが棲みついているのかも知れない。市場には鳥のほかにもカエルやカメ、ヘビ、淡水の魚や貝、ウサギが並んでいた。雨は日暮れ前、7時頃にやっとあがった。(写真;イワシャコ。食材。)
6月14日(木)(曇のち晴/乳源〜大布)
 朝起きたときには曇り空だったけれど、出発準備をしている間に晴れ間が見え始めた。7時半出発。市街地を抜けて国道323号線で南西へ。「この先50km急坂、急カーブ」の道路標識。向かいの谷にカンムリワシが旋回しているのを横目に、息を切らしてひとつづつ峠を越えてゆく。天気はどんどん良くなって、昼前には雲ひとつなくなった。炎天だ。汗をしたたらせながら上り、風を受けながら下るのが心地よい。急坂は自転車も大変だけれど、フンコロガシも大変そうだった。最後の長い下り坂が終わる盆地の真ん中が、今日の目的地の大布だった。
 小学校の隣の酒家に泊まる。建物は教室と棟続きだ。ベランダで洗濯物を干していたら、校庭の小学生が呼ぶ。夕食まで時間があったので、下りて行って教室を見せてもらったり、バスケットボールをしたりして遊んだ。(写真;制服の小学生。校庭はコンクリート。)
6月15日(金)(晴/大布)
 快晴。朝ベランダで歯を磨いていると、きのう遊んだ小学生がもう校庭に来ていた。朝食に誘って、学校の向かいの店でお粥をすすりながら肉まんを食べる。彼は店員の視線を気にしながら、ポケットから新聞紙の包みを大事そうに出した。ブルースハープくらいの大きさで、麻ひもで丁寧に縛ってある。僕にくれるという。開けてみると中には乳色の石が入っていた。表面には結出した水晶の粒がびっしり並んで綺麗だ。2人でにっこりして、僕らは友達になった。
 7時過ぎに双眼鏡とスコープを持って出発。数キロ離れた乳源大峡谷へ。町の標高から一気に落差300mも切れ込む滝と絶壁の景勝地だ。遊歩道を歩いていると、やたら小さいセミや、やたら大きいアオガエルなどがいる。蝶はみんな鮮やかで、亜熱帯の種類だった。ただ、鳥は見つけにくい。滝の轟音で声が聞こえないからだ。さえずるカワビタキのつがいも、くちばしをぱくぱくと開け閉めしているだけのように見えた。
 午後1時過ぎに宿に戻って遅い昼飯を頼むと、主人が酒をすすめてくれた。この宿は食堂の隣に麻雀部屋があって、朝から晩まで打っているうえ、昼間っから飲んでいるのだった。お酒は「泡盛」と同じ味だ。店の常連と2時間ほど飲みながらあれこれと話をした。メガネの若い税務署員は日本のTVドラマの大ファンで、GTOからロンバケまで見ていて、僕が松嶋「奈」々子と書いたのを訂正してくれた。
 夕方、友達が宿に来た。近くの川に遊びに行ったあと、水晶のお返しに、アメリカの1ドル札とインドネシアの1000ルピア札、それとメールアドレスを書いたメモをあげた。彼が大きくなる頃には、中国がだれもが 外国旅行に行けて、インターネットを使える国になっているといいなと思う。夕食は、パジェロで同じ宿に乗り付けた広州市の一家に誘われて、9人で円卓を囲んだ。なぜおごってくれるのかと聞くと、にっこりして「好客(ハオキャク)だから」のひとことだった。(写真;乳源大峡谷。ほんとうに「大」峡谷だった。)
6月16日(土)(曇のち雨のち晴/大布〜英徳市)
 朝食は、同じ宿に泊まった広州市の一家が、またごちそうしてくれた。丁寧にお礼を言って、8時半出発。小学生の友達は町のはずれまで、自転車の横を走って見送ってくれた。大布から南西へ向かう省道258号線は最悪の路面だった。踏み固められた粘土質の赤土で、ところどころ岩肌がむきだしになっている。大きな丘をひとつ越えると、拡幅工事が道を切り通したところまでの状態。赤土の道にダンプのわだちがついて、水たまりになっている所がある。雨でも降ったらよく滑りそうだと思っていたら、黒雲が来て雨。粘土がタイヤに巻き上げられて、ブレーキシューの上に積もっていく。自転車に乗っているとタイヤは溝が埋まってスリックになり、自転車を押しているとスニーカーは厚底になってゆく。泥だらけになったところで雨がやみ、夏空。赤土の上に岩を敷き詰めた下り坂を、パンクしそうなところだなあ、と思って走っていたらパンク。木陰もなく、炎天下で直した。一休みしている上で、チゴハヤブサとミナミツミが空中戦をしていた。午後も砂利道で、一日中ラフロードを走った。
