〜アジア横断編〜

とりとめのない話(タイ)


タイの高校生(その1)
日本にいた時もそう思っていたし、旅に出てからもそう思っているけれど、目の前にある未知のものにいちばん好奇心が強くて行動力があるのは、ティーンエイジの女の子じゃないだろうか。例えば中国では、旅する外国人が少ないせいで、僕はどこに行っても目立っていた。自転車を止めて道を尋ねたりすると、あっという間に人だかりができてしまう。けれど、缶コーラを飲みながら街角にそっと腰かけている場合は、少し反応が違う。周りの人たちは、すぐに外国人がいることに気づく。感じる視線の数が少しずつ増えていき、小さな子供は遠くからじっと見つめていたりする。でもみんな距離を保ってすぐには近づいて来ない。こんな時、初めに話しかけてくるのは、だいたい高校生くらいの女の子だ。彼女たちは僕に拒否されないことをわかっているかのように正面に立ち、笑顔でニーハオという。どこからきたんですか、日本から、なんていう会話をしている間に、遠巻きにしていた男の子、男の人、女の人、老人、子供がわっと集まってきて人だかりができる。そしてみんな僕と彼女の筆談を見ながら、わいわいとにぎやかになる。
 タイのある国立公園でもそうだった。その日はビジターセンターの周りで高校生たちを何度も見かけた。校外授業で来ているらしい。夕方、僕が食堂へ行こうと散歩しているとき、話しかけてきたのは“女子のグループ”だった。まず、ポーンという女の子が自己紹介をした。彼女は英語が達者で、落着いた目をした感じの良い子だった。他の女の子たちは初めて英語を話すといった感じで、言葉に詰まるとポーンを頼りにするのだった。グループの中には、なぜか男の子がひとりだけ混じっていた。ポーンは彼を、“He is not a boy, not a girl.”と僕に紹介した。つまり、彼はゲイだった。(つづく)

モリツバメ・・・森燕?
 「モリツバメ」という鳥がいる。日本には、まれに来ることがあるのかも知れないけれど、ふだんはいない。だから旅に出るまでは、僕は実物を見たことがなかった。図鑑を見ながら、「森燕」ってゆうくらいだから森にいるんだろうなあ、と何となく思っていた。東南アジアには、モリツバメ(写真左)という種類と、ちょっと色違いのハイイロモリツバメ(写真右)というのがいる。どちらも見た。見たどころか、しょっちゅう見かけるのだ。そしてなぜか、森にはいない。
 モリツバメもハイイロモリツバメも、田んぼにいる。田園を走る国道沿いを飛び、電線に止まっている。街外れの宿に泊まった時には、大群が鉄塔の回りを飛び交っていて、高圧線にずらりと並んでいたりした。たくさんいる鳥だからもちろん森の上を飛んでいるのを見たこともあるけれど、普通のツバメだって、アマツバメだって、それくらいのことはする。ある小さな国立公園では、山が稜線を境に熱帯雨林と伐採跡地に別れていた。ここにいたハイイロモリツバメは、圧倒的に伐跡の方に多かった。つまり田んぼにしろ山にしろ、モリツバメは開けたところが好きなのだ。なのに、なんで「森」ツバメなんていう名前がついているんだろう。
 モリツバメは英語で「ウッドスワロウ Woodswallow」という。日本名は、このwoodを森、swallowを燕と訳したものなんだろうか。他に英名でwoodのつく鳥には「ウッドペッカー Woodpecker」がある。これは誰もが良く知っているキツツキだ。英名を直訳すると、woodは木、peckerはつつく人、で、日本名とぴったりおんなじ意味になる。もしwoodを森と訳したら、意味がよくわからない。
 自転車で東南アジアを走りながら実際にモリツバメを見ていると、英名の Woodswallow のwoodも「木」の意味なんじゃないだろうかと思えてくる。というのは、開けた場所にある枯れた大木のてっぺん近くに止まっていることが多いのだ。何羽かがぴったりと目白押し(「モリツバメがメジロ押し」というのも変な言い回しだけれど・・・)に寄り添っているもんだから、大きめの鳥が1羽止まっているように見える。遠目に見つけて、タカかな、と期待してフィールドスコープをのぞく。で、「なんだモリツバメ」、ということが何度かあった。僕はツバメやアマツバメがそうしているところを見たことないので、枯れ木にいるモリツバメを、モリツバメらしいたたずまいだなあと思っていつも眺める。だから、woodを「森」ではなくて「木」と訳して、「キツバメ」と言う方がしっくりくると感じる。
 図鑑を読むと、世界には24種のモリツバメ類がいるそうだ。僕はその中のたった2種を見ただけ。だからひょっとしたら、森の中を飛び交う種 類がたくさんいて、それが日本名のもとになっているのかも知れない。あるいは、モリツバメとは「森燕」ではなくて、「盛燕」とか「守燕」の意味なんだろうか・・・などとモリツバメを見るたびにいろいろと思いをめぐらせてしまう。いったい誰がどういう意図で「モリツバメ」と日本名を名付けたのか、とっても気になる今日このごろ。ご存知の方がいましたら、ぜひご一報下さい。(01.10.13、アユタヤ)
タイの高校生(その2)
 ポーンは今からバンガローに遊びに来てと誘ったけれど、これから食事だからと断った。じゃあその後でもいいから、というので、わかったと答えた。彼女は“Don't forget!”を3回言って帰って行った。
 夕食の後、シャワーを浴びるともうすっかり暗くなっていた。ヘッドランプを持って教えられたバンガローへ近づいて行くと、人のざわめきが聞こえ、時々楽しそうにはしゃぐ声がする。着いてみるとバンガローは5棟で、すのこ張りになった広いテラスでつながっていた。80人くらいの高校生たちがグループごとにかたまってテラスに座ったり寝転んだりして、何やら話し合っている。奥には丸太造りのテーブルがあって、先生たち5人がビールを飲んでいた。僕はポーンを見つけて「来たよ」と声をかけた。彼女はにっこりと笑って招き入れてくれ、先生たちに紹介してくれた。そのまま僕はテーブルにつき、先生たちと飲み始めた。
 生徒の前でお酒を飲む先生、という光景は、日本ではあまり見られない。しかも生徒たちは、その周りでレポートを書いているのだった。しばらくして先生のひとりがテラスの真ん中へ行き、「よーうし、じゃあそこまで!提出して次のレポート!(タイ語なので想像)」みたいなことを大振りなジェスチュアで陽気に言う。生徒は先生の言葉に声をそろえて、「えーーーっ!?」とか「やったーっ!」みたいなことを言い、とても明るい。
 いくつかの課題が済むと、先生は僕を生徒たちの前に連れだして日本人のチャリダーだと紹介してくれた。僕は自己紹介の後、何十人もの高校生にぐるっと取り囲まれて、その真ん中に座った。16歳のころの自分を振り返ってみてもそうだけれど、この年代の男の子はとてもシャイで、女の子の方がずっと積極的だ。話しかけてくるのは女の子ばかりで、しまいには「あたしたちの中で誰が一番かわいい?」と言って、全員でこちらを見つめる始末。そんなもん答えられないだろ。仕方がないので女の子の顔をひとりひとり見て回って、「一番かわいいのは、・・・・・・彼!!」と言って、後にいた夜なのに帽子をまぶかにかぶったまんまの男の子を選ぶと、「ひゅーひゅー!」とひやかしの声が飛ぶ。その男の子は女子の声援に押されて、恥ずかしそうに帽子をとり、はにかみながらほんの少しだけ英会話をしてくれた。女の子たちはこちらの会話のひと言ひと言に声をそろえて噛んで来て、とにかくにぎやかで自由な雰囲気だ。そして最後に、翌朝いっしょに日の出を見に行くことを約束した。(つづく)
タイでよく見る日本のもの
 タイで物に不自由することはない。街に行けば店が並び、店には商品があふれている。中国、ラオスと物のない国を通ってきたので、特に自転車のパーツがすべてそろうことにはありがたみさえ感じる。タイの田舎町で探してもなかったものといえば、ニューバランスのスニーカーとヴィダルサスーンのヘアコンディショナーくらいだ。別にないからといって旅を続けられないわけではなく、それぞれナイキとパンテーンに変えてOK。