 英徳市大湾(ダーワン)の酒家に泊まる。体中がだるい。(写真;パンクしたらチューブを交換してしまう。穴の開いたチューブは宿で補修する。)
6月17日(日)(晴時々曇/英徳市大湾〜英徳市石灰鋪)
 のどがいがらっぽくて夜中に何度か起きた。朝から頭が痛い。どうもきのうの夕方頃から調子が悪い。もしかして夏風邪かなと思って熱を計った。いつも通りだ。連泊して体を休めようかと迷いながらも、晴天につられて9時半に遅い出発。自転車をこぐ足に力が入らない。市街地を抜けて、体調不良の原因がわかった。イネ科花粉症だ。ひと月前、黄海沿いを上海にむけて南下しているとき、小麦の花粉に悩まされた日があったけれど、今度は稲。6月の半ばに、もう花が咲いている。2期作するのかも知れない。
 沿線はずっと水田が続いていたので、重い頭のままただ走って英徳市石灰鋪の旅館に泊まる。花粉症の症状がちゃんと出るということは、とりあえず寄生虫には取り付かれていないと思っていいのだろうか。(写真;ノコギリの歯のような山なみが続く。)
6月18日(月)(晴時々曇/英徳市〜清新)
 7時半出発。トウモロコシ畑の中のゆるやかなアップダウンの省道253号線を南東へ。8時を過ぎると、もう街路樹から蝉時雨。シェーバーの音ような声や原付のエンジン音のような大きな声のなかに、ツクツクボウシとぴったり同じ声が混じる。日本のものと同種だろうか。
 英徳市の市街地で飲み物を買おうと小さな駄菓子屋に入る。ミネラルウォーターとスプライト(中国名「雪碧」)をカウンターに持っていって「いくら?」と聞くと、店の子が答えたその数字がわからない。あれっと一瞬とまどったけれど、すぐに気づいた。広東語だ。香港の周りで話されている広東語は、ここ英徳から始まるらしい。数字くらいわからないと何かと不便なので、メモとペンを出してその場で「広東語講座」をしてもらった。おもしろいのは、広東語の“Yes”は日本語と全くおんなじ発音で“はぁい”ということ。僕の発音が正しいと、女の子が「はぁい」と言ってくれるのが何だか照れくさかった。ちなみに“No”は“んむーはぁい”という。「んむー・・・」のところをちょっとうなるように言うと、ほんとうにイヤそうに聞こえる。
 午後は北江沿いの平坦な道を南西へ。北江には貨物船が行き交い、岸近くには浮かべた船のレストランが並ぶ。ゆるやかな下り坂で、車も少なく、快適なツーリング。清新具升(昇)平の旅館に泊まる。(写真;最近は一番暑い午後2時前に、昼飯を食べながら休憩することにしている。客の少ないこの時間、店の子たちは、打っている。)
6月19日(火)(曇/清新)
 朝、どうも体調が悪いので今日は休養日と決めた。たまっていた洗濯をしたり、昼寝をしたりして過ごす。午後から微熱が出た。体温計をテーブルの上に放り出しておいても、32度からいっこうに下がっていかないので、気温はそれくらいなんだろう。曇り空だけれど蒸し暑くて、じっとしていても汗ばむ。することもなく、ガイドブックの「Health」のページや東京検疫所でもらった伝染病のリーフレットを読む。マラリア地帯にはまだ入ってないし、面倒な病気だとしたらA型肝炎だけれど、いくつかの症状が今のところ当てはまらないので、風邪か疲れかもしれない。夕食後、薬を飲んだら熱は引いたけれど、とりあえず良く寝て明日の朝まで様子を見よう。(写真;何もしなかった1日。)
6月20日(水)(曇昼前雨のち晴/清新)