 タイには日本のものがいっぱいある。自転車で道を走っていて一番目に付くのは車だ。これが9割近く日本車。トヨタ、ニッサン、三菱、何でもある。日本で見るより、日本車率が高いかもしれない。オートバイはほとんど全て日本車。ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ。「ほとんど全て」というのは、一度だけCagivaを見たことがあるから。その他、カメラはニコン、キャノン、ミノルタ。フィルムはフジにコニカ。家庭電化製品はパナソニック、ソニー、東芝。ちょっとした町ならセブンイレブンがあって、シャンプーの棚に植物物語が並んでいる。工業製品に日本製が多いのは、まあ、あたりまえだ。性能、使いやすさ、価格、トータルで考えたら、どう考えたって世界一だから。
 サブカルチャーなら、「ドラえもん」、「ウルトラマン」、「ポケットモンスター」をいたるところで見る。「くれよんしんちゃん」も多い。意外なのが、少年ジャンプの「ろくでなしBLUES」。ステッカーの屋台に行くとずらっと並んでいて、誰が買うのかと思ったら、大型トラックのドアに貼ってあったりする。タイはムエタイの国だから、ああゆうちょっとボクシングがらみの喧嘩する漫画が受けるのかもしれない。それと、漫画といっしょに並べて書くのは少し申し分けないけれど、“フカキョン”、深田恭子。レストランの壁のポスターとか、インターネットカフェのディスプレイの壁紙とかで、何度も見かけた。今のフカキョンじゃなくて、ずいぶん前の水着写真だったりすることもある。
 タイ人から見た日本のイメージは、まずハイテクノロジーの国。その次に、女の子のかわいい国。英語をしゃべる人は、日本の女の子を“lov ely”だと表現する。その代表がフカキョンか。そりゃ、ラブリーだわ。(01.10.21、チュンポン)

タイの高校生(その3)
 僕は生徒たちにまた明日ねと言って、先生たちの飲み会の輪に戻った。先生はみんな理科系の教官で、僕はその中の生物の先生と馬が合った。タイのランの花やアメリカの同時多発テロの話などを肴に、遅くまで酒を組み交わす。学校教育の話になったとき、「ところで先生、ひとりゲイの子がいるでしょう。あの生徒は男女どっちのバンガローに泊まるんですか?」と聞いてみた。それについては、ここに来る前に本人から相談があったという。彼は、行きたいけれど男子と同じ部屋に泊まるのが怖い、と。その時先生は、「もちろん女子の部屋に泊まればいいよ、ノープロブレムだ」と言って、彼を連れて来たそうだ。つまり、ゲイの彼はこのクラスの中では、生徒からも先生からも女性として認められているのだった。実際、クラスの中の彼を見ていると、楽しそうに料理を作ったりして女の子として振る舞っていた。でもそれだけではなくて、女子の部屋から男子の部屋に何か連絡することがある時にはその役を買って出たりと、ゲイなりの居場所がちゃんとあるようだった。思春期の性の問題は普通の人にとっても大きい。だから、体と心の性が食い違っている人にとってはもっと大変な 時だろうと想像する。そういう時期に、周りから自然に受け入れられている彼を見ていると、よかったねえ、と僕はほっとするのだった。
 翌朝早く、約束通りみんなでトラックに乗り込んで、近くの丘に日の出を見に行った。生徒たちが鉄塔みたいな展望台のはしごを登り終えると、先生が下から叫ぶ。「みんな登ったかぁー!?よーうし、じゃ、先生たちは車で先に帰るからなぁ!」。生徒たちは声をそろえて「えぇーーーーーーー!?」。おもしろいなあ。ゲイの彼がいちばん上から“Coshy,come here!”と呼ぶので、僕は他の生徒の間を抜けて彼のところへ登って行った。東の空は少し雲がかかっていたけれど、オレンジ色の朝日に少しずつ照らしだされていく広大な原生林はため息をつくほど綺麗だった。
 ところで、日本。日本にももちろんゲイやレズのティーンエイジャーがいるだろう。彼らは言ってみれば、性の少数派、マイノリティだ。僕はゲイではないけれど、今34歳で自転車によるアジア横断をしていることからもわかるように、昔からやることはマイノリティだった。だから中高生の頃は、病的なまでに規格好き、例外嫌いの文部省に「よくもまあ・・・」とあきれることがよくあった。今年、文部省は新装開店して「文部科学省」になった。日本のお役人たちは、ゲイやレズの生徒にどういう対応をしているんだろうか。(01.11.02、ハチャイ)

タイの宿(その1)
 タイの宿は清潔だ。日本にいたら当たり前のことだけれど、中国、ラオスから入ってくると真っ白なシーツとまくらカバーが新鮮に感じられる。その分値段も倍額、シングル300円からだ。そのうえほとんどのホテルにはダブルの部屋しかないので、実際には450円から800円くらい、ということになる。部屋にはトイレとシャワーがついている。シャワーは水しか出ないので、あまり遅い時間に浴びるとちょっと寒い。テレビは安いとついていない。部屋の中は靴で歩いても裸足で歩いても構わないけれど、宿の人は必ず靴を脱いで部屋に入るので、僕もそうしている。
 アユタヤとかスコータイとか、観光地に行くとバックパッカー相手の安い宿がある。ゲストハウスのドミトリーなら1ベッド200円から、場所によってはシングルでもその程度の額だ。ドミはもちろん、ホテルでもあまり安いとトイレとシャワーは共同になるけれど、毎日きれいに掃除してくれる。だから体を休めるために連泊するには、観光地がいい。写真はロッブリのホテル。トイレ、シャワー付きのダブルで400円。
 逆に観光客もビジネス客も少ない町にはツーリストホテルはない。仕方ないので「バンガロー」、いわゆるラブホテルに何度か泊まった。別に凝った間接照明やガラス張りのバスルームはついていないし、入り口にピンクのネオンもなければ、ワカメみたいなビニールシートも垂れ下がっていない。よくアメリカ映画で見る「モーテル」といったイメージで、1階建ての長屋の部屋の前に駐車場がそれぞれひとつずつついただけの、普通のホテルだ。荷物を積んだ自転車でフロントへ行けば向こうも事情をわかってくれて、すんなり泊めてくれる。500円〜750円。観光地のないところでも人はセックスをするわけで、少し大きめの町ならだいたい「バンガロー」はある。けれど、そういう町で警察官にホテルはあるかと聞いても、ない、とむこうは答える。立場上、すすめられないのだろう。そういう時はバイクタクシーの運ちゃんに聞くと、入り口まで(タダで)誘導してくれる。
 以上は全てファンルーム、つまり天井扇風機の部屋。エアコンつきの部屋はプラス300円くらいだけれど、僕には必要ない。あの湿気と暑さが 同時に攻撃して来る日本の夏を、クーラーどころか扇風機もなしで過ごしてきたんだ。それに比べたらタイの暑さはずっとカラッとしていて、夜は涼しく感じる。(つづく)
象に会えない話
 野生の象を見たいと思っている。象の住む森に中国で1ヶ所、タイで3ヶ所、合計4ヶ所行った。なのに、いまだに会えていない。
 中国の野象谷熱帯雨林景区、タイのナムナオ国立公園、カオヤイ国立公園は、どれも行ったことのある人から「あそこで象見たよ」と聞いた場所だった。だから、2、3日いりゃ見られるだろう、といつも気楽に構えて国立公園に入る。ところが僕が泊まりこんでいる間は出てきてくれず、遊歩道ですれ違う観光客に尋ねても首を横に振るばかり。カオヤイの最終日の午後にはさすがに気をもんで、鳥を見るのをやめて象を探して歩いた。夜には、ピックアップトラックの荷台に乗せてもらって園内を回る「サーチライティングサービス」にもついて行った。けれど、見られない。
 最後の砦と思って向かったタイのトゥンサラエンルアン国立公園。これは不戦敗だった。いまだに納得が行かないのだけれど、象の出るエリアに入らせてもらえなかったのだ。事情はこうだ。僕はこの公園を、2度おとずれた。一度目は9月の半ば、公園の北端にあるビジターセンターへ。園内紹介のパネルを見て回ると、いちばんおもしろそうなのはツンノンソン Tung None Sone という小高い山だった。サバンナの草原にマツが生える、なんとも奇妙な、だけれども綺麗な写真が目を引いた。行ってみたいのですがと、インフォメーションカウンターの女性に聞くと、ビジターセンター側からは行けないという。公園の南東端にあるノンマエナ Nong Mae Na というところから入るんだそうだ。そう言いながら手渡されたパンフレットによると、ピークまで片道30キロ以上のトレッキング、往復すると2泊3日というところだろう。途中20キロは熱帯雨林の中を歩くことになる、とも書いてあった。僕はますますツンノンソンが気に入ってしまった。それだけどっぷりとジャングルに浸かっていれば、たくさんの鳥はもちろん、今度こそ象に会えるかもしれない。ベストシーズンは10月から11月とパンフレットにあったので、出直すことにした。来月になってから行ってみます、と彼女にあいさつして、僕は公園を後にした。