 バファリンというのは、こわいくらい効く。ゆうべ飲んで1時間で熱がひいて、今朝もない。けれど、もう1日休むことにした。長旅で急ぐことはないし、今は抵抗力が落ちてるだろうから他の病気にかかったら大変だ。午前中は洗濯をしたり、宿のご主人と雑(筆)談をして過ごした。この家には、なんとか歩けるというほどの重い小児麻痺の男の子がいる。小学校にも入れてもらえないそうで、いつも家にいる。頭のいい子で、僕が洗濯をしようとシャワー室にはいると、洗剤をそのねじれた手で持ってきてくれる。お礼をいうと、にっこり微笑むのがかわいい。家族の生活はかなり苦しいそうだ。実際、この宿の食事は、あまりいい食材を使っていなかった。
 昼前に雷が鳴り、しばらくして強い雨になった。昼寝でやり過ごして、夕方から近くの飛来峡という所に行ってみた。ただのダム湖だった。2人乗りの水上飛行機で、湖を上から眺めるのを売りにしている。採石場、伐跡、植林、堰堤を見て、昔はいい谷だったんだろうねえと、懐かしむタイプの観光地だ。日本にもよくある。つまらないので通過して、なんでもない林道に入って、どん突きの平地でハッチョウトンボを見た。日本のものとよく似ていたけれど、同種かどうかは知らない。ここには10種類近くのトンボがいて楽しめた。鳥のほうは、少し山に入ると、よくいるヒヨドリ類がシロガシラからコウラウンへとすっかり入れ替わっているようだった。(写真;いちばん目をひいたのは、体が赤紫、しっぽがショッキングピンク、目玉と羽根の脈が真紅の、トンボ科の一種。) 
6月21日(木)(晴時々曇/升平〜広州市)
 9時半出発。国道107号線で広州市を目指す。昼前にスコール。ガソリンスタンドで雨宿りをしていると、他にも自転車の人がどんどん入ってくる。小1時間ですっかりやんで、また夏の日差し。高速道路が自動車先用のため、そのまわりにからみつくように走る道を行く。3時頃からまた雨雲。駄菓子屋で、今日2度目の雨宿り。
 広州市花都区の大酒店(ホテル)に泊まる。夜の街には、熱気とネオンと薄着の人たちがいつまでもたえない。夏、南に向かう旅は、時間旅行でもある。ついこの間初夏だったのが、もう真夏だ。久しぶりに大きな地図を出してみたら、日本の与那国島より南にいる。(写真;街の露店にはスイカがならぶ。) 
6月22日(金) (晴時々曇/広州市〜南海市)
 エアコンのよく効く部屋で、熟睡できた。9時半過ぎ出発。広州市の中心地、越秀区に入る。大都市だ。自転車道は整備されているけれど、自動車専用の橋が多くて迂回や渡舟を強いられる。香港(中国読み;シャンカン)入りが週末になるので、外貨換金のできる大きな銀行で、香港ドルを作っておいた。海珠区の港で船の切符を買う。これが、自転車込みで3800円(約100km)という高額チケット!まえに長江の船に乗ったときは200kmで2000円くらいだったのに。もっとも、香港行きは2時間半、長江の方は一晩だ。合理主義は、速く高く風情のない方向へすすむ。
 さて、チケットを買った港は出航場所ではないので、隣の南海市に入ってすぐの平州(ピンゾウ)へ。南海港で乗船場所や手続きなどを確認して、すぐ近くの招待所へ宿を決めた。ここに2泊し、あさって香港の九龍(クーロン)へ渡る。(写真;お祭り、か、お祭りの練習。飾りつけた船は神輿だ。ドラを鳴らしながら別の船の横に着けると、みんなそろって船の上で飛び跳ねる。波が起きて、相手の船は傾く。) 
6月23日(土) (晴/南海市)
 今日は香港入りの日程調整の日で、しなければならないことはない。きのう買った広州市の地図を見ていたら「香江野生動物世界」というところがある。9時出発で向かったけれど、20kmほど走ったところでサファリパークとわかったので引き返した。車の多い幹線道路を自転車で走っていると、とにかく暑い。気温は35度はないと思うけれど、日差しの強さがハンパじゃない。ときどき目がしみるのは、たぶん光化学スモッグが発生しているからじゃないかと思う。
 いったん宿へ戻ったあとは、平州の街で買い物をしたり、自転車の整備をしたりして過ごす。テレビのニュースを見ていたら、台風1号が接近中。名前は「飛燕(チェビ)」。(写真;夕方4時の日差し 。)
6月24日(日) (曇/南海市〜九龍)