 3週間後、2泊3日分の食糧を持ってバスでノンマエナを訪れた。事務所にひと言入れてから入山しようとしたら、今は行ってはいけない、11 月からだ、という。そんなばかな!これを見てみなよ、とビジターセンターでもらったパンフレットを開いた。アユタヤから片道20時間と750 円もかけて来たのは、ベストシーズンが10月からと書いてあるからだ。英語は通じなかったけれど、こちらの言いたいことはわかってもらえたよ うだった。けれど、ツンノンソンに行くことを許してはもらえなかった。「それに、象が出るから危ないよ」、とも言われた。だからそれを見に来たんだって。
 門番がいるわけでもなく、だまって入れば行けないことはなかったけれど、「何年か前、閉鎖区域に入ってトラに食われた日本人がいてね・・・」なんて後で言われるようなことになったら、カンケーカクホーメンに申し分けないのでやめた。そのかわり、日中だけなら大丈夫だろうと判断して、翌日片道15キロをツンノンソンに向かって歩いてみた。象のフィールドサインがあるのは、最後の数キロだった。やっぱりね。
 公園を出る時にはいつも「やれやれ、いったいいつになったら象さんに会えるんだろうねぇ」とヘコんでいる。だけど一晩寝たら、「ま、そのうち会えるさ」とわけのない自信がわいてきてしまう。僕がいつまでたっても象に会えないのは、実はこの脳天気にいちばん問題があるのかもしれない。(01.10.14、カンパエン サエン) 
ちょっとだけバックパッカー
 10月9日の夜から、僕は自転車をアユタヤのゲストハウスに残し、バスでトゥンサラエンルアン Thung Salaeng Luang 国立公園に向かった。9月の半ばに一度自転車でおとずれたことのある場所だったけれど、ベストシーズンにもう一度行くつもりにしていたところだ。夕方、バックパックを背負い、フィールドスコープを片手に宿を出た。そういえば、6月にも自転車なしでしばらく旅をしたことがあった。香港からマニラへ飛んだ時だ。ただあの時は、フィリピンに入ってからは全て知人のカシメロさんに連れて回ってもらった。オーガナイズドツアーといった感じで、公共の交通機関はほとんど使っていない。だから今回の国立公園への旅が、僕の初めてのバックパッカー体験ということになる。
 バスターミナルに着いて、時刻表から乗り場案内まで全て表示がタイ語であることがわかった。何一つ読めない。当たり前のことだけれど、たとえこれから行こうとする街が北西にあっても、バスは南向きに止まっているかもしれない。だから文字が読めなければ、人の助けがいる。自転車なら、地図を見て、道路標識を見て、必要なら磁石を見て、目的地の方角に進めばよい。実にシンプル、ひとりでできる。チケット売り場の窓口に行って聞いてみたけれど、片言の英語しか話さないので、いつお金を払ったらいいのか、どの乗り場で待ったらいいのか、良くわからなかった。結局、売り場のすぐ前のベンチで待つことになった。バスが来たら声をかけるから、とのこと。
 片言でも英語が通じるところはまだいい。田舎へ行くと通じるのは行き先の地名だけ、あとは首を縦に振るか横に振るか、くらいしか伝わらない。タイ語のように声調(イントネーションやアクセントではなくて、単語そのものにあるリズミカルな抑揚)がある言語だと、うまく発音できなくて地名さえわかってもらえないこともある。そんなときは、地名を連呼することになる。相手の言うことは、あいさつと金額くらいしかわからなくて、乗り換えの時は指された方向に歩いていく。これじゃまるで子供だ。つまりバックパッカーになった僕は、「手のかかる客」に成り下がってしまった。
 移動しているからこそ旅なわけなんだけれど、その移動をするたびに相手に対して「メンドーかけて悪いなぁ」と申し訳ない気持ちになるのは結構つらい。ガイドブックに載っているような町ばかり旅するのならともかく、公共の交通機関でマイナーな場所へ行こうとすると、人にあれこれ聞かなければならない場面が多い。だから、僕がバックパッカーになるには、言葉をもう少し覚えないといけないな、と思った。あるいは、人に面倒を掛けることに慣れてしまう、という方法もあるけれど、そうはなりたくない。
 5日間だけのバックパッカーごっこを終え、僕はアユタヤへもどるオンボロバスの中にいた。その時にもう一つ、ぼんやりと感じたのは「こりゃ 、歳食ってもできるなぁ」ということだった。なにしろ、移動しているのに体が疲れないのだ。最初の日は乗り換えをするのに深夜に5時間待ちだ ったので、待ち合い所で徹夜した。そのまま昼過ぎには国立公園に入って5キロのトレッキング。翌日は30キロ、次の日は朝10キロ歩いて午後にはバスに乗った。自転車の旅でこんなことをしたら、僕の体力では熱が出ているだろう。退屈はある。揺れるバスの中じゃ本も読めないし、ぼん やり外を眺めたりするしかない。でもまあ、それも苦痛とゆうほどではない。その間にバスは何十キロも進んでいるわけだしね。
 年金をもらう歳頃まで生きていたら、バックパックを背負って「泰国々立公園八十八ヶ所巡りの旅」なんていうのをやってみようかな。途中で飽きてきそうなところが、ちょっとタソガレてていいかもしんない。(01.10.13、アユタヤ)
 タカの渡りと自転車の旅(その1)
 この旅に出る前も出てからも、どうして旅に出るのか、なんでまた自転 車で、といろんな人に何度も聞かれた。そのたびに僕は返事に困ってしまう。というのは、理由が多すぎるからだ。とても一言では説明できないし、ましてや英語で聞かれたときなんか、かなりシンプルな答えになってしまい、思いを伝えることはできない。
 30年もひとつの国に住みつづけていれば、外の国も見たくなる。テレビや新聞に書いてあるのは、だれかが見てきたどこかのニュースだ。もろん何度か海外旅行をしたことはあるけれど、そこで見たものは観光客相手のお化粧をした顔だった。・・・というようなことが、ベースにはある。でもこんなんじゃ一般的過ぎて、答えになっていない。
 僕が鳥を見始めたのは1996年、今から5年前だ。建設コンサルタントの環境調査部に就職し、はじめて鳥の調査というものを教えてもらった 。ここから僕は、翼を持つ生き物、鳥を好きになっていくことになる。その年の秋、会社の先輩の安藤さんから、タカの渡りを見に行こうと誘われた。渡りをするタカの仲間がいることもついこの間知ったばかりの僕は、20年近くも住んだことのある愛知県に有名な観測地点があることを知るはずもなかった。場所は伊良湖岬(いらごみさき)。
 秋の風物詩にさえなっている伊良湖のタカの渡りは、行ってみると何百人という観光客でごったがえしていた。大半は双眼鏡を持ったバードウォッチャーだったが、中には俳句でも読もうかといった風情の一行もある。僕らはその中に混じって、東の方でタカ柱を作っては高空に上がり、西へ滑空しながら頭上を通っていくサシバやハチクマを眺めた。「タカ柱」とは、渡りをするタカが上昇気流の起きている場所に自然と集まり、群れになって旋回しながら空高く上がっていく様子をいう。なにげに、こいつらどこまで行くんですかと僕が聞くと、安藤さんは衝撃なことを言った。「東南アジアまで。」。実はここのところの記憶はあいまいで、僕が「どういうルートで飛んでいくんですか」と聞き、安藤さんが「沖縄の島々や中国を通って、東南アジアへ」とか言ったのかもしれない。というのは、僕はこの時すでに「サシバは東南アジアで越冬する。」という文章をどこかで読んで知っていたかもしれないから。とはいえ、そんなもの「サシバハトウナンアジアデエットウスル。」という字づらの知識があったに過ぎない。実感の伴わない知識なんて、知性からは程遠い。とにかく僕には、このときに安藤さんの言った「東南アジア」という言葉と、目の前で西へ向かってゆっくりと飛んでいくサシバたちが強烈に焼きついた。5000キロの旅の中の、ほんの一瞬の姿。
 やがて季節は冬になり、山には冬鳥がやってきた。青いルリビタキや赤いベニマシコ、黄色いミヤマホオジロ。その可愛らしい仕草とはうらはらに、この小鳥たちも何千キロというハードな旅を小さな体でこなして来たことになる。道中、ハヤブサやツミの攻撃をかいくぐってきたのかも知れない。池にはたくさんのカモも来た。拾った風切り羽の羽軸は、美しい羽色に不つり合いなほどぶっとくて、長旅をこなす実力を垣間見せる。