 明け方前「カン!」という大きな音がして、外が一瞬青白く光る。窓から見下ろすと、中央分離帯の街灯が倒れて路上に転がっていた。フェンスや沿石も散らばっているけれど、事故車はない。当て逃げみたいだ。台風「チェビ」のせいか、激しく雨が降っていた。
 8時過ぎに出発。雨はすっかりあがり、路面もよく乾いている。南海港までほんの少し走り、待ちあいで香港行きの船を待つ。カタマラン(双胴船)に乗りこむと、もういつもの中国ではなかった。効きすぎた冷房とFMから流れるモーニング娘。。資本主義経済が体にしみ込んでくる。午後1時下船、入区手続きを済ませて港を出る。久しぶりの左側通行と2階建てバスの列にちょっと戸惑いながら、キンバリー通りのホテルへ。小じんまりとしたロビーのソファで彼女を待つ。20分後、薄桃色のノースリーブのワンピースが、ガラスの扉を開ける。振り返った笑顔。僕らは2ヶ月ぶりに再会した。(写真;返還されても、香港はもう「中国」には戻らない。)
6月25日(月)(曇時々雨/九龍)
 チェビは九龍に時々雨を降らせた。漢字とアルファベットと日本語がごちゃまぜになった街の、人ごみの中を2人で歩く。アングロサクソンにブラック、何種類ものアジア人。ブランド品のほんものとにせもの。豪奢なホテルの椅子と屋台のガタついたテーブル。ピザやケーキや中華料理。モザイクのような街の、音や色やにおいを、くっきりとリアルに感じる。日本からここまで、僕は4000kmを自転車で来た。そして彼女と話す、 笑う。ずっと昔、今いるこちら側の世界を現実だとは思っていなかった頃、そう信じる自信がなくて近くだけ見ていた頃を、ふと思う。どこかの宿に置き忘れてしまったペンダントの代わりを、お守りと言って彼女は僕にプレゼントしてくれた。(写真;ペニンシュラでお茶。)
6月26日(火)(雨時々曇/九龍)
 9時半出発。彼女を空港へ送る。香港と人工島を結ぶ「機場快線」は新幹線のようにきれいな電車だ。幾何学的なグレーの骨組みにガラス張りの、広大な空港ターミナルへ。レストランでゆっくりと食事をしたり、みやげものを選んだりして、2人の時間を過ごす。搭乗時間。僕は「またね。」と言って軽く手を振る。彼女は無機質な擦りガラスのゲートをくぐり、午後のフライトで日本へ帰っていった。
 ひとり九龍へ戻り、別のホテルへ入る。ビザの申請手続きや予防接種の予約など、明日しなければならないことを電話やガイドブックで確認し、スケジュールを決めた。最後にカバンから航空券を取り出して、内容を確かめる。あさって、フィリピンのマニラへ飛ぶ。(写真;世界地図は小学生でも持っている。とんでもない現実が描いてある。)
6月27日(水)(大雨/九龍〜香港島)
 8時前、自転車をホテルに預けたまま、チェックアウト。このホテルには、フィリピンに行っている間、自転車をただで預かってもらうために1泊だけした。ザックひとつで雨の街へ出る。
 地下鉄で香港島へ渡り、まず中国の新しいビザを申請。興和株式会社香港支社のKさんに紹介してもらった病院で、B型肝炎の予防接種2回目を受ける。雨は豪雨と呼べる強さになった。荷物を持って歩き回っていると濡らしてしまうので、安宿を見つけてチェックイン。ここで昼。午後は宿で紹介してもらった別の病院をたずねて、日本脳炎と狂犬病の予防接種を受けた。いろんな国のいろんな街で注射を打たれるのは、まるでスタンプラリーをしているみたいな感じだ。
 香港では、地下鉄もバスもタクシーも、どのビルに入っても、頭が痛くなるほど冷房が効いている。もちろんその経費は商品の価格に入ってゆく。ホテルではチップがいらない代わりに1割のサービス料が上乗せされ、病院では注射の前の問診に高額のドクターフィーがかかる。21世紀の文明とは要するにそういうことなのだ、ということは30年あまりも日本に暮らしていればよーくわかっている。けれど、この街のドクターフィーが同じ国の田舎宿の100泊分という格差には、何をどう考えたらいいのか、言葉も出ない。(写真;Exchange Squareビル。46階に日本領事館がある。)

探鳥日記 フィリピン