 考えてみると僕は、タカにしろ他の鳥にしろ「5000キロを渡る」ということを実感として理解できない以前に、「5000キロ」という距離 そのものを知らないのだ。仕事で車を使っていたので毎年数万キロを運転してはいたけれど、そ れは自動車がエンジンで走ってのこと。僕の頭はそれを自分の経験にすりかえて5000キロを知っている気になっているだけだ。体は知らないのに。僕がタカの渡りを見てから、自転車でアジアを横断してみようと決心 するのに、半年はかからなかった。
 さて、ここまで読んで、「あ、こいつバカだ」と思った方、あなたはかなり正確に僕の一面を理解しつつある。そして、「わかったような気になってエラソーな顔してるバカよりは、こっちのバカの方がマシだなあ」と思った方、あなたは僕と価値観を共有できる。(つづく)
タカの渡りと自転車の旅(その2)
 「どうして自転車でアジアを横断するのか」と聞かれて「タカの渡りを 見たから」と答えると、僕のことをそこまで鳥に魅せられたバードウォッチャーなんだと取り違えられるかも知れないので、もう一度言っておく。伊良湖岬で東南アジアへ向かうサシバの渡りを見たことが、旅に出る引き金になったことは確かだ。でも、それ以外のわけがいくらでもある。例えばいちばん根っこの方の理由としては、こんな答え方もできる。
 僕はとくに何の資産もない家庭に、男として生まれた。親父はサラリーマンで、巨人ファンで、自民党支持者だ。裕福ではなかったけれど両親は良くしてくれて、ちゃんとした食事と医療を与えて育ててくれた。そのことはアイアンマンレース226kmを完走できる僕の体が証明している。 少し話は変わるけれど、だいぶ前に“一億、総中流”という言葉がもてはやされた。戦後の日本人の生活レベルがある程度に達したことを言ったものだ。冗談じゃない、と思った。一億二千万の国で一億人が中流階級。そんな成り立ちの国があるはずない。中流なのは不動産収入や会社役員レベルで生活している残りの二千万人の方だろう。一億人は下流階級・・・という言葉があるのかどうか知らないけれど、労働階級。そして一握りの皇族や貴族・華族などが上流階級、それが日本国だと思う。僕も両親同様、どっぷり労働階級に入っている。仕事をしているぶんには生活に困らないけれど、体を壊せばそれまで。翌日から収入はない。もちろん継ぐべき遺産も家業もない。そんな境遇で手元にあるものは何か。まず体ひとつ。そして、自由、だ。失うものが少なめな分、莫大な自由があふれている。これを使わないで、どうする。以上のことをわかりやすく言うと、こうなる。「せっかく男の子に生まれて来たんだから、ちょっとはやんちゃさせてもらわないとね!」。
 10月23日午後1時前、タイのチュンポン州ランスアン。マレー半島を南へ下るサシバの群れを、僕はこの目で見た。(01.10.26、ロン ピブン)
タイの料理
  タイの料理は、まずくはない。僕がタイを旅していたときに食べていたのは、ほとんどが屋台か、それをちょっとグレードアップしたような店舗の料理だった。小さな町でも毎晩マーケットには食べ物の露店が並び、週末に少し大きめの街にあたるとものすごいにぎわいだ。焼き鳥やフライドチキンはどこに行ってもある。焼き鳥なら4、5本、フライドチキンなら手のひらくらいのが1ピース50円ほど。ちぎったキャベツと、ゴマ入りの甘辛いタレの小袋がついてくる。南部に行くと新鮮な焼き魚も多くて、30cmくらいの青魚が1尾100円くらい。
 椅子とテーブルを置いていて食事を出す屋台なら、焼き飯か汁麺か野菜炒め定食のようなものを食べることになる。仏教の国なので牛肉も豚肉も使われて、海が近い町ならエビやイカや貝が入っている。一食50〜100円くらい。量が少なめなのが肉体労働者、というか肉体旅行者のチャリ ダーにはつらいところで、1日4、5食べないと体がもたない。
 味は、まあ、見た目そのままで、特にうまくもまずくもない。一つ問題は、調味料を入れすぎることだ。特に「味の素」が大量に入っている。あえて「旨味調味料」と書かないのは、れっきとした、由緒正しい、日本の「味の素」だからである。ことわっておくが、僕は味の素は嫌いではない。自分で料理を作るときには使わないけれど、子供の頃から慣れ親しんだ味。たぶん僕と同世代の人たちにとっては、いわゆる「おふくろの味」に欠かせない調味料だと思う。でも、それも適量だからおいしいんであって、タイの料理はそれを越えている。どれくらい入っているかというと、日本のファミリーレストランくらい入っている。あんなもの1週間も食べつづけたら、味の素のオーバードースになってしまう。
 バンコクではホテルからタクシーでレストランへ乗り付けて、海鮮料理を食べた。こういうことをすれば、話は別である。氷の上にずらりと並んだ新鮮な魚介類から好きなものを選んで、好きなふうに調理してもらう。おいしくないはずがない。僕は香辛料系の料理を今まであんまりおいしいと思ったことがなかったけれど、というか、僕が食べたことがあるのは日本のカレーライスか、日本にあるただ辛いだけのタイ料理くらいしかなかったのだけれど、その店のカニカレーは本当においしいと思えた。ただし値段は、日本で食べるのと変わらない。その他、バンコクとハチャイでは日本食屋にも行ってみた。日本食に良く似たものが出た。
  タイでは安い飯を食っている限り、味の素 = グルタミン酸ナトリウムの投与から逃れることはできない。それがわかってるんなら、「味の素を入れないで作ってください」というタイ語くらい覚えればいいのに、とあなたは思うかもしれない。でも、幸か不幸か、実際にはその必要はないのである。なぜなら、人は味の素の味に麻痺することができるからだ。少しがまんしたらもう感じなくなっていて、食べつづけることができる。で、タイの南の端の方に着いた時にマレー料理を食べると、あ、うまい飯ってこういうのだったんだ、と思い出すのである。(01.11.09、グアムサン)

タイの宿(その2)
 タイでは一度だけ民家・・・というか空き家に泊まった。その日は大きな街までたどりつけずに、夕方ある小さな田舎町に入った。商店街で、近くに宿はないですかと聞くと、高めの「バンガロー」しかないとのこと。ラブホテルだからあまり勧められない、という人もいた。親切な人が庭にテントを張ってもいいよと言ってくれて、いったんはそこに落着いた。夕方、テントで本を読んでいたら別の人が来た。最近は夜、大雨が降るからといって、近くの肉体労働者の家に泊まれるように話をつけてくれたという。行ってみると、まあ一番近い日本語で表現するなら、飯場(ハンバ)、だった。たぶん職がある人の中では最下層に近い人たちの集合住宅だ。
 内装だけ上塗りしたコンクリートブロックの壁に、スレートの屋根。床はセメントで、ところどころ段ボールや板切れが敷いてある。窓はなくて、スリットの入ったブロックが壁に組み込んである。当然そこから蚊がバンバン入って来るので、ベッドには蚊帳が吊ってある。「ベッド」と言えば聞こえはいいけれど、床よりは一段高くしたベニヤ板に、段ボールを敷いたものだ。そんな部屋が4つか5つくっついた建物の、空き部屋に泊まった(写真)。夜のスコールはかなり激しいことがあるので、テントに比べたら屋根と床があるだけでありがたい。
 こんなときのお礼は酒に限る。夕飯をマーケットへ食べに行ったついでに、強い焼酎を一本買った。戻ると家の前で数人が飲んでいたので、今晩お世話になります、とビンを差し出す。そしてすすめられるまま、いっしょに飲み始める。ラオスで焼酎を飲んだときと同じように、グラス一つの回し飲みだった。しばらくして15歳の男の子に風呂へ行こうと誘われ、少し離れた防火水槽のようなところへ。別に壁もないところで服を脱ぎ、水槽の中の水を手桶ですくって浴びた。彼は頭を洗いながら、「水が目に入らないようにね」とアドバイスしてくれた。次の日に水槽の中を見たら、たしかに病気になっても文句言えなさそうな水だった。
 翌朝は、物音で5時過ぎに目が覚めた。というのは、隣がもう朝飯の準備をし始めから。窓代わりのスリットの入ったブロックが、隣の部屋との 間の壁にも使われていて、音が筒ぬけなのだ。これから働きに行こうという人の横でいつまでも寝ているわけにもいかないので、僕もその日は早起きして、まだ涼しいうちに出発した。(01.11.11、クアラリピス)

とりとめのない話(マレーシア)